創作社とアララギ歌風 ︱大橋松平を視座として

創作社とアララギ歌風 ―大橋松平を視座として―
︱大橋松平を視座として︱
創作社とアララギ歌風
︿論文要旨﹀
小
倉
真理子
*
若山牧水が創設した創作社の歌人に大橋松平という人物がいる。現在、松平を知る人はほとんどいなくなったが、松平は創作社の重
鎮であると同時に、当時の歌壇から信頼される第一線のジャーナリストでもあった。その松平は創作社にありながら、アララギ派の斎
1
藤茂吉の指導を受けて傾倒した結果、茂吉に類似した歌を作成した。本稿では、矛盾に満ちているかに見える松平の行動を視座としな
それと同時に、歌人たちの拠り所となる雑誌﹁短歌研究﹂を編集す
こともあった。牧水の門下として、
創作社の重鎮であったといえる。
に参加し、牧水が没した昭和三年以後は﹁創作﹂での選者を務めた
残した人物である。大正六年に牧水が復活させた詩歌雑誌﹁創作﹂
がら、大正・昭和期におけるアララギ歌風の広がりについて論じた。
︿キーワード﹀
大橋松平・創作社・若山牧水・斎藤茂吉・アララギ派
Ⅰ.はじめに
現在、創作社の歌人だった大橋松平の名を知る人はほとんどいな
くなった。が、松平は若山牧水門の有力な歌人として多くの佳作を
東京成徳大学経営学部 准教授
*
経営論集 第4号(2015)
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創作社とアララギ歌風 ―大橋松平を視座として―
る歌壇の代表的なジャーナリストでもあった。
その松平の第一歌集﹃門川﹄︵昭和十一年十一月
創作社叢書第
十篇︶の刊行は実に華々しかった。﹁創作﹂誌上で取り上げられた
のは、もちろん、社外の太田水穂・斎藤茂吉・窪田空穂ら当時の代
表的な歌人たちによって、それぞれの雑誌で取り上げられ讃えられ
た。
▽歌集﹁門川﹂の背景となつてゐるものは尋常歌人のセンチ及至感
覚、はたまた技巧などといふ種類のもので無く、直ちに人間の活
き方の根本的なものに殺到してゐるので⋮
︵太田水穂﹁潮音﹂昭和十一年十二月︶
▽大橋君の歌には、潤ひがあり、また何処かに情感的なところがあ
り、また、宗教的、思想的の分子のあるのは、君の生の本質に本
づくもので、既に長崎時代から自分は君からさういふ特質を感じ
つつあつたものである。
︵斎藤茂吉﹁短歌研究﹂昭和十二年一月︶
▽大橋松平君の﹁門川﹂を読んで、私はだしぬけに横面を打たれた
感がしたといつた。それは私も同じく作歌者として、作歌の根本
吉、新詩社社友から出発して独自な境地を切り開いた窪田空穂など、
様々な立場の歌人がいずれも絶賛に近い形で松平の歌集を評価して
いるのは驚きに値する。当時、松平は一定以上の評価を得ていた一
流の歌人であったといってよい。
本稿では、現在ほとんど忘れ去られてしまっている大橋松平の歌
作を振り返りながら、松平を生み出した創作社や当時の歌壇の実相
を明らかにしていきたいと思う。
Ⅱ.﹃門川﹄の歌
まずは、松平がどのような歌を詠む歌人であったのかを辿ってみ
よう。松平が絶賛された歌集﹃門川﹄には次のような歌が掲載され
ている。
川よ運びし砂を庭にいれ四季に咲く花を植ゑむとおもふ
A門
B門川のすがしながれを汲み来り夕べは庭にまくべかりけり
C門川の浅き澱みに夕されば馬ひかれ来て洗はれにけり
﹁水泡集
大正十一年﹂という章には、右のように〝門川〟を詠
む三首が入れられており、歌集﹃門川﹄という表題がこの三首から
採られたものと考えられる。ここでは、A﹁花を植ゑむとおもふ﹂
、
として、また花として求めてゐる純粋さの上において、私の久し
く求めて得られずにゐる程度のものを、歌集﹁門川﹂は持ち得て
B﹁すがしながれを汲み来り∼庭にまくべかりけり﹂、C﹁馬ひか
九年︵二八歳︶から松平が長崎県社会事業協会書記となり長崎県庁
これらの歌は﹁市営住宅新居﹂という小題を持っているので、大正
れ来て洗はれにけり﹂等、平明で落ち着いた清々しさが詠まれる。
ゐるといふ意なのである。
2
︵窪田空穂﹁槻の木﹂昭和十二年一月︶
牧 水 と 親 し い 間 柄 で あ っ た が、 当 時 は﹁ 潮 音 ﹂ の 主 宰 者 と な っ
て い た 太 田 水 穂、 ア ラ ラ ギ 派 の 中 枢 に あ っ て 派 を 牽 引 し た 斎 藤 茂
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創作社とアララギ歌風 ―大橋松平を視座として―
に勤務していた頃に詠まれたものと知られる。松平の生活に漸く安
ここに挙げた歌はいずれも、自身の生活と向き合ったところから素
直に詠み出された佳作であって、
﹃門川﹄を評した前掲の歌人たち
﹁潤ひがあり、また何処かに情感的なところがあり﹂
︵茂吉︶
・
﹁作歌
らぎが得られるようになった時期の歌である。
