『小野国際交流クラブ 第107回例会』(2014年7日19日)

小野国際交流クラブ第107回(平成26年7月)例会のまとめ
<日
<会
時>
場>
平成26年7月19日(土)
コミセン小野302号室
16:00~18:00
<今月の話題> 「中韓-日本の海洋戦略について」
話題提供者:土本茂治会員
<配付資料>
『 丸 谷 元 人「 日 本 の 南 洋 戦 略 」よ り 』( A 4 3 枚 綴 り )( 土 本 会 員 提 供 )
『陸軍中野学校』
(特別ゲストスピーカー井登慧先生ご提供)
<出席者>
2 1 名( 会 員 17、 ゲ ス ト ス ピ ー カ ー 1 、ヴ ィ ジ タ ー 3 (う ち 1 名 は 暗 幕
作 製 ・ 設 営 並 び に 映 写 担 当 ))
Ⅰ
話 題 提 供 者 の 話 ( 別 紙 資 料 に 記 載 の No.5を 除 く http各 資 料 内 容 を 映 写 し な が ら の
説明)
【丸谷元人氏のビデオ『日本の南洋戦略』】
2 0 0 3 年 3 月 、防 衛 大 学 田 中 宏 巳 教 授 の ニ ュ ー ギ ニ ア 戦 戦 跡 調 査 の 通 訳 と し て 初 め て
パ プ ア ニ ュ ー ギ ニ ア を 訪 れ た 。密 林 の 中 の 錆 び つ い た 高 射 砲 を 視 察 し た 時 、現 地 の
案内人が、近くに日本兵の墓があることを告げた。
深く暗い密林の奥で、古びた鉄の十字架とそこに添えられた美しい花を目にした
時 、思 わ ず 立 ち 尽 く し 瞑 目 し た 。傷 つ い た 二 人 の 日 本 兵 が 進 撃 し て き た オ ー ス ト ラ
リア兵に射殺され、遺体は放置された。
あまりに哀れなので、案内人の祖父たちがそこに埋葬し、今でも村人が献花して
い る 。 戦 後 60年 を 経 て も 日 本 兵 の こ と を 忘 れ ず 、 今 な お 墓 を 守 っ て い る の は 、 日 本
の「兵隊さん」たちに尊敬と信頼と親近感を感じているからだった。
しかし戦後の日本人は、パプアニューギニアの密林の奥に、戦死した日本兵士の
墓があることすら知らないのだ。私(丸谷氏)はこの事実に打ちのめされた。
戦 後 、多 く の パ プ ア ニ ュ ー ギ ニ ア 人 が 、日 本 兵 を 助 け た こ と を 理 由 に 、連 合 軍 に
処刑されたという事実にも、私(丸谷氏)は衝撃を受けた。
ところが彼らは、そんな理不尽な目に合う原因を作った日本人に恨みを持つどこ
ろ か 、か つ て の 日 本 人 を 称 賛 し 、今 な お 日 本 軍 が 戻 っ て く る こ と を 待 ち 望 ん で い た 。
戦 争 が 始 ま る ま で 、白 人 た ち は 原 住 民 を 奴 隷 扱 い し て い た 。日 本 兵 は 、白 人 を 追 い
出して、独立を助けるためにここまで来たのだと言ってくれた。
彼らは自分たちと同じものを食べ、同じところに寝泊まりし、子どもたちを大変
可 愛 が っ て く れ た 。「 わ れ わ れ を 人 間 扱 い し て く れ た 文 明 人 は ジ ャ パ ン が 初 め て だ
っ た 。だ か ら ジ ャ パ ン の 兵 隊 が 傷 つ き 死 に か け て い る の を 祖 父 た ち は 放 置 で き な か
ったのだ」と現地ガイドの男は語った。
1 6 万 人 の 日 本 兵 が 東 部 ニ ュ ー ギ ニ ア に 派 兵 さ れ 、帰 還 で き た の は 8 千 名 ほ ど だ と 言
わ れ る 。そ の 中 に は 原 住 民 に 命 を 助 け ら れ た 兵 士 も 多 か っ た 。パ プ ア ニ ュ ー ギ ニ ア
人 に 助 け ら れ 、生 き な が ら え た 人 た ち の 子 孫 は 、現 在 何 千 人 、何 万 人 と い る は ず だ 。
