17.ローマ帝国の神々(光はオリエントより) - So-net

17.ローマ帝国の神々(光はオリエントより)
著者:小川英雄
発行所:中央公論新社、
中公新書 1717
発行:2003 年 10 月 25 日、
780 円
著者の小川先生は、1935 年に
川崎市生。1960 年に慶応義塾
大学文学部史学科を卒業。
1965 年に同大学院博士課程を
中退。ロンドン大学、ユトレ
ヒト大学に留学。イスラエ
ル、イギリスで発掘調査に従
事。1988 年に「イスラエル考
古学研究」で慶大文学博士。
慶応義塾大学文学部教授を経
て 2001 年に定年退任。現在は
同大学名誉教授。専攻は、古
代オリエント史。著書、訳書
は多数。
(1)前書き
最近、私(筆者の林久治)はナザレのイエスとキリスト教を少々研究している。
なぜなら、これらは謎の多い問題であるからである。イエスに関しては、本感想文
の第1-5回で取り上げた。また、第 15-16 回には、スペイン映画「アレクサンド
リア」を取り上げ、4-5世紀におけるキリスト教の異教弾圧の実態を紹介した。
古代オリエントには様々な宗教(神々)が存在していたが、それらはローマ帝国
の時代に、キリスト教に収斂して行った。私はその過程を知る目的で本書を読んだ。
ローマ帝国の神々を知ろうと思えば、オリエントの神々のほかにケルト人のドルイ
ド教なども取り上げる必要がある。しかし、西方の土着宗教はローマ帝国の全土に
は広がらず、文化的に先進地であったオリエントのものが帝国各地に布教され根付
いていった。(本書の p.194)従って、本書はオリエント系の神々のみを対象とし
ている。
1
図 17.1
オリエントと古代の主要都市
(2)本書の目次
1章
古代オリエントの神話と宗教
2章
ヘレニズムからローマへ
3章
ローマ帝国の宗教
4章
イシスとセラピス:エジプト系の神々
5章
シリアの神々
6章
キュベレとアッテイス:小アジアの神々
7章
ミトラス教:イラン起源の神
8章
ユダヤ教の存続
9章
キリスト教:その成立と発展
10 章
グノーシス主義
11 章
占星術の流行
図 17.2 古代エジプトの書
記の神であり、知恵の神でも
あったトト
(3)本書の紹介(なお私、筆者の林、の感想や注釈を青文字で記載する。)
1章
古代オリエントの神話と宗教
地球上で最初の文明が成立したのは、オリエント、すなわち中近東においてであ
った。(図 17.1 を参照)そこではまず、紀元前8千年頃に人類史上最初の農耕・牧畜
2
が始まり、その伝統はやがてメソポタミアとエジプトに入り、大河流域の灌漑農耕
文明が生じた。ティグリス、ユーフラテス両河の下流域(メソポタミアと呼ばれる)で
はシュメル人が約 20 の都市国家を営み、彼らは楔形文字を使っていた。他方、ナイ
ル川流域にはエジプト人が領域国家を建設し、聖刻文字(ヒエログリフ)を用いて
いた。このような文明の発生は前3千年頃のことである。人々はやがて宗教にも文
字を用いるようになり、儀式や神話などを書き記した。
メソポタミアにおいて、シュメル人の宗教伝統を受け継いだのは、まずアッカド
人(前 2370-前 2190)であったが、後には同じセム語族の国家として、バビロニア、
アッシリア、新バビロニア(カルデア)などが台頭した。また、アナトリア(小ア
ジア)とペルシャではインド・ヨーロッパ語族のヒッタイト人やペルシャ人が建国
した。他方、シリア・パレスティナでは、カナン人やヘブライ人が現れた。
このように、古代オリエントの各地には長い間に多くの民族が現れて、それぞれ
の地で宗教的伝統を築いていたのであるが、前6世紀に成立したペルシャ帝国はこ
れらすべての民族を支配下に置くことになった。ペルシャの宗教政策は、諸民族の
固有の生活を尊重し、彼らの伝統的宗教を許容した。例えば、祖国からバビロンに
強制連行されていたヘブライ人は、前 538 年に帰国してエルサレムに神殿を再建し
てヤハウェ宗教を継続することを認められた。
このペルシャ帝国を滅ぼしたのは、オリエント人ではなく、マケドニア人アレク
サンドロスであった。彼はギリシャ軍を率いて、最後のペルシャ王ダレイオス3世
を追って、アナトリア、シリア・パレスティナ、エジプト、メソポタミア、ペルシ
ャの順に征服を進めたが、前 323 年にバビロンで病死した(享年 32 歳)。彼も征服
された諸民族の宗教に対して寛容で、各地の有名な神殿に参詣している。
本章では、ペルシャ王やアレクサンドロスが寛容であったオリエント各地の宗教
的伝統が紹介されている。先ずエジプトでは、前 3100 年頃に統一王国が成立する前
には、セペトと呼ばれる地方勢力がナイル川流域を支配していた。神々はセペトご
とに異なっていたが、獣の姿をとったり、太陽や月を頭上につけていたりしていた。
例えば、王の祖先神ホルスはハヤブサの頭をいただき、カルナックの月神コンスー
は頭上に月の円盤を付け、ミイラと死者の神アヌビスはジャッカルの頭を持ってお
り、書記の神トトの頭はトキであり(図 17.2 を参照)、ヘリオポリスの太陽神ラーは
鷹の姿であった。
統一王国成立後は、首都(メンフィスやテーベ)の祭司たちがこれらの神々から
いくつもの神話体系をまとめあげた。ある伝承によれば、大地の神ゲブと天空の女
神ヌトとが引き離されて天地となった。この両神から男神オシリスとセト、女神イ
シスとネフチェスが生まれた。オシリスとセトの兄弟は仲が悪く、権力争いを演じ
た。セトはオシリスの体を寸断してエジプト全土に撒き散らした。イシスはそれら
を拾い集めて、兄であり夫であるオシリスを蘇生させた。オシリスは冥界の王とな
ったが、イシスはオシリスとの間にホルスを生んだ。ホルスはセトと戦い、エジプ
ト王となった。それゆえ、エジプト王たちは代々ホルスを称することになった。
メソポタミアにおいては、神々は人間と同じ姿で表された。シュメル人の最高神
は大気を司るエンリルであり、彼は同時に都市国家ウルクの首神でもあった。最高
女神は神々女王イナンナであったが、彼女は後世にはイシュタルと呼ばれた。その
ほかにも、水神エンキ、太陽神エンキドゥ、牧人神ドゥムジ(後のタンズム)、農
耕神エンキドゥ、月神ナンナ、バビロンの首神ベル・マルドゥクなどがいた。
3
アナトリアはシュメル人に約千年おくれて文明開化したインド・ヨーロッパ語族
ヒッタイト人の世界となった。そこでは豊穣神テレビヌスを首神とするクババやサ
ンドラなどが信じられた。やがて、東方山地から来たフリ人の宗教が支配的になっ
た。フリ人は天神クマルビと狩りの女神ジャブシュカの神統記を持っていた。より
インド・ヨーロッパ語族的な資料は、ヒッタイト人とミタンニ人の外交文書(前 14
