「真実を知ろうとすることは幸福か」

卒業論文
「真実を知ろうとすることは幸福か」
小学校教員養成課程
社会専攻 哲学専修 042482
山田 昌寛
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目次
はじめに
第1章
マトリックスの世界観の可能性
第1節
映画『マトリックス』の世界観
第2節
デカルトの懐疑論と映画『マトリックス』
第3節
『マトリックス』の世界観の可能性
第2章
真実を知ろうとすることは幸福か
ピル
第1節
どちらの薬をとるか
第2節
無知は幸福か
第3節
真実を知ろうとすることは幸福か
おわりに
参考文献表
2
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はじめに
この世界は実在しないのではないか、という問いを最初に私に問題提起をしたのは、親
でも、教師でも、過去の哲学者でもなく、1 本の映画であった。それから私はこの世界は存
在しない可能性がある、と考えるようになった。
映画『マトリックス』は、大衆映画でありながら多くの哲学的問いを物語の中に内包し
ているという意味で衝撃を与えた。
『マトリックスの哲学』の編者ウィリアム・アーウィン
も認めている。
「映画『マトリックス』を見ると、アクションと特殊効果とともに、ある疑問にとらわ
マトリックス
れる。ほかならぬ我々自身が 母 体 にとらわれている可能性はあるだろうか。
」1
あなたは『マトリックス』という映画を見たことがあるだろうか。見たことがあるなら
どのような印象を受けただろうか。おそらく、見た後この世界は現実に存在するのか、と
いう疑問を抱いたのではないだろうか。
今回私は、卒業論文として映画『マトリックス』を題材に、
「真実を知ろうとすることは
幸福につながるのか」を考えることにした。
私は元来哲学に興味があったが、好きな哲学者がいるわけでもなければ、さして生命倫
理に興味があるわけでも宗教にも道徳にも興味があるわけではなかった。
そんな折、この『マトリックス』という哲学的問いを内包している映画を思い出し、こ
の映画が私に与えた衝撃を思い出した。『マトリックス』が描き出している、「我々は、
マトリ ックス
仮想世界に生きているのかもしれない。
」という問いを追求したい、という思いが今回の卒
業論文の大きなテーマとなった。
第 1 章では、第 1 節で、映画の内容を見ていきながら、第 2 節で映画『マトリックス』
の世界観に大きな影響を与えたとされる、デカルトの懐疑論と『マトリックス』の関連性
を立証していく。
『マトリックス』とデカルトの論の関連性を明かしながら、第 3 節で『マ
トリックス』の世界観の可能性を探っていく。
第 2 章では、この映画のキーワードである、真実という言葉に着目し、映画の一場面か
ら、真実を知ることが幸福なのかを考察していく。
第 1 節では、その映画の場面を振り返り、第 2 節で真実と無知とを対比させ、無知は幸
福かを考えていく。第 3 節では、映画を飛び出して我々の世界では真実を知ろうとするこ
とは幸福なのかを考えていく。
たくさんの哲学的問いを内包しているこの映画を読み解き、映画の登場人物から提示さ
れる哲学的問いを自分なりに考察することで、卒業論文のテーマとしたい。
1
ウイリアム・アーウィン『序論―『マトリックス』に関する省察』
『マトリックスの哲学』
(白夜書房、2003 年)8頁
3
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第1章
マトリックスの世界観の可能性
第1節 映画『マトリックス』の世界観
私が衝撃を受けたマトリックスの世界観とは、いかなるものだったのか。まず、映画『マ
トリックス』の世界観について確認していきたい。
我々が現実だと思っているこの世界が偽者だと思ったことがあるだろうか。もしくは、
そのようなことを疑ったことがあるだろうか。映画『マトリックス』は我々にこのように
問いかけてくる。
映画『マトリックス』が描き出す世界はこうだ。我々は、眼に映る世界を現実だと思っ
ている。視覚をはじめ、聴覚、触覚、味覚、嗅覚の五感で感じとれる世界を現実の世界だ
マトリ ックス
と思っている。では、我々が現実だと思っているこの世界が仮想世界であったらどうだろ
う。
映画『マトリックス』は我々に問いかける。
「現実とは何だ?明確な区別などできん」と。
そしてこのように説明が続くのである。
「五官で知覚できるものが現実だというなら・・・
それは脳による電気信号の解釈にすぎん」と。つまり、
「五感で感じ取れるもの=現実世界」
という方程式は成り立たないと主張しているのである。
マトリックスには二つの世界が存在する。一つは、我々の多くが、現実だと信じている、
マトリ ックス
むしろ信じ込んでいる仮想世界。そして、もう一つは、現実とは思えない、現実だとは信
じがたい、荒廃した現実世界である。これがどういうことか、説明しよう。
マトリックスで語られている世界では、21 世紀の早い時期、人類は AI(人工知能)を発
明した。しかし、それゆえに知能を得た機械と人類は争うことになる。人類は、機械の動
力源を断ち切るために、太陽エネルギーの供給源である、青空を破壊する。しかし、機械
は、太陽エネルギーに代わる新たな動力源を、人体から生じる生態電気エネルギーに求め
る。結果、機械との戦いに敗れた人類は、誕生するのではなく、機械の動力源として、
「栽
培」されることになる。そして、機械は、生態電気エネルギーを得るために、我々人類に
マトリ ックス
夢を、虚像世界を、仮想世界を、脳に電気信号を流すことで見せているのである。つまり、
もし映画『マトリックス』が描き出していることが真実なら、我々が日々過ごしているこ
の世界は現実には存在せず、我々の身体もこの世界には存在せず、我々の脳に送られてく
る電気信号によって、機械がプログラムした幻想の世界を見せられているだけだというこ
とになる。
マトリックスは我々にこう問題提起をしているわけである。我々の眼に映っているこの
世界は本当に存在するのか、と。我々が現実であると信じる根拠となっていたもの―ここ
では、つまり五官で知覚できるものが現実であるとする考え方のこと-が映画『マトリッ
クス』の、
「五官の知覚は、脳による電気信号の解釈に過ぎない」という解釈によって、ガ
タガタと音を立てて崩れ去ってしまうのである。
4
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映画『マトリックス』が描き出す世界観は、真実であろうか。次節では、映画『マトリ
ックス』に多大な影響を及ぼしていると言われる、哲学者デカルトの懐疑論を参考に、映
画『マトリックス』の世界観―つまり、我々が見聞きし、触れている世界が実は幻想かも
しれないという世界観―の可能性を探っていきたい。
第2節
デカルトの懐疑論と映画『マトリックス』
この世界は存在しないのではないか、ということを人間が考えたのは、今に始まったこ
