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J apanese tex t
2011年 春/夏号 目次 日本語編
■ 巻頭特集
014
森の国の木のある暮らし
縄文の時代から私たちの暮らしは木とともにありました。今でも国土の多くが森林に覆われ
た国。いちばん身近な素材であった木は、人の手により第二の命を与えられ、暮らしの中
にさまざまな形で取り込まれてきました。失われつつある木の文化の復権を願い、現代に
受け継がれている木の技、木の心を探ります。
016
高桑家の欅物語――二度目の生を受けた樹齢150年の木
020 木工家具を牽引する――谷進一郎の工房から
026 木工の世界を変えた木工家、黒田辰秋の伝説
028 木に囲まれて暮らす
038 木目に魅せられて――注目の8人の作家たち
048 朽ちゆく色と形――木工作家・羽生野亜が木に刻む時間の美
054 新たな木質構造建築の可能性を探る
■ 特集
060 桜川 春爛漫の桜源郷へ
山桜の名所として「西の吉野、東の桜川」と謳われ、古くは平安時代に紀貫之が歌に詠ん
だ茨城県・桜川。そのかつての栄華は長らく忘れられていましたが、今、1000年の時を超
え、幻の桜源郷が地元の人たちの手によって甦ろうとしています。桜の里のとっておきの春
へ、ようこそ。
072 日本画のレシピ――画家・手塚雄二の世界
「日本画」と聞いて、どのような世界が思い浮かびますか。静謐な墨色で描かれた掛け軸、
きらびやかに金銀で彩られた、屛風や絵など。しかし日本画の美の本質とは、実は色や様
式とは別にあります。今の日本画壇を牽引する画家、手塚雄二さんの世界に触れ、その秘密
と魅力に迫ります。
094 世界を魅了する日本百名山
北から南まで植生豊かな山が連なる日本列島は、まさに自然の美の宝庫です。全国の数百
の山を登った、山の文学者・深田久弥により選ばれたベスト100の全てを紹介します。日本
の山の魅力と歩き方を指南してくださるのは、世界七大陸の最高峰を登り詰めた、世界的
な登山家・田部井淳子さんです。
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Spring / Summer 2011 Vol. 27[ 目次 ]
1
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2011年 春/夏号 目次 日本語編
009
Works 青 画・文=篠田桃紅
010
杉林のスケッチ 写真=丹渓
全国に見られる林業を象徴する木、杉。よく管理された杉林の整然とした風景は、人と自
然のハーモニーを感じさせます。斜光線が描く一枚の絵画のように。
086
卵焼き―― 家庭で最も手軽に作れる日本の味
卵焼きは、日本の家庭料理の代表。美味しい出汁の取り方と、焼くコツさえ覚えれば、家
庭でもプロの味が味わえます。「すし独楽」の柳原雅彦さんに教えて頂きました。
092
三井住友FG―― 400年の歴史背負うメガバンク世界市場でさらなる飛躍へ
ニューヨーク証券市場に上場した三井住友ファイナンシャルグループ。信頼に裏打ちされた400
年の歴史をもつ老舗の今後が注目されています。
115
アーティスト・インタビュー
●ホンマタカシ:写真が織りなす「ニュー ・ドキュメンタリー」
写真の概念を変え、常に写真の可能性を広げようとしてきたアーティストの初期から最新の
仕事まで。写真とはなにか、と心を揺さぶられる初の本格的な展覧会が開催される。
●杉本博司&寺島しのぶ:特別対談・
『曾根崎心中』を語る
人形浄瑠璃の名作『曾根崎心中』を、原曲に忠実に、かつ斬新な解釈で現代に甦らせた
現代美術作家の杉本博司。女優・寺島しのぶと、近松作品の魅力について語る。
118
アート&エンタテインメント
田窪恭治「風景芸術」展/特別展「写楽」/増上寺秘蔵の仏画 五百羅漢/クワイエット・
アテンションズ/倉俣史朗とエットレ・ソットサス/光琳の屏風絵/建築と美術/ヴェネ
ツィア・ビエンナーレ建築展帰国展/ミツコ/まほろ駅前多田便利軒/沖仁のフラメン
コ・ギター/梅田宏明のビジュアル・パフォーマンス/帝国劇場100周年/ソノダバンド/
海炭市叙景/桜と音楽の競演
122
書店リスト/提供協力会社
123
定期購読
125
デジタルマガジンと和文テキストのご案内
125
KIEパートナーホテル
130
次号予告
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2011年 春/夏号 日本語編
Works
によって節がなくまっすぐ育った京都の北山杉の林はその典
青
型だ。継承すべき森の技なのだ。
画・文=篠田桃紅
最近は国産スギ材を積極的に利用し、森林を循環させ保
p.009
あ
全していこうという動きも各地に見られ始めた。木はすでに
人が、ふと、目を挙げる、或る日。
十分成長している。私たちはもう一度、木のある生活を考え
それは、必ずしも、春、ではなくても。
る必要に迫られている。
青春、それは、年月には関わりなく、また、季節にも関わり
、、
なく、心に訪れる時、時計や暦にはカンケイない、とき 。
(p.010)
『青』とは、いみじくも選ばれた文字。
急峻な地形に広がる京都の北山杉の林。床柱用の磨き丸太を取るため
自然
に、成長を抑制し、枝打ち技術を駆使してまっすぐで節のない木を育て
てきた。一度伐った後の木から数本の枝を直立させる台杉仕立てなどは
杉林のスケッチ
北山ならではだ。
写真=丹渓 文=編集部
p.010
(p.012)
全国で目にすることの多い杉林。杉は日本の林業の象徴であ
杉に殺菌力があることはよく知られている。杉林の中に入ると、杉の香
り、また林業の抱える問題を象徴する木でもある。ともあれ、
りが濃く漂い、ひんやりとした清浄な空気に気持ちまでが洗われるよう
手入れの行き届いた杉林は美しい。故郷の風景の一つだ。
日本全国どこに行っても杉林が見られるのは、戦後の拡大
だ。愛知県・東栄町にて。
(p.013)
日本の美林といえば杉林をおいてほかはない。地名を冠した秋田杉、
造林政策で、建築有用材としての針葉樹であるスギとヒノキ
天竜杉、吉野杉、日田杉などは,杉の名産地として知られている。写真
が広葉樹に代わって山々に一斉に植えられたからだ。
は大分県・九重の杉林。
しかし、その計画は、木の生育に必要な 50 年が経つ前に、
社会事情の変化によって頓挫する。低価格の輸入材に押さ
れ国産材の需要が減った。木造建築自体も少なくなった。
需要が減って価格も下がる。伐った木を運び出す作業道は
政策の遅れにより未整備で、苦労して伐り出しても採算が取
れない。林業では生活できないから林業従事者も減る。森
林面積が国土の 67%もあるのに、使う木は海外で育った木
ばかりというおかしなことになった。そして、杉の林は荒れ
た。おまけに、一説では国民の 20%が罹患しているという
スギ花粉症のせいで、杉林は人々からは疎まれる。杉にとっ
ては踏んだり蹴ったりだ。
けれど、杉林を日本的な風景の一つと捉えてみれば、管
理の行き届いた杉林が調和の美に満ち、人と自然が共に作
り上げた一つの理想であることに気づく。優れた枝打ち技術
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2011年 春/夏号 日本語編
木
森の国の、
木のある暮らし
写真=佐藤竜一郎、小林庸浩、藤塚光政 文=編集部、塚田恭子 コーディネート=横瀬多美保 取材協力=山田節子、高森寛子
p.014
国土のほとんどが森だから、石ではなく、木の文化がこの国
に育った。既に縄文時代から巨大な木造建築が始まっている。
青森の三内丸山遺跡で発掘された柱穴には、4.2 メートルの
間隔で直径 1 メートルの栗の柱が 6 本立ち、大型高床建物
があったと考えられている。木の器など小さな物は朽ちるか
ら残っていないが、先祖が遥か昔から木のお椀や道具を使
い、そこを原点に世界一の木工技術が育まれたことは間違い
ない。今、私たちの生活は木から遠ざかる一方だが、素晴
らしい木の技は健在。そんな仕事の数々を紹介したい。
さんと共に、飛驒高山の山間にある家具工房へと車を走ら
せた。到着すると、工房の外には、約 2 メートルに及ぶ欅
の板が 30 枚ほどずらりと並んでいた。
「なんと堂々として、立派で美しい木目なのでしょう!」
正子さんは、驚きと感激を隠せなかった。太陽の光をいっ
ぱいに浴び、すくすくと成長した樹齢 150 年の欅。歪みが
少なく、まっすぐに伸びた年輪が木の育った環境を物語って
いる。
実は、この 30 枚の板は富山県高岡市にある、高桑正子
さんの実家の裏庭に立っていた2本の欅から切ったもの
だった。150 年間家族の歴史を見守ってきてくれた、高桑さ
んにとって特別な木なのだ。
清流のような美しい欅の木目を眺めながら、彼女は富山
で過ごした幼少時代を思い出していた。生まれ育った家は、
1864 年に創業した由緒ある造酒屋の高桑酒造だ。正子さん
は、この家の 19 代目でひとり娘だった。1500 坪に及ぶ広
(p.015)
大な敷地には、様々な種類の木が茂っており、強い太陽の
写真は、神代欅のテーブルの部分。
光が酒蔵に当たり、酒が悪くなるのを防いでくれた。酒造り
天板の長さ 300cm、幅 100cm、厚み 8cm。
神代欅とは地中に埋もれていた欅のことで、
には、美味しい水が欠かせないが、この2本の欅のすぐ側
この木は 2040 年前の鳥海山の噴火で埋もれたものという。
にも小川が流れていた。
「地元のおいしい水を飲んでいたか
当時の樹齢はおよそ 300 年。
ら、太くまっすぐに育ったのかもしれない」と高桑さんは振
製材したばかりの時はうっすら緑がかっている。
り返る。伐採時、欅は高さ約 20 メートル、直径1.2 メート
製作=オークヴィレッジ(p.017)
ルにもなっており、山の厳しい環境で育った欅に比べ、ずっ
むら
撮影協力=よし邑
と成長が早かったようだ。
1980 年は、高桑さんにとって辛い年だった。高桑酒造は、
1
当時多くの小さな造酒屋がそうであったように、大手酒造
高桑家の欅物語
二度目の生を受けた樹齢 150 年の木
メーカーに市場を取られ、衰退していった。そして、ある日
家族の一員が突然倒れ闘病生活に入ると、ついに酒蔵を畳
p.016
む決心をする。3 月のことだった。重要文化財級の伝統家
庭の木を伐採しなければいけなくなったら、それを材にして
屋だったが、維持することができず、しかたなくブルドーザー
家具を作ってみてはどうだろう。漆を塗れば、数十年、いや
を入れ壊したのだった。
数百年使い続けることができる。150 年の歴史を持つ、ある
それから約 30 年経った 2009 年、敷地内の木を全て伐採
造酒屋の庭で育った欅の心温まる話。
し、土地を更地にすることになった。「裏庭にあったあの2
本の欅の木は、何らかの形で残したい…」高桑さんは、ふ
たかくわまさこ
ともいちろう
2009 年のある晴れた冬の日、高桑正子さんは、夫の友一郎
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と以前、欅の拭き漆仕上げのテーブルを購入した先の『オー
Spring / Summer 2011 Vol. 27[ 木 ]
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クヴィレッジ』のことを思い出した。「庭の欅を材として使っ
(p.016)
高桑家のアルバムからの思い出の一枚には、高桑酒造の建物に覆いか
てくれないだろうか」
みちはる
オークヴィレッジの家具の設計者、田中満 治さんに相談
すると、すぐに富山の実家まで車を走らせ、欅を見に行って
くれた。「Google の航空写真にも写っているほど、2本の
欅の木は大きくて立派でした」と田中さんは話す。2009 年
の秋に欅を丁寧に切り倒し、オークヴィレッジの製材所へと
ぶさるように伸びた、2 本の大きな欅の木が写っている。右ページの写
真は、その幹の堂々たる太さと、中から現れた木目の美しさを物語る。
欅の葉の写真提供=奥田 實
(p.018)
あるアメリカ人男性の特注を受けて、オークヴィレッジが作った食器棚。
運んだ。「製材する時は、本当に緊張しましたよ。木は実際
高桑さんの欅で作っている。木目がひときわ美しい。欅の材は、まだた
に切ってみないと、材としての正確な価値は分かりませんか
くさん残っており、テーブルだけでも 20 脚は作れる。
ら。でもこの欅の木目を見て、驚きました。欅の中でも特に
美しい木目をしていました。欅の特徴である赤みを帯びた
オークヴィレッジは、日本の木を使って、伝統的な木組みで家具を作
る。黒田辰秋の作品を思わせる、木目を生かした重厚でシンプルなデ
ザインだ。
木肌で、虫食いも空洞もない最良の材だったのです」
実家のシンボルであった欅が、材としても優れていること
(p.019)
を知り、高桑さんは誇らしく思った。そして、家族を代々見守っ
欅の枝からは、合計 135 個のお椀が作れた。高桑さんは、これを親戚
てきてくれた欅を、家具という形に変えて、家に残していき
の方々へ記念品として贈った。
たいと強く思った。まずは、自宅用に座卓とテレビボード、
書棚、整理箪笥、椅子4脚を注文した。それでも、材は余
るほどある。親戚や息子さん、お孫さんにも富山の高桑家
オークヴィレッジ
〒 506-0101
岐阜県高山市清見町牧ヶ洞 846
の想い出として、飾台や小抽斗を作り、贈ることにした。高
Tel.0577-68-2220
桑さんの 1 本の欅の木からは、たとえば、ダイニングテー
http://oakv.co.jp(Japanese Only)
ブルであれば 10 脚以上は作ることができる。枝の部分では、
[email protected]
お椀 60 個以上は取れる。
オークヴィレッジでは、お客さんの要望に応じて、家具を
オーダーメイドしてくれる。高桑さんが特注した家具は、今
(p.020)
座ると木に包まれるような気持ちになる、どっしりとしたソファのような
椅子。体の曲線に合うよう、緩やかなカーブが付いている。
まさに製作中。拭き漆で仕上げられる家具は、手入れをす
材は、本体には栓を、アームの部分には樺を使っている。
れば 400 年は使えることだろう。漆塗りの木の家具は、年月
拭き漆で仕上げ。サイズは、高さ 86cm ×幅 94cm ×奥行き 70cm、
を経て使い込むと、どんどん透明感と味わいが出てき、さら
73 万 5000 円。
に美しさを増す。
今年の初夏までには、注文した 10 点ほどの家具が全て
木工家具を牽引する
谷進一郎の工房から
完成され、高桑さんの東京の自宅に納品される予定だ。「欅
1
の板を工房で見た時もその美しさに感動したけれど、家具と
して我が家に届いた時は、もっと感動すると思うわ。今から
何百年もかけて育った木を、何百年もかけて人が使い込む。
とても楽しみです」と高桑さんは微笑んだ。
良質な材と高度な技を使って、丁寧に作られた木の家具を暮
p.020
らしの中に取り入れれば、私たちの毎日の暮らしも豊かにな
りそうだ。
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を作りたい—」。それは、 谷さんが木工の修業を始めた
(p.021)
どっしりと重たく丈夫なで作った文机だが、軽やかに曲線を出してい
る。和と李朝のデザインを融合させた、谷さんオリジナルのデザインが
光っている作品だ。幅 110cm ×奥行き 45cm ×高さ 31cm、42 万円。
1970 年代から抱いてきた、今も続く大量生産と使い捨ての
社会に対する疑問からくる信念でもあった。
谷さんが東京の武蔵野美術大学で家具のデザインを学んで
いたちょうどその頃、高度経済成長が進み、水俣病や四日
(p.022 )
家具のカーブの大きさや、角度に合わせて、鉋を使い分ける。ひとつ
市喘息など死者を出すような公害が大きな社会問題となっ
ひとつの家具を、時間をかけて納得のいくまで丁寧に仕上げる。
ていた。当時大学では、大量生産のためのデザイン教育が
「日本の木工技術が高い理由のひとつは、刀など優れた刃物を作る職人
さんがいたことです」と谷さんは話す。
盛んになっていたが、谷さんは、使い捨てられるようなモノ
をデザインして、果たして本当に良いのだろうかと自問した。
大規模化し続ける産業社会の分業化や専門化が進み、責任
p.024
の所在が不確かになってきたことが、公害問題の一因では
晴れた冬の日には、谷進一郎さんの工房から雄大な八ヶ岳
ないだろうか。産業社会が生み出したモノが世の中に溢れ
連峰の頂が見える。東京から車で約2時間半の距離の小諸
ており、さらに多くのモノを消費させるため、使い捨てが良
市内にある。林に囲まれた谷さんの工房には、澄みきった
いこととされている。そのことに、大きな疑問を抱いたのだっ
空気が流れている。
た。
都会から離れた静かなこの高原で、日本の木工家具を牽
大学を卒業した後、谷さんが辿り着いたのがこの山の景
引してきた谷さんは、30 年間ひたすら木と向き合ってきた。
色広がる、林の中の工房だった。ここで何より大切にしてき
良質な木と漆、そして確かな技術で作られた、和と李朝の
たことは、作る家具によって、どの種類の木を使い、またそ
デザインを取り入れた家具。木の持つ美しさを活かした、
どっ
の木のどの部分を、どのように使うかということだ。何百年
しりと重厚な作りだ。随所に取り入れられている曲線がやさ
も使える家具に仕立てるには、まず一本一本異なる木の性
しく繊細な印象を与えている。谷さんは、実際にお客さんに
質を読み取り、それを活かすように、材を切らなければなら
会い、相手の要望を聞き取り、ひとつひとつ丁寧に手作りし
ない。丈夫で機能的だけでなく、見た目も美しいように、
てきた。
木目の出し方も計算しつくした上で材木を切る。
今、良質な国産の材木を使い、時間をかけて手作りされ
木を組む時は、日本の伝統的な組み木の技法を使う。釘
たにしんいちろう
た木の家具は、なかなか売れない。2008 年の世界金融危
は使わない。金具も時間が経つとびて劣化するので、ほ
機以来、その傾向に拍車がかかったようだ。注文が絶えな
とんど使わない。木と木を組んでしっかりと固定する。木は
かった時期もあった谷さんの工房にも、今不況の波が押し
呼吸していて多少なりとも伸縮するが、動いても壊れないよ
寄せている。それでも以前と変わらず、時間をかけて 100
うに組み立てる。
年以上使える家具を作り続ける。谷さんの家具に使われる
何百年もの時をかけて育った木を、長年使える丈夫な家
材は何百年という年月をかけて大きくなる。それだけの長い
具に加工して、それを一生かけて使い込む。使い込まれて、
時を経て育った貴重な木なのだから、木が育った年数以上
さらに個性と美しさを増したその家具を、次の世代に渡す。
に使える家具を作らなければ木に対して申し訳ないと考え
森からの贈り物である木で作られた家具は、側に置くと不思
る。
議とほっとする。
「自分ができる限りの最高の仕事をし、オーダーしてくれた
どんなモノを買って、身の回りに置いて生活するのか。今、
お客さんにも、その次の世代にも長く愛用してもらえる家具
買い手、使い手の価値観が問われている。
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場合はこうだ。
(p.024 )
上・谷さんの作品は、朝鮮王朝時代の家具に影響を受けているが、主
張しすぎることなく、他の調度品とも調和するデザインを心がけている。
チェストの本体の材は栗で、取っ手の部分は黒檀を使っている。
「ぼくが立教大学で物理学の助手をしていて、漠然と木工
への転身を考えていた頃のことです。京都に行った時、た
しんしんどう
またま喫茶店の進々堂に入り、パンとミルクコーヒーのセッ
幅 77cm ×高さ 40cm ×奥行き 41cm、63 万円。
トの値段とは不釣り合いなくらいの、重厚な木のテーブルと
右・棚の本体の材は欅で、取っ手の部分は黒檀。
ベンチに驚いた。店のパンフレットで、それが黒田辰秋さ
幅 70cm ×奥行き 21cm ×高さ 68cm、52 万 5000 円。
んのに拭き漆をかけた作品だということを知ったんです」
(p.025)
「進々堂」は、学生たちに愛される京都大学北門前にある
谷進一郎の工房
老舗の喫茶店だ。店内には今も、の厚板を使った、長さ
長野県小諸市天池 4741
2 メートルを超えるテーブルとベンチが複数据えられている。
www.tani-ww.com
1930 年、黒田辰秋の弱冠 26 歳の時の作品だ。数十年にわ
fax 0267-22-1884 たって多くの人に使われてきたは、独特の風合いを放っ
右は、工房でテーブルを削る谷さん。下は、工房全体の風景。2人の
ている。
若手の木工家に、技を伝えている。谷さんは、次世代の木工家を育て
稲本さんは「これだ!」と思ったという。黒田辰秋のの
ることにも力を入れている。右上は、工房の外観。右下は、工房内にず
作品を一つの理想とし、その後、その名もオークヴィレッジ
らりと並ぶ、木工道具。
を起こした。
ちょうな
上は、釿という古代から使われてきた、最も古い木を削る道具。昔はこ
谷さんもやはり進々堂でこの黒田辰秋作品と会う。
れを使って荒い面の家具や道具を作っていた。谷さんは、あえて素朴な
「木工を始めたものの何を作っていいかわからなかった頃
味わいを出すために、この道具を使う。右は、釿を使って作った膳だ。
で、こんな仕事をする人がいるのかとただ圧倒された。黒
材は欅。直径 60cm ×高さ 15cm、42 万 1000 円。
田辰秋がそれを作ったのはその時の自分より若い年齢です。
自分もこんな作品を作りたいと思った」
稲本さんと谷さんが注目するのは、作品に材が使われ
ていることだ。製作当時、はいわゆる雑木で、格の低い
木工の世界を変えた木工家、
黒田辰秋の伝説
たつあき
木だった。そのに漆をかけている。摺り込むように塗る
「拭
p.026
き漆」の技法で木目が強調される。
ひのき
けやき
木の仕事に携わる人たちの話には黒田辰秋の名前が出てく
「檜や欅には漆を塗っても、に漆を塗るなどということは
ることが多い。木の仕事師たちにとっての憧れ、尊敬、驚嘆、
その頃誰もやらなかった。ぼくが飛驒で家具作りを始めた時
畏怖。そういう感情を込めて、その名が語られる。
でさえ、に漆を塗ると、地元の職人たちに『お前ら何も
黒田辰秋。1904 年に生まれ、数々の伝説的な木の仕事
わかっちゃない』と随分言われたものです。それを黒田さ
をし、1982 年、享年 77 で逝った木工家にして人間国宝。いっ
んはこともなげにやりのけている」(稲本)
たい黒田辰秋の何に人は惹かれるのか。
京都にはもう一つ重要な黒田辰秋の作品がある。
飛驒高山の工房、オークヴィレッジ(17 ページ参照)を
老舗の和菓子店「鍵善」の大飾り棚だ。こちらは欅だが、
主宰する木工家の稲本 正さんと、木工家・谷 進一郎さん(20
進々堂と同じく威風堂々、力強い。「前例のない空前絶後の
ページ参照)は、現代の木工界を牽引してきた二人だが、
作品。全体の構成力がすごい」(谷)、「日本の伝統工法を
たまたま同じ「黒田辰秋体験」を持っている。稲本さんの
生かしながら伝統なのかモダンなのかわからない作品」(稲
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本)と二人が絶賛するこの棚は、黒田辰秋 27 歳の時の作品。
具合を見るために体を起こした時は、『はあっ、はあっ』と
進々堂のテーブルを製作した翌年、鍵善の特注でつくられ
大きく息をする。時に息をつめ、時にうなり、時に肩で呼吸
た。家 2 軒分の価格だったというが、製作当時、20 代の若
しながら、気持ちを集中し、絞り出すようにして彫り進むの
者に大きな仕事をさせようとする施主がこの時はまだ京都に
である。見ていてさえ、息苦しくなる。しかし。彫り上がっ
いたのだ。その思いに応えた黒田辰秋もすごかった。
ていくその文様は、力強く、美しかった。
」(
『黒田辰秋 木
「常に新しいことをしながら、でも伝統を踏まえている。
工の先達に学ぶ』早川謙之輔著より)
その中で本物を貫き、妥協しない」と稲本氏が言うその言
早川氏は、黒田辰秋はいつも、紙のスケッチで構築する
葉を実証するような、黒田辰秋の代表的な作品がある。
のではなく、初めから形が見え、それに向けて手を動かし
晩年 60 歳の時に、映画監督の黒澤明の依頼を受け製作
たのではないか、という。
した家具セットである。なかでも、黒田辰秋自身が「王様
「作品を生み出す工程は見えない。しかしでき上がった作
の椅子」と呼んだ美しいこの椅子。
品は確固としていずれも黒田辰秋の作品なのである。天与
の良材をたっぷり使い、仕上げは拭き漆。脚は板組みで、
の才というほかはない。
」(同書より)
大木が根を下ろしたような、という表現が合う。この椅子を
進々堂では、きょうもテーブルで学生たちが本を読んだり
納めた黒澤監督の別荘が火事で全焼した時、近所の人たち
レポートを書いたりして時間を過ごしている。彼らはこれが
がこの家具を運び出し崖から転がしたが、びくともしなかっ
人間国宝・黒田辰秋の作品だと知らないかもしれない。し
たという話を聞いたことがある。話に誇張があったとしても
かし、博物館の中でも、貸し金庫の中でもなく、ここでは誰
納得してしまう重厚さだ。 もが黒田辰秋という天才が作った作品に直に触れ、感じるこ
椅子に座ってみると、アームの部分の木の厚みの触感か
とができる。雑木であろうと差別しなかった黒田辰秋らしい
らしてすでに普通の椅子ではない。硬い座面にすっぽりと体
光景だ。
を収めると、周囲の音が急に消える。椅子が音を遮断・吸
うろ
収するのだ。木に包まれるたような安堵感。の大木の洞
の中に入ったらこんな感覚だろうか。
「下手な職人というのは加工しやすい木(材)を選びます。
檜や欅は木もいいので適度に手を加えればきれいになる。
木の艶も出やすい。けれどは下手に使えば悪いところば
かり出てきてしまう。艶は出にくいし、漆ものりにくい。でも、
(p.026)
上・鍵善良房の拭き漆欅大飾棚。現在は店舗一階に向き合うように置
かれている。(1931 年)