世紀)であり、そのなかに、ミトラ、インドラ、ヴァルナ、ナーサティアなどのイ
ラン・インド系の神々が言及されている。
シリア・パレスティナの諸都市は、首神としてバールとアナットを崇拝していた。
彼らはウガリッドのエル・ダゴンとアシュラットの子供である。他方、ティルスの
首神はメルカトで、シドンではエシュムンが崇拝された。
イラン高原にはインド・ヨーロッパ語族が住みついた。そこでは後世のゾロアス
ター教の聖典「アヴェスタ」に出てくる神々が崇拝されていたが、前7世紀ころに
現れた宗教改革者ゾロアスターがアフラ・マズラ一神教を唱えた。ペルシャ王のな
かにはゾロアスター教の教えに忠実であった者もいたが、ミトラ(ミスラ)など下
位の神々も信じられていた。ペルシャの祭司はマゴス族(マゴイ、マギ)であった。
彼らは広くペルシャ帝国各地に移住し、世襲の祭司階級となった。
2章
ヘレニズムからローマへ
アレクサンドロス大王の死後(前 323 年)、彼の帝国は継承者と呼ばれる将軍た
ちによって分割された。オリエントで力をふるったのは、シリアのセレウコス朝と
エジプトのプトレマイオス朝であった。夫々の王たちは、アレクサンドロスの宗教
政策を引き継ぎ、オリエント原住民の宗教に干渉しなかったばかりではなく、原住
民側が積極的にギリシャ語を採用し、自らの民族的伝統を書物に記すことが流行っ
た。このように、アレクサンドロス以後、ギリシャ語やギリシャ文化を異邦人が取
り入れるようになった。この時代を、ヘレニズム時代と呼ぶ。
例えば、マネトン(前 280 年頃)が「エジプト誌」を、ベロッソスが(前 290 年
頃)の「バビロニア誌」を書いた。アレクサンドリアに住みついたユダヤ人達が聖
書(旧約)のギリシャ語訳を編集し、それは「セブトゥアギンタ」(70 人訳)と呼
ばれた。ユダヤ人フィロン(前 30 頃-後 45)は聖書についての多くの著作をギリシ
ャ語で書いた。ヨセフス(37-100 頃)はギリシャ語でユダヤ人の歴史を書いた。
ところが、パレスティナのユダヤ人社会では、ヘレニズム派と保守派の対立が激
しくなった。シリア王アンティオコス4世(在位前 175-前 164)は保守派の大祭司
を退位させ、エルサレム神殿を略奪し、ギリシャ人の神ゼウス・オリュンピオスの
像を神殿に置いた。これはヘレニズム時代の王としては例外的な反原住民政策であ
った。これに対して、ユダヤ人のハスモン家が反乱を起こし、前 164 年に神殿祭儀
を復活した。ハスモン王朝はユダヤがローマ人に征服される前 63 年まで続いた。
ユダヤ人の外国人支配者に対する叛乱はローマ時代まで続いた。紀元後 66 年には
エルサレムで暴動が起こり、70 年にローマ軍がエルサレムを占領して神殿を破壊し
た。また、132 年に起こったバル・コホバの乱も 135 年に鎮圧された。(注1)この
ようにして、ヘレニズム時代にも、オリエント諸民族の宗教はユダヤ教を除いては、
ギリシャ文化を取り入れながら存続していたが、この傾向はローマ時代になっても
変わらなかった。すなわち、前 64 年にはシリアが、前 30 年にはエジプトがローマ
4
の属州になったが、ユダヤ以外のローマ東方属州では、民族的・宗教的叛乱は起き
なかった。(注1)第4回の感想文で、私(林)は次のような解説を書いた。「紀元 132-135
にかけて、ユダヤ教会から救世主と公認されたバル・コホバ(星の子)に指導された反乱は
(第二次ユダヤ戦争)、一時エルサレムを解放しますが、またもやローマ軍に鎮圧されてしま
い、以降ユダヤ人はエルサレムから追放され、ユダヤという名称さえ残されなかった。そして
この地方はパレスチナ(ペリシテ人の地)と呼ばれるようになりました。」
キリスト教の教祖イエスは紀元前 6-前 4 年の間にナザレで生まれた。彼は律法
(ユダヤ教の戒律)から除外された人々(病人、身体障害者、娼婦など)や貧民層
に同情を持ち、「律法は神の恵みから見れば無に等しい」と主張した。彼はローマ
軍からは叛乱を企む者、ユダヤ人からは神を冒涜する者と見なされ、紀元後 30 年に
磔の刑に処された。彼の死後、信者の間でユダヤ的伝統よりもヘレニズム文化の立
場に立つものが増加し、1世紀末までの間に福音書、書簡集、黙示録からなるギリ
シャ語による新約聖書が成立した。
キリスト教徒は叛乱を起こそうとする者ではなかったが、皇帝崇拝の拒否や、他
宗派の宗教活動に対する否定的態度のゆえに迫害を受けることになった。しかし、
彼らの厳格な唯一神崇拝と超民族的信仰は、オリエント的専制に変質した帝政ロー
マの支配者達の受け入れるところとなった。キリスト教はミラノ勅令(313 年)で
公認され、392 年にはローマ帝国の国教となり、他宗派を弾圧することになった。
オリエントで広がったヘレニズム文明では、ギリシャ語の採用だけではなく、国
家のものであった宗教に対して個人中心の宗教である密儀が生まれた。国家の公式
祭儀ではなく、秘密の儀式による個人の救済を目指す宗教を密儀という。密儀宗教
はギリシャのエレウシス(図 17.3 の➀)で紀元前 14 世紀から行われていた密儀に由
来する。本書は、エレウシスの密儀を詳しく紹介している(p.18-21)。ローマ帝国
時代には、皇帝達がそこで入信している(2世紀)。前4-前3世紀に、エレウシ
スの大祭司の家柄であるティモテウスという人物がアレクサンドリアに招かれて、
オシリスとアピスというエジプト古来の神々を合わせて、セラピスという新しい神
を作り、その密儀を創始したと云われている。
古代ローマ人の宗教は形式的であり、大祭司から、鳥の飛び方によって未来を占
う鳥占官にいたるまで、国家公務員で宗教は公の義務と考えられていた。ローマ人
にとって、宗教とは未知なものに対する漠然とした畏怖の念であった。彼らには神
話も神像もなかった。ローマの対外進出とともに、性別さえなかったローマの神々
も擬人化されてユピテル、マルスなどの名前を持つようになった。特に、ローマ神
とギリシャ神との習合が起こり、ユピテルはゼウスと、ミネルヴァはアテナと、ウ
ェヌスはアフロディテと同一視された。
ローマ人が前2-前1世紀にオリエントを征服して行った時、ヘレニズム化した
オリエント人は武力以外の分野でローマより発達していた。ローマ人はオリエント
に人材を求めた。こうして、オリエント人の商人、役人、軍人、農奴、家内奴隷な
どが密儀化したオリエント人の宗教をイタリアばかりではなく、北アフリカやヨー
ロッパの属州に運んで行き、信者を獲得して行った。
5
3章
ローマ帝国の宗教
➃
➀
➂
⑧
アナトリア
➁
➄
➅
⑦
シリア
⑨
図 17.3
ローマ帝国のオリエント属州
➀エレウシス、➁チャタル・ヒュイック、➂ベ
ッシヌス、➃トロイ、➄タルソス、➅コマゲ