とではない。古くは、プラトンが『国家』で洞窟のたとえ話を用いてその可能性を示し、
「コ
ギト・エルゴ・スム(我思う、ゆえに我あり)
」という有名な言葉を残した、哲学者デカル
トが『省察』で、この世界に「確実なものはなにもない=この世界は存在しないかもしれ
ない」という疑問を呈した。映画『マトリックス』は、プラトンやデカルトといった過去
の哲学者が論じた、多くの哲学的問いを物語の中に内包している。
マトリ ックス
例えば、映画『マトリックス』の主人公、キアヌ・リーブス演じるネオが仮想世界から
解放される場面にも過去の哲学者が論じた世界観を垣間見ることができる。以下はプラト
ンの『国家』の一説である。
「牢獄に囚われた人が自由になって、突然立ち、あたりを見わたして、自分の目を光
に向けて歩けといわれたらどうなるだろう。一つ一つの動きすべてが苦痛になり、
影には目が慣れていても、その元になる対象は、目がくらんでわからないだろう。
誰かが、君が見ていたものは無意味な幻だったけれど、今は少し現実に近づいて、
前より現実の対象に向かっていて、より真実に近い姿を見ていると教えたら・・・
教えられた方は何と言うと思う?きっと当惑して、いま目の前に現れている対象よ
り、以前目にしていたものの方が現実的だと思ってしまうだろう。
」2
マトリ ックス
この話は、映画『マトリックス』の主人公ネオが仮想世界から解放されるときの話と酷
似している。もっとわかりやすくしよう。牢獄に囚われた人とは、映画の中では、主人公
マトリ ックス
のネオのことである。ネオは仮想世界を現実だと思い込んでいる。そこへ囚人を解放する
人間―映画ではネオを導きネオの力を引き出していくモーフィアスという男―が登場し、
マトリ ックス
仮想世界に囚われているネオを解放する。ネオは、自分が解放された後に見る、現に見て
マトリ ックス
いる荒廃した世界が現実で、それまでは夢の仮想世界で暮らしていたことを認めたがらな
い。このシーンが、プラトンの『国家』を参考にしているのは、明白である。解放された
人、ネオが目を開くことさえ苦痛を伴い、
「どうして目が痛いんだ?」と訊ねるネオに対し
て、モーフィアスが「使ったことがないからだ」と応答することからもそれは明らかであ
る。映画『マトリックス』が、様々な哲学者の考えを用いて製作された映画である、とい
うことがわかっていただけたであろうか。
次に、映画『マトリックス』にもっとも大きく影響を与えているといわれるデカルトの
2
プラトン『国家』
(ウイリアム・アーウィン「序論―『マトリックス』に関する省察」
『マ
トリックス哲学』22 頁から引用)
5
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懐疑論を映画と関連付けながら説明していきたいと思う。
デカルトは「ほんのわずかでも疑いを想定しうるものは絶対に偽なるものとして投げ捨
てる」3という懐疑論を展開する。なぜ、デカルトがこのような懐疑論を展開したのか、と
いうことについては後に説明するとして、まずはデカルトの主張を見ていくことにする。
懐疑論を展開するにあたって、デカルトはまず感覚知覚への懐疑を行う。
「日常の感覚に
したがうと、遠くからみて丸い塔は近くでみれば四角であったりして欺かれる。
(中略)こ
のような五感にもとづく認識は真理認識の根拠としてははっきりと捨てなければならな
い。
」4というように我々の感覚は、不確実なものであるとデカルトは主張する。
今のデカルトの論、どこかで目にしたことがないだろうか。
「五感にもとづく認識は不確
実なものである」・・・「五官で知覚できるものが現実だというなら・・・それは脳による
電気信号の解釈にすぎん」―そうである。第 1 節で引用した、映画の中でモーフィアスが
ネオに言い放つ言葉とデカルトの主張は酷似しているのである。五感を不確実なものとみ
なす根拠は違えど、デカルトが否定した感覚知覚による認識を、映画『マトリックス』も
同じように不確実なものとして否定している。
感覚知覚の次にデカルトが問題にしたのが、身体感覚である。我々が今服を着ているこ
とや、紙を手にしていることなどの我々の身体感覚を疑うことなど不可能なことに思える。
しかし、デカルトは、
「
「われわれは夢をみる」ということを引き合いにしてこれを退ける。
われわれは夢の中で覚醒時と同じくらい判明な夢をみたりする。とするならば、いま目覚
めて経験していると思っていることが、実は夢の中のことではないとどうしていえるであ
ろうか。夢と覚醒時とをはっきりと区別する指標はないのではないか。デカルトは身体感
覚についても、このような理由を想定しうることから、それの不可疑な妥当性を排除する。
」
5「夢の中で覚醒時と同じくらい判明な夢をみる。
」ということが映画『マトリックス』でも
描かれている。
ネオは、ある日出勤中に黒ずくめの男たちに取り押さえられ、取調べを受けることになる。
黒ずくめの男たちに反抗した結果、口を開けない状態になると同時に、へそから体内に異
物(寄生虫らしき生物)を入れられると思った刹那、ベッドの上で目が覚める。夢かと思
った瞬間、電話がなる。電話の主は、ネオが黒ずくめの男たちに取り押さえられたこと、
その後解放されたことを知っており、ネオは「あれは夢ではなかったのか」と困惑するが、
電話の主たちと落ち合い、機械でへそから寄生虫を取り出された瞬間、それらの記憶が夢
でなく、現実(ここでの、現実とは仮想世界、つまりマトリックス世界のこと)であった
ことを知る。
デカルトの主張していることだけでは想像しづらいことを映画『マトリックス』が映像化
し、我々にデカルトの論を伝えようとしているようにさえ思えるシーンである。映画のシ
3
4
5
小林道夫『デカルト入門』
(ちくま新書、2006 年)93 頁
同書 94 頁
同書 94 頁
6
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ーンは、夢が現実だった、というものであるが、その逆も考えられる。現実だと思ってい
たことが、実は夢だった、ということである。誰もが経験したことがあるはずである。夢
で涙を流したり、寝ていて笑ったり、はっきりと寝言を喋ったり・・・それらは夢を現実
だと思っているからこそ起こる現象であり、今この瞬間が夢ではないと、証明することは
不可能である。しかし、我々はおそらく今、現実だと感じているはずである。紙の手触り、
インクのにおい、発表する声、鳥の鳴き声、山々の鮮明な色、飴の味・・・我々がいつも
感じているリアルな世界だからである。そして夢を見た後に感じる、不整合感、不自然感、
不可解感がないからである。したがって、今我々は現実の世界にいる、と考えるであろう。
しかし、上でも述べたように、五感は脳による電気信号の解釈であるため、リアルな手触
りや匂い、音がするからといって、今この瞬間が夢ではない、と断言することはできない
のである。さて、どのようにしてデカルトに影響を受けた映画『マトリックス』の描き出
す世界観を否定できるであろうか。
さらに、映画『マトリックス』は、我々に追い討ちをかけるように主張を続ける。我々が