し か し パ プ ア ニ ュ ー ギ ニ ア に 、返 し き れ な い ほ ど の 大 変 な 御 恩 の あ る こ と を 記 憶 し
ている日本人は、一体今何人いるのだろう。
台湾の高砂族がニューギニア戦で果たした役割は大きい。高砂族とは、独特の蛮
刀 を 腰 に 峻 険 な 台 湾 の 山 岳 を 自 在 に 移 動 す る 原 住 民 で 、実 際 に は い く つ か の 部 族 が
あったが、戦前はまとめて高砂族と呼んでいた。
彼らは、自らを日本人と認識するほど日本の統治時代の教育を吸収した。大東亜
戦 争 が 始 ま る と 、多 く の 若 者 が 高 砂 族 義 勇 隊 と し て ニ ュ ー ギ ニ ア に 送 ら れ た 。彼 ら
は 、日 本 兵 以 上 に 日 本 に 対 す る 信 頼 や 忠 誠 心 を 持 っ て い た の で 、命 令 に は き わ め て
忠 実 だ っ た 。最 前 線 の 部 隊 に 食 料 を 輸 送 す る 任 務 に 就 い た 高 砂 族 の 兵 士 が 、自 ら 担
いでいた食料に一切手をつけず餓死しているのが発見されたこともあった。
ま た 高 砂 族 は 、夜 目 が 効 き 、聴 覚 、嗅 覚 と も に 優 れ て い た た め 、敵 兵 の 接 近 を 遠 方
か ら 察 知 で き た し 、密 林 で の 隠 密 行 動 も 得 意 だ っ た 。食 べ 物 が 何 も な い と 思 わ れ た
密 林 で 食 料 を 探 し だ し 、日 本 兵 に 食 べ さ せ る こ と も あ っ た 。戦 局 が 悪 化 し 、ボ ロ き
れのようになった日本兵を見かねた彼らは、上官に靴を脱ぐ許可を申し出た。
一旦裸足になった彼らは、頼れる担送要員から、信じられないほど強力な戦闘員
に変身した。武器を手にした高砂兵は、負傷兵の看護輸送、食料調達のみならず、
狙 撃 、奇 襲 、偵 察 、待 ち 伏せ 、敵 陣地 後方 へ の潜 入お よび 破壊 活 動ま で、八面六臂
の活躍をした。
陸軍中野学校出身の将校たちが、高砂族の優れた能力に着目した。中野学校が、
特に優秀な高砂族兵士を日本人将校、下士官のもとに配属、特別遊撃隊を編成し、
訓練を施し、新たにニューギニア北岸や、ブーゲンビルの戦場に送り込んだ。
遊撃隊は、まず現地住民に宣撫活動を実施。医薬品、食料、備品を分け与えて、
住 民 か ら の 信 頼 と 支 援 を 勝 ち 取 っ た 。高 砂 族 の 言 葉 は 、ニ ュ ー ギ ニ ア 北 岸 の メ ラ ネ
シ ア 系 人 種 と 同 じ 、オ ー ス ト ロ ネ シ ア 語 族 に 属 し て い る の で 、ど こ か 通 じ る も の が
あり、風習も現地民達と共通するところがあった。
そうして信頼関係を築いた結果、現地民に秘密の道を教えてもらうなど、その後
の 作 戦 に 役 立 て る こ と が で き た 。特 別 遊 撃 隊 は 、や が て 各 地 で ゲ リ ラ 戦 を 展 開 。数
十回豪米軍と闘ったが、一度も敗北することは無かった。
豪 州 軍 は 、昭 和 1 9 年 秋 、敗 走 す る 日 本 兵 を 追 撃 す る た め 、新 た に 第 6 師 団 を 投 入 し
た 。こ れ を 救 援 す る た め 中 野 学 校 出 身 軍 人 の も と 、日 本 人 歩 兵 と 高 砂 族 か ら な る 大
高 猛 虎 挺 身 隊 が 編 成 さ れ た 。大 高 猛 虎 挺 身 隊 は 、各 所 で 豪 州 軍 に 奇 襲 作 戦 を 実 施 し 、
す べ て の 戦 闘 で 敵 の 攻 撃 を 封 じ た 。大 高 猛 虎 挺 身 隊 153名 は 、2カ 月 に 及 ぶ 激 闘 で 兵
力 を 半 減 さ せ た が 、常 に 攻 撃 の 最 前 線 に 立 っ て い た 高 砂 族 兵 の 戦 死 、負 傷 は 、と も
にゼロであった。
