ヨーロッパにおける要塞の概史 ― 十字軍からヴォーバン式要塞まで ―

ヨーロッパにおける要塞の概史 ― 十字軍からヴォーバン式要塞まで ―
1.ビザンツ帝国の城郭
要塞は火砲出現の前から存在するが、当時の要塞はカタパルト砲や飛矢への対応として
出てきたものである。ヨーロッパで要塞が決定的に重視されるようになったのは、十字軍
が遠征先の東ローマ帝国やイスラムの要塞に出くわし、その堅牢ぶりに度胆を抜かれたか
らである。とくに、イスラム式要塞にヨーロッパ勢はたいへんな苦戦を強いられた。
なかでも、ヨーロッパのモデルとなったのはビザンツ帝国の築城術である。要塞が 1 千
年以上に亘る帝国の存続に直接的に寄与した点と、ビザンツが南欧諸国との通商ないし宗
主関係があったため、何ごとも西方世界に強い影響を及ぼし点が関わっている。ユスティ
ニアヌス帝(在位 527~565)が強化した首都コンスタンティノープルの大城壁は堅牢のう
えに堅牢であり、「難攻不落」の評判をとった。イスラム勢力は何度も攻略に手をだした
が、そのつど大城壁に阻まれて敗退を余儀なくされている。
マルマラ海と金角湾に突き出た形の半島には三重の城壁があった。その発端は 5 世紀前
半に古代ローマのテオドシウス帝が構築した城壁であり、以後、それを強化する形で三重
の城壁に改築されたのである。半島のいちばん根本(外側)には高さ 2 メートルの胸壁を
もつつ壁があるが、その外側に深さ 10 メートル、幅 20 メートルの空濠が配され、容易に
突破できないよう仕組まれていた。その内側に配された2番めの城壁は高さ 20 メートル塔
屋をもち高さは 8.5 メートル、幅 2 メートルの壁である。つづく3番めが「大城壁」とよ
ばれるもので、高さ 12 メートル、幅 5 メートルであった。この壁から金角湾とマルマラ海
に到るまでの三角地帯が市街となっている。
コンスタンティノープルの城壁は頑丈だったが、矢狭間がなかった。主要な防護力は外
壁から突き出した塔によるものであり、3階建ての各階には全面と側面に狭間があり、こ
れでもって城壁や塔の周囲を制する構造をもつ。敵がたとえ侵入しても、塔屋に入るため
には頑丈な扉を突破しないかぎり階上には上がれない仕組みになっていた。扉を突き抜く
のに手こずっている間に、扉の上に聳え立つ塔から投槍と弓矢の猛攻を受けるはめになる。
ビザンツ帝国は国境防衛や城壁建設の技術を古代ローマから引き継ぐ。そして、イスラ
ム勢力と戦いを交える間に跳ね出し狭間、矢狭間、落し格子、殺人孔などの防御施設を考
案した。ところが、執拗なイスラムの侵攻を寄せつけなかったこの城壁も 1204 年の第四回
十字軍により陥落した。これはビザンツ側の気の緩みに因るもので築城術に原因があるわ
けではない。このチャンスを利用してビザンツ城内の防備施設の仕組を完全にマスターし
た西欧諸国はこの技術を自国にもち込むことになる。
◆跳ね出し狭間・・・壁塔や隅塔に群がる敵に向かって左右に隣接する塔から射撃を
行った場合、それぞれの塔から放たれる斜線が交差するとき、塔の前面に死角が生じ、こ
れが防御上の欠点をつくった。これの対策として壁や塔頂上の外側に「張りだし歩廊」を
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設置し、これにより城の外側中空から眼下の敵に矢を直接射たり、熱湯や煮え立った油、
岩石などを落としたりすることで攻城兵を撃退できたのである。当初は木製であり脆かっ
たのでやがて木造は石造に変わった。これを「張り出し狭間」と言う。
◆矢狭間は城門、隅塔、壁塔、キープ、城壁頂上などに設けられた。こうした高所から
弩や小銃などで敵を狙撃する。この形には垂直型、基底魚尾型、十字型などいろいろある
が、驚いたことに、十字軍以前の西欧は「矢狭間」を知らなかったのだ。
◆落し格子と殺人孔はふつう城門やキープ内にある通路の天井に設けられた。まず、こ
れらが仕掛けられている通路に敵が侵入すると、天井から敵の前後にそれぞれの格子を落
し、敵を孤立させる。そして、身動きできなくなった敵兵の頭上に殺人孔から矢を射たり
