はじめに及び第1章(PDF:812.1KB)

はじめに
社会の国際化、情報化、人々の価値観の多様化が一段と進み、社会の
枠組みの大きな変革期にある現在、真の豊かさを実感できるくらしを実
現することが人々の願いであり、また、活力ある個性豊かな地域社会を
つくり、次代へ引き継いでいくことが私たちの使命でもあります。
このような中で、人々の文化に対する期待や関心は一層高まってきて
おり、文化の振興は、これまで以上に大きな意義を持ってきています。
本町では、「島本らしさ」の根幹を成すものが文化であると考え、歴
史文化、芸術文化、環境文化、地域文化の4つの視点から捉えた「島本
町文化推進計画」を策定いたしました。
この計画は、今日の社会情勢を踏まえつつ、将来を展望し、文化の振
興に関する施策を総合的かつ計画的に推進するため、人と人、人と自然
の共生の考え方などを基調として、基本構想や施策の方向等を明らかに
したものであり、本町の宝ともいうべき様々な地域資源を活かした本町
独自の文化振興の礎となるものです。
「島本らしさ」を基本理念に掲げ、くらしと文化を同じ目線で捉えな
がら、目標の実現に向け、町をあげて計画の推進に努めてまいりますの
で、住民のみなさまにおかれましても、本町の文化振興のため、ひいて
はまちづくりのためご理解とご協力を賜りますようお願い申し上げます。
終わりに、本計画の策定にご尽力をいただきました「島本町文化推進
委員会」の委員各位のみなさまに厚くお礼を申し上げます。
平成18年4月
島本町長 川口 裕
1.島本町の概要
1−1.島本町民憲章、町章、町の木、町の花
島 本 町 民 憲 章
自然は
大地をつくり
人間は
まちをつくります。
まちは
住む人びとの参加によって、より住みよい町へと発展します。
わたくしたち島本町民は、めぐまれた自然と文化を生かし、互いに助けあい
みんなの幸せをねがって、この憲章をさだめます。
1、わたくしたちは、自然を愛し
水と緑の美しいまちをつくります。
1、わたくしたちは、きまりを守り
心のふれあいを大切にします。
1、わたくしたちは、教養をたかめ
豊かな文化をまもり育てます。
1、わたくしたちは、健全な心身をやしない
明るい家庭をきずきます。
1、わたくしたちは、若い力を伸ばし
未来へ希望をもってすすみます。
町章
町の花
山吹(やまぶき)
町の木
島本の島(嶋)を菊の花
楠(くすのき)
一重のやまぶきが尺代地
楠公にちなんで選ば
びら、本を水にたとえ明る
区に自生していたため選
く環境のよい未来の島本
れました。
ばれました。
町を表現しています。
(昭和 43 年 12 月 10 日制定)
(昭和 47 年 12 月 1 日制定)
(昭和 47 年 12 月 1 日制定)
1−2.地
勢
本町は、大阪府の北東部、京都府との境に位置し、木津川、宇治川、桂川の三河川
が合流して淀川となる地域にあります。大阪府内では北摂地域(淀川以北)に属し、
三島地域(島本町、茨木市、吹田市、摂津市、高槻市)に含まれます。京都府大山崎
町に隣接し、淀川対岸は大阪府枚方市、京都府八幡市となっています。
西北部に細長く、山岳丘陵の地形をなしており、東西 3.3km、南北 8.9km、面積
16.78k ㎡で、その約 70%を山岳丘陵が占め、清らかな水無瀬川が淀川に注いでい
ます。町が誇る美しい水「離宮の水」は、昭和 60 年 3 月に全国名水百選の認定を受
けました。南東部が河川、背後の北西部に丘陵地を控えた風光明媚なまちとなってい
ます。
中心位置 北緯 34 度 53 分
東経 135 度 40 分
面
海
積
抜
16.78k ㎡
最高 631.4m
最低 8.5m
1−3.あ
ゆ
み
天王山と男山に挟まれた島本町は、昔の摂津国と山城国の境に位置し、旧西国街道