このような清らかな安らぎに到る以前の歌の中には、次のように
貧しさに喘ぐ歌も詠まれている。
られたことも首肯できる。では、家業の床屋を営み、その後、長崎
の根本として、また花として求めてゐる純粋さ﹂
︵空穂︶等と讃え
に﹁直ちに人間の活き方の根本的なものに殺到している﹂
︵水穂︶
・
D米屋には払はねばならず母に秘めて植木の鉢を売りにけるかも
︵
﹁貧しさ﹂
︶
県庁へ勤務した松平にあって、短歌はどのような形で学ばれたので
あろうか。
友のくれた〝剃刀〟をありがたく押し抱くことが詠まれるEの歌な
F母と妻厨にありてねもごろに語るをひとりあはれみにけり
米 屋 へ の 支 払 い の 為 に 母 親 に 秘 め て 植 木 の 鉢 を 売 る と い うD の
歌。床屋という家業を継ぎながら〝よき剃刀〟を持たない作者が、
とになった。それから十四年後の昭和六年になると、上京して、短
﹁創作﹂を復活させる際、中村三郎に誘われて創作社に入社するこ
の世界に大きく踏み出していった。そして、大正六年に若山牧水が
﹁我は床屋なればよき剃刀を欲しと思ふこと久しかりき﹂
Eあるときは友がくれたる剃刀をおしいただきて涙こぼるる
ど、﹃門川﹄には貧しさを淋しく見つめる歌も多い。F の歌で母と
歌関係の書籍を刊行する改造社の記者となったのだ。ということは、
﹃門川﹄の歌々に先立つ大正四年︵二三歳︶の時、後に
松平は、
若山牧水の助手を務める中村三郎︵長崎生まれ︶と知り合い、短歌
妻とが厨でねんごろに語りあっているのは、十分に整えることので
処女歌集﹃門川﹄を刊行する五年前に、松平は牧水門下となってい
︵
﹃門川﹄中﹁西明寺抄﹂
︶
来りてひとり踊れり
G昼浜のとほき渚にまはだかの童
歌々を見てみよう。
のずと、牧水による指導の跡が濃厚であることが推測されよう。
しかしながら、歌集﹃門川﹄に収められている歌の中には、牧水
調とは異なる次のような歌々があり、目を引き付けられる。以下の
たことになる。牧水からの指導を受けたことも多かったはずだ。お
きない食卓のことなのであろう。
松平は、明治二六年九月五日、大分県日田郡日田町︵現、日田市︶
に岩崎家の四男として生まれた。父は菓子屋を営み、かなり裕福で
あったという。一時は、長崎に移住して菓子屋の支店を出すなど賑
わったが、家運が傾き、松平は十一歳にして、長崎市紺屋町で床屋
を営む貧しい老夫婦の大橋徳三郎・キチの養子となって養われるこ
とになったのである。尋常小学校在学中には床屋の手伝いをしてい
たともいう。その後、家業を継ぐが、家運は傾き、大正七年︵二六
歳︶に妻ヒナを迎えた後も苦しい生活は続いていたのだった。
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﹃門川﹄も初期の大正八年にあるK の歌では﹁赤き白き
さらに、
睡蓮あまた咲けりけり﹂
と寺の池に咲く赤と白の睡蓮を詠んでいる。
しろくかがやき赤き華赤き光を放ちゐるところ
L白き華
︵茂吉﹃赤光﹄中﹁地獄極楽図﹂
︶
まず、松平が﹁昼浜のとほき渚﹂にひとり踊る〝童〟を詠んだG
の歌からは、﹃門川﹄刊行より二十年も前に、北原白秋が﹃雲母集﹄
︵大
これは、茂吉の歌集﹃赤光﹄
︵大正二年刊︶で白と赤の蓮の華の輝
海の前に泣く童あり
H 何事の物のあはれを感ずらむ大
︵白秋﹃雲母集﹄中﹁童子抄﹂
︶
正四年︶で﹁大海﹂を前に泣く〝童〟を詠んだHの歌が思い起こさ
きを詠んだLの歌を思い起こさせるものだ。
1. 歌集﹃幼学﹄の意味
Ⅲ.松平の修練
かる。
視野から先人の歌を学ぼうとする意欲の強い歌人であったことがわ
以上、一見、模倣とも感じられる類の習作は、牧水門にあったと
しても、松平が明星派から出た白秋やアララギ派の茂吉など幅広い
3
れる。白秋の歌には﹁まはだか﹂や﹁ひとり﹂という表現が使われ
ていないけれども、歌集の挿絵には、海を前に、河童に似た真裸の
一人の童が泣いている様が描かれている。松平の歌は﹃雲母集﹄に
ある白秋の歌と無関係とは考えにくい。
Iきやべつ畑に雪つみければまるまるときやべつの玉ぞ見えてな
らべる
︵﹃門川﹄中﹁冬﹂
︶
面より転げ出でたる玉キヤベツいつくしきかも皆玉のごと
J地
︵白秋﹃雲母集﹄中﹁地面と野菜﹂
︶
なかった。第二歌集﹃幼学﹄
︵昭和十五年 墨水書房︶においても、
ますます諸派の歌人の歌を学ぶ姿勢を押し出している。
そもそも﹃幼
このような類の修練は、第一歌集の﹃門川﹄に限られることでは
る。いずれも、丸々としたキャベツを詠んで、〝きやべつの玉〟
〝玉
学﹄という一風変わった歌集名の由来からして修練への意欲を示す
また、まるまると成長したキャベツの玉を詠むIの歌も、J で示
すように﹃雲母集﹄にある白秋のキャベツの歌との共通点が見られ
キヤベツ〟と表したものである。キャベツを歌に詠むことは、
当時、
ものであった。
