第146回 日本語教師七転八倒物語 :甲斐切 清子

第 148 回
劇団 en 塾
甲斐切 清子 (かいきり すがこ)
2016
November-Desember
このブリタジャカルタが皆様のお手元に届くころ、私の髪は逆立っていることだろう。眉間にしわが少なくとも 10 本以上は入ってい
るはずだ。前回最後に少し触れた劇団 en 塾の 2016 年本公演が 12 月 17 日、18 日と、あとわずかとなり、かなりのパニック状態
になっていることが予想される。
私は相当なパニック屋である。問題が起ころうものなら半径1メートル内をぐるぐる回りながら「どうする? どうしよう?」と悩む。そ
してその解決のために、考え込んでいるとき、団員が「せんせ~、ちょっといいですか?」と近づこうものなら、般若の眼差しで「あと
で!」。本番中に誰かに声をかけられようものなら、「すみません、今はちょっと」と無礼にも手で制止する。なんと余裕のない、失礼
千万なやつであろうか。もっと余裕のある人間にならなければ、みなさまからの信頼をいただけないと反省する毎日である。
そんなパニック屋の私を昨年の本公演の日に大きなアクシデントが襲った。アクシデントというより悪夢といった方がふさわしいかも
しれない。前回に引き続き 1 年前のネタで申し訳ないが、これも昨年書きたいと思いつつ書けずにいたものである。今年の本公演
本番を前に自らを見つめ直すためにも書くチャンスをいただきたい。
en 塾の本公演は毎年 2 日間だが、劇場入りをしているのは 3 日間だ。1 日目は舞台や音響・照明の仕込みのために公演日
と同じように en 塾の団員たちはみんな揃って仕事をしている。
1 日目が最も忙しいのは舞台美術部である。たとえば縦 4 メートル×横 8 メートルものべニアの背景図はばらして運ぶので、劇
場に着いたら改めて組み立てなければならない。それをバトン(舞台の天井付近にある、物を吊るための棒)に頑丈な針金で吊る
していくのも彼らの仕事だ。また、本番中に大道具小道具を置く位置に印をつけていく作業も簡単ではない。客席から最もいいバ
ランスで見えることを考えながら決めていくからだ。小道具などの色合いが悪く、当日塗り直すこともある。当然、塗料や刷毛なども
必ず持っていく。照明のスポットライトも担当するので、そのタイミングを照明チームと打ち合わせをする。幕を上げたり下げたりするの
も基本的に en 塾が行なう。本番までに充分に慣れておかなければならない。そして黒子の動き。本番の会場で練習ができる唯一
のチャンスだ。これらの仕事を今年は 15 人の舞台美術部の団員たちが担う。
衣装部の 1 日目の最初の仕事は、楽屋を整えることである。en 塾の本番は、設立以来変わらずジャカルタ芸術劇場(Gedung
Kesenian Jakarta=GKJ)で行なっている。GKJ には楽屋が 1 階と 2 階にそれぞれ1部屋ずつある。その 2 部屋に、決められた役
者たちの衣装・かつら・化粧品を、効率よく動けるようにセッティングしていく。とても大切な作業だ。それが終わるとひたすらアイロンが
けと最終チェック。今年の衣装部は 10 人で本番に臨む。
演技部は、舞台美術部の邪魔にならない限り、舞台と向き合う。まずは立ち位置の確認。役者たちがそれぞれの台詞を言うと
きの位置、多勢で踊るときの位置、ソロを歌うときの位置、幕が下りてくる位置、それから、演技が終わって下がっていく方向、踏み
込んではいけない方向などなど。確認しながらテープや蛍光シールで印もつけていく。軽く 2~3 時間はかかる根気のいる作業だ。
そして音合わせ。ピンマイクの状態、フットマイクの集音状況、音楽と歌とのバランス…。音響はプロの方にお願いしているが、こち
らがアマチュアなのでさぞかし迷惑をかけていることだろう。
それらの準備がひとしきり終わったら、演技部は受付やロビーのブースなどの準備に取り掛かる。みなさんにお渡しするパンフレット
は中にいくつものカタログやフライヤーが挟まっているが、それも演技部の団員たちが人海戦術で 1 日目に準備するものだ。いろいろ
な貼り紙やポスターもみんなで貼っていく。今年、舞台を駆け巡る演技部は総勢 45 名である。
そんな en 塾の、昨年 2015 年の本公演前日、みんなが午前の日と仕事を終えて昼ご飯をとっていたときのことである。
―いよいよ 1 年前、私を襲った悪夢のお話です。スミマセン、前置きが長くて…。
舞台の準備、どのぐらい進んでる? とか、喉の調子、どう? とか、今回のお弁当、おいしいよね! とか話していたと思う。
忘れもしない、舞台裏に置いてある黒の長椅子。そこに私は 2~3 人の団員と座っていた。初日のお昼だからみんなまだまだ元
気、余裕もある。笑い声もさわやかだった。団員たちの会話に私も交じっていた。
そして、「うん、おいしいね、このお弁当。来年もこれにしようよ」とかなんとか、口をもぐもぐさせながら言ったときである。突然口の
中にゴロッとした感覚が起きた。「ゴロッ?」。私はその瞬間、みんなのさざめく場面から一人取り残されたようにフリーズした。そして自
分に問うた。「ゴロッてなによ、ゴロッて」。何かを口に含めた感覚に似ているが、その何かが思い出せない。だいたい今現在、私の口
の中を占めているのは、白米と焼き肉のはずである。「ゴロッ」という擬態語の物体は存在しないはずである。錯覚かもしれないと思
い、おそるおそるもう一度あごを動かした。ゴロッゴロッ。そしてほんの一瞬私は思い巡り、はたとある可能性に気づき、愕然とした。そ
れと同時に、「どうかこのおそろしい予感が的中しませんように…」と祈った。だが祈りながら、その予想は 99 パーセント的中するだろ
うということもほぼ確信していた。
私は即座に口元を両手で押さえ、洗面室に走った。そして鏡の前に直立した。そしてにっと笑ってみた。思った通りだった。正面
の差し歯がなくなっていた。*%$#“)!~=>?<+*?**#‘&%~~~!!!!!
