英語教育 巻頭リレー・エッセイ(2015年2月~2016年1月

2. 英語教育巻頭リレー ・ エッセイ
2015 年2月
ー読書離れとスマホー 中垣 芳隆
図書館の司書さん方と、 図書館サービスの改善について話をすると、 幾つかの課題の一 つとして、 以前に比べて一人あたり
の貸し出し冊数が減っていることと同時に学生の読書離れが話題となる。
そういえば、 かつては電車の中で通学の学生が本を開いている姿を見かけるのが普通で あったが、 いつのころからか、 読書
している学生は少なく、 スマートフォン ( スマホ ) の 画面をのぞいてウェブサイトを閲覧したり、 SNS やゲームに興じたりしている姿
を多く 見かけるようになった。
こうしたことから、「大学生の読書離れ」 というのは特段、目新しいことでもなく、日頃 の光景からして時代の流れなのだろうと思っ
ているのだが、 実態は如何にということでデ ータを求めてみた。
2014 年 2 月 26 日に公表された 「第 49 回学生生活実態調査」 の概要報告によると、 「調査に協力した全国の国公立、 私立
大の学部学生 8930 人の 1 日の読書時間は平均 26.9 分で、 同じ方法で調査している 2004 年以降最も短くなった。 読書時間
ゼロの学生は 40.5% に達したという。
読書時間については男女で明確な違いが出ている。 男子学生の読書時間は平均 29.2 分で 10 年間ほとんど変わっていない。
これに対して女子学生の読書時間は 24.3 分と短く、 しか も 10 年間で 20% 以上も減少している。
ニールセンが 2013 年 5 月に発表したスマートフォンの利用状況調査によると、 女性のス マホ月間利用時間は男性の 1.4 倍長
かった。 1 日当たりでは、 女性の方が男性より約 25 分 長く、 女性のスマホ好きが目立っている。 女子学生のスマホ利用時間が
延び、 読書時間を 圧迫した可能性がある。」 とある。
女子学生だけの学校に勤める者の一人としては、 スマホ憎しと言いたいところである が、 確かに、 書物や新聞など、 個別のコ
ンテンツについては、 需要が減少しているのだろ うが、 新しいデバイスが次々登場し、 情報の伝達ルートが多様化していることか
らすれば、 彼女たちの知的コンテンツそのものに対するニーズが大きく減少していると結論ずけるの は早計なのかも知れない。
と我が身を慰めてはみるものの、 本には、 自分以外の誰かが考えた 「思考の形」 が丸ごと詰まっている。 本は、 著者が読者
を説得するために必死になって書いているもので、 構造というものを持っている。 読み手は、 読書を通して、 論理の展開、 脳み
その回転、 とは こうゆうふうにするのだということを会得できる。 即ち、 物事をきちんと体系化する能力、 構造を分析する能力を身
につけることができる。
彼女たちの長い人生を考えると、 若い時代の 「豊かな読書体験」 の機会をスマホごとき に奪われることのないよう、 自己防衛
を心がけてほしいと願うや切である。
3月
ー Honoring our heritage, Embracing our diversity, and Sharing our future ー 夫 明美
2015 年 2 月 19 日にオバ大統領はハワイ州オアフ島あった日系人収容所のホノウリウリ の跡地を国定史跡に指定することを発
表しました。 同収容地は第二次世界大戦中の 1943 年 真珠湾付近に設けられ、 4000 人もの日系人と戦争捕虜が収容された施
設です。 施設といっ ても決して快適なものではなく、 「バラック小屋」 という表現のほうがふさわしいかもしれ ません。 実際、 同
所の環境は 「ジゴクダニ」 と呼ばれるほど過酷なものでした。 (The untold story: Internment of Japanese Americans, 2012)
読者の方々もよくご存じのように、 オバマ大統領自身、 ホノルル市内にあるプナホスクー ルの卒業生で、 ハワイに非常に縁の
ある人物です。 発表時の演説では、 「過去の過ちを繰り 返さないよう、 我々の歴史の痛ましい部分を思い起こす史跡になる」 と
述べました。 また、 アメリカ政府の説明によると、 ホノウリウリが選定されたのは 「史跡指定の理由について 「日系米国人社会に
与えた衝撃や、 戦時における公民権のもろさを語り継ぐため」 とのこと です。 ( 補足 : 日系アメリカ人 =Americans with Japanese
Ancestry: AJA は真珠湾攻撃の 翌年、1942 年大統領合成命令 9066 号によって、日本人とともに 「敵性市民」 とされまし た。 ( 田
中 ,2009)
このニュースを喜びで迎えた、 日系ローカルの方々のコメントを以下に紹介します。
ハワイ州知事 David Ige 氏 : 次世代の人々が、 第二次大戦中に強制収容された日系人の 経験を学ぶ場になるだろう。 史跡を
訪れることで、 過去に不正義がなされたことを思い出す 場になるだろう。 ( 収容された ) 多くの男性はアメリカ合衆国のためにたた
かった人々であ り、 誰かの夫、 誰かの息子、 誰かの兄弟であったのだ。
47
ハワイ日本文化センターディレクター Carole Hayashino 氏 : 新しく史跡として認定され ホノウリウリは、 我々の州、 国家にとって
大きなギフトとなるでしょう。 収容された日系ア メリカ人とその家族を代表して、 オバマ大統領が元収容者に敬意を表したことと史
跡を認 定したことに感謝します。 次世代に続くすべてのアメリカ人が不正義と許しについて学ぶ 場所になるでしょう。
偶然のタイミングで、 筆者は同時期に ICLDC という言語保持に特化した学会に参加す るためにホノルル市内に滞在していまし
た。 合間の時間に同市内にある Japan Cultural Center Honolulu を訪問する機会もあり、 ホノウリウリが 「文化的に重要な施設」
として認定を受けるために長年運動を続けておられたスタッフの皆さんは非常に嬉しそうで、 誇らしそうでした。 同施設のモットー
を拙稿のタイトルに借用しました。 教育が担う役割にも共 通した意義があると思われます。
■参考文献
田中泉 (2009) アメリカにおける日系アメリカ人史教育の最近の動向 - アジア系アメリカ人の 1 つとしての日系アメリカ人という立場
- 広島経済大学研究論集第 31 巻第 4 号 pp.1-15.