﹁此の十年間にただ一つ、自分がいかに無学であるかとふこと
新しい歌の題材を開拓する中で白秋が見出した素材であった。
﹃雲
母集﹄の歌を経ることなしに松平のキャベツ畑の歌が生まれること
だけを心の底で認め得たのであつた。︵中略︶
﹃幼学﹄といふの
意味を、私自身に強調する言葉に過ぎない﹂
は、遅蒔きながら私の作歌においての心構へを定めようとする
はなかったであろう。
K赤き白き睡蓮あまた咲けりけり赤き花ひとつ大きなる見ゆ
︵﹃門川﹄中﹁西明寺抄﹂
︶
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の 境 地 を 目 指 そ う と し て い た た め で あ ろ う。 そ の﹃ 幼 学 ﹄ の 昭 和
﹃ 幼 学 ﹄ は そ の﹁ 後 記 ﹂ で 右 の よ う に 述 べ、 短 歌 を 学 ぶ 意 気 込 み
を宣言している。当代の歌人達の方法を充分に吸収しながら、自身
歌を丁寧に研究し、自身に取り込もうとしている跡が明瞭だ。利玄
らぞある﹂に通ずると考えられる。これらは松平が利玄の牡丹花の
丹にまで心を配る視線は、利玄のエ﹁牡丹花なくなりて∼土に花び
窺える。さらに、松平がP﹁くづれし花弁床にありて﹂など散る牡
十四年作の中には、次のように牡丹の花を詠んだ歌がある。
中の唯一の歌人として活躍した人物であり、松平の属した創作社と
は佐佐木信綱門下として﹁心の花﹂から出て、その後﹁白樺﹂派の
M白牡丹咲ききはまりて輝りふかしひろき花びらの重なれる影
︵﹁早春より初夏へ﹂
︶
歌人でも臆することなく取り入れて修練していたということがわか
の歌を彷彿とさせる。
正十年刊︶最末の〝船より鳴れる太笛のこだまはながし〟というS
立長崎病院精神科部長として赴任した折に詠んだ﹃あらたま﹄
︵大
これらは、茂吉が東京から離れ、単身で長崎医学専門学校教授兼県
着目して〝船の太笛〟と表し、〝笛ふとぶとと鳴らしつつ〟と詠んだ。
昭和十一年作﹁海上吟﹂のQ ・Rで松平は船の汽笛が太く響くのに
さらにこの﹃幼学﹄では、先に名前の挙がった茂吉の歌の影響も
見逃すことができない。次にその例を挙げてみよう。まず、﹃幼学﹄
る。
は一線を画したところにいたことは言うまでもない。松平は他派の
N澄みとほる牡丹の白花くづれむとする危ぶさにありてかがやく
の音
O板の間の牡丹、窓の射光をあつめて白し、あはれ、遠き衢
にありて窓は明るき空をうつせり
P 白牡丹のくづれし花弁床
これらを詠んで、木下利玄の﹃一路﹄︵大正十三年刊︶にある牡
丹花の歌を想起しない人はいないだろう。
丹花は咲き定まりて静かなり花の占めたる位置のたしかさ
ア牡
ひ映りあひくれなゐの牡丹の奥のかゞよひの濃さ
イ花びらの匂
牡丹花は底びかりせり
ウ床の間のをぐらきに置く鉢の牡丹白
エ低き木の大き牡丹花なくなりてその根の土に花びらぞある
松平の牡丹の歌には利玄の牡丹花の影が濃厚だ。単に、M﹁白牡
丹咲ききはまりて﹂に利玄の最も人口に膾炙されている歌のア﹁牡
Q ま夜中に海を見にゆく人をりてしきりに鳴らす船の太笛
︶
︵
﹃幼学﹄中﹁海上吟﹂
ではない。松平のM﹁輝りふかし∼花びらの重なれる影﹂は、利玄
丹花は咲き定まりて﹂という言い回しが取り入れられているばかり
の イ﹁ 牡 丹 の 奥 の か ゞ よ ひ の 濃 さ ﹂ や ウ﹁ 白 牡 丹 花 は 底 び か り せ
り﹂を思い起こさせるものである。また、利玄がウ﹁床の間のをぐ
中に笛ふとぶとと鳴らしつつ船の進みは停りたるらし
R洋
あけて船より鳴れる太笛のこだまはながし竝みよろふ山
S朝
︵茂吉﹃あらたま﹄中﹁長崎へ﹂
︶
らきに置く鉢の牡丹﹂を詠んだのに対して、松平がO﹁板の間の牡
丹、窓の射光をあつめて白し﹂と意識的に対峙して詠んでいる様も
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創作社とアララギ歌風 ―大橋松平を視座として―
次に、﹃幼学﹄中の昭和十五年作﹁箱根小吟﹂のT において、松
平は草の葉の裏にいて消え入りそうな秋の蛍の生命を哀惜して〝い
のち生きつつ〟と詠んだ。これも、茂吉の代表作で、草を這う朝の
蛍に〝いのち〟の儚さを見たUの歌を想起させる。
T草の葉にこもりて光り息づける秋の蛍やいのち生きつつ
︵﹃幼学﹄中﹁箱根小吟﹂
︶
づたふ朝の蛍よみじかかるわれのいのちを死なしむなゆめ
U草
︵茂吉﹃あらたま﹄中﹁朝の蛍﹂
︶
えてくる。
尊びてわが来りける年まさに半生を経て弟子と名のらず
︵
﹃夕雲﹄中﹁感動﹂︶
ひそかに後にしたがひわが学ぶこころをあへていふこともなし
4
﹄で昭和十六年に詠
右は、松平の第四歌集である﹃夕雲
第一部
まれた歌である。
牧水門下の松平が
﹁半生を経て弟子と名のらず﹂
に、
﹁ひそかに後にしたがひわが学ぶこころをあへていふこともなし﹂
