陶業史こぼれ話 番外編(632kb)

陶業史こぼれ話 番外編
『1955(昭和 30)年頃の名古屋陶磁器会館と日本陶磁器輸出組合』
近藤 進
日本陶磁器産業振興協会 参与
㈶名古屋陶磁器会館 評議員
(元 日本陶磁器輸出組合・専務理事)
㈶名古屋陶磁器会館で育てられた陶磁器輸出業界団体の歴史につきましては、既に別稿
でお伝えしたところでありますが、その業界団体の中の日本陶磁器輸出組合に、私は大学
を卒業して直ぐ、1955(昭和 30)年に就職しましたので、その頃の㈶名古屋陶磁器会館
及び日本陶磁器輸出組合の様子を思い起こしてみたいと思います。
1. 名古屋陶磁器会館の中のようす、ポッタリークラブのことなど
その当時の会館の主要部分である 1・2 階の占拠面積から比較
すると、一番大きかったのはポッタリークラブで 2 階の大半を占め
ていました。1 階は東側の最も大きい部屋は「日本陶磁器輸出組
合」、西側の道路に面した部屋は「名古屋輸出陶磁器協同組合」、
輸出組合の西隣の小部屋は「~自家用車協会」といったような名
称の団体が使用していました。その他、3 階は輸出組合理事長・
永井精一郎氏が社長のジャパントレーディング㈱、2 階に大研化
学工業㈱名古屋出張所が入居していました。
ポッタリークラブは 1950(昭和 25)年に設立され、一時期は会
館の代名詞のような存在でした。2 階の階段を上がったところのド
アの上部に現在も「POTTERY-CLUB」の表示を見ることが出来
「POTTERY-CLUB」
現在も表示が残る
ます。ポッタリークラブのこのドアを入った突き当たりは、正面に議長席のある会議場で輸出組合の
大人数の会議は、しばしばここで開かれました。正面に向かって左(道路側)にはカウンターがあり、
ここで軽食をとることもあり、また、就業時間後にはカウンター席に腰掛けて、その頃流行った「ハイ
ボール」(当時ウィスキーを水割りで飲む人は少なかった)を飲みながら歓談する機会もありました。
...
食材を 1 階からカウンター内に運び入れるための狭いらせん階段が今も残されています。ポッタリー
クラブは食堂や会議場の運営のほか、親睦団体として運動会などを開催したこともあったようです。
クラブのマネージャーは小林昭一氏で、他に女性 1 名が勤めていました。後年ポッタリークラブ閉鎖
(1967年)後は、小林氏は船会社経営のゴルフ場のマネージャーに就職されました。
ポッタリークラブの傘下には、「ジュニア・ポッタリークラブ」、「ポッタリーゴルフクラブ」、「ポッタリー
囲碁の会」等がありました。「ジュニア・ポッタリークラブ」の会長は佐地貿易㈱社長の佐地康治氏
(現会館理事長・佐地秀明氏の父親)で、同氏の東京商大(現一橋大)の恩師中山伊知郎教授を招
いて講演会を開いたり、パーティーに中日ドラゴンスの監督を呼ぶなど人目を引く活動をされていま
した。「ポッタリーゴルフクラブ」(会長永井精一郎)は 1954(昭和 29)年に、陶磁器関係業者のほか
銀行支店長や船会社・通関業者の社長/支店長等が参加して始められました。最初のころは月に 3
回開催した時もありました。運営事務はポッタリークラブが行なっていましたが、専属従業員がいなく
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なった後は輸出組合に移され、更に日本陶磁器産業振興協会に引き継がれて、2009(平成 21)年
12 月第 779 回例会をもって解散しています。「ポッタリー囲碁の会」(会長は山口陶器㈱社長・山口
長男氏)には私も下手ながら 9 級で参加しました。東桜にあった三菱銀行の支店の支店長が好敵手
でした。会館 2 階の西南の部屋を使用しており、そこには通常の囲碁道場のように、段位を記した
名札が掛けられていました。段位は、昔は厳しかったのか、最高位は確か山口社長の二段であった
ように思います。
2.