槍で突いたり、煮え油を浴びせたりした。
2.イタリア侵攻
百年戦争が終結した同じ年、オスマン帝国が難攻不落を誇ったコンスタンティノープル
の城壁を「ウルバン」という名の巨砲でもって打ち破った。押し寄せた大軍 20 万、守備側
は 7 千人である。この大砲は砲身 26 フィート(8.2 メートル)、口径 42 インチ(76 センチ
メートル)、弾丸は黒海産の巨岩 600 キログラムだ。牛 60 頭と兵士 200 人によって牽引さ
れたこの大砲はついに城壁を打ち破り、5 月 29 日にトルコ軍は市内に乱入し、最後の皇帝
コンスタンティノス 11 世を殺害した。これはヨーロッパ世界を恐怖の淵に陥れた。バルカ
ン半島の全体にオスマン =トルコが拡がる。しかし、トルコは拡大を一時停止し、これが
西欧世界に防備を固める時間的余裕を与えることになった。
それから 40 年後、百年戦争で攻防戦の経験を積んだ大砲先進国フランスはヨーロッパで
築城術の最も遅れていたイタリアに青銅砲と砲弾をひっさげて乗り込んでいく 。1494 年の
フランス王シャルル八世(在位 1483~1498)はナポリを占領する目的でイタリア侵攻を始
める。軍事的な啓蒙心をもたない傭兵隊長の守るイタリアの都市国家はその防備を城壁の
高さに頼るしかなかった。シャルル八世の軍隊の青銅砲の威力のまえに簡単に城門を開い
てしまう。かくてシャルル八世軍はナポリまで簡単に達してしまう。
それまでは要塞攻防戦においては防備側が有利とされていたが、中世の全体を支配して
いたこの常識は、威力を増した青銅砲の前に覆されてしまったのだ。事情は次のとおり。
1
大砲がこの常識を破るのに貢献する
2
封建軍は従軍期日や携行弾薬・糧秣などの点で制約があり、長期戦に不向きだった
3
封建軍から傭兵制に移っても彼らは金銭だけが従軍の目的であり、生死を賭けての
戦は避けた
以上の理由から敵が城に籠ってしまうと、攻撃側はお手上げ状態になった。反対に籠城
軍は事前に糧秣を城内に備蓄しておくことが可能であり、半年程度の長期戦には堪えるこ
とができた。
2
ところで、イタリア侵攻とは 1494 年のシャルル八世のイタリア侵攻開始から 1559 年の
カトー・カンブレジの和約までイタリア支配をめぐって争われた列強の権力闘争の総称で
ある。この戦争の基本的構図はフランスのヴァロワ朝と、中世的なローマ教皇権の 「超国
家的」支配の担い手として登場したハプスブルク家との対決である。なお、 1519 年の神聖
ローマ帝国の皇帝選挙を境としてその前後で戦争の性格が変わるため、一般に 1516 年まで
を「前期イタリア戦争」、1519 年以降を「後期イタリア戦争」として区別する。
イタリアが列強介入を招いた背景にはイタリアの国家形態の特殊性に原因がある。一般
にイタリアでは「コムーネ」といわれる都市自治体が国家の主要な形態であり、その都市
国家は相互に連合・協力しあうことがなく、また、各都市自治体のなかにも富裕層と貧困
層の内部対立があってまとまることがなかった。そこにきてローマ教皇と列強および諸侯
がイタリアに触手を伸ばしたため、この半島全体が各勢力の草刈り場のような状況になっ
た。
最有力であった フ ィレンツェで勢威を誇った メディチ家のロレンツォが 死去して
(1492)半島における勢力均衡が失われると、ロドリーゴ・ボルジアがアレクサンドル六
世として教皇の座に就く。彼が武力によって教皇国家の拡大に乗り出したことが、それま
では精神的な権威にとどまり、国王・諸侯・都市のバランスの上に乗っかってその地位が
安泰だった教皇はイタリア国内に多くの紛争を呼び込むことになった。 15 世紀初頭までイ
タリアは対オリエント貿易を独占しヨーロッパで栄華を極め、ここに貯えられた財宝が諸
勢力の垂涎の的でありつづけた。
フランスのイタリア侵攻の裏には、ナポリのアルフォンソ二世の敵対者ミラノ公と教皇
アレクサンドル六世がシャルル八世に派兵を要請したと言われている。野心家で弱冠 24 歳
のシャルルはイェルサレムやコンスタンティノープルの攻略まで夢見ていたが、手始めに
