北米大陸に移住したロシア系ドイツ人の言語使用研究の動向

北米大陸に移住したロシア系ドイツ人の言語使用研究の動向
長
友
雅
美
Ehr lieva Kienn, heit vollam’r meddem Lese oh ’fahnge.1)
この研究ノートは,アメリカ合衆国やカナダなどに定住地を見出したロシア系ドイツ人の言語使
用とその実態研究についてまとめたものである。旧ソヴィエト連邦各地に現在も分散居住するドイ
‥
ツ人ならびにドイツ連邦共和国へ「里帰り」したいわゆる Spatesiedler「
(遅番)帰還者」と呼ばれ
るドイツ人たちの言語使用とその研究については触れない。
1.ロシアにおけるドイツ系移民の言語使用研究
ロシアにおけるドイツ系移民の言語使用に関する研究は,1912年にマールブルク大学の方言地理
学教室のヴレーデ(Ferdinand Wrede :1863−193
4)が,サラトフ大学の協力を得,「ヴェンカー4
0
文」2)の調査票を配布したことから始まる。だがこの調査は第一次世界大戦の勃発(1914年),さら
にその後のロシア革命(1917年)により頓挫してしまった。
1924年ボルガ流域地区のドイツ語の研究に携わっていたサラトフ大学のディンゲス(Georg
Heinrich Dinges :1891−1932)は,時の革命政府の許可を得,ヴレーデのもとで言語調査の方法を
3)
学び帰国,ロシア領内におけるドイツ語方言変種研究を開始した。
しかしディンゲスは1
930年,
ドイツのスパイという嫌疑で逮捕され,シベリアの抑留地トムスクにてチフスで死亡,病原菌の拡
散を恐れた当局により彼の文献書物は焼却処分されてしまった。ディンゲスの後継者は,サラトフ
大学でドイツ語の方言混交 Dialektmischung に関する研究をしていたドゥルソン(Andreas Dulson :
1900−1973)であったが,この学者もスターリン政権時代にトムスクに抑留され,当局の監視下に
4)
おかれた。レニングラード大学のシルムンスキー(Viktor Shirmunski :1891−1971)
も,レニング
ラード,ヴォロネッシュ,ウクライナ,クリミア,カフカース(コーカサス)等の地区に居住する
ドイツ人開拓者の言語調査を1924年頃から続けていたが,1931年,ディンゲス,ドゥルソン同様,
当局の圧力によりこの分野の研究が不可能となり,文学研究に転向せざるを得なくなった。
シベリアのドイツ人居住区ダルムシュタットに生まれたイェーディック(Hugo Jedig :1920−?)
はトムスクの教育大学にいたドゥルソンのもとで研鑽を積み,ドイツ語教師として勤務しなが
ら,1962年に学位を取得,1
966年以降はオムスク教育大学でドイツ語と文献学の研究教育に従
事,1972年(当時はソビエト連邦)にはモスクワにあるソビエト科学アカデミー内の言語学研究所
に教授資格論文を提出した。その後イェーディックの尽力によりオムスクに方言学研究所が設立さ
1
3
1
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国際文化研究科論集
第十二号
れた。ディンゲス,シルムンスキー,ドゥルソン,イェーディックらの最大の功績は,ロシア(旧
ソビエト連邦)各地で用いられていた様々なドイツ語変種のほとんどが,その方言使用者のルーツ
5)
であるドイツ語諸方言の純粋形態もしくは古形態を保持していたことを確認したことにあった。
文
学研究に強制転向を余儀なくされる前に,シルムンスキーが集積した言語資料に基づいて,ボルガ
流域地区に関する「ボルガドイツ言語地図 Wolgadeutscher Sprachatlas(WDSA)」が完成し書物とし
6)
て刊行されたのは1997年であった。
エカテリーナ二世の Imperial Manifesto にもられた公約7) のなかでの最も重要な点は,ドイツ系
の入植者に,彼らの学校はもちろん,ドイツ語およびドイツ文化と教会の維持を認めたことであっ
た。これにより20世紀初頭まで,すなわち徹底的な「ロシア化政策」が実施されるまで,ドイツ系
入植者の間ではドイツ語のみが生活言語として用いられたのである。
ロシア各地のドイツ人入植地に持ち込まれたドイツ語は様々なドイツ語方言変種であった。ドイ
ツ人たちが各地に分散して自分たちの故郷の方言変種を用いる集団入植地を作り上げたことで,さ
らに他のドイツ語方言変種を使用する入植地との接触が希薄であり,またその必要もなかったこと
