プリントのデータを画像として鮮明にするためのフロンティア問題1

プリントのデータを画像として鮮明にするためのフロンティア問題1
【1】
2007 年 早稲田大学 文化構想
人の移動と文化交流に関連する次の文章を読んで,設問に答えなさい。解答はア~エのうちから一つを選び,所
定欄にマークしなさい。
異なる文化圏の対決・衝突は,しばしば歴史を大きく変えることになる。古代ギリシアでは,古代ペルシアと対
決したAペルシア戦争を経て,ペリクレスを中心としたギリシア民主政治が実現した。そして,マケドニアから登
場したアレクサンドロスは東方遠征に出かけ,再びペルシアと戦い,Bヘレニズム世界が誕生した。やがて今度は
地中海世界沿岸地域に建設されたCギリシア植民市を通じてヘレニズム文化が普及していった。
設問1
設問2
下線Aのペルシア戦争に自らも参戦した『アガメムノン』の作者は誰か。
ア
アイスキュロス
イ
エウリピデス
ウ
ソフォクレス
エ
アリストファネス
下線Bのヘレニズム世界に関連する次の記述のうち,誤っているのはどれか。
ア
アレクサンドロスの死後,ヘレニズム世界はアンティゴノス朝シリア・セレウコス朝マケドニア・プ
トレマイオス朝エジプトの諸国に分裂した。
イ
シチリア島出身のアルキメデスは,ポエニ戦争中にローマ兵に殺害された。
ウ
アム川流域にギリシア人が建国したバクトリアでは,ヘレニズム文化が栄えたが,この国はスキタイ
系のトハラ人に滅ぼされた。
アム川上流の民族興亡{バクトリア←トハラ(大夏)←大月氏}
エ
北アフリカのギリシア植民市出身の天文学者エラトステネスは,地球を球形と考えた。
エラトステネスは天文観測に基づき,地球全体の大きさを推定したり,都市間の距離の確定を試みている。
また,地球表面を熱帯,温帯,寒帯のように地域分けしたとも伝えられる。
設問3
下線Cのギリシア植民市の中で,イタリア半島内の南イタリアに建設された都市はどこか。
ア
マッサリア
イ
ペルガモン
ウ
シラクサ
【2】
A
エ
タレントゥム
2005 早稲田大学
政治経済学部
次の文のなかで,誤りのないものを二つ選び,マークせよ。
イ
前 594 年にアルコンに就いたソロンは,土地財産の大小によってアテナイ市民を4つの等級に分け,
その等級に応じて政治参加の資格を付与した。
ロ
ソロンの改革後も貴族と平民の抗争が続いたアテナイでは,ペイシストラトスが民衆の支持を背景に
権力を握り,小農民の育成や海外発展をはかった。
ハ
ペイシストラトスを追放したクレイステネスは,部族制の改革,五百人評議会の設置,陶片追放の制
度によって,アテナイの民主化を進めた。
前 6 世紀前半から半ば,前 6 世紀末とペイシストラトスとクレイステネスの二人が活躍した時期を考えよう。
ニ
小アジアのミレトスに生まれたヘロドトスは,エジプトやメソポタミアなどオリエント諸国を旅行し,
その見聞を交えてペルシア戦争の歴史を書いた。
ヘロドトスは小アジアのハリカルナッソス出身であり,ミレトスではない。これは細かい。
ホ
アテナイの名門に生まれたペリクレスは,デロス同盟諸国をアテナイに従属化させる政策を推進し,
ペロポネソス戦争を勝利に導いた。
ペリクレスはペルシア戦争勝利後のデロス同盟の資金を元手に民主政を完成させた人物。ペロポネソス戦争中に疫
病で死去した。
B
次の1~4のそれぞれの文のなかで,誤りのないものを二つ選び,マークせよ。
イ
エトルリア人の王を追放して共和政が樹立されたローマでは,統領や護民官など政務官が平民会の選
挙によって選ばれた。
聖山事件後,護民官と平民会が貴族により設置された。
ロ
貴族と平民の身分闘争の過程でディクタトルとなったホルテンシウスは,平民からもひとりのコンス
ルを登用する改革をおこなった。
ホルテンシウス法で定まったのは平民会の決議が元老院の承認なく国法(ローマ法)となること
ハ
ポエニ戦争後のローマでは,元老院を中心とする門閥派と,平民会を中心とする平民派の対立が続き,
平民派のマリウスと門閥派のスラが相次いで実権を握った。
ニ
マリウスの後継者のポンペイウスは,元老院を抑えるために平民派のカエサルたちと第一回三頭政治
を樹立したが,カエサルによって打倒された。
ポンペイウスはスラの後継者
ホ
オクタヴィアヌスはプトレマイオス朝の女王と手を組んだアントニウスを打倒し,元老院からアウグ
ストゥスの称号を与えられた。
【3】
2001 年 関西学院大学
経済学部
次のローマ政治・文化史に関する1~10 の文で,イとロがともに誤りを含まない場合はaに,イが誤りを含まず
ロが誤りを含む場合はbに,イが誤りを含みロが誤りを含まない場合はcに,イとロがともに誤りを含む場合はd
にマークしなさい。
1
c
2
c
3
d
4
d
5
b
6
d
7
a
8
b
9
c
10
d
赤字が誤りの文
1.共和政ローマの政治体制
イ.最高政務官としてコンスルが1名置かれていた。
ロ.元老院の議員は貴族出身であり,任期は終身とされていた。
2.共和政ローマの法律
イ.十二表法とは,貴族の特権を明文化し,12 枚の板に記したものである。
旧来の慣習法が明文化され,12 枚の板(材質不明)で公表されたのが十二表法。見方によっては貴族の特権を
明文化したものと言えないではないが,内容は私権の保障など,民法関係が多い。貴族の特権を明文化するため
にやったのではないので、誤りの文章となる。
ロ,ホルテンシウス法により,平民会の決議は,元老院の承認を経なくても法律として認められるようになっ
た。
3.ローマの発展と戦争
イ.ローマ軍の主戦力は,奴隷を主体とする重装歩兵軍であった。
ロ.第3回ポエニ戦争でローマ軍は,カルタゴの名将ハンニバルを打ち破り,決定的な勝利をおさめた。
ハンニバルが活躍したのは第2回ポエニ戦争である。しかし,カルタゴでは大スキピオに敗北した。
4.第1回三頭政治
イ.第1回三頭政治の取り決めによりカエサルはシリアを任地とした。
カエサルはガリア遠征の成功により名声を得た。ガリアの地は何処にあるのか地図で確認すること。
ロ.クラッススが,カエサルの台頭を快く思わず,元老院と手を結んだため解消された。
クラッススがパルティアとの戦いで廃止した後,ポンペイウスは元老院と手を組んでカエサルを破ろうとした。
5.第2回三頭政治
イ.アントニウス,オクタヴィアヌス,レピドゥスによって行なわれた。
ロ.アントニウスは,セレウコス朝の女王クレオパトラと手を結んだが,オクタヴィアヌスに敗れた。
最後のエジプトの王朝は?
6.帝政ローマ初期
イ.オクタヴィアヌスは,アウグストゥス(尊厳者)の称号を受け,ドミナートゥスを始めた。
元老院など共和政の伝統を名目上尊重するプリンキパトゥス(元首政)が開始された。
ロ.アウグストゥスから五賢帝末までの約 300 年はローマの最盛期で,「ローマの平和」と称された。
2 世紀末のマルクス=アウレリウス=アントニヌス後の混乱でローマの平和は動揺する。よって約 200 年。
7.五賢帝
イ.トラヤヌス帝の時,帝国の領域は最大となった。 ダキアの地を忘れないように。
ロ.マルクス=アウレリウス=アントニヌス帝は,ストア派の哲学者としても知られている。
8.帝政ローマ後期
イ.ディオクレティアヌス帝は,皇帝崇拝の強制やキリスト教への迫害を行なった。
ロ.コンスタンティヌス帝は,キリスト教を国教と定め,ビザンティウムヘの遷都を行なった。
ミラノの勅令はキリスト教を公認しただけ,キリスト教の国教化を定めたのは誰か?
9.ローマの歴史記述
イ.ローマの歴史家として著名なリヴィウスは,『ゲルマニア』を書いた。
タキトゥスは共和派の性格を持つことも重要です
ロ.『対比列伝』を書いたプルタルコスはギリシア人である。
10.ローマの文学・哲学
イ.ヴェルギリウスは,ギリシア語で叙事詩『アエネイス』を書いた。
ラテン文化の黄金期の詩人です。
ロ.ストア哲学もローマでは盛んになり,セネカやエピクロスといったストア哲学者が活躍した。
エピクロス派はヘレニズム哲学の一派であり,快楽主義に特徴がある。
【4】
2004 年 早稲田大学 法学部
古代ローマ史の概略を記した次の文章を読み,以下の問いに答えなさい。
ラテン人のつくった小都市国家だったローマは,前6世紀には王政を廃し共和政を樹立した。共和政が始まると,
①
プレブスとパトリキの抗争が展開され,おおむね前3世紀初頭まで継続した。他方,前4世紀半ばからローマは
対外進出も始め,前3世紀半ばまでにはイタリア半島を統一し,その後,②3回にわたるポエニ戦争およびギリシ
アとの戦争を通じて前2世紀には地中海世界を制圧した。それに伴い,③奴隷制が最盛期を迎え,社会的・政治的
不安が増大し,④前2世紀末から前1世紀末までイタリア半島で内乱が絶えず生じることとなった。この過程のな
かで,特定の人物に権力が集中する事態が進行し,⑤三頭政治を経て,ついには,一人の人物が皇帝として権力を
掌握する帝政が前1世紀末より始まった。もっとも,⑥帝政最初の2世紀は,「ローマの平和」と呼ばれる安定し
たローマの最盛期であった。帝国の領域もAトラヤヌスの時期に最大となった。ローマ市民権もBハドリアヌスによ
り帝国居住のほぼすべての自由人に付与された。ところが,3世紀半ばには各地の軍団が皇帝を立て互いに争い,
ローマ国内は動揺した。この混乱は3世紀末にCディオクレティアヌスにより収拾され,大規模な官僚機構の確立
等を通じて帝国の維持が図られ,⑦キリスト教も公認された。けれども,あいつぐゲルマン人の侵略等で帝国は弱
体化し,ついに4世紀末,帝国は東西に分割された。西ローマ帝国は5世紀後半にDオドアケルにより滅ぼされた
が,東ローマ帝国は6世紀の⑧ユスティニアヌスのときに最盛期を迎えた。
設問1
A
下線部①のプレブスとパトリキの抗争にかんし,正しい内容の文章を以下のA~Dから一つ選びなさい。
プレブスは,土地を所有できないため民会に参加できず,参政権を求めてパトリキとの抗争を始めた。
ローマの平民(プレブス)は中小農民であり,土地は所有している
B
プレブスは,重装歩兵戦術を自ら考案し,その主体として国防を担うようになったため,彼らの政治的発言権
が増した。
ギリシアの時代から重装歩兵戦術はある。その影響をローマが受けていないわけがない。
C
リキニウス=セクスティウス法により,プレブスはコンスル両名に就任できるようになった。
Dホルテンシウス法により,プレブスの議決は元老院の承認といった条件を何ら付されず法律になることとなった。
設問2
下線部②のポエニ戦争にかんし,正しい内容の文章を以下のA~Dから一つ選びなさい。
A
第1回ポエニ戦争の結果,ローマは初の属州となるシチリアを獲得した。
B
第2回ポエニ戦争に際し,ハンニバルは,カルタゴから出航してイタリア半島南部に上陸しローマに進軍した。
ハンニバルのルートを復習して!