体験しているすべてが夢なのではないか、と。我々は、ずっと眠っており、整合性のある
夢と、整合性のない夢を組み合わせてみているだけではないか、というのだ。映画『マト
リックス』の中で描かれているのは、こういう世界である。
マトリ ックス
仮想世界の中では、現実と夢とが交互に訪れる。我々と同じように、目が覚めている現
実と、眠っている夢、両方を見ることができる。しかし、どちらも仮想世界である限り、
夢でしかないのだ。上記の言葉を引用するなら、現実らしい整合性のある夢と、夢らしい
整合性のない夢を交互に見ているだけだということになる。
さて、整合性のある夢と整合性のない夢を我々に見せているのは、誰か。第 1 節を思い
出してほしい。我々に夢を見せることで、人間の生態電気エネルギーを得ているのは、人
間との戦争に勝利した機械である。言い換えれば、人間は機械に騙されているということ
である。映画『マトリックス』が主張する我々を騙すものは、機械であるが、同じように
デカルトも何かが我々を騙しているのではないかという論を展開する。
デカルトが、我々を騙しているのではないかと疑うのは、
「欺く神」である。
「欺く神」に
騙されているために、この世界における経験が歪められているのではないか、とデカルト
は主張する。上記で見てきたように、デカルトは、懐疑論を押し進め、感覚知覚、身体感
覚を、疑いうるものとして「不確実なもの」とした。デカルトの懐疑はこれにとどまらず、
2+3=5 であるとか、四角形は四つの辺からなるといった数論や幾何学の真理にまで及ぶ。
数論や幾何学といったものは疑う余地さえないように思えるが、デカルトは次のように論
を展開する。
デカルトはまず、彼が教えられたキリスト教の「神はあらゆることをなしうる」という神
の全能の概念から、
「すべてのことをなしうる神が存在し、それによって私は現に存在する
ようなものとして創造された」6と述べる。そうすると、実際には天も地も何もないのにも
6
デカルト『省察』(小林道夫『デカルト入門』96 頁から引用)
7
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かかわらず、それらが私に今見られるように存在すると確信するようにしたのかもしれな
い、とデカルトは主張する。そうすると 2+3 という足し算を行うたびごとに、また四角形
の辺を数えるたびごとに私が誤るようにしたかもしれない、とデカルトは言う。
「神の全能
ということが「あらゆることをなしうる」ということであるならば、そこには、数学の最
も単純で不可疑な真理についても神はわれわれを欺きうるということが含まれて当然であ
る」7という。
映画『マトリックス』では、機械がデカルトの言う欺く神であり、栽培される人間にとっ
て栽培する機械は全能である。全能である機械によって人間は、欺かれている。ネオや
マトリ ックス
仮想世界に暮らす人々は、自らが幻想の中にいるとも思っていなければ、自らの生存理由
―つまり、自らが機械の動力源としての使い捨て電池であるとも思っていない。もっと言
マトリ ックス
えば、仮想世界の重力、人間の筋力等も機械のプログラミング次第であり、機械に欺かれ
マトリ ックス
ている人間はそれが真実だと信じ込んでいるが、人間の意識がそれを凌駕すれば、仮想世界
で高層ビルから高層ビルに飛び移ったり、自由に空を飛んだりすることも可能である。実
際に映画の中では、有名な銃弾をよけるシーンに代表されるように、ネオやモーフィアス、
ヒロイン役のトリニティが人間業とは思えない所業を数々こなしている。
この壮大な物語の論理がデカルトの懐疑論に対応していることは明白である。デカルトが
論じているように、何かが我々を騙していない、と確信することはできないし、今我々が
絶対に夢を見ていないと断言することもできない。なぜなら、我々は自分自身の知覚、感
覚しか知りえないからであり、自分自身の考え以外に確信を持てることなど存在しないか
らである。もしかしたら、映画『マトリックス』が描き出している通りこの世界は幻想か
もしれないし、この世界は自分のために作られた世界で、周りの人間は実は機械なのかも
しれない。疑おうと思えば、いくらでも疑える。映画『マトリックス』やデカルトの論理
を否定することはできない。しかし、
『マトリックス』が描き出している、この世界が機械
に支配されている可能性は皆無に等しい。
なぜなら、我々人類は戦争をするからだ。もし、人類が機械に支配され、人類が機械の使
い捨て電池と化しているのであれば、人類に戦争は起きないのではないだろうか。機械は、
我々の生態電気エネルギーを欲しているのである。いくら使い捨てだからといって、人類
のエネルギーを無駄遣いしたりしないのではないだろうか。
したがって、この世界は『マトリックス』どおりの世界ではない。と言いきりたいところ
だが、そう言えないところにこの論理を論破することの難しさがある。この世界が機械に
支配されているのではないか、と疑いを持つ人間が増えることは、支配する機械側にとっ
ては喜ばしいことではない。したがって、私のような人間に「戦争が起きているから、我々
は機械に支配されていないはずだ」と考えさせるために、そのためだけに(実際にはこの
世界のどこにも戦争は起きていないのに)さも戦争が起きているかのように我々を騙して
いるかもしれないのだ。
7
デカルト『省察』(小林道夫『デカルト入門』97 頁から引用)
8
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第3節
『マトリックス』の世界観の可能性
上で見てきたように、映画『マトリックス』が提示する、
「この世界は存在しないのでは
ないだろうか」という問いを否定することは非常に困難である。デカルトの懐疑論を我々
現代に生きる人間に伝えるため、現代風にアレンジを加えたのではないか、と疑ってしま
うほど、デカルトの論と酷似している映画『マトリックス』の世界観の可能性は否定でき
ない。第 2 節で取り上げた論のほかに、映画『マトリックス』を見た哲学者水本正晴は、
宇宙コンピュータシミュレーション説を『現代思想』に寄稿した「マトリックス世界はリ
アルか」の中で展開している。マトリックス世界を肯定する論の中で、科学的な可能性が
最も高い論理なので紹介したい。以下は水本の宇宙コンピュータシミュレーション説の内
容である。
「物理学が発展を続け、将来宇宙の謎を人類がほぼ解き明かすとする。そのような時
代の中で、物理学者が宇宙の構成要素、クォークなどを構成する要素を・・・
(ママ)
構成する究極の粒子を見つけるとする。驚くべきことに、この究極の粒子の物質は、
原因もなしに突然存在し始めたり消滅したりし、その変化のパターンはアルゴリズム
化できる。もし、そのような粒子が発見されたら、物理学上の大発見であるが、それ
はつまり、巨大な容量のコンピュータさえあれば、この世界にあるこの究極の振る舞
いをすべて正確にシミュレートすることができることであり、そこで再現された世界