で,結果として200年以上にわたり彼ら独自の方言変種を維持することが可能となったのである。
これは,ロシアのドイツ人入植地においては,その数に匹敵する様々な「隔絶方言変種」が維持さ
れていたことを意味する。つまりアメリカにおけるペンシルベニアドイツ語に見られるような方言
変種間の接触による「言語の均一化のプロセス」8)が生起することはなく,したがって「ロシアド
イツ語」とでも名付け得る「均質的な方言変種」が誕生することはなかったのである。
ロシア系ドイツ人が常用するドイツ語は,一般的に言われる「標準ドイツ語」ではない。彼らの
祖先が,家族・親戚・あるいは村落単位でロシアの大地へ集団移民した時点から,──1924年から
1941年まで存在した「ボルガドイツ自治共和国」9)やオデッサ地区等で,教育・出版・宗教界等の
頭脳労働に従事する人々は別として──彼らの大部分は農耕作業の従事者であった。彼らはドイツ
系の名を持つ集団入植地10)に住んでいたのであるが,各開拓村落間は何百キロも離れておりそれほ
ど接触がなかったようである。これは言語接触の頻度が低いこと,つまり方言社会言語学的観点か
らすれば,ある方言変種が他の方言変種から様々な影響を受けることが少ないことを意味し,各方
言変種が「隔絶言語」として独自の発展をする要因となったのである。集団入植地では通常8歳か
ら16歳まで教育を受け,才能ありと認められた若者だけが,共同体の経費で人文高等学校のあるサ
ラトフやボルゴグラードなどの都市に送り込まれていた。それでも“Lesa un bisschja schreiwa
11)
‥
kannschta, das
reicht for dich, mr muss in dr Wertschaft schaffa”
【読めて少し書くことが出来ればそれ
で上等,我々は農場で働かねばならぬ】というのが一般的な考えであった。
1
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雅美
2.アメリカにおけるロシア系ドイツ人のドイツ語方言変種の事例研究
第一次世界大戦直前,黒海沿岸地区やボルガ地区のロシア系ドイツ人が大挙してから北米大陸へ
移住しカンザス,ネブラスカ,南北ダコタ,オクラホマなどの大草原諸州,ならびにカナダに定住
の地を見出した。アメリカやカナダに移住したロシア系ドイツ人の場合,しばらくはドイツ語を用
いていたものの,近隣のアメリカ人との接触が深まるにつれ,英語への急速な「言語移行」が生じ
たのは言うまでもない。第1世代の移民にとって英語を十分に習得することは不可能であったが,
第2世代以降では義務教育により英語の習得が徹底された。それにより「彼らのドイツ語」は,両
親・親族間だけの「家庭言語」となっていったのである。さらに政治的要因として,第一次世界大
戦前後に全米中に「反ドイツ感情」の嵐が吹き荒れたことにより,ドイツ語文化が追放され,公の
場でのドイツ語の使用を困難にしたことも考えておく必要があろう。
ロシア系ドイツ人の用いるドイツ語に関する研究例としてよく知られているのは,第二次世界大
戦前までカンザス州エリス郡シェーンヒェン Schoenchen12)で話されていた方言変種である。シェー
ンヒェンは,1
767年に開村されたボルガ川流域東側13)のカトリック教徒4
2家族から成る入植地
Schoenchen(ロシア名 Paninskaya)の人々が,100年後の1876年2月22日,カンザス州のヘイズ Hays
市南方11マイルの地点に定住し誕生した町である。
【ロシア系ドイツ人のなかでも,ボルガ川流域
からアメリカ合衆国へ移民してきた人々の祖先には南ドイツ出身者が多い。過去3
00年の間北米の
大地で発展・変遷を続けているペンシルベニアドイツ語ももとをただせば南西ドイツの方言と関係
がある。】
この地区の言語状況については1
991年に Chris Johnson が研究に着手,1
909∼32年生まれの情報
提供者13人に対する聞き取り調査を分析研究し,1994年にカンザス大学に提出・受理された学位論
14)
文がある。
この方言変種には,標準ドイツ語とは異なる発音形態が多く認められ,また文法上の
特徴として,ペンシルベニアドイツ語と同様,属格消失が確認されており,たとえば Das was der
Name meines Vaters.はシェーンヒェン方言変種でも/dεs var main dæd sain nam /Des was mein Dad sein