C
第2回ポエニ戦争は,ハンニバルがカンネーでスキピオに敗北したため,終了した。
カンネーの戦いではローマが大敗した。
D
第3回ポエニ戦争の結果,カルタゴは,多額の賠償金支払いの義務を負い,アフリカの地方勢力となった。
第3回ポエニ戦争でカルタゴは滅亡する。
設問3
A
下線部③の前2世紀以降の奴隷制にかんし,正しい内容の文章を以下のA~Dから一つ選びなさい。
長期化する戦争のため経済的に困窮した中小農民の多くは,ローマで,有力者の奴隷となった。
「パンとサーカス」による無産市民となる。奴隷にはならない。
B
大量の奴隷を使用する大土地経営は,ラティフンディアと呼ばれ,主として果樹栽培を行った。
C
大規模な奴隷反乱が生じ,とりわけガリアで起きたスパルタクスの反乱はローマにとって大きな脅威となった。
剣奴の収容所は南イタリアにある。スパルタクスはガリアに帰ろうとして反乱を起こした。
D
奴隷反乱の脅威から,ローマでは,奴隷はもっぱら農場で使用され,家内奴隷は存在しなくなった。
家内奴隷が存在しなければ、誰が貴族の宮廷で働くのか?
設問4
下線部④の時期にかんし,正しい内容の文章を以下のA~Dから一つ選びなさい。
A
富裕階層の利益のために,公有地占有面積の制限が撤廃された。
法律では公有地面積の制限が決定した。しかし,事実上無視されていた。制限が撤廃されたのではない。
B
傭兵制を導入したために,有力な将軍は私兵を持つようになった。
C
閥族派に対抗するために,平民一般大衆を中心に,平民派が形成された。
平民派は平民一般大衆を中心に閥族派に対抗したのではない。そもそもこの頃には,平民一般大衆は没落し無産
市民となっている。マリウスを思い出してみよう。彼は無産市民化した平民を傭兵として軍事力を強化した。
D
設問5
A
元老院に対抗して独裁を行うために,ディクタトルの役職が用いられた。
下線部⑤の三頭政治にかんし,正しい内容の文章を以下のA~Dから一つ選びなさい。
第1回三頭政治は,元老院派のクラッススが反元老院派のカエサルおよびポンペイウスと妥協することで,成
立した。
クラッススは元老院派でもないし,ポンペイウスは当初は元老院と対抗していたけれども、後には協力関係に戻り
ます。
B
第1回三頭政治は,ポンペイウスがカエサルの台頭を恐れ元老院と妥協したため,瓦解した。
C
第2回三頭政治は,アントニウス,オクタヴィアヌス,キケロが共和派に対抗するため,結成された。
キケロはカエサルやアントニウスと対立した政治家であり,後にカエサル関係者により暗殺されます。
D
第2回三頭政治は,アントニウスがアンティゴノス朝のクレオパトラと結びオクタヴィアヌスと対立したため,
瓦解した。
設問6
下線部⑥にかんし,1世紀から2世紀に栄えたローマ文化について正しい内容の文章を以下のA~Dから
一つ選びなさい。
A
タキトゥスは,ゲルマン人の生活を主題とする「年代記」を著した。
タキトゥスがゲルマン民族を描いたのは『ゲルマニア』であり,『年代記』は彼がアウグストゥスからネロの死に
至るまでのローマの政治史である。
B
プルタルコスは,小アジア出身の地理学者で,「地理誌」を著した。
ギリシア人の伝記学者プルタルコスが著したのは『対比列伝』であり,『地理誌』はギリシア人地理学者ストラボ
ンの著書である。
C
プリニウスは,膨大な項目からなる「博物誌」を著した。
彼はウェスウィウス火山の噴火で殉職した博物学者でも有名。
D
ポリビオスは,政体循環史観を唱える「ローマ建国史」を著した。
『ローマ建国史(ローマ史)』を著したのはリウィウスであり,第3回ポエニ戦争に従軍して共和政ローマの強さ
を分析した『歴史(ローマ史)』を著したのはポリビオスである。
設問7
下線部⑦にかんし,正しい内容の文章を以下のA~Dから一つ選びなさい。
A
コンスタンティヌスは,エフェソス公会議を招集し,キリスト教を公認した。
コンスタンティヌスはミラノ勅令でキリスト教を公認し,エフェソス公会議でアタナシウス派を正統とした皇帝。
B
アリウスはイエスの人性を強く主張したが,この説はニケーア公会議で異端とされた。
C
ユリアヌスは,ミトラ教に心酔していたが,帝国統治のため,キリスト教に改宗した。
ミトラ教に心酔してキリスト教を弾圧し,「背教者」となった皇帝です。
D
テオドシウスは,キリスト教を国教化したが,他の宗教を信仰することにも寛容だった。
キリスト教国教化以来,異教徒はもちろん,異端も厳しく弾圧されることになりました。
設問8
下線部⑧のユスティニアヌスの業績のうち,明白な誤りを含む文章を以下のA~Dから一つ選びなさい。
A
イタリア半島での勢力回復に努め,ヴァンダル王国,東ゴート王国をうち破った。
B
学者トリボニアヌスらに,「ローマ法大全」の編纂を命じた。
C
コンスタンティノープルに,セント=ソフィア聖堂を建立した。
D
皇帝支配の強化のため,プロノイア制を廃止した。
プロノイア制とは ll 世紀以降, ビザンツ帝国で実施された土地制度であり,皇帝が有力な将軍・貴族らに,一代限
りで国有地・住民の管理をまかせ,その代償に軍役奉仕の義務を課すというものである。西欧の封建制に似ている
が,土地の再授封はなされず,身分階級制も成立しなかった。皇帝が貴族の自立を放任せず、なるべく皇帝の支配体
制内部に置こうとしたが意図がみられる。その後 13 世紀,皇帝権がさらに弱体化するなか,国有地の世襲が正式に
認められたため,帝国の分裂・衰退が加速化された。軍管区制と比較できるようにしよう。
設問9本文中の波線部A~Dには文脈上間違った人名が一つある。その間違った人名をA~Dから一つ選びなさい。
A
トラヤヌス
B
ハドリアヌス
C
ディオクレティアヌス
D
オドアケル
プリントのデータを画像として鮮明にするためのフロンティア問題2
【5】
2002 年 首都大学東京 人文学部第一部
次の文章を読んで,後の問い(1~4)に答えよ。
人類の起源は約 400 万年前のアフリカに出現した
から区別する最大の特徴は, b直立二足歩行
0 万年前には
c原人
a猿人(アウストラロピテクス) である。人類を他の動物
し,両手を使って道具を作り出した点にある。その後約 70 万~5
が登場し,約 20 万年前の
d旧人
を経て,およそ4万年~1万年前に新人(現世人類)
が現われた。人類が作り出した道具は石を割っただけのの簡単な
e打製石器
から始まり,次第に形の整ったも
のへと進化した。この時代を旧石器時代と呼ぶが,その後期には槍・銛・釣り針などの
われた。約1万年前に
g完新世
f骨角器
もさかんに使
が始まった。氷河期が終わって地球の気候が温暖化し,人類の生活もそれに対
応して変化したのである。この時代を特徴づけるのは, h磨製石器
の開始,そして貯蔵・調理のための
j土器
の使用, i農耕・牧畜
による食料生産
の製作である。
食料生産の開始は人々の生活を安定させ,文化の発展をもたらした。はじめは自然の恵みを利用するだけの不安
定なものであったが,やがて治水・灌漑技術の確立とともに,(1)ティグリス・ユーフラテス川,(2)ナイル川,イン
ダス川,(3)黄河の中・下流域に世界の四大文明と呼ばれる発達した文化が成立した。
問1
空欄a~jに,適当な語句を入れよ。
問2
下線部(1)に関して,次の問いに答えよ。
(1)
メソポタミアで,紀元前 18 世紀頃に政治的統一を実現した王は誰か,その名を記せ。 ハンムラビ王
(2)
また,その王は諸民族支配のために神の代理として法典を制定したが,その刑法の原則はどのようなも
のであったか,簡単に記せ。
問3
身分に応じた同害復讐を原則とした
下線部(2)に関して,次の問いに答えよ。
ギリシアの歴史家ヘロドトスは,エジプト文明を評して「エジプトはナイルのたまもの」といったが,
その意味を 50 字以内で説明せよ。
ナイル川の定期的な氾濫(増水)によって上流から肥沃な土地と水が運ばれ,エジプト文明を生み出したと
いうもの。
問4
下線部(3)に関して,次の問いに答えよ。
(1)
黄河流域では,紀元前 5000 年~3000 年頃に仰韶文化が成立し,その後,竜山文化が発展した。この二
つの文化の特徴をそれぞれ 50 字以内で説明せよ。
〔仰韶文化〕
黄河中流域においてアワやキビを栽培して犬・豚・鶏を飼い,磨製石斧や彩陶を用いた中国最古の農耕文明
〔竜山文化〕
黄河下流域を中心とし,牛・馬の飼育が始まり,三足土器を特徴とする薄手の黒陶が使用された。
(2)
黄河流域では,仰韶・竜山両文化の発展を基礎にして,紀元前 17 世紀頃に殷王朝が成立した。殷墟か
らは甲骨文字が記された亀甲・獣骨が発見されているが,そこから知られる殷王朝の政治の特徴を 50 字以
内で説明せよ。
農業や軍事などの重要な国事について,王が占いによって神意を問い,万事を決定する神権政治を行った。
【6】
2006 年 関西学院大学 文学部
