三岸アトリエ - 中野区立図書館

 中野にたたずむ近代モダニズム建築
新
みぎし
青梅街道から小道に入ったところにひっそりとた
みぎし
こうたろう
たずむ、大きな窓の白い建築物、
「三岸アトリエ」。
年~昭和
年、以下「好太郎」)がイメージ
このアトリエは、中野区ゆかりの洋画家・三岸好 太郎
氏(明治
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いわお
京した。大正
年第
年第
回春陽展を首席で受
回中央美術展入選、大正
回春陽展に入選、翌年には第
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2
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せつこ
年、以下「節子」)と結婚する。
年
38
夫婦は昭和 年に鷺宮に最初のアトリエ兼住宅を建
設する。好太郎が仕事にしていた家庭購買組合の商品
~平成
その年、愛知県の旧家で育った吉田節 子氏(明治
よしだ
賞するという彗星のごとく現れた期待の新人であった。
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施主の好太郎は北海道の札幌第一中学校(現・札幌
南高等学校)を卒業後、大正 年に洋画家を志して上
変貴重な存在である。
のモダニズム建築の数が少なくなっているなかで、大
山 脇 巌 氏が設計した、木造モダニズム建築だ。戦前
やまわき
図を描き、ドイツに留学してバウハウス建築を学んだ
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年間節子が制
月、好太郎は胃潰瘍のため竣工を待た
月に亡くなった。その後
年
ずして同年
のアトリエの活動についてお伺いすることができた。
いる。今回はこのお2人に三岸夫妻の思い出や、現在
向坂陽子さんと孫である山本愛子さんが守りつづけて
さきさか ようこ
作の場とした三岸アトリエは、今もなお夫妻の長女の
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のは昭和
入ったのだそうだ。現在のアトリエの建設が完成した
していた際に、茅葺屋根の家が見えるこの場所が気に
ケースやポスターなどのデザインのために周辺を往来
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アトリエ竣工時 , 外観写真:三岸アトリエ提供 (1934)
中野区立図書館ホームページへ行く
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「三岸アトリエ」
陽子さんたち姉妹も好太郎と
父、好太郎
しき小川を中心に、木立が遠
くに臨める、色調も穏やかな
陽子さんに父である好太郎
のことを伺うと、「父は子ども のんびりとした作品である。
べ、夫の没後も子どもたち
の頃に亡くなった好太郎と比
行ってくれました。
く川や田んぼへ遊びに連れて
好太郎は、新しい表現を瞬
く間に吸収して自分のものと
もしれない。
たちには逞しく映ったのだろ
けた節子の生き方は、子ども
人を育て上げながら、女流画
たくま
年に北海道立美術
驚くほどであった。また、死
翌年パリへ移住する。苦難を
館三岸好太郎を設立すると、
な時だったんじゃないでしょ
ました。あの頃が一番、幸せ
が行われた。(写真左下)
と貝殻」作品を集めて遺作展
う好太郎最期のシリーズ「蝶
いた。(節子肖像写真は次頁参
輪の花のような笑顔を見せて
めに旅立とうとする節子は大
下段左より:澤地久枝『好太郎と節子 - 宿縁のふたり』日本放送出版協会 , 中央・鷺宮・野方・南台所蔵 /
照。澤地久枝『好太郎と節子
宿縁のふたり』)
現アトリエ内部
した」と回想している。
(引用『三岸節子 修羅の
門』)
北海道立三岸好太郎
美術館には節子が寄贈
した好太郎の描いた鷺
宮の風景画が残されて
いる。(三岸好太郎『鷺
宮風景』)妙正寺川と思
木曜日)
会主催の「まちなかサロン」への参画。
(※アトリエ開放は毎月第
また、ギャラリーとしての展示会や、
落語の会が行われるなど多様な文化活
動のために広くに活用されている。
しかし、東日本大震災の影響で壁に
亀裂が入ったり、老朽化で天井が一部
月には、中野の歴史的建造
崩れたりと大規模な修繕が必要な状況
だ。昨年
物の保存と活用を目的とする「中野た
てもの応援団」のサポートもあり、国
の登録有形文化財に認定されたが、ア
トカルの事業収入を修繕費に充てた
り、個人として可能な範囲で維持管理
をしているのだという。地域住民が自
分たちの街にある文化財の価値を理解
し、活用、保護していくことは、魅力
ある街づくりの起点にもなり得る。愛
子さんは、「いつか三岸アトリエを完
全復元したい」と今後の活動にも意欲
的だった。
節子は晩年渡欧する際に、「このア
トリエを大切にしてね」と言って出掛
けたのだという。それから幾年が経っ
ただろうか、アトリエの中庭には陽子
写真 上段左より:長女・向坂陽子さん。三岸アトリエの中庭にて (2014.12) / 三岸好太郎によるアトリエイメージ 北海道立三岸好太郎美術館提供 / かわいがりましたし、満点で
うか。いい人でした。子供を
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seebiblia vol.11 P.2
母、節子
達には優しかったですね。怒
一緒に散歩して眺めた風景か
「母(節子)は強い人でした」
と陽子さん。陽子さんが 歳
られたこともなかったし、よ
弟の黄太郎はザリガニ採りが
したが、特に晩年の作風の変
う。昭和
家として精力的に絵を描き続
上手くて」と懐かしそうに目
化の目まぐるしさは、周囲が
後完成したアトリエでは、わ
乗り越え、自由に絵を描くた
こうたろう
を細めた。
当時のことを節子は「好太
郎が想像以上に家庭的でいい
ずか 日間で描き上げたとい
三岸好太郎『鷺宮風景』昭和 6-7 年頃
人でしたし、親切にしてくれ
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さんが綺麗に手入れした花が咲き誇っ
ていた。
子育て中のお母さん方やシニアの世代などが集い交流できるきっかけづくりの取り組み。中野区社会福祉協議会主催。
下:好太郎氏遺作展の様子 (1934.11)
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三岸アトリエ『三岸アトリエ』アトカル発行 , 中央・鷺宮所蔵 / 老朽化で壁面が落ちた天井 (2014.12)/ 竣工時アトリエ外観 (1934)
アトリエの今
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上:三岸好太郎『海と斜光』福岡美術館所蔵
※まちなかサロン:区民の自宅や地域セン夕ー等を会場に、区民同士が気軽に集える ” 憩いの場 ”。
三岸アトリエの白くて四角い近代
的な外観は、当時は眼を引き、近
所の人々に「豆腐の家」と言われ
たそうだ。このアトリエで節子が
絵を描く姿を、陽子さんたち兄妹
三人は、螺旋階段を登ったところ
にある部屋から眺めていたそう
だ。
年前までは未公開だった。
教室開講や、中野区社会福祉協議
友人を講師に招いてのブリザー
ブドフラワーやビーズなど趣味の
として積極的に活動している。
(「アトリエでカルチャー」の略語)
決めたそうだ。現在、「アトカル」
んは、維持修復と地域への公開を
値を再認識した陽子さんと愛子さ
造物調査を契機に、アトリエの価
中野区教育委員会による歴史的建
が、
数少ない戦前の木造モダニズム
建築として貴重な三岸アトリエだ
地を往来する人々の顔が見える。
たという大きな窓からは、今は路
変わった。当時は茅葺屋根が見え
竣工時( 参照)と比べると周
囲に家が立ち並び、環境は大きく
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中野にたたずむ近代モダニズム建築「三岸アトリエ」
中野にたたずむ近代モダニズム建築「三岸アトリエ」