時代を超えて流れるイズミヤの「信条」

季刊 イズミヤ総研 Vol . 89(2012年1月)
イズミヤ創業90周年企画『温故知新』
第四回
時代を超えて流れるイズミヤの「信条」
(談)元・イズミヤ株式会社 支配人
上野孝和/紀美
(まとめ)
大阪市立大学大学院 経営学研究科教授
加藤 司
上野孝和さんと奥様の紀美さんは、創業者
の和田源三郎社長の仲人で社内結婚された第
一号。大阪女学院の教会で結婚式を挙げられ
たそうだが、その時女子学生が歌ってくれた
讃美歌が今でも忘れられないという。
実は今回のインタビューも、創業90周年を
迎え、社内誌である「いづみ」の創刊号が欠
番となっていたため、その旨をOBに広報し
たところ、いの一番に連絡してきていただい
たことが、きっかけとなっている。会社でも
保存していない貴重な資料を持ち続けておら
れる几帳面な性格もさることながら、お二人
とも、イズミヤが取り結ぶ縁で結婚されたと
いう事情もあり、現職の時も、また退職され
てからも、イズミヤに対する思い入れは相当
のものである。そうした上野さんご夫婦であ
れば、これまで埋もれていた新事実がきっと
発掘されるのではないか、そういう期待をも
ってインタビューに臨むことになった。
花園店時代
孝和さんは、昭和28年入社。当時、従業員
三郎社長に、「せっかくお客様が来てくれた
のに、商品でなく販売台を見せるのは恥ずか
しい」と、厳しく叱責されたりもした。そこ
で反物を真ん中に集め、両端の空いた所には
唐草模様の風呂敷を丸めて置いた。とはいえ、
決して無理はせず、「売れるものだけを仕入
れて販売する」方法であったという。
一方、紀美さんも昭和31年、徳島の高校
を卒業後、大阪織物協会の紹介により、住み
は10名ほど。簡単な面接だけで採用が決まる
時代であり、住み込みで働くことになった。
でに売場面積を70坪まで増床していた。イズ
ミヤの成長とその後日本経済が謳歌した大衆
住み込みは防犯も兼ねて、店舗の入り口近く
で寝泊まりした。お盆には下駄をもらって帰
省する風習(藪入り)がまだ残っていた。当
時は、呉服と綿布を販売していたが、呉服の
消費社会での成長の幕開けであった。
尼崎店でのセルフ販売の導入
セルフ販売は、戦前から一部の小売業で導
入されていたものの、イズミヤが本格的にセ
ルフ販売に乗り出したのは、昭和34年に開業
反物が売れたままになっている様子を見た源
込みで花園店で働くことになった。当初は店
舗の一階に布団が敷ける6畳ほどの部屋があ
り、その奥にある二間続きの部屋で、社長と
奥様も寝起きを共にされていた。しばらくし
て増築を機会に二階の二段ベッドのある部屋
へ移ることになった。二階の大部分は一階で
オーダーした服地を縫製する部屋で、ミシン
が並んでいた。昭和31年と言えば、ちょうど
経済白書で「もはや戦後ではない」と言われ
た時期と重なる。大正10年、新しく出来た「市
場」の一角に間口二間半、7坪の零細店舗で
出発したイズミヤは、戦中、戦後を経て、す
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した尼崎店からである。売場面積は170坪で、
本店の花園店よりも大きな店舗であった。出
店に際しては、社長自らが地元の呉服店を一
軒一軒回って挨拶されたが、大型店の出店に
対して地元商業者の反発があったことも一因
となっていた。消費者自身もセルフ販売に慣
れていなかったのである。中には、並ぶのが
面倒で、商品をそのまま持ち帰るお客様さえ
いたという。元警察官の男性が店内を巡回し、
「検挙に勝る防犯なし」といった物騒な言葉
であろう。開店の折込チラシも塚口の新聞配
も生まれたが、やがて腕章を付けた女性が見
達所に頼まざるを得ない状況であった。
セルフ販売に伴って、当時レジスターの
会社であったナショナル金銭登録機(NCR)
から派遣された女性担当者によるレジ打ちの
研修会があった。紀美さんも、親指は数字の
1のキー、
人差し指は5、
中指は7、
小指は
「み」
を押すという訓練を何度もされた。キーが重
く、よほど強く打たないと作動しなかったと
いう。また現在と違って、つり銭は自動的に
