第 58号 北海学園大学人文学部

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北海学園 大 学
第 5
8号
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井上
池内
真蔵教授
靜司教授
北海学園大学人文学部
2
01
5年3月
執筆者紹介
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(日本文化学科:教 授)
(英米文化学科:教 授)
(英米文化学科:教 授)
(英米文化学科:教 授)
(英米文化学科:教 授)
(英米文化学科:教 授)
(日本文化学科:教 授)
(英米文化学科:教 授)
(英米文化学科:准教授)
(日本文化学科:教 授)
(日本文化学科:教 授)
(北海学園大学:名誉教授)
(英米文化学科:元教授)
東京大学大学院医学系研究科国際保 学
専攻人類生態学教室:准教授
(北海学園大学人文学部:非常勤講師)
北海学園大学人文学部:日本文化学科卒業)
(
(
北海学園大学
)
人文論集
第 58号
2015(平成 27)年3月 3
1日
編
集
田
仲
中
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綾(日本文化学科)
子(英米文化学科)
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者
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淳
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北海学園大学人文学部
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5札幌市豊平区旭町4丁目 1番 4
0号
電話(0
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印 刷 ・ 製 本 ㈱アイワード
札幌市中央区北3条東5丁目
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タイトル1行➡3行どり
タイトル2行➡4行どり
献
辞
人文学部長
郡
司
淳
私どもの敬愛する井上真蔵先生と池内靜司先生が,2
015年3月末日を
もって退任されることになりました。誠に残念ではありますが,ご退任に
あたり,学部を代表して送別の辞を述べます。
井上真蔵先生は,19
72年3月国際基督教大学大学院行政学研究科修士課
程国際関係論専攻修了後,同大学社会科学研究所助手・トロント大学大学
院政治経済学研究科博士課程国際関係論専攻を経て,1
983年4月に北海学
園北見大学講師に着任され,北海学園北見女子短期大学助教授・同教授を
経て,1995年4月に北海学園大学人文学部に教授として異動されました。
先生のご専門は国際関係論ですが,とくにカナダ留学後は異文化接触と
いう視点で日本とカナダの姉妹都市
流に関する事例研究を蓄積してこら
れました。その成果は, 世界の議会
第1
1巻/カナダ・中米(1
9
83年)
や カナダの政治 (1978年)といった共著・共訳書,さらには ボーダー
1年)や 転換期にたつ姉妹都市
を越える ケベックの歌姫 (200
流成果を明日に架ける橋に
流
얨
얨(200
9年)をはじめとする多くの論文に
結実しております。
授業では,学部の北米
쒀・北米文化論쒀・異文化理解論・専門演習な
どを担当され,とくに実践的思
力の育成を重視し,具体的事例を通して
文化的仕組みとそれを貫く価値観を読み取る教育を重ねられ,多くの優れ
た学生を社会に送り出してこられました。また学内委員としては,協議委
員・学科委員・入試委員(2期)・就職委員・学生委員・外国人教員採用委
員会委員長・ 海外文化
評価委員会委員長・在外研修委員などを歴任され
ておられます。
先生は,こうしたご業績と,カナダ政府国費留学生としての8年におよ
1
ぶ留学体験を背景に,多年にわたって日本カナダ学会理事と北海道カナダ
協会理事を務められ,
さらに 2
007年からは北海道カナダ姉妹都市会議を主
宰されるなどの重責を担われ,日本・カナダ両国の真に実りある
流の実
践に力を尽くしてこられました。
池内靜司先生は,19
83年3月北海道大学大学院文学研究科修士課程英語
英米文学専攻修了後,同年4月に北海学園大学教養部講師に着任され,同
助教授・共通教育研究センター助教授・経済学部教授を経て,20
07年4月
に人文学部に教授として異動されました。
先生の研究
野は英文学で,大学院在学中から T.S.エリオットの研究
に取り組まれ,爾来 30年以上にわたってその文学,特に批評を中心に研究
してこられました。その成果は,T.S.エリオットの文学と哲学論文(1
9
8
7
年)や T.S.エリオットの宗教的感受性とブラッドリー哲学の研究 (1
9
8
8
年)をはじめとする多くの論文にまとめられています。とくに,1
9
9
1から
92年にかけてイギリス・ケンブリッジ大学に在外研修に赴かれた際,当時
未刊行であったエリオットのクラーク講義の原稿を発見され,
これを基に,
T.S.エリオットの詩論とダン批評の展開
て
얨(本田錦一郎編 近代英文学への招待
へ
얨씗北星堂,19
98年>所収)を
얨クラーク講義を資料に加え
얨形而上派からモダニズム
表され,学界から高い評価を得まし
た。
授業では,一般教育科目では英語講読・英語文化演習・外国文学などを,
専門科目では英米文学講読・専門演習などをそれぞれ担当され,学生の指
導に熱心にあたるかたわら,教養部・経済学部・人文学部において協議員・
教務委員(2期)
・入試委員・学生委員・就職委員・高大連携検討委員・高
大連携実施委員長・教育開発運営委員・基本権委員・英語小委員長などを
歴任されました。さらにこの間,日本英文学会北海道支部理事や日本 T.S.
エリオット協会委員などの重責を担われ,日本における英文学研究の発展
に意を用いてこられました。先生の誠実な態度は,いずれの職務にあって
も一貫して変わることなく,まさに周囲の模範となるとともに,同僚や後
輩の良き相談相手として,骨身を惜しまず問題解決に奔走されました。
2
奇しくも同じ 1
9
83年に北海学園に赴任されて以来,
井上先生はお生まれ
になった上方の文化が生み育てた洒落に,池内先生はイギリス仕込みの
ウィットに富んだ会話に,批判精神を忍ばせることで,しばしば場の閉塞
状況を打開し,長きにわたって本学で重きをなしてきました。両先生は,
旧制大学から引き継がれた日本の大学の古き良き伝統に根ざした昔気質と
もいうべきものをお持ちの最後の世代で,教養によって織りなされた独特
の型がおありでした。 改革 の名の下に,大学から批判精神が喪われつつ
ある昨今の状況を思うにつけ,今
ながらに両先生の存在の大きさを痛感
しております。
なお両先生には,多年にわたり,研究・教育・大学運営の諸活動をとお
し,本学の発展に寄与された功績により,201
5年4月1日付けで名誉教授
の称号が授与される予定であることを申し添えます。
井上真蔵先生,池内靜司先生,どうかいつまでもお元気で,後進の指導
にあたられるとともに,大学の将来を見守ってください。両先生のますま
すのご活躍とご
勝を祈念し,はなむけの言葉といたします。
3
井上真蔵教授
タイトル1行➡3行どり
タイトル2行➡4行どり
若い力が未来を切り開く
井
上
真
蔵
北海学園北見大学に赴任したのは 3
2年前のことです。振り返ってみれ
ば,アッという間の 32年間でした。初めて教え始めた時には,新入生とは
20歳の年の差でした。しかし,今では半世紀という年齢差になってしまい,
やはり様々な点でジェネレーション・ギャップを感じる日々となってしま
いました。
北海学園大学には人文学部の
設とともに赴任してきましたが,今から
思えば真に牧歌的とも言える時代でした。今では年3回のオープンキャン
パスも
母懇談会も当たり前のことになりました。入試には,センター試
験の1期と2期が加わりました。当時はこのようなことは何もなかった時
代で,そんなところにも時代の変化を感じない訳にはまいりません。また
今日では,スーパーグローバル大学というスローガンのもとに,大学にま
で国際化の波が押し寄せて,自ら変革せざるをえない時代となってきまし
た。ほんとうに大変な時代になったと感じます。しかし,人文学部の若い
先生がたの近頃の活躍ぶりを目の当たりにして,非常に心強く感じている
0も間近になると,自
次第です。もう 7
で掛け声をかけても,体がついて
いかなくなってきますが,さすがに若い方たちは,掛け声をかけるまでも
なく次から次へと仕事をこなしていっています。まさに人文学部の明るい
未来を感じさせるものだと思っています。
変革の兆しとして,カナダでの研修にテーマを与えてはという意見とか
15回の授業の中に組込んではとの議論も聞かれ始めました。何らかの工夫
をすれば現在の研修を充実させることができるものと思います。
これまで,
カナダの歴
やカナダ文化,あるいは異文化理解論の授業の中で,ブロッ
ク大学研修と関連ある事柄を取り上げるようにしてきました。しかし,ブ
7
ロック研修に参加する学生の中でも,興味のある一握りの学生が学ぶに過
ぎませんでした。実は,オンタリオ州自体がアパー・カナダと呼ばれてい
た時から
国の中心的な役割を果たしました。ブロック大学のあるナイア
ガラ地域は,
アメリカ軍が 1
81
2年に侵入してきて激戦地となった場所でも
あり,辺りには多くの歴
的遺跡などが存在しています。そして,ブロッ
ク大学という名前自体,1
81
2年の戦争の英雄アイザック・ブロック少将を
たたえて
設された大学です。このような所ですから,適切なテーマはい
くらでもあると思います。また,異文化理解論の視点からは,ホームステ
イ先もそうですが,ブロック大学のキャンパスや教室内もまさに格好の異
文化
流実践の場所と言えるでしょう。そのような環境の中で,自らの目
で観察したり,インタビューをしたりして,素晴らしい成果をあげること
ができるものと思います。しかし,本気でやろうとすれば,各テーマをど
のように位置づけるのかという全体的な知識と視点が不可欠であり,学生
たちにしてもかなりの準備と勉強が必要になると思います。
思えばこの 20年間,人文学部では自由な教育と研究生活をおくらせてい
ただいたことは,何よりも有り難いことでした。同僚のみなさま方と事務
の方々にお礼申し上げます。生まれ育った淡路島を出たのが半世紀前のこ
とです。まさか札幌という北の大地で,このような幸せな定年退職を迎え
るとは思いもよりませんでした。
去り行く身ではありますが,これからも陰ながら応援をしてゆきたいと
思っています。どうか力を合わせて,人文学部の未来を切り開いていかれ
ますよう祈っております。
8
略
井上
真蔵
学
歴
194
6年 1
2月6日生
歴
昭和 44年3月
北九州大学外国語学部米英学科卒業(文学士)
昭和 44年4月
国際基督教大学大学院行政学研究科修士課程国際関係論
専攻入学
昭和 47年3月
国際基督教大学大学院行政学研究科修士課程国際関係論
専攻修了(行政学修士)
昭和 51年9月
トロント大学大学院政治経済学部博士課程国際関係論専
攻入学(カナダ政府国費留学生)
昭和 58年3月
職
トロント大学大学院博士課程単位取得
歴
昭和 47年4月∼昭和 48年3月
国際基督教大学社会科学研究所助手
昭和 48年4月∼昭和 50年8月
国際基督教大学社会科学研究所研究員
昭和 58年4月∼昭和 59年3月
北海学園北見大学講師
昭和 59年4月∼昭和 62年3月
北海学園北見女子短期大学助教授
昭和 62年4月∼平成 7 年3月
北海学園北見女子短期大学教授
平成 7 年4月∼現在に至る
北海学園大学人文学部教授
所属学会等
昭和 47年9月∼昭和 55年8月
日本国際政治学会会員
平成 9 年9月∼平成 14年8月
日本コミュニケーション学会会員
昭和 55年7月∼現在に至る
日本カナダ学会会員(理事)
平成 17年4月∼現在に至る
北海道カナダ協会会員(理事)
9
主な研究業績
著書・論文
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78年。
1巻
4. カナダの選挙 ,辻清明監修 世界の議会 1
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3年。
5. 異文化接触とコミュニケーション , 北海道から (特集:国際
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見大学論集
1
6号,北海学園北見大学,19
86年。
8. Bur
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ed 北見大学論集 1
北海学園北見大学,1
9
87年。
9. 国際化の一側面
見大学論集
얨北海道とカナダとの姉妹都市関係について ,北
2
9号,北海学園北見大学,19
93年。
10
. カナダのイメージ
얨異文化接触としての姉妹都市関係の視点より
(I) 人文論集 (第9号),北海学園大学,19
9
7年。
11
. ボーダーを越える ケベックの歌姫
10
, 人文論集 (第 2
0号),北海
学園大学,2
0
01年。
12. カナダとの姉妹都市関係の特徴とその影響
ケースについて
얨江東区とサレー市の
얨, 人文論集 (第 26
・2
7合併号)
,北海学園大学,
2004年。
13. カナダとの姉妹都市関係
얨何を学ぶか
얨, めいぷる 北海道カ
ナダ協会会報
(第 71号・ 立 2
5周年記念号),北海道カナダ協会,2
0
0
4
年。
14. カナダとの姉妹都市関係の特徴とその影響
ホース市のケースについて
얨牛久市とホワイト
얨, 人文論集 (第 3
1号),北海学園大
学,2
005年。
15. カナダとの姉妹都市関係の
都市関係
析
얨世田谷区とウィニペグ市の姉妹
얨, 人文論集 (第 34号),北海学園大学,2
0
06年。
16. カナダとの姉妹都市関係の特徴とその影響
ン市のケースについて
얨板橋区とバーリント
얨, 人文論集 (第 3
7号),北海学園大学,
2007年 10月。
17. 異文化接触としての姉妹都市
る , 開発論集
流
얨日本とカナダの事例から
え
第 84号,北海学園大学開発研究所,2
0
0
9年9月。
18. 転換期にたつ姉妹都市
流
얨 流成果を明日に架ける橋に ,北海
学園大学学園論集 (第 141号),20
09年9月。
19. 事例に見る効果的な姉妹都市
流推進のヒント , めいぷる (第 7
9
号),北海道カナダ協会,20
1
0年3月 31日。
20. 異文化接触としての姉妹都市
スター市のケース
流
얨守口市とニューウエストミン
얨, 人文論集 (第 53号),北海学園大学,2
0
1
2
年 11月。
翻訳
・J.リッカー,J
9
7
8年。
.セーウェル カナダの政治 ,ミネルヴァ書房,1
担当箇所(4章:カナダの議会制度,5章:議会と新聞,6章:オタワ
と州;日本におけるカナダ研究振興事業としてカナダ大
供)
11
館より資金提
書評
・グレアム・T・アリソン
決定の本質
얨キューバ・ミサイル危機をめ
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on:Essence of Decision-Explaining the
Cuban Missile Cr
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1),モートン・H・ハルペリン
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), 国際政治
Policy ,1974
日本国際政治学会,1
9
76年7月。
その他
・ 学生時代の私
얨武蔵野のキャンパスで ,北海道から:特集北海学園
大学人文学部のすべて
北海学園,1
99
3年1月。
・ カナダの大学に見るグローバル化の胎動 , 日本カナダ学会北海道
ニュース
2
0
02年3月 31日。
・ 異文化の中の図書館 , 図書館だより
20
05年 10月 31日。
・ 私が薦めるこの1冊:林文子 失礼ながら,その売り方ではモノは売れ
ません , 図書館
り
2011年 1
0月。
00
1年。
・ Hel
l
o 学問,Goodbye 勉強 , 大学案内 北海学園大学,2
・ ブルームボール , カルガリー , メイプル豆辞典
日本カナダ学会,
2012年。
・ 北海道カナダ姉妹都市会議 , 日本カナダ学会北海道ニュース 2
0
13年
3月 31日。
・ 異文化と姉妹都市
流 , 北海学園大学学報
201
3年 12月1日。
学会発表等
・ Si
s
t
erCi
t
yRe
l
at
i
onsbet
we
enHokkai
doandCanada, Symposium:
Japan in Canada and Canadian Studies in Japan,日本カナダ学会北海
道支部研究大会,北海道大学,1
99
0年4月 21日。
・ 姉妹都市関係とコミュニケーション 日本コミュニケーション学会,第
6回北海道支部大会,札幌大学,1
997年 1
0月 2
5日。
・ 北海道とカナダ:
して
流の現状と課題
日加フォーラム・シンポジウム
テル,1
998年 1
0月 1
6日。
12
얨親善
流から相互学習を目指
カナダに学ぶ ,札幌グランドホ
・ 変化する社会におけるコミュニケーション 日本コミュニケーション学
会,第7回北海道支部研究大会,札幌大学,1
9
98年 10月 17日。
・ カナダに見るグローバルコミュニケーション
える
얨日本人の視点から
얨 日本コミュニケーション学会北海道支部第 10回研究大会,北
星学園大学,2
00
1年 1
0月 1
3日。
・ カナダとの姉妹都市関係
얨何を学ぶか
ナダ学会・北海道カナダ協会
얨 日加修好 7
5周年・日本カ
立 25周年記念事業,カナダ大
館・日本
カナダ学会・北海道カナダ協会主催,北海学園大学国際会議場,2
0
04年
8月 21日。
・ 事例に見る効果的な姉妹都市
流推進のヒント (基調講演)
第1
8回北
海道・カナダ姉妹都市会議,札幌プリンスホテル国際館パミール,2
0
0
9
年6月 11日。
・ ホームステイを
える
第 19回北海道・カナダ姉妹都市会議,かでる
2・7,2
01
0年 1
0月 2
6日。
学会活動1(日本カナダ学会北海道地区研究会開催)
・高木康一(北海道教育大学教育学部函館 ・准教授) カナダの統治機構
のユニークな構造 ,北海学園大学,2
01
0年 1
2月 11日。
・長谷川圭佑(元北海道カナダ協会事務局長) 北海道カナダ協会 3
4年の
活動を振り返って ,北海学園大学,2
0
11年7月 2
3日。
・小滝聰(拓殖大学北海道短期大学副学長) 深川市の姉妹都市
流の経過
と課題 ,2012年3月 17日。
・菊地洋(岩手大学教育学部准教授) カナダにおける多文化主義
性に配慮する権利解釈
얨多様
2年 12月8日。
얨,北海学園大学,201
・岡部敦(札幌大谷大学講師) アルバータ州の高
職業教育政策 ,北海
学園大学,2
0
13年 1
2月7日。
学会活動2(日本カナダ学会北海道地区会報発行)
・ 日本カナダ学会北海道ニュース (第 26号)
,20
1
1年3月 3
1日。
( カナダデモクラシーの一形態 , 北海道カナダ協会事務局長に就い
て )
13
・ 日本カナダ学会北海道ニュース (第 27号),2
0
12年3月 3
1日。
(
ってみたいカナダ人宣教師の足跡 , 転機を迎えた姉妹都市
流 )
・ 日本カナダ学会北海道ニュース (第 28号)
,2
01
3年3月 3
1日。
(多文化主義と文化多元主義
얨カナダ社会の多様性 , 北海道カナダ
姉妹都市会議 )
・ 日本カナダ学会北海道ニュース (第 29号)
,2
01
4年3月 3
1日。
(ア ル バータ 州 の 高
職 業 教 育 政 策 に つ い て ,〝Tokyo For
um,
Sappor
oSympos
i
um,andHi
ghSc
hoolVi
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s― A Me
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abl
eExpe
nce")
r
i
e
社会活動(北海道カナダ姉妹都市会議企画実施)
・第 16回北海道カナダ姉妹都市会議
(転機にたつ姉妹都市
ナダから何を学ぶか
流
얨今,カ
얨),北海道カナダ協会,かでる2・7,2
00
7年 12
月3日。
・第 18回北海道カナダ姉妹都市会議
(
流の成果の蓄積と活用をどのよう
,北海道カナダ協会,かでる2・7,2
00
9年6月 1
1日。
に進めるか)
・第 19回北海道カナダ姉妹都市会議
(ホームステイを楽しもう
얨ホーム
ステイのノウハウと心構え)
,北海道カナダ協会,かでる2・7,2
01
0年
10月 26日。
・第 20回北海道カナダ姉妹都市会議
(姉妹都市ホームステイ
얨その意義
と効果)
,北海道カナダ協会,かでる2・7,2
0
11年 11月 13日。
・第 21回北海道カナダ姉妹都市会議(姉妹都市事業の果たす役割につい
て),北海道カナダ協会,北海道銀行本店ビル会議室,20
1
2年 11月 16日。
・第 22回北海道カナダ姉妹都市会議(姉妹都市
流と地域振興)
,北海道
カナダ協会,北海道銀行本店ビル会議室,2
0
13年9月 1
3日。
・第 23回北海道カナダ姉妹都市会議
(カナダの行政制度の理解を通した今
後の
流事業への取組)
,北海道カナダ協会,札幌プリンスホテル,2
0
1
4
年 11月 28日。
14
タイトル1行➡3行どり
タイトル2行➡4行どり
井上真蔵先生を送る
常
見
信
井上真蔵先生が3月にご退職されます。先生は,1
9
95年4月に
代
設3年
目を迎える北海学園大学人文学部に英米文化学科教授として赴任されてま
した。したがって,本学部の在職は実に 2
0年目になり,学部
設期のご苦
労を知る数少ない教員のおひとりが去られることになりました。さらに,
先生はその前の 1
2年間を北海学園北見大学で勤務されていますので,
学
法人北海学園に 3
2年間奉職されたことになります。
まさにその半生を学園
における教育と研究に捧げたと言っても過言ではないでしょう。
研究室も教授会の席も隣である縁から, 越ですが,日ごろの感謝をこ
めてひとこと述べさせていただきます。ただし,以前,先生は
隣り合わせだと,何となくお互いの
書かれていますが( 人文論集
研究室が
囲気が伝わってくるものである
4
8号,12頁)
, 隣組
と
であっても鈍感人
の私は,
先生とは違います。
お門違いの話になると思いますが,
たとえ 困っ
たもんだね常見さんは と思っても, 大人 の先生は,淡路島仕込みの関
西風イントネーションで
よかったよ
と必ず笑顔で仰るはずです。そし
て,いつものように数日か一週間後くらいに
あれねー……
とやんわり
と厳しくご指摘してくださるはずです。この
柔らかさ
怖さ
と
は,
先生のご研究のなかで培われたものなのであります。
井上先生のご専門は国際関係論であり,トロント大学大学院での8年間
の研究生活を終えて帰国後は,日本とカナダの姉妹都市
という視点で事例研究を集積・
との姉妹都市の
流を異文化接触
析されています。先生によれば,カナダ
数は 7
0とのことで,このうち 60余りの市町村(うちカ
ナダは 15)を先生は実際に訪れ,双方の自治体に残る膨大な記録を渉猟さ
れ,また中学生や農家のおじさんなど
15
流参加者や自治体職員に面会して
調査されています。その調査項目は実に細やかで,それぞれの国では当た
り前のことが異文化接触となる瞬間をとらえ,その対応例,解決例を積み
上げ,さらに草の根
流の参加者がその体験を通してカナダあるいは日本
に対する認識をどのように変化させたかをまとめられています。
井上先生の事例
析や結論から学ぶべきことは多く,たとえば, 大人
の先生は口をはさむことはしませんでしたが,本学の海外
流プログラム
にも活用すべきと思ってきました。また,異文化に接触して自
も変わら
なければならないという示唆は,昨今のヨーロッパで 国民 統合をめぐっ
て起きている 西欧的普遍主義 を
文化は尊重しましょう
える際にも参
になるでしょう。 異
と繰り返していれば事足りた時代は,とうに過ぎ
たのです。
井上先生,長い間のご指導ありがとうございました。どうか,ご
勝に
て,今後も日本カナダ学会理事,また北海道カナダ姉妹都市会議主宰とし
て日本とカナダ両国の実りある
流にご尽力されますように願っていま
す。ところで,先生の隣の研究室からどんな
囲気が伝わったのでしょう
か。いま伺いたくもありますが,怖くもありますので,訳が
ているはずの 10年後にでも,お聞かせください。
16
からなくなっ
池内靜司教授
タイトル1行➡3行どり
タイトル2行➡4行どり
씗退職にあたって>
池
内
靜
司
北海学園大学にお世話になって,今春で 32年になります。今は廃止と
なった教養部を振り出しに,大学改革の進展とともに,共通教育センター,
経済学部と所属が変わり,200
7年4月に人文学部英米文化学科へ配属とな
りました。これまでの人生のほぼ半
を,大学の発展とともに過ごさせて
いただいたことになります。
振り返ってみますと,この間の大学の変貌には目を見張るものがありま
した。32年前,勤務し始めた頃は,6号館,7号館はまだ計画もされてい
なかったようですし,5号館と図書館が
設されたのは,数年が経過して
からのことでした。各課や学部事務が並んでいる1号館や3号館の一階の
様子は,家のリフォームを扱った番組で取り上げられる家屋ほども大きく
変貌したように思われます。古い
舎の記憶とともに,各種委員会の仕事
に追われていた頃のことが懐かしく思い出されます。当時の委員の方々が
今では
えられないほど若々しい姿で甦ってきて,思わず微笑ましい気持
にもなります。
私の担当科目は共通教育の
英語
でしたが,人文学部開設後のかなり
早い時期から英米文化学科の専門科目である
また,数年の間
英国文化論講読
英米文学講読
を兼担し,
を担当する機会をいただき,人文学部
に配属になる以前から学部との縁はそれなりに深かったのだと感じていま
ハーディ
す。 英米文学講読 でこれまでに扱った作品は,19世紀の作家 T.
や 20世紀の小説家 J
0世紀の詩人 T.S.
エリ
.ジョイスらの短編小説,2
オットの詩劇,1
9世紀の随筆家チャールズ・ラムの シェイクスピア物語
などが主なところでした。ラムの場合はシェイクスピア作品の導入という
19
意図で取り上げましたが,他の作家の場合は,1
9
∼2
0世紀初頭の英文学
上に見られた一つの動向を捉えて,作品を読んでみたいというのが選択の
意図でした。その意味ではエリオットの場合も,さらに若干の補足が必要
ではありました。また,週に一回しかない半期のみの授業ですから,それ
なりに相応しいと感じられるものを選んで味読してきましたが,オリジナ
ルを読むのは常に言葉の壁に阻まれることの連続であったように思いま
す。程よく作品の世界に入り込んでいる状態を実感できるようなある程度
のスピードをもって読み進めることは,多くの学生にとってかなり難しい
ことであったと思います。また,何が書かれているのかを説明できること
を授業では常に求め続けました。それは,説明することで思
をより明確
にするためでした。
私の授業をきっかけにして,英米文学に少しでも興味のわいた受講生が
いましたなら,とてもうれしく思います。
20
略
池内
靜司
学
歴
195
1年6月9日生
歴
1
976年3月
北海道大学経済学部経済学科
1
983年3月
北海道大学大学院文学研究科
卒業(経済学士)
英語英米文学専攻修士課程
修了(文学修士)
職
歴
1
976年4月
北海道立浦幌高等学
教諭
1
983年4月
北海学園大学教養部講師
1
990年4月
同上
1
998年4月
北海学園大学共通教育研究センター助教授
2
001年4月
北海学園大学経済学部教授
2
007年4月
北海学園大学人文学部教授
助教授
主な研究業績
論文
1.T.S.El
i
otの
客観的相関物
について
北海道英語英文学 第 2
8号(日本英文学会北海道支部学会)1
9
83年
6月
2.T.S.El
i
otの s
e
ns
i
bi
l
i
t
y 論をめぐって
学園論集
第 46号(北海学園大学)1983年 12月
3.T.S.エリオットの文学と哲学論文
学園論集
第 58号(北海学園大学)1987年 12月
21
4.T.S.エリオットの宗教的感受性とブラッドリー哲学の研究
学園論集
第 64号(北海学園大学)19
89年 1
2月
5.T.S.エリオットの伝統論の変容(その一) 얨伝統論の形成と F.H.
ブラッドリー
学園論集
第9
0号(北海学園大学)199
6年 12月
6.T.S.エリオットの詩論とダン批評の展開
加えて
얨クラーク講義を資料に
얨
近代英文学への招待
얨形而上派からモダニズムへ 本田錦一郎編著
(北星堂)1
998年9月
7.T.S.
エリオットのクラーク講義
얨씗善と悪>の問題と詩人の役割
얨
学園論集
第 104号(北海学園大学)200
0年7月
学会発表
1.T.S.El
i
otの
客観的相関物
について
日本英文学会北海道支部学会 第 2
6回大会(北海道大学文学部)1
98
1
年 10月
2.T.S.エリオットの初期批評の展開
日本 T.S.エリオット協会 第5回大会(同志社大学)1
9
92年 11月
3.T.S.エリオットの ハムレット 論(シンポジュウム: ハムレット
얨その時代と今)
(日本英文学会北海道支部 第 54回大会,於:北海
道教育大学 函館
)2
00
9年 1
0月
その他
1.講演
第 42回英米文学講座(日本英文学会北海道支部学会主催) 講師
演題:T.S.
エリオット,秩序,そして,神話
2
000年6月 2
2日(北海道大学文学部)
2.翻訳
夫婦で語る・北海道の印象 (ノーマン・L・ブキナニ,ドーリン・
インドラ・ブキナニ) 北海道から 第1号(学
22
法人:北海学園大学)
1985年9月
3.エッセイ
T.S.エリオットと バーント・ノートン
図書館だより No.
1(北
海学園大学図書館)2
009年
故本田錦一郎先生 追悼 ( アレーテイア XXI
)
(アレーテイア文
I
学研究会)2
0
0
7年
23
タイトル1行➡3行どり
タイトル2行➡4行どり
送る言葉
本
城
誠
二
池内靜司先生がご病気のために定年よりも少し早めに 2
01
5年3月で本
学をご退職になります。人文学部のそして英米文化学科の同僚として,感
謝とお別れの言葉を述べさせて頂きます。
池内先生は 1
97
6年3月北海道大学経済学部を卒業され,
浦幌高等学
に
勤められました。その後,北大の大学院文学研究科に入り英語英米文学専
攻修士課程を修了して,1
983年本学に赴任し,教養部の同僚となりました。
私はその3年前に赴任していましたので,19
98年の教養部改組まで 15年
間同じ学部の英語講師として英語のカリキュラムや入試の問題作成などを
共に実施してきました。教養部改組の後も同じ共通教育研究センターに3
年間所属し,その後 20
01年に経済学部に異動,そして学内での異動の最後
にあたる 200
7年人文学部へも一緒でした。
大学と大学院も同じで,3
0年間同じ科目を担当して来ましたので,特に
本学においては池内先生の事を比較的よく知っていると思います。私事に
わたりますが,奥様とは北大詩吟部でご一緒だった事がご縁だったと聞い
ていますが,僕の英文科の後輩でもありました。教養部時代は先輩の先生
たちと飲む機会も多かったのですが,先輩の先生たちに後輩として愛され
ていました。顧みると,池内先生は人柄の優れた人であると今
います。周りの人が信頼して相談を持ちかけ,それを自
ながら思
の悩みのように
えてしまう事が多かったのではと推測します。
さて池内先生の研究
野は英文学ですが,大学院在学中から T.S.
エリ
オットの文学研究に取り組まれ,30年以上にわたってエリオットの文学,
特に批評を中心に研究して来られました。それらは T.S.
エリオットの文
学と哲学論文 (1
987年)や T.S.
エリオットの宗教的感受性とブラッド
24
リー哲学の研究 (1
989年)などにまとめられています。
特に 1991から 9
2年にかけてケンブリッジ大学(英国)で在外研修をさ
れた時に,当時未発表のエリオットのクラーク講義(1
9
2
6年)の原稿を同
大学キングズ・カレッジの
文書館で閲覧し,これを書写する機会に恵ま
れました。その際の研究が T.S.
エリオットの詩論とダン批評の展開―ク
ラーク講義を資料に加えて
を書き上げる契機となったことは,池内先生
の研究歴において最も重要な事であると思われます。この論文は
近代英
文学への招待―形而上派からモダニズムへ (北星堂,1
9
98年)に収載され,
編者により高い評価を与えられているばかりでなく,イギリスロマン派研
究 第 23号(イギリスロマン派学会研究紀要,199
9年)においても,同様
に高く評価された研究成果です。
学内での委員としては,教養部と人文学部で教務委員,経済学部では協
議委員など,多くの重要な委員を歴任されました。そして最近では高大連
携実施委員長もされていました。いずれの職務においても,誠実に仕事を
されていました。
最後になりますが,長い間,英語教員としてそして学部の同僚として一
緒に仕事ができた事を本当に感謝しています。大学をやめられてからは
ゆっくりと休養して頂ければと思います。ご自
の時間を研究とは離れた
読書や,ご家族と一緒にのんびりと過ごしてほしいと心から思います。長
い間,本当にご苦労様でした。
25
北海学園大学
第5
8号
잰退職記念잱
目
2
0
1
5年3月
次
献
辞 ……………………………………………………郡司
淳
1
若い力が未来を切り開く …………………………………井上 真蔵
7
井上真蔵先生を送る ………………………………………常見 信代 1
5
씗退職にあたって> …………………………………………池内 靜司 1
9
送る言葉 ……………………………………………………本城 誠二 2
4
永遠の契約 か,それとも 和解 か?
얨キリスト教信仰と学問研究をめぐるシュライアマハーと
ヘーゲルの対立 얨………………………………………安酸 敏眞
2
9
インドネシア西ジャワ州スンダ農村調査報告
……………………………………………須田 一弘・梅崎 昌裕
5
3
資料紹介 トロント大学 マクルーハン文庫 一見 ……柴田
崇
7
3
デイビッド・N・マイアーズ ユダヤ教学のイデオロギー
(訳者解題と翻訳) ………………………………………佐藤 貴
9
5
北海学園大学人文学会 立記念シンポジウム 記録
人文学の新しい可能性 ……………………………………………… 12
1
近代世界 への 書き加え から 書き直し へ ……濱
忠雄 1
65
アメリカ黒人の歴
の新しい構成 ……………………上杉
忍 1
9
7
六
養叟宗
誠 2
4
2쑛
……………………………………………… 岡
五
瀧口修造研究・批評の 析
三
얨瀧口はどのように読まれて来たか⑴ 얨………秋元 裕子 2
76
쑛
一
資料紹介 守谷富太郎の アララギ 掲載歌
…………………………………………田中
綾・中崎 翔太 3
0
6
㈠
題字揮毫:島田無響氏
タイトル1行➡3行どり
タイトル2行➡4行どり
永遠の契約
か,それとも
和解
か?
얨キリスト教信仰と学問研究をめぐるシュライアマハーとヘーゲルの対立 얨
安
酸
敏
眞
はじめに
近代キリスト教思想
を研究する者にとって,シュライアマハーとヘー
ゲルの学問的対立は,最も重要かつ困難な研究課題に属する。筆者もトレ
ルチ研究に取り組んで以来,たえずこの両巨匠の神学=宗教哲学的思想に
立ち返らざるを得なかったが,この年齢になるまでついぞ正面から取り組
めずにきた。しかし前著
歴
泉書館,2
012年)の問題意識の
と解釈学―
잰ベルリン精神잱の系譜学 (知
長線上で,目下両者の比較研究に取り組
んでいる。まだ緒に就いたばかりの研究ではあるが,その成果の一端を述
べてみたい。
1. 宗教論 (1799/1806/1821/1831)におけるシュライアマハー
の宗教の定義
シュライアマハー(Fr
i
edr
i
chDani
e
lEr
ns
tSc
hl
ei
e
r
mache
r
,
17
6
818
3
4)
は神学者,哲学者,説教者,プラトンの翻訳家などの多くの顔をもってい
る。しかし今日に至るまで人々の記憶に鮮烈に残り,いまでも読者を魅了
してやまないのは,おそらく主著 信仰論 ではなく,処女作 宗教論
얨
宗教蔑視者のうちで教養ある者への講話 であろう。実際,この著作は 1
8
世紀の干乾びた啓蒙主義的宗教観に完全に訣別し,自然理性にも道徳性に
も還元できない宗教の独自性を弁証したパイオニア的作品であり,ドイ
ツ・ロマン主義の宗教観のまさに精華といえるものである。
29
北海学園大学人文論集
第5
8号(2
0
15年3月)
シュライアマハーによると,宗教の本
質は,思惟でも行為でもなく,直観と感
情である 웋
。 宗教は宇宙に対する感能と
嗜好である 워
。 宇宙は間断なく活動し,
われわれに各瞬間に自己を啓示してい
る。宇宙が産出するあらゆる形式,宇宙
が生命の充実に従って各々別個の存在を
与えるあらゆる出来事は,宇宙のわれわ
れに対する行動である。かくしてすべて
の個物を全体の一部として,すべての制
限されたものを無限なものの表現として
受取ること,それが宗教である 웍
。シュラ
シュライアマハーの胸像
イアマハーが巧みな筆致で描き出すの
は,啓蒙の干乾びた合理的世界観や生気
を欠いた機械論的自然観ではなく,霊妙で高貴で甘美なロマン主義の息吹
に満たされた神秘の世界である。宗教の世界を読み解く鍵は,もはやカン
トや他の啓蒙思想家たちが推奨したような理性でも道徳性でもなく,ロマ
ン主義の思潮を肌で感じとった若い世代の胸を打つ感情と直観である。曰
く,
感情なき直観は無であり,……直観なき感情もまた無である。直観
と感情が何物かであるのは,両者が本来一つであり相
かたれないも
1 Fr
i
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dr
i
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hl
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Uberdie Religion. Reden an die Gebildeten
unterihr
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썥
achter
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,1
7
9
9
)
,50
;KGA 1
.
9年,4
9頁。
Abt
.2
,2
11
. 佐野勝也・石井次郎訳 宗教論 岩波文庫,194
2 I
Abt
.2
,2
12;KGA 1.Abt
.
12
,
5
6
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d.
,
5
3;
KGA 1.
undGes
c
hmac
kf
썥
urdasUnendl
i
c
he
. 邦訳,51頁。
3 I
4頁。
bi
d.
,5
6;KGA 1.Abt
.2
,214. 邦訳,5
30
永遠の契約
か,それとも
和解
か? (
安酸)
のである時のみ,またそれゆえにのみである。感覚的知覚が現れる度
毎に現れるかの最初の秘密に充ちた瞬間,そこでは直観と感情とがな
お相
離せず,感能とその対象とがいわば互に融合して一つとなって
おり,両者がなお各自の本源的場所に還って行かない時, 얨その瞬間
はどんなに記述しがたく,どんなに迅速に過ぎて行くものであるかを
わたしは知っている。……その瞬間は,朝露が目覚めたる花に吹きか
ける最初の香気のように迅く,かつ透明に,処女の接吻のように恥か
しげにかつ柔らかに,花嫁の抱擁のように聖にしてかつ豊かに,否か
くの如くにではなくして,すべてがそれ自身である。
웎
このように,シュライアマハーの筆運びは詩的かつ華麗で,甘美な余韻
をそこここに漂わせている。これが世人の印象に最も鮮やかに焼き付いて
いる,宗教思想家としてのシュライアマハーの姿であろう。これに比べる
と, 信仰論 は
渋な書物であるため,わが国では未だに全訳なされてお
らず,その全貌は二次文献からの想像の域を出ない有様である。
2. 信仰と知 (1802)におけるヘーゲルの
感情宗教
批判
2歳年少のヘーゲル(Geor
)も,
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7
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18
3
1
ロマン主義の精神を存
に吸収して成長した世代であるが,彼はシュライ
アマハーとは異なる思想発展を遂げている。彼がフランクフルト期
(1
7
9
7
1800)にシュライアマハーの
宗教論
を読んだかどうかは定かではない
が,いずれにせよ,この書が当時の彼に深い刻印を残した形跡はない웏
。し
4 I
-7
-68頁。
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.2,221. 邦訳,67
5 He
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3(
Bonn:
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Bouvi
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8)
,333
4.
31
北海学園大学人文論集
第5
8号(20
15年3月)
かしイェナ期(1
8
01
-1
8
0
7)に執筆された
フィヒテとシェリングの哲学体系の差
異 (1801
)では,ヘーゲルは話題の書物
に言及しつつ,
つぎのように述べている。
宗教論
のような現象は,直接的には
思弁的必要性に関わるものではないが,
こうした現象やそれの受容は
얨しかし
詩歌と芸術一般が,漠然たる感情をもっ
てであれ,より意識的な感情をもってで
あれ,その真の広がりにおいて獲得し始
ヘーゲルの肖像画
めている威厳は,なおさらのこと
얨,自
然がカントとフィヒテの体系において
被った虐待に報い,また理性そのものを自然と調和させるような,一つの
哲学の必要性を示唆している 원
。
翌年の
信仰と知 (180
2)においては,ヘーゲルはカント,ヤコービ,
フィヒテの哲学を取り上げて, 主観性の反省哲学 の問題性を鋭く批判し
ているが,
そのなかでヤコービ批判に仮託しながら,
彼はシュライアマハー
が
宗教論
で美しく描き出した
直観と感情 としての宗教を,つぎの
ような仕方で批判の俎上に載せている。
……この宇宙の直観の主観客観性は,
改めて特殊的なものと主観的な
ものに留まらざるを得ず,宗教的芸術家の名人芸(Vi
)には
r
t
uos
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썥
at
宗教の悲壮な厳粛さのうちに己れの主観性を混入することが許されな
ければならない。……芸術は芸術作品なしに永続すべきであり,最高
の直観の自由は個別性のうちに,何か個人的に特異なものを所有する
6 G.W.F.He
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,Gesammelte Wer
ke ,Bd.4,Jenaer Kr
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8)
,8.
32
永遠の契約
か,それとも
和解
か? (安酸)
ことのうちに存立すべきなのである。……こうした〔普遍的なアトミ
ズムの〕理念の中では,宇宙の直観は精神としての宇宙の直観ではな
い。……それゆえに,憧憬の主観性が観照の客観性のうちに高まり,
和解が〔有りふれた〕現実性との間でなく,生けるものとの間で,個
別性との間でなく,宇宙との間で生起したとしても,この宇宙の直観
ですら,再び主観性となってしまっている。というのは,この直観は,
一方では名人芸であって,決して憧憬といったものではなく,単に憧
憬を求めるものにすぎないものだからであり,他方ではこの直観が有
機的に組織づけられるようなこともなければ,名人芸が掟や民族や普
遍教会といった団体のうちにその客観性と実在性とを獲得するような
ことにもならず,表現は端的に内面的なもの,個別的で独特の霊感の
直接的な吐露であり,もしくはその随順であって,真実の表現である
芸術作品は現存すべくもないからである。
웑
ここでも名前は明示されていないが,この批判が 宗教論 におけるシュ
ライアマハーの宗教理解を念頭に置いていることに疑問の余地はない。そ
の批判の要点は,ロマン主義者やシュライアマハーがそこに留まっている
主観性の立場を脱却して,いかにして 客観性と実在性 (Obj
e
c
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썥
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)を獲得するかということである。ディルタイによれば, 信仰と
Real
i
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썥
at
知
のなかで明らかになるシュライアマハーとヘーゲルの相違は,ヘーゲ
ルの
初期神学論集
のなかに収録されている
一八〇〇年の体系断片
において,すでに明確に打ち出されているという웒
。そこではヘーゲルはこ
7 He
-38
ヘーゲル,上妻精訳
gel
,Gesammelte Wer
ke ,Bd.4,3
85
6;G.
W.
F.
信仰と知 岩波書店,199
3年,12112
3頁。
8 Wi
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iften,Bd.4
,Die Jugendgeschichte
Hegels und ander
e Abhandlungen zurGeschichte des deutschen Idealismus ,
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echt
,1959
)
,150
野
雄訳
ヘーゲルの青年時代
以文社,1
97
6年,20
4頁。
33
北海学園大学人文論集
第5
8号(20
15年3月)
う述べている。
有限なるものを無限なるものへと高めることが,有限なる生を無限な
る生へ高めることであるとして,つまり宗教として特徴づけられるの
は次の点,すなわち,宗教は無限なるものの存在を反省によって生み
出された存在として,また客観的あるいは主観的な存在として定立す
るのではないということ,したがって,宗教が限定されたものに限定
するものを付加したりすれば,宗教はこれをふたたび定立されたもの
として,つまりそれ自体限定されたものとして認識することになり,
限定するものを限定するもののために新しく捜し求めることになり,
これを無限なるものへと継承していくことを要求することになってし
まうということ,こうしたことによってのみである。理性のこの働き
も無限なるものへの高まりではあるが,しかしこの無限なるものは一
つの・・・
〔単なる悟性概念である〕
。웓
非常にわかりにくいヘーゲル特有の言い回しであるが,グロックナーに
よれば,これは主としてフィヒテとおそらくシュライアマハーに対して向
けられたものであるという웋
。けれども第二の断片では,第一の断片とは一
월
見矛盾するような文章が見出される。有限なるもののうちに無限なるもの
を感得する神的感情は,反省が加えられ,反省が無限なるものにとどまる
9 Hegels theologische Jugendschr
iften,nach de
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ン・ノール編,久野昭・水野
雄訳
ヘーゲル初期神学論集쑿
以文社,1
9
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7
9
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8
0頁。断片は・・・で途切れているが,グロックナーはそこに
“bl
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”という用語を補っている。ここではそれに従った。Cf
.
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34
永遠の契約
か,それとも
和解
か? (
安酸)
ことによってはじめて完成される 웋
,という一文である。最も単純に受け
웋
取ると,これはシュライアマハーに対する批判であるが,あるいは
精神
現象学 の序文におけるシェリング批判( 単調な形式主義 への批判)へ
と連なるものであるかもしれない。
ディルタイはこの断片に基づいて,シュライアマハーとの比較で二つの
重要な点を指摘している。⑴ヘーゲルにとって宗教は,思惟が無限の生と
その有機的連関とに呈示することのできる諸規定の源泉であるというこ
と。⑵ヘーゲルにとって宗教は,政治的共同体を結合する内的力として現
れるが,シュライアマハーは国家の彼岸に個人的な形をとった宗教の展開
を要求するということ。もちろん,この二つの点をめぐる両者の相違・対
立は,同僚として活動したベルリン大学時代に際立ってくるが,その萌芽
がヘーゲルの初期の断片のなかにすでに見出されることは,ここで注意し
ておいてよかろう。
3.ヒンリヒスの 学問との内的関係における宗教 (1
82
2)の 序言
におけるヘーゲルのシュライアマハー批判
ヘーゲルは 1
81
8年にベルリン大学教授に就任し(1
0月 22日に最初の講
義を始めている)
,1
8
31年 1
1月 1
4日にコレラに罹って亡くなるまで,
丸1
3
年間シュライアマハーの同僚として活動した。シュライアマハーは,当初
ヘーゲルのベルリン大学招聘に前向きで,両者の関係は決して険悪なもの
ではなかった웋
。しかし北ドイツ出身のシュライアマハーは,南ドイツの
워
1
1 Hegels theologische Jugendschr
8
0
iften,3
49; ヘーゲル初期神学論集쑿 2
頁。
1
2 18
1
6年にヘーゲルをベルリン大学に招聘する最初の計画が挫折したとき,
シュライアマハーはハイデルベルク大学のシュヴァルツに宛てて,むしろ遺
憾の意を表明している。貴学がわれわれからヘーゲルを奪ったことについて
は,わが大臣〔シュックマン〕に責任があります。哲学者を欠いた状態で本
35
北海学園大学人文論集
第 58号(20
1
5年3月)
シュヴァーベン人であるヘーゲルとは 完全に対蹠的な人物 웋
웍であった。
この気質の相違が表面化してぶつかり合ったのは,神学部教授デ・ヴェッ
テ(Wi
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chtDeWet
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e,178
0-1
8
4
9)の解職をめぐって
であった。1
819年3月 23日,愛国主義的な学生運動の高まりのなかで,ロ
シア皇帝の密偵であった作家コッツェブーが,共和主義的な志操を抱く学
生ザントによって殺害されるという事件が勃発した。デ・ヴェッテはザン
トの母親に手紙を書き,彼の行動は容認できないものの,その純粋な心情
には評価できるところもあると共感を示した。ところがこの手紙が発覚し
て,デ・ヴェッテは王の命令によって即刻免職となった。教授会メンバー
の多くがこの処
に抗議した。ヘーゲルもその一人ではあった。実は,デ・
ヴェッテはヘーゲルのベルリン招聘に最後まで反対した一人であり,この
思弁的哲学者に対して好感を抱かなかった人物であった。ヘーゲルは 18
1
9
年 11月半ばの昼食会の席で, 国家がその俸給を残しておくという条件で
停職を認める
と発言し,同僚の解雇を容認する態度を表明した。これに
シュライアマハーが激怒し,両者の間に激しい議論が
わされたという。
それは二人がナイフで渡り合ったというデマが飛ぶほどの激烈な言い争い
であったという。
しかしこの一触即発の対立は,シュライアマハーのその後の寛大な態度
と,それに対するヘーゲルの礼節を重んじる身の処し方によって,一時的
に回避された。これについては,両者の間で
わされた書簡が残ってい
る웋
。だが,ヘーゲルのプロイセン王立科学アカデミー(学士院)入会の問
웎
学がどうなるかは,神のみぞ知るです 。 Schl
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ヘーゲル伝
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36
永遠の契約
か,それとも
和解
か? (安酸)
題をめぐって,
やがて両者の間に修復不可能な亀裂が生じることとなった。
ローゼンクランツはエドゥアルト・ガンス(Eduar
dGans
,1
79
818
3
9)の
証言を引いて,シュライアマハーがヘーゲルの学士院入会を断固阻止した
ことが,ヘーゲルの心に激しい憎悪の火をつけたと記しているが웋
,これは
웏
必ずしも正しくはない。プロイセン王立科学アカデミーは,もともと
学部門 , 歴
学・文献学部門 , 物理学部門 , 数学部門
の四
野に
かれていたが,ヘーゲルがベルリン大学に着任する以前に,すでに
歴
学・哲学部門
への二
哲
数
学・物理学部門
と
おり,しかも歴
学と一つの部門に入れられた哲学は,絶対知に基づく独
善的な思弁的哲学であってはならず,歴
割が既定路線となって
的・批判的研究方法を用い,か
つ他の学者たちとの共同作業に開かれたものでなければならなかった。こ
うした理由から,かつてのフィヒテと同様,ヘーゲルも入会の資格なしと
。もちろん,そこにはシュライアマハー自身
判定されたのである웋
원
얨彼は
神学者としてではなく,哲学者として会員になっていた엊 얨の哲学理解
が大きく関与していたが,このことをもってただちに,シュライアマハー
が悪意をもってヘーゲルの学士院入会を阻止したと捉えるのは,いささか
党派的な見方に過ぎるであろう。だが,学士院会員になれないヘーゲルが,
痺れを切らして独自の学術団体
学術批評学会 (Soci
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썥
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k)を立ち上げ,その機関誌として 学術批評年誌 Jahr
썥rwissenschaftliche Kr
itik を
bu
썥cherfu
抗措置として, 歴
それを
刊した時,シュライアマハーは対
学・哲学部門 のなかの 哲学部門 の廃止を決断し,
に断行した。ハルナックによれば, シュライアマハーはヘーゲル
-3
-283頁。
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5
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6,邦訳 282
15 Ros
,邦訳 285頁。
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4
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37
北海学園大学人文論集
第 58号(201
5年3月)
哲学の専制を危惧しており,少なくともアカデミーはヘーゲル哲学から自
由であり続けるべきだ 웋
웑と
えていたからである。したがって,この一件
は鶏が先か卵が先かのような議論となるが,
いずれにせよ 18
2
6年のこの時
点で,シュライアマハーとヘーゲルはもはや修復不可能な敵対関係に陥っ
てしまった。
しかし両雄の学問上の鍔迫り合いは,ずっと以前にとっくに始まってい
た。仕掛けたのはいつもヘーゲルである。ルター派と改革派の合同を目指
すシュライアマハーが,
両派の合同を積極的に推進するための一助として,
信仰論 (正式名称は
福音主義教会の原則にもとづいて組織的に叙述さ
れたキリスト教信仰 )を刊行するという
が流れると,この教会合同に内
心反対していたヘーゲルは,大いに危機感を募らせたらしく,当初の講義
計画を急遽変
して,シュライアマハーの 信仰論 を迎え撃つべく,1
8
2
1
年夏学期に 宗教哲学 の講義を行うことを予告した웋
。したがって,成立
웒
1
7 Adol
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썥niglich Pr
eussischen Akademie
der Wissenschaften zu Ber
lin (1900) ,Bd.I
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18 1
8
2
0年5月5日の
長宛ての書類には, 宗教哲学 講義の申請はなされて
いない。残されている資料から推測すると,ヘーゲルは遅くとも 18
2
0年の年
末までに 宗教哲学 の講義をすることを決断し,大急ぎで講義ノートを準
備したものの,182
1年4月 30日の講義開始時には全体の講義ノートは完成
していなかったと思われる。講義は8月 25日まで週4時間,1
7週間にわたっ
て続けられたが(受講者は 49名),講義開始直後の5月9日にはハイデルベ
ルクの神学者カール・ダウプに宛てて,つぎのように書き記している。 わた
しが聞き知る限りでは,シュライアマハーが同様に教義学を出版するとのこ
とです。それを聞いてつぎのようなエピグラムが思い浮かびます。 ひとは長
らく模造
ばならぬ엊
貨で支払うことができるが,それでも最後には財布を取り出さね
しかしこの財布も模造
貨しか払えないかどうか,われわ
れは見極めねばなりません ( HegelanDaubvom 9
.5
.1
8
2
1
, Br
iefe von
。とかくするうちに,6月 27日にシュライアマハー
und an Hegel, 2:2
62)
3
8
永遠の契約
か,それとも
和解
の背景とその主たる動機からして,ヘーゲルの
か? (安酸)
宗教哲学
講義そのもの
は,本質的に,シュライアマハーの 信仰論 に対する 対抗措置 (c
ount
e
r
)と見なされなければならない웋
。
wei
ght
웓
ところが,まさにその時期(18
21年3月 14日)に,ハイデルベルク時代
の教え子ヒンリヒス(Her
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hWi
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,1
79
71
8
6
1)
が,ヘーゲルに自著への序言の執筆を依頼してきた워
。ヘーゲルは原稿に
월
ざっと目を通して,その思弁的な内容にいたく満足し,序言の執筆を喜ん
で引き受けた워
。ヒンリヒスのこの著作は翌年ヘーゲルの 序言 付きで,
웋
学問との内的関係における宗教 Die Religion in inner
en Ver
ha
썥ltnisse
zur Wissenschaft というタイトルで刊行された。この書物の
序言
にお
いて,ヘーゲルはつぎのように挑発する。 いかなる宗教においても,家族
や国家のような,人間のいかなる人倫的共同体においても,即且対自的に
存在する神的なもの,永遠なもの,理性的なものが客観的法則として妥当
するのであり,この客観的なものが第一のものであって,感情はただこれ
を通してのみそれ本来のものとなり,正しい方向をとることができるので
ある 워
워と。しかもその少しあとで,シュライアマハーのいう 依存感情
の 信仰論 上巻が刊行され,ヘーゲルはただちにそれを読み,論敵のこの
書物に対する憤懣を講義のなかにも反映させている。Cf
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70
)
,57;ヘーゲル,海老沢善一編訳
批評集
梓出版社,1
99
2年,238頁。
39
ヘーゲル
北海学園大学人文論集
第5
8号(20
15年3月)
を露骨に皮肉って,以下のような侮辱的な言辞を繰り広げた。
もちろん,自然人の感情のなかにも神的なものについての感情もま
た存在するであろう。しかし,神的なものについての自然感情と神の
精神とは違うのである。……神的なものは,ただ精神のうちに,また,
精神に対してのみあり,そして,精神は,上述したように,自然の生
命ではなく,復活したものだということである。もし感情が人間の本
質の根本規定をなすというなら,人間は動物に等しくされてしまう。
動物の本性は自
の規定であるものを感情のうちに有し,感情に従っ
て生きることだからである。人間の宗教がただ感情にのみ基づくもの
であるなら,そういうものはまさに人間の依存の感情であるという以
上の規定をもたぬし,もしそうであるなら,犬が最良のキリスト教徒
であろう。
なぜなら,
犬はこの感情をもっとも強烈に自
のなかにもっ
ており,もっぱらこの感情のなかに生きているのだから。
워
웍
シュライアマハーに対するヘーゲルの敵対心は,この程度でおさまるも
のでは到底なく,彼は自らの
宗教哲学
講義のなかでも,批判の手を一
。そこでわ
向に緩めないどころか,同僚の神学者を繰り返し愚弄している워
웎
れわれは,つぎに
宗教哲学講義
2
3 I
bi
d,5
8; ヘーゲル批評集
に目を向けてみよう。
239頁参照。
2
4 ある証言によれば,ヘーゲルは講義中に敵対者を意地悪く敬称で呼ぶ習性
があり,シュライアマハーのことは,シュヴァーベン方言に通じている人に
しかわからない揶揄をこめて,He
〔訳注:Sc
r
rSchl
썥
aue
r
mac
he
r
hl
썥
aueは狡
猾さ,ずる賢さを意味する〕と呼んだという。Cf
.
Hegel in Ber
ichten seiner
Zeitgenossen,2
84.
40
永遠の契約
か,それとも
和解
か? (
安酸)
4. 宗教哲学講義 (1821/1824/1827/18
31
)におけるヘーゲルの
シュライアマハー批判
すでに述べたように,そ
もそもヘーゲルが
学
宗教哲
の講義を開くことを決
意したのは,シュライアマ
ハーの
信仰論
を迎え撃
つためであったことは,各
種の状況証拠から明らかで
ベルリン大学でのヘーゲルの講義風景
ある。
ヘーゲルが 1
821年の
夏学期に,十
な準備もなしに
宗教哲学
講義をあわただしく開始した
のは,論敵の中心的主張を哲学的に挫き,その影響力を最小限に食い止め
る必要があったからである워
。ヘーゲルは 宗教哲学 を 1
8
21年(受講者
웏
49名)
,1824年(受講者 63名)
,18
27年(受講者 1
1
9名),1
8
3
1年(受講
者数不詳)の四つの夏学期に開講しているが,彼が第一回目の 宗教哲学
講義を決断したとき,まだシュライアマハーの
信仰論
は出版されてい
なかった。講義の途中でその上巻が刊行され,下巻が出たのは講義終了後
の 1822年7月のことであった。それゆえ,1
82
1年の講義では,学問的批判
というよりもあてこすりのような揶揄が目立つ。例えば,ユダヤ宗教の精
神は
絶対的威力
である神ヤハウェに対する奴隷的自己意識と畏れであ
り,したがってその根本規定は
依存すなわち隷属という根本感情
(Gr
)
であると論じたり워
,
undgef
썥
uhls
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썥
angi
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,
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macher
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chiv , Bd. 1
, Inter
nationaler
Schleier
macher
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lin 1984 (
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,1
9
8
5
)
,
5
,
;山崎純,前掲書,7
1160116
1;Hodgs
on, Edi
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alI
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i
on, 3
12
4-1
25頁参照。
26 G.W.F.Hege
l
,Vor
lesungen. Ausgewa
썥hlte Nachschr
iften und Manu 41
北海学園大学人文論集
第5
8号(20
15年3月)
あるいはローマの宗教を論じた箇所では, 依 存 感 情(Abh
썥
angi
gkei
t
s
ge
)の正しい展開は,損害と災厄をもたらす威力を崇め,ひいては悪魔を
f
썥
uhl
崇拝することに至る 워
웑などと述べている。これは正当な学問的批判を意図
したものではなく,明らかに挑発的発言以外の何物でもない。しかし 1
8
24
年の第二回目の講義は,信仰論 第一版が完結し,
その全貌が明らかになっ
た段階での講義であるので,そこにはより客観的なシュライアマハー批判
が展開されている。とくに
宗教の概念
を論じた個所では,シュライア
マハーとの 全面的な対決 워
웒が遂行されている。例えば, 依存感情 につ
いてはつぎのように論難される。
生けるものの生は有限的なものである。生〔の一部〕として,われわ
れは外的に他のものに依存しており,いろいろな需要を,つまり各人
が生存するために必要なものをもっており,そしてこうした制約の意
識を抱いている。われわれは自らを依存するものと感じる,つまり動
物的実存としてである。われわれはこの点を動物と共有している。動
物は同様に自らの制約を感じるからである。植物も鉱物もまた有限で
あるが,それらは自らの制約の感情を抱かない。自らの制約を感じる
ということは,生けるものの長所であり,自らの制約を知ることは,
動物は自らの制約を感じる。
精神的なもののさらに優れた長所である。
それは恐怖,不安,空腹,渇きなどを覚える。……もしひとが,宗教
はこのような依存性の感情に基づくと言うのであれば,動物もまた宗
教をもたなければならない。なぜなら,動物はこの依存性を感じるか
らである。
워
웓
skr
ipte 4a,Vor
lesungen 썥
uber die Philosophie der Religion,Te
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bestimmte Religion,her
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5)
,6
4.
2
7 I
bi
d.
,1
2
3.
28 山崎純 神と国家
얨ヘーゲル宗教哲学
얨
文社,1
9
9
5年,1
3
8頁。
29 G.W.F.Hegel
,Vor
lesungen. Ausgewa
썥hlte Nachschr
iften und Manu 42
永遠の契約
か,それとも
和解
か? (
安酸)
このように,1
824年の講義においては,ヘーゲルはただ単にシュライア
マハーを揶揄するのではなく,
むしろ同僚神学者との本格的対決を通して,
独自のキリスト教宗教哲学を構築しようとしている。 二四年の第一部こ
そ,ヘーゲル宗教哲学の成立の場なのである 웍
월と言われる所以である。そ
こで 1824年のテクストに基づいてヘーゲルの講義を
察してみよう。
ヘーゲルとシュライアマハーとの間の争点は,有限なるものと無限なる
もの
との関係をめぐる問題である。ヘーゲルによれば,自我は有限なる
ものであり,否定的なものであるが,神は無限なものであり,有限なもの
の否定,つまり否定的なものの否定として,肯定的なものである。神は自
我の彼岸,つまり自己の能力と意欲を自覚したわたしの自己意識の彼岸で
ある。しかし彼岸を肯定的なもとして規定したのは自我であるので,肯定
的なものとしての彼岸に,肯定的なものとしての自我が対立させられてい
る。ところが,主観性がもう一段反省を深めると,有限と無限のこの相違
は消え失せてしまう。あの彼岸を産み出したのは自我であり,有限なるも
のも無限なるものもともに自我の所産である。自我は無限と有限という規
自我が最初にその外の彼岸に置いた肯定とは,
定の上に立つ支配者である。
自我にほかならない。それゆえ,自我は
否定の否定
であり,有限と無
限の対立がそのうちに消滅するところのものである。だが,このような立
場は,畢竟, 自
に固執する主観性の最高の立場
であって, あらゆる
内容を台無しにし,あらゆる内容を片付けてしまう無限の主観 性 웍
웋であ
る。そこでは,あらゆる内容が雲散霧消して空虚になっているが,空虚さ
だけは消失せずになおも自
を保持している。結局, この主観性に欠けて
skr
ipte 3,
Vor
lesungen 썥
uberdie Philosophie derReligion,
Te
i
l1
:
Einleitung.
DerBegr
iff derReligion,her
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Hambur
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Fe
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i
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rVe
r
l
ag,1983
)
,184
.
3
0 山崎純,前掲書,13
7頁。
3
1 He
i
l1
,1
9
9(傍点
ge
l
,Vor
lesungen 썥
uberdie Philosophie derReligion,Te
筆者).
43
北海学園大学人文論集
第 58号(20
1
5年3月)
いるのは,まさしく客観性である 웍
。それゆえ,シュライアマハーのよう
워
な
意識の こ の 立 場 に お い て は,本 来 い か な る 宗 教 の 立 場 も 可 能 で は な
い 웍
웍というのである。そこからヘーゲルは,主観主義の直接性の立場から
)
思弁的概念への移行 (̈
gangz
um s
pekul
at
i
ve
nBe
gr
i
f
f
웍
웎の必然性
Uber
を説き,理性的立場でこそはじめて宗教を論じることができると主張する
のである。ここには
直接的自己意識
と
絶対依存の感情
を神学の中
核に据えるシュライアマハーに対する,ヘーゲルの鋭い哲学的批判が見て
取れる。
5.ヘーゲルに対するシュライアマハーの基本姿勢
それではシュライアマハーは,ヘーゲルからの上記のような挑発と批判
を,どのように受けとめてきたのであろうか。彼は知人に宛てた書簡のな
かで,ときにヘーゲルについて批判的な言及を行っているが,自
の著書
のなかでは,不倶戴天の同僚を論評することを極力控えている。そこには
おそらくシュライアマハーの性格が反映されている。しかし少なくとも水
面下では,ヘーゲルに対する敵対心は相当のものではなかったかと推察で
きる。ヘーゲルのような人物は,中途半端な反応を相手に許さないからで
ある。そこで,ヘーゲルに対するシュライアマハーの基本的態度を,書簡
およびその他の証言から炙り出してみよう。
まず,1
8
21年1月5日付けのフリードリヒ・リュッケ(Got
t
f
r
i
edChr
i
s
)宛の書簡では,シュライアマハーはヘー
t
i
anFr
i
edr
i
chL
썥
uc
ke
,17
91185
5
ゲルの挑発やあてこすりを無視する姿勢を示している。わたしはヘーゲル
に強く反論する気はさらさらありません。そんなことに
う時間はありま
せん。彼にとって低次の段階の特徴を表わすものは,キリスト教のという
3
2 I
(傍点筆者).
bi
d.
,2
00
3
3 I
bi
d.
,20
5(傍点筆者).
3
4 I
bi
d.
,21
5.
44
永遠の契約
か,それとも
和解
か? (
安酸)
よりは宗教一般の貶められた形態で
す。むしろ彼の信奉者たちは,ヘー
ゲルが聖書に関して予言したことを
引き合いに出します。わたしは哲学
的論争をナンセンスだと見なしてい
ますので,哲学的論争に掛かり合い
に な る こ と が まった く で き ま せ
ん 웍
。1822年 12月 2
8日付けのカー
웏
ル・ハ イ ン リ ヒ・ザック( Karl
Hei
nr
i
chSac
k,17
89-1
87
5)宛ての
書簡でも,シュライアマハーはヘー
ゲルのあてこすりをただ黙って無視
する姿勢を,
依然として貫いている。
ヘーゲル氏がヒンリヒスの宗教哲 中心は K.Ri
,その真上が Hegel
,
t
t
er
ei
er
ma学への序言において,わたしにかこ そ こ か ら 時 計 回 り に Schl
,A.Humbol
,
cher
dt,W.Humbol
dt
つけて絶対依存ゆえに犬が最良のキ Huf
el
and,Neanderの順。
リスト者であるとし,わたしに神に
ついての動物的な無知の罪を帰していると,あなたがおっしゃったことで
すが,その類のことはただ沈黙をもって(nurmi
tSt
i
l
l
s
chwe
i
ge
n)無視し
なければなりません 웍
。つぎに 18
23年の夏のデ・ヴェッテ宛ての書簡で
원
は,シュライアマハーはヘーゲルに言及しつつ,彼のあてこすりに対する
不快感を表明している。 ヘーゲルの側では,すでに彼がヒンリヒスの宗教
哲学の序言のなかで活字にして行ったように,講義のなかでも引き続き神
3
5
Sc
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i
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heranFr
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0
6.
45
北海学園大学人文論集
第5
8号(20
1
5年3月)
についてのわたしの動物的無知を侮辱し,もっぱらマールハイネケの神学
を推奨しています。わたしはそれについてはコメントしませんが,しかし
これはまた気持ちが良いことではありません 웍
。
웑
シュライアマハーを含めて,ベルリン大学の多くの同僚に嫌悪感を催さ
せたのは,ヘーゲルの度を超えた自尊心と政治的党派性であった。例えば,
比較的うまく折り合ってきた温厚なアウグスト・ベークですら,ニーブー
ルに宛てた 1
826年 10月 2
4日付けの書簡において,ヘーゲルをつぎのよう
に扱き下ろしている。
わたしは何年も前から,ヘーゲルとはかなりはっきりとした緊張関係
に立っています。彼がやろうと努めていることすべて,彼の耐え難い
党派形成,そしてとりわけきわめて倒錯した仕方で権力を笠に着て自
の信奉者を優遇すること,さらに彼の人格的本質の不快な性質は,
たえずわたしに反感を起こさせましたし,彼もわたしを嫌悪していま
した。しかしわたしが 長をしている期間
ももう終わりますが
얨有り難いことに,それ
얨,私見によれば哲学部が無責任にも彼をにっ
ちもさっちもいかない状態に置いたある案件で,わたしは職責上,ま
た良心にしたがって,彼を援助しなければなりませんでした。
웍
웒
シュライアマハーも同様に,182
8年2月7日付けのガース(J
oac
hi
m
)宛の書簡で,ヘーゲル学派の党派的活動に言及
Chr
i
s
t
i
anGaß,1
76
6-1
831
し,とりわけガンスを名指しで非難して,つぎのように記している。
3
7 Sc
hl
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herandeWe
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2
3
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macher
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Leben in Br
iefen 4,309.
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Augus
tBoeckhanB.G.Ni
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4.
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1
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nAugust Bo
썥ckh.
Lebensbeschr
eibung und Auswahl aus seinem wissenschaftlichen Br
iefwechsel ,vonMaxHof
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mann(
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24
;Hegel in Ber
ichten seiner Zeitgenossen, 3
1
9
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2
0
.
46
永遠の契約
か,それとも
和解
か? (安酸)
要するに,われわれは目下のところヘーゲルの党派についてふたたび
怖れる必要はないと思います。なぜなら,彼〔アルテンシュタイン〕
は,ヘーゲル派が多数を占めるようにするだけのお金をもっていない
からです。そうでなければ,彼はそのつもりでしょうから。さてしか
し,彼は不用意にガンスを正教授に昇格させようとすることで,法学
部と決裂しています。法学部は評決機関としては自己解体しているも
同然で,したがってガンスもまだ受け入れられていません。そしてお
そらく,彼はザヴィニーに対して犯した愚行웍
웓ゆえに,何らかの仕方で
ヨ,ワタシハ罪ヲ犯シマシタ (pat
)と言わなければな
e
rpe
c
cavi
らないだろうと思います。この柔和で真にキリスト教的な子羊たるガ
ンスに対して,何と冷酷な振舞いであろうかと,小役人は悲痛な叫び
声をあげます。要するに,依然としてこういう事態であることは不思
議なことです。なぜなら,ガンスはわたしを最終的に,しかし一時的
であるとはいえ一年間,学部と大学の要務から外したからです。
월
웎
多くの同僚から嫌悪されたヘーゲルの党派性についてのみならず,シュ
ライアマハーとの深い確執についての興味深いエピソードは,彼がベルリ
ン大学
長に選出された際のネアンダー(JohannAugus
tWi
l
he
l
m Ne
an-
de
r
,1789-185
0)の異常とも思える反応である。ネアンダーはユダヤ人とし
ての出自をもっていたが,
シュライアマハーと出会って大きな影響を受け,
キリスト教に改宗して神学者となった人物であり,シュライアマハーの愛
弟子として知られていた。ところが,ヘーゲルが
長に選出された 1
8
29
/
30年の学年度,たまたま神学部長の役回りが彼に回ってきた。そこで彼は
3
9 これはガンスが 1
827年の 学術批評年誌 において,ザヴィニーの 中世
におけるローマ法の歴
第四巻(ハイデルベルク,18
26年)を手厳しく論
評したことを指している。
0 Sc
4
hl
e
i
e
r
mac
he
ranJ.Ch.Gaßvom 7.2.182
8
,i
nHegel in Ber
ichten
seiner Zeitgenossen,3
73-3
7
4.
47
北海学園大学人文論集
第5
8号(20
15年3月)
つぎのような挙に出たのであるが,これもまたヘーゲルと彼の師との間の
埋めがたい溝を間接的に物語っている。このあいだ
が,つぎはヘーゲルが
長選挙がありました
長になります。神学部長職は順繰りに
代するこ
とになっています。今年度はマールハイネケが学部長職に就いていました
ので,
つぎはネアンダーの番です。わたしは学部長をやるつもりはない엊
というのが,彼のつっけんどんな返事でした。おそらくネアンダーは
長
との衝突を恐れたのでしょう 웎
。
웋
これ以外にも,シュライアマハーとヘーゲルの確執についての証言は事
欠かないが,
この二人は 1
8
31年にプロイセン国王から揃って勲三等赤色大
鷲勲章を受章したので,よほどの因縁の関係というよりほかにない。それ
はともあれ,われわれが各種の証言全体から受ける印象としては,つねに
ヘーゲルの側から執拗に挑発行為を繰り返しており,これに対してシュラ
イアマハーは極力自制を保ちつつも,しばしば親しい友人に抑えがたい憤
懣をこぼしている。
6.シュライアマハーとヘーゲルの根本的対立点
シュライアマハーとヘーゲルの確執は,もちろん個人的な気質の相違や
学問的スタイルの相違ということもあるが,なによりもキリスト教信仰と
学問研究との間の関係についての,あるいは神学と哲学との関係について
の,両人の基本的見解の相違に起因している。この点で参
になるのは,
ラウマー(Fr
i
edr
i
chLudwi
gGeor
gvonRaumer
,
1
78
1-1
87
3)の見立てで
ある。彼によれば, ヘーゲルは三一論が彼の体系を強化し,またこの体系
が三一論を強化することを証明する。シュライアマハーは教義学を絶対的
に哲学から
離しようとするが,しかし徹頭徹尾哲学的に思索してい
る 웎
。このような学問的立場の相違は,しかしながらベルリン大学を取り
워
4
1 Wi
l
he
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m Vat
keans
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ne
nBr
uderGeor
gvom 6
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82
9
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nHegel in
Ber
ichten seiner Zeitgenossen,3
99.
48
永遠の契約
か,それとも
和解
か? (安酸)
巻く現実の政治的な磁場のなかで,文部省はアルシュタインを介してヘー
ゲル=マールハイネケの側についているが,学部は多数者を介してネアン
ダー=シュライアマハー=シュトラウスの側に,つまり素朴な信仰の側に
ついている 웎
웍という,極度の緊張をはらむ二極化の様相を呈したのであ
る。筆者は磁力化した学内政治には関心がないし,またそれを正当に判断
する力ももたないが,シュライアマハーとヘーゲルの学問的対立は,1
9世
紀中葉以降のプロテスタント神学の発展にとってきわめて重要であるの
で,両巨匠の学問的見解の相違を最も本質的な点にまで
って
察する必
要がある。このためには,シュライアマハーの 信仰論 の第一版(KGA
)と第二版(KGA 1.Abt
),ヘーゲルの
1.Abt
.7,욼
욪욾
.1
3,욼
욪욽
義
宗教哲学講
の新版(Vor
lesungen: Ausgewa
썥hlte Nachschr
iften und Manuskr
ipte ,
Bd.3-5)を突き合わせながら,その相違・対立点を明らかにするという,
本格的な文献学的・解釈学的作業が必須である。しかしこれはどんなに少
なめに見積もっても,7,8年はかかる大仕事である。
この仕事はいずれ誰かがなすであろうが,筆者は一つの取り組み方とし
て,シュライアマハーとヘーゲルの神学的=宗教哲学的思想の相違・対立
を, 永遠の契約 と 和解 という標語の下に
察してみたいと
えてい
る。周知のように,シュライアマハーはキリスト教信仰と学問研究との関
係を, 永遠の契約 (ei
ne
newi
ge
nVe
r
t
r
ag)という理念で捉えた。
われわれの教会は,宗教改革の最初の発端から生じてきたものである
4
2 F.L.G.v.Raume
ranL.Ti
e
ckvom 22
.10.1
82
4
,i
nHegel in Ber
ichten
seiner Zeitgenossen,2
72
.
43 Wi
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rGeor
g vom Se
pt
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mbe
r1
8
28
,i
n
Hegel in Ber
ichten seinerZeitgenossen,3
8
8. なお,ここで言及されている
シュトラウスとは,Ge
のこと
r
har
dFr
i
edr
i
chAbr
aham St
r
auß(
17
8
6
18
6
3
)
であり, 批判的イエス伝
の作者の Davi
では
dFr
i
e
dr
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c
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r
auß(
1
8
0
87
4
)
ない。
4
9
北海学園大学人文論集
第5
8号(20
15年3月)
が,もしこの宗教改革
が,信仰は学問を阻害
せず,また学問は信仰
を排除しないようにす
るために,生き生きと
したキリスト教信仰
と,あらゆる面に解放
され独立独歩営まれる
の シュラ イ ア マ ハー
Dr
ei
f
al
ti
gkei
ts
ki
r
chhofI
I
の墓の前で
20
1
4年8月 27日撮影
学問的研究との間に,
永遠の契約を締結する
という目標をもたない
とすれば,それはわれ
われの時代の要求を満足させはしないし,われわれはまた,たとえそ
れがいかなる闘争から,いかにして自己を形成するにせよ,さらに別
の宗教改革を必要とする。しかし宗教改革においてすでにこの契約の
ための基礎が据えられているということは,わたしの確固たる信念で
ある。
웎
웎
これに対してヘーゲルは,キリスト教信仰と学問研究の関係を,あるい
は神学と哲学の関係を,彼の哲学の中心的主題である 和解 (Ve
r
s
썥
ohnung)のモティーフで捉えている。
しかし思惟が具体的なものに対して対立を措定し始め,そして具体的
なものに対して対立のうちで自己を措定するかぎり,この対立を耐え
44 Schleier
macher
s Sendschr
eiben 썥
uberseine Glaubenslehr
e an Lu
썥cke ,ne
u
he
r
aus
gegebenundmi
te
i
nerEi
nl
e
i
t
ungundAnme
r
kunge
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e
r
t(
Gi
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n:Ver
l
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썥pe
l
mann,1
9
0
8
)
,4
0
;KGA
I
.Abt
.1
0,35
0-3
51.
50
永遠の契約
か,それとも
和解
か? (
安酸)
抜いてついに和解に到達することが,思惟の過程である。
この和解は哲学である。そのかぎりにおいて,哲学は神学である。
神が自己自身と和し自然と和解していることを,哲学はつぎのように
表現する。すなわち,自然という씗他である存在>も潜在的には神的
なものである。有限な精神はそれ自身においてみずから和解へと高ま
るものであるが,他方また世界
をもたらす,と。世界
において,この和解に到達し,和解
における和解は
神の平和
である。それは
あらゆる理性よりも高い のではなく,むしろ理性によってはじめて
知らされ,思
され,そして真なるものとして認識される。
웎
웏
シュライアマハーの場合
には,信仰と学問,神学と
哲学の相違・対立は,どこ
までも解消できないものと
して残り,だからこそ両者
の間に
永遠の契約
関係
を樹立することが肝要とな
る。他方ヘーゲルの場合に
は,信仰と学問,神学と哲
Dor
otheenst
썥
adti
s
cherFr
i
edhofの ヘーゲ ル の
学の相違・対立は,概念的 墓の傍らに佇む
20
14年8月 2
7日撮影
に止揚されて和解へともた
らされるべきである。かく
して,シュライアマハーとヘーゲルのこの対立は,
잰信仰と理性잱
をめぐる
4
5 G.W.F.Hege
l
,Vor
lesungen. Ausgewa
썥hlte Nachschr
iften und Manuskr
ipte 5,Vor
lesungen 썥
uber die Philosophie der Religion,Tei
l3
:Die
vollendete Religion,her
aus
gege
benvonWal
t
e
rJ
ae
s
c
hke(
Hambur
g:Fe
l
i
x
-2
Me
i
ne
rVer
l
ag,1984
)
,268
69;ヘーゲル,山崎純訳 宗教哲学講義
社,20
0
1年,3
9
1頁参照。
51
文
北海学園大学人文論集
第5
8号(20
15年3月)
あの永遠の問題の,まさに近代ドイツ版と見なすこともできよう。過去の
事例がそうであったように,対立しあう両方の側にそれぞれ真理契機があ
り,いずれか一方が全面的に正しいということはあり得ないが,こういう
二項対立的な論争を丁寧に読み解くことは,斬新ではやりのテーマを追い
回すことよりはるかに価値があると思う。
おわりに
筆者はここで,シュライアマハーとヘーゲルの思想対立のあらましを,
各種の断片的資料に基づいて説明しようと試みたが,ここで示唆した見通
しは,いずれ両者の体系的書物の精読・読解によって検証されなければな
らない。そのためには,シュライアマハーの
教哲学講義
信仰論
とヘーゲルの
宗
の原典テクストが,厳密な文献学的・解釈学的手法を駆
し
て,丁寧に読み解かれなければならない。高い山に登るには周到な準備が
必要であるが,シュライアマハーとヘーゲルは間違いなく,近代の神学お
よび宗教哲学の最高峰である。それゆえ,準備もなしにいきなり登ろうと
する愚は犯さず,当面は入念な予備作業に徹したいと
ある。
えているところで
(20
1
4
.1
2
.
13
)
*本稿は,
第1
3回京都大学基督教学会(日時:20
1
4年 12月 13日 13
:
00∼,会場:京都大学文学部
舎地下1階大会議室)にて口頭発表
されたものであるが,これは平成 2
5年度∼平成 2
7年度の科学研究
費助成事業(学術研究助成基金助成金)
(基盤研究C)による研究
(잰ベルリン精神잱の内的相剋としてのシュライアーマッハーとヘー
ゲルについての研究 )の成果の一部である。
52
タイトル1行➡3行どり
タイトル2行➡4行どり
インドネシア西ジャワ州スンダ農村調査報告
須
田
一
弘・梅
崎
昌
裕웬
1.は じ め に
インドネシアは,世界第4位の約2億 3
76
0万(2
0
10年国勢調査)の人口
を有している。陸地
面積は 1
8
9万 km워
,1
7
,50
0以上の島々で構成されて
おり,そのうち人が住んでいる島はおよそ 6
,00
0にのぼる。インドネシア
の人口
布の特徴のひとつは,ジャワ島への極端な人口集中にある。すな
わち,国土のおよそ 6
.
7
%(126,
70
0km워
)を占めるに過ぎないジャワ島に,
全人口の6割の約1億 39
0
0万人が居住しているのである。
ジャワ島の爆発
的な人口増加は 19世紀半ばから生じており(ギアーツ,2
0
0
1
:p11
1
2)
,
植民地政府は 2
0世紀初頭から,スマトラ島への移住政策
(トランスミグラ
シ)を開始した(Mubyar
)。トランスミグラシ政策は,その後,イ
t
o,2
000
ンドネシア政府にも受け継がれ,スマトラ島だけではなくカリマンタン島
やスラウェシ島などの外島へと拡大されて現在に至っている(Supar
no,
2007)が,それにもかかわらず約6割の人口がジャワ島に集中しているこ
とは,同島の人口支持力が,外島にくらべ抜きんでていることを表してい
る。
ジャワ島の人口を支えるのは,水田,とくに山がちな斜面に精緻に作ら
れた棚田で行われる二∼三期作または二∼三毛作というシステムである。
ギアーツはこれを 農業のインボリューション(内に向かう発展) と呼び,
詳細な歴
生態学的
析をおこなった
(ギアーツ,2
0
01
)
。ギアーツの
웬東京大学大学院医学系研究科国際保 学専攻人類生態学教室
53
析
北海学園大学人文論集
第5
8号(2
0
15年3月)
後,半世紀以上を経た現在,ジャワ島の農村ではどのような生産システム
がおこなわれているのかを,
定量的なデータに基づいて
析するため,
ジャ
ワ島の中でもとくに人口の多い西ジャワ州の農村で調査を行った。西ジャ
ワ州は,インドネシアの 3
4州のうち,最も多い約 43
0
0万人(全人口の約
18%)の州別人口を有しており,そのほとんどがスンダ語を話すスンダ人
である。20
03年の西ジャワ州の農家数はおよそ 329万世帯で,全世帯に占
める農家の割合は約 3
3%,土地所有世帯の平
農地面積は約 0.
4haと
なっている
(プロマーコンサルティング,2
013
)。このうち,州都であるバ
ンドン市の北東に位置するスメダン県ランチャカロン郡(Kecamatan
Rancakalong, Kabupaten Sumedang )から,二つの集落を選び,生業に関
わるデータを収集した。この小論では,各世帯の所有農地面積,樹木栽培
及びそれらの生産,家畜飼養などに関するデータの
析から,西ジャワ州
のスンダ農村の現状,とくに,生業の多様性と世帯間の所得格差について
えてみたい。
なお,この小論のもとになるインドネシア調査は,日本学術振興会学術
研究助成基金助成金
東南アジアにおける人口流動と資源利用の変容が環
,課題番号 26
3
60
0
21
)の補
境に与える影響に関する研究 (基盤研究(C)
助を受けて,2
014年8月 23日から9月8日にかけておこなった。
2.調査地の概要
調査対象地区は,スメダン県ランチャカロン郡に属するナガラワンギ村
(Desa Nagar
awangi )のルバク・トゥラン集落(Dusun Lebak Tr
ang )と,
ランチャカロン村(Desa Rancakalong )のチパリア集落(Dusun Chipar
ia )
の二つの集落である(地図1)
。ルバク・トゥラン集落は,州都バンドンか
ら直線距離で北東におよそ 2
8km,チパリア集落は同じく北東におよそ 2
4
km に位置しているが,ともに山地を
回する道路を通らなければならな
いため,自動車での移動には2時間半近くかかる。ルバク・トゥランは,
ランチャカロン郡を南北に結ぶ幹線道路に面しているが,チパリアは幹線
5
4
インドネシア西ジャワ州スンダ農村調査報告 (
須田・梅崎)
地図1
調査地
道路から細く険しい枝道を 2km ほど入らなければならない。こうした
通に関する差異が,後述のように現金獲得活動の多様性に影響を与えてい
る。
インドネシアの地方行政単位には,村(De
s
a)の下位区
として,日本
の町内会にあたる RW(RukunWar
ga)が置かれ,さらにその下に,かつ
ての日本の隣組を手本にした,ほぼ 5
0世帯を単位とする RT(Rukun
Tet
angga)が置かれている。自然村であるルバク・トゥランは一つの RW
を構成しており,その RW は五つの RT に
かれている。これらルバク・
トゥランの 57の RT のうち,幹線道路に近い第一 RT を調査対象とした。
なお,2
014年8月の調査対象 RT の世帯数は 4
3,人口は 127人(男性 5
9
人,女性 69人)
であった。いっぽう,チパリアは自然村が一つの RT を構
成しており,世帯数は 3
7,人口は 10
2人(男性 5
0人,女性 5
2人)であっ
た。
55
北海学園大学人文論集
写真1
写真2
第5
8号(20
15年3月)
ルバク・トゥラン
ルバク・トゥランのタロン
ルバク・トゥランの調査対象 RT(以下ルバク・トゥラン)は,前述の幹
線道路
いに4世帯が居住し,
残りの 3
9世帯は幹線道路から東に
びる枝
道の南側に密集して居住している
(写真1)
。他の RT の住居は,枝道を挟
んで両側に数列にわたって
っており,
その外側には水田が広がっている。
住宅地の標高はおよそ 8
3
0m である。また,枝道を東に進むと住居が途切
れ,その先はタロン(talun )と呼ばれるアグロフォレストリーが広がって
い る(Okubo et al .
,20
1
0)。タ ロ ン に は
材 と な る 樹 木 や ク ローブ
(Syzygium ar
,竹,サトウヤシ(Ar
omaticum )
enga pinnata )が植えられ
ている他,その合間にキャッサバやトウガラシなどの作物も植えられてい
56
インドネシア西ジャワ州スンダ農村調査報告 (
須田・梅崎)
る(写真2)
。ルバク・トゥランの生業の中心はこれらの水田とタロンであ
るが,度重なる相続や売買の結果,住民の水田とタロンは必ずしもルバク・
トゥラン集落内にあるとは限らず,他の RW や他村の水田やタロンを利用
している世帯も多い。また,住居の周囲のわずかな土地に,家
菜園とし
てバナナやトウガラシを植えている世帯や,養魚池を所有している世帯も
あり,生計の助けとなっている(Kubot
a et al .
,2
0
02
a;Kubot
a et al .