と歌った相手は、まさに、牧水とは派を異にするアララギ派の茂吉
うしてみると、歌集﹃幼学﹄は、松平が茂吉に心酔していることを
であったのだ。これは、歌集﹃幼学﹄の巻頭に、茂吉が描いた秋草
また、戦時中の昭和十五年作にある松平の﹁秋三題﹂のVの歌で
は、外来米ではあっても飯を食うことが自身の生命力と結びつくこ
隠すことなく表明している歌集であったともいうことができよう。
2.松平と茂吉
のスケッチが掲載されていることからも窺い知ることができる。こ
とが詠まれている。これはWのように〝飯〟を食うことが生きの証
しであると詠まれた茂吉の歌に通ずる詠みぶりといえるだろう。
子をいれて朝々を外米の飯を食ひあかなくに
V 味噌汁に茄
︵﹃幼学﹄中﹁秋三題﹂
︶
ある︵
︹ 表 1︺ 参 照 ︶
。茂吉が長崎時代に力を注いだ雑誌﹁紅毛船﹂
そもそも、松平と茂吉の交流が始まったのは、大正六年から大正
十年にかけて茂吉が長崎医学専門学校教授として赴任した頃からで
て朝の飯食む我が命は短かからむと思ひて飯はむ
W ひとり居
︵茂吉﹃赤光﹄中﹁木の実﹂
︶
平が、茂吉の指導を受けながら茂吉の元で活躍し、共に語り合うこ
先に述べたように、松平は茂吉と出会ったのと同じ年の大正六年
に、牧水が主催する創作社に入社していた。けれども、長崎にいる
とも多かったと推察できる。
には松平の歌や歌評が大きく掲載されている。長崎に住んでいた松
ここに挙げた松平の歌は、様々な箇所において様々な視点から詠
まれているものであるが、いずれも、茂吉の歌集にあっておかしく
ない声調を有しているということができる。こうして、
歌集﹃幼学﹄
的に表す一方、茂吉については、他の歌人の歌を学ぶのとは違う熱
松平が東京に住む牧水と直接に出会う機会はなかなか訪れなかっ
の全体において、松平が様々な歌人から学んでいる側面を自ら積極
意を持って、歌の表現や声調を学び、盛んに吸収している様子が見
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経営論集 第4号(2015)
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このように親しくなった松平と茂吉も、大正十年になると茂吉が
長崎の仕事を辞し留学の途に着いたために、長崎で二人が会う機会
た。松平が牧水と初めて対面するのは、それから五年後の大正十一
年のことになる。牧水門下でありながら松平は牧水より先に、茂吉
床屋の修業をしていた松平が、茂吉の髭を剃る様子が眼に浮かぶ
ようだ。一方の松平も茂吉の名を歌集の中に掲げ、茂吉への思いを
る。
日経て顔にのびそめしわが髭を君ねもころに剃りてくれたり
二
︶
大橋松平氏
︵茂吉﹃白桃﹄中﹁高山国吟行﹂
大橋松平君
︵茂吉﹃石泉﹄中﹁養病微吟﹂︶
また、昭和八年十月には茂吉と松平二人が連れだって上高地に出
かけることもあった。この時の歌も茂吉の歌集﹃白桃﹄に残ってい
幾とせぶりにてあるかつつじ花にほへる山に君とあひ見し
和六年︶でこの時の再会を歌に留めている。
か松平にはこの時の歌が残っていないけれども、
茂吉は﹃石泉﹄︵昭
く、病を養う茂吉を那須温泉に訪ねている。上京で多忙だったため
は失われた。
しかし、
それによって二人の交流が絶えることはなかっ
中村三郎を知る
前田夕暮の︿白日社﹀に入社
若山牧水の︿創作社﹀に入社
斎藤茂吉、長崎へ赴任
と親しく接する機会を得ていたのだ。茂吉の考え方が松平に浸透し
大正四年
大正五年
大正六年
長崎県庁入庁
た。昭和六年、松平は改造社の仕事を引き受けて上京するとまもな
大正九年
秋、牧水と沼津にて初めて会う
牧水が長崎に来遊
松平、
﹃若山牧水﹄を刊行
ていたとしても不思議とは言えない。
大正十一年
大正十三年
大正十四年
昭和三年
九月牧水死去
昭和六年
五月東京移住、改造社入社
六月茂吉を那須温泉に見舞う
昭和八年
十月茂吉と上高地へ同行
昭和十一年 ﹃門川﹄刊行
︶ ︵
﹃幼学﹄中﹁天城越﹂
︶
も︵斎藤茂吉先生へ の石をひろひ行きます
茂吉先生雨の中にて路面より翠
︵
﹃幼学﹄中﹁上野公園﹂
︶
込めている。
さ夜ふけて斎藤茂吉先生の鰻の食ひ方を思ひ出でをり
昭和十三年作の﹁天城越﹂では、旅にあっても茂吉を思う歌を詠
日に三たびかならず浴みて眠れよと言ひまししゆゑ眠りけるか
淡 墨 夕雲① 幼 学
門川の作歌時期
夕雲②
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昭和十五年 ﹃幼学﹄刊行
昭和三二年 ﹃夕雲﹄刊行
昭和二二年 茂吉を山形県大石田に見舞う
昭和二六年 ﹃淡墨﹄刊行
昭和二七年 四月松平死去
〔表1〕大橋松平略年譜
創作社とアララギ歌風 ―大橋松平を視座として―
れても尽きることのない大きな問題であるが、これを極度に狭