「 ハ ワ イ の 日 系 収 容 所 跡、 米 の 史 跡 に オ バ マ 大 統 領 表 明 」 朝 日 新 聞 2015.2.20 Japanese American Leaders Applaud
Announcement that Honouliuli will become a National MonumentJapanese American Leaders. http://www.jcch.com/index.
php/news/more/japanese_american_leaders_applaud_an nouncement_that_honouliuli_will_become retrieved 2015.2.28
The untold story: Internment of Japanese Americans DVD 2012.
4月
ーアクティブ ・ ラーニングは思考を活性化する救世主か !? ー 中井 弘一
小中学校・高校の学習内容を定める学習指導要領を改定する議論が、 中央教育審議会で本格始動した。 その注目の一つが、
「アクティブ ・ ラーニング」 の充実である。 読売新 聞朝刊 (2 月 7 日付 ) には次のような説明があった。
「アクティブ ・ ラーニングとは、 学習する者が能動的になる学びのことだ。 もと もとは、 大学が学生の学力底上げのた
め米国から導入した、 大学での学びを指 す。 ペアやグループでの話し合いや作業が多く、 一方的な講義に比べて知識・
技能の定着や学習意欲の向上に効果的とされる。 小中学校や高校では、 アクティブ ・ ラーニングという言葉が生まれる
前から、 同様の学びが実践されていた。 例えば、 各自が解き方を考え、 発表し、 みんな で考え、 最後に各自でもう一度
考える授業。 「練り上げ授業」 と呼ばれる伝統 的な指導法で、 国際的にも評価が高い。」
今、 なぜアクティブ ・ ラーニングという学習形態が注目されるのか。 アクティブ ・ ラ ーニングは何をねらいとしているのか。 現代
社会が複雑化するだけでなくその影響の即時性から、 これからの時代は、 正解が一つの事だけを学ぶのではなく、 正解が複数
であったり、 または正解がなかったりするものを学習することが求められているからであろ う。 大学教育でも、 専門知識の探究か
ら知識基盤社会をたくましく生き抜いていくため のジェネリック ・ スキルの習得に焦点が移りつつあり、 活動的 ・ 実践的な学びや
学習形態が必要とされている。
アクティブ ・ ラーニングがねらいとする教育は、 「思考を活性化する」 ことであろう。 英語力がグローバル化の必要条件と言わ
れるが、 思考力こそ最必要条件である。 講義型の授業では、 生徒や学生の思考力は活性化しない。 さりとて、 「演習」 などの
基礎知識 や基礎能力を培う基盤科目は critical mass として一定量の学習が必要である。 ジェット機が離陸する際に一定の長さ
の滑走路を飛翔できるスピードで走行しないと離陸で きないことと同じである。 学びには input-intake-output の段階がある。 与
えられた 教材を思考して内在化することで、 output というプロダクションが生まれる。 ただ、 この intake( 内在化 ) は目に見えない
思考のプロセスであり、 学習者は自らの力でこの思考過程を経なければならない。 それには、 自律的でアクティブな学習が必要
である。 学びには知識面の量的な達成が必要であるが、より深い質的な達成も必要である。 基盤となる知識は量が求められるが、
思考は質が求められる。
思考は単線型でない。 簡単な例で言うと、たとえば、「暖流と寒流では、よい漁場に なりやすいのはどちらか」 この問いに対し 「水
に溶ける気体の量は、 水の温度が高い場 合と低い場合では、 どちらが多いか」 という問いの答えから最初の問いの解答を導き
出せる。 お湯を沸かすとやがて気泡が現れてくる。 水に溶けていた気体が出て行く。 そこから、 「冷たい水の方が気体の量は多
い」 が解答の根拠になる。 また、 「冷やされた表層 の水が対流で下降し、 栄養が豊富な海洋深層水が表層に押し上げられ、 そ
の栄養を植物 プランクトンが利用して繁殖し、 同時に動物プランクトンが繁殖するから」 と別の根拠を考えることもできる。 つまり、
複線的に思考することによって真理に近づくことがで きる。 このように知的なやりとりが必要で、 それには協働して学ぶことが効果
的であろ う。
48
ただ、 このアクティブ・ラーニングはそううまくいくものではない。 失敗に終わらな いようにするためには、 米国でまとめられた 「7
つの原則」 の指針が参考になる。 教員 と生徒 ( 学生 ) とのコンタクト、生徒 ( 学生 ) 間の協働、能動的な学習、迅速なフィー ドバッ
ク、 学習時間の確保、 生徒 ( 学生 ) への高い期待、 多様な才能と学習方法の尊重が そこには挙げられている。 教員には、 過
剰介せず生徒 ( 学生 ) に自学自習を促進させる技 量があること、 学習目的を的確に伝えること、 指導の段取りを充分準備するこ
となどが 必要で、生徒 ( 学生 ) には、独断で決めつけないこと、基礎教養や議論の前提となる知識 をしっかり身につけていること、
安易な解答に走らないこと、 協働学習のリーダーシッ プが必要であるなどが求められる。 学びに楽はないが、 この学習形態は教
員と生徒 ( 学 生 ) 双方に相応の負担を強いるものである。 それが踏み込めない障害となることがある。
大切なことは、 「やらされている」 という思いでは学びや教育は進展しないというこ とである。 学習意欲 ・ 指導意欲が前提条件
である。 知識の量と思考の活性化が意欲に繋 がるものであるとするなら、 アクティブ ・ ラーニングは学習形態であって、 その起
爆剤 には、 指導者の教員としての魅力 ・ 力量が必要なのだろう。 やはり 「自信」 「信頼」 「誇 り」 を持つ指導者が救世主となる
のではないだろうか。
■参考文献
山地 弘起 (2013) 「アクティブ ・ ラーニングの実質化に向けて」 『長崎大学におけるアクティブ ・ ラーニングの事例 第 1 集』
「アクティブ ・ ラーニング 話して動いて学び充実」 読売新聞朝刊 平成 27 年 2 月 7 日 ( 土 )
Chickering, A. W., & Gamson, Z. F. ( 1987 ) Seven principles for good practice inundergraduate education. AAHE Bulletin
5月
ー大事なものは見えにくいー 東條 加寿子
『大事なものは見えにくい』 (2012 年、 角川ソフィア文庫 ) 等の筆者で哲学者の 鷲田清一さんは、 4 月から朝日新聞の新コラム