e
15)
Name.という形態をとる。
Chris Johnson が,ディスコース・マーカーとしての you know の使用を例示しているのは興味深
いが,情報提供者全員がこれを用いているわけでもなく,英語からの影響であることは間違いない
16)
としても,これをシェーンヒェン方言変種の特性としていることにはいささか疑問がある。
[ enj blaipt simli ju now, grade n x so gros vi si var n]17)
e
c
e
Schoenchen bleibt ziemlich, you know, gerade noch so groβ, wie es war,
[da var f rbodi, ju now, naps]
e
Das war verboten, wei t du, Schnaps.
人称代名詞の用法については,このシェーンヒェン方言変種も,こと第二人称に関してはペンシ
1
3
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国際文化研究科論集
第十二号
ルベニアドイツ語と同様,Duzen のみので,フォーマルな Siezen が欠如している。その代わり,敬
称2人称として親称2人称と同形の Ihr【18世紀のドイツ語で一般的に用いられていた】を使用す
る。この意味ではこの方言変種における人称代名詞の第二人称の用法は,18世紀の時代で止まって
いると考えてよい。Sprechen Sie Deutsch?はシェーンヒェン方言では,Sprecht Ihr Deutsch?(C.
(Ich
Johnson :1994:51)に,また Ich verstehe Sie nicht alles.は Ihrzen を用いるために/ıç fεr te aıç nεtal/
versteh euch net al.)
(C.Johnson :1994:59)となる。これはドイツの各地からロシアへ移民した彼ら
が,その当時の文法構造をロシアのみならず,さらにアメリカの大地でも用い続けた「古形態」の
例である。語彙についてはロシア語とアメリカ英語から借用語が多い。ロシア語からは主として日
常使用する名詞が多く見られ,アメリカ英語からは借用語として/reılrowd/
(railroad), /kar/
(car)など
の名詞以外に,動詞としては /g jusd/ [use をドイツ語化した過去分詞 geused], /g muvd/ [move(移動
e
e
す る)か ら 派 生 し た gemoved], /g nlækt pt/ [blacktop(ア ス フ ァ ル ト 舗 装 を す る)の 過 去 分 詞
c
e
‥
geblacktopped]な ど,そ し て 副 詞 や 接 続 詞 も ungefahr→/
baut/, fest→/saudli/, immer→/alweıs/, ins→/
e
18)
ıntu/, aber→/but/などの借用が見られるという。
【注意:矢印→は IPA による表記】この語彙借用
の点ではシェーヒェン方言変種もペンシルベニアドイツ語に似た言語変遷の道をたどっていると考
えてよい。
だがペンシルベニアドイツ語とシェーンヒェン方言変種との相違は,前者が,過去3
00年の間ア
メリカ合衆国内で発展・変化を続け,しかも様々な学者や言語文化育成団体によって次第に規範文
法体系の整備がなされ,ペンシルベニアドイツ語による様々な文学作品の産出を見,さらには新聞
コラム,ラジオやテレビ番組が存在しているのに対し,後者の場合は書き言葉として残す努力が行
われず,急速なアメリカ英語文化への同化により消滅しかかっている点である。
ここ数年来,カンザス大学のウィリアム・キール教授を中心とした研究グループが,消失段階に
あるカンザス州内のロシア系ドイツ人の言語使用を録音採取し,その様々な方言変種の音韻論,形
態論,統語論,語彙借用などの特性を記述・分析する活動を行っている。これは「カンザス(ロシ
ア)ドイツ語言語地図」の作成をするためである。また近年,メキシコから新たにカンザス州に移
住してきたロシア系ドイツ人移民の言語使用にも関心が高まっている。しかし,ロシア系ドイツ人
の様々な方言変種を保護育成する動きは,彼らの子孫にもまた研究者たちの間にもない。保護育成
運動が盛んなペンシルベニアドイツ語とはまったく異なっているのがこの点である。
3.