のを認める﹄と、前著歌集
﹁幼学﹂
の後記に私は書いた。︵中略︶﹁真
野公園﹂の歌においては、後に従って歩くことさえ嬉しいと感じて
小な範囲に限つて、今私は私自身の﹁作歌﹂の上だけについて
んだ。また、昭和十五年作の﹁上野公園﹂からは、散策にも連れ立っ
いる様子が窺える。この時、松平の師である牧水はすでに没して十
考へてみる。私の作歌の上においての真実とは、私自身の態度
実﹂とは一体どんなものであらうか。此の問題はいくら研究さ
年以上を経ており、松平は創作社を支えるべき位置にいたわけだが、
の在り方であり、
感動の在り方である。いかなる客観世界でも、
ていたことがわかる。これらの歌では、茂吉を〝先生〟と呼び、
﹁上
茂吉に対してこのような親近感を持って臨んでいたということは特
かりよく云へば、斎藤茂吉氏の﹁実相観入﹂がそのまま短歌形
それはそれだけでは作品の上での真実とはなり得ない。作品と
その後、太平洋戦争敗戦という新しい時代を迎えても、松平の茂
吉に対する態度は変わらなかった。松平は疎開の地で病を患った茂
式に﹁声調﹂化されたものが﹁真実﹂を示し得る短歌作品なの
筆すべきことであろう。
吉を山形県の大石田まで見舞いに訪れている。松平の第三歌集﹃淡
らは一つの世界ではあり得ても、そのままでは作品の世界とは
茂吉の日記によると、この訪問は昭和二十二年七月三十日のこと
だったとわかる。長崎に居た時分だけでなく、松平が上京した後も、
沢市、上の山温泉等に宿泊、同行高木一夫、渡辺淳両君。
七月下旬山形県大石田町に病後の斎藤茂吉先生を訪ふ。途中米
と、創作態度と、その表現力とが作品の価値を決定するのであ
もつと細かく言へば、客観世界を統一純化せしめる作者の主観
も同一程度の価値しかあり得ないのであつて、それに文学とし
なり得ないものである。客観世界としては﹁現実﹂も﹁虚構﹂
である。だから﹁現実﹂といつても﹁虚構﹂といつても、それ
は客観世界を統一純化した主観の具体的表現のことである。わ
墨﹄︵昭和二六年 長谷川書房︶の﹁最上川﹂二十六首には次のよ
うな詞書が添えられた。
長く茂吉との交流が続き、戦後には東京から遥かに遠い大石田まで
る。
歌形式に﹃声調﹄化されたものが﹃真実﹄を示し得る短歌作品なの
とは﹁わかりよく云へば、斎藤茂吉氏の﹃実相観入﹄がそのまま短
最も大切なものは﹁真実﹂であると主張するわけだ。が、その真実
この﹁後記﹂は松平の作歌についての考え方がまとめられており、
松平の短歌論ともいうべきものだ。その中で、松平は短歌において
て︵ここでは短歌として︶の価値を与へる者は作者だけである。
出向いていったのである。牧水門下として、松平は自分が茂吉の弟
子と考えているなどということは決して口にしなかったけれども、
心の内では、茂吉に従う心を持っていたのは明らかだ。
このような態度は、歌論においても見出すことができる。
﹃淡墨﹄
の﹁後記﹂で、松平は次のように述べている。
﹃ 微 か な が ら、 真 実 探 究 の 精 神 が、 私 の 内 に 芽 生 え つ つ あ る
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経営論集 第4号(2015)
創作社とアララギ歌風 ―大橋松平を視座として―
である﹂と述べており、松平の論が茂吉の提唱していた﹁実相観入﹂
にほとんど吸収されるような内容となっていることにも気づかされ
る。松平は、茂吉の表現を借りているばかりではなく、作歌姿勢に
では、松平の師である牧水は、アララギの歌風に対してどのよう
な態度をとっていたのであろうか。
鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ
白
てなむ国ぞ今日も旅ゆく
幾山河越えさり行かば寂しさの終
︵
﹃海の声﹄
﹃別離﹄
︶
︵
﹃海の声﹄﹃別離﹄
︶
﹃淡墨﹄が出版されたこの頃、太平洋戦争の敗戦を経て、歌壇に
は旋風が巻き起こっていた。桑原武夫の﹁第二芸術論﹂に代表され
も共感して茂吉の後に従っていたことがわかる。
る短歌否定論が加えられていた時期でもある。けれども、松平は昭
たとは一般的に考えられていない。
秀作だ。
こうした時期、
牧水とアララギ派との間に特別の交流があっ
これらは、明治四十年代作のもので、夕暮・牧水時代を築いた頃の
牧水の歌といえば、右のような牧水初期の歌々が挙げられること
が多い。そこには独自の声調があり、
他の歌人と一線を画している。
底に眼のなき魚の棲むといふ眼の無き魚の恋しかりけり
海
︵
﹃路上﹄
︶
和二十六年という時期に至っても、全く揺らぐことなく茂吉の表現
と歌論を頼りに、自分の歌世界を築いていたと知られる。
Ⅳ.牧水とアララギ歌風
以上のように、松平が茂吉に深く傾倒して行ったことについては、