次の文中の下線部に関する問いに答え,記号にマークしなさい。
最近,黄河の北から殷代中期の都邑が発見された。この遺跡の中で特に目を引いたのはその城中にあった巨大な
宮殿で,殷王の祭祀王としての権力の大きさがあらためて認識された。殷王は各族邦から①大邑商に派遣された卜
人(占師)たちの長で,占卜から神意を判定する唯一者という形で政治・軍事・祭祀の全てを決定していた。このよ
うな占師の長としての殷王の性格は王位の継承法が兄弟相続から父子相続となるにつれ独裁性を強め,殷代末期に
は王だけが②占卜も判定もするようになった。そして地上の王であった殷王はついに帝(天帝=神)でもあると自称
するようになった。殷は多数の族邦が連合してつくられた王朝であったから,政治・祭祀から疎外された族邦はこ
のような王朝の変容に当然,不満を抱いた。③帝辛の時代になると,これに加えて東方の人方との戦争に多大の軍
を派遣し,多くの族邦に軍事的・経済的負担を強いた。このような殷王と族邦との乖離を好機とみた西方の強邦で
ある周は黄河を渡って奇襲をかけ,大邑商の郊外で殷王朝の軍を破って滅亡させた。
新しく誕生した④周王朝は殷滅亡に鑑み,神権政治という手法をとらず,王を天子として天帝より下位に位置づ
け,⑤血縁関係を重視した政治体制をつくった。諸侯のうち周王の血縁者は軍事・経済上で重要な道路に沿って封
建され,そのまわりに周と姻族関係にある諸侯を配するのがそのおおまかな形であった。周は当初,東方に遷都し
ようとしたが果たせず,のちに東方経営の副都成周(洛邑)を建設しただけで,結局は殷代以来の渭水のほとりの根
拠地から動かなかった。全盛期から衰退に向かった周は王位の継承をめぐる内紛から⑥異民族の介入を招き,王が
死亡すると,難を避けて成周に遷都せざるを得なかった。
成周に遷都した周はなど畿内の諸侯との内紛が絶えず,畿外の諸侯との血縁関係も代をへるにつれて薄れてい
った。このようにして内外の諸情勢によって衰微した周は名目上は王朝の主であったが,その支配領域も軍事力も
諸侯に及ばなくなっていった。これに加えて各国間に散在していた異民族諸邦も中国文化を吸収して実力を増して
きた。この異民族に武力でもって対処しようとしたのが⑦覇者と呼ばれる諸侯たちである。覇者は王朝内の諸侯を
集めて会盟し,諸侯間に新しい秩序をつくり,それを利用して異民族の台頭を抑え,自邦の強大化をはかった。覇
者以外の諸侯も強邦に兼併されないために富国強兵を目指した。
春秋後期に兼併戦争が激化すると,各邦では戦闘の大規模化による消耗兵員の補充のために出陣する権利を農
民・商人・奴隷にまで与えた。その際,それら出陣した人々に身分の解放・官吏になる権利を与えたので,身分制
の流動化が起った。このようにして才能のある人々が活躍できる社会基盤が成立した。これを利用したのは諸侯だ
けではなかった。諸侯の卿・大夫の中にはそういう人々を集めて私属をつくり,諸侯を圧倒する場合があった。そ
の顕著な例が晋と斉である。晋と斉が有力な卿により邦を奪われ,それが周王によって公認された時を境に⑧戦国
時代に入る。この時代には下剋上の風潮が下方まで広まったが,一方では,自立して王と称するようになった各邦
が山林草沢の利を独占するとともに,兼併した他領を王の直轄領に組み入れ,中央から官吏を派遣して管理させる
と同時に,そこから得られる収入により王の直属軍を養って王権の強化をはかった。このようにして中央集権化に
成功した諸邦はさらに兼併を進め,戦国初期には 20 余りあった⑨邦が7つとなり,やがて秦によって⑩統一国家が
つくられた。
①
殷王朝の首都である大邑商があったのは現在のどの省か。
a.山西省
②
b.山東省
占卜に使用された文字はどれか。
c.河北省
d.河南省
e.安徽省
a.金文
③
b.甲骨文字
c.草書
d.篆書
e.隷書
d.桀王
e.湯王
殷王朝最後の王,帝辛の一般的な呼称はどれか。
a.紂王
b.文王
c.幽王
bの文王は周の基礎を固めた人物であり,その子の武王は殷王朝打倒の兵を挙げ,西周王朝を開くことになる。
cの幽王は西周末の王である。(在位前 781~前 771)。父の宣王のあとをうけて即位したが,地主化した貴族層
の勢力があなどりがたく,周辺民族の進攻もあって,王権は弱体化した。即位以来,天変地異が重なり,異民族
りざん
犬戎が王を攻め,幽王は驪山で殺されたとされる。貴族たちはその太子の平王を立てて東周王朝を開いた。
けつ
ちゅう おう
おう
dの桀王は夏王朝の末帝であり,殷の 紂 王とならんで中国史上では評判はよろしくない。
と う おう
eの湯王は殷王朝の創設者である。夏王の桀王は暴政を行い,人心が離反したので,これを攻めて滅ぼし,殷王朝
を創設したとあるが,湯王に関する伝承は《尚書》や《詩経》などにも記載されるが,それらの成立が後世のも
のであったり,あるいは具体性に欠けるため,不明な点が多い。
④
周が武王の時に都,鎬京を置いた場所に最も近い現在の都市はどれか。
a.開封
⑤
b.州
c.洛陽
d.太原
e.西安
血縁関係を軸とし,支配層の秩序を規定したきまりはどれか。
a.郡県制
⑥
b.宗法
c.郡国制
d.骨品制
e.九品中正
d.東胡
e.淮夷
王位の継承をめぐる内紛に介入した異民族はどれか。
a.犬戎
b.赤狄
c.鮮虞
bの赤狄に関して,赤狄・白狄・長狄の 3 種 10 部族の名が伝わり,これらは漢民族が北方の異民族を総称した語と
てきてき
して残るり,狄 翟 とも称される。春秋時代,今の陝西省渭水流域から山西省南部に遊牧し,晋などと争った。
せ
ん ぐ
cの鮮虞は河北省新楽県付近に建てた国である,初め鮮虞とよばれたが,春秋末に河北省唐県付近にうつり,中山と
称した
dの東胡は春秋時代から漢代初めに内モンゴル東部にいた遊牧狩猟民族である。匈奴つまり胡(北方民族の意味)
の東方に居住したことからの呼称である。戦国時代の燕国は対策に苦しみ,いまの河北省懐来から遼寧省遼陽ま
での間に長城を築いてその騎兵を防いだ。秦代になると強盛となり,一時は匈奴を圧倒したが,前漢の初め,冒
うがん
頓単于に急襲されて壊滅した。後漢代にあらわれる烏桓と鮮卑はその後裔とされている。
わ
い
い
eの淮夷は殷代から春秋時代に淮水流域にいた民族であり,水稲農耕を主とした。この地は呉に,ついで楚に併合さ
れ,戦国時代初めには漢民族と混血,融合した。
⑦
長江下流域にあって,覇者夫差を出した邦はどれか。
a.呉
⑧
d.楚
e.秦
b.薊
c.曲阜
d.臨淄
e.咸陽
7つの諸邦は戦国の七雄と呼ばれるが,それに含まれないのはどれか。
a.韓
⑩
c.越
戦国時代に経済・学問の中心地として繁栄した斉の都はどれか。
a.邯鄲
⑨
b.魯
b.宋
c.燕
d.趙
e.魏
統一国家,秦が統一後に実施した事項でないのはどれか。
a.焚書・坑儒の実施
e.民間兵器の没収
b.南海郡の設置
c.阿房宮の建設
d.刀銭の普及
【7】
2006 年 同志社大学 法学部
)~(
a
中の《
》にはもっとも適当な語句を記入しなさい。また,問1~問3に対する答えを記入しな
ア
》~《 エ
p
)には〔語群〕からもっとも適当な語句を選び番号を解答欄に記入し,文
次の文章を読み,文中の(
さい。
紀元前 11 世紀ころ殷を滅ぼした周は,「封建」という統治のしかたを導入した。周王は,一族・功臣らに
《
ア封土
》と呼ばれる土地を与えて諸侯とし,その諸侯を統制することで全土を支配しようとした。王や諸侯
は,・大夫・(8
a
身分秩序を定めた(1
士)という家臣団をもうけた。周王の権力は,諸侯らの任命権と,血縁関係にもとづいて
b
宗法)によって維持された。周王の権威は,その王朝が(6
c
天命)によって天下の
統治をまかされているという思想に支えられていた。したがって王朝が徳を失えば,代わりに別の者が天子として
代々統治していくようになる。こうした王朝交代の理論を(4
d
易姓革命)という。
紀元前 771 年に犬戎によって首都鎬京を攻略された周は,東の洛邑に遷都した。これを境に周の力は衰え,
前3世紀後半まで諸侯が争う時代が続いた。その前半である春秋時代には,まだ周王の権威は残っており,各地の
有力諸侯は周王を中心とする(5
e
尊王攘夷)を唱え,中原,すなわち(20
ぐって争った。しかし7世紀末には,(21
g
f 黄河)中・下流域の平原をめ
長江)流域に勢力をもった楚が覇権を握るにいたって,周王の権
威は失墜していった。戦国時代になると,力をつけた諸侯は王を自称するようになり,戦国の(30
よばれる強国が互いに争うようになった。(1)春秋・戦国時代には多様な新思想がうまれ,《
h
七雄)と
イ諸子百家
》と総
称される多くの思想家や学派が登場した。
前 221 年,西方の秦が中国を統一した。秦王の(10
i 政)は,王に代えて「皇帝」という称号を採用し,「始
皇帝」と名のった。全国の地域を区分して官吏を直接中央から派遣する《