は、この宇宙と原理的に区別不可能であり、この世界そのものが巨大な一つのコンピ
ュータだとも言える。
」8
この論を展開した水本が言いたいことは、この世界がコンピュータの容量次第で、再現
可能だということではなくて、もしかしたらこの世界自体が誰かにプログラムされたもの
である可能性がある、ということである。
もし、水本が仮定していることが現実であったとしたら、その粒子の構成次第で、人間
であっても、地球であっても再現可能であるということになる。もちろん、そのような究
極の粒子の存在、そしてその粒子が原因もなしに突然存在し始めたり消滅したりし、その
変化のパターンはアルゴリズム化できることが条件になる。この条件が成立しない限り、
ただの仮説であるが、非常に面白い仮説である。これが真実なら、宇宙のどこかに地球の
神、創造主が存在し、その神によって我々は欺かれていることになる。
映画『マトリックス』の世界観を肯定的に捉える上で、この論がもっとも科学的である。
我々は夢を見ているかもしれない、というのも我々は神に欺かれている、というのも全く
科学的でないが、宇宙コンピュータシミュレーション説は様々な仮定がすべて現実になっ
8
水本正晴「マトリックス世界はリアルか?」
『現代思想
頁
1 月号』
(青土社、2004 年)154
9
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たとき、という条件付ではあるが、科学的な論理である。現時点では、量子9が粒子によっ
て構成されている10、ということも確定を得た情報ではないし、そういった世界最小の万能
の粒子が発見されたからといって、それを巨大なコンピュータでシミュレートできるとも
限らないし、もしシミュレートできたとしても、この宇宙が何かの手によってすでにプロ
グラムされたものである、という確証になるわけではない。したがって、この世界がプロ
グラミングされていたり、我々の身体、世界が実は、架空であったりという可能性は、現
時点ではかなり低い、いや限りなくその可能性はゼロに近いといえる。
デカルトの懐疑論も、水本の宇宙コンピュータシミュレーション説も、その論理の可能
性としては否定できない。
「もし今が夢だったら・・・」
「もし神が我々を欺いていたら・・・」
「もし究極の粒子が見つかったら・・・」という仮定はどうしても退けられないからであ
る。
また、デカルトの懐疑論であるが、デカルトはもともと、
「この世界に確実なものなど存
在しない」と主張したくて懐疑論を展開したわけではない。デカルトは『省察』の冒頭で、
「もし私が学問においていつか何らかの堅固で揺るぎないものを打ち立てようと欲するな
らば、一生に一度はすべてを根こそぎにしてくつがえし、最初の土台からあらたにはじめ
なければならない」11と述べている。つまり、真理の探究をするために懐疑論を展開したの
である。真理の探究こそがデカルトの目的であって、懐疑論はそのための手段でしかない
のだ。しかし、日常生活において考えれば、今が夢である可能性は限りなく低いし、神が
欺いている、というのも神が存在するという前提の下、神が我々を欺いているという仮定
が成立してこその論である。宇宙がシミュレートされている可能性も様々な要因がすべて
噛み合わないと成立しない論理である。それゆえ、それらが現実である可能性は限りなく
低いのであるものの、論理としては、その成立の可能性は否定できないのである。
『マトリックス』が提示する、
「この世界は存在しないのではないだろうか」という問い
は、どれだけ科学が発展して、どれだけ人類に謎がなくなったとしても答えの出ない問い
である。おそらく、この問いは、自分の知覚、感覚しか知りえない我々人類が抱えたジレ
ンマなのだ。
1900 年にマックス・プランクが発見・提唱した物理量の最小単位。古典力学では考えら
れなかった不連続な量
10量子の粒子性とは、粒子の存在を仮定すると説明が容易ないくつもの実験の存在を根拠に
している
11小林道夫『デカルト入門』
92 頁
9
10
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第2章
真実を知ろうとすることは幸福か
第1節
ピル
どちらの薬をとるか
第 1 章では、映画『マトリックス』が描き出している「この世界は存在しない」という
可能性はかなり低く、実生活においては「この世界が存在する」ことは、100%確実だとは
断言できないことであったとしても、我々はそれが疑いえないものである場合と同様に従
うほかない、ということを述べた。第 1 章で取り上げたテーマは、映画のメインテーマで
ピル
あるが、この映画が観衆に問いかけている問いは、この問いだけではない。どちらの薬を
とるか、にも哲学的問題が隠されている。
マトリックスでは、第1章で見たように二つの世界が存在する。コンピュータが作り出
マトリ ックス
す仮想世界と、荒廃した現実世界の二つの世界。主人公のネオ(キアヌ・リーブス)は、
物語の冒頭から二つの世界の存在を知っているわけではない。彼も当初我々と同じように
「この世界」しか存在しないと思っている。ネオに近づき、彼に二つの世界の存在、荒廃
した現実世界、本当の自分の姿(機械につながれ、機械に生態電気エネルギーを搾取され
るためだけに生きている人間の存在)を伝え、ネオの力を引き出していく先導者が映画『マ
トリックス』には存在する。それがモーフィアスという男である。
モーフィアスは、ネオに出会い、
「君が世界だと信じているものは君の目に覆いかぶさっ
て、真実を見えなくしてきた、まがいものの世界にすぎない」とネオに話し、選択を迫る。
ピル
「赤と青、どちらの薬を飲むか。
」赤を飲めば物事の真の性質が明らかになるが、青を飲め
ピル
ば物事の感じ方は変わらない、と説明する。正反対の効果を持つ薬は、眠りから目覚める
か、夢の中にとどまるかの、いずれかの道を選ぶ道具となっている。あなたがもしネオな
ピル
ピル
らば、どちらの薬を選択するだろうか。ちなみに、ネオは赤の薬を選択し、そのことによ
って物語は動き出しはじめる。
ピル
無知は幸福か、それとも真実はどんなものであれ、知るに値するか。なぜネオは赤の薬を
ピル
選んだのか。あなたならどちらの薬を選択するだろうか。またそれはなぜか。ただの好奇
心の違いか。現状に満足しているかどうかの違いか。何が我々を駆り立てるのか。劇中の
ヒロイン役トリニティの言葉を借りれば、
「我々を駆り立てるのは、疑問」である。おそら
ピル
く、ネオは胸に抱いていた「マトリックスとは何か」という疑問をとく鍵を赤の薬に求め
ピル
たのであろうが、あなたならばどちらの薬を選ぶだろうか。それぞれ意見はあるだろうが、
ピル
ピル
私の意見はこうだ。青の薬を選択するほうが、幸福である。赤の薬を選択し、真実を知る
ことのほうが幸福である、と考えている人に「真実を知ろうとすることは果たして幸福か」
という疑問を投げかけたい。それがこの第 2 章のメインテーマである。
第2節
無知は幸福か
エージェント・スミス―「取引成立かな、レーガン君。
