ルイセンコの時代があ

生命誌では,科学を文化として捉え,
香り高い文化の中でこそ進められ,語られるものだと考えています。
今回のサイエンティストライブラリーは,
岡田節人館長が自身の人生を りながら文化を語ります。
館長の好奇心が,一つの思想が激烈に「科学」を左右したイデオロギーの時代に迫ります。
Scientist Library
った
ル
イ
セ
ン
コ
の時代があ
生物学のイデオロギーの時代に
岡田節人JT生命誌研究館館長・京都大学名誉教授
生物の現象の因果的な解析とその実証への要求が強く
歴史好き
出てきた。遺伝学と発生学,それに生理学がその動向
私自身の経歴――これを私誌という――については,
の 3 本柱であったといえる。最初は観察によって因果関
これまでさまざまなところで語ってきたし,いささか興味
係を求めたが,生理学において,多少,生きものの機能
をもってくださる方もあって,あちこちに書きもしたので,
を物質の働きや,物理学の法則で語るようになった。私
繰り返して語るのはあまり気のりがしない。しかし,今回
が生物学の勉強を,いわば将来の職として始めたのは,
は,わが生命誌研究館の刊行する雑誌『生命誌』のサイ
こういう時代であった。
エンティストライブラリーのためのもので,いわば私にと
そもそも当時の日本人は,新しい学問を取り入れるこ
っての「本命的」なものである。だから,ここでは,私が
とに強い感受性があったと思う。進化論を,博物学的色
生物学の世界で生きてきた半世紀の私個人とその周辺
彩のみの過去の遺産として絶縁したところから新しい生
との人間的なかかわりと,そのなかでの私の時代への感
物学を求めようという動きはすでに1930年代には確実に
受性の変化といったことを中心として,かなりホンネで語
日本にも伝わっていて,これは私の関心を大いに刺激し
ることで,私個人の自己紹介を,改めてこの機会にやっ
たと思う。私が後に,イギリスに留学した時,かの国の
てみたい。
友人が,いささかシニカルに,わざわざ遠くから勉強に
科学は,生産物の表現方法と質においては芸術や文
きてもらうほど新しい生物学はここにはない,と言ったが,
学とはまったく別のものではあるが,いずれも人間の創
あながち謙o でもうそでもなかった。かの国は,ダーウ
造性の表現であり,そこには共通のフレーバーがあり,い
ィンを生んだがために,あまりにもその大きな影響のもと
ずれも時代の歴史,思想と無縁ではあり得ない。歴史
にあって近代化は遅れていたというのだった。
は,それぞれの国や地域,また,人(民族)にまさしく固有
(1850〜1924,動物の器官形
ドイツのウィルヘルム・ルー
のものである。だから,科学といえども,その場所の,そ
成の仕組みを実験によって研究し,前成説を唱えた)
が行なった
の時代であったればこそ,そういう発見があり,そういう
実験発生学が日本に到来するのはかなり早い。京都大
学説の提唱があったのである。私にこのことを実感させ
という動
学では,ほかに先んじての岡田要(1891〜1973)
たのは,すぐあとで語るように,私が若者として多少は時
物学の教授がこの方向への学流を日本に定着させた。
代への感性をもつことになった時代が,イデオロギー過
剰であり,生物学においてもルイセンコ説というとんでも
ないものが席巻していたのと無縁ではないことを告白し
ておこう。生物学は人間の歴史のなかにある。この私の
想いを私自身の私誌と並行させながら語ってみたい。
甲南高等学校時代――日本の純粋科学の黄金時代
19世紀は,生物学は博物学のなかにあった。というの
は,ここでは行為としては,収集と整理と記述だけが主
体であった。しかし,20世紀に入ると知識の集積でなく,
024
Biohistory, July,2001
q
q少年時代(右端)
ドードーの研究もし,鳥
類の収集で知られたナチ
ュラリスト蜂須賀正氏(当
時伯爵,阿波国領主の直
系の末裔である)が自宅