ネ、⑦アンティオキア、⑧ニカエア、⑨ナグ・
ハマディ。
紀元前 27 年にアウグストゥス帝(注2)が即位しローマ帝国が成立すると、地中
海世界はオリエントとヨーヨッパとの文化的交流の舞台となった。オリエントのロ
ーマ属州では言語、行政、政治の分野でローマ化が起こったが、宗教の面ではオリ
エント土着の伝統が根強く残存した。諸宗教はギリシャ語を採用し、神殿にはオリ
エント的建築を採用していた。オリエント宗教各派はキリスト教と並んで全ローマ
帝国に流布した。それらは多くの場合、密儀の形をとり、しかも、それぞれの起源
の地の伝統を残していた。(注2)ローマでは、カエサル(英語ではシーザー)の後継者と
なった「オクタウィアヌス」が皇帝に即位して「アウグストゥス」と名乗った。ローマは 116
年にメソポタミアを一時占領したが、118 年にパルティアに取り戻された。
皮肉なことに、「ローマの平和」のなかで、厳格で形式的なローマ古来の宗教よ
りも、オリエント系の宗教は遥かに人心を捉えるものを持っていた。それは感情を
動かし、感動を与えてくれるものであった。各宗派では、毎日、毎週、毎シーズン
の行事が決まっており、神殿の外では様々な音楽や色彩豊かな行列が行われ、参加
した信者ばかりではなく、部外者にも強烈な感銘を与えた。神殿内では共同食卓
(聖餐式)が行われ、入信者たちの結束を強めた。ギリシャ・ローマの神殿では専
任の聖職者はいなかったが(エレウシスの密儀は例外)、オリエント系の神殿では
専任の聖職者がいて、特異な衣服をまとったり、禁欲生活をしたりして、信者たち
の尊敬を集めていた。
6
4章
イシスとセラピス:エジプト系の神々
写真 17.4 左:ホルスを抱くイシス神。この母子像が、イエスを抱く聖母マリアの原型となっ
た。中:ローマ風のイシス神像。右:第 15-16 回に紹介した、映画「アレクサンドリア」に登
場したセラピス神像。この映画では、西暦 391 年にキリスト教の暴徒達がアレクサンドリアの
セラピス神殿を襲撃し、神殿に祭られていた神々の像を破壊し、図書館に古来から所蔵されて
いた 70 万冊の書物を「異教徒のゴミ」として燃やした。
イシスはエジプト史上で非常に古い女神で、紀元前 3100 年頃に統一王国が成立す
る前の恐らく前5千年頃から崇拝されていた。彼女がオシリス神とホルス神ととも
に、王権神話(1章で紹介した)を形成したのも、すでに古王国時代(前 2650 頃-2200
頃)のことであろう。このイシス神話は、ヘレニズム時代のプトレマイオス朝でも
採用され、王はオシリス、王妃はイシス、王子はホルスと見なされた。ギリシャ人
は自分達の神々とオリエント各地の神々との類似に注目し、両者を同一視する習慣
を持っていた。とりわけ、エジプトの神々が重んじられた。
プトレマイオス1世の治世に、オシリスとアピスの両神を合体させたセラピスと
いう新しい神がアレクサンドリアで創り出され、その図像はギリシャ彫刻のプルト
(冥界の王)であり、頭上には枡いただき豊穣を表していた。アレクサンドリアに
はセラピス神殿が建立され、祭儀は密儀の影響を受けていた。エジプトの神々はエ
ジプト商人によりギリシャなどに流布された。イシスは紀元前2世紀にアテネに神
殿を持っていたし、デロス島にはイシス崇拝に加えてセラピス神の聖所があった。
ローマの東方進出とともに、セラピスとイシスは西方にも広まった。前1世紀か
らはエジプト人奴隷がローマ市にアレクサンドリアの神々を伝えた。エジプト神の
崇拝は民衆の支持を受けて盛んになった。イシス崇拝は女性達の間で人気があり、
初代皇帝アウグストゥスの一族の女性達がイシス崇拝に入信した。二代皇帝ティベ
リウスはエジプト宗教を迷信として追放したが、三代皇帝カリグラはイシス神殿を
再建した。その後も、エジプト宗教に対する皇帝達の厚遇は続いた。
首都ローマではこのようにエジプト宗教が盛んになったが、イタリアではエジプ
トとの交易拠点となった港湾都市に信者が多かった。北アフリカでは、サプラタに
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セラピス神殿とイシス神殿が建立され、西部のヌミディア等の都市にも広がった。
セラピス神殿やイシス神殿は、ヒスパニア属州(現スペイン)、ガリア属州(現ヒ
ランス)、ブリタニア(現イギリス)、ゲルマニア(現ドイツ)にも建立された。
エジプト宗教は、最初のうちはオリエント系の移民を中心としたが、次にはイタリ
アから来た入植者も改宗し、土着民の間にも広まった。
ローマ世界のエジプト宗教の独創性は神殿建築であった。ギリシャ・ローマの神
殿は公共の場所に向かって入口が開いているのに対して、エジプト神の神殿は周囲
から孤立して囲壁により俗界と隔てられていた。後者の神殿内部は豪華絢爛で色彩
が豊かで、神殿装飾により人々はエジプトにいるような気持ちになった。これはロ
ーマ世界の他の宗教建造物にはない特徴であった。
エジプト宗教の独創性は、祭儀でも強く感じられた。イシス像には召使達がつい
ていて、毎日早朝の像に着物を着せ、装身具をつけ、頭髪を整える。祭日は特に飾
りたてる。春秋二回にわたって大祭が催され、それには信者以外の人々も加わった。
3月5日には「イシスの航海」が祝われた。これはセトに殺されたオシリスを捜し
て、海路をレバノンまで旅をしたイシスが波を鎮めた、という故事に由来する祭典
である。信者達は神殿から仮装して現れ、手には松明や楽器を持ち、港に行って小
船を海に流す。10 月 28 日から 11 月3日までは「オシリスの発見」である。この時
期はナイルの洪水の終わる時期にあたり、人々はナイルの水の喪失とセトによるオ
シリスの殺害を結びつけて喪に服する。11 月3日はオシリスがイシスによって再発
見された喜びの日であり、信者達の行列が街へくり出す。
ほかにも4月 25 日のセラピア(セラピスを讃える祭り)などの祭りが色々とあり、
個人の邸宅でも祭儀が行われた。これらの公私にわたるエジプト神の祭儀は、人々
の関心を十分引きつけたものであったが、さらに奥義を極めたい者には入信の密儀
があった。密儀の詳細は、各宗派とも秘密にしていた。イシス崇拝では、秘密の儀
式のぎりぎりのところまでを書き残した著作が残っている。それは 125 年頃に生ま
れた文学者アプレイウスの「黄金のロバ」である。本書(p.51-53)では、「黄金のロ
バ」に記載された密儀の内容が簡潔に紹介されている。本感想文では省略するので、興味のあ
る方は本書か「黄金のロバ」の翻訳(岩波文庫、国原吉之助訳)をご覧下さい。
4世紀になっても、皇帝達のエジプト神の重視は続いていた。ユリアヌス帝(在