批判がないわけではなかった。こうした点について松平自身も意識
牧水門に在りながら、牧水を継がず、茂吉を小さくしたような存
在と見られていた節があることを明かしている。他者からすれば、
けり
︵﹃淡墨﹄
中
﹁秋より冬へ﹂
︶
牧水をつがずとわれに加へたる批評もよみて半ばうたがふ
斎藤茂吉を小さくしたものとわが歌を批評しありてよく言ひに
いる。白秋と茂吉とは互いの歌風を尊重しあいながら接近し、つい
ラギ派の茂吉は急接近し、蜜月とも言える濃厚な交流の跡を見せて
四三年三月︶を実施したことに始まる。結果的に、アララギと明星
あった森鷗外が、当時、対峙していたアララギ派と明星派の接近を
一方、明治末期から大正期にかけては、歌壇を揺るがすような歌
人たちの交流が繰り広げられていた。それは、文学の指導的立場に
茂吉に心酔することは、牧水を裏切っているかのようにも見えてい
には、どちらが作成したかわからない程、類似した歌を詠むという
しており、次のような歌がある。
たのだろう。けれども、松平にとってそれは、心外なことだと主張
時期を迎えたのだった。こうした交流の渦には、牧水と並び称され
が融合することはなかったけれども、明星に属していた白秋とアラ
図 っ て 自 宅 の 二 階 で 歌 会 を 始 め た 観 潮 楼 歌 会︵ 明 治 四 十 年 三 月 ∼
しているのである。
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創作社とアララギ歌風 ―大橋松平を視座として―
た車前草社の前田夕暮や、﹁心の花﹂から出て﹁白樺﹂にも参加し
究が顧みられなかった所以である。
によって歌作を変化させたのではないかというような視点からの研
うな歌がある。
べきであろう。牧水第十三歌集﹁くろ土﹂
︵大正十年︶には次のよ
︵大
けれども、詳細に見ていくと、牧水の第七歌集﹃秋風の歌﹄
正三年︶あたりから牧水の歌に少しずつ変化があったことに気づく
た木下利玄なども、惹きつけられて飲み込まれていった。白秋と茂
吉を核に、いわば、短歌界全体を巻き込んだ怒涛のような交流の時
期を迎えたのである。
しかるにこの時、牧水は観潮楼歌会への出席もなく、他派との交
流に身をゆだねた跡も見られない。例えば、牧水と白秋は早稲田大
学で同期であり、同じ下宿で暮らしていたこともある。同じく同期
てばいつか木がくれに咲き出でし桜しづかなる
いついつと待
根に俄かに降れる夜の雨の音のたぬしも寝ざめてをれば
わが屋
︵
﹃くろ土﹄中﹁或る夜の雨﹂
︶
早稲田の三水と名乗ったこともある。にもかかわらず、二人は生活
だった中村春人を加え、牧水・射水︵白秋︶
・蘇水︵春人︶の三人で、
面でも歌作面でも同じ道を進むことはなかった。白秋は牧水の臨終
﹁さくら﹂
︶
かも
︵同
みわたす今朝の深雪に見とれつつ吸ひ吸ふ煙草やめられなく
積
に際し、次のように語る。
私たちの交情はそれ以来即かず離れずに進んで来た。彼が雑
誌の﹁創作﹂を出した時、私は頼まれて詩の選を引き受けもし、
これらには、一般的にアララギ的といわれる歌の調子があると言
えるのでないだろうか。それは﹁∼かも﹂
﹁∼なくに﹂
﹁∼み﹂という、
﹁大雪の後﹂
︶
に
︵同
雨のけふの強降めづらしみ杉の木むらを飽かず見るかも
春
︵同﹁二月の雨﹂︶
したが、我々の親密の程度はいつでももう一歩といふところで
万葉独自の語法が姿を表していることに起因している。﹁楽し﹂
を
﹁た
酒興に乗じては一緒に他を驚かしに行つたり、夜ふけの電車を
お互に立ち入れないものがあつた。/私は詩作の傍ら、また歌
ぬし﹂と表記した第一首目も、当時流行した万葉的表記に沿って歌
往来で立往生さしたり、無邪気な野放図もない酔態を演じなど
をも発表するやうになつたが、二人の道はやはり同じではなか
われたものだ。このような用法は初期の牧水歌には見られなかった
ところが、当の牧水は、これらの歌に先立ち、万葉集に多大な関
心を示すようになっていた。大正五年に草稿を書き、大正九年に刊
は違和感さえ覚える。
特徴である。初期の牧水歌からすると、万葉語を取り入れた表現に
つた。
︵﹁牧水逝く﹂昭和三年十一月﹁改造﹂
︶
晩年は﹁数百の門生に囲繞され、数十の新聞雑誌の選歌に禍され﹂
︵前掲書︶ていたという牧水ではあるけれども、歌作にあっては、﹁空
の青海のあをにも染まず﹂という白鳥のように、孤高な態度を保っ
ていたかのように受け取れるわけだ。今まで、牧水が何らかの影響
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経営論集 第4号(2015)
創作社とアララギ歌風 ―大橋松平を視座として―
の帯びた使命を充分に果たしただけの優秀の作物を収めてゐ
是非一読せねばならぬものであるが、更にこの歌集はその自分
ある。歌を知らうとか詠まうとかするにはこの点からだけでも