がまちの中心を通る交通の要衝として栄えてきました。
島本町では先史の時代より人々の営みがありました。山崎西遺跡からは旧石器が出
土し、桜井の山麓には縄文時代から弥生時代、古墳時代にかけての生活の跡を残す越
谷遺跡があります。奈良時代になると奈良の東大寺がこの地に荘園を置いたことが正
倉院に収められている「摂津職嶋上郡水無瀬荘絵図」によりわかります。このことは
淀川の水運や山陽道が通る水無瀬の地が古来より交通の要衝であったことによるも
のです。「日本後紀」によると弘仁2年(811)に嵯峨天皇が水無瀬遊猟に際して
山崎駅に立ち寄ったことが記述されております。この嵯峨天皇以降にも、淳和天皇、
仁明天皇と来遊は続き、「文華秀麗集」「経国集」などにも詠歌が収められており、
このことからも往時の美しさが偲ばれます。
また、長岡京と平安京の時代には、外港として山崎の津(港)や、山陽道(西国街
道)の山崎の駅もあったので、都に持ち込まれる物資の玄関口として運送業者や人々
の往来が大変多く、非常に賑わっていたといわれています。山崎には関も設けられ、
その場所は関大明神社といわれています。
現在の桜井地区に墓と顕彰碑がある待宵小侍従は、「平家物語」にも登場する平安
末期∼鎌倉初期の有名な女流歌人です。
藤原定家・家隆らに命じて新古今和歌集を編纂させた後鳥羽上皇は、淀川の合流点
付近に水無瀬離宮を造営し、藤原定家らを召し寄せては、しばしば和歌づくりに興じ
ていたといわれています。
また、この地は、「太平記」の楠木正成・正行父子の「桜井の別れ」の舞台として
も有名であり、俳諧の祖山﨑宗鑑も室町時代この地で活躍しました。
豊臣秀吉が明智光秀を三日天下に終わらせた山崎の合戦があったことでも有名で
す。戦に勝った秀吉は、天王山に山崎城を築き、翌年大阪城に移るまでの一年間山崎
城に在住していました。
この後、日本の中心が江戸へと移っていったため、一時ほどの賑やかさはなくなっ
たといいます。しかし、依然交通の要衝として重要な機能を果たしており、淀川を行
き交う三十石船などで賑わっていました。
その後、明治22年に、大沢・桜井・尺代・高浜・東大寺・広瀬・山崎村が合併し
て島本村となり、純農村として開けていきました。
大正12年には、寿屋(サントリー)山崎工場が、同15年には大日本紡績山崎工
場が操業を始め、島本村は純農村から工業の町へと大きく変わっていきました。そし
て、昭和15年に町制を施行しました。
戦後、近代都市としての様相を呈しはじめ、企業の進出や都市圏の拡大にともない
企業立地の住宅地としての開発が進み、従来の農村的色彩から近郊都市的色彩へ移り
変わっていきました。高度経済成長期には人口の急速な増加が進み、その間都市基盤
の整備におわれ、昭和50年代には町財政は深刻な危機的状況に直面しましたが、昭
和60年代には、かつての急速な都市化の波は沈静化しました。
近年では、ふれあいセンターや水無瀬川運動緑地公園が整備され、平成20年には、
JR新駅が開設する予定となっています。
1−4.人
口
旧7カ村が合併して島本町になり、町制施行による新しい島本町が誕生した昭和1
5年の人口は、6,056人でしたが、昭和40年から昭和60年にかけて住宅開発など
都市化の波とともに増加が続き、昭和63年に3万人に到達しました。昭和60年以
降は、微増ないし横ばいの傾向を続けています。
また、65歳以上の高齢人口はこの20年間で急速に増加し、平成17年12月現
在の高齢化率は約16.95%と上昇を続けています。世帯でみると世帯構成の核家族化
が進み、1世帯あたりの人口も年々減少する傾向にあります。
就業人口の動向からみると、大阪都心部をはじめ町外への労働力の流出が進み、ベ
ッドタウンとしての性格が強いまちといえます。