位 361-363)はセラピス・ヘリオス(太陽神セラピス)の信仰を擁護した。エジプト
の神々にとっての一大災難は4世紀末に起こった。その当時のアレクサンドリアの
キリスト教司教テオフィルスが中心になってミトラス神殿を襲撃した。それに対し
て、異教徒達は伝統的なセラピス神殿にたてこもった。アレクサンドリア市長は、
当時の皇帝テオドシウス(在位 379-395)に紛争の仲裁を依頼した。キリスト教徒で
あった皇帝は、すべての偶像を破壊することを命じた。そのため、セラピス神殿は
(キリスト教徒の暴徒達に)略奪され、セラピス像は倒された。その結果、キリスト教
への大改宗が起こった。よく知られているように、テオドシウス帝は、392 年にキリスト教
をローマ帝国の国教とした。私(林)は第 15-16 回の感想文で、スペイン映画「アレクサンド
リア」を紹介した。この映画は、キリスト教徒達が4世紀末から5世紀初頭にかけて、アレク
サンドリアの異教徒達を徹底的に弾圧した実態を描いている。
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5章
シリアの神々
シリア人はギリシャ語をあやつり、ローマ市では、大工、川ざらい、下水清掃、
葬儀屋、弁護士、医者、会計士など様々な仕事についた。とりわけ、フェニキア人
の末裔にふさわしく、商人としてローマ世界のすみずみまで出没した。また、シリ
ア系の住民達はローマ軍の兵士となって、広いローマ世界を転々とした。シリア商
人はこうした軍隊について歩いて、陣営のまわりで商売をした。こうしたシリア化
は首都では紀元前2世紀から始まった。
シリア人はローマ帝国のどこへ行っても、故郷の神々に忠実であった。しかし、
シリアの宗教はエジプトや小アジアの宗教よりインパクトがなかった。聖所は移住
民や居留外国人を中心としていた。その原因は、シリア人が信じた神々、バールや
その妻バーラットはシリア各都市の守護神であり、全シリア的な神格ではなかった
からである。本書(p.58-82)ではシリアの神々が紹介されている。
4世紀の後半には、キリスト教化したローマの中心街から離れたシリア宗教の聖
所で、シリアやエジプトの神々を信じる人々(特にこれらの神々を自宅で祭ってい
た上流階級)が、神像を運んできて密かに礼拝をしていた。彼らは多少とも新プラ
トン派の宗教哲学に通じており、シリアやエジプトの神々のいずれかを絶対的な存
在と認めており、自分の信じる神は永遠で至高であると主張していた。彼らもまた
ほとんど一神教徒であったが、キリスト教に改宗することはなかった。5世紀にな
ると、このような神々のうちの一柱の信仰から、シリア人は比較的たやすくキリス
ト教に改宗した。
6章
キュベレとアッテイス:小アジア(アナトリア)の神々
小アジアの大地母神キュベレのローマ到来(紀元前 204 年)は公式に行われ、そ
の後数百年にわたって信仰の対象となった。キュベレは時には隕石として、時には
擬人化された像の姿をとっていた。キュベレの姿をした最古の土偶はチャタル・ヒ
ュイック遺跡(図 17.3 の➁)で出土し、その年代は紀元前六千年にまでもさかのぼ
る。キュベレという女神の名前が資料に現れるのは、紀元前6世紀のギリシャ世界
であった。この女神はクバブともクベベとも呼ばれた。
キュベレの夫とされるアッティスは、当初はキュベレとペアをなしていなかった。
この若い男神は紀元前7世紀になってトラキア人から小アジアに導入され、後にキ
ュベレと同一の神話体系に組み込まれた。キュベレ崇拝は紀元前6世紀にギリシャ
世界に伝えられアテネでも神殿が建立された。ギリシャ人はキュベレをデメテルや
レアと同一視したので、エレウス(図 17.3 の➀)でさえも受け入れられた。
キュベレ神殿の去勢された祭司達(ガロイ)の歌と踊りは、ギリシャ人の目には
きわめて強い印象を与えた。2章で紹介したエレウスのティモテウスは、ベッシヌ
ス(図 17.3 の➂)を中心とする小アジアのキュベレ崇拝の本場フリュギアにも行き、
そこに伝えられた神話を書きなおした。それは、約 500 年後にアルノビウスという
著述家の手で現代に伝えられている。
ローマとカルタゴは地中海の支配権をめぐって三次にわたる戦争(ポエニ戦役)
をした。二次のポエニ戦役の時には、カルタゴの将軍ハンニバルがイタリアに侵入
して(前 218 年)、ローマは苦境に陥った。ローマ側は「シビュラの予言書」にお
うかがいを立てたところ、「ベッシヌスのイダ山の母神」がロ-マにもたらされる
なら、ハンニバルはイタリアから追い出されるであろう、との神託があった。
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当時のロ-マは、ベッシヌスを支配するペルガモン王国と友好関係にあったので、
ベッシヌスの大母神の神殿に安置されていたキュベレの御神体(黒色の隕石)はす
ぐにロ-マ運ばれた。御神体は前 204 年4月4日にローマの外港オスティアに到着
し、ローマの中心地パラティヌス丘にあるテュケ(運命の女神)の神殿に安置され
た。このキュベレ崇拝の効果はすぐに現れ、前 203 年にはハンニバルはアフリカに
押し戻され、前 202 年のザマの戦いでローマが勝利して二次ポエニ戦役は終わった。
ローマではこの出来事を記念して、毎年4月4日から 10 日までを祝祭週間とする大
母祭(メガレンシア)が祝われた。
紀元前 191 年には、ローマにキュベレ神殿が落成した。大母祭では、神殿は公開
されその前では劇が演じられた。大円形競技場では、戦車競争が催された。他方、
3月末の祭日には、女神像が持ち出され、アルモ川まで牝牛の引く戦車で運ばれて、
浄めの沐浴が行われた。ローマ帝国の最初の支配者たちはユリウス・クラウディウ
ス家(注3)に属していたが、彼らはトロイ(図 17.3 の➃)出身のアイネイアスの子
孫を称したので、トロイ近くのイダ山の女主人である大母神キュベレを尊重して、
国家公認の神とした。(注3)初代皇帝アウグストゥスに始まる 5 人の皇帝(アウグストゥ
ス、ティベリウス、カリグラ、クラウディウス、ネロ)の治世を指す。
キュベレとアッティスの祭儀はフリュギア祭儀と呼ばれた。この祭儀や儀式の詳
細は本書(p.93-97)に紹介されている。フリュギアの儀式は、個々の信者のためば
かりではなく、皇帝や宮廷の安寧のためにも挙行された。この儀式が記録された多
くの祭壇が、イタリア各地のほか、スペイン、フランス、北アフリカなどの属州で
発見されている。他方、イギリスやドイツでは、小アジアの神々の信仰は盛大では
なく、ミトラス教のほうが圧倒的であった。
当初キュベレの下に隠れていたアッティスは、同じアナトリアの月神メンと習合