下左・黒澤明映画監督の依頼で作った拭き漆花紋椅子。現在は美術
館に収められている。(1964年・豊田市美術館蔵)撮影=共に岡崎良一
下右・進々堂の拭き漆テーブルセット(1930 年)撮影=姉崎一馬
黒田さんは加工しにくい木でもあえて選び、その木の持って
いるいい面を引き出している。たとえば、この椅子の彫刻な
どは、だからこそ映える。木を見抜く目が抜群です」
(稲本)
椅子の背に彫られた花紋は、黒田辰秋の重要なモチーフ
の一つだ。この椅子の製作の現場に立ち会っていた木工家
の早川謙之輔氏の回想録によると、小さな切り出し小刀一
(p.027)
上下・製作中の黒田辰秋。黒田は、柳宗悦の民藝運動や朝鮮の工芸な
どの影響を受けながら、作家としての独自のスタイルを確立した。施主
からの依頼による製作の一方で、公募展にも積極的に参加。木、漆、
螺鈿、それぞれの世界で多くの成果を残した。木地から始めて一貫して
一人で製作することにこだわった。撮影=牧 直視
丁で彫られたという。
「板の上にかがみ込み、文様を彫りながら、先生は『あぁ、
あぁ』とか『うっ、うっ』と小さな唸り声をあげる。彫った
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深みが出て愛着が湧いてくる。それは、無垢の木ならでは
木に囲まれて暮らす
の特徴だ。器や桶などの生活道具も家具も家も、木で作ら
p.028
桂離宮に代表されるような数奇屋造りの木の家に対して、大
胆な木組みが特徴の民家は、庶民を中心に人と木の関係を
育んできた特別な空間だ。土地の人間と土地の木の歴史が
刻み込まれている場所なのだ。
れたものを少しでも生活に取り入れると、私たちの暮らしは
今より確実に豊かになる。
腕の良い木工家に作られた無垢の木のものは、大切に使
えば、自分だけでなく、次の世代もその次の世代も使い続
けることができる。そして、どんどんと美しさを増していく。
しゅうじ
右上の檜のワインクーラーを作った中川木工芸の中川周二
さんは木の魅力をこう語る。「同じ場所で育った同じ種類の
(p.029)
日本で最初に再生された民家、草間邸内の応接室。建築家の降幡廣信
木でも、一本たりとも同じものはないのです。木目も色も枝
さんが最初に再生を手がけた民家だ。築 290 年の歴史を持つ草間邸は、
のねじり具合も全て異なります」
。人間と同じように、一本
以前長野県松本市一帯の大庄屋だった。時代が変わり、家を修復する
一本の木は全て違う顔を持っている。そして、使う人によっ
資金もなくなると、1980 年に降幡さんと出合うまでは、屋根が崩れかけ、
て、木はさらに個性ある表情になっていくのだ。
雨が漏り、手の施しようもないほどの状態だった。この草間邸再生の成
功を機に、降幡さんは全国各地の民家を次々と再生し始めた。彼が過
去 30 年間に手がけた民家の数は 330 軒にのぼる。
木は年月を経ると強度も増していく。普通の工業製品は、
新しい時に最も強度があり、だんだんと落ちてくる。木はそ
の反対で、例えば檜は切り倒してから 200 年目くらいが最も
強度があると言われている。そこから、切り倒した時の強度
(p.030)
明治初期に郵便局を営んでいた矢野口家も、長年使われず廃屋になっ
にもどるのに千年かかる。現存する世界最古の木造建築で
ていたが、降幡さんの手によって見違えるように生まれ変わった。「昔か
ある法隆寺が、木の耐久性と強度を実証している。
らあったこの家に、この町のたくさんの人に来て頂きたいと思っていま
す。2 階のスペースは、憩いの場として使ってもらえるようにしました。
絵の展示会も時々開きます」とご主人の矢野口義宣さんは話す。民家
は風通しが良く、夏は快適に過ごせるが、冬は寒い。この家には床暖
古民家の再生をし続けてきた降幡さんは、古材の魅力を
こう話す。「年月を経た木の肌は、人で言えばしわやしみも
できるが、そのぶん逞しくなり、人に安らぎを与えてくれます。
民家に使われている古材は、100 年、200 年の間、紫外線
房が入っており、寒い冬も快適に過ごせるようになっている。
や空気にさらされ、日常生活を支えてきた苦労の跡すら感じ
(p.031 )
られます。人生の歴史をそのまま刻んでそれを証明してい
秋田杉で作ったすずり箱(長さ 23cm ×幅 20.5cm ×高さ 5cm、18 万円)。
すがわらしんいち
北国の岩手県に工房を持つ、指物師の菅原伸一さんは、寒く厳しい環
る人間の風格すらあります」
境で育った東北地方の木をこよなく愛する。秋田杉は、木目が細かくまっ
すぐで白い。茶道具を主に作っているが、独自の新しい形を常に模索し
(p.032)
ている。
左・外側の川の流れのような木目の材は、数百年間火山灰の中に埋も
れていた楡だ。中側は、秋田杉を 2.5mm の厚さに挽いたものを、組
p.032
使い込む楽しみ
んでいる(長さ 43cm ×幅 26cm、8 万円)。
作者の菅原伸一さんは、約百年間、土の中に埋もれていた木を作品
に使うことが多い。「東北の鳥海山近辺で見付かった神代杉は、立ち木
毎日使えば使うほど美しさを増す。使った時に出る傷は、模
として育った年数が約千年、土に埋もれていた時間も約千年です。二千
様や味のひとつとなる。買ったばかりの新品の時より、色に
年の時を経て、今なお呼吸している木です。長い時間を経た木は、木
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肌の色や木目が格別です」
せるように再生する試みが日本各地でおこなわれている。
トレイミルニュイ プレート(SS サイズ・ミッドナイト)2 万 4150 円/
1980 年代に古民家の再生を最初に手がけたのは、今年 81
Baccarat 箸 2940 円/中川周二作
ふりはたひろのぶ
歳の降幡廣信さんだ。50 歳から民家再生の仕事を始め、今
日まで全国 330 軒よみがえらせてきた、「古民家のベテラン
(p.033 )
右ページ・伝統的な京都の木工技術を担う、中川木工芸の中川周二さ
医師」だ。
んが考え出した、しずくの形のシャンパン・クーラー(直径 25cm ×高
第二次世界大戦後、伝統的な家屋は時代遅れの古臭いも
さ 20cm、6 万 8250 円)
。木肌がひときわ白く、きめが細かい年輪の木
のとされ次々と壊されていった。そんな時代に、降幡さんは
曽産の檜を使っている。年輪が細かい材は、それだけ丈夫で長持ちする。
廃屋同然になった民家を解体し、その家の本来の造りと歴
蓋付きのアイス・クーラー(長さ 17cm ×幅 14cm ×高さ 9cm、3 万
史を調べ、それを尊重しながら、現代の人が住みやすい空
6750 円)も同じ材で作る。「氷などの冷たいものを入れても、檜は断熱
効果がある上、水分を吸収するので、外側に水滴がつかないとお客様
から好評です」
間へと再生していった。「家族が代々暮らしてきた古い家に
は、それぞれの時代を生きてきた、多くの人の生活の知恵
お櫃や樽など、日本の暮らしの中で使われてきた道具以外に、現代
と伝統が詰まっています。それを次世代へ伝える、かけがえ
の生活で活躍するアイテムも多く生み出している、今注目の木工家だ。
のない空間なのです」古い家こそ、暮らしの文化の継承の
場なのだと語る。
(p.035 )
左ページ左上・神代杉と神代楡を使った市松模様の茶箱。菅原伸一作、
長さ 21.5cm ×幅 14cm ×高さ 14cm、73 万 5000 円。
同右上・九州の南、屋久島で育った樹齢 1000 年を超える屋久杉を使っ
降幡さんは、民家を再生時する時、柱や梁などの材をで
きる限り再利用する。それは、今では手に入れることのでき
ない素晴らしい質の材が古民家には使われている。近くの
た 器、 中 川 周 二 作、3 万 6750 円。 下 の 皿 の 材 は 会 津 産 の 桐、2 万
森で、その家の柱や梁に最適な木が選ばれ使われた。「古
6250 円。サイズは両方とも 22cm × 22cm。
材には、長い間その家に住む人々を見つめ、支えてきた温
同左下・神代杉を使った、形見など大切なものを入れる箱。菅原伸一作、
かさと安らぎが感じられます。長年人とかかわってきた木だ
長さ 22cm ×幅 20.5cm ×高さ 5cm、73 万 5000 円。
からこそ出る味わいのゆえでしょうか」
アンティークのシルバーのカトラリーなど。Uyeda Jeweller
む ら せ
同 右 下・ 欅で 作った 花 入 れ。 銀 彩を混 ぜ た 漆を塗っている。 村 瀬
じ
へ
い
治兵衛、直径 13cm ×高さ 27cm、31 万 5000 円。
上の写真は、長野県安曇野市にある築 130 年以上の民家
内の客間だ。この家には、明治初期から矢野口家が代々住
んできた。再生した家の 80%の材は、同じ材を再利用して
しばた
このページ・秋田杉をお湯に入れ、曲げて形を作る曲げわっぱ。柴 田
よしのぶ
いる。家を解体し、材の汚れを洗い落としてから再度利用
慶信さんが作った5段のお弁当箱(竹の子弁当箱)は、山桜の皮で繋
する。
ぎ合わせている。使い終わったら、一番大きい器の中に他の4つの器
「今の新築の住宅は、便利で明るい。使いやすくて機能的
が 全て収まるようになっている。(一 番 大きい 器 の サイズ は、 直 径
な家。でも、人の心が満足感を得るのは、機能面の良さだ
14.5cm ×高さ 8cm、セットで 4 万 7250 円)
塗装していない白木の器は、お米の水分を程よく吸収し、冷めてもお
いしく保つ。杉の殺菌効果で、ご飯が傷みにくい。
p.036
けではありません。機能は体のための便利さであり、心を
満足させるとは限らないのです」
(p.037)
百年のときを刻み続ける家
左・樹齢 1000 年を超える屋久杉が織り成す、美しい模様の5段のお重。
今、朽ちかけた伝統的な木造建築を、現代人が快適に過ご
村瀬治兵衛作、長さ 17cm ×幅 17cm ×高さ 25cm
むらせ じ
へ
い
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右・煤や埃、汚れを洗い流した梁は、他の古材の色に合うよう丁寧に
る。たとえば、漆が採取できる時期は6月から9月末だが、
染色され、再度組まれる。「古材は人にたとえれば、人生の苦労を知り
6月に採れる漆と9月に採れる漆では、同じ漆の木から採
尽くした老人で、味わいがあり、逞しさをもっている」と降幡さんは言う。
「民家を再生することは、その家自体を蘇生するのではなく、その街の
誇りと活気を取り戻すことになるのです」。降幡さんは、その土地に昔か
れる漆でも含水量や色が異なる。扱う材の種類によって、
複数の異なる質の漆を独自の感覚でブレンドし、木目を最
大限に浮き立たせる。
らあった伝統的な建築物を次々と再生することで、「文化の香る町造り」
を長野や九州で進めている。地元の松本でも、かつての城下町として栄
(p.038)
えた蔵のある町を復活させようと、中町通りにある朽ちかけた蔵を次々
佐竹さんは、何百年もかけて自然が作った希少な材も使う。上の干菓
に再生してきた。写真は、「蔵シック館」という名の約 120 年前に建て
子器は、欅に針のように細かい空洞ができた「針杢」を使っている(直
られた酒蔵だ。立派な梁のある土間では、現在は公共の場として展示
径 25.5cm、8 万 4000 円)。右頁は、まめ皿 10 点セットで、その中の
会や音楽会などが開かれている。
ひとつの皿は神代欅でできている。800 年以上土に埋まっていた貴重な
材だ。ケースはみずめの木で、全部で 11 種類の木を使っている(まめ
中町・蔵シック館
皿各直径 7.5cm、セットで 10 万 5000 円)。下は、楓の干菓子盆(直
〒 390-0811
径 21.5cm、6 万 3000 円)。
長野県松本市中央 2-9-15
(p.039 )
Tel. 0263-36-3053
栃、縞黒檀、樫、、欅、楓、黒柿、柿、神代欅、桑
木目に魅せられて―注目の 8 人の作家たち
p.041
ありおかしょういん
有 岡成 員
こえまつ
p.038
同じ松でも肥松は特殊な材だ。樹齢 100 年超の松は枝が重
木の色や質感、木目の美しさを最大限に引き出す達人たち。
みで下を向き、松の幹が脂で膨れ上がってくる。その脂の
独自の感性と技で、木に新たな命を吹き込んでいる。暮らし
溜まった部分を肥松という。肥松を挽いて作ったお盆やサラ
の道具として生まれ変わった木は、私たちが長年手入れをし
ダボウルを光に透かすと、中に溜まった脂が流れる真っ赤
ながら大切に使えば、その美しさをさらに増していく。
な血のように怪しく浮かび上がる。
りょうえき
香川県高松の伝統工芸士・有岡良益さんは、肥松の挽き
さ た け やすひろ
佐竹康宏
物師として伝統の枠におさまらないモダンな作品数々工房か
木地師の佐竹さんは、何十年もの間木の仕事をしてきたが、
ら世に送り出し、日本のクラフト界を牽引する存在だったが、
ますます木の虜になっていると話す。「木をロクロで挽くこと
残念ながら昨年他界された。今は息子の成員さんが後を継
は、木の中から美人の女性を見付けるような作業です」。木
ぎ、茶托などの新作デザインを加えながら意欲的に製作を
をこよなく愛する佐竹さんが生み出す作品は、宝石かと思わ
続けている。「材の取れる木がもうほとんどないので、今手
せるほどの輝きを放っている。常に、20 種類以上の樹齢
持ちの材を使いきったらおそらく肥松の作品は最後になるで
100 年を越す木を扱っており、それぞれの木が持つ最も美
しょう」
しい「木の顔」を引き出すのだと話す。
肥松は作品になった後も脂が自然に滲み出てくるので、
木目の美しさと華やかさを引き出す秘訣は、その塗料で
使いながら磨き上げていると、脂が一種の皮膜を作り独特
ある漆にもある。それぞれの木に最適な漆を自分で調合す
の光沢を放ち出す。洗った後もサラダ油で磨けばよい。長
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い歳月を超えてきた松の生き様を映す木目は、使い込むほ
どに際立ち、それはますます手放せないものとなる。
p.043
たかはしひでとし
高橋秀寿
北海道の旭川で活躍する木工作家。地元の栓をロクロで紙
(p.040)
丸盆/肥松、直径 30cm ×高さ 3cm、10 万 5000 円。自然光に照らすと、
松の油がたまった部分が透けてみえる。松の自然の油があるので、使い
込めばさらに味わいが出てくる。そばに置くだけでさわやかな松の香り
が漂う。
のように薄く挽いたコップのシリーズ、「Kami Glass」で注目
を集めている。「栓の白い木肌と、細かくまっすぐな木目を
活かしたかったので、形はできるだけシンプルにしています」
と話す。手にとると、木とは思えないほど軽く繊細だ。光に
照らすと、紙のように透ける。コップの薄さは3ミリ弱。木
(p.041)
の器として必要な強度を持つための限界の厚さだ。
材は、全て肥松。左から、盛鉢:肥松、直径 21cm ×高さ 8cm、6 万
木の薄さの限界に挑戦してみようと思ったきっかけは、
「木
3000 円。ジュエリーケース:肥松、直径 5.5cm ×高さ 6cm、1 万 500 円。
村硝子」の「コンパクト」というシリーズのガラスのコップ
茶筒/肥松、直径 7cm ×高さ 11cm、8 万 4000 円
上の写真は、肥松の木目。年月が経つにつれ、松はコブを作ったり、
幹が曲がり、複雑な木目を作る。
との出合いだ。厚さ 0.9 ミリと究極に薄く、軽く、口当たり
が良いと評判が高い。これを地元の栓の木で作ってみようと
考えた。まずは、コップのように深さのあるものを薄く挽く
ために、1年間かけて独自の道具作りから始めた。「試行錯
(p.042)
A. 抹茶椀(露木清高)/パドック、マホガニー、桂神代、水木、直径
15cm ×高さ 7cm、2 万 9400 円。 B. えびす弁当(時松辰夫)/檜、長さ 17cm ×幅 11cm ×高さ 5.5cm、
6 万 9000 円
C. コップ(清水康孝)/杉、直径 8cm ×高さ 7cm、3150 円
D. 大皿(露木清高)/ウォールナット・桂神代・水木、直径 26cm ×
高さ 5cm、6 万 3000 円。 誤の結果、1 ミリの薄さまでに挽くことに成功しましたが、
そのコップは強度が足りなく簡単につぶれてしまいました」
。
最終的に、ガラスと同じくらい薄く機能性のある木のコップ
は不可能であることが分かった。でも、木の器として機能性
を持つ極限の薄さに挽くことに成功した。なにより、高橋さ
んの「Kami Glass」には、ガラスのコップにはない、独特
の温かみがある。
E. 鉢(有岡成員)/肥松、直径 15cm × 6cm、9975 円
F. バターナイフ(川端健夫)/、長さ 15cm、1470 円
(p.043)
G. カレースプーン(川端健夫)/チェリー、長さ 19cm、2940 円
Kami Glass / 材 は 全 て 栓、 奥 から 順 に、 直 径 8.5cm × 高 さ 8cm、
H. パスタフォーク(川端健夫)/チェリー、長さ 21cm、3570 円
3675 円。 直 径 7.5cm × 高 さ 5.5cm、2520 円。 直 径 7cm × 高 さ
I. トースト皿(川端健夫)/のオイル仕上、長さ 23cm ×幅 16cm
12cm、2835 円。直径 6cm ×高さ 10.5cm、2625 円。
×高さ 2cm、6300 円。
J. 皿(川 端 健 夫) / の 柿 渋 仕 上、 長さ 23cm × 幅 16cm × 高さ
2cm、6930 円
K. 箸置(小泉誠)/檜、ねずこ、長さ 5.4cm × 1.3cm ×高さ 1.3cm、
5 点セットで 4725 円
L. シャレー(高橋秀寿)/栓、直径 10cm ×高さ 1.5cm 大中小がセッ
トで 3940 円。
M.木の葉皿(時松辰夫)/杉、直径 21cm ×高さ 2cm, 3694 円
かわばた た け お
川端健夫
川端さんは、築 80 年の木造校舎を自らの手で改装し、夫婦
で木工の工房、ギャラリー、カフェを営んでいる。「2003 年
秋に引っ越してきた時は、土壁も崩れていて、まるでお化
け屋敷のようでした」。でも、以前小学校だった木造校舎の
広さと、開放的な雰囲気に魅せられ、地元の人の手を借り
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ながら半年かけて改築した。そんな手作り暮らしを楽しむ川
輪や金輪を排除すること。昔は、何枚もの木を繋ぎ合わせ
端さんは、自分や家族、仲間が毎日使って心地よい器を作
るために、竹や金物の輪で締めていたが、清水さんは水に
りたいと話す。木工を始めた当初は、造形的なものを作っ
強い接着剤を使うことを考えた。現代の住宅は、機密性が
ていたが、自分の子供が生まれた時から、小さな生活道具
高く冷房や暖房を使うため、木が伸縮して、輪がはずれてし
を手がけるようになった。「子供が産まれたばかりの時、助
まうことが多いからだ。接着剤を使うことで、独自の新しい
産師さんがシロップを飲ませるために、赤ちゃんの口に入り
形が次々と作れるようになった。強度が必要な部分のみ木
やすいスプーンを作ってはどうかと提案してくれたのです。
を厚くし、それ以外の部分は薄くすることで、軽くてすっきり
生まれてすぐの赤ちゃんの口はどのくらいなんだろうか、持
した形ができるようになった。機能性もフォルムも現代生活
ちやすい形や大きさはどのくらいなのだろうかと、使う側の
にあった道具が誕生した。
身になって一生懸命考えた時、今までオブジェを作っていた
時には感じられなかった、じわーっと温かく穏やかな気持ち
がしてきました」
。その気持ちこそが、川端さんが今も作り
続けている創作の原点だ。日々の暮らしを大切にするため
の、温かみのある、使いやすさを追求した生活道具を作り
(p.044)
材は全て杉。
上・コップ、直径 8cm ×高さ 7cm、3150 円
中央・水差し、直径 11cm ×高さ 12cm、2 万 9400 円
盛皿/直径 20cm ×高さ 14cm ×高さ 6.5cm、2 万 9400 円
続けている。
(p.043)
ティータイムプレート/くるみ、長さ 28.5cm ×幅 22cm ×高さ 2.2cm、
8820 円
p.045
ときまつ た つ お
時松辰夫
「地球上の全ての生命が、植物の作り出した炭水化物と酸素
スープスプーン/チェリー、長さ 18cm、3150 円
川端さんは、漆や蜜蝋、えごま油、柿渋など自然素材の塗料のみ使う。
を利用して生きています。だから、人間は植物に逆らっては
生きていけません」
。常に樹木への畏敬の念を忘れないと語
る時松さん。材料として使っているのは、果樹園や一般家
p.044
庭でせん定された枝、台風による倒木、建材を切り出した
清水康孝
後に残った端材など。長さや太さがそろわなかったり、曲がっ
清水さんの家は、秋田県で代々農業を営んでいる。伝統的
ていたり、使いづらいものが多いけれど、どんな木でも器に
な木造建築で、杉がふんだんに使われている家に住んでい
できない木はないと話す。樹齢 100 年の銘木でも、樹齢
る。地元の桶や樽を作る後継者が急減していることを知り、
10 年でも、樹齢 1 年でもアイディアと技術次第で、生活用
20 代後半で木工の仕事を始める。最初は、栗やヒバやブナ
具に役立てることができるという。
など様々な材を使ってみたが、最終的には杉のみを使うこと
例えば、42 ページにある「木の葉皿」。これは、杉の間
にした。「やっぱり、幼い頃から自分の身近にあった杉が一
伐材を活用している。杉を育てるには、苗木が小さい時は
番しっくりきました。杉のまっすぐな木目に日本らしさを感じ
植える間隔を狭くするが、約 15 年後に直径 15 センチまで
ます」
。杉は通常建築材として使われることが多く、清水さ
に成長すると太陽の光が木の根に当たらなくなる。そこで、
んは、建物を建築した際に余る端材を利用している。夏は
木の間引きをする。間引きされた木は、山で捨てられること
畑で米を作り、冬は家で器や桶などを作っている。
が多いが、時松さんはそれを3センチの角材に製材して貼
清水さんが着目したのは、従来樽や桶に使われてきた竹
り合わせて 1 枚の板を作り、木の葉型の皿に仕上げる。葉
し み ず やすたか
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空間までをデザインする、デザイナーだ。小泉さんが今情
脈のような美しい模様が生まれうのだ。
熱を注いでいるのが、デザインの力で衰退しつつある全国
(p.045)
各地の木工産地を元気付けること。職人さんが持つ優れた
ファミリー弁当箱、材は全て松。松の白い肌とまっすぐな木目を利用し
た弁当箱。使う松の太さによって、大きい弁当箱から小さい弁当箱まで、
様々なサイズを作っている。
この写真の中で一番大きいもの、長さ 25.5cm ×幅 10cm ×高さ 5cm、
7392 円。一番小さいもの、長さ 16cm ×幅 8cm ×高さ 5cm、3811 円
技を取り入れた、現代の生活に合った道具をデザインして
いる。
そのひとつが、伊勢神宮式年遷宮のご神木の里としても
名が知られている岐阜県中津川市の付知で立ち上げた木の
ブランド「asahineko」だ。小泉さんは、建具の職人さんの
つ ゆ き きよたか
p.046
露木清高
上の写真のぐい飲みは、露木さんが数種類の木を寄せて
作ったもの。カラフルな模様は、全て木の自然の色を活か
して作っている。例えば、白は水木、黄色は苦木、漆の木、
緑色は朴の木だ。黒に近い濃い色は、数百年間土に埋まっ
ていた桂神代。最近は、アフリカで採れるハドゥクという赤
い木も使っている。露木さんは、常に約 15 種類の木を工房
に揃えている。同じ種類の木でも産地により色の濃淡が異
なることもあり、それも器のデザインに活かしているのだ。
この木工芸品は、江戸時代末期から箱根で始まったもので
「箱根寄木細工」というもの。露木さんは、この細工を作る
家の4代目。一般的に、寄木細工は緻密でカラフルな模様
高度な技術を活かした、モダンなデザインの木の器や家具
のシリーズをデザインしている。使う材は、付知の地元で育
つ5つの種類の針葉樹の、翌檜、 椹、檜、鼠子、高野槙だ。
「今はあまり建てられなくなった日本家屋の建具に使われて
いた材を使って、現代の人が使いやすい暮らしの道具を作
るのです。デザインするのは私ですが、実際に製作するのは、
昔建具を専門にしていた地元の大工さんたちです。素晴ら
しい技術を持っている彼らの力を何とか活かしたいのです」
。
右の写真のスパイス入れと、P.42 にある箸置は、檜と鼠
子を組み合わせたもの。建築で用いられた、木を継ぐディ
テールを樹種の違いで表現した。
(p.047)
下・小泉さんが考案した、わずか 8 ミリの世界一薄いまな板、
「土佐板」
。
が多いが、露木さんは独自の感性で、シンプルなラインを
高知県の木工職人さんの技により、地元の良質な檜を薄く、軽く、強く、
用いたデザインで、茶や黒などの濃い色を主に使い、その
まな板に仕上げることが可能になった。この薄さと強度の秘訣は、檜の
中に白や赤などの明るい色をアクセントとして入れている。
板の間に桜の木をかませていること。(Mサイズ/長さ 34.5cm ×幅
21cm ×厚さ 0.8cm、5500 円。その他Lサイズ、Sサイズもあり、そ
れぞれ 6500 円、4500 円)
(p.046)
上・茶杓:ウォールナット、 マホガニー、 漆、 桂神代、 苦木、 長さ
18cm、26,250 円
上・スパイス入れ、鼠子と檜、幅 7.4cm(2 点を組み合わせた場合)×
4.2cm × 高さ 8.4cm、2940 円
左・ぐい飲み:ウォールナット・パドック・マホガニー・バッケラ・モビ
ンギ・桂神代・水木・朴、直径 7cm ×高さ 7cm、5,250 ~ 10,710 円
右・箱:桂神代・水木、長さ 23cm ×幅 13.3cm ×高さ 5.3cm、6090 円
朽ちゆく色と形
―木工作家・羽生野亜が木に刻む時間の美
こいずみ まこと
p.047
p.048
小泉 誠
木工作品の魅力の一つは時を重ねた木の年輪が描く模様に
小泉さんは、木工家ではない。小さな生活道具から建築や