スペインのアラゴン家支配下のナポリ王国に狙いを定める。フランスのアンジュー家が
1435 年までナポリを統治していた継承権を主張してナポリ占領のために出征したのだ。
シャルル王の遠征軍は途中で出くわす都市国家群を威力十分の大砲で瞬く間のうちに破
壊と降服・開城させた。シャルル八世は 1495 年 2 月にナポリに達し、アルフォンソ二世は
亡命してしまう。シャルル王の快挙をみて、同じくイタリア制圧を狙うドイツ皇帝マクシ
ミリアン一世、スペイン王のフェルナンドとイサベラ女王、ヴェネチアとミラノ公は 「対
仏大同盟」を結び、やがてイギリスもこれに加わる。結局のところ、フランス軍は後方通
信線を遮断される懼れを感じナポリを去る。途中、イタリア諸国連合軍の挟撃に遭い、王
は命からがらイタリアを後にして逃げ帰ってしまう。
3.中世イタリアの城
中世イタリアの築城は旧態依然として北西ヨーロッパのような技術革新を遂げなかった
その主たる理由は、この地に特有の支配体制に原因がある。 4 世紀にローマ帝国が没落し
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た後、ヨーロッパ諸国は農業生産を基盤とする封建社会へ移行していったが、イタリアの
諸都市は北西ヨーロッパとは異なり、地政学的に地中海貿易の東西の接点であり、また、
十字軍遠征の中継地であったため、交易が活発で都市が ― 後背地をもたないかたちで自
律的に ― 繁栄した。他のヨーロッパ諸国の貴族が農村地帯に居城を構えたのと対照的に、
イタリア貴族は都市に住み、そこで巨富を築いた商人層と婚姻関係を通じて一体化してし
まう。北西ヨーロッパで貴族層と商人層の対立(農村対都市の対立)が激しかったのに対
し、地中海諸都市では支配者が重なりあっている関係で、都市国家内部での対立は上層市
民と下層市民の対立のほうが強く出る。さらに北西欧とは対照的に、都市対都市の対立が
顕著に出た。イタリアの貴族は都市に住み、都市の外では生活できなかった。彼らは自分
たちの一族を城壁内に住まわせ、国内の行政や交易に積極的に参加した。これらの都市の
特徴は町に張り巡らされた城壁の主家の砦である大きな宮殿である。
この意味でイタリアの城壁は古代ローマの伝統を直接継承しているといえる。都市の周
囲に張り巡らされた城壁は何のためのものか。いうまでもなく近隣ライバル都市や外国の
軍隊による襲撃に備えるためのものである。また、時おり都市の財宝を狙って侵入をくり
返す強盗団(解雇された傭兵上がりの残党)から守るためのものでもあった。
都市が豊かで繁栄しているうちはよい。威容を誇る高い城壁は市民の誇りと豊かさの象
徴となる。しかし、都市の防衛に関しては近隣諸都市との抗争にこそ有効であったかもし
れないが、列強の大軍を相手にしては脆かった。しかも、都市の軍隊は市民全体が有事に
立ち上がることを原則としつつも、実質は傭兵隊に任せっきりになっていた。 その城館は
アルプス以北の城とは異なり、住み心地こそよいが、攻略戦にはまるで用をなさなかった
ミラノのスフォルツァ宮殿など防御の見地からみると無防備に近かった。そもそも、防備
に重点を置くと、市民の商工業活動に著しい障碍を生じてしまう。都市は狭く守るほうが
効率的であるわけで、商工業活動の観点と防御の観点は真っ向から矛盾するのだ。
4.イタリア戦争後の築城術の発達
イタリア戦争における築城の発達は大別して① 1494 年から 1520 年代までの応急改造要
塞の時代と②それ以降における稜堡時代に分かれる。
1
応急改造の時代の特徴・・・石造城壁の前面に土砂で覆い、砲弾炸裂のショックを
吸収するようにしたことだ。つまり、石造の城壁を砲弾が貫通する際に発生する石
工物の破片が籠城兵に甚大な被害を与えるのを防ぐための改良である。これにも 2
段階に分かれる。つまり、城壁の前に深い空濠を穿って発砲後における敵兵の突進
を妨げる。その後方に高い土盛りの城壁をつくる。濠の内側で城壁に接する部分に
はカポニエールとかカスメートとか呼ばれる小さな掩護構築物を設置し、濠に殺到
する敵に致命的な損傷を与えた。
2