を訪れた時の記念写真。
後ろは,父親が集め,飼
育していた鳥の禽舎。こ
うした父親の趣味に少年
時代,影響を受けた。
おかだ・ときんど
1927年,兵庫県生まれ。50年京都大学理学部卒業。同大大学院
を経て,54年同大理学部助手。57年よりエジンバラ動物遺伝学研
究所(英国)
,カーネギー発生学研究所(米国)
にて研究。60年京
都大学講師,61年同大助教授,67〜85年同大教授。84年より岡
崎国立共同研究機構基礎生物学研究所所長,89年より同機構長。
ルイセンコの時代があった
025
93年よりJT生命誌研究館館長,現在に至る。国際発生生物学会
ハリソン賞,アルコン賞(眼科学,米)
など受賞。文化功労者。紫
綬褒章,勲二等旭日重光章受章。国際発生生物学会総裁,
国際生
ぶし
物科学連合副総裁などを務め,国際的にも,独特の岡田節で知ら
れている。
(写真=大西成明)
e w来日したC.H.ウォディ
ントン博士と(1956年)
。
その右隣は、遺伝学者の
大島長造博士(当時阪
大)。京都陶磁器会館前
で。
e京都を訪れたJ.B.ガー
ドン博士(ケンブリッジ
大学)と。
(1960年)
w
こともないので,私は静かに身を処することはできた。も
外国の雑誌に出した。大いに好評であった。こうした行
っともこれは私の臆病さを告白していることでもある。
為は,鎖国的な京都大学の動物学関係では革新的なこ
当時までの京大の実験発生学の学流では,学生にテ
ーマを与えるのに,お前は目,お前は鼻,お前は尾っぽ
とだった。
周囲では,あれほどルイセンコ,ルイセンコと言ってい
という調子で分配していき,私には消化管が当たった。
た人たちも,間違っていたと明言もせず,いつの間にか
それより一時代以前の動物学であると,先生方は,お前
ゾローッと新しい生物学のほうへ変わっていった。世の
は鳥,お前はアリ,お前はアリマキというようにテーマを
中とはそんなものかもしれない。60年代に至っても,生
出したという。これは分類学全盛時代を象徴していると
きものの見方としては唯物弁証法にのっとったルイセン
もいえるし,一面では――今日風にいうと――生物の多
コ風の考えが正しいと書いていた物理学者が少しはい
様性を評価していたともいえる。それはともかく,当時の
たが,生物学者にはそんな根性はなかった。京大の農
実験発生学では,実験動物はイモリ,今風にいうモデル
学部には,木原均(1893〜1986)という遺伝学の大権威が
動物だった。イモリやカスミサンショウウオは京都に数多
いたおかげもあってルイセンコによる汚染も大したことは
くいたが,今と違うのは,実験動物は,購入するもので
なく,そのころから少なからぬ数の若者たちはDNAに
彼は,多彩を極めた研究関心のなかで,胚のオルガナ
んと 1 匹になるということを示す。ここで,卵は 2 匹にな
も一年中研究室で飼育するのでもなく,自ら野外へ捕り
関心を示していき,日本でのルイセンコの時代は終わっ
(形成体)
と胚誘導の問題も扱った。動物の胚には,
イザー
る可能性をもちながら,なぜ 1 匹に育つのかというような
にいくというところだ。
た。
発生初期の未分化な部分を一定の組織や器官に分化さ
哲学的な問いが出てくることになる。それまで自然科学
すでに1930年代には世界的に黄金時代にあった発生
せる部分があり,それを形成体,その作用を誘導と呼ぶ。
はつまらないと思っていたが,発生学のもつ神秘さと奥
学も,50年代には物質に還元して説明されなければな
これは,当時華々しいもっとも前衛的なテーマだった。岡
深さは,人文指向の人間である私を魅了した。
らないという傾向が盛んとなった。そのためには,発生
田要は,炭酸カルシウムの結晶とかシリカゲルとかいっ
た無機物をイモリの胚の中に入れただけで,2 つめの神
京都大学時代――イデオロギーの時代
経が作られてくることを示した。彼が実験発生学の本を
イギリスへ――科学のフレーバー