出来るやうになつたそも〳〵の所以を物語つてゐる様なもので
謂はゞ万葉集は、この歌集に収められた歌は、歌といふものが
に信じられないかもしれない。けれども、万葉集享受の様相を観る
に同調する姿勢を示すなどということは牧水のイメージからは俄か
いう側面からは、超然としていたかに見える牧水であり、アララギ
要な点として認識すべきことなのではあるまいか。他派との交流と
の点について、従来、注目される事がなかった。が、実は大変に重
表れていったと考えるべきであろう。牧水の歌風を論じるとき、こ
作法﹄はまさにこの時期に構想され、次第に牧水の歌風にも変化が
る。
﹃万葉集﹄の次に出た歌集は﹃古今集﹄であるが、この集
限り、牧水もアララギの台頭に対しては、その影響を免れず、受け
行した﹃短歌作法﹄では万葉集を強く推奨している。
に及んでは多少万葉集の脈を引きながらも余程悪く変化して居
入れる様を見せていると考えないわけにはいかない。牧水は、自身
﹁貫之は下手な歌よみに
向に振ひ不申候。
﹂︵﹁歌よみに与ふる書﹂︶、
だ。松平が茂吉に傾倒し、接近していった背景には、このような時
他派の動きに超然としていたかに見える牧水においてさえ、大正
五年以降はアララギ的な歌風に身を委ねることを免れなかったの
の到達地点と認識して近づこうとしていたと知られる。
の持つ歌風とは異なるところにある万葉的なアララギ歌風を、一つ
る。
古今集について﹁万葉集の脈を引きながらも余程悪く変化して居
る﹂と述べ、万葉集を高く、古今集を低く評価するのは、まさに、
﹁近
て古今集はくだらぬ集に有之候。﹂︵﹁再び歌よみに与ふる書﹂︶等と
代の風潮があったことを忘れてはならない。松平は牧水を否定した
来和歌は一向に振ひ不申候。正直に申し候へば万葉以来実朝以来一
主張するアララギ派の祖・正岡子規の考えをほぼ全面的に受け入れ
り、対立したりする存在として茂吉を学んだのではなく、むしろ、
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たものといってよい。さらに、牧水は右の文章に続いて、万葉集に
牧水と同じ方向に向いていたともいえるのではないだろうか。松平
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ついて学ぶことのできる書籍に触れ、
﹁尾山篤二郎氏の﹃万葉集物
が牧水を継がず、茂吉を小さくしたような存在と見られたことへの
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語﹄、及び正岡子規時代から万葉集研究に努めて倦まない
﹃アララギ﹄
不満と疑惑を抱いたのは当然のことであった。
とはいえ、今一度、確認しておくべきことは、松平が当代で一流
Ⅴ.ジャーナリスト松平
派の歌人達がある﹂とも述べている。万葉集とアララギ派とが一体
となって牧水に受け止められていることが明白である。
この﹃短歌作法﹄の草稿が書かれたのは大正五年である。茂吉の
処女歌集﹃赤光﹄︵大正二年︶が上梓され、アララギ歌風が世間を
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凌駕していったのがほぼ大正五年と考えられるので、牧水の﹃短歌
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創作社とアララギ歌風 ―大橋松平を視座として―
ナリズムに踏み出したのは、昭和六年五月に一家を挙げて上京し、
のジャーナリストだったことだ。
先にも触れたように、
松平がジャー
の雑誌を作り上げてゐる。
﹁短歌研究﹂
︶
︵前掲
流派の歌人に公平にかげひなたなく立ち廻つて、毎月あれだけ
歌人たちの拠り所となる雑誌がなかったため、﹁短歌研究﹂を編集
雑誌として創刊されたおり、松平はその編集にあたった。その頃、
座﹄︵改造社︶十二巻の附録から始まった月報﹁短歌研究﹂が月刊
心として働く社員を求めて松平を招いたためだ。そして、
﹃短歌講
時支配人だった重彦が、長崎県庁に勤めていた関係から、自分の腹
だ。
松平が茂吉に私淑していたというような個人的な問題ではないはず
られていた様子を見過ごすわけにはいかないだろう。これは、
単に、
えていたはずの松平が、自身の属する派を超えて、茂吉に引き付け
平。しかも、ジャーナリズムという視点から、時代への客観性も備
〝 歌 壇 の 大 橋 松 平 時 代 〟 と も い う べ き 状 況 を 作 り 上 げ、
つ ま り、
どの流派の歌人とも公平に接する機会を存分に持ち合わせていた松
改造社の記者になったことによる。改造社社長の山本実彦の弟で当
する松平は歌壇の代表的なジャーナリストとなったのである。さら
︵改造社︶全十一巻の刊行にも大きく寄与した。大悟法利雄は、歌
