分子標的癌予防医学 - 京都府立医科大学

医学フォーラム
31
<部 門 紹 介>
分子標的癌予防医学
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教室の歴史と特色
当教室は公衆衛生学教室として昭和 48年に
発足し,消化器内科出身の初代教授川井啓市の
もと,種々の予防医学研究を,基礎・臨床・社
会医学的視点から広汎に展開してきた.平成 8
年に酒井敏行が教授に就任してからは,多くの
企業の協力も得て発癌の基幹分子を標的とした
独創的かつ先端的な癌の予防法,診断法, 治療
法の開発に取り組み,本学の大学院重点化に伴
い「分子標的癌予防医学」
(学部名:保健・予防
医学教室予防医学部門)と改名して現在に至っ
ている.
この「分子標的癌予防医学」という名前の由
来は,酒井が「分子標的予防」という新しい概
念を提唱したことに始まる.この考え方は,予
防医学研究の方法としては主に疫学的手法が中
心であった時代に,その有用性は十分認めなが
らも,原因と結果の間がブラックボックスで
あったことに着目し,疾病の原因分子を標的と
した予防医学の必要性を主張したことがきっか
けであった.例えば,最近であれば,アンジェ
リーナ・ジョリー氏の乳癌の発癌感受性診断(体
質診断)に対する予防的切除が話題となってい
るが,この「分子標的予防」の研究が進めば,
切除までしなくとも「分子標的予防薬」の摂取
により,発癌を防ぐことも可能になりうる.教
室ではこのような研究を精力的に展開してきた
が,この「分子標的予防」という考え方は,今
では日本衛生学会などでも受け入れられ,本学
発の新学問領域として広く認められている.
前述のように,川井は本学消化器内科(旧第
三内科)の出身であったため,発足当時は消化
器内科医を中心とした臨床医が数多く集まり,
臨床予防疫学系研究を軸に教室がスタートし
た.また,京都及び近隣の病院において臨床医
として活躍しつつ,教室との共同研究により,
国際的にも通用する数々の研究成果をあげてき
た.その代表的な仕事として,京都第二赤十字
病院院長を長く務めた中島正継らが世界で初め
て開発に成功した「内視鏡的乳頭(括約筋)切
開術(e
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pa
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,EST)
」
などがある.
一方,川井の興味は消化器系疾患だけでな
く,衛生行政,癌,循環器疾患等々とどまると
ころを知らず,教室員を困惑させることもしば
しばであった.しかしながら,そのようないわ
ば「何をやっても良い(かも知れない)
」雰囲気
に共感して入ってきた多くの若者の中に現教授
の酒井敏行だけでなく,現本学保健・予防医学
教室公衆保健科学部門教授の渡邊能行,神戸大
学内科学講座消化器内科学分野教授の東健,徳
島大学ストレス制御医学教授の六反一仁,京都
府立大学副学長の東あかね他,多種多様な人材
が数多く集まり,
「まるで梁山泊みたい」といわ
れる程の活況を呈した.
酒井が教授に就任してからは,主要研究テー
マは癌に絞り,前記のように癌に関する分子標
的予防に関する研究を始め,大学院の名称も現
在の「分子標的癌予防医学」にした.教室の研
究テーマとしての標的分子は,殆どの悪性腫瘍
において最終的に癌抑制遺伝子 RBが失活する
ことから, RBを選択した.RBは予防だけで
なく,診断や治療においても重要であることか
ら,RBを中心とする癌の予防医学,診断学,治
療学全般に関して,いずれも国内有数企業と多
くの産学連携研究を行ってきた.
このような多彩な研究を成就させるには,医
学部の卒業者だけでは困難であるために,理学
部,農学部他の出身者も数多く参加し,これら
医学フォーラム
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の研究を協力しながら行ってきた.一般的に異
分野の研究者が集まるとまとまりを欠くことが
懸念されるが,実際は異分野の研究者が集まっ
たからこそ,独創性の高い仕事にチャレンジで
きた面を忘れてはならない.
研 究 内 容
1.