計算されないので、暗算の得意な紀美さんは
重宝された。ただ、新店オープンに駆り出さ
れたものの、入り口のところで売場への案内
役を務めるのが仕事であった。
経済成長に伴う大衆市場に向けてセルフ
販売方式が導入されたのであるが、当初は売
る側は何をしていいかわからない状態であっ
たそうだ。もっとも、商品は店頭に出せば即
座に売れる状況であり、人混みをかき分けな
がら荷物の入った大きな箱を掲げて運ぶの
が、主な仕事であった。やがてセルフ販売に
適した商品とそうでない商品の区別が明確と
回る方法へ変わっていった。
POPをどうするか、買いやすい売場をどう
作るかといった問題は、昭和30年代末になっ
てようやく課題として認識されるようになっ
たのである。
当時、米国の事情に詳しく、台頭しつつあ
った全国のスーパーの経営者に対する理論的
指導者であった渥美俊一先生(元読売新聞の
記者で、昭和37年からダイエーの中内氏、ニ
チイの西端氏、ジャスコの岡田氏などが参加
したペガサスクラブを主宰)も頻繁に店舗に
来られて、厳しい指導をされていた。「店頭
でお客様に奉仕する貴重な時間を犠牲にして
研修していることを忘れるな」と、よく叱責
されたという。
イズミストア、食品スーパーの実験
紀美さんの方は、その後、酒井弘さん(後
の副社長)が立ち上げた食品スーパー業態で
なり、昭和39年に開業した布施店では、接客
販売が必要な呉服、外装着などを扱う第一営
業部と、肌着、ブラウス、子供服などセルフ
販売の第二営業部へと組織が改編された。
他方、買う側も袋に入った肌着を中から出
して、一つ一つ確かめながら買うのが普通で
あった。その結果、売場はいつもごちゃごち
ゃで、閉店後に商品をたたみ直すことが日課
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あるイズミストアに転籍、能勢店で惣菜売場
を担当することになる。イズミストアは二年
後にイズミヤに吸収されるが、立ち上げの段
階ではイズミヤから男性四人と女性一人が転
籍した。孝和さんも手を挙げたが、残念なが
ら未来の奥様と一緒に転籍するという夢は叶
わなかった。
精肉売場には、取引先の肉屋さんが応援に
派遣されていた。昔、伊丹十三監督・宮本信
子主演の「スーパーの女」という映画があっ
たが、生鮮食品の取り扱いには職人的な専門
的技術やノウハウが必要であり、初期の食品
スーパーというのは、取引先の応援無しに運
営することが困難であったことを推測させる。
紀美さんは、当初衣料品の売場を担当して
いたが、結婚が決まっていたので、惣菜売場
に配置換えを希望した。
惣菜は自社加工型で、
東横デパートの惣菜部長を招いて実演販売を
し、当時では珍しい洋風シルバーサラダや冷
凍サンマの蒲焼を作ったり、先生が「塩○グ
ラム」と言いながらつまんだ量がぴったり合
っているのに驚いたこと、実演販売の時には
いつも売場にお客様の人だかりができたこと
などが思い出されるという。
アットホームの中にある厳しさ
昭和33 ∼ 34年頃には、社長の生家があっ
た箱作に、
社員で松茸狩りに行くこともあり、
職場は和気あいあいとした雰囲気だった。そ
の後、大量出店に伴う人材確保のため、人事
部は山陰や四国・九州の高校を回ることにな
るが、女子社員は全寮制であったことが「イ
ズミヤさんなら安心」という評価につながっ
たことは、以前にも指摘した(88号)。また
女子社員の場合、いわゆる花嫁修業の一環と
して、茶道、生け花、料理などの倶楽部活動
昭和 33 年 10 月 23 日松茸狩りで(前列右端が上野氏)
も盛んに行われたが、紀美さんの場合には住
み込みであったために、奥様と一緒にお茶、
お花を習うことが多かったという。
住み込みの仕事の一つとして、朝の拭き掃
除があった。カウンター、商品台、ガラスな
どを拭くのであるが、「冷たい水で拭いたら
いかん」と言われた。水が冷たいと手が痛く
て拭くのが乱雑になるからである。そのため、
「歌のない歌謡曲」というラジオ番組を聞き
ながら、お湯を沸かすのが日課となっていた。
その時には、普通なら捨てる服地を巻く板を