稜堡時代・・・稜堡とは城壁の端に突出した円筒形または菱形(矢じり型)の塁堡
4
である。その工法で有名な人物がミケール・ディ・サンミケーリ(1484~1559)であ
る。その先がけとなったのはフランチェスコ・ディ・ジョルジュ・マルティーニが
設計したモンサン=ミッシェルの北塔の三角堡である。また、1494 年に教皇侍従建築官
のアントニオ・ダ・サンガロ(1485~1546)はチヴィタ・カステッラーナの砦を再建
したとき稜堡形式を用いた。円筒稜堡と較べ菱形稜堡には死角がなく、防御上で卓
越し、多くの大砲を搭載できた。
こうして稜堡形式の築城のおかげで包囲側が優位に立つようになり、攻城側はこれへの
対抗策を打ち出さなくてはならなくなる。攻城側は策源地を要塞砲の射程外に設け、そこ
から要塞に接近するために塹壕(またの名を「対壕」)を掘削しながら進む。敵からの縦
射を防ぐため結果としてジグザグに掘り進む。塹壕が必須となると、装填の簡便なマス
ケット銃とシャベルが必須の道具となる。塹壕掘りはたいへん難儀な作業であり、射撃を
おこなう傍らでシャベルを振うのは並大抵な作業ではない、したがって、夜陰に紛れて塹
壕掘りを専門とするような大量の作業員を要する。これに事欠くとなると、前進できない
し、その間に籠城側の反抗応射を待つことになる。銃砲に対する防護策は石造物よりも土
工のほうが有効だったが、永久要塞と野戦の臨時要塞が似通ってくる。結果として 「永久
要塞と臨時要塞の対峙」となり、時間の経過とともに備蓄に勝る永久側が有利になる。
石造対土工の対決は最初は土工のほうが優位に立ったが、やがてまたしても石造が優位
を回復していく。それは城の設計が根本から見直され、攻城砲への対応が可能になりはじ
めると、要塞側と攻城側のバランスが元に戻ってしまうのだ。要塞側が高い石造建築物
(塔や城壁)の天辺部分を削り、攻城砲の直射に堪えるように改造し、一方、要塞側の濠
の外側に覆道を設け、その外側に斜堤を設ける。斜堤を掩護物として覆道に射撃兵を忍ば
せることによって攻城兵の接近を防ぐ。一方、高い位置に据え付けた要塞砲から攻城側に
砲弾を発射すれば、明らかに要塞側の射程が伸びる。こうして攻撃と防御力の備わった要
塞側が優位にたつ。一方、攻撃側は昼夜の別を問わず包囲の網目が破られることを気にし
なければならないし、糧秣や弾薬補給の処理をしなければならない。鉄道や舗装道路のな
い時代のことであるゆえに不便なことこの上ない。また、兵士は長いあいだのテント生活
を余儀なくされ、これは士気の維持にも影響する。
イタリア式要塞は前出のサン=ミケーリとサンガロの双璧の時代を迎える。いずれも似通っ
た稜堡式の要塞を発達させたが、その完成型が正多角形(五角形、六角形、八角形)、そ
してその究極の形が円形となる。単なる平面的な構成ではなく立体的な構造物になり、死
角をなくし、どこからでも銃・砲でもって応射できる装置に改められた。
この派手派手しい要塞がヨーロッパ中の軍事技術者の関心を惹かないはずがない。ドイ
ツ、オランダの軍事技術を経て、最後に稜堡要塞の完成者としてフランス人ヴォーバンが
登場するのである。 5
5.稜堡式要塞の完成 ― ヴォーバン要塞
イタリアの稜堡形態がヨーロッパ諸国に認知されると、その技術は先を争って導入がつ
づく。ドイツ、フランス、オランダ、イギリスの軍事建築技師たちもイタリアに追随する
そうした動きのなかでイタリアに追随するのをよしとせず、独自の技法に拘るものもいた
まず、ハプスブルク家のカール五世のためにアントウェルペンの築城工事を請け負った
ドイツ人技師フランツはイタリア式稜堡の欠点を見いだした。それは稜堡間の間隔が広すぎ
て、小銃の擁護斉射を受けながら城壁昇りをする敵兵の登頂を見逃すことにつながった。
稜堡から応戦するとき稜堡間の距離がありすぎて対処できないのである。当時の大砲は連
続発砲ができず( 30 分に1発)、その砲撃を前提に稜堡の間隔を広くとったのでは、小銃
の斉射攻撃の前に防御上の手抜かりが生じてしまうのだ。これに気づいた技術者たちは小
銃の射程内の 150~200 ヤードにまで稜堡間を縮めることにした。このことはまた、榴散弾