中の胚は直ちにすりつぶしてタンパク量なり酵素の活性
57年,神戸港から船上の45日間を経て,イギリス(正
なり,なんなりを測定することが大勢を占めてきた。この
しくはスコットランドである)へ留学した。エジンバラ大学の
やり方は,理屈抜きにして何よりもまずは,私の美学に反
遺伝学研究所のウォディントン所長(1905〜75)から招聘
日本語で出版したのが1936年。続いて新しい実験発生
京都大学に入学し,やがて大学院でいわゆる研究ら
した。生きた胚そのものに手術を施して,まるで豆腐に
され,イモリ胚の美学から脱皮するためだった。到着し
学への関心がさかんとなった。カイコガで実験して,遺
しきことを始めた時代(1949〜50)を歴史的に特徴づける
細工を施すようなデリケートな操作にすでに充分に魅せ
て驚いたことには,すべてがまったくの自由に任されて
伝子の働きとは物質の合成を指令しているのだというこ
と,まさにイデオロギーの時代だった。科学は,政治や
とを報告した遺伝学者の吉川秀男もいた。当時の日本
歴史などの人文的な学問や芸術などと違って完全に客
の世は国粋主義と軍国主義の時代だったが,その反動
観的なものであり,イデオロギーなど無関係というのが原
として若い科学研究者の情熱が顕現した時代であった。
則だろうけれど,この時代では,科学も確かにイデオロ
湯川秀樹や朝永振一郎の理論物理学の全盛時代もこの
ギーのもとにあるらしい様相を呈していた。
ころである。日本の純粋科学の黄金時代ともいうべきで,
ソ連のイデオロギーに基づく社会主義の体制のもとで,
獲得形質が遺伝すると唱え,力づくで科学を動かしたの
これは終戦まで続いた。
甲南高等学校で私はこの時代の恩恵を受けた。当時
がルイセンコ だった。メンデルの法則はこのイデオロ
全国で七つしかない七年制高校(中学と高校が一貫して
ギーのもとでは認可されないというのだから,これが近々
いる)
の一つで,京都大学などから新進の学者が教官と
半世紀前のことだったのが,まったく信じられない。日本
して来ており,生物学を教わったのが,岡田要の門下の
の大学でも,遺伝学から植物生理学まで,ルイセンコ派
(注1)
たか やひろし
高谷博だった。
の教官が数多くはないにしろ存在していて,彼らはいわ
み とし
もっとも,少年期から青年期に差しかかろうとしていた
ゆる若者たちにもてていた。京大の徳田御稔の書いた
私は,自然や科学よりも,人間の感性のほうに関心をも
という本はバイブル並みにもてはやされ
『 2 つの遺伝学』
ち,ゲーテの『若きウェルテルの悩み』などをドイツ語の
た。後年に分子生物学で名をなす山岸秀夫などは,若
原文で読むことに喜びを覚える,ませた高校生だった。
いころルイセンコに惚れこみ,当時社会的には花形だっ
高谷が良いテキストだと言って貸してくれたアルフレッ
た工学部をやめて植物学に転科して実験したほどだ。し
(1885〜1968)
の『一般動物学の基礎』
をドイ
ド・キューン
かし,直ちにこのルイセンコ噺のいかがわしさに気付い
ツ語の原文のまま強引に読破し,とくにキューンの専門
てしまったのはさすがであった。
ばなし
でもあり,高谷の専攻分野でもあった動物の発生学に関
私がもっとも関心をもっていたのは実験発生学,つま
心をもつようになった。ここで私のドイツ文学へのあこが
り動物の発生や形態形成がどのような因果関係で生じ
れと,発生学への好奇心は結びつく。
るかを分析することだった。実験発生学というのは,の
発生学は,生きものに操作を加えるという当時として
らりくらりしており,どちらにも言い抜けられる学問なの
は他にはないユニークな実験手法を開いていて,たとえ
で,ルイセンコだと明言する人は皆無であったにせよ,あ
ば,1 個のカエルの卵を 2 つに分けるとそれぞれがちゃ
えてこのイデオロギーによってきたる 流行 に刃向かう
026
(注2)
今日,広く読まれて
いる現代の発生生物学の
教科書の著者であるS.F.