,
2002b)。
チパリアは,幹線道路から細く曲がりくねった枝道を 2km ほど進んだ,
道の突き当りの尾根に住居が並んでいる(写真3)
。標高は約 1,0
0
0m で,
両側の斜面とそれぞれ谷底の川を挟んだ反対側の斜面に多数の棚田と畑が
広がっている(写真4)
。川の上流(西側)の棚田の上部にはタロンがあり,
材やクローブ,竹,サトウヤシなどが植えられている。また,住居と棚
田の間のわずかな土地にも,数本のクローブやバナナが植えられている。
チパリアの生業域はこれらの棚田やタロンになるが,これらの土地はル
バク・トゥランと同様に度重なる相続や売買のため,他集落の世帯が所有
する土地がところどころに存在している。チパリアの住民が,ルバク・トゥ
ランのように他集落の棚田やタロンを利用することはほとんどないが,他
集落の住民がチパリア域内の土地を利用することはよく見られる。
写真3
チパリア
57
北海学園大学人文論集
写真4
第5
8号(20
15年3月)
チパリアの棚田
3.農業の概要
씗水田>
ルバク・トゥランとチパリアの両集落とも,農業の中心は棚田を中心と
した水田である。両集落とも古くから栽培されていた在来品種と,緑の革
命によってもたらされた改良品種の両方を,耕作者それぞれの判断や水田
の状況に合わせて植え付けている。一般に,収量は改良品種の方が多いが,
味は在来品種の方が良いとされている。
熱帯に属する西ジャワ州では年間の気温にさしたる差はないが,降水量
によって明確な乾期(6∼9月)と雨期(1
0∼5月)に
かれ,雨期には
天水に依存した,そして,乾期には灌漑を利用した二∼三期作の稲作栽培
が可能である
(五十嵐,1
9
87)
。しかし,多くの水はけのよい水田では,稲
の収穫の後,再び水を引き入れて米を作るのではなく,主としてサツマイ
モを裏作にした二∼三毛作が行なわれている。
サツマイモは 19
9
0年代から
ランチャカロン郡に導入され始め,2
00
0年頃から本格的に栽培が行なわれ
るようになった。ランチャカロン郡で栽培されるサツマイモは甘みが強い
ことで有名で,生のまま出荷されることもあるが,オーブンで焼き芋とし
て調理し,バンドンなどの都市部で販売することもある。2年間を1サイ
クルとした場合,稲とサツマイモを
互に栽培することもあるが,稲の後
58
インドネシア西ジャワ州スンダ農村調査報告 (
須田・梅崎)
サツマイモの栽培を二∼三度繰り返してから再び稲を栽培することもあ
る。
実際の耕作は,自
の所有する土地で行われる自作の他,耕作において
短期間にまとまった労働力が必要な耕起や田植え,収穫時に近隣から人を
雇い,賃金を支払うことも行われている。また,他者の所有する土地を
益小作により耕作することもある。ジャワの農村の
益小作は,土地を所
有しない零細農民と地主の間で行われることよりも,零細農民間で
の
散
として行われていることが注目されてきた(ギアーツ,2
00
1
:
1
40-141)。ランチャカロン郡の
と地主が
労働
益小作も同様で,収穫高の半
を小作者
け合うことが基本だが,
両者の合意のもとで割合が変わったり,
小作者が現金で地代を支払ったりする場合もある。この
益小作制度は家
畜飼養にも適用されている。その場合,所有者が雌の牛や山羊を親戚や隣
人,友人に預けて飼育させる。飼育者はみずから
を用意して育て,子供
が生まれた場合はその半数をもらっている。
씗畑>
両集落とも,かつて水田だった場所に水を引き入れず,畑として利用す
(写真5)
。収穫は作物に応じて年に2∼3度の栽培を行って
ることもある
いるが,同じ作物を続けて栽培することはなく,いくつかの作物を組み合
写真5
チパリアの畑
59
北海学園大学人文論集
第5
8号(201
5年3月)
わせた耕作がみられる。両集落で栽培されている作物は,キャッサバ,バ
ナナ,長ネギ,トウガラシ,キャベツ,タバコなどである。また,畑の耕
作でも,水田のような
益小作が行なわれている。
씗タロン>
タロンには
材となるアルバシア
(Par
aser
ianthes falcatar
ia ),スリアン
(Toona sur
,ソブシ( Maesopsis eminii )や,花蕾が香辛料となるク
eni )
ローブ,サトウヤシやコーヒーなどの樹木が植えられている他,キャッサ
バ,タバコ,トウガラシなども栽培されている。ルバク・トゥランには製
材所や家具工場があり,同所で伐採した木材はおもにこれらの工場に販売
されるが,住宅を
てる資材として直接消費者に販売されることもある。
タロンに植えられているクローブはその花蕾が香辛料となる。収穫は年
2回で,そのうちの1回が調査期間と重なったため,収穫及び乾燥作業を
観察することができた。収穫は,木に梯子をかけ,男性が開花前の数個の
(写真6)
。収穫した花冠はそれぞれの家
花蕾を花冠ごともぎ取っていた
に運ばれ,女性の手で花蕾が外される。その後,天日で乾燥させると,薄
緑の花蕾は褐色に変わり,クローブ独特の香りが漂ってくる(写真7)
。
チパリアでは2∼3本のクローブを所有する家族単位で収穫と花蕾はず
し,乾燥が行なわれていたが,ルバク・トゥランでは,広いタロンで数 1
0
本のクローブを栽培している世帯もある。その場合,労働者を雇って収穫
作業を行うことが多い。賃金は1日1人当たり Rp5∼6
0
,
00
0
(約5∼6百
円)で,その他に所有者から休憩時のタバコやコーヒーが提供される。1
人1日の採集量はおよそ 6
∼10kg
(乾燥前重量)であり,2∼3人で2日
間程度の作業で1本から 3
0∼35kg程度の花蕾が収穫される。
クローブの葉や枝からは,鎮痛,防虫などの効果があるクローブオイル
が作られる。ルバク・トゥランの北,幹線道路を自動車で 1
0 ほど走った
ところに,小規模な製油工場があり,そこに葉や枝を販売することもある。
価格は 1kgあたり Rp1,
000
(約 10円)ほどである。
サトウヤシ(写真8)の樹液からは砂糖を作ることができる。樹液の採
60
インドネシア西ジャワ州スンダ農村調査報告 (
須田・梅崎)
写真7
写真6
クローブの乾燥(黄緑の花蕾は乾燥さ
せると黒褐色になる)
クローブの収穫
集は,まず房状に着いている果実の付け根を専用の叩き棒で4日に1度叩
いて樹液の出を良くする。それを1か月ほど続けた後,果実の根元を切っ
て採集を開始する。初めのうちは1日当たり4リットル程度だった樹液の
収量は徐々に低下していき,3か月後には半
の量になる。その頃になる
とその木からの樹液の採集はあきらめ,別の木を探すことになる。採集し
た樹液はその都度鍋で煮詰めて,
円形の枠に入れて成形して商品となり
(写
真9)
,集落のよろず屋で販売される。
サトウヤシの葉柄の基部には,シュロのように黒褐色の毛が密集してい
る。ルバク・トゥランではこの毛からイジュック(ijuk )と呼ばれる繊維を
精製し,箒などの製品を作る小規模な工場がいくつかある。工場では,採
集したばかりの毛から固い部
を取り除き,3∼7日間水に漬けて柔らか
くし,それをくしけずってイジュックを作る(写真 10
)
。ルバク・トゥラン
の調査対象 RT には,こうした工場を経営していたり,雇われたりしてい
る住民が少なからず存在している。
4.調 査 方 法
ルバク・トゥランの幹線
いの RT(4
7世帯)に
3世帯)とチパリア(3
61
北海学園大学人文論集
第5
8号(20
15年3月)
写真9
写真8
サトウヤシの樹液を煮詰めて砂糖を
作る
サトウヤシ
写真 10 イジュック作り
ついて,すべての世帯に聞き取り調査を行った。聞き取りは世帯主または
その配偶者を対象とし,世帯員の年齢,性別,職業,水田・畑・タロンの
所有面積と
益小作の有無,栽培している作物の種類,作物の耕作の順番,
飼養する家畜の種類と個体数,一年間の米やその他の作物の生産高などを
質問した。両集落とも,日常会話はインドネシア語ではなくスンダ語で行
われているため,聞き取りに際してはパジャジャラン大学生態学研究所に
所属する修士課程の大学院生にスンダ語で行ってもらった。聞き取り調査
には,須田または梅崎ができるだけ同席し,不明な点をインドネシア語ま
62
インドネシア西ジャワ州スンダ農村調査報告 (
須田・梅崎)
たは英語で調査者に確認した。聞き取りの結果は質問紙票に英語で記入し
てもらい,その日の調査終了後に英語またはインドネシア語で内容の確認
を行った。不明な点があった場合には,その日の夜か翌日に再び聞き取り
を行った。
聞き取り調査の他に,水田や畑,タロンでの作業を観察し,作業の工程
や賃金について質問した。また,イジュック精製工場,クローブオイル精
製工場での作業を観察し,工程や賃金,価格について質問した。さらに,
サツマイモの仲買人や大規模な樹木栽培者に,導入の歴
や価格の変化な
どを質問した。
5.結
果
表1はルバク・トゥランの聞き取り調査の結果をまとめたものである。
4
3世帯からすでに生業活動を引退した3世帯を除く 40世帯の中で,農業
を主たる職業とするものは 1
3世帯(32.5
%)に過ぎず,農村とはいいなが
ら職業が多様なことがわかる。のこりの 2
7世帯のうち,イジュックの繊維
精製工場を自営している3世帯(世帯番号 1
1,2
2
,2
4
)と,兵士(同2)
や
務員(同3)
,教師(同4)
,銀行のセキュリティ(同 2
8)など安定し
た収入のある4世帯を除く 2
0世帯は,他世帯の農作業を手伝ったり屋台な
どを営んだりしており,その収入は不安定で低い傾向がある。
自作のための水田を所有している世帯は9世帯に過ぎず,そのうち3世
帯(同3,7,3
1)は農業以外の生業を主たる職業としている。水田を他
世帯に貸しているのは2世帯のみであり,そのうち1世帯(同3)は,
務員をしている世帯主が 2
00bat
(1bat
4
.2
9m워
)を
a
aは 1
益小作制によ
り兄に貸し付け,米とサツマイモの収穫の 5
0%を受け取っている。水田を
借りて耕作しているのは6世帯で,そのうち1世帯(同5)は土地を現金
で借り受け,
労働者を雇用してサツマイモを中心とした耕作を行っている。
この世帯の場合,サツマイモを3回耕作した後,1回のみ米を栽培してい
る。
63
北海学園大学人文論集
表1
世帯
人数
番号
主な
職業
1
2
1 引退
5 兵士
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
2
5
3
3
4
3
4
2
3
3
2
2
務員
教師
農業
小売業
衣服製造
農業
農業
農業
繊維製造
衣服製造
農業
農業
15
16
17
18
19
20
21
22
23
24
25
26
27
28
29
4
2
2
3
1
3
2
4
3
3
2
3
3
4
2
日雇い
日雇い
日雇い
屋台
バイクタクシー
屋台
農業
繊維製造
バイク整備
繊維製造
屋台
農業
農業
セキュリティ
農業
30
31
32
33
34
35
36
37
38
39
3
3
1
2
4
4
4
6
3
5
運転手
屋台
引退
農業
日雇い
務員
運転手
農業
村長
農業
40
41
42
43
2
3
4
1
日雇い
屋台
日雇い
マッサージ
平
標準偏差
01
5年3月)
第5
8号(2
ルバク・トゥランの耕作面積と生産量
在来品
水田 水田 水田
畑
畑 タロン
種米生
(自作)(貸地)(借地)(自作)(借地)(自作)
産量
(bat
a)(bat
a)(bat
a)(bat
a)(bat
a)(bat
a)
(kg)
改良品
種米生
産量
(kg)
0
0
サツマ
イモ生
産量
(kg)
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
9
0
0
0
200
0
0
0
50
80
65
60
0
0
0
160
200
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
400
0
0
0
0
0
0
0
6
80
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
80
0
250
60
150
0
0
0
80
150
150
160
0
500
0 2300
0
0
0 800
0
0
0 1050
0 800
0 325
0 1200
0
0
0
0
0 100
0 800
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
150
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
100
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
30
0
200
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
200
0
60
60
0
100
0
0
510
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
900
0
0
200
0
0
0
0
0
0
0
0
0
50
0
0
0
0
0
400
0
100
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
20
20
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
100
0
50
0
130
0
400
0
100
0
0
0
0
0
0
0
280
0
100
0
0
0
0
0
0
0
280
800
500
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
16
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0 鶏8羽,家鴨4羽,養魚
池
3000 鶏 30羽,家鴨3羽
0
18000 養魚池
0
0 鶏 20羽(他者所有)
60 鶏4羽
330 鶏 15羽
0 鶏 10羽
0 山羊4頭(他者が飼養)
333
500 鶏1羽
1666 山羊5頭(他者が飼養),
鶏5羽,家鴨5羽,養魚
池
0 山羊1頭
0
0 鶏2羽
150 鶏2羽
0
0
916 山羊6頭,鶏 15羽
0 山羊2頭
0
0 鶏8羽
0
0 山羊8頭
2333 牛1頭
0 鶏7羽
0 山羊5頭,鶏 30羽,家鴨
20羽
0
0 山羊2頭,鶏4羽
0
0 鶏1羽
0 山羊4頭
0
0
4000
0 山羊3頭,養魚池
2500 山羊 10頭,鶏2羽,兎5
羽,養魚池
0 家鴨 10羽
0 鶏1羽
0
0
27.09 8.14 15.81 5.72 1.86 74.86 10.27187.97345.62
72.91 37.69 63.63 30.76 12.20128.30 48.45351.55872.16
1bat
4.
2
9m워 70
0bat
aは約 1
a≒1ha
64
備
インドネシア西ジャワ州スンダ農村調査報告 (
須田・梅崎)
前述のとおり,おもに水田では米とサツマイモの二∼三毛作が行なわれ
ているが,米に関しては在来品種よりも生産性の高い改良品種が栽培され
ていることが多い。在来品種を栽培しているのはわずか2世帯であり,そ
の世帯も改良品種と同じ生産量(世帯番号 3
7)か,改良品種の5
の1の
量(同 39)しか生産していなかった。サツマイモを収穫していたのは 1
2世
帯あり,この作物が米と同様に重要な作物であることがわかる。水田で米
だけを収穫し,
サツマイモの収穫を行わなかった世帯は3世帯だけであり,
逆にサツマイモのみを収穫し米を収穫しなかったのは2世帯だけである。
米は世帯で消費する量を除いた剰余
を販売するが,サツマイモは収穫量
のほとんどを販売している。すなわち,米は自家消費用,サツマイモは販
売用という傾向がある。
畑を所有している世帯は3世帯に過ぎず,土地を借りて畑を耕作してい
る世帯は1世帯のみである。このうち2世帯(同 2
5
,4
3
)は屋台を引いて
氷菓子を売るなどのインフォーマルセクターの生業が主であり,耕作面積
も小さい。また,畑を他世帯に貸しているものはいなかった。ルバク・トゥ
ランにおいては,畑がそれほど重要ではないことがうかがえる。
いっぽう,タロンと呼ばれるアグロフォレストリーは,全世帯の約 4
4
%
にあたる 19世帯が所有していた。前述のとおり,タロンでは
材となる樹
木栽培の他に,サトウヤシやクローブ,コーヒーが植えられている。これ
らはルバク・トゥランの重要な収入源になっている。なお,ここではタロ
ンの貸し借りは見られなかった。
備
欄には飼養する家畜・家禽の種類と個体数,及び養魚池の有無を記
載した。26世帯が家畜や家禽を飼養しており,5世帯が養魚池を所有して
いた。家畜・家禽についても, 益小作のような制度がある。世帯 25では,
生まれる雛の 25
%を譲り受けることを条件に,他者の鶏を 20羽世話して
いた。世帯 14では生まれる子供の 5
0
%を譲り渡すことを条件に,他の RT
の世帯に5匹の山羊の世話を任せていた。養魚池を所有しているのは5世
帯に過ぎなかった。
表2はチパリアの聞き取り調査の結果をまとめたものである。生業を引
65
北海学園大学人文論集
第5
8号(20
15年3月)
退した3世帯を除くと,農業を主とする世帯が 2
3
(6
7
.6
%)と3
の2以
上を占めており,ルバク・トゥランとは異なり,農業が主要な生業である
ことがわかる。残りは凧作りが4世帯,日雇い労働が3世帯,大工が2世
帯,衣服製造と屋台での販売が1世帯ずつとなっている。凧作りはいわば
内職仕事であり,業者の依頼のもと,骨組みの竹ひごを削ったり,竹ひご
の骨組みに紙を張り付けたりする作業を請け負っている
(写真 11
)
。凧作り
の作業は農家世帯のメンバーも行っているが,主たる生業を凧作りに
類
した世帯は耕地を持たず米やサツマイモの収穫がまったくない世帯(世帯
番号 13,25,31
)か,水田を
益小作制で貸して,自
では耕作を行って
いない世帯(同 2
4)である。裁縫業(同5)は自宅でズボンの製作を請負
表2
チパリアの耕作面積と生産量
在来品
水田 水田 水田
畑
畑
畑 タロン タロン
種米生
世帯
主な
(自作)(貸地)(借地)(自作)(貸地)(借地)(自作)(貸地)
人数
産量
番号
職業
(bat
a)(bat
a)(bat
a)(bat
a)(bat
a)(bat
a)(bat
a)(bat
a)
(kg)
改良品
種米生
産量
(kg)
サツマ
イモ生
備
産量
(kg)
1
3 農業
80
0
0
0
0
25
270
2
5 農業
230
0
0
0
0
80
0
3
4
5
6
3
2
4
3
50
60
15
460
0
0
0
65
0
0
0
0
0
50
0
90
0
0
0
0
0
0
0
0
100
0
70
700
7
8
3 農業
2 農業
25
0
0
0
65
0
0
50
0
0
0
0
30
60
0
0
900
0
0
0
9
2 農業
100
0
0
0
0
0
50
0
800
0
10
11
3 農業
1 農業
30
0
0
50
0
0
0
0
0
150
0
0
50
0
0
0
200
700
200
0
12
13
14
15
2
3
2
3
60
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
25
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
370
50
0
0
0
0
300
0
400
0
0
0
0
0
16
1 引退
0
150
0
0
0
0
0
0
550
0
農業
農業
衣服製造
農業
大工
凧作り
農業
農業
66
0
0 1000
0 4600
0
0 1200
0
0 550
0
0 160
0
200 3600 1050
0牛1頭,家鴨
4羽
0牛2頭(1頭
は他者所有),
山羊2頭,鶏
8羽,家鴨 12
羽
0
0鶏2羽
0鶏8羽
200牛1頭(他者
飼養)鶏 12羽
0山羊 12頭
0山羊5頭(1
頭は他者所
有)
0牛1頭,山羊
1頭
0牛1頭
0山羊4頭(2
頭は他者所
有),鶏7羽
0
0
0
0山羊5頭(他
者所有)
0
インドネシア西ジャワ州スンダ農村調査報告 (
須田・梅崎)
17
18
19
20
21
22
1
3
1
3
3
3
引退
農業
引退
農業
屋台
農業
0
70
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
150
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
80
0
100
0
50
0
0
0
0
0
0
0
650
0
0
0
500
0
0
0
0
0
0
23
24
25
26
3
3
1
3
大工
凧作り
凧作り
農業
80
0
0
30
0
50
0
0
0
0
0
0
0
0
40
0
0
0
0
0
0
0
0
25
200
0
0
0
0
0
0
0
800
300
0
245
0
0
0
0
27
28
6 農業
3 農業
30
100
0
0
0
0
30
0
0
0
0
0
0
50
0
0
250
420
0
0
29
2 日雇い
0
50
0
0
0
0
0
0
50
0
30
31
32
33
34
2
2
5
2
4
0
0
0
0
50
0
0
0
0
0
0
0
25
300
150
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
700
850
0
0
0
0
0
35
4 農業
0
0
200
0
0
0
0
0
0
250
36
2 農業
50
0
100
0
0
0
0
0
800
0
37
4 日雇い
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
日雇い
凧作り
農業
農業
農業
0
0牛1頭
0
0鶏6羽
0鶏4羽
0山羊2頭(他
者所有),鶏7
羽
0
0山羊1頭
0
0牛1頭(他者
所有),鶏7羽
0
0牛4頭,山羊
2頭,鶏5羽
0鶏5羽,兎5
羽
0山羊2頭
0
0牛2頭
0
0山羊3頭(2
頭は他者所
有),鶏4羽
0牛1頭(他者
所有),山羊7
頭
0牛2頭(1頭
は他者所有),
鶏2羽
0鶏3羽
平
41.08 9.86 26.76 7.70 4.05 3.51 60.27 5.41527.70 67.57 5.41
標準偏差
84.66 29.17 67.36 19.74 24.66 14.14134.75 32.88937.99237.82 32.88
1bat
4.
2
9m워 70
0bat
aは約 1
a≒1ha
写真 11 完成した凧の裏側
67
北海学園大学人文論集
第5
8号(20
15年3月)
い,問屋に卸していた。屋台を営業する世帯(同 2
1
)はオートバイに簡単
な調理器具を載せ,おもに他村で,スメダン名物の揚げ豆腐を販売してい
た。また,チパリアは幹線道路から離れているためか,
務員や会社員な
ど安定した収入を得ることができる職業に就いているものはいなかった。
水田を自作している世帯は 1
7,水田を貸しているのは7世帯, 益小作
などで水田を借りて耕作しているのは5世帯あった。2
3世帯が在来品種を
収穫しており,改良品種を収穫したのは4世帯に過ぎなかった。このうち
半数の2世帯は在来品種も収穫している。また,サツマイモの生産は1世
帯のみしか行っていなかった。これは,チパリアの水田の灌漑方法によっ
ていると思われる。前述のように,チパリアでは急な斜面に小規模の棚田
を作っており,水路を作って給水している。栽培は年に2∼3回行われる
ため,収穫間近の棚田の近くに,植え付けを終えたばかりの田があること
も珍しくない。水田でサツマイモを栽培する場合,コメの収穫後に田を乾
燥させてサツマイモの植え付けを行わなければならないが,急傾斜の棚田
で周囲に米の栽培を行っている水田がある場合には,水抜きがうまくいか
ないことが多いからである。
畑に関しては,自作が6世帯,貸しているのは1世帯,借りているのは
3世帯あった。畑ではタバコの栽培が目立っており,収穫したタバコは細
2),仲買業者に販売していた。
く裁断したのち乾燥させ(写真 1
タロンは 1
5世帯が所有しており,1世帯(世帯番号6)が他集落の世帯
に貸していた。家畜・家禽は3
のうち 10世帯が
の2以上の 25世帯で飼養されており,そ
益小作のような制度のもとで,
家畜の貸し借りを行って
いた。また,養魚池を所有している世帯はなかった。
6.比較と
察
ルバク・トゥランでは水田での二∼三毛作により,同じ耕地で改良品種
の稲作とサツマイモの栽培が行なわれていた。このうち,米は自家消費中
心,サツマイモは換金作物としての性格を帯びていた。タロンと呼ばれる
68
インドネシア西ジャワ州スンダ農村調査報告 (
須田・梅崎)
写真 12 タバコの葉を裁断し乾燥させる
アグロフォレストリーでは,アルバシアやソブシ,スリアンなどの
材と
なる樹木,クローブ,サトウヤシ,コーヒーや,様々な野菜類が栽培され
ており,農家世帯の重要な現金収入源となっていた。これらの耕地やタロ
ンでは,多くの人々が日雇い労働者として他世帯に雇用されていた。農業
以外の生業としては,安定した収入を得られる
務員や会社員などの職種
の他,集落内のイジュック繊維工場や衣服製造工場に雇用されている者も
少なからずいた。また,屋台での食品販売,バイクタクシーの運転手など,
都市部でよくみられるインフォーマルセクターの経済活動も見られた。
いっぽう,チパリアでは水田の多くは二∼三期作により在来品種の稲作
がおこなわれており,サツマイモの栽培は1世帯がわずかに行っているに
すぎなかった。タロンではアルバシアやソブシ,スリアンなどの
材とな
る樹木,クローブ,サトウヤシ,コーヒーや,様々な野菜類の他,タバコ
の栽培が行なわれており,いずれも重要な現金収入源となっていた。これ
らの耕地では,ルバク・トゥランと同様,多くの人々が日雇い労働者とし
て他世帯に雇用されていた。しかし,その他の現金獲得活動は,内職であ
る凧作りやタバコの製造に限られており,ルバク・トゥランと際立った違
いを見せている。
二つの調査集落は,この地方の経済や政治の中心地であるランチャカロ
ンへのアクセスに大きな違いがある。ルバク・トゥランはランチャカロン
69
北海学園大学人文論集
第 58号(20
15年3月)
へつながり,郡を南北に結ぶ幹線道路に面しているが,チパリアは幹線道
路から,大型自動車が通ることのできない細く曲がりくねった枝道を 2
km ほど進んだ,道の突き当りの尾根に住居が並んでいる。この道路事情の
違いが,両集落の現金獲得のための経済活動の選択に大きな影響を与えて
いると思われる。そのため,ルバク・トゥランではインフォーマルセクター
を含め,比較的多様な活動が行われているのに対し,チパリアでは内職な
どに限定されているのである。また,棚田の規模や灌漑システムにより,
チパリアでのサツマイモ栽培は制限を受けていた。
両集落ともに目立つのは,経済的な格差である。ルバク・トゥランでは,
自作の水田を所有している9世帯の水田面積は最大の 4
00bat
.
5
7
a(約 0
(約 0.
07ha)まで8倍の開きがある。さらに,
ha)から最小の 50bat
a
益小作などにより土地を借りて耕作をしている4世帯を含めた在来と改良
の両品種を合わせた生産量を見ると,最多が 2,
30
0kg,最少が 1
0
0kgで,
2
3倍もの差異がある。サツマイモの生産量では,労働者を雇用して大規模
に耕作を行っている世帯を除く 1
1世帯で,最多が 2,
5
0
0kg,最少が 6
0kg
で,およそ 42倍の差異がある。チパリアでは,自作の水田を所有する 1
7世
2
帯の耕地面積は,最大の 4
6
0bat
(約 0.6
6ha)
から最小の 1
5bat
(約 0
.
0
a
a
0倍以上の開きがある。コメの生産のある 25世帯の生産量は,
ha)まで 3
最多が 4,
6
50kg,最小が 50kgで 93倍もの差異が生じている。こうした格
差は,それぞれの世帯のこれまでの土地の相続や売買,生業ストラテジー
や年齢,人数などの世帯構造の差異によっていると思われる。
7.お わ り に
調査初年度に行った両集落の聞き取りから,高い人口支持力を持つ西
ジャワ州スンダ農村の生業が
質なものではないことがわかった。農村と
はいいながら,微小環境や道路などの社会環境の差異が,両集落の生業に
大きな影響を与えているのである。また,集落内部の世帯ごとの生業スト
ラテジーにも多様性がみられ,農業以外の生業で生計を維持している世帯
70
インドネシア西ジャワ州スンダ農村調査報告 (須田・梅崎)
も少なからず存在していることがわかった。安定した収入を得る機会を
持っているルバク・トゥランのみならず,幹線道路から遠くにあるチパリ
アでも凧作りなどの内職が生業として存在していることは,スンダ農村に
現金獲得活動が浸透していることをあらわしている。さらに,農家世帯に
も経済的な格差があることがわかった。
益小作制の他にも,耕作地を持
たない世帯のメンバーが他世帯に雇用されて現金収入を得ることが日常的
に行われているのである。こうした世帯が存在することは,スンダ農村の
高い人口支持力を示しているのかもしれない。
農家世帯の作物生産を現金に換算し,日雇い労働やインフォーマルセク
ターでの経済活動からの収入と比較すると,集落内の経済格差は一層大き
なものになることが予想される。2
0
15年度の調査では,こうした格差がど
のようなもので,どのようにして生じたのかについて定性的,定量的な調
査を行いたい。また,五十嵐(1
98
7)や門司(1
98
8
)も指摘しているよう
に,雨季と乾季が明確な西ジャワ州では,季節による活動にきわだった差
異がある。実際の活動を観察することと,季節ごとの作業に関する聞き取
りを行うことで,生業活動の季節性を明らかにしていきたい。
씗謝辞>
我々の調査を許可していただいた西ジャワ州およびスメダン県政府,ラ
ンチャカロン郡とナガラワンギ村およびランチャカロン村の行政担当者に
感謝いたします。調査計画のカウンターパートであるパジャジャラン大学
生態学研究所のエリ所長,パムパン博士,ブディ博士には調査計画の立案
と調査許可取得にご尽力いただきました。とくに,ブディ博士には調査地
の選定の他,我々の調査にも同行していただき,貴重な助言をいただきま
した。また,同研究所に所属する修士課程の大学院生であるアスニ氏,ロ
ビ氏,アデラ氏には,聞き取り調査においてスンダ語の通訳をしていただ
きました。ナガラワンギの高
教師であるイイス氏には調査地の選定と宿
舎の手配をしていただきました。彼らの協力がなければ,我々の調査の実
施は不可能でした。これらの方々に深く感謝いたします。最後に,愚かな
71
北海学園大学人文論集
第 58号(20
15年3月)
質問や振る舞いにもかかわらず,
こころよく我々を受け入れてくださった,
イワン氏をはじめとするルバク・トゥランの皆様,アノ氏をはじめとする
チパリアの皆様に衷心より厚くお礼申し上げます。
씗引用文献>
➡
文20 五十嵐(1987) 農作業,季節,星 얨西ジャワ・プリアガン高地における畑地
献頁
耕作をめぐる季節性と農作業のタイミング 東南アジア研究 2
5
(
1
)
:
のに
85
10
8
.
行納
ギアーツ,クリフォード
(2001) インボリューション 얨内に向かう発展 池
送め
本幸生訳
出版
(原書は
りる
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nPopulation Movement in Southeast Asia: Changing Identities
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8
.
門司和彦(1988
) 西ジャワ・スンダ農民の仕事:その季節による変動と性・年
齢による差異(씗特集>西ジャワ・プリアンガン地方の 康・生態・人口)
東南アジア研究 25(
4):57
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プロマーコンサルティング(20
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3) 平成 24年度海外農業情報調査
析事業
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ジア)第四部インドネシア:農林水産業の現状及び農業政策 東京:プロマー
コンサルティング.
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72
タイトル1行➡3行どり
タイトル2行➡4行どり
資料紹介 トロント大学 マクルーハン文庫
柴
一見
田
崇
はじめに
顕著な業績を遺した人物に関する資料の管理は,知の伝達の観点から必
須の作業である。その人物が大学人である場合,通常,その業績が生まれ
た大学が資料の管理にあたるのが最も適切だろう。というのも,学問的業
績は,当該人物の個人的な資質にのみ帰属できる性質のものではないから
である。
自然科学の研究者が潤沢な研究費や優秀なスタッフを求めて所属を変え
るのは珍しくない。人文,社会科学にあっても,所属する機関の知的
囲
気やそこを起点に広がる人的つながりなど,個人を取り巻く事物が研究の
質や量,方向にまで影響を与えることは容易に推測できるし,思想
の研
究に従事する者ならばその具体的例を挙げることも難しくない웋
。
研究の価値は,人文,社会科学の領域では特に,いわゆる時代や文化に
加え,成果を上げた人物が長く,濃密な時間を過ごした環境を抜きに評定
できない。真に孤独な思索者ならばその思想の価値は孤独な環境を前提に
解釈されるべきだろう。大学人であれば,通常,その成果を上げた時期に
所属していた大学がここで言う環境に該当する。ある人物の生涯にわたる
研究成果を評価するときには,当然,生涯にわたって所属した複数の環境
を前提にする必要がある。
大学を差異化する際,固有の
る。
囲気が
学風
として語られることがあ
革,立地,教員や学生の気質から経営方針,大学間の序列,卒業生
柴田(2
-16)
웋E.
g.
012
:1
5
73
北海学園大学人文論集
第 58号(2
0
15年3月)
の社会的評価など,様々な要因によって
学風
なるものが構成される。
もとより, 学風 は不変ではない。一学派を形成した人物の出入りや
の移転によっても
学風
舎
は容易に変わりうる。しかし逆に,例えば,講
座をはじめとする研究,教育体制の維持は人事異動の中でも大学や学部の
理念を保存する手段として,立地や
物を含む学舎の配置はその大学らし
い景観を保持する装置として機能し, 学風
風
の保持に貢献している。 学
とステレオタイプの境界が曖昧なのは認めるとしても,大学には(没
個性も含め) 学風
と呼ぶべき個性があることは経験的に認められるし,
それを保存,保持するいくつもの仕掛けの存在を名指すこともできる。
知の伝達には,資料の管理に相応しい機関がその任にあたり,かつ当該
資料が閲覧を希望する者に開かれていることを要する。保存された資料は
閲覧者の資質に応じてその価値を開示するだろう。そのとき,当該資料が
生した頃の
学風
の名残は,他の資料によって再現された時代や文化
という要素と相俟って解釈の文脈を形成し,資料の理解に貢献するはずで
ある。
メディア研究の始祖とされるM・マクルーハン(Mar
s
hal
lMc
Luhan,
1
911-1980)の業績の帰属を
えるならば,カナダのトロント大学を措いて
他にない。マクルーハンの個人
を繙けば,工学から文学に転向し,修士
号取得まで在籍したマニトバ大学,英文学研究者の資格を授与されたケン
ブリッジ大学のトリニティー・ホール,最初に教壇に立ったウィスコンシ
ン大学,後に盟友となるオング(Wal
t
erJ.Ong,1
91
2-2
0
0
3)と出会い,
その指導にあたったセントルイス大学,ケンブリッジで学位を取得した直
後に赴任したアサンプション大学など,様々な
学風
が,その思想形成
に寄与したことは推して測れる。マクルーハンを専ら英米文学者として評
価するなら,現地で師事した教師や学友,当時流行した思潮を含むケンブ
リッジが醸す知的
囲気が主たる文脈になるだろう。しかし,メディア研
,そのキャリ
究者のマクルーハンについては,文学研究から決別して以後워
)
워Cf
.柴田(201
3b:1-1
8
74
資料紹介
トロント大学
マクルーハン文庫
一見 (
柴田)
アの終焉に至る 3
0余年を包摂するトロント大学が主な文脈になるべきで
ある。
イニス(Har
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95
2)やハヴロック(Er
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k,
1
903-1988)のいたトロント大学の 学風 は,新任教員だったマクルーハ
ンに多大な影響を与えただろう。実際,往事の
学風
から読み解けるマ
クルーハンの思想的特徴は少なくない웍
。同時に,馬具倉庫を改造した二階
ての小さな
物(コーチハウス)から
ハンによってトロント大学に新たな
学風
旋風
を巻き起こしたマクルー
が吹き込まれたことも忘れて
はならない。マクルーハンの学徒ならば,マクルーハンが思想形成した過
程を追跡するための手がかりだけでなく, マクルーハン旋風 の余波をも
看取しなければなるまい。
2014年6月, 平成 26年度北海学園学術研究助成金・共同研究
(代表者;
テレングト・アイトル人文学部教授) によりトロント訪問が実現した。マ
クルーハン研究者を名乗る筆者にとって遅ればせの
マクルーハン詣
と
なった。移動時間を除くと5日半の短期間ではあったが,相応の成果が上
がったものと自負する。成果の中には,写真でしか知らなかったコーチハ
ウスを眺め,セントマイケルズ・カレッジを始めとするマクルーハンに縁
の深い景観の中を歩いた体験が含まれる。残念ながら,今回はマクルーハ
ンの衣鉢を継ぐ人と会う機会はなかった。 学風 を語るには乏しい経験と
言わなければならないが,その一端に触れたことは間違いない。次回以降
の訪問と今後の精読を経た資料紹介を前提に,本稿では,まず, マクルー
ハン文庫 の概要について説明し, マクルーハン文庫 と
称できる二つ
のアーカイヴが所蔵する資料のうち,今回の訪問で入手できたものの一部
を順に紹介したい。
웍Cf
.柴田(201
3b:455
0)
75
北海学園大学人文論集
第 58号(201
5年3月)
1. マクルーハン文庫
キングス・カレッジ
設の 1827年を嚆矢とするトロント大学は,トロン
ト市内の セントジョージ ,ミシソーガの 東部 ,スカーバラの 西部
の三つのキャンパスを擁し,メインキャンパスのセントジョージにある三
つのユニヴァーシティーを中心に十数のカレッジと研究所から編成された
合大学である。マクルーハンが着任したセントマイケルズ・カレッジも
数ある教会派カレッジの一つである。現在,約7万人の学部生,約1万7
千人の大学院生,約2万人の教職員が在籍し,カナダのみならず北米有数
の規模を誇る。複数の世界大学ランキングで常に 2
0位前後に格付けされ,
特に再生医療の
野では最先端を走る研究機関として世界的に認知されて
いる。学部制とカレッジ制が並存するユニークな学制は大学の
革を反映
するものであり,
キングス・カレッジを中心に形成されてきたセントジョー
ジ・キャンパスには様々な時代様式の
舎が点在し,新設大学にはない歴
と伝統が息づいている。
0を超える大小の図書館웎がある。正式に マクルー
トロント大学には 5
ハン文庫
を称する図書施設は存在しないが,セントマイケルズ・カレッ
ジに付属するジョン・ケリー図書館(JohnM.Kel
:以下,ケ
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y웏
リー文庫)
と,本部図書館(Rober
に併設されたトーマス・フィッ
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シャー希 少 文 庫(ThomasFi
:以 下,フィッ
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シャー文庫)の二箇所が, マクルーハン文庫 と呼ぶに相応しい内実を備
えている。
ケリー文庫には,マクルーハン生
1
00年,および没後 3
0年を記念して
2010年に同館内に正式に設置された
マーシャル・マクルーハン・コレク
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76
資料紹介
トロント大学
マクルーハン文庫
一見 (
柴田)
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。MMCは,
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マクルーハンの助手を務めたフィーリー(Jame
00
8年に同館
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に寄贈したマクルーハン関連の資料を基礎に
に対し,フィッシャー文庫の
設されたものである。これ
マーシャル・マクルーハン・ライブラリー・
コレクション Mar
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on:以下,MMLC
には,マクルーハンが所蔵していた約 6
,0
00冊の図書の他,手稿,メモ,
手紙などがある웒
。MMLC所蔵の資料については,
ネット上でそのリストを
閲覧できる웓
。
主にマクルーハン自身による著作を集めた MMCの特長は,現在では入
手困難な著作の現物が閲覧できるところにある。マクルーハンのほぼ全て
の著作が揃う MMCでは,内容を確認しながらその研究テーマの変遷を切
れ目なくたどれる。他方,マクルーハンの蔵書を集めた MMLCには,マク
ルーハンがその著作で引用したり批判した作品はもとより,ついに文献表
にさえ登場しなかった作品までが揃う点に強みがある。MMLCでは,マク
ルーハンの思想形成に影響したと推定できる資料が,時として書き込みと
ともに閲覧できるのである。
マクルーハンに関する資料は,著書を中心に同大の他の図書館にも配架
されているが,以上の点で,MMCと MMLCのみが名実とともに マク
ルーハン文庫
相補的な
と呼ぶに値する。こうしてマクルーハンの資料は,二つの
マクルーハン文庫
で管理,
今回,両文庫を利用した際の手続きを参
身
開されている。
までに記しておこう。同大の
証を持たない者が同大付属の図書館を利用するには,まず本部図書館
の受付で図書館カード(Li
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d)を作成する必要がある。
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5年2月1日取得)
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4.
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77
北海学園大学人文論集
第5
8号(20
15年3月)
フィッシャー文庫の利用には,さらに同館が発行する利用証が要る。両文
庫とも閉架式のため,事前の請求手続きを要し,閲覧までに半日程度を見
なければならない。両文庫は開館の曜日,時間帯とも異なるので,滞在が
短い場合には待ち時間を有効に
えるよう計画を立てておくのがよい。両
文庫の資料は当然,禁帯出だが,それぞれに複写のサービスが整備されて
いる。ケリー文庫では,専属スタッフによる有料の複写のサービスが利用
できる。同文庫の複写は一頁毎に課金されるシステムだが,既に電子化さ
れているデータとそうでないものでは利用料金が異なる。正式な見積もり
をメールで受け取った後,カードで決済できる。複写する量と時期にもよ
るが,今回は,申請からおよそ2週間で電子データ(PDF)をネット経由
で受け取ることができた。他方,フィッシャー文庫には,閲覧室の外,受
付の前にヘッドマウントカメラが設置されており,各自で撮影した電子
データを USBメモリーで持ち帰れるようになっている。複写に料金はか
からないが,一度に手元に置ける冊数に上限があり,また他の利用者もカ
メラを
用することから,閲覧と複写に相応の時間を見込まなければなら
ない。ともあれ,これらの点を頭に入れておけば,両文庫とも,親切で有
能なスタッフにより,
快適かつ円滑に資料収集作業にあたれることだろう。
筆者にとって,
5日半の滞在期間は,
初回としては十
といえる長さだっ
た。ケリー文庫から入手した 67タイトルの論文はまだその全てを精読して
おらず,フィッシャー文庫で撮影した 2
0
0超の写真データの整理も終わっ
ていない。もちろん,一週間弱の滞在では両文庫の全資料を猟渉するのは
不可能だ。特に MMLCの資料については,現物を手にページを繰るだけで
も月単位の時間を要するだろう。今回は資料を一
したというのが関の山
である。前記のとおり,一見の両文庫訪問で得た資料の一部を紹介し,整
理の道筋をつけつつ次回訪問に繫げるのが本稿に与えられた役割である。
以下,MMC,MMLCの順に,今回収集した資料の中から,筆者のこれま
での研究と関連の深いものを紹介し,その価値について少々の解説を加え
る。
78
資料紹介
トロント大学
マクルーハン文庫
一見 (柴田)
2.MMC
前記のとおり,MMCの強みは
刊済みのマクルーハンの著作が網羅さ
れている点にある。一連のタイトルを概観するだけで,著書や主要な論文
で構成されてきた従来のマクルーハン像とは異なる形や大きさの像が結ば
れてくる。主な著作を連ねてできるマクルーハン理解を一本の本流に喩え
るならば,全著作書のリストは,本流に流れ込み,また本流から
岐する
支流を加えた見取り図を形成する。全著作のリストの閲覧には,それだけ
でも研究上の意義が認められる。しかし,こうした見取り図には,支流の
水量を測るための情報は描かれていない。実際に現物を手に取れる MMC
は,情報を凝縮した見取り図に加え,それが捨象した支流の姿,さらに伏
流の姿を目にできる場所だと言えるだろう。この点は,次に見る MMLCに
もあてはまる。極めて多作だったマクルーハンの著作群には,時折,依頼
によって書かれたと思しき
困な作品が見られ,タイトルを挿げ替えただ
けの焼き直しの作品も散見される。これらに混じって,一見唐突であって
も,ある種の構想の下で大きな流れに育つ可能性を想定できる作品が見つ
かることもある。両者を区別するには,現物にあたるに如くはない。
宜的に 10年毎に区切り,各区画で支流や伏流と呼ぶに値する流れの様
子を紹介しよう。
1940年代といえば,博士号を取得(4
3年)したばかりの駆け出しの英文
学者が,アサンプション大学を経て,トロント大学のセント・マイケルカ
レッジに地歩を占め
(46年)
,アカデミズムの階段を上り始めた時期にあた
る。この時期の著作群を眺めると,ポー(EdgarAl
)
l
anPoe,18
0
9-1
8
49
やブレイク(Wi
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ake
,17
571
827)についての論文웋
월などの英(米)
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1
07
1
5
.*資料には後者の出
典が Sewanee Review ,5
0.
4と明記されているが誤りと
79
えた。
北海学園大学人文論集
文学者として
真っ当
第5
8号(20
15年3月)
な著作に,広告に関する論文が混じっているのに
気づく。1
94
7年の アメリカの広告 웋
95
1年の 機械の花嫁 (The
웋は,1
Mechanical Br
ide )に先立つマクルーハンの広告論として拙著でも紹介済
みだが웋
,広告への関心は, 機械の花嫁 を跨いで,1
95
0年代前半の複数
워
の論文につながっている웋
。漫画論웋
9
5
3年から始まった 探究
웍
웎を含め,1
(Explor
ations )誌での著述からは,ハイブラウな英文学者が,当代学生の
理解という単なる教育上の
宜웋
웏を超えて,ローカルチャー研究者の顔で
嬉々として活動をしていたのが
かる。
1950年代半ばからは,メディアの変化が引き起こす革命的な影響を歴
的に裏付けようとする論文や書評が目に付くようになる웋
。並行して,電子
원
(電気)
技術の影響に言及しつつ,それに対処する方法を模索する論
も見
られるようになる웋
。マクルーハンの場合,新しいメディアへの対処法は,
웑
웋
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,OurSense of Identity: A Book
of Canadian Essays :2
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.
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4-83
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6
) TheNew Language,Chicago Review ,1
0
.
1
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6
2
.
80
資料紹介
トロント大学
マクルーハン文庫
一見 (
柴田)
新しい教育方略や教育環境への提言に収斂する傾向があるが웋
,この傾向
웒
は既に 195
0年代後半の論文に確認できる웋
。
웓
さらに教育をキーワードにタイトルに概観すると,1
94
0年代初頭に始ま
り워
,1960年代を経由して워
,1
970年代半ばに至る流れが浮かび上がる。こ
월
웋
こで言う教育が,初等教育のみならず워
,高等教育,正確には大学における
워
教養教育워
웍を含むことは注目してよいだろう。教養教育への言及を,単に大
学における教育方略の指針を得るための実践的な要求に還元してはならな
い。リベラルアーツ(特に三科)間の興亡から時代の変化を読み取ろうと
した学位論文워
9
7
0
웎の関心が,生涯継続していたものと解釈すべきである。1
웋
웒(
19
7
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C.T.A. Review ,1
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Studies in
Humourof St. Thomas Aquinas ,1:4750
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.
81
北海学園大学人文論集
第5
8号(20
1
5年3月)
年にキケロを取り上げた論文が書かれていることも워
,これを傍証する。こ
웏
こに,マクルーハンの思想を人文学(humani
)から読む可能性が認め
t
i
e
s
られる。
マクルーハンがメディアの影響を測るにあたり感覚比率の議論を展開し
たこと,そして,リベラルアーツ間の比率と感覚間の比率を並行して語っ
たことは既に知られている워
。 グーテンベルクの銀河系 (The Gutenber
원
g
)と
Galaxy ,1
962
メディアの理解 (Under
)とい
standing Media,1
96
4
う二冊の主著の二冊が出版された時期に感覚比率の議論を集中して行って
いる点も首肯できる워
。感覚比率の議論が 1960年代後半から左右脳局在論
웑
の応用に置き換わることも既知の事実である워
。MMCの資料からも,最晩
웒
年の研究課題が脳研究に移行していたことが追跡できる워
。
웓
大学が
表するリスト以外にも行き届いたマクルーハンの文献目録웍
월が
ある現在,タイトルのみに何かを語らせるだけであれば,トロントを訪れ
る必要はない。マクルーハンの思想を文献から読み解く作業に取り組む学
徒には,現物を手に,文章に目を走らせるときに得られる体験の意味を繰
り返して強調しておきたい。本稿の役割は,MMCの資料を閲覧した際に開
示された読み筋を列挙するところにある。もちろん,本稿には,速やかに
資料の精読の作業と,読み筋の正当性を証明する作業が続かなければなら
워
웏(
19
7
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mation Studies :
3
84
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Communication,2
8.
4:5
4
)
웍
월ゴードン 宮澤訳(200
1:1
89-2
14
82
資料紹介
トロント大学
マクルーハン文庫
一見 (
柴田)
ない。
3.MMLC
MMCの資料が本流に支流や伏流を書き加える作業に役立つとすれば,
MMLCの資料は,流れに水を供給した水源を探す作業に貢献してくれる。
水源には,目に見える大きな本流をつくり出した源(水源A)だけでなく,
本流に育たず,結果的に支流や伏流に留まった流れの源(水源B)を含む。
本流との強い繫がりを仮定し,繫がりが証明できれば,当該文献には水
源Aとしての評価を下せる。
マクルーハンの思想の輪郭を描き出す作業は,
水源Aを特定する作業から始まり,描き出された輪郭は,別の水源Aを特
定することで裏書される。マクルーハンの全体像は,マクルーハン自身の
著作と水源Aとの往復によって描き出される河川図ということになるだろ
う。水源Aからの水を集めない流れは本流と呼ぶに値せず,また,新たな
水源Aの発見によって本流の姿は書き換えられなければならない。
マクルーハンの思想を敷衍しようと試みる場合には,水源Bに注目すべ
きである。現実の河川には本流と,本流の水源に加えて,本流から枝
れした支流や,枝
か
かれした後,途中で途切れてしまう伏流もある。思想
の支流や伏流に水を供給する水源Bの特定は,水源Aの特定と並行して進
む。水源Aの特定が思想の全体像を描出する作業に関連するのに対し,水
源Bの特定は本流に育たなかった流れの中から本流に比肩する可能性を秘
めた流れを選び出し,その可能性を展開する作業に繫がっている。いわば,
河川図に描かれていない川筋を,著者が遺した資料に基づいて加筆する作
業と言えよう。
水源Bの見極めは,マクルーハン自身の著作に遺されたアイディアのう
ち,展開が成就しなかったものを特定し,それを敷衍する上で欠かせない。
ここで
敷衍
を,文献学的作業を重視する立場からあえて狭い意味で
用したい。今も昔もマクルーハンの作品から着想を得て書かれた文献は枚
挙に暇がなく,それらの価値を認めるに吝かではないが,加筆された流れ
83
北海学園大学人文論集
が潜在していた流れと全く
第5
8号(20
15年3月)
差しないないならば,加筆による成果をマク
ルーハンに帰属させるのは適当でないと
えるからである。つまりマク
ルーハンから得た着想には,マクルーハンに帰属させるべきものがある一
方,マクルーハンに帰属させるべきでないものもある。マクルーハンの思
想とそこから得た着想の間には必ず飛躍が存在し,その飛躍を埋めるのが
文献Bなのである。文献Bを欠く着想は,オマージュにはなっても,アイ
ディアの敷衍ではなく,
その成果は読者に帰属させるべきものなのである。
水源Bとの繫がりがあって初めて,敷衍の名の下で河川図に流れを書き加
え,それを展開していけるのである。
以下,MMLCから,水源Aに関わるものとして エクステンション
e
xt
ens
i
on についての資料を,水源Bに関わるものとして 生態心理学
e
col
ogi
calps
ychol
ogy についての資料を紹介したい。
エクステンション
関連資料
マクルーハンとホール(Edwar
)との間に
d T.Hal
l
,1
9
1
4-2
0
09
ステンション
エク
の先取権論争(着想の先後をめぐる論争)があったことは
よく知られている。両者の論争は, グーテンベルクの銀河系 の
刊を起
点に始まり,フラー
(Ri
を巻き込みつつ,1
96
0
c
har
dB.Ful
l
er
,1
89
519
8
3)
年代後半のマクルーハン研究の最も熱い論点の一つになった。マクルーハ
ンの死後,その弟子たちとホールの間で手打ちが成立してからも, エクス
テンション
に注目したマクルーハン解釈は蓄積されてきた。拙著では,
エクステンション の概念がマクルーハンの理論形成に最も重要な役割を
果たしたことの論証웍
웋を通じて,弟子たちとホールの間の手打ちがマク
ルーハンにとっては極めて不当なものであることと
に関する先行研究がすべて不十
エクステンション
であることを明らかにした웍
。
워
MMLCに は,論 争 中 の ホール か ら 送 ら れ て き た
-130
)
웍
웋柴田(20
1
3b:5
5
웍
워柴田(2
01
3
b:1
70-19
7)
84
文化を超えて
資料紹介
トロント大学
マクルーハン文庫
一見 (
柴田)
(Beyond Cultur
)の見本웍
e,
19
76
웍が保存されている。ホールはこの著書で
エクステンション
の帰属が自
にあることを明言しているが,これは,
マクルーハンが グーテンベルクの銀河系 の改訂版で, エクステンショ
ン
がホール,およびフラーに帰属しないことを記した
への対抗措置だった。ホールは
を加筆したこと
刊前の見本をマクルーハンに送りつけ,
論争の継続を宣言したわけである。MMLC所蔵の見本には,ホールの言い
に対する反論がマクルーハン自身によって書き込まれている。本文中に
断続的に現われる書き込みは,マクルーハンが同書を精読したことをうか
がわせる。そして,見返しの上半
と裏表紙の全面への細かい書き込みか
らは,マクルーハンがすぐさま同書への反論を用意したことが
かる。
発見的な観点からして 文化を超えて の見本よりも興味深いのは, エ
クステンション
に関する先行研究の底本が確認できたことである。やは
り結論のみ言うと,先行研究のほとんど全てが
エクステンション
の起
源を突き止めることに注力しているが,その大半が一つまたは二つの起源
に
り着いたことを以って
ハンが
用した
察を終えている。拙著では,まず,マクルー
エクステンション
には三つの意味があることを,それ
ぞれの意味,および概念の起源とともに解明した。その上で,三つの意味
の組み合わせによってマクルーハンの思想の理論的部
( 探索
の原理)
が説明できることを論証した。この解明と論証の作業によって,先行研究
の多くが誤った起源に依拠した誤読に陥っていることが判明したが,何が
誤読を誘発したかは判然としなかった。より正確に言えば, エクステン
ション
の起源と見做される
原典
が起源と呼ぶには中途半端な時代の
ものであったり,いくつもの意味を併せ持つ
エクステンション
をあえ
て単一の意味で読もうとする強い傾向が見られることが理解できなかった
のである。誤読の原因の一端が,MMLC所蔵の 原典 にあった可能性は
否定できない。今回 MMLCで,先行研究が唐突に引用し,そこに書かれた
内容に全幅の信頼を寄せた
原典
のいくつかが
웍
웍請求番号:mcl
uhanf000
9
1
85
発見
できた。
北海学園大学人文論集
第5
8号(20
15年3月)
まず,ホームズ
(D.Hol
,生没年不明)らの研究(Hol
me
s
mes& Zabr
i
s
ki
e
,
1964)に
エクステンション
の発案者として名があがるマクドゥーガル
(Wi
l
l
i
am McDougal
,
1
87
119
38)について。ホームズらは,著書を特定せ
ず,マクドゥーガルの思想がマクルーハンの
う
エクステンション
の
初出であると述べた。ちなみに, エクステンション の系譜を繙けば,マ
クドゥーガル以前に伸びる複数の思想の流れを確認できるし,マクドゥー
ガルの
エクステンション
をその流れの一つの中途に位置づけることも
できる。したがって,マクドゥーガルの思想はいかなる系譜の起源でもな
いが,マクルーハンを特定の系譜に導いた可能性は残る。文献が特定でき
ない以上,検証の作業は,マクルーハンが参照したと
えられる著書を虱
潰しにすることになる。これまでに,マクドゥーガルの複数の著書で
クステンション
エ
の語を確認し,そのいずれも,マクルーハンの着想の源
。今回 MMLCで, 心理学:人間行動の研究
とは認められなかった웍
웎
(Psychology: the Study of Human Behaviour,1
9
21)
웍
웏と
社会心理学入
門 (An Intr
oduction to Social Psychology ,1
9
23)
웍
원の二点の所蔵を確認
した。 社会心理学入門 については,独自に入手したテクストで エクス
テンション
の語が登場することと,同書の
がこれまで検証した文献に登場する
エクステンション
エクステンション
こと,したがって,マクルーハンが依拠した
の意味
の範囲を出ない
エクステンション
可能性が薄いことを検証済みである。今回,マクルーハンが
である
った MMLC
所蔵のテクストを閲覧して,本文に複数の傍線が引かれているのが確認で
きた。そして,傍線のうち
いことが
エクステンション
に懸かるものが一つもな
かった。傍線がマクルーハンの関心の焦点を読み取る手がかり
だとすれば,少なくとも同書に登場する意味での
エクステンション
が
マクドゥーガルを エ
マクルーハンの気を惹かなかったことが推定できる。
柴田(201
웍
웎Cf
.
3b:1
84)
웍
웏請求番号:mcl
uhan023
33
웍
원請求番号:mc
l
uhan0
1692
86
資料紹介
トロント大学
マクルーハン文庫
一見 (柴田)
クステンション の発案者とする説は,MMLCの資料の検証を経てより脆
弱になったと言えよう。
エクステンション の数ある議論の中でキャヴェル(Ri
,
char
dCave
l
l
生年不明)の
空間におけるマクルーハン ( McLuhan in Space,2
)
0
02
での指摘は出色である。同書でキャヴェルは,フロイト(Si
gmundFr
eud,
1856-1939)の 文明とその不満 (Civilization and its Discontents ,
19
3
0)
が エクステンション の起源だと主張している。実際,MMLCには,同
書웍
웑を含めて7冊のフロイトの著書があり,そのいずれにも多くの書き込
みが見られた。さらに,フロイトの関連書籍が4冊確認できることからも,
マクルーハンがフロイトに一定以上の関心を持っていたことが
かし,マクドゥーガルと同じく,フロイトの
った。し
エクステンション
も,過
去に伸びる思想の系譜の中途に位置づけられるため,それを起源と認める
。
ことは不可能である웍
웒
キャヴェルの記述からは,単純な操作を加えるだけで三つの
ンション
あることを
を
節することができる。三つの意味を
エクステ
節した議論が皆無で
えると,本人の自覚の有無に関わらず,キャヴェルによる
察には相応の評価が与えられよう。しかし,
節の作業が不完全に終わっ
たために,三つの起源を特定するには至らなかった웍
。なぜ
웓
웦
웎
월
節の作業が
웍
웑=Fr
e
ud,S.(
19
30(
196
2
)
)Civilization and its Discontents ,W.W.Nor
t
on
andCompany,New Yor
k.
웍
웒キャヴェルの 察の特異性は,フロイトを経由してデカルトに る系譜に言
及したところにある。確かにデカルトの思想は エクステンション のうち,
長 と訳出すべき概念の有力な起源である。ただし,フロイトの思想から
抽出できる エクステンション は,デカルトとは別系統の 外化 の概念
であり,両者を繫ぐ説明には無理がある。 拡張 を含め,三つの系譜の候補
を列挙した唯一の先行研究である点は強調されてよいが,意味の 節が不完
全なことが,起源を特定する際の障害になったと
稿(柴田(2
013
c))を参照のこと。
웍
웓柴田(2
0
13
b:1
93-1
9
4)
웎
월柴田(20
1
3c
:1
041
14)
8
7
えられる。詳しくは,拙
北海学園大学人文論集
第 58号(201
5年3月)
中途で挫折したのか,理由は定かでないが,仮にキャヴェルが MMLCの資
料を閲覧していたと
えると,フロイトに関する蔵書は,
節を促進する
よりも足かせになった可能性がある。
著者たちがマクルーハン所蔵の資料を閲覧したか否かは,本人が明言す
る以外に確かめようがない。仮に MMLC,または MMLCに先立つ蔵書を
閲覧し,そこで発見した文献を根拠に読解に挑んだとすれば, エクステン
ション
をめぐる議論は,蔵書を文献とすることが諸刃の剣となりうるこ
とを教える。蔵書は,それを所蔵した人物の思想を理解する鍵になる一方
で,理解を誤った方向に誘導する危険を秘めている。水源Aの候補の発見
は,起源を
る作業に安易に終止符を打たせ,概念の多義性を無視させる
原因に転化しうるのである。
もちろん,MMLCには, エクステンション の三つの意味を
節する
際の鍵となる文献も確認できた。マクルーハンは,セリエ
(HansH.
Se
l
ye
,
1907-1982)の医学思想を経由して,三つの エクステンション のうち理
論形成の核になった 外化 の概念と出会う웎
。セリエは, 探究 誌に複
웋
数回投稿した人物であり,マクルーハンの主要な著書では文献表に必ず名
前が上る人物でもある。セリエ自身もその主著でマクルーハンを引用して
いることから,両者の
渉は
然の事実であった。この
然さ故に,かえっ
てセリエの著作を文献Aとして吟味する作業が等閑視されてきたのだろう
か。セリエとの関係でマクルーハンの
エクステンション
を論じた文章
は管見にして知らない。今回,セリエの 現代社会とストレス (The Str
ess
of Life ,1956)が MMLCにあったことを付言しておきたい。
生態心理学
関連資料
心理学を齧った者なら,生態心理学と聞けば,それを標榜する二つの学
派がすぐに思い浮かぶはずだ。 行動場面 behavi
ors
et
t
i
ng を中心概念に
場所や主体に固有の行動を観察,記録したバーカー(RogerBar
ke
r
,1
9
03-
-95)
웎
웋柴田(20
1
3b:8
9
88
資料紹介
トロント大学
マクルーハン文庫
一見 (柴田)
1
990)の流れを汲む学派を一つ目とすれば,二つ目は,それ自体では無意
味な
刺激
に代わり,環境に実在する
情報
の概念をもとに知覚と行
為の循環を解明したギブソン(JamesJ
-1
)の学派とい
.Gi
bs
on,1
90
4
97
9
うことになるだろう。今日では,ほぼ同時代に別の場所で発生した二つの
学派をジェイムズ(Wi
)の思想を文脈に関連付け
l
l
i
am James
,1
84
2-19
10
た労作웎
워を読むこともできる。二学派の親和性を強調する姿勢には全面的
には賛同しかねるが,両者が通底する点に関しては異論ない。
複数のメディアが構成する状況を環境と見做し,環境が人間に及ぼす影
響を記述しようとしたマクルーハンが,環境をキーワードに構想された生
態心理学に興味を抱いたとしても不思議はない。実際,晩年(1
9
76年)の
作品では,バーカーの名前をあげて生態心理学の将来性に言及している웎
。
웍
マクルーハンが環境からの影響を記述する際にマクルーハンが身体論に依
拠した点,およびギブソンが
極的に
い,その意味を
長
の意味の
エクステンション
を積
新した点웎
웎に鑑みて,筆者にはギブソンへの言及
があって当然と思われた。そして,筆者にとって,ギブソンの生態心理学
は,マクルーハンの思想を敷衍する理論の最も有望な候補だった웎
。にもか
웏
かわらず,これまで
刊されたマクルーハンの著作から,ギブソンへの言
及を見つけることができなかった。
マクルーハンの思想とそこから得た着想の間には飛躍と呼ぶべき遠さが
あり,飛躍の距離を埋める文献がない場合,その着想をマクルーハンの敷
衍と呼ぶのが適当でないことは既に述べた。今回,MMLCでギブソンに関
する資料が見つかった。
MMLCの蔵書で唯一ギブソンの名前を確認できたのが,クリステンセ
9
7
4年3月 26日付けでマクルー
ン(C.M.Chr
t
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en,生没年不明)が 1
i
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(2
001
)
웎
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웎
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Luhan(197
6:26
3)
)
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5-80
웎
웎柴田(2
0
08)
,柴田(201
3a)
웎
웏柴田(2
89
北海学園大学人文論集
第 58号(20
15年3月)
ハンに送った封書웎
원である。封書にはギブソンの論文웎
웑の表紙のコピーが
送り状とともに封入されていた。送り状からは,まず,クリステンセンが
オンタリオ教育研究大学(TheOnt
ar
i
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on)の応用心理学部(De
par
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mentofAppl
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ed Ps
ychol
ogy)の学科長
(Chai
r
man)であることが
大学の OI
SEの前身と
かる。同大は,トロント大学に属する大学院
えられる웎
。本文の 先日のランチのときにお話し
웒
たギブソンの論文のコピーをお送りします
の他に有効な情報になりうる
のは,右上済みの各三語程度の三行の走り書きのみである。受取人以外に
手紙に走り書きをする者はおらず,またクリステンセンの筆跡やその他の
資料に残る筆跡と比較しても,走り書きの主はマクルーハンと
えて間違
いない。一行目はかろうじて ambi
t
gui
y3 までが特定できる。二行目は
冒頭の
6
以外は判読できない。三行目については冒頭の
8
と末尾
。
웓
Touch の判読が可能である웎
の
該当するギブソンの論文の内容を簡単に説明しておこう。感受性の有用
な次元 と題する同論文には 刺激作用 s
t
i
mul
at
i
on の語が
ギブソンがこの段階で後期の
が
情報
われており,
の概念にたどり着いていなかったの
かる。また,感覚様相を個々の感覚器官に帰属させるのではなく一つ
の系として捉え,さらに運動系との関連を着想しているところからは,近
刊の二冊目の著書
知覚システムとして
える諸感覚 (The Senses Con-
웎
원請求番号:mcl
uhanpam 0
0
604
웎
웑=Gi
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1
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y ,Amer
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ican Psychologist ,1
8:1-15
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0
1
5年2 月 1 日 取
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웎
웒ht
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p:
oi
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e.
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or
得)
웎
웓本学部英米文化学科の米坂スザンヌ教授に見ていただいたところ,加えて,
二行目に s
ki
nasage と思しき字列があるとのことだった。各行にある数
字は,ギブソンの論文の頁番号と対応している蓋然性が高いが,当該論文に
ついては,現在,アンソロジーに再録されたもの以外手元にない。早急に原
著を入手し,対照を手始めに判読作業を進めたい。
90
資料紹介
トロント大学
マクルーハン文庫
一見 (
柴田)
sider
ed as Per
ceptual Systems ,196
6)の骨格が出来上がっていたことが読
み取れる。
先日のランチ
で何が話され,マクルーハンがギブソンの何に関心を
持ったかは,この資料だけでは
からない。マクルーハンが感覚間のバラ
ンスの変化によってメディアの影響を記述しようとしたことを想起すれ
ば,諸感覚をシステムとして統合するギブソンのアイディアは,マクルー
ハンの関心事の有力な候補になるし,感覚・知覚系と運動系の連関を図示
する際にギブソンがフィードバックモデルを
用しているところは,同じ
くフィードバックモデルを出発点に身体とメディア環境を
えたマクルー
ハンの関心を惹いてもおかしくない웏
。走り書きの数字が論文の頁を記し
월
たものであるとすれば,ランチでかなり具体的な内容が話されたと
える
こともできる。他方,封入された表紙のコピー以外に MMLCでギブソンの
資料が確認できなかった以上,マクルーハンが結局論文を読まなかった可
ギブソンの論文のうち 1
96
3年という理論の発達途上
能性も排除できない。
にある一本が 19
74年のランチの席で紹介された理由を含め,
いずれも推測
の域を出ない。
現段階で何らかの結論を導き出そうとするのは早計であろう。一つ確か
なのは,
マクルーハンが 1
970年代半ばのほぼ同時期に二人の生態心理学者
に興味を示し,その一人がギブソンだったという事実である。MMLCで発
見できた資料の意味を特定する作業と並行して,いささかの自信を持って
ギブソンのアイディアでマクルーハンの理論を敷衍する作業を続行した
い。
おわりに
街中にありながら大学らしい厳かさと活気が感じられる構内の東隅で質
柴田(201
웏
월Cf
.
3b:8
0-89)
91
北海学園大学人文論集
第5
8号(201
5年3月)
素なコーチハウスを目にすれば,マクルーハンの学徒なら相応の感慨があ
るだろう。
トロントの街の北側に位置する大学の風景は,当然,ニューヨーク郊外
の山間に広大なキャンパスを誇るコーネル大学のそれと異なる。変化の中
に変わらない何かがあれば,聖地巡礼も無意味ではない。研究の中心が他
所に移動しようとも聖地と呼べる場所であれば,そこを訪れない理由はな
い。トロント大学は,ギブソンの生態心理学を学ぶ者にとってのコーネル
大学やインド哲学を学ぶ者にとってのインドと同様,聖地の環境を保って
いる。
アイコン的人物の資料を大学が保存し,
開する作業は,経営的な観点
からではなく,知の継承への関与の点で賞賛に値する。トロント大学がマ
クルーハンの学徒にとって聖地であるのは,単なる顕彰以上の,知の継承
の観点からマクルーハンの資料を管理し,かつ最大限に
開の
宜を図っ
ているからに他ならない。
データ利用の規約上,本稿で取り上げた資料の画像を掲載するのは差し
控えた。説明の不十
なところの補足を含め,次稿では本稿で紹介できな
かった資料を紹介したい。
次回のトロント訪問を期して擱筆する。
参
・引用文献(脚注で紹介したものを除く)
Cave
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,R.(
2
0
02
)McLuhan in Space ,Uni
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3Jan.
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Psychologist ,18:115.
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2) The Us
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9
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)McLuhan forBegin=(
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,New Yor
k.
2
00
1)宮澤淳一訳 マクルーハ
ン 筑摩書房
92
資料紹介
トロント大学
マクルーハン文庫
一見 (
柴田)
He
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2
00
1)Ecological Psychology in Context: James Gibson, Roger
Bar
ker
, and the Legacy of William James s Radical Empir
icism ,
Lawr
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Er
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baum As
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Luhan,M.(
197
6Spr
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asLaw ,Technology and Cultur
e ,1
7.
2:2
63.
柴田崇 (2
00
8
) 2
0世紀におけるメディウム概念の成立と変容
ンとギブソンの比較研究
얨マクルーハ
얨 東京大学大学院教育学研究科博士論文
柴田崇 (20
1
2
) ハイダーとギブソンのメディウム概念
生態心理学研究 5
:
1
5-2
8.
柴田崇 (20
1
3a) メディア研究の生態学的転回
知の生態学的転回
第二巻
東京大学出版会:23325
7.
柴田崇 (20
1
3
b) マクルーハンとメディア論:身体論の集合
勁草書房
柴田崇 (2
0
13
)〝e
ns
i
on"をめぐるマクルーハン研究の検証
c
xt
e
ド・キャヴェルの
空間におけるマクルーハン
8
61
19
.
93
について
얨リチャー
新人文学
1
0:
タイトル1行➡3行どり
タイトル2行➡4行どり
デイビッド・N・マイアーズ
ユダヤ教学のイデオロギー (
訳者解題と翻訳)
佐
藤
貴
〔訳者解題〕
ここに訳出した論文は,Davi
d N.Mye
r
s The I
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London/
New Yor
k:Rout
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99
7
)
,
7
0
6720である。デイビッド・N・マイアーズはカリフォルニア大学ロサン
ゼルス
でユダヤ教
を 教 え る 教 授 で あ り,彼 の 主 著 と し て は Re-
inventing the Jewish Past: Eur
opean Jewish Intellectuals and the Zionist
や Resisting Histor
Retur
n to Histor
y (
Oxf
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)
y:
Histor
icism and its Discontents in Ger
man-Jewish Thought (
Pr
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on
をあげることができるだろう。上記の2つの著作か
3)
Uni
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,
200
らもわかるように,マイアーズの関心は씗歴
>にあり,訳者はとくに
Resisting Histor
y: Histor
icism and its Discontents in Ger
man-Jewish
Thought から多くを学ぶことができた。
エルンスト・トレルチの大著
歴
主義とその諸問題
が解き明かした
ように,近代のキリスト教神学は啓示の絶対的妥当性を掘り崩し,規範の
相対化を招来しかねない歴
主義の問題に苦しめられてきた。実は同じ難
問に 20世紀のユダヤ人思想家たちも直面していたのである。
マイアーズは
トレルチ的な問題意識から当時のコンテクストを再構築し,そのなかにヘ
ルマン・コーエン,フランツ・ローゼンツヴァイク,レオ・シュトラウス,
イザーク・ブロイアーといったユダヤ人思想家を配置し,彼らがいかにし
て歴
に抗いながら(r
e
s
i
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i
nghi
s
t
or
y),反歴
95
主義に染まっていったか
北海学園大学人文論集
第 58号(2
0
15年3月)
を明らかにした。このことを踏まえると,以下に訳出した論文
学のイデオロギー は,2
0世紀に歴
たちの前
/歴
ユダヤ教
主義に抗ったユダヤ人思想家
を形成するものである。すなわち,近代世界のなかでみずから
のユダヤ的実存が不安にさらされ,キリスト教世界に向かってユダヤ教の
意義を語らなければならなかった 1
9世紀のユダヤ人思想家たちは,
ドイツ
の学術世界の作法にしたがってユダヤ教を学問的,より正確に言えば歴
的に研究しようとした。しかし,批判的・歴
的方法によって精緻にユダ
ヤ教を解明しようとすればするほど,皮肉にもユダヤ教と近代ユダヤ人の
あいだに活きた霊的関係を回復することは困難になっていった。学問的方
法では枯渇したユダヤ教の信仰を取り戻すことはできず,そこにはマック
ス・ヴェーバーが指摘した学問と生のディレンマが横たわっていたのであ
る。キリスト教と同様にユダヤ教もまた,近代の隘路から逃れることは難
その状況を彼らなりの仕方で克服しようとしたのが 2
0世紀のユダヤ
しく,
人思想家たちであった。その意味では,マイアーズの論文の最後に出てく
る ユダヤ教の歴
化 (hi
9
s
t
or
i
ci
zat
i
onofJudai
s
m)という事態こそ,1
世紀のユダヤ教学運動における1つの帰結であったことがわかるだろう。
何と引き換えに,ユダヤ教は歴
化され,文脈化されていったのか,そし
て何を新たに得ることできたのか。近代ユダヤ人の苦境は,この視点から
論じられなければならないのである。
もう1つ,マイアーズの論文で興味深い点はユダヤ教学の
生と展開が
いくつかの組織との関係で論じられていることである。ブレスラウのラビ
神学
,ベルリンのユダヤ教学高等学院,ユダヤ教学アカデミー,そして
正統派のラビ神学
といったユダヤ人の教育機関は,近代世界のなかでユ
ダヤ教を忘却したユダヤ人がユダヤ教に(再)覚醒するために要請された
組織だったはずである。しかし,果たしてその試みは本当に上手くいった
のだろうか。言い換えれば, 学問 と 歴
の強い影響下で
設された
ユダヤ人の教育機関は,ユダヤ教にふたたび新しい息吹を吹き込むことに
成功したのだろうか。この問題については,Davi
dN.Mye
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, TheFal
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s
m:TheEvol
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96
デイビッド・N・マイアーズ
ユダヤ教学のイデオロギー
(佐藤)
Wi
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chaf
t des Judent
ums (
1
91
9-19
34
)
, Hebr
ew Union College
Annual ,Vol
.63
,1
99
2も参照されたい。また訳者の論文〔 ユダヤ・ルネ
サンスの行方,ローゼンツヴァイクの挫折
る近代批判の諸相
얨2
0世紀ユダヤ思想
におけ
思想 第 104
5号,岩波書店,201
1年5月〕
や著書
〔 ド
イツ・ユダヤ思想の光芒 岩波書店,20
15年出版予定)のなかでもマイアー
ズの問題意識を共有しながら,2
0世紀ドイツ・ユダヤ思想
の諸問題が論
じられている。参照いただければ幸いである。
19世紀ドイツにおけるユダヤ教学の成立と展開は,近代ドイツ・ユダヤ
思想
研究の最重要課題と言っても過言ではない。しかし,わが国でこの
辺りの本格的な研究は手島勲矢の仕事を別とすれば,ほとんど見当たらな
いのが現状である。その意味でも,要点をおさえながら,手際よくまとめ
られたマイアーズの論文は有益であると思い,
ここに訳出した次第である。
なお Wi
umsを
s
s
ens
c
haf
tde
sJudent
とも
ユダヤ学
ユダヤ教学
と訳すべきか,それ
と訳すべきかは最後まで悩んだが,ここでは
ユダヤ教
学 という訳語を選ぶことにした。その他にも気になる個所は多々あるが,
まずは鍬を入れることが大事だと
想
えた。わが国の近代ドイツ・ユダヤ思
研究に少しでも貢献できるならば,それは訳者にとって望外の喜びで
ある。
〔翻
訳〕
ユダヤ教学のイデオロギー
デイビッド・N・マイアーズ
大学で訓練を積んだ専門的な歴
家たちの最初のサークル,すなわちユ
ダヤ人文化学術協会(Ve
r
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nf
썥
urCul
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urundWi
s
s
e
ns
c
haf
tderJude
n)の
メンバーたちは歴
におけるもっとも不安な瞬間に集合した。ナポレオン
の敗北とウィーン会議に続いて,1
9世紀の〔最初の〕2
0年間で,強力な保
9
7
北海学園大学人文論集
第5
8号(20
1
5年3月)
守的傾向がプロイセンとドイツにおける他の諸州を席巻した。このような
反動の人目に付きやすい攻撃目標のなかにユダヤ人がいた。ユダヤ人たち
は 1812年に部
的に解放されたが,彼らの全体的 解放 への要求は社会
における民衆とエリート層のなかに敵対心と憤慨を生み出した。反ユダヤ
主義の爆発は有名な知識人や学者たちの口から流れ出たのであり,そのな
かの幾人かは大学の講堂で若きユダヤ人学者たちを教えていた웋
。このよう
な人物たちの鋭い論争はさらに暴力的な表現,すなわちユダヤ人たちに向
けて最初はバイエルンで勃発し,それからドイツ中に広がった 1
8
1
9年の
ヘップ・ヘップ暴動(t
)の背景としての役割を担った。
heHep!He
p!
r
i
ot
s
ヘップ・ヘップ暴動は,ドイツ・ユダヤ人が持ちはじめていた安心と信
頼の当初の感覚を掘り崩した。しかし,このようなドイツ・ユダヤ人の世
代が感じた不安は,物理的暴力の脅威あるいは軽率なレトリックによって
のみ
られたのではなかった。おそらくより困難だったことは,次のよう
な深い実存的懸念である。ユダヤ人とユダヤ教は近代という時代のなかで
果たすべき意味のある役割を持っているのだろうか。さらに言えば,もは
や必ずしも宗教的違いがある集団を別の集団から区別するための機能を果
たさないポスト啓蒙の世界のなかで,ユダヤ人たちは彼らが今後も存在し
ていくうえで別々の集合体にとどまることを,十
に説得力があり合理的
なことだと思うだろうか。
8
19年 1
1月に最初にベルリンに集まったユダヤ人
このような問いが,1
文化学術協会の中心にあった。協会の
設メンバーの1人であるJ・A・
リスト(J.
)は容赦なく,そして率直に次のように問うた。 尊敬を
A.Li
s
t
웋ユダヤ教学の 設者であるレオポルト・ツンツは,ベルリン大学において指
導的な反ユダヤ主義的 法学者フリードリヒ・リュースに少しのあいだ師事
し歴 を研究した。1学期が過ぎたのち,ツンツはリュースが ユダヤ人に
対する批判を書いた という理由で,彼に師事することをやめる決意をした。
ツンツの回想は Meyer1
967,p.1
58で引用されている。
98
デイビッド・N・マイアーズ
ユダヤ教学のイデオロギー
(佐藤)
払うこともなく,そのためにわたしがこんなにたくさん苦しんでいること
に,なぜ頑迷に固執するのか (Uc
)
。事実,近代ユダヤ人
ko1
967
,p.32
6
の初期世代は,すでにこの問いを提起しはじめていた워
。ユダヤ人の有意性
と適応力をめぐる議論は,18世紀後半におけるドイツ啓蒙主義の言説と論
争を活発なものとした。この議論をきっかけとして,同世紀における指導
的なドイツ・ユダヤの知的人物であったモーゼス・メン デ ル ス ゾーン
(Mos
esMendel
s
s
ohn)は,ユダヤ教に関する彼の有名な論評にして主張で
ある エルサレム (Jer
783年に生み出したのであった。後続
usalem )を 1
の世代はユダヤ教への忠誠と哲学的開放性,儀式の順守とラビの権威に対
する規範に背くような批判のあいだにある,壊れやすいが模範的なメンデ
ルスゾーンのバランスを釣り合わせることは難しいと思った。彼自身の子
どもたちだけではなく,ベルリンのユダヤ啓蒙サークルにおける彼の弟子
たちも,メンデルスゾーンとはまったく異なる仕方で
얨たとえば,ユダ
ヤ教の宗教儀式の改革を要求することで,あるいはより根本的にキリスト
教へ改宗することで
얨ユダヤ教の妥当性という問いに応じた。ポスト・
メンデルスゾーン世代は,ますますはっきりと啓蒙の社会契約という用語
を理解した。すなわち,市民としての社会的受容と諸権利を得るために,
ユダヤ人たちはその共同的・宗教的絆を弱め,ときには捨て去ることさえ
しなければならなかったのである。ユダヤ人の政治的諸権利や社会的向上
心に対して新しい敵対的な検査がなされたポスト・ナポレオン的な反動の
時代のなかで,なおいっそうこの
換における問題含みの特徴があらわれ
워肉体的であろうと,精神的であろうと,ユダヤ人として生き びることに対
する不安は,近代に生まれた新しい事柄ということではほとんどない。追放
という破壊的な(諸)経験
얨第1神殿と第2神殿の崩壊に続いて,スペイ
ンからの排除(ある種の2重の追放) 얨は,ユダヤの人々が存在し続けると
いう可能性に対する深い不安を生み出した。それぞれの世代において,不安
は(バビロニア・ユダヤ教,ラビ制度や教義,ルリア的カバラなどのような)
ユダヤ教の 造的な再形成をもたらした。
99
北海学園大学人文論集
第 58号(20
1
5年3月)
ることになった。
このような不吉な時期に協会の
設メンバーは議論すべき事柄を提案し
たが,その方向性と規模は当時の他のユダヤ人が示したものとはまったく
異なっていた。批判的学識が持っている解明力を通して,彼らはユダヤ教・
ユダヤ人の過去に関する広範囲に及ぶ文学的・歴
的記述を生み出そうと
願った。その記述は,ユダヤ教・ユダヤ人の過去の輪郭をはっきりとさせ
ることにだけ役立ったのではないだろう。それはまた,現在におけるユダ
ヤ教の機能と有意性のより鮮明なイメージをもたらしたかもしれない。
実際,そのような記述を提示しようとする責務は,協会が
立される少
し前に,レオポルト・ツンツ(Le
opol
dZunz)という名の若きユダヤ人学
者によってはじめてはっきりと述べられたのである。デトモルトにおける
伝統的なユダヤ人家
に生まれたツンツは,ドイツ・ユダヤ人が 1
9世紀初
頭に経験していた驚くべき変化の速度を反映していた。1
0歳になるまで,
持ってもいなかった。
彼はドイツ語で書かれた本を読むこともなかったし,
しかし,次の 10年のあいだに,ツンツは啓蒙主義に熱中した人々が運営し
ていたユダヤ系の小学
を卒業し,最初のユダヤ人として地元の中等学
への入学が認められ,それからベルリンに移り,そこで新たに開設された
大学で研究に従事しようとした(Sc
)
。熱心な知的
hor
s
ch19
77
,pp.10
9
f
f
.
探究に取り組んでいたユダヤ人グループと彼が出会ったのはベルリンにお
いてであった。当初,このグループは自
たちを学術サークル(Wi
s
s
e
n-
)と呼んでおり,とくにユダヤ教に関する事柄に専念してはい
s
c
haf
t
s
zi
r
kel
なかった。しかし,数年後,同じ構成員から成るグループがユダヤ教に関
する学問的な主題を追及するための明確なプログラムを持ったユダヤ人文
化学術協会として再編成された。
初期のグループと後のグループを結びつける概念的(で言語的)糸は学
)であり,それは科学的研究と全方位的な調査範囲の両
問(Wi
t
s
s
ens
chaf
方を含んでいた。協会が
設される以前でさえ,レオポルト・ツンツはド
イツの知的生活のどこにでもあらわれるような,この概念はユダヤ教・ユ
ダヤ人の過去の研究にどのようにして応用できるかをはっきりと示そうと
1
00
デイビッド・N・マイアーズ
した。1
818年5月,彼は
ユダヤ教学のイデオロギー
(佐藤)
ラビ文学についてのこと (Et
was 썥
ube
r di
e
)を出版した。そこで彼は,かなり詳細に
r
abbi
ni
s
cheLi
t
e
r
at
ur
れの学問 (uns
)の
e
r
eWi
s
s
ens
chaf
t
われわ
命の輪郭を描いた。しかし,ツン
ツがこのエッセイのなかで説明したように, われわれの学問 はラビ文学
の包括的な調査を含まなければならない(Zunz18
7
5,
p.
1)。しかし,ツン
ツにとってラビ文学はラビの知識の古典的源泉
얨ミシュナー,タルムー
ド,ハラハーの法規や注釈に限られなかった。それはまた歴
,神学,哲
学,修辞学,法学,自然科学,数学,詩,そして音楽における諸々の著作
얨さらに言えば,聖書時代から近代にまでおよぶ十
な範囲のヘブライ
語での文化的表現物を含んでいた。
この広大なヘブライ語での文学的遺産の体系的研究に着手すべきときが
到来したと,ツンツは信じていた。彼が生まれたドイツのユダヤ人たちは
もはや容易にヘブライ語を読むこともなかったし,精神的あるいは知的着
想のために誠実にヘブライ語原典に向かうこともなかった。ドイツ文化と
自己の洗練化の追求を具体化しようとする教養(Bi
l
dung)と比べると,彼
らの文化的枠組みはそれほどタルムードに関わる高度な技法から影響を受
けてはいなかったのである。このような変り目に,ツンツはほんのわずか
な感傷的な言動とともに
とに足を踏み入れる
おける
すでに封印されているものの記述を要求するこ
学問を見た。ラビ(すなわち,ヘブライ語)文学に
新しく意義深い発展
は少しも期待することはできなかった。正
典は閉じられてしまっている(Mende
。
s
Fl
ohrandRei
nhar
z1
9
8
0,
p.
19
7)
ツンツの晩年の生活に見られたユーモアあるエピソードはこのような信念
を裏づけているように思える。かつてベルリンを訪れた著名なロシア・ユ
ダヤ人はツンツを訪問し,みずからをヘブライ語詩人として紹介した。ツ
不信の念を持ちながら次のように尋ねたと言われている。
ンツはたじろぎ,
あなたが生きていたのはいつですか (St
ani
s
l
aws
ki1
9
88
,p.1
2
3)。
このような逸話がヘブライ語文学は本質的に歴
的遺物であるというツ
ンツの信念を正確に反映しているとしたら,ヘブライ語文学についての学
問的研究を続けていくための彼の動機とは何だったのだろうか。それは時
1
01
北海学園大学人文論集
第 58号(201
5年3月)
代遅れではあるけれども,古代文明を再構築しようとする
古学者の試み
だったのか。1
81
8年の綱領的エッセイのなかで,ツンツは彼の研究結果の
どんな現在的応用も排除しているように見える,距離を取った様子と学問
的厳密さへの関心を何度も明らかにした。しかし,彼のエッセイのなかで
はツンツが別の感傷的な言動をあらわすときもある。彼がさまざまなグ
ループ
얨第1に学問の批判的方法を神の冒 とみなす伝統を厳守するユ
ダヤ人たち,第2にどんな過去の学問的研究のうちにもまったく価値を見
出さない世俗的ユダヤ人や他の者たち,第3に自
たち自身の宗教的伝統
の正しさを確認するために古典的なユダヤ教の原典を研究し,歪めてし
まったキリスト教の学者たち
얨によるユダヤ教の文学と文化
の軽視を
議論するときには,彼の口調は情熱的になり扇動的にさえなった
(Me
nde
s
。
Fl
ohrandRei
nhar
z1
98
0,pp.19
7-2
01)
それにもかかわらず,ユダヤ文学の過去を無能なあるいは敵対する者た
ちの手から救おうとする衝動は,ツンツを動機づけているほんの一部
に
すぎなかった。より深い着想の痕跡はまさに,ツンツがみずからの仕事を
明示するために用いた われわれの学問 という明確な表現のうちにある。
一見して,このフレーズは撞着語法のように思える。なぜなら学問とは,
主観と客観のあいだに明確な境界設定を要求する科学的妥当性の基準を含
意しているからである。
しかし,もう一度見てみると,この外見上は反語的なフレーズは 1
9世紀
初頭からはじまるドイツにおけるユダヤ的学識にとって役立ち,広がりつ
つある特質の存在を強調している。18
18年の彼の重要な綱領的エッセイの
なかで,ツンツは
ユダヤ人の運命の複雑な問題は,ほんの一部ではある
が,1つの解決策をこの学問から引き出すかもしれない
と慎重な楽観主
義とともに述べた(Mende
)
。言い換え
s
Fl
ohrandRei
7
nhar
z19
80,p.19
れば,学問はこのような不安の時代のなかでユダヤ人たちの立場を改善す
ることに役立ちえたのである。さらに
れんばかりの特徴づけが,35年後
にザカリアス・フランケル(Zachar
)という学者からあらわれ
i
asFr
ankel
た。彼は,学問を
それを通して血液がすべての血管へと流れてゆくユダ
1
02
デイビッド・N・マイアーズ
ヤ教の心臓
ユダヤ教学のイデオロギー
(佐藤)
として描いた(Br
)웍
。世紀半ばにおけ
ann19
04
,Appendi
x1
るツンツからフランケルの時代にいたるまで,学問はそのなかでユダヤ教
が定義されなければならなかったような言説の領域として登場した。それ
どころか,
い古したものと有用なもの,時代遅れのものと有害なもの,
そして新しいものと望ましいもののあいだを区別
できるのが学問だった
と,ツンツは主張した(Mendes
)
。
Fl
ohrandRe
i
nhar
z1
98
0
,p.1
97
最初からユダヤ教学(Wi
)は,相対立する衝
s
s
e
ns
c
haf
tde
sJ
ude
nt
ums
動と影響力の
差点を示していた。ヘブライ語文学の正典を確定しようと
する明確な願望は,まずはユダヤ教に新しい活力を与えるという暗黙的な
目的との緊張のなかにあった。これらの両立しない衝動は
裂した協会の
個性を生み出し,またそのメンバーは苛立ちながら知的・実存的な 差点
に接近しようとする世代に連なっていた。協会のメンバーは,所
ヤ教はヨーロッパ文明の活き活きとした構成要素であった
,ユダ
얨そして,そ
のように認められなければならないということを固く信じた啓蒙主義の子
。しかし,啓蒙主義から影
どもたちだったのである(Uc
0)
ko 19
67
,p.32
響を受けた彼らのエキュメニズム(と結果的に生じる弁明)は,協会の学
者たちを消滅させたわけではなかった。年代的かつ気質的に見て,彼らは
明確にロマン主義的な時代のなかに位置づけられた。J
・G・ヘルダーや J
・
フィヒテといった人物の例から影響を受けた非ユダヤ系の同時代人たち
は,ドイツの民族精神の本質を把握しようと努力した。このような独自の
民族精神の追求は,歴
主義(hi
s
t
or
i
c
i
s
m)すなわち個々の歴
的有機体
のダイナミックな展開を強調した観点を通じて深みを得た。協会を
た
啓蒙主義の子どもたち
は,ロマン主義的な歴
設し
主義が根を下ろしつ
つあったような知的時代から生まれた。より広い環境から生じる印象を反
映しながら,ある者たちはユダヤ民族の独特な内的精神と文化的遺産を明
。彼らは,あるいは
確にする必要性について語った(Ucko 1967
,p.3
2
8)
웍Br
ann1
90
4
,p.iの補遺1におけるフランケルの主張を参照されたい。
1
03
北海学園大学人文論集
第 58号(201
5年3月)
一般的にドイツ・ユダヤ人たちはユダヤ人の独立した国民国家に関する早
咲きの支持者だったというのではない。政治的に
えると,彼らはドイツ
への忠誠を告白し続けたのである。
また思想的には,
協会のメンバーはヨー
ロッパ社会にぴったりと適合したユダヤ文化を心に描いていたのである
(Meyer1967,p.165
)。
しかし,ロマン主義の痕跡は明らかに目に見えるものとなった。ユダヤ
教学に対する厳しい批判者 で あ る ゲ ル ショム・ショーレ ム(Ger
s
hom
Schol
em)でさえ,賞賛することには気が進まないものの,次のことに注目
した。すなわち,レオポルト・ツンツの 1818年の綱領的声明は
過去への
新しい態度,それ自体における過去の壮麗さと栄光の祝福,新しい光のな
かでの原典の評価……そして,何よりもまず
얨民衆や民族の研究への転
換 웎を明らかにした。
ツンツは,とくにユダヤ民族における過去の文学を研究することに専念
した。なぜならその過去は
時代を通じたその[すなわち民族の]文化の
推移に関する包括的な知識への入り口
としての役割を果たすことができ
)。ここで注目す
たからである(Me
nde
s
Fl
ohrandRei
nhar
z19
8
0,p.19
8
べき点は,全体論の追求,すなわち歴
的・文化的有機体に関する包括的
知識の追求である。このような追求は,1
9世紀初頭のドイツで支配的で
あった学問概念のまさに特徴であった。1
8
20年の百科事典の項目は,学問
を
単なる
の具象化
計とは大きく異なり,体系的に全体へと結びつけられた知識
と定義した(Allgemeine deutsche Real-Encyclopaedie 1
82
0
,p.