「折々のことば」 を担当しています。 新聞一面の左中ほどにあるこの小さなコラムで鷲田さんは、 古来から現代にいたる時空か ら
様々な言葉を拾い、 それに対しての自らの思索を綴っています。 毎朝の一粒の叡智は、 その日の思考を目覚めさせてくれます。
鷲田さんの文章をよく読むようになったのは、 息子が高校受験勉強をしていた頃で す。 高校入試問題小論文に鷲田さんの著
書の一節が抜粋されていたことをきっかけに、 鷲田さんの 『大事なものは見えにくい』 や 『「聴くこと」 の力』 (2015 年、 ちくま文
芸 文庫 ) を読み、 息子は 600 字の小論文を書く練習をしました。 今思えば、 中学生にとっ ては難解な臨床哲学の話でしたが、
そのやわらかい文体と言葉の奥にある優しさが救いだったと思います。 『大事なもの ・ ・ ・ 』 は大学受験をむかえた今も傍らに置
いてあり ます。
さて、 4 月 20 日の折々のことばで鷲田さんは、 思想家の内田樹の言葉を紹介してい ます。
「わからないもの」 を受け容れ、 自分の中に未聞の言明や心性をむりやりねじ 込んでいく。
・ ・ ・ わからないけれどこれは大事というものを摑むこと。 「わかる」 の意味はそこ にある。 「なんだかまるで分らないけど、
凄そうなもの」 と 「いっていること は整合的なんだけれど、 うさんくさいもの」 を直観的に識別できるようになれ ば、 それ
だけで大学で学んだ意味はある。
(2015 年 4 月 20 日、 朝日新聞朝刊 「折々のことば」 )
大事なものを ( たとえ未だ実態がよくわからなくても ) 摑むことが、 「わかる」 とい うこと。 なにが大事でなにが大事でないのかを
摑むこと、 しかも 「直観的」 に識別でき るようになること。 それが大学で学ぶということであると言っています。
この日のコラムが目にとまったのには伏線があます。 3 月半ば、 筆者の所属する大 学の卒業式で読まれた聖書の一節とまさに
同じことを言っていると思ったのです。
わたくしはこう祈る。 あなたがたの愛が、 深い知識において、 するどい感覚に おいて、 いよいよまし加わり、 それによって、
あなたがたが、 何が重要である かを判別することができ、・ ・ ・
( 口語訳聖書 ピリピ人への手紙 第 1 章 9~10 節 )
これら二つの言葉から、 私たちは何を読み取ることができるでしょうか。
およそ現代社会は情報に満ち溢れ、ともすれば膨大な情報の山に埋もれてしまいます。 この知識基盤社会で生き抜くためには、
一人ひとりが問題解決能力を持っていることが 必要であり、 学校教育においても、 問題解決能力の育成は喫緊の課題であると
言われて います。 二つの言葉はその前提として、 大事なこととそうでないことを見極める力が重要であることを説いており、 さらに、
そのためには理性だけではなく、「直観」 や 「するどい感覚」、すなわち 「感性」 が必要であるといっているのではないでしょうか。
49
「折々のことば」 で鷲田さんに拾い上げられる言葉そのものが、 現代を生き抜くた めの、 見えにくいけれども大事な 「感性」
なのだと感じています。
6月
ー出発した教育委員会改革ー 中垣 芳隆
先日、 府内某市の教育長さんとお会いしたときに今回の教育委員会改革についての感想を求めたところ、 「本市では今までも
首長と教育長の日常的なコミュニケーションがあり、 今回のことで大きな変化があるとは思いませんが、 教育長が教育委員長となる
ことから教育長の責任が従来より重くなります。 それと、 コミュニケーションが図れない首長が選ばれた時は難しいでしょうね。」 と
想定内の答をいただきました。
今回の改革は、 2011 ~ 12 年にかけて起きた大津市のいじめ自殺事件や大阪市での体罰事件で、 教育長と事務局が適切な
対応を採らず、 さらに非常勤の教育委員には情報が十分に伝わらなかったため、 教育行政の責任が不明確であるとの強い批判
が起こったのがそもそもの始まりと言われています。
改革への評価をめぐっては、 論者の間でも見解が分かれているようです。 第 1 に、 教育委員会が決定権を有する執行機関と
して残ったことを評価し、 常勤の教育長 が責任者となることで責任の明確化が図られるとの見解があります。 第 2 に、 首長が大
綱を策定し、 さらに自らが主宰する総合教育会議が設置されることで、 首長の関与が過度に強まり教育委員会がこれまで以上に
形骸化するとの見解もあります。 第 3 に、 首長に教育行政の権限を一元化するべきであるとの立場からは、 教育委員会に決定
権が残る今回の改革案は不十分という評価もみられます。
個人的には上記の第 2 の見解に近い危惧を抱いています。 その理由としては、 総じていえば、 今回の制度改革では教育委
員会を執行機関として残しつつも、 大綱や総合教育会議 の新設などを通じて首長の関与を強化することで、 教育行政の責任の
明確化と政治的中立性 ・ 安定性 ・ 継続性の両立を図ろうとしています。
大綱の策定にあたっては、 首長は総合教育会議で教育委員会と協議 ・ 調整を行うことになっていますが、 協議 ・ 調整が調わ
なかった場合には、 首長が自らの意向に沿って決定を 行うことができることになります。 ( 議会や教育委員会の承認は必要ありま
せん )。 総合教育会議で大綱を決定するとの誤解が一部の報道等ではみられますが、 大綱の策定は首長の 専権事項となってい
ます。
大綱は自治体の教育行政の基本的方針であり、 その決定に教育委員会が関わることができないのは、 首長の意向が強く働く
と同時に、 教育の政治的中立性や安定性 ・ 継続性の観点からも問題が多いように思われます。 首長次第では、 これまで現場の
裁量に委ねられてきたこと ( たとえば教育課程 ・ 内容 ) に政治の意向がより強く働く可能性が出てくるので はないでしょうか。
こうした懸念を内包しつつ一歩踏み出した教育委員会改革の中で問われるのは教育長の資質でしょうか。 従来の教育長は、 と
もすると合議体の教委の名に隠れて責任を問われな くて済む状況がありました。 「これは教委で決めたことですから」 と教育長自
身の責任を回 避することもできました。
しかし、 新制度では教育長の責任が格段に重くなります。 教育長自身が主宰して代表する教委であることから、 全ての説明責
任を果たさなければなりません。 今の地方教育行政は、 狭い意味での教育の世界だけでは処理しきれない問題が多数あります。
他の行政分野に関わる事柄が多くあり、 全体の行政の中で、 教育行政の対応を考えることが求められます。 先日お時間をいた
だいた教育長さんには、 これまでの経験の上に、 身に備えられた卓越した判断力を生かし、 問題が起きたときには矢面に立つ覚
悟を持って重責を務められることを願ってやみません。