設立間もない日本陶磁器輸出組合
輸出組合の設立総会は、1952(昭和 27)10 月 3 日、通商産業省の認可が下りたのは
同年 12 月 4 日です。従って私の就職のころは、設立後 3 年と数ヵ月を経ているに過ぎ
ず、事務局には新たな仕事にチャレンジしようとする気概にあふれていました。2 年先
輩の三村義朗氏(当時は加藤姓、後に専務理事)や犬飼康夫氏(後に理事、関東支部事
務所長)と、飲み屋や喫茶店で、陶磁器業界の将来や事務局のなすべきこと等について
しばしば議論したものです。また、道家静夫専務理事は、新入職員に勉強して貰いたい
と『海を行く陶磁器』という小冊子を出版されました。1955(昭和 30)年々末頃の本部
事務局で、私より年上の人をみると、
道家静夫専務理事:
日本陶器㈱(現㈱ノリタケカンパニーリミテド)出身。早稲
田文学部卒で、
『海を行く陶磁器』を書き、退職後も旅行記を書くなど、文章を書
くことがお好きなようでした。
水野 鋿事務局次長(後に専務理事):
名古屋商工会議所出身。東大独法科卒で、
仕事も非常に厳格。NHK ラジオの脚本として、
「赤い花をかくせ」という題の推
理ドラマを書き、放送されたことがあります。
杉浦勝利課長(業務・海上運賃関係担当)森村商事出身。彦根経専卒。渋いのどで、
宴会の時に芸者・仲居さんが感嘆するほど。
(長男の芳樹氏は東大法学部からトッ
プクラスの成績で国家公務員試験、外交官試験に合格し、後にルーマニア大使に。)
山口孫三郎氏(経理責任者):
名古屋商工会議所出身。早稲田政経学部卒。非常に
達筆の人で、仕事上にも活用されました。
加藤[三村]義朗氏(業務):
1953(昭和 28)年 3 月就職。名大経済学部卒、小
生と同じゼミナールの先輩。
犬飼康夫氏(庶務):
1953(昭和 28)年 4 月就職。明治大商学部卒。
と、多士済々でした。残念ながら全員が他界されています。
このほかに、小生以下若い人が 10 人いました。1955 年の求人先は、大学は名大の経済学部と
法学部、高校は旭丘高校と明和高校のみであり、それでも海外、輸出業務にあこがれる当時の風
潮からか、多くの応募者(大卒は 8 人)がありました。採用者は、大卒、高卒各 1 名と、他に縁故受験
者の短大卒業者が 1 名でした。(なお、ほかに東京と神戸に支部、大阪と京都に駐在員事務所があ
り、7 人の職員がいました。)
前記の移籍者 4 人の年齢はすべて 40 代後半より上で、新卒の若手とは 20 歳以上開きがありま
した。中堅がいない事務局で、若手にも活躍の場、苦労の場が与えられたのは幸いでした。
その頃、会議が多く、また、各種輸出協定の確認・承認の申請・交付、原産地証明、価格証明の
発行等のため、事務室は常に来訪者で混んでおり、また夜遅くまで仕事をしていました。
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1955(昭和 30)年年末頃の本部事務局の場所は、名古屋陶磁器会館の 1 階東側、現在の第 1 展
示室のところでした。当時の室内の様子を思い出すまま書いてみます。
本棚
つい立
道家専務理事
和文タイピスト
本
、
棚
大見さん
カウンター
野村さん
冬はダルマ型ストーブ
(燃料::コークス)
柱
本
棚
柱
道
路
竹村さん
山賀さん
近藤
犬飼氏
郡谷さん
板倉さん
(三村)
水野事務局次長
:庶務
3.