ウ郡県制
》を実施するなど,(2)始皇
帝は強力に中央集権化をおしすすめた。しかし始皇帝の死後まもなく各地で反乱がおこり,秦は統一からわずか 1
5 年でほろんだ。各地の反乱勢力の中から,力をつけた(12
朝をたてた。同皇帝は新都(23
k
j 劉邦)が中国を統一して皇帝の位につき,漢王
長安)を建設した。漢ははじめ封建制を併用していたが,(28
七国)の乱(前 154 年)を平定したのを契機に,中央集権体制を確立した。第7代皇帝である《
には,(3)大規模な対外戦争をおこなった(前2世紀後半)。秦から漢の初期にかけては(18
想が力をもったが,同皇帝の時代には(15
(32
o
n
m
エ
l
呉楚
武帝》の時代
法家)や道家の思
董仲舒)の提案で儒学が官学となり,主要な経典として
五経)が定められた。
しかし遠征などによる財政難に加え,宮廷内で宦官や外戚が権力を争うようになるなど,皇帝の権威は急速におと
ろえ,ついに紀元後8年,外戚の(17
p
王)が国をうばって新をたてた。〔語群〕
1.宗法
2.冊封体制
3.祭政一致
4.易姓革命
5.尊王攘夷
6.天命
7.神農
8.士
9.公
10.政
11.鄒衍
12.劉邦
13.劉秀
14.項羽
15.董仲舒
16.張騫
17.王
18.法家
19.兵家
20.黄河
21.長江
22.咸陽
23.長安
24.楽浪
25.陳朝
26.南越
27.陳勝・呉広
28.呉楚七国
29.五覇
30.七雄
31.四書
32.五経
問1
下線部(1)に関連して,この時代に生まれた思想や学派についての次の記述のうち,誤っているものを
1つ選べ。
1.孔子は,社会の秩序の基礎を,家族道徳の実践によって完成される「仁」においた。
2.孔子の思想は,孟子や荀子などの春秋時代末期の儒家たちによってうけつがれた。
孟子や荀子などは戦国時代の思想家達である。
3.道家は,無為自然を説き,「道」に合一することを求めた。
4.墨子の学派は,血縁をこえた無差別の愛を説いた。
問2
下線部(2)に関連して,始皇帝の中央集権化に関係のないものを,次の選択肢から1つ選べ。
1.民間の兵器を没収した。
2.全国の標準となるべき文字を制定した。
3.焚書・坑儒による思想統制をおこなった。
4.均輸・平準などの経済統制策を実施した。
問3
前漢武帝の経済政策(物価安定のため)
下線部(3)に関連して,次の選択肢から,この時期の漢の対外戦争の記述として誤っているものを1つ選べ。
1.北方では鮮卑を攻撃して,オルドスや甘粛にも勢力をのばした。
蒙恬などの名も覚えておこう。ちなみに甘粛とは,秦代の頃には,黄河と蘭州付近でこれに合流する降河の線が漢
族文化圏の北西境であった。漢代になると,武帝が河西回廊地帯を支配下に収め,河西四郡といわれる武威,張掖
など4つの郡を置いた。鮮卑は今の遼寧省から内モンゴル自治区一帯に居住していた遊牧民族であり,戦国時代に
栄えた「東胡」の後裔と考えられており,モンゴル族に属する。漢の初め匈奴の冒頓単于に討たれるとシラムレン
流域へ北上し,遊牧狩猟を主としいきながらえた。1 世紀初めに南下して勢力を回復し,しばしば中国へ侵入した
2.西域の大宛(フェルガナ)にまで遠征した。
3.東北地方では衛氏朝鮮をほろぼして楽浪などの4郡をおいた。
4.南方では南越をほろぼして,ベトナム北部を支配下に入れた。
山川詳説世界史では「ベトナム北部」と表記していると授業で言ったように,これを間違いとは断言できない。
しかも,この問題は何処まで漢が領土を拡大したかという問題ではない。ベトナム北部は確実に漢の支配下である。
プリントのデータを画像として鮮明にするためのフロンティア問題3
【8】
2003 年 早稲田大学 教育学
部
次の文章を読み,設問A,Bに答えなさい。
1
秦の始皇帝の死後,各地に反乱があいつぐなかに台頭した劉邦は,楚の項羽を破って漢王朝を建てた。その後,
60 年余にわたる帝国の基礎固めの時期をへて(a),第7代皇帝となった武帝は内政を充実させるとともに積極的な
外征を行って国威を輝かせた(b)。このような発展は民族意識を高めて歴史への関心を呼びおこし,太史令の職に
あった司馬遷は『史記』を完成させた。武帝の死後,漢はしだいに国力が傾いて皇帝の権威はおとろえ,
(
1
)の皇后の一族である王莽によって滅ぼされた。新の簒奪によって生じた混乱を平定して中国を再統一した
のは漢の一族の劉秀である。この後漢王朝は前漢と同様に積極的な西域経営を行って諸国を服属させ,西域都護
の班超(c)は,部下の甘英を(
2
)に向けて派遣した。しかし1世紀末ごろから幼弱な皇帝がつづいたために,
儒教官僚・外戚・宦官が政争をくりかえすようになり,やがて儒教官僚が宦官の専横を除こうとしてかえって宦
官一派から弾圧を受けた(
設問A
空欄(
1
)~(
3
3
)などがおこった。このような朝廷の乱れが地方におよび,後漢は衰退した。
)に入れるのに最も適切な語をア~オのなかから一つ選び,その符号を解答用紙の
所定欄にマークしなさい。
設問B
(a)
(1)
ア
昭帝
イ
文帝
ウ
恵帝
エ
元帝
オ
宣帝
(2)
ア
大理国
イ
大夏国
ウ
大秦国
エ
大越国
オ
大月氏国
(3)
ア
華夷の別
イ
文字の獄
ウ
永嘉の乱
エ
甲申の変
オ
党錮の禁
下線部(a)~(c)に関する設問について,最も適切な解答をア~オのなかから一つ選べ。
武帝以前の漢代史の説明として誤りを含むものはどれか。
ア
皇帝の直轄地には郡県制をしき,同姓の者や異姓の功臣を王・侯とする封建制を併用した。
イ
県の下に郷・亭・里の郷村組織を設け,三老などの有力者が行政,徴税,教化などを行った。
ウ
高祖は白登山付近で冒頓単于が率いる匈奴に大敗し,婚姻と貢納とを条件に助命された。
エ
高祖の死後,呂太后とその一族が専横を極めたため,劉氏の政権は一時危機に陥った。
オ
景帝が実施した諸侯王の領土削減策に反発し,同姓や異姓の諸侯が呉楚七国の乱をおこした。
漢初に封建された異姓の諸王は,いずれも強力な軍隊を擁する実力者であった。しかも,彼らの封建が漢の妥協の産
物であっただけに,将来に不安をいだいた高祖は謀反などの口実をもうけてつぎつぎと諸王を倒した。そのため高祖末
年までには遠隔地の長沙王を除く他の異姓の諸王はすべて抹殺され,代わって高祖の近親同族を封建し,〈劉氏にあら
ざるものは王となるべからず〉という原則を確立した。呉楚七国の乱のあと,景帝は諸王を政治の座から切りはなし,王
国の政治は相(しよう)をはじめとする中央派遣の官吏が執行することにした。また諸王の封地を王子たちに細分して小
諸侯に立てる(推恩の令)など,一挙に諸王の権力を奪い勢力を削った。
(b)
武帝の治世の説明として誤りを含むものはどれか。
ア
匈奴に対する和親策を放棄し,衛青,霍去病,李陵らに命じて匈奴を攻撃させた。
イ
南越国を滅ぼして9郡を設置したが,越族の抵抗がつづき,徴姉妹の反乱がおこった。
徴姉妹の反乱は後漢の光武帝により鎮圧された
ウ
衛氏朝鮮を滅ぼして楽浪,真番,玄菟,臨屯の4郡をおいた。
エ
均輸法や平準法を用いて物価の安定を計り,塩・鉄・酒を専売にして財政の再建をめざした。
オ
(c)
董仲舒の献策をいれて五経博士を設置し,儒教を官学とした。
班超の兄班固の著した『漢書』に関係のないものはどれか。
ア
編年体の通史
イ
班昭の補修
ウ
エ
唐の顔師古の注釈
オ
紀伝体の正史
【9】
前漢一代の断代史
2005 年 早稲田大学 第一文学部
次のA~Bは,中国王朝と周辺諸民族との関係について述べた文である。各設問を答えよ。
A
アジア内陸の乾燥地帯では遊牧民が羊を追って生活していたが,前4世紀ごろにモンゴル高原にいた一部は西
方のaスキタイ文化を学んで遊牧騎馬民族に変じ,その機動力を生かしてたびたび中国に侵入した。これが匈奴
である。そのため戦国諸国は長城を建造し,その侵入を阻止しようとした。前3世紀末にb冒頓単于が登場する
と,c月氏などを破って東西交易路を占領し,d漢の武帝を圧迫し,モンゴル高原を中心として空前の遊牧国家を
建設した。
設問1
文中の下線a~dの語句に誤りのある場合はその番号を,誤りがなければeの番号をマークせよ。
①
B
a
②
b
③
c
④
d
⑤
e
中国を統一した秦の始皇帝は,さらに華南地方にも進出し,この地の越人を征服して三郡を置いた。しかし始
皇帝が没し,二世皇帝が即位すると,間もなく陳勝・呉広の乱が勃発した。この反乱に乗じて南海郡を中心とし
て南越国が樹立された。前漢の武帝は北方の匈奴に対抗するため南方を固めておこうとして,南越を伐ってこれ
を滅ぼし,aこの地に九郡を置いて直轄支配を行った。
設問2
下線aの「九郡」とは,現在の広東・広西からヴェトナム北部にかけての地方である。これ以後のヴェト
ナム地方に関して誤っている記述を選び,その番号をマークせよ。
①