7月
ーオンライン辞書作成に関わってー 夫 明美
2015 年も折り返し地点を過ぎようとしています。 日常会話でも、 「もう半年終わるねんな あ、 早いなあ」、 「何にもしてないわあ」
という言葉が聞かれます。 私自身は何をしたか、 と振り返り、 本稿では 2 年ほど前から関わっているオンライン辞書の内容を簡単
にご紹介したいと思います。
国立国語研究所のプロジェクトの一環で 「基本動詞ハンドブック」 という、 日本語の基本動詞に特化したオンライン型の辞書が
あります。 日本語学習者、 日本語教師の日本語基本動詞の理解を目的とする本辞書の特徴は、 以下の数点にあります。
1. 動詞がもつ多義性について、 「中心的な意味」 から 「派生的な意味」 を多角的に、 事例を交えて紹介すること
50
2. またその意味の広がりについて認知言語学的観点から解説を加えること
3. 図解や音声を使用し、例文を豊富に用意する。 例文は、他プロジェクト (「現代日本語書き言葉均衡コーパス」「筑波ウエブコー
パス」 ) からの用例を積極的に活用し、 生きた情報提供をすること
例えば、 初回会合の合宿では約 20 名のプロジェクト参加者が 「走る」 という動詞の多義性についてマル一日議論しました。
事前の宿題として、 「走る」 の語義を整理することが課 され、 それ自体が非常にチャレンジングな課題でしたが、 自分の第一言
語に向き合い、 ル ール化を試みる有意義な時間でした。 実際の議論では、 皆のアイデアを共有しながら一番 中心的な意味 「人
間や動物が足を素早く動かして地面を移動する」 という物理的な運動から、 「ペンが走る」 に見られる 「スムーズな動き」 への発
展にはどのような基盤があるのか、 をかなり整理出来たように思います。 私にとっては非常にワクワクする時間でしたが、 帰宅して
家族に話すと 「言語好きのお祭りやね」 と若干冷やかな反応を得ました。
現在は自分が担当する動詞項目について執筆を続けながら、 新しい試みとして、 「例文理解を深めるイラストを付加するため」
のサブプロジェクトに参加しています。 本稿の読者 の皆さんは英語をご専門とする方々かと思いますが、 おそらく第一言語は筆
者と共通の方々も多いかと思われますので、 お時間のある時にご覧いただいて、 ご意見ご感想などを いただければ、 今後のプ
ロジェクトに活かしていきたいと思います。
参考ウエブサイト
基本動詞ハンドブック http://verbhandbook.ninjal.ac.jp/
現代日本語書き言葉均衡コーパス http://pj.ninjal.ac.jp/corpus_center/bccwj/ 国立国語研究所 http://www.ninjal.ac.jp/
筑波ウエブコーパス http://nlt.tsukuba.lagoinst.info/
8月
ー 「英語の世紀」 に生きる : 親英語 vs. 反英語ー 中井 弘一
2010 年 7 月 5 日付け朝日新聞の “Globe” に “Struggling with Globalization” との英語題に 「『脱日本』 会社の葛藤」 と邦
題が付けられた特集記事が掲載された。 “Globalization” とは 「脱日本」 なのかと当時考えさせられた。 その記事には三木谷氏
の 「世界中で様々な集まりがあるのに、 日本の技術者は英語ができないという理由で行かなかったり、 英語だからといって文献も
読まなかったりする。 それじゃあダメです」 との考えを推し進め、 自社では英語を公用語にしたとあった。 あれから 5 年、 今や日
本は 「英語の世紀」 の観がある。 「効率化」 を重んじる新自由主義が現代社会を席巻し、 その新自由主義の下、 国際競争力
の向上が英語化推進派の論点であるようだ。 ただ新自由主義は、 効率優先で十分な議 論や検証をあまりせずにその施策を推し
進め、 従わぬものは排除するというような傾向がある。 英語教育においては、 2020 年から小学校で英語が正規科目として 5 ・ 6
年生に導 入される。 中学校でも英語の授業は原則英語で行うことが次期学習指導要領の改訂で検討 されている。 またこの 6 月
5 日、 文部科学省は中高生の英語力を上げるための 「推進プラ ン」 を発表し、 政府が想定しているほど英語力が伸びていない
現状から、 全国の中学 3 年生を対象に、 「聞く・話す・読む・書く」 の 4 技能の新しいテストを 2019 年度から導入すると発表した。
教育改革を言及する最近の新聞記事の多くは英語教育に関するものである。 書店でも、 英語の how to 本や学習書が所狭しと
並んでいる。
こうした昨今の英語教育推進一辺倒の風潮の中で、 現在の英語偏重主義を問いただす新 書が立て続けに出版された。 永井
忠孝 ( 著 ) 『英語の害毒』 と施光恒 ( 著 ) 『英語化は愚民化 日本の国力が地に落ちる』 である。 永井は、
「これからグローバル化が進むから英語ができないと生きていけない。」 「従来の読み書き中心の英語教育は失敗だった。」 「会
話中心にやるべきだ。」
「なるべく早くから英語を学ぶべきだ。」 「ネイティブ ・ スピーカーに英語を学ぶべきだ。」 「アメリカ、 イギリス英語を学ぶべきだ」
という英語に関してかなり画一的な考え方が行き渡っていることに対しもう一つ異なった見方があるのではないかと主張を展開し
ている。 施は 「英語化を推進すれば、 日本経 済は急速に力をなくすだろう。 多数の国民が母国語で活躍してこそ国家と経済が
発展していくという現代政治学最前線の分析から逆行することになるからだ」 と訴えている。
西洋文化の方が優れているのではと考える心理的傾向が日本人には強いと思われるが、 果たして日本語は言語として英語より
劣っているのであろうか。 2015 年 7 月 22 日朝日新聞朝刊に 「知日派の日韓論 ̶ 韓国の英文学者 ・ 羅英均さん」 というインタ
ビュー記事が 掲載されていた。 かつて自分たちの言葉を奪った日本を批判しながらも、 羅さんは隣国の人同士が交流を通じて、
お互いのありのままの姿を知る大切さを訴える。 その中で、
51
明治以来の日本の翻訳文化はすばらしかった。 多くの国の外国文学や思想を日本語で読めました。 私が英文学を一
生の仕事とする下地になったのも、 父の蔵書だった シェークスピア全集 ( 坪内逍遙訳 ) を、 大学に入る前に読んだこと
でした。 近代日本 が発展した土台には西欧文化の巧みな取り入れがあった。 それは韓国をはじめアジ ア諸国が認める
べきことだと思います。
と述べている。 鈴木孝夫 (2014) は『日本の感性が世界を変える』の中で、「日本語があったから日本は欧米に追いつき成功した」
と述べている。 日本では確かに人文科学、社会科学、自然科学の三分野の学問を日本語で理解しその学びを深めることができる。