」
11
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サイファー―「このステーキは存在しないことは知っている。こいつを口に入れれば、
マトリックスが俺の脳に、ジューシーでうまいと教えてくれる。九年か
けて、俺が何を悟ったかわかるか。無知は幸福だということだ。
」
エージェント・スミス―「で、取引成立だな。
」
サイファー―「何も思い出したくない。全然。わかるか。それから金持ちになりたい。
そうだな、俳優とか。
」
エージェント・スミス―「何でも望みのままだ、レーガン君。
」
サイファー―「ようし。この身体を発電所に返すから、マトリックスにまたつないでく
れ。そちらが望むものをとってくる。
」12
マトリ ックス
これは、映画の一場面である。エージェント・スミスは仮想世界の中の監視人であり、
マトリ ックス
ウイルス
仮想世界に侵入してくる人間(ネオやモーフィアス、トリニティなど)を駆除するという
役割を与えられた、コンピュータプログラムの一部である。サングラスをかけてスーツを
着ている七三分けの男といったほうが分かりやすいかもしれない。エージェント・スミス
と会話しているサイファーという男は、元来主人公ネオや先導者モーフィアスの仲間であ
マトリ ックス
る。彼は、九年間現実の荒廃した世界に生き、現実世界の惨めさにうんざりし、仮想世界の
中で金持ちの有名な俳優として新しい生活をさせてもらうのと引き替えに、人間を駆逐す
る役割を与えられたエージェント・スミスに先導者モーフィアスを引き渡すことに同意す
る。サイファーは、自ら口にしているように、
「無知は幸福だ」と思っている。
マトリ ックス
サイファーという男は、仮想世界の世界が現実ではないことを知っているが、そのこと
を無視し、虚構の世界に引きこもりさえすれば、もっといい人生が送れると信じている。
エージェント・スミスと卑劣な取引を結ぶサイファーのような、快楽のために人生を送る
人間を快楽主義者と呼ぶが、ジャラルド・D・エリオンとバリー・スミスの二人はロバート・
ノージックの言葉を引用しながらサイファーの行為が誤りであるとし、快楽主義に対する
批判を展開している。
ノージックはまず、われわれは化学物質の入った水槽に浮かぶ無意識の身体に過ぎない
のかもしれないと言う。電極を用いて我々の中枢神経をシミュレートする、精巧なコンピ
ュータ設備、
「体験機」なるものを想像する。体験機は我々に様々な体験をしているように
思わせる。自分にとって価値があると思う体験を体験機で設定でき、体験機につながれて
いる我々に、自分が見事に成功しており、楽しく美しいと思わせるようにプログラムでき
ると仮定して、ノージックは問う。
「一生、この機械につながっているほうがいいだろうか」13
体験機によって、我々がどれだけ満足したとしても、実際の私は単に機械の内部で寝て
12
映画『マトリックス』レストランの場面
ロバート・ノージック『アナーキー・国家・ユートピア』42 頁(ジャラルド・D・エリオ
ン+バリー・スミス「懐疑論、道徳、
『マトリックス』
」
『マトリックスの哲学』39 頁から引
用)
13
12
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いるだけだ。人間は、
「何かのことをしたいと思うのであって、それをしている体験を持ち
たいのではない」14とも主張する。
「体験機もマトリックスも、本物の、意味ある活動をさせるようにはできていない。意
味のある外見を与えるだけだ。
」15と主張するのは、ジャラルド・D・エリオン+バリー・ス
ミス両氏である。
つまり、体験機もマトリックスも我々には満足感以外の何も与えないがために、サイフ
ァーの決断は誤りであるということである。彼らと同じように多くの哲学者はサイファー
マトリ ックス
の判断を誤りだと主張する。映画の中でも、仮想世界を選択したものを愚か者として、現
実世界を選択したものを救世主として描き出し、両者を対比させることで、いかにもサイ
ファーは愚か者であり、勇気あるネオは救世主である、と言わんばかりである。確かに、
サイファーは後で見ていくとおり、快楽主義者で仲間を裏切るという愚行を犯してはいる。
しかし、荒廃した現実世界で生きていくという決断を下したネオの決断が、
「無知は幸福だ」
マトリ ックス
と言い放ち、仮想世界に生きていくことを選択したサイファーのそれより果たして幸福な
のだろうか。ここから、サイファーの決断を見ていきながら「無知は幸福」なのかどうか
を考察していく。
サイファーの判断の是非を問う前に、まずはサイファーという人間が、映画の中で快楽
主義者として描かれていることに触れなければならない。エージェント・スミスと交渉し
ている場面では、ステーキをほおばり、ワインを口に運ぶ。荒廃した現実世界を知り、ネ
オが戸惑う場面では、ネオに酒を勧め、自らもそれを口に運ぶ。彼が快楽主義者だという
証拠はスクリーンの中の至るところに存在する。
マトリ ックス
仮想世界は現実世界より官能的な快楽の楽園である。サイファーのような快楽主義者は
マトリ ックス
快楽を求め、現実世界を捨て、官能的な仮想世界を選択するのは自明の理のような気がす
マトリ ックス
る。仮想世界には、現実世界にはないジューシーなステーキがあり、ナイトクラブがあり、
マトリ ックス
美味しいワインがあるのだ。官能的な仮想世界のほうが魅力的なはずである。しかし、
『マ
マトリ ックス
トリックス』で描かれている人間の多くは官能的な仮想世界よりも荒廃した現実世界を選
択する。ネオ、モーフィアスがそうだ。それはなぜか。デーヴィッド・ウェバーマンはこ
のように言う。
「彼らには、快楽よりも大事なことがあるからである。すなわち、真実と自由だ。
」16
ピル
こうなると、赤の薬を選択するのは、真実とか自由とか本物といった、快楽よりも大事
ピル
なことを求める人であり、青の薬を選択するほとんどの人が快楽主義者ということになる。
ピル
「青の薬を飲もうと思ったが、私は快楽主義者だとは思わない」とか、逆に「別に大事に
同書 43 頁
ジャラルド・D・エリオン+バリー・スミス「懐疑論、道徳、
『マトリックス』
」
『マトリ
ックスの哲学』40 頁
14
15
16デーヴィッド・ウェバーマン「
『マトリックス』のシミューションとポストモダン
時代」
『マトリックスの哲学』304 頁
13
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ピル
しているものとかないが、赤の薬を選択したい。
」という人はいるだろう。章の冒頭でも述
ピル
べたが、どちらの薬を選ぶか、またそれはなぜか、は各々違って当然である。
ピル
私は、「青の薬を選んだ人は、快楽主義者ですよ。
」と言いたいのではない。一見この話
ピル
ピル
を聞くと、赤の薬を選択した人のほうが、青の薬を選択した人よりも優れているような気
がしないだろうか。上でも述べたが、少なくともスクリーンの中では、未知のものに向か
ピル