)。
76
1
事実,全体論への切望は近代ドイツ思想のなかに豊かな起源を持ってお
り,それはイマヌエル・カントの
判断力批判
に初期の重要な定式化を
ショーレムは 19
4
4年
웎これらの典型的なロマン主義的特徴を指摘する一方で,
に次のように主張した。ツンツのプログラムは最終的に失敗した。それは同
化主義者と弁証学の世代の所産であり, ユダヤ民族の構築 には十
られてはいなかった。Schol
em 19
7
9,p.1
56を参照されたい。
1
04
に向け
デイビッド・N・マイアーズ
ユダヤ教学のイデオロギー
(佐藤)
見た。後にヘルダーやフィヒテの著作において,全体論の追求は有機的な
民族精神を突き止めようとするロマン主義的な
命と密接に結びつくこと
となった。1
9世紀の 20年代には,絶対精神によって命を吹き込まれた全体
性の理念は G・W・F・ヘーゲルの領土になっていた。この時代に,ヘーゲ
ルの影響力は急速にドイツの学問世界のいたるところに拡大していき,そ
れは協会のようなユダヤ人の知的サークルに達した。協会を背後で支えた
優秀な若き法制
家にして指導的な力の持ち主であったエドュアルト・ガ
ンス(Eduar
)は,彼の作品のなかでヘーゲルの学問概念に根拠を
dGans
与えた
深く固定された大
造物の単一にして壮大な
築術
うとした웏
。ヘーゲルの確かな弟子として,ガンスもまた歴
う主人のモデルを近年のユダヤ
を再現しよ
的弁証法とい
に適用しようとした。それゆえ,ガンス
にとってユダヤ的啓蒙(ハスカラ)は,その活発な理想が失われてしまっ
ていた伝統的ユダヤ教への正反対からの応答であった。しかし,それ自体
としてある正反対の過剰さのなかで,ハスカラは
その空虚な抽象概念に
別の内実を与えようと苦心することもなく,伝統的なものに対する
軽蔑
笑と
)。このようなハスカラ
を示しただけであった(Meye
r19
67,p.16
7
のアンチテーゼに対する批判を提示したにもかかわらず,ガンスは
な応答を示さなかった。なぜならかなりの部
合的
,彼はユダヤ教が精神的活
力を欠いていたというヘーゲル自身の直観を共有していたように見えたか
らである。
興味深いことに,ユダヤ教に対するもっとも記憶に残っているガンスの
墓碑銘もまた近代におけるユダヤ的実存のもっとも
めいた指示内容の1
つである。1
822年,協会のメンバーに対する講演のなかで,ガンスは困惑
웏ガンスは,この願望を次のヘーゲルの著作のために書かれた序文のなかで認
めた。G.W.
F.
Hegel
,Gr
undlinien der Philosophie des Rechts, oder
Natur
r
echt und Staatswissenschaft im Gr
undr
isse (
Be
r
l
i
n,1
8
4
0)
,p.vi
.これ
は Rei
s
s
ne
r1
9
65,p.59で引用されている。より全般的なヘーゲルの影響に
ついては,Wal
-16を参照されたい。
l
ach1959
,pp.10
1
05
北海学園大学人文論集
第 58号(20
1
5年3月)
を招くメタファーを通して,次のような希望を表現した。すなわち,ユダ
ヤ人は 川の流れが大洋のなかで生き続けるように生きている (Me
nde
s
)。もし後の彼の人生行路を具体例として
Fl
ohrandRei
nhar
z19
80,p.192
見るならば,このような隠された主張は完全な社会的・文化的統合への要
求として読まれるべきである。というのも,ユダヤ人文化学術協会の会長
を務めた後のわずか数年後に,ガンスは統合の最終的な道を選んだからで
ある。1825年,彼はプロテスタントに改宗し,それによってドイツにおけ
る正教授の職への主たる障害を克服したのである。
ヘーゲルに関するもっとも肯定的なユダヤ的適応は,1
8
22年に ユダヤ
教学の概念について (썥
uber de
n Begr
i
f
f e
i
ne
r Wi
s
s
e
ns
c
haf
t de
s
)というエッセイを書いた協会の別のメンバーであるイマヌエ
Judent
ums
ル・ヴォルフ(I
8
18年の宣
)からもたらされた。ツンツの 1
f
mmanuelWol
言と一緒に,ヴォルフのエッセイは初期のユダヤ教学のための知的土台を
提示した。
両者は学問の長所を激賞したという事実があるにもかかわらず,
2つの綱領的声明を著した者たちには共通点がほとんどなかった。ツンツ
は,近代のユダヤ教に関する学識を
設した
の1人とみなされるにい
たった注意深くしっかりとした方法を持った学者であった。彼は一時的に
ベルリンでヘーゲルのもとで研究したにもかかわらず,ヘーゲル的目的論
を慎重に避け,より日常的で経験的な方法を支持した。それどころか,彼
を形成した学問的訓練は哲学ではなく,むしろベルリンにおけるアウグス
ト・ベーク(Augus
)のもとで
tBoe
ckh)や F・A・ヴォルフ(F.
A.Wol
f
の古典文献学のなかではじまったのである。
対照的に,彼についてほとんど知られていない事実によれば,イマヌエ
ル・ヴォルフはわずかな訓練と技術しか持たない人であった。彼の学問的
キャリアは実質的には 18
22年のエッセイにはじまり,
それで終わったので
ある。いまなお,そのエッセイはヴォルフの生涯を越える重要性を持って
いる。第1に,それはヘーゲル的枠組みと語彙を協会というサークルが受
け入れたことの証拠となっている。当時のドイツの知的サークルにおいて
本当にどこでも見られた全体論の追及は,いたるところで明確になった。
1
06
デイビッド・N・マイアーズ
ユダヤ教学のイデオロギー
(佐藤)
ユダヤ教学は その全範囲において対象の体系的展開と描写 (Wol
f18
2
2
,
p.17)を獲得しなければならないと,ヴォルフは宣言した。描写されるべ
き対象はユダヤ教であり,その統制的理念は神の統一性であった。ヴォル
フはヘーゲル的弁証法の道具を借りてきたが,それはこのような壮大な理
念が活気に満ちた霊的力として存続するために国家という具体的形式と戦
い,最終的にそれを超えたということを論じるためであった。いまや,こ
のような壮大な理念を理解することが学問の課題であった。
ヘーゲル的観念論への没頭にくわえて,ヴォルフのエッセイは近代のユ
ダヤ教に関する学識を構成するものとして,最初に言及された相対立する
衝動を掘り出すために重要なものであった。一方で,ヴォルフは
その狙
いは真理であるがゆえに,下劣な生活が持っている党派心,情念,そして
偏見をただ超えているということだけ
が学識を発展させるのに必要であ
ると信じていた(Wol
)
。他方で,彼は学問を
f1
822
,p.23
われわれの時
代の特徴的な態度 ,すなわちユダヤ人がみずから自身を近代という時代に
適合させるために身に着けなければならない方法や言語とみなした。学問
は純粋に科学的であると同時に手段的であり,批判的方法であると同時に
自己規定の媒介物であった。これらの重なり合う一連の機能は近代のユダ
ヤ的実存を基礎づけている,より大きな切望の組み合わせ,すなわち非ユ
ダヤ的基準に訴えることで知的(そして専門的)妥当性を得たいとする願
望と,伝統的ユダヤ教の概観を完全に破壊することなしに,それを再形成
したいとする願望から発していた。
イマヌエル・ヴォルフのテクストはこれら2つの価値のもっとも初期の,
そしてもっとも明確な結合の1つであるにもかかわらず,それはほとんど
唯一のテクストだというのではない。
科学としての学問,
またアイデンティ
ティを形成する源泉としての学問という両極はヴォルフとツンツの世代に
とって境界線の目印としての役割を果たし,その後のユダヤ人学者のあら
ゆる世代にとってそうあり続けてきた。このことを踏まえると,その両極
のあいだを媒介し,そのあいだにある根本的な緊張を認め,そして純粋な
学問への神聖な主張を掘り崩すことをユダヤ人学者が断固としてよしとし
1
07
北海学園大学人文論集
第 58号(201
5年3月)
ないということがわかったことに,ひとは驚いた。しかし,緊張に関する
どんな承認でも,それを制止するには,科学的客観性の指導的レトリック
は強力すぎた。それどころか,緊張の承認は偏見の承認をもたらしたかも
しれない원
。そして,ユダヤ人学者たちにとって,そのような承認の代償は
払うにはあまりに高すぎたのであった。
なぜその代償はあまりに高いものと理解されてしまったのか。
たしかに,
その答えの一部は制度的権力の問題のなかにある。同時代の非ユダヤ人学
者たちとは異なり,ドイツ・ユダヤ人研究者たちは国家が後押ししている
大学システムのなかに特権的な地位を必死に切望したが,それを獲得する
ことはけっしてなかった。彼らは教授の職を提供されなかったし,彼らの
研究
野は大学のカリキュラムに導入されることもなかった。ドイツの大
学システムに受け入れられることを欠いていたにもかかわらず,ユダヤ人
学者たちはドイツ的(そして異教的)妥当性という最終的基準,すなわち
学問への彼らの忠誠に迷いが生じることはめったになかった。彼らにとっ
て,学問は学問的方法を越えたものであった。また,学問はそれを通して
社会的・知的受容を達成できる権力の手段であった。このような手段の有
用性あるいは性質を疑うことは,ユダヤ教を再形成するための能力を減少
させること,それゆえ,ドイツ社会への完全な入場を塞いでしまうことで
あった。
9世紀のさらに広い
ドイツ・ユダヤ人学者たちと制度的権力の関係は,1
ドイツ・ユダヤ人共同体の立場を反映していた。当初,解放の約束に勇気
づけられたものの,ドイツ・ユダヤ人たちはすぐに彼らの道にある
非
式・
式の障害物に直面した。彼らの応答は見境のない自己否定ではなく,
むしろ周囲の異教社会と並んだアイデンティティや共同的組織の構築で
あった。デイビッド・ソーキンが説得力を持って論じたように,1
8世紀後
원ハンス=ゲオルク・ガダマーは われわれは理解を ,とくに歴 的理解を 規
定している先入見を意識的な水準へと高めなければならない と論じている。
Gadame
r1
9
7
9
,p.1
56.
1
08
デイビッド・N・マイアーズ
ユダヤ教学のイデオロギー
(佐藤)
半からユダヤ人たちは,彼らの集団的アイデンティティの主要な保管場所
としての役割を果たしたユダヤ的
位文化は制限された
下位文化 を形成した。このような下
共圏を提示し,そこでユダヤ人たちは彼らが周囲の
非ユダヤ的社会のなかで排除されていた活動に従事できたのである(Sor
)。
ki
n1988,pp.5-6
学識の領域は,このような構造的で心理学的なメカニズムに関する啓発
的な事例を示している。ドイツの大学で訓練を受けたが,そこで教えるこ
とを妨げられていたユダヤ人学者たちは専門や知性の周縁化に直面した。
ユダヤ教学の最初の段階において,協会の設立からはじめながら,ユダヤ
人学者たちは自
たちの研究のための制度的支援がないなかで活動してい
た。たとえば,4
0歳代をレオポルト・ツンツは学
を掛け持ちながら生活
を送り,安定し満足のいく仕事を見つけることはできなかった。彼が就く
ことのできたもっとも保証された仕事は,約 12年間のあいだ,ベルリンに
おけるユダヤ人教師のための学
の
長としての仕事であった。同様に,
ツンツの子ども時代の友人にして級友であった I
・M・ヨストはフランクフ
ルトにおけるさまざまな高等学
の教師や
長として生計を立てた。たと
え研究のための安定した雇用や援助がなくても,ツンツとヨストはその経
歴の最初において不朽の学問的仕事をはじめたのである。ツンツは,ユダ
ヤ教の説教学の歴
に関する一流の研究
ユダヤ人の礼拝における朗誦
(Die gottesdienstliche Vor
tr
썥
age derJuden )を生み出した。そのあいだに,
ヨストは 1820年から 1828年にかけて9巻から成るユダヤ人の歴
ラエル人の歴
イス
(Geschichte der Isr
aeliten )を出版した。これらの作品
は 種々の適切な準備作業 ,すなわち 数百年,さらには数千年の文献を
記述するための責任を担っている
包括的な
合に対するツンツの綱領的
な要求を満たすのに大いに役立った(Mende
s
Fl
ohrand Rei
nhar
z19
80,
-8
)
。しかし,それらはドイツの大学からの財政的あるいは制度的支
pp.1
9
7
援の見通しに頼ることもなかったし,それを急がせることもなかった。そ
の代りに,この時代のユダヤ人学者たちは穏やかな無視あるいは意図的に
邪魔されることによってドイツの学術文化の周辺へと押し出されてしまっ
1
09
北海学園大学人文論集
第 58号(201
5年3月)
たのである。
ひとは英雄的だと言うかもしれないが,このユダヤ教学の最初の局面を
完成させたものは 185
4年のブレスラウにおける近代的なラビ神学
設であった。ブレスラウの神学
の
の開設は,ドイツにおける専門化された
近代的なラビ職に対して増え続ける要求に取り組んだだけではなかった。
それはまた,ユダヤ的学識のための制度的支援の新しい時代を開いた。数
十年後,他の2つの神学
,ユダヤ教学高等学院
(TheHoc
hs
c
hul
ef
썥
urdi
e
)と正統派のラビ神学
Wi
s
s
ens
chaf
tde
sJ
ude
nt
ums
がベルリンに開
さ
れた。それらもまた,ユダヤ的学識の研究と教授の中心地として登場した。
それにもかかわらず,このような制度化のプロセスに関するいくつかのア
イロニーは入念な
察を必要とする。第1に,神学
は批判的研究のため
の新しい拠点をまさに提示したけれども,それは有能で大学で訓練を積ん
だユダヤ人学者が集まる場所にいる,ほんのわずかの者しか雇うことがで
きなかった。さらにレオポルト・ツンツや書誌学者モーリツ・シュタイン
)のような,その時代のもっとも優
シュナイダー(Mor
i
t
zSt
e
i
ns
chne
i
der
れたユダヤ人学者の幾人かは神学
への任命を受け入れることを拒絶し
た。シュタインシュナイダーが言うように,彼らの反発は神学
が
ユダ
ヤ的学識の新しいゲットー (Bar
2)になるのではない
on 1950
,pp.1
01
かという懸念に起因した。しかし,この懸念はさらに大きなアイロニーに
関わっている。ラビ神学
的あるいは家
に対するユダヤ的学識の降伏は,宗教という私
内の領域にユダヤ的アイデンティティを制限することだと
はっきりわかったのである。ポスト啓蒙の世界のなかで,彼らの宗教を社
会的行動に向かう包括的な導きではなく,
私的な信仰告白とみなすために,
ユダヤ人に対して強力な社会的圧力があったのである。
このような宗教の私事化の予期された利点
合
얨多数派文化への急速な統
얨は,すぐに具体化されなかった。実現されていない約束を補うため
に,ドイツ・ユダヤ人たちは周囲の社会における組織に似せたようなもの
を彼らの下位文化の内部で展開した。たとえば,ラビ神学
はより高次の
学びの組織,つまり外見上は大学のようなものになり,そこでユダヤ人学
1
10
デイビッド・N・マイアーズ
ユダヤ教学のイデオロギー
(佐藤)
者たちは彼らの研究関心を追及することができた웑
。この点で神学
のユダヤ的
共圏を
同時に,神学
は一種
造し,そのなかにあった(Habe
)
。
r
mas198
9
,p.72
は逆説的な仕方でユダヤ的アイデンティティの私事化を象
徴した。なぜならその主要な
命の1つは,縮小していくドイツ・ユダヤ
人の宗教的要求に対応するために新しい種類のラビたちを教育することで
あり,少なくとも部
的にはユダヤ教の近代ドイツ文化への適応を促進す
ることだったからである。
的次元と私的次元にまたがって生きること,職業的でより純粋な学術
的機能,そして神学
は1
9世紀におけるユダヤ教学とドイツ・ユダヤ人の
アイデンティティの中心にある緊張のいくつかを明らかにした。たしかに
この3つのものは,同じ仕方でそうしたのではなかった。事実,それぞれ
にはドイツ・ユダヤ教の両立しない解釈が存在し,またドイツ・ユダヤ教
のなかにはさまざまな教派的傾向がある。ブレスラウにおける最初の神学
/
は, ユダヤ教の近年の悲惨な内部状況 (Br
ann19
0
4,Appe
ndi
x1
:i
)からユダヤ人たちを救おうとする試みとしてあらわれた。終わりに近づ
i
i
i
くにつれて,神学
表現する両極
の
設者たちは,彼らの時代におけるユダヤ的宗教を
얨一方ではユダヤ教に関するどんな歴
的問いや発展的展
望も黙認しない窮屈な伝統主義と,他方では動的に進化するユダヤ教のモ
デルだけでなく,
ユダヤ教の儀礼的実践における大規模な変化を支持した,
ますます大胆になる改革派
얨を和解させる必要性を感じた。ブレスラウ
の
設者たちは,伝統への恭しい態度を失うことがなく,また依然として
歴
的
うな
析の批判的モデルを統合した中道の立場を築こうとした。このよ
実証的―歴
웑3つの神学
的
アプローチにもっとも精通した人々は,神学
の
は,学生たちはドイツの大学において博士号へとつながる研究
をはじめていることを強調した。それゆえ,とくに批判的・歴
的方法によ
それにもかかわらず,
る専門的な学者の訓練は大学でも受けることができた。
学生がユダヤ教の文献と歴
に関する古典的典拠に広く深く接することを受
け入れたのは神学 のなかだけであった。
1
11
北海学園大学人文論集
最初の
第 58号(20
1
5年3月)
長であったザカリアス・フランケルとその最初のユダヤ教
の教
授であったハインリヒ・グレーツ(Hei
1巻から成
nr
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hGr
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z)だった。1
る彼のユダヤ人
は1
9世紀のユダヤ教の歴
書における偉大な業績の1
つを代表している。
新しい実証的―歴
的運動の中心としてのブレスラウとともに,2つの
競合する組織がもう1つの宗教的・イデオロギー的見方を普及させるため
に,1870年代のベルリンに設立された。ユダヤ教学高等学院はまさにその
名前が意図しているように,ドイツの学術制度の高尚な基準を再現するこ
とを目的とした組織であった。けれども,それはまた改革派のラビ神学
の拠点でもあった。高等学院が,当時のもっとも優れた改革派のラビにし
て学者であった,晩年のアブラハム・ガイガー(Abr
)を雇用
aham Gei
ge
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したのは偶然ではない。ガイガーの研究は, 厳格な律法主義 の時代から
解放と啓蒙の時代へといたる発展のさまざまな局面を経験してきた,ここ
最近における歴
的ユダヤ教のイメージを生み出した(Wi
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96
2
,p.
1
68)。隠すことなく進んでユダヤ教を批判的
析にさらそうとする彼の
えは高等学院に活気を与えた自由な探究の精神を示し,またユダヤ教神学
と儀式における改革派的刷新を促した。
自由な探究と宗教的献身のあいだのバランスはドイツにおける3番目の
主要なラビ神学
,すなわちラビ・エスリール・ヒルデスハイマー(Rabbi
)によって
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設されたラビ神学
ていた。ヒルデスハイマーによれば,その神学
歴
ではまったく異なっ
のもっとも重要な目的は
的発展のなかでのユダヤ教の批判的評価ではなく,むしろ
聖書やタ
ルムードの文献の知識 に基づいた 宗教的生活の向上 であった(Jahr
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73
4
,
p.
59)。その学部はダーフィッド・ツヴィ・ホフマン(Davi
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,アブラハム・ベルリーナー(Abr
)のよう
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な著名な正統派のラビにして学者,そして徹底的に律法を厳守した
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ラーの真理 (Tor
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(JakobBar
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それぞれのイデオロギー的な見方によって切り離されてはいたが,3つ
1
12
デイビッド・N・マイアーズ
の神学
ユダヤ教学のイデオロギー
(佐藤)
は1
9世紀後半におけるドイツ・ユダヤ教の輪郭をはっきりさせよ
うとする努力のなかで,競争相手としてあらわれた。結果的に,神学
に
おけるユダヤ教学の組織化はユダヤ教の一枚岩的な定義を生み出さなかっ
たと判断を下すことができる。それにもかかわらず,神学
共通の特徴があった。たとえば,神学
のあいだには
のカリキュラムは著しく類似して
おり,タルムードとラビの規則,聖書と中世の注釈,そしてヘブライ語と
アラム語といった言語を重要視していた。しかし,さらにいっそう浸透し
ていた共通性に注目しなければならない。評価の程度には違いがあったか
もしれないが,3つすべての神学
における学者たちは学問への忠誠を告
白したのである。イスマール・ショルシュは,正統派のラビ神学
てさえ,
学問的方法にしっかりとした根拠を与えた批判的・歴
チは
ブレスラウあるいは高等学院に劣らず注意深く
におい
的アプロー
適用されていたと
認めた(Schor
)。たしかにエスリール・ヒルデスハイマー
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ch1
975
,p.11
は,神学
の学生たちはこのような科学的方法によく精通していた主張し
た(El
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onandJacobs198
8,p.2
7)。学問は,ドイツのユダヤ人学者た
ち
얨改革派から正統派の両極にいたるまで
얨のあいだでのやり取り
(と論争)
に関するどこにでもある言語になっていた。このあちこちに存在
する言語もまた,ドイツにおける学術世界の支配層に相対しているユダヤ
人学者たちの広範囲に及ぶ苦境を示していた。ユダヤ人学者たちは彼ら自
身の学術世界を持っていたけれども,不遇な大学教授にとどまっていた。
正式な制度への受け入れを欠きながら,彼らは何度も自
たちの学問的優
秀さを証明し,そして最高の社会的有効性を達成したいという希望のなか
で学問へと向かった。
学問に対する信頼は,19世紀に浸透したユダヤ的学識における客観性の
言説を支えた。同時に学問のもう1つの含意は学問的全体として,重大な
変化を被った。フランケル,グレーツ,ガイガー,そしてホフマンのよう
な人物の作品が協会世代の堂々たる視野と学識を取り戻したことはほとん
ど疑いえない。しかし,彼らが神学
すなわちより広くドイツの歴
で教えた人々は初期の世代の全体論,
書を編纂したサークルとかなり類似してい
1
13
北海学園大学人文論集
第 58号(20
1
5年3月)
た展開を避けたのである(I
)。このようなより若い世代
gger
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83
,p.1
31
は大規模な
合ではなく,古典的な宗教テクストの
訂版のような,より
小さな事業に専心した。ある評者の言葉を借りれば,1
9世紀後半にはユダ
ヤ的学識は 細かい仕事 (Kl
)
,きわめて控えめな範囲と狙いを
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持った研究になっていた(El
)。
bogen1
922
,p.17
このような狭窄していく問題の焦点と密接に関係することで,世紀転換
期までの一致した努力はユダヤ人学者たちに新しい方法論を紹介し,探究
を文献学的・文学的
市,そして法の歴
析における顕著な関心事を越えて,社会,経済,都
へと拡大することを可能にした。限定された焦点と方
法論的広がりという2重の影響は,ユダヤ教学の組織的局面における新し
い専門化(と断片化)を示している。
新しい専門的エートスがラビ神学
のなかで展開されたことは興味深
い。新しい専門主義という1つの影響がユダヤ人の学問活動にとって役立
つどんな機能をも否認することができたというのは,とくに興味深いよう
9世紀後半からベルリンにおける
に思われる。このような影響の証拠は,1
ユダヤ教学高等学院の教授であったジクムント・マイバウム(Si
gmund
907年,マイバウムは次のように宣言した。
Maybaum)から出てくる。1
ユダヤ教学は,何よりもまずユダヤ的学問ではない。……その主体は
みずからのユダヤ性の意識,あるいはそれとの関係をほとんど持つこ
となく対象と向かい合っているので,われわれはユダヤ的学問あるい
はユダヤ的芸術について語ることはできない。反対に,きわめて多く
のことが対象に依存しすぎているので,ユダヤ教学は非ユダヤ人たち
。
によって育成され,推進されている(Maybaum 19
43)
0
7,p.6
これらの見解は科学としての,そしてユダヤ人の自己定義の行為者とし
ての学問の2重の機能がもはや共存できないという新しい意識を反映して
いる。直観的にこれら2つの特徴を認識したことで,マイバウムはそれを
解決しようとした。彼の見方によれば,学識は神学
1
14
においてさえ,教派
デイビッド・N・マイアーズ
ユダヤ教学のイデオロギー
(佐藤)
における党派心の道具としては役立ちえなかった。ユダヤ教学は,ユダヤ
人と同じように正当に非ユダヤ人の領域として,純粋に学術的な追求であ
りえたのである。
19世紀中葉にはじまったユダヤ教学の組織的側面は,ユダヤ的学識の高
まりつつある特殊化,断片化,そして方法論的拡大によって特徴づけられ
た。20世紀初頭には,何人かの重要なユダヤ人思想家たちはこれらのプロ
セスの不完全さに注意を促しはじめていた。彼らのなかでももっとも優れ
た者は歴
家でも文献学者でもなく,むしろ歴
的方法の
用と乱用に関
する深い懸念を持っていた哲学者,すなわちヘルマン・コーエン
(He
r
mann
Cohen)とフランツ・ローゼンツヴァイク(Fr
anzRos
e
nz
wei
g)であった。
この2人の思想家は,彼らの時代におけるユダヤ教学の客観的で距離をお
いた性質に幻滅を感じていた。たとえば,コーエンはジクムント・マイバ
ウムとは完全に対立する立場を取っていた。ユダヤ教の研究は
内的な敬
虔さを持ってユダヤ教に連なっている者によってのみ学問的に扱われ
う
。彼の目的は,ユダヤ
ると,1907年に彼は主張した(Cohen1
907
,p.1
2)
人学者たちをその学問的関心と霊的関心のあいだの密接な同盟を再確立す
ることへと促していくことであった。ベルリンの高等学院でのコーエンの
かつての学生であったフランツ・ローゼンツヴァイクは,このような志を
共有した。1917年,ローゼンツヴァイクはコーヘンに長い手紙を認め,そ
のなかで彼はベルリンにユダヤ教学アカデミーを
設することを求めた。
この組織は 15
0人の教師にして学者の専門家集団を雇用し,彼らは純粋な
研究と共同の奉仕のあいだで自
たちの時間を
け合おうとした(Ros
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n-
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)
。
zwei
g1918,pp.23
ローゼンツヴァイクの提案は,コーエンが最初にユダヤ的学識に向けて
表明した同じ不満感から生まれた。この2人の人間は,ユダヤ教学におけ
る学術的追求と霊的関心のあいだのつながりを意識的に認めることを支持
した。そのような認識を通してのみ,ユダヤ的学識の完全なる
設的潜在
力がユダヤ教の活ける力として実現されうると,彼らは信じた。彼らの要
1
15
北海学園大学人文論集
求は,ユダヤ的学識の手段的価値
第 58号(201
5年3月)
얨単に挿話的に明確な仕方で述べられ
たにもかかわらず,19世紀初頭の協会の時代から示されてきた価値
얨と
いう非弁証学的な認識に向けられていた。
コーエンとローゼンツヴァイクがユダヤ的学識の低迷のために提示した
対応策は,ユダヤ教学アカデミーであり,それは
式には 19
19年に設立さ
れた。きわめて急速にこの組織は,コーエンあるいはローゼンツヴァイク
が想像したものとはまったく異なる方向を取ることとなった。また,それ
は純粋な学問研究の組織になった(Mye
。このような逆説
r
s1
99
2,p.1
2
1)
的な展開(偶然にもそれは科学としての学問の耐久力を証明している)に
もかかわらず,コーエンとローゼンツヴァイクの非難はユダヤ的学識の世
紀にふさわしい頂点としての役割を果たした。協会の世代と同様に,彼ら
は自
たちの時代におけるユダヤ教の運命に関するある切望,すなわち活
き活きとした全体論的なユダヤ教学を通して改善されればと彼らが願った
切望を感じていた。しかし,研究者の第1世代とは異なり,コーエンやロー
ゼンツヴァイクもまたユダヤ教を文脈化し,彼らの
化した歴
えではユダヤ教を細
的方法に対する反感も感じていた。この世紀のもう1人の著
名なユダヤ人学者であったサロ・バロン(Sal
oBar
on)に,ユダヤ教学は
19世紀のもっとも豊かなユダヤ運動 であると言わせたのは,まさにこの
ようなユダヤ教の歴
化(hi
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m)であった(Bar
on
1937,p.218)。
ある点では,これら2つの対立する見方は幾
の真実を担っている。一
他方でバロンは 19世紀におけ
方でコーエンとローゼンツヴァイクの両者,
るユダヤ人学者たちは異なる主人への忠誠を抱いていたと理解した。ユダ
ヤ教を再定義し復活させようとすることへの傾倒と科学的学問への服従の
あいだで
断されながら,学者たちは学問の領域に避難した。彼らの重要
性は少数の人だけが知っているような学識の年代記に限られていない。な
ぜなら彼らは遠心的な推進力と求心的な推進力,内部の霊的実現と外部の
社会的有効性のあいだにある緊張を具体化しており,その緊張が近代のド
イツ・ユダヤ人一般の複雑な歴
的経験を形成していたからである。
1
16
デイビッド・N・マイアーズ
参
ユダヤ教学のイデオロギー
(佐藤)
文献一覧
1次文献
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北海学園大学人文論集
第5
8号(201
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*ここに訳出した論文は,平成 25年度北海学園学術研究助成(一般研究)の研
究成果の1部である。
1
19
タイトル1行➡3行どり
タイトル2行➡4行どり
北海学園大学人文学会 立記念シンポジウム
記録
人文学の新しい可能性
パネリスト
司会
本城誠二氏
(英米文化学科教授 アメリカ文学・文化)
大石和久氏
(日本文化学科教授 映画美学)
追塩千尋氏
(日本文化学科教授 日本古代中世仏教 )
村中亮夫氏
(日本文化学科准教授 人文地理学)
濱 忠雄氏
日時
会場
2013年 11月 16日(土曜日)午後2時−5時
図書館棟 AV3教室
主催
共催
北海学園大学人文学部
北海学園大学人文学部,
北海学園大学大学院文学研究科
周縁からの視線
얨人文学/文学/文化をめぐって
本
城
誠
二
本発表では文学研究から文化研究への越境から見えてくるものについ
て,発表者の体験を
えて紹介したいと思います。教養教育の英語を中心
に担当しながら,専門としては英米文学の作家と作品について文学研究を
していました。しかし 1
97
0年代に文化そのものを問い直すカルチュラル・
1
21
北海学園大学人文論集
第5
8号(2
0
15年3月)
スタディーズが出てきて,もともとアメリカのポップ・カルチャーに関心
を持っていた事もあり,1
99
0年代からカルチュラル・スタディーズ的な方
法と内容に変えていきました。ここでは,激しく変化する社会における文
化と研究の再
を通して,人文学についても何らかの
察をお示しする事
ができればと思います。
まず
社会の変化と大学と研究
についてお話します。私は文学部文学
科英米文学専攻という場で学びましたが,1
97
0年代初頭は一世代上の先生
方が影響を受けたニュークリティシズムが文学研究の方法として教えられ
ていました。最終的には詩と対象をするような研究方法でしたが,作者の
意図にとらわれないで作品を読む事ができる方法として有効だったと思い
ます。つまり作品を
析する時に,いつもその背後の作家について,その
意図や経歴などを参照していた研究のあり方が,ニュークリティシズムで
は作品そのものを対象とするようになりました。特に言葉を科学的に
析
するのが新鮮でしたが,その方法が小説よりは詩に向いている方法であっ
たのも事実でした。でもそこからバルトによる
作者の死
という作品=
テクストが自立するという大きなパラダイム・シフトまでもう一歩という
感じで印象的だった訳です。
その時代は後からポストモダンと位置付けられましたが,当時の文学批
評としては,フランスの構造主義,ソシュールの記号論が流行っていて,
その流れの中で学部や大学院でも仲間や先輩と,それらの新しい知の潮流
を代表するような著作を輪読していた記憶があります。その時は知りませ
んでしたが,すでにカルチュラル・スタディーズが登場していました。そ
95
7年)を書いたリチャー
の先駆者的な学者としては, 読み書きの効用 (1
ド・ホガートや, 文化と社会 (195
8年)のレイモンド・ウィリアムズな
どが挙げられますが,いずれも労働者階級出身の知識人で,かつマルクス
主義の左翼知識人でした。特にレイモンド・ウィリアムズはカルチュラル・
スタディーズという研究方法とは関係なく学部で読まれていました。おそ
らくヴィクトリア朝時代のマシュー・アーノルドが
文化と無秩序
で主
張し,後にF・R・リーヴィスが継ぐような,文化とは教養ある特権的な
122
北海学園大学人文学会
立記念シンポジウム
記録
少数によってのみ理解され維持されるという,高踏的エリート的な文化観
から脱した 2
0世紀後半の文化論として読まれ出していたのだと思います。
そしてカルチュラル・スタディーズが登場しますが,それは 1
96
4年バー
ミンガム大学に現代文化研究センター(CCCS-Cent
r
ef
orCont
e
mpor
ar
y
)が設立した時です。バーミンガムはロンドンとリヴァ
Cul
t
ur
alSt
udi
e
s
プールの中間くらいに位置する町です。この新しい研究方法は,政治学・
社会学・文学理論・メディア論・映画理論・文化人類学・哲学・芸術
・
芸術理論などの知見を領域横断的に応用しながら,文化に関わる状況を
析し,対象だけでなく方法論も越境するものでした。代表的な著述の一つ
として,1
977年ボール・ウイリスが著した ハマータウンの野郎ども が,
学
教育についての聞き書き,エスノグラフィー(民族誌)の試みとして
有名です。これは Lear
ning to Labour―How Wor
king Class Kids Get
Wor
king Class Jobs という原題からも
者が学
かりますように,労働者階級の若
を嫌い,押し付けられるのでもなく知らないうちに労働者になる
という,底辺労働者再生産の構造を明らかにしたものです。
さてこのカルチュラル・スタディーズの日本での受容についてですが,
本格的導入の前にカルチュラル・スタディーズ的な文献の紹介から始まり
ます。1
96
8年に 文化と社会 ,197
4年には 読み書きの効用 ,1
98
4年に
ハマータウンの野郎ども ,そしてディック・ヘブデージの
サブカル
チャー の翻訳が 19
86年に出ます。そして冷戦やポストモダンの 大きな
物語 が終了した 1996年には雑誌 思想 , 現代思想 でカルチュラル・
スタディーズの特集が組まれました。その大きな枠組としては,支配・権
威・体制/抵抗・反体制という二項対立も含みつつ,文化と政治の関係を
えるものです。この文化と政治と言う力学がカルチュラル・スタディー
ズには通底していて,その政治的な主張が突出するようにも見える部
が
一部の人に好まれない理由であるような気がします。
この新しいパラダイムを理解するキーワードとしては,性に関わるジェ
ンダー,クイア,肉体に関するボデイ・ポリティクス,植民地以後のポス
トコロニアル,サバルタン,ディアスポラ,クレオール,そしてサブカル
1
23
北海学園大学人文論集
第5
8号(201
5年3月)
チャー,メディア,コンタクト・ゾーンなどが挙げられるでしょうか。ア
メリカ文化研究,特に黒人音楽に関心のある者としては,ディアスポラ,
クレオール,そしてサブカルチャーが重要でした。もともとユダヤ人の離
散を意味するディアスポラは,黒人のアフリカ大陸からの離散と重ね合わ
せてブラック・ディアスポラまたはアトランティック・ディアスポラとい
う
われ方もします。またクレオールはアメリカ植民地生まれのフランス
人・スペイン人を指していた言葉が,白人と黒人の混血にも
になり,このクレオールはジャズの
われるよう
生に重要な役割を果たしました。ま
たカルチュラル・スタディーズ的な観点からは,人種の積極的な横断・越
境を意味する言葉としても
化
われます。サブカルチャーは語義の
下位文
では,主流の文化に対するものとして,ポピュラー文化と同列にくる
ものでしょうが,例えばポピュラー音楽の中の黒人音楽の,さらに下位に
区
されるヒップホップなどがサブカルチャーの例といえます。
次にカルチュラル・スタディーズの具体的な実践の前に,タイトルにも
掲げた周縁からの視点についてお話ししたいと思います。私は所属学部,
そして研究領域において,意識的にではなく結果的に様々な周縁にいたよ
うな気がします。例えば,旧教養部における語学担当者は他の研究者から
そのように見られていましたし,人文学部に移ってからもそこでの文学研
究は,日本文化学科における
学や英米文化学科における英語教育という
中心的な研究と比較すると周縁的な立ち位置かなと思ってしまいます。北
海学園大学の人文学部のみならず,アメリカ文学会でもずいぶんと前から
問題となっていた文学離れと文学研究のマイナー化というのは全国的な傾
向でもありました。その中で文学研究から文化研究にシフトするのは,も
しかすると社会の趨勢から中心的な場所への転換という意味になるのかも
しれませんが,研究というアカデミックな視点からさらにマイナーなとこ
ろへ移ってきたという自覚もあります。ともかく基本的には周縁的な場に
居続けたその有効性を無理やり理屈付けると,そこには中心にいない事に
よる開放性と,もしかすると中心にいては見る事のできない全体について
の俯瞰的な視点が可能かも知れないという事です。
1
24
北海学園大学人文学会
立記念シンポジウム
記録
また文学研究から文化研究へシフトする事で,文化という概念ばかりで
はなく,研究そのものを問い直す視点も獲得できたような気がします。
越ですが文学研究から文化研究への変化と,また文学研究もしているとい
う事を明示するために研究の個人
が 1994年の
をめぐって
出口なき探究
を紹介させて頂きます。変化の端境期
얨ポール・オースターのニューヨーク三部作
で,これはアメリカのユダヤ人作家の作品研究でした。そし
て次の 199
8年に書いた
ハードボイルドにおける家族という神話
はロ
ス・マクドナルドというハードボイルド小説の作家による作品からアメリ
カの家族のあり方を
析してみました。その後はしばらく文化的なテーマ
について書いてきました。2
0
01年は ヒップホップという亀裂 でアメリ
カのポピュラー音楽の先端的な部
ディストピアを夢見る
について,2
0
0
5年の LA ノワール,
얨映画 Chinatown における都市表象をめぐって
では,ノワールと言う新しいジャンル観からみる映画を都市というディス
トピア(反ユートピア)的な視点から
人文論集
に原稿を出した
察しています。そして今年初めて
妄想のアメリカン・ドリーム
ではハリウッ
ド小説を題材にしていますから,文学と文化を横断するようなテーマとも
言えます。さらにすでに原稿は出して発刊はこれからですが, 聖なる野生
と繰り返す越境
얨コーマック・マッカーシーの
越境
をめぐって
얨
ではコーマック・マッカーシーの作品論ですからこれは文学研究で,文化
研究ではありません。だからといって文化研究をやめた訳ではないので,
文学研究と文化研究を往復するようなスタンスをそれなりに実行している
と言えるような気もします。
さて先ほど予告しましたようにカルチュラル・スタディーズの具体的な
実践の報告です。2
000年に同志社大学で開催された日本アメリカ文学会の
全国大会におけるシンポジウムでの発表が
ヒップホップという亀裂
と
いうタイトルのヒップホップ論でした。これはシンポジウム全体を本にし
た
ポストモダン都市ニューヨーク―グローバリゼーション,情報化,世
界都市
に収録されていますが,シンポジウムのテーマは 1
9
80年以降の
ニューヨークにおける文学・詩・音楽・映画について
1
25
察しようとするも
北海学園大学人文論集
第 58号(20
1
5年3月)
のでした。ヒップホップについてはあまりよく知らなかったのですが,黒
人音楽について少しは知っているだろうという事でメンバーに選ばれたの
で,調べてみました。その結果,ヒップホップは 19
80年代のアメリカの
ニューヨーク市ブロンクス地区で
生した都市の黒人のストリート・カル
チャーであり,幾つもの文化的な視点からこの新しい音楽ジャンルを読む
ことができると知りました。それはゲットーのストリート・カルチャーと
して,差別・
困・暴力・麻薬といった黒人社会の様々な問題点を表現す
るものとしてのヒップホップであり,ゲットーの終末論的絶望と祝祭の両
極端を表象するポストモダンの音楽でもある訳です。また同時にポスト・
インダストリアル社会の都市周辺部からわきあがった声と解釈する事も可
能ですし,ブラック・ディアスポラの視点もあり得ると。
またヒップホップはそれ自体がこれまでとは異なる文化の実践と
事ができます。例えば,
ストリートを
える
園などをパーティの場として野外で踊りつつ,
共圏に変える。音楽を自
で作るという事が持たざる者の
既存の音楽を引用して組み合わせる事が,
商業主義への抵抗と抗議になる。
ポストモダン的な黒人音楽の
造になる。ヒップホップにおける抗議が連
帯を通して黒人共同体の再構築になる,などが挙げられると思います。
さて最後になりますが,文化の力学と新人文学について
えてみたいと
思います。まずカルチュラル・スタディーズは起源への疑問を出発点とし
ていると思います。そこでは単一の主体・国家・民族などの仮想的なアイ
デンティティーに懐疑的なスタンスが明確にされます。そして越境的・横
断的・超越的:独立した,固定的な学問
野を作らず,様々な議論の空間
を広げ,i
nt
e
r
di
s
ci
pl
i
nar
yと t
r
ans
di
s
c
i
pl
i
nar
yを往復するような姿勢が
重要になり,自己と研究を相対化し,例えばサバルタン研究の理解不可能
な他者の声に耳を傾ける事が必要になります。そこでは必然的に文化と政
治による文化の力学が問題となるでしょう。つまり∼文化と定義した瞬間
に,∼文化の中心と周縁が
けられ,そこでは支配と被支配の政治的な力
学が現出してくるからです。また一方では文化の力学には,文化そのもの
が内包するダイナミクなエネルギーも意味しています。さらにそのような
1
26
北海学園大学人文学会
立記念シンポジウム
記録
文化を丸ごと受け止めるような研究ができれば,その文化に研究も付け加
わってのダイナミクスが現出するような気もします。
そのように
えつつ,文学部で学び,教養部でそして人文学部で研究し
教える者にとっての 新人文学 とはどのようなものなのか。 文学 , 文
化
そして
人文学
が何なのかいつも自問しながら研究してきたような
気がしますが,なかなか結論には至りません。人文学とはある時期学問の
中心にありながら,現在では周縁にある学問
野であると言う事を
えな
がら,その有効性または遅効性,または役に立つ事が本当に必要なのかと
いう事も
え続けようと思います。研究のある地点をその時点での到達点
としながらもそこに居つかない。そういう営為,研究態度,生き方が
体
として人文学のあるべき姿で,それはある種の新・人文学なのかもしれな
い,というのが現時点での私の拙い結論となるような気がします。
1
27
タイトル1行➡3行どり
タイトル2行➡4行どり
映像,あるいは人間を超え出る知覚について
얨ベンヤミン/ベルクソン/連続写真
大
➡
お最
客低
様5
の字
指取
示り
な
し
はじめに
얨問いの設定
얨
石
和
久
얨
まずは,ここ数年,人文学について積極的に発言しているフランス思想
研究者の西山雄二の言葉から始めたいと思います。近年の社会的・文化的・
経済的変化を背景として, 人文学の教育研究が今日的な妥当性(r
e
l
e
。
vance)や適切性(per
t
i
ne
nce) を問われている,と西山は言っています웖
웋
웗
このような認識はわれわれの所属する人文学部においてもすでにある程度
は共有されている,と私は
ある
新人文主義
えています。というのも,人文学部の理念で
は,西山が述べるような従来の人文学を批判的に問う
姿勢から生み出されたものだからです。元本学大学院文学研究科研究科長
の大濱徹也は以下のように
新人文主義
を規定しています。
新人文主義 は,人間解放の名の下に,人間が自然を征服し,人間至
上が
近代 の価値であると思いみなし,人間が欲望のおもむくままに
世界を支配することに道を開いた人文主義が落ち込んだ隘路を凝視し,
。
人間が人間であるとは何かを問い質さんとするものです웖
워
웗
このように
新人文主義 とは,人文学(humani
)がその根本に据
t
i
es
えてきた人文主義(humani
s
m)が 人間至上 の 隘路 に陥っている以
上,人文主義批判に人文学の再生をかけるという一種の逆説を帯びたス
ローガンでした。
また,今年(2
0
13年)開催された 新しい人文学の可能性 と題した本
1
28
北海学園大学人文学会
学部
立記念シンポジウム
立 20周年記念シンポジウムにおいて,パネリストの一人,宗教学者
の佐藤弘夫も,神や仏や死者を排除し
出する近代の異形性
に
記録
世界の構成者として人間のみが突
を指摘し,人間が至上の存在となった近代への批判
新しい人文学の可能性
を見出していました。
実際,人文主義批判としての人文学という逆説が人文学にその隆盛をも
たらしてきました。その例として,構造主義や 人間の死 を語ったミシェ
ル・フーコーの
古学 を挙げることができるでしょう웖
。それらによれ
웍
웗
ば,人間はもはや,自らの思
間の思
や行動の源泉たる主体ではありません。人
や行動を決定するのは,人間主体を超え出たところにある無意識
的構造(ないしはシステム)です。
さらには,西山が人文主義批判としての人文学について次のように言っ
ていることも注目したいと思います。 多文化主義やカルチュラル・スタ
ディーズ,マイノリティ論,ポスト・コロニアル研究,ジェンダーやセク
シャリティ論,人種やエスニシティ論といった動向とともに,旧来の人文
学を支えていた人間本性が実は西洋中心主義や男性中心主義と不可
であ
。従来の人文学が想定してきた人
ることが批判的に暴露されてゆく…… 웖
웎
웗
間とは決してニュートラルな主体ではなかった,というわけです。またこ
こで,西山がこのように様々な人文学の学問
野を具体的に挙げながら,
ジャック・デリダを引用し,それぞれの学問
野に応じて
は
複数
あって
多元的に展開された
人間の終焉
と指摘していることは重要であ
ると思います웖
。
웏
웗
人間の終焉 が 複数 あるとすれば,それは人文学の各
野において
個別具体的な問題として検証されるべきではないでしょうか。これが本報
告において設定した問いです。本報告では映画美学の立場からイメージの
領域を対象に,ヴァルター・ベンヤミンの写真論やアンリ・ベルクソンの
哲学を援用しながら,この問いを実践してゆきたいと思います。
19世紀に入って,人間がその眼と手の協働によって制作してきた絵画や
彫刻といったイメージの領域に,カメラという装置によって自動的に形成
される,写真や映画といった機械的イメージすなわち
1
29
映像
が登場して
北海学園大学人文論集
第5
8号(2
0
15年3月)
きます。本報告の結論を予め申しておけば,イメージの領域における
間の死
はこの
映像
人
によってもたらされた,というものになるでしょ
う。
1
1
-1
人間の死
と
視覚的無意識
視覚的無意識
まず,さきにふれたフーコーが
問として
精神
析
人間の死
を語り出すのに特権的な学
を挙げていたことに注目したいと思います。人間は
知の主体などではなく,自ら意識することのできない
れ,それに従属するものとして,精神
の精神
無意識
に支配さ
析では位置付けられるのです。こ
析で語られる無意識に,イメージの領域において匹敵するものは
何でしょうか。ここで,ベンヤミンの言う
視覚的無意識
を取り上げた
いと思います。ベンヤミンは次のように言っています。씗足を踏み出す>
ときの何
かの一秒における姿勢となると,誰もまったく知らないに違い
ない。写真はスローモーションや拡大といった補助手段を
って,それを
解明してくれる。こうした視覚における無意識的なものは,写真によって
それは衝動における無意識的なものが,
精神
はじめて知られる。
析によっ
てはじめて知られるのと同様である 웖
。
원
웗
肉眼が意識できない数
の一秒の世界を写真は露呈するのですが,その
意識できないほど素早い瞬間を
視覚的無意識
とベンヤミンは呼ぶわけ
です。
カメラが捉える世界は人間の意識できない瞬間を撮影するのだから,
人間の意識できる領域を超え出ている,と言えるでしょう。カメラが見せ
るのは人間を超え出る知覚なのです。これはもはや人間主体が知覚してい
る世界ではありません。この人間を超え出る知覚,それは映画評論家で映
画理論家のアンドレ・バザンの言葉を借りれば,人間
不在
の世界の眺
めです。写真はカメラという装置によって自動的に形成されるので,その
形成過程には人間が介入しません。それで,バザンは写真についてこう言
うのです。 すべての芸術は人間の存在に基づいているが,写真においての
130
北海学園大学人文学会
立記念シンポジウム
記録
みわれわれは人間の不在を享受する 웖
。このように写真は人間的なものが
웑
웗
欠落しているので,他の芸術のように人間の意識に規定されることなく,
逆にその無意識を露わにするのです。たしかに写真にもフレーミングや
シャッターチャンスなどを通じて人間的なものが介入してきますが,像そ
のものは自動的に形成されるしかありません。この写真が見せる人間を超
え出た人間不在の無意識の世界に,イメージの領域における
人間の死
を見ることができると思います。
12 連続写真とそれを引き継ぐイメージ
次に,具体的に写真作品を取り上げて,この写真における
を
人間の死
察してゆきたいと思います。
まずは,イギリス生まれのアメリカの写真家イードウィアード・マイブ
リッジの連続写真を挙げましょう
(図1)
。これは,1
9世紀末に世界で初め
て,数千
の一秒の馬の姿勢を撮ったものです。当時の人々は初めて眼に
する瞬間的な馬の姿勢を無様と感じ取り,それに驚いたと言います。この
マイブリッジの写真は複数のフレーム
(コマ)
からなるものですが,エティ
エンヌ=ジュール・マレーは継起する複数の瞬間が一つの画面に共存する
写真,すなわち クロノフォトグラフィ を開発しました(図2)
。マレー
図1
イードウィアード・マイブリッジ
1
31
疾走中の馬
1
8
78年
北海学園大学人文論集
図2
第5
8号(201
5年3月)
エティエンヌ=ジュール・マレー
ギャロップする馬
1
8
8
6年
はフランスの生理学者で,このような連続写真を活用し肉眼では把握でき
ない動物の運動を研究しました。フランスの哲学者で美術
家のジョル
ジュ・ディディ=ユベルマンは,残像が尾を曳くようになっているこのよ
うな写真を 視覚的に尾を曳くもの t
。
r
a
썘
ı
nevi
s
uel
l
e と名付けました웖
웒
웗
ご覧になっていただければお
かりになるように,この種の写真には映画
のスローモーションを見ているかのような印象を受けます。
さて,このような
視覚的無意識
を炙り出した写真は運動表象すなわ
ち運動の描き方に大きな影響を与えます。
マイブリッジの写真は,
テオドー
ル・ジェリコーが描いたような走る馬の姿勢(図3)を絵画から駆逐して
しまいました。前肢は前へ後肢は後へと肢を思いっきり伸ばしながら宙を
駆ける馬の姿勢は写真と異なるので誤りだ,ということになったのです。
これまで芸術家の肉眼が捉え描いてきた馬の姿勢が否定されたのです(し
かし,芸術家が自らの印象に基づいて描いた姿勢こそ正しい,と彫刻家の
オーギュスト・ロダンはジェリコーを擁護しましたが,このことについて
。
本発表ではこれ以上ふれる余裕はありません)
たとえば,エドガー・ドガはマイブリッジの写真を研究し,それを巧み
1
32
北海学園大学人文学会
図3
立記念シンポジウム
テオドール・ジェリコー
図4
エドガー・ドガ
エプソムの競馬
競走馬
1
33
記録
1
8
2
1年
18
8
5
1
8
8
8年
北海学園大学人文論集
第5
8号(201
5年3月)
図5 マルセル・デュシャン
階段を降りる裸婦 No.
2 1
9
1
2年
に彼の絵の中に導入したことで有名です
(図4)
。また,マルセル・デュシャ
ンは,マレーの残像が尾を曳く型の連続写真に触発され,キュビズム的に
割された画面に時間軸を導入します
(図5)
。スピードの美学を追究した
未来派も,マレー型の連続写真の影響の下,デュシャンと同様にキュビズ
ム的な画面
割に時間軸を導入しています(図6)
。ここに未来派の画家
ジャコモ・バッラの絵を挙げましたが,このバッラの絵からは日本のマン
ガ家・赤塚不二夫が描くキャラクター,たとえば
レレレのおじさん (図
7)の走る姿を思い出さないでしょうか。 マンガ学 を著したスコット・
マクラウドは,マンガがデュシャンや未来派における運動表象を活用した
ことを指摘しています웖
。赤塚はおそらく連続写真を意識していたでしょ
웓
웗
うし,デュシャンや未来派も知っていたでしょう。さて,さきに連続写真
はスローモーション的効果をもつと言いましたが,マンガにおける連続写
1
34
北海学園大学人文学会
図6
図7
ジャコモ・バッラ
赤塚不二雄
立記念シンポジウム
記録
鎖につながれた犬のダイナミズム
天才バカボン
19
6778年
135
1
9
1
2年
Ⓒ赤塚不二夫/フジオプロ
北海学園大学人文論集
第5
8号(2
0
15年3月)
真的スローモーションの美しい例は,石ノ森章太郎の
仮面ライダー
に
見ることができます
(図8)
。このような連続写真的表象は眼に見えないほ
どの素早い瞬間を描いているので,他方で,とてつもないスピードの表現
にもなり得ます。そこにスピード線,すなわち対象の動きと速さを示す線
を描き足せばよいのです。それだけで,仮面ライダーはものすごい早さで
加速度的に落下してゆくようになります(図9)
。
以上,視覚的無意識がいかに運動の描き方を変えたかを見てきました。
もちろん絵を描くのは人間ですが,人間が写真を通して人間の意識を超え
出た無意識の領域に接触したことが,大きく運動の描き方を変えてしまっ
たということです。連続写真による視覚的無意識の発見がなければ, レレ
レのおじさん
の走り方は存在しなかったかもしれないのです。
さて,この写真が見せる 視覚的無意識 ,つまり人間が意識できないほ
図8 石ノ森章太郎 仮面ライダー 19
7
1
1
9
7
2年,
スローモーションで落下する仮面ライダー Ⓒ石森プロ
1
36
北海学園大学人文学会
立記念シンポジウム
記録
図9 石ノ森章太郎 仮面ライダー ,加速
度的に落下する仮面ライダー Ⓒ石森プロ
どの素早い瞬間の本性とはどのようなものでしょうか。ベルクソンの哲学
はその本性を解き明かしているように思われます。以下,ベルクソンの哲
学を援用します。
2
持続
と
視覚的無意識
2
-1 持続という実在
ベルクソンは不可
の連続的推移,すなわち
持続
を真の実在とみな
しました。持続が連続的であるということは,それが単なる
量的変化
ではなく,瞬間が付け加わる毎に,全体としてその性質を変化させ続ける
質的変化 であることを意味します。それゆえ,持続とは絶えざる新しき
ものの湧出であると言うことができます。持続という実在は,古代ギリシ
13
7
北海学園大学人文論集
第5
8号(201
5年3月)
アにおいて真の実在と呼ばれた永遠不変の本質,すなわち
イデア
とは
全く異なるのです。近代に発明された連続写真は,瞬間毎に絶えず変化し
てゆく運動の姿を見せてくれます。それゆえ,フランスの哲学者ジル・ドゥ
ルーズはこう指摘するのです。この連続写真という近代的イメージは古代
ギリシア的な永遠不変の本質すなわちイデアなどではなく,絶えず
新さ
れる実在すなわちベルクソンの言う持続を表象しているのである,と웖
。
웋
월
웗
実は,ベルクソン自身は連続写真については否定的見解しか述べていませ
ん(しかし,この点について本発表ではこれ以上ふれる余裕はありません)
。
ですが,ドゥルーズはそれでもなお,さきに述べたような理由で連続写真
が持続の表象であり得る,と説きます。この事態を
人間の死
係づけて捉えることができるでしょうか。
このことについて
ベルクソン自身がその著書
笑い
とどう関
えるために,
において論じた芸術論を以下援用した
い,と思います。
-2 ベルクソンの芸術論( 笑い
2
より)
ベルクソンによれば,芸術の機能は事物の
一般性
ではなく
個別性
。通常,人間は自らの生の利害関心
individualite
썝 を示すことにあります웖
웋
웋
웗
に関わるものにだけ注目を向けるために,事物から
有用な印象
しか受
け取りません(ベルクソンにとって人間とは本来的にプラグマティックな
存在です)
。その結果, 人間にとって無用な差異は消し去られ,人間に
웖
웋
워
웗
とって有用な類似は強調される ことになります웖
。この 無用な差異
웋
웍
웗
が事物の 個別性 であり, 有用な類似 がその 一般性 に他なりませ
ん。しかし,芸術家は自らの生に背を向けることのできる特別な存在であ
るがゆえに, 人間にとって無用な差異 すなわち事物の 個別性 を看取
し,それを作品化することができます。それゆえ,芸術は差異に満ちた実
在を 露呈する と言えるのです웖
。この 人間にとって無用な差異 な
웋
웎
웗
いしは
個別性
とは,絶えず変化し続ける持続という実在の有様を指す
でしょう。ベルクソンは言っています。 画家がカンヴァスの上に定着する
ものは,画家がある場所,ある日,ある時刻に再び見られないであろう色
1
38
北海学園大学人文学会
立記念シンポジウム
記録
で見たものである 웖
。
웋
웏
웗
日々の生活に追われる人間は,自らの生にとって意味あるものにしか注
意を向けず,刻々と変化する細やかな異なりを深く味わうことはないで
しょう。日常生活にとって,そのようなことは不必要なのです。しかし芸
術が露わにするのはそのような繊細な差異であり,それこそが真の実在,
すなわちリアルなのである,とベルクソンは言いたいのです。連続写真に
ついて言えば,人間は,馬が走っているだいたいのかたちが
でよい。数千
かればそれ
の一秒の世界を見て取る必要はない。人間は,それで生き
てゆくのに不自由はしないというわけです。しかし,カメラはそのような
繊細な差異を写し取ってしまう。なぜでしょう。
2-3 カメラと無関心
それは,端的に言えば,カメラは生への意志をもたない単なる物質であ
るからでしょう。物質でしかないカメラは生きる必要性から解放されてい
るがゆえに,人間にとっては無用な微細な差異を掬い取ることができるの
です。言ってみればカメラは
無関心
なのです。つまり,カメラは生の
利害関心から解き放たれているからこそ,それに囚われてしまっている人
間が見過ごしているような,差異に
れかえる世界のリアルな姿を露呈す
ることができるのです。
おわりに
イメージの
無意識
野において 人間の死 を印し付ける一例として, 視覚的
を炙り出す瞬間写真を,本報告では取り上げました。いままで見
てきましたように,ベルクソンは,芸術に,自らの生の利害関心に囚われ
た人間にその限界を乗り超えさせるような契機を見ていました。ベルクソ
ンは,芸術は人間の知覚を拡大させる,あるいは芸術は人間の
知覚能力
の拡張 ext
。
ens
i
ondesf
ac
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썝
e
sdepe
r
cevoi
r である,と言っています웖
웋
원
웗
メディア学者のマーシャル・マクルーハンは,メディアは 身体能力の
1
39
北海学園大学人文論集
第 58号(201
5年3月)
e
xt
ens
i
on であると述べました。マクルーハン研究者の柴田崇によれば,
マクルーハンの言う ext
ens
i
onには 拡張,外化,
長 の三つの意味があ
ります웖
。ベルクソンはこの場合,芸術に関して ext
웋
웑
웗
e
ns
i
onを 拡張 の
意味で用いている,
と言えるでしょう。
映像は言うまでもなく一つのメディ
アです。この映像というメディアが身体能力の
拡張
であるということ
を指摘することで,本報告を終えたいと思います。
⑴
西山雄二(編著) 人文学と制度 ,未来社,20
13年,7頁。人文学の現状
については,ジャック・デリダ
条件なき大学 (西山雄二訳,月曜社,2
0
0
8
年)
,およびエドワード・E・サイード 人文学と批評の
命
얨デモクラシー
のために (村山敏勝他訳,岩波現代文庫,20
13年)も参照のこと。
⑵
大濱徹也
年報
新しき飛躍の場として
얨 年報
新人文学
刊行によせて ,
5年,2頁。
新人文学 第1号,北海学園大学大学院文学研究科,200
⑶ ミシェル・フーコー
言葉と物
潮社,1974年)の第 10章
⑷
西山,前掲書,1
1頁。
⑸
同書。
⑹
ヴァルター・ベンヤミン
얨人文科学の
人文諸科学
図説
古学 (渡辺一民他訳,新
を参照のこと。
写真小
久保哲司編訳,ちくま学芸文
庫,199
8年,1
718頁。
⑺ Andr
)
,Qu est-ce
썝
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n, Ont
ol
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edeli
magephot
ogr
aphi
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1
9
4
5
(アンドレ・バザ
que le cine
썝ma? 1, Ontologie et langage ,Cer
f
,1
9
5
8
,p.1
5
.
ン 写真映像の存在論 小海永二訳, 映画とは何か [小海永二翻訳選集4]
,
丸善,2
008年,1
88頁。)
⑻
Ge
or
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s Di
di
Hube
r
man,Laur
ent Mannoni
, Mouvements de l air
,
́
ey, photogr
aphe des fluides, Par
i
s
,Gal
l
i
mar
d,2
0
0
4
,pp.
Etienne-Jules Mar
24
22
43
.
⑼
スコット・マクラウド
理論
⑽
マンガ学
얨マンガによるマンガのためのマンガ
岡田斗司夫監訳,美術出版社,1998年,11
6
1
1
7頁。
Gi
l
l
e
sDel
euze
,Cine
썝ma 1-L image-mouvement, Par
i
s
,Mi
nui
t
,1
9
8
3
,p.
17
.
(ジル・ドゥルーズ シネマ1*運動イメージ 財津理他訳,法政大学出版局,
2
0
08年,1
5頁。
)
썶 He
쑰
( 笑い
nr
iBe
r
gs
on,Le r
ir
e, 19
00
,p.
46
0.
1
40
鈴木力衛・仲沢紀雄訳,白
北海学園大学人文学会
立記念シンポジウム
記録
水社,19
6
5年,117頁)。アンリ・ベルクソンの著作からの引用はすべて Henr
i
́
Ber
gs
on,Œuvr
es (
1959
)
,Edi
t
i
onduCent
enai
r
e
,Par
i
s
,PUF,1
9
9
1による。
썷 Ibid., p.
쑰
(邦訳,11
6頁。
)
5
9
.
썸 Ibid. (邦訳,同上。)
쑰
썹 Ibid., p.
쑰
(邦訳,119頁。
)
4
6
1.
(邦訳,12
2頁。)
썺 Ibid., p.
쑰
4
64
.
썧 H.Ber
쑰
( 思想と動くもの
gs
on,La pense
썝e et le mouvant, 1
934,p.
1
3
7
1
.
矢内原伊作訳,白水社,196
5年,17
2頁。)
써 柴田崇 マクルーハンとメディア論
쑰
얨身体論の集合 (勁草書房,2
0
1
3年)
の第5章 エクステンションの系譜学 を参照のこと。
1
41
タイトル1行➡3行どり
タイトル2行➡4行どり
人文学としての歴
∼日本宗教
学
研究を素材に∼
追
塩
千
尋
1
シンポジウムのテーマとして掲げられた
り開く上で歴
人文学の新しい可能性
を切
学はどのような役割を果たし得るのかという関心に立ち,
2013年5月に行われた記念シンポジウムの議論(論点の一つに学問の
化の必要性が強調されていた,と受け止めました)も踏まえて
合
えてみま
す。
歴
学は旧一般教養科目においては,社会科学科目群に
した。しかしながら,
学科は通常は文学部に置かれ,人文科学の一
とも位置づけられています。このように,対象とする
科学も含む多
野性に歴
類されていま
野
野によっては自然
学の特質があると思われます。そうしたことを
念頭に置き,具体的には筆者が取り組んでいる日本宗教
研究を素材に,
近年顕著になっている脱領域的研究の活発化という傾向を確認し,そこか
ら学び得ることを導き出し,人文学部の今後に果たすべき(果たし得る)
歴
学の役割,という課題に迫ってみたいと思います。
2
本学の人文学部は日本文化・英米文化の2学科で構成され,旧来型の歴
学・文学・哲学などからなる講座制をとってはいません。そのため,そ
れぞれの専門
野を掘り下げて深めていく,という部
がカリキュラムの
上ではこれまではどうしても希薄でした。20
14年4月からスタートした新
1
42
北海学園大学人文学会
立記念シンポジウム
記録
カリキュラムでは特論などの新設や早い時期からの演習履修などで一定の
改善が目指されていますが,一方では両学科の垣根を出来る限り取り払っ
た両学科共通の科目群(人文学概論,人文学演習など)を設置したことも
ひとつの特質となっています。専門を深める道が一定程度保証されてはい
ますが,学生は従来以上に学際的・脱領域的学習が求められ,指導に当た
る教員もそうした側面への模索が必要とされていくことになりました。し
かしながら,そのことの具現化は恐らくは容易ではなく,運用面でも試行
錯誤がしばらく続くことが予想されます。ただ,その具現化には歴
学が
ある程度寄与できそうです。なぜなら,歴
学は本来脱領域的性格を有し
た学問と思われるからで,次に筆者の宗教
研究の経験も
えながらその
ことを述べてみます。
3
前項で学際・脱領域という語を
用しましたが,以前は
いった言葉をよく見かけました。しかし,近年は
学際
にすることがなくなりました。代わりに 脱領域
越境
縁
などの語が
学際
研究と
の語はあまり目
境界領域
周
用される傾向があり,そうした名称が付された研究書類
も増えているようです。用語にこだわるわけではありませんが, 学際 と
いう場合,さまざまな学問
野が協力していますが,共同研究と同様の寄
り合い所帯・寄せ集め的な傾向が濃厚で,必ずしも専門を超えた融合的な
成果が示されていたわけではなかったといえます。その点
脱領域
の場
合は専門性は保持されてはいますが,従来の専門にこだわっていては取り
組まないと思われる対象に取り組んでいる点や,他
的に消化する姿勢が見られる点などに
学際
野の研究成果を積極
とは異なる特色があるとい
えます。
本学の人文学部を構成する学科の名称として冠せられている日本文化・
英米文化という学問は本来無いため,学部開設時から学際・脱領域と専門
性との関係に苦慮し,模索を続けてきました。その模索は今後とも不断に
1
43
北海学園大学人文論集
第5
8号(2
0
15年3月)
続けられていくでしょう。
4
ここで,少々大上段になりますが
えてみます。歴
を
歴
学
という学問の特性について
学は過去の人間の営みを対象とするもので,その営み
宜的に政治・社会経済・文化の
野に
けて研究し,その
体を通
として叙述することを最終目標とした学問,といえます。しかしながら,
一研究者が各
は専門は細
野に平
的に通暁することは容易なことではなく,実際に
化されて研究が進められています。そのことはともかく,歴
学は本来は
合大学的素養が必要な学問であることが知られると思いま
す。
日本において西洋スタイルの近代的歴
学が成立する以前,歴
学に近
い学問は誤解を恐れずに言いますと本居宣長らにより確立された国学で
あったと思われます。宣長は国学の対象を
学・歌の学び
神学・道の学問・有職の学・
などとしました( うひ山ぶみ )。この定義を現在の学問
野に置き換えますと,古代 ・言語学・文学・思想 ・宗教学・書誌学・
民俗学などになろうかと思われます。まさに国学は,人文学部の基本的な
構成要素である哲学・
れます。歴
学・文学を兼ね備えていた学問であることが知ら
学の母体が国学といえるのなら,歴
学は人文学部の学問そ
のものといえることになります。それは言い過ぎかもしれませんが,例え
ば幕末・維新期の国学者伊達千広が 大勢三転
(1
84
8年)なる日本通
を著したことの意義はもっと追究されてよいのかもしれません。
当初国学はこれらの要素を統合していたのですが,一個人がすべてを体
現するのは稀で,徐々に各要素が
ていきます。
化して今日の歴
学などの学問となっ
化していく境目となる時期は,物集高見(1
84
7
∼1
9
2
8)や
芳賀矢一(1
867∼19
2
7)らの昭和初期辺りで,山田孝雄(1
87
3
∼1
9
5
8)が
最後の国学者といえるかもしれません。彼らは通常は国学の系譜を引く国
文学あるいは国語学者に
類されていますが,実際の業績はそれらでは
144
北海学園大学人文学会
類しきれない
立記念シンポジウム
記録
野に及んでいます。
さて,ここでまた歴
文化の営みの中で
す。一口に文化
学の問題に戻りますが,人間の政治・社会経済・
合的素養が要求されるのは文化
であると思われま
とはいっても,その内容は思想・宗教・学問씗江戸期か
らは文系・理系・医系などさらに細
化>・文学・芸能・芸術・工芸・教育・
風俗など文字通り多岐にわたっています。これらの
野はかならずしも歴
学を専門としない研究者により,それぞれの立場から研究が進められて
いる
野でもあります。政治・社会経済・文化の三
とは容易ではありませんし,その中の一
野すべてに通じるこ
野とはいっても文化
野の大
変さは推して知るべきでしょう。
5
近年筆者は脱領域的研究に関わる書評,あるいは書評的論文に取り組む
機会がありましたので,話を具体的にするためにもそのことに触れたいと
思います。書評文の掲載誌や内容のポイントなどは次の通りですが,詳し
くはそれぞれを参照してください。
①上横手雅敬
本書は歴
権力と仏教の中世
を時代
として
(
学雑誌
1
19
-6
,2
010年6月)
合的に捉えるためには政治
の中に文化
を取り入れる必要があるとして,思想・仏教・文学(和歌・説話・歴
物語など)
・美術(彫刻・絵画)などのことに触れています。
②舩田淳一
神仏と儀礼の中世 (
学雑誌
本書は寺院圏に伝来する仏教・神
12
1
-2
,2
0
1
2年2月)
の儀礼にかかわる聖教を対象とし,
儀礼の諸相を通して顕れる中世的な神・仏の宗教世界に迫ろうとした書
です。新ジャンルの
資料である寺院聖教を歴
学の立場ではあります
が,文学・仏教学などの脱領域レベルの視点から消化して研究した成果
が反映されています。
③ 日本仏教通
の枠組み
(北海学園大学
人文論集
얨 新アジア仏教
日本編刊行に寄せて
5
1,20
12年3月)
1
45
얨
北海学園大学人文論集
新アジア仏教
第5
8号(201
5年3月)
(2
01
0∼201
1年)を素材に,旧 アジア仏教
(1972∼76)との比較を通じて日本仏教
す。そこでは
の多
新
の特色として,歴
の通
の課題を
えたもので
学・文学・仏教学・美術
など
野の研究者による協力がなされていることを指摘しました。
④ 日本宗教
の構図
学園大学
人文論集
新体系日本
얨新体系日本
宗教社会
に寄せて
얨(北海
5
5,2
013年8月)
宗教社会
(2012年)と旧体系日本
(1964年)を比較し,日本宗教の通
の課題を
叢書 宗教
えたものです。 旧 は
日本宗教の中でも教義・組織ともに整ったもの(仏教が中心となるが)
を中核におき,それらを寄せ集めた宗教
となっています。 旧 の課題
は色々ありますが,日本・日本人にとって宗教とは何であったのか,と
いう問いが不足しています。
一方, 新 は社会に溶け込んだ宗教の姿を描くことにより 旧 の課
題の克服が目指されています。異なる宗教の寄せ集め,といった印象を
避けるためか教義・哲学は取り上げてはおらず,そのために書名が
教社会
宗
になったとも思われます。 新 には豊富な各論が設けられて
おり,そこで取り上げられたテーマに脱領域的方法(日本人にとって宗
教とは何であったのかという問いへの解答)が最もよく顕れています。
それらのテーマを列挙しますと,寺社と社会・権力との関係,金融・信
用に関して機能した仏教の権威,寺院のアジール性,宗教の持つホスピ
タテリティ,女性と宗教,葬送と墓制,人間が集う場(市場など)と宗
教施設や宗教者との関連性,などになります。
なお,他人の研究書の書評ばかりでなく,筆者自身のこれまでの脱領域
的といえる取り組みは, 日本中世の説話と仏教 (1
99
9年)及び 中世説
話の宗教世界 (2
013年,いずれも和泉書院)にまとめてありますので参
にしてください。書名からは国文学の書という印象をもたれるかもしれま
せんが(実際に通常の書店では歴
,歴
図書館でも同様のようです)
書の棚には配架されておりませんし,
学の立場から
料としての説話文学の有
効性を探るとともに,説話を通じて中世における仏教信仰の内実に迫ろう
1
46
北海学園大学人文学会
とした試みです。文化
の一
立記念シンポジウム
野である宗教
記録
に取り組んだものですが,
国文学の研究成果に大きく依拠しています。
6
まとまりのない中途半端な文章になりましたが,様々な専門
を
動員して進めねばならない歴
つもりです。そのことは歴
学の
学が本来
野が宗教
野の成果
であることを述べた
合的なものであり,学際あるいは
脱領域であってもそれらの領域を推進するのにふさわしい性格を有した学
問であることに関係しています。そうした性格ゆえ,専門に特化しないカ
リキュラムを掲げた人文学部においては,基幹的な科目になり得るのでは
ないかと思われます。だからといって,歴
学が
諸学の王
であるとい
うつもりはありません。他の学問にも濃淡はあっても,脱領域的対象に関
わりうる要素があると思われます。今回の人文学部のカリキュラム改訂の
一つの方向性(あるいは特質)が脱領域にあるとし,そして策定したカリ
キュラムが文字通りその目的を果たすためには各専門領域はどのように寄
与しえるのか,ということについてそれぞれの立場から発言しかつ具現化
を進めていくことが必要と思います。
2015年から開始される人文学演習においてどのように学生を啓発し学
習効果を高めることが出来るか,という点が差し迫った当面の課題となり
ます。各教員にとっては自己の専門との関係が問われることになり, 脱領
域
を目指すうえでの最初の試金石となるでしょう。
씗付記>
報告当日は時間の制約もあり,省いたところも多く結論などが曖昧なこ
とも含めて極めて中途半端な報告となりました。シンポジウムから一年経
過して文章化してみても不十
な状況は変わらないのですが,当日の報告
よりも多少は肉付けしてみました。
また,当日頂いたいくつかの質問・コメントのうち,あまり日本の事を
1
47
北海学園大学人文論集
第5
8号(201
5年3月)
強調するのはいかがなものか,といった類のこともありました。報告者の
能力から日本に即したものになりましたが,学部カリキュラムの課題に関
しましては多少普遍化できるのでは,と思っております。
1
48
タイトル1行➡3行どり
タイトル2行➡4行どり
地域に学ぶ人文学
村
1
中
亮
夫
はじめに
本報告では,地理学の立場から,これまで本学部の教学で中心的な役割
を担ってきた哲学,歴
学,文学,言語学を中心とする人文教育において,
新たに地理学的な物の見方や
え方,そして地理学的な方法論がどのよう
に活用できるかについて話題を提供したいと思います。 2
0
1
4北海学園大
学大学案内 ご覧いただくと
かる通り,本学部は 2
0
1
4年度からの新カリ
キュラムにおいて, 言語研究や哲学・歴
学・文学などの文献研究
を中
心に据えつつも, フィールドワーク(以下,FW )や実地研修 による教
育を展開し,人間が
自然ならびに他者との共生を実現するような,新し
い人文学的な知のあり方
動を本学部では
を探求することを明確にしました。この知的活
新しい人文学
ないしは
新人文主義
と呼び学部の教
育カリキュラムにおいて具体化すべく,新カリキュラムにおいては専門科
目を 言語文化
思想文化
歴
文化
環境文化 の4つの科目群に
けました。そのなかで,地理学は 環境文化 科目群に
2
類されています。
地理学とは
地理学は,地理学の方法論や学
研究対象を
,
え方を議論する原論と,具体的な
析する各論から成ります。各論は系統地理学と地域地理学か
ら成り,前者の系統地理学は地形や気候などの自然現象を研究対象とする
自然地理学と,政治や経済,社会などの人文現象を研究対象とする人文地
理学に
けられます。系統地理学が対象とする
1
49
析対象は非常に多岐にわ
北海学園大学人文論集
第5
8号(2
0
15年3月)
たるため,対象に応じて地形学や気候学,経済地理学,社会地理学,政治
地理学などの下位領域が設けられています。これらの下位領域は,それぞ
れ地質学や気象学,経済学,社会学,政治学などの系統的な諸学問領域と
密接に関連しています
(ハーツホーン 1
957
)。また,地域地理学は地誌学と
も呼ばれ,ある特定の地域に着目し,当該地域の自然や経済,社会,政治
など,様々な側面から地域の特性を明らかにする,系統地理学と対をなす
学問領域です。
たとえば,環境問題に対しては,環境経済学や環境社会学,環境
など
の諸学問領域からアプローチされていますが,地理学ではそれらの諸学問
領域の特に地理的な側面に着目した研究が取り組まれています。
具体的に,
害問題を
えると,環境経済学では
境社会学では
害による社会的な損失,また,環
害の加害−被害関係に着目した研究が
問題に対して,地理学では,
えられます。この
害がどの地域に広がり,それらの地域はど
汚染源からの距離,自然環境など)にある場所なのかを
のような条件(e
.
g.
議論することが
や 場所
えられます
(ピンチ 1
9
90
)。このように,地理学は 地域
距離
環境 などをキーワードとする〝地理的なものの見方・
え方"に基づく〝
地理学における
え方の学問"なのです。
析資料は,哲学,歴
学,文学,言語学において
析
資料として用いられる文献資料のみならず,地図や写真・映像,統計,実
験・観測データ,被験者(インフォーマント)の意識・語りなど,様々な
データが用いられます。これらのデータは,図書館での文献収集や研究室
内での実験等を含むインドアワークではなく,多くの場合,研究室外に出
てデータ収集を行う FW を通して得られます。具体的には,質的データに
ついては文献・地図・写真等の資料収集や参与観察・聞き取り等の質的社
会調査,また,量的データについては実験・観測・計測等の自然科学的な
データ収集やセンサス・社会統計等の統計資料収集,世論調査等の統計的
社会調査を通して収集されます。
こうして収集されたデータは,質的アプローチと量的アプローチから成
る地理学的なデータ
析の方法によって
150
析されます。前者の質的アプ
北海学園大学人文学会
立記念シンポジウム
記録
ローチには文献・地図・写真等の解釈や参与観察・聞き取り調査データの
質的
析,後者の量的アプローチには実験・観測・計測データや統計デー
タの統計
析,地理情報システム
(GI
)
S:geogr
aphi
ci
nf
or
mat
i
ons
ys
t
e
ms
によるデータ
析(空間
析)が含まれます。GI
Sとは,様々な地理情報
を,位置情報を持つデータ形式で保存し,それらの情報を検索,
析,表
示できる一連のコンピュータシステムです。たとえば, 京童 や 洛陽名
所集 をはじめとする近世期に発行された名所案内記には,
近世京都の様々
な名所が文字・絵画の形式で収録されています。GI
Sでは,これらの情報
は,行方向を場所(e.
清水寺,金閣寺,…,m )
,列方向を名所案内記(e
g.
.
京童,洛陽名所集,…,n )とする行列(地理行列と呼ぶ)の形式に基づ
g.
いて,m 番目の場所が n 番目の名所案内記に掲載されているか否かを1,
0などの2値の数値で判別できるよう整理されます(塚本 2
0
06
)
。そして,
これらの情報は,地図上において,点・線・面の図形データとして表現さ
れます。
3
人文研究への地理学的な方法論の応用
このように,地理学においては様々なデータ
ます。本報告では,これらのなかでも,哲学,歴
析の方法が利用されてい
心とする人文学であまり用いられることがない
料収集方法である FW ,データ
る可能性について,災害
学,文学,言語学を中
析資料である地図や,資
析の方法としての GI
Sの人文研究におけ
研究を事例に紹介します。
風水害,地震災害,火山災害,火災など,過去に発生した災害(歴
災
害)の実態や災害に対する人間の対応を歴
的な視点に基づいて検討する
研究領域は災害
研究の目的は,①歴
研究と呼ばれます。災害
復原や災害の発生要因の検討
(被災実態の復原)
,②歴
災害の
災害の発生時また
は発生後の人々の対応の復原(災害対応の復原)にあります。そして,最
終的には,被災実態/災害対応の復原を通して,今後の防災計画/事業に
活用できる情報,すなわち〝減災の知恵"を抽出することが目的となりま
1
51
北海学園大学人文論集
す。災害
は
第5
8号(201
5年3月)
析資料として過去の地図や絵画,文献資料を通して復原す
る必要性から,すぐれて人文学的な研究課題であると同時に,被災場所/
範囲の特定という地理情報を扱うことから地理学的な研究課題でもありま
す。本報告では,災害
研究における地理学的な方法論の可能性を
える
ために,具体的に,近世期の京都において発生した複数の大火による被災
範囲の復原を地理学・歴
学・
築
の専門的な知見に基づいて
えた塚
本ほか(2
01
2)の研究成果を紹介します。
近世期の火災による被災範囲を復原する基本的な資料としては火災図が
あげられます。火災図とは火災による被災の範囲や状況を描いた図の
称
であり,活字に印刷製本された刊本や,その写本,現代の新聞の号外の前
身ともいうべきかわら版などの形式で作成されています。これらの火災図
には被災範囲を示した地図が描かれていますが,近代的な測量技術に基づ
くものではないため,これらの被災範囲を正確な測量に基づく地図に描写
するためには GI
Sを用いて精度の高い復原図を作成する必要があります。
ただし,火災図は行政文書やかわら版など,多様な目的に基づいて作成さ
れているため,それぞれの火災図に示されている地名や被災範囲の正確性
に,どうしても差が生じます。この問題を解消するために,文献資料や FW
を活用した被災範囲の検証作業が必要となります。
文献資料としては行政文書や日記,物語などがあげられ,これらの資料
からは具体的な被災場所に関する情報が得られます。また,FW で得られ
る情報としては発掘調査や聞き取り調査,現地調査に基づく情報があげら
れ,必ずしも時系列的・地理的に網羅的なデータが得られるわけではあり
ませんが,データの正確性は高いと
えられます。このように,火災図と
ともに文献資料や FW から得られる情報を勘案すると,尤もらしい近世京
都における各大火の被災範囲が復原されます(塚本ほか 2
01
2
,図2)
。
これら復原された各大火の被災範囲と各大火からの被災を免れた
の
布図を重ね合わせると,それらの
造物
造物が各大火の焼け止まった場所
(塚本ほか 2
0
1
2
,図3)
。たとえば,二
に位置している傾向が読み取れます
条城は寛文 1
3年,宝永5年,元治元年の大火で,西本願寺は天明8年,元
1
52
北海学園大学人文学会
立記念シンポジウム
記録
治元年の大火で,本隆寺は享保 1
5年,天明8年の大火でそれぞれ
焼が止
まり鎮火点となりました。このなかで,西本願寺では天明の大火の際に境
内に現存する火伏銀杏(水吹き銀杏)が水を吹いて御影堂を火災から守っ
たとされる伝説が残されています。また,本隆寺は享保の大火・天明の大
火の際に本堂に安置されている鬼子母神の霊験によって
れ, 不焼寺
焼が免れたとさ
の異名を持ちます。
このように,二条城,西本願寺,本隆寺など, 焼が止まり鎮火点となっ
た城・寺に着目すると,それぞれの敷地内には広い空地が存在しているこ
とが
かります。つまり,これら敷地内の空地が防火帯としての役割を担
い,それぞれの場所において
焼が食い止められたのかも知れません。こ
の知見は,都市内における防火帯の重要性を示唆しており,
〝減災の知恵"
として現代的な都市計画においても活用の可能性があるとも言えます。
4
新しい人文学的な学びと地域連携に向けて
以上のような災害
研究を見ても,これまで人文学で採用されてきた文
献学的な方法論に地図・FW・GI
Sの活用を加え,防災計画や防災・安全ま
ちづくりなど,地域連携/貢献を探る新たな人文学の可能性も
す。これまでにも人文学においては自治体
えられま
の編纂や市民講座の開催,博
物館活動の支援,初等中等教育との連携など,地域貢献活動が行われて来
ました。ここに地図・FW・GI
Sを新たに活用することにより,人文学にお
ける知的活動を通して地域連携/地域貢献に新たな可能性を見出すことが
できます。ここでいう地図・FW・GI
Sを用いた人文学的な地域連携/地域
貢献の新たな可能性としては,学生・地域住民・行政・教員間の
流を通
してはじめて実現可能な,①地域情報の収集力の強化,②地域での人的
流の活性化,③地域情報の
析/発信力の強化が想定され,ひいては直接
的・間接的にも,地域の課題解決や学生の学びの場の多様化にも寄与する
と
えられます。
ここで,報告者の研究グループがこれまで京都府亀岡市と連携して取り
1
53
北海学園大学人文論集
第5
8号(201
5年3月)
組んできた安全安心マップ作成のワークショップ(WS)の取り組みを紹介
いたします。このマップ作成の WSは,地域住民が一方的な情報の受け手
になるのではなく,実際に地域を歩き災害や事故,犯罪の危険箇所につい
て調べることで,WS参加者の安全安心に対する関心や危険回避能力の向
上や,地域内での安全安心に対する関心の向上を通して身近な地域の様々
なリスクを低減させる効果が期待できる住民参加型の取り組みです。亀岡
市での取り組みでは,これまでマップ作成の WSに地域住民とともに学部
生・大学院生にも参加してもらい,WSを学びの場としても活用してきまし
た。
マップ作成の WSは,FW とインドアワークによって構成されます。ま
ず FW では,グループごとにクリップボードにはさんだ地図を持って地域
の危険箇所を探して歩き,見つけた危険箇所を地図上に記すと同時に,危
険の種類(災害,事故,犯罪等)に応じて色
けされた付箋紙に危険箇所
についての具体的な内容を記入して地図に貼り付けます。各危険箇所につ
いては,状況を示す写真を撮影します。次に,インドアワークでは,模造
紙の大きさに拡大した地図上に,FW で得られた情報を記入したり撮影し
た写真を貼り付けたりします。模造紙大の地図が完成したら,WSの当日は
各グループ同士の情報を共有すべく,成果発表会を開きます。
WS終了後,これらグループワークで作成された地図に掲載された情報
は GI
Sを用いてデジタル化されます。その過程で,それぞれの場所に関す
る情報は,行方向を場所(e.
○○
g.
差点,△△駅前の道路,…,m )
,列
方向を場所に関する属性情報
(e.
地点コード,地区,危険の種類,危険の
g.