ギルバートは,1996年に
「胚を見つめて―育ちゆ
く形の美学」という題の
論説を著している。
Biohistory, July,2001
(注1)ルイセンコ(1898
〜1976)
1935年,コムギの遺伝的
性質を人工的に変え,耐
寒性のコムギを作り出し
た(春化処理)
と発表,獲
得形質の遺伝を提唱し,
遺伝子説を批判した。38
年,ソ連農業科学アカデ
ミー総裁となり,反ルイ
センコ派の生物学者を追
放するなど,ソ連では,
政治を巻き込んだ深刻な
論争を引き起こした。
られていた,ということである
。こうした実験は,すぐ
(注 2)
いたことだ。
に結果が出るものでなく,堪忍の一語だった。ホルトフレ
私はそこでの 2 年間何を学んだか? ゆったりとティ
(1901〜92)
が言ったように,初めから部分の発生
ーター
ーをすする風景であり,個々の研究結果などよりも,ウォ
の予定は決まっていないということだった。周りの組織
ディントンの語る
『源氏物語』
と
『失われし時を求めて』の
の影響で,前ができたり後ろができたりすることがわかっ
比較をいかに面白い話題として楽しむかということであ
て,そこには一定のルールのあることが結論できたとこ
った。これは科学の歴史の古い国に許される贅沢だっ
ろで,私の研究の第一期は終了した。この成果は,イモ
たのだろう。
リの胚に魅せられたおかげで古風なやり方に固執した
ルイセンコ論争など影も形もなかったはずだったが,
が故だったと思う。このころ立て続けに論文を書き,実
それでもイギリスにはアメリカと違って,イデオロギー的
験発生学の分野では,当時すでにしてアナクロニズムの
なものがあるということを,私は嗅ぎとることもできた。発
傾向はあったが,当時までは古典的伝統に輝いていた
生学を遺伝学と統合させることを夢想していたボスのウ
r
r発生学について書いた初めての論文。
(Memoirs of the College of Science,University of
Kyoto,Series B.Vol.XX,No.3,Article 5,1953)
t日本の発生学の歴史を書いた論文が掲載された
雑誌(日本の発生学研究特集号)
の表紙。
Okada,T.S.1994.Experimental Embryology in
Japan,1930-1960. A historical background of
developmental biology in Japan.Int.J.Dev.Biol.
38,135-154.
ルイセンコの時代があった
027
t
ォディントンがまさにそうだった。彼の言わんとすること
アメリカ滞在中に考えたことは,いったん分化して特
は,もちろん獲得形質は遺伝するということではないが,
徴をもった細胞でも,ときには別のタイプの細胞へと分化
環境との関連を頭から捨て去るのとはちょっと違う。生
を変更すること,つまり,細胞の分化転換が起こるはず
物を全体として捉えて,発生学と遺伝学の合一の立場か
であり,これを培養という手段で証明してみたいというこ
ら見ているわけで,イデオロギーというのではなく,哲学
とだった。帰国して京大理学部に新設の生物物理学科
として,遺伝子決定論に対して奇妙に謎かけ的に反発し
に新しいグループを作るにあたり,この細胞分化転換と
ていた。彼の考えは, 遺伝的同化(genetic assimilation)
いうテーマを中心のひとつに据えた。67〜68年ごろだ
とでも訳すべきか,死後四半世紀を経た現在,一部に強
った。分化転換を証明する一番よいシステムはレンズだ
い共鳴者を獲得しているのは注目される。
(1869〜1941)のもとでイモ
とねらいをつけ,シュペーマン
哲学があると必然的に社会的なフレーバーも少しは出
リのレンズ再生を学んだ佐藤忠雄の門下で,すでに見
るものである。イギリス,とくにそのエリート校,オックス
事な研究成果をあげていた江口吾朗(現熊本大学学長)に
ブリッジにも,戦争中はコミュニズムが深く浸透していた
名古屋大学から来てもらった。イモリのレンズを取り除く
らしいし,国の政治の中枢に入っている人間にも,科学
と,ひとみの上側の黒い色素細胞が変化してレンズに変
の畠の人にも左翼的フレーバーをもったインテリはその
わることが古くから知られていたからである。
u
i
ui音楽は,科学とともに尽き