い、物事の真の性質を明らかにしようとする赤の薬を飲むほうが、現状に満足し、物事の
ピル
感じ方を変える必要もないと青の薬を飲むことよりも良いことであると描かれている。
「無
ピル
知は幸福だ」と言い放ったサイファーは死に、赤の薬を選んだネオは、生き残っていると
いうことがこのことを端的に表わしている。
ピル
映画では明らかに赤の薬を選択することを善としているが、果たして本当にそうか。私
はそうは思わない。映画『マトリックス』は映画それ自身にそのような意図はなくても、
サイファーのほうが正しいのではないかと思わせるような形で二つの世界を提示している。
大胆な物言いになるが、私が思うに、映画『マトリックス』の世界の中では、赤ではなく、
ピル
マトリ ックス
青の薬を選択し、機械に支配された仮想世界を選ぶしか道はないように思われる。
マトリ ックス
なぜか。マトリックスは官能的な快楽を提供するだけではない。仮想世界では、文学・
美術・音楽・映画といった芸術の世界に耽ることもできれば、サッカー・バスケット・野
球などの世界最高峰のスポーツを楽しむこともできる。恋をすることも、子どもを作るこ
とも、友情を育てることも可能だ。多くの機会が囚われている人に与えられる。今我々が
身を投じている世界とまったく同じことが可能だ。いや、もしかしたら今我々が暮らす世
マトリ ックス
界よりも有意義かもしれない。仮想世界は、戦争も、テロも、病死も、飢餓も限りなくゼ
マトリ ックス
ロに近いだろうと推測できるからである。なぜそんなことが言えるのか。それは、仮想世界
に生きている人々が、何に、何のために生かされているかを考えれば分かるだろう。つま
マトリ ックス
りはこういうことだ。仮想世界で我々人類を生かしているのは機械だ。機械は、人類の生
マトリ ックス
態電気エネルギーを得るために、人類のための仮想世界を作り出しているのだ。それなら
ば、機械は得るエネルギーを増やそうとすることはあっても減らそうとすることはないは
ずである。したがって、現実世界にある人体本体が何らかの損傷、または病魔に襲われな
い限り、我々の命が機械のプログラムによって危険にさらされることはまずないと推測で
きるのである。その意味で、今我々が暮らしている、いや暮らしていると信じ込んでいる
マトリ ックス
この世界よりも映画『マトリックス』の中の仮想世界のほうが有意義な可能性がある、と
述べたのである。
それに対し、現実の世界は廃墟だ。図書館も映画館もサッカー競技場も、美術館ももち
ろん存在しない世界である。太陽の光も差さない。空が明るくなることもない。
マトリ ックス
つまり、仮想世界では、人が何をしようとかまわないはずなのだ。機械による人類支配
マトリ ックス
という仮想世界が成り立つ限りは…。
マトリ ックス
今人類が自由なのと同じように仮想世界での人類は自由だ。多様な満足は、荒廃した現
マトリ ックス
実世界よりも仮想世界でのほうが、ずっと見つかりやすいはずである。反論があるとすれ
14
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ば、
「どれだけ満足したところで、その世界は虚像の世界であって、現実ではないではない
マトリ ックス
か。
」ということであろうか。確かに、仮想世界は現実ではない。全て仮想のものである。
マトリ ックス
しかし、仮想世界での経験は現実世界でのそれと同じように感じられるわけである。モー
フィアスやその仲間がネオのもとにやってこなければ、それが現実ではないのではないか
マトリ ックス
と疑うこともない。結局のところ、仮想世界とうたわれているマトリックス世界は本当に
現実ではないのだろうか。現実ではないという根拠は何なのか。モーフィアスの言葉を引
用しよう。
「現実とは何だ?明確な区別などできん。」
マトリ ックス
この言葉は、初めて荒廃した現実世界を目にし、今まで見てきた仮想世界が虚像である
マトリ ックス
ことを受け入れられず、戸惑うネオに対してかける言葉である。夢や虚像、仮想世界と現
実世界を明確に区別する手立てなどないのだ。虚像か現実かを判断するのは結局は自分自
身の判断ではないか。たとえ、人類が機械に服従する使い捨ての電池になろうとも、きっ
マトリ ックス
と仮想世界に生きたほうが日常的な幸福を手にできるはずである。そうであるならば、私
ピル
は喜んで青の薬を選択する。どちらが現実で、どちらが非現実かを考えることよりも、た
とえ虚像だとしても、より多くの満足が得られるのはどちらかを考えることのほうが人間
ピル
にとって大切なことであるはずだ。したがって、赤の薬を選択し、真実を知ることよりも
ピル
マトリ ックス
青の薬を選択し、仮想世界の中で充実した生を送ることのほうが幸福なのだ。
ピル
さて、皆さんはどちらの薬を選択するだろうか。
第3節
真実を知ろうとすることは幸福か
ここまでは、マトリックス世界での赤か、青か、の二択で話を進めてきたが、話をもと
に戻そうと思う。再確認するが、私の今回のテーマは、
「真実を知ろうとすることは幸福か」
である。映画で描かれているマトリックス世界を取り上げることにより、真実を知ること
が必ずしも幸福につながるわけではない、ということが少しは分かっていただけたと思う。
では、ここからは現実世界において、真実を知ろうとすることが必ずしも幸福につながる
わけではない、ということを論じていきたいと思う。
この話をしていく前に、解決しなければならない課題がある。それは、映画であるマト
リックス世界での話と、我々が暮らす現実世界とでは、相違点が多すぎて、マトリックス
での話は参考にならないのではないのか、という指摘である。
読んでくださる方の中に「その通りだ」と思われる方も必ずいるだろう。そのため、マ
トリックス世界と我々の世界の相違点から取り上げていくこととする。
マトリックス世界と我々の世界の違いはどこにあるのであろうか。私が感じる二つの世
界の違いは、限界の有無、という一言に凝縮される。
マトリックス世界は有限の世界、我々の世界は無限の世界である。マトリックス世界は、
マトリ ックス
何が真実で、何が虚像かが分かる世界であり、ネオがもともと真実だと思っていた仮想世界
は、モーフィアスにとっても、ネオにとっても結局仮想でしかなく、現実とは信じがたい、
15
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荒廃した、現実世界は、どうあがいても現実でしかないのだ。現実世界が現実である、と
いう根拠はまったくないにもかかわらずだ。映画「マトリックス」では、いかにも本当っ
マトリ ックス
ぽい仮想世界と信じがたい現実世界の二つの世界しか存在しない。それ以外の世界は絶対
に存在し得ない。なぜならスクリーンに映し出されることだけが真実であるからだ。
それに対し、我々の世界はどうだ。例えば、マトリックスで描かれているように、あな
たが二つの世界の存在を知ったとする。まず、二つの世界のどちらが現実でどちらが仮想
なのかをあなたは確信をもてるだろうか。また、二つの世界の存在を知ったあなたは、三