内容,…,n )とする地理行列として整理され,地図上においては点・線・
面の図形データとして表示されます。デジタル化されたデータは印刷業者
を介して用紙に印刷され,住民に配布されます。配布された地図は普段目
に留まる冷蔵庫や部屋の壁などに貼ったり,家族や地域住民同士で危険箇
所に関する意見を
換したりして活用されます。ここで得られた情報は
Webマップとしても配信され,インターネットに接続されていればどこで
)
。
も閲覧できます(ht
/
/s
p/
s
hi
no/s
hi
no2
dx.
ht
ml
t
p:
hi
nocho.
het
e
ml
.
j
1
54
北海学園大学人文学会
立記念シンポジウム
記録
以上のように,人文学的な研究課題の1つである地域の安全安心につい
て,地図・FW・GI
Sを活用するとできることを学習者である学部生・大学
院生の視点から
えると,以下のように整理できます。第1に,地域の危
険箇所を調べる FW では,地域住民の方々との
流を通じて地域を知るこ
とにつながります。ここでは地図の読み方(読図)や聞き取り調査をはじ
めとする FW の手法を学ぶことができます。第2に,FW で得られたデー
タを GI
Sによってデジタル化する作業では,コンピュータリテラシーを向
上したり地図作成の技術を修得することになります。第3に,紙地図ない
しは Webマップとして作成された安全安心マップの
いやすさを地域住
民に実際に聞く作業では,マップが安全安心まちづくりにどの程度貢献で
きるかを検討します。ここでは,紙地図・We
bマップの
いやすさを住民
の皆さんに直接聞くことを通して調査の方法を修得すると同時に,地図を
活用した安全安心まちづくりのありかたを学べます。
5
おわりに
本報告では,これまで哲学・歴
学・文学・言語学を中心とする人文学
で採用されてきた文献学的方法論に加えて,人文教育において地図・FW・
GI
Sをはじめとする地理学的な方法論がどのように活用できるかを紹介
しました。こうした取り組みは,学生の学びの場を拡大させ,多様な学び
の体験をもたらすものと思われます。先般,地誌学受講生のグループ3名
を空知地方の炭鉱遺産をめぐる FW に連れてまいりましたが,そのうちの
1人からは FW の意義として 文献資料にはない,現在の人々の生の声を
聞ける (本学日本文化学科・2年生)という声をもらいました。また,本
学部では長年 日本文化演習 国際文化演習 の授業によって学生をフィー
ルドに連れて行き現地で学ぶフィールドでの体験型学習の実績もありま
す。これら授業の報告書である 日本文化演習報告書
国際文化演習報告
書 には学生の学びの成果が見られますが,これらを見ると FW を通して
が実際の地域でどのように生きているかを肌で感じられたとの声が
〝文化"
1
55
北海学園大学人文論集
第5
8号(201
5年3月)
多いようにも思います。こうした地域における学生の学びの場の
出は,
直接的/間接的に地域振興や地域の課題解決に寄与できると思われます。
さらに,FW の手法自体が汎用性の高い学問的な手法であることから,た
とえば異なるゼミ合同でテーマを決めて FW をするなど,人文教育におけ
る授業内容の多様化に貢献できます。このことは,フィールドを媒介に,
新しい人文学の研究課題でもある自然・他者との共生を探求する機会を
出してくれるものと思われます。
最後になりますが,本報告で紹介した近世京都の大火に関する実証
析
は塚本ほか(2
012
)に基づくものであり,安全安心マップの取り組み事例
は村中ほか(2
012
)や村中ほか(2013
)をはじめ報告者の研究グループが
これまでに取り組んできた成果の一部を整理したものです。本報告にあた
り貴重な資料を提供してくださいました塚本章宏先生(徳島大学大学院ソ
シオ・アーツ・アンド・サイエンス研究部)に感謝申し上げます。
文
献
塚本章宏 近世京都の名所案内記に描かれた場の空間的 布とその歴 的変遷
-2,2
006,11
3-1
24頁。
GI
S 얨理論と応用 14
塚本章宏・中村琢巳・谷端郷・赤石直美・麻生将・崎田芳晴・長尾泰源・股座
真実子・片平博文・吉越昭久
近世京都における大火被災域の時空間的復原
歴 都市防災論文集6,20
1
2,17-2
2頁。
ハーツホーン著,野村正七訳 地理学方法論
얨地理学の性格
얨 朝倉書店,
1
9
5
7,1
5
5頁。
ピンチ著,神谷浩夫訳
都市問題と
共サービス
村中亮夫・瀬戸寿一・谷端郷・中谷友樹
その規定要因
古今書院,1
9
9
0
,9
2頁。
Web版安全安心マップの活用意思と
얨利用者評価による 析
얨地理学評論 8
5
,2
0
12
,4
9
2
5
0
7
頁。
村中亮夫・谷端郷・米島万有子・湯浅弘樹・瀬戸寿一・中谷友樹
住民参加型
安全安心マップ作成のワークショップが環境介入に与える影響
얨マップに
記載された情報に着目して
얨 地理科学 68
,20
13
,1
14
1
3
1頁。
1
56
北海学園大学人文学会
立記念シンポジウム
記録
全体討議
質問・質疑応答
○司会(濱忠雄氏,元北海学園大学教授) それでは討論に移ります。パ
ネリストの皆さんからご質問があればお申し出ください。
○大石
私から,ほかの3名の先生にご質問ですが,私以外の先生方のお
話では,学際的とか,脱領域的な問題が共通の話題として出てきたと思い
ます。村中先生の災害のお話もそうですし,さまざまな学問の領域の人々
が集まって一つ何かなし遂げる時に,学際的とか脱領域的とかいう問題が
出てくるのだろうと思いまして,その件についてのご見解をお伺いしたい
なと新人文学とのかかわりで思ったのです。
○司会
それでは,追塩先生から。
○追塩
脱領域については,説明は一応したつもりではあります。これか
らの人文学部の可能性を切り開く道として,やはり横とのつながりが大事
で,横断的なつながりというのは,それぞれ学生にしても,教員にしても
必要であろうと思っています。それを具現化するには,一体どうしたら良
いかという問題で私はお話ししました。
○村中
私は,追塩先生のご発表を聞いていて,歴
学における時間的な
視点と,地理学における空間的,ないしは地理的な視点とを同時に加味す
ることで,歴
学と地理学に学際的な接点を見出せると思いました。例え
ば,追塩先生が題材にしておられた中世説話を話題にして,実際に現地を
歩くフィールドワークを実施し教育や研究を展開する,そういった可能性
をもし議論できたらおもしろいと思いました。
○本城
僕は大石先生の発言について聞きたいことがあります。例えば追
塩先生がおっしゃっていた,脱領域はもしかすると中途半端になって寄せ
集めになってしまうと事はあると思います。ただ僕が先ほど紹介したよう
な,ハリウッドを描いた小説を
析するときに自然に脱領域しているので
す。つまり,ハリウッドという映画のメッカを舞台にした小説ということ
で,映画と文学というふうに,
野を越境的に横断的に俯瞰的にまたぎな
がら研究しているという気はします。
1
57
北海学園大学人文論集
○司会
第5
8号(2
0
15年3月)
ありがとうございました。質問紙をいただいた中からお願いした
いと思います。本城先生にお二人から
ハンドアウトの文化の力学と新人
文学の点に関して,
その文化の力学は文化そのものに内在する力学ですか,
それとも文化研究の力学ですか。前者であるとすれば,カルチュラル・ス
タディーズは,それを解き放すということになると理解してよいでしょう
か
とのご質問がありました。
○本城
文化の力学というのは,土屋先生のおっしゃるように文化そのも
のにある種の力学は存在していると思います。例えばヒップホップで言う
と,ニューヨークのブロンクスで
生しましたけれども,すぐに西海岸に
波及したり,またはフランスや日本・韓国へもヒップホップという文化は
ダイナミックに移動しています。ですから文化そのものの力学をきちっと
とらえるのが,カルチュラル・スタディーズではないかと。その研究のス
タイル自体も,その文化のダイナミックスをとらえるようなスタイルだと
思います。
○土屋(土屋博氏,元北海学園大学教授) ありがとうございました。そ
れは,もしそうであるとするならば,インターディシプリナリーからトラ
ンスディシプリナリーへというこの矢印が気になりますが,これは果たし
て一方的な矢印になるのでしょうか。
最近,日本あるいは世界の宗教研究の中で,非常に問題になっている宗
教概念を再
しています。したがって先ほどの話との連関でいきますと,
宗教文化概念には,実はインターディシプリナリーとトランスディシプリ
ナリーの両方あると思うのです。これは確かに宗教という従来の概念を越
えようとしますが,もちろん宗教だけ否定するわけでは決していない。そ
してさらに周辺のぼけた領域を非常に大事にしながら,何か問題をつかみ
出そうという試みだと。したがって,この一方的な矢印は説明いただく必
要があると思います。
○本城
おっしゃる通りだと思います。文学研究から文化研究に移ってき
ましたが,でも文学研究もするという風に双方向に
えているのです。こ
のインターとトランスも,矢印両方であったほうがいいと私も
158
えます。
北海学園大学人文学会
○司会
立記念シンポジウム
記録
ありがとうございました。それでは別の質問に移らせていただき
ます。土屋先生から大石先生に対して, 人間を越えている知覚という表現
には既に人間についての一定の理解を前提しているのではないでしょう
か。人間には,みずからをとらえ切ろうとするイメージを絶えず破り越え
る性格を本性以上持っているのではないでしょうか
というご質問があり
ました。いかがでしょうか。
○大石
土屋先生のおっしゃる通りで,人間がとらえられないものを映像
がとらえているということなのです。だからもし人間的なものを前提とし
ないとするならば,人間以前の経験,人間不在の経験と言っても良いのだ
ろうと思うのです。例えば,映画評論家のアンドレ・バザンは,初めてイ
メージの領域において,映像が登場したことで人間不在の光景を我々は目
の当たりにすることができたと言っています。
○土屋
ありがとうございました。わかりました。研究方法つまりメソッ
ドが対象を切って切り
けていくというのは,実は対象自体は非常にダイ
ナミックな形で動いていて,メソッドでこちらに近づこうとしても十
に
切り抜けられないようなものがあるということを,むしろ大事にするとい
うのが最近の
え方ではなかろうかという気がするのです。つまり,人文
学,新人文学を学問として,今後一種の方法としてやっていこうと
える
と,それ自体を狭めてしまうような可能性ってあるのではなかろうかと。
いつもそのわからないものに向かって自
が開いていく事を人文学は大事
にしているから,その手かがりとし,映像が
えられるのかどうかという
ことをお聞きしたい。
○大石
私も人文学について問いを投げかけることで,そこに何かしらの
可能性を見出したいと持っております。人文主義の批判という逆説の中に
人文学の再生があるのでないか。それを個別的に映像ということで
える
と,今日発表したようなことが言えるのではないか。僕は先生のおっしゃ
ることを実践したつもりであったのです。
○司会
ありがとうございます。差し当たりはそういう応答ということに
1
59
北海学園大学人文論集
第5
8号(201
5年3月)
とどめさせていただきます。他にご質問はございますでしょうか。
○郡司(郡司淳氏,北海学園大学教授) 追塩先生に伺いたいと思います。
レジュメに,歴
学の特質として過去の人間の営み全てを対象とするとい
うことが書かれていますが,これは過去の無数の事実全てを,その対象と
するということには恐らくならないのだと思うのですね。そうすると,歴
学というのは,現在から見て有用な過去,あるいはあるべき社会,未来
から見て有用な過去を取り上げるのではないかと思うわけです。要は,歴
学は人間を描き出してこられたのかという問題。今,歴
離れというの
は,過去を学ぶことが現在を理解することにならないのではないかという
か,一体過去を学んで何になるのだという,そのような素朴な疑問がある
のではないかという気がします。そういった点で,もう少しこの問題をわ
かりやすく説明していただければと思います。
○追塩
確かに,歴
われることを歴
というのは,過去の人間の営みの中から必要だと思
家が
実として選んで構成していくということですか
ら,少し言葉足らずではありました。それで人間の営みというのは,
的に政治とか経済とか文化とかに
けていますけれども,その
ということになると思います。ただ,今までの歴
宜
体が人間
というのは,政治とか
社会経済を軸にするのが主流であって,文化の面というのは手薄であった
という批判は免れない。文化という多岐にわたっているものをとらえるこ
とが大変ではあるというのが発言の趣旨でした。
○司会
ありがとうございました。他にご質問はありますか。
○柴田(柴田崇氏,北海学園大学教授) 技術というか方法論・論理の問
題ですけれども,技術とサイエンスの発展によって,カメラのスピードを
落とすことによって,あるいはハイスピードによって人間の知覚を拡大し
て,より見えないことが見えるようになってきたんですよね。
○大石
おっしゃる通りで技術の問題です。しかしそれをアートの領域に
までどう導くかとなると,やはり人間の手がどこかで加わってくるのだと
思います。その人間的なものと人間を越えたものの接合の中に新しいアー
1
60
北海学園大学人文学会
立記念シンポジウム
記録
ト,その技術に支えられたアートがあるのだろうと思います。その技術の
進歩に対応した新しい人文学があり得るのであって,
このようなあり方が,
人文学に今求められているのだと思います。
○司会
主に先生方からの質問に答えるというような形で進んでいるわけ
ですけれども,学生の皆さんも大学院生の方もいらっしゃる。どんな議論
がされているかということ自体が勉強になるということもあるかと思うの
です。これどうしてだろう,何だろうというふうに思われたことをぜひ質
問していただきたい。安酸先生の質問に移ります。
○安酸(安酸敏眞氏,北海学園大学教授) 今日,人文学が学問の世界で,
まさに周縁化しています。そこに,私たちが人文学の新しい可能性という
ことを議論する出発点もあると思います。やはりそこは科学技術の進歩が
人文学というものを追い抜いてしまって,今や人文学というのは窓際族の
ようになっているわけです。
そもそも 1
4世紀中ごろ以降 1
6世紀ぐらいにかけて人文学が起こってき
ますよね。でもその人文学というのは実は神学というものを体験して出て
くるのです。神学の行き過ぎ,あるいは神とかというものが前面に出過ぎ,
人間性というものがどこかその隠れてしまったような状況が続いて,それ
の反動として人間が表に出てくる。でも,それがどんどんどんどん近代に
なってくると,やがてその神を排除するような形の人間中心のあり方とい
うものが,いつか今度は人間が不在であるような状況をもたらしてきてい
るわけです。そういうことに対して,人文学はどうあるべきなのかについ
て,もう少し何か語っていただきたい。
○司会
いかがでしょうか。どなたでも結構です。
○大石
現在,映画研究はものすごく盛んになっています。僕が学生のと
きは,映画研究はまさしく周縁でしかなったのですが。今では,映画研究
はスタンダードで,オーソドックスな学問みたいなふうに思っている学生
が多いのだろうと思います。きょう僕は漫画も
いましたが,現在はさら
には漫画やアニメの研究も盛んになってきています。そう
1
61
えると,学問
北海学園大学人文論集
第5
8号(201
5年3月)
の領域では盛り上がり気味の人文学も,他方で映画や漫画やアニメのよう
な今まで周縁的であった
野を取り込むことで,盛り上がりを見せている
のも確かなのです。新しい人文学の可能性は,こんなふうに今まで取り扱
わなかった
野へと視野を広げることにあるのではないでしょうか。
○司会
ほかの方,どうぞ。
○追塩
私と本城先生の報告が関連あるというご指摘があったのですけれ
ども,私のほうでは脱領域に類する言葉として周縁という言葉があるとい
う理解は持っています。つまり何か中核があって,その周辺部に人文学が
位置づけるという意味ではなくて,人文学は中心にあるのだけれども,そ
の周縁部,いわゆる別な言葉で言えば,隣接諸科学と昔は言った言葉です
けれども,それとの関連というものを,その垣根を取り払って研究してい
くという方向性は脱領域という言葉であらわされる。
その周縁という言葉,
もっと積極的に,人文学が周縁に置かれているということではなくて,今
の隣接
野との関連をどう
えるかという,そういう理解もできるのでな
いかと思います。
○本城
僕は周縁というか,端っこにいるのが好きなのでついそう言って
しまうのですけれども,それをネガティブにとらえない方法もあると思い
ます。確かに安酸先生がおっしゃったように,ヨーロッパの大学は周縁か
ら始まって,同時に法学や医学も始まっていて,有用な学問とそうでない
人文的な学問と並行してあるような気がします。中心と周縁ということで
言えば,人文学は有用性の中心にはいないけれども,もっと大きな視点で
の学問や知の世界では中心にいると視点を変えてもいいという気がしま
す。
○司会
ありがとうございました。もう一つ,人文学部のカリキュラムと
の関連,橋渡しに関するご質問がありました。パネリストとしては,本城
先生,追塩先生にご質問ということです。
○本城
僕は人文学部ではまだ新米なので,カリキュラムに学部の理念が
どのように反映されているか
からないのです。例えば文化研究入門とい
1
62
北海学園大学人文学会
立記念シンポジウム
うのは,15回の授業の中で,各学科のいろいろな
がご自
の専門の話をされますので,これ
記録
野を研究されている方
野横断的な科目かなという気
がします。
あともう一つ,ある日文の先生と飲みながら話したのですけれども,日
文のその方のゼミと僕のゼミとで,学生がお互いのゼミを見学したりでき
ればいいという話をしていました。これもある意味では,カリキュラムに
入っていなくても,教員同士の相互の
流で,研究
野を横断するような
内容について学生は学べる気がします。とりあえずそんなことです。
○追塩
既存の科目を有効に
って,そういう方向を目指すということも
可能であると思います。以前
合科目のようなものをつくって,いろいろ
な
野の先生方が寄り集まって講義をしたことがあります。ただ,その形
態は必ずしも成功したとは言えないこともありました。有効に行うのであ
れば数人ぐらいで打ち合わせを重ねて,1回やるごとに反省会を開くよう
な形で,あるテーマのもとに,複数の先生がそのテーマで講義をしていく
といったようなことの試みをやっていかなければ,本当のものにならない
だろうと思っております。
それから,現代では,例えば文学と歴
もともとは
ていますけれども,
やはり文学というのは歴
入っても,国
というのは学問
離し
離していなくて一体のものでありまして,
そのものというふうに
大系という歴
野では
の
えられていた。近代に
料集があるのですけれども,その中に
多くの文学作品が入っているのですね。逆に言えば,古典文学大系シリー
ズの中にも,多くの歴
の
料が入っているのはその名残なのかなと思っ
ております。ですから今でも歴
来はそういうふうに
○司会
とか文学とか
けていますけれども,本
けるものではないだろうと思っております。
ありがとうございました。残念ながら時間が切迫してまいりまし
たので,この辺で討論を終わらせていただこうと思います。今回のシンポ
ジウムを企画する際に,大石先生とお話しした記憶がありますが,次回も
また同じような形式で人文学部の他の先生方や学生の皆さん,あるいは大
学院生の皆さんにご登壇いただき,それぞれ研究しておられることと新人
1
63
北海学園大学人文論集
第5
8号(201
5年3月)
文主義がどう結びつくのかというようなことを発表していただくというの
も大いにあって良いのではないかと思いました。
私は来年3月で退職しますが,そのような機会があればまた出てきて一
緒に討論したいと思っております。長時間にわたりましたが,何はともあ
れ無事シンポジウムを終えることができて安
しております。本日はご参
加いただき,どうもありがとうございました。
(文責:本城誠二)
1
64
近代世界
への 書き加え から 書き直し へ
濱
忠
雄
씗まえおき> 本稿は, 最終講義 (2
014年2月6日)のために用意した
原稿に,アドリブでの補足説明を加筆し,さらに一部修正を施したもの
です。なお,引用文や後注は別として,本文は原稿のままの です・ま
す体 とし,ハンドアウトに挙げた図版は追加の図版を含めて文献・引
用注とともに後注で示しました。
はじめに
私は 2013年9月に拙論の末尾で次のように書きました。
筆者の学生時代の恩師である遅塚忠躬は,歴
か
歴
学は何の役に立つの
家の言っていることはどのくらい確かなのか という 二つ
の根源的な疑問
にたち帰って歴
研究の意義を問い直し,病床にあ
りながら逝去(2
01
0年 1
1月 1
3日)の5カ月前に出版した渾身の大著
学概論 (東京大学出版会,2
010年)
を次の言葉で結んだ。 歴
学
に限らず,おそらく科学一般が,いま,パラダイムの転換を迫られて
いるのではなかろうか。
歴
学の新たな飛翔を若き世代に期待しつつ,
本書をここで閉じることにしよう。(46
4頁)
近代世界
研究もパラダイムの転換が迫られていると言って良いで
あろう。近代世界
の
書き直し
して部
へのあれこれの
である。筆者は,ハイチ
ではなく,近代世界
を中心とする研究をとお
的な 書き加え はできたと自負している。だが, 書き直し
にはほど遠い。 両インド
歴
書き加え
に示された問題観に着目しながら,その
認識をめぐる諸問題を検討した本稿が近代世界
16
5
の
書き直し
北海学園大学人文論集
第 58号(2
0
15年3月)
の端緒となれば,と念じている웖
。
웋
웗
上杉忍先生が昨年出版された
アメリカ黒人の歴
얨奴隷貿易からオ
バマ大統領まで とこの著書を補完する論文웖
はワンセットで必読です。
워
웗
本田
造さんの アメリカ黒人の歴
年)は永らく米国黒人
(岩波新書,旧版 19
6
4年,新版 19
9
1
の教科書的位置を占めてきたものですが,上杉先
生の本と論文は,
先生の恩師である本田さんの本を詳細に検証したもので,
米国黒人
直し
あるいは米国
全体のパラダイム転換に繫がる刺激的な
書き
になっているからです。
私の
き加え
最終講義
では,ハイチ
研究をとおしての近代世界
の諸点を踏まえて,近代世界
の
書き直し
への
書
の見通しを述べま
す。未だ成熟していませんが,当面のドラフトです。
Ⅰ
ハイチ
研究をとおしての
そこでまず,ハイチ
書き加え
研究をとおしての近代世界
への
書き加え
に
ついて,駆け足で触れます。 書き加え の一つは,ハイチ革命研究を開拓
して研究の空白を埋めたことです。
ハイチ革命とは何かを簡潔にまとめると,次のようになります。
ハイチは,1
69
7年以来フランス領の植民地(サン=
ドマングと命名)
となり,
アフリカから連行された多数の黒人奴隷を労働力として砂糖,
コーヒーの世界最大の生産地となって
カリブ海の真珠
と呼ばれま
したが,1791年8月に起った黒人奴隷の一斉蜂起を発端とする解放運
動の過程で 1
7
94年に宗主国フランスの革命議会に奴隷解放を決議さ
せ,さらにナポレオンが奴隷制の再
を目論んで派遣した精鋭軍隊を
打ち敗って 1
80
4年に独立を達成しました。 新世界
でアメリカ合衆
国に次ぐ二番目の独立国,ラテンアメリカ・カリブ海地域では最初の
独立国,そして世界
上初の黒人共和国です。この奴隷解放と独立の
運動をハイチ革命(1
79
1∼18
04年)と
称します。
近年,海外におけるハイチ革命研究は目覚ましい進展を見せています。
1
66
近代世界
への
書き加え
から
書き直し
へ (濱)
とくに 2000年以降の盛行が顕著で,2
00
0年から 2
0
13年までに出版され披
見し得たものに限っても,ハイチ革命あるいは傑出した指導者トゥサン・
ルヴェルチュールをタイトルに含むものが約 3
0冊,その他の関連文献が約
40冊という多くを数えます。それらは,専門的なモノグラフィー,共同研
究や論文集をはじめ,
料集,小説や戯曲から平易な通
や教科書副読本
にいたるまで,じつに多彩です웖
。私がハイチ革命の研究に着手した 1
9
7
5
웍
웗
年当時は参照できる文献が数冊に過ぎなかったことを顧みれば,まことに
隔世の感がします。そして今では,マルセル・ドリニーが
ハイチ革命は
アメリカ独立革命,フランス革命と並ぶ 18世紀の三大革命の一つであ
る웖
웎
웗 とし,ニック・ネスビットが ハイチ革命はイギリスやフランスやア
メリカのブルジョワ革命を超える意味を持っていた웖
웏
웗 と書いているよう
に,ハイチ革命は近代世界
上きわめて重要な出来事だったことが異口同
音に指摘されるようになりました。
私のハイチ革命研究は, 知られざる国 ハイチの歴
の細部にまで
け
入り,カリブの小国ハイチというローカルな場から出発して人文主義や啓
蒙思想, 自由
平等
人権 などのヨーロッパ的な씗知>の意味を問い
直し, フランスとハイチ
西洋
といった一対一の対面関係にとどまらず, 大
(At
l
ant
i
cHi
s
t
or
y)の概念による 世界的横断 による
析や,
脱植民地化や普遍的自由,ポストコロニアルといった問題を視野に入れた
歴
的縦断 による検討などをとおして,より等身大に近い近代世界
を
構想することを課題として,その結果を3冊の単著書웖
などで発表してき
원
웗
ました。詳細は省略しますが,それらの開拓的な研究によって,近代世界
に新たな知見を加えることができたと
えております。
書き加え の二つめは,フランス革命の 人権宣言 (D썝
ec
l
ar
at
i
ondes
i
t
oye
n)の
dr
oi
t
sdelhommeetduc
歴
性
を照射し, 普遍主義
な
るものの内実を示したことです。結論を先取りするなら,次のようです。
しばしば
フランス革命の人権宣言は身
や人種によらない普遍的
な人間の権利を高らかにうたった (東京書籍・中学
歴
教科書)と
されますが,それは 神話 にすぎません。 人権宣言 は,もともと,
1
67
北海学園大学人文論集
第 58号(20
1
5年3月)
女性,子ども,黒人,外国人にも適用することを想定していませんで
した。 人権宣言
とフランス革命には, 人
と
市民
との間の,
男 と 女 との間の, 白人 と 非白人 との間の, 大人 と 子
ども との間の, 文明 と 非文明 との間の差別化を自明のものと
する論理があったのです。
以下に,そのような結論が得られる根拠となる具体例を3つ示します。
最初は,黒人の人権です。これも簡潔に要約すると,以下のとおりです。
フランス革命議会は,イギリスやスペイン,ポルトガルなど黒人奴
隷制の植民地を持っていた他のヨーロッパ諸国,そして独立後も国内
に黒人奴隷制を温存していたアメリカ合衆国などに先駆けて,1
7
94年
2月4日に黒人奴隷制の廃止を決議しました。
この画期的な決議は 人
権宣言 (178
9年8月 26日)の存在なくしてはありえなかったでしょ
う。しかし, 人権宣言 からの論理必然的な帰結として自動的になさ
れたのではありません。179
1年夏に始まるサン=
ドマング
(現ハイチ共
和国)の黒人奴隷による解放運動の展開が一大転機となりました。も
し黒人奴隷の蜂起がなかったなら廃止決議はなかった,と見て良いの
です。加えて,廃止決議は純粋に
ユマニテ
の精神に発したのでは
ありません。
サン=
ドマングがさして重要な植民地でなかったなら廃止
決議はなかった,と見て大過ありません。要するに,廃止決議は
リブ海の真珠 サン=
ドマングの死守という経済的,軍事的,外
カ
的動
機による窮余の策だったのです。他方,ハイチの黒人たちにとっては,
奴隷解放は与えられたものではなく,苦難の末に自ら闘い取ったもの
でした웖
。
웑
웗
次に,女性の人権です。この点では,オランプ・ドゥ・グージュ
(1
74
8
∼9
3
年)と,彼女が 179
1年9月頃に起草した
女性と女性市民の権利の宣言
(D썝
ecl
ar
at
i
ondesdr
oi
t
sdel
af
e
mmee
t
oye
nne。以下では
tdel
ac
i
言 と略す)が
宣
った運命が象徴的です。グージュは, 人権宣言 を下敷
きにして,これに修正を施した独自の
宣言
を作成して王妃マリー・ア
ントワネットに提出し,議会での審議と採択を求めました。
16
8
近代世界
への
書き加え
から
書き直し
へ (
濱)
以下には, 宣言 の主な条文を 人権宣言 との異同が
かるように示
しました웖
。
웒
웗
第1条:女性(f
。 人権宣言 では 人 homme)は,自由かつ権
e
mme
利において男性 hommeと(グージュが追加)平等なものとして生ま
れ,生存する。
第2条:およそ政治的結合というものの目的は,女性と男性(f
e
mmee
t
homme。 人権宣言
では
人 homme)の自然に備わった消滅する
ことのない諸権利を保全することである。その諸権利とは,自由,平
等,安全,およびなによりも(グージュが追加)圧政に対する抵抗で
ある。
第3条:およそ主権というものの根源は,
本質的に国民のうちに存する。
国民とは女性と男性の両方である。
(グージュが追加)
第 10条:何びとも,その意見の表明が法律によって定められた
の秩序
を乱すものでない限り,
その意見のゆえに,
たといそれが根源的な
( 人
権宣言 では 宗教上の )意見であろうとも他から脅かされることが
あってはならないのであり,女性には処刑台にのぼる権利があるのだ
から,同じように,演壇にのぼる権利も持たなくてはならない(グー
ジュが追加)
。
第 17条:財産 pr
opr
i
썝
e
t
썝
e
sは,結婚していると離別しているとにかかわ
らず,両性に属する。
(グージュが追加)財産( 人権宣言
では
所
有 pr
(グージュが追加)侵すべ
opr
i
썝
et
썝
e)は,いずれの性にとっても,
からざる神聖な権利であるがゆえに,何びとも,適法的に確認された
けの必要が明白に財産の収用を要求する場合で,しかも,正当かつ
事前の補償を与えられるという条件のもとにおいてでなければ,自然
からの真の遺産としての(グージュが追加)財産( 人権宣言 では 所
有 )を奪われることはありえない。
見られるように,グージュは
人権宣言
が
男権宣言
に過ぎないこ
とを喝破して人権の男女平等を求めました。しかし,その主張は無視され
ました。それだけではありません。 宣言 を起草したことなどが理由で 反
16
9
北海学園大学人文論集
革命容疑者
第5
8号(201
5年3月)
とされギロチンで処刑されたのです。このことは,女性も革
命の担い手でしたが,それにもかかわらず, 女性の人権 を自明のごとく
に否定したフランス革命の
して,女性は
反女性的性格
を如実に示しています。かく
的な空間から排除されて 国民国家 の周縁にとり残され,
グージュと 宣言 はフランス革命 2
00周年(1
9
8
9年)頃までフランス人
の
記憶
から消えたのです웖
。
웓
웗
この点は私のオリジナルではありません。すでに辻村みよ子さんが 19
70
年代中頃から先駆的に指摘してきたことです웖
。私のオリジナルは,グー
웋
월
웗
ジュが
女性の人権
れた修錬士
制家族
だけでなく
黒人
非嫡出児
修道宣誓を強要さ
などの権利も主張したこと,つまり, ジェンダー
教会
人種
家
長
など社会的・政治的・宗教的ヒエラルキーと差別
の体系に対する批判者だったことを指摘したことです웖
。グージュはまこ
웋
웋
웗
とに注目すべき人物です。
具体的な例の三つめは,子どもの人権です。
セバスティアン・メルシエの
ルイ=
タブロー・ドゥ・パリ (1
7
82
,8
3
,
88年)はフランス革命前夜パリ市民の生活と習俗を活写した貴重な
料で
すが,そのなかに驚くべき記事があります。
〔パリでは〕例年,両親から捨てられて 捨て子養育院 に放り込ま
れる赤ん坊が6,7千人いる。ところが,この数を引いた残りの〔新
生児の〕数は1万4,5千人を超えないのである。民衆の困窮と人類
の堕落がこれ以上に明白に恐るべき姿で現れることがあろうか엊 1
0
年から 12年後に,この6,7千人の赤ん坊のうち何人が生き残ってい
るだろうか? 戦慄せよ엊 せいぜい 1
80人だ엊 この恐るべき無言
の数字はなんと多くのことを物語っているだろう웖
。
웋
워
웗
フランス革命前のパリでは,なんと新生児の3人に一人が捨て子された
ということになります。そして革命後,捨て子はなくなるどころか増加し
ました。フランス全国では,1
5年
7
98年 51
,000人,1
81
5年 84
,
0
00人,18
2
1
1
7
,3
0
5人,18
33年 1
2
7,
507人であり웖
,減少に向かうのはようやく 1
9世
웋
웍
웗
紀後半以降のことです。つまり,子どもたちは
17
0
人権宣言
から直接の恩
近代世界
への
書き加え
から
書き直し
へ (濱)
恵に浴することはなかったのです。
フランスにおける捨て子に関しては二宮宏之さんや藤田苑子さんの優れ
た先行研究があります웖
。藤田さんは,養育院収容後1年未満で捨て子の
웋
웎
웗
半数が死亡している事実から,捨て子と子殺しとの間には言葉の違いほど
の違いはなかった と書いています。私のオリジナルは捨て子の問題を 人
権宣言 や 子どもの人権
女性の人権 との連関で論じたことです웖
。
웋
웏
웗
以上の具体例は,普通, 典型的なブルジョワ革命
革命
と特徴づけられてきたフランス革命と
なるものの内実を示しています。ちっとも
古典的な民主主義
人権宣言
普遍的
しかし,それにもかかわらず,フランスこそは
の
普遍主義
ではないでしょう。
普遍的
原理の
始者
であり担い手であるという自己理解が生まれ,そのような自画像が後の思
・行動様式を規定することとなりました。フランス革命は 1
9世紀におけ
る新たな植民地主義的展開の起点となり,
これを正当化する根拠として 人
権宣言 が援用されたのです。また,その際, 文明には非文明を文明化す
る
命がある
フランス
とする
文明化の
命 mi
s
s
i
onc
i
vi
l
i
s
at
r
i
c
e,
の文化による人類の教化は普遍的な任務である
ンス・イデオロギーli
d
썝
eol
ogi
ef
r
anç
ai
s
e あるいは
人権の国
とする
フラ
植民地主義はフラン
ス革命以来の伝統として継承してきた共和主義の理念を実現するものであ
る
とする
植民地共和国フランス LaFr
quecol
oni
al
e な
ance,r
썝
epubl
i
どの言説が植民地支配を合理化する
隠れ蓑
になったのです웖
。
웋
원
웗
ところが,
アメリカ UCLA の先生で現在ではフランス革命
研究の第一
人者と言って良いリン・ハントが的確に指摘しているように, 皮肉なこと
に,植民地支配を受けた側が
人権宣言
を反植民地主義運動のための理
論的武器に用いた웖
웋
웑
웗 という逆説が起きました。
なんと言っても 1
9
45年のヴェトナム民主共和国独立宣言
その代表例は,
でしょう。ヴェトナム民主共和国独立宣言は,かつてヴェトナムを植民地
として支配した旧宗主国であるフランスの
た
人権宣言
の第1条に書かれ
人は,自由かつ権利において平等なものとして生まれ,生存する
と
いう言葉を 否定できない真実 とし, アメリカ独立宣言 の すべての
17
1
北海学園大学人文論集
人間は平等に
第 58号(201
5年3月)
られ,造物主によって一定の奪い難い権利を付与され,そ
のなかに,生命,自由及び幸福の追求が含まれる
言葉 として称揚し,それらを自らの独立と
という言葉を
不滅の
国の大義としたのです웖
。
웋
웒
웗
ハイチ革命も一つの例とすることができます。たとえば,パトリック・
ベルギャルド=
スミスは ハイチはすべての人間に普遍的な自由を主張した
世界で最初の国であり,フランス革命やアメリカ革命が採用した自由の定
義が限定的なものだったことを露見させた웖
웋
웓
웗 と書き,ニック・ネスビッ
トは ハイチ人は 17
89年のフランス 人権宣言 を単に模写したのではな
い。ハイチ人は
人権宣言
に内在する普遍的な意味を文字通り
すべて
の人 へと拡げたのである웖
ス
워
월
웗と書いています。ただし,ベルギャルド=
ミスが すべての人間に普遍的な自由を主張した とし,ネスビットが 文
字通り
すべての人
へと拡げた
としているのは,事実に反する過大評
価であり, 贔屓の引き倒し になりかねないものです。たしかに,人権を
肌の色による区別をなくして黒人にまで拡げたことは特筆大書すべきこと
です。しかし,独立直後のハイチでは女性は人権の享受から排除されまし
た。ハイチでの女性参政権の実現は 1
95
0年,その最初の実施は 1
9
57年の
大統領選挙まで待たなくてはならないのです。
しかし,ともあれ,もともと
なお限定的ながらも
普遍性
歴
性
を持っていた
人権宣言
に,
を与えたのは,植民地支配を受けた側だっ
た,ということにほかなりません。
フランス革命とは何であったかは,フランス革命時代(1
7
8
9∼9
9年)だ
けを見ていては,その性格,本質を見誤ります。 フランス革命の申し子
とされるナポレオンの時代(1
7
99∼1
815年)までも視野に入れなければな
りません。そうすることで
典型的なブルジョワ革命
とされるフランス
革命の性格,本質がよく見えてきます。この点では,かつて西川長夫さん
が
フランス革命が結局,何を目指した運動であったかは,ナポレオンの
時代まで見ることによって,はじめて,とは言わないまでも,よりよく理
解できると思います웖
워
웋
웗 と指摘していたことが想起されて良いでしょう。
黒人の人権の問題に則して言えば,次のことを指摘できます。1
80
2年5
17
2
近代世界
への
書き加え
から
書き直し
へ (
濱)
月にナポレオンは,
フランス革命議会による奴隷制廃止決議を反故にして,
植民地の黒人奴隷制を復活させました。そして,これと前後して,サン=
ド
マングには奴隷制復活を目論んで選りすぐりの精鋭軍隊を派遣しました。
その彼は 1803年に
国務院
でこう演説しました。
文明というものを持たず,植民地の何たるか,フランスの何たるか
さえも知らぬアフリカ黒人に,どうして自由を与えることができよう
か。
〔1794年に黒人奴隷制の廃止を決議した〕
国民
会の多数派が自
の為すべきことを弁え,植民地の事情に精通していたなら,黒人に自
由を与えたと思うか。断じてノンだ。自由を与えたらどんなことにな
るかを予見した人間はほとんどいなかったのだ。ユマニテの感情は空
想の世界ではいつも有能である。しかし,今もその原則を守れという
のか。そこには誠意はない。あるのは自惚れと偽善だけである웖
。
워
워
웗
この演説に赤裸々なレイシズムを看て取ることは容易でしょう。ナポレ
オンの
えを私の言葉で翻訳すると,こうなるでしょうか。 얨アフリカ黒
人は自由や人権を享受するに値しない。 ユマニテ などというものは 空
想
であり
偽善
である。そうした
空想の世界
から脱出して,現実
的な路線へと転換しなければならない。それが 政治 というものである。
黒人奴隷制問題での現実的な路線とは,17
94年の奴隷制廃止決議を反故に
して奴隷制を再
することである。
ナポレオンが黒人奴隷制を再
したことを,イヴ・ブノは アンシアン・
レジーム時代の野蛮への逆戻り
ナポレオンの狂気 であるとし웖
,ク
워
웍
웗
ロード・リッブは
ナポレオンの犯罪
と書いています웖
。
워
웎
웗
ナポレオンの時代まで視野に入れることによって一層鮮明になるのは,
フランスは植民地をけっして手放なそうとしないことです。フランス革命
が奴隷制を廃止したこととナポレオンが奴隷制を復活させたこととの間に
は違いがあります。しかし,フランス革命が奴隷制を廃止したのは,前に
述べたとおり,奴隷制を廃止してでも植民地を死守しようとする,そのた
めの窮余の策だったわけです。それゆえ,植民地主義という点では,フラ
ンス革命とナポレオンとの間に断絶はなく,ナポレオンの場合はより鮮明
17
3
北海学園大学人文論集
になります。彼は
第5
8号(201
5年3月)
フランス革命の申し子
と言うに相応しいでしょう。
しかし,ナポレオン軍は完敗し撤退を余儀なくされました。そしてナポ
レオンの派兵が裏目となって,ハイチの独立へと帰結し,フランスはかけ
がえのない植民地だった カリブ海の真珠 を失ったわけです웖
。なんと
워
웏
웗
も皮肉なことです。なお,フランスが最終的に黒人奴隷制を廃止するのは
約半世紀後の 1
84
8年のことです。
また,ナポレオン法典とその後の家族法制にはジェンダー・バイアスが
通底しています。ここでは,フィリップ・サニャックの言葉を引用します。
ナポレオン法典は妻を夫の奴隷にした。
妻には洗練された品位と屈辱と沈
黙を,夫には専制的優越と粗野と凶暴さとを与えた웖
워
원
웗。先にフランス革命
の
反女性的性格
を指摘しましたが,この点でも,ナポレオンは
フラ
ンス革命の申し子 と言うに相応しく, 反女性的性格 はより一層鮮明に
なるのです。
フランスはしばしば 人権と民主主義の祖国 とされますが, 女性の人
9
4
4年,最初の実
権 という点では日本並みの後進国です(女性参政権は 1
施は日本と同じ 1
946年)
。私は, 人権と民主主義の祖国 という言葉に慎
重にカギ括弧を付けて書いてきましたが,この際,そもそも
主義の祖国
人権と民主
という謂いを止めるべきでしょうか。
さて, 書き加え
の三つめは
ハイチからアメリカ
の断面への照射
です。これは,さらに二つからなります。
その一つは,しばしば 偉大なる奴隷解放者 Gr
eatEmanc
i
pat
or と神
格化されるエイブラハム・リンカーンの知られざる顔です。
独立後のハイチはアメリカに対して,独立国家として承認するよう繰り
返し要請しましたが,アメリカは拒否し続けました。黒人奴隷制を温存し
ていたアメリカにとっては,また,とくに南部諸州を中心として サン=
ド
マングの二の舞
は, 近代
や
ハイチの妖怪
に対する警戒と恐怖が広がるなかで
上唯一成功した奴隷革命 によって
た黒人国家との間に
式の外
生し黒人奴隷制を廃止し
関係を持つことは避けられたのです。とこ
ろが,186
2年6月5日になって連邦議会がハイチとリベリアへの
17
4
領事指
近代世界
への
書き加え
から
書き直し
へ (濱)
名議案を可決しリンカーンが署名しました。これによってアメリカはハイ
チを独立国家として承認することになったわけです。奴隷解放宣言(1
86
3
年1月1日)や奴隷解放予備宣言(18
62年9月 2
3日)以前のことです。そ
こで問題になるのは,1
804年のハイチ独立宣言から 5
8年後,長い拒否の末
にハイチを承認したのはなぜなのかです。
この点は 2
0
1
2年の論文で詳しく
検討しました웖
。今だ未解明の部
워
웑
웗
もあるのですが,当面の結論は次のと
おりです。
黒人と白人の共存や社会的・政治的平等の実現に懐疑的だったリン
カーンは,人種問題の解決策として解放奴隷の国外移住が最善の方法
と
えていた。ハイチ承認は,反レイシズム・反奴隷制・反植民地主
義という性格を持つハイチ革命の帰結として
生した黒人共和国に共
鳴したからではなく,奴隷解放との表裏一体として着想されたハイチ
(ヴァッシュ島)への黒人植民(Bl
ackCol
oni
z
at
i
on)を遂行するため
の外
上の布石となる実利的・政治的な決断だった。
リンカーンの黒人植民構想とハイチ承認から浮き上がってくることとし
て,次の点も指摘しておきたいと思います。一つは,黒人に対する劣等視
と異人種間混
への嫌悪から
ンにとって,ハイチは人種問題
白人共和国アメリカ
解決
を希求するリンカー
のための捌け口だったこと。もう
一つは,黒人植民の可否をイギリスやデンマーク,オランダなどヨーロッ
パの国々には事前に打診したのに対して,中南米・カリブの国々には打診
せず頭越しに実施しようとする傲慢さであり,そこからは,後の時代に一
層鮮明になる,中南米・カリブ海地域を見下して支配することを当然と
える
帝国意識
が,この時点ですでに露わであることです웖
。
워
웒
웗
ちなみに,
アメリカ
の少し詳しい概説書ではアメリカが 18
62年にハイ
チを承認したことは書かれていますが,その経緯を詳しく説明したものは
なく,専門的に論じた研究もありません。アメリカでもほんの少しの研究
があるだけです。
ハイチからアメリカ
の断面への照射 の二つめは,アメリカ外
の
重要なエポックをなす,2
0世紀初めのトマス・ウッドロー・ウィルソン大
17
5
北海学園大学人文論集
統領(在任 1
913
∼21年)の
第 58号(201
5年3月)
ミッショナリー外
ノ・ローズヴェルト大統領(在任 1
9
33∼4
5年)の
とフランクリン・デラ
善隣外
,その内実
です。
これについては 20
14年刊行予定の共著書のために用意している論文웖
워
웓
웗
から要点を箇条書きにしましたので,ご覧ください。
・アメリカによるハイチ占領開始 1
9
15年7月 2
8日(ウィルソン)∼占
領終結 34年8月 13日(ローズヴェルト)
・カリブ海域でのヘゲモニーとりわけパナマ運河
(1
90
3年着工,1
4年開
通)の安全確保が至上命題。また,1
9世紀末からハイチに進出して影
響力を持っていたドイツを排除する狙いも。
・ 1915年7月 27日ハイチ大統領虐殺事件を機に
非行ないし無能力の
はなはだしい国 とみなして,翌 2
8日かねて首都ポルトープランス港
沖に停泊中の巡洋艦から海兵隊員を上陸させて軍事介入。
・ 米国海軍省は 191
4年 1
1月に,ポルトープランスへの上陸と占領計画
)
を策定していた (ハンス・シュミット웖
웍
월
웗
・ ハイチへの介入はかなり前から準備されていた。
不可避で時間の問題
だった (フランソワ・ブランパン웖
)
웍
웋
웗
・多くは南部出身の白人からなる憲兵隊を
設。鉄道敷設工事にハイチ
人を強制労働に徴用。農民が主体の抵抗運動を圧殺。
・ハイチ大統領は コラボレイター でさえない。傀儡= 顧客 cl
i
e
nt大
統領 (シュミット)
・強制労働徴用に反撥し
占領者ヤンキー
に立ち向かった農民の指導
者シャルルマーニュ・ペラルトを逮捕・処刑して遺体を戸板に貼り付
けて晒し,その写真を抵抗運動を抑える見せしめとするために流布さ
せた웖
。
웍
워
웗
・ウィルソンの外
める
政策は,アメリカの自由主義と民主主義を世界に広
命を喧伝したことから
ミッショナリー外
と特徴づけられ
るが웖
,カリブ海政策から見た,その内実は,圧倒的に優勢な軍事力
웍
웍
웗
の行
を伴なった強圧的な
権主義 (メアリー・レンダ웖
)であっ
웍
웎
웗
17
6
近代世界
への
書き加え
から
書き直し
へ (濱)
た。
・占領解除のきっかけ:1
9
2
9年 12月6日ハイチ南西部レカイ近郊マル
シャテルでの虐殺事件
얨前日に逮捕された農民の釈放を求める
1500人の農民が海兵隊員 20人と対峙。石や鉈や棍棒を持っているだ
けの農民に向かって海兵隊員がライフル銃や自動小銃を乱射。農民に
24人の死者と 51人の負傷者。占領に反対するハイチ国民の運動が高
揚。アメリカ国内,イギリス,フランスなどからも非難噴出。
・占領解除は,当初条約で定められた期間よりも約1年前倒し。
・占領解除から1週間後の 1
9
3
4年8月 21日,ハイチで祝賀行事。その
ときの標語は
第二の独立 Deuxi
썡
emeI
nd
썝
e
pendanc
e
・ローズヴェルト 193
6年8月 14日演説:ハイチからの海兵隊撤退は,
同じ 34年にキューバとの プラット修正条項 を破棄したのと同様に,
我が国政府の側に〔米州諸国の〕国民的誇りや主権を軽視することが
あった ことの反省による。 我が国は他のいかなる国も支配すること
を求めない。我が国は帝国主義に反対する。我が国は世界の軍備の縮
小を願っている
・だが, 善隣外
として
善隣外
を誇示。
はハイチとカリブ海地域からの全面撤退を意味しな
い。占領支配の中核となっていた憲兵隊はアメリカ人が退いて
ハイ
チ化 されたが, ハイチ共和国銀行 のほか多くの行政機関は 1
9
4
0年
代半ばまでアメリカの統制下においた。35年に締結された通商協定で
はアメリカの利益を最大限尊重。
・ヨーロッパ向けには
自由
民主主義
民族自決
を誇示・喧伝す
る一方で,カリブ海地域には圧倒的軍事力を背景に強権的に介入する
というダブルスタンダードによって,カリブ海地域に帝国主義的な覇
権を確立した。
アメリカ
研究のなかでアメリカ=ハイチ関係は永らく等閑視されてき
ました。
アメリカではハイチ革命から独立後の時期のアメリカ=
ハイチ関係
を論じた研究がようやく 200
5年頃から数冊出版され,また日本でも最近に
。
なって樋口映美さん,村田勝幸さんの研究が出ました웖
웏
웗
웍
17
7
北海学園大学人文論集
独立後のハイチ
第5
8号(201
5年3月)
,
とりわけ 2
0世紀以降のハイチ現代
はアメリカのプ
レゼンスを抜きにして語ることができません。また,アメリカ
もハイチとの関係はアメリカの外
や世界戦略を
す。それゆえ,ハイチからアメリカ
において
えるうえで必須で
の断面を照射することの意味は小さ
くないでしょう。
Ⅱ
近代世界
の
書き直し
の着想
私は,これまで述べてきたような
的な
書き加え
従来の近代世界
書き加え
では済まない,大がかりな
叙述と歴
が必要ではないか,と
をしていくうちに,部
書き直し
が,ひいては,
認識の枠組み,つまり,パラダイムにも転換
えるようになりました。多くのことを指摘したい
のですが,時間の制約がありますので,ここでは, 書き直し として着想
している2点に限ります。
着想の一つは, 過去の克服
です。ご存知のように, 過去の克服
と
いう言葉は,もともとは,ナチス・ドイツによる暴力支配が引き起こした
おぞましい帰結に対して戦後のドイツが行なってきた戦争責任や戦争犯罪
の追及や反省,謝罪,戦後補償などの取り組みを包括する用語で,普通,
씗Ver
gangenhe
i
t
s
be
wa
썥l
t
i
gung>というドイツ語で表記されます。しかし,
それは,ほかの歴
事象にも敷衍でき,16世紀初頭から 1
9世紀後半までの
長期にわたって行われた黒人奴隷貿易・奴隷制度をめぐる動向にも見るこ
とができます。
以下に最近 2
0年ほどの動向から主なものを列挙しましたの
で,通読してください。
・ローマ法王ヨハネ・パウロ2世(在位 1
9
78
∼2
00
5年)は 1
9
92年2月
に西アフリカ,セネガル沖のゴレ島を訪れた。ゴレ島は大西洋黒人奴
隷貿易の一大基地となったところである。その奴隷要塞に立って, 奴
隷貿易に従事したキリスト教国家とキリスト教徒に神の許しを乞う
と,カトリック教会として初めて
式に表明した웖
。
웍
원
웗
・ 2001年5月 10日のフランス議会は奴隷貿易と奴隷制度を
17
8
人道に対
近代世界
する罪
への
書き加え
から
書き直し
へ (濱)
と決議した。翌 2
00
2年1月 30日,ジャック・シラク大統領
は, 5月 10日 を 奴隷制廃止記念日
奴隷制犠牲者追悼の日 と
するとし, 奴隷制度はヨーロッパ人によって犯された嫌悪すべき事
象 であり, 国家の偉大さは光だけでなく陰も含めたすべての歴
認めることにある
を
とした웖
。
웍
웑
웗
・2001年8月 31日∼9月8日,南アフリカ共和国ダーバンで開催され
た国連主催
人種主義,人種差別,外国人排斥および関連のある不寛
容に反対する世界会議 (通称
度を
人道に対する罪
ダーバン会議 )は奴隷貿易と奴隷制
と宣言した웖
。
웍
웒
웗
・ジャン=
ベルトラン・アリスティド元ハイチ大統領は 2
0
02年から 0
4年
にかけて旧宗主国フランスに 返還と補償 を繰り返し要求した。 返
還 とは,18
25年にフランスがハイチを独立国として承認する見返り
としてハイチがフランスに支払った
賠償金
の返還のことである。
補償 とは,奴隷貿易,奴隷制度や植民地支配に対する損害賠償のこ
とである。フランス政府はいずれの要求をも拒否したため,未だ実現
。
を見ていない웖
웍
웓
웗
・ルラ・ダ・シルヴァ元ブラジル大統領は 2
0
0
5年4月 1
4日,訪問先の
セネガルで演説し
黒人に対して我々が行なったことを謝罪する
と
言明した웖
。ブラジルは,奴隷貿易によるアフリカ人の導入が最多
웎
월
웗
だった所であり,
しかも奴隷制の廃止が 1
8
88年ともっとも遅かった国
である。
・イギリスでは 2
0
07年に奴隷貿易禁止法制定 2
0
0周年記念式典が行わ
れたが,トニー・ブレア元首相は3月 25日のビデオメッセージで,奴
隷貿易は 歴
上もっとも恥ずべき出来事の一つ であるとし, 深い
。また,同月 2
7日のウエス
悲しみと遺憾の意を表明する と述べた웖
웎
웋
웗
トミンスター寺院での記念式典では,ウィリアムズ・カンタベリー大
主教が過去の誤りに真摯に向き合うよう訴えた웖
。
웎
워
웗
・カリブ共同体・共同市場(通称
カリコム CARI
0
1
3年7
COM )は 2
月6日,植民地時代の先住民大量殺害やアフリカ系住民の奴隷化につ
17
9
北海学園大学人文論集
第5
8号(201
5年3月)
いてイギリス,スペイン,フランス,ポルトガル,オランダの5カ国
に
式の謝罪と補償を要求する方針を決定した웖
。
웎
웍
웗
ヨハネ・パウロ2世の表明に関係して西山俊彦さんの著書
教会と奴隷貿易
カトリック
얨現代資本主義の興隆に関連して (サンパウロ,2
0
0
5
年)を挙げます。カトリック教会は,プロテスタント教会も同じですが,
世俗の権力と一緒になって奴隷貿易を推進した共犯者でした。西山さんの
本はこの点を詳細に
った日本では類書のない画期的な研究です。その西
山さんは,じつはカトリックの司祭に叙階されている方なのです。神に仕
えるキリスト者としての己の信仰を問い直すべく,カトリック教会の過去
の罪責を真正面から検証した西山さんに最大限の敬意を表したいと思いま
す。
ともあれ,奴隷貿易と奴隷制度を
人道に対する罪
とするのは今では
共通認識となったと言って良いでしょう。アフリカ大陸から南北アメリカ
大陸・カリブ海地域までの大西洋横断に平
スティーヴン・スピルバーグが映画
によって描き出した奴隷貿易
2カ月を要した
アミスタッド
中間航路 ,
で最高のリアリズム
。
内の,あの筆舌に尽くし難い 地獄図 웖
웎
웎
웗
レイシズムと剥き出しの暴力によって人間を管理し搾取するための最悪の
人権侵害である奴隷制度。その奴隷貿易と奴隷制度が,ようやく
対する罪
人道に
と認定されました。奴隷貿易や奴隷制度が始まってから,じつ
に 500年後のことです。
ところで, 人道に対する罪
という日本語は,英語の씗c
r
i
meagai
ns
t
>の訳語として定着
humani
t
y>,フランス語の씗c
r
i
mecont
r
elhumani
t
썝
e
しているものです。しかし,この英語とフランス語は 人類に対する犯罪
と訳すこともできます。つまり,1
6世紀から 1
9世紀後半までは 人道に対
する罪
人類に対する犯罪 が
々と続いた3百数十年間だった,という
ことにほかなりません。強調のために繰り返します。1
6世紀から 1
9世紀後
半までは,おぞましい 人道に対する罪
人類に対する犯罪 が
々と続
いた3百数十年間だった。
そこで想起されるのは, 資本は,頭から爪先まで,毛
18
0
という毛
から,
近代世界
への
書き加え
から
書き直し
血と汚物を滴らしつつ生まれてくるのである
へ (濱)
という,カール・マルクス
が 資本論 第1巻(18
67年)第7篇第 24章 いわゆる本源的蓄積 の章
で書いた名文です。資本と資本制生産様式の前
収奪過程
における
民衆の暴力的
を特徴づける,このような性格は,資本の本源的蓄積の段階だ
けでなく,資本主義の全
にあてはまります。その点では, イギリスの産
業革命は奴隷とされたアフリカ人の血と汗の結晶だった
ことを克明に検
証したエリック・ウィリアムズの名著 資本主義と奴隷制웖
9
44年)が
웎
웏
웗(1
今もなお輝きを失っておりません。
さすれば,産業革命期のイギリス人だけでなく, 現在
このような
負の過去
の我々もまた,
の上で生き得ているのだ,ということに思い至ら
なくてはならないでしょう。
着想の二つめは, 植民地責任
奴隷貿易や奴隷制度をめぐる
です。
過去の克服
の動向の多くは,植民地支
配そのものには及びません。ダーバン会議は奴隷貿易と奴隷制度を
人道
に対する罪 と宣言しましたが,植民地主義については 遺憾 r
e
gr
e
tなこ
と
とするにとどまりました。
その植民地支配そのものを
過去の克服
日本を発信地として提起されている
植民地責任
の議論の俎上に載せるのが,
植民地責任
論です。
の用語は, 植民地主義の過去を克服していくうえで,植
民地支配を受けた側とそれを行った側との関係を
析するために着想され
た 新しい概念で,200
4年に永原陽子さんを提唱者として
勢3
5名の歴
研究者による研究プロジェクトが立ち上げられ,その研究成果の一部は永
原さんを編者とする
植民地責任
論
얨脱植民地化の比較
(青木書
店,2
00
9年)として刊行されました。
植民地責任
とは
他国・他地域の領土・領域を侵犯し,自国領土化し,
あるいは自国権益のもとにおき,ないしは自国の経済的勢力圏のもとに組
み入れ,それによって植民地住民に甚大な被害を与えたことに対する責任
のことです。研究会に加わった私は前に挙げた拙論
と補償
の要求
ハイチによる
を書いてフランスの植民地責任を論じました。
18
1
返還
北海学園大学人文論集
第5
8号(201
5年3月)
フランス国立社会科学高等研究院(EHESS:Ec
ol
ede
shaut
e
s썝
et
ude
s
)発行の
en s
ci
enc
es s
oci
al
e
s
アフリカ研究誌 (Cahi
e
r
s d썝
e
t
udes
)173/1
74合併号(20
0
4年)が [特集]アフリカ=
ヨーロッパ=
af
r
i
cai
nes
南北アメリカ間の補償・返還・和解 (R썝
e
par
at
i
ons
,r
es
t
i
t
ut
i
ons
,
r
썝
ec
onci
l
i
a)に論文 25編を載せていま
t
i
onsent
r
eAf
r
i
ques
,Eur
opeetAme
썝r
i
ques
す。著者の大半は南アフリカ共和国やナイジェリアなどアフリカの研究者
です。
また,2
0
10年には 植民地主義補償 Col
oni
al
i
s
m Repar
at
i
on のサイト
が開設され,多くの論説が掲載されています。
先に触れたダーバン会議では
過去の植民地支配の影響は今もなお続い
ており,世界各地で社会的・経済的不平等の要因となっている
と宣言さ
れました。そのとおりで,植民地主義の問題は過去形で語られるべきもの
ではありません。 ポストコロニアル
という用語で議論されているのは,
まさに今日的な問題なのです。
ここで,2
0
14年1月 24日( 最終講義 の2週間前)に出た平野千果子
さんの
フランス植民地主義と歴
認識
を紹介します。この本は,植民
地主義の問題が,今日のフランス人の歴
認識の根幹にかかわる現在進行
形の問題であることを,
数多くの事例を挙げながら詳細に論じたものです。
平野さんの特徴は
フランスの植民地主義を,支配された側が支えた側面
があること,そして,そのことが,今日のフランス人の歴
あるという意味において,植民地支配の歴
を
錯
認識の根底に
という視点で読み
解く웖
웎
원
웗(傍点は濱)というスタンスで書いていることです。私の場合はフ
ランス植民地主義を
弾劾 あるいは
告発
する口調で書く傾向が強い
ことを自覚していますので,平野さんの双方向的な
提起と受け止めたいと
おわりに
おわりに
析視角は重要な問題
えています。
얨 書き直し
の見出しを
のための視座: 新人文主義
書き直し
18
2
のための視座: 新人文主義
と
近代世界
への
書き加え
から
書き直し
へ (
濱)
しました。 新人文主義 の言葉を掲げたのは,人文学部の 最終講義 の
シメ として相応しかろう,と
えたからでは,けっしてありません。後
で述べますように, 新人文主義 は私の研究にとってまことに重要な視座
だからです。
私は,これまでの近代世界
ものは, 大国
世界
強者
研究におけるパラダイムで転換されるべき
中核
マジョリティ
を歴
の主体とする近代
叙述であり, 一元的・単層的・平面的・普遍化的・予定調和的
認識であり,そのような叙述や歴
蒙思想である,と
認識を下支えしてきた人文主義や啓
えます。
ここで一言,補足します。直前で私は
化的・予定調和的
歴
歴
一元的・単層的・平面的・普遍
認識と申しましたが,濱はそのような歴
認識を
代表する人物としてカール・マルクスを念頭に置いているのだろう,と推
察する向きがあるかも知れません。しかし,そうではありません。 一元的・
単層的・平面的・普遍化的・予定調和的
歴
認識とマルクスの歴
を等置させる論説が跡を絶ちませんが,それはマルクスの歴
86
0年頃までのマルクスは
ての誤解です。1
遍化的・予定調和的
と言ってよい歴
層的・立体的認識
普遍化的世界
への
深化
認識は異なります。代表的には,
から
と特徴づけ웖
,あるいは毛利
웎
웑
웗
像 から 重層的世界
ように웖
,マルクスの世界
웎
웒
웗
し
一元的・単層的・平面的・普
一元的・単層的・平面的認識
転換
認識につい
認識を持っていたのは確かですが,
1860年代から晩年に至るマルクスの歴
つとに山之内靖さんが
認識
多元的・多
三さんが
像 への 深層化 と特徴づけた
認識がほぼ 1
860年代を境として 転換 ない
したとする見方は今では常識となっています。重要なことは,
マルクスの世界
認識にこのような
転換
深層化
をもたらしたのが,
植民地論わけてもアイルランド論,すなわち,マルクスが
問題についての自身の見解を
アイルランド
造的に修正した웖
웎
웓
웗 ことでした。
もとに戻ります。近代ヨーロッパに起源をもつ人文主義は,神や教会に
0
13年5月の人文学
替えて 人間至上 を唱えましたが,佐藤弘夫さんが 2
部開設 20周年記念シンポジウム 新しい人文学の可能性 での発題で見事
18
3
北海学園大学人文論集
第 58号(20
1
5年3月)
に表現していたように,씗世界>の構成者として人間のみが突出する近代
の異形性웖
웏
월
웗 を生み出しました。また,人文主義の
長上にある啓蒙思想
は,弓削尚子さんがこれまた見事に整理してくれているように,人間によ
る自然の支配, 未開
世界の
文明化
あるいは
植民地化 ,女性に対
する男性の支配, 人種 序列などを 合理的理性 の名のもとに積極的に
肯定するという隘路,陥穽に嵌ったのでした웖
。
웏
웋
웗
いま近代世界
てきた 小国
研究に求められているのは,これまで歴
弱者
えた等身大の近代世界
イムの転換 である,と
周縁
の客体とされ
マイノリティ に然るべき正当な位置を与
への 書き直し ,ひいては,そのための パラダ
えます。もとより,上杉先生も言われるように,
あくせく新しいパラダイムを追いかけ回すのは虚しい웖
웏
워
웗ことです。一つ
一つ堅実に,緻密な実証研究を積み重ねて行くほかないのであり,そのよ
うな地道な研究なしに,あれこれと
新しいパラダイム
を夢想しても無
意味でありましょう。
私の研究は,目下のところ, 書き直し や 新しいパラダイム に繫が
る手がかりを,過去の思想や歴
事象のなかに発見ないし再発見すること
に向けています。
その一つは,フランスの啓蒙思想家ギヨーム・トマ・フランソワ・レナー
ルが 両インド
웖
웏
웍
웗(初版 1770年)のなかで示した歴
認識です。この
本には,いわゆる 地理上の発見 がもたらした不幸や害悪への洞察, 近
代
への懐疑,植民地主義に対する批判,そして,歴
の変革主体を支配
する者ではなくて支配され抑圧されてきた者に求めるという,まことに注
目すべき論説が書かれているのです。ところが,そのような,啓蒙思想家
の著書としては異色の論説が書かれた
両インド
は,出版当時はベス
トセラーになるほどでしたが,1
830年頃を境に 沈黙と忘却웖
웏
웎
웗が起こり,
以来,永らく無視され封印されてきました。1
8
3
0年頃と言うと,フランス
が,ハイチの独立によって
第一次植民地帝国
が崩壊した後,今度は矛
先をアルジェリアなどアフリカへと向けて新たな植民地帝国の構築を目指
す時代と符合します。そのような時代であってみれば,植民地の独立を唆
18
4
近代世界
への
書き加え
から
書き直し
して,その不可避なることを説く,今日では
形容されるような
両インド
へ (濱)
反植民地主義の兵器庫
と
が忘れ去られるのは,けだし当然のこと
であったでしょう。私の仕事の一つは, 両インド
を 忘却 から救出
し,封印から解き放つことです。
また,ダランベールと一緒に 百科全書 (1
75
1
∼7
2年)を編纂した代表
的な啓蒙思想家であるドゥニ・ディドロが,普通
される所以である
絶対的転倒の精神
啓蒙思想の異端児
얨 絶対的転倒の精神
と
という命
名はディドロ研究の第一人者である中川久定さんのものですが웖
웏
웏
웗 얨, 人
間至上主義
や
理性崇拝
絶対的転倒の精神
歴
や
ヨーロッパの文明
への懐疑に根差した
を再発見することも一つの仕事です웖
。
웏
원
웗
のなかに発見すべきことの,もう一つがハイチ革命です。反レイシ
ズム・反奴隷制・反植民地主義という性格を持つハイチ革命は, 地理上の
発見
を起点とする世界秩序,つまり近代資本主義世界システムと,これ
を下支えした人文主義や啓蒙思想に対する,最初の,かつ根底的な挑戦,
アンチテーゼだった,と
えるからです웖
。言い換えれば,ハイチ革命は,
웏
웑
웗
レナールの
で示された歴
の精神
両インド
認識,ディドロの
絶対的転倒
を現実に体現したもの,と言っても良いでしょう。その意味で,
先に触れたように,近年,海外でハイチ革命研究が盛んになり,その意義
が重要視されるようになったことは,我が意を得てまことに喜ばしいこと
です。
喜ばしいこととして,フランス革命研究の最近の動向にも付言しておき
たいと思います。
一つは,2
012年3月に出たジャン=リュック・シャペイ他編 フランス革
命は何をしたのか웖
웏
웒
웗 です。この本はソルボンヌ大学の フランス革命
講座
のメンバー5名によるフランス革命研究の再検討ですが,そのうち
の一章を割いて,フレデリック・レジャンが
奴隷制問題,植民地問題の
視点が不可欠である
ことを縷々論じています웖
。フランス革命研究の
웏
웓
웗
メッカである
講座
革命
が,永らく等閑視してきた問題を遅ればせな
がら,ようやく本格的に取り上げるようになったのです。
1
85
北海学園大学人文論集
第5
8号(201
5年3月)
日本では,まず 2
01
3年 11月に出た
れます。日本の研究者8名が革命
フランス革命
の現在
研究の課題を整理した論文集の末尾,
今後の研究方向について触れた箇所で,山﨑耕一さんは
闘している状態である
浜忠雄が孤軍奮
奴隷制問題,植民地問題の視角からフランス革命
を研究することが重要であると書いています웖
。また, 歴
원
월
웗
1月号で竹中幸
が注目さ
評論 2
01
4年
さんは,フランス革命 2
0
0周年以後の日本における革命
研究を振り返りつつ今後の展望を示した論文 過ぎ去ろうとしない革命
のなかで,次のように書いています。少し長くなりますが引用します。 浜
忠雄による一連の研究は,奴隷制廃止とハイチの独立を革命期の一エピ
ソードに留まらせず,帝国
に接合する。これまで我われはフランス革命
を,自由・平等・友愛の側面に注目してきた。しかしその陰で,近代フラ
ンスはハイチ独立を認めたとはいえ,かの地に賠償金支払いを課して
辺
境 に固定し続け,またこれを梃子にして中米諸国の発展の機会を奪った。
困,政情不安,麻薬を中心とする地下経済というハイチの現状は,フラ
ンス革命の不徹底による負の遺産でもある。私たちはフランス人でないが
ゆえに,この問題に強く踏み込むことができる。そしてまた日本人である
がゆえに,植民地の辺境化という問題を
えずに済ますことはできな
い。웖
원
웋
웗
このように,フランスと日本におけるフランス革命研究の
本流
が,
奴隷制問題や植民地問題を重要視するようになりました。これまでフラン
ス革命研究の 傍流 でしかなかった研究テーマが 本流 でも 市民権
を得た,ということでありましょう。今後,ハイチ革命研究を志す若い研
究者が数多く現われて,私の研究が細部にわたって実証的に検証されるこ
とを願ってやみません。
これまで述べたような
書き直し
が退職後の
宿題
です。数年前か
ら本学在職中の完成を期していたのですが,果たせぬまま退職後の 宿題
に持ち越すことになりました。ただし, 宿題 を果たせず 棺桶 に入る
ことになるかもしれない。
ともあれ,そのような研究のための有効な視座となるのが,北海学園大
18
6
近代世界
への
書き加え
から
書き直し
へ (濱)
学人文学部(Fac
)の理念である 新しい人文学 (Ne
ul
t
yofHumani
t
i
e
s
w
)あるいは 新人文主義 (New Humani
Humani
t
i
e
s
s
m)にほかなりませ
ん웖
。釈迦に説法でしょうが, 新人文主義 とは,近代ヨーロッパに起源
원
워
웗
を持つ人文主義(Humani
s
m)を継承しつつ,同時に,その人文主義や啓
蒙思想が嵌り込んだ隘路,陥穽から脱して,他者や自然と共生しながら,
人間としてのあるべき生き方を追求しようとする視座です。それは,ハイ
チ
を中心とする私の研究にとっても,かけがえのない視座であります。
最後に,蛇足ながら,人文(科)学と人文主義の違いについて私見を述
べさせてください。
人文(科)学は,社会科学,自然科学と並ぶ学問の一
野のことを言い,
人間そのものと人為の所産たる文化を研究対象としています。それに対し
て,人文主義は研究や学びの視座,スタンスであって,それは,人文
(科)
学,社会科学,自然科学の別を問わず,すべての学問
野に関わるもので
す。とりわけ,他者や自然と共生しながら,人間としてのあるべき生き方
を追求する
新人文主義
は,そうであります。その故に, 新人文主義
は北海学園大学全体の,すべての学部に共通する理念として掲げて良いの
ではないか,と
えるのですが,どうでしょうか。
1年間,北海学園大学人文学部で研究と教育に携わることができたこ
1
と,そして 新人文主義 に出会えたことは,まことに幸せでありました。
一緒に学んだ学生・大学院生の皆さん,同僚教員の皆さん,研究と教育を
支えてくださったすべての職員の皆さんに,心から感謝申し上げます。
以上で
最終講義
を終わります。ご清聴ありがとうございました。
〔注〕
⑴
浜忠雄
両インド
における歴
認識の諸問題 ( 北海学園大学
学園
論集 15
7号,20
1
3年9月)6061頁。
⑵
얨奴隷貿易からオバマ大統領まで (中 新
上杉忍 アメリカ黒人の歴
書,20
13年3月)
,同 本田
造著 アメリカ黒人の歴
き直されねばならなかったのか
新版 は,なぜ書
얨拙著 アメリカ黒人の歴
18
7
얨奴隷貿易
北海学園大学人文論集
第5
8号(201
5年3月)
からオバマ大統領まで に書かなかったこと ( 年報
新人文学 〔北海学園
大学大学院文学研究科〕10号,201
3年 1
0月)。
⑶
最近の研究動向を浜 ハイチ革命再
( 年報
新人文学 7号,2
0
10年)
で整理した。
⑷
Mar
c
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썝voltes et r
썝
evolutions en Eur
ope et aux Ame
썝r
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0
4.
⑸ Ni
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,Univer
sal Emancipation: The Haitian Revolution and the
Radical Enlightenment ,Ne
w Yor
k,200
8.
⑹
ハイチ革命とフランス革命 (北海道大学図書刊行会,1
99
8年), カリブ
からの問い
얨ハイチ革命と近代世界〔世界歴
選書・国家と地域を問いな
おす〕(岩波書店,2
003年), ハイチの栄光と苦難
얨世界初の黒人共和国
0
7年)
の行方〔世界 の扉・地域6〕(刀水書房,20
⑺
下にサン=
ドマングにおける奴隷解放運動の開始からフランス革命議会に
よる奴隷制廃止決議に至る歴 を示した図版を3枚挙げる。
179
1年8月 1
4日
カイマン森の儀式
ヴードゥーの儀式で蜂
起を誓う
1791年8月 22日
黒人奴隷の一斉蜂起
1
7
9
4年2月4日
革命議会が黒人奴隷
制廃止決議
下の3枚はフランス人が描いた図版である。いずれも,
씗解放する者=フラ
ンス人(あるいはフランス革命),解放される者=黒人奴隷>という 上から
目線 が露骨である。後述する 文明化の 命 や フランス・イデオロギー
の言説は,すでにこの時点で現れていると言えよう。
黒人の友の会
のメダイヨン
奴隷制廃止を記念する煙草入れ
(作者不詳)
18
8
奴隷 制 廃 止 の
アレゴリー(作
者不詳)
近代世界
への
書き加え
から
書き直し
へ (
濱)
これと対照的なのがハイチ人の意識である。下の2枚では,奴隷解放は自
ら闘い取ったものだという歴 認識が表現されている。
エディ・ジャック
ソントナクスが解放された
奴隷に武器を渡す (19
91年)
⑻
女性と女性市民の権利の宣言
無名逃亡奴隷の顕彰碑
(19
87年A・マンゴネーズ作)
2
010年1月の震災前の撮影
は Ol
ympedeGouge
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noi
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i
s
,1
986
,pp.10
3-1
0
4による。
⑼
この点については下の図版を参照されたい。
ヴェルサイユ行進
(1
7
8
9年 10月5∼6日)
オランプ・
ドゥ・グージュ
グージュの処刑
メテ 知性が抹
殺される広場
フランス革命の初期には 共和国 や 自由 は一般に女性像(マリアン
ヌ)
によってシンボライズされていたが,ジャコバン独裁が始まる 1
79
3年頃
から,これを男性像(ギリシア神話に登場するヘラクレス)に置き替えられ
た。
この点は浜 ジロデ=トリオゾンの作品における身体表象
ネイション,ジェンダー ( 北海学園大学
学園論集
얨レイシズム,
1
55号,2
0
1
3年)で
詳論した。
ナニヌ・ヴァラン
自由 (17
92年)
オーギュスタン・デュプレ
ヘラクルス (1
7
9
3年)
18
9
北海学園大学人文論集
⑽
第 58号(201
5年3月)
辻村みよ子 フランス革命と 女権宣言 ( 法律時報 4
8巻1号,1
9
7
6年),
同 フランス革命期における女性の権利 ( 成城法学
人権の普遍性と歴 性
1
7号,1
9
8
4年),同
얨フランス人権宣言と現代憲法 (
文社,1
9
9
2年)
など。他に,オリヴィエ・ブラン,辻村みよ子訳 女の人権宣言
얨フラン
ス革命とオランプ・ドゥ・グージュの生涯 (岩波書店,1
9
9
5年)などの訳書。
썶 浜 ハイチ革命とフランス革命 の第4章 女性の権利と黒人の権利
쑰
얨オ
ランプ・ドゥ・グージュの黒人奴隷制観
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引用文は p.1
原宏編
썝
es,pp.137
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3
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.
CMLXXI
X, Enf
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sabandonn
訳 1
8世紀パリ生活誌 (岩波文庫,全2巻,19
8
9年)上,3
5
0頁。パリの捨
て子養育院は,163
7年にサン=ヴァンサン・ドゥ・ポール神
が自
の修道院
の一角を捨て子養育院に充てたのが起源だが,収容数が激増したため 16
7
0年
に王立へ移管した。ジャン=ジャック・ルソーが妻テレーズとの間に生まれた
5人の子どもをすべて捨て子養育院に容れたことはよく知られていよう。捨
て子と並んで,里子に出すことも一般的に見られた。里子の死亡率も高かっ
た。また,子どもの授乳・養育のために乳母を雇うことも一般的に見られた。
サン =ヴァン サ ン・
ドゥ・ポール院長と
慈善の女性たち
里子の 運び屋
フォンテーヌブロー派
浴室のガブリエル
デストレ
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par
ticulie
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ement en Fr
ance, depuis leur or
36年に ガール王立アカデミー が 捨て子 問題に
1838による。本書は 18
ついて募集した懸賞論文
(論題: 捨て子施設は
か有害か?
捨て子施設は存続すべきか廃止すべきか? )
への応募論文であ
る。ルマクルは捨て子施設を
썹
쑰
共の習俗にとって好ましい
必要悪
と論じている。
二宮宏之 7千人の捨子 ( 月刊百科 221,平凡社,19
8
1年。同 全体を
見る眼と歴
6年に再録),藤田苑子 フランソワとマル
家たち 木鐸社,198
グリット (同文館,1994年)
19
0
近代世界
썺 浜
쑰
子供の歴
への
書き加え
から
書き直し
へ (濱)
をめぐる諸問題〔쑿・쒀・쒁〕( 北海道教育大学紀要
3
7
1,3
7
2,3
8
-1,19
86∼8
7年)
썧 浜前掲
쑰
ハイチ革命とフランス革命
のほか,平野千果子
フランス植民
地主義の歴
얨奴隷制廃止から植民地帝国の崩壊まで (人文書院,2
0
0
2
年)
,西川長夫
フランスの解体?
1
9
99年)とくに
얨もう一つの国民国家論 (人文書院,
フランス・イデオロギーをめぐって ,Ni
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epublique coloniale ,Par
平野千果子・菊池恵介訳 植民地共和国フランス (岩波書店,20
1
1年)
써
쑰
Lynn Hunt
,The Fr
ench Revolution and Human Rights ,New Yor
k,
1
996
,p.4
.この本は3年次の演習のテキストに用いた。
썩
쑰
ヴェトナム民主共和国独立宣言は高木八尺・末 三次・宮澤俊義編 人権
57年)34
5-3
49頁(稲子恒夫訳)による。
宣言集 (岩波文庫,19
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eached Citadel ,Boul
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9
90,p.45
.
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,op. cit .
썶 西川 フランス革命と国民統合 ( 思想 78
쑱
9号,1
9
9
0年)12
3頁。これは
1
98
9年 10月に東京大学と京都大学で開催された
フランス革命 2
00周年記
念シンポジウム での発表である。
썷 Ai
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e. La Re
썝volution fr
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썡me colonial ,Par
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6
2,pp.289
0.
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,La de
썝mence coloniale sous Napole
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ime de Napole
썝on,Par
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5
.
썺 当時,ハイチ革命軍は青・白・赤のトリコロールにフランス共和国
쑱
(R
썝
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queFr
anç
ai
s
e)のイニシャル
R・F
をあしらった軍旗を用いていたが,
18
0
3年5月 1
8日には,トリコロールから白を取り去って,現在のハイチ国旗
の原型となる青・赤の二
割旗とし, R・F
に換えて
自由を,しからず
ば死を Li
aMor
t を入れた。現在のハイチ国旗の中央の国章には
ber
t
썝o
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解放
自由
を象徴する
フリジア帽
を乗せた椰子の木,6本の国旗,
大砲,砲弾,太鼓,ラッパなどが描かれ,下 の リ ボ ン に は フ ラ ン ス 語 で
씗LUNI
ON FAI
T LA FORCE(団結は力なり)>という国の標語が書かれて
いる。この国章はハイチの独立が激しい戦いをとおして達成された歴
現している。
19
1
を表
北海学園大学人文論集
ハイチ革命軍
18
0
3年の旗
第5
8号(201
5年3月)
現在のハイチ国旗と国章
(19
86年2月 25日制定)
썧 Phi
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ppe Sagnac,La le
썝gislation civile de la Re
썝volution fr
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썝 et la famille, 1789 1804 ,Par
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899
.
써
쑱
浜 リンカーンの黒人植民構想とハイチ承認 ( 北海学園大学
人文論集
5
3号,2
0
1
2年 1
1月)
썩
쑱
リンカーン時代の海軍長官でリンカーン顧問団の一人として奴隷解放宣言
草案の議論にも加わったギデオン・ウェルズは,黒人植民を 国外追放 de
por
-
/Davi
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on と表現している。Henr
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0
9
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よる。
썪
쑱
浜 第一次世界大戦と米国のハイチ占領 (永原陽子編 植民地世界からみ
た第一次世界大戦 ミネルヴァ書房,2014年刊行予定)
썫
쑲
HansSchmi
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,The United States Occupation of Haiti, 1915 1934 ,
New
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nt
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ng,19
95
,p.16
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썦ti et les Etats-Unis, 1915 1934, Histoir
e d une
occupation,Par
i
s
,1
999
,p.23.