日本語を通してのお かげで、 こうした深い学びを日本では全国津々浦々どこにおいても行うことができる。 鈴木はまた、 中根千
枝 (1967) の 『タテ社会の人間関係』 を引用して、 「日本語は、 感情と情緒の表現に適している言語だ」 と論じている。 論理より
感情をことのほか愛することで ストレスのある社会生活で潤いを得ている。 日本人の男女をあわせた平均寿命の総合順位は世界
第一である。 国民が健康でこうして長生きできるのは日本人の感情と情緒の特性に起因している。 二項対立的なものの見方をせ
ず、 何でも受け入れる日本的な考え方こそ世界を救うのではないかと述べている。
先日の世界遺産登録のドイツでの選定委員会では、 英語を母語としない両国が英語を通 して交渉が行われた。 通訳を通して
ではなく、 お互いの母語ではない英語による表現の交渉は、 英語母語話者でないものにとってそれだけで不利である。 英語の
表現を取り違えずに正確に理解し、 使い切れるであろうか。 また英語には交渉言語として曖昧な要素はない のであろうか。 それ
でも英語がリンガフランカの役割を担っていくのだろうか。 江利川 (2008) は、 石川達之助 (1906) の 『正則独習英語教本』 には
「英語は二十世紀の世界通語、 之を解せざる者は二十世紀の人にあらず」 と記されていることを紹介している。 100 年前にも今と
同じようなことが考えられていたのである。
大谷泰照 (2010) によると、 日本の英語教育は 40 年周期の往復運動をしているとい う。 明治 6 年の 「英語国語化論」 前後か
ら明治 22 年 「大日本帝国憲法発布」 までが 「親 英」 時代、 それから日清 ・ 日ロ戦争、 明治末までが 「反英」 時代、 大正デ
モクラシーが興 り大正時代は 「親英」 時代、昭和 2 年藤村作の英語教育廃止論から太平洋戦争が終わるま でが 「反英」 時代、
戦後から昭和 49 年 「平泉渡部英語教育大論争」 あたりまでを 「親英」 時代、 そこから高度成長時代、 バブル経済崩壊での平
成 3 年あたりまでを 「反英」 時代、 そのあとは 「親英」 時代が続いている。 どうやら、 これまでは日本の国力が増大し繁栄して
いるときは 「反英」 であったようだ。 グローバル化の波の中、 日本経済は景気が回復し ているとまでは言えない状況である。 経
済は文化にまで影響する時代である。 これから先、 日本の英語教育は 40 周年周期で振り子のように変遷していくものではない
かもしれない。 世界の事情を巻き込んだ 「反英」 の時代が来るのか、はたまた、さらなる 「親英」 時代になっていくのであろうか。
少なくとも日本語という母語の文化は大切にして英語教育に臨 みたいと思う。
■参考文献
江利川春雄 (2008). 『日本人は英語をどう学んできたか』 研究社
大谷泰照 (2010). 「日本の異言語教育の歩みをどう見るか 40 年周期の往復運動」 大学英語教育学会 『英語授業デザイン』 英
語教育学大系第 11 巻 大修館書店
鈴木孝夫 (2014). 『日本の感性が世界を変える』 新潮社
施光恒 (2015). 『英語化は愚民化日本の国力が地に落ちる』 集英社
永井 忠孝 (2015). 『英語の害毒』 ( 新潮新書 )、 新潮社
9月
ー主体なき謝罪ー 東條 加寿子
夏休み中、 8 月 14 日の安倍談話はライブで聞いた。 翌日、 新聞やウェブには談話の全文が英訳 ( 政府発表 ) とともに一斉
に掲載された。 英訳を読んで、 前日、 談話を聞いて何か煙に巻かれたよう な漠然とした感覚の原因がはっきりとするのを感じた。
折しも、 新聞各誌には談話の評価が並んだ。 「自らの歴史認識は曖昧にしつつ、 言葉を盛り込む手法」 で一定の評価を上げ
たというコメントがある 反面、辛辣なメディア批判も展開された。 もっとも辛辣な批判の一つに、「「謝罪」 「反省」 といったキ ーワー
ドは入っているがいずれも主語がない」 ( 朝日新聞 8 月 15 日朝刊 ) という批判があった。 ここで は、 日英比較にみる安倍談話
の 「主語」 の問題を考えてみようと思う。 それに際して、 まず断っておか なければならないのは、 本小欄は同談話の政治的解
釈や評価について言及するものでは決してない。 ここでは純粋に日英の言語表現比較を試みているという点を、 是非、 ご理解
いただきたい。
52
まず客観的に、同談話の 「主語」 はどのように分布しているのであろうか。 主格主語を日本語、英 語それぞれで数えてみると、
以下のような結果だった。
談話 ( 日本語 )
談話 ( 英訳 )
「私は」 0回
“I” 「私たちは」 10 回 “ we ”
22 回
「日本は」
5回
“ Japan ” 17 回
「我が国は」 7回
「私たち日本人は」 1 回
4回
“ we Japanese ” 1 回
英訳では 「私たちは」 は “we”、「日本は」 は “Japan” というように、概ね文字通りの訳がなされているが、例外として 「我が国は」
は “Japan” で置き換えられている。 日本語では主語がなくても文が成立するが、 英文では主語が不可欠であるため、 英訳談話
で主格主語出現頻度が高いことは当然の結果といえよう。 一つ興味深いのは、 日本語では一例も見られない 「私は」 "I " が英
訳で 4 回出現していることである。 その箇所は、 「国内外に斃れたすべての人々の命」 に対して 「痛惜の念を表」 し、 「哀悼
の誠を捧げる」 という箇所 ( “ I bow my head deeply. . . . I express my feelings of profound grief . . . .” ) と、 取り返しのつかない
歴史的事実に対して、 「断腸の念を禁じ得」 ないとする箇所 ( “When I squarely contemplate this obvious fact. . . , I find myself
speechless . . . .” ) で、 いずれ も首相の個人的な強い “感情” を表現している箇所、 さすがに “ I ” 以外で主語を代用するこ
とはでき ない箇所である。
談話の核心の部分、 「我が国は、 先の大戦における行いについて、 繰り返し、 痛切な反省と心から のお詫びの気持ちを表明
してきました」 ・ ・ ・ 「こうした歴代内閣の立場は、 今後も、 ゆるぎないものであ ります」 の英訳は以下のように発表されている。
Japan has repeatedly expressed the feelings of deep remorse and heartfelt apology for its actions during the war. . . .