せぬ興味の対象である。
京都コンサートホールで。友の
会会長を務める京都市交響楽
団のリハーサルの折り。
細胞分化転換の話は,当時のソ連で気に入られた。
これからの「科学」
当時まではいたようだ。終わったばかりの第二次世界大
私自身はその直前の,イモリに魅せられた消化管の発
ひょっとしたらレーニン賞!を貰っていたかもしれなかっ
戦の最大の戦友として,ソ連に対して好感をもっていた
生の研究から分化転換のテーマへの 転換 に移る時期
たが,推薦してくれていた男が失脚してしまった。政治
科学,それも生物学といったような分野で過ごしてき
ということもある。直線的な思考だけでは満足できない
では,ちょっと立ち止まった状態だった。人間だれしも,
とイデオロギーの過剰な国では,科学の世界でも何が起
た,どこからみてもいわゆる地味でしかないはずの存在
人間は,何か個性を求めていたということでもあろう。こ
灰色の季節をもっているものだ。その間は,私の美学的
きるかわからない。
である私も,その間,人間的好奇心を大いに満足させる
れは,日本でのイデオロギー論争とはまったく別の世界
に魅せられた従来の発生学的思考にどう立脚して,しか
こういうローカリズムの面白さと味わいのある時代は
人間付き合いのあったことは,私の何よりも喜びであっ
だ。もっとも翻って今は世の中ではフレーバーの違いな
もそれから離脱して転換していくべきかということをしき
たちまち消えてしまい,研究の流れは,遺伝子へ,客観
た。それを機として名だけ知っている歴史的人物が直接
んてものまで吹っ飛んでしまっていて,つまらなくなった。
りに考え,流行に埋没することのない自我を求めていた
性の確立へと急速に走り,個々の研究者のフレーバーな
でなくても身近になるのが面白い。奇妙なことに,そうい
のである。
どは吹っ飛んだ。細胞の分化転換を起こすキーとなる
う機縁になる私の知人がロシアに関係して多いことに気
網膜の黒い色素細胞のレンズへの変化を一つの細胞
遺伝子は何か。世紀末近くになって旧岡田研究室の安
がつく。私が国際発生生物学会の総裁だった時代のロ
の培養で確かめる実験は,72年に最初の成功があった。
田国雄(現奈良先端大学院大学教授)や近藤寿人(現大阪大学
(ソ連である)からの委員は,かの偉大なる作曲家ショ
シア
アメリカへ――細胞分化転換と細胞接着
64年,今度は,カーネギー発生学研究所長のジェー
ニワトリ胚を使って100日間かかる連続観察の成果だっ
細胞生体工学センター教授)
が探し,レンズを作るクリスタリ
スタコーヴィッチの甥だった。私の国際生物科学連合の
ムズ・エバートに招かれて,アメリカの研究現場を体験す
た。論文を投稿すると,レフェリーは「かくなる仕事がで
ンのマスタースイッチの遺伝子をそれぞれ見つけた。め
副総裁であった時の同僚の夫人は,かつてのソ連(ゴル
ることになった。当時気鋭の発生学者であったエバート
きたことはうらやむべきことで,おめでとうという言葉ある
でたいことだ。
バチョフより以前)
のヴォーシロフ国家主席の娘だった。レ
所長は,イギリス風インテリとはまったく正反対の,フット
のみだ」
と言ってきた。当時は,まだ研究同業者の間に
レンズのほかにもう一つテーマがあった。文学青年だ
ンズのクリスタリンを研究していて研究上私のもっとも身
ボールとプロ野球大好きのヤンキー気質の人物だ。それ
は,競争のみでなく,連帯感のあった 古くも美しき 時
った私が,ゲーテの『親和力』をドイツ語で読み,さらに
近だったピアティゴルスキーの父親は,あのロシアから
でいて,私をまったく自由にさせたという点で,ウォディ
代であったということだろうか。それがついこの間の70
ホルトフレーターの「形態形成の基本的原理としての組
アメリカにわたった世界最高のチェロ弾きだ。
ントンと同じだった。
年代であったことが今ではお伽話のような気持ちがする。
織親和力」
という論文に出会ってテーマとしたのが,細
y
y谷口財団主催のシンポジウムの発生生物学部門のオルガナイザ
ーを長年務め,97年,最後の年を記念して桜の京都で発生生物学
の歴史を総括する会合を主催した。
前列左から,ガルシアベリード(マドリード大学教授)
,A.マクラー
レン(前ロイヤル・ソサエティ副総裁)
,A.モスコーナ(シカゴ大学
名誉教授)
,W.ゲーリング(バーゼル大学教授)
,岡田節人,N.M.