後漢のとき,大秦王安敦の使者と称する者が日南(ヴェトナム中部)に到着して,入貢した。
②
唐は安南都護府を置いて統治した。
③
李朝では漢字をもとにした字喃を作った。
ベトナム(ヴェトナム)の陳朝では 14 世紀にはいると、科挙制度によって選抜された儒教知識人からなる
官人が影響力を高め、ベトナムの国家体制が、分権的な貴族統治から中央集権的な統治へと移行する橋渡
し役をつとめた。しかし,儒教の影響が強まる一方、ベトナム的な民族文化も盛んになり漢字を変形して
つくられたチュノム(字喃)とよばれる民族文字もよく使用されるようになった。
④
陳朝の武将が明の支配から独立して黎朝を建てた。⑤
阮朝はヴェトナム最後の王朝となった。
【10】
2006 年 法政大学 文学部
中国の南北朝に関するつぎの文を読み,後の問いに答えよ。
三国時代の魏から出た晋が全国を統一したが,その統一支配は三十年余で終わり,北では五胡十六国,江南(長
江以南)では東晋が立つという分裂状態となった。その後,北は五胡のうちの
ア
鮮卑
族の建てた北魏によ
って統一され,江南は東晋の後を次々に継いだ宋,斉,梁,陳の四王朝が支配した。北魏の都ははじめ平城(今日
の大同)であったが,
イ
孝文
帝の時に
ウ
洛陽
に移された。
北魏は遷都を含む急激な漢化政策を一つの原因として,やがて東魏と西魏に分裂した。いっぽう,三国時代の呉
から東晋を経て陳に至る江南の王朝は今日の
問1
文中の空欄
ア
~
エ
エ
南京
の地を都とした。呉から陳までを六朝とも呼ぶ。
に入る適切な語を記せ(漢字で正確に記すこと)。
問2
南北朝時代には外来の宗教として,仏教が大いに流布したが,その受容の仕方は南北で異なっていた。その
違いを対比して 40 字以内で記せ(句読点も1字に数える)。
仏教は,華北では庶民にまで広まったが,江南では貴族の教養として受け入れられた。
北朝の政治(皇帝)を中心とする文化(宗教)の立場と、皇帝権が弱体な南朝における貴族の文化的業績を
理解していれば、満点はとれなくとも,ある程度の解答は見込めると思う。
問3
南北朝を通じて官吏任用制度として九品中正(九品官人法)が用いられたが,支配体制の異なる南北で,同じ
方法が用いられた理由を 40 字以内で記せ(句読点も1字に数える)。
南北共に地方豪族の子弟が推薦されて上級官職を独占し,門閥貴族となっていたため。
文章をみればなんてことのない解答である。しかし,この問題は参考書を調べて解答できる問題ではなく,難解で
ある。しかし,学習したことを復習しながら,歴史を眺めていると,ふとした機会に思いつくかもしれない。入試
問題では滅多にないパターンだけど,,,。一点でもポイントアップできるように,理解を深めよう。
【11】
2003 年 成城大学
経済学部
つぎの文章を読んで,下記の設問に答えよ。
中国では 10 世紀初頭に唐が滅亡し,五代十国と呼ばれる分裂と抗争の時代がおとずれたが,この混乱は
a趙匡胤
が開いた宋により収拾された。中国の再統一を果たした宋は地方勢力を弱体化させ,中央の皇帝に権
力を集中させる政策をとった。このような皇帝独裁による支配を支えたのが(A)科挙で採用された文人官僚たちであ
り,そのため宋の政治は
b文治
主義と呼ばれている。宋は皇帝を中心に,文人官僚がそれを支えるという支配
体制を築いたのである。五代十国から宋にかけての時代は歴史の大きな転換点であった。
それまでの支配層であった門閥貴族が没落し,これに代わり新興地主層が勢力を伸ばしていった。彼らは宋代には
c形勢
戸と呼ばれたが,科挙合格者を輩出することで,新たな支配層を形成していったのである。また(B)宋で
は農業技術が改良され,自由な商業活動によって商業や手工業が発達し,それによって商業都市が成立・繁栄する
などして,宋の経済はそれ以前とは異なった大きな発展をとげた。このように新たな社会状況の下で支配体制を確
立し,経済的にも繁栄した宋であったが, b文治
主義による政治は軍事力の低下を招き,そのため北方諸民族
の活動に悩まされた。特に(C)中国東北部を根拠地としていた契丹人の遼は,五代十国時代に割譲された漢民族の居
住地である燕雲十六州の領有を続けており,宋にも侵入を繰り返すなど大きな脅威となっていた。また西北部では
dタングート(党項)
族が西夏を建国し,宋の辺境を侵し続けた。これら諸民族の活動に苦しんだ宋は,遼・
西夏と和約を結ぶことを選択したのである。ただしその代償として,宋は遼や西夏に銀・絹・茶などを毎年贈るこ
とになり,その費用や国防費は宋の財政を圧迫していった。さらに官僚の増加による経費の増大もあり,宋の財政
は悪化の一途をたどったのである。この危機を打開するために神宗は王安石を登用した。王安石は一連の改革を行
い一定の成果をあげたが,同時にその改革は(D)司馬光に代表される保守的な官僚たちの強い反発を引き起こした。
やがて政界は改革を進めようとする
e新法
党とそれに反対する
f旧法
党に分裂し,両者は激しく対立した。
この対立は政治の混乱を引き起こし,宋の弱体化をもたらすことになったのである。
問1
文中の空欄a~fを埋めるのに最も適切な語句を記せ(同一記号は同一語句)。
問2
下線部(A)について,
つぎの文は中国における官吏登用制度について述べたものであるが,このうち適切でないものを1つ選べ。
(イ)女真族の金では科挙が行われた。(ロ)
満州族の清では科挙が行われ,中華民国になってから廃止された。
(ハ)
モンゴル族の元では当初科挙が行われなかったが,やがて実施された。
(ニ)
鮮卑族の北魏では中正官が人材を推薦する九品官人法が行われた。
問3
下線部(B)について,
(1)
宋には,干ばつに強くて痩せ地にも向いた稲の品種がヴェトナムから導入され,農業に大きな影響を与
えた。この品種の名称を答えよ。
占城稲(チャンパー米)
(2)
都市では同業者による組合が作られた。このうち商人の組合を何と呼ぶか。
(3)
地方では鎮や市などの小規模な商業都市が,小規模な市場から発生することが多かった。このような小
規模な市場を何と呼ぶか。
問4
行
草市
下線部(C)について,
中国史上には北方民族の王朝が漢民族の領域を支配する例があり,遼もそのような王朝の一つである。
ただし遼の統治体制はそれ以前の北方民族の王朝による統治とは異なっていた。このことをふまえて,遼
による統治体制の特徴について 80 字以内で説明せよ。ただし,句読点は1字とせよ。
遼は、北方の狩猟・遊牧民族には部族制、漢人など農耕民族には州県制を用いる二重統治体制をしき、
契丹族の本拠地を保ちながら華北の一部を支配した。
プリントのデータを画像として鮮明にするためのフロンティア問題4 氏名
【12】
2005 年 明治大学 政治経済学部
次の文章を読み,下線部(1)~(10)にかんする設問(1~10)に答えなさい。
チンギス=ハンが建国したモンゴル帝国は,彼の孫にあたる(1)モンケ=ハンおよび(2)フビライ=ハンの治世下で
版図を飛躍的に拡大した。フビライ=ハンは,国号を元と定め,1279 年には南宋を滅ぼして中国の統一を果たし,
遼,金につぐ征服王朝を樹立するにいたった。彼はモンゴル人の中国における政治的・軍事的支配権を確立すべく,
統治機構の整備に尽力した。統治機構の要として,中央には,行政と軍政をそれぞれつかさどる中書省と枢密院が,
地方には,路・府・州・県の各行政単位を統轄する行中書省が設置された。これらの統治機構において,指導的地
位を占めたのは征服者のモンゴル人であった。モンゴル人以外では,色目人とよばれた中央・西アジア,ヨーロッ
パ系の人びとが経済官僚などに登用された。華北の漢人のほかに契丹・女真の人びと,滅ぼされた南宋の人びと,
すなわち南人は,儒学に依拠した官僚選抜システムである(3)科挙の廃止と門閥主義のため,(4)統治機構への関与を
制限され,被治者の地位に甘んじざるをえなかった。モンゴル人における儒者を軽視する風潮は,儒学の不振を招
く一方,(5)東西交流の活性化にともなう多様な宗教の共存状況をもたらした。チベット仏教の影響力は,たしかに
大きかったが,(6)イスラームに帰依する色目人が多く存在したことや,(7)フランチェスコ派修道士のモンテ=コル
ヴィノの大都における布教活動の容認などは,政治面でのモンゴル人優位主義の厳格な適用とは対照的に,宗教上
の寛容を物語っている。
しかし,貧しい農民の救世主願望を鋭く捉えて信者数を拡大した白蓮教に対しては,モンゴル人は,容赦のない
弾圧を加えた。元末には,政治・経済上の混乱を背景に,白蓮教などの宗教結社を中心とする貧農の蜂起が勢いを
増し,元の支配体制を揺るがす(8)紅巾の乱(1351-66)へと発展することになった。この機に乗じた群雄のひとりが,
明の初代皇帝となる朱元璋であった。彼は強力な統一国家の礎を(9)皇帝親政システムの確立と(10)村落統治の再構築