썷 下左は米軍が撮影して流布させたペラルト処刑の写真。だが皮肉にも,ア
쑲
メリカの意図に反して,キリストの磔刑を彷彿とさせるペラルトの姿から 解
放と抵抗の英雄 伝説が生まれた。下右,ハイチ・アートの巨匠であるフィ
ロメ・オバン
シャルルマーニュ・ペラルトの磔刑 (1
9
5
5年)は,その代表
例である。アンドレ・マルローが 世界最高の絵描き人 と絶賛したハイチ
の絵画については浜 ブラック・ディアスポラとハイチ・アート ( 北海学
園大学
学園論集 132号,200
7年)で論じた。
19
2
近代世界
썸 志邨晃佑
쑲
への
書き加え
から
書き直し
へ (
濱)
革新主義改革と対外進出 (有賀貞・木下尚一・志邨晃佑・平野
孝編 アメリカ
쒀
1
8
77-19
92年
山川出版社,1
99
3年)
썹 Mar
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yA.Re
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y Occupation & the Cultur
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S. Imper
ialism, 1915 1940 ,Chape
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London,20
0
1
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썺 以下を参照。Gor
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own,Toussaint s Clause. The Founding
Father
s and the Haitian Revolution,J
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Haitian Revolution in the Shaping of Amer
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and the Haitian Revolution.Sel
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樋口映美 アメリカ合衆国の 的記憶から消されるフラン
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ス/ハイチ革命の功罪
얨自由黒人・奴隷蜂起・移住問題をめぐって(1
7
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年代-1
830年代)( 専修人文論集 第 80号,20
0
7年)
,村田勝幸 ヘイシャ
ン・ディアスポラからアフリカン・ディアスポラへ
얨警察の残虐行為から
構築する人種連帯のかたち (樋口映美編 激動する씗黒人>コミュニティ
얨
アメリカ を問う 彩流社,20
12年)
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썹 映画 アミスタッド は, ヨーロッパ
쑳
19
3
쒀 の講義で大西洋三角貿易に言
北海学園大学人文論集
第5
8号(201
5年3月)
及したなかで,奴隷貿易 の様子を描いた戦慄の場面(約 1
5 )を上映した。
また 英米文化講読쒀 では,映画の全部(155 )を観た後に アミスタッ
ド号事件 に関する論文2編を講読した。
アフリカでの 奴隷狩り
地獄図 の奴隷貿易 内
奴隷の拘束
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中山毅訳,理論
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社,19
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8年
썧 平野
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フランス植民地主義と歴
써 山之内靖
쑳
썩 毛利
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認識 (岩波書店,2
01
4年)1
7頁。
マルクス・エンゲルスの世界
像 (未来社,1
9
69年)
三 自由貿易帝国主義 (東京大学出版会,19
7
8年)とくに第2章 イ
ギリス自由貿易主義と 低開発
얨マルクス自由貿易論の再検討 。
썪 ドイツ社会主義統一党中央委員会付属マルクス=レーニン主義研究所
쑳
ルクス・エンゲルス全集 第 16巻への序文 (大内兵衛・細川嘉六監訳
マ
マ
ルクス・エンゲルス全集 大月書店)第 1
6巻,xxvi頁。淡路憲治 マルクス
7
1年)なども参照。詳細は浜前掲
の後進国革命像 (未来社,19
両インド
における歴 認識の諸問題 で言及した。
썫 佐藤弘夫 神・人・死者
쑴
얨日本列島における多文化共生の伝統 (北海学
園大学人文学部開設 20周年記念シンポジウム 新しい人文学の可能性 2
0
1
3
年5月 2
0日)
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弓削尚子
啓蒙の世紀と文明観 (山川出版社,20
0
4年)
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上杉 [巻頭言]人間の慢心を戒め,深く大地に根差して ( 年報
新人文
学 10号,2
0
13年)
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詳題は 東西両インドにおけるヨーロッパ人の
的・政治的歴
設と通商に関する哲学
(Histoir
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썝ens dans les Deux Indes ,1
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啓蒙の世紀の光のもとで
19
4
얨ディドロと
百科全書 (岩波書
近代世界
への
書き加え
から
書き直し
へ (
濱)
店,199
4年)2
3頁。
썧
쑴
詳細は浜前掲
両インド
における歴
認識の諸問題 を参照されたい。
써 アメリカ独立革命は西半球で最初に植民地支配を打ち崩したが,独立後も
쑴
なお約 9
0年間にわたって黒人奴隷制を温存したため,近代資本主義世界シス
テムに対する根底的な挑戦とはならなかった。この点は浜 ハイチ革命と 西
半球秩序
( 北海学園大学
人文論集
42号,2
00
9年)で詳論した。
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9年生まれの気鋭の研究者で,すでに La Fr
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et ses esclaves. De la colonisation aux abolitions (1620 1848) ,Par
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0
0
7
においてフランス領植民地の黒人奴隷制を,その始まりから廃止までを概観
し,フランス革命期についても豊富な叙述を与えていた。だが残念ながら,
この本や前記の論文で書かれている内容の多くは既知のもので,特段に新し
い知見は得られなかった。
썫 山﨑耕一
쑗
フランス革命
研究の未来 (山﨑耕一・ 浦義弘編
フランス
革命 の現在 山川出版社,2013年)24
8頁。
썶 竹中幸
쑗
過ぎ去ろうとしない革命
における革命 研究 ( 歴
썷
쑗
評論
얨フランス革命 2
0
0周年以後の日本
765号,201
4年1月)9
0頁。
新人文主義 とは何かを簡潔に説明した文章として,論文や講義,演習な
どで幾度も紹介したことのある,大濱徹也氏の文をここでも引用する。 新
人文主義 は,人間解放の名の下に人間が自然を征服し,人間至上が 近代
の価値であると思いみなし,人間が欲望のおもむくままに世界を支配するこ
とに道を開いた人文主義が堕ちこんだ隘路を凝視し,人間が人間であるとは
何かを問い質そうとするものである。(大濱徹也 [巻頭言]新しき飛翔の場
として
얨 年報
新人文学
刊行によせて
年報
新人文学
1号,2
0
0
5
年,2頁)
〔図版出典〕
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denRodman,Haiti: The Black Republic, The Standar
d Guide to Haiti ,
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北海学園大学人文論集
第5
8号(201
5年3月)
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씗追記: 濱忠雄
名と
浜忠雄
名の併存について>
最終講義 は本名の 濱忠雄 名で行いましたが,これまで研究はすべ
て
浜忠雄
名で発表してきましたので,文献・引用注では,著書・論文
等での執筆者名の表記のとおり, 浜忠雄
19
6
名で記載しました。
タイトル1行➡3行どり
タイトル2行➡4行どり
アメリカ黒人の歴
の新しい構成웋
上
杉
忍
はじめに
本稿は,201
4年2月6日筆者が北海学園大学人文学部で行った最終講義
をもとにまとめたものである。
私は,20
13年3月, アメリカ黒人の歴
まで (中
リカ黒人
얨奴隷貿易からオバマ大統領
新書)
を出版したが,そこで,従来日本での最も代表的なアメ
の通
であった本田
造著 씗新版>アメリカ黒人の歴
(岩
波新書,1
991年)を大幅に書きなおす試みを行った。しかし,この新書で
は,どこをどのように批判し,書きなおしたかを明示することはしなかっ
た。
この新書を出版した後,同志社大学アメリカ研究所や日本アメリカ
学
会に招かれ,本書の意図について講演した際に,拙著がいかに本田氏の歴
の事実認識のみならず,歴
認識の枠組みにおいて異なっているのかに
ついて話をさせていただいた。そして,私は,それを本学大学院文学研究
웋この講義では,主に次の文献を利用した。
アメリカ黒人の歴
얨奴隷貿易からオバマ大統領まで 中
年3月。 アメリカ の名著3点
いま,アメリカ黒人
62
6
6頁。
新書,2
0
1
3
歴 評論 75
7号,2
0
1
3年5月 6
6
7
1頁。
は何を語っているか
歴
地理教育
2
0
1
3年 1
2月
人間の慢心を戒め,深く大地に根差して 巻頭言 年報新人文
学 第 10号,2
01
3年 12月,25頁。 本田
造著 アメリカ黒人の歴
版 は,なぜ書き直されねばならなかったのか
얨拙著
얨奴隷貿易からオバマ大統領まで に書かなかったこと
第 10号,2
0
13年 12月 3
8-84頁。
1
97
新
アメリカ黒人の歴
年報新人文学
北海学園大学人文論集
第5
8号(2
0
15年3月)
科紀要 年報 新人文学 第 1
0号(201
3年 1
2月)で 本田
リカ黒人の歴
新版
アメリカ黒人の歴
こと
造著 アメ
はなぜ書き直されねばならなかったのか
얨拙著
얨奴隷貿易からオバマ大統領まで に書かなかった
と題する論文にまとめた。
しかし, いわゆる 世界
メリカ黒人の歴
の発展法則 に演繹的にそった本田氏の ア
に対する批判はわかった。それならば,あなた自身は
どのようなアメリカ黒人の歴
の物語を描くのか
との質問を何人かの方
からいただいた。
たしかに,歴
上の事実を羅列するだけでは
歴
にはならない。過
去の出来事に脈絡(理解の骨組み)をつけ,最終的には,何かを物語らね
ば
歴
にはならない。
国家権力の正統性を証明するための
統があるが,民衆の歴
正
を 解放への道
統も決して短くはない。旧約聖書
は,今日に至るまで長い伝
千年王国への道 として語る伝
モーゼの出エジプト記
は,抑圧され
てきたものの解放の物語を示唆するものとして多くの人々の心を揺さぶっ
てきた。
もちろん,
的唯物論にもとづく
世界
の発展法則
の物語も,少な
からぬ人々をとらえ励ましてきた。それは,社会主義への道の設計図の鏡
となる歴
の設計図,すなわち
的唯物論的世界
の発展法則
に基づ
く物語であり,少なくとも第二次世界大戦後しばらくの間,その法則が裸
で歩いているような歴
がたくさん書かれ,人々の
き立ててきた。そこでは,封
人類解放への夢
を
制を打破するブルジョア民主主義革命を
経て資本主義の全面発展の道が切り開かれ,そのもとでのプロレタリアー
トの成長を原動力として社会主義の未来が見えてくると言う壮大な物語が
描かれた。本田
造氏の
アメリカ黒人の歴
の物語は,まさにその大
きな物語の一部をなすものだった。そこには次のようなしっかりした
の物語
歴
の骨組みがあった。
氏は,アメリカ黒人
の出発点たる黒人奴隷制の基礎をなす生産様式,
すなわち黒人奴隷制プランテーションは, 前近代的な搾取制度であり,近
198
アメリカ黒人の歴
の新しい構成 (
上杉)
代的=資本主義的な性格を持つものではなかった。……なによりも,そこ
での生産的労働は,奴隷労働という不自由労働であって,労働力の商品化
という事実は見られない 워としている。そして,この黒人奴隷制の克服は,
ブルジョア民主主義革命
の課題になるという。
すなわち社会主義革命の担い手たるプロレタリアートを産み育てる資本
主義的生産関係を確立するブルジョア民主主義革命が,黒人奴隷制プラン
テーションを解体・近代化し,社会主義への道を準備するという前提に立っ
ていた。ところが独立革命に次ぐ第二のブルジョア民主主義革命と本田氏
が規定した웍南北戦争・再
ション奴隷制度に代わる刈り
期以後に南部農業地帯に現れたプランテー
け小作制度について本田氏は,プランター
の大土地所有制度を解体する代わりにそれを温存し,彼らを昔ながらの状
態に押しとどめておくことを目的にした前近代的な制度だった 웎と規定
し,その前近代性を強調している。氏によれば,この時代にもブルジョア
民主主義革命は,大半のアメリカ黒人をとらえていた南部プランテーショ
ン社会を通り過ぎてしまったのである。
だとすると本田氏にあっては,アメリカのブルジョア民主主義革命はい
つ実現されたのだろうか。このことについて氏は何も語ってはいない。注
意深い読者は,本田氏は,その後,黒人差別の物質的基盤たる南部プラン
テーション農業に,全く触れなくなってしまったことに気がつかれるであ
30年代に始まるニューディール政策によって南部プラ
ろう。具体的には 19
ンテーション制度は,上から解体され,南部は近代的大農業及び牧畜,林
業地帯に再編されるのだが,氏は,それには全く触れていない。
前近代 から 近代 へ,そして 社会主義 への発展段階論にしっか
りと縛られてきた本田氏には,近代 の進歩性への確固たる確信があった。
それゆえに, 近代 と黒人奴隷制や 人種隔離体制 は本来敵対的関係に
워本田 造 씗新版>アメリカ黒人の歴
6頁。
웍同上,12
0頁。
웎同上,14
1
99
(岩波新書,19
9
1年)6
2頁。
北海学園大学人文論集
第 58号(20
1
5年3月)
あるとの大前提に立っていたのであるが,その前提には無理があった。 本
来のブルジョア民主主義
は,奴隷制を打破すべきだったが
指導者たちは,妥協してこれを曖昧にしてしまった
独立革命の
とか,南北戦争・再
は, 耕作する黒人農民に土地と役畜を保障すべきであった のにそれを
しなかったと主張し,いくらその可能性に期待してみても,現実はそのよ
うには進まなかったのである。結局, べきだった とする歴
認識の枠組
みそのものを問題にせねばならないのである。
以上のように,奴隷制や人種隔離体制を
前近代
と位置づけ,その克
服,すなわち近代ブルジョア民主主義革命の達成こそが,アメリカ黒人の
解放への道であるとする歴
を語ることは,もはや不可能になった。本田
氏が依拠した認識の枠組みは,各国資本主義の社会・経済発展をそれぞれ
個別に検討して,比較検討する方法に基づくもので,少なくとも 197
0年代
初頭には,ほとんど顧みられなくなった方法だった。そして,このような
一国
的方法は,世界資本主義の形成・発展を
体として把握し,先進資
本主義諸国の社会・経済発展を植民地・従属国のそれと一体のものとして
捉えるいわゆる
世界システム論
に取って代わられていた。
91年の段階になって,本田氏は,1
9
64年に出版
それにもかかわらず,19
された本田氏の旧版
アメリカ黒人の歴
씗新版>アメリカ黒人
アメリカ黒人
る。個々の歴
の枠組みを基本的に変えずに
を出版し,この
の 正
新版
は,今日なお
では,
としての地位を維持し,多くの読者を得てい
描写は感動的で,黒人奴隷の苦境に強い共感を持ち,その
勇敢な抵抗に励まされる多くの読者に強い印象を与え続けているが,その
後の研究蓄積を学んだ者にとっては,その事実認識の誤りはさておき,そ
の認識の枠組みそのものが,もはやあまりにも
過去の作品
となってい
るのである。
後身のアメリカ黒人 研究者である私は,その責任を感ぜざるをえず,
このたび中
新書から同じタイトルの
アメリカ黒人の歴
の出版に挑
戦したのである。
それでは,本田氏の
アメリカ黒人
2
00
の物語に代わる新たな
アメリ
アメリカ黒人の歴
カ黒人
の新しい構成 (
上杉)
の物語はどのように書き直されるべきなのだろうか。ここでは,
その粗削りな骨組みを提示することを試みたい。
1.近代世界システム論と黒人奴隷制・人種隔離制度
まず,近代世界システム論によれば,ブルジョア民主主義革命と黒人奴
隷制は,どのような関係としてとらえられるのか,から始めたい。黒人解
放の道の根源に関わるからである。
この
え方によれば,西欧ブルジョア民主主義革命は,世界資本主義体
制を生みだした大西洋システムの基盤たる黒人奴隷制を前提として達成さ
れたのであった。近年の研究では,アメリカの独立革命もラテンアメリカ
の独立革命もいずれも黒人奴隷制と先住民抑圧をより確かなものにするた
めの
白人植民者の独立革命
としての側面が強調されている。それは,
黒人奴隷制を最初に打破したハイチ革命に対し,欧米諸国及びラテンアメ
リカの独立革命指導者たちが,これに全面的に敵対した事実からも明らか
である웏
。
ではブルジョア民主主義革命の基礎となった近代啓蒙主義・人文主義は,
奴隷制に対してどのような立場をとっていたのだろうか。神の支配に代わ
る人間の合理的支配を主張する近代啓蒙主義は,自然に対する人間の征服
と,ヨーロッパによる未開民族の文明化の
命,劣等人種に対する白人種
による支配,女性に対する男性の支配を,理性に由来するものとして積極
的に肯定していたのであり,近代啓蒙主義は黒人奴隷制を否定してはいな
かった 원とする理解が今日では,支配的になっている。
웏濱忠雄 ハイチ革命とラテンアメリカ諸国の独立
岩波講座世界歴 第 17号
環大西洋革命 (岩波書店,1997年)ちなみに本田氏は,根拠をあげずに,ハ
イチ革命の成功は,その後ラテンアメリカ諸国を席巻した植民地解放闘争の
突破口になった と全く反対のことを叙述している。(5
7頁)
원濱忠雄 ハイチから 新人文主義 を える
2
01
新人文主義の位相
얨基礎的
★
脚
注
割
し
て
ま
す
★
北海学園大学人文論集
近代黒人奴隷制を容認してきた
第5
8号(2
0
15年3月)
人文主義・啓蒙主義
に対する根底的
対案を提起してきたのは, 大西洋秩序 の最底辺に押し込められた黒人た
ちであり,その最初の一撃が,フランス領サンドマングにおける黒人奴隷
革命(ハイチの独立)だった。そして,アメリカ黒人もまた,黒人奴隷制・
人種差別主義の最大の被害者であり, 大西洋秩序 を支えてきたアメリカ
合衆国の在り方に根本的対案を提起してきた集団だった。
それゆえに,アメリカ黒人の歴
を注意深く検討すれば,アメリカ社会
の根本矛盾が見えてくるのである。私は,新書の中で,アメリカ黒人を ア
メリカのカナリア
と表現した。炭鉱の爆発を未然に察知するために,炭
鉱労働者が,ガス発生を知らせるカナリアを坑内に連れていくことからヒ
ントを得たこの表現は, アメリカ社会の危機 を最も敏感に感じ取らざる
をえない
アメリカ黒人
を意味している。また同時にアメリカ黒人は,
近代資本主義世界システムの基礎をなした黒人奴隷制と人種隔離体制の下
で,アメリカ社会全体の秩序を維持し安定させる
の底荷
の役割を果
たしてきたとも言える。
2. アメリカ黒人
の地位向上のための諸条件
では, アメリカ黒人
とは,アメリカ社会の中でどのような
特別な
存在なのだろうか。アメリカ黒人の解放の物語を描くためにはその存在の
課題 (平成 22
・23年度北海学園学術研究助成共同研究報告書,2
0
1
2年3月)
2
53
0頁,参照。もちろん,だからと言って
人文主義 の意義を全否定す
るとしたら,それは たらいの水と一緒に赤子を流す のに等しい。 濱忠雄
年報
新人文学 第5号,200
8年,巻頭言。特に,近年, 天賦人権論 を
然と否定する保守政治家が,日本で跋
重要である。上杉忍
本田
造著
き直されねばならなかったのか
している状況の下で,この指摘は
アメリカ黒人の歴
新版
얨拙著 アメリカ黒人の歴
からオバマ大統領まで に書かなかったこと
年 12月,5
2頁。
202
は,なぜ書
얨奴隷貿易
年報新人文学 第 1
0号,2
0
1
3
アメリカ黒人の歴
の新しい構成 (
上杉)
客観的特殊性を把握する必要がある。そして,その特殊性は,彼らの地位
向上のためにどのような努力を求めていたのだろうか。次にそれを
える
ためにどのような観点が必要なのかをいくつか指摘したい。
①
アメリカ黒人
と
アメリカ人
という二つの
第一は,アメリカ黒人は,共通の歴
由へ
想像の共同体
的経験,すなわち
の共通の物語を経験してきた独自の
想像の共同体
奴隷制から自
を形成してき
たということである。もちろん, アメリカ合衆国市民 としての共通の歴
的経験が,アメリカ合衆国市民としての
想像の共同体
を形成してき
たことも事実ではあるが,この 想像の共同体 は, 白人 がそれを事実
上支配し続け웑
,アメリカ黒人は,その 共同体 から排除され,二級市民
としての経験を長いこと強いられ,今なお強いられている。アメリカには,
中心的アメリカ から排除されてきた
(なかなか アメリカ人になれない )
集団が多数存在してきたが,アメリカ黒人はそれらの集団の中で最も
ア
メリカ に融合されにくかった集団だった。それゆえに ブラック・パワー
と言った彼らの独自性とその自治を主張するスローガンが,他の集団に先
駆けて打ち出され,今なお,そのスローガンがほかの集団にはない頻度で
叫ばれている。
彼らの地位向上の不可欠な条件として, アメリカ黒人 としての共通の
絆を意識し,黒人コミュニティーを質・量ともに高度化することによって,
アメリカ社会に集団としての存在を意識させることが必要だった。このよ
うな他とは区別された独自な共通の歴
的経験は,アメリカ社会によって
強制されてきたのだが,同時に,黒人たちはそれを主体的にとらえ直し,
結束と差別への抵抗の梃としてきた。それは彼らの人種差別に対する抵抗
のエネルギーを引きだす重要な契機となっていた。そこでは,成員相互の
緊密なネットワークと指導者の育成が鍵となる。それは,黒人独自の家族
웑この アメリカ は,普遍的理念で結ばれた共同体ではあるが,実際には歴
的に見ても 無色・透明 ではない。
2
03
北海学園大学人文論集
第 58号(201
5年3月)
や教会,居住区,さまざまな友愛団体,企業経営などを通じて育成され,
アメリカ社会への彼らの適応を促進するとともに, アメリカ黒人 のアメ
リカ社会での地位向上の足掛かりを与えてきた웒
。
ところが,アメリカ黒人を
アメリカ市民
から排除し,第二級市民に
押し込めてきたアメリカは,とりわけ第一次世界大戦以後の
力戦の時
代 웓に入って,アメリカ黒人に対しても戦争への協力を求めざるをえなく
なり,黒人をアメリカのナショナリズム
(アメリカと言う 想像の共同体 )
の中に取り込みはじめた。こうして,アメリカ黒人が,人種隔離制度を撤
廃し,投票権など
アメリカ人としての市民権
たのである。すなわち,
を要求する条件が生まれ
力戦体制 と言うアメリカ国家の危機対応体制
が,アメリカ黒人の地位向上の条件を切り拓いたのである。その際に上記
の
アメリカ黒人としての結束した力
がなければ,その要求を実現でき
웒ただし,21世紀に入ってグローバル化の急激な進行の中で,アフリカやカリ
ブ海,ヨーロッパ諸国からの アフリカ系移民 が急増し,その二世を含め
るとアメリカ国内の アフリカ系アメリカ人 の人口の 10 の1を超え,さ
らにその比重を高めようとしていることにも注目しなければならない。彼ら
は,たしかに外見では,これまでの アフリカ系アメリカ人 と共通性があ
るが,彼らとは違って,アメリカ国内での 奴隷から自由 の物語,人種隔
離体制とそれからの解放の物語を経験しておらず,共通の歴 的経験に基づ
く 想像の共同体 の中にいるという自覚がないのである。すなわち,2
1世
紀に入って, アフリカ系アメリカ人 と言うアイデンティティ自体が多様化
し,融解し始めており,一つのまとまった 歴
を描くことが困難になる
可能性が見え始めている。
웓第一次世界大戦から冷戦終結までの時代を指し,国家・社会が,恒常的に強
大な敵の存在を想定し,緊張状態の下に国民を結束させ最大限の力を引き出
す体制。その国の政治・経済・社会・文化の潜在力を 動員しながら戦う体
制であり,この体制は 20世紀の先進資本主義国社会の在り方を根底において
規定してきた。その体制の下で,世界は,かつてないテンポで科学技術を発
展させ,生産力を拡大し,軍事力を蓄積してきた。上杉
アメリカ民主主義
忍
二次大戦下の
얨 力戦の中の自由 講談社選書メチエ,2
0
0
0年,4,
5頁。
2
04
★
脚
注
割
し
て
ま
す
★
アメリカ黒人の歴
の新しい構成 (
上杉)
なかったことは言うまでもない。彼らは
アメリカ市民
②
アメリカ黒人
の一員として,
の権利を求めて闘ったのである。
世界資本主義の危機と変容
第二は,彼らに共通の歴
的経験を強制してきたアメリカ資本主義の政
治・経済システムの危機と変容は,アメリカ黒人の地位向上にとって極め
て重要な要素だったことである。すでに述べたように,アメリカ黒人は,
アメリカ資本主義の最底辺に位置付けられ,その資本蓄積に貢献し続けて
きたが,その資本主義の発展と危機,そしてその変容は彼らに最も鋭い影
響を与えてきた。多くの場合,彼らはその矛盾に対するクッションの役割
を押しつけられてきたのであり,それゆえ世界資本主義およびアメリカ経
済を語ることなく,アメリカ黒人の地位を語ることはできない。そして,
アメリカ資本主義の発展と危機,そしてその変容は,アメリカ社会の支配
層(白人中産階級に支えられた)の対立と
裂を生みだし,アメリカ黒人
にチャンスを与える可能性をはらんでいた。たとえば,アメリカ資本主義
の発展が,南北戦争を不可避のものとし,それが,奴隷解放の可能性を開
いたことなどがその典型的な事例としてあげられるだろう。
③ 他の集団との協力の必要
第三は,アメリカ黒人は,全歴
を通じて合衆国全人口のおよそ8
の
1しか占めていなかったことである。それは,民主主義的政治制度の下の
アメリカでは,アメリカ黒人は,他の集団の理解と協力なしにその地位を
向上させ,自由を拡大することができないということを意味している。こ
の条件は,黒人が圧倒的多数を占めるアフリカの植民地独立国とは大きな
違いである。アメリカでは,アフリカ植民地でのように白人入植者の排除
をスローガンに掲げることは無意味であり,圧倒的多数を占めてきた白人
全体を敵に回して,その地位の向上を図ることはあり得ない웋
。
월
웋
월同じように奴隷を先祖に持つ黒人で占められているカリブ海の黒人たちは,
2
05
北海学園大学人文論集
第5
8号(201
5年3月)
たとえば,彼らは,白人社会の最底辺に位置付けられ排斥を経験してき
たアイルランド系その他のカソリック系移民やユダヤ教徒及び南部の
い白人農民などとの競合・敵対関係に悩まされ,これらの集団が
民
としてアメリカに包摂されていったのに対し,黒人は
し
白人市
劣等人種
と
してアメリカから排除されてきた。しかし,それにもかかわらず,アメリ
カ黒人は白人内部の
裂の間
をぬって, アメリカ憲法の理念 をてこに
して,白人多数の世論の同情なり,支持なりを得ながらでなければ容易に
は前進できなかったことも忘れるわけにはいかない。
④
国際世論
とアメリカ黒人
第四は, 国際世論 の力が無視できないことである。アメリカは,1
9世
紀末以後,主要列強の仲間入りをすることになるが,それ以前から
国際
世論 のもたらすパワーの影響を受けてきた。たとえば,南北戦争が始まっ
た際に,リンカンは,イギリスからの軍事介入を回避することも意図して,
開戦後しばらくして
奴隷解放宣言
を発した。イギリスは,自ら本国を
始め植民地での奴隷制をすでに廃止していたから,この戦争が
のための戦争
になり,逆に
奴隷制擁護ための戦争
奴隷解放
を進めていること
がはっきりした南部連合を国家として承認し,この内戦に軍事介入するこ
とができなくなったのである。また,アメリカは第一次世界大戦以後,た
とえば
民主主義,自由
と言った普遍的価値の実現を掲げて世界の戦争
に乗り出していくようになった。世界にこのような価値を求めながら,ア
メリカ国内では暴力的な黒人抑圧事件が繰り返される事態は,敵の宣伝に
根拠を与えることになったので,少なくとも
前としては,アメリカ黒人
のアメリカ市民としての権利を法的に承認することが必要になっていたの
である。このような有利な条件をアメリカ黒人が利用しないはずはなかっ
その地域の人口の圧倒的多数を占めており,北アメリカのように白人対黒人
と言う対立軸で物を えるよりは,混血の度合いや,富の大小,あるいはイ
ンド人,中国人との関係を軸にしてものを えていたように思われる。
2
06
アメリカ黒人の歴
の新しい構成 (
上杉)
た。
さて, アメリカ黒人の歴
全体に脈絡をつけて語るためには,まず,
アメリカ黒人がおかれた状況や課題の変化を軸にしてその時期区
をする
必要がある。私は,黒人たちの基本的課題によって次の3つの時代に区
している。第一期は,黒人奴隷制とその解体の時代であり,第二期は人種
隔離制度確立と解体の時代,そして第三期は,市場原理主義的新自由主義
の時代である。
3.アメリカにおける黒人奴隷制廃止の革命的意義
①
重商主義から産業革命の時代に対応するアメリカ南部の黒人奴隷制
第一期の奴隷制の時代は,世界資本主義の発展段階で言えば,いわゆる
重商主義の時代から産業革命の展開の時代がこれに当たる。北アメリカで
は,独立革命の 1
00年ほど前からイギリス重商主義の下で黒人奴隷制が発
展し,
独立革命のころからイギリスで産業革命が綿織物工業で開始された。
ここに大量の綿花を供給したのは,アメリカ合衆国南部であり,英領カリ
ブ海域で黒人奴隷制が停滞し,183
0年代には廃止されはじめたにもかかわ
らず,ここアメリカ合衆国南部では奴隷制綿作プランテーションが急速に
成長し,独立革命直後の 179
0年に約 70万人だった黒人奴隷人口は,1
8
60
年には 400万人にまで増えていた。
②
アメリカにおける黒人奴隷制廃止の革命的特徴
西半球における黒人奴隷制廃止の流れを一
しておくと,まず,西半球
で最初に黒人奴隷制を打破したフランス領サンドンマング
(のちのハイチ)
では,1
7
94年に始まる奴隷反乱によって即時・無償で奴隷制が打破された
が,列強資本主義諸国によって経済封鎖を受け,現地黒人支配層の政治的
抑圧体制のもとで,自立的経済と民主主義的政治体制の発展は厳しく抑制
され,20世紀に入ってアメリカ合衆国の植民地的支配を受けることとなっ
た。次に黒人奴隷制を廃止したのは,英仏両国植民地(英国,1
8
34年,フ
2
07
北海学園大学人文論集
第5
8号(201
5年3月)
ランス,1
84
8年)で,これらの島々では,奴隷反乱と過剰生産の結果,奴
隷価格が低迷し,むしろ奴隷主側が,税金で奴隷を買い取ってもらう有償・
漸次的奴隷解放を望み,議会主導で奴隷主階級の強力な抵抗なしに植民地
奴隷制の廃止が行われた。そして,アメリカ合衆国では,奴隷制の西部へ
の無限の拡大の可能性が絶たれることを恐れた南部奴隷主階級の軍事クー
デタによって南北戦争がはじまり,1
865年,南部の敗北によって黒人奴隷
制の即時・無償廃止が実現した。この奴隷解放の規模は大きく,このとき
に全西半球の黒人奴隷の半数が解放された。キューバとブラジルでは,そ
れぞれ 1880年,1888年に黒人奴隷制の漸次・有償廃止が行われた。
ここからは,その他の奴隷制地域と比較して,アメリカ合衆国における
黒人奴隷制廃止は,奴隷たちの無償労働に対する補償は与えられなかった
はものの,4
00万人の黒人奴隷と言う膨大な私有財産が無償で破棄される
という極めて例外的・急進的なものだったことがわかる。それは,西半球
の黒人奴隷制全体に決定的な打撃を与え,アメリカは,少なくとも表向き
は,あらゆる人々にとっての自由と正義のための避難所と言うその
国の
理念に立つことが可能となった。
③
アメリカでの即時・無償奴隷制廃止を可能にした力
なぜそのようなことが可能となったか,だれがその主要な推進力だった
か。南部の軍事クーデタに対する鎮圧戦争としてはじまった南北戦争は,
連邦軍による南部の制圧,南軍の鎮圧という形をとることになったが,そ
の結果,南部の黒人奴隷に対する管理は混乱し,戦時下での黒人の大量逃
亡と反抗を可能にし,黒人たちは主体的に行動し, アメリカ
上最大の奴
隷反乱 웋
웋状態を引き起こすこととなった。しかも連邦軍には,動員
数
200万人のうち,40万人もの黒人が従軍した。このような状況の下で,イ
ギリスからの軍事介入を阻止するためにも,また,南部に社会的・軍事的
웋
웋St
e
ven Hahn,The Political Wor
ld of Slaver
y and Fr
eedom ,Har
var
d
-11
Uni
ve
r
s
i
t
yPr
es
s
,200
9
,pp.
5
5
4.
2
08
アメリカ黒人の歴
の新しい構成 (
上杉)
混乱を引き起こし,軍事戦略を優位に進めるためにも,それまでためらっ
ていたリンカンが 1
86
3年1月1日奴隷解放宣言を発したのだった。
この奴
隷解放宣言は,アメリカ合衆国の法体系として奴隷制廃止を確立したもの
ではなく,
南軍支配地域の奴隷だけを解放する戦場命令にすぎなかったが,
もはや即時・無償奴隷解放の時代の流れは食い止めることはできなかった。
このような黒人奴隷制の即時・無償廃止は,戦時中の黒人奴隷の逃亡と反
抗,黒人の大量従軍なしには起こり得ない出来事だったのである。
それは,産業資本が自ら主体的に促進した革命ではなかった。彼らは,
事態が進むのを追認していただけであり,南北戦争後,黒人たちがアメリ
カ市民として自己主張し政治に参加しようとすると,まもなくこれを阻止
する側に回ったのだった。また南部で黒人奴隷制に代わる,自由労働市場
が圧殺され再び,事実上の強制労働に基づくシェアクロピング制プラン
テーション農業制度が広がるのを,彼らは放置した。すなわち,ブルジョ
アジーはこの革命を自ら推進したとは言い難いのである。
4.人種隔離体制の確立と動揺・解体
第二期の人種隔離制度の時代は,1
9世紀末以後の 狭義の意味での帝国
主義時代 웋
워から第一次世界大戦以後冷戦期までの
対応している。それは,第一次大戦期までの
期までの
①
動揺・解体期
に区
確立期
力戦体制 の時代に
と,それ以後冷戦
することができる。
確立期
人種隔離体制の確立は,1
8
96年最高裁判所プレッシー対ファーガソン判
決(
離すれども平等 )に象徴され,この時代を前後して南部の黒人に
7
3年世界
웋
워イギリスの力による世界平和(パクス・ブリタニカ)の崩壊と,18
恐慌以後の諸列強の植民地争奪戦の時代。第一次世界大戦でその頂点を迎え
る。
2
09
北海学園大学人文論集
第5
8号(201
5年3月)
対するリンチが激増し,
南部各州や各自治体で 2
0世紀初頭まで次々と人種
隔離を強制する法律や黒人から参政権を実質的にはく奪する法律の成立が
相次いだ。
人種隔離体制 (ジムクロウ体制)とは,具体的には,白人優越主義に
基づく人種の物理的隔離,黒人参政権剥奪,黒人リンチを柱とする黒人差
別体制のことを言う。それは黒人を
二級市民
として,アメリカ資本主
義の自由労働市場から排除し,何らかの強制労働を伴う制度の中に黒人を
押しこみ,
資本の本源的蓄積を可能とする法律を伴う人種差別体制だった。
それは,19世紀末におけるアメリカ資本主義体制の危機,具体的には,労
働者農民の抵抗運動の激化,反独占的ポピュリスト運動の高揚と二大政党
制を揺がす
人民党運動
の展開,その下での南部の白人共同体の亀裂の
表面化など,アメリカ資本主義社会の全体的動揺に対する支配層の結束し
た反動的対応と言うことができる웋
。
웍
それは,白人大衆の恐怖を最大限動員して実現されたもので,その
恐
怖 とは, 黒人男性による白人女性への性的侵害の可能性 という虚構の
恐怖 に基づくものだった。黒人男性を 強姦魔 と描き,黒人男性と白
人女性の性的接触の可能性を根拠に黒人男性に対するリンチが大衆参加の
下での社会儀式として執り行われた。そして,白人共同体の
裂を引き起
こす可能性がある黒人の参政権が全南部で剥奪されたのである。これは,
当時南部でも商品経済が発展し,白人女性が繊維産業の賃労働に加わった
り,自立した商品購入者となったりして,白人男性の家
長的支配に収ま
りきれなくなっていた事態に対する白人男性の不安にこたえるものだっ
た。ちなみに,それは,当時南北戦争によって白人男性の人口が減少し,
白人女性が,黒人男性(特に混血男性)との接触を自ら求める場面が多く
見られたことともかかわりがある。
このような
人種隔離体制
の確立を推進したもう一つの要因は,この
웋
웍このような体系的な市民社会からの黒人排除は,カリブ海やラテンアメリカ
社会では起こらなかった。
2
10
アメリカ黒人の歴
の新しい構成 (
上杉)
時期に,アメリカ合衆国によるフィリピン,キューバなどカリブ海・太平
洋諸地域の有色人に対する支配がはじまったことと関連している。奴隷解
放を実現したリンカンの政党共和党によって推進されたこれらの対外膨張
政策は,文明化された白人の保護の下に植民地住民を 民主主義的に育成
するために統治するという
白人優越主義的温情主義
によって合理化さ
れ,それは国内,特に南部における白人優越主義的人種隔離政策を容認す
る力となった。
この時代,黒人男性は, 強姦魔 だとして徹底的に攻撃され,政治的に
無力化されたが,これに代わって,当時参政権が与えられなかった黒人女
性たちが,教育や文筆活動,反リンチ運動などの社会運動において重要な
役割を演じ,この時代は黒人運動の
女の時代
と呼ばれている。
ここで注意を喚起したいのは,この人種隔離体制の確立は,単なる黒人
に対する
人種支配
の強化ではなく,黒人男性を
強姦魔
と断定し,
白人女性に対する白人男性の支配を強化し, ふしだらな 黒人女性に対す
る白人男性による性的侵害を合理化する
女性に対する性的支配
の再確
立・強化と強く結び付いていたことである。
もう一つ指摘しておかなければならないのは,1
9世紀末から 20世紀初
頭にかけて,東欧や南欧から大量の移民(新移民)が流入し,政治的社会
的危機が深刻となり,彼らを排斥する運動がたかまるとともに,彼らを体
制内に取り込む
アメリカ化
る。それは黒人と新移民を
すなわち
断し,黒人を
白人化
が進められたことであ
体制の外に追い出す
ことに
よって実現されたのである。
②
動揺・解体期
帝国主義的列強の対抗関係は,ついに第一次世界大戦と言う未曾有の規
模の大戦争を引き起こし,その後新たに成立したソ連をも含めて先進諸国
は,
力戦体制
をとり続けるようになり,国家・社会・経済・文化のあ
り方を大きく変え,それはソ連崩壊による冷戦の終結まで続くこととなっ
た。
2
11
北海学園大学人文論集
この
力戦体制
第5
8号(201
5年3月)
は,アメリカ黒人のおかれた状況に次のような大き
な変化をもたらした。第一次世界大戦以来,アメリカ黒人が戦争に大量に
動員されることとなり,アメリカ黒人の
国民化
がいやおうなく進めら
れた。差別はなお根深く残ってはいたものの,黒人兵士に対する無料の
康診断,治療,
康保険,年金,教育,定期的収入の保障が行われ,黒人
たちは,アメリカ防衛の任務を担ったという行為によって,差別に甘んじ
ない
プライド
の種を植え付けられることとなった。
また,この時代繰り返し世界を襲った経済恐慌に対する対抗策としてと
られた国家の社会・経済への介入(たとえば,ニューディールによる経済
管理,
共事業,社会保障など)は,決してアメリカ黒人に平等に恩恵を
与えたわけではなかったが,何よりも南部プランテーションの上からの近
代化の推進により,黒人は,南部プランテーション農業のくびきから解放
され,大都市中心部に脱出する機会を与えられた。また軍需産業の大規模
な拡大によって,黒人にも一部ではあれ産業労働者としての雇用の道が開
かれ,経済的に上昇するチャンスを与えられた。
黒人たちに大きな変化をもたらした。
さらに軍隊への黒人の大量動員は,
軍隊の中での黒人に対する差別は引き続き根深かったが,軍隊はアメリカ
社会の中で相対的に最も平等な場であり,ここから
人種隔離
に対する
正面からの挑戦が始まった。また,従軍した黒人兵には,白人兵と同様に,
年金や
康保険のほかに教育の機会や奨学金が与えられ,とくに第二次世
界大戦後黒人の大学進学率が著しく向上した。戦後の高度経済成長の中で
黒人女性の大学進学率も急上昇し, 黒人中産階級 웋
웎の層は,白人と比べれ
ばはるかに脆弱ではあったが,かつてなく拡大した。こうして,人種隔離
体制打破のための運動(
民権運動)の安定した担い手が成長したのであ
る。南部では黒人の参政権は著しく抑圧されたままだったが,北部大都市
における黒人有権者の影響力は拡大し,民主党内における南部白人優越主
웋
웎この 中産階級 には,自営業者やホワイトカラーのほか,安定的な雇用を
保障された工業労働者も含まれている。
2
12
アメリカ黒人の歴
義者の孤立,
の新しい構成 (
上杉)
民権を支持する北部民主党の影響力拡大が確実に進んだ。
最後に人種隔離体制打破の上で,きわめて重要な要素となった
アメリ
カの対外政策と国内政策の矛盾 を指摘せねばならない。アメリカは,18
2
3
年モンロー宣言以来,普遍的な価値を外
理念として掲げる伝統があった
が,アメリカが世界の指導者となることを意識し始めた第一次世界大戦以
来, 自由や民主主義 をその戦争目的に掲げ,その傾向が一層顕著となっ
た。特に,冷戦期には,全体主義と独裁の社会主義に対抗する
主主義
自由と民
のアメリカを前面に掲げてその対外政策を展開し,低開発諸国を
自らの陣営に引き込み,社会主義諸国を封じ込めようとしてきた。アメリ
カの
自由と民主主義
豊かな生活
はアメリカの
ソフト・パワー
で
あり,世界の民衆に憧れを呼び起こす力だった。
しかし,多くの有色人種によって構成されていた低開発諸国の人々に
とっては,アメリカ国内で起こっていた黒人リンチなどあからさまな人種
差別事件は,アメリカの掲げる普遍的価値の内実に疑問を抱かせるもの
だった。こうして,世界の世論の前で外
政策を展開していたアメリカ国
務省を中心とする政策立案者たちと,南部白人世論の前で
演じ
ていた
南部民主党を中心とする白人人種差別主義者との厳しい矛盾が表面化する
ことになったのである。
表向き人種差別の克服を目指す連邦政府と,南部白人有権者に手を縛ら
れていた南部各州の政治家との対立を突いて,黒人
民権運動は,連邦政
府にその政策の徹底をせまって次々と成果を上げていった。アメリカの白
人有権者の多くも,南部白人権力者たちの頑固な人種隔離政策や暴力的黒
人弾圧に批判的となり,差別されてきた黒人に対する同情を感じるように
なり,
ついに 196
4年アメリカの法的人種隔離体制を打破する
民権法をよ
うやくのことで成立させ,1
965年には黒人参政権剥奪を違法とする投票権
法を成立させたのである。
こうして,アメリカでは,実質的な人種差別はその後も根深く残ったと
はいえ,法的な人種隔離,あるいは人種差別は違法とされるようになり,
アメリカ黒人にとっての一つの時代が終わった。
2
13
北海学園大学人文論集
5.市場原理主義の下での
①
第 58号(20
1
5年3月)
極化
と
多様化
の時代
政府による実質的差別の解消から弱者保護の放棄へ
民権法や投票権法が成立した 1
9
60年代の中ごろは,
アメリカ経済が最
も順調に成長していた時期にあたり,
民権法が掲げた人種差別撤廃を実
質的に保障する福祉政策や教育補助政策の大幅な拡大が進められた。それ
は,当時毎年発生していた全国主要都市での人種暴動に対する対応策でも
あった。この時代には,政府が,
のために歴
保護する
民権法に基づいて,実質的な差別撤廃
的に差別され不利な条件を押し付けられてきた被差別集団を
積極的差別是正策
が推進され,一部ではあれ,大きな成果を
上げた。そして黒人たちは参政権を獲得し,政治の世界にもかつてなく進
出した웋
。
웏
しかし,ちょうどこの頃から激化し始めたベトナム戦争は泥沼化し,ア
メリカ経済に大きな打撃を与え,しかもアメリカ経済は,ヨーロッパや日
本からの追い上げを受けて競争力を低下させていた。アメリカは,企業競
争力強化のために,労働力のコストと国民の諸権利を実質的に切り詰め,
政府による弱者保護のための予算支出を抑制するようになった。その政策
0年代のレーガン政権であり,その後
の体系を鮮明に打ち出したのは,198
新自由主義 と名付けられる市場原理主義に基づく,政府の弱者保護の役
割を徹底的に切り詰める政策が進められることになった。その過程でいわ
ゆる
産業の空洞化
そして
産業の海外移転
が進行し,労働市場の
断の固定化,不安定雇用の決定的拡大がもたらされた。こうして,いわゆ
る
格差拡大
と呼ばれるほんの一部の高額所得者以外は全体として所得
웋
웏黒人参政権の保障は,再 期に行われ,その後も北部諸州では引き続き行わ
れてきたが,人種を理由として,それまでの差別を根拠として特別の保護を
与える 積極的差別是正策 (Af
f
i
r
mat
i
veAct
i
on)は,アメリカ 上始まっ
て以来,初めての政策だった。大森一輝
얨奴隷解放後の黒人知識人と 人種
2
14
アフリカ系アメリカ人と言う困難
(彩流社,2
0
1
4年)参照。
アメリカ黒人の歴
の新しい構成 (上杉)
が低減する事態が起こった。
たしかに,人種差別に対する
的否定 ,黒人にも開かれるようになっ
た自由労働市場での一部の黒人の成功によって,黒人のアメリカ社会各
野における進出には目覚ましいものがある。しかし,それでもなおアメリ
カ黒人中産階級の規模や安定性はアメリカ社会の平
かも,黒人の社会的上昇を後押ししてきた
なく白人に対する
逆差別
に遠く及ばない。し
積極的差別是正策
は,まも
であるとする裁判所判決や政策が次々と打ち
出され,その多くが廃止に追い込まれた。政府は, 差別がなくなった ア
メリカでは, 肌の色を意識した特別の政策 =被差別集団の保護のために
社会に介入する政策は,必要がなくなった( カラーブラインド と呼ばれ
る)として,実質的な差別を放置する政策に転換したのである。
このような
と対決する
弱者保護の放棄
力戦体制
政策は,国民を国家の下に
動員して敵
がソ連崩壊・冷戦の終結によって解除され始め,
被差別少数集団を保護し国家への忠誠・協力を求める必要性がますます少
なくなった時期に進められるようになった。
こうして,無防備のまま
自由競争市場
衆は,一部の幸運なものを除きその大部
に投げ込まれた多くの黒人大
が,アメリカ社会・経済の最底
辺に沈殿し,浮上の可能性を見いだせないまま長期にとどめ置かれること
となった。アメリカ黒人の間に,一部の中産階級化した人々と,大部
最底辺に沈殿し続ける人々との
断,
の
極化が進んだのがこの時代の一つ
の特徴である。そして,これらの絶望的な状況に追い込まれた人々に対し
0年代ジョンソン政権が打ち出した
て打ち出されたのが,かつての 196
困との戦争
③
政策と決別する
麻薬との戦争
麻薬との戦争
政策だった。
と黒人の大量収監
当然,人種差別が事実上根深く全社会生活の中に行き渡っているアメリ
カ社会では,この政策は, カラーブラインド どころか,黒人やメキシコ
人などの特定
人種
を事実上狙い撃ちにする政策となった。警察官が,
外見で有色人を恣意的に不釣り合いに多く不審尋問をする( レイシャル・
2
15
北海学園大学人文論集
プロファイリング
第 58号(201
5年3月)
と呼ばれる)ことが
然とおこなわれている結果,収
監者に占める黒人の比率は,他のどの集団よりもはるかに高く,その人口
に占める収監率は世界の中でも飛びぬけて高い。たとえば,2
0
0
6年には,
2
0代の黒人男子の 10人に1人が収監されていた。
麻薬犯罪者 の監獄への収監の急増によって,アメリカにおける監獄人
口は,レーガン政権開始時から 2
1世紀初頭までに8倍にも増え,監獄を維
持するための人員や医療,
食料, 築など膨大な予算を支出するようになっ
た。そして監獄内では,労働基本権を保障されない囚人労働者が,監獄と
契約している企業に巨万の利益をもたらすようになっている。それは,ま
た,警察・裁判所・政治家・監獄関連企業の巨大な利権集団(産獄複合体)
を生みだし,もはや容易には縮小できない構造が出来上がり,アメリカ社
会における
厳罰主義政治
の推進力となっている。それは事実上,有色
人種に対する差別的抑圧の強化を目的としているとしか言いようがない。
そして,政府財政が連邦、州、都市の各レベルで深刻な危機に陥り,福祉
監獄の予算は上昇を続けてきた。
や教育予算が大幅に削られている一方で,
しかも,200
1年9月 11日のテロ事件以後,反テロ政策を名目とした人権
侵害は,大胆に進められ,黒人は警官によって不釣り合いに多くの暴力的
取り締まりを受け,頻発するいわゆる 人種暴動 の引き金となっている。
犯罪者 に対する人権軽視の風潮の中で,監獄内ではギャング集団による
組織化と他の囚人に対する暴力支配が放置され,看守による囚人に対する
レイプや暴行・虐待が多発し,裁判事件で監獄当局が敗訴し,多額の賠償
金を支払わされる事件も起こっている웋
。
원
웋
원上杉
の歴
忍 アメリカ合衆国における産獄複合体(Pr
i
s
onI
ndus
t
r
i
alCompl
e
x)
的起源
얨南部の囚人貸出制・チェインギャングのメカニズム
北海学園大学人文論集
イヴィス著・上杉忍訳
얨
第 50号,2
0
11年 1
1月,1
2
2頁。アンジェラ・デ
監獄ビジネス
波書店,2
0
0
8年。
2
16
얨グローバリズムと産獄複合体
岩
アメリカ黒人の歴
④
国外からの
アフリカ系
の新しい構成 (
上杉)
移民の急増がもたらしているもの
新自由主義的政策の世界的浸透は,グローバリゼーションを促進し,そ
れは,国民国家間,あるいは民族(エスニック)集団間,宗教集団間の軋
轢を生みだしている。排外主義的扇動によってその軋轢を政治力に変える
政治勢力が各国で跳梁跋 するようになってきたのが今日の日本をはじめ
とする先進諸国の共通の特徴であるが,しかし,グローバリゼーションは
不可避的に人の移動を活発化させ,アメリカでは,2
1世紀に入ってカリブ
海域ばかりではなく,アフリカから
アフリカ系
の移民が急増するよう
になった。そして彼らは,2
000年には,その子どもたちを含めると アフ
リカ系アメリカ人 の人口の 1
0 の1を超え,ニューヨーク市などの一部
の地域では,その比率は4
しかし,この
の1に達しているといわれている。
新しいアフリカ系アメリカ人
カ系アメリカ人
と言う 想像の共同体
は,これまでの
アフリ
に自らが含まれているという自
覚がない。彼らには,奴隷制から自由へ,そして人種隔離制度からその解
体へと言う共通の歴
的経験がない。彼らにとっては,母国の集団的アイ
デンティティ,たとえば,ジャマイカ系,ハイチ系,ナイジェリア系,セ
ネガル系,ヨルバ系,エーヴェイ系としてのアイデンティティをアメリカ
の地で強化し,自らを守ることの方がより現実的に思えるのである。
この傾向がさらに進行して, アフリカ系アメリカ人 の人口の過半数を
占めるようになれば,また,その頃にはそのほかの有色人種人口も, アメ
リカ白人 の人口と比較して急増し, 白人人口 が過半数を割るであろう
から,アメリカにおける
カ黒人
人種差別問題
の様相は大きく変容し,アメリ
は, 新たな章 を書き加えるだけでなくか,そのほかの枠組みに
よって書き直さねばならなくなるだろう。
む
す
び
以上が,私の
アメリカ黒人
頂いた読者にはお
の物語
の骨格である。ここまで読んで
かりのように,私の物語は,前近代から近代ブルジョ
2
17
北海学園大学人文論集
第 58号(201
5年3月)
ア民主主義革命へ,そして社会主義革命へと言う展望を前提とはしていな
い웋
。
웑
その物語は,世界資本主義システムを繰り返し襲ったその危機と支配体
制の再編成の過程で,国家権力を支配してきた勢力とそれを主に支えてき
た白人中産階級の
歴
裂の間
をぬって,黒人大衆が,その力を蓄えてきた
として描かれる。黒人は全人口の8
の1を占めるにすぎず,他の少
数派集団や白人の一部の同情や支持なしにアメリカ黒人がその自由を拡大
することは極めて困難だったことに注目しながらこの物語は語られなけれ
ばならない。すなわち, アメリカ黒人 の 想像の共同体 としての成長・
結束あるいはその内部
裂とともに,白人を中心とする他の集団との対抗
と協力にも注目しながらその前進と後退を描かねばならない。言いかえれ
ば,アメリカ黒人の地位の向上を, 敵と味方 の単一的対抗関係の中で描
くのではなく,複数集団の組み合わせの力関係の中で描く必要があると
えている。
そして,アメリカ黒人をめぐる状況は,国際情勢と切り離しがたく結び
ついており,奴隷解放宣言や,冷戦下の
たように, 国際世論
最後に
民権法などを論じる際に指摘し
の果たした重要な役割にも注目する必要がある。
アメリカ黒人
に含まれる人々の近年の急激な多極化と多様化
によって, アメリカ黒人 と言う枠組み自体が大きく変容し,他の集団と
웋
웑もちろん,本田氏は アメリカア黒人 に含まれる人々にかかわる出来事を
年代順に配置し,単にアメリカ の欠落部 を埋めるといった 部
てのアメリカ黒人
メリカ黒人解放
とし
を書くつもりはなかった。(その典型は,猿谷要著 ア
奴隷時代から革命的反乱まで
サイマル出版,1
9
6
8
年,である。また,新しい研究成果を取り入れたはるかに優れたジェームズ・
M・バーダマン著 アメリカ黒人の歴
人
01
1年もこの 黒
NHK ブックス,2
に含まれるであろう。)本田氏にとって黒人 は 私なりのアメリカ
の方法 であった。私も本田氏の立場を引き継いでいるつもりである。私は,
彼のアメリカ資本主義一国 を批判し,世界資本主義体制の中のアメリカ黒
人 を描くことをめざしてきた。
2
18
アメリカ黒人の歴
の新しい構成 (
上杉)
の関係も著しい変化を想像させる事態が進行しており,新たな枠組みの設
定が求められる可能性が大きくなっていることも
以上のような
版した私の中
物語
の骨組みに
った
慮する必要がある。
アメリカ黒人
を,今回出
新書で,描くことができたかどうかについては,読者の批
判を待つ他はない。
(20
14年8月)
2
19
★逆ノンブル★
︵
六
五
︶
で
、
し
か
も
教
団
経
営
が
巧
で
、
一
方
に
人
心
を
捉
む
こ
と
が
上
手
で
あ
る
反
面
、
常
識
過
剰
で
、
そ
の
信
条
の
内
包
す
る
所
は
広
い
養
叟
は
右
の
や
う
に
五
山
派
に
も
関
係
が
深
く
、
多
方
面
の
教
養
を
も
積
ん
だ
一
廉
の
大
老
宿
で
あ
つ
た
が
、
自
我
が
強
く
、
自
信
満
々
た 休 中 名
し 。 と 心 を
養 に 冠
か
叟
し
し
쐍
3
教
얧︶ た
団
얧 、 専
一
論
休 大 が
の
論 徳 ほ
上
の 寺 と
大 か
再 夜 ん
徳 ら
検
ど
寺 見
討 話 見
の れ
歴 ば
ら
쐍
5 に
쐍
6 、
얧︶ つ れ
︶
養
で い な
で 叟
養 て い
は の
叟
の
、 存
に
で
在
言 얧
養 あ
は
及 叟 る
無
し 会 。
視
た 下
で
こ の か
き
と 記 に
る
が 述 飯
も
あ に 塚
の
る つ 大
で
が い 展
は
、 て 氏
な
小
の
く
4
論 얧쐍
︶
、
の
養
そ
趣 が 叟
の
旨 あ 宗
事
は る
績
副 く と
に
題 ら 春
つ
の い 浦
い
と で 宗
て
お あ
多
り る 얧
く
。
一 筆
の
休 者 比
言
論 も 丘
及
の か 尼
が
再 つ 五
な
検 て 山
さ
討 小 と
れ
の
て
で 論 関
い
あ
係
る
っ 一 を
。
た
と
え
ば
玉
村
竹
二
は
夙
に
知
ら
れ
た
こ
と
で
あ
る
。
そ
の
結
果
で
あ
ろ
う
か
、
養
叟
へ
の
評
価
は
あ
ま
り
芳
し
い
も
の
で
は
な
い
。
そ
れ
が
証
拠
に
、
養
叟
の
養
叟
は
法
弟
一
休
か
ら
一
養
叟
宗
大
悪
党
の
邪
師
大
膽
厚
面
禅
1
師쐍
︶
老
婆
新
婦
の
禅
栄
衒
の
悪
知
2
識쐍
︶
な
ど
と
罵
倒
さ
れ
つ
づ
け
た
こ
と
2
42
岡
誠
北海学園大学人文論集
と
そ そ
の の
時 ほ
11か
代쐍
︶
養
で 叟
は に
、 言
及
す
る
も
の
は
多
い
が
、
お
お
む
ね
一
休
を
論
ず
る
上
で
の
言
及
で
あ
る
。
た
と
え
ば
芳
賀
幸
四
郎
狂
雲
子
一
休
め む
て こ
、 と
一 を
派 養
結 叟
集 が
を 厳
は 命
か し
る た
も こ
の と
で は
、
法 祖
系 塔
的 崇
連 拝
鎖 の
意 念
識 を
の 門
高 徒
揚 に
と 抱
固 か
定 せ
化 、
で 同
あ 時
10に
る쐍
︶
法
と 系
の 的
興 訴
味 求
深 を
い 促
指 し
摘 、
を 強
さ 固
れ な
て 門
い 派
る 意
。 識
を
保
持
せ
し
布 る
教 と ま
の
た
実 そ 竹
績 れ 貫
を を 元
大 不 勝
徳 満 氏
寺 と は
の し
教 て 日
団 紀 本
管 伊 禅
理 の 宗
統 山
制 中 研
下 に 究
に か
吸 く で
収 れ 、
す る 養
る
叟
こ な が
と ど 日
で 養 峰
在 叟 宗
野 の 舜
僧 反 の
華 骨 大
叟 的 徳
を 性 寺
大 格 入
徳 の 寺
寺 一 を
僧 面 拒
と を 否
位 指 す
置 摘 る
づ さ 運
8 動
け れ쐍
︶
直 、 を
쐍
し9
ま お
︶
、 た こ
さ 師 な
ら 華 い
に 叟 、
華 の 入
叟 近 寺
の 江 が
忌 地 実
斎 方 行
を で さ
営 の れ
と
手
厳
し
い
。
こ
こ
で
は
養
叟
の
禅
が
密
参
口
訣
の
禅
で
あ
っ
た
と
の
指
摘
に
留
意
し
て
お
き
た
い
。
と
指
摘
さ
れ
て
い
る
。
世
間
の
評
判
も
良
く
信
者
も
多
か
っ
た
と
し
な
が
ら
も
、
常
識
的
で
禅
林
の
弊
風
に
目
を
つ
ぶ
り
聖
者
ぶ
っ
て
い
る
第 58号(2
015年3月)
多
か
っ
た
。
241
し
か
も
表
面
何
食
わ
ぬ
顔
で
、
聖
者
を
き
め
込
む
や
う
な
所
が
あ
っ
た
ら
し
く
、
世
間
か
ら
の
風
評
は
、
極
め
て
良
好
で
あ
り
信
者
も
と
称
し
て
案
の
解
答
法
を
そ
れ
と
な
く
形
に
は
め
て
、
こ
れ
を
教
へ
、
そ
れ
が
わ
か
る
と
付
法
を
す
る
と
い
ふ
所
謂
密
参
口
訣
の
禅
︶
、
て
見
ぬ
振
り
す
る
ば
か
り
か
、
時
と
し
て
は
、
そ
れ
ら
の
弊
風
を
素
知
ら
ぬ
顔
を
し
て
、
自
ら
も
実
行
し
︵
即
ち
禅
を
や
さ
し
く
説
く
養
叟
と
い
ふ
人
は
、
い
か
に
も
常
識
円
満
で
、
当
時
の
禅
林
の
不
合
理
と
矛
盾
と
を
十
に
承
知
し
な
が
ら
、
実
生
活
に
於
て
は
、
見
と
裂 指
摘
が さ
養 れ
叟 て
に い
は る
じ 。
ま 養
る 叟
禅 と は
宗 の 教
に 指 養
於 摘 が
け に あ
る 留 り
異 意 教
端 し 団
の て 経
問 お 営
7 き に
題쐍
︶
た 巧
で い み
、 。 で
あ
る
が
、
常
識
過
剰
で
浅
薄
だ
と
の
評
価
で
あ
る
。
こ
こ
で
同
氏
は
ま
た
そ
れ
以
前
大
徳
寺
の
る
と
、
そ
の
性
格
よ
り
す
る
当
然
の
帰
結
と
し
て
、
こ
こ
に
大
徳
寺
の
裂
が
始
ま
る
や
う
で
あ
る
。
け
れ
ど
も
、
や
や
浅
薄
な
感
も
あ
り
、
到
底
そ
の
師
華
叟
の
透
徹
に
は
及
び
も
つ
か
な
か
つ
た
ら
し
い
。
そ
の
養
叟
が
活
躍
を
は
じ
め
︵
六
六
︶
養叟宗
と
、
大
徳
寺
再
興
と
い
う
養
叟
の
功
績
も
名
聞
利
養
か
ら
来
る
も
の
と
論
断
し
て
い
る
。
さ
ら
に
西
村
恵
心
氏
は
狂
雲
︵
六
七
︶
얧
仮
面
師
の
素
顔
は
な
い
か
、
と
見
破
っ
た
の
が
一
休
で
あ
っ
た
。
表
向
き
の
大
義
に
か
な
っ
て
い
る
が
、
じ
つ
の
と
こ
ろ
、
そ
れ
が
す
べ
て
養
叟
個
人
の
名
聞
利
養
︵
名
誉
と
利
益
︶
の
た
め
の
も
の
で
待
遇
の
寺
院
に
仕
立
て
た
の
も
、
す
べ
て
当
の
養
叟
で
あ
っ
た
。
⋮
⋮
養
叟
の
は
な
や
か
な
活
動
は
、
す
べ
て
大
徳
寺
の
再
興
と
い
う
大
徳
寺
の
経
済
的
窮
迫
を
堺
の
有
力
商
人
と
タ
イ
ア
ッ
プ
し
て
打
開
し
、
後
花
園
天
皇
の
綸
旨
を
得
て
、
大
徳
寺
を
紫
衣
勅
許
の
別
格
と
、
名
利
に
恬
淡
な
華
一 叟
休 の
性
風
格
狂
の
を
精 쐍
1
3
神 ︶ 受
け
で つ
、 い
だ
の
が
一
休
で
、
養
叟
は
そ
う
で
は
な
か
っ
た
と
さ
れ
た
。
ま
た
西
田
正
好
氏
は
尚 う
と い
き う
わ 例
め は
て き
仲 わ
が め
悪 て
か 少
っ な
た い
の の
は で
、 は
養 な
叟 か
が ろ
名 う
利 か
に 。
あ こ
ま の
り 名
恬 利
淡 を
で 嫌
な っ
か た
っ 性
た 格
か を
ら 一
で 休
も は
あ そ
ろ の
1
2ま
う쐍
︶
。 ま
受
け
つ
ぐ
の
で
あ
る
。
養
叟
和
( 岡)
華
叟
禅
師
は
全
く
名
利
に
恬
淡
で
あ
っ
た
ら
し
く
、
大
燈
下
の
直
系
で
あ
り
な
が
ら
大
徳
寺
へ
は
一
度
も
出
世
し
て
い
な
い
。
⋮
⋮
こ
240
を
論
じ
ら
れ
た
平
野
宗
浄
氏
は
、
と
一
休
の
法
に
対
す
る
厳
粛
主
義
に
対
立
す
る
も
の
と
養
叟
を
み
て
い
る
。
ま
た
講
座
禅
・
第
四
巻
禅
の
歴
얧
日
本
얧
で
一
休
る
一
休
の
法
に
対
す
る
厳
粛
主
義
か
ら
出
て
居
る
と
解
す
べ
き
で
は
な
か
ら
う
か
。
布
教
上
の
縄
張
り
争
ひ
や
正
伝
傍
出
の
名
争
ひ
な
ど
も
関
係
し
て
は
い
や
う
が
、
根
本
は
大
法
の
尊
厳
と
純
粋
を
重
ん
じ
よ
う
と
す
の
養
叟
を
口
汚
く
罵
つ
た
根
本
の
理
由
が
あ
る
の
で
あ
る
。
そ
れ
は
性
格
上
の
相
違
や
弟
子
間
の
反
目
に
激
成
さ
れ
た
と
こ
ろ
も
あ
り
、
を
ら
れ
る
。
⋮
⋮
養
叟
が
法
の
安
売
り
を
し
、
そ
の
弊
の
は
か
り
知
る
べ
か
ら
ざ
る
も
の
あ
る
の
を
憂
慮
し
た
と
こ
ろ
に
こ
そ
、
一
休
衣
裳
を
好
み
、
女
人
に
も
多
く
の
崇
拝
者
を
持
つ
て
ゐ
る
、
云
は
ゞ
下
ら
ぬ
堕
落
坊
主
の
や
う
に
思
は
れ
た
の
で
あ
ら
う
と
説
い
て
並
な
肌
合
い
の
人
で
あ
つ
た
ら
う
か
ら
、
⋮
⋮
養
叟
を
一
休
の
目
に
写
し
て
の
み
見
た
と
こ
ろ
で
は
、
如
何
に
も
凡
庸
で
、
銭
を
愛
し
、
鈴
木
大
拙
博
士
が
自
戒
集
の
解
説
で
、
両
者
は
性
格
的
に
相
容
れ
な
い
も
の
を
持
つ
て
ゐ
た
の
で
、
養
叟
は
温
良
で
保
守
的
で
月
北海学園大学人文論集
伝 所 と
本 収 か
の ら
︶
、
は
卍 宗 じ
所 元 恵 め
収 師 大 な
の 蛮 照 け
の 禅 れ
養
師 ば
叟
行 な
쐍
9宝 状쐍
16ら
伝1
︶
︶
伝
︵
︵ な
灯 以 い
増 録 下 。
補
、 養
龍 巻
叟
宝 二 行 の
山 九 状 伝
大 所 ︶ 記
徳 収 、
寺 の 実 料
世
伝 に
譜 養 宗 は
叟 真 、
、 伝쐍
18︵
︶
以
下 ︵ 一 者
、 以 四 不
下 三 明
世 、 四 な
譜
∼ が
伝
︶ 灯 一 ら
な 録 五 お
〇 そ
ど
七 ら
が ︶
、 ︶ く
あ 嘉
最
る 永
。 四 の 古
の
以 年
宗
も
下 ︵
、 一 恵 の
大 と
行 八 照 思
状 五 禅 わ
一 師 れ
を ︶ 行 る
17
中 の 状쐍
︶
心 序 ︵ 続
に を 以 群
養 も 下 書
叟 つ 、 類
の
従
生 大 実
徳
寺
世
譜
そ
こ
で
養
叟
を
論
ず
る
ば
あ
い
、
い
ち
ど
一
休
の
批
判
的
言
辞
を
側
に
除
け
、
原
点
に
立
ち
戻
っ
て
、
養
叟
の
生
涯
を
明
ら
か
に
す
る
こ
二
お
む
ね
、
一
休
の
批
判
的
言
辞
に
影
響
さ
れ
た
養
叟
像
に
な
っ
て
い
る
と
思
う
。
第5
8号(2
0
15年3月)
と
い
う
記
述
を
み
る
と
、
一
休
の
養
叟
批
判
の
言
辞
に
引
き
ず
ら
れ
て
い
る
よ
う
な
感
を
抱
か
せ
る
。
こ
の
よ
う
に
諸
氏
の
一
休
論
で
は
お
2
39
大 は
徳 た
寺 せ
の る
主 か
流 な
を 養
華 叟
叟 和
一 尚
門 は
の 、
も 師
の の
と 華
し 叟
て が
取 遷
り 化
返 さ
そ れ
う る
と と
い 、
う 待
野 っ
心 て
を い
丸 た
出 よ
し う
に に
す 印
る 可
よ 状
う を
に 振
な り
っ か
1
5ざ
た쐍
︶
。 し
、
華
叟
老
師
を
笠
に
着
て
、
て
の
も
の
と
い
う
こ
と
に
な
る
。
し
か
し
、
と
、
反
大
模
の
華
叟
が
養
叟
を
大
徳
寺
に
送
り
こ
ん
だ
と
注
目
す
べ
き
指
摘
を
さ
れ
て
い
る
。
そ
の
後
の
養
叟
の
活
躍
も
華
叟
の
意
を
挺
し
︵ 養
一 叟
四 宗
二
八 を
︶ 送
年 り
に 込
は ん
大 だ
徳 の
寺 で
が あ
五 る
山 。
の 養
列 叟
位 宗
か
ら は
脱 大
退 徳
し 寺
て の
、 住
林 持
下 に
︵ な
山 る
隣 と
派 、
︶ さ
に っ
下 そ
る く
こ 朝
と
の や
許 幕
可 府
を に
取 は
り た
付 ら
け き
た か
の け
で
あ 、
正
1
4
る쐍
︶ 長
。
元
を
見
て
い
た
華
叟
は
、
大
模
の
や
り
方
を
よ
し
と
せ
ず
、
大
徳
寺
の
中
に
反
大
模
の
方
向
を
打
ち
出
そ
う
と
し
、
自
の
法
嗣
で
あ
る
얧
大 で
模 、
宗
範
は
大
徳
寺
に
入
る
と
幕
府
と
関
係
を
密
に
し
、
大
徳
寺
が
五
山
の
列
に
加
え
ら
れ
る
よ
う
奔
走
し
た
。
近
江
堅
田
か
ら
こ
れ
︵
六
八
︶
養叟宗
す
る
所
以
な
り
︵
六
九
︶
よ
れ
ば
、
養
叟
は
こ
の
吸
江
庵
で
博
く
群
書
を
覧
、
且
つ
は
経
を
探
州
ニ
往
テ
大
周
ニ
吸
江
庵
ニ
依
ル
と
あ
り
、
養
叟
が
遊
学
先
と
し
て
大
周
の
い
る
土
佐
の
吸
江
庵
を
選
ん
だ
の
で
あ
っ
た
。
都
か
ら
土
佐
に
遷
っ
た
よ
う
に
と
れ
そ
う
で
あ
る
。
し
か
し
実
伝
本
と
こ
ろ
が
養
叟
は
そ
の
後
、
大
周
周
に
従
い
土
佐
の
吸
江
庵
に
遷
っ
た
と
い
う
。
こ
の
っ
で
た
は
と
、
い
う
大
。
周
し
と か
を
あ し
土
り
の 行
、 実
吸 状
遊 伝
江
の
学 本
の
に 記
一 で
攀 述
貫 は
鱗 か
と 、
す ら
は
し
、 、
て 大
吸 周
世 大
江 を
譜 周
に
庵 土
・ の 行 で 付
書 吸 状 も い
て
写 江
山 庵 に 土 京
な
く
横
岳
派
=
に
攀
鱗
し
、
心
空
上
人
を
播
の
書
写
山
に
附
翼
す
。
内
外
の
典
を
探
庵
の
塔
主
は
不
明
な
が
ら
、
養
叟
は
こ
こ
で
大
応
派
に
ま
で
拡
大
し
た
こ
と
に 蔵
な
る を
。 典
っ
た
と
い
う
。
養
叟
の
天
潤
庵
へ
の
転
居
は
、
養
叟
の
視
野
が
五
山
派
だ
け
で
は
庵
に
移
っ
て
い
る
。
こ
の
九
峰
の
入
定
の
仁 こ
寺 と
天 は
潤 養
庵 叟
は の
横 預
岳 か
派 り
の 知
塔 ら
頭 ぬ
で こ
、 と
開 で
基 、
は 養
南 叟
浦 は
紹 こ
明 れ
の 以
法 前
嗣 、
で い
あ つ
る の
可 こ
と
宗 か
2
1は
然쐍
︶
。 は
養 っ
叟 き
が り
掛 し
錫 な
し い
た が
と
き 仁
の 寺
天 天
潤 潤
( 岡)
と
問
い
か
け
る
と
、
九
峰
は
山
中
の
諸
老
に
別
れ
を
言
い
自
一 ら
指 石
を
竪 に
て 入
之 る
を 。
示 住
持
し は
、 衆
衆 を
が 率
い
厳 そ
呪 こ
を に
諷 至
誦 る
す 。
る あ
な る
か 僧
で が
自
ら の
中
戸 に
を 如
閉 何
め な
た る
と
い か
是
2
0
う쐍
︶
。 れ
末
後
の
一
句
2
38
上
京
、
東
福
寺
・
南
禅
寺
を
歴
住
し
た
。
応
永
一
二
年
に
八
一
歳
で
示
寂
。
興
味
を
引
く
の
は
そ
の
示
寂
が
入
定
で
あ
っ
た
こ
と
。
九
峰
は
寺
の
霊
鋒
慧
剣
の
下
で
出
家
し
そ
の
法
嗣
と
な
っ
た
人
。
豊
後
万
寿
寺
に
出
世
し
、
郷
里
の
華
蔵
寺
に
い
た
と
き
足
利
義
満
の
招
き
を
受
け
と
こ
ろ
で
養
叟
の
受
業
師
で
あ
る
九
峰
韶
奏
と
は
ど
ん
な
人
物
か
。
宝
伝
灯
録
に
よ
れ
ば
、
九
峰
は
出
雲
の
生
ま
れ
で
、
出
雲
華
蔵
初
等
教
育
を
受
け
、
出
家
後
も
し
ば
ら
く
は
九
峰
の
侍
者
と
し
て
師
事
し
て
い
た
の
で
あ
ろ
う
。
と
あ
る
が
、
伝
灯
録
で
は
駆
烏
と
な
り
祝
髪
納
戒
に
及
び
移
り
侍
局
に
居
す
と
あ
り
、
出
家
ま
で
喝
食
行
者
と
し
て
九
峰
の
も
と
で
ら
な
い
。
八
歳
の
時
か
ら
東
福
寺
正
覚
庵
の
九
峰
韶
奏
︵
一
三
二
五
∼
一
四
〇
五
︶
に
師
事
、
行
状
で
は
養
叟
は
永
和
二
年
︵
一
三
七
六
︶
、
京
都
東
山
霊
山
麓
に
生
ま
れ
た
と
い
う
。
俗
姓
が
藤
原
氏
と
あ
る
だ
け
で
、
そ
れ
以
上
の
こ
と
は
祝
髪
受
具
ま
で
侍
局
を
司
る か
涯
を
概
観
し
た
い
。
な
お
世
譜
本
以
外
は
原
漢
文
で
あ
る
が
、
本
稿
で
は
読
み
下
し
に
し
た
。
北海学園大学人文論集
ら
し
い
。
実
伝
本
で
は
こ
こ
の
と
こ
ろ
が
、
師
と
す
べ
き
華
叟
の
存
在
を
示
唆
さ
れ
た
こ
と
に
な
る
。
と
こ
ろ
で
巨
と
記
さ
れ
て
い
る
。
こ
れ
に
よ
れ
ば
、
養
叟
は
巨
和
尚
の
も
と
で
多
く
和 の
尚
と 案
は を
い 透
っ 過
た し
い 増
誰 上
の 慢
こ に
と 陥
か り
。 、
ど そ
う れ
も を
こ 見
れ か
は ね
巨 た
岳 法
の 友
こ か
と ら
と
一
宜 れ 巨 休 ⋮ 者
し は
が ⋮ ハ
︶
く 然
和
往 ら 尚 自
仁
き ず に 戒
寺
て 。 参 集
ノ
参 茲 見
後
見 に し で
堂
す 大 、 語
ノ
べ 灯 而 っ
し 的 し て
払
。 伝 て い
に
索
言 許 る
話
外 多 。
ヲ
の の こ
忘
と
上
却
足 案 の
仕
に を 真
候
華 透 偽
。
叟 過 は
人
和 す と
前
尚 。 も
ニ
有 自 か
テ
り ら く
ハ
。 謂 、
チ
久 う 行
ヲ
し 、 状
カ
く 已
キ
江 に で
タ
州 是 は
ル
安 れ
者
脇 足 払
ハ
禅 る の
朝
興 か 記
。 事
ニ
に 法 に
モ
栖 友 つ
チ
師
遅
︵
づ
イ
閑 に き
ラ
居 謂 、
︶ い
レ
す て
ス
。 云
ト
師
、
く
若
サ
し 、
サ
肯 者
エ
裡
諾 ︵
申
有
サ
ら 裏
ル
、
ば
。
そ
、
第 58号(2
0
15年3月)
仁
先 寺
年 で
養 の
叟
払
内 に
裏 つ
サ い
マ て
エ は
国 、
師
号
ヲ
所
望
申
セ
ト
モ
カ
ナ
ワ
ス
。
又
禅
師
号
ヲ
所
望
申
す
。
人
々
申
サ
レ
ケ
ル
ハ
、
コ
ノ
養
叟
ト
申
ス
2
37
り
、
書
雲
・
後
版
に
任
じ
其
払 の
が
人 塵
天 提
を 唱
驚 、
か 人
し 天
た を
と 聳
い 動
う す
。
と
払 あ
は り
住 、
職 書
や 雲
首 は
座 書
な 記
ど 、
が 後
住 版
職 は
に 後
代 堂
わ 首
っ 座
て の
説 こ
法 と
す で
る あ
こ ろ
と う
。 。
こ こ
の の
養 書
叟 記
の ・
首
座
の
と
き
の
養
叟
の
仁
寺
天
潤
庵
に
あ
っ
た
こ
と
、
仁
寺
で
は
第
二
座
す
な
わ
ち
書
記
と
い
う
役
に
な
っ
た
こ
と
を
知
る
。
こ
の
遊
学
を
終
え
た
養
叟
は
再
び
仁
に
還
つ
た
。
年
譜
で
は
再
ヒ
仁
ニ
回
テ
第
二
座
ニ
居
ス
実
伝 と
本 あ
で り
は 、
養
再 叟
び の
本
仁 籍
に が
還
し
て
お
き
た
い
。
円
教
寺
は
西
の
比
叡
山
と
ま
で
い
わ
れ
た
天
台
宗
の
古
刹
で
あ
り
、
養
叟
の
遊
学
が
禅
宗
の
世
界
に
と
ど
ま
ら
な
か
っ
た
こ
と
だ
け
は
確
認
は
じ
め
書
写
山
に
行
き
、
そ
こ
か
ら
土
佐
に
渡
り
、
ふ
た
た
び
書
写
山
に
戻
り
、
心
空
上
人
の
講
義
を
聴
い
た
の
か
も
知
れ
な
い
。
書
写
山
を
巡
っ
た
の
で
あ
ろ
う
。
少
し
気
に
な
る
の
は
、
行
状
で
播
州
書
写
山
に
戻
り
止
ま
り
、
以
て
心
空
上
人
の
講
席
に
依
る
と
あ
り
、
︵
七
〇
︶
養叟宗
華 쐍
叟 軸
与 装
養쐍
宗 題
叟︶ 箋
印 ︶
可
状
쐍
○朱
印
︶
︵
○
印
文
不
明
︶
︵
七
一
︶
示 と
す あ
。 る 遂
。 に
こ 印
れ 証
に を
よ 承
れ け
ば 、
、 華
養 叟
叟 の
が 法
華 嗣
叟 と
に 為
師 る
事 。
し
て
か
ら
一
六
年
後
に
印
証
を
承
け
た
と
い
う
。
そ
の
印
証
が
現
存
し
て
お
り
、
そ
れ
を
師
を
得
て
是
れ
よ
り
十
六
年
、
朝
参
暮
扣
︵
ひ
か
え
る
︶
、
辛
勤
し
て
ま
ず
。
深
旨
を
領
解
し
、
始
め
て
従
前
の
用
の
工
夫
を
知
り
、
か の
も で
し 、
れ こ
な こ
2
3か
い쐍
︶
。 ら
そ は
れ こ
は の
と 初
も 相
か 見
く が
、 い
こ つ
の の
初 こ
相 と
見 か
の は
記
事 か
に ら
つ な
づ い
き 。
、 そ
し
て
こ
の
二
〇
年
も
聖
胎
長
養
︵
悟
後
の
修
行
︶
二
〇
年
の
修
辞
( 岡)
の
事
を
明
け
る
を
要
さ
ん
が
た
め
、
遙
に
和
尚
を
拝
し
来
た
る
、
参
請
を
許
さ
ん
や
と 否
応 や
え
た と
と の
い 養
う 叟
。 の
華 問
叟 い
の か
印 け
可 に
証 対
が し
残 、
っ 華
て 叟
い は
な
い 吾
印
証
を
得
て
よ
り
二
十
年
、
仏
法
を
道
わ
ず
、
今
日
你
の
た
め
に
始
め
て
開
口
す
2
36
叟
こ へ
う の
し 師
て 事
養 を
叟 勧
は め
江 た
州 の
安 か
脇 も
禅 し
興 れ
庵 な
の い
華 。
叟
宗
曇
に
師
事
す
る
こ
と
に
な
る
。
養
叟
が
江
州
安
2
2
脇쐍
︶
の
禅
興
庵
を
尋
ね
た
た
さ
い
、
某
甲
此
た
こ
と
、
実
伝
本
に
あ
る
頗
る
以
て
自
負
し
た
こ
と
︵
自
負
の
主
体
を
養
叟
と
み
た
︶
か
ら
、
巨
岳
は
養
叟
の
こ
と
を
持
て
余
し
華
同
じ
言
外
宗
忠
の
法
嗣
で
あ
る
華
叟
を
示
唆
し
た
こ
と
に
少
し
違
和
感
が
あ
る
が
、
行
状
に
あ
る
多
く
の
案
を
透
過
し
増
上
慢
に
な
っ
と
記
さ
れ
る
人
物
で
あ
る
。
こ
れ
に
よ
れ
ば
養
叟
に
華
叟
の
こ
と
を
示
唆
し
た
の
は
巨
岳
と
い
う
こ
と
に
な
る
。
大
模
派
の
巨
岳
が
大
模
と
と
な
っ
て
い