「ヴェンカー第一文」による比較
‥
次に例示するのは「ヴェンカー第1文」 : Im Winter fliegen die trockenen Blatter
in der Luft herum.
と「ヴェンカー第16文」 : Du bist noch nicht groβ genug, um eine Flasche Wein auszutrinken, du muβt erst
‥
noch wachsen und groβer
werden.による,アメリカ合衆国およびカナダで現在もロシア系ドイツ人
が用いているドイツ語方言変種のごく一部である。紙幅の都合上「ヴェンカー40文」すべての比較
1
3
4
北米大陸に移住したロシア系ドイツ人の言語使用研究の動向
長友
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は不可能であるが,少なくとも下記の①∼⑧の例文19)を見ただけでも,
「語末音消失 Apokope」現
象,分離動詞における「枠破り Ausklammerung」現象などの微妙な相違があることが分かる。
【検証例「ヴェンカー第1文」】
e
シェーンヒェン方言変種
e
e e
e
①
e
ın dεn vınt rsaıt flig di drug n blε r ıb ral rum ın di luft.
特徴:定動詞で「語末音消失」現象,分離動詞に「枠破り」現象が見られる。
②
カンザス低地ドイツ語【カンザス州マリオン郡(Marion County)のヒルスボロー(Hillsboro)
地区に居住するロシア系メノナイト派の人々が現在も用いている方言変種】
e
e
e
ım vınta bloz di drij blεda r m ın d l ft.
特徴:分離動詞に「枠破り」現象が見られる。
③
コルティッツア低地ドイツ語方言(カナダ・マニトバ州)変種
εm vınt r fle j n de dre j bleda εn l ft r m
e
e
ee
ee
e
④
モロチュナ低地ドイツ語方言(カナダ・マニトバ州)変種
εm vınt r fle j n de dre j bleda εn l ft r m.
e
ee
ee
e
【検証例「ヴェンカー第16文」】
シェーンヒェン方言変種
f r
gans_batl waın drı . du mυst εr t waks
e
e e
e
du bıst nεt gros g nυ
e
⑤
υn mυst grez r gεβ .
e
e
⑥
カンザス低地ドイツ語
du bεst nıç gro t nux tυm n g ns b d l vin drınkj du mυst æ t n x mej vo s
ee
e
c
e
e
e c e
e
εn gro ta v d .
e ec
e
コルティッツア低地ドイツ語方言(カナダ・マニトバ州)変種
bυdl vin y t to drı t n dym tst e st n bett vaυs n
e
e
e
e
n jrata vo r n.
x m n
e
dybεst n x nıç rot j n
e
⑦
ee
特徴:低地ドイツ語に一般に見られる長母音が保たれている【dy = Du】
モロチュナ低地ドイツ語方言(カナダ・マニトバ州)変種
e
e
e
e
e e
e
⑧
du bεst n x nıç grot j no x m n bυdl vin ut to drı t du m tst e st n x bett vaυs
n jrata vo r .