の発明を促すことになる。榴散弾にはクズ弾、砕石、クズ金属、釘、砂利を詰めた弾丸な
どがあり、近接してくる敵兵を掃射するのに有効だった。
これに続いてストラスブール出身の技師ダーニエル・シュペックレ(1546~1589)がイタ
リア稜堡式要塞に改良を加えた。これがドイツ式要塞といわれるものである。その要点は
つぎのとおり。
(A)多角形の稜堡を多階層に重ねる形態を採用した。こうすることで稜堡間の距離が短
縮され、交互に連射をくり返すことで間断なき斉射ができるようになった。
(B)稜堡の拡大
(C)外濠の防御にカズマト(防御砲兵を敵の攻撃から隠ぺいする設備)の設置する
(D)覆道の強化と味方砲兵の集屯所に火砲を設置
(E)要塞本体と濠のあいだに外堡の設置
ドイツの築城技術をさらに発展させたのがオランダ派である。スペイン・ハプスブルク
家はネーデルラントに対して苛酷な宗教弾圧を加え、経済的な搾取を強化した。ここから
スペインに対するオランダの自立化の動きが始まる。イタリア戦争やフランス北部への度
重なる侵攻で豊富な実戦経験をもつスペイン軍に対し、オランダの陸海軍は無力であった
まさにホラント州、ゼーラント州、ユトレヒト州のみを残すだけになったオランダは果敢
にも軍制改革( 17 世紀の軍事革命と言われる)をおこなった。オラニエ・ マウリッツ(1567
~1625)は築城術および攻城術に長けていたシモン・ステヴィン( 1548~1620)を抜擢し、
独特なオランダ方式築城術を確立させた。オランダの稜堡は七角形である。
オランダの地勢は石材がないことや、水面とほとんど同水準の高さしかもたない平地で
あることを利用した独特の工夫が凝らされた。石材が乏しいので土工に頼らざるをえない
が、塁壁の数を増やすことで土工の脆さを補った。そして、水の多い低地という特徴を最
大限に利用し、幅 15~40 メートルの広くて浅い水濠を構築した。冬季は凍結するためその
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季節は水を抜いた。乾いた濠底に敵が対濠を掘りはじめたときいは放水できるようにくふ
うした。さらに、最後に斜堤の根元部分の土地を組織的に水浸しにするため、水閘と堰堤
が構築された。
オランダ式稜堡の特徴はこのように低地と土工の利点を活かし外堡と凹堡などに力点を
置いた点に見出される。また、逆に攻城に際しては敵要塞の孤立無援化をはかるため、環
状包囲濠と坑道の組織的結合を図った。要塞部隊の出撃に対して防御するのにこの塹壕・
坑道の連絡は当時最強無敵であり、次代のヴォーバン攻城術にそっくりそのまま継承され
ていく。攻城築城は労務者を使用するのが通例だったが、マウリッツは兵士に携帯シャベ
ルをもたせ、兵士自らに塹壕を掘らせた。
さて、次はフランス式築城術である。フランスでもドイツ三十年戦争、フロンドの乱、
スペイン継承戦争と戦争が起こるたびに築城術の改善の問題がそのつど起きた。全体を通
じてフランスの築城術に独創性は見られず、ほとんどはイタリア、ドイツ、オランダの築
城術からの借りものであるにすぎない。そうではあっても長所がないわけではない。 フラ
ンスの功績は雑多であった築城術を数学的法則にもとづき整理体系化したところ に見られ
る。
フランス築城学派で重要な人物はパガン(P. Fr. Pagan,1604-1665)伯爵である。彼はド
イツ式要塞をフランスに導入し普及させた人物である。彼によれば要塞は稜堡最も重要な
要素と見なし、敵の砲撃を受け止めるべく大型を推奨する。そして、オランダで採用され
た外堡の役割を重視した。パガン要塞は各国要塞の いいとこ取りを徹底させ、そのために
何重にも重なった重厚なものとなった。敵に侵入されてもなお抵抗できるよう工夫された。
ヴォ―バン(1633-1707)はその築城術の完成者として、かつフランス各地の要塞を 100
以上も建造し、ヨーロッパ各国でモデルとして崇められる。彼のすごいところは歴史、数
学、製図の基本を学んでいるところで、これを築城術に応用した。
その名声にもかかわらず、彼の築城術に独創性はほとんど認められない。にもかかわら