ある。しかし木工家・羽生野亜さんの作品は、
その逆のようだ。
の
あ
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作品から香ってくるのは、木が朽ちて年輪が薄れていく逆の
ているわけではない。よく見ればわかりますが、自然に木が
時間だ。
朽ちたらこのような形にはなりません。だからといって、こ
ういう形にしたいと初めから考えて作っているわけでもな
作り手を消したモノ作り
い。作り手としての自分の気配を作品から消すようにした
かったのです」
誰もが学校で習った植物の光合成の話を思い出してみたい。
羽生さんは元工業デザイナーだった。会社勤めで、電車
木は昼間、太陽エネルギーを主に葉っぱで受け、それを
の車両のデザインなどをしていたという。しかし、やがて人
化学エネルギーに変換し、そのエネルギーで水と CO2 から
が手を加えた跡の残るモノ作りや、デザインするという考え
炭水化物を合成する。この光合成により空気中の CO2 は幹
そのものに違和感を覚え始める。そして仕事を辞めて木曽
として固定される。
にある職業訓練校で木工を習い、基本だけ学んだ後、自分
ここでその木を伐って燃やしたり朽ちさせたりすれば CO2
の工房を立ち上げる。
は再び放出されてしまうが、伐った木を家具にしたとしよう。
「たとえば、完成したばかりの仏像より古い仏像が好きなの
家具を使い続ける限りは CO2 はそのまま。よくできた木の
はなぜか。時を経て仏像が古色を帯び、作り手の気配が薄
家具なら 100 年、200 年は軽くもってしまう。木の家具を使
れているからです。作り手の力よりも時間の力のほうに魅力
えば、わずかながら地球温暖化防止に貢献することになる
を感じた」
わけだ。
デザインに逃げ、デザインをして作るのは簡単、ゆえに
とはいえ、木のモノはいつかは朽ちる。しかし木は再生
デザインをしないと決め、研究の末、木工の道具を「通常
産が可能な資源だ。家具が朽ちても、苗を植えれば同じ木
の使い方と異なる、ありえないやり方」で使って木を朽ちた
が育ち、同じ家具になる。また「振り出しに戻る」ことがで
形に加工する技を開発する。それに古色(木の煤けた風合
きる。エコロジカルな視点で見た時の「木のある暮らし」と
い)を草木染めの染料で出すという自分流のスタイルに至
は、森を育てて木のモノを使うという、持続可能な暮らしに
る。
一歩近づくこと。生と死が繰り返される一つの「輪」を作る
たぶん山の中で自然の木ばかりを見ていたらこうはなら
ことといってもいいかもしれない。
ず、工業デザインをやってきたからこそだろう、と羽生さん
森の中に生きている木と、朽ちて大地に帰った木が、木
は振り返る。
の姿の両極だとすれば、家具はその両方の間にある木の姿
今はまたそのスタイルに区切りをつけ、あえて古色スタイ
で、木工家というのは木に一時的な形を与える存在にすぎ
ルと現代デザインをミックスしたものを試みている。形はそ
ない。木工家の羽生野亜さんはそう考えている。
れまでと正反対にシンプルすぎるかと思わせるほどシンプ
「木の作品は残らない。残るのは技術だけです。むしろ自
ル。無垢の板材が色淡く古びた味わいを漂わせ、直線的な
分の作品が残ることのほうが本当は怖い」という羽生さんの
ラインのデザインにもかかわらず温かい印象を与える。ス
作品は、作って間もないというのに、既に大地に向かって帰
チールの脚は既にびついている。
ろうとしているかのようだ。あたかも倒れてそのままそこで
もちろん木の部分に関していえば、その色は本当に古び
朽ちていく木のように、あるいは製材されてから、ただ野に
てついた色ではない。羽生作品はいずれも、古びたように
放置されてきた板のように、古びた気配が作品全体を覆っ
見せながら、そこから色落ちしない加工がしっかりと施して
ている。
ある新しい作品だ。しかし、その古さが人の手による演出だ
「自然から形のヒントは得ますが、自然に朽ちた木を模倣し
と知っても、そこから漂う気配に人は静かなるものを感じ、
Spring / Summer 2011 Vol. 27[ 木 ]
15
心惹かれる。
古びていくもの、朽ちてゆくもの、消えてゆくものに美を
感じるのは、限られた人の一生の時間とおそらく無関係では
空に届け、木造都市
—第 4 の構造材料、エンジニアードウッド
1 取材・文=塚田恭子
p.054
ない。羽生作品に宿る美は、家具という形をした、過ぎ去っ
てしまった愛おしい時間そのものに違いない。
日本の木造建築といったとき、神社仏閣に代表される伝統
木造建築を連想する人は、決して少なくないだろう。世界
(p.048)
ブナ材の木の皿。時を経たような木の質感と色は羽生野亜さんの手によ
るもの。12cm x 23cm 8,400 円、9cm x 18cm、6825 円
最古の木造建築として知られる飛鳥の法隆寺、平安京の大
極殿、東寺の五重塔……。石やレンガなどと比べ、耐久性
があるとはいい難い木材を使った建物が、数百年、千年単
位で永らえているという事実には、人を惹きつけて止まない
(p.049)
スチールと木を組み合わせた飾り台。床の上に置いてもテーブルの上に
置いても映える。材はブナ。27cm x 27cm 、4 万 2000 円
(p.050)
何かがある。
だが、伝統木造建築だけが、木造建築というわけではな
い。これまで木という素材は生物材料であるがゆえの性能
のばらつきが弱点とされてきたが、欠点を少なくする木質材
左・羽生野亜さん。茨城県にある自分で建てた工房の前で。
料が開発され、構造工学の研究が進む昨今、その性能を工
右上・やや大きめの木の皿。低い脚が付いている。45cm x 31cm 3 万
学的に評価された木=エンジニアードウッドは、従来の木
8850 円
材、鉄、コンクリートに次ぐ第 4 の構造材料として、注目を
下・右ページのテーブルの天板の部分。テーブルが必ずしも平らとはか
集めている。
ぎらない。木の節を盛り上げるように削り出している。
(p.051)
樹齢 150 年のブナの一枚板のテーブル。表面の起伏も、輪郭も削り出
都市における高層木造建築が、すでに現実的な段階に
入っていることを示したのが、木を新たな材料ととらえ、木
質 構 造 建 築 の 可 能 性 を 探る建 築 家・ 技 術 者 集 団 team
してつけたもの。厚み 6cm の板を 3cm までに削っている。見た目より
Timberize が 2010 年 5 月に東京の青山スパイラルホールで
軽く、人二人でらくらく運べる。ログウッドの草木染め、胡粉、化学染料。
開催した「ティンバライズ建築展 -都市木造のフロンティ
204cm x 75cm x 8cm、35 万 7000 円。漆加工のクッション 1 万 1560
ア」だ。
円、1 万 5750 円/ STYLE MEETS PEOPLE
表参道を舞台に提案された都市の仮想木造プロジェクト
(p.052)
椅子の材は、高さ 68cm x 幅 46cm x 奥行き 40cm、10 万 5000 円。
背景のサークルは内側がベンチになっていて、これも羽生さんの作品。
は、鉄筋コンクリート造の建物が建ち並ぶ都市のメインスト
リートに、30 メートル級の木造建築が点在することによって、
街の表情や雰囲気が大きく変わることを示唆している。
team Timberize の統括者で、伝統木造建築とは異なる材
(p.053)
上・木の古びた色彩、スチールの色がこのフォルムとあいまってモダ
ンリビングに映える。P48 のバックの板がこのテーブル。テーブルがブ
ナ材で幅 76cm x 76cm x 高さ 70cm、13 万 6500 円。
下・高さが異なる飾り台のセット。天板と脚は簡単に付けはずしができ、
や技術を応用した、高層木造建築の可能性と実現性を提案
している東京大学生産技術研究所の腰原幹雄准教授は、日
本の木造建築の歴史について、次のように話す。
「明治以降、西洋から近代建築の技術が導入されると、構
写真左のように重ねて収納できる。天板はブナ材で直径 50cm 積み重
造力学に基づいて設計された近代木造と呼ばれる 4 ~ 5 階
ねたときの高さ 80cm、21 万円。
建ての倉庫や工場など、伝統木造ではない木造建築がつく
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られるようになりました。鉄などの入手が難しくなった戦時
「LATTICE」
。木造建築の魅力を引き出すために、構造木材
中は、格納庫などの大型建物も木造で建てられるようになり
が内装材として利用されている「30」
。
ます。ところが戦後、1950 年に制定された建築基準法によっ
木造技術の特性を生かした個性的なデザインが目を引く
て、棟高 13 メートル、延べ面積 3000㎡を超える木造建築
これらのプロジェクトは、すでに構造的に建築可能であると
を建てることが法律で禁止されます。木造建築は火事に弱
いう。
いというのがその理由です。この建築制限は、87 年に大断
都市の街並みを豊かにするためにも、鉄筋コンクリート
面木造建築の高さ制限が緩和され、耐火性能を満たすこと
造や鉄骨造と同じように、高層木造建築が計画時の選択肢
ができれば、階数の制限もなくなるという 2000 年の建築基
になることが当面の目標だと話す腰原准教授。
準法改正まで続きました」
建物に木を使えば、二酸化炭素が長く固定されるし、大
紆余曲折はあったものの、2000 年の建築基準法改正に
きなブロックとして使った集成材は分割して小さな構造材
よって、いよいよ現実味を帯びてきた都市の高層木造建築。
へ、そして最終的にはバイオマスとして再利用することもで
この流れを支えるのが、鉄筋コンクリート造や鉄骨造の建物
きる。都市の景観という面から、そして環境面から見ても、
と同様に、構造解析や構造設計が可能なエンジニアードウッ
高層木造建築は、21 世紀にふさわしい建物といえるだろう。
ドの存在である。
「集成材、単板積層材(LVL)をはじめとしたエンジニアー
ドウッドは再構成材料であるため、大きな断面の木材をつく
(p.055)
ることができます。樹齢数十~百年という木がなくても、大
左ページ下・現代の曲げ木技術を応用した二重螺旋構造「Helix」。大
きな断面を取ることができる上、好きな形に曲げられるので、
鉄骨や鉄筋コンクリート同様に扱うことも可能です。また、
根の皮むきの要領で削り出し、重ね合わせた板を、内側と外側で逆向き
に螺旋状に成形している。
性能のばらつきが少なく、木材の特性が明らかなので、適
左上・単板積層材大型ブロックの組積と掘削による木塊が圧倒的なイン
材適所で使用しやすいこともエンジニアードウッドのメリット
パクトを与える「solid」。
でしょう」
右上・立体的に組まれたランダム格子構造を中心とした空間「LATTICE」
。
加えて耐震および耐火技術の向上も、高層木造建築の実
現を後押ししている。
「高層木造建築の建設に積極的な欧米諸国は、世界最大の
実大三次元震動破壊実験施設(E- ディフェンス)で 7 階建
下・高さ 30 メートル級の高層木造建築のスタンダードとなるように設計
した燃えしろ被覆型耐火構造部材による木造ラーメン「30」。
(p.056)
上・部材の端が重なるように積み上げた面格子状の壁「透かし積層壁」
。
て木造建築の実験をしていますが、すでに構造性能は保証
下・五角形グリッドに展開する小断面重ね透かし梁ユニット「Petal」。
されています。また、耐火性についても、①燃えることを前
柱に巻きついているような梁が、花びらのしなやかさを表現している。
提とした木材(=燃えしろ)で燃えどまる層を覆う、②木材
のなかに鉄骨を内蔵する、③木材をせっこうボードでなどの
耐火被覆で覆う、といった方法が開発されています」
現代の曲げ木技術を応用した、二重螺旋構造の円筒形建
物「Helix」
。2 メートル立方という大きな木塊を積み上げ、
(p.057)
左・手で持てるほどの小さな木材ユニットを積層し、構造柱から、棚、
間仕切り、装飾まで区別なく一体的に組み立てる「digital woods」
。
右・間伐で生じた無垢材をトラスとし、環境負荷の低減するためにヒノ
キ材を構造に用いた「Waving tree」。
削り出すことによって造り出される大型ブロック建築「Solid」
。
立体的に組まれたランダムな格子構造が樹木のように見える
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重要な作業のために、1 人だけ、地元の大工さんに依頼
民家だけれど民家じゃない
1 —古い民家がモダンなアートスペースに
をしたというが、改修作業の多くは貫場さんと小泉さん、そ
取材・文=塚田恭子
して地元の学生たちが手掛けたそうで、「自分たちで作業で
p.058
雄大な立山連峰を望む、水と緑に恵まれた富山市大山地区。
きたのは、木や土や紙という人間が生身で関わることのでき
る素材を使ったからでしょうね」と、小泉さんがいうように、
地域の 93%を森林が占めるこの「緑のまち」では、土地の
人との距離が近いということも、木という素材の大きな特徴
財産である木という自然素材を生活のさまざまなシーンに生
といえるだろう。
かそうと、地域ぐるみで「木と出会えるまちづくり」が進め
目の前にある建物に、歳月を生き抜くなかで継承された
られている。この取り組みにプロデューサーとして関わり、
ものを見出し、その大切な何かを生かすために、土地にあ
アートによる町づくりを実践してきた貫場幸英さんが主宰し
る素材を利用する。温故知新によって再生された VEGA は、
ているのが、デザインと暮らしの融合というテーマをかたち
施主にしてプロデューサーである貫場さんの思い通り、人の
にしたアートスペース「VEGA」だ。
想像力と創造力を刺激し、コミュニケーションを育むプラッ
築 70 年余りの木造の納屋や家屋に流れる、長い歳月を
トフォームとして機能している。
生き抜いてきた建物ならではの濃密な気配を生かしながら、
デザインやアートの力によって、古い家屋を現代の用の美
を叶えた空間へと再生する――そんな前例のない場づくり
(p.058)
に、貫場さんとともに挑戦したのが、家具デザイナーの小
左・母屋を改修した「陽の間」の床板。既存の板を一度はがし、補強
泉誠さんである。10 年来、
「木と出会えるまちづくり」に関わっ
を施してから再 利 用している。 ベ ニヤのイラストは、LIVING ART in
てきたふたりが、VEGA を改修するに当たってこだわったの
は、既存の材をできるだけ再利用し、この土地にある素材
OHYAMA2005 のイベントに参加した黒田征太郎氏によるもの。
右ページ左上・外観。開けた窓から梁がのぞく。
を使うということだった。
同右上・1 階の中から見た入口。波ガラスが昭和の趣を呈している。階
「今の人は新しいものにばかり目を向けるけれど、自分の
段を上がると「陽の間」へと続く。
足元にも美しいものはたくさんあります。戦前に建てられ、
同中央・2010 年に改修された「陽の間」。中央にあるのは、小泉誠展「匣
3 世代にわたって生き抜いてきた家を再生しようと思ったの
& 函」で展示された作品。
は、建物に息づいているこの土地の記憶や魂を伝えたかっ
たからです」(貫場)
既存のものをどう生かすか。毎回、何かを発見しては、
現場で設計図を描き続けたという小泉さんは、「新たにもの
同左下・窓に映る白い不思議なものは、障子紙の代わりに使ったTシャ
ツ。LIVING ART in OHYAMA2009 で使ったものを再利用している。丸く
空いているのは首の部分で、ここから外を見ることができる。
同右下・考えごとをする、瞑想する、ぼーっとする。限られた空間から
無限の世界が広がる。
をつくる場合も既存のものに手を入れる場合も、持続的な
ものをつくりたいという気持ちは変わりません。持続的なも
のとは、物理的にタフで、機能的であり、美しく、使う人に
愛着を持ってもらえるもの。VEGA を再生するに当たっても、
その土地にある木や土や光という本物を使いながら、この
場でしかできないことを積み重ねていこうと思いました」と
話す。
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J apanese tex t
2011年 春/夏号 日本語編
山桜
詠んでから千年の時が経つ。そののち、世阿弥が謡曲「桜川」
桜川
の題材とし、その舞台となった神社が、ここ茨城県・桜川市
春爛漫の桜源郷へ
にある。
ヤマトタケルノミコト
p.060
櫻川磯部稲村神社は 111 年、日本武尊、伊勢神宮の荒
山桜の名所として「西の吉野、東の桜川」と謳われ、古くは
祭宮である礒宮をこの地で祀ったのがはじまりと伝えられ
平安時代の歌人・紀貫之が歌に詠んだ茨城県・桜川。奈良
る。 天 照 皇 大 神 や 日 本 武 尊、 桜 の 花 をご 神 木とす る
の吉野の桜と並び称されるほど、遠く京の都にまでその名が
木花佐久耶姫命はじめ、併せて 12 もの御祭神を祀っている
知れ渡っていたが、そのかつての栄華は長らく忘れられつつ
由緒ある神社だ。常陸一の宮である鹿島神宮とともに、陰
あった。今、千年の時を越え、幻の桜源郷の風景が甦ろうと
陽道で、東北の鬼門に対して神門と呼ばれ神聖とされた、
している。知る人ぞ知る、桜の里山のとっておきの春へ、よ
西北の方角を守るこのお社。「かつてこの常陸国(茨城県)
うこそ。
より先は、蝦夷地(東北以北)への開拓の入り口だったので、
アマテラススメオオカミ
コノハナサクヤビメノミコト
未開の地との境を守り、また旅立ちの無事を祈る場でもあっ
撮影=佐藤竜一郎 文=編集部
たのでしょう。この辺りは盆地なので、山越えの拠点として
取材協力=公益財団法人 日本花の会、桜川日本花の会、桜川市商工会、
も栄えていたんですね」と語ってくれたのは、40 代目宮司
「サクラサク里プロジェクト」
りょう
の磯部亮さん。
磯部稲村神社の宮司は代々、境内と周辺に咲く桜を管理
(p.061)
すけちか
左ページ・早朝の磯部磯部桜川公園に佇む、桜の守人・櫻川磯部稲村
りょう
してきた。とりわけ、先代の磯部祐 親さんは植物学に興味
神社の磯部亮宮司。
を持ち、 山桜の育樹に熱心だったという。 実生から苗を
上・桜川の天然記念物の桜、「大和桜」。
一万本近く育て、磯部桜川公園をはじめ地域の小中学校に
寄進した、桜の守り人ともいうべき存在だった。
(p.062)
山桜が群生する山に抱かれた、里のうららかな春。初夏にかけて育つ
大麦、小麦やタバコ畑に寄り添うようにそびえる高峯は、桜川の見所の
ひとつ。
もっとも、磯部亮さんが平成元年に現宮司を継いだ当時
は、守り人としての自分の存在はあまり意識していなかった
という。「参拝に来てくださる方たちに、境内を案内して桜
に親しんでもらうことを、ずっと日常として続けてきただけ
ですね」
1
守り継ぐ―磯部百色桜と 40 代目の桜守
p.064
桜の神社と呼ぶにもふさわしいこの神社の境内では、樹
齢 150 年近いとされるものも含めおよそ 25 本の桜が見られ
る。白い花が日を追うごとに鮮やかなピンクに染まっていく、
その桜の里は、静けさに包まれていた。
ここでしか見ることのできない「磯部桜」や、樹齢 100 年
心浮き立つ花の頃ともなれば、想像していたのは桜の下に
の立派な「糸桜」が参拝客の目を楽しませる。鳥居をくぐる
賑やかに人々が集う様子だが、ここでは何かが違う。ひそ
とすぐ、白く華やかな花がひときわ目を引く「大和桜」は、
やかに仕舞い込まれたような、そんな穏やかな空気に満ち
幹の力強いうねりが生命力を感じさせる。「実はこの大和桜
た春の里だ。
をはじめ、桜川にしかない天然記念物の桜というのがある
「常よりも 春辺になれば桜河 波の花こそ間なく寄すら
んです」と磯部さん。
め」と、この地に思いを馳せた平安時代の歌人、紀貫之が
平安時代、遥か京の都にまでその名が知れ渡っていた桜
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やまとざくら
Spring / Summer 2011 Vol. 27[ 山桜 ]
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川。大正 13 年には「名勝桜川」として国の指定を受け、昭和
が、この文献でようやく特定できたという。
30 年頃頃までは山桜の花見の名所として一躍脚光を浴びて
その本は、三好學博士の『櫻花図譜』。桜の調査に傾け
いた。しかし、花見客の素行の悪化や、園芸種の一種であ
た博士の情熱、11 種の特別な存在に改めて触れた磯部さ
るソメイヨシノへの人気の移行によって次第に衰退していき、
んは、境内の桜はもちろん、「桜川の桜」を大切に守ってい
「このままでは桜川の桜は終わりだ」
と絶望の声までが上がっ
み よ しまなぶ
きたいと、決意を新たにする。
ていたという。そして今、磯部宮司を中心とした地元の人た
帝国大学(現東京大学)の理学博士、三好學博士が、桜
ちの活動により、桜川の桜が再び注目されはじめている。
川の桜の調査に訪れたのは明治 45 年のこと。三好博士は、
天然記念物事業に取り組み、「景観」という言葉を普及させ
た人物だ。調査の結果、学術的にも貴重で、形や香りに特
(左から時計回りに)
に特徴のある 11 種を三好博士が命名して記録。大正 10 年
市内を流れる桜川の源流である「鏡池」は、神話では日本武尊がその
姿を映したことから名がついたとされる。その様子を彷彿させるように、
花の頃には岸辺に咲く桜が水面に映る。
に『櫻花図譜』、そして別冊の解説本『櫻花概説』が発行
された。桜の図譜は、江戸時代、桜の園芸品種の栽培が盛
んになった頃から数多く存在するが、唯一桜川の桜を取り
神社の禰宜による、
「朝日舞」。宮司舞と呼ばれ、通常は男性が舞うもの。
上げている三好博士の著書は、極めて貴重な資料。そして
神様に向かって奉納する舞は、このように正面から見られる機会は滅多
その 11 種の桜を含め櫻川磯辺稲荷神社の旧参道域の桜は、
にない。桜に縁のある神、木花佐久耶姫命に思いを馳せる。 その後昭和 49 年に天然記念物として指定を受ける。
撮影=岡崎良一
桜という植物は自家不和合性、つまり、一本の木は他の
あさひのまい
木から受粉しなければ実を結ぶことができない。ソメイヨシ
櫻川磯部稲村神社宮司の磯部亮さん。
ノはたった一本の木から接木で増やされてきた「クローン」
神社に伝わる文献には、かつて磯部桜川公園へと続く参道沿いに、幹
だが、山桜は言うなれば「雑種」だ。ふたりの親から少し
周り 2 ~ 3 メートルほどになる山桜 70 本が立ち並ぶ見事な並木があっ
ずつ違う性質の子供ができるように、実生(種)から育て
たことが記されている。
た場合、全く別の種類の桜になる。「どんな花が咲くかわか
らないという、楽しみがあるともいえますね」と磯部さんは、
神社の裏の広場でひときわ存在感を放つのが、樹齢 100 年とされる「青
柳の糸桜」
。その堂々たる風格、華やかさは地元の人や観光で訪れた人
たちに大人気だ。
境内のそこかしこに落ちているサクランボを、慈しむように
拾って見せてくれた。特に天然記念物の 11 種については、
接木をして、境内の裏手にあるご自宅前の畑で大切に後継
樹を育てている。
1
再発見―三好博士の幻の桜 11
p.066
20 年程前、東京の古書店で磯部さんが探し当てた一冊の文
献。それは、次世代へ伝え継ぐべき、桜川の桜の運命を決
(p.066 上)
植物学者の三好學博士が、桜川の桜の調査に訪れた時の写真が絵葉書
として残っている。中央の桜の横に立っているのが三好博士。
さくらがわにおい
定づける出会いだった。「桜川匂」など、花の名前は伝え聞
(p.066 左下)
いていたものの、どこにあるのか、どういう花の特徴がある
三好博士が桜川特有の山桜 11 種を記録した『櫻花図譜』と、別冊の
のかはっきりと記録されていなかった、桜川特有の桜 11 種
解説本『櫻花概説』。
Spring / Summer 2011 Vol. 27[ 山桜 ]
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(p.066 右下)
(p.068 )
●大和桜(ヤマトザクラ)
上・高峯から望む、桜の里の朝。平安人がこの絶景を目の前にしたら、
濃い赤の芽が「極めて美しき櫻なり」と三好博士が記している。
どんな歌を詠んだだろうか。5 年前に林道が通り、展望台が整備されな
8 枚にも達する純白の花弁が華やか。花径約 3.0cm
ければ、地元の人ですらこの風景に出会うことはなかった。
(p.067)
下・磯部桜川公園の山桜の早朝調査会に集まった、サクラサク里プロ
●初見桜(ハツミザクラ)
ジェクト(SSP)メンバーの皆さん。毎年、初夏(5 月)と 12 月には、
芽は樺色で、花は白く、花 梗〈花を支えている柄〉が長い。桜川では
高峯の雑木林の整備も続けてきた。生い茂った雑木を伐採すると、今
最初に開花し春を告げるといわれる。花径約 2.8cm
まで誰も近くで見たことのなかった、何本もの山桜の巨木がその全容を
かこう
現した。
●梅鉢桜(ウメバチザクラ)
緑色の芽に、白色の花は極めて細い。花径約 2.6cm
●初重桜(ハツガサネザクラ)
芽は赤く、花弁が白い。 大和桜に似ているが、八重になった場合、
1
伝える―千年の桜の里
p.069
花弁が多い。花径約 2.8cm
山桜は、春、まだ冬枯れの山の木々の中で花を咲かせる。
●薄毛桜(ウスゲザクラ)
黄茶色の芽、白い花弁。花梗などに微毛がある。花径約 2.2cm
●青毛桜(アオゲザクラ)
葉が同時に芽吹き、木によって開花時期はさまざまだ。濃
い赤から緑まで色とりどりの葉と、白や淡いピンクの花が、
まるで珊瑚礁のような景色を織り成す。山桜が散り始めると、
芽は緑色、花は純白で、葉柄〈葉と茎をつなぐ細い部分〉や花梗に細
次は「霞桜」という種類の白い花と青い芽、そして更に、
い毛がある。花径約 2.2cm
日に日に色濃くなる山の新緑との競演。山桜が満開に至る
ようへい
まで、そして散った後も刻一刻と山肌のパッチワークが変化
●樺匂(カバニオイ)
芽は樺色(赤茶色)
、丸い花弁は白く、香りが高い。花径約 2.8cm