Such position articulate by the previous cabinets will remain unshakable into the future.
この英訳を読んだ辺りで、冒頭で述べた漠然とした違和感を覚えた。 この英訳で果たして「謝罪」は表現されているのか。 「謝罪」
の主体は “ I ” であるべきではないか。 唯一 “ I ” が用いられている上 記箇所は首相の個人的な強い “感情” を表現している
のであり、 それは 「謝罪」 とは別物であろう。 当の核心部分の主語は英語では “Japan” となっていて、 my country ならばまだし
も、 第三者的 ( 三人 称 ) の国家 “Japan” では謝罪の主体としては適切とは言えないのではないか。 ちなみに、 British National
Corpus で “apologize” を検索してみると、 人称代名詞が主語になる場合は、 “ I ” との共起 が圧倒的に多く、 “we” が主語にな
る場合は、 皆無に等しい結果であった。
もう一つの主語分析の観点は、同談話における 「私たちは」 と 「日本は」 または 「我が国は」 との使い分けである。 談話では、「日
本は」 は主に “( 戦争に関わった ) 過去の日本” に歴史的に言及する時に 用いられ、「我が国は」 は “現在の日本、未来の日本”
を意味し、国としての使命や責任を内包していると解釈できる。 ちなみに、英訳では「日本は」「我が国は」の両方について “Japan”
が用いられてい る。 一方、 「私たちは」 は “( 首相自身を含む ) 今を生きる私たち日本人” と概ね同義で用いられてい るようだ。
注目すべきは、 最後の 「終戦八十年、 九十年、 さらには百年に向けて、 そのような日本を、 国民の皆様とともに創り上げてい
く。 その決意であります」 の部分である。 英語では次のように訳されている。
Heading toward the 80th, the 90th and the centennial anniversary of the end of the war, we are determined to create such
a Japan together with the Japanese people.
最後になって初めて、 “we” から “the Japanese people” が分離され、 政府が主体となった決意が 語られている。 英訳では主
体としての “ I ” を使う最後のチャンスだったとも言えるが、 結局 “ I ” は 用いられなかった。
安倍談話には世界中の国々が高い関心を持って耳を傾けただろう。 その際、 ほとんどの国々が英訳談話に頼ったはずである。
英語で正しくメッセージが伝わるかどうか。言語的に多角的な思慮や配慮が求められる時代である。主体なき「謝罪」。英訳では「謝
罪」 は表現されなかったのではないか。 意図されたことであるならば、 “あっぱれな” 英訳ともいえる。
10 月
ー選挙年齢の引き下げー 中垣 芳隆
今年 6 月、 選挙権年齢を現在の 20 歳以上から 18 歳以上に引き下げる改正公職選挙法 が、 参院本会議で全会一致で可決、
成立した。 昨年 6 月に国民投票法が改正され、 憲法改 正の是非を問う国民投票の投票権年齢が 18 歳以上に引き下げられた。
その付帯決議にあ る、 選挙権年齢の引き下げも 「2 年以内を目途に、 法制上の措置」 をとると記されたこと を受けたものである。
53
来年夏の参院選から適用され、 18、 19 歳の約 240 万人が新たに有権者になる。 18 歳に引き下げられる対象となるのは、 衆
院選と参院選、 地方自治体の首長と議会の選 挙に加え、 農業委員会委員の選挙など。 最高裁判所裁判官の国民審査や、 地
方自治体の首 長解職や議会解散の請求 ( リコール ) などを受けて行われる住民投票の投票資格も、 同様 に 18 歳以上になる。
このことに伴い、 三年生がその対象人口となる高等学校には、 これまで以上に生徒達の政治参加への意識を高める教育の充
実が求められることになる。 国は高校生向けの副教材 をつくって配る方針らしいが、生徒達が関心を寄せる題材を教えるにあたっ
て、 学校における 「政治的中立性」 の確保がこれまで以上に注目を集めることになろう。
「中立性」 が問題とされた最近のケースをネットから引き出してみると、 北海道立高校 2 校において、 憲法教育の一環で、 集
団的自衛権を題材に弁護士を呼んで行った授業が、 道議会で取り上げられた。
山口県立柳井高校では、 現代社会の学習指導要領に沿って、 「平和主義と我が国の安全」 という内容で授業が行われた。 安
全保障関連法案についての朝日新聞と日本経済新聞の記事を読み比べ、 論点などを整理した上で、 グループごとに議論。 そ
の結果を発表し合い、 最も説得力があると感じたグループに投票した。 生徒たちからは 「今まで以上にニュース や新聞を見ようと
思う」 「来年選挙があれば投票する」 などの感想が出たらしい。
ところが県議会で、 議員が 「特定の記事を教材に投票までしたのは政治的中立性に欠け る」 と指摘。 浅原司教育長は 「配慮
不足だった」 と答弁とある。
しかし教育基本法は 「良識ある公民として必要な政治的教養」 の尊重を求めており、 本来、 政治教育は闊達 ( かったつ ) に
行われるべきはずなのだが、 上の 2 例に見られるよう に、 政府に批判的な見解は偏向とされ行政指導の対象となると、 学校は
身近な政治問題を 扱うことから距離を置くようになるのではないかとの懸念を抱く。
政治に関わる方々には、 教師の意見を含む多様な意見を聞く中で、 生徒たちが自律的に判断できるようになることで中立性は
確保される、 ともっと学校を信頼して頂きたいものである。
ただでさえ少子高齢化が進み、 若い世代の意見が政治に反映されにくくなっている日本の現状を考えると、 18 歳で選挙権を手
にする日本の若者全員が、 「1 票という権利を確実に行使することが重要であることの認識を抱く」 ことについて学校教育の果た
す役割は限 りなく大きい。
若者たちには、この社会の、日本の行く末を真摯 ( しんし ) に考え、政治から遠ざかっ ている上の世代を鼓舞し、巻き込むくらいに、
全力で投票行動に臨んでもらいたい。 そう することが、 自分たちの 「いのち」 を大切にする結果をもたらすことになるのだから。
11 月
ー教材研究 : 実践演習のヒトコマー 夫 明美
短大の教職科目で 「教職実践演習」 という授業を 2 年生の秋学期に担当して います。 5 月から 6 月にかけての教育実習後、
卒業する前に再度学んだことを活かすことを狙いとして、 以下の授業目的を設定しています。
・ 教職科目履修を通した学びと教育実習等で得られた教科指導力や生徒指導力の実践との統合を図る