ルドワラン(フランス・アカデミー発生学研究所所長)
,L.サクセン
(前ヘルシンキ大学学長)
,J.B.ガードン(ケンブリッジ大学教授)
,
J.D.エバート(ウッズホール海洋生物学研究所所長)
,S.F.ギルバ
ート
(スワースモワ・カレッジ教授)
,J.R.コールマン(ブラウン大学
教授)
,V.S.シュミット(バーゼル大学教授)
,中列左から4人目,中
村桂子(生命誌研究館副館長)
,竹市雅俊(京都大学教授)
,V.ナン
ジュンダイア(インド国立科学研究所教授)
,江口吾郎(熊本大学学
長)
,岡田益吉(筑波大学名誉教授)
,G.V.ロパチョフ(ロシア国立
アカデミー教授)
,竹内郁夫(元岡崎国立共同研究機構長)
,浅島誠
(東京大学教授)
,尾里建二郎(名古屋大学教授)
,一人おいて近藤
寿人(大阪大学教授)
,後列左から,佐藤矩行(京都大学教授)
,加
藤和人(前生命誌研究館,現京都大学助教授)
028
Biohistory, July,2001
私は,それぞれの国にそれぞれの時代の科学がある
胞を識別し似た者同士が接着する仕組みの解明だった。
と思うし,その複雑怪奇な広大無辺さを愛しているのだ
これは京大岡田研究室で研究を始めた竹市雅俊(現京都
が,現代は,遺伝子で生きものを見る時代になり,それ
大学教授)
という優れた協力者に受け継がれ,分子の働き
によって生物学もすぐれて客観性と普遍性を獲得してし
として解明されるなど素晴らしい進展をみせた。
まったようだ。それにともなって,私がかつて,エジンバ
これらは,かつての京大岡田研で過ごした,私より若
ラやアメリカで体験し,旧ソ連やインドの知人と触れた科
年の優れた連中(弟子とか師とかいう言葉は,私は毛嫌いして
学のなかでの人間的体験に比べて,世界中の科学に関
いるので)
の功績であるが,私の個性,フレーバーらしき
わる姿勢がはるかに画一的になっている。とくに,技術
ものが,多少はあったらしい。実験だけでなく,研究を
と結びついて,社会全体のなかで,生物の学問もスタイ
どう見るかということも含めたものであろう。より最近,発
ル的には企業家のそれとほとんど変わらないものとなっ
生学のあるテーマの歴史についての論文をインドアカデ
ている。こうしてかつての生物学のなかで,研究者各自
ミーの雑誌に依頼で書いた際には,レフェリーは,
「これ
のもっていたフレーバーが失われることを,少なからずつ
は類いまれなる傑作である,著者の名を見なくてもだれ
まらなく思う。
が書いたか,書けるやつは世界に一人しかいない」
と言
今,
「科学」に代わる言葉がないだろうかと思う。科学
ってくれたのは本当にありがたかった。これらは,まった
という語感が個性の消失を一般に印象づけてしまった
く自己満足であり,当今はやりの論文とはまったく絶縁し
からである。
(文責:高木章子)
た世界のお話だが,だからといって個人のフレーバーは
これからも完全には抹殺されまい。
ルイセンコの時代があった
Scientist Libraryは, 本人の話をもとに, 編集部がまとめています。
029