ず激賞されるのはもはや当時の火力水準では乗り越えるべき課題はほとんど克服されてい
て完成度が高かったからである。
(A)直線部分はできるだけ減らし凹凸を増やすことにより、防御上の弱点を極力少なく
した縦深防御に徹した点にある。
(B)稜堡を要塞本体から切り離し、分派稜堡として要塞本体を防護する独立した役割を
与え、同時に要塞本体に二段式の稜堡塔を造って下段に堀を斉射する小火器を、上段に分
派稜堡と塁壁を守る砲台を置いた。
(C)さらに物理学や数学の助けを借りて、当時の大砲や小火器の射程距離を考慮した合
理的な間隔をおいた。内部に侵入した敵に対しても斉射できるよう稜堡に凹凸を置いた。
(D)外堡も要塞本体との距離、外堡間の距離がそこにおける傾斜を計算のうえ、修正と
改善がなされた。それ自体が防御力をもつ外堡のため、敵は要塞本体になかなか接近する
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ことができなかった。
(E)造営法やその手順まで綿密に決められ、むだなく短期間で完成するよう工夫された。
ヴォーバンは生涯を通じて 33 か所の新要塞を構築し、フランスの国境沿いの要塞を改築
した。国境近辺ではないが、パリ防衛の要のモンヴァレリアン要塞もその類である。著名
な要塞を挙げれば、ベルフォール、ブザンソン、ヌフ = ブリザック、ストラスブール、
メッスなど、いずれもドイツ国境沿いに位置する。それほどに東の国境線からの侵入を危
惧したのである。スダン要塞は彼の新築ではなく改築をしたものである。スダン城は地形
上背面に要塞を見下ろす丘地(ガレンヌ)を従えており、丘地が制圧されると抵抗力は極
端に落ちるため、ヴォーバンは抜本的な改修を諦めたようだ。
中世に構築された城は攻防戦に不向きとなり、領主の居住のための宮殿となり、堅牢さ
ではなく優雅さを求められるようになる。ロワール河沿いの城はこのようなものである。
優雅さのない城は内乱の拠点とならないよう取り壊された。
ヴォーバンの功績で有名なものはその平行濠方式での攻城戦法と跳飛射撃である。
平行濠方式から述べよう。要塞に閉じこもる敵を効果的に攻めるために 「平行濠」を効
果的に使って攻め上る方式がこれである。まず敵の防御線に平行して塹壕を掘る(第一平
行濠)。ここは要塞砲の射程距離を外れる地点 600 ヤードの距離に位置する。そこに攻城
砲を設置すると、濠をジグザグ状態に堀って前方に出る。ジグザグ状態での前進は敵要塞
からの斉射を避けるためだ。そこからまた敵要塞の防御線と平行状態に濠を掘り第二平行
濠を形成する。味方の攻城砲の掩護砲撃を受けつつ前進し、さらに第三平行濠をつくり、
それがほぼ出来上がったところで、またもや攻城砲の総砲撃の掩護を受けつつ登攀作戦に
移るのである。
跳飛射撃とは、「ゴルゴ 13」の主人公でスナイパーのグレート東郷がしばしば射撃で敵
のウラを掻いて仕留める射撃法に似ている。要するに、遮蔽物に隠れた敵兵を攻撃するた
めに目標に命中した弾丸が射線方向に跳ね返って、その近くの兵員や爆薬物に損害を与え
る効果を狙う射撃法である。装薬で薬を減らすところがコツである。
ヴォーバン自身は自れの設計に絶対的な自信をもっていたが、実際上は防御本位にいる
かぎり、勝機は薄いだけでなく、よほどの防御軍に組織的・体系的な訓練がほどこされて
いないと受け身にまわり一か所が破られると、破たんが拡がっていき、早晩制圧されてし
まうことが多かった。防御軍の訓練不足だけではない。要塞砲はその重量がありすぎると 、
それを要塞の天辺に搬送するのが困難であり、重砲の設置はできず、その関係で射程は短
く破壊力も小さい砲を据えるしかなかったのだ。しかし、ヴォーバンの名声に翳りが出る
ことはなく、長くその設計法は継続されていくことになった。特にフランスがそうであっ
た。これに対し、ドイツはシュペックレを例外として、稜堡方式に早期に見切りをつけ、
多角形式を採用した。
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