ee
特徴:助動詞構文では「枠破り」現象が見られる。
その他,上記⑤∼⑧すべての例文に英語の借用表現 a bottle wine が用いられている。
1
3
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第十二号
4.ロシアメノナイト派
例外として,英語への言語移行を積極的に推進せず,
「独自のドイツ語」を保っている集団があ
る。ロシアメノナイト派の人々である。アメリカ合衆国のカンザス州やカナダのアルベルタ州,サ
スカチチュアン州,マニトバ州に移住したこの宗派の人々の多くは,独自の信仰共同体維持のため,
今もなお英語の他に低地ドイツ語を子孫に伝え日常語として用いている。また南米のパラグアイ,
アルゼンチンなどに再移住【いったんアメリカ合衆国に移住したものの,前世紀の二度にわたる世
界大戦にともなう徴兵制度に異議を唱え,さらに南米諸国に再移住】した別のロシア系ドイツ人グ
ループは,公用語のスペイン語のほかに低地ドイツ語を日常語としている。特定の宗派集団による
共同開拓地区以外,アメリカの主流アングロサクソン文化の中で少数エスニック集団として独自の
言語島を形成し独自のドイツ語文化を保持することはほとんど不可能である。
メノナイト派教徒の変遷は複雑で,その説明は宗教学者に譲るとして,この研究ノートを締めく
くるにあたり,ロシアメノナイト派の概略を表で示し,またロシア系ドイツ人すべての居住・開拓
地を示した図版20)を付録として掲げる。
21)
ロシアメノナイト派(Ruβlanddeutsche Menoniten)
移 住 年 と 動 機
エカテリーナ二世の移民勧誘文書 Imperial Manifesto 1
7
6
3年発布。
①1
7
8
7年に最初のメノナイト派教徒がドニエプル河畔コッルティッア Chortitza
地区に定住,②1
8
0
3年ベルドヤンスク北西部のモロチュナヤ Molotschnaja 河畔,
③1
8
5
5年∼1
8
7
3年にかけて後の「ボルガ自治共和国」
,④1
8
5
9年∼1
8
7
0年:サマ
ラ北方コンドルーシャ Kondurtscha 河畔に定住。
出
西部プロイセン地区、ダンチッヒ地区
身
地
区
最初の入植年と入植地
1
8
4
7年,アメリカ合衆国オハイオ州サンドスキー Sandusky 近くのエリー湖のケ
リー Kelly 島,1
8
7
3年∼1
9
5
0年:約5
0,
0
0
0人のロシアメノナイトが主に米国大
草原諸州(コロラド・カンザス・ネブラスカ・サウスダコタ・ノースダコタ)
に移住,1
8
7
4−7
9年 カナダ・マニトバ州南部,1
8
9
3年 カナダ・アルベルタ
州,1
9
0
5年カナダ・サスカチャン州南部に移住。1
9
2
8−3
2年,パラグアイ・チャ
コ Chaco 地区へカナダから移住,1
9
3
7年パラグアイ・フリースランド Friesland
地区,1
9
4
7−5
0年パラグアイ・フォレンダム Volendam 地区,メキシコ,ボリ
ビア,アルゼンチン,ブラジルなどにも移住。
言
語
使
用
低地ドイツ語
教
育
言
語
各移住先の公用語(英語・スペイン語・ポルトガル語)と標準ドイツ語・標準
ドイツ語の授業は週数時間ほど。フラクトゥアー印字体の文を読み書きできる
能力。
宗教儀式に用いるテキスト
1
3
6
フラックトゥアー印字体で印刷された1
6世紀頃のドイツ語
北米大陸に移住したロシア系ドイツ人の言語使用研究の動向
長友
雅美
1
3
7
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第十二号
1Fred C.
Koch : The Volga Germans. In Russia and the Americas, From 1
7
6
3 to the Present. The Pennsylvania State Univ. Press :
University Park & London.