彼ら高砂族が懸命に日本軍将兵を支援した結果、生き残った将兵の多くが命を救
われたことは、決して忘れてはならない歴史の事実だ。
Ⅱ
土 本 会 員 か ら (西 脇 東 中 学 時 代 の 恩 師 )井 登 先 生 の 紹 介 と 井 登 先 生 の お 話
昭 和 49年 、 小 野 田 寛 郎 君 が ル バ ン グ 島 か ら 帰 還 し た の を 機 に 陸 軍 中 野 学 校 の 同 窓
会を結成した。
ま ず 小 野 田 君 が ジ ャ ン グ ル の 中 で 30年 間 闘 い ぬ く 原 動 力 と な っ た 、 陸 軍 中 野 学 校
の教育からお話したい。
1
中野学校創設の経緯
( 1 ) 日 露 戦 争 に お い て 、乃 木 大 将 が 攻 略 し つ つ あ っ た 旅 順 に 、ロ シ ア が 大 軍 を 送
ろ う と し た 矢 先 、ロ シ ア 大 使 館 付 き 武 官 で あ っ た 明 石 元 二 郎 大 佐 の 活 躍 で ロ
シ ア 革 命 が 起 こ っ た 。も し 明 石 大 佐 の 諜 報 活 動 が 無 け れ ば 、旅 順 の 陥 落 も な
く 、日 露 戦 争 に お け る 日 本 の 勝 利 も な か っ た で あ ろ う 。中 野 学 校 設 立 の 淵 源
はこの明石大佐の諜報活動に求められる。
( 2 ) 昭 和 1 2 年 、岩 畔 豪 雄 中 佐 、秋 草 俊 中 佐 、福 本 亀 治 中 佐 ら が 秘 密 戦 の 重 要 性 を
陸 軍 大 臣 に 進 言 し 、昭 和 1 3 年 陸 軍 省 が 所 管 す る 後 方 勤 務 要 員 養 成 所 が 設 立 さ
れ た 。 幹 部 候 補 生 出 身 の 陸 軍 少 尉 18名 が 、 第 一 期 生 と し て 入 学 し た 。
陸 軍 士 官 学 校 の 卒 業 生 は 、職 業 軍 人 と し て 固 ま っ て し ま っ て い る た め に 、秘
密 戦 に は 不 向 き と さ れ た 。こ の 第 一 期 生 の 卒 業 試 験 の 課 題 は 、一 日 の 猶 予 の
間 に 陸 軍 省 に 潜 入 し 、 重 要 書 類 を 盗 み 出 す こ と で あ っ た 。 18名 の 卒 業 生 は 、
この課題を見事にやり遂げた。
( 3 ) 昭 和 1 5 年 に 、陸 軍 中 野 学 校 令 が 制 定 さ れ 、1 6 年 に は 、参 謀 本 部 直 轄 の 学 校 に
な っ た 。 19年 8月 に は 、 静 岡 県 二 俣 町 に 分 校 が で き 、 そ の 第 一 期 生 と し て 私
や小野田君が入学した。
2
中野学校の教育の精神
( 1 ) 表 立 っ て 手 柄 を 立 て る の で は な く 、縁 の 下 の 力 持 ち に 徹 す る こ と を 良 し と す
るのが中野学校の精神であった。
( 2 ) 各 陸 軍 予 備 士 官 学 校 か ら 秘 密 戦 に 適 任 で あ る と し て 選 抜 さ れ た 者 が 、中 野 学
校、陸軍省、参謀本部から派遣された試験官の前で面接を受けた。
( 3 ) 「 い つ で も 死 ぬ 覚 悟 は あ る か 」「 親 、 兄 弟 、 親 戚 と の 文 通 禁 止 。 た と え 死 ん
で も 遺 骨 は 親 元 に 帰 ら な い が 、 そ れ で も よ い か 」「 後 ろ を 向 い て 、 テ ー ブ ル
の上にある物を答えよ」などと質問を受けた。
( 4 ) 予 備 士 官 学 校 卒 業 の 前 日 、「 東 部 第 3 3 部 隊 」 に 入 隊 を 命 ぜ ら れ た 。「 東 部 第
33部 隊 」 と は 、 陸 軍 中 野 学 校 の 秘 匿 名 称 だ っ た 。
( 5 ) 昭 和 1 9 年 9 月 1 日 が 中 野 学 校 の 入 学 式 で あ っ た 。そ の 日 教 官 か ら 学 校 の あ る 二