る
。
天
潤
庵
の
老
宿
巨
岳
は
、
大
徳
寺
世
譜
に
よ
り
大
徳
寺
二
三
世
の
巨
岳
で
大
模
範
七十
ニ
嗣
ク
仁
天
潤
庵
ヲ
兼
住
ス
足
華
叟
和
尚
、
江
の
安
脇
禅
興
精
舎
に
韜
光
す
。
、
若
し
千
里
行
遠
か
ら
ざ
れ
ば
、
則
ち
豈
に
本
を
取
り
源
を
尋
ね
ざ
ら
ん
や
。
以
て
自
負
す
。
或
い
は
師
に
謂
い
て
曰
く
、
本
を
捨
て
末
を
取
り
流
を
尋
て
源
を
失
う
は
道
の
弊
な
り
。
方
に
今
、
大
燈
的
裔
言
外
上
天
潤
に
老
宿
巨
岳
な
る
者
有
り
。
龍
寶
範
大
模
に
参
見
す
る
也
。
日
有
り
私
に
巨
岳
に
淑
諸
し
、
大
模
の
道
を
聞
く
こ
と
有
り
。
頗
る
北海学園大学人文論集
堅
田
祥
瑞
庵
の
華
叟
の
門
を
叩
い
た
の
は
応
永
二
二
年
の
こ
と
な
の
で
、
そ
の
前
年
の
養
叟
印
可
の
事
実
を
知
ら
な
か
っ
た
と
み
る
こ
と
も
こ
れ
が
全
く
の
誤
記
で
あ
る
こ
と
は
、
す
で
に
五
年
前
に
養
叟
が
華
叟
か
ら
印
可
さ
れ
て
い
る
事
実
か
ら
明
瞭
で
あ
る
。
も
っ
と
も
一
休
が
叟
と
養
叟
と
の
仲
を
一
休
が
取
成
し
た
と
い
う
も
の
。
こ
こ
で
の
養
叟
は
一
休
を
引
き
立
た
せ
る
だ
け
の
ピ
エ
ロ
的
存
在
に
な
っ
て
い
る
。
養
叟
が
華
叟
に
画
像
の
賛
を
求
め
た
と
こ
ろ
、
そ
の
文
句
い
来
た
っ
て
的
的
児
孫
に
付
す
を
印
可
と
誤
解
し
吹
聴
、
激
怒
し
た
華
膽
し
て
忘
る
る
こ
と
勿
れ
と
。
を
横
た
え
之
を
破
斥
せ
ん
、
慮
を
為
す
勿
れ
と
。
先
師
の
怒
り
少
し
く
霽
る
。
因
り
て
彎
子
を
把
り
兄
に
付
し
て
曰
く
、
兄
能
く
嘗
を
火
け
ば
、
彼
何
の
面
目
あ
っ
て
か
人
に
見
え
ん
や
。
和
尚
、
百
年
の
後
、
彼
若
し
漫
り
に
券
と
称
し
口
を
開
か
ば
、
則
ち
吾
必
ず
身
に
付
せ
ん
と
欲
す
。
師
、
出
て
先
師
に
啓
し
て
曰
く
、
兄
老
大
、
久
し
く
和
尚
の
会
裡
に
在
り
、
人
皆
之
を
知
る
。
今
遽
か
に
彎
子
て
許
可
の
語
と
為
す
。
而
し
て
稍
稍
に
人
に
訓
う
。
先
師
、
此
れ
を
聞
き
震
怒
し
、
忽
ち
彎
︵
第 58号(2
015年3月)
師
二
十
六
歳
。
宗
首
座
、
先
師
の
像
を
絵
き
讃
を
求
む
。
讃
に
、
い
来
た
っ
て
的
的
児
孫
︶ に
子 付
︵ す
軸 の
︶ 句
を 有
把 り
り 。
来
た
っ 、
て 誤
一 認
火 し
2
35
応
永
廿
六
年
己
亥
年 年
2
5、
譜쐍
︶
養
応 叟
永 は
二 二
六 三
年 歳
の の
条 と
の き
記 に
事 華
が 叟
伝 の
記 門
作 を
者 叩
の い
全 た
く こ
の と
に
作 な
で る
あ 。
る こ
こ の
と 印
を 証
知 の
ら 存
せ 在
て は
く そ
れ の
る こ
。 と
が
か
る
だ
け
で
は
な
く
、
一
休
和
尚
こ
れ
に
よ
れ
ば
、
応
永
二
一
年
︵
一
四
一
四
︶
養
叟
三
九
歳
の
と
き
に
華
叟
の
印
証
を
承
け
て
お
り
、
そ
の
一
六
年
前
と
い
う
と
応
永
五
宗 花
叟
首 老
座 拙
2
4為
書쐍
︶
、
応
永
二
十
一
年
正
月
十
八
日
受
用
太
堅
確
也
、
佗
時
異
日
、
綿
密
護
惜
、
弘
吾
道
而
光
輝
矣
、
深
念
好
念
、
本
有
天
真
性
、
顕
天
地
未
前
、
出
陰
陽
造
化
功
、
挺
抜
清
虚
、
然
物
外
、
上
人
、
契
証
此
田
地
、
長
養
虚
廓
性
躰
、
起
居
幽
邃
、
︵
七
二
︶
養叟宗
叟 養
華
叟
老
拙
書
、
鬢
応 、
永 逢
三 人
癸쐍
十
先
卯年
︶
八 語
月 旧
十 因
八 縁
日 、
密
旨
禅
、
握
得
無
端
雪
花
祖
宗
門
下 証
久 佗
参 云
徹 、
、
充
飽
西
来
求
、
其
志
不
可
辞
、
書
一
首
座
号
養
叟
、
袖
( 岡)
養쐍 쐍
軸
叟題
箋 装
︶
号 表
題
︶
大쐍
打
用附
書
︶
て
も
ら
っ
た
と
い
う
記
事
に
対
応
す
る
叟
曇
叟華
授
与
道
号
二
大
字
、
以
て
年
譜
に
取
り
込
ん
だ
も
の
か
。
こ
の
画
像
賛
は
現
存
し
な
い
よ
う
で
大
が 徳
寺
大 文
徳 書
寺
文 に
書 は
な
三 い
二 。
二 し
三 か
号 し
で 楮
あ を
る 出
。 し
養
叟
の
号
を
書
い
︵
七
三
︶
2
34
し
て
い
る
。
一
休
年
譜
の
作
者
が
行
状
の
記
事
を
利
用
し
た
も
の
か
。
そ
れ
と
も
実
際
に
画
像
賛
が
あ
っ
て
年
譜
作
者
も
そ
れ
を
見
と
あ
る
。
実
伝
本
に
も
同
文
の
画
像
賛
が
記
さ
れ
て
い
る
。
こ
の
部
は
先
の
一
休
和
尚
年
譜
の
画
像
に
賛
を
書
い
た
部
と
酷
似
又
楮
を
出
し
号
を
求
む
。
号
養
叟
と
曰
う
。
口
仏
祖
を
呑
み
、
眼
乾
坤
を
照
ら
す
、
手
裡
の
竹
、
天
魔
魂
を
喪
う
、
一
句
の
語
三
要
印
を
程
す
、
い
来
た
り
的
々
児
孫
に
付
す
。
叟
乃
ち
法
衣
を
付
嘱
し
て
云
く
、
吾
が
道
、
汝
に
至
り
大
い
に
世
に
行
わ
る
也
。
師
、
寿
像
を
写
し
賛
語
を
需
む
。
叟
、
書
し
て
云
く
、
で
き
る
。
し
か
も
行
状
に
は
ら
わ
し
い
記
述
が
あ
る
。
先
の
印
証
を
承
け
た
記
事
に
続
き
、
北海学園大学人文論集
中
ニ
住
庵
ヲ
移
テ
、
龍
宝
ノ
大
用
庵
ヲ
シ
テ
居
ス
と
略
述
さ
れ
て
い
る
が
、
栂
尾
梅
畑
は
城
西
ノ
山
中
に
あ
た
り
、
実
伝
本
の
あ
り
、
大
徳
寺
に
掛
錫
す
る
二
年
前
か
ら
栂
尾
梅
畑
に
草
庵
を
結
び
活
動
し
て
い
た
よ
う
で
あ
る
。
ち
な
み
に
二
年
、
太
だ
単
丁
な
り
。
竟
に
錫
を
大
徳
に
留
め
、
金
剛
軒
に
僑
居
す
。
師
の
門
弟
力
を
戮
せ
、
大
用
叟
の
示
寂
を
機
に
、
養
叟
は
京
都
に
戻
り
、
大
徳
寺
に
掛
錫
し
た
と
と
れ
る
。
し
か
し
実
伝
本
で
は
を
艸 艸
世 し を
譜 師 栂
の 尾
で 霊 梅
は 場 畑
と に
城 為 結
西 す ぶ
ノ
こ
山 と と
た 安
よ 脇
行 う 禅
状 に 興
と 庵
は れ ・
先 る 塩
の 。 津
引
高
用
源
文
院
に
・
堅
つ
田
づ
祥
き
瑞
庵
師
と
、
移
再
っ
び
た
京
こ
師
と
に
に
至
な
り
る
、
。
大
徳
行
寺
状
に
掛
の
錫
記
し
事
、
に
暫
よ
く
る
如
限
意
り
、
・
養
金
叟
剛
は
軒
華
両
叟
処
に
に
ず
居
っ
す
と
随
と
侍
あ
し
り
て
、
い
華
華
叟
の
示
寂
は
塩
津
高
源
院
で
の
こ
と
で
は
な
く
、
堅
田
祥
瑞
庵
で
の
こ
と
に
な
る
。
以
上
の
こ
と
を
整
理
す
る
と
、
華
叟
の
活
動
拠
点
は
、
第 58号(2
0
15年3月)
し 華
て 叟 一
︵ は
慌
休
て 堅 年
田
て
譜
︶ 祥
成 瑞
子 庵 に
を に よ
拉 い れ
き た ば
堅 こ 、
田 と 応
に に 永
赴 な 二
く る 二
。 。 年
︵
以 そ 一
て れ 四
祭 だ 一
り け 五
を で ︶
致 は 一
す な 休
こ い は
と 。 堅
一
田
七 一 祥
休
日
瑞
、 年 庵
諸 譜 の
徒
華
各 正 叟
長
散
の
じ 元 門
年
、
を
師 の 叩
条
も
い
亦 に て
は
帰
い
京 華 る
す 叟 の
と 師 で
あ 寂 、
る す 少
。 。 な
こ 訃 く
れ を と
に 聞 も
よ き こ
れ 倉 の
ば 皇 と
、 と き
2
33
養
叟
も
そ
れ
に
随
っ
た
よ
う
で
あ
る
。
し
か
し
こ
こ
に
は
堅
田
の
祥
瑞
庵
の
こ
と
が
ま
っ
た
く
出
て
こ
な
い
。
い
去
る
。
叟
の
化
縁
已
に
終
わ
る
は
窺
う
こ
と
が
で
き
な
い
。
行
状
と
あ
る
。
養
叟
が
華
叟
の
門
を
叩
い
た
の
は
安
脇
禅
興
庵
で
、
晩
年
に
華
叟
は
塩
津
高
源
院
へ
移
り
、
で
は
養
叟
号
の
記
事
に
つ
づ
き
、
叟
一
日
、
安
脇
禅
興
よ
り
塩
津
高
原
院
に
遷
り
、
師
も
亦
相
随
の
百
千
十
有
六
霜
を
歴
す
と
共
通
し
て
い
る
が
、
こ
の
間
、
養
叟
は
ど
の
よ
う
な
修
行
を
し
て
い
た
の
か
。
残
念
な
が
ら
伝
記
で
さ
て
養
叟
は
華
叟
下
で
の
一
六
年
、
印
可
を
得
る
ま
で
一
六
年
か
か
っ
た
こ
と
は
、
世
譜
か
。
お
そ
ら
く
後
者
で
あ
ろ
う
。
首
座
養
叟
と
号
す
、
袖
に
を
求
む
を
そ
う
解
し
の た
華 。
叟
ニ
依
ル
コ
ト
十
六
年
、
実
伝
本
こ
の
と
き
は
じ
め
て
養
叟
号
を
授
与
さ
れ
た
の
か
、
そ
れ
と
も
す
で
に
与
え
ら
れ
て
い
た
養
叟
号
に
ち
な
む
こ
の
養
叟
号
の
年
号
は
応
永
三
〇
年
︵
一
四
二
三
︶
、
印
証
︵
印
可
証
︶
を
応
永
二
一
年
に
得
て
い
る
こ
と
を
を
求
め
ら
れ
て
書
い
た
も
の
え
る
と
遅
い
感
じ
が
す
る
。
︵
七
四
︶
養叟宗
正
長
二
年
宗 八
月
首 十
座 六
日
右
大
将
︵
花
押
︶
︵
七
五
︶
大
徳
寺
住
持
職
事
、
任
先
例
可
被
執
務
之
状
如
件
、
と
い
う
も
の
で
あ
り
、
宗
叟養
養
叟
上
人
御
房
大
徳
寺
住
持
正
長
二
年
八
月
十
六
日
27
帖쐍
︶
の
方
は
、
右
中
弁
明
豊
天
気
如
此
、
仍
執
達
如
件
、
被
綸
旨
、
件
人
為
大
徳
寺
住
持
殊
専
仏
法
之
紹
隆
、
可
令
祈
聖
運
之
長
久
者
、
( 岡)
皇 と
綸 あ
2
6る
旨쐍
︶
。
は 養
、 叟
の
大
徳
寺
出
世
に
つ
い
て
は
後
花
園
天
皇
綸
旨
住
持
帖
が
現
存
し
て
お
り
、
年
次
を
特
定
で
き
る
。
後
花
園
天
2
32
こ め
と 養
行
大 師
が 叟
用 相 状 永 、
享 金
を の で 年 剛
草 命 は 中 軒
、 ︵ に
を
す 承 先 一 寓
。 け の 四 し
の 、 如 二 、
ち 大 意 九 二
勅 徳 庵 ∼ 三
黄 を ・ 一 子
を 視 金 四 大
奉 篆 剛 四 用
軒 一
じ し
︵
、 住 に ︶ を
再 持 居 の
び に し こ し
大 な た と 之
記 と に
徳 る
︶ 事
方 、
さ 居
開 に れ す
つ
に 堂
て 。
端 演 づ い 永
居 法 き る 享
す す 、 。 年
。 。
中
又
な
徳
り
善
と
室
あ
を
り
董
、
す
金
こ
剛
と
軒
三
の
載
寓
、
居
門
か
弟
ら
私
大
を
用
費
庵
や
の
し
開
、
肇
ま
め
で
て
の
、
金
剛
軒
は
僧
堂
の
南
に
あ
り
本
で
は
金
剛
軒
の
み
で
あ
る
。
世
龍 譜
宝
山 に
十 よ
境 れ
ば
の 、
一 如
つ 意
に 庵
数 は
え 言
ら 外
れ 宗
た 忠
塔 が
頭 開
︵ 祖
の の
ち 塔
廃 頭
絶 で
︶
。 応
安
世 年
譜 中
︵
の 一
三
大 六
用 八
庵 ∼
一
の 三
記 七
事 五
に ︶
の
始
栂
尾
梅
畑
の
草
庵
で
二
年
を
過
ご
し
た
の
ち
、
養
叟
は
大
徳
寺
に
入
っ
た
。
行
状
で
は
如
意
・
金
剛
軒
に
居
し
た
と
あ
り
、
実
伝
記
事
が
裏
付
け
ら
れ
る
。
北海学園大学人文論集
大
徳
寺
二
〇
世
の
季
︵
岐
︶
岳
妙
周
が
住
持
の
と
き
の
こ
と
と
す
る
。
徳 墨 花 と
寺 付 園 あ
は き 上 る
冷 を 皇 。
遇 与 ・ こ
さ え 後 れ
れ ら 醍 は
31醐 永
、 れ쐍
︶
至 、 天 享
徳 五 皇 三
三 山 か 年
年 之 ら ︵
祈 一
︵
願 四
一 其쐍
32
三 一︶ 所 三
と 一
八
六 と さ쐍 ︶
0
︶ な れ3
︶ 九
に り 、 月
は 、 元 の
十 翌 弘 こ
刹 年 三 と
の に 年 で
第 は ︵ 、
九
一 養
位 南 三 叟
と 禅 三 は
さ 第 三
れ 一 ︶ 徳
34之
た쐍
に 禅
︶
。 上 は 寺
刹
も
後 方
っ に 醍
相
と
醐
쐍
33
も 並︶ 天 で
皇
世 ぶ か あ
こ
っ
譜
と ら た
で に 本 。
は な 朝 大
こ る 無 徳
れ 。 双 寺
を し 之 は
康 か 禅 正
暦 し 苑 中
二
二 南
年 北 ・ 年
︵ 朝 一 ︵
一 時 流 一
三 代 相 三
八 に 承 二
〇 は の 五
︶ 大 お ︶
、
、
徳
禅 九
寺 月
方 十
日
周
勝
︵
花
押
︶
候
者
、
永 可
享 然
三 候
︵
押 、
紙 恐
︶
謹
言
、
第5
8号(2
0
15年3月)
貴
寺
之
事
、
一
昨
日
以
愚
状
申
上
候
、
今
朝
披
露
被
申
候
、
如
元
可
為
弁
道
所
之
由
、
被
仰
出
、
誠
御
大
慶
候
、
御
判
之
事
重
被
申
2
31
に
な
る
。
こ
の
間
、
養
叟
は
大
徳
寺
の
十
刹
位
を
止
め
弁
道
所
と
し
た
︵
ば
、
出
世
後
の
養
叟
は
、
大
徳
寺
の
塔
頭
で
あ
る
徳
禅
寺
の
住
持
を
三
年
務
世 め
譜 、
︶ の
。 ち
鹿 師
苑 の
院 華
周 叟
勝 を
古
開
書 祖
쐍
2
9
状︶ と
す
に る
よ 大
れ 用
ば 庵
、 を
開
翌
永
享
二
年
閏
一
一
月
に
大
徳
寺
本
坊
と
如
意
庵
の
下
地
が
応
じ
た
も
の
と
い
う
と
こ
ろ
に
拘
れ
ば
、
そ
こ
ま
で
踏
み
込
め
な
い
か
も
知
れ
な
い
。
換
さ
れ
た
。
こ
の
と
き
の
大
徳
寺
住
持
は
養
叟
で
あ
2
8
る쐍
︶
。
行
状
す
る に
こ よ
と れ
の
華
叟
が
養
叟
を
大
徳
寺
に
送
り
こ
ん
だ
と
い
う
西
村
恵
心
氏
の
先
の
指
摘
が
重
い
意
味
を
も
っ
て
く
る
。
た
だ
こ
の
が
養
叟
の
求
め
に
と
を
離
れ
る
に
さ
い
し
、
華
叟
は
養
叟
号
に
ち
な
む
示
寂
の
年
か
ら
か
な
り
る
。
あ
る
い
は
華
叟
か
ら
養
を 叟
与 号
え と
、
養 を
叟 与
旅 え
立 ら
ち れ
の た
餞 応
と 永
し 三
た 〇
と 年
の
え こ
て と
お か
こ も
う 知
。 れ
そ な
う い
。
え 養
る 叟
と が
、 華
反 叟
大 の
模 も
翌
年
で
あ
る
。
し
た
が
っ
て
養
叟
が
華
叟
の
も
と
を
離
れ
た
の
は
、
栂
尾
梅
畑
の
草
庵
や
大
徳
寺
金
剛
軒
寓
居
の
期
間
を
え
る
と
、
華
叟
と
い
う
も
の
で
あ
る
。
右
中
弁
明
豊
は
中
御
門
明
豊
、
右
大
将
は
足
利
義
教
で
あ
る
。
正
長
二
年
︵
永
享
元
年
︶
と
い
え
ば
、
華
叟
示
寂
の
︵
七
六
︶
養叟宗
や
や
詳
し
く
書
か
れ
て
い
る
。
大
徳
寺
で
自
殺
者
が
あ
り
、
そ
れ
に
と
も
な
い
獄
に
繫
が
れ
る
者
が
出
た
。
一
休
は
︵
七
七
︶
吾
門
大
乱
人
の
僧
が
獄
に
繫
が
る
と
い
う
事
件
が
あ
っ
た
。
一
休
は
心
痛
の
あ
ま
り
譲
羽
山
で
餓
死
す
る
こ
と
ま
で
え
た
と
い
う
。
狂
雲
集
と
し で
、 は
ろ
う
。
こ
の
時
期
、
大
徳
寺
が
混
乱
し
て
い
た
こ
と
は
一
休
年
譜
文
安
四
年
の
条
に
明
ら
か
で
あ
る
。
そ
れ
に
よ
る
と
、
大
徳
寺
で
数
る
こ
と
に
な
っ
た
。
お
そ
ら
く
は
日
峰
入
寺
に
と
も
な
う
大
徳
寺
の
混
乱
の
た
め
か
。
こ
れ
が
文
安
二
年
八
月
の
養
叟
の
大
徳
寺
再
住
で
あ
愛
し
、
終
焉
の
地
に
し
よ
う
と
ま
で
思
っ
た
と
い
う
。
と
こ
ろ
が
細
川
勝
元
か
ら
の
再
参
の
招
き
に
よ
り
、
や
む
な
く
養
叟
は
大
徳
寺
に
戻
い 人 た
ず の と
実 れ 書 い
伝 に き う
本 し 込 も
て み の
世 も が 。
譜 高 あ も
齢 る っ
で の 。 と
は 日 世 も
、 峰 譜 養
叟
大 の
徳 大 で の
寺 徳 は 再
を 入 日 住
去 寺 峰 は
っ は を 翌
年
た
三
養 関 六 の
叟 山 世 こ
は 派 に と
、 入 数 で
紀 寺 え あ
州 ノ 、 り
の 始 文 、
蜷 ナ 安 実
︵ リ 元 伝
贄
年 本
︶ と 入
川 い 寺 に
氏 う 年 も
の 意 八
味 〇 文
め が 、 安
た あ 同 二
徳 っ 五 年
禅 た 年 八
院 。 世 月
に
寿 廿
移
八 八
っ
一 日
た
で 再
。
滅 住
養
と 師
叟
し 年
は
混 七
こ
乱 十
こ
し と
の
て い
景
い う
勝
る 後
を
。
( 岡)
こ
れ
に
よ
れ
ば
、
大
徳
寺
に
再
住
し
て
い
た
養
叟
を
よ
そ
に
関
山
派
の
日
峰
が
入
寺
を
強
行
、
養
叟
は
そ
れ
に
抗
議
し
て
大
徳
寺
を
去
っ
2
30
な
り
。
先
師
を
凌
蔑
せ
ば
不
恭
な
り
。
隘
と
不
恭
、
吾
れ
取
ら
ざ
る
今
也
た
舜
等
、
檀
越
之
権
を
恣
に
し
先
師
を
辱
せ
ん
と
欲
す
。
吾
門
の
不
幸
正
に
此
の
時
に
在
り
。
蓋
し
当
権
に
な
り
。
迹
を
匿
す
に
如
か
ず
、
且
ら
く
時
を
俟
た ら
ん う
。 は
隘
し
き
く
之
を
拒
み
て
曰
く
、
霊
山
国
師
の
命
を
稟
け
て
関
山
を
排
擯
す
。
而
る
後
其
の
徒
、
足
跡
を
此
山
に
印
せ
ざ
る
こ
と
三
世
に
累
ぶ
。
師
、
勅
黄
を
奉
じ
再
び
此
の
山
を
董
葭
す
。
玄
関
山
之
徒
宗
舜
、
威
を
細
川
源
に
仮
り
、
師
を
脇
に
し
本
寺
に
住
せ
ん
欲
す
。
師
堅
さ
れ
て
い
る
。
る 叟 一
也 は 派
一 、
の 休 昔
一 と 擯
斥
言
に 和 せ
養 会 ら
れ
叟
が し て
、 以
憮 そ 来
然 の 、
入 未
と 山 だ
し を 嘗
た 山 て
と 門 山
い で 中
う の 往
も 問 還
の 答
。 に し
こ よ な
の り か
こ 拒 っ
と も た
は う が
と 、
行 予 日
状 行 峰
演 が
習
世 ま 官
譜 で 命
す を
で る 以
は が て
触 、 将
れ 一 に
て 休 住
い の 山
な
い 官 す
が 命 る
、 実 こ
実 に と
伝 拒 に
本 む な
べ っ
に か た
詳 ら 。
述 ざ 養
文
安
元
年
︵
一
四
四
四
︶
妙
心
寺
関
山
派
日
峰
宗
舜
の
大
徳
寺
入
寺
を
養
叟
が
拒
む
こ
と
が
あ
っ
た
。
一
休
年
譜
に
よ
れ
ば
、
関
山
北海学園大学人文論集
し 禄 に
中
て 二 は
邑
世
年 こ
由
其 六 の 譜 良
の 月 記 に 左
法 廿 事 よ 衛
を 七 は れ 門
嗣 日 な ば と
ぐ 、 く 、 い
者 喝 、 康 う
、 、
正 人
春 末 実 三 物
伝
浦 後
年 で
和 の 本 ︵ あ
尚 一
九 る
、 喝 で 月 こ
岐 、 は に と
年
長 を
具
和 眼 次 禄 知
尚 の を に る
、 者 記 改 。
芳 は さ 元
ず
弁 後 、
叟 取
一
。 せ 花 四
園
所 よ
五
度 、 法 七
皇
の 連
︶
俗 喝 か 九
ら
、 両
月
勝 喝 禅 、
師
計
後
す と 号 花
べ い を 園
か う 賜 院
ら 遺 っ か
た ら
ざ
る を と 宗
也 書 す 慧
。 き る 大
門 筆 。 照
人 を 行 禅
謹 擲 状 師
ん げ
の
で 坐 に 号
梗 化 よ を
概 し れ 賜
を た ば っ
状 と 、 た
わ い そ 。
す う の
。 翌 行
と そ 長 状
陽
春
庵
を
造
営
し
養
叟
を
開
山
に
請
じ
た
こ
と
を
記
す
。
こ
の
宗
歓
は
宗
恵
大
照
禅
師
語
録
乾
の
法
語
か
ら
、
堺
北
庄
和
気
屋
で
記
す
。
行
状
で
は
そ
の
後
、
大
用
庵
が
再
さ
れ
た
こ
と
、
宗
歓
の
喜
捨
で
養
叟
が
大
徳
寺
法
堂
を
再
興
し
た
こ
と
、
宗
歓
が
泉
南
に
年
で
あ
る
こ
と
が
知
ら
れ
る
。
行
・ 状
如
意 で
庵 は
・
大 師
用 、
庵 本
が 寺
回
か 禄
に の
焼 時
失 に
を 当
免 た
れ り
た 、
と 大
し 用
、 を
養 革
叟 め
が 雲
大 門
用
庵 に
を 作
開 す
山
塔 と
雲 あ
門 る
庵 。
と
し 一
た 休
こ 年
と 譜
ま
で
は
や
や
詳
し
く
、
浴
室
・
門
第 58号(
20
1
5年3月)
享
徳
二
年
︵
一
四
五
三
︶
、
大
徳
寺
は
火
災
に
み
ま
わ
れ
た
。
伝
記
で
は
年
次
が
明
示
さ
れ
て
い
な
い
が
、
一
休
年
譜
に
よ
っ
て
こ
の
2
29
華
叟
を
入
れ
伝
記
ま
で
記
し
て
い
る
。
世 で 六 と
に は 月 あ
華 二 り
華 叟 七 、
蔵 の 日 養
伝 の 叟
未
記 こ が
詳
が と 師
が 養 と の
い 叟 す 華
る 伝 る 叟
が の が を
、 前 、 大
こ に 大 徳
れ 置 機 前
は か 弘 住
明 れ 宗 と
ら 、 禅 し
か あ 師 禅
に た 号 師
華 か 口 号
叟 も 宣 を
申
を 華 案쐍
3
6
︶ 請
押 叟
し ・ で 、
込 養 は 大
ん 叟 享 機
だ が 徳 弘
作 一 元 宗
為 体 年 と
か で 九 い
と あ 月 う
思 る 一 禅
わ か 四 師
れ の 日 号
る ご ︵ を
。 と 七 諡
ち く 月 さ
な で に れ
み あ 改 た
に る 元 。
。 ︶ こ
紫 ま と れ
巌 た な が
譜 大 っ 宝
3
7徳
略쐍
︶
て 徳
寺 い 四
で 世
年
は 代 る ︵
二 で 。 一
二 は 世 四
世 二 譜 五
二
に 二
︶
し る 重
行 て 。 陽
の
状 い쐍
真 日
5
る3
︶ 珠
に 。 庵 に
ち
よ
文 な
れ
書 み
ば
四 九
、
に
師
を
、
徹 書
華
い
叟
派 た
の
関 。
身
山 そ
後
派 の
に
旁 う
朝
正 ち
に
記 の
奏
録 ひ
し
と
鎖
綸
つ
命
に
畢
ヲ
を
写
ナ
奉
正
リ
じ
伝
、
が 傍
以
あ 出
て
り 妄
大
、 相
徳
徹 争
の
前
派 と
住
と あ
と
関 り
為
山 、
し
派 こ
、
と の
□
の 混
竝
確 乱
び
執 が
に
の 正
大
記 傍
機
録 論
弘
を 争
宗
に
禅
旁 よ
師
正 る
を
記 こ
諡
録 と
す
を
と 知
︵
七
八
︶
養叟宗
︵
七
九
︶
二 実 人
︶ 七 伝 と
で 世
し
も 明
て
密
法 遠 伝 い
嗣 宗 正 る
の
一 智
・ 印
人 三 禅 か
。 〇 師 。
養 世 言 実
叟 日 外 伝
照 和 本
和 宗 尚
尚 光 行 で
養
也 も 状쐍
39
︶ 叟
。 言
所 外 で の
度 の も 法
嗣
門 法
弟 嗣 其 は
若 な の 三
干 の 法 人
人 で を い
嗣 る
と あ ぐ が
る
あ ︵ は 、
り
、 傑
、 世 華 る
一 譜 叟 の
休 ︶ 曇 は
の 。 一 春
名 ま 人 浦
は た の の
出 華 み み
て 叟
と
こ の と 記
な 伝 記 す
い 記 す 実
。
。 伝
そ 勅 し の
う 諡 か 正
い 大 し 系
え 機 大 意
ば 弘 徳 識
養 宗 寺 で
叟 禅 一 は
師
は 行
七 な
大 状쐍
い
40世
︶
徳
大 か
寺 ︵ 模 。
に 門 宗 や
入
範 は
っ 人 ・ り
禅
宗
法
系
譜
に
載
る
一
一
名
の
う
ち
九
名
が
養
叟
の
法
嗣
で
あ
る
確
認
が
と
れ
た
。
で
は
な
ぜ
行
状
や
実
伝
本
で
法
嗣
を
三
居
士
に
つ
い
て
は
後
述
し
た
い
。
( 岡)
士 の 文 茂 四 三
嫡 法 西 林 世 人
の
女 嗣 関 宗 ︶
と 西 範 ・ 他
で は
に
と
思
西 宗 八
大 え
名
関
用 な 門 □ 昭
︵ の
の い
文 四 名
室 。 十 の 八 が
に で 五 二 世 出
入 は 秋 人 ︶ る
り 茂 と 、 、 。
親 林 あ こ こ 季
し 宗 り の の 東
く 範 、 う 六 宗
法 の 修 ち 人 溟
諱 方 行 西 は ︵
を は 一 関 大 三
受 ど 五 は 徳 三
寺 世
く う 年
世 ︶
宗
か
故
︵
代 ・
恵
五 。 郷
に 惟
六 宗 に 大 数 三
照
帰
丁 恵
え 宗
︶ 大 る 禅 ら 叔
師
と 照 西
︵
あ 禅 関 語 れ 三
る 師 に 録 、 八
、 語 与
世 世
こ 録 え 坤 譜 ︶
・
の
た ︵
で 体
茂 乾 春
林
浦 道 養 調
深
の 号 叟 ︵
の 四
居 道 餞
士 号 の 以 法 二
降
嗣 世
と
は に で は で ︶
・
お み あ 春 あ 顕
そ ら る 浦 る 室
ら れ こ 録 こ ︵
く る と ︶ と 四
別
が の を 三
人 宗 知 ︵ 確 世
で 森 ら 一 認 ︶
れ 〇 し ・
あ
ろ が 、 三 て 柔
西 丁 い 仲
う
。 茂 関 ︶ る 宗
こ 林 は に 。 隆
あ ︵
の 深 養
深 居 叟 送 と 四
2
28
題
で 伝
あ 記
る
。 料
を
行 中
状 心
に
実 養
伝 叟
本 の
生
は 涯
春 を
浦 み
宗 て
熙 き
・ た
岐 が
、
宗 こ
揚 こ
・ で
は
叟 そ
宗 れ
芳 を
の ふ
三 ま
人 え
を 二
法 、
嗣 三
と の
し 問
て 題
い を
た
が え
、 た
禅 い
宗 。
法 ま
系 ず
3
8は
譜쐍
︶
養
に 叟
よ の
れ 法
ば 嗣
こ の
の 問
三
彰
意
識
か
、
は
た
ま
た
大
徳
寺
正
統
意
識
か
、
お
そ
ら
く
両
方
で
あ
ろ
う
。
結
ぶ
。
実
伝
本
で
は
法
嗣
三
人
を
記
し
た
あ
と
に
傑
于
三
人
者
但
熙
而
已
と
付
け
加
え
る
。
筆
者
実
伝
宗
真
の
師
春
浦
宗
熙
の
顕
北海学園大学人文論集
先
大 に
徳 陽
寺 春
夜 庵
42の
話쐍
︶
︵ 開
以 基
下 に
な
夜 る
話 宗
歓
︶ が
と 堺
商
宝 人
山 の
紀 居
談 士
︵ で
以 あ
下 っ
た
紀 こ
談 と
に
︶ 触
に れ
よ た
っ が
て 、
み 養
て 叟
み の
よ 周
う 辺
。 に
ま 興
ず 味
は 深
深 い
居 居
士 士
。 が
夜 い
話 る
。
︵ 古
六 岳
一 宗
︶ 亘
経 作
挙 曹
之 仏 経 す 洞 真
守
一
銘
る 宗
禅 と の 大
ヲ
︶
於 と 尼 、 通 姉
︵
あ
幻
叟 り 珍 南 寂 性
ニ
堺 阿 谷 霊 体
、 の 禅 宗 ︵ 堅
銘 傾 尼 金 一 守
大 三 三
曰 城
、 に 、 姉 二 十
女 対 そ ︵ 二 三
子 し し 二 ∼ 年
売 て て 十 一 ︶
、
注
女 も 目 五 三
仏
春
九
年
色
事 す 忌 一 林
、 を べ ︶ ︶ 香
仏 お き 、 の 大
子 こ は 明 弟 姉
説 な
仙 子 ︵
写
仏 っ 経 禅 だ 何
心 て 銘 尼 っ 于
ヲ い
た 五
︵ ︵ 人 障
る
、
宗 七
畢 。 清 周 、 快
竟 こ 大 忌 明 過
一
作 れ 姉 、
生
に
如
近
生 つ 女 江 精
。 い 子 州 禅 曽
桃 て 街 路 尼 為
通
花 は 売 上
紅 江 女 坂 、 幻
李 月 色 郷 貞 師
花 宗 ︶ 内 訓 之
白 玩 ・ 性 禅 神
足
の 写
通 尼
と 宝 経 禅
あ 山 名 院 、 六
る 紀 ︵ 住 小 十
話 持 仏 七
。 談쐍
41
年
︶ 云
比 事 ︶
、
に
丘
師 尼 に こ
堺 在
み の
南 堺 祖 え 女
秀 る 性
ノ
傾 時 の
城 、 先 女 は
性 か
、 傾
を つ
城
請
︶
、 、 列 て
智
玉
大
姉
︵
逆
修
智
玉
首
座
大
姉
︶
、
天
心
祐
大
姉
︵
逆
修
景
愛
首
座
天
心
大
姉
︶
こ
の
景
愛
寺
は
尼
五
山
、
玉
明
珍
大
姉
、
第 58号(2
0
15年3月)
置
き
、
比
丘
尼
・
商
人
へ
の
布
教
を
積
極
的
に
お
こ
な
っ
た
こ
と
は
事
実
で
あ
る
。
語
録
の
下
火
に
み
え
る
女
性
を
列
挙
す
る
と
、
2
27
徳
寺
は
し
ま
り
て
よ
り
以
来
、
如
此
の
大
悪
党
の
邪
師
未
聞
未
見
也
と
口
を
極
め
て
罵
る
。
養
叟
が
得
法
を
教
え
た
か
否
か
は
し
ば
ら
く
尼
商
人
な
ん
と
に
か
な
つ
け
の
古
則
を
を
し
ゑ
て
得
法
を
さ
せ
ら
れ
候
⋮
⋮
此
四
五
年
は
殊
に
得
法
を
を
し
ゆ
る
事
頻
頻
な
り
⋮
⋮
紫
野
大
玉 叟 も
つ 村 | 養
ぎ 竹 春 叟
に 二 浦 ・
氏 | 春
宗 の 実 浦
恵 よ 伝 の
大 う と 師
照 に つ 資
づ 一
禅
師 大 く 体
語 徳 正 が
録 寺 系 強
の 意 調
識 さ
乾
裂 が れ
は て
に
多 と た い
出 み ら る
す る い 。
る か て こ
女 は い れ
性 微 る も
に 妙 と 実
つ な 思 伝
い と う の
て こ 。 作
み ろ こ 為
て で の か
み あ 養 。
た る 叟 い
い 。 ・ ず
春 れ
。
浦 に
一
・ し
休
実 て
は
伝 も
に こ
自
よ こ
戒
る に
集
大 宗
徳 峰
で
寺 |
の 徹
養
主
叟
流 |
和
派 言
尚
形 外
十
成 |
四
の 華
五
動 叟
年
き |
比
を 養
丘
養
叟
の
意
志
の
反
映
で
あ
ろ
う
。
ま
た
養
叟
の
語
録
で
あ
る
は
ず
の
宗
恵
大
照
禅
師
語
録
坤
は
春
浦
宗
熙
の
語
録
で
あ
り
、
こ
こ
で
師
号
ま
で
申
請
し
た
。
ま
た
世
譜
の
養
叟
の
項
に
載
る
伝
記
の
前
に
華
叟
の
伝
記
を
挿
入
し
師
資
一
体
が
強
調
さ
れ
て
い
る
。
こ
れ
は
て
ま
も
ま
く
華
叟
と
養
叟
を
開
祖
と
す
る
塔
頭
大
用
庵
を
て
一
派
の
拠
点
と
し
た
。
ま
た
大
徳
寺
未
入
寺
の
華
叟
を
前
住
と
し
、
禅
︵
八
〇
︶
養叟宗
︵
八
一
︶
ヲ
五 を
嫌 養 山 課
タ 叟 尊 し
也 の 宿 た
一 ノ 話
と 休 上 を
、 評 テ 聞
養 も ハ き
叟 あ 、 、
は る 子 養
一 。 細 叟
休 夜 モ は
の 話 ナ
イ 春
瘋
作
癲 ︵
漢 一 と ︵
を 一 酷 禅
嫌 六 評 興
っ ︶ す ︶
て に る ハ
。 、
い
五
な 養
山
い 叟
尊
、 ハ
宿
師 、
ニ
家 一
ハ
に 休
ヲ
問 ノ
ト
わ 瘋
リ
ず 癲
タ
に 漢
。
古 ヲ
玉
則 ハ
を 不
︵
心 嫌
、
梵
得
芳
顔 師
︶
す 家
下
る ニ
語
不
の
モ
を 問
ヨ
嫌 古
イ
っ 則
ト
た 推
云
と 着
事
の テ
ヲ
興 、
ハ
味 心
ナ
深 得
ケ
い ホ
レ
記 ホ
ト
事 ス
モ
が ル
、
華
叟
と
春
浦
は
拈
華
微
笑
話
で
そ
れ
ぞ
れ
悟
徹
し
た
と
い
う
。
於
古
帆
未
掛
話
悟
徹
、
華
叟
和
尚
、
春
浦
和
尚
、
於
拈
華
微
笑
話
悟
徹
也
つ
ぎ
に
養
叟
に
関
係
す
る
記
事
に
注
目
し
て
み
よ
う
。
ま
ず
夜
話
夜
︵
話
七
と
︵
︶
一 あ に
〇 り 言
七 、 外
︶ 言 和
で 外 尚
は は 、
、
於
足 万 万
利 法 法
義 不 不
持 侶 侶
が 話 話
五 、 、
山 養 大
の 叟 徹
尊 は 大
宿
悟
に 古 。
五 帆 養
戒 未 叟
の 掛 和
下 話 尚
語 、 、
の
。
夜
話
︵
三
五
九
︶
に
養
叟
云
、
善
居
士
ハ
、
是
︵
猫
児
話
︶
ヲ
能
参
得
シ
タ
リ
と
あ
る
。
ニ
参
禅
シ
タ
者
チ
ヤ
ホ
ト
ニ
、
知
イ
テ
善
知
識
ヲ
ナ
フ
ル
テ
ハ
有
ル
マ
イ
。
サ
リ
ト
テ
ハ
、
先
師
ノ
心
得
ト
ハ
チ
ガ
ウ
タ
と
澄
ま
し
た
も
( 岡)
は め
香
今 典
時 一
ハ 貫
、 を
俗 も
人 ち
ハ 堺
何 か
ヲ ら
モ 上
不 洛
知 し
シ た
テ 。
、 南
善 泉
知 猫
識 児
ヲ 話
嬲 の
ラ 講
カ 義
ヤ が
ウ 終
ノ わ
事 る
ヲ と
云 す
か
と さ
立 ず
腹
し 猫
た 児
。 話
す ノ
る ア
と ソ
善 ハ
居 シ
士 ヤ
は ウ
カ
我 悪
ハ
紫 い
野 批
諸 判
善 、
知 日
識 峰
2
26
引
き
出
し
て
い
る
。
こ
の
話
は
紀
談
︵
六
九
︶
に
も
あ
る
。
夜
話
︵
七
二
︶
に
、
善
居
士
が
日
峰
宗
舜
の
碧
岩
録
講
義
を
聴
く
た
ヲ
集
テ
掃
絶
ヲ
示
ス
舞
台
也
と
あ
る
。
善
居
士
が
養
叟
に
何
の
た
め
に
寺
を
造
る
の
だ
と
問
い
、
衆
を
集
め
掃
絶
す
る
舞
台
と
の
答
え
を
和
尚
ハ
因
甚
寺
ヲ
結
構
ス
ル
。
師
云
、
汝
等
カ
造
作
ハ
、
造
作
ニ
テ
ト
ヲ
ル
、
老
僧
カ
造
作
ハ
、
非
造
作
、
掃
絶
シ
テ
ノ
ク
ル
ソ
。
寺
ハ
衆
も
う
ひ
と
り
善
居
士
に
つ
い
て
。
夜
話
︵
三
三
︶
に
善
居
士
問
大
照
禅
師
、
我
昔
ハ
大
俗
ノ
故
ニ
、
家
ヲ
作
リ
、
妻
子
ヲ
タ
ス
ク
。
判
で
あ
る
。
一
休
ハ
随
る
。
深
居
士
が
養
叟
の
俗
弟
子
で
あ
る
こ
と
を
知
る
曹
洞
僧
が
か
ま
を
掛
け
そ
れ
を
一
蹴
し
た
話
。
に
曹
洞
ノ
知
識
、
過
深
居
士
私
宅
之
次
、
問
云
、
養
叟
和
尚
、
近
日
在
什
ノ
僧
ト
思
タ
レ
ハ
、
ヲ
カ
シ
イ
処
カ
ア
ル
。
諸
悪
莫
作
、
衆
善
奉
言
行
句
ト
。
云
居
事
士
ヲ
云
マ
、
タ
有
知
ヌ 夜 什
ゲ 話
言
ナ
︵ 句
と 三 。
あ 三 道
る 九 了
。 ︶ 、
深 に 一
蹈
居
士 深 々
の 居 倒
一 士
休 云 と
批 、 あ
北海学園大学人文論集
付
記
本
稿
は
平
成
二
五
年
度
北
海
学
園
学
術
研
究
助
成
一
般
研
究
一
休
伝
を
め
ぐ
る
諸
問
題
の
成
果
の
一
部
で
あ
る
。
殺
し
た
の
も
頷
け
る
。
け
に
特
有
な
も
の
で
は
な
い
こ
と
が
今
回
は
触
れ
ら
れ
な
か
っ
た
が
か
っ
て
き
た
。
批
判
的
言
辞
が
飛
び
派
関
山
派
旁
正
記
録
う
当
時
の
禅
林
の
囲
気
を
え
れ
ば
、
養
叟
が
一
休
を
黙
徹
な
ど
を
読
み
進
め
て
い
く
う
ち
に
、
一
休
の
批
判
的
言
辞
が
決
し
て
一
休
だ
し
ま
っ
た
の
で
は
あ
る
ま
い
か
。
そ
こ
で
で
き
る
だ
け
虚
心
に
な
っ
て
、
養
叟
の
生
涯
を
み
て
み
よ
う
と
思
っ
た
。
夜
話
や
紀
談
、
第5
8号(2
0
15年3月)
一
休
の
養
叟
批
判
の
言
辞
が
あ
ま
り
に
も
激
烈
な
た
め
、
わ
れ
わ
れ
は
知
ら
ず
識
ら
ず
に
、
批
判
の
言
辞
そ
の
も
の
の
養
叟
像
を
も
っ
て
2
25
記
事
に
符
号
す
る
、
一
休
が
詰
ま
っ
た
と
い
う
の
も
面
白
い
。
る
。
一
休
が
養
叟
の
大
徳
寺
出
世
を
イ
タ
カ
と
批
判
し
た
こ
と
、
一
休
が
時
宗
の
衣
を
着
、
十
徳
を
着
用
し
て
い
た
こ
と
も
ニ
出
世
ヲ
メ
サ
レ
サ
ウ
ヌ
程
ニ
、
出
世
ス
ル
カ
移
他
家
ナ
ラ
ハ
、
天
下
ノ
僧
ハ
、
皆
移
他
家
テ
ア
ラ
ウ
カ
。
一
休
ツ
マ
ラ
レ
自 タ
戒 也
集
と
の あ
に
一
休
問
僧
、
紫
野
僧
養
叟
ヲ
始
テ
出
世
ス
ル
ハ
、
移
他
家
也
。
僧
云
、
一
休
コ
ソ
移
他
家
ヨ
。
時
宗
衣
ヲ
着
、
又
拾
得
ヲ
着
テ
、
可
有
一
休
が
養
叟
を
イ
タ
カ
と
批
判
し
た
の
を
聞
い
た
あ
る
僧
が
、
一
休
こ
そ
イ
タ
カ
だ
ろ
う
と
批
判
し
た
話
が
あ
る
。
夜
話
︵
一
八
七
︶
叟
の
評
価
も
興
味
深
い
。
た
一
休
の
下
語
に
己
躬
を
絶
す
と
答
え
た
。
こ
の
話
を
聞
い
た
養
叟
の
一
喫 言
草 一
。 休
云 ニ
、 ハ
雲 、
深 似
猿 相
盗 タ
栗 答
話
に そ
対 。
し 是
て 程
ノ
是 事
等 ヲ
ノ モ
シ 不
ヤ 知
レ 。
事 小
上 魚
手 呑
也 大
魚
と
の 。
養 ま
ヤ
マ
ガ
ラ
胡
桃
ヲ
マ
ウ
ス
。
又
、
後
園
あ
る
。
ま
た
夜
話
︵
一
一
七
︶
に
、
有
照
が
一
休
に
生
死
到
来
の
時
、
如
何
が
回
避
せ
ん
と
問
い
、
一
休
が
上
に
攀
仰
無
く
、
下
︵
八
二
︶
養叟宗
( 岡)
쐍
쐍 쐍 쐍 쐍 쐍
19 쐍
1
8쐍
1
7쐍
1
6쐍
1
5쐍
14 1
31
21
1 10 9
︶ ︶ ︶ ︶ ︶ ︶ ︶ ︶ ︶ ︶ ︶
増 大 大 続 同 西 講 平 芳 同 同
書
補 日 徳 群 、 村 談 野 賀 書 書
恵 社 宗 幸 、 、
龍 本 寺 書 一
心 現 浄 四 二 二
宝 仏 禅 類
〇
郎 四 四
山 教 語 従 九 狂 代
新 一
七 五
大 全 録
雲 書 休 狂 頁 頁
徳 書 集 巻 頁
、 ︵ 雲 。 。
寺
成 二 。
얧 一 講 子
世 第
四
仮 九 座 一
譜 七 第 一
面 七
休
〇
一
︵
︵ 巻 巻
師 七 禅
と
思 ・ ︵ 続
の 年 ・
そ
第
文
群
素 。 四 の
法
閣 伝 蔵 書
顔
巻 時
出 部 館 類
代
版 ・ 、 従
얧
禅
︵
、 九 一
︵
の 近
一 。 九 九
四
歴
九
輯
世
季
八
七
、
文
社
九
九
経
化
、
年
얧
年
済
の
二
︶
日
︶
。 雑
形
〇
。
本
誌
成
〇
社
と
六
얧 伝
、
年
一
︶
筑 統
九
六
摩
〇
〇
書 河
五
頁
房 出
年
。
、 書
︶
一 房
。
九 一
六 九
七 四
年 七
年
︶
。 ︶
。
︵
八
三
︶
2
24
쐍
8
︶
竹
貫
元
勝
日
本
禅
宗
研
究
︵
雄
山
閣
出
版
、
一
九
九
三
年
︶
一
六
一
∼
一
六
二
頁
。
쐍 쐍 쐍 쐍 쐍 쐍 쐍
7 6 5 4 3 2 1
︶ ︶ ︶ ︶ ︶ ︶ ︶
あ 秘 金 宗
そ 寶 沢 学
か
文 研
庫 究
大
五 徳 研
三 寺 究 三
号
四
、 講 二 号
一 談 八 、
九 社 三 一
六 、 号 九
五 一 、 九
年 九 一 二
六 六 九 年
月 八 八 三
。 年 九 月
。
日 。 年
本 日 九
月
禅 本 。
宗 禅
論 宗
集 論
集
下
之 下
二
之
所 二
収 ︵
。 思
文
閣
出
版
、
一
九
八
一
年
︶
所
収
。
印
度
学
仏
教
学
研
究
狂 自
雲 戒
集 集
︵
日
本
思
想
三 大
系
九
巻 中
二 世
号 禅
、 家
一 の
九 思
九 想
一
年 岩
三 波
月 書
。 店
、
一
九
七
二
年
︶
︵
新
日
本
古
典
文
庫
狂
雲
集
・
狂
雲
詩
集
・
自
戒
集
現
代
思
想
社
、
一
九
七
六
年
︶
注
北海学園大学人文論集
第5
8号(2
0
15年3月)
쐍
쐍
4쐍
3
3쐍
32 쐍
31 쐍
3
0쐍
29 쐍
28 쐍
2
7쐍
2
6쐍
2
5쐍
2
4쐍
2
3
39 쐍
3
8쐍
3
7쐍
3
6쐍
3
53
︶ ︶ ︶ ︶ ︶ ︶ ︶ ︶ ︶ ︶ ︶ ︶ ︶ ︶ ︶ ︶ ︶
続
群
書
類
従
禅
学
大
辞
典
第
九
輯
︵
経
済
雑
誌
社
、
一
九
〇
五
年
︶
。
別
巻
︵
大
修
館
書
店
、
一
九
七
八
年
︶
。
文
久
元
年
の
序
を
も
つ
木
版
本
。
加
藤
正
俊
後
醍
醐
天
皇
大 一 綸
徳
旨
一 寺
六 派 編 ︵
五 下 年
二 の 略 大
号 正 記 徳
。 系 、 寺
文
を
書
め 料
ぐ
一
っ 大 五
て 徳 号
寺 ︶
얧 の 。
徹 歴
大
徳
寺
文
書
派
と
関
山
派
の
確
執
얧
︵
禅
文
化
研
究
所
紀
要
六
号
、
一
九
七
四
年
五
月
︶
龍
宝
山
志
︵
編
者
山
田
宗
敏
・
補
訂
伊
藤
克
己
、
毎
日
新
聞
社
、
一
九
九
三
年
︶
。
後
醍
醐
天
皇
綸
旨
︵
大
徳
寺
文
書
後
醍
醐
天
皇
宸
花
園
上
皇
院
宣
大
徳
寺
文
書
一
置 後 二
文 醍 五
︵ 醐 号
。
大 天
徳 皇
綸
寺 旨
文
書 ︵
一
四
号 一 大
徳
︶
。 号 寺
︶
。 文
書
一
二
号
・
一
三
号
︶
。
2
23
大
徳
寺
役
者
等
連
署
相
博
状
大
徳
寺
文
書
大
徳
寺
文
書
続
群
書
類
従
大
徳
寺
文
書
一
六
五
〇
号
︵ 。
一
六
四
九
号
。
本
に
よ
る
。
原
漢
文
。
三
二
二
〇
号
大
徳
寺
文
書
二
六
〇
三
号
︶
。
宗
曇
華
叟
印
可
状
︵
軸
子
︶
쐍
2
2쐍
2
1쐍
2
0
︶ ︶ ︶
拙 あ か
稿 る つ
こ て
師 と 拙
僧 の 稿
華 ご
叟 教 師
宗 示 僧
曇 を 華
叟
︵ 得
た 宗
国 ︵ 曇
文 平 で
学 野 安
宗 脇
解 浄 禅
釈
興
と 幻 庵
鑑 の の
賞 寺 地
席 が
七 に 特
八 依 定
三 存 で
号 訪 き
ね て
特 て い
集
な
・ 大 い
風 徳 と
狂 寺 述
の 報 べ
僧
た
・ 龍 が
一 宝 、
休
平
一 野
一 九 宗
九 八 浄
九 三 氏
六 年 か
年 正 ら
八 月 私
月 号 信
︶ ︶
。 で
安
脇
が
浅
井
郡
河
毛
に
扶
桑
五
山
記
宝
伝
灯
録
四 巻
・ 一
三
仁 。
寺
諸
塔
、
宝
伝
灯
録
巻
二
〇
。
︵
八
四
︶
養叟宗
( 岡)
쐍
4
1쐍
4
0
︶ ︶
쐍
4
2
︶
九
年
三
月
︶
。
飯
塚
大
展
龍
谷
大
学
図
書
館
蔵
大
徳
寺
夜
話
2
22
宝
山
紀
談
︵
飯
塚
大
展
龍
谷
大
学
図
書
館
蔵
얧
資
料
編
大
徳
寺
夜
話
一
〇
号
、
一
九
九
︶
駒 同
澤 上
大 。
学
図
書
館
蔵
を
め
ぐ
っ
て
︵
一
︶
얧
︵
駒
澤
大
学
禅
研
究
所
年
報
︵
八
五
号
、
二
〇
〇
〇
年
三
月
︶
。
を
め
ぐ
っ
て
︵
二
︶
駒
大
禅
研
究
所
年
報
一
一
★逆ノンブル★
︵
三
一
︶
て
し い
か る
し 。
な
が
ら
、
瀧
口
の
芸
術
性
の
特
質
、
芸
術
活
動
の
意
義
、
そ
の
詩
の
読
み
と
評
価
等
に
つ
い
て
の
学
術
的
な
検
1
証쐍
︶
に
関
し
て
は
、
︵
洪
水
企
画
︶
が
三
号
に
亘
っ
て
瀧
口
の
特
別
企
画
を
組
む
︵
洪
水
ま
さ
に
そ
の
多
様
で
絢
爛
た
る
芸
術
的
な
活
動
が
、
読
者
や
評
論
家
た
ち
を
今
も
な
お
魅
了
し
て
お
り
、
詩
と
音
楽
の
評
論
誌
六
∼
八
号
、
二
〇
一
〇
∼
一
一
年
︶
な
ど
、
再
評
価
の
機
運
が
高 洪
ま 水
っ
い
ず
れ
も
若
い
芸
術
家
を
支
援
か
つ
刺
激
し
た
の
で
あ
る
。
術
の
必
要
性
を
訴
え
、
戦
後
の
五
、
六
〇
年
代
に
お
い
て
は
、
実
験
工
房
や
タ
ケ
ミ
ヤ
画
廊
な
ど
で
の
実
践
的
な
活
動
を
通
じ
て
、
音
楽
な
ど
に
大
き
な
影
響
を
与
え
続
け
た
。
ま
た
、
戦
前
、
言
論
の
自
由
が
抑
圧
さ
れ
て
い
た
三
、
四
〇
年
代
に
お
い
て
は
、
所
謂
前
衛
芸
な
ど
の
、
様
々
な
ジ
ャ
ン
ル
に
亘
る
作
活
動
や
、
旺
盛
な
美
術
批
評
活
動
を
通
し
て
、
日
本
の
詩
・
美
術
・
写
真
・
映
画
・
評
論
・
舞
踏
・
七
九
︶
は
、
一
九
二
〇
年
代
か
ら
七
〇
年
代
後
半
に
至
る
ま
で
、
詩
・
映
画
脚
本
・
線
描
・
水
彩
画
・
デ
カ
ル
コ
マ
ニ
ー
・
こ
と
わ
ざ
作
り
詩
人
か
つ
美
術
批
評
家
で
あ
り
、
シ
ュ
ー
ル
レ
ア
リ
ス
ム
関
係
の
著
作
物
の
翻
訳
者
と
し
て
も
知
ら
れ
る
瀧
口
修
造
︵
一
九
〇
三
∼
一
九
2
76
は
じ
め
に
얧
瀧
口
は
ど
の
よ
う
に
読
ま
れ
て
来
た
か
︵
1
︶
얧
秋
元
裕
子
瀧
口
修
造
研
究
・
批
評
の
析
北海学園大学人文論集
昭
和
初
期
、
瀧
口
に
対
し
て
一
般
文
芸
誌
上
で
初
の
評
価
を
与
え
た
の
は
、
当
時
の
先
鋭
的
文
芸
評
論
家
小
林
秀
雄
︵
一
九
〇
二
∼
一
九
こ
こ
で
五
〇
年
代
後
半
か
ら
六
〇
年
代
後
半
と
い
う
期
間
を
設
定
し
た
が
、
も
ち
ろ
ん
戦
前
か
ら
瀧
口
に
対
す
る
評
価
は
見
ら
れ
た
。
1
一
九
五
〇
年
代
後
半
∼
一
九
六
〇
年
代
後
半
年
代
半
ば
ま
で
の
間
と
す
る
。
こ
の
う
ち
本
稿
で
は
、
①
・
②
の
時
期
を
取
り
上
げ
て
検
証
し
て
い
く
。
た
一
九
九
〇
年
代
末
期
ま
で
の
期
間
と
し
、
最
後
の
時
期
は
、
⑤
瀧
口
の
生
百
年
を
迎
え
、
再
評
価
の
機
運
が
高
ま
り
始
め
た
二
〇
〇
〇
第5
8号(2
0
15年3月)
の 一 3 9
全 九 7 3
集 七
7
九 の
コ 年 刊 ︵
レ か 行 思
ク ら 以 潮
シ 、 後 社
ョ そ 、 ︶
ン の そ が
瀧 芸 の 刊
口 術 評 行
修 全 価 さ
造 体 が れ
た
︵ が 盛 、
ん
評
み
一
す 価 に 九
行
さ
ず
六
書 れ わ 七
房 る れ 年
、 よ て ま
全 う い で
一 に た の
三 な 一 期
巻 っ 九 間
お た 七 と
よ 一 〇 す
び 九 年 る
別 八 代 。
巻 九 後 次
︶ 年 半 の
の ま ま 時
刊 で で 期
行 の の は
が 歿 期 、
始 後 間 ②
ま 十 と
っ 年 し 瀧
た 間 、 口
一 と 第 修
九 す 三 造
九 る の の
一 。 時 詩
年 第 期 的
か 四 は 実
ら の 、 験
、 時 ③ 1
そ 期 瀧 9
れ は 口 2
が 、 が 7
完 ④ 歿 ∼
結 瀧 し 1
し 口 た 9
275
察
す
る
。
ま
ず
、
最
初
の
時
期
は
、
①
瀧
口
へ
の
評
価
が
高
ま
り
始
め
た
一
九
五
〇
年
代
後
半
か
ら
、
瀧
口
修
造
の
詩
的
実
験
1
9
2
7
∼
1
瀧
口
修
造
に
関
す
る
先
行
研
究
と
批
評
を
概
観
す
る
た
め
に
、
そ
れ
を
五
つ
の
時
期
に
区
し
、
そ
れ
ぞ
れ
の
時
期
の
特
徴
や
傾
向
を
し
て
学
術
論
文
が
少
で
あ
る
事
実
を
踏
ま
え
、
先
行
研
究
と
批
評
を
一
括
し
て
取
り
上
げ
る
こ
と
を
お
断
り
す
る
。
容
の
側
面
か
ら
析
・
検
証
す
る
。
本
来
な
ら
ば
、
研
究
と
批
評
を
厳
密
に
区
別
す
る
必
要
が
あ
ろ
う
が
、
圧
倒
的
な
量
の
批
評
に
対
の
時
代
の
論
者
た
ち
に
よ
っ
て
、
何
に
注
目
さ
れ
、
ど
の
よ
う
に
論
じ
ら
れ
て
、
何
を
評
価
さ
れ
て
き
た
の
か
と
い
う
こ
と
に
つ
い
て
、
受
本
論
文
で
は
、
瀧
口
の
芸
術
・
批
評
活
動
の
全
体
像
捕
捉
に
踏
み
出
す
た
め
の
基
礎
的
な
研
究
と
し
て
、
い
っ
た
い
瀧
口
は
、
そ
れ
ぞ
れ
か
ざ
る
を
得
な
い
。
未
だ
ほ
と
ん
ど
な
さ
れ
て
い
な
い
の
が
現
状
で
あ
り
、
学
問
研
究
の
場
に
お
い
て
本
格
的
な
議
論
に
入
る
以
前
の
段
階
で
あ
る
と
の
感
を
抱
︵
三
二
︶
瀧口修造研究・批評の
︵
三
三
︶
う
の
は
、
そ
れ
ら
の
論
争
に
直
接
関
わ
っ
た
当
事
者
の
み
な
ら
ず
、
戦
後
に
お
け
る
瀧
口
論
の
論
者
も
ま
た
、
論
争
を
通
し
て
醸
さ
れ
て
い
る
前
に
、
戦
後
間
も
な
い
頃
の
日
本
の
文
学
・
批
評
界
に
お
け
る
幾
つ
か
の
主
要
な
論
争
に
つ
い
て
、
概
要
を
確
認
し
て
お
き
た
い
。
と
い
家
・
詩
人
に
認
め
ら
れ
て
い
た
の
だ
が
、
戦
後
は
シ
ュ
ー
ル
レ
ア
リ
ス
ト
と
し
て
の
評
価
が
飛
躍
的
に
高
ま
っ
て
い
っ
た
。
そ
れ
を
検
証
す
こ
の
よ
う
に
、
瀧
口
は
戦
前
か
ら
シ
ュ
ー
ル
レ
ア
リ
ス
ム
の
芸
術
理
念
を
よ
く
理
解
し
、
そ
の
理
念
を
実
践
す
る
詩
人
と
し
て
批
評
自
性
を
高
く
評
価
し
た
の
だ
っ
た
。
超
現
実
主
義
と
は
異
な
っ
た
瀧
口
の
芸
術
的
な
特
質
を
見
抜
い
て
い
た
と
も
言
え
よ
う
。
い
ず
れ
に
せ
よ
、
近
藤
は
瀧
口
の
芸
術
的
な
独
を
把
握
し
て
お
り
、
ブ
ル
ト
ン
主
導
の
超
現
実
主
義
運
動
と
は
一
線
を
画
し
て
い
る
と
近
藤
は
認
め
て
い
た
の
だ
ろ
う
。
あ
る
い
は
、
︵
既 一
に 九 他
超 〇 方
現 四 、
実 ∼ 小
主 一 林
義 九 以
の 八 上
本 八 に
質 ︶ 瀧
に だ 口
徹 っ の
底 た 芸
し 。 術
、 一 性
も 九 を
は 三 評
や 八 価
ブ 年 し
ル 、 た
ト 瀧 の
ン 口 は
の 著 、
瀧
指
令 近 口
に 代 と
同
は 芸쐍
5
左 術︶ 時
右 の 期
に
さ
れ 上
梓 詩
6
ぬ쐍
︶ を と
と 受 詩
述 け 論
べ て
て 近 誌
い 藤 上
る は な
。 そ ど
瀧 の で
口 書 活
が 評 躍
を し
超 書 て
現 き い
実 、 た
主 瀧 詩
義 口 人
の に の
本 つ 近
質 い 藤
て 東
274
る
き
っ
か
け
と
な
っ
た
。
析 (
秋元)
の
小
林
の
評
価
が
、
詩
人
と
し
て
の
瀧
口
の
名
を
当
時
の
文
壇
に
知
ら
し
め
、
輩
出
し
た
日
本
の
シ
ユ
ル
・
レ
ア
リ
ズ
ム
詩
人
と
区
別
す
か
に
瀧
口
修
道
氏
だ
け
だ
と
も
述
べ
、
瀧
口
の
シ
ユ
ル
・
レ
ア
リ
ズ
ム
詩
に
対
し
て
相
対
的
に
高
い
評
価
を
与
え
た
の
だ
っ
た
。
こ
そ
の
一
方
で
、
輩
出
し
た
日
本
の
シ
ユ
ル
・
レ
ア
リ
ズ
ム
詩
人
に
し
て
も
、
私
の
読
ん
だ
う
ち
で
い
か
物
で
は
な
い
と
思
つ
た
詩
人
は
、
止
を
通
り
越
し
て
情
け
な
い
程
の
誤
解
を
受
け
た
学
は
絵
空
ご
と
か
に
お
い
て
、
現
代
フ
ラ
ン
ス
の
と 超
述 現
べ 実
て 主
義
日 と
本 い
に ふ
於 文
け 学
る 運
シ 動
ユ は
ル そ
・ の
レ 名
ア 称
リ の
ズ 為
ム に
詩 、
の 日
不 本
振 に
輸
に 入
つ さ
い れ
て て
批 、
判
し 殆
ど
4
た쐍
︶ 笑
。
実 現 八
主 実 三
義 主 ︶
を 義 で
巡 の あ
る 多 っ
論 様 た
争 な 。
が 詩 同
生 作 時
じ 品 期
て が に
い 生 は
3 み 、
た쐍
︶
。 出 詩
そ さ 雑
の れ 誌
よ て
う お 詩
な り と
時 、 詩
期 様 論
の 々
一 な を
九 詩 中
三 人 心
〇 に と
年 よ し
に る て
、 、 、
小 い 詩
林 わ 壇
は ば に
、 百 超
文 花 現
芸 繚 実
春 乱 主
秋 的 義
九 な ブ
月 超 ー
号 現 ム
に 実 が
掲 主 巻
義 き
載 解
起
さ 釈쐍
2 こ
︶
れ の
た な り
エ か 、
ッ で 実
セ 、 験
イ 超 的
に
文 現 超
北海学園大学人文論集
し
て
、
そ
れ
を
実
践
し
よ
う
と
し
て
い
た
た
め
で
あ
っ
た
。
そ
れ
ゆ
え
に
革
命
を
指
向
す
る
思
想
と
接
点
を
持
っ
た
の
で
あ
ろ
う
。
事
実
ブ
あ
く
ま
で
も
彼
ら
が
芸
術
的
な
理
念
に
立
脚
し
て
、
芸
術
に
お
け
る
現
実
認
識
の
変
革
を
主
張
す
る
と
と
も
に
、
様
々
な
芸
術
的
試
み
を
通
周
知
の
よ
う
に
フ
ラ
ン
ス
の
シ
ュ
ー
ル
レ
ア
リ
ス
ト
た
ち
は
、
一
九
三
〇
年
代
に
マ
ル
ク
ス
主
義
に
共
感
を
示
し
て
い
っ
た
。
そ
れ
は
、
に
お
け
る
シ
ュ
ー
ル
レ
ア
リ
ス
ム
を
映
し
出
し
、
映
し
出
さ
れ
た
姿
を
批
判
も
し
く
は
評
価
す
る
傾
向
が
あ
っ
た
の
で
あ
る
。
お
け
る
瀧
口
論
の
論
者
た
ち
は
、
主
に
フ
ラ
ン
ス
の
シ
ュ
ー
ル
レ
ア
リ
ス
ト
た
ち
と
戦
争
と
の
関
わ
り
合
い
方
を
鏡
と
し
て
、
そ
れ
に
日
本
こ
こ
で
フ
ラ
ン
ス
の
シ
ュ
ー
ル
レ
ア
リ
ス
ト
た
ち
の
、
第
二
次
世
界
大
戦
前
後
の
動
向
を
概
観
し
た
い
。
と
い
う
の
も
、
戦
後
の
日
本
に
さ
れ
た
の
だ
っ
た
。
日
本
の
言
説
空
間
に
お
い
て
、
フ
ラ
ン
ス
に
お
け
る
シ
ュ
ー
ル
レ
ア
リ
ス
ト
た
ち
の
、
戦
時
中
の
レ
ジ
ス
タ
ン
ス
活
動
が
非
常
に
高
く
評
価
こ
の
よ
う
な
、
戦
争
と
文
学
者
と
の
関
わ
り
方
の
反
省
が
求
め
ら
れ
、
同
時
に
新
た
な
文
学
者
像
が
模
索
さ
れ
て
い
た
戦
後
間
も
な
く
の
第5
8号(2
0
15年3月)
形 の 体
成 自 性
、 己 論
こ の 争
そ 主 も
急 体 忘
務 に れ
で 即 る
あ し こ
る た と
新 は
こ し で
と い き
を 近 な
主 代 い
張 的 。
し な 彼
た 文 ら
の 学 は
で の
あ 規 痛
準 切
1
1
る쐍
︶ の な
。
探 戦
求 争
に 体
求 験
め を
ふ
た ま
上 え
で て
、 、
戦
新 後
し に
い
作 お
家 け
的 る
な 文
主 学
体 活
の 動
形 の
成 出
発
点
新 を
し 、
い あ
人 く
間 ま
の で
2
73
そ
し
て
ま
た
、
四
六
年
こ
ろ
か
ら
四
八
年
こ
ろ
に
か
け
て
、
文
学
雑
誌
近
代
文
学
の
同
人
を
中
心
に
し
て
展
開
さ
れ
た
い
わ
ゆ
る
主
れ
た
の
だ
っ
た
。
文
学
者
に
対
し
て
び
、
主
と
し
て
い
わ
大 ゆ
衆 る
と 民
の 主
結 主
合 義
を 文
忘 学
れ 陣
て 営
い か
9 ら
た쐍
︶
で
に
亘
っ
て
展
開
さ
れ
た
、
文
学
者
の
戦
争
責
任
論
争
で
あ
ろ
う
。
当
時
何
と
言
っ
て
も
、
戦
後
間
も
な
く
の
文
学
・
批
評
界
前
な
に
ど 世
お
の 代
い
の
批
て
判 文
最
が 学
も
な 者
主
さ の
要
れ 戦 知 な
る 争 識 論
と 責 人 争
と 任 の の
も の 戦 ひ
に 究쐍
争 と
8
、 明︶ 責 つ
そ が 任 は
の 訴 の 、
え 反 一
7 九
近 ら 省쐍
︶
代 れ
四
的 て を 六
自 お 求 年
我 り め こ
の 、 る ろ
未 前 風 か
成 世 潮 ら
1
0
熟쐍
が 五
︶ 代
の 文 六
が 知 学 年
追 識 界 こ
及 人 に ろ
さ ・ 及 ま
た
言
説
空
間
の
中
で
持
論
を
展
開
し
て
い
た
か
ら
で
あ
る
。
︵
三
四
︶
瀧口修造研究・批評の
︵
三
五
︶
投
じ
た
。
エ
リ
ュ
ア
ー
ル
は
、
三
八
年
に
は
す
で
に
ブ
ル
ト
ン
か
ら
遠
ざ
か
り
、
シ
ュ
ー
ル
レ
ア
リ
ス
ム
の
芸
術
運
動
か
ら
も
離
れ
て
、
︵
第
も
芸
術
の
自
由
を
求
め
る
か
の
よ
う
に
一
九
四
〇
年
に
ア
メ
リ
カ
に
亡
命
し
た
が
、
一
方
ア
ラ
ゴ
ン
は
党
員
の
ま
ま
対
独
対
抗
運
動
に
身
を
よ
う
か
。
加
え
て
、
彼
ら
が
戦
争
を
ど
の
よ
う
に
く
ぐ
り
抜
け
た
か
と
い
う
こ
と
に
関
し
て
も
違
い
が
見
ら
れ
る
。
ブ
ル
ト
ン
は
、
あ
た
か
つ
ま
り
ブ
ル
ト
ン
と
エ
リ
ュ
ア
ー
ル
は
共
産
党
と
距
離
を
置
き
、
そ
れ
に
対
し
て
ア
ラ
ゴ
ン
は
共
産
党
に
忠
誠
心
を
持
っ
て
い
た
と
言
え
リ
ア
ー
ト
と
見
定
め
他
方
ア
ラ
ゴ
ン
は
、
1
7共
て쐍
︶
、 産
党
知 の
識 主
人 張
し
と て
い
プ た
ロ 所
レ 謂
タ 社
リ 会
ア 主
ー 義
ト リ
ア
と リ
の ズ
、 ム
芸 に
術 共
の 感
上 し
で 、
の
結 知
び 識
つ 人
き の
を 社
図 会
ろ 的
う な
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し 錨
て 地
い を
た 唯
。 一
プ
ロ
レ
タ
コ
に
滞
在
し
て
い
た
ト
ロ
ツ
キ
ー
に
面
会
に
行
く
︵
一
九
三
八
年
︶
ほ
ど
の
傾
倒
ぶ
り
を
見
せ
た
の
で
あ
る
。
産
党
と
絶
縁
し
て
い
た
。
し
か
し
な
が
ら
、
依
然
と
し
て
ト
ロ
ツ
キ
ー
の
思
想
に
は
共
感
し
た
ま
ま
で
お
り
、
ソ
連
を
追
放
さ
れ
て
メ
キ
シ
義
と
プ
ロ
パ
ガ
ン
ダ
芸
術
の
と
に
よ
っ
て
シ
ュ
ル
レ
ア
リ
美 ス
、 ム
そ
れ と
に マ
、 ル
ス ク
タ ス
ー 主
リ 義
ン と
へ の
の 接
点
偶 を
像 模
崇 索
拝쐍
1
6し
︶
た
を の
否 だ
定 が
し 、
て そ
、 の
エ 一
リ 方
ュ で
ア
ー ソ
ル 連
と に
と 蔓
も
に し
、 て
三 い
五 る
年 道
に 徳
共 主
2
72
な
か
っ
た
よ
う
で
あ
る
。
ブ
ル
ト
ン
は
、
析 (秋元)
と
は
い
え
、
ブ
ル
ト
ン
、
ア
ラ
ゴ
ン
、
エ
第 リ
二 ュ
宣 ア
言 ー
ル
で は
は 、
、 そ
シ れ
ュ ぞ
ル れ
レ が
ア 共
リ 産
ス 党
ム に
と 対
弁 し
証 て
法 同
的 じ
唯 よ
物 う
論 な
と 熱
の 意
適 を
合 持
性 っ
を て
主 い
1
5た
張쐍
︶
わ
す け
る で
こ は
二
︶
や
エ
リ
ュ
ア
ー
ル
︵
一
八
九
五
∼
一
九
五
二
︶
と
と
も
に
二
七
年
共
産
党
に
入
党
し
、
党
に
対
す
る
共
感
を
示
し
た
の
で
あ
っ
た
。
ム 産
の 党
自 に
立 同
を 調
主 し
1
4た
張쐍
︶
主
し 張
て が
、 現
芸 わ
術 れ
に て
お お
け り
る 、
共 そ
産 の
党 よ
の う
主 な
導 主
や 張
強 に
制 対
を し
否 て
定 ブ
し ル
た ト
も ン
の は
の
、 共
そ 産
の 党
一 の
方 芸
で 術
ア 観
ラ に
ゴ た
ン い
︵ し
一 て
八 シ
九 ュ
七 ル
∼ レ
一 ア
九 リ
八 ス
リ
ス
ム
の
グ
ル
ー
プ
内
に
て 命
認
と
1
2
め쐍
︶ の
て 間
い に
た 何
。 ら
し か
か の
し 共
プ 、 通
ロ ブ 性
レ ル を
タ ト 見
リ ン 出
ア と し
芸 共 て
術 産 、
を 党 ト
と ロ
出 の ツ
せ 関 キ
ね 係 ズ
ば は ム
な 複 を
ら 雑 、
な で 自
い あ
っ た
革 た ち
命 。 の
を す 世
第 な 界
一 わ 観
と ち を
す 、 説
る 二 明
立 〇 す
場 年 る
を 代 の
支 の に
持 後 最
す 半 も
1
3に 適
る쐍
︶
は し
な 、 た
ど シ 政
と ュ 治
い ー 哲
う ル 学
、 レ と
共 ア し
ル
ト
ン
︵
一
八
九
六
∼
一
九
六
六
︶
は
、
す
で
に
一
九
二
五
年
に
彼
の
理
念
と
ト
ロ
ツ
キ
ー
︵
一
八
七
九
∼
一
九
四
〇
︶
の
言
う
永
続
革
北海学園大学人文論集
型 オ
的 ロ
な ギ
も ー
の 的
を 立
現 場
実
の と
な そ
か の
に 詩
さ の
ぐ 指
る 向
レ 性
ア の
リ 矛
ズ 盾
ム を
を 批
欠 判
い し
た 、
無 ま
思 た
想 小
の 説
詩 家
人 野
間
で 宏
あ ︵
る 一
と 九
決 一
め 五
つ ∼
け 一
た
こ 九
九
25
と쐍
︶
な 一
ど ︶
が が
き 、
っ 関
か 根
け に
と つ
な い
っ て
て
、 典
と
す
る
も
の
で
、
そ
の
イ
デ
オ
ロ
ギ
ー
的
立
場
に
も
か
か
わ
ら
ず
、
大
衆
の
安
息
的
・
楽
天
意
識
に
方
向
を
与
え
る
と
、
関
根
の
イ
デ
隆
明
︵
一
九
二
四
∼
二
〇
一
二
︶
が
、
関
根
の
主
張
は
、
プ
ロ
レ
タ
リ
ア
詩
運
動
に
シ
ュ
ー
ル
レ
ア
リ
ズ
ム
の
方
法
を
み
ち
び
き
入
れ
よ
う
の
し ブ
か ー
し ム
、 と
一 も
九 言
五 え
四 る
年 様
こ を
ろ 呈
か す
ら る
五 よ
六 う
年 に
こ な
ろ っ
ま て
で い
に た
亘 の
っ で
て あ
展 る
開 。
さ
れ
た
い
わ
ゆ
る
狼
論
2
4
争쐍
︶
に
お
い
て
、
詩
人
で
あ
り
評
論
家
の
吉
本
前
半
の
日
本
の
文
学
・
批
評
界
で
は
、
政
治
と
芸
術
の
統
一
的
な
革
新
を
追
求
す
る
詩
人
た
ち
を
初
め
と
し
て
、
シ
ュ
ー
ル
レ
ア
リ
ス
ム
い
ず
れ
に
せ
よ
、
列
島
同
人
に
よ
っ
て
生
み
出
さ
れ
た
詩
や
批
評
に
よ
っ
て
シ
ュ
ー
ル
レ
ア
リ
ス
ム
に
光
が
当
て
ら
れ
、
一
九
五
〇
年
代
第5
8号(2
0
15年3月)
︵
統 一 長 人 男 を
こ 一 九 谷 た の 受
2
0
の 的 五 川 ち쐍
け
︶
な 二 龍 、 六 た
列 革 年 生 そ 月 詩
島 新 ︶ ︵ の の 人
を す 一 な み た
同 求 る 九 か ど ち
人 め と 二 で り が
の る 同 八 も の 続
な 前 時 ∼ 関 夜 々
か 衛 に ︶
、 根 わ と
で 詩 、 浜 弘
現
造 、 運
田 ︵ は わ
的 と 動 ア 知 一 、 れ
主 り を ラ 章 九 ︵ た
体 わ 推 ゴ ︵ 二 略 。
・ 一
2
2ン
の け 進쐍
一 〇
︶
・ 九 ∼ 引 九
確 関
立 根 し エ 二 一 用 五
を 弘 て リ 〇 九 者 〇
主 は い ュ ∼ 九 ︶ 年
ユ
2
3シ っ ア
張쐍
二 四 ニ
︶
ュ た ー 〇 ︶
フ
す ー の ル 〇 、 ー ラ
木
ク
る ル で ・ 八
ン
と レ あ マ ︶ 島 な ス
と ア る ヤ ら 始
︵ 抵 の
も リ 。 コ は 一 抗 抵
に ス
フ 、 九 詩 抗
、 ム
ス 芸 二 集 詩
そ の
キ 術 八 と 人
れ 方
ー 的 ∼ し ア
を 法
ら 活 二 て ラ
詩 に
の 躍 〇 高 ゴ
前 の 〇 く ン
に 強
衛 舞 四 評 や
よ い
詩 台 ︶ 価 エ
っ 関
人 と 、 さ쐍
て 心
リ
1
9
へ す 出 れ︶ ュ
成 を
の る 海
し 示
ア
関 べ 渓 た ー
遂 し
。
也
心 く ︵
げ 、
ル
を 詩 一 ま の
よ 쐕
た
深 雑 九
う 夢
方
め 誌 二 、 法
と と
、
し 現
八 左 に
政 列 ∼ 翼 学
た 実
2
1二 系 ん
治 島쐍
の の
︶
と
だ 綜
〇 の だ
芸 を 〇 前 安
っ 合
術
た 쐖
七 衛 東
の 刊 ︶ 詩 次
。 を
、
論
じ
、
プ
ロ
レ
タ
リ
ア
ー
ト
の
2
71
戦
後
の
日
本
で
は
、
フ
ラ
ン
ス
の
シ
ュ
ー
ル
レ
ア
リ
ス
ト
た
ち
の
戦
時
中
の
芸
術
活
動
の
み
な
ら
ず
、
そ
の
政
治
・
思
想
的
活
動
に
刺
激
の 二
よ 次
う 世
な 界
詩 大
集 戦
の 中
地 |
下 引
出 用
1
8者
版쐍
︶
に
に よ
携 る
わ ︶
っ フ
た ラ
の ン
だ ス
っ に
た 残
。 り
、
ア
ラ
ゴ
ン
、
ピ
エ
ー
ル
・
セ
ル
ゲ
ス
と
協
力
し
て
、
詩
と
真
実
、
一
九
四
二
︵
三
六
︶
瀧口修造研究・批評の
︵
三
七
︶
ま
り
、
昭
和
初
期
か
ら
戦
時
中
に
か
け
て
の
瀧
口
の
諸
芸
術
・
批
評
活
動
が
、
初
め
て
高
く
評
価
さ
れ
る
よ
う
に
な
っ
た
の
だ
っ
た
。
そ
の
た
芸
術
の
自
由
の
抑
圧
と
そ
れ
に
対
す
る
抵
抗
の
力
学
や
、
近
代
主
義
の
擁
護
と
い
う
側
面
か
ら
、
新
た
に
瀧
口
に
光
が
当
て
ら
れ
た
。
つ
と
も
忘
れ
て
は
な
ら
な
い
。
そ
う
い
っ
た
文
学
者
の
戦
争
責
任
・
戦
後
責
任
に
関
す
る
論
争
の
な
か
で
、
主
に
、
国
家
・
時
代
を
背
景
に
し
加
え
て
同
時
期
は
、
依
然
と
し
て
文
学
者
の
戦
争
責
任
論
お
よ
び
戦
後
責
任
論
の
諸
言
説
が
、
批
評
界
を
席
巻
し
て
い
た
頃
で
あ
っ
た
こ
か
ら
も
芸
術
の
側
か
ら
も
論
じ
ら
れ
る
よ
う
に
な
っ
て
い
た
の
で
あ
る
。
ル
レ
ア
リ
ス
ム
観
と
の
合
流
点
が
、
ま
さ
に
瀧
口
だ
っ
た
と
言
え
よ
う
。
言
い
換
え
れ
ば
瀧
口
は
、
こ
の
当
時
思
想
の
側
︵
特
に
左
翼
系
︶
新 存
在
と し
結 た
び 、
つ 五
け 〇
ら 年
れ 代
た の
シ 半
ュ ば
ー こ
ル ろ
レ か
ア ら
リ で
ス あ
ム っ
観 た
と 。
、
専 す
ら な
新 わ
し ち
い
芸 左
術 翼
の 系
指 の
標 前
を 衛
求 詩
め 人
た た
ち
シ
ュ に
ル よ
レ っ
ア て
リ
ス 政
ム 治
研 と
究 芸
会 術
に の
よ 統
る 一
シ 的
ュ な
ー 革
瀧
口
が
高
く
評
価
さ
れ
始
め
た
の
は
、
既
述
の
そ
れ
ぞ
れ
別
の
背
景
を
持
つ
、
シ
ュ
ー
ル
レ
ア
リ
ス
ム
に
対
す
る
二
つ
の
見
方
が
同
時
に
と
い
う
自
覚
を
、
彼
ら
が
持
っ
て
い
た
か
ら
で
あ
る
。
2
70
た
こ
の
芸
術
運
動
の
、
未
解
決
の
ま
ま
残
し
た
様
々
な
芸
術
的
問
題
に
、
戦
後
の
新
し
い
時
代
の
芸
術
の
問
題
が
緊
密
に
結
び
つ
い
て
い
る
析 (
秋元)
し
た
上
で
、
シ
ュ
ー
ル
レ
ア
リ
ス
ム
の
芸
術
を
実
践
す
る
こ
と
を
目
指
し
て
い
た
が
、
そ
れ
は
、
戦
前
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フ
ラ
ン
ス
を
中
心
と
し
て
展
開
し
な
る
芸
術
の
発
展
を
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指
す
た
め
に
、
一
九
五
六
年
に
結
成
さ
れ
た
。
メ
ン
バ
ー
た
ち
は
、
シ
ュ
ー
ル
レ
ア
リ
ス
ム
の
理
念
を
新
た
に
咀
嚼
シ
ュ
ル
レ
ア
リ
ス
ム
研
究
会
は
、
二
〇
世
紀
最
大
の
芸
術
運
動
と
も
言
え
る
シ
ュ
ー
ル
レ
ア
リ
ス
ム
を
徹
底
的
に
研
究
し
た
上
で
、
次
標
た
る
シ
ュ
ー
ル
レ
ア
リ
ス
ム
の
検
討
と
、
そ
れ
を
基
に
し
た
芸
術
観
の
構
築
に
動
き
出
し
た
の
だ
っ
た
。
を
捉
え
な
お
そ
う
と
い
う
別
の
機
運
が
生
じ
て
い
た
。
す
な
わ
ち
と
こ
ろ
が
、
左
翼
系
の
シ
ュ
ー
ル
レ
ア
リ
ス
ム
熱
の
収
束
と
同
時
シ に
ュ 、
ル 一
レ 方
ア で
リ は
ス 、
ム 純
研 粋
究 に
2
6芸
会쐍
︶
術
が 運
発 動
足 と
し し
、 て
新 の
し シ
い ュ
時 ー
代 ル
の レ
芸 ア
術 リ
の ス
指 ム
に
結
び
つ
け
ら
れ
て
盛
り
上
が
っ
た
シ
ュ
ー
ル
レ
ア
リ
ス
ム
の
ブ
ー
ム
は
、
収
束
し
て
い
っ
た
。
次
第
に
関
根
の
主
張
す
る
シ
ュ
ー
ル
レ
ア
リ
ス
ム
に
対
す
る
批
判
が
高
ま
っ
て
い
っ
た
。
そ
れ
と
同
時
に
、
政
治
と
芸
術
の
統
一
的
な
革
新
北海学園大学人文論集
期
か
ら
戦
時
中
に
お
け
る
、
前
衛
芸
術
運
動
の
一
九
六
二
年
、
こ
の
と
き
都
合
三
度
目
の
出
版
つ と
か な
の っ
ま た
の 瀧
高 口
揚 の
32
期쐍
︶ 著
に 書
対
し 近
て 代
批 芸
判 術
的
に に
捉 、
え 針
る 生
文 は
脈 そ
の の
な 解
か 題
で を
、 書
い
そ て
も お
そ り
も 、
近 昭
代 和
芸 初
針
生
は
、
戦
時
中
の
瀧
口
の
批
評
の
な
か
に
近
代
精
神
を
貫
い
た
姿
を
見
出
し
て
、
以
下
の
よ
う
に
そ
れ
を
高
く
評
価
し
て
い
る
。
生
一
郎
︵
一
九
二
五
∼
二
〇
一
〇
︶
と
、
詩
人
鶴
岡
善
久
︵
一
九
三
六
∼
︶
が
挙
げ
ら
れ
る
。
の
先
駆
者
と
し
て
瀧
口
を
捉
え
た
上
で
、
瀧
口
の
芸
術
の
特
徴
を
論
じ
る
傾
向
も
見
受
け
ら
れ
る
。
そ
の
代
表
例
と
し
て
、
美
術
評
論
家
針
う
傾
向
が
、
五
〇
年
代
後
半
か
ら
六
〇
年
代
前
半
に
か
け
て
顕
著
に
見
ら
れ
る
の
で
あ
る
。
ま
た
、
評
論
家
自
身
が
理
想
と
し
て
い
た
芸
術
活
動
の
な
か
に
、
芸
術
の
自
由
を
抑
圧
し
て
く
る
力
に
対
す
る
抵
抗
や
、
近
代
精
神
を
貫
い
た
姿
を
見
出
し
て
そ
れ
ら
を
賞
賛
す
る
、
と
い
が
繰
り
返
し
取
り
上
げ
て
賞
賛
す
る
よ
う
に
な
っ
て
い
っ
た
。
言
い
換
え
れ
ば
、
昭
和
初
期
か
ら
戦
時
中
に
か
け
て
の
瀧
口
の
芸
術
・
批
評
第5
8号(2
0
15年3月)
の
像
を じ
て
り 言
出 え
し ば
た 、
の 花
で 田
あ は
る 瀧
。 口
こ の
の な
倫 か
理 に
的 、
な 権
近 力
代 に
人 屈
で せ
あ ず
り 主
芸 体
術 的
家 な
と 生
し き
て 方
の を
瀧 貫
口 い
像 た
を 倫
、 理
五 的
〇 な
年 近
代 代
後 人
半 の
か 姿
ら を
多 読
く み
の 取
評 っ
論 て
家 、
た 瀧
ち 口
2
69
的
に
芸
術
活
動
を
行
い
続
け
た
瀧
口
像
が
語
ら
れ
始
め
た
の
で
あ
る
。
芸
術
活
動
に
お
け
る
レ
ジ
ス
タ
ン
ス
の
姿
を
も
読
み
取
っ
て
い
る
。
花
田
に
よ
っ
て
、
戦
争
や
国
家
権
力
と
は
一
定
の
距
離
を
保
ち
、
主
体
も
の
は
、
ち
ゃ
ん
と
ハ
ジ
キ
か
え
し
、
想
と
す
る
ア
ヴ
ァ
ン
ギ
ャ
ル
ド
観
の
代
弁
者
と
し
て
瀧
口
を
捉
え
て
い
る
の
だ
ろ
う
。
さ
ら
に
、
戦
時
中
の
瀧
口
に
ど
ん
な
圧
力
に
も
屈
し
な
い
で
、
昭
和
初
年
以
来
ジ
リ
ジ
リ
と
前
進
し
つ
づ
け ハ
て ジ
い キ
3
1か
る쐍
︶
と え
い す
う べ
、 き
神 ま
を ら
読 な
み い
と と
ら 定
と な 位
感 い し
嘆 わ 、
し け そ
3
0に の
た쐍
︶
。 は 上
い い で
わ か 、
ば ん ︵
花 の 瀧
2
9口
田 だ쐍
︶
は
の
、 と |
戦 断 引
前 じ 用
の て 者
、 に
ア ぼ よ
ヴ く る
ァ 年 ︶
ン 来 言
ギ の 葉
ャ 主 の
ル 張 裏
ド
に
芸 に 、
術 対 か
し え
と て っ
瀧
て
口 す 、
と っ は
を か げ
切 り し
り 、 い
離 瀧 か
し 口 れ
た 修 の
上 造 ア
で に ヴ
、 先 ァ
花 鞭 ン
田 を ギ
自 つ ャ
身 け ル
が ら ド
理 れ 精
て
し
ま
っ
た
花
田
は
瀧
口
に
つ
い
て
、
戦
前
の
国
家
権
力
に
対
立
し
て
い
た
既
成
の
嚆
矢
と
し
て
、
評
論
家
花
田
清
輝
︵
一
九
〇
九
∼
一
九
七
四
︶
の
エ
ッ
セ
イ
ア
ヴ コ
ァ ロ
ン ン
ギ ブ
ャ ス
ル の
ド
쐍
2
7
芸 卵︶
쐍
8
術2
︶ が
、 挙
と げ
い ら
う れ
枠 る
に 。
は
必
ず
し
も
当
て
は
︵
三
八
︶
瀧口修造研究・批評の
︵
三
九
︶
げ
、
そ
の
う
ち
的
混
乱
の
状
態
ブ
レ
イ
ク
へ
の
傾
倒
を
招
い
た
要
因
と
し
て
、
瀧
口
の
に
関
し
て
、
︵
瀧
口
が
|
引
用
者
に
よ
る
︶
ブ
レ
イ
ク
の
神
秘
的
な
思
想
に
ふ
れ
、
そ
の
暗
黒
の
ブ
レ
イ
ク
へ
の
傾
倒
、
関
東
大
震
災
の
経
験
、
北
海
道
へ
の
脱
出
瀧
口
の
学
生
時
代
か
ら
の
精
神
の
な
か
に
シ
ュ
ル
レ
ア
リ
ス
ム
を
受
け
入
れ
る
前
提
を
探
っ
て
い
る
。
す
な
わ
ち
、
瀧
の 口
三 に
点
を ダ
挙 ダ
リ
で
ダ
ダ
的
な
芸
術
活
動
を
繰
り
広
げ
て
い
た
。
そ
の
点
ダ に
ダ お
的 い
混 て
乱 ダ
の ダ
状 イ
37ズ
態쐍
︶
ム
を は
見 、
出 シ
し ュ
、 ー
そ ル
れ レ
を ア
細 リ
か ス
く ム
検 の
討 揺
す 籃
る で
こ あ
と っ
に た
よ と
っ も
て 言
、 え
る
。
鶴
岡
は
そ
の
事
実
を
重
視
し
、
瀧
口
の
青
年
期
に
エ
リ
ュ
ア
ー
ル
ら
は
、
シ
ュ
ー
ル
レ
ア
リ
ス
ム
宣
言
を
発
表
し
て
そ
の
芸
術
運
動
を
推
し
進
め
て
い
く
以
前
、
ダ
ダ
イ
ズ
ム
に
傾
倒
し
て
パ
周
知
の
よ
う
に
、
フ
ラ
ン
ス
を
中
心
と
し
て
展
開
し
た
シ
ュ
ー
ル
レ
ア
リ
ス
ム
の
中
心
的
な
メ
ン
バ
ー
だ
っ
た
ブ
ル
ト
ン
、
ア
ラ
ゴ
ン
、
は
な
か
っ
た
こ
と
を
前
提
と
し
た
の
だ
っ
た
。
そ
の
上
で
、
な
ぜ
そ
の
よ
う
に
言
え
る
の
か
、
理
由
を
次
の