してキュベレなみに創造神になった。紀元3世紀には、アッティスはエジプトのオ
シリスやシリアのアドニスとも習合し、「至高」「不滅」「神聖」「全能」などの
称号を得た。哲人皇帝ユリアヌスなどの哲学者達は自らの学説をキュベレとアッテ
ィスの神話で説明した。それによれば、大母キュベレは世界に形を与える力である
形相を司るが、それだけでは不毛であり、そこにアッティスが現れて冬の間失われ
ていた物質界の生命力を与え、春の万物復活をもたらすのである。
このような神学は、キリスト教徒によって反対された。キリスト教徒は、「3月
に行われるキュベレとアッティスの祭りが、同じ時期に行われるキリスト教徒の復
活祭に類似している」ことに気付き、キュベレとアッティスの崇拝を批判し続けた。
キュベレとアッティスの崇拝は5世紀になっても密かに続いていた。キリスト教の
神学者は、神の母マリアと神々の母キュベレの混同を戒めている。
7章
ミトラス教:イラン起源の神
ギリシャ人がミトラス、ローマ人がミトラと呼んだ神はギリシャ・ローマ由来の
神ではないが、インド・ヨーロッパ語族の神であった。インドのミトラ神は大乗仏
教が成立した時代の神々の一柱として採用され、一種の救済神マイトレーヤとなり、
それが中国や日本では弥勒菩薩と訳された。ミトラ神は、オリエントではギリシ
ャ・ローマの敵達(ペルシャ帝国やパルティア王国など)の神であったのに、ローマ人
に迎えられて、ローマ帝国のいたるところで信じられることになった。
インド・イラン語のミトラあるいはミスラの意味は「交換」あるいは「契約」で、
そこからインド聖典「ヴェ-ダ」のミトラや、ゾロアスター教の聖典「アヴェス
タ」のミスラが由来する。神名としての最古の例は、紀元前 1380 年頃の楔形文字に
よる資料(ボアズキョイ出土)である。ペルシャ帝国(前 559-前 330)では、ゾロ
10
アスターの宗教改革の影響でアフラ・マツダ神が表に立っていたが、ミスラ崇拝も
根強く行われていた。太陽神ミスラは、月神でもある地母神アナヒタとペアーを組
み、アフラ・マツダと共に、王権の守護者であった。
図 17.5 牡牛を屠るミトラス神の
レリーフ(2-3世紀、ルーブル
博物館所蔵:ウィキペディアより
転載)。本書では言及されていな
いが、イエスの誕生日とされるク
リスマスは、ミトラス教では「太
陽の誕生日」として最重要な祝日
であったものを横取りしたもので
ある。太陽神ミトラスは人類に救
済をもたらす存在であり、その宗
教は、人類の贖罪、復活、洗礼、
ぶどう酒とパンの秘儀、日曜の聖
日などの要素を持つものであっ
た。(学研の「キリスト教の本:
上」の p.48 から引用。)
ペルシャ帝国ではこのようにミスラが奉じられていたが、ミスラがギリシャ語化
したミトラスは、ヘレニズム時代のアルメニア、カッパドキア、ポントス、コマゲ
ネなどの王家の守護神であった。このような小アジアにおけるミトラス神崇拝の流
布の背景には、ペルシャの祭司階級マゴイ(マギ)の小アジア進出があった。ロー
マ皇帝ネロの時代には、ローマとパルティアの間の8年間におよぶ戦いが終わり、
両国の中間にあったアルメニア王ティリダレスが紀元 66 年にマゴイを連れてローマ
に来て、ネロを「マギの祭儀」に入信させた。ティリダレスはネロをミトラスと呼
んだが、これはミトラスの保証するアルメニア王権をネロから授けられるためであ
った。
ヘレニズム・ローマ時代の小アジアの諸王家ではミトラス崇拝が行われていたが、
ローマ帝国のミトラス密儀とは異質のものであった。ミトラス密儀は、キリキアの
首都タルソス(図 17.3 の➄)の知識人達(とりわけストア派の哲学者達)の活動が
指摘されている。彼らは英雄ペルセウスとペルシャ伝来の神ミトラスを同一視した。
当時の天文学によれば、歳差(天界の南北軸のゆらぎ)が牡牛座から牡羊座に移動
したことによる新時代の到来が祝われた。それゆえ、ミトラスと同一視されたペル
セウスは、牡牛を殺すことによって新時代を到来させたと考えられた。こうして、
最新の天文学の知識とミトラス崇拝が結びついて、ミトラス教の最重要な教義「牡
牛を殺すミトラスが新時代をもたらす」との信仰が形成された。
コマゲネ地方(図 17.3 の➅)のローマ領有化(紀元1世紀)で、ミトラス信者で
あったコマゲネ人達がローマ市に移住してミトラス密儀を伝えた可能性がある。ミ
トラス教の信者層のなかでとくに重要なのは兵士達であった。小アジアで募集され
たミトラス教徒の兵士達がミトラス教を西方に伝播したと考えられる。
ミトラス教はこのようにいて、紀元 100 年頃までにローマからイタリア各地に伝
わった。2世紀末までには、北アフリカ各地に伝わった。ミトラス神殿跡は、スペ
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イン、フランス、イギリス、ドイツでも多数発見されている。東ヨーロッパでもあ
ちらこちらに神殿が作られ、ローマ軍の兵士を中心に繁栄した。他方、ギリシャや
エジプトではミトラス教の痕跡が乏しい。(林の意見:ミトラス神殿跡が乏しい地域では、
キリスト教徒によりミトラス神殿が徹底的に破壊された可能性がある。)
本書(p.113-131)では、「ミトラス神殿」、「ミトラス教の神話」、「儀式と位
階」、「ミトラス教の信者層」、「獅子頭の怪神」、および「サンタ・プリスカ教
会地下の詩歌」が詳しく紹介されている。
本書の著者の小川先生は「ミトラス教の儀式や祭礼は公開されることはなく、常
に秘密が保たれていた。このような宗教が当局によって疑いの目で見られなかった
のは不思議である。恐らく信者達はキリスト教徒のような排他的一神教徒ではなく、
神殿外では他宗の祭儀、とりわけ皇帝崇拝に参加していたからであろう。当時のキ
リスト教著述家達からは、ミトラス教は他の宗派より敵意をもって見られている。
その原因はミトラス教の神殿生活が排他的な特徴を持っていたからと思われる」と
書いている(p.115)。(林の意見:キリスト教がミトラス教に強い敵意を持った理由は、
よく言われているように、両者の教義や儀式が類似していたからであろう。さらに勘ぐれば、
キリスト教の教義や儀式の多くは、ミトラス教からの盗用だった可能性がある。ミトラス教に
造詣が深い小川先生が上記のように書かれている理由は、先生が現在のキリスト教徒に遠慮さ
れておられるからではなかろうか。)
ディオクラティアヌス帝やガレリウス帝は 303 年のキリスト教の迫害者であった
が、ミトラス教にとってはこのような迫害は有利ではなかった。ミトラスは皇帝達
の奉納を受けていたが、それが信者を増やすことはなかった。ついで現れたコンス