俣 町 の 人 口 ・ 産 業 ・ 特 色 、ま た こ の 町 に 軍 隊 が 駐 屯 す る な ら ど れ ぐ ら い の 人
数が収容できるかと質問されたが、何一つ答えられなかった。
(6) 中 野 学 校 の 校 歌
「赤き心で 断じて為せば 骨も砕けよ肉 又散れよ 君に捧げて微笑む男
児 要らぬは手柄 浮雲のごとき 意気に感ぜし人生こそは 神よ与え
よ万難我に」
楽 な 道 を 求 め る の で は な く 、い か な る 困 難 も 乗 り 越 え て 行 く の だ と い う 気 構
えこそが中野学校の精神であった。
3
小野田寛郎少尉
( 1 ) 昭 和 1 9 年 1 2 月 、第 1 4 方 面 軍 参 謀 長 武 藤 章 中 将 よ り ル バ ン グ 島 派 遣 の 命 を 受 け 、
師 団 長 横 山 幹 雄 中 将 よ り 「 必 ず 迎 え に 行 く の で 玉 砕 せ ず 3年 で も 5年 で も 頑
張れ」との命令を受ける。
( 2 ) 終 戦 後 も 、赤 津 勇 一 一 等 兵 、島 田 庄 一 伍 長 、小 塚 金 七 一 等 兵 と 共 に 戦 闘 を 継
続した。
( 3 ) 医 者 に か か る こ と は で き な い し 医 薬 品 も な い の で 、徹 底 し た 健 康 管 理 を し た
結 果 、 30年 間 で 発 熱 し て 休 ん だ の は 3日 だ け で あ っ た 。
( 4 ) 居 場 所 を 察 知 さ れ な い よ う に 、一 週 間 ほ ど で 住 処 を 転 々 と し た 。夜 、民 家 近
くの畑のトウモロコシを盗ったり、川で魚を獲って食料にした。
( 5 ) 記 録 す る も の が 無 か っ た た め 、今 日 が 何 年 何 月 何 日 か 、自 分 の 頭 で 記 憶 す る
ほ か な か っ た 。 30年 た っ て 正 し い 暦 と 自 分 の 記 憶 と に は 6日 間 の 差 し か な か
った。
(6) 生 水 は 決 し て 口 に し な か っ た 。 必 ず 沸 か し た 湯 を 飲 ん だ 。
( 7 ) 火 を 起 こ す 方 法 は 、割 っ た 竹 の 溝 に 小 銃 の 弾 か ら 取 っ た 火 薬 を 詰 め 、摩 擦 熱
で発火させ、常備している消し炭に点火した。
( 8 ) 自 分 の 腕 の 太 さ を 測 っ て 体 重 の 増 減 を 、便 の 状 態 か ら 胃 腸 の 調 子 を 推 測 し た 。
ヤ シ の 繊 維 で 歯 ブ ラ シ を 作 っ て 歯 を 磨 い た 。ま た ヤ シ の 繊 維 で 作 っ た タ ワ シ
で皮膚を摩擦して、健康維持を図った。
(9) 昭 和 24年 に 赤 津 一 等 兵 が 投 降 し 帰 国 す る こ と で 、 小 野 田 、 島 田 、 小 塚 の 3名
が ル バ ン グ 島 で 戦 闘 を 続 け て い る こ と が 知 ら れ る こ と に な っ た 。そ こ で 政 府
が 組 織 し た 捜 索 隊 が 、三 度 捜 索 す る が 発 見 で き な か っ た 。三 度 目 の 捜 索 に は
中 野 学 校 の 同 期 生 1 0 名 が 同 行 し た 。彼 ら は 、危 険 だ か ら ジ ャ ン グ ル に 入 ら な
い よ う に と い う 警 告 を 振 り 切 っ て 、ジ ャ ン グ ル の 奥 地 に 踏 み 込 み 、小 野 田 少
尉 に 呼 び か け た 。そ の 時 小 野 田 少 尉 は 、ほ ん の 数 十 メ ー ト ル 先 に い た の だ が 、
こ の 時 捜 索 隊 に 同 行 し た 同 期 生 た ち も 、ア メ リ カ 傀 儡 政 権 に 強 制 さ れ て 来 て
いると考え、姿を現さなかった。