「RB再活性化スクリーニング」による新規
MEK阻害剤 t
r
amet
i
ni
bの発見
害日本発の癌分子標的薬として初めて米国
FDAに 承 認 さ れ, Dr
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Yearに選ばれるまで害
近年の当教室における最大の業績は t
r
a
me
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i
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b
(商品名 Me
ki
ni
s
t
)が我が国発の癌分子標
的薬として初めて FDAに昨年承認されたこと
であろう.t
r
a
me
t
i
ni
bは 1990年代に酒井敏行が
考案した「RB再活性化スクリーニング(p15誘
導物質スクリーニング)
」を用いて,J
T医薬総合
研究所と共同で見出した新規 MEK阻害剤であ
る.この t
r
a
me
t
i
ni
bは,BRAF変異進行性メラ
ノーマの患者を対象に,2013年 5月に米国にて
承認され,BRAF阻害剤を併用すれば奏効率
76%(完全奏効率 9%)を示すことが TheNe
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d
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neに 報 告 さ れ た(N
Eng
lJMe
d2012;
367:
1694703
)
.メラノーマは
欧米では極めて頻度の高い癌でありながら,こ
れまでの化学療法では奏効率がわずか 5%程度
の極めて難治性の癌であったことを考えれば,
t
r
a
me
t
i
ni
bの奏効率は驚異的であり,2013年年
頭の Na
t
ur
eでは「今年注目すべきトピックス」
の中において,癌領域では唯一,t
r
a
me
t
i
ni
bが初
めての MEK阻害剤として認可されるかも知れ
ないという内容で紹介されたことや,最近
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bを
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e
a
rに選んだことから
も,国際的にも大きく注目されていることが改
めて実感される.
話は前後するが,t
r
a
me
t
i
ni
bの発見をもたら
した「RB再活性化スクリーニング」のコンセプ
トに至る前に,酒井は先ず RBを最初の癌抑制
遺伝子としてクローニングしたことで知られる
ハーバード大学の Tha
d
d
e
usP.
Dr
y
j
aの研究室
に留学した.今でこそ常識的な概念であるが,
RB遺伝子に質的異常,即ち,エキソンの変異が
なくとも,プロモーター領域の突然変異や過剰
メチル化によりプロモーター活性が低下し,RB
タンパク質の発現量が減少するだけで発癌に至
ることを見いだした(Na
t
ur
e1991;
353:
83-6,Am
JHumGe
ne
t1991;48:880-8,Onc
o
g
e
ne1993;
8:
1063-7
)
.これらの中で過剰メチル化によ
る RBプロモーターの失活の論文は京都府立医
科大学に帰ってから独自に行ったものであるた
医学フォーラム
め,癌抑制遺伝子の過剰メチル化による失活に
起因する発癌の証明は日本発であるとされてい
る.これらの結果から RBを始めとした癌抑制
関連遺伝子の量的減少を低分子化合物を用いて
代償することで,癌の治療や予防が可能ではな
いかと考え,それらの戦略を癌の「遺伝子調節
化学予防」
,あるいは癌の「遺伝子調節化学療
法」と名付けた.実際,メラノーマにおいて失
活している代表的な癌抑制遺伝子 p16の機能を
代償すべく,そのファミリーである p15の発現
を増強させる物質を c
e
l
lb
a
s
e
dの系でスクリー
ニングを行い得られた化合物が他ならぬ前述の
t
r
a
me
t
i
ni
bであったわけである.さらに、次な
る RBタンパク質を再活性化させる分子として
p21と p27を選択し,それらの発現を増強する
薬剤のスクリーニングを山之内製薬(現アステ
ラス製薬)と中外製薬とそれぞれ行ったところ,
前者により新規 HDAC阻害剤 YM753を同定し
(オンコリスバイオファーマに導出後,前臨床
試 験 中)
,後 者 に よ り 新 規 RAF/
MEK阻 害 剤
CH5126766
(第 1相臨床試験中)の発見に至っ
た(Ca
nc
e
rRe
s2013;
73:
405060
)
.これらのこ
とから,t
r
a
me
t
i
ni
bの発見が単なる偶然ではな
く,
「RB再活性化スクリーニング」が,癌の分
子標的薬の創製において極めて理想的かつ合理
的なスクリーニング系であることが示された.
話はまだまだ尽きないが,詳細は他の総説
(腫瘍内科 2013:
11;
591-7,科学評論社など)
を参考にしていただくこととして,ここでは日
本の産学連携でも工夫をすれば十分に国際的に
注目されうる創薬が可能であることを特に強調
しておきたい.
2.