そう、ゴロッの正体は今から 20 年も昔に入れた差し歯であったのだ! 冷静に考えてみれば、よくもっていてくれたと思う。20 年で
ある。まあ、ここまで頑張ってくれたんだから、そろそろ寿命だったんだよね、ありがとう…としみじみ感謝している場合ではない!
今日は年に一度の本公演、365 日の中の大切な大切な 3 日間のうちの初日なのだ! なんで、どうしてこんな日に限って…と
嘆きながらも、ああ、この例文はきっと「~に限って」を教えるときにぴったりだなぁ…とか思ったりする日本語教師なのであった。
「先生、大丈夫ですか、気持ちが悪いですか」
気がつくと背後に団員が心配そうな表情で立っていた。こう尋ねるということは、口元を押えて洗面室に向かった私を見て、嘔吐
しているとでも思ったのだろう。「ひえひえ、はいほうふ(いえいえ、だいじょうぶ)」とは答えたが、ちっとも大丈夫ではない。痛くはないが、
こんなにみっともない顔は見せられない。われに返ってすぐにクリニックに電話した。
「差し歯がとれちゃいました! 今すぐどうにかしてもらえますか!! 今日はとても大切な日なので絶対今日治らないといけない
んです!!! 3 日間くっついているだけでもいいんですぅぅぅーーーーー!!!!!」
私の主張にお医者様は淡々と、とにかく来てくださいの一言。この大切な初日に外出してしまうのは我ながら許しがたいことであっ
たが、歯抜けばあさんのまま公演日を迎えるのは耐え難い。運よくマスクを持参していたのでそれをかけて「ごめんね、先生ちょっと出
かけてきます」とみんなに伝えて劇場を出た。さぞかしみんな、「先生、風邪だったんだね~」なんて感じで心配してくれていたと思う。
お医者様はさすがプロ。「3 日間しかもたいないような仕事はしませんよ。これから 5 年、10 年も大丈夫なようにしっかりくっつけま
すから安心してください」とおっしゃった。そして治療台に座って、わずか 20~30 分で私の歯は元通りになった。
お医者様に、「1 時間ぐらいは何も食べないでください」と言われたが、本公演を無事終えることができるなら、3 日間絶食しても
かまいません!!! というぐらい私はそのお医者様を信奉し、そして感謝した。
今回は不幸中の幸いで、件の悪夢に見舞われたのは初日だった。これが 2 日目もしくは 3 日目の本公演当日だったら、私はい
つものパニックパワー全開でどうなっていたことか。想像するだけでぞっとする。
【後日談】しばらくして喉を痛めたとき、トローチを口を入れた途端、あのときのゴロッという感覚がよみがえった。そう、「何かを口に
含めた感覚に似ている」と思ったのはトローチだったのだ。今後トローチをなめるたびに私はこの悪夢を思い出すことだろう。
あれから 1 年。早いものだ。今年の本公演まであと 1 か月となった今は、ひたすら練
習と準備の日々である。
そういえば、7&8 月号で en 塾の学生たちのお話しをしたのを覚えていらっしゃるだろ
うか。実はあの中の何人かはすでに姿を消してしまった。
スリッパ王子は「居場所が見つからない」という名言を残して去り、元芸能人の女子
大生は希望した役を取れなかったことが原因か、本人がやめると言っていると、母親か
ら残念そうに連絡があった。てぇしたことねぇなの兄ちゃんは演技力は抜群だったが、チー
ムワークが取れず、無断欠席も多く、本公演まで 1 か月半にしてついに役を降ろされ
た。勢い、パニック屋の私は、今公演のカギとなるお城のじいや役は誰が演じるのだ~
~!! と大騒ぎをしたが、一昨年卒団した元副団長が快く引き受けてくれた。彼の
頑張りは、団員たちのやる気をがっちり引き上げてくれている。これも en 塾ならではのウ
ルトラ技だ。
今年 4 月、112 名でスタートした en 塾は、11 月 15 日現在 70 名。7 ヵ月で 42 名
が退団した計算になる。でも私は残った 70 名をほめたい。規律が多くて、練習も厳しく
て、大きな責任も負わねばならないこの en 塾に、よくぞ本公演までついてきてくれた。
さあ、今年も彼らと本番の忙しさと緊張感を思い切り満喫しよう。
―つづく
*劇団 en 塾 2016 年本公演「殿様の宴」のチケットは完売しております。
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