人から教えを請うという欲求が極めて強い歌人だったのだ。そうし
振り返れば、松平は牧水の創作社に入社する前、一年間程前田夕
暮に入門して指導を受けていたこともあった。松平は当代の一流歌
に、万葉集のような国民的な大歌集を目指したという﹃新万葉集﹄
壇において改造社が活躍した大正十四年から昭和十五年までの時期
た中にあって、牧水門下にいることと、茂吉の歌風・歌論に傾倒す
い。歌人松平にとっても、また、公平な立場にあるジャーナリスト
を〝歌壇の改造社時代〟と呼んでいるが、この改造社時代を支えた
大正十四年から昭和十五年頃までを〝歌壇の改造社時代〟と名
松平にとっても、茂吉は時代を担う歌人として信じるに足りる本道
ることとは、松平自らが選択していった方向であることに間違いな
づけてよいと思うし、それは社長山本実彦の功績だと言つてよ
であり、その歌風は最も本格的であるという認識があったからに違
一人は、間違いなく松平であったと述べている。
いとも思うけれど、その間昭和六年からの十年を改造社員とし
いない。
アララギの台頭に対抗する姿勢を示すようになっていた。そして創
頂点として互いに深く交流する時期を持ったものの、白秋は急速な
を刊行したことを思い起こす必要がある。白秋と茂吉は大正三年を
ここで、大正十三年に、白秋が歌壇の宗匠主義と結社の閉鎖性を
打破して自由な精神のもと歌風を樹立することを目的とする﹁日光﹂
て最も熱心に歌壇のために奔走したのは大橋君だつたから、そ
の十年間は〝歌壇の大橋松平時代〟だつたと考えてもおかしく
ないとさえ思う。
︵﹃大橋松平全歌集﹄解説 昭和五九年 短歌新聞社︶
茂吉もまた、次のように述べる。
大橋君は、総合雑誌短歌研究を編輯してゐるので、あらゆる
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経営論集 第4号(2015)
創作社とアララギ歌風 ―大橋松平を視座として―
刊したのが﹁日光﹂だったのである。﹁日光﹂は実質的には︿アンチ・
アララギ﹀の大集団だったと考えられる。しかるに、この時も、松
平は茂吉を尊重する態度を持ち続けていたのだ。
短歌の声調がどのように受け入れられ、流布していったかという
ことは、それぞれの結社の代表的な歌によって捉えられることが多
い。また、結社の主張や属する社友の数などによって表面化する場
合もある。けれども、歌風の広がりや浸透は、もっと微妙な動きを
もってそれぞれの歌人たちの中で受け止められているのが実情なの
ではないだろうか。
なかでも、一流のジャーナリストとして歌壇を俯瞰的に見る位置
にあって、当時の歌の風潮に最も敏感であり、自身も一流の歌人と
認識されていた松平の動きは多くの示唆に富み、当時の歌壇を象徴
する人物として看過できない存在であることがわかる。多くの歌人
の影響を受けやすい松平のような人物は、その時代の歌風の動向を
知るための試金石ともいえるのだ。松平が様々な歌人たちの歌を取
り入れていく過程は、それぞれの時期における歌の評価を反映する
鏡ともいえそうだ。
本稿では、松平における茂吉への傾倒の様相を明らかにした上で、
その師である牧水のアララギ享受の実態をも浮き彫りにすることが
できた。この点はさらに掘り起こすべき問題を孕んでいるように思
われる。歌人たちが属する結社や、そこで表面的に提唱されている
主張にとらわれることなく、個々の歌人の歌を丁寧に検証すること
によって、今まで認識されてきたこととは異なる近代歌壇の実像が
浮かび上がってくるのではなかろうか。
最後に、松平の歌を振り返ると、様々な修練を積めば積むほど、
より自在に自身を表現する術を獲得しているのは確かであり、その
過程で多くの秀歌が生まれていることを忘れるわけにはいかない。
注
︵1︶ 牧水は明治四三年三月、
東雲堂から編集を依頼されて、
詩雑誌﹁創作﹂
を刊行したが、東雲堂と意見が合わず、明治四四年十月限りで創作社
を解散していた。大正六年に改めて復活させた。
︵2︶﹁槻の木﹂は、早稲田大学教授であった空穂の指導の下で創刊された
歌誌。
︵3︶﹁地獄極楽図﹂で詠まれたこの歌は、﹃赤光﹄という標題に繋がる重
要な歌として位置づけられる。
︵4 ︶ 第四歌集﹃夕雲﹄
︵昭和三二年
創作社叢書第二十一篇︶は遺稿集で、
第一部︵
﹃幼学﹄以降﹃淡墨﹄まで︶と、第二部︵﹃淡墨﹄以降︶に分
かれている。なお、﹃淡墨﹄は昭和二六年刊行の第三歌集。
︵5︶ 新聞﹁日本﹂明治三一年二月十二日。
︵6 ︶ 新聞﹁日本﹂明治三一年二月十四日。
︵7︶ 牧水が﹁創作﹂を復刊した際︵大正六年︶に加わった。
︵8 ︶ 斎藤茂吉﹁アララギ二十五巻回顧﹂昭和八年一月﹁アララギ﹂参照。
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