つ目の世界の存在を疑いはしないだろうか。つまり、二つの世界が存在したとして、世界
が二つしか存在しないという確証はえられない、ということである。我々の世界で確証が
得られることがどれだけあるだろうか。絶対正しいと断言できることがどれだけ存在する
だろうか。我々は、自分自身のことさえ知らない。私の身体には、胃があって、腸があっ
て、心臓がある。腎臓がある。肝臓がある。私の身体には多数の器官がある、と言われて
いる。おそらく私の体内にはそれらの多数の器官が存在するのであろうが、誰がそれを証
明するのか。我々が確証をもてることなどほとんどないのである。
これがマトリックスの世界と我々の世界の差異である。マトリックス世界には、疑いよ
うのない正解、真実が存在する。それに対して、我々の世界には、確固たる正解など存在
しない。有限なマトリックス世界と無限の可能性がある我々の世界。この違いがわかって
いただけであろうか。
しかし、ここでよく考えてみれば、マトリックス世界よりも我々の世界の方がより複雑
だということがわかる。一見マトリックス世界は複雑なように見えるが、有限のマトリッ
クス世界よりも無限の我々の世界の方が複雑であるのは、明白である。我々は、マトリッ
クス世界よりもさらに複雑で壮大なマトリックス世界にいるとも考えられるのではないだ
ろうか。
無限の可能性が広がる、より複雑なマトリックス世界である我々の世界で、デカルトは
「自然現象のメカニズムを究明することによって、その科学技術へ転用させ」17、
「
「地上も
ろもろの果実と、そこにみいだされるあらゆる便宜さとを人々に享受させる」ことになる」
18と考えている。この自然現象のメカニズムは知で解明できるという考えこそが、後世に最
も影響を与えたデカルトの考えである。このデカルトの考え、つまり、知によって自然現
象のメカニズムを解明しうること、またそれらが我々に便宜さを享受させること、という
二点が近代科学発展の礎となっている。デカルトの考えには、知の積み重ねによって自然
現象のメカニズムを解明できるという論理がすべての前提にある。
ピル
ピル
映画『マトリックス』で問われる、赤の薬を選ぶか、青の薬を選ぶかという選択自体に
もデカルトのこういった考えが前提に潜んでいるといえる。
映画の中だけではない。デカルト以降、人類は科学的世界観に基づいて、世界を解明で
17
18
小林道夫『デカルト入門』176 頁
同書 176 頁
16
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きると信じてきた。そして、人類は様々な自然現象のメカニズムを解明してきた。そして、
科学技術の発展が我々の生活を便利なものにしてきた。今現代社会に生きる我々の周りに
はモノに溢れている。電気、車、コンピュータ・・・身の回りには、デカルトが生きた時
代とは比較にならないほどの「もろもろの果実」19が溢れている。そして我々は、便利なも
のが開発されるたびに、もっと便利に、もっと豊かに、と科学技術の発展を望む。例えば、
身の回りに溢れる電化製品の動力源である電気や、もはやそれなしでは先進国の人々の生
活は成立しないとも言われる、石油の多様性等は過去の偉人の偉大な発見であり、科学技
術の発展なしに、現代人の生活は考えられない。それは確かだ。自然現象のメカニズムを
究明し、真実を得たいという研究者の欲望と、便利さと豊かさにイコールの関係を見出す
消費者の欲望があいまって、真実を知ることができるのか、という前提はないがしろにさ
れてきた。その問いは長らく不必要なものだと思われてきた。なぜなら、知の追及は、さ
らなる知の追及をうながすものであり、知の追求こそが、真実につながると信じて疑わな
かったからである。
知の追及は幸福につながるのか、我々は真実を知りうるのであろうか。答えはノーであ
る。知の追及は現代社会において、必ずしも我々の幸福と結びつかない。良い例がある。
あなたは「フロンガス」が「オゾン層を破壊する要因」として広く認識されていることは
ご存じだろう。おそらく現代に生き、地球の環境を学習したほとんどの人間がフロンをオ
ゾン層破壊の要因と捉えているだろう。
では、なぜオゾン層を破壊するといわれるフロンガスが、使用されていたのだろうか。
実は、家庭用冷蔵庫の冷媒として使われてきたアンモニアの代替品として開発されたフロ
ンは、今では想像もつかないが、開発当時は化学的、熱的にも極めて安定であるため「夢
の化学物質」としてもてはやされていたのである。オハイオ州デイトンにあったゼネラル・
モーターズ・リサーチ・コーポレーションで働いていたアメリカの化学者トマス・ミジリ
ーが開発したフロンは、家庭用冷蔵庫の冷媒として使われてきたアンモニアの代替品とし
てきわめて優秀な物質である、という知を獲得し、科学技術が呼応するように発展し、家
庭用冷蔵庫の冷媒として人類はフロンの使用を続ける。使用を続けた結果、
「オゾン層を破
壊される」という現象によって、人類は「フロンがオゾン層を破壊する」という新たな知
を獲得するのである。結果、
「夢の化学物質」としてもてはやされていたフロンは、「オゾ
ン層破壊の要因」として認識されることになる。
「フロンがオゾン層を破壊する」という知
は、自然現象を究明することで得られた能動的な知ではなく、自然現象によって提示され
た、いわば受動的な知なのである。
なぜ人類は「フロンはオゾン層を破壊する」という受動的な知を得ることになったのか。
それは、人間の認識の範囲外であること、そしてその影響が人間の想定外で生じているこ
と、という二点が受動的な知を得ることになった要因として考えられる。おそらく、受動
的な知が生まれるとき、前者である場合がほとんどであろう。例えば、地球が丸いという
19
小林道夫『デカルト入門』176 頁
17
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知を獲得することになったとき、ほとんどの人間は地球が丸いはずがない、という認識を
持っており、認識の範囲外であったため、受動的に知を獲得することになったのである。
フロンの場合も同様であろう。フロンが及ぼす認識内での影響については、研究を重ね、
化学的にも、熱的にも極めて安定である、という知を得たのである。フロンがオゾン層に
影響を及ぼすということは、トマス・ミジリーにとっては、認識の範囲外だったのである。
人間の認識の範囲外であるため、受動的な知を獲得するというのは、よく起こりうること
である。
フロンによるオゾン層破壊の特異性は、二点目の影響が人間の想定外で生じている、と
いうことに顕れている。近年問題視されている環境問題の多くは、環境の側から環境問題
という現象を通して、我々に知を提示しており、これらの影響は人間の想定外であるため、
能動的な知を獲得することが極めて困難なのである。そしてまた、受動的な知を待つしか
我々に選択できないところに我々人類の知の限界が顕れている。
オゾン層の破壊、温暖化、海面上昇、砂漠化といった、現代社会で環境問題として認識