●桜川匂(サクラガワニオイ)
淡い茶色の芽に、純白の花弁、芳香が特徴。花径約 3.0cm
し、4 月から 5 月にかけての長い期間、山の桜たちは目を
楽しませてくれる。
「一斉に咲き誇り、そして潔く一斉に散るソメイヨシノの華
やかさには及びませんが、山桜独特の味わいを知ってほし
い」と口を揃えるのは、桜川の桜の保護と育成のため、地
●白雲桜(シラクモザクラ)
元商工会の青年部を中心に結成された「サクラサク里プロ
芽は樺色、白色の花が非常に多くつき、まるで雲のように見える。花径
ジェクト」のメンバーの皆さん。山桜といえば、世界遺産
約 2.8cm
である奈良の吉野がつとに知られるが、対して桜川はほと
●源氏桜(ゲンジザクラ)
芽は赤く、淡い紅色の大輪が艶やかな品種。花径約 4.0cm
んどが自生の桜。人の手によらず、自然のままにのびのび
と育った桜川の山桜には、吉野の「一目千本」といわれる
絢爛豪華な魅力とはまた違った趣がある。農家が点在する
●青桜(アオザクラ)
のどかな里を囲む、なだらかな山並みや、地元の人たちの
緑色の芽と萼、白色の花弁は細い。花径約 2.5cm
温かい人柄そのままのようだ。
がく
近くの磯部桜川公園の山桜が管理不足で弱っているのに
Spring / Summer 2011 Vol. 27[ 山桜 ]
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心を痛めていた磯部さんは、
プロジェクト発足当初のある春、
ふと周りの山々を見渡し、高峯のひときわ色鮮やかなパッチ
ワークに目を奪われた。桜川の桜の原点はやはり、周囲の
山で咲いている山桜だ。山の桜を里に植樹し、桜川に再び
彩りを取り戻したい。そこでプロジェクトのメンバーたちが、
地元の人も滅多に登ることがなかったという高峯の山道に分
け入ってみた。すると、アカマツやカヤ、ヒノキ、フジやカ
シに埋もれていた、たくさんの山桜の巨木を発見。もっとこ
の山の桜を見てもらいたいと、高峯の雑木の整備を開始し
た。
2006 年に林道が開通し、その 2 年後には桜川の里山を
一望できる絶景のビューポイントにプロジェクトが展望台を
設置。山桜の山にいつも囲まれ、特に桜を意識することも
なかった地元の人たちにとっても、新たな桜川の魅力を再
発見するきっかけとなった。
今また少しずつ復活の兆しを見せている、桜川の桜。「” 花
見 ” よりは ” 観桜 ” という気持ちで、紀貫之の平安の時代の
様に、ゆったりと静かに桜川の山桜を愛でてほしい」という
のが、磯部宮司はじめサクラサク里プロジェクトの願いだ。
Spring / Summer 2011 Vol. 27[ 山桜 ]
22
J apanese tex t
2011年 春/夏号 日本語編
日本画
な画材の数々だ。
画家・手塚雄二の世界
日本画を日本画たらしめるもの、それは鉱物を原料とした、
――日本 画のレシピ
t
にかわ
粉末状の天然岩絵の具。これを接着剤となる膠で溶いて、
撮影=岡崎良一 文=編集部
p.072
紙や絹地に描く、日本古来の技法による絵画を「日本画」と
「日本画」と聞いて、どのような世界が思い浮かぶだろう。静
呼ぶ。明治時代以降、西洋から伝わった油絵などに対して
謐な墨色で描かれた掛け軸、はたまたきらびやかに金銀で
誕生した総称だ。
彩られた、屛風など。しかし日本画の本質は、色や様式とは
「1000 年以上前、平安時代(794 – 1192)から変わらず伝え
別にある。日本画の美のエッセンスとは? 今の日本画壇を牽
られてきた、これぞ日本画の色、というのがあります。群青、
引する画家、手塚雄二さんがその秘密を解き明かす。絵画
緑 青と呼ばれる、青と緑。そして、なんといっても金です。
の見方、そして日常の周りの風景までもが変わるに違いない。
ぐんじょう
ろくしょう
金銀泥や、金銀箔など、日本画ほど金属を多用した絵画は
ないでしょう」と手塚さんは、粒子が極めて細かく美しい金
(p.072)
泥などを、次々と指先にとって見せてくれた。
アズライト
金箔は西洋でも絵画や美術品の装飾として使われてきた
下・日本画に使われる天然の岩絵の具。特徴的な色彩は、自然界の貴
重な素材から生まれる。
が、1 万分の 1 ミリの薄さまでのばしたもの、細かい四角や、
細く切ったものなどに手作業で加工されたものを使用するの
は、日本画ならでは。金色一つとっても、水金や青金と呼ば
(p.073 左上から )
れる色合いの異なる種類がある。色の明るさや華やかさも
マラカイト
京都、加賀など産地ごとの特徴があり、それだけ表現の幅
金茶石(焼成)
が広がる。
しんしゃ
辰砂
手塚さんの案内で、岩絵の具にはじまる日本画の表現の
大理石
世界を覗いてみよう。
コチニール虫
イエロージャスパー
珊瑚
金茶石
左ページ・秋田の山道を描いた『こもれびの坂』(1996 年 )。天から降
ラピス
り注ぐきらめきや、画面の奥からにじみ出るような光の表現は手塚作品
の真骨頂だ。日本画のキーカラーである金色が、手塚作品の中ではひ
ときわ柔らかみを増す。
日本画を作ろう
このページ・2010 年秋に発表された新作『奥入瀬飛流』の制作風景。
―― 岩 絵の具 が 生む ” 風味 ”
完成間近の作品の、川の流れを仕上げる。刷毛でどうさ(膠液にみょう
1000 年以上前から伝わる、技法の世界
したり、紙が削れるほど絵の具をこそげ落としたり。一見豪快な動作から、
ばんを溶いたもの)をかけプラチナ箔を貼り、こすり取る手順を繰り返
p.075
実に繊細な表現、独特な質感が生まれる。
日本画家の手塚雄二さんが教鞭を執る、東京藝術大学に程
近いアトリエ。目に飛び込んでくるのは、数え切れないほど
手塚雄二(てづか・ゆうじ)
の筆や、所狭しと棚に並べられた絵の具瓶、引き出しに詰まっ
1953 年、鎌倉の友禅染め絵付師の家に生まれる。東京藝術大学にて故・
た金箔・プラチナ箔や薬包に入った金泥・銀泥など、貴重
平山郁夫氏に師事し、同大学院修士課程を修了。日本画の公募展の最
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高峰である、日本美術院展覧会(院展)の日本美術院賞を 3 年連続で
すね」。この色の変化は、天然の岩絵の具だからこそ。「な
受賞。39 歳という異例の若さで日本美術院の同人に推挙され、現在は
んともいえない、良い具合の色でしょう? もっと火を通せ
評議員も務める。東京藝術大学美術学部絵画科日本画研究室教授。
ば最後は真っ黒になるんですが、緑青を焼いたものは緑を
帯びた黒に、群青を焼けば青みがかった黒にと、わずかに
違った印象になります。この違いを使い分けるのが、日本
画の表現です」
。
日本画、基本の step by step
p.077
絵の具は絵皿の中で適量の膠で溶き、水を加え濃さを調
「日本画って、本当に手間ひまかかるんですよ」と笑う手塚
節していく。中指に人差し指を添えて混ぜるのが基本の型。
さんは、どこか楽しそうだ。制作過程は、実に手のかかる
膠と岩絵の具、水の割合は、口で伝えて教えられるもので
作業の連続。それは材料の「下ごしらえ」からはじまる。
はなく、指先の感覚と長年の経験だけが頼りだ。この配合
全てのベースとなるのが膠。粉末状の岩絵の具を溶き、
が上手くできないと、均一に塗れなかったり、ひび割れたり
紙に定着させる接着剤の役割を果たす。さまざまな形状が
する。
あるが、棒状の「三千本膠」を使うのが手塚流だ。細かく
「焼いた色同士を更に混ぜ合わせて、そこに胡粉の白を加
砕き、一晩水に浸して戻したものを火にかけると、独特の
えたりすると、無限のニュアンスが出せる。『自分だけの色』
匂いが立ち上ってきた。
を作ることができるのが日本画の魅力です。今日はこの色、
「膠を溶かす時のポイントは、沸騰させないこと。粘着力が
明日はこの色………と絵を描きながら考えることもあります。
弱まり、絵の具が定着しにくくなるからです」。質と鮮度も大
それだけに1日に何色も作れず、作品を少しずつ完成させ
切だ。この注意を怠ると、絵の具が乾いた時にひび割れて
ていくとても地道な作業ですが、絵の具と『対峙する』この
しまう。溶けた膠を濾し、ゼラチン質を抽出して完成。固ま
プロセスを私は大切にしています」
りやすいので、また温めて使う。
ゆったりとした、時の流れとともにある絵画だということ
次に、胡粉を作る。彩色にはもちろん、絵を描く前の下
が分かる。
地としても使う万能の白い絵の具だ。原料となるのはイタボ
牡蠣の貝殻を砕いたもので、これをまず乳鉢ですり潰す。
粉状になった胡粉に、膠を加えてまとめていく様子はまるで
左ページ・まるでキッチンを覗いているような、日本画の「下ごしらえ」
手打ちパスタ作り。「団子状にまとめ、皿に叩きつけて空気
の風景。材料の一つ一つが、画家の手によって丁寧に手作りされていく。
を抜きながら、更に均一に馴染ませます。100 回叩き付け
るのが基本とされるので、『百叩き』と呼ぶんです。この手
間をかけると実にまろやかな、綺麗な白ができる。日本画
みずきん
右上・新作の一つ『蔓模様』(2010 年)。鈍い輝きが美しい「水金」と
いう、銀に近い色の金箔を背景に、葉と蔓の繊細な表現が映える。
下・細い線をひく、色をぼかす、大きな面積を塗る。岩絵の具が料理
の材料なら、調理器具とも呼べるのが筆。さまざまな種類の筆を使い分
そくみょう
の白は、世界一美しい白だと私は思います」。完成した胡粉
け、日本画は作られる。特に「即妙」という丸筆は、手塚さんが「描く
団子を皿に平たくのばし、水で溶く。
ための筆」と呼ぶ、日本画独特の筆だ。ひと口に「広く塗る筆」「ぼか
そして、岩絵の具を使う日本画ならではの工程といえるの
す筆」といっても、刷毛と平筆(ひらふで)、連筆はそれぞれに絵の具
が、絵の具を「焼く」という作業。鮮やかな緑色の「緑青」
を炒るように熱を加えていくと、1 分とたたぬうちにだんだ
んと色が深くなってきた。「余熱でもどんどん変化していくの
れんぴつ
や水の含み方が異なり、まったく違う表現を作り出す。油絵など西洋画
で使う筆はもう少し硬い、豚の毛を使うが、イタチやねずみ、猫の毛で
作る日本画の筆は、絵の具や水をたっぷりと含ませ、サッと柔らかく線
をひくことができる。日本画ならではの、ぼかしの技法も可能になる。
で、望みの色になるちょっと手前で火から下ろすのがコツで
Spring / Summer 2011 Vol. 27[ 日本画 ]
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(p.078)
手塚さんの素描は、それだけで一つの完成された作品であ
屛風猫絵の魅力
るような魅力を放つ。それもそのはず、スケッチをしている
古くは中国で、風よけや間仕切りのための調度として存在した屛風。日
本では特に 16 世紀以降、書画や絵画の大作が描かれた屛風絵が好ま
れるようになり、数々の名品が生まれた。一般的には、木の枠に紙や絹
時点で手塚さんの頭の中には本画のイメージがすでにある
という。
を貼り、紙の蝶番でつないだ 2 面から 8 面のものまである。多くは、季
「時間が許す限りスケッチをしに出掛けるようにしていま
節の移り変わりなど、連続した絵柄が左隻・右隻に分けて描かれた対の
す。歩いているとふと視界の隅に入ってくる、心惹かれる場
作品になっていて、実用と装飾を兼ねたインテリア用品といえる。
所が見つかるんです。描くべき場所には必ず、スポットライ
『風雲風神』
『雷神雷雲』
(上)は、2009 年にニューヨークで海外デビュー
トが当たっているように見える」。そうしてご自分が美しいと
を飾った、記念すべき手塚作品。風神と雷神は、琳派の俵屋宗達らの
感じた実景を、頭の中で少しずつ修正しながら、構図を仕
代表作で知られるモチーフだが、轟く雷鳴、吹き荒れる烈風をあえてダ
イナミックに視覚化した圧倒的な迫力が、会場の注目を集めた。画面の
両端いっぱいに躍動する風神雷神は、京都・三十三間堂の国宝の像に
ら
一見何でもない風景から切り取る、理想的な構図。では、
美しい構図とは一体どういうものなのだろうか?
取材したもの。
か
上げるのだという。
す
は
と
右下の『迦羅須』は、後に右隻の『覇徒』と対になる作品。画面の
大半を占める黒の色にはうっすらと赤や緑が潜み、雄大な奥行きを感じ
させる構成、黄金の雲の表現と相まって、神々しささえ感じられる。他
(p.080)
の手塚作品同様、見る角度によって自在に印象を変える色の連なりに惹
一つの作品ができるまで。素描をもとに、おおよその構図を決め下図を
き付けられる。
おこし、時には設計図さながらに方眼をひいて、本画と同じ実物大の大
『風雲風神』(2000 年)『雷神雷雲』(1999 年 ) 今井美術館蔵
下図に写し取っていく。中央の下図では、画面のバランスを改めて確認
『迦羅須』(2006 年 )
するため、要素を墨で塗り潰している。
『千の滝』(2010 年 )
撮影協力=そごう美術館
(p.081)
上・柔らかい光が差し込む大きな窓の外に広がるのは、カラマツ、コブ
日本画が生まれる日常
――構図で素材を ” 料理 ” する
p.080
緑に囲まれた、手塚さんの軽井沢の別荘兼アトリエを訪れ
シ、カエデなどが立ち並び、数々の手塚作品の題材となった思い入れの
ある風景。庭でふと、足元の雑草に目をやれば、美しい力強さが作品
のインスピレーションになるという。
右・素描は顔彩で着色することも。2 本の筆を巧みに操る、日本画なら
ると、日々の暮らしの中にも作品のテーマは溢れていること
ではの技法を披露して頂いた。色をのせてから、水を含ませたもう一方
が分かる。例えば、キッチンの窓の外の雨上がりのカラマ
の筆でぼかすと、草木にたちまち立体感が生まれる。
ツ林や、散策中に見つけた枯れかけの雑草一本にも、絵に
なる要素が潜んでいる。 木立や植物などをスケッチする時、上から一気に描いて
いくのが手塚流だ。たとえば一本の萩の枝の、葉の先から
根元まで。スケッチブックの上から下へと一筆ごとに瞬く間
色鉛筆は、スケッチに使う愛用の道具の一つ。日本製やイギリス製のも
ので、厳選した緑の色合いに手塚さんのこだわりがある。
(p.082)
はこう
1996 年作の屛風絵『波 洸』のもとになった素描。柔らかい光の中で、
に描き上げられていく様子は、さながら目に映ったものをス
優しさと荒々しさが共存するかのような、細密な水の描写だ。本画さな
キャンしていく精密機械のようだ。
がらに、素描もじっくり細部まで描きこむ、手塚さんならではの作品。
スケッチというと、あくまで練習や下絵という印象だが、
青森県の奥入瀬川でスケッチをしたのが 15 年以上前。今は流れが変わ
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てのはじまりです。そもそも書画は、紙に墨の間合いだけ
り、この時と同じ風景は見られないという。
で表現される、実に独特な世界ですよね。加えて、縦書き
受け継がれる日本美の DNA
という文化が、少しずつ行をずらし、強弱のバランスを取り
―― 次 世 代への直伝レシピ
ながら文字を表現することを可能にした。言葉を自由に区
p.084
切ったりできるのも、例えば英文字を使う言語では表現でき
手塚さんのアトリエの壁にかかっていた、製作途中の一枚
ないことです」
の絵。渋い青や紫、灰色で表現された水辺の風景なのだが、
このかな文字で書かれた名品として名高い、小野道風の
床に並べられた絵の具皿の中に一つだけ、手塚作品らしか
筆と伝えられる継色紙の中の一首を見てみる。行はどれも
らぬ鮮やかな赤が入った皿がある。
平行ではなく、揃っている部分が一つもないのに、なぜか
「実は、大好きな色なんです。この黒く塗ったところに刷
美しいバランスを感じる。
毛で水を引いてから、さっとこのコチニール赤を薄くかけて
「言語としても例えば西洋は三拍子のワルツのリズム、日
仕上げると、黒の深みが増すだけでなく温かみが出る。特
本語は和歌の五七五七七という変拍子に例えられるように、
にこの黒は、青を焼いて作った黒なので赤とも相性がいい
日本画にもリズムがあるといえます。等間隔でない行間、間
んですね」
に、美しさを見出すんですね。全てが整然と、左右対称に
たしかに絵に近づいてよく見てみると、目の前の黒の奥に
配置されたイギリスやフランスの庭園と、日本庭園との違い
おののみちかぜ
ま
は、水辺の冷たさではなくほのかに温かさが感じられる。
を見ても分かります。バランスが崩れた中で、バランスを取
繊細な表現を生む、想像もしていなかった技と、日本画の
るというのが日本独特の美的感覚なんです」
色の世界の奥深さに改めて舌を巻く。
そんな美意識が受け継がれていく中で、100 年に一人、
「天
だが、日本画の本質は実はもう一つある。「色は信用でき
才」が出現しているという。
ないんです。隣にある色や面積、光の加減にも影響されるし、
「俵屋宗達、尾形光琳、葛飾北斎、横山大観………。特
右目と左目それぞれの見え方、見る人によっても印象が変
に北斎は、ゴッホやマネ、そして写真家のアンリ・カルティ
わってしまう」
エ・ブレッソンらの作品にも影響を与えています。日本的な
そう言うと手塚さんは、一本の絵巻物を広げて見せてくれ
バランス感覚が、時を越え、世界に発信されたんですね。」
た。
代表作『富嶽百景』の「井戸浚の不二」を見ると、富士
「平安時代に描かれた、
『伴大納言絵巻』です。男たちが被っ
山を背景に、中心を外した梯子の幾つもの線が絶妙なバラ
ている黒い烏帽子に注目してください。どれ一つとして、同
ンスを作り出している。平行で等間隔な線が一つもない、リ
じ向きや間隔で描かれたものがない。風の流れが見えてく
ズミカルで斬新な構図だ。 るようでしょう? 1000 年以上も昔、この一見混沌とした図
いつの時代も良いものは本流として残り、他は淘汰され
の中に、計算されたバランスが存在していたんです。同時
ていく。日本の美術もまた、良いものを真似て、脈々と受け
代の西洋の絵画にはなかった、日本画独特の構図とバラン
継がれてきた流れが現代まで続いている。そんな美的感覚
ス感覚が凝縮された究極の作品だと思います」 のルーツにスポットを当て、DNA として受け継がれてきた
本当に重要なのは、色よりも形とバランス。構図こそが、
ものを次の世代に示し、世界に伝えていきたいと手塚さん
日本画の美しさを形作っている本質なのだ。全ての原点は、
は語る。
さらえ
平安時代に生まれたかな文字にあると手塚さんは言う。
「中国から渡ってきた漢字を崩して書くようになったのが全
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(p.084)
東京藝術大学では古典研究が専門の手塚さん。大学院の修士生の卒業
制作として、古典絵画の模写プロジェクトに長年取り組んできた。5 年
を経て 2011 年には『源氏物語絵巻』全巻の模写が完成するほか、次
期研究室ではまさに『伴大納言絵巻』模写の 10 箇年プロジェクトがスター
トしたばかり。美意識の DNA が、こうして次世代にも受け継がれていく。
(p.085 左上 )
上・色とりどりの鳥の子紙に書かれた、恋の歌。行が不揃いだったり、
言葉が不自然な場所で区切られていたり、紙の上部に大きく間がとられ
ていたりと、自由な中にも美しいバランスが存在する。
『継色紙 伝 小野道風筆』(重要文化財)
五島美術館蔵 一幅 平安時代中期 (左)縦 13.5 x 横 13.0cm (右)縦 13.5 x 横 13.3cm
( 右上 )
左・富士山の輪郭、梯子、縄が作り出す、絶妙な構図。彩色されてい
ない北斎の作品は、それだけに形の美しさが際立つ。これらの作品に
見られる、
「等間隔ではない」「平行ではない」「接点をつくらない」「不
等辺三角形をつくる」
「等分の面積比ではない」という 5 つのポイントが、
手塚さんが提唱する、日本画の美しい構図を作る法則だ。
さらえ
『葛飾北斎 富嶽百景』〈井戸浚の不二〉 解説 鈴木重三 岩崎美術社
(下)
右・計算しつくされた、バランス。火事で逃げ惑う人々のどよめき、炎
や熱風まで感じられるようだ。
『伴大納言絵巻』(国宝)
出光美術館蔵 平安時代 ※写真は複製品。
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J apanese tex t
2011年 春/夏号 日本語編
料理
卵焼き
卵をクレープのように薄く焼いてご飯を巻いたり、細切り
―家庭で最も手軽に作れる日本の味
の錦糸卵にしてご飯のトッピングにしたりなど。卵は、アイ
調理=柳原雅彦 撮影=佐伯義勝 取材協力=露木朋子 ディア次第で無限にメニューが広がります。
p.086
春の訪れを料理で表現するには、柔らかい黄色の卵焼きが
あなごちらし:すし飯に焼いた穴子と、細切りにした薄焼き卵、三つ葉
欠かせません。
と甘酢漬けのしょうがを散らしたもの。
卵焼きとは、昆布とかつおぶしで取った出汁をたっぷりと
深川丼手巻き:ご飯にむき身のあさりとわけぎを混ぜ、薄焼き卵で巻い
含ませ、ロール状に焼き上げた、日本では誰にでも馴染み
のある料理です。一口含めば出汁の香りが広がり、ふんわ
たもの。
薄焼き卵巻き:ふきとしらすを混ぜて、薄焼き卵で巻いたもの。
和風姫ピザ:薄焼き卵の上に、筍やいくらを載せたもの。
りととろけるような風味があります。人気のお寿司屋さん、
「す
し独楽(すしこま)」の柳原雅彦さんに、美味しい卵焼きの
作り方を教えてもらいました。
コツは2つ。ひとつは、塩を使わず薄口醤油で味付けを
p.090
お寿司屋さんのカステラ卵に挑戦してみよう
すること。もうひとつは、卵を巻いたら1回1回その度に油
たっぷりの卵と魚のすり身、山芋を混ぜ合わせて時間をかけ
をひくこと。卵は醤油と油との相性が抜群なのです。初めは、
て焼き上げたカステラ卵は、お寿司屋さんでお馴染みの一
うまく巻けなければ、スクランブルエッグのようになっても
品です。焼き菓子を思わせるしっとりと、ほのかに甘い味わ
大丈夫。味は変わりません。卵焼きは、どこの家庭でも作
いが楽しめます。手間と時間をかけた甲斐がある、極めつ
れる絶品の日本料理なのです。
きの卵焼きです。
カステラ卵
(p.086)
● 正統派の卵焼き(Classic Tamagoyaki)
青豆のカステラ卵
卵焼きは、とき卵にかつおぶしと昆布のだし汁を加えて、卵焼き器で巻
くように焼くだけのシンプルな料理。日本の味を代表する、誰もが馴染
みのある一品です。
●カステラ卵の作り方
むらのない仕上がりになるように、卵をなめらかになるまで
(p.087)
溶きほぐしたら、さらにこし器にかけて。それぞれの材料は、
牛そぼろと紅しょうが
少しずつすり合わせて、だまになるのを防ぎます。ほの甘
たたきオクラ
菜の花と白魚
い味のカステラ卵は、野菜との相性が良い。青豆の他に、
帆立とわかめ
ゆでて裏ごししたにんじんを混ぜてみたり、豆腐やかにと合
わせても美味しい。
薄焼き卵で、テーブルを華やかに
p.088
❶ 魚のすり身 180g をすり鉢に入れて、ふんわりするまです
卵とご飯があれば、 春らしい色華やかなおもてなしのメ
り、砂糖 125g を少しずつ加えながら、すり合わせる。なめ
ニューができます。
らかになったら、煮きった酒 60cc を加え、山芋 6 ~8cm
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をすって少しずつ、さらに小麦粉 25g を入れてする。
❻ ③と同じ要領で、まんべんなく卵液を流し込む。巻いた卵
❷ 卵 10 個をボウルに割り入れ、こしが残らぬようによく溶
の下にも卵液が行き渡るように注意。
きほぐす。目の細かいこし器でこす。
❼ ③~⑤の手順を繰り返す。卵焼き器の温度は一定の弱火
❸ ①に②の溶き卵を少しずつ加えながら、混ぜ合わせてい
で。
く。塩少々を加える。
❽ 卵液がなくなるまで、同様の手順を繰り返す。焼き上がっ
❹ 厚めの卵焼き器に薄く油をひき、卵液をゆっくりと流し込
たら、巻きすにとり、好みの形に整える。
む。極弱火にかけ、じっくりと焼く。
❺ 20 ~ 30 分焼いて、表面が固まってきたら、サラマンダー
【美味しいだし汁の作り方】
で表面を焼く(オーブンを使う場合は、厚めの耐熱容器を
水���������������������� 1ℓ
使用する。200℃のオーブン下段で 30 分焼く。
昆布������������������� 8cm 角
かつおぶし������������������� 20g
青豆のカステラ卵の作り方
グリーンピース 70g は色よく茹で、裏ごして 380cc にする。
卵 30 個を溶きほぐし、こしたらだし汁 80cc、砂糖大匙2、
薄口醤油小さじ2を少しずつ加える。裏ごししたグリーン
ピースも少しずつ加えていく。カステラ卵と同様に焼く。
水に昆布を入れ 10 分間弱火で火にかけ、ゆっくりと温度を
上げる。沸騰直前に味見をし、昆布の味が出ていることを
確かめてから、昆布を抜いて沸騰させる(昆布を入れたま
ま沸騰させると、ぬめりが出て風味が悪くなる)。鍋を火か
ら外して、水 1 割をたし温度を下げ、(熱湯にかつおぶしを
入れると、渋みが出てしまう)かつおぶしを入れて鍋の底に
(p.086)
沈める。2分以内に静かにこす。
●だし巻き卵の作り方
卵を流すたびに、油を薄くひくこと、卵焼き器の温かさを常
(p.087)
に一定に保つこと。そして、美味しいだし汁をとること。こ
牛そぼろと紅しょうが
れができれば、意外と簡単に完成度の高いだし巻き卵がで
牛ひき肉 150g は、ねぎ少々と背脂で炒める。酒、濃い口
き上がります。
醤油各少々を加え、七味をふる。卵 6 個、牛乳 150cc、砂
糖 20g で卵液を作り、牛肉、水にさらした紅しょうが適量を
❶ 卵 6 個をよく溶きほぐし、 かつおぶしと昆布のだし汁
加え、だし巻き卵と同様に焼く。
150cc、砂糖大匙1強、薄口醤油小匙1強を加える。卵1
個を 50g と考え、だし汁との割合は 2 対 1 にする。
(p.087)
❷ 卵焼き器(6.5 寸)を熱し、薄く油をひく。
たたきオクラ
❸ 弱火で卵焼き器を熱し、お玉1杯くらいの卵液をまんべ
卵3個に対して、オクラは 20 本。細かく刻んで粘りを出し、
んなく薄く流す。