・ 使命感や責任感に裏打ちされた確かな実践的指導力を有する教員としての資質を構築する
また、 授業では、 主なテーマを以下の 3 つに絞っています。
・ 生徒理解 ( 個人内要素 ・ 個人間要素 ) ・ 学級運営 ・ 学校運営 ( 管理職経験者のゲスト講師 )
・ 教材研究 ・ 授業実践
・ 振り返りの有機的サークルの形成
本稿では、「教材研究」にフォーカスした授業内での学生の取り組みについて 紹介します。 今年度は、「日本文化の紹介」をテー
マに 2 回の授業時間を当てま した。 1 時間目では 「文化」 のとらえ方について考えて、 2 時間目では、 2-3 名の学生がグルー
プになり 「日本文化を紹介する」 ポスター 1 枚の副教材作の口頭発表を行いました。 3 つのグループは、 以下のテーマで工夫
を凝らしたポスター を作成し、 自らの英語力を一生懸命駆使した口頭発表を行いました。 概要をご 紹介します。
テーマ 1: 日米のヒーローアニメ比較 アメリカのスーパーマンと日本のパワーレンジャーを比較して、 ヒーロー自信の性格や見
た目を含むキャラクター、 複数のヒーローの役割分担、 個人主義と グループ主義の異なる価値観について紹介しました。
テーマ 2: 英語に直訳しにくい日本語表現文字通り英語に訳すのが難しい 「よろしくお願いします。」 や 「お疲れさまです。」 を
様々な人間関係や文脈、 発表者によるジェスチャーの実践を含んで紹介しま した。
テーマ 3: 日本のバレンタインデー文化日本では大きな商戦の一つであるバレンタインデーについて、 ○○チョコの種類を紹介
しました。 義理チョコ、本命チョコなど ( おそらく皆さまにも馴染み がある ) 定着した表現から、自分チョコ ( 自分へのご褒美 ) やツイ・
54
ネトチョ コ (SNS などを通してできた友人間のチョコレート ) など新しい用語も学ぶ ことができました。
異文化理解は英語教育の大切な目標の一つであることを、 教材研究とミニリサーチを経た口頭発表によって再確認できたよう
に思います。
12 月
日英ことわざ文化散歩 中井 弘一
「言語はその使用者の思考様式や精神構造に一定の影響を与える」 というサピア - ウ ォーフの仮説があるが、 言葉は文化で
あると思う。 人が話す言葉と、 人が物事を理解する方法や振る舞い方には密接な関係がある。 したがって言葉が変われば文化
も異なる。 そうした言語文化の違いを英語の授業で生徒に考えさせたいと思っている英語科教員 は少なからずいる。 しかしなが
ら、 急激に進むグローバル化とそれに連動する市場主義経済情勢を背景に文部科学省は英語教育においては、 小学校 5 年生
からの英語を正規授業科目とする英語の早期教育化、 高等学校では発表 , 討論 , 交渉等を行うなど到達目標の高度化をめざす
施策を掲げ、 「考える英語」 より実社会で 「使える英語」 という英語運用能力の育成を声高に要請し、 自国の言語文化との比較
などを通して言葉を文化として学ばせることより、 英語で言語活動を行うことが優先されている。
そうした中でも、 日英の言語文化の違いに目を向け、 言語文化の面白さを生徒に伝えようとしている英語科教員がいる。 その
一例には、 「日英ことわざ比較」 がある。 帯学習で毎時間一つ二つ先生が紹介することから日英ことわざの由来を生徒が発表す
る 活動まで幅広く学習活動が行われている。
ことわざとは 「昔から人々の間で言いならわされた , 風刺・教訓・知識・興趣など をもった簡潔な言葉」 であり、また proverb は “a
short, well-known pithy saying, stating a general truth or piece of advice” で、 どちらにしても、 生活から生まれた 「人生の知恵」
で あることに変わりない。日英のことわざには類似しているものもあれば、相違している ものもある。すなわち、ことわざの背景となっ
ている考え方や行動形態を知ることで、 それぞれの国の言語文化に触れることができる。 ことわざという簡潔な一文に、 一国の文
化や叡智が込められているのである。
さて今日は、 日頃の忙しい職務を忘れ、 しばし日英ことわざの文化散歩に出かけて みよう。
1. 人の噂も 75 日
A wonder lasts but nine days in a town.
世間の噂も長く続かずやがて忘れられる。75 日という日数に根拠があるとは思えな いが、語呂合わせと説明している書籍もある。
日本語では、 「噂 : 人の身の上や、 事件 について陰で話をすること」 について言及しているが、 英語では “wonder: a feeling of
amazement and admiration, caused by something beautiful, remarkable, or unfamiliar” 「不思議」 について述べている。 周りを意
識する日本人の感覚との違いであろうか。 また、 英語で は 9 日と日本語のことわざに比べると短い日数である。 一時人々の注意
を惹くだけです ぐに忘れられるということなのだろう。
2. 猫に鰹節 To a cat that licks the spit, trust not roast-meat.
To set the wolf to keep the sheep.
動物を扱ったことわざは日英双方にある。 「猫」が出てくる日本語のことわざには、 「猫の手も借りたい」「鳴く猫はネズミを捕らず」
などがある。 今はキャットフードが 充実しているが、 昔は猫の好物といえば煮魚の汁や魚などと思われていた。 そんな好物 を置
いておいたら、 食べてくれと言っているようなもの、 危なっかしくてしょうが無い というたとえである。 英語のことわざも猫を使ってた
とえているが、 好物はロースト ・ ミート焼き肉で、 その番をさせるなと述べている。 類句のことわざに 「羊の番を狼にさ せる」 が
出てくるなど、 根底に牧畜文化があることが推し量られる。 「鰹節」 でなく 「小 判」 とすれば、 「猫に小判」 で 「値打ちを知らな
いものには何の意味も無い」 安心して いられるのだが、英語では “Don’ t cast pearls before swine.” ( 豚の前に真珠をなげるなー
豚に真珠 ) である。 このことわざは 「豚はそれらを踏みつけ、あなたがたに向かってか みついてくるだろう」 と新約聖書 「マタイ伝」
から生まれたものである。 牧畜文化の英語の特徴として、 豚と言えば、 a pig, a hog;〖去勢しない雄豚〗a boar;〖雌豚〗a sow; ⦅
古 ⦆a swine などと言葉が豊富である。
3. 来年のことを言うと鬼が笑う Nobody [God] knows what may happen next year.