「C2Pブレスト」の開発害乳癌などのテー
ラーメイド医療の実現に向けて
次に RBタンパク質の機能に着目した癌の分
子診断機器の開発について紹介したい.現在,
実用化されている癌の診断の多くは形態学的診
断である.この診断法が果たしてきたところは
大きいが,鑑別診断においても万全でなく,予
後診断,薬剤感受性においては大きな限界があ
る.そこで私達は,RBタンパク質の機能(細胞
増殖抑制能)が失活することがヒト発癌機構に
33
おいて最も普遍的かつ重要な要因であるという
大前提に立ち返り, RBタンパク質をリン酸化
して,その機能を失活させるサイクリン依存性
キナーゼ(CDK)の活性を直接測定することが
癌の分子診断において最も本質的であると考え
た.幸いシスメックス社という進取の気性に富
み,かつ優秀な企業の努力のおかげで,数 mm
角程度の微量の生検材料からほぼ全自動で,し
かも RIを使用しない CDK活性測定装置の開発
に成功した.開発当初はこのプロトタイプを用
いて,本学山岸久一前学長らの協力を得て,大
腸癌,胃癌,食道癌において癌部と隣接する正
常粘膜組織を用いて比較を行ったところ,約 8
割の症例の癌部において癌抑制遺伝子 RBタン
パク質を失活させる CDK2活性が高いという
結果が得られ,予想通り,CDK活性を測定する
ことでヒトにおいて癌部と正常部が区別可能
であることを証明した(Bi
o
c
hi
m Bi
o
phy
sAc
t
a
2005;
1741:
22633
)
.さらに最近では,この装
置を用いることにより得られる CDKプロファ
イルデータを基に抗癌剤の感受性予測や予後予
測に関する研究が我が国や米国 M.
D.And
e
r
s
o
n
Ca
nc
e
rCe
nt
e
rで実施されている.例えば,大
阪大学乳腺・内分泌外科の野口眞三郎らの研究
グループは,乳癌患者の予後予測因子として,
この診断器械を用いた臨床検体に対する測定の
結果,予後不良の患者群では CDK2の比活性が
上昇していて,CDK2の比活性の測定が乳癌患
者の予後予測因子として,統計的にも有用であ
ることを報告している(AnnOnc
o
l2008;
19:
6872
)
.
また M.
D.And
e
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s
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e
rの上野直
人らは,抗癌剤 pa
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l
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e
l
の感受性には,CDK1
活性,CDK2活性が関与していることを明らか
にし(Mo
lCa
nc
e
rThe
r2005;
4:
103946
)
,さら
に癌分子標的薬 e
r
l
o
t
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b
(EGFR阻害剤)の感
受性には CDK2活性が関与していることを明ら
かにしている(Mo
lCa
nc
e
rThe
r2007;
6:
216877
)
.特に早期乳癌の再発予測に関しては大規
模スタディでも立証され,2012年よりついに早
期乳癌に対する CDK1および CDK2の発現量
および活性を測定する研究用アッセイサービス
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医学フォーラム
「C2Pブレスト
(C2Pは c
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l
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l
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ngの略)
」
が始まることとなった.本学でも,泌尿器外科
学教室の三木恒治,本郷文弥らが,腎癌でも同
様の臨床研究を行い極めて有望な結果を得てい
る.
これにとどまることなく現在,当教室では,
他の抗癌剤・分子標的薬の感受性予測の研究を
精力的に行っており,このテクノロジーは「癌
における RBの失活程度を計るものさし」とし
て,癌の征圧を目指す強力な診断システムに進
化していくことが期待される.
3.
「究極の癌予防ジュース」プロジェクト
さて RB活性に着目した治療戦略,診断技術
の次は,当教室の名称の由来通り,
「癌の分子標
的予防法の開発」についてふれたい.現在,教
室の増田光治を中心に,某大手食品企業と共同
で,
「究極の癌予防ジュース」の開発を精力的に
行っている.夢のような,あるいは荒唐無稽な
話のように聞こえるかもしれないが,i
nv
i
t
r
oで
の「RB再活性化を促す天然食品成分」のスク
リーニングから,発癌モデルを用いたマウス実
験を経て,ヒトを対象とした予防介入研究の実
施までを具体的に計画している.プロジェクト
遂行に必要なノウハウ,設備,人材は全て揃っ
ており,計画は極めて順調に進行中である.た
だし企業との契約上の守秘義務があり,具体的
な内容については紹介できないのは残念である
が,私達は,そう遠くない将来,毎日おいしい
ジュースを飲みながら,癌を予防する時代が来
ることを真剣に目指して,誠実に研究に取り組
んでいる.
4.