よ
う
に
析
し
た
。
が シ で
ュ あ
シ ル る
ュ レ と
ル ア 認
レ リ め
ア ス て
リ ト 、
ス と 現
ト し 実
と て に
し の 対
て 可 す
の 能 る
可 性 関
能 に 心
性 き と
に わ 挺
き め 身
わ て を
め 近 ほ
て い と
近 地 ん
い 点 ど
地 に も
点 い た
3
6な
に た쐍
︶
か
い
た と っ
い た
一 う 当
方 点 時
で に の
、 お わ
必 い が
ず て 国
し 瀧 の
も 口 エ
を セ
シ 評 ・
シ
ュ 価 ュ
ル し ル
レ た レ
ア 。 ア
リ つ リ
ス ま ス
ト り ト
鶴 と
そ 岡 は
の は 異
も 、 っ
の 瀧 て
で 口 、
2
68
析 (
秋元)
瀧
鶴 口
岡 の
は 芸
術
北 ・
園 批
克 評
衛 活
、 動
上 の
田 な
敏 か
雄 に
ら 、
に 芸
比 術
較 の
し 自
て 由
、 の
瀧 弾
口 圧
修 に
造 対
は す
わ る
が 、
国 あ
の る
詩 屈
人 折
の し
な た
か 抵
で 抗
も の
っ 姿
と を
も 見
シ 出
ュ し
ル て
レ い
ア る
リ 。
ス
ト
ら
し
い
詩
3
5
人쐍
︶
ま
た
、
鶴
岡
善
久
︵
一
九
三
六
∼
︶
は
、
そ
の
評
論
別
し
た
の
だ
っ
た
。
太
陽
へ
の
希
求
瀧
口
修
3
4
造쐍
︶
に
お
い
て
、
昭
和
初
期
か
ら
戦
時
中
に
か
け
て
の
瀧
口
を
捉
え
て
、
そ
こ
に
抵
抗
の
原
理
を
読
み
取
り
、
近
代
精
神
を
持
ち
合
わ
せ
な
か
っ
た
前
世
代
の
前
衛
芸
術
家
た
ち
と
明
確
に
区
で 代
も の
あ 精
っ 髄
3
3を
た쐍
︶
つ
と き
述 と
べ め
て 、
、 そ
瀧 れ
口 を
に 主
最 体
大 的
級 に
の 生
讃 き
辞 る
を こ
贈 と
っ 以
た 外
。 に
す な
な い
わ 。
ち そ
れ
近 が
代 瀧
の 口
精 修
髄 造
を の
つ 一
き 貫
と し
め た
、 批
そ 評
れ 原
を 理
主 で
体 あ
的 り
に 、
生 抵
き 抗
の
た 原
と 理
術
の
変
貌
を
生
み
だ
し
た
内
的
な
ド
ラ
マ
の
把
握
に
欠
け
て
い
る
と
き
、
眼
前
の
あ
ら
ゆ
る
論
議
と
混
乱
を
止
揚
す
る
道
は
、
み
ず
か
ら
近
北海学園大学人文論集
大
岡
は
一
九
六
三
年
、
そ
の
評
論
一
方
で
、
詩
人
大
岡
信
︵
一
九
三
超 一
現 ∼
実 ︶
主 は
義 、
詩 彼
論 自
の 身
展 が
44理
開쐍
︶
想
に と
お す
い る
て 新
、 し
戦 い
後 芸
に 術
な の
っ 先
て 駆
、 者
今 と
さ し
ら て
の 瀧
ご 口
と を
く 論
シ 評
ュ し
ル 、
レ 讃
ア 辞
リ を
ス 贈
ム っ
を た
。
の
意
味
に
お
い
て
思
想
の
側
か
ら
瀧
口
を
捉
え
た
も
の
だ
と
言
え
よ
う
。
九
六
二
年
︶
の
瀧
口
論
に
つ
い
て
は
、
共
通
し
て
芸
術
の
自
由
を
抑
圧
す
る
権
力
に
対
す
る
抵
抗
の
点
を
強
調
し
て
論
じ
て
お
り
、
そ
も
ち
ろ
ん
そ
れ
ぞ
れ
の
論
者
に
よ
っ
て
論
じ
方
に
違
い
が
あ
る
と
は
い
え
、
花
田
︵
一
九
五
五
年
︶
、
針
生
︵
一
九
六
二
年
︶
、
鶴
岡
︵
一
|
引
用
者
に
よ
る
︶
の
偽
装
の
姿
面
的
な
抵
抗
者
で
は
な
か
っ
た
瀧
を 口
読 の
み
取 権
っ 力
た に
の お
で さ
あ れ
4
3て
る쐍
︶
。 の
必
然
的
な
一
歩
後
退
だ
と
み
な
し
て
、
そ
こ
に
た
く
み
な
彼
︵
瀧
口
第5
8号(2
0
15年3月)
ニ
ス
ト
に
な
り
き
シ る
ュ こ
ル と
レ
ア が
リ で
ス き
ト な
か
と
論 と っ
じ 区 た
た 別 と
の し 捉
だ つ え
っ つ た
4
2も 。
た쐍
︶
。 、 す
そ 社 な
し 会 わ
て へ ち
瀧 の
口 全 社
が 面 会
戦 的 へ
時 な の
中 抵 全
に 抗 面
書 者 的
い
な
た と 抵
詩 な 抗
に る 者
つ 代
い わ で
て り は
、 に な
そ
か
れ 個 っ
ら 人 た
を 的 点
な に
社 芸 お
会 術 い
へ の て
の 範 瀧
全 囲 口
内
で
の
抵
抗
に
お
き
か
え
て
い
っ
た
を
フ
ラ
ン
ス
の
2
67
加
え
て
鶴
岡
は
、
瀧
口
に
つ
い
て
て
成
長
す
る
上
で
不
可
欠
な
こ
と
で
あ
っ
た
反
面
、
つ
ま
り
瀧
口
の
ブ
レ
イ
ク
へ
の
傾
倒
た
ち
で
、
ひ
そ
か
に
燃
え
続
け
て
い
た
と
結
び
つ
け
た
。
し
か
も
そ
の
リ
リ
シ
も シ
ュ
は の ズ
ル
、 で ム
レ
瀧 あ
ア
口 る を
リ
本 と 、
ス シ 来 捉 彼
ュ
ト
の
ル 芸 え ︵
て 瀧
レ
か
術 、 口
ア
ら
的 そ
転 リ 資 れ |
じ ス 質 を 引
た ト に 瀧 用
と 由 口 者
フ し 来 の に
ラ て す 芸 よ
ン の る 術 る
ス そ も に ︶
の の の お の
コ 後 で け 精
ミ の あ る 神
ュ 限쐍 り 特 の
0
質 根
ニ 界4
︶ 、
底
ス
か 的
ト を つ な に
も
た も
4
1導
の お
ち쐍
︶
く シ だ い
と も ュ と て
は の ル み 絶
違 だ レ な え
っ っ ア し ず
て た リ た
、 と ス の 何
ト
ら
で
コ い
あ か
う
ミ
と る쐍
の
3
9
ュ 。 し 。︶ か
い
も
の
と
し
て
、
や
や
暗
く
し
か
も
ど
こ
か
は
な
や
か
な
リ
リ
シ
ズ
ム
を
読
み
取
っ
て
、
そ
れ
を
も
ま
た
ブ
レ
イ
ク
の
暗
黒
の
思
想
し
か
し
な
が
ら
鶴
岡
は
、
昭
和
初
期
に
お
け
る
瀧
口
の
詩
の
な
か
に
、
必
ず
し
も
シ
ュ
ル
レ
ア
リ
ス
ト
と
し
て
の
資
質
と
は
言
え
な
あ 思
っ 想
た に
染
と め
断 ら
じ れ
3
8
た쐍
︶ て
。 お
ち
て
い
っ
た
混
乱
の
状
態
は
、
彼
を
シ
ュ
ル
レ
ア
リ
ス
ト
と
し
て
成
長
せ
し
め
た
も
っ
と
も
枢
要
な
で
き
ご
と
で
︵
四
〇
︶
瀧口修造研究・批評の
︵
四
一
︶
こ
の
よ
う
な
、
六
〇
年
代
前
半
に
お
け
る
針
生
、
鶴
岡
、
大
岡
の
瀧
口
論
に
関
し
て
は
、
近
代
精
神
の
体
現
者
あ
る
い
は
そ
の
可
能
性
に
を
、
戦
後
に
な
っ
て
お
い
て
、
瀧
口
は
大
岡
有 に
効 と
に っ
て
受
け 稀
継 有
ご な
う 一
と 例
す だ
る っ
意 た
志 。
を い
表 わ
わ ば
し 、
て 大
い 岡
る は
の 、
で そ
あ の
る 稀
。 有
な
例
で
あ
っ
た
瀧
口
の
的
な
弾
性
を
も
つ
イ
マ
ー
ジ
ュ
を
生
き
た
ま
ま
取
り
出
し
、
そ
し
て
そ
れ
を
わ
が
血
肉
と
化
す
こ
と
が
で
き
詩 た
観 と
な い
い う
し そ
芸
術 の
点
51
観쐍
︶ に
ジ 理
ュ 解 そ
し の
を 、 よ
賞
う
賛 真 な
し の 批
た シ 判
の ュ の
で ル 一
あ レ 方
5
0ア
る쐍
で
︶
。 リ 、
す ス 大
な ト 岡
わ た は
ち ろ 例
、 う 外
と
シ し 的
ュ た に
ル 詩 瀧
口
4
9
レ 人쐍
︶ を
ア
リ だ 、
ス っ 西
ム た 洋
と 近
か み 代
ら な の
し 芸
生 て 術
命 、 運
の 瀧 動
核 口 と
心 の し
に 詩 て
触 に の
れ お
る け シ
火 る ュ
ル
花
驚 レ
に 異 ア
も 的 リ
た な ス
と 弾 ム
え 性
ら を の
れ も 理
る つ 念
イ を
驚 マ よ
異 ー く
家
の
力
の
微
弱
さ
と
い
う
点
を
、
大
岡
は
批
判
し
て
い
る
の
で
あ
ろ
う
。
一
九
二
〇
年
代
か
ら
四
〇
年
代
に
か
け
て
の
思
想
的
な
激
動
の
時
代
に
お
い
て
、
芸
術
理
念
の
上
で
深
刻
な
藤
を
経
て
来
な
か
っ
た
芸
術
持
て
は
や
さ
れ
た
点
や
、
唯
物
論
的
な
見
方
か
ら
物
体
に
新
た
な
意
味
を
見
出
そ
う
と
す
る
哲
学
的
な
土
壌
を
持
た
な
か
っ
た
点
、
そ
し
て
2
66
に
曝
さ
な
け
れ
ば
な
ら
な
い
必
然
的
な
背
景
が
な
く
、
し
た
が
っ
て
自
動
筆
記
が
単
な
る
方
法
上
の
新
し
さ
と
い
う
点
に
お
い
て
の
み
析 (秋元)
よ に 来 ブ
っ お 事 ジ
て け の ェ
そ る 連
の
鎖 に
よ
発 シ
展 ュ の る
を ル 中 主
促 レ に 観
す ア 、 と
と リ シ 客
い ス ュ 観
シ う ム ル の
ュ
運 レ 新
し
4
7
ル ダ 動쐍
︶ ア
い
レ イ
リ
ア ナ に ス 関
リ ミ は ム 係
ス ッ 、 の の
ム ク 芸 歴 発
見
運 な 術
動 展 家
、
4
8が を
開쐍
そ
︶
に
い 築 し
つ は わ い て
い な ゆ て
て か る き コ
、 っ
た ミ
無 た 思 と ュ
意 と 想 い쐍 ニ
6ズ
う4
識 述
︶
べ の 。 ム
を て な し や
い い か か フ
わ る で し ァ
、 シ
ゆ 。
る
藤 フ ズ
理
し ラ ム
性
、 ン と
の
あ ス の
拘
る と 激
束
い は し
か
は 異 い
ら
そ な 思
解
れ り 想
き
と 、 的
放
対 昭 対
っ
決 和 決
て
す 初 な
白
る 期 ど
日
こ の の
の
と 日
下
に 本 出
言
い
換
え
れ
ば
、
日
本
の
大
岡
に
よ
る
と
、
フ
ラ
ン
ス
を
中
心
と
し
て
展
開
し
て
い
た
シ
ュ
ル
レ
ア
リ
ス
ム
は
、
自
動
筆
記
に
よ
る
無
意
識
へ
の
潜
入
、
オ
ル
レ
ア
リ
ス
ム
研
究
会
問
題
に
し
、
そ
の
遺
産
を
発
展
的
に
う
け
つ
ご
う
と
す
る
動
き
が
生
じ
4
5
た쐍
︶
こ
と
を
前
提
に
し
て
、
新
し
い
芸
術
観
の
の
メ
ン
バ
ー
と
し
て
の
立
場
か
ら
、
瀧
口
の
昭
和
初
期
の
詩
に
つ
い
て
論
じ
た
の
だ
っ
た
。 造
を
志
向
す
る
シ
ュ
北海学園大学人文論集
の て
い
日 こ
本 う
の と
シ い
ュ う
ル 、
レ 大
ア 岡
リ と
ス 共
ム 通
運 の
動 目
的
が を
そ 持
の ち
運 合
動 わ
に せ
て
着 い
手 た
こ
し と
た は
こ 確
と か
に で
関 あ
し る
て 。
飯 し
島 か
は し
讃 大
辞 岡
を と
贈 は
っ 異
て な
い り
る
。 詩
つ と
ま 詩
り 論
、
大 以
岡 来
が
て
そ
れ
を
ひ
き
つ
ぐ
来 異
の な 一
っ 方
日 た 、
本 見 大
の 方 岡
シ で と
ュ 瀧 同
ル 口 じ
と レ を く
述 ア 捉
べ リ え シ
て ス て ュ
い ム い ル
56
る쐍
︶ 運 た レ
。 動 よ ア
し
う リ
た に で ス
対
が
あ ム
っ し る 研
て て 。 究
、 、 飯 会
飯 着 島
島 手 は の
が さ そ メ
日 れ の ン
本 た 評 バ
の こ 論 ー
で
シ と
ュ に シ あ
ル 拍 ュ っ
レ 手 ル て
ア を レ も
リ お ア 、
ス く リ 詩
ム り ス 人
運 、 ム 飯
動 な 詩 島
し 論 耕
の と 序쐍 一
5
後 げ 説5
︶ ︵
継 ら
一
者 れ に 九
と ず お 三
し 挫 い 〇
て 折 て ∼
こ し 、 二
の た 詩 〇
運 要 と 一
動 因 詩 三
を を 論 ︶
担 探
は
っ っ 以 、
瀧
口
論
に
お
け
る
一
つ
の
傾
向
を
示
し
て
い
る
と
言
え
よ
う
。
の
前
世
代
の
モ
ダ
ニ
ズ
ム
詩
人
に
対
す
る
批
判
は
、
鶴
岡
、
大
岡
に
も
共
通
し
て
見
ら
れ
る
も
の
で
あ
り
、
し
た
が
っ
て
六
〇
年
代
前
半
の
第5
8号(2
0
15年3月)
し み 近
5
4な
た쐍
︶
代
し 主
と て 義
捉 批 と
え 判 漠
て し 然
、 て と
春 お 呼
5
3
山 り쐍
︶ ば
行 、 れ
夫 一 る
︵ 方 モ
一 で ダ
九 瀧 ニ
〇 口 ス
二 を ト
∼
、
一 日 教
九 本 養
九 で 学
四 も 派
︶ っ と
ら と し
、 も て
い 早 、
わ く 大
ゆ 、 な
る あ り
モ た 小
ダ ら な
ニ し り
ズ い 趣
ム 詩 味
詩 と 的
人 実 温
と 在 室
瀧 の の
口 影 な
を 像 か
明 に に
確 む 解
に か 消
区 っ し
別 て て
し 、 い
た 孤 っ
の 独 た
だ な
っ 旅 詩
た 立 人
。 ち だ
こ を と
2
65
前
衛
美
術
運
動
に
わ
せ
て
語
ら
れ
て
い
る
。
ヨ
シ
ダ
は
、
瀧
口
と
同
時
代
的
な
モ
ダ
ニ
ズ
ム
詩
人
春
山
、
西
脇
、
北
園
、
北
川
を
造
覚 一
え 例
5
2と
書쐍
︶
し
を て
発 、
表 美
し 術
て 評
い 論
る 家
が で
、 あ
そ り
こ 詩
で 人
は の
昭 ヨ
和 シ
初 ダ
期 ・
以 ヨ
来 シ
の エ
瀧 ︵
口 一
の 九
芸 二
術 九
・ ∼
批 ︶
評 が
活 、
動 瀧
が 口
、 に
日 つ
本 い
の て
モ の
ダ 評
ニ 伝
ズ の
ム 嚆
詩 矢
で
お あ
よ る
び
日 瀧
本 口
の 修
書
か
れ
た
瀧
口
論
に
お
い
て
し
ば
し
ば
見
受
け
ら
れ
る
の
で
あ
る
。
批
判
と
し
て
も
読
む
こ
と
が
で
き
る
で
あ
ろ
う
。
事
実
そ
の
よ
う
な
前
世
代
の
芸
術
家
・
詩
人
へ
の
批
判
的
な
意
識
が
、
六
〇
年
代
前
半
に
た
、
あ
る
い
は
近
代
の
芸
術
を
血
肉
化
で
き
な
か
っ
た
戦
前
の
芸
術
家
や
詩
人
た
ち
に
対
す
る
批
判
や
、
ひ
い
て
は
戦
前
の
日
本
に
対
す
る
の
先
駆
者
と
し
て
瀧
口
を
見
る
、
そ
の
見
方
を
も
共
有
し
て
い
る
と
言
え
よ
う
。
一
方
で
こ
れ
ら
の
瀧
口
論
は
、
近
代
精
神
を
体
現
し
な
か
っ
近
い
者
と
し
て
瀧
口
を
捉
え
て
い
る
点
に
お
い
て
、
そ
れ
ぞ
れ
の
論
者
の
見
方
が
共
通
し
て
い
る
こ
と
に
加
え
、
論
者
が
理
想
と
す
る
芸
術
︵
四
二
︶
瀧口修造研究・批評の
書
か
れ
た
も
の
の
ひ
と
つ
で
あ
る
。
︵
四
三
︶
と
こ
ろ
で
、
こ
の
飯
島
の
シ
ュ
ル
レ
ア
リ
ス
ム
詩
論
序
説
は
、
影
像
の
視
点
か
ら
瀧
口
を
論
じ
た
評
論
と
し
て
、
最
も
早
い
時
期
に
い
求
め
る
こ
と
が
、
あ
た
か
も
同
義
で
あ
る
こ
と
を
、
飯
島
は
示
唆
し
て
い
る
。
は
、
ど
ち
ら
も
希
求
し
て
止
ま
な
い
対
象
で
あ
り
、
現
実
を
そ
の
ま
ま
そ
っ
く
り
手
の
う
ち
に
入
れ
る
発
見
し
提
示
す
る
こ
と
に
よ
っ
て
、
若
い
芸
術
家
た
ち
を
も
鼓
舞
し
て
い
た
の
で
あ
ろ
う
。
瀧
口
に
お
い
て
こ
と 現
と 実
、
イ と
マ
ー イ
ジ マ
ュ ー
ジ
を ュ
追
よ
る 今
︶ 日
今 ︵
日 一
の 九
イ 六
マ 一
ー 年
ジ |
ュ 引
を 用
追 者
っ に
て
い よ
る
6
4
る쐍
︶ ︶
と の
い 若
う い
飯 美
島 術
の 家
見 た
解 ち
を の
鑑 新
み し
て い
、 眼
瀧 の
口 発
は 掘
新 者
し と
い し
て
イ 、
マ 味
ー 方
ジ と
ュ し
て
を 、
︵
追 瀧
い 口
求 は
め |
、 引
そ 用
れ 者
を に
そ
の
点
に
お
い
て
春
山
や
神
原
や
西
脇
順
三
郎
︵
一
八
九
四
∼
一
九
八
二
︶
を
凌
い
で
い
た
の
で
あ
ろ
う
。
た
よ
う
に
、
瀧
口
は
、
反
省
を
超
え
て
直
観
的
に
現
実
を
そ
の
ま
ま
そ
っ
く
り
手
の
う
ち
に
入
れ
る
こ
と
に
心
を
奪
わ
れ
て
お
り
、
析 (
秋元)
西 を れ い も ス
脇 超 な る な ム 詳
6
1。 い
順 え い쐍
述
︶
三 る
な 永 を す
郎 要 と ぜ 遠 巡 れ
や 素 い な の る ば
春 を う ら 課 論 、
5
9争쐍
5
8こ
山 見 瀧 飯 題쐍
︶
︶
に の
行 出 口 島
夫 し の は で つ 評
を た 見 、 し い 論
超 か 解 瀧 か て で
え ら を 口 な 、 飯
た で 読 が い
島
と あ み 一 と 観 は
こ る 取 九 し 念 、
ろ 。 り 三 て 対 昭
で つ 、 一 退 現 和
、 ま 反 年 け 実 初
現 り 省 に 、
期
実 飯
発 そ と に
を 島 と 表 の い お
そ が い し 一 う け
の 瀧 う た 方 か る
ま 口 言 詩 で た 春
ま の わ 論 、 ち 山
そ 詩 ば
日 で 行
思 詩 本 の 夫
っ
く 絶 索 と の 詩 と
り 対 的 実쐍 シ 論 神
0
手 へ な 在6
︶ ュ の 原
の の 過 の ル 対 泰
う 接 程 な レ 立 ︵
6
2を
ち 吻쐍
︶
か ア は 一
重 に リ 、 八
に
入 に 視 、 ス な 九
れ つ し
ム か 八
る い て 観 運 な ∼
方 て い 念 動 か 一
複 九
な と
法
を 氏 い 現 に 雑 九
夢 ︵ 瀧 実 お 怪 七
み 瀧 口 の い 奇 ︶
て 口 の 一 て 、 に
い | 詩 致 瀧 容 よ
た 引 観 は 口 易 る
よ 用 に 、 を に
う 者 、 反 高 解 シ
6
3に 春 省 く 決 ュ
だ쐍
︶
よ 山 か 評 さ ル
と る や ら 価 れ レ
論 ︶ 神 は し そ ア
じ は 原 生 て う リ
2
64
影
像
を
通
し
て
い
わ
ゆ
る
現
実
そ
の
も
の
を
と
ら
え
よ
う
と
す
る
点
に
お
い
て
、
瀧
口
の
特
質
を
見
抜
い
た
の
で
あ
る
。
新 明
し 確
い に
影 示
5
7し
像쐍
︶
を た
求 よ
め う
続 な
け 前
る 世
者 代
と 批
し 判
て の
瀧 意
口 識
を を
捉 、
え 飯
て 島
い は
る 必
点 ず
に し
お も
い 見
て せ
も て
ま い
た な
、 い
飯 の
島 で
独 あ
特 る
の 。
見 そ
方 れ
が に
見 加
出 え
せ て
よ 、
う 以
。 下
す
な に
わ 示
ち す
飯 よ
島 う
は に
、 、
北海学園大学人文論集
に 感 を
瀧 き
限
口 め と 定
は て 結 で
い び き
予 る つ な
感 こ け い
を と て 多
孕 で 説 種
み あ 明 類
な り し の
が 、 た 表
ら き 。 現
쐕 わ ま や
も め た 批
の て そ 評
쐖 重 の 活
が
あ 要 予 動
ら な 感 が
は
わ 要
れ 素 を じ
ま
よ で
あ
る
う
ベ
と る ー と
す
シ 瀧
る と ッ 口
み
こ な ク を
と し쐍
69な 捉
・ 、︶ こ え
影 そ と て
像 れ で 、
の を あ 瀧
自 次 り 口
発 の な の
的 よ が 芸
な う ら 術
機 に 、 的
能 捉 瀧 な
に え 口 活
憑 た 氏 動
か 。 の を
れ
仕 引
て
事 き
し
の 起
ま
性 こ
っ
格 す
쐍
0
た7
︶
を
。
ぜ 動
換
ん 機
言
た を
す
い
れ
的 予
岡
田
は
、
芸
術
活
動
に
お
け
る
芸
術
家
の
動
機
を
重
視
し
、
予
感
に
つ
き
う
ご
か
さ
れ
る
こ
と
か
ら
、
詩
を
は
じ
め
、
簡
単
に
形
式
評 け 在
論 る 化 さ
、 影 し て
像 て 、
娑 の い 一
婆 重 っ 九
で 要 た 六
見 性 。 〇
た に そ 年
瀧 つ こ に
口
修 い で 始
て こ ま
6
8
造쐍
︶ 初 の っ
で め 時 た
あ て 期 瀧
っ 踏 、 口
た み 瀧 の
。 込 口 一
ん に 連
だ お の
指 け
摘 る 作
を 影 活
し 像 動
た を に
の 本 お
は 格 い
、 的 て
詩 に 、
人 論 六
で じ 〇
あ た 年
り 評 代
美 論 後
術 が 半
評 現 に
論 わ は
家 れ
で た 作
あ 。 に
る そ 込
岡 れ め
田 ら ら
隆 の れ
彦 な た
︵ か 意
一 で 図
九 も が
三 、 あ
九 瀧 る
∼ 口 程
︶ に 度
の お 顕
第 58号(2015年3月)
を
強
調
し
た
の
で
あ
る
。
2
63
題
さ
れ
た
、
瀧
口
に
よ
る
デ
カ
ル
コ
影 マ
像 ニ
人 ー
間 の
個
瀧 展
口 に
氏 展
に 示
ほ さ
か れ
な た
ら 作
な 品
か 群
っ に
6
7対
た쐍
︶
す
と る
捉 感
え 想
て を
、 述
イ べ
メ 、
ー シ
ジ ュ
に ル
魅 レ
入 ア
ら リ
れ ス
た ト
瀧
瀧 口
口 修
の 造
側 は
面 同
時
に
、
イ
メ
ー
ジ
に
魅
入
ら
れ
た
美
術
評
論
家
中
原
佑
介
︵
一
九
三
一
∼
二
〇
一
一
︶
は
を
追
っ
て
い
る
こ
と
を
、
後
続
す
る
瀧
口
論
の
論
者
た
言 ち
葉 に
の 強
な く
い 印
詩 象
6
5
集쐍
︶ づ
け
と る
い き
う っ
エ か
ッ け
セ と
イ な
に っ
お た
い と
て 言
、 う
私 こ
の と
心 が
臓 で
は き
時 よ
を う
刻 。
6
6実
む쐍
︶
際
と 、
い
て
論
じ
切
れ
な
か
っ
た
こ
と
は
否
め
な
い
だ
ろ
う
。
し
か
し
、
少
な
く
と
も
、
瀧
口
が
昭
和
初
期
以
来
一
貫
し
て
今
日
の
イ
マ
ー
ジ
ュ
る
に 。
し
析 た
・ が
検 っ
討 て
す 、
る 六
前 一
に 年
書 に
か 発
れ 表
た さ
も れ
の た
で 飯
あ 島
り の
、
そ シ
の ュ
点 ル
に レ
お ア
い リ
て ス
は ム
、 詩
六 論
〇 序
年 説
代
全 は
体 、
の 六
瀧 〇
口 年
の 代
作 を
品 通
に し
現 た
わ 瀧
れ 口
て の
い
る 作
影 活
像 動
に を
つ 充
描
き
始
め
、
六
〇
年
代
を
通
じ
て
、
デ
カ
ル
コ
マ
ニ
ー
、
オ
ブ
ジ
ェ
収
集
、
こ
と
わ
ざ
作
り
な
ど
の
影
像
追
求
の
試
み
を
盛
ん
に
行
っ
て
い
瀧
口
は
一
九
六
〇
年
代
に
、
戦
時
中
か
ら
一
時
的
に
中
断
し
て
い
た
、
影
像
を
巡
る
作
活
動
を
再
開
し
た
。
彼
は
六
〇
年
か
ら
線
描
を
︵
四
四
︶
瀧口修造研究・批評の
な
か
で
も
六
九
年
、
文
芸
評
論
家
で
あ
り
小
説
家
で
あ
る
渋
澤
龍
彦
︵
一
九
二
八
∼
一
九
八
七
︶
が
、
卵
型
の
夢
︵
四
五
︶
そ
れ
ら
を
高
く
評
価
し
て
い
る
点
に
お
い
て
、
五
〇
年
代
か
ら
続
く
論
調
を
共
有
し
て
い
る
と
み
な
さ
れ
よ
う
。
瀧
口
修
造
私
71
論쐍
︶
と
て
は
、
近
代
精
神
を
体
現
し
そ
れ
を
擁
護
す
る
姿
や
、
近
代
人
と
し
て
主
体
的
に
生
き
る
姿
勢
を
瀧
口
の
作
品
や
批
評
の
な
か
に
見
出
し
て
、
て
、
日
本
の
近
代
思
想
や
近
代
文
学
の
な
か
に
位
置
づ
け
て
評
価
し
て
い
る
評
論
が
し
ば
し
ば
見
ら
れ
る
。
こ
の
よ
う
な
評
論
に
関
し
そ
う
と
は
い
え
、
瀧
口
の
昭
和
初
期
か
ら
戦
時
中
に
か
け
て
の
芸
術
・
批
評
活
動
を
、
様
々
な
思
想
家
や
詩
人
と
比
較
す
る
こ
と
に
よ
っ
点
も
多
様
化
し
た
。
こ
と
は
事
実
で
あ
ろ
う
。
し
た
が
っ
て
、
多
く
の
人
が
瀧
口
に
つ
い
て
論
じ
る
こ
と
が
で
き
る
よ
う
に
な
り
、
当
然
の
よ
う
に
瀧
口
論
の
論
9
2
7
∼
1
9
3
7
︵
思
潮
社
︶
と
し
て
刊
行
さ
れ
た
。
こ
の
本
の
出
版
に
よ
っ
て
、
瀧
口
の
作
品
が
よ
り
広
く
読
ま
れ
る
よ
う
に
な
っ
た
昭
和
初
期
に
お
け
る
瀧
口
の
代
表
的
な
詩
と
評
論
が
初
め
て
一
冊
に
ま
と
め
ら
れ
、
一
九
六
七
年
に
単
行
本
瀧
口
修
造
の
詩
的
実
験
1
2
瀧
口
修
造
の
詩
的
実
験
1
9
2
7
∼
1
9
3
7
刊
行
以
後
얧
一
九
六
〇
年
代
後
半
∼
七
〇
年
代
後
半
2
62
析 (
秋元)
芸
術
・
批
評
活
動
を
本
格
的
に
論
じ
る
こ
と
が
で
き
る
よ
う
に
な
っ
た
と
言
っ
て
よ
か
ろ
う
。
影
像
に
対
す
る
瀧
口
の
独
特
な
執
着
を
認
め
て
い
る
。
こ
の
評
論
に
よ
っ
て
初
め
て
、
影
像
と
い
う
純
粋
に
芸
術
的
な
側
面
か
ら
、
瀧
口
の
自
律
的
な
影
像
が
自
ら
生
ま
れ
出
よ
う
と
す
る
瞬
間
に
、
い
か
に
し
て
立
ち
会
い
、
そ
れ
を
捉
え
る
か
、
と
い
う
点
に
お
い
て
、
岡
田
は
は
そ
れ
に
突
き
動
か
さ
れ
て
、
様
々
な
芸
術
・
批
評
活
動
を
行
っ
て
い
た
と
い
う
。
て
い
た
。
瀧
口
は
影
像
自
体
の
自
発
性
に
魅
了
さ
れ
て
、
影
像
が
今
ま
さ
に
出
現
し
そ
う
だ
と
い
う
そ
の
対
し
て
瀧
口
は
恋
着
し
て
お
り
、
ま
た
影
像
そ
の
も
の
が
自
ら
立
ち
現
わ
れ
よ
う
と
す
る
自
発
性
を
持
っ
て
い
る
こ
と
を
ば
、
ま
だ
明
確
な
形
を
持
た
ぬ
、
そ
の
意
味
で
か
弱
げ
で
あ
え
か
な
も
の
が
影
像
と
し
て
立
ち
現
わ
れ
る
予
そ
感
の
瞬
を
間
抱
を
き
捉
つ
え
つ
、 尊 る
あ 重 こ
と
る
い し に
北海学園大学人文論集
と
は
い
え
、
瀧
口
の
作
品
に
つ
い
て
論
じ
る
場
合
に
は
、
渋
澤
も
影
像
の
点
を
重
視
し
て
い
る
。
の
論
調
が
う
か
が
え
る
の
で
あ
る
。
う
言
葉
の
な
か
に
、
戦
時
中
主
体
的
に
近
代
の
精
髄
を
つ
き
と
め
て
生
き
た
瀧
口
を
モ
ラ
ル
の
点
で
評
価
す
る
と
い
う
、
花
田
ら
立
た
せ
て
い
る
も
の
は
、
ま
ず
第
一
に
生
き
方
の
問
題
な
の
で
あ
る
。
氏
に
と
な っ
ぜ て
書 、
く 詩
か と
? は
と 少
い な
う く
問 と
題 も
も 生
、 き
こ 方
こ の
に 等
帰 価
着 物
す で
74な
る쐍
︶
け
と れ
い ば
な
ら
な
い
も
の
だ
っ
た
の
で
あ
る
。
前
に
私
が
述
べ
た
実
践
倫
理
の
問
題
、
代
前
半
に
か
け
て
の
花
田
・
針
生
・
鶴
岡
ら
の
論
調
に
繫
が
る
で
あ
ろ
う
。
す
な
わ
ち
、
渋
澤
が
言
う
要
す
る
に
、
瀧
口
氏
の
存
在
を
際
ば 律
こ ん 的
の 瀧 な
口 実
自 氏 践
律 ら 倫
的 し 理
な く の
実 、 面
践 高
倫 貴 を
理 で 強
の 誠 調
面 実 し
た
な
に 志 上
関 向 で
し が 、
て 現 不
瀧 わ 可
口 れ 能
を て の
高 い 矛
く る 盾
評 の に
価 で 引
す は き
る あ 裂
点 る か
に ま れ
お い た
7
3ま
い か쐍
︶
て
ま
、 と の
渋 渋 姿
澤 澤 を
の は さ
瀧 評 ら
口 し し
論 た て
は 。 い
、
る
五
と
〇
こ
年
ろ
代
に
後
、
半
た
か
ぶ
ら
ん
六
、
〇
い
年
ち
第5
8号(2
0
15年3月)
こ
の
よ
う
に
、
瀧
口
を
エ
ピ
キ
ュ
リ
ア
ン
な
思
想
家
と
は
次
元
を
異
に
し
た
書
か
な
い
思
想
家
で
あ
る
と
捉
え
て
、
そ
の
自
2
61
道 を
を で
選 き
ん る
だ だ
と け
瀧 一
口 致
を さ
捉 せ
え よ
7
2う
た쐍
︶
。 と
い
う
実
験
の
な
か
で
ぶ
つ
か
ら
ざ
る
を
得
な
い
、
永
遠
の
不
可
能
の
矛
盾
に
至
っ
た
結
果
、
書
か
な
い
ン
な
思
想
家
な
の
だ
と
い
う
。
渋
澤
に
と
っ
て
、
瀧
口
も
林
と
同
様
渋
澤
に
よ
る
と
、
林
は
し
た
上
で
、
そ
の
の
一
人
で
あ
る
。
し
か
し
多
産
な
休 作
業 家
中
に に
せ 対
よ す
営 る
業
中 書
に か
せ な
よ い
、 思
少 想
な 家
く
と と
も し
自 て
、
の 林
思 達
想 夫
家 を
の 取
役 り
割 上
を げ
た
疑 の
っ だ
て っ
い た
な 。
い
行
為
と
作
品
と
エ
ピ
キ
ュ
リ
ア
書
か
な
い
思
想
家
作
家
な
ど
と
い
う
言
い
方
が
、
も
し
世
間
に
讃
辞
と
し
て
通
用
し
て
い
る
の
だ
と
す
れ
ば
、
じ
つ
に
悲
し
い
滑
稽
な
讃
辞
に
対
し
て
問
題
意
識
を
抱
き
、
そ
の
自
律
的
な
実
践
倫
理
の
面
に
お
い
て
書
く
こ
と
の
動
機
や
必
然
性
を
重
要
視
し
て
お
で り
あ 、
る
と 多
み 産
な な
対
比
さ
せ
て
論
じ
て
い
る
。
渋
澤
は
、
知
識
人
、
文
学
者
、
詩
人
、
あ
る
い
は
文
筆
業
者
と
し
て
の
あ
く
ま
で
も
自
律
的
な
実
践
倫
理
の
面
い
う
エ
ッ
セ
イ
に
お
い
て
、
文
化
・
哲
学
・
美
学
・
文
芸
学
の
批
評
で
知
ら
れ
る
思
想
家
林
達
夫
︵
一
八
九
六
∼
一
九
八
四
︶
と
瀧
口
を
︵
四
六
︶
瀧口修造研究・批評の
一
方
、
朔
太
郎
を
︵
四
七
︶
近
代
詩
と
現
代
詩
の
境
目
の
と
こ
ろ
で
大
き
な
影
を
投
げ
か
け
な
が
ら
、
し
か
し
あ
い
ま
い
に
揺
れ
て
い
る
詩
人
口
の
芸
術
を
理
解
す
る
た
め
に
有
明
を
ひ
と
つ
の
基
準
に
据
え
た
。
拮
抗
し
う
る
存
在
を
求
め
な
が
ら
い
う
と
す
れ
ば
、
有
明
の
ま
さ
に
陽
画
と
し
て
理
解
す
る
こ
と
も
可
能
な
の
で
は
な
い
か
様
な
絶
対
探
求
者
の
一
人
だ
と
み
な
し
、
瀧
口
と
有
明
を
比
較
し
て
、
特
質
あ
る
物
質
狂
識
し
、
詩
的
理
念
の
あ
る
絶
対
的
な
姿
を
求
め
て
い
た
ゆ
え
の
行
為
だ
と
評
価
し
た
の
で
あ
る
。
そ
の
上
で
有
明
と
同
様
に
瀧
口
を
瀧
口
修
造
は
、
も
し
こ
の
国
と で
評 彼
78に
し쐍
︶
、 充
瀧
異
突 有
詩
出 明
日
部 で
に
本
あ の 位
を り
置
な 、 近 づ
し も 代
・ け
て う 現 た
い 一 代 の
る 人 詩 だ
が 人 っ
と 瀧 た た
、 口 ち 。
渋 修 の
澤 造 な
孝 で か
は あ で
7
7、
ま る쐍
︶
ず と ぼ
有 断 く
明 言 が
を し い
評 た ま
価 上 心
し で か
た 、 ら
。
の
す 有 鑽
な 明 仰
わ の を
ち 詩 さ
、 業 さ
有 は げ
明 、 た
の こ い
所 の 詩
謂 国 人
の が
改 近 少
作 代 な
癖 的 く
意 と
を 識 も
の 二
執 展 人
念 開 い
の の る
作 な 。
業 か 一
で 人
だ 著 は
と し 蒲
認 い 原
渋
澤
孝
は
、
す
で
に
文
学
に
お
い
て
評
価
が
あ
る
程
度
固
ま
り
つ
つ
あ
っ
た
有
明
や
朔
太
郎
と
比
較
す
る
こ
と
に
よ
っ
て
、
瀧
口
を
近
代
2
60
蒲
原
有
明
︵
一
八
七
五
∼
一
九
五
二
︶
お
よ
び
萩
原
朔
太
郎
︵
一
八
八
六
∼
一
九
四
二
︶
と
、
瀧
口
と
の
比
較
が
行
わ
れ
て
い
る
。
つ
ま
り
析 (
秋元)
わ 的 先
す
る ま ざ 発 天
︶ た る 想 的
の 、 を の
に
近 え モ
瀧 代 な テ 持
口 文 い ィ っ
修 学 。 ー て
生
造
フ れ
7
6
論쐍
︶ に
た
と
と 位
し
置
瀧
い
て 口
う づ
具 の
評 け
体
論 て
的 詩
瀧
が
な 的
口
挙
イ イ
を
げ
メ メ
論
ら
ー ー
じ
れ
ジ ジ
た
る
に の
も
。
迫 性
の
そ
っ 質
と
こ
た に
し
で
こ つ
て
は
と い
、
日
は て
本 詩
、 は
人
近
こ 、
渋
代
れ 詳
象 澤
ま し
徴 孝
で く
輔
詩
の 述
の ︵
瀧 べ
問 一
口 ら
九
題
論 れ
を 三
に て
〇
お い
∼
え
い な
一
る
て い
と 九
画 も
い 九
期 の
八
う
的 の
問 、
な 、
題 以
こ 渋
下
設
と 澤
定 、
で が
を 渋
あ 瀧
澤
し
っ 口
孝
た
た の
上 と
と
表
で
言 詩
記
、
人
そ
れ
ぞ
れ
の
詩
的
イ
メ
ー
ジ
の
と 性
述 質
べ は
7
5、
て쐍
︶
、 本
瀧 来
口 、
に 経
お 験
け や
る 学
影 習
像 に
と よ
彼 っ
の て
資 体
質 得
的 さ
な れ
も る
の と
と い
の う
関 よ
係 り
に も
つ 、
い む
て し
示 ろ
唆 先
し 天
て 的
い に
る 持
。 っ
こ て
こ 生
で れ
た
も
の
だ
ろ
う
と
信
じ
ら
れ
る
渋
澤
は
瀧
口
の
詩
的
発
想
の
モ
テ
ィ
ー
フ
と
し
て
、
瀧
口
の
詩
に
石
や
鳥
や
大
気
現
象
の
イ
メ
ー
ジ
を
読
み
取
っ
た
上
で
、
各
北海学園大学人文論集
重
べ 客 耕 で
さ き 観 一 、 詩 要
て で 性 と 瀧 人 性
、 あ を い 口 の に
暗 う の
つ
瀧 る に 詩 詩 吉 い
か
増
口
疑 人 の
て
修 も っ た な 剛 示
造 知 た ち か 造
︵
唆
れ
の な
上 に に 一 し
詩 い쐍
九 た
88で よ 、
︶
的
、 る 詩 三 。
実 と
瀧 に 九 あ
験 述 瀧 口 よ ∼ る
1 べ 口 論 っ ︶ い
9 て 修 を て も は
2 、 造 、 喚 ま 武
7 い 氏 彼 起 た 満
∼ わ に ら さ 瀧 は
1 ば お の れ 口 、
に
9 実 け
る お 瀧
3 証 る 至
口
7 的 詩 上 始 い の
て
的
刊 か 実 の 原 、 デ
86の あ ッ
行 つ 験 詩쐍
︶
風 る サ
後 客 の
8
5原 ン
数 観 詳 で 景쐍
︶
年 的 細 あ
初 に
を な な り を 性 お
読 を い
経 跡 跡
た づ づ 素 み 認 て
七 け け 晴 取 め 、
〇 に と ら っ て 何
年 支 、 し て い ら
代 え 作 い い る か
半 ら 品 詩 る 。 の
87。 吉 原
ば れ と 心쐍
︶
ま 増 初
に た の
至 瀧 関 の た は 性
っ 口 連 表 吉 そ を
て 論 か わ 増 の 見
も の ら れ は エ 出
な 必 、 で 、 ッ し
お 要 瀧 あ 旧 セ た
、 性 口 る 来 イ と
も
瀧 を 修 と の
口 訴 造 み 、 瀧 言
口
え
の え 論 な 大
昭 た は し 岡 修 よ
和 。 は て 信 造 う
を 。
じ 、 や 読
初
ま そ 飯 む쐍
期
8
4
︶
る の 島
か
再 え
び 、
手 デ
に ッ
し サ
よ ン
う す
と る
し と
た い
の う
で 直
は 接
な の
い 行
8
3
か쐍
︶ 為
に
と よ
評 っ
し て
、 、
瀧 詩
口 人
の で
内 あ
的 る
世 瀧
界 口
を 氏
開 は
闢 、
さ 神
せ と
る と
も
太 に
初 あ
の り
言 し
葉 言
葉
と 、
強 神
く で
結 あ
ば っ
れ た
る 太
デ 初
ッ の
サ 言
ン 葉
の を
第 58号(2
0
15年3月)
武 七 五
満 〇 〇 も
は 年 年 ち
代 代 ろ
芸 初 前 ん
術 め 半 、
は に か ほ
、
ら か
沈 充 瀧 の
黙 実 口 思
に し に 想
対 た 私 家
す 沈쐍 淑 や
0
る 黙8
︶ し 芸
人
、 術
間 と
家
の い 私 と
抗 う に の
8
2エ わ 比
議쐍
︶
ッ た 較
で セ っ を
あ イ て せ
る に 瀧 ず
と お 口 に
み い を 、
な て 近 瀧
す 、 く 口
芸 瀧 で の
術 口 見 芸
的 の 続 術
立 デ け の
場 ッ て 特
か サ き 質
ら ン た そ
、 に 作 の
瀧
曲 も
口
家 の
世
が
武 を
描 記 満 捉
い 的 徹 え
た な ︵ よ
デ 沈 一 う
ッ 黙 九 と
サ の 三 す
〇 る
ン 瞬쐍
8
1
の 間︶ ∼ 論
意 を 一 者
味 認 九 も
に め 九 い
つ て 六 た
い い ︶ 。
て る は 一
。 、 九
2
59
て 上 る 代
い に こ 詩
る 立 と ︵
っ が 朔
と て 不 太
可 郎
み
な 言 欠 ︶
し 語 で の
て の あ 先
、 自 る へ
朔 己 と 行
太 反 い く
郎 応 う た
を の 。 め
超 力 そ に
の は
え
る を 上 、
詩 最 で 詩
に
人 大
と 限 瀧 お
し に 口 い
て お 修 て
瀧 し 造 言
口 す の 語
を す 詩 そ
捉 め の の
え な 世 も
た が 界 の
の
の ら
だ 、 は
っ い 、 存
7
9わ 朔 在
た쐍
︶
。 ば 太 性
ラ 郎
ン 的 の
ボ な 確
ー 近 立
的 代 に
意 的 よ
味 自 っ
で 我 て
の の 、
崩 い
客 壊 わ
観 と ゆ
詩 そ る
の
と 正 自
し 当 我
て な
成 超 を
立 克 超
し の え
た
め
に
は
、
︵
略
・
引
用
者
︶
言
語
が
、
か
つ
て
の
自
我
に
代
り
う
る
だ
け
の
存
在
性
を
確
立
し
え
て
い
な
け
れ
ば
な
ら
な
い
。
つ
ま
り
近
で
あ
る
と
捉
え
、
朔
太
郎
を
基
準
と
し
て
近
代
詩
と
現
代
詩
と
が
区
別
さ
れ
る
と
い
う
認
識
も
示
さ
れ
て
い
る
。
朔
太
郎
の
先
に
脱
け
出
る
︵
四
八
︶
瀧口修造研究・批評の
︵
四
九
︶
め
た
な
に
も
の
か
。
そ
れ
は
人
に
よ
っ
て
イ
メ
ー
ジ
と
い
っ
て
も
い
い
し
、
ヴ
ィ
ジ
ョ
ン
と
呼
ん
で
も
さ
し
つ
か
え
な
い
だ
ろ
う
し
、
あ
る
あ
る
も
の
、
こ
と
ば
の
実
在
に
先
だ
っ
て
存
在
す
る
も
の
、
こ
と
ば
が
こ
と
ば
で
復
讐
す
る
こ
と
の
不
可
能
な
状
態
、
絶
対
へ
の
志
向
を
秘
ま
り
鍵
谷
は
、
北
園
・
春
山
・
西
脇
ら
と
瀧
口
と
を
区
別
す
る
指
標
と
し
て
、
瀧
口
の
し
か
し
な
が
ら
、
瀧
口
の
詩
に
見
ら
れ
る
特
徴
的
な
性
質
を
論
じ
る
場
合
、
鍵
谷
は
影
絶 像
対 や
へ 物
の 体
志
の
93
向쐍
︶ 側
を 面
挙 か
げ ら
て 切
、 り
込
こ ん
と で
ば い
の っ
以 た
前 。
に つ
辞
を
贈
っ
た
の
だ
っ
た
。
そ
こ
に
、
五
、
六
〇
年
代
に
顕
著
に
見
ら
れ
た
論
調
の
跡
が
覗
え
る
こ
と
は
否
め
な
い
。
の
主
体
を
、
平
凡
と
通
俗
に
風
化
さ
せ
ま
い
と
し
て
、
自
己
規
制
を
課
し
て
い
く
潔
癖
で
、
厳
し
い
姿
勢
を
み
ず
に
は
い
ら
れ
な
い
こ
の
よ
う
に
、
鍵
谷
は
瀧
口
と
同
世
代
的
な
詩
人
た
ち
を
比
較
す
る
こ
と
に
よ
っ
て
、
瀧
口
の
詩
人
と
し
て
の
特
質
を
際
立
た
せ
、
と 自
讃 我
を と 評 と
、 詩 し 西
9
1
た쐍
文 と 一︶ 脇
順
の
学
完 方 三
、
と 全 瀧 郎
と
同
い
口
う 一 に を
ジ 化 つ 比
ャ 、 い 較
ン 一 て し
、
ル 体
西
性
を
あ
超 と る 脇
越 い 意 を
し う 味
た こ で ど
、 と は う
芸 で 氏 や
術 、 に ら
と 瀧 は
詩 口 詩 文
人 氏 が 学
の は 文
内 ま 学 を
部 こ で 足
の と あ 場
特 に る に
殊 稀 必 し
な 有 要 て
呼 な も 立
応 存 、 つ
詩
在
関 だ
と
係 っ き を
書
に た쐍
9
2と い
︶
お
し
い と て た
て 捉 は 詩
見 え な 人
出 た か だ
し 。 っ と
た 鍵 た い
と 谷 と わ
言 は い な
え 瀧 え く
よ 口 る て
う の だ は
か 詩 ろ な
。 的 う ら
な
な 。 い
特 自
質 己 と
2
58
析 (秋元)
し
く
詩
人
だ
っ
た
の
だ
と
断
じ
、
瀧
口
と
同
時
代
的
に
活
躍
し
た
他
の
モ
ダ
ニ
ズ
ム
詩
人
た
ち
と
の
間
に
一
線
を
画
し
た
。
ま
た
、
瀧
口
北
園
、
春
山
氏
が
詩
人
で
あ
る
意
味
に
お
い
て
、
瀧
口
氏
は
詩
人
で
あ
っ
て
は
な
ら
な
か
っ
た
の
だ
し
、
だ
か
ら
こ
そ
瀧
口
氏
だ
け
が
ま
さ
て
超
現
実
主
義
を
標
榜
し
て
い
た
詩
人
で
あ
る
北
園
克
衛
︵
一
九
〇
二
∼
一
九
七
八
︶
お
よ
び
春
山
行
夫
と
瀧
口
を
比
較
し
て
、
少
く
と
も
お
い
て
、
昭
和
初
期
に
活
躍
し
た
モ
ダ
ニ
ズ
ム
詩
人
た
ち
と
比
較
す
る
こ
と
に
よ
っ
て
瀧
口
を
論
じ
て
い
る
。
鍵
谷
は
、
昭
和
初
期
に
お
い
も 代
、 思
瀧 想
口
の や
作 近
品 代
を 文
貫 学
い
て の
い な
る か
重 に
要 位
な 置
要 づ
素 け
と て
し 論
て じ
、 よ
影 う
像 と
や す
文 物 る
学 質 傾
を も 向
拒 し が
む く 引
ポ は き
エ 物 続
8
9き
ジ 体쐍
︶
ー が 見
の 取 ら
自 り れ
立 上 る
げ が
瀧 ら 、
口 れ し
修 、 か
造 論 し
へ じ そ
の ら の
覚 れ よ
9
0て う
書쐍
︶
い な
と っ 傾
い た 向
う 。 に
評
あ
論
っ
に
て
日
本
文
学
研
究
者
鍵
谷
幸
信
︵
一
九
三
〇
∼
一
九
八
九
︶
は
ら
戦
時
中
に
か
け
て
の
芸
術
・
批
評
活
動
を
、
彼
と
同
時
代
的
な
、
あ
る
い
は
先
行
す
る
思
想
家
や
詩
人
と
比
較
す
る
こ
と
に
よ
っ
て
、
近
北海学園大学人文論集
行
っ
て
い
る
が
、
そ
の
点
に
お
い
て
傾
向
を
同
じ
く
す
る
の
は
、
フ
ラ
ン
ス
文
学
研
究
者
窪
田
般
弥
︵
一
九
二
六
∼
二
〇
〇
三
︶
で
あ
る
。
こ
の
よ
う
に
、
鍵
谷
、
渡
辺
は
、
瀧
口
と
同
時
代
的
な
詩
人
や
評
論
家
と
の
比
較
に
よ
っ
て
、
瀧
口
を
文
学
上
に
位
置
づ
け
る
試
み
を
可
能
性
を
実
現
す
る
こ
と
超
現
実
主
義
と
は
め
ら
れ
、
そ
れ
が
自
動
記
述
法
あ
る
い
は
超
現
実
に
対
す
る
瀧
口
の
瀧
口
の
特
徴
を
見
出
し
た
の
で
あ
る
。
精
神
と
で 物
も 質
あ 、
る 意
と 識
観
主 と
念
張 無
と
し 意
客
쐍
9
8
た︶ 識
体
。 と
の
い
関
う
係
境
の
界
固
を
定
打
性
破 え を
す の 破
る 中 る
に こ
こ も と
と 現 に
で れ 本
あ て
り い 気
、 る で
そ と 自
れ 渡 己
は 辺 を
は
精 捉 け
神 え た
に て 点
物 、 に
質 瀧 瀧
が 口 口
現 の の
れ
独
る え 自
一 て 性
切 い が
の た 認
第5
8号(2
0
15年3月)
と 合 限 た
は は に こ
、 、 と
オ 物 近 に
ブ 質 代 関
ジ
の 心
ェ と 一 を
つ い つ 抱
ま う の い
り 概 痼 た
意 念 疾 の
識 を で で
主 持 あ あ
体 ち る る
の 出 個 。
あ し 性 渡
ら て と 辺
ゆ ラ か の
る ン 我 見
客 ボ と 解
体 ー か で
・ を い は
対 理 う 、
象 解 限 小
物 し 界 林
て を の
で い 超 ラ
あ る え ン
る こ る ボ
と と 道 ー
渡 に を 観
辺 特 見 の
は 徴 て
み が い 核
な あ る 心
し る
て
と は
お と こ
い
쐍
7
り9
ろ 明
︶
、 う に 晰
そ 。 あ に
9
6し
の 瀧 り쐍
︶
意 口 、 て
味 が そ 自
に 理 れ 在
お 解 に な
け し 対 意
る て し 識
い て
の
物 た 瀧 活
口
質
物 の 動
の
に 質 場 極
2
57
小
林
両
者
の
ラ
ン
ボ
ー
理
解
の
相
違
の
た
め
に
、
両
者
の
た
ど
っ
た
道
が
開
い
た
鋏
の
刃
の
よ
う
に
、
先
へ
い
く
ほ
ど
隔
た
っ
て
し
ま
っ
と
無
関
係
で
は
な
い
と
み
な
し
た
が
、
な
か
で
も
ア
ル
チ
ュ
ー
ル
・
ラ
ン
ボ
ー
と
い
う
名
前
が
一
致
点
で
あ
る
と
捉
え
た
上
で
、
瀧
口
・
じ 九
口 じ い
9
5三 フ の イ は
渡 た쐍
︶
辺 。 〇 ラ 詩 デ オ
年 ン に ィ ブ
は
代 ス お ア ジ
、
以 文 い で ェ
瀧
後 学 て 認 と
口
の 研
・
識 い
日 究 こ す っ
小
本 者 と る て
林
の で ば こ も
両
芸 あ
者
と た
術 り と で い
の
思 評 置 、 し
芸
想 論 き い て
術
上 家 換 い 誤
的
の で え か り
な
重 あ 可 え で
要 る 能 れ は
出
な 渡 で ば な
発
問 辺 あ こ い
点
題 広 る と と
に 士 、 ば 思
に
触 ︵
つ
を う
れ 一 イ 限 。
い
メ
る 九
て
り だ
二 ー な か
、
こ 九 ジ く ら
両
と ∼ 、 物 瀧
者
を ︶ ヴ 質 口
と
目 は ィ 化 氏
も
ジ す は
的
に
ョ る こ
瀧
と
ン こ と
口
し
フ
て 修 、 と ば
ラ
、 造 オ で を
ン
瀧 と ブ 詩 イ
ス
口 小 ジ 作 メ
の
と 林 ェ し ー
近
小 秀쐍
代
て ジ
9
4
林 雄︶ の い 、
詩
重
の と
が
っ ヴ
芸 い 要 た ィ
歩
術 う 性 の ジ
ん
思 評 を で ョ
だ
想 論 指 あ ン
道
を に 摘 る 、
に
対 お し
学
オ
比 い た と ブ
さ て の 述 ジ
ん
せ 、 だ べ ェ
だ
っ 、 と
て
こ
論 一 た 瀧 同
と
。
︵
五
〇
︶
瀧口修造研究・批評の
新
日
本
文
学
編
集
者
を
務
め
た
こ
と
も
あ
り
、
朝
鮮
芸
能
研
究
家
で
も
あ
っ
た
久
保
覚
の
評
論
未
完
の
運
動
︵
五
一
︶
あ
る
乱
雑
な
想
쎹
쎨
起쐍
︶
が
わ
か
る
。
久
保
覚
︵
一
九
三
七
∼
一
九
九
八
︶
に
お
い
て
も
、
こ
の
点
が
顕
著
に
見
ら
れ
る
。
の
視
点
か
ら
瀧
口
を
評
価
し
た
評
論
が
し
ば
し
ば
提
示
さ
れ
た
。
こ
の
点
に
お
い
て
は
、
五
、
六
〇
年
代
の
論
調
が
受
け
継
が
れ
て
い
る
の
こ
と
に
よ
っ
て
、
前
世
代
の
芸
術
家
の
近
代
精
神
の
未
熟
さ
を
批
判
す
る
と
同
時
に
日
本
の
近
代
そ
の
も
の
を
批
判
し
た
評
論
や
、
思
想
藤
井
に
見
ら
れ
た
よ
う
に
、
七
〇
年
代
半
ば
に
は
、
昭
和
初
期
か
ら
戦
時
中
に
か
け
て
の
、
瀧
口
の
芸
術
・
批
評
活
動
を
高
く
評
価
す
る
に
お
い
て
、
彼
以
外
の
本
の
文
化
の
体
を
習 そ
合 の
一
的 身
あ に
る 有
い し
は つ
つ
土 、
着 日
本
的 語
を
シ 用
ュ い
ル て
レ 詩
ア 作
リ を
ス 行
ト っ
た
と
峻 シ
別 ュ
し ル
た レ
と ア
言 リ
え ス
よ ト
う
。 と
し
て
瀧
口
を
捉
え
る
点
し
て
い
る
と
い
う
点
に
お
い
て
、
日
本
語
と
文
化
の
体
が
ほ
と
ん
ど
ま
れ
な
可
能
性
の
体
験
を
経
て
い
る
よ
る
︶
シ
ュ
ル
レ
ア
リ
ス
ト
と
し
て
日
本
の
風
土
に
佇
立
し
て
お
り
、
そ
の
佇
立
に
加
え
、
シ
ュ
ル
レ
ア
リ
ス
ト
と
主
張
し
た
の と
で し
あ て
쎸
쎨
る쐍
︶
。 持
日 続
そ
の
上
で
藤
井
は
、
瀧
口
の
析 (秋元)
合 を
麻 藤
に 痺 井
よ さ は
っ せ 、
て る
日
こ
土 と 本
着 で 近
代
進 が
し 行
た さ だ
全 も せ め
仕 の た な
事 で と の
を あ こ は
、 る ろ
日 と に じ
本 み あ て
쎵
쎨
近 な る쐍
︶ 西
쎶
쎨
代 し쐍
欧
︶
の 、 と 化
述
詩 そ
的 の べ の
て プ
、
芸 日 、 ロ
術 本 日 セ
的 近 本 ス
代 近 を
体 象 代 、
に 徴 象 感
置 派 徴 情
い の 派 を
て 詩 の と
み
詩 ぎ
る と
す
視 瀧 を ま
쐍
쎷 口
쎨
点︶
す
の
こ
か 詩 情 と
ら を 実 で
論 文
進
じ 学 主 行
義 さ
、
︵ の と せ
瀧 上 の る
口 で
の
は 切 妥 で
| り 協 な
引 離
く
用 し と 、
者 た
感
に 。 習 情
2
56
代
精
神
の
未
熟
さ
に
対
す
る
批
判
の
色
合
い
が
強
く
漂
っ
て
い
る
よ
う
で
あ
る
。
九
四
二
∼
︶
に
よ
る
評
論
一
方
、
比
較
と
い
う
方
法
精 を
神 重
の 視
革 し
命 た
、 鍵
い 谷
ま 、
絶 渡
え 辺
ず 、
綜 窪
合 田
の の
쎴 論
쎨
夢쐍
︶
と
に は
は 異
、 な
前 り
世 、
代 日
批 本
判 文
の 学
色 研
合 究
い 者
や で
、 あ
日 り
本 詩
の 人
文 で
学 あ
者 る
に 藤
見 井
ら 貞
れ 和
る ︵
近 一
想 ダ
を ニ
身 ズ
に ム
つ 詩
け
て と
い 絡
쎽 め
쎨
た쐍
︶
て
と 昭
評 和
価 初
し 期
た に
。 お
け
る
瀧
口
の
詩
を
論
じ
、
瀧
口
を
忠
実
な
シ
ュ
ー
ル
レ
ア
リ
ス
ト
と
し
て
生
き
ぬ
く
だ
け
の
思
窪
田
は
、
象
徴
詩
研
究
者
と
し
て
の
立
場
か
ら
、
瀧
口
修
造
の
詩
的
実
9
9
験쐍
︶
と
い
う
評
論
に
お
い
て
、
日
本
に
お
け
る
象
徴
詩
お
よ
び
モ
北海学園大学人文論集
出
会
い
を
重
視
し
、
そ
の
こ
と
で
精
神
の
自
由
に
た
ど
り
つ
こ
う
と
す
る
こ
と
や
、
あ
る
が
ま
ま
の
現
実
︵
=
係
の
う
ち
に
真
実
の
あ
り
か
を
さ
ぐ
ろ
う
と
す
る
こ
と
と
密
接
に
結
び
つ
い
て
お
り
、
と
い
う
こ
と
は
ま
た
シ
ュ
ル
レ
ア
リ
ス
ム
の
め
ざ
し
物
質
︶
と
精
神
と
の
相
互
関
岡
田
に
よ
る
と
影
像
の
現
実
に
生
き
る
と
い
う
こ
と
は
、
想
像
力
の
解
放
に
よ
っ
て
可
能
と
な
る
未
知
の
も
の
や
意
識
下
の
世
界
と
の
で
、
岡
田
は
瀧
口
に
お
け
る
影
像
と
言
葉
と
の
関
係
の
重
要
性
に
つ
い
て
次
の
よ
う
に
主
張
し
た
。
つ で こ
い 焦 ろ 岡
て が か 田
す ら は
析 、 、 、
し ロ 瀧 夢
、 ー 口 、
ま ソ 修 あ
た ク 造 る
瀧 の の い
口 煙 詩 は
が で 的 意
昭 燻 営 識
和 ら 為 の
初 す は 制
期 、 は 御
か 火 じ を
ら と ま쐍
う
쎴
쎟
断 水 る︶ け
続 の と ず
的 相 断 に
に 互 じ 現
行 作 た 出
っ 用 上 す
て の で る
い 試 、 影
た み 瀧 像
、 口
夢 モ の に
の ー 一 取
記 タ 九 り
憑
쎶
쎟
録쐍
︶ ー 三
か
、 に 〇 れ
よ
年 、
お
よ る 代 そ
び 回 の れ
瀧 転 著 ら
口 描 述 の
の 線 や 客
美 、 、 観
術 デ 六 性
批 カ 〇 に
評 ル 年 身
に コ 代 を
つ マ の ゆ
い ニ
だ
て ー 作 ね
的
、
論 等
試 よ
じ 々쐍
う
쎵 み
쎟
︶
た
と
。
す
こ 얧 얧 る
こ に 火 と
を
深
め
た
形
で
、
影
像
の
視
点
か
ら
瀧
口
の
芸
術
・
批
評
活
動
全
般
に
つ
い
て
論
じ
て
い
る
。
第 58号(2
0
15年3月)
岡
田
隆
彦
は
評
論
他
方
、
同
時
期
、
も
想 ち
像 ろ
の ん
鏡 瀧
を 口
潜 と
る 影
像
瀧 と
口 の
修 関
造 係
に に
お つ
け い
る て
影 専
像 ら
と 論
言 じ
쎽 て
쎟
葉쐍
︶
い
に る
お 評
い 論
て も
、 見
六 ら
〇 れ
年 る
代 。
後
半
の
岡
田
自
身
の
論
︵
既
述
︶
2
55
に
、
瀧
口
の
芸
術
的
営
為
の
意
味
を
思
想
的
に
探
ろ
う
と
し
た
の
で
あ
る
。
筆
を
依
頼
す
る
な
ど
し
て
、
精
神
的
に
手
を
差
し
の
べ
て
い
た
の
だ
っ
た
。
久
保
は
、
こ
の
よ
う
な
、
瀧
口
と
戸
坂
と
の
流
関
係
の
な
か
こ
の
事
件
の
た
め
に
、
保
釈
後
は
周
囲
か
ら
の
孤
立
感
を
味
わ
っ
て
い
た
。
そ
の
際
に
戸
坂
潤
︵
一
九
〇
〇
∼
一
九
四
五
︶
は
、
瀧
口
に
執
の
も
、
瀧
口
は
一
九
四
一
年
に
治
安
維
持
法
違
反
容
疑
で
逮
捕
さ
れ
、
半
年
以
上
拘
置
さ
れ
た
も
の
の
、
後
に
不
起
訴
と
な
っ
て
い
る
が
、
年 同 に
久 代 時 お
保 に 代 い
は か 的 て
、 け に 、
日 て 全 久
本 の 身 保
に 芸 を は
お 術 こ 、
け 的 め 三
て 〇
る
も 営 内 年
っ 為 的 代
に 後
と
も を 受 半
戦 、 け に
闘 思 と お
的 想 め け
て る
な に い
瀧
引
唯
쎺 口
쎨
た쐍
︶
物 き
論 寄 と に
哲 せ み つ
学 て な い
て
論
者 じ
し
戸
쐍
쎻
쎨
坂 た︶ て 日
。
他 本
쐍
쎼
쎨
潤︶
の で
と
芸 た
、
術 だ
瀧
家 ひ
口
・ と
と
詩 り
の
人 シ
と ュ
流
区 ル
関
別 レ
係
し ア
に
、 リ
つ
主 ス
い
に ム
て
瀧 運
重
口 動
視
の の
し
三 衝
て
〇 撃
い
年 と
る
代 そ
。
か の
と
ら 意
い
四 味
う
〇 を
︵
五
二
︶
瀧口修造研究・批評の
つ
め
、
〟
私
を
超
え
る
も
の
〝
の
到
来
を
、
氏
は
敬
虔
な
信
徒
の
よ
う
に
待
つ
︵
五
三
︶
発
生
現
場
へ
と
降
り
て
ゆ
く
は
手
の
工
人
で
は
な
く
、
秀
れ
た
眼
の
探
索
者
で
あ
る
か
ら
だ
と
み
な
し
て
お
り
、
瀧
口
に
つ
い
て と
い
言 う
葉 理
の 由
発 を
と 生 示
捉 、 し
え
意 て
쎼
쎟
た쐍
︶
。 味 い
の る
生 。
成 谷
、 川
イ は
メ
ー 眼
ジ の
の 探
火 索
花 者
を は
注 、
意 常
ぶ に
か 事
く 象
見 の
似 そ
つ れ
か は
わ 昆
し 虫
い の
も 擬
の 態
は 現
な 象
쎻 の
쎟
い쐍
︶
よ
と う
評 に
し 、
た 不
。 思
で 議
は な
な 幻
ぜ 惑
瀧 感
口 に
に
と れ
っ 、
て 見
デ る
カ こ
ル と
コ の
マ 悦
ニ 楽
ー に
が 誘
最 う
も 。
デ
似 カ
つ ル
か コ
わ マ
し ニ
い ー
の ほ
か ど
と 氏
い の
う 絵
と 画
、 表
現
氏 に
た
だ
の
物
理
現
象
に
す
ぎ
な
い
。
し
か
し
そ
こ
に
は
、
手
で
は
け
っ
し
て
描
く
こ
と
が
出
来
な
い
別
種
の
イ
メ
ー
ジ
が
定
着
さ
れ
て
い
る
。
谷
川
は
、
瀧
口
の
制
作
し
た
デ
カ
ル
コ
マ
ニ
ー
に
つ
い
て
、
デ
カ
ル
コ
マ
ー
の
世
界
は
氏
︵
瀧
口
|
引
用
者
に
よ
る
︶
の
言
う
よ
う
に
、
六
〇
年
代
に
お
け
る
試
み
を
論
じ
て
い
る
。
根
画 本
家 的
で な
あ 態
り 度
作
家 を
で 認
も め
あ た
る 。
谷
川
晃
一
︵
一
九
三
八
∼
︶
は
、
眼
の
探
求
쎺
쎟
者쐍
︶
と
い
う
エ
ッ
セ
イ
に
お
い
て
、
影
像
に
注
目
し
て
瀧
口
の
2
54
ぼ
う
と
す
る
か
を
主
張
し
、
瀧
口
の
芸
術
的
な
特
性
と
し
て
、
つ
ね
に
固
定
観
念
を
打
ち
破
り
、
流
動
性
そ
の
も
の
を
肉
化
し
よ
う
と
す
る
析 (
秋元)
自
身
に
と
っ
て
の
れ
も
な
き
現
実
얧
未
知
の
も
の
で
あ
り
固
定
的
で
な
い
も
の
と
し
て
の
そ
れ
얧
と
、
い
か
に
関
係
を
結
を
よ ま
び た
お 岡
こ 田
そ は
う 、
と 瀧
す 口
る に
欲 お
求 け
が る
両 影
者 像
︵ と
影 言
像 葉
と と
言 の
葉 関
| 係
引 を
用 次
者 の
に よ
よ う
る に
︶ 捉
を え
結 て
び い
つ る
け 。
て
い 強
い
쎹
쎟
る쐍
︶ き
。 ず
岡 な
田 と
は し
こ て
の 、
よ 未
う 知
に な
、 も
瀧 の
口 と
が の
出
か 会
れ い
て
再
確
認
す
る
こ
と
こ
そ
が
、
影
像
の
現
実
に
生
き
る
こ
と
な
の
で
あ
ろ
う
。
そ
こ
に
岡
田
は
瀧
口
の
特
徴
を
認
め
た
の
で
あ
る
。
ら
れ
て
い
る
。
瀧
口
に
と
っ
て
、
そ
の
よ
う
な
か
れ
自
身
に
と
っ
て
の
れ
も
な
き
現
実
を
影
像
に
よ
っ
て
捉
え
、
そ
れ
を
言
葉
に
よ
っ
意 れ
識 自
さ 身
れ に
な と
い っ
た て
め の
に
言 れ
葉 も
に な
よ き
っ 現
て 実
再 、
確 す
認 な
し わ
な ち
け 、
れ そ
ば れ
な が
ら
な れ
い も
よ な
う い
な 現
現 実
実 で
で あ
あ っ
っ て
て も
、 そ
し こ
か に
も 生
固 き
定 て
的 い
で る
な だ
い け
も で
쎸 は
쎟
の쐍
︶
そ
だ の
と よ
捉 う
え に
た
核
心
に
ふ
れ
て
い
쎷
쎟
る쐍
︶
と
い
う
。
で
は
、
瀧
口
が
何
を
目
指
し
て
影
像
の
現
実
に
生
き
る
の
か
と
い
う
と
、
め
ざ
す
と
こ
ろ
は
、
か
北海学園大学人文論集
七
年
前
後
か
ら
三
〇
年
代
後
半
︶
へ
と
、
詩
的
遍
歴
を
っ
て
い
っ
た
が
、
岡
井
は
そ
こ
に
お
い
て
大
正
末
期
か
ら
昭
和
初
期
に
か
け
て
、
に
象
徴
詩
︵
一
九
二
〇
年
前
後
か
ら
数
年
間
︶
、
そ
し
て
シ
ュ
ー
ル
レ
ア
リ
ス
ム
の
自
動
記
述
風
の
試
み
を
中
心
と
し
た
詩
的
実
験
︵
一
九
二
る
瀧
口
の
詩
形
の
変
化
に
注
目
し
た
。
す
な
わ
ち
瀧
口
は
、
そ
の
少
年
期
か
ら
青
年
期
に
お
い
て
、
初
め
に
短
歌
︵
一
九
一
八
年
前
後
︶
、
次
る 瀧 な
か
口
と 氏 に
あ
評
し が る
指
쐍
쎴
쎠
た︶
俳
。 摘 諧
す 的
る な
、 も
非
合 の
理 を
の 探
世 っ
界 て
、 い
客 る
観 。
的 加
な 藤
ユ は
ー 、
モ 西
両
ア 山
棲
の 宗
類
世 因
私
界 、
쎵
쎠
注쐍
に 井
︶
ふ 原
に
れ 西
お
る 鶴
い
こ 、
て
と そ
、
で し
一
、 て
九
五
一
七 談
〇
調 林
年
の 調
代
シ 時
後
ュ 代
半
ル の
か
レ
ら
ア 尾
三
リ 芭
〇
ス 蕉
年
ム の
代
を 句
後
鳴 を
半
か 挙
に
せ げ
お
て て
け
い 、
次
に
、
歌
人
岡
井
隆
︵
一
九
二
八
∼
︶
は
、
エ
ッ
セ
イ
加
藤
郁
乎
︵
一
九
二
九
∼
二
〇
一
二
︶
は
、
マ
ル
ジ
ナ
リ
ア
風
쎽
쎠
に쐍
︶
と
い
う
エ
ッ
セ
イ
に
お
い
て
、
俳
人
の
眼
で
瀧
口
を
捉
え
、
瀧
口
の
術
家
に
よ
る
瀧
口
論
を
集
約
し
て
い
る
。
第5
8号(2
0
15年3月)
関
心
を
抱
き
、
各
々
の
芸
術
観
を
も
っ
て
瀧
口
を
読
み
解
こ
う
と
し
た
。
ま
さ
に
一
九
七
四
年
一
〇
月
の
現
代
詩
手
帖
は
、
様
々
な
芸
2
53
と
こ
ろ
で
、
一
九
七
〇
年
代
半
ば
頃
か
ら
、
俳
人
、
歌
人
、
舞
踏
家
、
劇
作
家
、
写
真
家
な
ど
、
様
々
な
芸
術
家
た
ち
が
瀧
口
の
芸
術
に
意 え 谷
味 に 川
は
や 言 注
葉 目
イ の し
メ 持 て
ー つ い
ジ 多 の
面 だ
の 性 が
、
曖 や し
か
昧
性 曖 し
昧 そ
を 性 の
よ
掬
い が う
上 重 な
げ 視
る さ 多
詩 れ 様
人 る な
と の 意
し で 味
て あ ・
瀧 ろ イ
口 う メ
を 。 ー
捉 こ ジ
え の
た よ を
の う 定
だ に 着
っ 谷 さ
た 川 せ
。 は る
、 の
も
世 ま
界 た
言
や 葉
な
生 の
、 で
ま あ
た り
、
多 そ
様 れ
な ゆ
こ
こ
か
ら
わ
か
る
よ
う
に
、
断
定
の
言
葉
で
は
掬
い
切
れ
ず
に
こ
ぼ
れ
落
ち
て
ゆ
く
、
世
界
の
多
様
な
意
味
・
イ
メ
ー
ジ
に
え
の
曖
昧
性
を
否
定
的
に
で
は
な
く
、
積
極
的
に
享
受
し
、
肯
定
す
る
と
き
、
そ
こ
に
は
豊
穣
な
言
葉
の
祝
祭
が
初
ま
る
と
述
べ
て
い
る
。
昧
に
生
起
・
変
貌
す
る
。
言
葉
と
て
例
外
で
は
な
い
。
言
葉
は
い
わ
ば
生
き
も
の
な
の
だ
。
し
か
し
言
葉
の
持
つ
多
面
性
、
そ
し
て
そ
れ
ゆ
も
の
が
、
こ
ぼ
れ
落
ち
て
ゆ
く
だ
ろ
う
。
生
が
間
断
な
く
揺
れ
動
く
よ
う
に
、
新
た
な
る
世
界
の
多
様
な
意
味
・
イ
メ
ー
ジ
も
、
日
々
に
曖
そ
し
て
言
葉
と
イ
メ
ー
ジ
と
の
関
係
に
つ
い
て
、
谷
川
は
断
定
の
言
葉
で
世
界
を
掬
っ
た
と
き
、
私
た
ち
の
両
手
か
ら
は
多
く
の
︵
五
四
︶
瀧口修造研究・批評の
︵
五
五
︶
エ
ッ
セ
イ
で
、
瀧
口
と
写
真
と
の
関
わ
り
の
深
さ
に
触
れ
、
一
九
三
〇
年
代
後
半
に
書
か
れ
た
瀧
口
の
写
真
論
に
つ
い
て
、
写
真
論
と
い
う
て
お
り
、
ス
タ
イ
ン
の
タ
た に
イ そ の 持
ン し で た
の て あ せ
쎴 て
쎡
最 、 る쐍
︶
初 ガ 。 み
の ー
た
読 ト
い
쐍
쎶 ル
쎡
者︶
と
ー
い
す に ド
う
ば お ・
、
ス
ら い タ
い
し て イ
か
い 、 ン
に
読 瀧
も
著
쎸 口
쎡
者쐍
劇
︶
を 三
作
で
家
人
も 日 の
ら
あ 本 女쐍
し
쎵
쎡
︶
っ で
い
た は の
空
瀧 じ 訳
想
口 め 者
を
の て で
通
一 ガ あ
し
側 ー る
て
面 ト 小
、
を ル 説
瀧
綴 ー 家
口
っ ド 富
の
て ・ 岡
知
い ス 多
ら
る タ 恵
れ
。 イ 子
ざ
ン ︵
る
の 一
、
詩 九
い
集 三
わ
を 五
ば
買 ∼
虚
っ ︶
無
瀧
た は
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口
ひ 、
な
さ
쐍
쎷
쎡
と︶
一
そ
ん
面
の
と
で エ
に
写
쎹
쎡
あ
つ
ッ
真쐍
︶
る セ
い
と
と イ
て
い
認
述
う
め ス
べ
さ
ら
に
、
写
真
家
で
あ
り
、
実
験
工
房
の
メ
ン
バ
ー
で
あ
っ
た
大
辻
清
司
︵
一
九
二
三
∼
二
〇
〇
一
︶
は
、
と
述
べ
て
い
る
。
唐
は
抜
け
ば
妖
炎
た
ち
こ
め
、
さ
や
に
治
め
れ
ば
、
夜
泣
き
す
る
と
い
う
妖
刀
で
あ
る
、
村
雨
丸
を
、
瀧
口
て
な
の
だ
が
、
唐
は
瀧
口
の
そ
の
行
為
に
触
発
さ
れ
て
、
瀧
口
に
対
し
て
い
る
。
そ
の
エ
ピ
ソ
ー
ド
と
は
、
酒
場
に
居
た
析 (秋元)
を と
指 は
向
し 疾
て 走
い し
る つ
か づ
に け
つ る
い も
て の
主 の
張 命
し の
쎺 つ
쎠
た쐍
︶
村 。 な
が
雨
り
丸
無 を
の
頼 持
線
の た
と
쐍
쎼
쎠
徒︶
た
せ
わ
た
と い
む
唐 詩
れ
쎻
쎠
と 人쐍
る
︶
の
い と
性
き さ い
質
っ か う
で
ぱ い エ
あ
り を ッ
る
と 、 セ
こ
花 あ イ
と
と た で
を
愛 か 、
示
な も 瀧
し
口
ど
、
と る の
瀧
は か 酒
口
お の 場
の
さ よ で
線
ら う の
描
ば な エ
が
し 瀧 ピ
い
쎽 口 ソ
쎡
て쐍
か
︶
の ー
に
も 行 ド
ら 為 を
幼
い に 語
児
た つ っ
性
い い て
2
52
劇
作
家
唐
十
郎
︵
一
九
四
〇
∼
︶
は
、
条
件
と
し
て
神
秘
な
介
入
を
尊
敬
し
な
が
ら
も
、
描
き
つ
つ
あ
る
刻
々
の
幼
児
性
に
注
目
す
る
の
だ
と
み
な
し
た
上
で
、
そ
の
幼
児
性
口
の
手
の
動
き
に
注
目
し
、
瀧
口
に
よ
る
線
描
の
試
み
に
つ
い
て
論
じ
た
。
土
方
は
、
こ
の
向
物
性
の
詩
人
は
、
形
が
表
わ
れ
て
く
る
為
の
う 変
ま と 化
た す と
쎷 そ
쎠
、 る쐍
︶
舞
の
踏 試 確
家 み 立
土 だ の
方 と 様
巽 み を
︵ な 読
一 し み
九 、 取
二
っ
八 自 た
然
∼
。
一 礼 そ
九 讃 の
八 の 上
六 抒 で
︶ 情쐍
瀧
쎸
쎠
は 詩︶
口
、
で の
線 あ 詩
が る 的
線 と 実
に 位 験
似 置 を
て づ
く け ひ
る た た
と 。 す
쎹
쎠
ら
き쐍
︶
音
と
数
い
律
う
・
エ
定
ッ
型
セ
・
イ
文
に
語
お
の
い
円
て
環
、
世
舞
界
踏
か
家
ら
ら
遠
し
ざ
く
か
瀧
ろ
い
か
に
近
代
詩
が
音
数
律
、
定
型
、
文
語
を
捨
て
て
い
っ
た
か
、
そ
の
過
程
を
見
出
쎶
쎠
し쐍
︶
、
瀧
口
の
詩
に
お
い
て
日
本
の
近
代
詩
の
北海学園大学人文論集
の
追
及
に
よ
っ
て
新
し
い
ポ
エ
ジ
イ
を
出
し
よ
う
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し
、
ま
た
北
川
冬
彦
は
、
い
わ
ゆ
る
短
詩
運
動
を
試
み
た
後
、
新
散
文
詩
運
動
に
よ
っ
無 て
機 詩
物 的
精
神
の
運
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の
関
係
し
な
い
仮
説
の
世
界
を
想
定
し
、
耽
美
主
義
的
か
つ
理
想
主
義
的
な
形
而
上
の
世
界
を
求
め
て
い
た
。
春
山
行
夫
は
、
フ
ォ
ル
ム
詩
に
お
い
て
脳
髄
を
破
る
こ
と
を
試
み
つ
つ
、
ヨ
ー
ロ
ッ
パ
的
教
養
を
駆
し
て
詩
的
な
世
界
を
提
示
し
よ
う
と
し
た
。
ま
た
、
上
田
敏
雄
は
、
쐍
2 学 研
︶ 、 究
昭 二 紀
和 〇 要
初 〇
期 五 一
に 年 九
号
お ︶
、
い 同 、
二
て
、 쐕 〇
シ 記 〇
ュ 録 四
ー 写 年
ル 真 ︶
、
レ 쐖 秋
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リ 美 裕
ス 学 子
ム
の 얧 昭
詩 瀧 和
人 口 十
と 修 年
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な の に
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人
瀧
々 年 口
の 報 修
う
造
ち 新 の
、 人 超
西 文 現
脇 学 実
順
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郎 一 年
は 一 報
、 号
意 、
外 二 新
な 〇 人
事 一 文
物 四 学
の 年 第
結 ︶ 一
び 等 号
つ の 、
き 論 北
に 文 海
よ が 学
っ あ 園
て る 大
、 。
業
大
学
国
際
情
報
学
部
研
究
紀
要
五
号
、
二
〇
〇
三
年
二
月
︶
、
井
勝
正
瀧
口
修
造
の
ス
ケ
ッ
チ
ブ
ッ
ク
:
世
界
を
構
成
し
よ
う
と
し
た
が
、
そ
の
新
散
文
詩
運
動
に
お
い
て
シ
ュ
ー
ル
レ
ア
リ
ス
ム
と
接
近
し
た
。
そ
し
て
北
園
克
衛
は
、
世
界
を
批
評
的
読
解
︵
多
摩
美
術
大
学
て
①
・
②
︵
東
横
国
文
学
、
二
〇
〇
〇
年
八
月
・
二
〇
〇
一
年
三
月
︶
、
小
谷
内
郁
宏
瀧
口
修
造
に
お
け
る
詩
法
の
転
機
に
つ
い
て
︵
静
岡
産
試
み
︵
日
本
の
シ
ュ
ー
ル
レ
ア
リ
ス
ム
世
界
思
想
社
、
一
九
九
五
年
︶
、
林
浩
平
瀧
口
修
造
に
お
け
る
言
語
意
識
얧
物
質
性
の
自
覚
を
め
ぐ
っ
第 58号(2
0
15年3月)
쐍
1
造 ︶
研
究 千
葉
쐕 宣
石 一
쐖
の 滝
モ 口
テ 修
ィ 造
ー
フ ︵
︵ 國
文
実 學
践
国 臨
文 時
学 増
刊
四 쐕
三
号 現
、 代
一 詩
九 の
九 一
三 一
年 〇
三 人
月 を
読
︶
、 む
澤
正 쐖
学
宏 燈
瀧 社
口 、
修 一
造 九
論 八
二
年
얧 四
テ
ク 月
ス ︶
、
ト 岩
を 崎
生 美
成 弥
す 子
る
言 瀧
葉 口
の 修
2
51
注
瀧
口
研
究
・
批
評
の
系
譜
の
析
を
示
し
た
い
。
期
に
つ
い
て
は
、
別
稿
以
上
、
本
稿
は
じ
め
瀧 に
口
修 に
造 お
研 い
究 て
・ 区
批
評 し
の た
①
析 ・
②
얧 の
瀧 時
口 期
は に
ど お
の け
よ る
う 瀧
に 口
読 に
ま 対
れ す
て る
来 批
た 評
か を
︵ 検
2 証
︶ し
に て
お き
い た
て 。
検 ③
討 ・
し ④
、 ・
併 ⑤
せ の
て 時
手
帖
︵
一
九
七
四
年
一
〇
月
︶
に
お
い
て
見
ら
れ
る
、
多
ジ
ャ
ン
ル
の
論
者
に
よ
る
瀧
口
論
で
あ
る
。
形
を
と
っ
て
深
化
し
結
晶
し
た
瀧
口
の
芸
術
観
に
お
け
る
ひ
と
つ
の
結
論
を
示
す
も
の
だ
と
み
な
し
쎺
쎡
た쐍
︶
。
こ
こ
ま
で
が
、
現
代
詩
︵
五
六
︶
瀧口修造研究・批評の
︵
五
七
︶
쐍
6
六 ︶ を 書 三
論 版 月
頁
︶ 近 じ の 発
。 藤 て 四 行
東 い 回 の
る で 三
詩 。 あ 笠
人
る 書
の
。 房
こ の
名
の 唯
誉
本 物
で 論
瀧
瀧 全
口
口 書
修
は 版
造
、 、
著
キ 一
︽
ュ 九
近
ビ 五
代
ズ 一
芸
ム 年
術
か 一
︾
ら 一
シ 月
コ
ュ 発
レ
ー 行
ク
ル の
シ
レ 三
ョ
ア 笠
ン
リ 書
・
瀧
ス 房
口
ム の
修
お 新
造
よ 書
び 版
別
抽 、
巻
象 一
芸 九
み
術 六
す
に 二
ず
至 年
書
る 一
房
ま 二
、
で 月
一
の 発
九
、 行
西 の
九
洋 美
八
近 術
年
代 出
︵
芸 版
二
術 社
五
の の
五
諸 美
∼
問 術
二
題 選
五
쐍
5
︶
瀧
口
修
造
著
近
代
芸
術
は
、
版
を
変
え
て
合
計
四
回
刊
行
さ
れ
て
い
る
。
そ
れ
は
、
一
九
三
八
年
九
月
発
行
の
三
笠
書
房
版
、
一
九
四
九
年
쐍
4 の と
︶ 概 い
要 う
文 を 副
芸
述 題
春
べ が
秋 、 付
け
一 後
ら
九 半
れ
三 は
て
〇 神
お
年 原
り
九 へ
の
月 感 、
号 情 前
︵ 的 半
一 な は
二 徹 エ
四 底 ッ
頁 批 セ
イ
︶
。 判
に 神
な 原
っ 泰
て 氏
い に
る 質
。 問
お
よ
び
超
現
實
主
義
は
没
落
す
る
か
얧
詩
論
を
中
心
と
し
て
얧
超
現
實
主
義
者
の
没
落
批
判
と
い
う
評
論
を
掲
載
し
、
神
原
を
徹
底
的
に
批
判
し
た
。
こ
の
評
論
に
は
神
原
泰
氏
は
何
故
没
落
せ
ね
ば
な
ら
ぬ
か
し
て
超
現
実
主
義
の
没
落
を
宣
言
す
る
こ
と
の
矛
盾
を
批
判
し
て
い
る
。
そ
し
て
、
春
山
は
一
九
三
〇
年
九
月
の
詩
と
詩
論
第
九
冊
に
反
動
的
2
50
析 (秋元)
派 表 春 論 藝
レ
が し 山
、 、 は の ビ
歴
編
未 一 集 ュ
ー
九
来
的
者
三
必 派 〇 と に
然 を 年 し 、
性 没 五 て 春
に 落 月 の 山
よ せ 三 立 行
つ し 一 場 夫
て め 日 か が
た
の ら
に 超
、 神
超 現 東 こ 原
現 實 京 の 泰
實 主 朝 本 氏
主 義 日 の に
義 が 新 内 質
聞 容 問
の 、
未
没 来 に を
落 派 、 擁 と
を の
護 い
宣 没 超 し う
言 落 現 、 質
す を 實 神 問
る 宣 主 原 状
と 言 義 の を
し す は エ 発
た る 没 ッ 表
ら こ 落 セ し
ど と す イ た
う は る の 。
こ
で 正 か
非 れ
あ し
ら い 얧 論 は
詩 理 、
う
論 的 主
が
と 、 を な に
、
春
未 超 中 点 山
心
来 現
を が
派 實 と 質 、
し
の 主
し 西
第 義 て て 脇
一 に
い 順
人 没 얧 る 三
者 落 と も 郎
で せ い の 著
あ し う で
っ め エ あ 超
た ら ッ る 現
神 れ セ 。 實
原 た イ ま 主
に 未 を た 義
対 来 発 、 詩
쐍
3
四 ︶ 現 の
実 止
月
の 昭 主 揚
和 義 を
主
文 初
藝 期 を 張
レ の 解 し
ビ 超 釈 、
ュ 現 し い
ー 実 て わ
主 い ゆ
に 義 た る
を 。
シ 巡
芸
ュ る
術
ウ 論
弁
ル 争
証
・ は
法
レ
ア 、
を
リ 詩
追
ス 人
求
ム 春
し
山
の
て
没 行
い
落 雄
た
に と
。
際 、
こ
詩
し 人
の
て ・
よ
画
う
と 家
に
い の
、
う 神
各
評 原
々
論 泰
の
を に
詩
発 よ
人
表 る
が
、 も
、
そ の
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を 代
ぞ
受 表
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け 的
の
て で
詩
、 あ
・
一 る
芸
九 。
術
三 神
観
〇 原
に
年 は
基
五 一
づ
月 九
い
の 三
て
〇
超
文 年
に
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い
く
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と