だし巻き卵液にまんべんなく加える。全体に細めに巻いて、
❹ 卵が半熟状態になったら、奥から手前に折りたたむよう
独特のふわふわとした食感を楽しむ。
に巻いていく。
❺ 巻いた卵は奥にずらし、再び卵焼き器に隅々まで油をひ
く。
(p.087)
菜の花と白魚
Spring / Summer 2011 Vol. 27[ 料理 ]
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菜の花 1.5 束は、色よくゆでて水にとり、吸い地よりやや濃
もの)を盛り、あなご、細切りにした薄焼き卵、色よくゆで
いめのだし汁(だし汁 1ℓに対し、塩と薄口醤油、酒を各
た三つ葉と甘酢漬けのしょうがを散らす。
小さじ1入れたもの)に漬ける。茎は大きく落とし、穂先と
葉を粗く切る。さっと湯通しした白魚 100g と卵 6 個の液卵
【美味しい甘酢漬けのしょうがの作り方】
に混ぜ、だし巻き卵の要領で焼く(白魚の代わりに、えびや
しょうがを薄切りにして、塩の入った湯で 30 秒~ 1 分間ゆ
うにを入れてもよい。また、菜の花の代わりに、ほうれん草
でる。しょうがが透き通ったら、ざるに上げて広げる。軽く
を入れてもよい)。
塩をふって全体を混ぜる。再びざるに広げて冷ます。冷め
てから甘酢に漬ける。甘酢は、水 50cc、米酢 50cc、砂糖
(p.087)
帆立とわかめ
100g、塩 5g を鍋に入れて火にかけ、塩と砂糖を溶かした
もの。
小さめの帆立 7 個は、手で裂き、75℃のお湯で湯びきし、
水にとる。刻んだわかめ 50 ~ 100g と帆立、卵 6 個分の卵
液と合わせ、だし巻き卵と同様に焼く。
(p.089)
深川丼風手巻き
湯通しして粗く切ったしらたきをサラダ油で炒め、水気が飛
●薄焼き卵の作り方
んだら、むき身のあさりを加えて薄口醤油少々を入れる(し
らたきがなければ、固めにゆでたビーフンでもよい)。あさ
薄焼き卵は、卵をしっかり溶きほぐして、こしを残さないよ
りに火が通ったら、わけぎ(またはねぎ)を加えてさっと炒め、
うにすることがポイント。水溶き片栗粉を加えて薄く焼くと、
こしょうで味をととのえる。炊きたてのご飯に混ぜ合わせる。
破れにくく使いやすい柔らかさになります。
薄焼き卵で巻く。
❶ 卵 6 個をボウルに割り入れ、こしが残らぬよう、しっかり
(p.089)
と溶きほぐす。砂糖大匙1、薄口醤油小さじ1を加える。
薄焼き玉子焼き
水大匙1で溶いた片栗粉大匙1を加え、よく混ぜる。
ふき 100g は色よくゆでて、水にとり、皮をむく。吸い地程
❷ 口あたりがよくなるよう、こし器でこす。
度のだし汁(だし汁 240cc、酒・薄口醤油格大匙 2)で煮
❸ 卵焼き器には、脱脂綿などで隅々まで薄く油をひく。
含める。炊きたてのご飯に、多めのしらすを混ぜ(1 合に
❹ 弱火でゆっくりと温めた卵焼き器に、薄く卵液を流す。
対し 30g)
、さらに小口ぎりにしたふきを混ぜる。太巻きの
❺ 表面がやや固まってきたら、串でくるりとひっくり返す。
要領で、薄焼き卵で焼く。
❻ 表面も焼けたら、ざるなどに広げる。6枚の薄焼きが目安。
(p.089)
(p.088)
和風姫ピザ2種
あなごちらし
たけのこはゆでて皮をむき、包丁目を入れて、吸い地で煮
あなご 100 ~ 150 gは、たれ(醤油、みりん各 100cc、砂
含める。ご飯にたたき木の芽適量を混ぜる。セルクルで抜
糖 50g を煮合わせたもの)を塗りながら焼く。あなごの代
いた薄焼き卵にたけのこ、ご飯、とろろ昆布をもりつける。
わりに、味付けされた鰻の蒲焼でもよい。器にすし飯(ご
醤油漬けのいくらと色よくゆでたグリーンピースをご飯に
飯 2 合に対して、米酢 36cc、砂糖 24g、塩 9g を合わせた
さっくり合わせ、薄焼き卵に盛る。
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J apanese tex t
2011年 春/夏号 日本語編
エグゼ
クティブ
を結んでいる。この営業基盤を活用し、経済成長とともに増
三井住友フィナンシャルグループ
400 年の歴史背負うメガバンク
世界市場でさらなる飛躍へ
えると予想される企業向けの各種業務を拡大するほか、市
撮影=佐藤竜一郎 文=小林佳代
場によっては、個人向け業務への参入も検討する。さらに、
2009 年にシティグループから買収した日興コーディアル証
p.092
券では、M&Aの仲介、債券・株式発行の引受・販売業務
設立から 219 年の歴史を持ち、世界最大の規模を誇るニュー
などのホールセール証券業務も強化していく。「各国の実情
ヨーク証券取引所(NYSE)。1 日のうちに最も高揚感が高ま
に合わせ、企業向け、個人向けとも多様な金融サービスを
るのが、その日の取引開始を知らせる「オープニング・ベル」
提供する。グループの総力を結集し、
アジアのメジャープレー
が鳴る時である。市場が開く午前 9 時半の 30 秒前。どこか
ヤーを目指す」
(北山社長)
らともなく拍手が沸き起こり、やがて「カン・カン・カン・
上場の舞台となった米国でも、金融制度改革の方向性や
カン」というベルの音が華々しく鳴り響く。その日に新規上
規制の行方を見極めながら事業拡大を検討している。さら
場を果たす企業の社長や国家の表彰を受けた人などが、取
に、2008 年に出資した英バークレイズを通し、中東、アフ
引所内に設置されたバルコニーでオープニング・ベルのブ
リカ市場にも目を配る。
こうした積極的な海外戦略の実行で、
ザーを押すしきたりだ。
SMFG はグループ全体の利益に占める海外部門の割合を現
2010 年 11 月 1 日、日本の 3 大「メガバンク」の 1 つで
在の約 20%から、2012 年度に 30%まで引き上げる意向だ。
ある三井住友フィナンシャルグループ(SMFG)が NYSE に上
リーマン・ショックに端を発する金融危機は世界経済を大
場し、北山禎介社長はオープニング・ベルを鳴らす栄誉に
きな混乱に陥れた。グローバル市場で闘う金融機関にとっ
浴した。ベルを鳴らし終えた後、取引所内に下りた北山社
ては、リーマン・ショック後、失った「信頼」「信用」の回
長は、SMFG 株の最初の取引が「5.95 ドル」で成立したこ
復が重要になる。SMFG の名前を彩る「住友」「三井」ブラ
とを示す手書きの伝票を見て「とても感動した」と言う。
ンドは信頼、信用をつかむ上で大きな強みとなるだろう。
「最高の信頼を得られ、世界に通じる金融機関」を目指す
住友、三井は「三菱」と共に日本で「三大財閥」を成す存在。
SMFG にとって、NYSE 上場は長年の経営課題だった。過去
2001 年、住友グループの住友銀行と、三井グループのさく
にも上場を目指して準備を進めたことがあったが、経営環
ら銀行が合併し、両方の財閥に属する三井住友銀行(SMFG
境の悪化などから断念していた。今回、世界一厳しいと言
の中核銀行)が誕生した。
われる NYSE の審査を通って上場を果たしたことで、「SMFG
それぞれの「祖」である住友政友、三井高利はともに
の世界的な評価を高め、投資家層・顧客層をさらに増やし
1600 年代に活躍した人物で、両財閥とも 400 年の歴史を誇
て事業拡大につなげていきたい」。北山社長は力強く抱負を
る。創業の事業は住友が銅山、三井が呉服。やがて、一族
語る。
で幅広く事業を手掛けるようになり、多くの産業分野に企業
念頭にあるのはグローバル展開の推進だ。最も力を入れ
群を抱えるコンツェルンとなった。400 年前といえば、日本
るのが、世界の成長市場であるアジアでの事業拡大。発展
は徳川将軍家が統治する江戸時代に当たる。浮世絵や時代
途上のアジアの国々では、製品・サービスの輸出入やイン
劇に登場する、チョンマゲを結い、刀を差したサムライが
フラ整備のため、企業の資金需要が旺盛にある。SMFG は
実際に活躍していた時代だ。
現地の支店や現地法人をさらに拡充し、伸び盛りの需要を
その江戸時代から現代まで、400 年永らえたのは偶然で
つかむ考えだ。また、SMFG は韓国、 ベトナム、インド、
はない。住友では初代・政友の「信用を重んじ確実を旨と
中国、マレーシアなどアジア各国の銀行と出資・提携関係
する」「浮利に趨り軽進すべからず」という言葉が、三井で
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Spring / Summer 2011 Vol. 27[ エグゼクティブ ]
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は 2 代目・高平の「倹約に努めよ」「多くをむさぼると紛糾
のもととなる」という言葉が “ 家訓 ” となっている。「グルー
プ傘下のすべての企業に、今もその精神、理念は DNA とし
て残っている」
(北山社長)。先人の教えを大事に引き継ぎ、
懸命に守って経営してきたことで、顧客の信頼、信用を勝ち
取り、今日まで安定的に事業を継続することができた。
「良き伝統を引き継ぎつつ、それにあぐらをかくことなく、
常に “ 革新 ”しながら成長していきたい」
(北山社長)。
「攻め」
と「守り」のバランスを取りながら、SMFG は世界市場での
さらなる飛躍を期す。
(p.092)
ニューヨーク証券市場上場の証明書(奥)と上場記念のトロフィーとメダ
ル。
上場初日の取引を終えて市場担当者から渡されたシート。初日の株価が
手書きで書かれている。
(p.093 上)
左・江戸幕府倒壊後、明治新政府の新貨幣発行に伴い為替座三井組を
開設した頃の三井家の首脳たち。
右・三井家の家祖・三井高利が開いた呉服店・越後屋は江戸の大店と
して大繁盛した。図は越後屋の正月風景
資料提供=三井文庫
(p.093 下)
右・住友家初代・住友政友(文殊院)の木像。17 世紀、政友が残した、
もんじゅいんしいがき
商人の心得を説いた『文殊院旨意書』は今も「住友精神」の基礎となっ
ている。
左・江戸時代の本店の様子。
銅の地金を商う店舗と住友家の住宅が描かれている。
描かれていない左側に、銅の製錬を行う銅吹き所が併設されていた。
資料提供=住友史料館
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2011年 春/夏号 日本語編
百名山
る。梅雨明けを間近に控えた 7 月上旬、世界的な登山家・
世界を魅了する日本百名山
田部井淳子さん夫妻とともに、西穂高岳に登った。
西穂へは、ロープウェイを 2 機乗り継いで一気に登山口
の 2156 メートルへ。地上では疲弊するほどの蒸し暑さだっ
撮影=坂田和人 (94-97、106 ページ )、伊藤健次 (99 ページ )
梶山 正 (100 ページ上、101 ページ上、105 ページ )
大泉省吾 (102-103 ページ )
たが、ひんやりと湿った空気が心地よい。1 日目の行程は山
p.094
北から南まで植生豊かな山が連なる日本列島は、まさに自然
の美の宝庫。日本の山といえば富士山を第一に思い浮かべ
る人が多いが、大自然の中を歩く喜びは、むしろ北アルプス
をはじめ、日本全国にある『日本百名山』で味わえる。全国
の数百の山を登った山の文学者、深田久弥が厳選したベス
ト 100 の山は、どれも異なる個性と歴史、品格がある。忘れ
ることのできない自然の美と出合うだろう。
小屋「西穂山荘」まで。登山道はなだらかで高低差もわずか。
高山植物を眺め、鳥のさえずりを聞きながら、余裕をもって
歩くことができる。田部井さんは 「キヌガサソウが綺麗です
ね」 と立ち止まり、写真に収めていた。
ヨーロッパのアルプス山脈に因んで、本州の中部地方に
ある 3 つの山脈を 「日本アルプス」 と総称する。穂高岳は 「北
アルプス」 に属し、全国の山好きがいつかは登ってみたいと
思う憧れの山である。田部井さんもこの山を愛してやまない。
「外国人のほとんどは、日本の山といえば『富士山』と答え
ます。でも、ぜひ富士山以外の山に登っていただきたい。
(p.095)
穂高のような『百名山』には、世界に誇れる大自然が詰まっ
上から、ヤマアジサイ、ベニバナイチヤクソウ、コイワカガミ。穂高への
ている。特に初夏は高山植物が咲き始めるので、一年で一
森の中で出会った 6 月の花々。
番華やかですね」
左・北アルプスの穂高の緑の豊かな稜線をゆく登山家の田部井淳子さん
夫妻。
西穂の山腹にはシラビソなどの針葉樹が群落を成し、林
床にはナナカマドなどの広葉樹が散在する。斜面には赤茶
色の樹皮で葉に光沢のあるダケカンバが生育。北から南ま
穂高岳
―― 初 心 者 か ら ベ テラン 登 山 家 まで 楽し め る
1 撮影=坂田和人 文=内藤万莉
p.096
で、山によって異なる豊富な植生こそ、日本の山の醍醐味
である。
田部井さんと会話を弾ませながら、ゆっくり登ること 1 時
間 30 分。西穂山荘にたどり着いた。途中、休憩の際に出
日本の山といえば、最初に思い浮かぶのは富士山かもしれな
てきたのは、知恵と栄養が詰まった 「おやつ」。ブランデー
い。でも、もっと豊かな植生に出会い、雄大な景色を望むこ
漬けの梅、浅漬けのきゅうりのほか、笹団子や干し柿など、
とができる山が日本には数多くある。世界中の山を登り続け
盛りだくさん。
ている登山家の田部井淳子さんと一緒に穂高の山を登った。
「” おいしいものは重い ” というのが山の哲学。笹団子は腹
持ちがいいし、笹は ” 実家へお帰り ” と山に置いていけるの
大自然を体感しに、いざ穂高へ
で、ごみが出なくて便利でしょ」
穂高岳は日本第 3 位の高峰。奥穂高岳(3190 メートル)を
雲上で見えるのは、墨絵のような絶景
盟主に、北穂高岳や涸沢岳、前穂高岳、西穂高岳など、険
しい岩稜が放射状にそびえる 3,000 メートル級の山々であ
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西穂山荘は、北アルプス南部の山小屋では唯一、通年営業
Spring / Summer 2011 Vol. 27[ 百名山 ]
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している。建物が比較的新しく、更衣室と乾燥室も完備した
そこから梓川沿いを上流に向かって約 1 時間 30 分歩いたと
快適な小屋だ。
ころに、「徳澤園」 という山宿がある。ここは、北アルプス
翌日は 4 時に起床し、いざ独標へ。独標までは初心者に
へ向かう登山者にとっての経由地。明治期から昭和初期ま
も快適なコースで、笠ヶ岳や焼岳、乗鞍岳などの山岳パノ
で、夏季は牧場として使われていた開放的な草原の一角に
ラマを眺めながらなだらかな稜線を歩く。目線の先には奥
佇む、山好きにとっては特別の宿だ。” 氷壁の宿 ” と冠のつ
穂、前穂のピークが並ぶ。憧れの山々の延長線上に立つ、
くここは、日本を代表する作家・井上靖が穂高岳を舞台に著
その爽快感がたまらない。森林限界を超えたこの辺りには
した山岳小説の名作『氷壁』の舞台であり、彼が執筆中に
ハイマツが茂り、イワカガミやイワツメクサが、可憐な花を
滞在した場所でもある。山小屋とは一線を画すホスピタリ
咲かせる。運がよければ、特別天然記念物のライチョウに
ティに惹かれるファンも多数。若い人たちがきびきびと働い
出会えることも。この日は雲の流れが速く、途中、霧が立ち
ていて気持ちよく、何より料理が格段においしい。信濃白炭
込める場面もあった。
を使った浴槽の風呂、自家菜園の野菜を使った料理、天然
「ミルクスープの中に入りましたね。この呼び方、ニュージー
の丸太を使った漆喰の壁など、こだわり抜かれた山宿だ。
ランドのガイドさんに教えていただいたんですよ」
山好きでなくても一度は訪れたい。
雲が晴れると、上は青空、下は雲海が広がった。
「まるで雲上人になった気分! 稜線に薄い雲がかかったと
●徳澤園
ころは墨絵のような美しさ。この景色を見た瞬間、” あぁ来
長野県松本市上高地 4468 Tel. 0263-95-2508
てよかった ” と思えます」
相部屋 9500 円 個室 ( 和室 )1 万 3900 円~
個室 ( 洋室 )2 万 1000 円~ ( 料金はすべて 1 泊 2 食付き 1 名 )
上高地バスターミナルより徒歩約 1 時間 30 分。
(p.096)
上・西穂独標を目指す田部井さん夫妻。先に連なるのはピラミッドピー
田部井さんが教える
「日本の山の魅力と注意点」
ク、西穂高岳山頂。独標までは高低差も少なく、登山道が整備されてい
て初心者でも歩きやすい。
下・日本屈指の景勝地 「上高地」 にて。梓川にかかる河童橋から望む
穂高連峰。上高地は、登山者憧れの槍ヶ岳・穂高岳への玄関口でもある。
狭い国土に変化に富む山々が詰まっているのが日本の山。
田部井さんいわく、「上高地とその名を聞くだけで心が踊る。何度でも
実際に山に行く時のポイントを田部井淳子さんが語る。あ
行きたくなる、山好きにとっての聖地」。
右上・独標に立つ田部井さん夫妻。後方に見えるのは飛驒の名峰・笠ヶ
岳。
p.098
わせて「日本の山は富士山だけじゃない」という田部井さ
んが百名山の中から選んだおすすめの山ベスト5も紹介し
よう。
右ページ上・独標にて。
●日本の山小屋はホテルではない
同下・独標から上高地側を見下ろす。
お風呂やシャワーがあるわけではないし、個室はあってもわ
とくさわえん
■ 安らぎの山宿、徳澤園
p.097
ずか。一つの部屋にみんな並んで寝る。外国の人に「じゃ
あプライバシーは?」と聞かれると「基本的にプライバシー
はない」と答える。最近は更衣室があるところも増えたが、
エメラルドグリーン色に輝く透き通った水が流れる梓川沿い
それが日本の山小屋事情だ。でも中にはその状況を楽しむ
に、ケショウヤナギが群生する日本屈指の景勝地、上高地。
人たちもいる。下山すれば温泉があるので、下で1泊する
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のもいい。
一般に向けての山の楽しさの普及活動にも積極的で、メディアで紹介さ
●新緑と紅葉。植生の多様さを楽しむ
れることも多く、年齢層を問わずファンが多い。日本のアマチュア登山
世界の山に行ってみても、日本ほど植生が豊かなところは少
ない。いろんな花が咲くし、紅葉もとても美しい。山ごとに
また違う。特にすすめたいのは春の山だ。新緑の山を季語
者で知らない人はまずいないだろう。
写真上・2006 年、マナスル登山。
下左・1975 年 5 月 16 日世界最高峰エベレスト 8848 メートル頂上に立
で「山笑う」という。この新緑の美しさだけは他の国では絶
つ(世界女性初)
対に味わえない。緑が濃くなる夏の山の風景は海外でもあ
下右・社会人山岳会で懸命に登っていた頃。奥多摩にて。
るが、これほど多種多様な緑の風景はない。紅葉の色の種
類が多く、山が真っ赤に燃えるような風景も日本だけだ。
●気象の変化に注意
日本の山は標高がそれほど高くないので、外国人には軽装
でいいと思いスニーカーで登るような人もいる。でも、日本
の山は天気を読むのが難しい。突然の風や雨、雪など気象
変化が激しく、軽装は考えもの。6 月、7 月の梅雨は日本の
田部井淳子さんおすすめの百名山
(p.099)
おすすめ1
「台地状の山々に広がる一面のお花畑がすごい。特に7月
が見頃」
特徴で、雨の降り方が違う。1か月もしとしとぐずぐず降り
❺ 大雪山(だいせつざん 2,291 メートル)
続けるのだ。雨や残雪があっても、最低限、靴さえよけれ
大雪山国立公園は南北 63 キロメートル東西 59 キロメートルの広大な
ばカバーできる。霧も多いので雨具は必要。
範囲を持つが、狭義の大雪山とは、9 つの 2000 メートル峰のある山々
●道に迷いやすい日本の渓谷
を指す。活火山の旭岳は北海道の最高峰であるが、ロープウェイを利用
いくつもの山が連なっているのが普通で、渓谷が多い。渓
谷に迷い込むと道がわからなくなるので地図は必要だ。百
名山なら英語の地図もある。しかし、その渓谷ゆえに風景
が美しいのも日本の山の魅力。谷あり山ありの日本の山岳
風景を「まるで絵のようだ」と海外の人は言う。
して楽に山頂へ登れる。
(p.100)
おすすめ2
「なんといってもバスや車で交通が楽。降り立てば絶景だ。
この雄大さはほかの山にはない。温泉があるのもいい」
立山(たてやま 3015 メートル)
田部井淳子(たべい・じゅんこ)
登山家。女性で世界初のエベレスト登頂、女性で世界初の世界七大陸
最高峰制覇など、日本のみならず世界を代表する登山家。
1939 年、福島県三春町生まれ。昭和女子大学英米文学科卒業後、
社会人の山岳会に入会し、登山活動に力を注ぐ。1969 年、「女子だけ
で海外遠征を」を合い言葉に女子登攀クラブを設立し、1975 年、エベ
レスト日本女子登山隊・副隊長兼登攀隊長として参加し、女性世界初の
開山は 701 年。日本で最も早く開かれた霊山で、多くの信者たちに登ら
れてきた。江戸時代には、他の宗教ではタブーだった、女性も極楽往
生できるという教えにより、さらに人気が高まった。
おすすめ 3
「樹齢 2000 年の縄文杉が有名。でも一番は島全体を覆う苔
の森の美しさだ」
エベレスト登頂に成功。次いで 1992 年には女子世界初の七大陸最高
峰登頂者になる。
宮ノ浦岳(みやのうらだけ 1936 メートル)
現在は、年 5 〜6回海外登山に出掛け、世界最高峰を制覇すること
世界自然遺産に指定されている屋久島は、九州本土最南端から 70 キロ
を目標に、すでに 59 か国の最高峰・最高地点を登頂している。同時に、
メートル南にある直径 25 キロメートル程の島である。この小さな島に
Spring / Summer 2011 Vol. 27[ 百名山 ]
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標高 1000 メートル以上の山が 30 以上もあり、宮之浦岳がその最高峰
に対して霧ヶ峰を「遊ぶ山」と綴る。
だ。中腹より下は深い原生林に被われている。
霧ヶ峰は一見茫洋とした山だが、風景がシンプルな分、
四季や気象の変化を一層ドラマチックに映し出す。霧が漂う
(p.101)
幻想的な丘、雪原と青空を白と青に二分する鮮やかなスカ
おすすめ 4
「北アルプスは是非行ってみてほしい。季節を選ぶなら秋だ
が、登山口の上高地の 6 月のニリンソウの風景もいい」
イライン。春から秋にかけて、
レンゲツツジ、ニッコウキスゲ、
ヤナギランなど、1000 種を超える花々が草原を彩る。草原
だけではない。丘には森があり、清流の谷があり、湿原も
ある。旧石器時代の石器も発掘される、太古から人が歩き
穂高岳(ほたかだけ 3190 メートル)
穂高連峰は 6 座の峰の総称。その中で最も高い奥穂高岳は、日本で3
回った山なのだ。
番目の高峰。岩場が多く、剣岳と並び日本近代アルピニズムの舞台となっ
沢 渡の谷に佇む「ヒュッテ ジャヴェル」は 1952 年創業
た。初登頂は 1906 年、陸地測量部による。
の山小屋。ピアノや暖炉、本に囲まれて過ごせる静かな宿だ。
さわたり
「霧ヶ峰は、お弁当を持って腰を下ろし、ものを考える山だ
おすすめ 5
「山頂から見る湖沼群の風景が美しい。ブナの林が紅葉する
秋も素晴らしい。東北の山は森が多く、日本ならではの山々
だ」
と思います。思索したり想像したりすることが遊びなのです」
やすお
と主人の高橋保夫さんは語る。霧ヶ峰の風景は人に創作や
思索をうながすのだ。
日本の近代登山史の中で、霧ヶ峰は、山の征服を目的と
するアルピニズムに対し、山との対話を楽しむ場所として好
磐梯山(ばんだいさん 1819 メートル)
くしがみね
あかはにやま
磐梯山を主峰に、櫛ヶ峰、赤埴山の三峰からなる、福島県にある成層
まれた。1935 年、今はなき「ヒュッテ霧ヶ峰」で「山の會」
火山。古代の噴火で南面にある日本第 4 の広さを持つ猪苗代湖が作ら
が開かれる。会の仕掛人の一人が若き日の深田久弥だ。集っ
れた。古代より山岳信仰の山として登られており、登山道はよく整備さ
たのは、講師に民俗学の柳田國男、登山家の木暮理太郎な
れている。
ど、聴講者に、詩人の尾崎喜八、作家の大岡昇平、文芸評
論の小林秀雄、日本野鳥の会を創立した中西悟堂など、錚々
たる面々だ。彼らは 6 日間にわたり自然を議論し、交流し、
霧ヶ峰を歩いた。伝説の記録である。
たおやかな峰が連なる優しき百名山
その山の文化を継承すべく、高橋さんが「山の會」を復
p.102
百名山の中で、男性的な山の代表が穂高なら、女性的な山
活させて今年で 6 年目。霧ヶ峰にはそんな文学的な気配が
今も漂っている。
の代表が霧ヶ峰。たおやかな丘に広大な草原が広がる。こ
れも日本の山の顔の一つだ。
霧ヶ峰(きりがみね 1925 メートル)
この地に霧が多いのが名の由来。明るく緩やかな草原が続き、広々とし
なだらかな笹の草原の小道をり花々の間をあてどもなく歩
く。そんな逍遥こそが霧ヶ峰にはふさわしい。深田久弥は、
た展望が開けた高原状の山である。湿原が多く周辺の高山植物は 200
種を超える。最高峰、車山の東側はスキーゲレンデになっている。
ある一夏をこの霧ヶ峰で飽きることなく過ごした。「気持ちい
い場所があれば寝ころんで雲を眺め、わざと脇道へ入って
(p.103)
迷ったりもする」(
『日本百名山』)。穂高岳などの「登る山」
左ページ・春のある日、ジャヴェルの高橋さんと霧ヶ峰を歩いた。
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郎岳、鷲羽岳、黒岳、立山、鹿島槍ヶ岳と一望できる。
上・沢渡の谷に位置するヒュッテ・ジャヴェル。
中・南極観測隊で過ごした経験もあるヒュッテ・ジャヴェルの主人の高
橋さん。
●燕山荘 下・掃除が隅々まで行き届いたヒュッテ・ジャヴェルの和室。
Tel. 090-1420-0008(2011 年度営業期間:4 月 23 日~ 11 月 23 日)
営業時間以外は、Tel.0263-32-1535
●ヒュッテ・ジャヴェル
長野県諏訪市霧ヶ峰沢渡 Tel. 0266-58-5205
『日本百名山』の男
p.103
文=マーティン・フッド 翻訳=竹林正子
p.104
■ 日本の山小屋事情は?