Don't count your chickens before they're hatched.
今年もあと一月で年が変わる。 来年のことを口にしたくなるものだが、 このことわざ は、 「明日のことさえわからないのに、 まし
てや来年のことは予知できない。 将来のことなど予測できるわけがないのだから、 あれこれ言ってみてもはじまらないというたと え」
である。 たとえの意味は理解したとしても、 「なぜ鬼が笑う」 という表現なのか考 えさせられる。 諸説あるそうだが、 子ども受けす
るものに、 「鬼は元来怖いもので厳つい顔をしている。 その鬼でさえ笑ってしまうほど馬鹿げている」 という解釈がある。 英語のこ
とわざでは、 ずばりそのまま 「何が起こるか誰にもわからない , 神のみぞ知る」 である。 類句として、 「卵がかえらないうちにヒヨコ
55
の数を数えるな ( 訳 )」 がある。
このことわざから派生したのかどうかわからないが、 「明日は明日の風が吹く」 とい う言葉がある。 「先のことはわからないのだ
から、取り越し苦労をしても仕方が無い」 ということであろう。英語では、明日の食べ物を心配する人に向かって言う言葉として、 “Let
the morn come and the meat with it.” ( 朝を来らしめよ、 そして朝と共に食べ物も ) と言う。 牧畜文化の英語の meat は 「肉」 が
本来の意味であるが、「食べ物」 として捉え ることがことわざにはある。 “One man’ s meat is another man’ s poison.” もそうである。
「明日は明日の風が吹く」 で思い出すのは、ことわざではないが 『風と共に去りぬ』 Gone with the Wind の最後の場面のスカーレッ
トの台詞、 “Tomorrow is another day.” であろう。 「明日は別の日」 であるが、 これが 「明日は明日の風が吹く」 と訳されていた。
最近の訳では、 「明日はまた明日の陽が昇るのだ」 となっているそうである。
■参考文献
奥津文夫 ( 著 ) (2008) 『ことわざで英語を学ぶ』 三修社
創元社編集部 ( 編 )(2007) 『日英比較ことわざ事典』 創元社
ピーターミルワード ( 著 ) 山本浩 ( 訳 )(1977) 『日英ことわざ考』 荒竹出版
2016 年 1 月
ーニッポンのジレンマ― 東條 加寿子
新春には今の社会、 これからの社会をマクロ的に考えさせられる討論会や座談会が並びます。 「新世代が解く!ニッポンのジ
レンマ 元旦 SP」(NHK 1 月 1 日 23 時~放送)もそんな番組の一つでした。1975 年以降に生まれた若い論客 1 1人が招かれ、「“競
争” と “共生” のジレンマ」 というテーマで資本主義の 「自由な “競争”」 と民主主義が目指す 「平等な “共生”」 の観点から、
日本が直面する様々な問題を掘り下げました。 取り上げられた問題は、 格差社会、 宗教、 そして人工知能。 番組で出てきたキー
ワードを手掛かりにして、 格差社会と人工知能について教育を視座に考えてみました。
まず、 格差社会について。 番組では資本主義原理に基づく競争がもたらした経済的格差の弊害をなくすためには、 富をどの
時点で配分するのか、 事前配分するのか再配分するのかどちらがいいのか、 といった議論が繰り広げられていました。 事前配分
という考え方は少しわかりにくいですが、 今、 盛んに言われている 「子どもの貧困」 を考えてみればわかりやすいと思います。 ピ
ケティの 「21 世紀の資本論」 を待つまでもなく、 経済格差は資本主義の構造的な問題であり、 貧困の問題は今に始まった問題
ではありません。 それではいつごろから貧困の問題が 「子ども」 の 「貧困」 というコンテクストでクローズアップされるようになった
のでしょうか。 厚生労働省の 「子どもの貧困」 調査は1985年に統計が開始されていますが、 このころまでに 「人権」 が社会問
題を考えるときの規範になり、 貧困を子どもの人権の視点で捉えるようになったといえるのではないでしょうか。 そして、 貧困を 「子
どもの貧困」 として捉えるときには、 教育の力によって貧困の悪循環を何とか断ち切りたいという 「最後の砦」 的な希望が込めら
れているように思えます。 平成25年の文部科学省の発表によれば、 日本の子ども 6 人に1人が貧困と定義される家庭状況にある
と言われています。 子どもたちの教育を受ける権利を保障し、 子どもたちが教育によって獲得したスキルを就労に生かし結果的に
貧困から脱却できるよう、 就学支援や奨学金といった 「事前配分」 の政策が実行されること、 そしてそれに応える教育実践が行
われることが必要です。
次に、 人工知能の話。 これまでの人工知能は、 人の労働の一部を代替して人の生活の利便性を高めたり、 人の時間的 ・ 認
知的余剰を生み出したりと、 もっぱら人が便利に活用するシステムでした。 しかし、 近年の技術の進化によって今や人工知能は
ディープラーニングという自律的学習をしたり、 人間の感性を模すこともできるというのですから驚きです。 うまくプログラミングをす
れば、 人工知能が人間の労働のほとんどを代替できる日も夢ではないと言われています。 番組では、 そうなれば 「人間は一体
何のために生きればいいのか」 という究極の問いも投げかけられました。 人が創造した人工知能が人の存在意義を脅かしかねな
いとすれば、 まさにジレンマです。 しかし、 人工知能にはまだ十分にできないこととして、 「主体的に目的を設定すること」、 「主
体的に関わる相手を模索しコネクトすること」、 「言葉 (情報) が相手によりよく届くように工夫すること」 などがあるそうです。 人に
できて人工知能にはできないことこそ、 教育で取り組むべき領域ではないでしょうか。
「子どもの貧困」 と 「人工知能の進化」 の先にはいずれも教育の使命が透けて見えます。
56