にもとめていくことになる。
設問1
モンケ=ハンは,弟フラグに命じてバグダードを攻略させアッバース朝を滅ぼした。フラグはその後,イ
ル=ハン国を建国した。この国の首都はどこか。次の選択肢のなかから一つ選べ。
A.サライ
設問2
B.タブリーズ
C.エミール
D.アルマリク
フビライ=ハンは,東南アジアへの勢力拡大の一環としてジャワ島の王朝に使者を派遣したが,拒絶され
たため,ジャワへの遠征を決意したといわれる。13 世紀の終わりころ,内紛で滅亡したこの王朝はなにか。次の
選択肢のなかから一つ選べ。
A.トゥングー朝
B.クディリ朝
C.シンガサーリ朝
D.スコータイ朝
Bのクディリ朝を滅ぼしてジャワ島東部に成立したのがシンガサ(ー)リ朝である。元のフビライの使者を追い返
してジャワ遠征を招いたが,辛うじて元の遠征にジャワ島を死守した。しかし,疲弊したシンガサリ朝に代わって
13 世紀末にマジャパヒト王国がジャワ東部に成立した。
設問3
科挙は 1313 年に宋代の制度をほぼ踏襲して復活した。この制度にはいくつかの階梯があったが,皇帝み
ずからが課した最終試験はなんとよばれたか。殿試
殿試とは省試の合格者に対して,太祖が創案した皇帝臨席の下での最終筆記試験のことである。
設問4
上級官僚への道を望めない南人の知識層は,絵画の分野で南宗画とよばれる画風を完成させ,元末には四
大家と称される文人画家が輩出した。この四大家の組み合わせとして正しいものを一つ選べ。
A.黄公望――王
蒙――呉
鎮――倪
瓚
B.趙孟頫――王
建――呉
鎮――倪
瓚
C.趙孟頫――王
蒙――胡
適――倪
瓚
D.黄公望――王
建――呉
鎮――文徴明
書聖の王羲之の伝統を受け継ぎ元末四大家の道を開いたとされる趙孟に始まり,黄公望(元末の文人画家で山
水画にすぐれ,後世に大きな影響を与えた)呉鎮・王蒙・倪
設問5
瓚がいる。
中東から中央アジア,インド,東南アジアを経て中国を訪問した人物で,『三大陸周遊記』を著わしたの
はだれか。イブン=バットゥータ
設問6
バトゥが建国した国は,ある君主(ハン)の治世下で最盛期を迎えた。イスラームを保護するとともにマム
ルーク朝と友好関係を維持した,この君主(ハン)とはだれか。次の選択肢のなかから一つ選べ。
A.ガザン=ハン
設問7
B.アルタン=ハン
C.ウズベク=ハン
D.オゴタイ=ハン
モンテ=コルヴィノと同じフランチェスコ派の修道士が,フランス国王の命をうけてモンゴル帝国へ派遣
され,モンケ=ハンに謁見した。この派遣を行ったフランス国王とはだれか。次の選択肢のなかから一つ選び,
その記号を解答欄にマークしなさい。
A.フィリップ2世
設問8
B.フィリップ4世
C.ルイ8世
D.ルイ9世
この反乱を指導した白蓮教徒の象徴的存在であり,一時期,宋の再興をめざして勢力を拡大したものの,
後に朱元璋によって謀殺されたといわれるのはだれか。次の選択肢のなかから一つ選べ。
A.韓林児
設問9
B.張
角
C.李自成
D.呉三桂
次の説明のなかから最も適切なものを一つ選べ。
A.皇帝の施政方針を具体化する機関として,新たに御使台が設置され,とくに財政面での立案にあたっ
た。
B.軍事機関として,中・左・右・前・後軍から成る皇帝直属の五軍都督府が新たに設置された。
C.中書省の廃止にともない,新たに皇帝直属の理藩院が設置され,政策一般の立案にあたった。
D.監察機関として中央には都察院が,地方には都指揮使が新たに設置され,相互に連携を図りながら官
僚の不正の摘発にあたった。
設問 10
次の説明のなかから最も適切なものを一つ選べ。
A.租税徴収の安定を図るため,下級官僚によって,戸籍簿とは別に賦役黄冊と呼ばれる租税台帳が5年
ごとに作成された。
B.110 戸をもって,村落支配の基礎単位とする里が定められた。里のなかで比較的富裕な 10 戸を里長戸
とし,残りの 100 戸を,それぞれ 10 戸ずつのグループ,すなわち甲とした。10 の甲は,里に課される
賦役を毎年均等に負担し合った。
C.里甲制による村落支配を確実にするため,儒教道徳にもとづく村落民の陶冶と従順化に力がそそがれ,
六諭が公布された。
D.里内部における風紀を取り締まるため,毎月,甲ごとに村落民を集めて前月の素行の善悪を論じさせ
た。下級官僚である里老人は,この制度化された月例集会の長を務め,また話し合いの内容をふまえて
各人の素行に賞罰をもって報いた。
【13】
2006 年 青山学院大学 法学部
以下の文章を読んで,問題に答えなさい。
元朝の崩壊と明朝の成立は,周辺地域に大きな影響をおよぼすものとなった。元朝に服属していた朝鮮の高麗王
朝では,親元派と親明派の対立がおこり,こうした中で,①倭寇を撃退して名声を高めた(
②
)が高麗王朝を倒
して,1392 年王位につき(太祖),国号を朝鮮と定め,漢城(漢陽,現在のソウル)に都を置いた。その後,貴族の土
地を没収し,官僚にはその官階に応じて(
③
)を与えた。また,明朝に朝貢し,④集権的な支配体制を確立した。
日本では,鎌倉幕府が倒れ,南北朝の対立の時期をへて,室町幕府がひらかれた。足利義満は,明朝に朝貢し,日
本国王に封じられた。ヴェトナム北部は,明朝の成立以後,その支配下におかれていたが,(
⑤
)は,明軍を撃
退し,朝貢関係を結ぶとともに,明朝の制度を導入し,官僚制を整備し,朱子学を振興した。明朝では,永楽帝の
死後,官僚間の争い(党争)が激化し,北方では,周辺民族が中国の領域に侵入した。1449 年の土木の変では,オイ
ラートの(
⑥
)が正統帝(英宗)を捕虜とし,その後もタタールなどの侵入があり,明朝はこれに対抗しなければ
ならなかった。
長江下流域では,綿織物や生糸の生産,その原料のための綿花や桑の栽培などを中心に経済の発展がみられ,湖
北・湖南(湖広)が穀倉地帯となった。また,景徳鎮では,陶磁器の生産が発達した。こうした商品生産の発展の中
で,政府と結びついた特権商人として,(
⑦
)商人や徽州(新安)商人などの集団の活動が活発になった。こうし
た商人は,出身地や業種ごとに会館・公所をもうけた。こうした中で,日本銀やメキシコ銀が大量に流入し,中国
の商工業の発達をうながすことになった。
こうした中で,木版印刷による出版の急増によって,小説,科挙の参考書や⑧商業・技術関係の実用書の出版が
おこなわれた。この時期には,宣教師を通じてヨーロッパ文化が中国にもたらされた。とくに,イタリア人の宣教
師(
⑨
)は,徐光啓とともにエウクレイデスの『幾何原本』を翻訳し,中国最初の世界地図(『坤輿万国全図』)
を作成した。清朝初期には,イタリア人宣教師のカスティリオーネが離宮である円明園を設計した。しかし,円明
園は,⑩19 世紀の(
①
②
この時期の倭寇(前期倭寇)に関する説明として,適当でないものを一つ選べ。
(1)
海賊集団であったが,交易に従事することも多かった。
(2)
日明間で勘合貿易が行われるようになると活動は沈静化した。
(3)
海禁政策の中で,これに従わない中国人が中心であった。
(4)
日本人が中心で,南北朝動乱時期に,朝鮮から中国沿岸地域で活動した。
(
)に入る人名として,適当なものを一つ選べ。
(1)
③
(
(
李成桂
(3)
李舜臣
(4)
李承晩
科
田
(2)
均
田
(3)
囲
(4)
佃
田
戸
両
班
(2)
郷
紳
(3)
藩
鎮
(4)
形勢戸
阮
朝
(4)
黎
)に入る王朝名として適当なものを一つ選べ。
(1)
⑥
(2)
高麗王朝時期に始まり,支配体制の中核となった階層の名称として適当なものを一つ選べ。
(1)
⑤
李元昊
)に入る語句として,適当なものを一つ選べ。
(1)
④
)の際に,イギリス・フランス両軍によって破壊された。
(
陳
朝
(2)
西山朝
(3)
朝
)に入る人名として適当なものを一つ選べ。
(1)
エセン=ハン
(2)
アルタン=ハン
(3)
ヌルハチ
(4)
ホンタイジ
⑦
(
)に入る語句として適当なものを一つ選べ。
(1)
⑧
寧
波
(2)
広
東
(3)
山
東
(4)
山
西
編纂物・出版物とその作者・編者の組み合わせとして,適当なものを次から選べ。
⑨
(1)
『本草綱目』・顧炎武
(2)
『農政全書』・銭大昕
(3)
『天工開物』・宋応星
(4)
『崇禎暦書』・王守仁(王陽明)
(
(1)
)に入る人名として適当なものを一つ選べ。
⑩
アダム=シャール
(
(2)
フェルビースト
(3)
ブーヴェ
(4)
マテオ=リッチ
)に入る語句として適当なものを一つ選べ。
(1)
アヘン戦争
(2)
アロー戦争
(3)
【14】
義和団事件
(4)
太平天国
2002 年 北海道大学 文学部
次の文章を読み,問いに答えよ。
17 世紀から 18 世紀にかけて,康熙・
A雍正
・乾隆の三代の間に,清朝は国内統治の基盤を確立し,また,
大きく版図を広げた。清朝を建てたのは,人口の多数を占める