タンティヌス大帝(在位 312-337)は不滅の太陽神を信奉したが、それはミトラス
ではなくキリスト教の神であった。この時代以降、ミトラス神殿がキリスト教徒に
よって襲撃されるようになった。背教者といわれるユリアヌス帝(在位 361-363)は、
自らの著書でミトラスを太陽王と称したが、ミトラス教には入信しなかった。ミト
ラス神殿はキリスト教徒の集中的な標的となり、他のオリエントの神々よりも早く、
4世紀のうちに姿を消してしまった。
8章
ユダヤ教の存続
ユダヤ教とキリスト教は他書でもよく取り上げられているので、本感想文では簡
単に紹介する。旧約聖書の伝承によれば、ユダヤ人の祖であるヘブライ人は紀元前
千年頃ダヴィデとソロモンの下にエルサレムを首都とする繁栄した王国を築いたこ
とになっている。最近の学説によれば、パレスティナの一角にヘブライ人のイスラ
エル王国(首都はサマリア)が生まれたのは紀元前9世紀であった。
前8世紀にイスラエル王国がアッシリアに滅ぼされた時期に、より南のエルサレ
ムを中心にユダ王国が成立した。ユダ王国では、王達が預言者と呼ばれる宗教家達
と協力して、ユダヤ民族に伝わる族長時以後の歴史と、モーセに始まる宗教的伝承
を合体させて、一神教的国家を建設した。これらの伝承と歴史は、キリスト教でい
う旧約聖書にまとめられた。
ユダヤ人のバビロン捕囚と、ペルシャ帝国によるエルサレム帰国の経緯は、2章
で既に紹介した。アレクサンドロスによりペルシャ帝国が滅亡し、彼の死後にヘレ
ニズム諸王朝が成立しても、諸民族は独自の社会を営むことが許されたばかりでは
なく、ギリシャ文化が広まった。人々はギリシャ語を使うようになり、多くのユダ
12
ヤ人がエジプトのアレクサンドリアやオリエント各地に移住した。国外に移住した
ユダヤ人はディアスポラと呼ばれたが、彼らには迫害もなく現地民と友好的であっ
た。ユダヤ人は唯一神しか信じなかったが、布教活動もせず民族宗教の枠を守って
いたので、ローマ時代でも当局から迫害されることはなかった。この点はローマ帝
国のキリスト教化以後も同様であった。(林の意見:小川先生の上記の記述は、「キリス
ト教はミトラス教を迫害したが、ユダヤ教は迫害しなかった」との印象を与える。この点は事
実だったのであろうか。もっと説得性のある解説をしていただきたかった。)
本書(p.136-145)では、「セプトゥアギンダ」「黙示文学と知恵文学」「アレク
サンドリアのフィロン」「シナゴーグの発展」が解説されている。
9章
キリスト教:その成立と発展
本書の2章で、キリスト教の誕生が説明されている。パレスティナのユダヤ人教
徒はイエスをメシアと信じる一方、エルサレムの神殿に参篭したし、モーゼの律法
を守っていた。これに対して、ギリシャ語を話すディアスポラの教徒はイエスをキ
リスト(メシアに相当するギリシャ語)であるとし、シリアのアンティオキア(図
17.3 の⑦)ではクリスティアノイ(キリスト教徒)という言葉が始めて使われた。
ディアスポラのキリスト教徒の代表はパウロ(10 頃-64 頃)で、彼はタルソス
(図 17.3 の➄)出身で、ギリシャ文化の幅広い教養を持っていた。最初はユダヤ教
パリサイ派の熱心な信者であったが、改宗後は世の終わりが迫っているとしてアナ
トリアやギリシャの異邦人(非ユダヤ教徒)に布教した。
パウロの生地タルソスは、ミトラス教が生まれたと云われているほどの密儀宗教
の一大中心地でもあった。彼は密儀宗教の用語を使って、キリスト教を解釈した。
それによると、イエスは悪にはまりこんだ人類を救うために地上に現れた。悪から
救われるためにはまず洗礼という入信儀式によって罪から解放される。新生活はモ
ーセの律法によってではなく、イエス信仰によらねばならない、というのである。
ユダヤ教の戒律を捨てられないキリスト教徒の一派はやがて消滅し、ユダヤ教の伝
統から解放されたキリスト教は国際化し、全人類の信仰になることが可能になった。
キリスト教は、セプトゥアギンダを旧約聖書とし、新たにパウロの書簡とマルコ
らの書きとめたキリスト伝記(福音書)をまとめて1世紀末までに新約聖書とした。
キリスト教徒は現実の社会には悪と瀆神が満ちているとし、そのような社会を敵対
視した。そして集会(エクレシア)に参加している同心の人々(兄弟)のみが救わ
れるとした。しかし、2世紀中葉までは、独自の儀式や信仰内容が社会に知られる
ことが少なく、それまでに起こった迫害(例えば、64 年の皇帝ネロによる迫害)は
偶発的なものであった。(林の意見:1世紀には、イエスの十二使徒の殆どやパウロは殉教
している。私は「そのような迫害も偶発的とは片付けられない」との感想を持っている。)
五賢帝の最後のマルクス・アウレリウス帝(在位 161-180)の時代の時代になる
と、疫病の流行や蛮族の侵入があった。このような帝国の不運は、キリスト教徒が
神々を無視しているのが原因であると迫害された。言論界でもキリスト教を非難す
る者が現れた。ケルソスは「真の言葉」(177-180)で「キリスト教は秘密結社であ
り、福音書のイエスの教えには新味が乏しい。神の子キリストが受肉したのは疑わ
しく、神が地上に来る必要はない。キリスト教は皇帝や国家への忠誠心がなく、国
家のなかに国家を作ろうとしており、キリスト教徒が多くなると蛮族の侵入を防げ
なくなる」と書いている。
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他方、2世紀中葉以後、キリスト教はローマ帝国の知識層にも入った。彼らはプ
ラトン哲学を利用して擁護論を書き、キリスト教は新興宗教ではなく、真の宗教、
真の哲学であると主張した。しかし、このような擁護論にもかかわらず、ローマ帝
国の困難は増え続け、それにともなってキリスト教に対する迫害も激しくなった。
本書(p.154-161)では、キリスト教哲学と迫害の実態を解説している。
コンスタンティヌスは、312 年に最後に残ったキリスト教迫害者マクセンティウ
スとの戦いで「十字架」が現れて勝利者となったので、313 年のミラノ勅令でキリ
スト教迫害を中止した。すると、たちまちのうちに、各地に教会堂が建てられ、キ
リスト教界の諸問題を協議するための会議が開催された。コンスタンティヌス帝
(在位 312-337)は政治上の理由から、キリスト教会が分裂しないことを望んでい
たので、キリスト教指導者達の会議を奨励した。(林の意見:コンスタンティヌ帝がキ
リスト教を公認した理由は、俗には、「十字架が現れて勝利したから」としている。しかし、
私は「もっと深い政治的理由がある」と考えている。本書はこの点が突っ込み不足である。)
そのような動向の頂点となったのが、325 年にニカエア(図 17.3 の⑧)の公会議で