きゅうや
深田久 弥が自ら好む山々について、深い見識をもとに書き
夏山ハイシーズンの休日の山小屋、特に百名山の山小屋の
綴った名著がある。日本の登山愛好家たちが手引きとする登
混雑は並大抵ではない。基本的に来た客はすべて受け入れ
山本の決定版ともいえるこの名著を、彼はどうやって著すに
る山小屋の使命があるから、下手をすると知らない者同士
至ったのか? この本を英訳したマーティン・フッド氏が、深
が肩すり合わせて眠るハメになる。混雑する日を避けるの
田の人物像と『日本百名山』の抜粋を紹介してくれた。
が何より懸命だ。しかし、殿様商売と揶揄されがちだった日
本の山小屋も、山に快適さを求める客の意識の変化に合わ
「日本人は大ていふるさとの山を持っている。山の大小遠近
せてシステムやサービスを改善し、食事や睡眠面での快適
はあっても、ふるさとの守護神のような山を持っている」と、
さ、便利さは随分と向上してきた。一方で素朴さを持ち味と
深田久弥は書いている。その彼のふるさとの山は、本州日
する小屋が健在なのも日本の山だ。
本海側の加賀平野を見下ろす雪峰、白山である。彼は白山
えんざんそう
1921 年創業、北アルプスの燕岳の稜線に佇む燕山荘は、
のふもとの大聖寺町に、地元の印刷屋の息子として 1903 年
早くからホスピタリティを意識した経営で知られる人気の山
3 月 11 日に生を受けた。
小屋だ。徹底した掃除という山小屋スタッフの意識改革に
現在、登山地図でこの地域を見ると、白山とそのそばの
始まり、客本位のサービスを追求していった結果、それは
荒島岳に日本百名山の印がついている。しかし、この日本
登山客のマナーをも変え、それにより登山道からゴミがなく
百名山、実は公式の名山リストではない。これは一作家が
なったという。最大 600 人収容するマンモス小屋だが、建
個人的に選出したもので、彼が自分の好きな山について書
物の木の味わいとスタッフのお客への細かな気配りが温か
き綴った雑誌の連載記事が 50 年前に本として出版されたの
けんじ
い印象を与える。主人の赤沼健至さんの吹くアルプホルンと
だ。
山の話も人気だ。
著者の深田が初めて本格的な登山をしたのが、白山だっ
た。高校生の彼は、2702 メートルの白山に登った際、激し
い雷雨に見舞われ、雨用わら帽子のてっぺんについていた
(p.103)
上・燕山荘のダイニング。松本民芸家具の明かりや椅子がほっとさせる
空間。
中・花崗岩の織りなす山容が美しい燕岳へは、燕山荘から往復 1 時間。
金属クリップを投げ捨てたという。
深田は東京帝国大学を中退後、短編小説などを発表して
名を挙げた。同時に登山も続け、30 代前半で日本山岳会の
下・燕山荘は百名山の好展望台でもある。燕山荘からの縦走コースで
メンバーとなる。やがて戦争が始まると、中国に出征。最
ある常念岳、そして穂高岳、槍ヶ岳、笠ヶ岳、薬師岳、剣岳、黒部五
初の妻で文筆家の北畠八穂とは、離れ離れとなった。
や
ほ
Spring / Summer 2011 Vol. 27[ 百名山 ]
37
帰国後、深田は大聖寺町に戻り、苦難の時代を迎える。
知られる。それ以外の作品は現在では殆ど知られていないが、深田は
幼子を含め、養う家族がいるのに職もなく、挙句の果てに、
20 代で東京帝国大学を中退後、東北地方での暮らしを綴った短編小説
戦前に発表した小説は殆ど北畠の作品であったと雑誌に書
きたてられた。このスキャンダルを境に、深田はフィクショ
ンに見切りをつけ、以後、主に山関連の執筆に専念するよ
などで、初めてその名を馳せた。それに続く小説の執筆は第二次世界
大戦によって中断されたが、出征先の中国から帰還後、ノンフィクショ
ンに軸足を移し、ヒマラヤや中央アジアをテーマにした著作がいくつか
ある。『日本百名山』は、雑誌の連載記事が後に単行本として 1964 年
うになる。
に出版されたもので、それから 10 年もしないうちに深田は登山中に死
『日本百名山』に収録された随筆は、もとは 1959 年から
亡した。
1963 年まで山岳雑誌『山と高原』に連載されたものである。
この連載が読者投票で最優秀記事に選ばれ、1964 年に単
行本として出版されると、たちまち著名な文学賞を受賞した。
名山リストを選定したのは、なにも深田が初めてではない。
マーティン・フッド
スイスの国際機関に勤務。チューリヒ山岳会の会員でもある。東京に暮
らした 1990 年代の 6 年間、日本アルプスを登山した。フッドが全訳し
た深田久弥の『日本百名山』の英語版は、まもなく出版される。
それ以前に山岳雑誌『岳人』では、読者の人気投票で百名
山を選出していた。だたし、深田のアプローチは違っていた。
(p.104)
彼は独自の考えで、もっとも品格があり、歴史もある、” 個
左上、左中・山梨と新潟で登山中の深田久弥。
性の顕著な ” 山を選んだのだ。しかも、自分がその頂上に
上・書斎にて。
立ったことのある山だけを対象とした。
「『日本百名山』は私の主観で選択したものだから、これ
が妥当だと言えないだろう」と、深田はベストセラーとなっ
左・奥上高地の山小屋、横尾山荘の外で深田家の記念写真。
右ページ、右上・『日本百名山』に収録された「槍ヶ岳」と「穂高岳」
の深田の自筆原稿。
写真提供=深田森太郎
た『日本百名山』のあとがきで述べている。「そして今後再
版の機会があったら、若干の山の差し替えをするつもりであ
(p.105)
る」とも書いていたが、よくも悪くも、その後、変更は加え
槍ヶ岳(やりがたけ 3180 メートル)
られなかった。1971 年に、深田が登山中に脳出血で急逝し
たからだ。一方で、彼が選んだ百名山のリストは、登山地
図やその他、多くの類似書籍に収められていった。
日本で 5 番目の高峰で人気が高い。槍の穂先のような鋭い三角錐の山
容を持つ。初登頂は 1828 年、浄土宗の僧、播隆上人。彼は、山頂に
三体の仏像を安置し、その後、信者の登拝のために、岩壁部に鉄鎖を
掛けた。
深田の『日本百名山』は、なぜ古典的名著とされるのか?
それは、聖地と崇められる成層火山、「御嶽」について書か
れた項を読めばわかるだろう。「この山の無尽蔵ぶりは、ま
山の文化を築き上げた男
だ大部分がアンカットの厖大な書物のようなものである。そ
の分厚な小口を見ながら、これからゆっくり読んでいく楽し
p.106
い期待がある。どのページを切っても、他のどの本にも書
深田久弥は、100 の山を選ぶために、その数倍の山を登っ
いてないことが見つかるだろう。そんな山である。」『日本百
たといわれている。彼はどのような想いで山を登り続けたの
名山』もまた、そんな本である。
だろうか。深田久弥の長男・森太郎氏が、父の思い出を語る。
深田久弥(1903-1971)
田部井:『山と高原』という山岳雑誌に『日本百名山』が連
日本国内 100 座の名峰についての随筆集『日本百名山』の著者として
載されていた頃、ちょうど登山を始めたものですから、私に
Spring / Summer 2011 Vol. 27[ 百名山 ]
38
とっても日本百名山はなじみ深いのですが、一般に浸透し
深田:父は、私が物心ついた頃はいっさいカメラを持たな
たのはここ 20 年くらいでしょうか。
かったんです。山で写真を撮る暇があったら、その時間、
深田:1990 年代半ばに NHK で、日本百名山の連続番組を
自分の目にその景色を焼き付けておこうというのが父の考え
放映したことが、爆発的なブームのきっかけだったように思
方でした。かといってそれを人に押し付けるわけでもなく、
います。
もっとよく山を見ろとは言わなかったですね。山の楽しみ方
田部井:私は、深田百名山はいい意味で、ひとつのブラン
とか、山へ行ったらこうあるべしというような規範はないと、
ドだと思っているんです。ブランドの山に登りたいというニー
父は思っていたと思います。
ズが、確かにある。お父様も迷われながら選ばれたんじゃ
田部井:私は、百名山の本があったおかげで、北海道から
ないかなと思いますけど、行ってみると、本当に優れた山
九州まで網羅して、日本にはこんな美しい山があるんだとい
ばかりで、日本の山はこんなに魅力的なのかと改めて思い
うことを教えられました。もしこれがなかったら、日本のよさ
ます。100 という数がきりがよくて、日本人は目的意識があ
も、自然のよさも知らないでいたかもしれない。やっぱりす
ると高揚しますので、中高年が百名山制覇に夢中になるの
ごくいい本だと思う。
もわかります。それぞれの山が郷土の誇りであり、思い出の
深田:田部井さんは、世界中の山に登っておられるから、
山であり、懐かしい山でもあり、山好き同士の会話のきっか
日本の山が懐かしいと思うことがありますでしょう。
けにもなり、そういう意味で百名山は山の文化だなぁって私
田部井:帰ったら、すぐに日本の山に行こうっていつも思い
は思っているんです。ひとつの価値として定着した、永遠の
ながら帰国しますね。緑したたる日本の山にいると、本当に
日本の文化になったと。
いい国に生まれたなって思います。日本の山はスケールこ
深田:いや、そんなふうにおっしゃっていただくと、父もず
そ小さいですが、驚くほど多種多様な樹木が同居していて
いぶん喜ぶと思います。けれども、父は、これはあくまで自
緑が豊富です。こんな国は、世界のどこに行っても見あたら
分の目線で自分で選んだものだから、これが絶対なものじゃ
ない。日本は、本当に美しい。そのことを私に教えてくれた
ないと堂々と言っていました。人それぞれに自分の百名山が
のが、『日本百名山』でした。一人でも多くの人に、日本の
あっていいと。そもそも父は登山家ではありません。『日本
山の美しさを知ってもらいたいと思います。
百名山』は山好きの文学者の目で山を語ろうとしたもので
す。山にまつわる歴史や故事、万葉の歌、地域の人とのか
かわりなど、山全体の文化を綴っていますが、私は山をトー
タルに観賞するということが、「深田久弥の百名山」の本質
深田森太郎(ふかだ・しんたろう)
1942 年生まれ。深田久弥の長男。現在、「深田久弥 山の文化館」の顧
問を務める。1968 年に、田部井さんは、女性の友人とヒマラヤを登る
計画について相談をするために、深田久弥氏の自宅を訪ねた。当時、
だと思っています。ですからピークハンターのように数を競
大学生だった森太郎氏は、自宅に来た田部井さんのことを鮮明に覚えて
うことは、父の意図ではなかったように思います。
いたという。当時、自分とほぼ年齢が変わらない女性3人が、ヒマラヤ
田部井:『日本百名山』は、一座がわりと短い原稿なのです
に登る準備をしていることに驚いたそうだ。
が、ひとつひとつに、それだけのことをじっくりと書いてい
るというのは、山をいとおしむというか、すごく大事になさっ
p.107
たかただなと思います。私自身もときどき反省するのは、山
■ 百名山を犬とトレイルランニング
というのは自分と向き合う、山と向き合う場なんだから、しゃ
文・写真=ジュリアン・ロス 翻訳=竹林正子
べって登っちゃいけないと。もっと山の音とか、山の姿とか、
山の様子をしっかり見なくちゃいけないと感じました。
かねてより、百名山登山にはさまざまなやり方がある。もっ
Spring / Summer 2011 Vol. 27[ 百名山 ]
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とも健全な方法として、死ぬまでに百座制覇できればと、年
8 月下旬、堂々たる北アルプスに積もった何メートルもの
に 3 か所くらいのペースで生涯をかけて登る人もいる。一
雪もようやく溶けた。私は人気の高い夏山が登山者でごっ
方で、日本全国を一周しながら百名山を登る人や、百名山
た返すことを見越して、星空の下、登山者がぎゅうぎゅう詰
を短期間で制覇することを目指す人など、少数の過激派も
めで眠る山小屋を横目に、夜間登山することにした。ときた
いる。現在のところ、ノンストップで百名山を制覇した最速
ま私のヘッドライトを受けて、何かわからないが、森林に潜
記録は、各地の山小屋に聖書を寄贈しながら登り続けたキ
む動物の目が光る。夜間に熊の生息地を歩くので緊張した
リスト教徒がうちたてた 66 日である。
が、ハナの身体が突然張り詰めると、動物が近くにいるとわ
私はスピードを目標にすることに気持ちを駆り立てられ、
かる。そこで私は動物を驚かせないよう、先に声を出す。
まずルートや所要時間を見極めるため、2008 年は週末ごと
妙高山では、声を出したと思ったら、数ヤード先を大きな
に百名山を登り、その翌年に 66 日の記録に挑戦する計画を
黒い熊が走り去って行った。
立てた。イギリスからやってきたボーダーテリアのハナを相
私とハナは、物理的に可能な限り、どの山も駆け抜けた。
棒として。
距離なら一日で最高 55 キロ、高度で言えば 6000 メートル
毎週金曜日、仕事が終わると、私は新幹線に飛び乗り、
を登ったこともある。ハナの足は擦り切れて出血していたが、
レンタカーを運転して、遠方の山地に赴いた。登山道の入
抱きかかえようとすると嫌がったので、足に布テープを巻い
り口で愛犬と一緒に寝袋に入って夜を明かし、土日を使って
てやると、ゆっくりとついてきた。その年の初雪が降ったば
百名山制覇を目指した。中でも思い出深いのは、嵐でびしょ
かりの、風が強く寒い日だった。私たちが山小屋の物陰に
びしょになりながら夜明けに那須岳から登り始め、北へ 320
避難していたら、スタッフが可愛そうに思って、中に入れて
キロほど走りながら、さらに 4 つの山を制覇し、満月の下、
くれた。高度 3000 メートルの世界では、規則より人道主義
雪の蔵王で終点を迎えた日のことだ。至るところにさりげな
が優先するのだ。
く沸いている温泉に足を浸し、一日の疲れを癒すのは、火
富士山に登ったのは、7 月から 8 月にかけての公式の登
山活動や地殻変動が活発なこの国で山に登る楽しみのひと
山シーズンが終了した翌日の晩。それまで連日、数百人単
つだった。
位で訪れていた登山者は、数えるほどしかいなかった。そし
愛犬と私は 7 月には半数の山を踏破していた。だがこの
て、それからまもなく、私たちは最後となる 100 番目の山
頃になると、単なる趣味で始めたことに、私はすっかりはまっ
に登頂した。踏破したのは、総距離で 1000 キロ超、総登
て夢中になっていた。自分のためではなく、ハナのために。
高度で 10 万メートル超だった。ハナと私は、日本全体の距
登山をする犬など、滅多にいない。まして百名山を目指す
離と標高を制覇したのだ。深田久弥氏の本のおかげで、日
犬などいないだろう。となれば、「ハナが第一号になれるか
本のすばらしい場所をたくさん目にすることができた。この
も?」と思ったのだ。
本に触発されて、生涯でもっとも忘れがたい一年を過ごした
北海道の幌尻岳の登山口には、熊出没と登山者の溺死事
ことに私は感謝している。とはいえ、百名山登山は一回限り
故があったことを知らせる大きな警告看板が立っていた。は
で十分だ。
るか上方へと向かう山道は、険しい谷に沿って、約 25 回も
沢を横断する行程だった。ここは百名山の中でも、最難関
のひとつ。頂上からは、電線も道も一本たりとも見当たらず、
どの方向を見渡しても、人が暮らしている気配を感じさせる
ジュリアン・ロス
1963 年、イギリス生まれ。バブル経済がはじけた頃に来日。現在はフリー
ランスのテクニカル・エディターとして活躍。愛犬を伴った百名山登山
についての著書がある。www.hanameizan.com
ものは一切なかった。
Spring / Summer 2011 Vol. 27[ 百名山 ]
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❽ 幌尻岳(ぽろしりだけ 2053 メートル)
世界自然遺産に登録された地域である。羅臼岳は約 500 年前まで活動
しゅうきょく
道内の山の多くが火山なのに対し、日高山脈は褶曲山脈であり、地形が
を続けていた活火山であり、知床の最高峰だ。
険しく山深い。北海道中央南部を南北に 150 キロメートル貫いている。
幌尻岳は日高山脈でただひとつの 2000 メートル峰であり、最高峰だ。
❸ 斜里岳(しゃりだけ 1547 メートル)
アイヌ語でポロシリとは「大きな山」の意である。
斜里岳は知床半島の付け根にある成層火山。斜里岳のシャリとはアイヌ
富士山(ふじさん 3776 メートル)
スキーを使って登られた。
語で芦の生えた湿原という意味。記録に残る初登攀は、1928 年 3 月。
1707 年の大噴火以降、爆発していないが活火山である。日本一の高さ
を誇る。初登頂は 663 年に修験道開祖役小角によるという伝説がある。
❹ 阿寒岳(あかんだけ 1499 メートル)
長い間霊峰とされ、1800 年まで女人禁制であった。標高約 2300 メー
阿寒湖をはさんで東に雄阿寒岳、南西に雌阿寒岳が対峙する夫婦山で
トルの5合目まで車でアプローチするのが一般的である。
ある。力強い円錐形の雄阿寒岳に対し、雌阿寒岳は夫の雄阿寒岳より
も高く大きく、緩やかな山容だが、2006 年に噴火している活火山である。
妙高山(みょうこうさん 2454 メートル)
成層火山で、山頂は外輪山に囲まれた中央火口丘の上にある。妙高山
❻ トムラウシ(2141 メートル)
東面から南面の裾野にかけて広がる大斜面には、古くからスキー場が開
北海道第2の高峰。「大雪の奥座敷」と言われるだけあり、最短ルート
けている。温泉宿が多い。
を取っても山頂まで往復 11 時間かかる。大小の沼や湿原、お花畑、奇
岩が立ち並ぶトムラウシ公園など自然を満喫できる。
日本百名山
❼ 十勝岳(とかちだけ 2077 メートル)
―― 初心者から上級者まで
十勝岳は火山性山脈である十勝連峰の最高峰であり、現在も活動中の
写真提供=伊藤健次、梶山 正
活火山である。噴煙を上げている新噴火口は 1926 年に爆発して出来上
秦野市観光協会、檜枝岐村、井上邦彦、岩木山観光協会、駒ヶ根観光
協会、草津町、倶知安町、前橋コンベンション協会、松本市、小鹿野町、
雫石町、上原成美、米沢市
地図=上泉 隆
がった。山頂付近に植物は少なく、火山灰に被われて荒涼とした風景が
p.108
北から南まで 3000 キロメートルに伸びる日本列島には、他
の国では見られない、地形や植生もバラエティーに富む大自
然が詰まっている。同じような景色を見せる山は、どれひとつ
としてない。同じ山でも四季を通してまったく異なる風景に出
合える。登山王国 ・ 日本を北から南まで歩いてみよう。
広がる。
❾ 後方羊蹄山(しりべしやま 1898 メートル)
山頂には母釜と子釜、それに周囲 2 キロメートル深さ 200 メートルもあ
る父釜と呼ばれる大火口がある、活火山。途中の高山植物帯は天然記
念物に指定されている。登山口から山頂まで、標高差が 1600 メートル
以上もあり、体力がいる登山になる。
❿ 岩木山(いわきさん 1625 メートル)
青森県の最高峰で活火山。信仰の山として登られてきた。毎年 8 月に
(p.109)
行われる「お山参詣」は、深夜に大勢が登るこの地方最大の農作祈願
❶ 利尻岳(りしりだけ 1721 メートル)
祭である。岩木山神社のある百沢からの登山コースが、人気が高い。
北海道北西部にある利尻島にそびえる独立峰。頂上は北峰と最高峰の
南峰(1721 メートル)に分かれるが、南峰は危険なため登らないのが
一般的だ。高山植物の宝庫で、この地の特有種もある。
⓫ 八甲田山(はっこうださん 1584 メートル)
八甲田山は、ところどころでガスを噴気している火山群で、南北に大き
く分かれる。北八甲田山には最高峰の大岳(1584 メートル)があり、
ロー
❷ 羅臼岳(らうすだけ 1661 メートル)
プウェイがあり登山者が多い。一方、南八甲田山は湖沼や広大な湿原
北海道最東北部にある知床半島は、知床連峰の山々が海岸線まで迫る、
があり、登山者が少なく静かだ。
Spring / Summer 2011 Vol. 27[ 百名山 ]
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⓬ 八幡平(はちまんたい 1613 メートル)
⓳ 飯豊山(いいでさん 2128 メートル)
100 万年前に噴出した複数の火山でできた高原。オオシラビソやアオモ
飯豊山には、1941 年以前までは、成人儀式として地元の 15 歳までの
ち とう
リトドマツの原生林の間に池塘や湿原が点在している。湿原にはイワイ
男子は登らなければならないという行事があった。山頂近くにある飯豊
チョウ、ニッコウキスゲ、コバイケイソウなどの花が咲く。山を登るとい
山神社の神は女神である。人間の女性が登るとやきもちを妬いて、その
うより、散策を楽しむ感じだ。
女性を石にしてしまうという言い伝えがあり、長く女人禁制の山であった。
⓭ 岩手山(いわてさん 2038 メートル)
⓴ 吾妻山(あづまやま 2035 メートル)
岩手県の最高峰。岩手山は活火山で、山の 3 分の 2 を占める西岩手火山、
吾妻連峰は東西 20 キロメートル南北 12 キロメートルの広い山域に広
また、その東にできた寄生火山の東岩手火山に分けられる。岩手山の
がる火山 10 座を指す。東端にそびえる一切経山(1949 メートル)は、
最高点は東岩手火山の外輪山にある。
この山域で最も人気が高い。今も噴煙を上げている活火山で、山上湖
いっさいきょうざん
ごしきぬま
の五色沼の眺めが素晴らしい。 ⓮ 早池峰(はやちね 1917 メートル)
この山域独自の固有植物種が多い。特に人気が高いのはハヤチネウス
安達太良山(あだたらやま 1700 メートル)
ユキソウで、欧州に咲くエーデルワイスに最も近い品種と言われている。
福島県にある緩やかな山容を持つ活火山。この山は、早くも万葉集(日
山頂と麓の村には早池峰神社があり、山岳信仰が盛んだ。
本に存在する最古の和歌集)に登場していた。緩やかに弧を描く山容
の突起に乳首のような円錐峰が出ているので、俗に乳首山とも言われて
⓯ 鳥海山(ちょうかいさん 2236 メートル)
いる。
有史以来度重なる噴火活動があり、人々に畏怖された。噴火は、鳥海
おおものいみのかみ
山に宿る大物忌神の怒りとされ、噴火の度により高い神階が授けられた
会津駒ヶ岳(あいづこまがだけ 2133 メートル)
という。1974 年には 153 年ぶりに噴火し、その後2年以上の間、入山
中腹に大規模なブナ林やオオシラビソの原生林があり、頂上付近に広が
が規制された。
る湿原では、チングルマやハクサンコザクラなどの高山植物が咲く。古
くから信仰の対象の山として知られており「駒岳大明神」が祀られている。
⓰ 月山(がっさん 1984 メートル)
北麓の羽黒山とすぐ西にある湯殿山とともに出羽三山のひとつに数えら
那須岳(なすだけ 1917 メートル)
れる。出羽三山は神仏習合の山で、月山は 593 年開山した。頂稜は広々
那須連峰は、那須火山帯の南端に位置する連山の総称である。三本槍
み
だ
はら
と高原が広がり、水がきれいな神仙池がある。北面の弥陀が原は湿地
岳(1917 メートル)が最高峰。主峰である茶臼岳(1915 メートル)は
帯が開け、高山植物が豊富だ。
活火山で、今も蒸気と火山ガスを出し続けている。山麓には温泉が多い。
(p.110)
魚沼駒ヶ岳(うおぬまこまがだけ 2003 メートル)
⓱ 朝日岳(あさひだけ 1870 メートル)
魚沼駒ヶ岳は、深く切れ込んだ谷と巨大なスラブ壁を持つ。冬は日本有数
朝日連峰は新潟と山形の県境付近を、南北 60 キロメートル東西 30 キ
の豪雪地帯で深い雪に閉ざされるが、夏は高山植物が豊かな山となる。
ロメートルの広がりを持つ山塊である。日本海まで 40 キロメートルと近
く、世界有数の豪雪地帯にあるため、標高の割に自然条件が厳しい山
平ヶ岳(ひらがたけ 2141 メートル)
域だ。山腹のブナ原生林と山稜の高山植物が美しい。
山頂一帯には池塘が散在する湿原が広がり、高山植物の宝庫である。
この湿地は「日本の重要湿地 500」にも選定されている。登山道が作ら
⓲ 蔵王山(ざおうさん 1841 メートル)
えんのおづの
れたのは 1965 年と新しく、東面の鷹ノ巣から登るのが一般的だ。
ごんげん
679 年、修験道の開祖、役小角が奈良県の吉野山から蔵王権現(日本
仏教における信仰対象のひとつ)を祀り、修行の場として蔵王山と称し
巻機山(まきはたやま 1967 メートル)
たのが蔵王の名の由来である。冬期は見事な樹氷が発達する。
山頂上一帯はゆったりと平坦な草原が広がり、池塘が点在する。巻機山
Spring / Summer 2011 Vol. 27[ 百名山 ]
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は機織りの神様と関連ある伝説があり、山の名はそこから来たものだ。
高妻山(たかつまやま 2353 メートル)
巻機山西麓の塩沢町には、機織りの神様である巻機権現を祀る神社が
高妻山は、険しい岩壁が屏風のようにそびえる戸隠山の奥にあるため、
ある。
人里離れ目につきにくい。とはいえ気高く美しい山容と強い存在感を持
つ山だ。修験者たちは足を延ばしていたようで、山頂には仏像や剣が
燧岳(ひうちがたけ 2356 メートル)
奉納されていたという。
約1万年前、燧岳の噴火活動により沼尻川がせき止められて、標高
1650 メートルの南麓に周囲7キロメートルの尾瀬沼が作られた。尾瀬
男体山(なんたいさん 2486 メートル)
沼から見る燧岳は、絵画のように美しい。この山には、5 つの登山コー
山の南にある中禅寺湖や日本三大名瀑のひとつ、華厳ノ滝は、約 7,000
スが設置されている。
めいばく
年前の男体山の爆発で形成された。初登攀は 782 年、勝道上人 ( しょう
どうしょうにん ) によってなされ、山岳信仰の山として開かれた。
至仏山(しぶつさん 2228 メートル)
日本最大の高層湿原、尾瀬ヶ原の西に位置する。登山者が多く、自然
奥白根山(おくしらねさん 2578 メートル)
保護に力を入れているため、登山ができるのは5月から6月のみ。尾瀬ヶ
最後の噴火は 1899 年の記録がある。国内でこれより東や北に、この山
原は約1万年前に形成され、ミズバショウやミズゴケなど湿原特有の貴
より高い山はない。五色沼や弥陀ヶ池などの美しい湖沼があり、高山植
重な植物群落が見られる。
物が多い。高山植物のシラネアオイの名は、この山から来ている。