( 1 0 ) 昭 和 4 9 年 、日 本 の 探 検 家 で あ っ た 鈴 木 紀 夫 青 年 が 、小 野 田 少 尉 と の 接 触 に 成
功 し 帰 国 を 促 し た 。小 野 田 少 尉 は 、直 属 上 官 の 命 令 解 除 が あ れ ば 任 務 を 離 れ
る こ と を 約 束 し た 。鈴 木 青 年 か ら 連 絡 を 受 け た 厚 生 省 は 、た だ ち に 宮 崎 県 に
健 在 で あ っ た 谷 口 義 美 元 陸 軍 少 佐 に 、任 務 解 除 の 命 令 書 を ル バ ン グ 島 に 届 け
る こ と を 依 頼 し 、3 月 9 日 、つ い に 小 野 田 少 尉 は 谷 口 元 少 佐 か ら 任 務 解 除 、帰
国命令を受けた。
( 1 1 ) そ の 夜 二 人 は 、一 睡 も せ ず 語 り 明 か し た 。翌 日 マ ル コ ス 大 統 領 に 拝 謁 し 、武
器 一 切 を 差 し 出 し た が 、マ ル コ ス 大 統 領 は 、小 野 田 少 尉 を 立 派 な 軍 人 と 評 し 、
寛大な処置をとった。
(12) 昭 和 49年 3月 12日 帰 国 。 こ の ニ ュ ー ス は 全 世 界 で 報 じ ら れ た 。 帰 国 後 、 病 院
に 入 院 し て い る と き に 、 政 府 は 見 舞 金 と し て 100万 円 を 贈 呈 す る が 、 小 野 田
は こ れ を 拒 否 し た 。む り や り 見 舞 金 を 渡 さ れ た の で 、見 舞 金 と 義 援 金 の 全 て
を 靖 国 神 社 に 寄 贈 し た と こ ろ 、マ ス コ ミ か ら「 軍 国 主 義 者 」な ど ど 心 無 い 批
判をうけた。
( 1 3 ) ま た「 3 0 年 間 戦 い 抜 い た な ど と い う の は き れ い 事 だ 」と い う 非 難 を 耳 に し た
小 野 田 は 激 怒 し 、変 わ り 果 て た 祖 国 に 嫌 気 が さ し て 、ブ ラ ジ ル 移 住 を 考 え た 。
(14) 私 は 、 昭 和 49年 9月 か ら 1 ヶ 月 間 、 文 部 省 の 派 遣 団 の 一 員 に 加 わ り 、 諸 外 国
に お け る 教 育 事 情 の 調 査 を し た 。ス ウ ェ ー デ ン 、東 ド イ ツ 、西 ド イ ツ 、イ タ
リ ア 、 フ ラ ン ス 、 イ ギ リ ス 、 ア メ リ カ の 7カ 国 を 回 っ た 。 そ れ ぞ れ 訪 問 し た
国 で 、小 野 田 の ニ ュ ー ス が 伝 わ っ て い る か ど う か 確 か め て み た 。す る と 、ど
こ の 国 で も 、新 聞・テ レ ビ で 大 き く 報 道 さ れ た そ う で 、皆 知 っ て い た の だ が 、
だ れ も が 共 通 し て 疑 問 に 思 っ た こ と は 、な ぜ 日 本 人 は 3 0 年 も の 間 ジ ャ ン グ ル
の 中 で 頑 張 っ た の か 、な ぜ も っ と 早 く 出 て 来 な か っ た の か 理 解 で き な い と い
う こ と だ っ た 。「 絶 対 に 死 ぬ こ と な く 、敵 の 動 き を 監 視 し 、再 び 日 本 軍 が 上
陸 し た 時 に は 誘 導 せ よ 」と い う 上 官 の 命 令 を 忠 実 に 守 っ た の で あ る と 説 明 す
ると納得してくれた。
( 1 5 ) ル バ ン グ 島 で は 時 に は 牛 を 射 殺 し て 、肉 を 乾 燥 し 、食 料 に す る こ と も あ っ た 。
長 年 牛 を 観 察 し 、牛 の 生 態 に は 詳 し か っ た の で 、ブ ラ ジ ル で 牧 場 を 経 営 す る