あった。これは皇帝の名の下で招集され、全国の約 300 人の司教が出席した。主要
な議題は、神、聖霊、キリストの三者の関係であった。アリウスは「キリストは人
の子として生まれたものであり、有限な存在である。従って、神とキリストとは同
質ではない」と主張した。これは、アレクサンドリアのフィロンやグノーシス主義
者が新プラトン主義の哲学の影響下で論じていたことに通じる。これに対して、ア
タナシウスは「神とその子キリストと聖霊は同質であり、顕現する形態においての
み異なる」と云う「三位一体説」を主張した。
最終的には、三位一体説の勝利に終わり、アリウス派は破門され、三位一体説を
記した「ニカエア信経」に大部分の参加者が署名した。コンスタンティヌス帝はこ
のようなキリスト教界の統一化を喜んだ。それ以後、4世紀末までにキリスト教は
教会組織とともに急成長した。テオドシウス1世(在位 379-395)はキリスト教を
帝国の宗教とし、他の宗教の神殿を閉鎖して禁止令を出した。
キリスト教のこのような成功の理由を、著者の小川先生は次のように述べている。
⑴他のオリエント諸宗派は、ローマ市に中心を置いて統一的な運動をするキリスト
教に、組織力がはるかに及ばなかった。⑵他宗派は信者の経済的負担が大きかった
うえ、閉鎖的、密儀的であった。⑶キリスト教の信者は非妥協的であるのに対し、
他宗派の人々はお互いの神々に寛容であった。
10 章
グノーシス主義
ヘレニズム・ローマ時代の宗教運動の一つとして、グノーシス主義がある。これ
は思想としての面が強く、他の宗派のような儀式や祭礼を重んじなかった。指導者
にはオリエント出身者が多く、マルキオンの一派以外には神殿や教会を持たず、学
校のような場所で自説を展開した。グノーシス主義が単なる哲学ではなく、宗教活
動であったのは、個人の救済をめぐる探究心の表現だったからである。他方、他の
宗派と異なるのは、現世とそこに生きる人間を完全に否定する点であった。
グノーシスとはギリシャ語で「知識」を意味する。それは神からの啓示を受けた
聖者が語る神自身、世界、人間についての知識であり、それを授けられるというこ
とは、物質世界からの解放、現世から神の世界への回帰、至高神との結合が可能に
14
なる。このような知識が授けられる者は、宗教と哲学に通じたごく限られたエリー
トだけということになる。それゆえ、グノーシス主義者は神秘主義者であった。
グノーシス主義には四つの起源があった。⑴ヘレニズム時代のギリシャ思想、⑵
ユダヤ教の黙示思想、⑶キリスト教、及び⑷オリエント系宗教各派であるが、グノ
ーシス主義者はこのような区分にこだわることなく、自由に自らの思想を構築した。
彼らは自由思想化であると同時に、禁欲主義者であった。なぜなら、彼らは現世否
定を説いたので、世俗的欲望には消極的であった。
現存するかぎりの資料によれば(注3)、キリスト教グノーシス主義が最も重要で
ある。他方、非キリスト教グノーシス文献も残っている。その第一は、ギリシャ語
の「ヘルメス主義文書」である。1945 年に、エジプトの古都テーベ(図 17.1 を参
照)近郊のナグ・ハマディ(図 17.3 の⑨)で、コプト語の古文書が発見された。これ
は4世紀半ばのキリスト教徒が所有していた文書であるが、内容的には1世紀後半
から2世紀前半にかけてのキリスト教と非キリスト教のグノーシス文献を含んでい
た。(注3)私は第3回の感想文で「グノーシス:古代キリスト教の異端思想」という本を紹
介した。この感想文で、私はグノーシス主義の各派の思想を紹介し、「キリスト教グノーシス
は正統キリスト教会から異端とされ、グノーシス文献は徹底的に廃棄された。その結果、ナ
グ・ハマディ文書の発見以前には、グノーシス主義は、正統キリスト教の学者がそれに反駁し
た文献で知ることができたのみであった。」とも解説した。従って、私は「現存の資料から、
2-3世紀におけるグノーシス主義の真実を知ることはできない。」と考えている。なお、ヘ
ルメス文書だけは異端とは判定されず、廃棄されずに現在まで生き残っている。
グノーシス主義者の主要な信条は次の通りである。彼らの思想の根本は二元論的
である。まず、人知の及ばない永遠の神(至高神)が存在し、その下に天体やアイオ
ン(有限時間)からなるプレロマと呼ばれる領域があり、その下降で現世が生まれ
る。現世の創造主はデミウルゴスと呼ばれる(下級の)神で、これは旧約聖書の神に
相当する。現世に対するデミウルゴスの支配はヘイマルメネ(運命)である。グノ
ーシス主義者の願望は、自らをヘイマルメネから解放して、神の光のあふれる真の
世界にいたることである。
本書(p.168-175)では、「バシリデス(活動は 130 頃-150 頃)」「マルキオン
(活動は2世紀)」「ワァレンティヌス(活動は2世紀)」「ヘルメス主義文書」
を解説している。(注3)
キリスト教徒の間でグノーシス主義か興隆したのは2-3世紀で、その原因はキ
リストの再来がないことへの苛立ちであった。その中心はアレクサンドリアで、全
キリスト教世界に及んだ。グノーシス主義は2世紀末には、正統派キリスト教にと
っては強敵となった。キリスト教は、外ではローマ帝国の宗教と対立し、同時に内
からは高度な神秘主義と対決しなくてはならなかった。
しかし、この神秘主義はグノーシスを身につけたエリートのみが至福の世界に入
ることができた。それは一般の信者には理解できないものであり、あまりにも現世
否定、反人間社会的であった。グノーシス主義者は孤立した秘密の学校を舞台とし
たが、キリスト教正統派はすでに教会を中心とする組織を持っていた。キリスト教
正統派の制度化が4世紀に大部分のグノーシス主義各派が消滅した要因である。
「ニカエア信経」の成立の背景には、三位一体をめぐるアリウス派の異端のほかに、
グノーシス主義の脅威があったものと考えられる。
15
11 章
占星術の流行
ヘレニズム・ローマ時代の人々は。多かれ少なかれ宿命論者であった。なぜなら、
世相や各人の運命は天体の規則正しい運動に支配されていると感じていたからであ
る。占星術は宗教各派と並んでオリエントで発生し、ローマ帝国で流行した。カル
デア(メソポタミア)とエジプトで何千年にもわたって積み上げられた天文知識が、
ギリシャの学問の到来とともに厳密科学となり、天文現象が専門家(占星術師)に
よって正確に予知されるようになったからである。当時の人々には占星術と天文学
の区別はなかった。
最初のうちは、天文現象の理解がむずかしいうえ、料金が高かったので、占星術
師の顧客は金持ちや貴族に限られていた。その後、オリエント系奴隷で、博学の誕
生日占い人がローマ市や他の都市の街頭で活躍するようになった。彼らは人は生ま