,
1
9
7
8.
,
p.
1
5
3“Ihr lieben Kinder, heute wollen wir mit dem Lesen anfangen.”
2青年文法学派のひとり Georg Wenker(1
8
5
2−1
9
1
1)が音韻法則の規則を実証し,ドイツの方言変種の基礎調査をおこなう目
的で1
8
7
6年に作成し調査のために配布した4
0の文章のこと。各地のドイツ語方言使用者がこの4
0文に対応する文書を記入し
た5万枚のカードがマールブルク大学付属「ドイツ言語地理学研究所」に保管されている。米国エール大学 Anthony Niesz 博
士はこの「ヴェンカー4
0文」に依拠した2
8のドイツ語方言変種の録音サンプリングをインターネット上で配信している。
‥
3ディンゲスは,1
9
2
3年に著した Ueber unsere Mundarten. In : Beitragen
zur Heimatkunde des deutschen Wolgagebiets. Mit einer Karte
und einer Tabelle. Pokrowski a/W(S.
6
0−7
2)のなかで,この地区の開拓農民が用いていたドイツ語を検証しその音韻論・形
態論上の特性からラインフランケン方言,プファルツ・ライン右岸方言,南部ヘッセン方言,上部ヘッセン方言,東チュー
リンゲン方言,上部ザクセン方言,ニーダープロイセン方言に分類したのである。もちろんこの分類は現在のドイツ方言地
理学上の分類とは異なるが,それでも8
0
0語ほどのロシア語からの借用語彙を含むディンゲスのこの論文は現在でも高い評価
を維持している。
4Viktor Maksimovic Zirmunski,1
9
1
7年∼1
9
1
9年までは「ボルガドイツ共和国」のサラトフ大学に勤務。
5Katharina Boldt/Ilpo Tapani Piirainen : Sprache und Kultur der Ruβlanddeutschen. Eine Dokumentation anhand von Presseberichten aus
den Jahren1
9
7
0bis1
9
9
0.Essen : Die Blaue Eule,1
9
9
6,S.
9
7f.
6この言語地図の正式名称は【Worgadeutscher Sprachatlas(WDSA)
.Aufgrund der von Georg Dinges 1
9
2
5−1
9
2
9 gesammelten
‥
Materialien. Bearb.u. hrsg. von Nina Berend unter Mitarbeit von Rudorf Post. Tubingen/Basel
: A.Francke Verlag.
1
9
9
7.
】である。現在
この地区にどれほどの数のドイツ系移民の子孫が居住しているかは不明ゆえ,この言語地図は歴史的な価値はあるが,共時
論的な意味で現時点でのボルガ流域の方言変種と語彙分布を示すものではない。
7拙論『ドイツからロシアへ,ロシアから北米へ』東北大学大学院国際文化研究科論集第九号(2
0
0
1年1
2月)
,8
2頁参照。なお
1
7
6
3年7月2
2日発布の Imperial Manifesto はドイツ連邦共和国ウルム市古文書館に所蔵されている。
‥
8これについては,
Jurgen
Eichhoff : The German Language in America. In : America and the Germans. An Assessment of a three−hundred
−year history.(Edts. Frank Trommler & J.McVeigh)
, Vol.
1.
Philadelphia ; University of Pennsylvania.
,
1
9
8
5.p.
2
3
1参照。
9「ボルガドイツ自治共和国 Autonome Sozialistische Sowjetrepublik der Wolgadeutschen(ASSR)
」はドイツ軍のソビエトロシア
侵攻作戦とともに崩壊。この地区だけでも推定4
0万の人々がシベリア方面へ強制移住を余儀なくされ,
うち半数は命を失った。
1
0拙論:上掲8
2頁以下参照。
‥
1
1Woldemar Durow−Wasenmuller : “Der Muhlberger
Dialekt”,In : Heimatbuch2
0
0
1/2
0
0
2.