女真族
族ではなく,(1)北方の少数民族である
C
であった。このことは,清朝の統治体制に大きな影響を及ぼした。正規の軍隊としては, C女真族
を
中心として(2)八旗が編成され,軍事的要地に置かれる一方,(3)
B漢
B漢
族によって構成された
D緑営
に配置されて主に治安維持などにあたった。国内行政制度については,伝統的な官僚選抜方式である
継承し,(4)人員の配置でも
C女真族
と並んで
B漢
は,各地
E科挙
を
族の登用を図った。歴代の皇帝は,(5)反清思想を弾圧す
るため厳しい統制を行ったが,同時に,(6)中華帝国の皇帝として伝統的な文化の振興に努めた。こうした直轄領で
の統治に対して,モンゴル・チベット・新疆などは
F理藩院
の管轄下に置かれ,広汎な自治と(7)宗教の自由が与えられた。
問1
空欄AからFにあたる適切な語句を答えよ。
問2
下線部(1)について,この民族が清に先立って建てた王朝の名称を答えよ。
問3
下線部(2)について,「八旗は軍事組織であるばかりでなく,行政・社会組織でもあった」と言われてい
金
る。このことについて,簡潔に説明せよ。
八旗は満州族固有の狩猟組織を基礎に編成された軍事組織で,これに所属する旗人には土地が支給された。
問4
下線部(3)について,この軍事的原則は 19 世紀に入ると崩れる。その原因と結果を簡潔に記せ。
平和な時代が続き,緑営は軍事訓練や兵員補充を怠り,腐敗・弱体化した。かわって,郷紳が自衛団を基に組織
した郷勇が軍の主力となった。
問5
下線部(4)の政策名を答えよ。
満漢併用策
問6
下線部(5)について,代表的な例を2つ挙げよ。
問7
下線部(6)について,(ア)康熙以下三代の皇帝の下で行われた大規模な事業の名称を3つ挙げ,
文字の獄・禁書
「康熙字典」・『古今図書集成』・『四庫全書』
(イ)康煕帝の下で起きた「典礼問題」について 120 字で説明せよ。
イエズス会は孔子の崇拝や祖先の祭祀などを認め,布教に成果を上げたが,他派の宣教師がこれに反対し,
ローマ教皇もイエズス会の宣教方法を否定した。反発した康煕帝はイエズス会以外の布教を禁じ,雍正帝
の時キリスト教の布教を全面的に禁止した。
問8
下線部(7)について,モンゴル・チベットの住民の多くと新疆の住民の一部が信仰していた宗教を答えよ。
チベット仏教
プリントのデータを画像として鮮明にするためのフロンティア問題5 氏名
【15】
2002 年 関西学院大学 法学部
次の文中の下線部に関する問いに答え,記号にマークしなさい。
16 世紀後半,万暦帝が即位すると,その初期には①政治の立て直しがはかられたが,その後,国内での反乱や東
北地方で勢力を増す女真族への対応,さらには朝鮮への軍隊派遣が重なり,財政難が深刻となっていった。そして
その裏では,官僚の内部で②党争が起こり,宦官もこれに介入するなかで,社会不安は増大し,ついに反乱軍によ
って北京を占領されて③明は滅亡した。明の支配から自立し,軍制である④八旗を軸に政治体制を整備していた女真
族は,明の滅亡を受けて⑤中国内に入り北京に都を置いた。⑥清は康煕帝の時代に三藩の乱を平定し,台湾を併合す
るなど中国の統一事業を達成したが,さらにロシアとの間で国境を定める条約を結んだ。続く雍正帝は⑦軍機処を
設置し,また⑧ロシアと国境や通商の取り決めを行った。乾隆帝も内治につとめると同時に,ジュンガルを征圧す
るなど領域を大きく拡大した。清では漢人を懐柔するため科挙制を採用し,また大規模な漢籍の編纂事業を行うな
ど,⑨学術を奨励し中国文化を保護した功績も大きかったが,明から清にかけての時期は,また⑩ヨーロッパ文化と
の接触が深まる時期でもあった。
[問
い]
①
この時,宰相として政治改革を行った人物はだれか。
a.王夫之
②
b.張居正
c.顧炎武
d.王振
e.戴震
この党争とその後の混乱に関する記述の下線部で誤りを含むものはどれか。
中央政府の政策に反発して辞職したa顧憲成は,故郷のb無錫に帰郷して書院を起こした。この書院と関係の
深い官僚群をその名にちなんでc東林派と呼ぶ。彼らが批判の対象としたのは宦官,およびそれと結ぶd外戚
(→内閣・官僚批判)であったが,天啓帝の時代に権力を掌握した宦官のe魏忠賢はこれを厳しく弾圧した。
③
明の最後の皇帝はだれか。
a.崇禎帝
④
b.隆慶帝
c.正統帝
d.嘉靖帝
e.泰昌帝
八旗に関する記述で誤りを含むものはどれか。
a.八旗は,4色の旗とそれに縁取りをした4つの旗で軍隊を区別した。
b.八旗の制度は,ホンタイジの時代に始められた。
c.八旗には満州八旗のほかに,蒙古八旗,漢軍八旗があった。
d.清朝正規軍には八旗のほかに緑営が置かれた。
e.八旗の構成員は旗人と呼ばれ,旗地が与えられた。
⑤
この時に通過した長城の要所はどれか。
a.玉門関
⑥
b.居庸関
c.雁門関
d.函谷関
e.山海関
清という国号を定めた時期はどれか。
a.ヌルハチが建州女直の部族長になった時
c.ホンタイジがヌルハチの後継者となった時
b.ヌルハチが明から自立した時
d.ホンタイジがモンゴルの一部を支配下に置いた時
e.順治帝がホンタイジの後継者となった時
⑦
軍機処に関する記述で誤りを含まないものはどれか。
a.最初は軍事機密を保護するために設けられたが,後には政治面での最高機関となった。
b.軍機大臣には満人と漢人がそれぞれ1名任命された。
c.内閣は,軍機処が政治の権限を掌握した乾隆帝の時代に廃止された。
d.理藩院は軍機処の下部組織で,周辺民族統治を担当した。
e.1860 年に総理衙門が設置された時に廃止された。
1911 年に責任内閣制が実施されると,軍機処は消滅したが,新官制の最高官職である総協理大臣には軍機大臣が充
当された。
⑧
雍正時代にロシアと結んだ条約はどれか。
a.ゴレスターン条約
b.イリ条約
c.キャフタ条約
d.ネルチンスク条約
e.アイグン条約
ゴレスターン条約=1813 年,アゼルバイジャンのゴレスターン Golest´n(現,ギュリスターン)でロシアとカージャ
ール朝イランとの間に締結された条約。グリスターン Gulist´n 条約ともよばれる。ザカフカス地方の領有権をめ
ぐって両国は 1804 年から 8 年間にわたって断続的に戦争を続けていたが,
カージャール朝イランの敗北に終わった。
この結果,イランはアラス(アラクス)川以北のアゼルバイジャン地方をロシアに割譲し,グルジアに対する主権を放
棄した。また,カスピ海の航行権をロシアの船舶だけに認めることに同意した。
⑨
明末清初の学術に関する記述の下線部で誤りを含むものはどれか。
明朝ではa陽明学が官学とされたが,16 世紀頃から実学が盛んになった。このような動きのなかで明末清初期
ではb黄宗羲などが実証を重視するc考証学を発展させ,乾隆時代にはd銭大昕などのすぐれた学者が現れ,ま
た『春秋』解釈学の一つのe公羊学も盛んになった。
⑩
ヨーロッパから渡来した宣教師のうち,円明園の設計に参与した人物はだれか。
a.マテオ=リッチ
b.ブーヴェ
d.カスティリオーネ
e.レジス
【16】
設問1
c.フェルビースト
2004 年 上智大学 文学部(心理学科),経済学部(経営学科)
次の文章の空欄(1~16)に入れるのにもっとも適切な語を選択肢(a~d)から選びなさい。正解がない場
合はeをマークしなさい。
6世紀後半,アラビア半島西部の町(1a
メッカ)は,ビザンツ帝国と(2c
ササン朝ペルシア)の長年の抗争
による東西交通路の変化により,中継商業都市として栄えていた。(1)に生まれたムハンマドは,
610 年ごろ宗教的に覚醒し,厳格な一神教を唱えたが,多神教信仰が根強い(1)では受け入れられず,
(3b
(4e
622)年に少数の信者を連れて別の町に移住し,そこでムスリムの共同体を建設した。この移住を
ヒジュラ)といい,移住の年はイスラーム暦の紀元になっている。それから数年後,ムハンマドはムスリム
戦士を率いて(1)を征服した。その後アラブの諸部族はつぎつぎに彼の支配下に入り,彼が没するまでにアラブ人
はイスラーム教のもとに統一された。
ムハンマドの死後,ムスリムは共同体の指導者としてカリフを選出した。アラブ人はカリフの指導下に大規模な
征服を行った。(2)を(5d
ニハーヴァンド)の戦いで破ったのもこのころである。しかし急速に拡大した支配地
はさまざまな対立を呼び起こす。第4代カリフが暗殺されると,(6c
(7e
ムアーウィア)がダマスクスに
ウマイヤ)朝を開いた。(7)朝は,東はインド西部,西は北アフリカを征服し,イベリア半島に進出して
(8a
西ゴート)王国を滅ぼし,さらにヨーロッパ内部に進出したが,732 年にフランク王国と戦って敗れ,ピレ
ネー山脈の南に退いた。
(7)朝の政策はアラブ人の特権が顕著で,征服地の先住民は地租と(9b
ジズヤ)を払わねばならず,彼らはイ