れたときの日時によって、死にいたるまでのすべての人生の出来事が決定されてい
ると主張した。
ギリシャの哲学者のなかには、占星術について懐疑的な人々もいた。このような
懐疑論者の反論に対して、占星術師側はまず第一に天体観測の正確さを重視し、次
に天体現象や環境の影響を引き合いに出して、自然現象や個人の性格に対する星辰
の作用を主張した。たとえば、太陽は豊穣をもたらし、月の満ち欠けが海の干満を
引き起こし、ある星が出現すると嵐の季節となる、という例をあげた。占星術に反
対する態度は、時とともに弱くなり、セウェルス朝時代(193 - 235)になると、惑
星の地上に対する影響を否定する者は非常識と思われるほどになった。
占星術師達は計算や観測を厳密に行うように心がけたが、それでも実は学問では
なく宗教であった。占星術は仮定の上に立っているばかりではなく、カルデアやエ
ジプトの神殿で生まれ育った。占星術師達はそれと分かる祭司の姿をしており、自
分達の仕事は聖職であるとしていた。
占星術の宗教的基礎は、星辰界と地上と人間が共鳴しているという信念であった。
これはカルデア人の信仰であったが、ローマ時代には哲学のストア派によって採用
された。カルデア人達の宗教では星は神であり、その力は人間界のみならず動物界、
植物界などの自然界を越えるものであった。この思想はローマ人に採用され、ロー
マ人も星達は恵み深い神であり、その変化し続ける関係が現世の出来事を決定する
と考えた。
シリアでは、天界の回転が無限に繰り返されることが、神々の世界の永遠を表し
ていると信じられた。とりわけ、太陽が惑星界の指導者として、宇宙の全権を行使
しているとされた。この思想はローマに取り入れられ、太陽はローマのパンテオン
でも最高権力者とされ、それと皇帝の支配権が結びつけられた。
バビロン(図 17.1 を参照)では、宇宙は一連の「大いなる年」に支配されていると
考えられ、その長さは 43 万 2000 年であり、その間に日常の一年と同じように春夏
秋冬があり、そのたびに同じ現象が繰り替えされる。このような宇宙観の中では、
人間の霊魂は天界に住んでいるが、運命の定めるところによって地上に下り、それ
ぞれの特定の肉体に宿る。そのさい、霊魂は惑星界を旅して、各惑星の性質を受け
取る。死ぬと、その逆が起こり、着物を脱ぐように各惑星にその性質を返還して、
純粋な姿に返って、天上の神の下に戻り、永遠にそこに住む。
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このような時間や人間の運命についての概念は、最初の学問的神学といえる。そ
れはヘレニズム時代に西方に伝えられ、主としてストア哲学や密儀宗教に採用され
た。夜になって天界を見ていると、人々の心は降ってくるような星の光に酔い、生
きたままで星達の世界の聖なる内陣まで昇っていき、宇宙の調和のとれた運動に加
わることができた。
占星術の最も本質的な原理は宿命論であった。最初にそれに到達したのは、カル
デア人やエジプト人であり、宇宙は不変の必然性をもって運動していた。その必然
性は人間の社会や個々の人間にも適用された。ヘレニズム時代以後、世界を支配す
る運命の女神テュケが崇拝された。ローマでも彼女に相当する女神フォルトゥナが
崇拝され、とりわけ、3世紀の混乱した時代にその崇拝は著しかった。
このような宿命論にはキリスト教徒が反対した。なぜなら、それは個人の責任を
消し去ってしまうからで、もし不変の運命の下に生きるとすれば、神に祈りを捧げ
ても運命を変えることは不可能になるからである。ストア派の哲学者達の生活態度
は立派であっても、彼らは一種の知的奴隷であり、気まぐれな運命にただ服従する
だけであった。人々は宇宙的法則性の圧力から逃れようとし、宿命の奴隷になりた
くなかった。キリスト教やユダヤ教を除く、オリエント系各宗派は占星術の影響を
免れることができず、宿命を断つために魔術に頼りさえしたのである。(林の意見:
私は「ヘレニズム・ローマ時代には、占星術と天文学との区別が無かったと同様に、宗教家と
魔術師との区別も無かった」と思っている。)
(4)本書の感想
(1)にも書いたように、古代オリエントには様々な宗教(神々)が存在してい
たが、それらはローマ帝国の時代に、キリスト教に収斂して行った。私はその過程
を知る目的で本書を読んだ。「本書により私の当初の目的が達成できたか?」と問
われれば、答えは「否」である。確かに本書は、「ローマ帝国では、どのような古
代オリエントの宗教(神々)が信仰されていたか?」との問いには分かり易く答え
てくれた。しかし、私が最も興味を感じるのは「ローマ帝国は最初のうちはキリス
ト教を迫害しておきながら、なぜ遂には国教にして他の神々への信仰を禁止したの
か?また、その過程で、キリスト教の側はどのようにして他の宗教を模倣したり抑
圧したりしたのか?」との問題である。
多分、他の方々も「ローマ帝国における宗教史では、この問題が核心である」と
の私の意見に賛成していただけるであろう。本書はこの問題を避けて通っている。
もしかすると著者の小川先生はキリスト教徒で、キリスト教の恥部を晒したくない
のかも知れない。そうでなくても、小川先生は現在のキリスト教会と教徒達に遠慮
されているようである。このような点で、私は本書が物足らなかった。
特に、私が賛成できなかったのは、グノーシス主義に対する小川先生のご見解で
ある。先生は「グノーシス主義は現世否定、反人間社会的であった。」と書かれて
いる。確かにグノーシス主義にはそういう側面は存在したが、先生のご見解はキリ
スト教正統派のそれと同じである。
学研の「キリスト教の本:上」(p.127)では、「グノーシスとは、秘儀的に知ら
れる奥義的な神的知恵のことであり、その萌芽は万人に与えられており、そのグノ
ーシスに到達すれば本来的『自己』を獲得できる。イエスは、このグノーシスに到
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達した先達である。誰であれこのグノーシスに到達すれば、イエスと同等であり、
すでに『永遠の命』にあずかっている。」と書かれている。
私は「キリスト教の本:上」の見解に賛成である。そのように考えると、お釈迦
様もグノーシスに到達した先達となる。もしかすると、イエス様は修行時代に「お
釈迦様のお教え」を勉強されたのかも知れない。私は「もしそのようであったので
あれば、大変素晴らしい」と思っている。
(執筆完了:2014 年3月 17 日)
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