(Hg.v. Landsmannschaft der Deutschen aus
Russland e.V.)
, Stuttgart:S.
1
6
2.
を名詞化しそれに縮小語尾 chen を付加
‥
1
2綴りは標準ドイツ語表記では変母音記号を用いた Schonchen。これは形容詞
schon
−
したもので,
『とてもちっぽけなかわいい場所』という意味。第2次世界大戦中の1
9
4
1年この入植地にとどまっていた全ての
ドイツ系住民はシベリアのノボシビルスクへ強制移住させられた。なお1
9
9
0年代元住民の一部はドイツ連邦共和国に戻って
いる。
1
3ボルガ川流域に定住したドイツ系移民の分布図については拙論【上掲8
4・8
5頁】を参照されたい。
1
4Chris Johnson:The Volga German Dialect of Schoenchen, Kansas. Ph.Diss.1
9
9
4.
(UMI No.
9
5
2
8
3
7
5)
1
5Chris Johnson:Structural Aspects of the Volga German Dialect of Schoenchen, Kansas. In : The German Language in America1
6
8
3−
1
9
9
1.
(edit. by C.Salmons)
, Madison/Wisconsin,1
9
9
3.p.
1
6
4ならびに Chris Johnson : 上掲書【注1
4】
:p.
5
2
1
6ディスコース・マーカー(discourse marker)としては,通常会話体のドイツ語でも sagen Sie, wissen Sie, weist du などが用い
られまた,ヘッセン方言では gel を文末に使用する】
1
7Chris Johnson:
【上掲書 Ph.Diss.1
9
9
4.
】
:p.
9
0
1
8Chris Johnson:Structural Aspects of the Volga German Dialect of Schoenchen, Kansas. In : The German Language in America1
6
8
3−
1
9
9
1.
(edit. by C.Salmons)
, Madison/Wisconsin,1
9
9
3.p.
1
7
1
1
9ここに取り上げた IPA 表記の①と⑤は Chris Johnson : Structural Aspects of the Volga German Dialect of Schoenchen, Kansas. In :
The German Language in America1
6
8
3−1
9
9
1.
(Edit. by C.Salmons)
, Madison/ Wisconsin,
1
9
9
3.p.
1
8
2,
1
8
4,②と⑥は William Keel :
A Russian−German Settlement Dialect in Kansas : Plautdietsch in South Central Kansas. In : The German Language in America,1
6
8
3−
1
9
9
1.p.
1
5
1を,また③④⑦⑧は Henry Dietrich Dyck : Language Differentiation in two Low German groups in Canada. Ph.Diss.
(Univ.
of Pennsylvania)1
9
6
4 p.
5
8(UMI No.
6
5−5
7
5
7)による。
2
0元図はドイツ連邦共和国のシュトットガルトに本部をおく Landsmannschaft der Deutschen aus Ruβland 発行の季刊誌
Heimatbuch der Deutschen aus Ruβland1
9
6
3年版の付録図版であるが,これは変形A3版の大きさのため,本研究ノートでは,
Susanne Janssen : Vom Zarenreich in den amerikanischen Westen. Deutsche in Ruβland und Ruβland− deutsche in den USA(1
8
7
1−
‥
1
9
2
8)
,Munster
: Lit Verlag1
9
7
7,S.
1
9
0に所収の縮小簡略図版を用いた。
2
1Richard Sallet : Ruβlanddeutsche Siedlungen in den Vereinigten Staaten von Amerika. In : Jahrbuch der Deutsch−Amerikanischen
Historischen Gesellschaft von Illinois. Jg.
1
9
3
1 Vol.XXXI, S.
5によれば,ロシアメノナイト派の人々は,アメリカ合衆国に移住
してきたロシア系ドイツ人全体の1
0%にしか過ぎない。なお,この表には,ボルガ流域,黒海沿岸地区,カフカース(コー
カサス)地区などに居住していた「ロシアメノナイト派」以外のロシア系ドイツ人は含まれていない。
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