スラーム教に改宗しても免除されなかった。このような(7)朝の政策に反発する人々は,ムハンマドの叔父の家系
による革命運動に協力し,750 年に(7)朝を倒し,(10b
(11a
マンスール)の時に新しい首都(12c
アッバース)朝が開かれた。(10)朝は,第2代カリフ
バグダード)を建設し,アラブ人の特権を徐々に廃止し,アラブ人か
被征服民かを問わず,ムスリムであれば徴税の点で平等に扱う原則を確立した。(10)朝の最盛期は8世紀末から9
世紀初頭にかけての第5代カリフの(13a
ハールーン=アッラシード)の時であった。
9世紀になると,帝国内の各地で,民族的自覚に目覚めた非アラブ人の独立王朝が成立し,(10)のカリフは宗教
的権威のみの地位に転落していった。また,すでに(10)朝建国の時に,(7)朝の一族はイベリア半島に逃れて,(1
4c
後ウマイヤ)朝を建てており,(10)朝と対抗していた。また,イスラーム少数派の
(15
e
シーア派)は 10 世紀にチュニジアで(
16b
ファーティマ)を建て,エジプト・シリアを征服し,カイロ
を首都にして,(10)朝の権威を否定した。こうして,10 世紀ごろには,(10)朝,(14)朝,(16)朝それぞれのカリフ
が並び立ち,イスラーム帝国の分裂は決定的となった。
1
a
メッカ
2
a
パルティア
3
a
618
b
622
c
627
d
630
4
a
ウンマ
b
ヒジャーズ
c
ジハード
d
シャリーア
5
a
タラス河畔
6
a
アブー=バクル
7
a
ファーティマ
b
アイユーブ
8
a
西ゴート
b
東ゴート
c
ヴァンダル
d
ロンバルド
9
a
ハラージュ
b
ジズヤ
c
アター
d
ジンミー
10
11a
a
12
13a
ウマイヤ
マンスール
a
b
b
メディナ
c
トゥール―ポワティエ
b
アリー
アッバース
b
ヤスリブ
セレウコス朝シリア
b
b
c
c
c
c
b
b
ニコポリス
d
c
スレイマン1世
d
d
ブワイフ
サファヴィー
d
バグダード
c
エフタル
ニハーヴァンド
ウマル
ウスマーン
c
d
d
アッバース
イスファハーン
ハールーン=アッラシード
c
サーマーン
カーバ
ササン朝ペルシア
ムアーウィア
アブー=アルアッバース
ペルセポリス
d
No.10
ニザーム=アルムルク
d
バスラ
トゥグリル=ベク
d
サラディン
14
a
ナスル
b
ブワイフ
c
後ウマイヤ
d
アッバース
15
a
マフディー
b
マワーリー
c
スーフィー
d
スンナ派
16
a
ムラービト
b
ファーティマ
【17】
c
ムワッヒド
d
アイユーブ
2004 年 青山学院大学
経済学部
次の文章を読んで,文中の空欄〔(a)~(m)〕に適切な語句を入れ,下線部分〔(1)~(11)〕について以下の設問
に答えよ。
ウマイヤ朝は,661 年,
(a) ムアーウィヤ
によって創始された。第五代カリフのアブド=アルマリクの治世
には,アラビア語の公用語化や(1)アラブ貨幣の発行が行われ,続くワリード1世の治世には,711 年にイベリア半
島の
(b)西ゴート
(c)ダマスクス
王国を滅亡させるなど,ウマイヤ朝の勢力は拡大し,その最盛期を迎える。首都
にウマイヤ・モスクが建造されたのもこの時期であった。
やがて,(2)非アラブ人や地方のアラブ人などの不満が高まると,それを背景としたウマイヤ朝打倒の運動がアッ
バース家によって組織化され,750 年,ウマイヤ朝は滅亡した。アッバース朝(3)初代カリフの兄で,754 年にその後
を継いだ
(d)マンスール
は,首都
いく。また,第五代カリフの
(e)バグダード
を建設する。(e)は,国際的な交易都市としても繁栄して
(f)ハールーン=アッラシード
や第七代のマームーンらの奨励によって,ギリシ
ア文献の収集・翻訳が進展するなど,(4)学問が大いに発展した。
9世紀以降,アッバース朝のカリフの権威はしだいに低下し,地方には(5)諸王朝が割拠するようになった。また,
869 年から 883 年まで続いた
(g)ザンジュ
〔黒人奴隷〕の乱もアッバース朝を弱体化させた。
イラク南部のサワード地方で起こった反乱。反乱軍の兵士の多くがザンジュ zanj と呼ばれた黒人奴隷であったた
め,一般にこう呼ばれる。サワード地方では,灌漑,排水,地表の塩分除去が農耕に不可欠で,その作業を奴隷に
させる大農場経営がササン朝時代から盛んであった。サワード=〈黒〉または〈黒い物体〉を意味するアラビア語。
都市近郊の農耕地帯のほか,とくに現在のイラク共和国南部の肥沃な沖積平野をサワードと呼んだ
そして,946 年,イラン系の
(h)ブワイフ
朝のアフマドは(e)に入り,カリフから実権を奪った。(h)朝の統治
は安定せず,混乱が続いたが,1055 年,トルコ系のセルジューク朝の
(i)トゥグリル=ベク
が(e)に入り,カ
リフからスルタンの称号を受けた。第二代スルタンのアルプ=アルスラーンは,1071 年,ビザンティン帝国との
(j)マンジケルト
の戦いに勝利し,小アジアのトルコ化への先鞭をつける。そして,第三代
(k)マリク=シャー
の時代にセルジューク朝は最盛期を迎えることになる。この繁栄を支えたのが,第二代・第三代スルタンに仕え
たイラン人の(6)宰相
(l)ニザーム=アル=ムルク
であった。彼は,諸都市に学校を建設するなど,(7)文化の発
展に貢献したことでも有名である。しかし,以降,セルジューク朝は一族の内紛などによって混乱し分裂していっ
た。
アッバース朝の衰退が顕著になっていた 10 世紀初めの 909 年,チュニジアではファーティマ朝が成立した。そ
して,第四代カリフのムイッズは,969 年にエジプトを征服すると,新都となるカイロを建設した。この都市の発
展に示されたようにファーティマ朝は繁栄するが,その後,11 世紀半ばの大飢饉などにより,弱体化していく。1
169 年,実権を握ったクルド人の(8)サラディンによってアイユーブ朝が成立するが,その死後,一族による分割支
配が行われた。(9)1250 年,エジプトでは,アイユーブ朝のスルタンが殺害され,トルコ系奴隷兵によるマムルーク
朝が成立する。1261 年には,第五代スルタン
(10)
(m)バイバルス
がカイロに
アッバース朝のカリフを復活させ,これにより政権の権威が高まった。そして,マムルーク朝は(11)紅海貿易など
によって繁栄した。
問
(1)
貨幣流通の進展を基礎として,現金での支払いが行われるようになる軍人・官僚の俸給を何と呼ぶか。
アター
(2)
非アラブ人のイスラーム教改宗者を何と呼ぶか。
マワーリー
(3)
(イ)
初代カリフ治世の 751 年に,唐軍に大勝した戦いを何と呼ぶか。タラス河畔の戦い
(ロ)
この時,西アジアに伝わった技術は何か。製紙法
(4)
アッバース朝時代の数学者・天文学者で,アラビア数学を確立したとされるのは誰か。
フワーリズミー
彼がインドから導入したもので,アラビア記数法やそれに基づく計算を意味する〈アルゴリズム〉という
語は,彼の名前が転訛したものである。彼の著作のうち最も有名なものは《代数学》で,これはアラビア
数学の嚆矢をなすばかりでなく,後のヨーロッパに初めて代数というものの存在を教えたものである
(5)
868 年,トルコ人がエジプトに樹立した王朝は何か。
トゥールーン朝
アフマド=ブン=トゥールーンの創始したエジプト・シリアにまたがる王朝。868‐905 年。アフマド・ブン・
トゥールーン(在位 868‐884)はトルコ系軍人で,868 年,アッバース朝によってエジプトに派遣されそこ
で実権を握り,アミールの称号を得,アッバース朝の宗主権は認めながらも事実上独立した王朝建設
(6)
彼がその整備・運用に腐心した,軍人に徴税権を与える制度を何とよぶか。
イクター制
カリフやスルタンから授与された分与地を意味するアラビア語。
(7)
ジャラーリー暦作成に参加したイラン系の数学者・天文学者・詩人は誰か。ウマル=ハイヤーム
(8)
サラディンと戦った第三回十字軍に参加したイギリス王は誰か。リチャード 1 世
(9)1250 年,エジプト・マンスーラの戦いにおいて捕虜となった,第六回十字軍を主導したフランス王は誰か。
ルイ 9 世
アイユーブ朝のスルタン,サーリフのマムルーク(奴隷軍人)となり,1250 年マンスーラの戦でルイ 9 世
を捕虜にしてから頭角を現した=バイバルス
(10)
チンギス=ハンの孫で 1258 年にアッバース朝を滅ぼしたのは誰か。 フラグ
(11)
紅海貿易においてマムルーク朝の保護の下に活躍した商人を何と呼ぶか。
カーリミー商人
紅海経由の香辛料貿易に活躍したイスラーム商人の呼称。カーリミー の語源であるカーリムの語は〈回船〉ある
いは〈船主グループ〉の意味とされる。 マムルーク朝スルタン,バルスバイの専売政策により打撃を受け,15 世
紀半ば以降は政商化した商人がこれにかわった