こ と に し た 。ジ ャ ン グ ル の よ う な 未 開 の 地 を 、自 ら ト ラ ク タ ー で 開 墾 し て 牧
場 に し た 。最 初 は 3 0 0 頭 ほ ど の 牛 を 飼 っ て い た が 、年 に 一 回 帰 国 し て 同 窓
会 に 出 席 す る た び に 、 牛 の 頭 数 が 増 え て い る と 報 告 し た 。 ブ ラ ジ ル で は 、 1,
000頭 以 上 飼 わ な い と 「 牧 場 主 」 と は 言 わ れ な い そ う だ が 、 数 年 後 に や っ と
「 牧 場 主 」 に な れ た と い う 報 告 が あ っ た 。 最 後 に は 1,800頭 に も 増 え て い た
そうだ。
( 1 6 ) 小 野 田 は 、日 本 の 少 年 が 金 属 バ ッ ト で 親 を 殴 り 殺 し た 事 件 を 知 り 、日 本 の 青
少 年 の 精 神 的 な 危 機 を 感 じ た 。1 9 8 4 年 、青 少 年 の 心 身 の 健 全 育 成 の た め 、福
島 県 塙 町 に「 小 野 田 自 然 塾 」を 開 設 し た 。 一 週 間 の 泊 り が け キ ャ ン プ で 、ル
バ ン グ 島 で の 体 験 談 を 子 供 た ち に 聞 か せ た 。3 0 年 間 に 約 2 0 , 0 0 0 人 の 子 ど も た
ちが参加した。
( 1 7 ) 3 年 前 東 京 の 市 ヶ 谷 の ホ テ ル で 、最 後 の 同 窓 会 が 開 か れ た 。そ の 時 小 野 田 は 、
携 帯 ボ ン ベ で 酸 素 吸 入 を し な が ら 奥 さ ん に 伴 わ れ て 現 れ た 。肺 気 腫 で あ っ た 。
( 1 8 ) そ の 後 も 『 生 き る 』 と 題 す る 本 を 出 版 し 、「 ま だ 死 ん で な る も の か 、 こ れ を
日 本 人 に 伝 え な け れ ば ! 」 と い う 意 気 込 み で あ っ た が 、 今 年 1月 1 6 日 病 に 倒
れ帰らぬ人となった。
Ⅲ
質疑応答等
例 会 で の 質 疑 応 答 ・ 意 見 交 換 の 時 間 が と れ な か っ た の で 、別 に 企 画 し て い た 親 睦 夕
食 会 ( 出 席 者 1 1 名 )の 際 に 、 井 登 先 生 か ら 直 接 に お 聞 き し た り 、 各 自 の 席 で の 意 見 交
換等が行われた。
夕食会での共通の談話は次の通りであった。
(1) 土 本 会 員 か ら 、 西 脇 東 中 学 校 在 学 中 に 井 登 先 生 か ら 親 し く ご 指 導 を 頂 い た こ と
の報告と、今回のゲストスピーカーとしてのご出席への謝辞が述べられた。
(2) 井 登 先 生 か ら 村 田 会 員 ( 世 話 人 ) と の 繋 が り ( 村 田 の 兄 と 先 生 が 旧 制 小 野 中 学 の
同級生であったこと。小野高校同窓会・蜻蛉会明石支部で村田が井登先生と初
対 面 し 、 そ の 後 、 改 め て 、 別 の 同 窓 会 員 と 3人 で 親 睦 の 食 事 会 を 持 っ た こ と )の
ご説明があった。
(3) 村 田 会 員 か ら 、 今 回 の ゲ ス ト ス ピ ー カ ー と し て の 井 登 先 生 の ご 来 駕 へ の 謝 辞 が
述べられ、先生の益々のご健勝と後輩へのご助言等を賜ることを願っての乾杯
の発声がなされた。
Ⅳ
連絡事項
1 8月以降の話題
(1) 8 月 : 「 旧 約 聖 書 と パ レ ス チ ナ 問 題 」
(2) 9 月 : 「 日 系 二 世 兵 士 と 私 」
( 3 ) 1 0 月:「 話 題 未 定 」
(4) 11月 以 降 : 「 祝 詞 (の り と )」
(木村肇介会員)
(倉橋哲雄会員)
( ユ ー フ ァ さ ん 、ゲ ス ト ス ピ ー カ ー )
(小林宜英会員)