されているものだけではない。これから我々は能動的な知によってもたらされた「もろも
ろの果実」が原因となって、様々な受動的な知を獲得していく可能性があるのだ。
これから生じてくる受動的な知は、多くの場合我々に地球規模のリスクを伴わせる可能
性が高い。我々の能動的な知は、個人間、国家間にとどまらず、地球規模で影響を及ぼし
つつあるからだ。このような現代社会を、ウイリッヒ・ベックはリスク社会と呼ぶ。現代
社会に生きる人間の行動には、常にリスクが伴っている、ということがそう呼ぶ所以であ
る。現代社会には、失業・貧困等生計上のリスクや健康・離婚等人生上のリスクといった
個人のリスク、また環境破壊・原子力発電所といった社会・国家・地球規模のリスク、両
面のリスクが存在する。そして、グローバル化・情報化が日々進化していくことと比例す
るようにリスクの種類、リスクの及ぶ範囲は広がっているというのである。そして、おそ
らくこの世界には、表面化してない様々なリスクが潜んでいるのだ。
これでもまだ、科学的世界観に基づいて世界を解明でき、知を重ねること、つまり、真
実を知ろうとすること、が我々を幸福にしていると言えるのであろうか。リスク社会とい
う言葉に対して、人類が反論できない時点で、科学的世界観に基づいて世界を解明するこ
とは不可能だと認めていることになりはしないだろうか。
そしてまた、能動的な知によって獲得された「もろもろの果実」が、現代社会のリスク
を形作っているという点で、知の追及、つまりは真実を知ろうとすることが必ずしも幸福
につながるわけでないということが実証されているのである。
我々の世界は映画『マトリックス』で描かれている世界よりも、真実の限界がないため、
さらに複雑な世界だといえる。我々が獲得する能動的な知は、上で見てきたようにリスク
を伴う可能性が高く、一見リスクを伴わないようなものであっても、リスクが顕在化され
ていない、もしくは、我々が認識できていないだけである、という可能性が高い。またそ
れらのリスクは、個人間にとどまらない、社会規模での、国家間、地球規模のリスクであ
18
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る。つまり、人類が能動的に知を追究し続けることは多大なリスクを伴う可能性が高いと
いうことだ。だからといって、知の追究をやめれば、今顕在化している国家間の貧富の差
や環境問題の原因の手がかりもつかめない。知の追及によってもたらされる「もろもろの
果実」を私は認める。私は知の追究をやめるべきだ、と声高に叫びたいわけではない。私
が主張したいことは、知の追及によってもたらされる「もろもろの果実」は、人類にリス
クを伴わせる可能性が高く、知の追及は我々に幸福のみをもたらすものではないというこ
とを認識し、知の追及の限界を我々は知る必要がある、ということである。また、知の追
及の前提にある、
「人類は真実を知りうる」ということを疑わねばならない、ということで
ある。
様々な環境問題や核問題といった、地球規模のリスクとともに、人類の限界が顕れはじ
めた今、我々はまず、身の周りに存在するリスクを回避していく必要があるのではないだ
ろうか。そのためには時には真実を追究する手を止め、冷静な目を保つ時間が必要ではな
いだろうか。何にしても、今までどおり、人間が能動的な知を獲得するたびに実践を試み
るという人類的非知を繰り返せば、おそらくリスクは増える一方で、人類はそれぞれのリ
スクを回避できず、破滅への道を歩み始めるだろう。真実を知ろうと欲することが幸福に
つながるわけではない。そのことを認識した上で、我々に何ができるのかを考えることが
今我々に求められているのではないだろうか。
19
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おわりに
今回近代科学の礎を築き、映画『マトリックス』に多大な影響を及ぼしたとされるデカ
ルトの論理を参考に論を展開した。デカルトは彼の形而上学に立脚した知によって自然現
象のメカニズムが解明できる、と主張しているが、一方で実生活と形而上学とを区別して
いる。
デカルトは真理の探究と実生活とをきっぱりと区別しており、
「実生活においては、時と
して、きわめて不確実のことであるとわかっていることにも、それが疑いえないものであ
る場合と同様に従う必要がある」20と述べている。真理の探究の際の「ほんのわずかでも疑
いを想定しうるものは絶対に偽なるものとして投げ捨てる」21という態度とは、大きく異な
る態度である。しかし、実生活と形而上学を区別する根底には、実生活においても、知を
積み重ねれば、実践法則につながるはずである、という彼の形而上学に基づく発想が息づ
いており、だからこそ、知の積み重ねによってこの世界の自然現象のメカニズムは究明で
きるという近代科学の礎をデカルトが築いたとされるのである。
この論に対する論考は本章で述べたとおりであるが、デカルトが「実生活においては、
時として、きわめて不確実のことであるとわかっていることにも、それが疑いえないもの
である場合と同様に従う必要がある」22と述べていることの方が、知の積み重ねによってこ
の世界の自然現象のメカニズムは究明できるということよりも大切であると考える。
知の積み重ねによる真実の追求は、
「もろもろの果実」とともに様々なリスクを我々にも
たらした。人類の知の追及の限界を我々は知る必要があるのだ。
ピル
また、私は第 1 節で、
「どちらの薬を選ぶか」ということを問うたが、あの問いにこそ、
人類が真実を知ることができるという前提が顕れており、映画『マトリックス』が描き出
している、真実を知れば幸福になれる、というデカルト以来の近代的な発想は基本的に間
違っているといえる。我々の世界では、「青か赤か」
「真実か仮想か」という二分法は成立
し得ないのである。
「真実を知りたいか」
「真実は知れるのか」という『マトリックス』的な問いは真実を知
れるという前提が隠されている。しかし、残念ながら我々は真実を一向に知り得ないので
ある。
20小林道夫『デカルト入門』
21同書
93 頁
22同書
93 頁
93 頁
20
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参考文献
小林道夫『デカルト入門』
(ちくま新書、2006 年)
ウィリアム・アーウィン編著『マトリックスの哲学』(白夜書房、2003 年)
マーク・ローランズ『哲学の冒険』
(集英社、2004 年)
黒崎政男『哲学者はアンドロイドの夢を見たか』(哲学書房、1987 年)
湯浅泰雄『身体』
(創文社、1977 年)
ウルリッヒ・ベック/アンソニー・ギデンズ/スコット・ラッシュ『再帰的近代化』
(而立
書房、1997 年)
ウルリッヒ・ベック『世界リスク社会論』
(平凡社、2003 年)
『現代思想 1 月号』
「特集
マトリックスの思想」
(青土社、2004 年)
21
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