ベーシックサイエンスの研究も充実
これまで企業との産学連携を中心に,RBを
軸に据えた,癌の治療・診断・予防研究の概要
について述べてきた.産学連携プロジェクトと
いうと,時として華々しい世界のようにみられ
るが,私達の経験からしても,地道なベーシッ
クサイエンスの探求心なしでは,このような応
用研究が花開くことはないものと考えている.
実際,当教室でも常に「癌とは何か」という原
点に立ち返り,発癌メカニズムや分子薬理作用
の解明研究も精力的に行っている.研究室の中
はスタッフをサブリーダーとした小グループに
分かれており,例えば,堀中真野の率いる研究
グループは,抗腫瘍性サイトカイン TRAI
Lの誘
導メカニズムの解明に取り組んでいる.このグ
ループは,ルイ・パストゥール医学研究セン
ターにおいて,京都の伝統的漬物であるすぐき
漬けから単離・同定された乳酸菌株 が,ヒト末
梢血単核球(PBMC)からの TRAI
Lの発現量を
mRNAレベルおよびタンパク質レベルで増強す
ることを発見した(FEBSLe
t
t2010;
584:
57782
)
.乳酸菌は TRAI
L以外にも I
FNγならびに
I
FNαの発現をも誘導しており,また TRAI
L
発現誘導効果が,I
FNγブロッキング抗体,
I
FNαブロッキング抗体によって有意に抑制
されたことから,乳酸菌刺激による I
FN誘導を
介して,TRAI
Lの発現がプロモーターレベルか
ら活性化されると考えている.この他,多くの
癌予防成分や抗癌剤が TRAI
L受容体 DR5の
発現を増強することなどにより,癌細胞特異的
にアポトーシスをおこすことを見いだしてき
た.これらの研究業績は学会でも高く評価され
ており,堀中真野は若くして 2013年の日本衛生
学会奨励賞を受賞した.
2009年より着任した飯泉陽介はケミカルバ
イオロジーを専門としており,着任早々より,
自身が学んだ東京工業大学半田宏研究室で開発
されたナノ磁性ビーズを用いたアフィニティー
アッセイを駆使して,フラボノイドの一種,
a
pi
g
e
ni
nの結合タンパク質を 2個同定した.一
つはリボソーム構成タンパク質である RPS9
で,a
pi
g
e
ni
nは RPS9と直接結合することで G2/
M期停止を誘導するメカニズムを発見した(PLo
S
One2013;
8:
e
73219
)
.第二の結合タンパク質
は,ミトコンドリア内膜タンパク質の ANT2
で,a
pi
g
e
ni
nと ANT2の結合が引き金となり,
TRAI
Lの細胞膜受容体である DR5が誘導され
ることを見出した(PLo
SOne2013;
8:
e
55922
)
.
当教室はこれまでに数多くの天然化合物による
抗腫瘍効果について報告してきたが,それらの
化合物の直接の標的タンパク質の正体はほとん
ど知られておらず,抗腫瘍効果のメカニズムの
詳細はブラックボックスであったが,ケミカル
医学フォーラム
バイオロジーの方法を導入することにより,
a
pi
g
e
ni
nの例のように,次々とそのブラック
ボックスの中身が明らかになることが期待され
る.2013年 4月から採用された渡邉元樹も元々
は消化器内科医であったが,研究の魅力に取り
つかれ,ケミカルバイオロジーの技術を習得
し,現在は乳癌細胞におけるエストロゲンレセ
プターの発現制御メカニズムの解明研究に夢中
になっている.
以上のように,独創的なテーマに取り組んで
いる若手スタッフの指導のもと,消化器外科,
乳腺外科,産婦人科,泌尿器科,皮膚科,形成
外科などの臨床医や,医学部以外で生命科学を
学んだ大学院生らが,基本的な分子生物学の知
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識と実験技術を習得しながら,和気藹々と各自
の研究テーマに取り組んでおり,医学部の研究
室の中では,たいへんユニークでバラエティー
豊かなラボであるといえよう.
以上,駆け足で当教室の研究内容の一部につ
いて紹介してきた.悪性腫瘍が我が国において
も死因の第一位を占めるなかで,死因の低下に
結びつくような発癌機構に立脚した本質的な研
究は著しく遅れている現状を少しでも改善すべ
く,私達は,癌征圧のための予防・診断・治療の
全てにわたり,これからもより一層研究に邁進
していく所存であるので,今後とも夢のある癌
研究を行いたい若者をおおいに歓迎したい.
(敬称略)
(文責:渡邉元樹)