み だ が い け
谷川岳(たにがわだけ 1977 メートル)
皇海山(すかいさん 2144 メートル)
様々な形態の登山やスキーが楽しめるので、古くから親しまれてきた山。
古い成層火山だが、頂上まで樹木に被われて火山の趣はない。皇海山
一方で、世界一遭難件数が多く、「魔の山」とも呼ばれている。東面に
の南東にある庚申山から険しい鋸山を経て、皇海山に至る「三山駆け」
大岩壁帯があり、遭難のほとんどは岩登り中に起きている。
という信仰登山が、江戸時代に行われていた。
雨飾山(あまかざりやま 1963 メートル)
武尊山(ほたかやま 2158 メートル)
こうしんさん
標高 2,000 メートルに満たない山だが、急な岩壁が多いため、高く険し
2000 メートル級7座が峰を連ねる、100 万年前にできた成層火山。途中、
く感じられる。ブナ林が多く、7月の新緑と 10 月の紅葉が美しい。南麓
岩場や深いハイマツ帯があるが、山頂の展望はいい。寛政年間(1789
と北麓に温泉があり、そこが登山口になっている。山頂からは北アルプ
〜 1801)より修験道の山として知られていた。
スや日本海も望める。
赤城山(あかぎやま 1828 メートル)
苗場山(なえばさん 2145 メートル)
群馬県の中央に位置する、カルデラのある火山。赤城山とは山群全体
山頂付近には4キロメートル四方の平坦な湿地帯が広がり、小さな池
の総称。山群の最高峰は外輪山の東に位置する黒檜山(1828 メートル)
が点在する。そこに育つ湿原植物の様子が、苗代田のように見えるのが
である。カルデラには中央火口丘の地蔵岳(1674 メートル)と火口湖
山名の由来と言われている。古くより稲作の守り神の山として信仰を集
の大沼や覚満淵がある。
くろびさん
お
の
かくまんぶち
めてきた。
草津白根山(くさつしらねさん 2165 メートル)
あいのみね
もとしらねさん
火打山(ひうちさん 2462 メートル)
白根山、逢ノ峰、最高峰の本白根山の三山の総称。白根山の火口には
山頂で鎌倉時代作と見られる銅製の仏像が二体発掘されたことから、昔
三つの火口湖がある。湯釜はエメラルド色の水をたたえ、酸性度は世
は信仰登山が行われていたと見られる。山の中腹には湿原があり、7 月
界一という。本白根山では、森と美しいコマクサを堪能しつつ静かな山
にはハクサンコザクラをはじめ高山植物の宝庫になる。また、ライチョ
歩きができる。
ウの生息地でもある。
四阿山(あずまやさん 2354 メートル)
(p.111)
約 90 万〜 30 万年前に活動した成層火山。どこから見ても山の形が
Spring / Summer 2011 Vol. 27[ 百名山 ]
43
あずまや
四阿(屋根を四方葺きおろしにした小屋)に似ているのでその名がつい
山の岩場のことをゴーロと言い、黒部川源流域にあるので黒部五郎岳と
た。山頂には 2 つの社が祀られている。
いう名が付いた。東面にあるカールには、たくさんの羊背岩があり、雪
渓から小川が流れ、お花畑が見事である。
浅間山(あさまやま 2568 メートル)
火口噴火に伴い 1972 年より立ち入りが規制されている。浅間山最高峰
水晶岳/黒岳(すいしょうだけ/くろだけ 2986 メートル)
への登山は禁止だが、前掛山(2524 メートル)までは登山可能だ。浅
北アルプスの中央部に位置する双耳峰。山頂一帯の花崗岩で水晶が見
間山の標高は変動し続けており、測量の度に高くなっているという。
られるのが名の由来。また、岩が黒っぽいので黒岳とも呼ばれている。
西側には山上高原台地の、雲の平を擁する。
筑波山(つくばさん 877 メートル)
百名山の中で最も低い山である。東京都内から見える独立した山といえ
鷲羽岳(わしばだけ 2924 メートル)
ば、富士山と筑波山である。筑波山の頂稜は 2 つに分かれており、男
鷲羽岳の山腹から黒部川は始まり、日本海まで長い旅を続ける。山頂か
神と女神が祀られてきた。
ら北西に目をやると日本最後の秘境と呼ばれる雲ノ平の溶岩台地が広が
る。山頂近くには火口湖の鷲羽池、その向こうに尖った槍ヶ岳が聳え立
白馬岳(しろうまだけ 2932 メートル)
ち、見事な山岳風景が見られる。
北アルプスの中で最も人気が高い山のひとつ。高山植物が多く、湿原
や池塘群、山上温泉、日本三大雪渓の一つ白馬大雪渓がある。また、
常念岳(じょうねんだけ 2857 メートル)
頂上近くにある白馬山荘は日本最大の山岳宿舎である。
北アルプス南部を東側の松本付近から見ると、端整なピラミッド型の山
五竜岳(ごりゅうだけ 2814 メートル)
でいると信じていた。山頂より槍ケ岳や穂高連峰の岩峰群が間近に見え
山頂東面に十本余りの岩稜を持ち、男性的な力強さを感じさせる山容を
る。
容が一際目立つ山である。昔、山麓の人々は、常念岳に山の精が棲ん
持つ。白馬周辺のスキーリゾートに接しており、テレキャビンを利用し
て遠見尾根からのアプローチが一般的だ。
笠ヶ岳(かさがだけ 2898 メートル)
どこから見ても端整な笠の形をしており、古くより信仰の山であった。2
鹿島槍ヶ岳(かしまやりがたけ 2890 メートル)
本ある登山道はどちらも長いが静か。道中、穂高や錫杖岳の岩峰群が
峻険な北峰と南峰の景観、また、その双耳峰を繋ぐ吊り尾根が美しい山
見える。山頂のすぐ近くに山小屋があり、日の出や夕陽が楽しめる。
である。山名は山麓の鹿島集落の奥にある槍ヶ岳という意味。鹿島集落
の人々は、平家落ち武者の子孫と言われている。
焼岳(やけだけ 2455 メートル)
上高地は北アルプス南部の峰々に囲まれた広く美しい渓谷で、日本の代
剣岳(つるぎだけ 2998 メートル)
表的な景勝地。焼岳は上高地の入り口にそびえる勇壮な山容の活火山
岩壁と急峻な雪渓に囲まれ、 百名山の中で最も厳しい山のひとつ。
である。1915 年の大爆発では、上高地を流れる梓川を堰き止めて、大
1907 年、陸地測量部による登山が初登頂と予測されたが、山頂で槍の
正池が出来上がった。
穂と錫杖の頭が発見された。既に修験者が登っていたのだ。
乗鞍岳(のりくらだけ 3026 メートル)
(p.112)
乗鞍岳は約 20 峰ある乗鞍火山群の総称で、最高峰は剣ケ峰。山容が
薬師岳(やくしだけ 2926 メートル)
馬の鞍に似ているので乗鞍岳の名が付いた。標高 2704 メートルの畳平
薬師岳は病気を治す仏様として有名な薬師如来の浄土として古くより信
まで車で行けるので、3000 メートル峰の中では最も登りやすい山だ。
仰を集め、明治以前は女人禁制の山であった。南北に長いどっしりとし
た山容を持ち、東面には三つのカールがある。
御嶽(おんたけ 3067 メートル)
黒部五郎岳(くろべごろうだけ 2840 メートル)
と思われていたが、1979 年に水蒸気爆発した。今の日本で、信仰登山
巨大な独立峰で、いくつもの峰や山上湖を持つ活火山。長年、死火山
Spring / Summer 2011 Vol. 27[ 百名山 ]
44
される山の中で、最も多くの信者に登られている山である。
カとなっている。
美ヶ原(うつくしがはら 2034 メートル)
瑞牆山(みずがきやま 2230 メートル)
標高 2000 メートル前後の緩やかに起伏した高原。牛馬のいる牧場が広
おうがとう
険しい花崗岩塔が全山に林立し、山というより岩の塊である。それは 2
がり、西に聳える北アルプスの展望に優れる。最高峰の王ケ頭付近は観
万年以上前の火山活動の結果であり、山頂も岩盤の上にある。現在は、
光化が進んでおり雰囲気に欠けるので、南東の茶臼山を登ることをお薦
日本有数のロッククライミングルートが岩壁に作られている。
めする。
大菩薩岳(だいぼさつだけ 2057 メートル)
大菩薩岳の南東に有名な大菩薩峠がある。かつて大菩薩峠は、武蔵国
蓼科山(たてしなやま 2530 メートル)
溶岩がゴロゴロ転がった山頂には、蓼科神社奥宮の祠と山小屋があり、
360 度の展望が開けている。この山に住む山の神ビジンサマが通る日に
(現在の埼玉県と東京都の大部分)と甲斐国(山梨県)を結ぶ青梅街道
の重要な峠であった。今では人気の登山コースとなっている。
は、山仕事を休むようにという伝承がある。
丹沢山(たんざわさん 1567 メートル)
八ヶ岳(やつがだけ 2899 メートル)
丹沢山地は神奈川県北西部に東西約 40 キロメートル、南北約 20 キロ
八ヶ岳連峰は、南北 30 キロメートル東西 15 キロメートルにおよぶ山岳
メートルに広がる山地である。深田久弥が著した「丹沢山」とは、この
地帯。南部は急峻な岩場や岩稜が多く、北部は原生林に被われた緩や
山地にある丹沢山(1567 メートル)だけではなく、丹沢山地全体につ
かな山容で湖もある。冬期の八ヶ岳南部は、東京圏から近く週末に本格
いて記したものだ。東京都心から近くて行きやすく人気がある山だ。
的な冬山登山ができるので人気が高い。
天城山(あまぎさん 1406 メートル)
両神山(りょうかみさん 1723 メートル)
80 万〜 20 万年前の噴火で作られたいくつかの火山が繋がり、それが
ギザギザの険しい岩稜が、頂稜を長く繋いでいるが、左右は切れ落ち
浸食や陥没などで今の地形になった。最高峰である万三郎岳の北面に
て個性的な山容を持っている。東面の日向大谷からのコースが一般的。
はシャクナゲ群生地があり、花が咲く5月初旬は見事だ。11 月のブナや
南北に延びる頂稜を縦走するコースは上級者向きである。
カエデの紅葉も素晴らしい。
雲取山(くもとりやま 2017 メートル)
木曽駒ヶ岳(きそこまがだけ 2956 メートル)
東京都の最高峰。晴れた日だと都心から山容を遠望できる。東京から近
西麓の木曽谷側には、登山道や宗教的建造物が整備されてきた。東麓
く深山の雰囲気を味わえる 2000 メートルを超える山なので、きわめて
の伊那谷側からのアプローチも、ロープウェイができてから容易になっ
人気が高い。日帰りできるルートもあるが、一泊二日で登るのが一般的
た。駒ヶ岳の南にある宝剣岳 ( ほうけんだけ ) も合わせて登ることをお
である。
薦めしたい。
甲武信岳(こぶしだけ 2457 メートル)
空木岳(うつぎだけ 2864 メートル)
奥秩父山塊の中央に位置し、千曲川、荒川、笛吹川の源流の山でもある。
中央アルプス二番目の高峰で、山頂からの展望が良い。夏の間、頂上
つまり、頂上に降った雨は三つの川に分散して流れ、日本海と東京湾と
東側にある空木平カールは、高山植物の宝庫となる。山頂付近は花崗
太平洋に注がれる。
岩の大岩が多い。
(p.113)
恵那山(えなさん 2191 メートル)
金峰山(きんぷさん 2599 メートル)
中央アルプス最南端に位置し、美濃地方の最高峰。船を伏せたようにのっ
昔は、登山口の金桜神社の門前には神職の家が 70 軒、参拝者の宿が
まわ
め だいら
ぺりとして大きな山容を持っている。全山深い森林に被われているが山
200 軒を超える賑わいをみせた。北麓の廻り目平 には、花崗岩の岩塔
頂展望台からの見晴らしはいい。
が多くある。そこはロックゲレンデで、日本のフリークライミングのメッ
古くから信仰の山であり、道中で宗教的モニュメントが見られる。
Spring / Summer 2011 Vol. 27[ 百名山 ]
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山の南面を流れる赤石沢に赤い石が多くあることが、この山の名の由来
甲斐駒ヶ岳(かいこまがたけ 2967 メートル)
である。日本アルプスという名は、イギリス人ウィリアム・ゴーランドが
古くより信仰登山が行われた。標高差が 2400 メートルもあり、道中に
1881 年に刊行した「日本案内」で紹介したのが始まりである。南アル
は鳥居や仏像など宗教的モニュメントが見られる。南東面にある赤石沢
プスの日本名は赤石山脈であり、赤石岳はその盟主だ。
奥壁は日本有数の大岩壁で、ロッククライミングのルートがある。
(p.114)
仙丈岳(せんじょうだけ 3033 メートル)
聖岳(ひじりだけ 3013 メートル)
山頂部には 3 つのカールがあり、夏になると、このカールは広大なお花
南アルプスで最も南にある 3000 メートル峰。どのルートから登っても標
畑になる。北沢峠を挟んで甲斐駒ヶ岳の隣に位置するので、甲斐駒ヶ岳
高差 2000 メートルあり、山の奥深くに位置する。展望の良い山頂からは、
と合わせて登山する人が多い。
南アルプスの主な峰々が見渡せる。南面の 2300 メートル付近に広がる
平坦地、聖平では、大規模な高山植物の群生地が開けている。
鳳凰山(ほうおうさん 2840 メートル)
鳳凰山とは地蔵岳、観音岳、薬師岳の三山の総称である。地蔵岳山頂
光岳(てかりだけ 2591 メートル)
にはオベリスクと呼ばれる高さ 18 メートルの花崗岩塔がある。1902 年、
夕陽を反射して、山頂西面にある岩が光る(テカル)ことから、この名
ウォルター・ウェストンが地蔵岳を初登頂した。日本に近代アルピニズ
が付いた。日本最南端のハイマツ自生地だ。南アルプス最南端の山。
ムを伝えたイギリス人宣教師である。
光岳より南は、主稜線に整備された登山道はない。
北岳(きただけ 3192 メートル)
白山(はくさん 2702 メートル)
日本第 2 の高峰として人気が高い。ロッククライマーの間では、山頂か
一年の半分は雪で白い白山は、717 年に開山された霊峰である。富士山、
ら東側へ高差約 600 メートルで切れ落ちる北岳バットレスが有名だ。6
立山と並び日本三名山と呼ばれてきた。白山は 17 世紀頃まで噴火して
月中旬から 7 月中旬にかけて、この山の固有種であるキタダケソウの花
いた火山で、山頂付近には 7 つの火口湖がある。
が見られる。
荒島岳(あらしまだけ 1523 メートル)
間ノ岳(あいのだけ 3189 メートル)
福井県大野盆地から見える秀麗な独立峰。古くより霊山として仰がれて
間ノ岳は日本で 4 番目の高峰であり、日本アルプス1の大きな山容を持
きた。「まぼろしの大垂」と呼ばれる高さ 60 メートルの滝が南面の急峻
おおたる
つ。山頂一帯は緩やかで広く、二重山稜になっていて視界が利かない
な谷にある。美しいブナ森を抜けて山頂に立つと、白山の峰々がよく見
時は迷いやすい。すぐ隣にある 3 番目の高峰、北岳と合わせて登るの
える。
が一般的である。
伊吹山(いぶきやま 1377 メートル)
塩見岳(しおみだけ 3052 メートル)
山頂一帯のお花畑は、春から秋まで見事。滋賀県の天然記念物に指定
塩見岳の西に塩川が流れ、塩湯という食塩鉱泉がある。海水とほぼ同じ
されている。また、薬草の産地として昔から知られてきた。山上からの
塩分濃度の塩水が湧き、かつて製塩が行われていた。塩見岳の名は、
琵琶湖の眺めは雄大だ。
この塩湯に由来する。
大台ケ原山(おおだいがはらやま 1695 メートル)
悪沢岳(わるさわだけ 3141 メートル)
大台ケ原山は台地状になった一帯の山々の総称で、日出ヶ岳が最高峰
一帯は氷河によって削られたカールが多く見られる。高山植物のお花畑
である。山頂だけなら 40 分で登れるが、鹿の群れが多い正木ヶ原や大
が広がり、ライチョウの生息地にもなっている。南アルプス南部に位置
岩壁の大蛇嵓などを周回するコースがお薦め。
する日本で6番目の高峰。
大峰山(おおみねさん 1915 メートル)
赤石岳(あかいしだけ 3120 メートル)
大峰山脈は紀伊半島を約 150 キロメートル南北に繋ぐ山脈で、最高峰
Spring / Summer 2011 Vol. 27[ 百名山 ]
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は八経ヶ岳。開山は 661 年。それ以降は、修験道最高の練行の山となり、
開聞岳(かいもんだけ 924 メートル)
現在は世界文化遺産にも指定されている。
三方を海に面した薩摩半島南端から、美しい山容を海に乗り出した火山。
873 年と 885 年の 2 回噴火の記録がある。登山道は、円錐形の開聞岳
大山(だいせん 1729 メートル)
を時計の逆回りに登るよう螺旋状に付けられている。これほど海の景色
日本海に面した独立峰。古くより霊山として崇められ、神話にも登場する。
が楽しめる山は珍しい。
最高峰は剣ヶ峰であるが、登山ルートが崩壊して危険なため、西側の山
頂である弥山へ登るのが一般的だ。
剣山(つるぎざん 1955 メートル)
西日本および四国で 2 番目の高峰で、修験道の山である。山名は、頂
上に安徳天皇の剣を埋めたという説と大剣神社にある剣岩に由来という
2 つの説がある。山頂はミヤマクマザサに被われて展望がいい。
石鎚山(いしづちやま 1982 メートル)
西日本および四国の最高峰。古くより御神体山として崇められ、後に修
験道場としても栄えた。岩場に架けられた鎖を登りきったところが石鎚
みせん
神社頂上社のある弥山、最高峰はさらに先の天狗岳である。
九重山(くじゅうさん 1787 メートル)
九重連峰は 1700 メートル級の山が 11 座ある火山群である。山と山の
間を広々とした高原が繋ぎ、特に 6 月初旬のミヤマキリシマが咲く時期
は一面ピンク色に染まる。温泉が 20 ある。
祖母山(そぼさん 1756 メートル)
北に位置する九重山や阿蘇山が火山と高原で明るい雰囲気があるのに
対し、急峻な岩壁と深い谷や原生林に被われた祖母山は山が濃く深い。
祀られている神様の豊玉姫とは、神武天皇の祖母。それが山名の由来
である。
阿蘇山(あそさん 1592 メートル)
阿蘇のカルデラは世界有数規模の南北 25 キロメートル、東西 18 キロ
メートルもあり、噴火による火砕流は九州の半分を覆ったようだ。数万
年前の阿蘇山はかなり高い山だった。カルデラ内には 5 つの山がある。
中岳は今も火山活動が続いている。
霧島山(きりしまやま 1700 メートル)
霧島火山群には、湖、高原、温泉と休火山の山々や現在活動中の火山
もある。最高峰は山頂に大きな火口がある韓国岳。名の由来は、韓国
が見えるほど展望がいいから。
Spring / Summer 2011 Vol. 27[ 百名山 ]
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J apanese tex t
2011年 春/夏号 日本語編
インタビュー
により新たな意味が生じ、宙吊りの時空が出現したような不
思議な空気感を醸し出している。思えば、写真に写っている
アーティスト・インタビュー
物事は全て、既にこの世にないものだ。だが、写真だけが
生き残り、撮られたときの文脈を越えて変質し、新たな時間
を生き続けているともいえる。
また、ホンマは、作家性を脅かしかねない「撮影者」に
ホンマタカシ
もこだわらず(必ずしも自分じゃなくてもいい)、トリミング
―写真が織りなす「ニュー・ドキュメンタリー」
や複写もいとわない。「新たな発見があって楽しい。楽しい
取材・文=白坂ゆり
p.115
ということは、つまり自由ということです」
。写真とは何なの
かもう一度考えてみたい。
写真家のホンマタカシは、写真の概念を変え、写真の可能
性を広げようとしてきたアーティストだ。1962 年東京に生ま
れ、1991 年から2年間ロンドンを拠点に、雑誌『i-D』な
ホンマタカシ「ニュー・ドキュメンタリー」3 月 21 日まで
どで活躍。「インディヴィデュアリティ
(個人性)」を心に刻み、
■金沢 21 世紀美術館
帰国後は、東京郊外の風景など誰も撮らない対象を、情緒
や物語性を排した乾いた視線で切り取ってきた。そんな彼
に、金沢 21 世紀美術館で開催中の個展「ニュー・ドキュメ
石川県金沢市広坂 1-2-1 www.kanazawa21.jp
4 月 9 日〜 6 月 26 日
■東京オペラシティアートギャラリー
東京都新宿区西新宿 3-20-2 www.operacity.jp/ag/
ンタリー」について尋ねた。
ホンマの背後に写っている《Tokyo and My Daughter》
右・ポートレート:金沢 21 世紀美術館にて 撮影=池田ひらく
シリーズは、彼の娘の成長記録かと思いきや事実は異なる。
左上・《Together》より 2007 年 ©Takashi Homma
「写真は真実をとらえたもの」という思い込みを揺さぶる作
左下・《Trails》より 2010 年 ©Takashi Homma
品だ。また、《Trails》は、狩猟後の鮮血のようでもあり、写
真の横に並ぶドローイングと見比べると、絵の具の飛沫のよ
うでもある。「ドキュメンタリーとファンタジーの両義的な世
杉本博司&寺島しのぶ
界。撮られた背景について何も知らなくても、想像力を広
―特別対談・
『曾根崎心中』を語る
げてもらえれば」とホンマは語る。
撮影=半沢克夫 取材・文=松丸亜希子
従来、いい写真とは、決定的瞬間を写したものだと思わ
p.116
れてきた。しかし、《Trails》には狩りの様子を写したものは
江戸時代以来、300 年にわたり脈々と受け継がれて来た文
ない。都会の傍らに生息する野生動物を映像作家のマイク・
楽に息を吹き込み、独自の斬新な解釈で 21 世紀に蘇らせ
ミルズとともに調査した《Together:Wildlife Corridors in Los
ようと試みる現代美術家、杉本博司。公演に自身の名を冠
Angeles》でも、足跡や風景ばかりで動物の姿はない。だが、
して「杉本文楽」と名付け、江戸前期の人気作家、近松門
主体が不在にもかかわらず、気配が感じられる。さらに、
左衛門の『曾根崎心中』に取り組む。近松作品をベースに
ある街の伴侶を亡くした女性たちを撮影した写真、彼女た
した演劇でヒロインを演じた寺島しのぶと、現代の文楽に
ちの古いスナップ写真の複写、その家の中や周辺を写した
ついて語り合った。
写真とを混在させて展示した《Widows》では、組み合わせ
「長いこと外国で暮らしてきたので、古典芸能の新解釈や
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Spring / Summer 2011 Vol. 27[ インタビュー ]
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日本文化を世界に発信するための若手の育成などを目指し、
や想像することを若い人にもプレゼンしたいですね」と言う
一昨年に小田原文化財団を立ち上げたんです。施設とプロ
寺島に、「想像力でファンタジーの世界に遊べます。見せす
グラムをつくろうとする過程で、神奈川芸術劇場ができるの
ぎてしまうとおもしろくない。いわくいい難いところがおもし
で、日本文学シリーズの一つとして文楽をやりませんかとい
ろいと思うんです」と杉本。1 月にオープンしたばかりの劇
うお話があり、演出、舞台美術など全てを杉本風にやらせ
場でまもなくお披露目になる、誰も観たことがない文楽誕生
てほしいとお願いしました。猛反対されるかと思いましたが、
の瞬間を楽しみに待ちたい。
意外にもみなさん積極的で、『やりすぎじゃないですか』っ
て逆にこちらが抑えるくらい。芸を持った人間国宝のかたが
たがこのチャレンジをおもしろがってくれていて、僕より過
杉本博司(すぎもと・ひろし)/現代美術家
激です」と、杉本は笑う。「バックグラウンドがあるうえで何
1948 年東京生まれ。’70 年に渡米。ニューヨークと東京を拠点に、写真・
かを変えようとか、杉本さんと出会って、新しく何かを生み
出そうとする方々は素敵ですね。基本を知っているからこそ、
自由に遊べて」と言う寺島に、「伝統文化だからと国が保護
美術・建築を横断して国際的に活躍。国内外の古物や日本の古典芸能
への造詣も深く、2009 年に高松宮殿下記念世界文化賞、’10 年に秋の
紫綬褒章受章。
し、それを決して変えてはいけないというのは、僕は違うと
寺島しのぶ(てらじま・しのぶ)/女優
思うんです」と語る杉本は、美術家ならではのアプローチ
1972 年京都生まれ。父と弟は歌舞伎役者、母も女優という役者一家で
で構成・演出・美術・映像の 4 役を手がける。
杉本が選んだ演目『曾根崎心中』は、文楽や歌舞伎の名
作として知られ、シェイクスピアの悲劇にも例えられる。し
かし、そこには日本固有の美学があると杉本は語る。「『ロミ
オとジュリエット』は、一緒に生きようとしていたのに死ぬこ
育ち、大学時代から女優として活躍。2010 年、若松孝二監督の『キャ
タピラー』でベルリン国際映画祭最優秀女優賞を受賞し、国内外で実
力派としての評価が定着。
- 文楽とは 江戸時代に大阪で生まれた人形芝居、人形浄瑠璃の通称。日本の重要
とになってしまった勘違いによる悲劇。あの世で結ばれると
無形文化財であり、能、歌舞伎と並び、世界無形遺産にも正式に登録
いう心中は、ある意味ハッピーエンドなんです」。寺島は「近
された。近松門左衛門は江戸時代前期に活躍した浄瑠璃と歌舞伎の作
松作品のヒロインを演じてみて、心中は2人だけの世界で
あり、その秘密感が美学かなと思いました」と微笑む。互
いの心を寄せ合って一体化し、「情を遂げる」心中は、ラブ
者で、1703 年に初演を迎えた『曾根崎心中』は、遊女のお初と恋に落
ちた徳兵衛が借金のトラブルを抱えて2人で心中したという、実際に起
きた同年の事件を元に書かれている。その後心中ブームが巻き起こり、
1723 年に幕府から上演禁止が言い渡され、200 年以上封印された。
とは違うというのが2人の共通見解のようだ。
現在の人形は、右手と頭、左手、そして足を3人の遣い
『杉本文楽 曾根崎心中』3 月 23 日〜 27 日
手がそれぞれ担当して動かすのが基本だが、近松時代と同
■神奈川芸術劇場 神奈川県横浜市中区山下町 281 様に1人で動かす人形を新作し、人形にはエルメスのスカー
www.kaat.jp sugimoto-bunraku.com
フで作った着物を着せる。長らく割愛されてきた冒頭の段を
300 年ぶりに復活させ、人間国宝の三味線奏者自らが作曲
したオペラ風の前奏曲を弾くという。斬新な試みを加えつつ
(p.117 左下)
杉本博司の作品群。左から Sea of Japan, Oki, 1987、Lightning Fields
144, 2009、Appropriate Proportion, 2002. Photography courtesy of
も原点に立ち戻った「杉本文楽」は、文楽を観たことがな
Gallery Koyanagi.