吉田氏
加藤氏
山口氏
岡田氏
北米向けライセンス事務
恒松氏
:経理
杉浦課長
:業務
北
名古屋陶磁器会館の周辺
会館の周辺には、陶磁器関係の専門商社、製造業者が多数あり、仕事上徒歩あるいは自転車で
しばしば訪問したものです。(事業関係の仕事で訪ねた他、その頃賦課金は訪問集金していました
ので、経理の山口さんに頼まれて各社を回りました。瀬戸・美濃に集金旅行に行ったこともありま
す。)会館や赤塚の周辺で覚えている輸出組合員を列挙すると、中央貿易、佐々ブラザース、日本
物産、丸栄蜂谷商会、・(ヤマスボシ)鈴木商店、加藤兵三商店、名古屋物産、中部陶器、佐地貿易、
大商・出張所、エンパイアー商事・出張所、曽根磁叟園製陶所、伊藤幹三商店、春日、尾張屋貿易、
熊谷商店、日本窯工貿易、斎藤商店、UCGC ジャパン、名古屋貿易商会、茂木商事・支店など、ま
だ他にも数多くあったと思いますが、現在日本陶磁器産業振興協会の会員は、伊藤幹三商店と日
本窯工貿易(現 YO-KO㈱)の 2 社のみです。
その他、会館の周辺を歩いてみて、私にとってはこの上なく懐かしいことであるものの、現在では
知る人が少なくなったことを、次に 2、3 お伝えしたいと思います。
近くに、業界の人々や輸出組合、日陶連がよく利用した施設に「トキワホテル」(ホテル史ではホテ
ルトキワとなっているが、輸出組合等の業界の記録ではトキワホテル)がありました。「トキワホテル」は
戦後米国からバイヤーが来るようになった頃、適当な宿泊施設がなくては困るため、貿易庁が各地
に直営ホテルをつくりましたが、その一つが「トキワホテル」であり、1947(昭和 22)年 8 月に松坂屋の
寮があったところ(日本陶磁器センターの北方)につくられました。その後、1950(昭和 25)年に名古
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屋観光ホテルの経営に移され、1956(昭和 31)年11月に閉鎖されました(その跡地に松坂屋資本
の「常盤女学院」が設立されたが、2007 年に閉鎖、現在は更地)が、その間、「トキワホテル」はバイ
ヤーの宿泊はもちろんのこと、輸出組合総会、英国陶業界やその他外国人との懇談会、窯業建材
品輸出会議陶磁器部会(本省の軽工業局長以下が出席)等が開かれた重要な施設でした。
名古屋陶磁器会館出版の「名古屋陶業の百年」の中の、渡辺今子さん記「菊本旅館と茶碗屋さ
ん」に記載されていますが、今子さんのお母さんの波奈さんは名妓連の組合長もやられた方で、語
尾が「・・・エモ」で終わる美しい名古屋弁は印象的でした。
飯野逸平氏、永井精一郎氏は戦前から知りあいであったよ
うであり、戦後も両氏の会社であるジャパントレーディングや
日本窯工貿易はもとより、斎藤商店、瀬栄陶器、山口陶器
なども「菊本」を利用されていたようです。輸出組合の職員
も「菊本」で忘年会やお客の接待をして、波奈さんの三味
線を聞いたり、仕事で遅くなって泊まったり、麻雀をしたりと
色々利用したものです。その「菊本」はどうなっているのか
分かりませんが、門が残っていましたので写してきました。
場所は会館のすぐ東の小路を 5~60m北へ行ったところで
す。なお、日本陶磁器センターの隣の太洋商工ビル 1 階の
「菊本」の門(現在)
「レインボー」は輸出組合が日本陶磁器センターに移転し
た頃に、今子さんの妹の茂子さんが開業された店です(現
在は引退)。
昔の業界のおえら方をよく知っている女性が今も健在で
す。赤塚の交差点の近くにある、創業 140 年のうなぎ屋「万
松」の小島巴さん(82 歳)は 1949(昭和 24)年に嫁入りし、
それ以来、店に出ているとのことです。お聞きしたところ、業
界の法王と言われた水野保一氏(瀬栄陶器㈱社長)をはじ
め、前述の各社の社長や幹部の皆さんのことをよく記憶さ
れています。ポッタリークラブ、日陶連、「菊本」等にもよく出
うなぎ屋「万松」(現在)
前をした由。丸栄蜂谷商会の福井喜蔵社長から、お亡くなりになる少し前に、万松のうなぎが食べた
いと注文があり、自宅に出前したとのこと。松風陶器の坂井美静社長も「死ぬ前にもう一度食べたか
ったから・・・」と、病院から抜け出てきたことがあるそうです。
会館の真ん前には大島さんという荷造りのベテランが住まわれており、門口に「・・・
荷造業者組合」といった看板が掲げられていました。まだ、木箱で藁や木毛(もくめん)
が使われていた時代でした。会館の前の道も、かつて斜向かいにあった中央貿易の地所を
包含する大きな駐車場が広がり、当時の面影はありません。西側の大通りも、昭和 30 年
頃には現在の幅広い 19 号線はなく、南は布池に、北は赤塚から山口町-大曽根に通じる
路面電車(市電)が通る狭い道でした。私も毎日通勤で、名古屋駅―菊井町―東片端―清
水口―赤塚の路線を往復していました。現在、大通りは会館周辺の小路よりも更に変化が
激しく、往時の情景は見る影もありません。
17
(了)
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