燃やし、燃料費を節約した。
孝和さんは当時、服地を上に放り投げなが
ら解くのを得意としていたが、荷物や服地を
結んだ紐をハサミで切ると怒られたという。
再利用するためである。経費や無駄に対して
は厳しく、社長自らも「始末」を実践してい
るので、従業員も見習わざるを得なかった。
二人は昭和36年2月に結婚、同年12月に紀
美さんは退職されたが、37年、長男誕生後に、
年始のごあいさつに夫婦そろって伺うと、大
学を卒業したばかりの三男の昭男さんがピア
ノを弾いてくださったこともあった。また、
夫妻の神戸転宅後には、年末に自宅まで源三
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郎社長の奥様が子供のテーブルやイスを持っ
て来てくださったこともあった。
言え、自宅に電話が設置されたことには驚か
されたという。またご家族の都合で、孝和さ
堺東店のオープン
昭和40年に泉北ニュータウンの建設工事
が開始されるなど、郊外への人口移動が始ま
んは遠くへ転勤できなかったが、そうした事
情も配慮された。社員を大切にする雰囲気に
った。
「100万都市構想」がぶち上げられ、新
しい商業施設も開業することになる。39年に
は高島屋堺店、43年にはショッピングセンタ
ー第一号と言われたイズミヤ百舌鳥店が開業
する。
百舌鳥店に先立つ40年に開業したイズミヤ
堺東店は、オープン当時、道路にはみ出るほ
どお客様の行列ができ、こんなにお客様でい
っぱいになったことは初めての経験であった
という。事前の市場調査で、富田林、別所な
ど沿線からのお客様の来店は予想されていた
が、実際にオープンしてみると、それだけで
なく中には淡路島や富田林の奥にある商店街
など地方の小売業も来ていた。通常20 ∼ 30
%の粗利を12 ∼ 13%まで引き下げて安く売
っていたために、イズミヤから商品を仕入れ
て販売しても十分利益がとれたからである。
開業してから4∼5日間、夜遅くまで閉店
後の整理に忙しく、女子社員の帰宅の時間が
遅くなった。女子社員は白鷺の寮に帰る必要
があり、夜道の帰宅は不安であった。そうし
た気持ちを汲んで、店長であった孝和さんは
本社に対してバスでの送りを掛け合った。ダ
メもとの要請だったが、予想に反して即座に
OKが出たという。当時の責任者は酒井さん
溢れていたのである。
感想
上野さんご夫婦の言葉の端々から、イズミ
ヤに対する熱い想いが伝わってきた。今でも、
近所にできた競合店には行かず、イズミヤの
店舗につい足が向いてしまうという。最後ま
で勤め上げられた従業員であれば当然のこと
かもしれないが、「愛社精神」もさることな
がら、イズミヤの「信条」が社員の間で受け
継がれ、脈々と流れていることを再確認した
インタビューであった。
今回も、安く仕入れた商品の粗利をどうす
るかを悩んだあげく、源三郎社長は「一晩、
神様に聞いたが、やっぱり暴利をとったらい
かん」との答えだったというエピソードを聞
いた(第86号の三浦氏インタビューも参照)。
最近、行動規範として、信条、クレドとい
ったことが注目され始めている。3月11日の
東日本大震災の発生時に情報が遮断され、し
かも予想ができない状況の発生に対して各店
舗が意思決定を行う場合、重要なのは不測の
事態に対しきめ細かい対応策を決めておくと
いうよりも、原則だけを決めておいて後は状
況を見ながら臨機応変に対応する方が望まし
い結果が出たという教訓が示唆されているか
らである。まさに、前述した逸話は、最もわ
だったが、
社長の次男である和田満治さん
(後
の社長)
と相談ができていたのかもしれない、
かりやすい形で、事業の目的、従業員の行動
規範を示したものと言えるだろう。こうした
と推測されている。
「こっちが思ってもいな
いことが、ポコポコ実現される」という会社
の雰囲気で、店長になった時も、連絡用とは
逸話が社員の間に共有されていることは、イ
ズミヤの真髄が極めてシンプルな形で理解さ
れ、会社の強みとなっていたことを窺わせる。
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