い若い世代にも、何度も観ているファンにも新鮮な体験に
©Hiroshi Sugimoto
なるに違いない。「今は息苦しい時代ですが、日本の美学
Spring / Summer 2011 Vol. 27[ インタビュー ]
49
(右中)
人形遣いの桐竹勘十郎さんが今回の公演のために作った、一人遣いの
お初人形。通常の一人遣い人形にはない動きができるように工夫が凝
らされ、魂が宿ったかのような細やかな動作や表情にどきっとさせられ
る。
(右下)
画家の山口晃が手掛けたチラシ。
撮影協力=(財)小田原文化財団
スタイリング=三塚亜以子
ヘア&メイク=片桐直樹 <e.a.t...>
寺島さんワンピース/ doo.ri(ブランドニュース)
Spring / Summer 2011 Vol. 27[ インタビュー ]
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J apanese tex t
2011年 春/夏号 日本語編
ているが、その生涯は謎に包まれたままだ。この春、東京
アート
国立博物館で開かれる写楽展では、写楽の正体探しばかり
文=白坂ゆり
p.118
風景を再生するアート
田窪恭治展 風景芸術
田窪恭治は、特定の現場に滞在して制作し、作家亡き後も
生き続けるような風景の芸術を作り出そうとしているアー
ティストだ。そのため、彼の作品は本来その場所に行かな
ければ鑑賞することはできない。しかし、今なら東京都現代
美術館で、この 20 年の代表的な二つのプロジェクトを体感
に心奪われることなく、歌舞伎役者の個性をとらえて単純化、
誇張化した表現にいま一度着目する。世界各国から貴重な
作品が一堂に集められ、他の絵師による同じ芝居の同じ役
を描いた作品との比較も行われる。写楽の独自性が浮き彫
りになるだろう。
4 月 5 日〜 5 月 15 日
東京国立博物館 平成館
東京都台東区上野公園 13-9
http://sharaku2011.jp
することができる。一つは、1989 〜 99 年、フランス・ノル
マンディー地方に移り住み、廃墟と化していた礼拝堂の修復
(写真)
と林檎の樹をモチーフに壁画を描いた「林檎の礼拝堂」の
《三代目大谷鬼次の江戸兵衛》寛政6年 (1794 年 ) 大判錦絵 アメリ
プロジェクト。もう一つは、2000 年から進行中の四国の「琴
平山再生プロジェクト」だ。金刀比羅宮から、田窪が椿を
カ・メトロポリタン美術館蔵 ©The Metropolitan Museum of Art / Art
Resource, NY
描いた襖絵を移設するなど、美術館バージョンとして壮大な
「風景芸術」が繰り広げられている。
5 月 8 日まで
東京都現代美術館
東京都江東区三好 4-1-1
www.mot-art-museum.jp
知られざる仏画
特別展「五百羅漢 増上寺秘蔵の仏画 幕末の絵師
狩野一信」
この春、法然上人 (1133-1212) 没後 800 年を記念して、増
上寺にて秘蔵されてきた仏画《五百羅漢図》が公開される。
羅漢とは、釈迦の教えを守り、悟りを開いた者のことで、5
(写真)
人ずつの羅漢が 100 幅に描かれている。1945 年に羅漢堂
《ヤブツバキ》2005 年 金刀比羅宮 白書院襖絵 撮影=河村圭一
を戦災で焼失して以来、公開することができなくなっていた、
©2011 Kyoji Takubo
その 100 幅すべてが展示される。作者は、狩野派の最後の
絵師、狩野一信(1816-1863)
。一信が 96 幅まで描いて病
江戸版ブロマイド
特別展「写楽」
寛政6(1794) 年、雲母刷りの豪華な役者大首絵 28 図を出
版し、華やかなデビューを飾った写楽。しかし、わずか 10
カ月の間に 140 点を超える浮世絵版画を残して姿を消してし
まう。1910 年、ドイツの浮世絵研究家、ユリウス・クルト
による研究書が発刊されて以来、世界的にその名を知られ
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没し、残り4幅を妻と弟子とで完成させた。狩野派に入門し
た一信は、12 歳で師を亡くし独学で大成したためか、地獄
からの救済図などを、伝統的手法に頼らず奇想天外に描い
ている。それらがずらりと並ぶ本展は、何よりも見逃せない。
3 月 15 日〜 5 月 29 日
江戸東京博物館
東京都墨田区横網 1-4-1
Spring / Summer 2011 Vol. 27[ アート & エンタテインメント ]
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http://500rakan.exhn.jp/
と、20 世紀のデザイン界を代表するイタリアの巨匠エットレ・
ソットサス (1917-2007)。二人の国や世代を超えた友情は、
(写真)
《五百羅漢図 第 22 幅 六道 地獄》
1981 年にソットサスを中心に結成され、倉俣も参加したデ
ザイン・グループ「メンフィス」の活動を通じて育まれた。
本展では、倉俣の 1981 年からの 10 年間の作品と、ソット
サスが晩年に残したドローイングをもとに制作した世界初公
女性アーティストの現在
クワイエット・アテンションズ 彼女からの出発
社会の変化とともに多様化している、今日の女性アーティス
開作品を紹介する。工業化が進み均質化していく社会に対
し、機能性や利便性にも増して、デザインを通じて生活に
喜びをもたらそうとした二人の夢を今こそ見直したい。
トの表現に焦点を当てた展覧会が水戸芸術館で開催中だ。
日本、韓国、ブラジル、インドなど9カ国 14 名の近作・新
作を展示。いずれも、身の回りにありながら人々が気づい
ていないささやかな存在に注意を傾けている。三田村光土
5 月 8 日まで
21_21 DESIGN SIGHT
東京都港区赤坂 9-7-6
http://www.2121designsight.jp
里は、旅先などで自ら撮影した写真や映像及び、誰かが撮っ
た写真やアンティークショップで見つけた雑貨などを再構成
(写真)
したインスタレーションで、見る者に物語を想像させる。表
上・倉俣史朗《ラピュタ》1991 年 ベッド Photo by Kishin
現媒体も手法も異なる木村友紀、ユタ・クータ、荒川医の
Shinoyama
協働によるインスタレーションも見もの。音や気配、記憶な
どを媒介に、他者と関係を結ぼうとする、観客に開かれた
下・エットレ・ソットサス《カチナ》2007 年 Photo / Erik & Petra
Hesmerg -Amsterdam, The Gallery Mourmans-Lanaken
展覧会だ。
5 月 8 日まで
水戸芸術館 現代美術ギャラリー
茨城県水戸市五軒町 1-6-8
www.arttowermito.or.jp
(写真)
光琳の二つの金屏風が再会
KORIN 展 国宝「燕子花図」とメトロポリタン美術
館所蔵「八橋図」
蒐集家で実業家、故・根津嘉一郎のコレクションに始まる
約 7,000 件の東洋古美術を保存・展示する根津美術館。開
館 70 周年を記念し、江戸時代の絵師・尾形光琳が描いた
左・三田村光土里《彼女のドレスの紫の花》2008
金地屛風の夢の共演が実現する。根津美術館が所蔵する国
右・木村友紀+ユタ・クータ+荒川医《Structure of Fantasy(管理企
宝《燕子花図》と、メトロポリタン美術館が所蔵する光琳
画のファンタジー)
》2010
筆の《八橋図屛風》が、約 100 年ぶりに一緒に展示される
のだ。《燕子花図》は、『伊勢物語』に登場する燕子花の名
デザインを通じた絆
「倉俣史朗とエットレ・ソットサス」展 夢見る人が、夢見たデザイン
日本が誇るインテリア・デザイナーの倉俣史朗(1934-1991)
所「八橋」で詠まれた和歌をもとに、鮮やかな群青と緑青
で燕子花の群生が描かれたもの。《八橋図屛風》は、その
十数年後に橋のモチーフを加えて再構築された。この機会
に二つの名作を見比べてみよう。
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21世紀型都市の提案
4 月 16 日〜 5 月 15 日
根津美術館
東京都港区南青山 6-5-1
www.nezu-muse.or.jp
Tokyo Metabolizing(仮題) 第12回ヴェネツィア・ビエンナーレ建築展帰国展
2010 年に行われた「第 12 回ヴェネツィア・ビエンナーレ
建築展」
。昨年のプリツカー賞受賞者、妹島和世による総合
ディレクションはもとより建築家の北山恒がコミッショナーを
(写真)
務めた日本館での展示もまた、未来の建築を予見するもの
上・国宝《燕子花図屛風》 六曲一双 江戸時代 18 世紀 根津美術
となった。その日本館の展示帰国展が開催される。1960 年
館蔵
に日本から世界に発信された「メタボリズム」は、都市を
下・《八橋図屛風》 六曲一双 江戸時代 18 世紀 メトロポリタン美
術館蔵 ©The Metropolitan Museum of Art
機械のように、機能部品の置き換えにより新陳代謝させると
いう提案であった。現在この概念は、一つ一つの建物が個
別に建て替わって変化しながら、街全体でそれをおおらか
建築と美術
青森県立美術館開館 5 周年記念展
青木淳×杉戸洋展 はっぱとはらっぱ
2010 年 12 月の東北新幹線全線開通により、アクセスが楽
に許容するといった新しい世代の建築/都市観に形を変え
て実践されているといえる。アトリエ・ワン(塚本由晴/貝
島桃代)
、西沢立衛、北山による実物の2分の1サイズの
住宅作品を通じて東京の現在を検証する。
になった青森県立美術館。隣接する三内丸山縄文遺跡の発
掘現場から着想された、青木淳設計による建物は、白く塗
装した煉瓦の量塊と切り込まれた地面とを凸凹に嚙み合わ
せるという工法により、ホワイトキューブと土の壁や床がコ
ントラストをなしている。開館5周年を迎え、青木淳と画家
の杉戸洋が、使い方次第でさらなる可能性を秘めたこの建
7 月 16 日~ 10 月 2 日
東京オペラシティアートギャラリー
東京都新宿区西新宿 3-20-2
www.operacity.jp/ag
(写真)
築の魅力を存分に引き出し、作品と建築が融合する展覧会
第 12 回ヴェネツィア・ビエンナーレ建築展 日本館展示風景
を試みる。実現されなかった建築案を具現化したり、普段
Photo by Andrea Sarti/CAST1466 Courtesy of 国際交流基金
は入れないバックスペースや屋外も使って新作絵画や立体
を展示したり。美術館全体を冒険してみよう。
4 月 23 日〜 6 月 12 日
青森県立美術館
青森市安田字近野 185
http://aokixsugito.com
(写真)
上・青木淳 青森県立美術館 2006 年 © 阿野太一
下・杉戸洋《pink Continental》2008 年 ©Hiroshi Sugito
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エンタテイ
ンメント
2006 年に直木賞を受賞し、累計 40 万部を超えた三浦しを
んの人気小説を、「ケンタとジュンとカヨちゃんの国」の大
文=工藤索太郎、白坂ゆり、松丸亜希子
p.120
伝説の女性、ミツコ
ミュージカル「MITSUKO」〜愛は国境を越えて〜
森立嗣監督が映画化。日本映画に欠かせない瑛太と松田龍
平が、東京郊外の街で便利屋を営みながら地域の人々と関
わり合い、仕事を超えて響き合う青年たちを演じる。彼らが
まとうミステリアスな雰囲気が、謎めいた過去を持つ人物像
20 世紀初頭のウィーンに、社交界の花形と呼ばれた日本人
にリアリティを与える。脇を固めるのは、監督の父・麿赤兒、
女性がいた。ミツコ・クーデンホーフ・カレルギー。彼女
弟・大森南朋をはじめ、実力と個性を持つ役者陣。季節を
の生涯を描いたミュージカルが日本で上演される。1874 年
追いかけるように物語が進行するが、初夏の爽やかな風が
に生まれた商家の娘ミツは 17 歳でオーストリアの外交官ハ
吹き抜ける時期に観るのにぴったりの作品だ。―A.M.
インリッヒ・クーデンホーフ・カレルギー伯爵と結婚。ロー
マ法王やオーストリア皇帝とも謁見する。物語は、夫亡き後
のミツコの孤独と、次男リヒャルト(パン・ヨーロッパ思想
の提唱者)との対立と和解を軸に進んでいく。2005 年に
ウィーンで上演されたコンサート版を原型に、脚本・作詞・
4 月 23 日より、新宿ピカデリー、有楽町スバル座ほか全国で公開
http://mahoro.asmik-ace.co.jp/
(写真)
©2011「まほろ駅前多田便利軒」製作委員会
演出の小池修一郎、作曲のフランク・ワイルドホーン(「ジ
キル&ハイド」「スカーレット・ピンパーネル」)が、ミュー
ジカルとして完成させたもの。世界初演で海外での上演も
見据える。―S.K.
国際的に活躍するフラメンコギタリスト
沖仁 SPRING TOUR 2011 〜Con Palmas〜
5 月 15 日~ 23 日 セラニート、ハビエル・コンデ、クレモンティーヌ、葉加瀬
■梅田芸術劇場 大阪市北区茶屋町 19-1 太郎、Saigenji、coba など、国内外の多彩なアーティストと
5 月 27 日~ 29 日
共演。正統派でありながら、ジャンルを軽やかに超えて活
■中日劇場 名古屋市中区栄 4-1-1 中日ビル 9 階
6 月 11 日~ 29 日
■青山劇場 東京都渋谷区神宮前 5-53-1
http://mitsuko2011.com/
躍するフラメンコギタリスト沖仁が、国内4カ所のライブツ
アーを行う。NHK 大河ドラマ「風林火山」の紀行テーマ曲
の提供、FUJI ROCK FESTIVAL 出演、南米ツアー、スペイン
やイタリアでの公演など活動は多岐に亘り、2010 年7月に
(写真)
左・ミツ(安蘭けい)
右下・左:ミツ(安蘭けい)、右:ハインリッヒ(マテ・カマラス) 撮影=村尾昌美
は、
スペインの3大ギターコンクールのひとつ、権威ある「ム
ルシア『ニーニョ・リカルド』フラメンコギター国際コンクー
ル」国際部門で、日本人初の優勝という快挙を達成。ます
ます注目が集まっている。―A.M.
3月4日
何でもこなす便利屋2人組
名古屋ブルーノート 名古屋市中区錦3-22-20 ダイテックサカエビルB2
まほろ駅前多田便利軒
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3月10日
ビルボードライブ大阪 大阪市北区梅田2-2-22 ハービスPLAZA ENT B2
3月19日 モーション・ブルー・ヨコハマ 横浜市中区新港1-1-2 横浜赤レンガ倉庫
2号館3階
帝劇百年
帝国劇場の100周年
東京の皇居前にある帝国劇場は 1911 年 3 月 1 日に開場。
今年で 100 周年を迎える。当時の政財界有力者の尽力によ
3月21日 り開場した日本初のヨーロッパ式演劇劇場で、オペラやシェ
ブルーノート東京 東京都港区南青山6-3-16 ライカビル
イクスピア作品、歌舞伎も上演された。震災と老朽化で2
度の建替えが行われたが、今も「帝劇」の略称は日本の演
(写真)
© 大木大輔
劇ファンに親しまれ、この劇場で上演される作品に出演する
ことは日本の演劇における一流の証ともいえる。近年は、日
本の演劇界のミュージカル人気を反映して、海外のヒット作、
ビジュアル・パフォーマンス
梅田宏明
「Holistic Strata(ホリスティック・ストラータ)
」
舞台の映像やサウンドも自ら制作し、パソコンを携え、身一
つで世界の主要な劇場やフェスティバルを飛び回っている、
振付家、ダンサー、ビジュアルアーティストの梅田宏明。
1977 年に東京で生まれ、20 歳でダンスを始めた注目アー
オリジナルのミュージカル作品の上演が多い。100 周年記
念で選ばれた 2011 年の主な公演予定作品も、帝劇の歴史
にその名を刻んできた「レ・ミゼラブル」「風と共に去りぬ」、
そして日本初上演の「三銃士」などミュージカルが中心。
―S.K.
■帝国劇場
東京都千代田区丸の内 3-1-1 www.toho.co.jp/stage
ティストだ。光や音の粒子に溶け出すような身体。彼の作り
「レ・ミゼラブル」4 月 12 日~ 6 月 12 日
出す舞台では、身体も舞台上の要素の一つであり、照明や
「風と共に去りぬ」6 月 18 日~ 7 月 10 日
音響はダンスを見せるための従属的なものではなく、光、音、
「三銃士」7 月 17 日~ 8 月 26 日
身体のすべてが等価となる。山口情報芸術センターで滞在
制作し2月に公演した新作「Holistic Strata」のインスタレー
ションを東京で発表。梅田が選んだダンサーによるパフォー
マンス公演もある。3月末のヨーロッパツアーの前にぜひ
(写真)
左・1911 年 3 月、オープン当時の帝劇 © 東宝演劇部
右下・「レ・ミゼラブル」前回公演より © 東宝演劇部
チェックを。―Y.S.
3 月 4 日〜 13 日
■森下スタジオ
東京都江東区森下 3-5-6 http://precog-jp.net
日本発の新しい音楽の波
ソノダバンド
J-Pop ともアニメソングとも違う、日本発の新しい音楽が飛
(写真)
躍しようとしている。20 代半ばの男たちによるヴァイオリン、
《Holistic Strata》
チェロ、キーボード、ギター、ベース、ドラムの6人編成
提供=山口情報芸術センター[YCAM]
のインストルメンタル・バンド、ソノダバンド。ヴォーカル
はないが、 演奏から歌が聴こえると評価される。 結成は
2006 年。ライブやインディーズ CD 発売などを経て、2010
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年 3 月にテキサス州オースティンで開かれた音楽イベント
話題に。ジム・オルークの抑制された音楽、観光地とは異
「SXSW」で大喝采を受け、10 月にメジャーデビュー。3 月
なる街の表情をダイナミックに映す近藤龍人のカメラワーク
からアルバムタイトルを冠したライブツアー「Renaissance
も秀逸だ。―A.M.
Ⅱ」をスタートする、いま日の出の勢いがあるバンドである。
―S.K.
日本全国の劇場で上映中 www.kaitanshi.com
3 月 9 日〜 13 日 第 13 回ドーヴィル・アジア映画祭で上映
3月2日、
「フェルメール《地理学者》
とオランダ・フランドル絵画展」
(3月
3日〜5月22日、Bunkamuraザ・ミュージアム)公式テーマ曲「光、透明、
または情熱」のCDを発売 3月18日 SXSW 2011(Elephant Room)
ほかにアメリカ国内数カ所でライブ予定
問い合わせ先:[email protected]「Renaissance Ⅱ」ツアー
4 月 22 日 名古屋 ell SIZE
4 月 27 日〜 5 月 1 日 第 11 回ニッポン・コネクション(フランクフルト)
で上映
4 月 28 日〜 5 月 6 日 第 12 回チョンジュ国際映画祭で上映
(写真)
©2010 佐藤泰志/「海炭市叙景」製作委員会
4 月 23 日 高松オリーブホール
4 月 27 日 札幌 KRAPS HALL
4 月 29 日 神戸 Chicken George
4 月 30 日 大阪なんば Hatch
5 月 13 日 米沢市民文化会館
桜と音楽の競演
東京・春・音楽祭―東京のオペラの森2011―
5 月 15 日 仙台市民会館
江戸時代から続く桜の名所、上野公園。上野は音楽や美術
5 月 31 日 東京国際フォーラム ホール C
の中心地でもあり、東京文化会館、東京国立博物館、国立
www.sonodaband.jp
(写真)
©Thirdnote company
西洋美術館など、公園を囲む文化施設を会場に音楽祭が開
催される。7年目となる今年は、豊かな音楽性で欧米の楽
壇で注目を集める 32 歳の指揮者アンドリス ・ ネルソンスが、
前回からスタートした NHK 交響楽団とのワーグナー ・ シリー
ズに初登場し、オペラ「ローエングリン」を指揮するほか、
北海道の光と闇
海炭市叙景
美術展に合わせた「レンブラント 光の探求/闇の誘惑」記
念コンサート、東京オペラシンガーズによる懐かしい日本の
歌の合唱、大活躍の高校生フルーティスト・新村理々愛の
5度も芥川賞にノミネートされながら、1990 年に 41 歳で自
リサイタル、アルゼンチン・タンゴの夕べなど、約 60 公演
ら命を絶った北海道函館市出身の小説家、佐藤泰志。未完
を予定。―A.M.
の遺作となった連作短編小説を映画にしたいと望む市民の
呼び掛けで、帯広市出身の気鋭の監督、熊切和嘉がメガホ
3 月 18 日〜 4 月 10 日
ンを取った。18 編から選んだ5編のエピソードをからめ、
■上野恩賜公園 地方都市で懸命に生きる人々の姿を温かなまなざしで描き
東京都台東区上野公園・池之端 3 丁目 www.tokyo-harusai.com
出す。市民主導による製作委員会が募金で 1200 万円を集
め、プロの俳優に交じって市民がキャストとして参加するな
ど、函館市民参加で架空の「海炭市」を作り上げたことも
(写真)
左・アンドリス ・ ネルソンス ©Marco Borggreve
右下・© 青柳聡
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N ext Issue
2011年 秋/冬号 次号予告 日本語編
■ 巻頭特集
日本海ライフ──食とアートのカントリーサイド
東京とは反対に位置する海、日本海。北陸エリアは、
大陸と海の影響を受ける気候が豊富な積雪をもたらし、自然豊かな土地を育みました。
食や住まいの魅力がたっぷり。世界遺産の五箇山から加賀百万石の雅な伝統文化を引き継ぐ金沢まで。
海道を巡って人々のライフスタイルを訪ねます。
■ 特集
海を渡った民藝
民衆が生み出す雑器や道具に美を見出し、民藝運動を展開した柳宗悦。
英国の陶芸家・バーナード・リーチにより民藝は世界に認知されるとともに、
その精神は受け継がれ今も私たちの暮らしを素朴な美が彩ります。
民藝の大きな個人コレクションを訪ねてスイスを訪ねます。
「伝統+デザイン」家具のニューウェーブ
最近よく話題にのぼるのが、デザイナーと伝統工芸の職人たちとの華麗なコラボレート。
モダンなデザインコンセプトに沿って、匠たちが匠の技を発揮して作る家具や
プロダクツの評価がにわかに高まってきました。
モノ作りに徹底したこだわりをもつ職人ならではのラグジュアリーな世界に迫ります。
日本美新発見。和の美術館アート散歩
西洋美術館も現代美術館もそれぞれによいけれど、
日本の美術館で見るべきものといえばやはり日本の伝統美術。
今、どこに行って何を見るか? 見方を知れば、これほどに面白いものはない。
日本美術の全貌を学び、制覇したい人のための、美術館学芸員の案内による日本美術徹底ガイドです。
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