に
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ュ
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ル
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解
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、
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中
久
七
は
、
シ
ユ
ー
ル
・
レ
ア
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ス
ム
と
プ
ロ
レ
タ
リ
ア
芸
術
と
北海学園大学人文論集
쐍
쐍 쐍 쐍 쐍 쐍 쐍
2
4쐍
23 쐍
22 쐍 쐍 쐍
1
9 18 1
71
61
5 14 13
視 ︶ ︶ ︶ 21 20 ︶ ︶ ︶ ︶ ︶ ︶ ︶ 頁
︶
︶
︶
し
。
同 同 同 同 同 同
て い 同 前
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列
書 掲
銅
書
書
書
書
書
書
書
わ
ア ゆ 、 書 島 ︵ 惇 ︵ ︵ ︵ ︵ ︵ ︵
、
作 一 八 一 二 三 八
ヴ る
は 三
三 三 二 五 六 四
ァ 抵 銅
一
、
ン 抗 惇 銅
六 戦 二 頁 四 〇 六 頁
一
頁 頁 ︶
ギ 詩 作 惇
頁 後 頁 ︶
。 頁
。
︶
︶
ャ の [ 作 九 ︶ 詩 ︶
。
。
。 ︶
。
五
。
の
ル 現 狼
諸
戦 二
ド 代
相
と 的 論 後 年
∼
レ 詩 争 詩
三
ア 精 ] の 五
好
リ 神 項 諸 五
行
ズ の ︵ 相 年
に
雄
ム 不 三
亘
他
の 在 七 三
り
編
好
統
四
、
一 ︵ 頁 行
全
増
と
︶ 雄
訂
い 銅 。 他 一
版
編 二
う 惇
冊
方 作
日
増 発
法 [
本
訂 行
上 狼
文
版 さ
の
れ
学
立 論
て
全
日
場 争
本 い
]
︵
︵
文 る
同 項
六
学 。
・
書
全
現
長
、
代
三 谷
︵
︶
七 川
六
六 泉
二
・
頁 編
版
現
︶
二
代
近
を
刷
︶
代
主
、
︵
文
張
学
三
学
し
燈
一
論
た
社
六
関 争
、
頁
根 事
一
︶
典
。
に
九
対 、
九
し 三
八
て 七
年
︵
、 四
三
野 頁
一
間 ︶
五
宏 を
頁
・ 問
吉 題
︶
。
2
49
쐍
1
2쐍
1
1쐍
1
0쐍
9 쐍
8 쐍
7
︶ ︶ ︶ ︶ ︶ ︶
ジ
ャ
ク
リ
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ヌ
・
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本
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・
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ど
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方
法
論
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矛
盾
を
批
判
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る
な
ど
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て
、
関
根
と
の
間
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論
争
に
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展
し
た
。
第5
8号(2
0
15年3月)
ジ
ャ
ン
ド
ロ
ン
著
、
星
埜
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之
・
鈴
木
雅
雄
訳
シ
ュ
ル
レ
ア
リ
ス
ム
人
文
書
院
、
一
九
九
七
年
︵
二
五
五
同
書
、
生
同
書
、
井
上
敬 弘
三 [
[
主 世
体 代
性 論
論 争
争 ]
]
項 項
︵ ︵
二
二 八
八 四
一 頁
頁
︶
︶
。 。
同
書
、
小
伸
六
[
知
識
人
論
争
]
項
︵
三
〇
三
頁
︶
。
同
書
、
高
橋
新
太
郎
[
文
学
者
の
戦
争
責
任
論
争
]
項
︵
二
九
一
頁
︶
。
小
伸
六
[
知
識
人
論
争
]
項
長
谷
川
泉
編
近
代
文
学
論
争
事
典
至
文
堂
、
一
九
六
二
年
︵
三
〇
三
頁
︶
。
︵
五
八
︶
瀧口修造研究・批評の
析 (
秋元)
쐍 쐍 쐍 8쐍
쐍
4
0쐍
3
9쐍
38 쐍
3
7쐍
36 쐍
35 쐍
34 쐍
33 쐍
32 31 30 29 쐍
2 2
7
︶ ︶ ︶ ︶ ︶ ︶ ︶ ︶ ︶ ︶ ︶ ︶ ︶ ︶ 口
に
同 同 同 同 同 前 鶴 同 前 同 同 同 前 花 相
書 書 書 書 書 掲 岡 書 掲 書 書 書 掲 田 談
︵ ︵ ︵ ︵ ︵ 書 善 ︵ 書 ︵ ︵ ︵ 書 清 し
二 二 二 二 二 、 久 三 、 二 二 二 、 輝 、
八 九 八 八 九 鶴
〇 針 六 六 六 花
座
八 二 七 八 七 岡 太 九 生 五 九 五 田 コ 談
頁 頁 頁 頁 頁 善 陽 頁 一 頁 頁 頁 清 ロ 会
輝 ン 終
︶
。 ︶
。 ︶
。 ︶
。 ︶
。 久 へ ︶
。 郎 ︶
。 ︶
。 ︶
。
の
ブ 了
コ ス 後
太 希
瀧
ロ の 瀧
陽 求
口
ン 卵 口
へ
修
ブ
の 瀧
造
を
ス
希 口
著
訪
美
の
求 修
問
術
卵
造
近
し
批
瀧
代
て
評
口 想
芸
い
コ
修 像
術
レ 、 ろ
造
ク 一 い
解
シ 九 ろ
一
題
ョ 五 教
コ 七
ン 五 え
レ ∼
コ
・ 年 を
ク 一
レ
瀧 四 受
シ 九
ク
口 月 け
ョ 号
シ
修 。 て
ン 、
ョ
い
造
・ 一
ン
た
瀧 九
・
と
別
口 六
瀧
い
巻
修 二
口
う
造 年
︵
修
。
。
二
造
別
六
巻
九
別
頁
︵
巻
︶
二
。
八
︵
六
三
頁
〇
︶
八
。
頁
︶
。
︵
五
九
︶
2
48
よ シ
刊
後 剛 り ュ
は 、 、 ル
清 こ
み 岡 の レ
づ 卓 三 ア
ゑ 行 名 リ
ス
、
︶ 岡 を ム
中
に 本
掲 謙 心 に
載 次 と 強
し 郎 し い
て な て 関
い ど シ 心
る が ュ を
。 随 ル 抱
そ 時 レ い
の 出 ア て
当 席 リ い
時 し ス る
こ
シ た ム と
研
。
ュ 研
を
ル 究 究 、
レ 会 会 雑
ア で を 誌
リ は 結
ス 報 成 美
ム 告 し 術
研 者 、 批
究 と そ 評
会 テ こ
に 編
は ー 江 集
、 マ 原 長
を
シ 毎 順 西
ュ 回 が 巻
ル 決 入 興
レ め り 三
ア て 、 郎
リ シ 針 が
ス ン 生 知
ム ポ 一 っ
ジ 郎 た
を ウ 、 こ
巡 ム 中 と
る を 原 で
問 し 佑 あ
題 、 介 る
、 。
に
つ 美 菅 西
術
野 巻
い
て 批 昭 の
よ 評 正 助
く ︵ 、 力
瀧 廃 村 に
쐍
2
6쐍
2
5
︶ ︶
シ
ュ
ル
レ
ア
リ
ス
ム
研
究
会
は
、
一
九
五
六
年
に
結
成
さ
れ
て
い
る
。
結
成
の
き
っ
か
け
は
、
大
岡
信
、
飯
島
耕
一
、
東
野
芳
明
の
三
名
が
前
掲
書
、
銅
惇
作
[
狼
論
争
]
項
長
谷
川
泉
編
近
代
文
学
論
争
事
典
︵
三
七
五
頁
︶
。
北海学園大学人文論集
쐍
5
8
︶ て
い
る
3 こ
参 と
照 を
。 ふ
ま
え
、
本
論
文
で
も
影
像
引
用
箇
所
は
原
文
通
り
と
す
る
。
ま
た
、
表
記
の
上
で
は
原
像
、
心
像
等
様
々
な
言
葉
を
用
い
て
第5
8号(2
0
15年3月)
쐍
쐍 쐍 쐍 쐍 쐍
2쐍
51 쐍
50 쐍
4
9쐍
4
8쐍
4
7쐍
4
6쐍
4
5쐍
4
4쐍
4
3쐍
4
2쐍
4
1
5
7 56 55 5
4 53 5
︶ ︶ ︶ ︶ ︶ ︶ ︶ ︶ ︶ ︶ ︶ ︶ ︶ ︶ ︶ ︶ ︶
前 飯 同 前 ヨ 同 同 同 同 同 同 前 大 同 同 同
影
掲 島 書 掲 シ 書 書 書 書 書 書 掲 岡 書 書 書
像
書 耕 ︵ 書 ダ ︵ ︵ ︵ ︵ ︵ ︵ 書 信 ︵ ︵ ︵
三 三 三
は 、 一 一 、 ・ 三 三 三 三 三 三 、
、 飯
七 ヨ ヨ 四 三 四 三 三 三 大 超 〇 〇 〇
所 島 シ 一 シ シ 〇 五 一 八 四 八 岡 現 六 二 三
謂 耕 ュ 頁 ダ エ 頁 頁 頁 頁 頁 頁 信 実 頁 頁 頁
︶ ︶ ︶ ︶ ︶ ︶
主 ︶ ︶ ︶
視 一 ル ︶
・
。 。 。 。 。 。 超 義 。 。 。
覚
レ 。 ヨ 瀧
現 詩
的 シ ア
シ 口
実 論
イ ュ リ
エ 修
造
主 の
メ ル ス
義 展
ー レ ム
瀧 覚
詩 開
ジ ア 詩
口 え
論
の リ 論
修 書
の 国
こ ス 序
造
展 語
と ム 説
覚 現
開 と
で 詩
え 代
あ 論 シ
書 芸
国
る 序 ュ
術
コ 文
。 説
レ 学
ル
コ 、
瀧
ク
レ 一
口 コ レ
シ 、
ア
ク 九
は レ リ
ョ 一
シ 六
九
ン 六
影 ク ス
ョ 一
・ 三
像 シ ム
ン 年
瀧 年
詩
・ 六
以 ョ
口 四
ン
論
瀧
月
外 ・
修 月
口 ∼
に 瀧 思
造 。
修 九
幻 口 潮
造 月
別
影 修 社
。
巻
別
、 造 、
一
巻
︵
幻 別 九
三
︵
像 巻 六
四
一
一
、 ︵
四
七
年
頁
六
フ 二 。
︶
頁
ァ 七
。
︶
ン 七
。
頁
ト
ム ︶
。
、
イ
マ
ー
ジ
ュ
、
像
視
を
覚
用
的
い
イ
る
メ
。 映 ー
像
ジ
が
一 と
般 い
的 う
で こ
あ と
ろ を
う 言
が い
、 表
瀧 わ
口 し
自 て
身 い
が る
が
影 、
像 本
論
と 文
い で
う は
表
記 影
を 像
好
ん に
で 統
多 一
用 し
し 、 、
2
47
︵
六
〇
︶
瀧口修造研究・批評の
析 (
秋元)
쐍 쐍 쐍
쐍
7쐍
6
6쐍
6
5쐍
6
4쐍
6
3쐍
6
2쐍
6
1쐍
6
0쐍
5
9
79 쐍
7
8쐍
77 쐍
76 쐍
75 쐍
7
4쐍
73 쐍
7
2쐍
7
1쐍
70 69 68 6
︶ ︶ ︶ ︶ ︶ ︶ ︶ ︶ ︶ ︶ ︶ ︶ ︶ ︶ ︶ ︶ ︶ ︶ ︶ ︶ ︶
同 同 前 渋 同 同 同 前 渋 同 前 岡 同 前 中 同 前 瀧 前 瀧 前
書 書 掲 澤 右 書 書 掲 澤 書 掲 田 書 掲 原 書 掲 口 掲 口 掲
︵ ︵ 書 孝 。 ︵ ︵ 書 龍 ︵ 書 隆 ︵ 書 佑 ︵ 書 修 書 修 書
三 三 、 輔
三 三 、 彦 三 、 彦 三 、 介 二 、 造 、 造 、
一 中
八 飯
飯
飯
八 八 渋
八 七 渋
九 岡
六 四 澤 瀧
〇 九 澤 卵 八 田 娑 八 原 言 二 島 絶 島 詩 島
頁 頁 孝 口
頁 頁 龍 型 頁 隆 婆 頁 佑 葉 頁 耕 対 耕 と 耕
で ︶ 介 の ︶ 一 へ 一 実 一
∼ ︶
輔 修
︶
。
。 ︶
。 彦 の ︶
。 彦 見 。
な 。
の
在
三
造
夢
言 い
シ 接 シ
シ
八
瀧 論
卵
娑 た
葉 詩
ュ 吻 ュ 詩 ュ
七
口
型 瀧
婆 瀧
の 集
ル
ル
ル
頁
修 本
の 口
で 口
な
レ 詩 レ と
レ
︶
造 の
夢 修
見 修
詩
。
い 読
ア
ア
ア
論 手
造
た 造
神
論
詩 売
リ
リ
リ
瀧 私
瀧
帖
集 新
ス 、 ス 第 ス
口 論
口 本
コ 、
聞
ム 一 ム 十 ム
修
修 の
レ 一
詩 九 詩 冊 詩
造 本
造 手
コ 夕
ク 九
論 三 論 、 論
私 の
帖
レ 刊
シ 六
、
序 一 序
序
論
ク 一
ョ
手
コ 、
説 年 説 一
説
シ
九
ン 九
帖
レ
一
一
ョ 九
三
・ 年
コ
ク
九
八
、
ン 六
コ 月
コ 一 コ
瀧 月
レ 一
シ 六
・ 二
レ 。 レ 年 レ
口 。
ク 九
ョ 九
年
瀧 一
ク
ク 一 ク
修
シ
ン 年
口 二
シ
シ 月 シ
造
ョ 六
・ 八
九
修 月
ョ
ョ 。 ョ
ン 年
瀧 月
造 二
ン
ン
ン
別
・ 八
口 。
・
・
・
巻
瀧 月
修
二
別 日
瀧
瀧
瀧
口 。
造
︵
巻 。
口
口
口
修
三
修
修
修
造
別
︵
八
造
造
造
巻
三
三
別
一
頁
︵
別
別
別
巻
七
︶
三
巻
巻
巻
。
頁
︵
九
︶
︵
︵
︵
三
七
。
二
二
二
七
頁
八
八
八
八
︶
。
一
一
〇
頁
頁
頁
頁
︶
。
︶
︶
︶
。
。
。
︵
六
一
︶
2
46
北海学園大学人文論集
쐍
9
8쐍
97 쐍
9
6쐍
9
5쐍
9
4쐍
93 쐍
92 쐍
9
1쐍
90
︶ ︶ ︶ ︶ ︶ ︶ ︶ ︶ ︶ ジ
ェ
同 同 同 前 渡 同 同 前 鍵 作
書 書 書 掲 辺 書 書 掲 谷 品
︵ ︵ ︵ 書 広 ︵ ︵ 書 幸 を
四 四 四 、 士 五 五 、 信 表
七 七 七 渡
〇 〇 鍵
わ
八 七 三 辺 瀧 六 二 谷 文 す
頁 頁 頁 広 口 頁 頁 幸 学 言
︶
︶ ︶ 信 を 葉
。 ︶
。 ︶
。 士 修
造 。 。
拒 と
瀧 と
文 む し
口 小
学 ポ て
修 林
を エ も
造 秀
拒 ジ
と 雄
む ー わ
小
ポ の れ
林 審
エ 自 て
秀 美
ジ 立 い
雄 社
ー
る
、
の
。
現
大 一
自
岡 九
立 代
詩
信 七
手
他 六
コ 帖
監 年
レ
修 。
ク 一
シ 九
コ
ョ 七
レ
ン 四
ク
・ 年
シ
瀧 一
ョ
口 〇
ン
修 月
・
造 。
瀧
口
修
造
別
巻
︵
四
七
二
頁
︶
。
別
巻
︵
五
〇
一
∼
五
〇
二
頁
︶
。
第5
8号(2
0
15年3月)
ど
ち
ら
の
言
葉
も
主
に
、
精
神
に
対
す
る
物
体
、
主
観
に
対
す
る
客
観
の
意
味
で
わ
れ
て
い
る
。
ま
た
、
物
体
は
、
美
術
に
お
け
る
所
謂
オ
ブ
2
45
쐍
89 쐍
8
8쐍
8
7쐍
8
6쐍
8
5쐍
8
4쐍
8
3쐍
8
2쐍
8
1쐍
8
0
︶ ︶ ︶ ︶ ︶ ︶ ︶ ︶ ︶ ︶
そ
も
そ
も
同
書
︵
四
四
物 三
質 頁
︶
と 。
物
体
の
意
味
は
異
な
っ
て
い
る
が
、
瀧
口
論
の
全
て
の
論
者
が
そ
れ
を
明
確
に
同
書
︵
四
四
一
頁
︶
。
同
書
︵
四
三
九
頁
︶
。
前
掲
書
、
吉
増
剛
造
吉
増
剛
造
瀧
口
修
造
瀧 を
口 読
修 む
造
を
読 三
む 田
文
学
コ 、
レ 一
ク 九
シ 七
ョ
ン 三
・ 年
四
瀧 月
口 。
修
造
別
巻
︵
四
三
七
頁
︶
。
同
書
︵
四
三
一
頁
︶
。
同
書
︵
四
二
九
頁
︶
。
前
掲
書
、
武
満
徹
武
満
徹
充
実
し
た
充 沈
実 黙
し
た 音
沈 、
黙
沈
黙
コ と
レ 測
ク り
シ あ
ョ え
ン る
・ ほ
瀧 ど
口 に
修
造 新
潮
別 社
巻 、
︵ 一
四 九
三 七
二 一
頁 年
。
︶
。
い
け
て
い
た
と
は
言
い
難
く
、
︵
六
二
︶
瀧口修造研究・批評の
쐍
쎼
쎟
︶
同
書
︵
五
二
九
頁
︶
。
︵
六
三
︶
쐍
쎻
쎟
︶
前
掲
書
、
谷
川
晃
一
쐍
쎺
쎟
︶
谷
川
晃
一
쐍
쎹
쎟
︶
同
書
︵
四
五
眼 頁
の ︶
探 。
求
眼 者
の
探 現
求 代
者 詩
手
コ 帖
レ
ク 一
シ 〇
ョ 月
ン 臨
・ 時
瀧 増
口 刊
修 号
造 、
一
別 九
巻 七
︵ 四
五 年
二 一
八 〇
∼ 月
五 。
二
九
頁
︶
。
쐍
쎸
쎟
︶
同
書
︵
四
三
頁
︶
。
쐍
쎷
쎟
︶
同
書
︵
四
一
頁
︶
。
쐍
쎶
쎟
︶
同
書
︵
四
三
頁
︶
。
쐍
쎵
쎟
︶
同
書
︵
四
二
頁
︶
。
쐍
쎴
쎟
︶
同
書
︵
四
一
頁
︶
。
析 (
秋元)
쐍
쎽 쐍
쎟
쎼 쐍
쎨
쎨 쐍
쎻
쎺 쐍
쎨
쎹 쐍
쎨
쎨 쐍
쎸
쎷 쐍
쎨
쎶 쐍
쎨
쎨 쐍
쎵
쎴 쐍
쎨
쎽 쐍
쎨
9
9
︶ ︶ ︶ ︶ ︶ ︶ ︶ ︶ ︶ ︶ ︶ ︶
岡
田
隆
彦
同
書
︵
六
五
想 頁
像 ︶
の 。
鏡
を
潜
る
瀧
口
修
造
に
お
け
る
影
像
と
言
葉
現
代
詩
手
帖
一
〇
月
臨
時
増
刊
号
、
一
九
七
四
年
一
〇
月
。
2
44
同
書
︵
六
七
頁
︶
。
同
書
︵
六
五
頁
︶
。
久 同 同 同
保 書 書 書
覚 ︵ ︵ ︵
五 五 五
未 五 五 五
完 九 七 八
の 頁 頁 頁
運 ︶ ︶ ︶
動 。 。 。
あ
る
乱
雑
な
想
起
現
代
詩
手
帖
一
〇
月
臨
時
増
刊
号
、
一
九
七
四
年
一
〇
月
。
前
掲
書
、
藤
井
貞
和
藤
井
貞
和
精
神
の
革
命
、
い
ま
絶
え
ず
綜
合
の
夢
精
神
の
革
命
、
い
ま
絶
え
ず
綜
合 白
の 鯨
夢
、
コ 一
レ 九
ク 七
シ 四
ョ 年
ン 一
・ 二
瀧 月
口 。
修
造
別
巻
︵
五
六
一
頁
︶
。
同
書
︵
一
八
八
頁
︶
。
窪
田
般
弥
瀧
口
修
造
の
詩
的
実
験
現
代
詩
手
帖
一
〇
月
臨
時
増
刊
号
、
一
九
七
四
年
一
〇
月
。
北海学園大学人文論集
쐍
쎺
쎡
︶
前
掲
書
、
大
辻
清
司
쐍
쎹
쎡
︶
大
辻
清
司
쐍
쎸
쎡
︶
同
書
︵
五
五
瀧 六
口 頁
さ ︶
。
ん
瀧 と
口 写
さ 真
ん
と 現
写 代
真 詩
手
コ 帖
レ
ク 一
シ 〇
ョ 月
ン 臨
・ 時
瀧 増
口 刊
修 号
造 、
一
別 九
巻 七
︵ 四
五 年
四 一
九 〇
頁 月
。
︶
。
쐍
쎷
쎡
︶
前
掲
書
、
富
岡
多
恵
子
쐍
쎶
쎡
︶
富
岡
多
恵
子
ス
タ
イ
ン
の
最
初
の
読
者
ス
タ
イ
ン
の
最
初
の 現
読 代
者 詩
手
コ 帖
レ
ク 一
シ 〇
ョ 月
ン 臨
・ 時
瀧 増
口 刊
修 、
造 一
九
別 七
巻 四
︵ 年
五 号
五 一
四 〇
頁 月
。
︶
。
쐍
쎵
쎡
︶
ガ
ー
ト
ル
ー
ド
・
ス
タ
イ
ン
著
、
富
岡
多
恵
子
訳
쐍
쎴
쎡
︶
同
書
︵
五
三
六
頁
︶
。
第5
8号(2
0
15年3月)
쐍
쎡
쎽
︶
同
書
︵
五
三
七
頁
︶
。
三
人
の
女
쐍
쎼 쐍
쎠
쎻 쐍
쎠
쎠 쐍
쎺
쎹 쐍
쎠
쎸 쐍
쎠
쎠 쐍
쎷
쎶 쐍
쎠
쎵 쐍
쎠
쎠 쐍
쎴
쎽
쎠
︶ ︶ ︶ ︶ ︶ ︶ ︶ ︶ ︶ ︶
前
掲
書
、
唐
十
郎
村
雨
丸
を
持
た
せ
た
い
詩
人
コ
レ
ク
シ
ョ
ン
・
瀧
口
修
造
筑
摩
書
房
、
一
九
六
九
年
。
別
巻
︵
五
三
六
頁
︶
。
唐 前 土 同
十 掲 方 書
郎 書 巽 ︵
、
四
村 土 線 八
雨 方 が 八
丸 巽 線 頁
を
に ︶
持 線 似 。
た が て
せ 線 く
た に る
い 似 と
詩 て き
人 く
る 現
現 と
代
代 き 詩
詩
手
手 コ 帖
帖 レ
ク 一
一 シ 〇
〇 ョ 月
月 ン 臨
臨 ・ 時
時 瀧 増
増 口 刊
刊 修 、
号 造 一
、
九
一 別 七
九 巻 四
七 ︵ 年
四 五 号
年 二 一
一 二 〇
〇 頁 月
月 ︶ 。
。 。
同
書
︵
四
八
六
頁
︶
。
前
掲
書
、
岡
井
隆
両
棲
類
私
注
コ
レ
ク
シ
ョ
ン
・
瀧
口
修
造
別
巻
︵
四
八
三
頁
︶
。
岡 前 加
井 掲 藤
隆 書 郁
、 乎
両 加
棲 藤 マ
類 郁 ル
私 乎 ジ
注
ナ
マ リ
ア
現 ル
ジ
代 ナ 風
詩 リ に
手 ア
帖 風 現
代
一 に 詩
〇
手
月 コ 帖
臨 レ
時 ク 一
増 シ 〇
刊 ョ 月
号 ン 臨
、 ・ 時
一 瀧 増
九 口 刊
七 修 号
四 造 、
年
一
一 別 九
〇 巻 七
月 ︵ 四
。 四 年
五 一
六 〇
頁 月
。
︶
。
︵
六
四
︶
2
43
★逆ノンブル★
道
中
川
町
志
文
内
︵
現
、
中
川
町
共
和
︶
に
残
し
た
足
跡
は
、
中
︵
一
︶
︵
る で 兄 一 十
一 。 あ で 八 五 守
九
っ あ 八 年 谷
三
た る 二 ︶ 富
二
地 。 ・ は 太
︵
域 明 明 、 郎
昭
医 治 治 近 ︵
和
療 末 十 代 一
七
に 期 五 短 八
︶
尽 に 年 歌 七
年
力 北 ∼ を 六
、
し 海 一 代 ・
茂
た 道 九 表 明
吉
医 に 五 す 治
が
師 渡 三 る 九
歌 年
り
兄
と 、 ・
昭 人 ∼
富
し 当 和 の 一
太
て 時 二 一 九
郎
も ま 十 人 五
を
知 だ 八 、 〇
訪
ら 課 年 斎 ・
ね
れ 題 ︶ 藤 昭
て
て 山 の 茂 和
北
い 積 実 吉 二
海
歌 自
を 体
ま に
と は
め 残
て さ
活 れ
字 た
化 課
す 題
る も
こ あ
と る
は が
、 、
今 何
後 よ
の り
斎 守
藤 谷
茂 富
吉 太
研 郎
2 の
究쐍
︶
、 短
の 心
と
流 資
の 料
実 /
証
に 料
挑 の
ん 読
で 解
く 作
れ 業
た を
。 通
時 じ
間 て
の 、
制 富
約 太
も 郎
あ ・
り 茂
、 吉
論 兄
文 弟
学
芸
員
課
程
で
熱
心
に
学
ん
だ
中
崎
さ
ん
は
、
持
ち
前
の
探
究
ラ
ラ
ギ
年
刊
歌
集
収
録
歌
も
補
記
し
た
も
の
で
あ
る
。
そ
の
別
添
資
料
と
し
て
提
出
さ
れ
た
も
の
を
精
査
し
、
新
た
に
ア
が
、
卒
業
論
文
の
テ
ー
マ
に
守
谷
富
太
郎
を
選
ん
だ
。
本
資
料
は
、
北
見
文
化
セ
ン
タ
ー
市
出
身
の
中
崎
翔
太
さ
ん
︵
十
八
期
生
・
二
〇
一
三
年
度
卒
業
︶
富
太
郎
は
晩
年
を
北
見
市
で
過
ご
し
た
た
め
、
そ
の
縁
で
、
同
3
06
北
海
道
中
川
郡
中
川
町
、
志
文
内
、
拓
殖
医
、
北
見
市
、
北
網
圏
キ
ー
ワ
ー
ド
資
料
紹
介
斎
藤
茂
吉
、
守
谷
富
太
郎
、
ア
ラ
ラ
ギ
守
谷
富
太
郎
の
ア
ラ
ラ
ギ
、
り 川
の 町
地 エ
コ
志 ミ
文 ュ
内 ー
ジ
︵ ア
二 ム
〇 セ
一 ン
三 タ
年 ー
十 編
月
刊 斎
︶ 藤
等 茂
に 吉
詳
し ・
兄
1
い쐍
︶
。 弟
ゆ
か
田
中
綾
・
中
崎
翔
太
掲
載
歌
北海学園大学人文論集
し
た
茂
吉
の
関
連
資
料
が
、
富
太
郎
の
ご
遺
族
に
よ
っ
て
北
見
市
を
知
っ
た
。
そ
し
て
同
時
に
、
故
郷
に
ゆ
か
り
の
あ
る
文
化
人
と
の
資
料
の
解
説
を
う
け
、
こ
の
と
き
初
め
て
守
谷
富
太
郎
の
存
在
に
寄
贈
さ
れ
た
。
私
は
同
セ
ン
タ
ー
に
保
存
さ
れ
て
い
る
こ
れ
ら
記
し
た
︶
。
き
た
四
六
七
首
で
あ
る
︵
巻
末
に
、
そ
れ
ら
以
外
の
三
首
を
補
※
ラ 以
ラ 下
ギ の
守
誌 谷
で 富
、 太
北 郎
海 の
道 短
歌
守 は
谷 、
富 昭
太 和
郎 十
∼
の 十
氏 九
名 年
で 刊
確 の
認
で ア
郎
は
、
晩
年
を
北
見
市
で
過
ご
し
た
。
富
太
郎
の
没
後
、
彼
が
遺
拓
殖
医
と
し
て
北
海
道
内
の
地
域
医
療
に
貢
献
し
た
守
谷
富
太
る
と
こ
ろ
が
大
き
い
。
今
後
と
も
研
究
や
文
芸
活
動
を
継
続
し
て
い
き
た
︵ い
。
中
崎
翔
太
︶
北
見
市
に
あ
る
北
網
圏
北
見
文
化
セ
ン
タ
ー
を
訪
れ
た
こ
と
に
よ
ま
た
、
卒
業
論
文
の
完
成
・
大
学
卒
業
を
区
切
り
と
せ
ず
に
、
と
な
っ
た
の
は
、
学
芸
員
課
程
の
活
動
の
一
環
と
し
て
、
北
海
道
も
併
せ
て
、
心
よ
り
感
謝
申
し
上
げ
た
い
。
第5
8号(20
15年3月)
お
二
方
に
は
深
く
感
謝
申
し
上
げ
た
い
。
私
が
卒
業
論
文
の
テ
ー
マ
に
守
谷
富
太
郎
を
選
ん
だ
き
っ
か
け
と
が
で
き
た
。
論
文
作
成
の
指
導
を
し
て
く
れ
た
田
中
綾
先
生
に
305
︵
田
中
綾
︶
学
芸
員
、
お
二
方
の
協
力
を
得
て
、
卒
業
論
文
を
完
成
さ
せ
る
こ
守
谷
俊
一
氏
、
北
網
圏
北
見
文
化
セ
ン
タ
ー
に
勤
め
る
柳
谷
卓
彦
に
は
、
お
電
話
で
あ
た
た
か
い
励
ま
し
の
言
葉
を
い
た
だ
い
た
。
し
か
し
な
が
ら
、
電
話
で
の
イ
ン
タ
ビ
ュ
ー
に
応
じ
て
く
れ
た
で
あ
り
、
数
多
く
の
資
料
を
北
見
市
に
寄
贈
さ
れ
た
守
谷
俊
一
氏
な
ア
ド
バ
イ
ス
を
い
た
だ
い
た
。
ま
た
、
守
谷
富
太
郎
の
御
令
孫
審
査
委
員
を
つ
と
め
て
お
ら
れ
る
歌
人
の
西
勝
洋
一
氏
に
、
懇
切
収
録
に
あ
た
っ
て
は
、
中
川
町
短
歌
フ
ェ
ス
テ
ィ
バ
ル
で
長
く
か
っ
た
の
が
心
残
り
で
あ
る
。
て
い
た
が
、
時
間
や
予
算
な
ど
の
制
約
か
ら
断
念
せ
ざ
る
を
得
な
や
山
形
県
上
山
市
に
あ
る
斎
藤
茂
吉
記
念
館
へ
の
訪
問
を
計
画
し
論
文
作
成
の
過
程
で
は
、
中
川
町
志
文
内
︵
現
、
中
川
町
共
和
︶
も
の
と
思
い
、
本
紀
要
に
収
録
す
る
こ
と
と
し
た
。
ア
ラ
ラ
ギ
研
究
、
及
び
北
海
道
短
歌
マ
に
決
め
た
き
っ
か
け
で
あ
る
。
し
て
、
守
谷
富
太
郎
に
興
味
を
も
っ
た
。
こ
れ
が
卒
業
論
文
の
テ
ー
研
究
に
大
き
く
資
す
る
︵
二
︶
資料紹介
る 朝
我
が
ぼ
ら 登 室
別
の
け
泉 窓
よ
ぬ
り
か
見
る
ゆ
路
る
跛
日
ひ
和
き
山
妻
白
と
き
つ
れ
は
だ
た
ち
え
湯
ず
の
の
沼
ぼ
を
れ
見
り
︵
三
︶
あ
さ
な
さ
な
靑
笹
ゆ
ら
ぐ
家
う
ら
の
畑
の
ほ
と
り
鶯
の
鳴
く
と
り
出
す
◆
昭
和
十
年
六
月
号
︵
第
二
十
八
巻
第
六
号
︶
守谷富太郎の
い
つ
し
か
に
前
山
に
春
日
さ
し
白
き
は
立
ち
の
ぼ
り
居
り
崖
下
に
赤
土
は
こ
ぶ
橇
馬
の
せ
は
し
き
息
の
白
く
見
ゆ
る
も
月
明
り
か
も
アララギ
泉
の
宿
の
さ
わ
ぎ
い
つ
し
か
し
づ
ま
り
て
木
か
げ
さ
び
し
き
◆
昭
か ぬ な ご ふ は
和
が り か
ぎ
き て ぶ し ゆ 十
ろ
か む る 年
ひ
七
と
の
に 月
閉
に
立
見 号
ぢ
う
て
え ︵
し
も
る
そ 第
小
れ
む 二
川
し
べ
る 十
の
谷
に
黑 八
あ
立
土 巻
と
き
ち
の 第
け
て
出
日 七
て
汀
で
々 号
水
に
て
に ︶
ま
靑
ひ
さ
く
が
ろ
り
つ
こ
ご
き
は
ひ
る
ぬ
ぶ
せ
を
赤
き
る
わ
く
萌
植
れ
に
え
木
304
び
ろ
と
し
て
掲載歌 (
田中・中崎)
◆
眼 か 若 事 汽 昭
の な か あ 車 和
り り に 十
と
し
ど
乘 年
日
く
り 五
の 登 讀 月
か
別 み 号
ぎ
ひ 泉 た ︵
り
も 行 る 第
さ
三 の 今 二
へ
十 汽 朝 十
ぎ
年 車 の 八
る
を 中 新 巻
も
の
聞 第
ぎ
も
に 五
來
な
想 号
て
し
ひ ︶
我
石
出
も
狩
多
老
の
き
い
野
征
に
は
露
け
ひ
の
る
ろ
記
け 湯 の
り の 湯
宿 壺
に を
し
ば
し
睦
び
し
誰
彼
に
別
れ
惜
し
み
て
出
で
立
ち
に
ア
ラ
ラ
ギ
第
二
十
八
巻
︵
昭
和
十
年
︶
湯 き 高 ば け
に も 貴 さ さ
ひ の な む も
る か ま
た
た
人
り
鴉
の
足
は
や
の
ど
ば
け
れ
さ
り
る
む
い
日
と
ざ
本
わ
起
間
が
き
の
來
て
す
れ
湯
が
ば
に
し
月
ひ
き
も
た
室
照
り
に
ら
つ
す
つ
て
か
足
み
夜
伸
た
北海学園大学人文論集
若
葉
う
つ
雨
し
げ
き
狹
間
路
の
吾
に
ま
ぢ
か
に
郭
◆
昭
和
十
年
九
月
号
︵
第
二
十
八
巻
第
九
号
︶
山 さ
の
と
こ
ろ
ど
こ
ろ
に
佇
み
て
春
の
日
永
に
鳥
が
を
聞
く
の
く
の
び
足
ら
ぬ
南
瓜
の
蔓
に
こ
の
朝
け
雌
花
き
た
り
花
に
し
み
ど
り
な
き
林
に
く
接
骨
木
は
紅
さ
や
に
熟
れ
そ
め
に
け
り
◆
昭
和
十
年
十
月
号
︵
第
二
十
八
巻
第
十
号
︶
り
ゆ
く
母
を
り
て
朝
ま
だ
き
若
葉
の
峠
越
ゆ
る
す
が
し
第5
8号(2
0
15年3月)
◆
む は け 香 ま は 昭
ら り り し は 和
そ 十
よ
か
は 年
き
ら
の 八
や
が
母 月
ま
幼
を 号
べ
き
招 ︵
料
こ
き 第
理
ろ
て 二
に
の
わ 十
た
が 八
ら
け
妻 巻
ち
き
は 第
ね
小 八
の
が
夜 号
母
お
床 ︶
の
も
を
心
か
敷
は
げ
く
足
偲
ら
び
し
ひ
さ
か
ゐ
び
ら
に
し
り 朝 ら 病 薄
が
癒 雲
す
え の
み
て ち
た
妻 ぎ
な
と れ
び
し 飛
く
み び
森
じ 行
に
み く
小
た
こ ま
鳥
と ゆ
ほ ら
き
ぎ に
草
ぬ 茜
萌
鬼 い
ゆ
川 ろ
る
氏 の
野
の 火
を
仔
星
し 仰
馬
な げ
走
が り
れ
山 ゆ 山 晴 か 長 め 晴 が み れ 襲 る 年 粽
老 ま
川 れ が 雨 り れ す ど ず ひ
畑
い く
く
り
ゐ
の ゆ な に
に
て 頃
る
濃
た
淺 く べ 水
二
佛 と
山
き
る
て ま
き
葉
の し
蚊
深
低
降 さ
な
に
み な
の
谷
山
り り
が
萌
ち り
む
川
の
し く
れ
え
に て
れ
の
上
雨 る
の
し
入 新
の
眞
に
や 川
岩
唐
り 笹
多
淸
朝
み く
床
黍
ゐ の
く
水
の
四 ま
を
を
た ひ
し
は
月
方 に
の
る ろ
て
激
あ
の 白
ぼ
烏
ご
尿
ち
は
山 き
る
ど
が る
す
し
く
と 水
山
も
を 見
る
ぶ
か
ざ
女
ほ
し れ
間
き
か
し は
魚
じ
へ ば
も
て
り
し な
の
く
は 昔
立
羊
て
雲 ら
光
り
お
ち
牡
も び
れ
て
か も
と
を
丹
今 渦
る
り ほ
ま
ゆ
ふ
朝 ま
が
ふ
け ゆ
ら
る
ふ
は く
見
3
03
︵
四
︶
資料紹介
夕
ぐ
る
る
山
の
驛
に
菓
子
を
買
ふ
畑
の
か
へ
り
金
持
た
ず
來
︵
五
︶
◆
昭
和
十
年
十
一
月
号
︵
第
二
十
八
巻
第
十
一
号
︶
し 團 夜
さ 栗 も
を
ひ
ろ
ひ
集
め
て
何
に
せ
む
す
べ
も
あ
ら
ね
ど
拾
ふ
た
の
守谷富太郎の
アララギ
掲載歌 (
田中・中崎)
日 す 雷 し い て
ヂ 吊 飛 穗 川 る 夕
夕
ぐ き の る は み か
ぐ れ キ 橋 ば は 櫻
鳴 居 づ
る け く
る り タ に ず ら さ
り り ち
る り れ
み ゆ
リ お
る
の
や
し
山
し ら
ス の
と
ま
の
稻 ぐ
長 が
を
ど
ざ
き
驛
葉 蔭
く 姿
か
ろ
る
さ
の に
も を
ぎ
に
に
に
つ 雛
な
れ
鳴
は
に
菓
ゆ
び が
る
り
や
火
子
に 等
て な
白
て
は
を
を
朝 は
む が
雲
降
や
お
買
日 お
ら と
の
る
も
こ
ふ
か の
さ う
線
雨
吾
し
畑
げ お
き つ
は
を
が
吾
が
か の
の し
ろ
驛
さ
子
へ
が 砂
花 出
か
の
り
や を
は せ
な
の
べ
釣
人
く あ
穗 り
り
に
り
金
あ び
先 朝
久
に
夕
た
も
た て
に の
方
め
映
る
た
り 並
わ 日
の
づ
え
山
ず
蝗 べ
づ 光
ら
の
女
來
は り
か は
◆
深 ぼ 朝 昭
山 る ま 和
だ 十
べ
き 年
に
濡 十
心
れ 二
の
し 月
ど
落 号
か
葉 ︵
に
を 第
生
踏 二
き
み 十
ゐ
な 八
な
が 巻
ば
ら 第
寂
紅 十
し
葉 二
か
ま 号
ら
ば ︶
ず
ゆ
よ
き
秋
峠
ふ
を
か
の
む
あ
ら
ら
ぎ
は
千
年
あ
ま
り
の
木
は
七
百
年
の
太
き
木
も
あ
り
山 と
こ
を ろ
森 に
林
主
事
と
れ
だ
ち
て
林
の
話
き
な
が
ら
行
く
3
02
長
雨
に
黑
く
な
り
た
る
ぼ
ろ
ぼ
ろ
の
除
蟲
菊
を
こ
き
居
り
山
ふ
大 秋 行 馬 ふ 幾 る
雨 日 く な も と
に さ
せ
め
も
て
す
谷 山
續
川 路
き
ぐ
の に
み
山
水 し
の
路
ま ば
ら
に
し し
ぬ
日
て 佇
小
は
堀 み
山
暮
に て
田
れ
つ 蟲
の
て
く が
稻
熊
つ
に
こ を
く
あ
こ 聞
り
ふ
だ く
人
か
の 一
を
と
ぼ 時
我
話
れ が
は
し
り ほ
お
つ
ど
も
つ
北海学園大学人文論集
行
く
べ
し
◆
昭
和
十
一
年
三
月
号
︵
第
二
十
九
巻
第
三
が 号
り ︶
の
馬
な
め
て
夜
ふ
け
の
山
路
駈
け
行
け
ば
ゆ
火
花
は
深
山
べ
の
人
と
し
な
り
て
こ
こ
し
ば
し
う
ら
安
け
く
も
生
き
て
頃
眞
盛
り
て
色
づ
き
そ
め
し
山
澤
の
紅
葉
た
づ
ね
て
一
人
べ
り
賣
り
は
丸
木
舟
に
て
谷
川
を
漕
ぎ
て
來
る
見
ゆ
た
そ
が
る
る
に
も
み
ぢ
す
第5
8号(2
0
15年3月)
◆
み か も な 小 秋 昭
ど な み り 山 晴 和
田 れ 十
ぢ
り
の の 一
せ
濃
稔 峠 年
る
き
ら を 一
笹
ぬ の 月
き
生
稻 ぼ 号
林
が
穗 る ︵
の
な
垂 背 第
中
か
れ 向 二
行
の
も よ 十
き
と
せ り 九
て
こ
ず 朝 巻
木
ろ
た 日 第
の
ど
だ の 一
葉
こ
黑 ぼ 号
の
ろ
々 り ︶
落
山
と て
つ
葡
す 我
る
萄
が が
の
れ 影
を
葉
ゆ 長
さ
く し
く
や
れ 時
雨
降
る
夜
ふ
け
の
山
路
馬
う
ち
て
山
里
に
い
そ
ぎ
行
く
わ
行
く
わ
れ
時
雨
ふ
る
こ
と
聞
く
き
夜
け
に
久
々
に
い
し
甥
を
の
こ
し
て
山
路
3
01
ア
ラ
ラ
ギ
第
二
十
九
巻
︵
昭
和
十
一
年
︶
七 け 紅
ま り 葉
せ
が
る
り
葡
電
萄
光
の
形
つ
に
る
の
を
ぼ
栗
り
鼠
ゆ
は
く
太
電
き
光
尾
峠
を
も
ふ
み
り
ぢ
の
し
ぼ
に
り
け
て
り
行
◆
久 り 落 如 苔 る 秋
昭
に
ふ 山 和
葉 し つ
し
か は 十
け
し
て
み し 一
る
て
時 ぐ 年
古
明
ひ
雨 れ 二
き
る
た
つ す 月
山
く
る
め る 号
女
な
甥
た ら ︵
を
れ
に
き し 第
描
る
ふ
峠 久 二
き
向
る
路 方 十
た
つ
さ
を の 九
る
峯
と
馬 天 巻
繪
の
の
を の 第
は
た
生
う 黑 二
さ
を
き
た 雲 号
な
り
の
せ 山 ︶
が
に
こ
て を
ら
一
り
し つ
に
本
ゐ
づ つ
生
葉
る
か め
け
人
に り
る
れ
の
登
が
︵
六
︶
資料紹介
守谷富太郎の
アララギ
◆
稔 ひ し
走 降 昭
り
ら ろ て 山
ふ れ り 和
ず び
か り し 十
の
ろ
き 一
き
せ
と
る 年
狹
ま
拓
朝 四
き
き
け
の 月
坂
澤
て
号
路
よ
行
路 ︵
に
り
け
を 第
群
出
る
吾 二
れ
て
う
子 十
て
く
ま
と 九
く
れ
し
二 巻
る
ば
田
人 第
馬
名
に
馬 四
橇
寄
幾
橇 号
を
年
に ︶
は
も
乘
け
ひ
つ
り
て
ろ
づ
て
馬
び
き
ひ
休
ろ
稻
た
め
と
は
に
居
朝
な
朝
な
新
聞
の
く
る
を
待
ち
か
ね
て
角
力
︵
七
︶
を
見
る
を
た
し
き
か
な
降
り
し
き
る
の
晴
間
の
た
ま
ゆ
ら
に
差
せ
る
日
光
の
な
ご
ま
◆
い あ あ 昭
そ り ら 和
た 十
の
ま 一
か
の 年
み
年 五
古
月
き
ぎ 号
佛
︵
の
を 第
み
搗 二
敎
く 十
へ
粟 九
を
も 巻
守
今 第
り
年 五
て
は 号
行
稔 ︶
か
ら
な
で
持
た
く
ぬ
と
人
も
掲載歌 (
田中・中崎)
せ ラ
り ン に
プ 明
け
し
に
ね 暮
む れ
と ゆ
す く
れ 山
ば 里
月 に
光 稔
は ら
ぬ
子 年
に の
圓
き は
あ 來
た に
ま け
映 り
賣 り
れ 店
り の
花 病
を 院
欲 の
り 賣
せ 店
ど
我
は
3
買쐍
︶
は
ず
日
に
日
に
行
き
て
見
て
は
3
00
割
引
き
の
圖
書
祭
の
間
に
原
色
の
園
藝
圖
あ
ま
た
あ
が
な
ふ
も あ
室 つ り
し
に
日
の
を
つ
が
く
好
り
み
て
し
朝
草
夕
つ
に
く
心
り
ゆ
見
く
覺
ま
え
ま
居
眺
り
め
て
た
我
き
は
も
趣
の
味
飛
室 べ
も り
作
れ
ぬ
我
に
は
金
た
か
き
東
洋
は
買
ふ
べ
く
も
な
し
賣 ま 御 な 人
一
店 へ 佛 ら 皆
等
の り は ぬ が 大 の
死 學 病
棚
死
に
ぬ 病
ぬ
院 室
て 入 に
て
ふ 院 は
き
ふ
こ
つ
こ
こ
る
と
と
ぶ
を
君
を
恐
子
先
膳
る
に
の
る
極
と
の
が
め
ぼ
花
い
生
し
び
つ
く
き
か
ら
る
を
は
は
は
見
ゆ
誰
後
て
に
も
た
心
と
死
に
さ
ひ
な
び
し
ら
ね
し
た
ば
け
む
低
き
兵
少
佐
は
た
け
高
き
中
尉
副
官
を
つ
れ
て
威
張
れ
り
北海学園大学人文論集
日
か 前
に
夜
な
夜
な
し
の
び
畑
の
豆
ぬ
き
來
て
生
き
し
あ
は
れ
幾
け
さ ど
け
の
峠
の
ぼ
れ
ば
名
の
知
ら
ぬ
鳥
第5
8号(2
0
15年3月)
◆
ぬ 電 て 山 昭
見
し ふ る 燈 り 川 和
の 十
も
か
凍 一
な
く
日 降
れ 年
き
露 れ
る 六
山
役
く 月
の る
ま 号
に
夢 廣
の ︵
住
一 野
首 に
ひ 第
み
と 二
つ
と 十
き
ひ
こ 九
て
し
ろ 巻
ラ
い
水 第
ン
く
は 六
プ
さ
見 号
を
の
え ︶
と
夢
ゐ
も
を
て
し
あ
鴨
八
り
飛
年
あ
び
り
た
ぎ
と
土
見
え
て
靑
笹
ゆ
ら
ぐ
崖
の
上
に
深
山
鴉
は
し
き
り
て
し
か
る
一
人
男
の
嫁
と
り
に
多
く
の
酒
を
き
買
ゆ
は
き
ね
し
ば
後
な
の
し け ら
づ り ぬ
し 春 崖
日쐍
崩
4
さ︶ ゆ
す る
日 南
向 な
に だ
出 り
で に
し 黑
豚 々
の と
仔 土
は 見
え
の そ
上 め
走 て
る 陽
見 炎
つ の
つ 立
和 つ
ま
け 五 あ
り 日 り
ゐ ぬ
し
病
院
を
出
で
て
け
ふ
一
日
明
る
き
街
を
さ
ま
よ
ひ
て
川 ぬ 驛
ひ
の
柳
の
に
ほ
ろ
ほ
ろ
と
鳴
く
朝
鳥
は
何
の
鳥
か
も
人
妻
に 驛 に
一
用
日
も
こ
な
も
け
れ
れ
ば
ど
日
女
に
な
三
き
度
宿
熊
は
料
ひ
理
そ
の
け
み
く
を
物
吾
足
に
ら
ぬ
は
も
せ
の
2
99
陰 へ む ん く の
氣 る づ と さ し
か て ぐ む
な
さ
し
る
の
き
一
赤 入
試
等
き 院
病
巾 詠
を
室
地
は
も
を
り
な
買
て
じ
ひ
み
て
院
來
來
し
て
ぬ
午
五
我
後
日
家
の
目
の
日
に
子
の
か
等
照
へ
に
る
る
土
衢
名
產
路
せ
か
は
大 け
る
の
深
く
積
り
し
一
つ
家
の
の
な
か
よ
り
馬
い
な
な
け
り
◆
登 昭
山 和
袋 十
一
ひ 年
し 七
姿 月
の 号
そ ︵
が 第
ひ 二
よ 十
り 九
朝 巻
日 第
は 七
さ 号
や ︶
に
射
し
ゐ
た
り
我 は
家 や
は
や
も
り
て
行
か
む
妹
ま
て
る
深
山
里
べ
の
し
づ
け
き
︵
八
︶
資料紹介
︶
アララギ
掲載歌 (
田中・中崎)
◆
弟 昭
が 和
十
り 一
越 年
し 九
た 月
る 号
ふ ︵
る 第
さ 二
と 十
の 九
山 巻
春 第
九
を 号
な ︶
つ
か
し
み
見
ひ る
る 郭 ぐ 馬 鳴 雲 び ひ
う く 雀 き そ
に
な 來 か
ち
や は
な
く
て
夜
る
春
あ
家
野
山
け
に
を
前
一
ゆ
を
よ
人
け
行
り
こ
ば
き
鳴
も
我
來
き
り
が
せ
は
居
乘
ば
じ
れ
れ
一
め
ば
る
日
日
か
若
を
ぐ
ぬ
駒
鳥
れ
ち
い
の
て
の
さ
こ
も
み
ゑ
鳴
の
髪
聞
く
ふ
き
物
く
る
て
見
ひ
ひ
ゆ
牧 り 黑 日
草 け ぐ の
を り ろ 光
と
光 に
み
う う
つ
せ せ
つ
た ゆ
ゐ
る き
た
ひ 久
る
と 方
緬
と の
羊
き
は
は き
怖
鳥 彼
る
も 方
る
飛 に
か
ば 星
小
な も
舎
く 見
へ
す え
走
く け
り
み り
か
た
へ
◆
色 ゆ 黑 り 蒼 日
日 昭
白
き
球
の 和
き は 日 光 十
日
の
コ
の
線
今 一
ロ に 歌 や 年
ま
に
ナ す
は
二
失 十
の す
り
つ
せ 月
な み
に
の
む 号
か て
赤
と ︵
球
に 一
き
す 第
黑 と
色
あ
る 二
ぐ き
球
り
時 十
ろ に
の
て
に 九
と 光
線
紅
地 巻
光 う
あ
さ
に 第
う せ
ざ
や
浪 十
せ た
や
に
う 号
た る
か
光
て ︶
る 黑
に
り
る
日 き
光
て
黑
の 日
れ
見
き
影 を
る
え
影
は 見
が
つ
見
あ る
見
ゆ
金
柑
の
こ
こ
だ
く
つ
き
て
熟
れ
し
實
を
吾
が
子
は
見
つ
つ
︵
九
守谷富太郎の
2
98
く 山 れ 三 し
あ の む つ き
歳 か
る
の な
か の
春
を
え
へ
て
て
ゆ
こ
く
と
朝
ご
な
と
夕
く
な
去
我
勢
が
さ
生
れ
き
ゆ
さ
く
ま
仔
は
馬
か
あ
そ
は
け
く 風
も
な
く
鳥
も
聞
え
ぬ
朝
ぼ
ら
け
し
づ
か
な
る
か
な
深
谷
の
お
へ
焔
は
見
え
て
新
ば
り
の
笹
く
を
夜
ふ
け
て
き
く
を
掘
り
薪
を
積
み
を
る
夫
婦
を
し
見
つ
つ
し
行
け
ば
な
ご
ま
◆
昭
和
十
一
年
八
月
号
︵
第
二
十
九
巻
第
八
号
︶
亡 た
き が
り
が ゐ
好 る
み
植
ゑ
た
る
縞
萬
年
靑
久
々
に
見
て
昔
お
も
ほ
ゆ
北海学園大学人文論集
小
雨
ふ
る
山
路
を
行
き
て
雲
間
よ
り
を
り
を
り
漏
る
る
日
光
こ
第5
8号(2
0
15年3月)
◆
狹 ら 風 見 美 去 鳥 り う 山 日 昭
間 散 も ゆ 深 年
そ 峽 も 和
町 の け
路 る な
ざ の す 十
い 春 る
き
の
む 畑 が 一
で 母 若
宿
し
き ゆ ら 年
て を 葉
屋
十
げ
驛 を
林
間
の
り
り の 一
も り を
小
を を 森 月
な て 山
の
發 り に 号
く 越 人
白
き
つ 響 繫 ︵
し は
き
澤
二 き が 第
の た か
ま
な
人 く れ 二
べ り か
で
か
づ る し 十
に し は
ア
ゆ
れ 鳴 馬 九
馬 峠 り
カ
新
は 子 夕 巻
と 今 な
シ
開
時 代 ぐ 第
ま 年 き
ヤ
り れ 十
計 の の 一
る も が
の
の
直 石
宿 若 如
花
号
赤
し 油 り ︶
と 葉 く
は
き
と
書 ど
日
崖
鑵 を
藥 の
け き ぎ
も
見
賣 お ぐ
る 越 行
す
ゆ
な と
壁 す く
が
し
き
か
な
黑 ぬ 黑 れ
き り
き
日
日
の
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右
今
の
し
下
ふ
よ
た
り
た
光
び
り
差
そ
し
め
そ
あ
め
は
し
れ
た
二
ま
た
ゆ
び
ら
明
の
る
光
く
う
な
る
り
は
◆
と 夕 た 古 ゆ 山 る 春 山 ゆ 露 ふ 山 む 母 昭
餉 し ぼ
が 和
し
植
の
を と け
と 十
を
げ
ゑ の
あ
し
へ
る 一
き
し
ら
ト
裏
背 年
み
山
薄 び
く
ラ
の
十
な
田
一 し
さ
ツ
畑
の 二
が
の
株 あ
ク
に
苺 月
ら
畦
穗 ら
も
を
立
を
を 号
に
に 草
こ
見
ち
行
杖 ︵
ふ
出 刈
の
て
出
く
る
つ 第
る
で 人
ご
山
で
き 二
さ
て
ろ
の
て
の
ら
て 十
と
さ 橋
は
子
蟲
赤
吾 九
の
ゆ の
ゴ
等
が
き
子 巻
變
ら 上
ム
一
は 第
り
ぐ に
の
生
を
冠
窓 十
果
さ 休
轍
に
聞
は
よ 二
て
ま む
の
一
く
穗
り 号
た
を 長
幾
度
妻
の
見 ︶
る
窓 き
す
乘
と
あ
つ
越 鎌
ぢ
り
わ
ひ
つ
を
に も
も
て
が
に
羨
お
見 ち
見
見
子
見
し
も
2
97
ほ
し
む
︵
一
〇
︶
資料紹介
︵
一
一
︶
守谷富太郎の
アララギ
掲載歌 (
田中・中崎)
◆
こ 覺 豆 昭
の え 腐 和
頃 ぬ つ 十
く 二
は
る 年
心
店 二
ゆ
な 月
く
き 号
ま
村 ︵
で
に 第
す
住 三
が
み 十
し
て 巻
さ
よ 第
の
り 二
柔
妻 号
か
と ︶
き
吾
豆
が
腐
子
つ
は
く
つ
り
く
馴
り
れ
◆
る か 秋 さ 朝 し 露 る 二 す 亡 昭
し か 三 が き 和
露
か ず 風
十
げ も 日 に
に
な か の
が 二
見
き
ぬ
ず 吹
好 年
ぬ
朝
れ
の け
み 一
間
の
し
木 る
し 月
に
峠
衣
の 峠
鈴 号
か
を
は
實 に
を ︵
く
越
日
う た
と 第
も
え
盛
れ た
き 三
ふ
く
り
ゆ ず
を 十
と
れ
に
く め
り 巻
れ
ば
な
故 ば
に 第
り
飛
り
里 雨
出 一
と
ぶ
て
の 雲
だ 号
妻
鳥
い
秋 ひ
し ︶
は
も
つ
戀 く
て
南
無
し
し く
振
瓜
く
か
く 峯
り
を
蟲
乾
も わ
ぬ
撫
が
く
な た
偲
で
か
り り
ぶ
て
も
な
に 行
よ
見
な
し
け く
來 る 山 お あ
む と 寺 も つ
年 き の ふ ぶ
す
鐘
は
ま
に
我
重
し
に
ね
ば
も
て
し
菊
も
は
を
な
目
つ
ほ
を
く
つ
れ
き
ぶ
よ
夜
る
と
に
降
は
し
り
言
く
つ
へ
病
も
ど
め
り
我
る
た
は
人
そ
氣
を
が
む
し
る
か
た
る
か
な
吹
き
す
さ
ぶ
吹
は
や
み
て
山
の
う
へ
に
圓
か
な
る
月
冴
え
わ
か
り
け
り
な
が
き
年
日
課
と
な
し
て
振
り
來
つ
る
亞
鈴
ふ
れ
ぬ
日
は
寂
し
◆
昭
和
十
二
年
三
月
号
︵
第
三
十
巻
第
三
号
︶
2
96
ぎ
居
る
人
ア
ラ
ラ
ギ
第
三
十
巻
︵
昭
和
十
二
年
︶
た
夜 く 馬 北 ぐ
ふ り
打 國
も
か
ち に
す
き
て 育
が
深
あ ち
ら
山
か て
の
と 栗
の
庵
き の
川
に
木
邊
つ
き も
に
つ
峠 花
火
ま
路 も
を
し
の 知
た
く
吹 ら
き
豆
ぬ
て
腐
の 吾
セ
を
な が
メ
ひ
か 子
ン
で
を に
ト
て
我 栗
の
新
は を
凍
年
越 語
り
を
え れ
ふ
ゆ り
せ
北海学園大学人文論集
夜
ふ
け
て
あ
な
さ
び
し
も
よ
山
峽
に
ひ
び
く
鈴
み
た
り
き
馬
橇
の
◆
し 吹 昭
和
し 十
て 二
往 年
來 七
と 月
ま 号
れ ︵
る 第
籠 三
り 十
日 巻
に 第
藏 七
書 号
目 ︶
つ
く
り
て
た
ぬ
第5
8号(2
0
15年3月)
◆
か り 氷 さ あ く お る 落 昭
葉 和
な る も
解
ず
十
あ か お
け
か
の 二
も
は
て
ず
苔 年
と
れ
な
の
の 四
茂
堅
ほ
ホ
靑 月
り
く
も
ル
き 号
つ
凍
動
モ
を ︵
ら
り
か
ン
濡 第
な
て
ぬ
あ
ら 三
る
動
金
り
し 十
原
け
魚
と
つ 巻
始
ざ
等
け
つ 第
林
る
は
だ
四
あ
金
腹
も
の 号
は
魚
を
の
ひ ︶
れ
の
横
の
そ
い
氷
に
け
づ
と
し
く
べ
か
た
を
の
す
だ
と
の
果
ま
に
り
雨
に
ど
ふ
盡
ろ
べ
べ
杣
が
伐
る
澤
に
た
だ
よ
ふ
大
の
香
に
し
み
て
心
な
ご
み
ぬ
こ
も
れ
り
夜
も
晝
も
た
だ
ご
う
ご
う
と
吹
き
つ
の
る
吹
の
を
聞
き
て
明
け
は
な
つ
高
山
の
秀
に
朝
日
子
の
輝
き
そ
め
て
雲
赤
く
見
ゆ
村
長
も
學
長
も
上
衣
ぬ
ぎ
を
ま
き
け
り
白
の
う
へ
に
た
ま
き
は
る
命
を
つ
な
ぐ
一
年
の
米
を
買
ひ
得
て
心
や
す
け
し
み
て
聞
く
夜
す
が
ら
の
吹
も
や
み
て
あ
か
と
き
の
長
鳴
く
北 ず
國
の
深
山
里
べ
は
菊
の
花
き
さ
か
る
頃
は
降
を り
す 積
が む
し
◆
學 來 川 昭
西 ぬ 夕 て な
る の 和
だ べ
山
面 十
れ り に
の
の
を 二
い
た
夕
と 年
ま
る
を
ざ 五
だ
峠
の
し 月
行
の
ぞ
を
て 号
か
崖
み
し
張 ︵
ざ
に
て
み
り 第
る
眞
今
じ
し 三
小
靑
夜
み
氷 十
わ
な
ま
と
の 巻
ら
る
た
五
上 第
べ
笹
い
月
お 五
等
む
た
ぶ
も 号
ひ
ら
も
り
き ︶
ね
す
凍
に
橇
も
が
ら
妻
ひ
す
し
む
と
き
日
を
な
馬
を
光
妻
が
つ
掘
も
は
む
れ
り
さ
恐
る
て
て
し
れ
2
95
︵
一
二
︶
資料紹介
は
る
か
に
も
天
を
か
ぎ
れ
る
高
山
に
の
こ
る
か
白
き
線
見
︵
一
三
︶
守谷富太郎の
アララギ
掲載歌 (
田中・中崎)
◆
に つ 新 か 日 春 昭
太 け
き り の
な ご 和
は ら
べ
芋
ら と 十
ぶ し
の
す
べ に 二
き く
い
り
て 庵 年
の
ま
て
山 に 八
に
だ
路 ち 月
花
芽
ぶ
往 か 号
せ
ぶ
る
來 く ︵
き る
か
朝
し 巢 第
た 大
ぬ
ご
朝 を 三
る 熊
木
と
覺 あ 十
一 の
の
に
は め 巻
株 ふ
忝
疲 る 第
を か
に
な
れ 背 八
き
鳴
し
を 黑 号
足
罐 跡
け
と
お 鶺 ︶
に 見
る
君
ぼ 鴒
植 つ
鶯
を
ゆ 今
う つ
さ
お
老 年
心 さ
や
も
い も
足 び
に
ふ
の 來
る し
見
も
至 た
が も
て
る り
◆
も 夕 も 出 ば 深 朝 け 今 し 國 昭
山 靄 り 日 摘
和
征
話 ぐ
べ の
の
も む く 十
す る
も 下
兵
老 二
ま
る
春 り 驛 た
を
い 年
圍
さ ゐ
出
の 九
雨
爐
の
り し 朝 か
だ
い 月
裡
に づ
せ
の 号
と
に
け め
る
ち ︵
ば
や
り る
家
を 第
か
ま
紅 山
に
か 三
り
べ
の 行
立
な 十
目
し き
ち
し 巻
ざ
き
う て
國
み 第
む
な
り 白
旗
て 九
れ
が
の 樺
あ
山 号
ば
ら
若 林
ふ
田 ︶
靄
釣
芽 さ
ぎ
の
降
の
ひ び
て
り
手
ろ し
に
思
し
柄
ご き
つ
ひ
づ
を
る ろ
く
ふ
み
こ
見 か
づ
か
鶯
も
れ も
く
し
ご
2
94
母
と ぎ
え
の
雨
の
一
日
を
し
づ
や
か
に
語
り
く
ら
せ
り
妻
と
そ
の
山
寺
の
鐘
は
ひ
び
け
り
や
み
し
春
の
彼
岸
の
夕
ぐ
れ
ど
き
に
豆 ま ラ 杣
腐 ち ン が
プ 伐
屋
と る
も
も 斧
な
す お
き
天 と
山
鹽
里
の く
を
山 木
出
ゆ 靈
で
出 す
て
で る
來
く た
て
れ そ
旭
ば が
川
電 れ
町
燈
に
あ き
物
か 山
を
る の
買
し
ひ
旭 處
居
川 ゆ
り
ほ い 岩 く 百 ゆ
ゆ と 魚
草
け 住
の
な む
花
き つ
吾 め
き
兒 た
さ
を き
か
と 水
る
も の
な
な
か
ひ 崖
に
こ に
居
の 櫻
て
山 た
と
に づ
き
片 ね
に
栗 て
高
つ も
ま
み の
る
し 思
川
昔 ひ
の
お を
も り
聞
北海学園大学人文論集
山
ふ
か
き
驛
の
一
夜
し
づ
か
な
り
み
行
く
代
の
も
の
の
風
折
れ
の
朽
木
に
よ
ぢ
て
童
ら
は
蛇
の
卵
を
取
る
と
さ
わ
げ
り
よ
た
よ
た
と
深
谷
川
の
吊
橋
を
ゆ
さ
ぶ
り
な
が
ら
渡
る
小
童
り
て
居
り
◆
昭
和
十
二
年
十
一
月
号
︵
第
三
十
巻
第
十
一
号
︶
く 吹
く
風
も
戀
し
く
な
れ
る
狹
間
路
に
山
川
の
さ
や
け
く
ぞ
聞
第5
8号(2
0
15年3月)
◆
鍛 や る 驛 低 昭
老 し 在 く 朝 こ
ま ゑ き 冶 ま
母 居 り
山 和
ま の べ
だ
に り し
の は 十
で
き
日
妻
夜 色 二
釣
若 す り
山
の
の
ふ と 年
葉
路
看
け り 十
に
し
を
が
護
の ど 月
う
げ
か
を
雨 り 号
か
れ
よ
れ
た
に に ︵
ら
る
ふ
た
の
明 萌 第
を
澤
生
る
み
日 え 三
出
な
徒
縞
お
越 出 十
し
か
等
萬
き
え で 巻
て
に
は
年
心
む て 第
た
こ
虎
靑
の
十
雷
だ
だ
杖
妻
こ
号
の
光
一
ま
の
と
し
高 ︶
人
峠 山
し
若
日
て
こ
お 紺
て
芽
向
山
も
も 色
け
に
路
れ
ひ に
り
べ
植
い
る
つ 見
郭
つ
ゑ
そ
庵
つ ゆ
つ
替
げ
に
の
行
へ
り
◆
書 み 穗 行 た の さ ら み 昭
讀 る 芒 く わ ぼ は し ど 和
め
り 十
わ る や
の
る
濃 二
け
に
さ
ラ
き 年
き
も
ゆ
ン
十
天
稔
ら
プ
べ 二
つ
れ
ぐ
に
の 月
光
る
下
す
森 号
の
山
に
が
に ︵
ふ
田
狸
る
こ 第
り
か
一
こ
こ 三
そ
へ
つ
こ
だ 十
そ
り
置
だ
く 巻
ぐ
見
き
く
の 第
梅
て
て
の
懸 十
雨
心
見
蛾
巢 二
ば
や
た
を
さ 号
れ
す
し
拂
や ︶
の
げ
と
ひ
げ
畑
に
常
つ
り
ゆ
兵
お
つ
秋
息
出
も
汗
た
で
ひ
た
か
ち
て
2
93
に
出
で
ゆ
く
兵
を
し
み
じ
み
と
思
ひ
つ
つ
行
く
雨
の
峠
を
く 汽
車
の
ご
と
と
ど
ろ
き
來
る
山
川
の
高
鳴
る
を
背
向
よ
り
聞
き 角 も
き 力 な
く
居
り
か
む
と
つ
け
し
ラ
ヂ
オ
に
て
の
た
よ
り
日
々
に
︵
一
四
︶
資料紹介
ば 薄
荷
蒸
す
か
ら
き
香
り
は
た
だ
よ
へ
り
木
枯
す
さ
ぶ
峽
路
ゆ
け
︵
一
五
︶
守谷富太郎の
◆
と お し し 豐 昭
り と ぐ び 秋 和
の 十
れ
よ
薄 三
降
ろ
荷 年
る
ふ
蒸 三
山
山
す 月
路
脈
夜 号
を
な
の ︵
行
べ
く 第
き
て
だ 三
て
落
ち 十
落
葉
ゆ 一
葉
せ
き 巻
ふ
り
第
む
山
三
我
の
に 号
に
庵
見 ︶
な
に
ゆ
づ
る
さ
ち
里
ふ
か
の
谷
づ
と
水
き
も
の
ぬ
◆
覺 一 昭
え 杯 和
ず の 十
酒 三
も 年
五
み 月
得 号
ず ︵
す 第
ご 三
し 十
來 一
て 巻
わ 第
り 五
な 号
き ︶
こ
と
の
あ
り
と
アララギ
掲載歌 (
田中・中崎)
◆
白 山 き 月 日 か た 昭
路 く 夜 の へ ま 和
よ か り き 十
の を
み ね く は 三
つ あ
る る 年
ひ る
山 命 一
き
な き
路 愛 月
夜
る 疲
に し 号
ふ
花 れ
秋 み ︵
け
は て
の 秋 第
て
一 つ
日 ば 三
さ
朝 く
は れ 十
び
の ね
く の 一
し
霜 ん
れ 朝 巻
め
の と
て の 第
る
白 岨
峠 一
心
き の
き を 号
い
に 巖
よ 落 ︶
た
た に
り 葉
は
だ 腰
聞 ふ
り
に か
く み
蟲
素 け
彼 行
が
枯 て
岸 く
れ 居
中
を
ぬ り
◆
の 誰 が 新 い 靑 馬 外
眞 た 昭
橇 套 か 白 た 和
傍 れ 子 よ ろ
を も も な に か 十
に 誰 は め
帽 く も ひ 三
見
を
れ
降 に 年
ざ ら 子
の
り 命 四
る ぬ も
へ
相
つ は 月
も ふ 持
し
撲
む て 号
こ か た
相
を
こ き ぬ
撲
た ︵
を る 第
北
に
の
は
な 夫 三
幾 の 國
好
つ 譽 十
月 山 の
け
む
か む 一
か わ 子
た
か
し る 巻
明 れ 等
る
と
み 村 第
け 一 は
に
子
笹 の 四
く 人 吹
心
は
生 女 号
れ に
い
訊
の の ︶
に て の
た
き
あ 心
み 汗 中
め
て
た な
る た を
居
居
り げ
り お
り
り
見 か
の て そ
妻
ラ
れ ゆ
ひ 行 れ
と
ヂ
ど
と く ず
我
オ
2
92
ア
ラ
ラ
ギ
第
三
十
一
巻
︵
昭
和
十
三
年
︶
み 往
行 診
く に
落
葉
ふ
み
つ
つ
朝
ぼ
ら
け
靑
木
鳥
の
こ
ゑ
な
つ
か
し
北海学園大学人文論集
永 ひ 牛
き た 糞
し の
山 と 火
の 思 の
庵 ふ 上
に
の
明
き
暮
た
は
る
た
ヂ
だ
ン
降
ギ
り
ス
つ
カ
も
ン
る
料
理
の
ひ
ひ
と
と
た
い
び
ろ
◆
昭
和
十
三
年
九
月
号
け ︵
ど 第
三
古ふ
●
づ 十
妻ま
一
쐍
5
の︶ 巻
姿 第
の 九
見 号
え ︶
ぬ
家
の
さ
び
し
さ 今
朝
も
ま
た
郭
◆
昭
和
十
三
年
六
月
号
︵
第
三
十
一
巻
第
六
号
︶
第5
8号(2
0
15年3月)
見 日 は 十 り と な ひ と
ず く
よ し ね
年
子 ゆ も
だ
の
も
も
の
す
ひ 三
く
上
す
せ
昔
が
ぬ 人
だ
に
を
る
と
ら
さ
と
長
長
吹
な
吹
む
理
き
き
り
き
を
垂
垂
の
ぬ
き
如
云
氷
氷
い
て
月
ひ
ゆ
ゆ
を
と
暮
の
て
垂
垂
聞
け
る
ゆ
人
る
る
き
な
る
ふ
を
雫
し
な
き
西
ぐ
何
づ
が
吾
れ
ふ
か
く
ら
子
に
に
る
な
夕
山
を
わ
手
禁
寂
と
の
深
づ
打
酒
し
な
庵
山
か
う
論
ぽ
れ
の
の
に
ど
た
ば
朝
旅
赤
ん
の
り
凍
茶
に
き
を
ぽ
み
の
夕
つ
に
た
て
か
れ
映
く
あ
り
を
し
の
り
ら
て
深 き さ と 別 ぬ 東 ま は み 亡 ぶ 大 か お
京 せ は 居 き し き も も
び 夜 れ
山
の り そ り
し を て
べ
き
も
茂
さ
は
に
橇
澤
が
は
吉
に
何
ひ
に
老
の
も
堪
れ
を
き
こ
い
母
金
へ 別 の
五
て
だ
て
を
て の
月
汗
ま
の
き
宴 日
く
を
に
こ
た
し
後
ま
れ
り
か
も
る
つ
の
し
た
を
ま
れ
馬
ぎ
か
て
り
り
た
ど
の
つ
ず
そ
と
隣
會
も
毛
ぎ
か
の
宮
び
は
春
に
に
ず
の
島
と
む
は
眞
伐
の
ち
詣
深
語
ま
白
ら
手
の
で
山
り
だ
の
る
紙
の
の
あ
な
つ
る
見
は
た
庵
か
り
ら
古
出
年
よ
に
せ
ら
木
し
ご
り
時
よ
十
見
見
な
と
に
代
今
尺
ゆ
つ
つ
旅
あ
語
ま
る
つ
か
に
り
り
ひ
り
朝
さ
し
出
2
91
︵
一
六
︶
資料紹介
雨
降
に
傘
持
た
ぬ
子
等
お
の
も
お
の
も
六
尺
に
あ
ま
る
蕗
か
ざ
︵
一
七
︶
◆
昭
和
十
三
年
十
一
月
号
︵
第
三
十
一
巻
第
十
一
号
︶
守谷富太郎の
アララギ
掲載歌 (
田中・中崎)
◆
靜 く 靑 を 山 り 百 昭
若 釣 川 を 鳥 和
か
の 十
葉 り の
な
三
か に 水
る
け 年
も
を
山
る 十
や
る
の
狹 月
う
深
間 号
や
山
處
の ︵
く
の
の
朝 第
澄
そ
驛
ぼ 三
み
の
ら 十
て
息
に
け 一
來
吹
一
す 巻
ぬ
そ
日
が 第
い
の
こ
し 十
ざ
山
も
み 号
行
息
れ
て ︶
き
吹
り
行
て
か
鳥
く
見
な
が
春
む
し
の
山
み
を
か
女
て
聞
を
魚
行
を き
か
り
け
り
家
裏
の
原
始
林
に
燃
え
う
つ
り
夜
も
す
が
ら
見
る
火
の
渦
◆
夕 鳥 つ 足 く 海 し 昭
猫 づ 和
ば 引
陽
は か 十
ら の
は
に 三
か 山
狹
く も 年
の の
間
に 驛 十
聲 庵
に
二
鳴
も の
映
き の 月
い あ
え
て 夜 号
つ け
て
暮 は ︵
し く
虹
れ 明 第
か れ
た
な け 三
山 は
ち
づ に 十
を た
ぬ
む け 一
移 だ
山
山 り 巻
り 鳥
も
を 朝 第
氣 の
里
あ 床 十
こ
べ
か に 二
く ゑ
も
る 聞 号
な 百
美
く く ︶
れ 鳥
し
朴 鶯
る の
く
の の
佛 こ
見
花 こ
法 ゑ
ゆ
ゑ
2
90
行
き
け
り
は
る
ば
る
と
秋
田
あ
が
た
ゆ
訪
ね
き
て
た
だ
一
夜
て
か
へ
り
か
す
か
な
る
我
に
似
し
人
ひ
ろ
き
世
に
一
人
ぐ
ら
ゐ
は
あ
る
べ
朝
な
が
め
夕
眺
め
し
て
鐵
線
の
く
待
ち
か
ね
つ
紫
の
は
な
雨 の ふ
ふ み り
づ
り
ま
の
と
滑
夏
る
の
峠
旅
を
行
夜
く
ふ
斯
け
る
て
こ
妻
と
と
十
越
年
し
の
け
う
り
ち
提
に
灯
た
つ
だ
け
一
て
度
佛 畑 な
法 に よ
な
よ
鳥
と
き
亞
き
て
は
伸
れ
び
ば
け
家
り
裏
み
の
原
の
始
さ
林
わ
に
ぎ
も
も
一
よ
つ
そ
鳴
き
の
ゐ
深
る
山
長 し
き ゆ
鎌 く
も
ち
て
草
刈
る
人
寄
り
て
お
ほ
に
話
せ
り
み
の
こ
と
北海学園大学人文論集
し た
ろ ち む
割
れ
ば
赤
き
西
瓜
の
そ
こ
ら
く
を
霧
の
朝
に
も
ぐ
も
お
も
山
の
夜
は
や
う
や
く
け
ぬ
白
雲
の
べ
の
人
を
戀
ひ
つ
つ
ぞ
ぞ 夜 て 朝
讀 も 行 し
む す く ぐ
れ
が
し
ら
ぐ
ラ
る
ン
る
プ
山
の
路
芯
ぬ
を
れ
か
な
き
が
あ
ら
げ
そ
て
の
漢
山
口
時
雨
の
こ
た
ほ
よ
し
り
み
を
第5
8号(2
0
15年3月)
◆
昭
和
十
四
年
二
月
号
︵
第
三
十
二
巻
第
二
号
︶
◆
お 世 風 夕 く 幸 昭
い な
ぐ に ひ 和
そ か を と を
彼 の
は 十
れ
い
く
岸 か
た 四
て
と
り
だ 年
さ
ふ
て
み
一
わ
深
一
古
け 月
だ
山
人
き
き 号
ち
住
聞
撫
人 ︵
に
ひ
き
順
の 第
け
に
け
の
も 三
り
あ
り
炭
の 十
穗
ら
慈
富 二
に
ね
悲
の
み 巻
出
ど
心
琥
て 第
で
も
鳥
珀
得 一
し
柴
深
の
ら 号
唐
の
霧
珠
る ︶
黍
こ
ぞ
る
畑
を
め
こ
も
を
吹
て
れ
の
ゆ
く
の
な
り
秋
き
念
ら
渡
風
眞
珠
な
る
の
夜
は
◆
昭
和
十
四
年
四
月
号
︵
第
三
十
二
巻
第
四
号
︶
◆
ふ 落 き 水 せ か 女 昭
葉 を 垂 ら ぐ 郎 和
る ぎ ろ 花 十
せ
る
る
く ま 四
崖
山
も た 年
を
一
葡 藤 三
の
と
萄 袴 月
ぼ
こ
熟 吾 号
り
ろ
れ 木 ︵
て
常
ゆ 香 第
家
磐
三
く
づ
木
朝 き 十
と
の
ぼ の 二
に
み
ら ま 巻
ど
け が 第
膽
り
た ひ 三
つ
見
だ に 号
み
え
に た ︶
ぬ
つ
も
そ
つ
し と
の
き ほ
む
は
谷 り
ら
來
の つ
せ つ
さ
向
2
89
ア
ラ
ラ
ギ
第
三
十
二
巻
︵
昭
和
十
四
年
︶
ひ
つ
れ の さ
り た び
よ さ
り に
聞
く き
ご 雨
と 降
に り
手
握 の
り べ
て の
ま 埃
す つ
ら き
武 た
夫 る
を 草
し を
の 洗
び へ
ま り
竹
弓
に
よ
も
ぎ
の
矢
そ
へ
お
ど
し
け
り
西
瓜
畑
を
荒
す
鴉
を
︵
一
八
︶
資料紹介
守谷富太郎の
アララギ
掲載歌 (
田中・中崎)
◆
向 紅 い ぼ 見 も あ そ 山 昭
つ 葉 つ と れ
住 和
ざ
峯 に し ぼ ど
ひ 十
や
の
久 四
か
か
高
し 年
に
か
に
き
く 五
紅
ぬ
渡
紅
な 月
葉
紅
ら
葉
り 号
し
葉
ふ
に
て ︵
に
の
秋
降
春 第
け
錦
も
る
秋 三
る
こ
ふ
の 十
深
ほ
け
は
移 二
谷
し
に
八
ろ 巻
の
み
つ
入
ひ 第
紅
て
つ
の
も 五
に
秋
紅
は 号
な
ば
に
や ︶
づ
れ
降
白
な
さ
の
れ
く
つ
ふ
峠
り
つ
か
朝
さ
一
も
し
の
や
人
れ
み
霧
の
り
と
こ
か
︵
一
九
︶
◆
山 り 一
帝 ぬ い 昭
年 碧 王 人 と 和
も
を 巖 も を ま 十
川
焚
も
あ 四
埃
く
野
り 年
と
ほ
べ
て 七
す
ど
も
一 月
て
の
里
人 号
て
薪
べ
靜 ︵
長
も
か 第
江
の
五
に 三
を
上
十
居 十
ひ
に
年
る 二
と
積
の
時 巻
り
め
名
し 第
の
ば
想 七
君
す
は
ひ 号
は
が
つ
出 ︶
渡
し
き
づ
り
も
ず
る
ゆ
生
別
か
き
木
れ
な
け
の
ゆ
め
香
く
ら
ら
ひ
つ
つ
乏 し 群 び い
し も 山 し さ
の ゑ さ
さ
か
紅
も
の
葉
馴
薄
も
れ
荷
や
に
作
が
け
り
て
る
て
天
か
地
な
し
の
山
く
な
住
も
し
み
老
の
も
い
ま
久
ゆ
に
し
く
ま
く
民
に
な
を
散
り
思
ら
て
へ
ま
滿
ば
く
ち
さ
惜
足
◆
す 子 た お こ に 來 る あ 昭
む お り 和
と 供 た と も
年 と な 十
り
ら な
し 四
も
沼
が は
の 年
我
の
取 る
風 六
す
菱
り 群
に 月
こ
も
の 山
も 号
や
い
こ 脈
あ ︵
け
つ
し の
る 第
く
し
た
か 三
秋
か
る に
か 十
に
素
霜 し
す 二
あ
枯
が て
か 巻
ひ
れ
れ 常
な 第
落
ゆ
の 世
る 六
葉
き
山 さ
山 号
ふ
葦
葡 び
の ︶
ま
群
萄 せ
庵
ば
に
と る
に
や
寄
り 志
木
こ
す
ぬ 文
の
の
る
家
葉
山
苞 村
散
の
に
2
88
北海学園大学人文論集
◆
昭
和
十
四
年
九
月
号
︵
第
口
三
氏
十
の
二
賜
巻
び
第
し び 九
芋 き 号
入 ぬ ︶
れ 熊
て と
甘 り
が
つ 妻
く
大
羆
と
れ
し
夕
べ
に
山
峽
に
夕
ぐ
れ
て
鳴
く
郭
鳥
わ
ら
は
べ
二
人
眞
似
な
が
ら
行
き
の
ふ
の
朝
爺
が
捕
り
た
る
羆
の
肉
走
る
に
は
き
仔
馬
よ
短
き
尾
ふ
り
ふ
り
細
き
ほ
そ
き
足
も
て
◆
昭
和
十
四
年
十
一
月
号
︵
第
三
十
二
巻
第
十
一
号
︶
衣 を お
を り も
を か
り げ
に
出
し
て
偲
べ
り
は
は
そ
は
の
母
が
織
り
た
る
紬
の
の
み
の
が
か
た
み
の
手
紙
に
し
の
ぶ
老
い
た
る
が
旅
の
第5
8号(2
0
15年3月)
◆
ろ 淺 に 朝 き い 昭
ま 朝 そ 和
み
い 十
だ
ど
そ 四
き
り
と 年
石
み
妻 八
蕗
ど
は 月
摘
り
蒸 号
め
に
︵
り
萌
水 第
ゆ
を 三
ど
る
と 十
け
家
り 二
の
裏
は 巻
冷
の
じ 第
た
川
む 八
き
邊
春 号
水
に
雨 ︶
の
つ
け
ま
づ
ぶ
だ
く
る
石
う
さ
蕗
そ
ぬ
の
間
い
◆
ひ り 眞 ず 山 か 山 手 昭
淸 も ふ き ふ 作 和
そ
か
水
や
か り 十
き
の
か
く の 四
靑
流
に
辨 年
き
れ
春
け 當 十
淵
か
の
し 持 月
べ
そ
雨
づ た 号
に
け
ふ
も せ ︵
日
き
り
り 妻 第
も
深
て 子 三
す
谷
谷
聞 ら 十
が
に
の
き を 二
ら
朽
淵
に 山 巻
け 陰 第
眞
ち
べ
り の 十
白
て
に
そ 村 号
き
折
冴
の に ︶
水
れ
ゆ
春 花
た
る
雨 見
め
る
若
の に
ぐ
橋
苔
や や
り
一
の
は れ
や
つ
い
ら り
ま
あ
ろ
2
87
ろ
生 隣 母
る り 子
に し
も て
そ 鰊
の 漬
隣 け
り 居
に り
も う
こ す
ち が
ご す
ち み
に 櫻
春 花
べ さ
と く
な 山
れ の
ば た
馬 そ
の が
仔 れ
え
の
は
す
が
し
も
椴
身
に
老
母
滿
洲
行
の
靑
き
に
ぞ
染
む
春
の
陽
の
い
向 れ
つ り
麓
の
山
櫻
さ
き
し
か
と
望
鏡
と
り
出
し
窓
あ
け
て
見
る
︵
二
〇
︶
資料紹介
守谷富太郎の
アララギ
掲載歌 (
田中・中崎)
◆
な 日 く 朝 お 軒 り た 昭
な ほ 下 居 ま 和
り も
さ へ に り ゆ 十
す
ら 四
な り 蘚
が
の 年
む
移
ら
つ 十
し
し
郭
よ 二
に
植
き 月
け
ゑ
鳴
雷 号
り
た
き
雨 ︵
い
る
て
に 第
つ
甘
あ
眞 三
し
藍
た
盛 十
か
に
た
り 二
も
妻
か
の 巻
お
ね
し
接 第
の
も
北
骨 十
づ
こ
國
木 二
か
ろ
の
の 号
ら
に
山
花 ︶
生
蕗
も
濡
ひ
の
す
れ
地
葉
で
て
表
を
に
垂
を
か
夏
︵
二
一
︶
◆
さ し 黴 濃 昭
臭 綠 和
綠
き の 十
の
ぬ お 五
笹
る ど 年
の
き ろ 二
新
茶 が 月
葉
を な 号
の
か ︵
ひ
み に 第
ろ
紫 三
び
は の 十
ろ
め あ 三
と
ば や 巻
ひ
驛 め 第
ろ
ふ 二
ご
の ふ 号
る
室 み ︶
見
な て
れ
ほ 朝
ば
か の
夏
び 雨
く 降
け
さ る
に
く 海
猫
は
こ
の
山
に
巢
を
あ
む
か
海
に
居
ら
ず
て
山
に
來
て
鳴
か
ぶ
か
と
富
人
と
移 な
住 り
て
北
海
の
墓
ら
む
願
も
ち
は
る
け
く
も
來
し
人
々
の
墓
雨 ゑ 聞 く
け
あ
ど
と
の
か
月
ぬ
ほ
春
の
の
か
日
な
永
る
の
裏
日
山
も
に
す
佛
が
法
ら
若
の
葉
林
ご
の
ゑ
百
聞
鳥
け
の
り
こ
◆
夏 も 病 ぬ 明 く 山 昭
住 和
け
人
な
み 十
暮
の
が
も 五
れ
う
ら
久 年
の
る
木
し 一
心
さ
の
く 月
さ
き
く
な 号
ま
ま
れ
り ︵
ね
で
や
て 第
し
の
み
村 三
山
言
は
人 十
ふ
種
冷
の 三
か
も
え
誰 巻
く
一
び
れ 第
こ
日
え
彼 一
も
は
し
れ 号
れ
き
水
に ︶
る
か
垂
だ
家
ず
り
に
に
安
居
心
山
ら
れ
お
吹
け
り
き
き
苔
な
き
か
ふ
2
86
ア
ラ
ラ
ギ
第
三
十
三
巻
︵
昭
和
十
五
年
︶
北海学園大学人文論集
接
骨
木
は
紅
さ
や
に
熟
れ
に
け
り
夏
も
た
け
た
る
濃
み
ど
り
の
八
月
の
眞
陽
て
る
午
後
の
靑
を
豐
旗
雲
は
し
づ
か
に
動
く
◆
昭
和
十
五
年
四
月
号
︵
第
三
十
三
巻
第
四
号
︶
◆
こ 來 昭
そ む 和
年 十
も 五
ま 年
た 六
こ 月
む 号
年 ︵
も 第
秋 三
山 十
の 三
木 巻
の 第
實 六
拾 号
は ︶
む
す
こ
や
か
さ
む 思
は
ざ
る
金
が
手
に
入
り
こ
の
里
の
人
の
心
に
ゆ
る
み
見
え
そ
第5
8号(2
0
15年3月)
◆
洪 く 月 あ 山 昭
光 り 住 和
水
の け み 十
に
ひ り も 五
薄
日 年
か
荷
長 三
り
畑
く 月
さ
は
な 号
や
湖
り ︵
け
の
て 第
み
ご
妻 三
裏
と
子 十
山
今
ら 三
の
朝
を 巻
佛
ひ
い 第
法
ろ
と 三
び
ほ 号
鳥
ろ
し ︶
を
と
と
つ
靑
思
ば
き
ふ
ら
も
こ
か
の
と
に
け 見
も
き
り ず
秋
ば
れ
の
今
日
の
一
日
を
留
守
居
し
て
一
人
厨
に
化
石
◆
つ 朝 て し 會 去 稚 紅 昭
み ひ 年 き 葉 和
時
み
雨
兒 ひ 十
り 等 と 五
に
し
し を つ 年
も
ぐ
崖 集 靑 五
伸
る
に め き 月
び
る
て
し
野
号
膽 ね に ︵
薄
路
ま も 散 第
荷
の
た ご り 三
の
ろ て 十
香
あ
り に 來 三
は
ら
ぬ 體 ぬ 巻
高
れ
我 し 秋 第
し
霰
す ら ま 五
紫
は
こ べ だ 号
の
頰
や ぬ 淺 ︶
小
を
け 秋 き
花
い
く の 驛
幽
た
こ 一
か
き
の 日 の
に
ま
秋 を ひ
で
に
き
打
る
2
85
せ 深 け
り 谷 り
の
く
ら
き
底
ひ
に
濡
れ
な
が
ら
化
石
を
る
と
石
割
り
を
ふ
り
妻
の
四
十
六
度
の
生
日
今
日
ぞ
壽
ぐ
す
こ
や
か
に
し
て
も
け
り
母
も
も
母
も
兄
も
き
ふ
る
さ
と
く
我
も
老
い
猫 も 泥 森
の の か
を ぶ
れ
の
る
み
薄
て
荷
育
畑
ち
を
し
見
仔
る
狸
さ
が
へ
座
も
敷
大
一
洪
ぱ
水
い
の
走
あ
り
と
ま
は
は
寂
り
し
居
き
︵
二
二
︶
資料紹介
守谷富太郎の
アララギ
◆
り
昭
り ゆ に 圍 子 を
き
爐 供
和
く
さ 十
の
裏 ら
り
び
邊 の
五
な
し 年
え
に 多
く
菊 七
た
う き
も 月
る
か 山
の
紫 号
後
ら 家
夕
苑 ︵
は
集 に
ぐ
も 第
ま
ひ 豚
れ
も 三
た
て と
山
ろ 十
も
芋 馬
蔭
伏 三
と
山
ゆ
せ 巻
の
へ 羊
新
り 第
月
り も
蕎
思 七
は
山
麥
は 号
照
木 も
打
ぬ ︶
ら
枯 兎
ち
時
せ
の も
て
に
り
さ
届
草
む へ
け
枯
き り
の
の
夕
れ
降
野
べ
け
み
し
身
の
︵
二
三
︶
い
つ
し
か
も
一
生
ぎ
き
て
う
ら
安
し
悔
い
な
き
に
い
そ
し
◆
久 日 か ら 大 昭
和 和
々 ぞ し
な 十
こ
に
る 五
く
な
吉 年
も
つ
野 九
大
か
の 月
み
し
山 号
み
み
の ︵
か
見
第
ど
る
ふ 三
が
ふ
か 十
ゆ
る
く 三
る
さ
巻
ぎ
と
夫 第
な
の
が 九
き
匂
と 号
國
ひ
り ︶
の
こ
し
礎
も
た
れ
の
て
る
し
ま
筍
し
し
の
む
し
皮
掲載歌 (
田中・中崎)
山 に 古 れ 荷 本
を あ
き
ひ ふ
つ ら
世
か
み の
の
く
て 白
も
河 萩
の
に
渡 さ
の
り き
ね
ゆ て
よ
つ
く
と
つ
影 々
耳
熊
長 の
澄
と
し 秋
ま
る
馬 の
し
と
車 さ
鈴
も
の
石
の
し を
ふ
も
ぶ あ
れ
の
き か
り
し
の る
秋
け
め
ふ
れ
き に
か
夕 せ
む
夫
ぐ り
夜
の
◆
衣 撮 べ 春 ぐ 日 火 も 故 昭
な を の 里 和
影 し 立
ら 焚 皆 の 十
ち
て せ
べ く の 秋 五
し
り
凍 の 年
て
心
今
れ 香 八
八
地
日
る り 月
百
も
の
朝 を 号
臺
せ
良
は な ︵
の
ね
き
起 つ 第
馬
ど
日
き か 三
橇
し
に
出 し 十
が
き
足
で み 三
木
た
て 思 巻
の
り
根
手 ひ 第
香
の
の
出 遙 八
匂
母
し け 号
は
が
も く ︶
し
の
織
な 柿
つ
豆
り
ら を
ぎ
も
け
ず む
つ
今
る
ひ き
ぎ
こ
た 居
に
ま
れ
に り
く
の
2
84
北海学園大学人文論集
丸
き
虹
天
の
眞
中
に
現
れ
て
け
り
え
そ
め
し
山
峽
の
村
驛 ま
で
の
夕
の
餉
は
大
皿
に
羆
の
を
山
盛
り
に
し
て
第5
8号(2
0
15年3月)
◆
石 り 局 か 一 昭
員 を 年 和
蕗
に り を 十
は
焚 五
無
秋
く 年
料
こ
ほ 十
種
そ
ど 一
痘
の 月
を
か
薪 号
な
め
を ︵
す
北
第
こ
國
の 三
と
は
上 十
が
春
に 三
し
に
積 巻
き
さ
め 第
た
き
ば 十
り
が
す 一
の
け
が 号
如
し ︶
こ
も
の
え
生
春
に
木
も
の
せ
く
◆
立 に 長 く 孫 昭
つ 和
靴
ち
れ 十
も
な
て 六
取
が
年
り
ら
へ 一
片
に 月
付
の
來 号
け
む
た ︵
て
た
る 第
地
め
山 三
下
に
陰 十
足
馬
の 四
袋
の
媼 巻
に
と 第
山
長
わ 一
路
く
が 号
し
つ
妻 ︶
行
く
つ
か
れ
れ
む
り
だ
神
ち
み
は
て
か
ゆ
ら
く
東
の
山
を
離
れ
て
上
り
け
り
き
彌
生
の
圓
き
月
か
げ
ア
ラ
ラ
ギ
第
三
十
四
巻
︵
昭
和
十
六
年
︶
2
83
山
川
の
氷
も
と
け
て
一
と
こ
ろ
久
々
に
見
る
水
の
す
が
し
さ
黍 て 据
風
の
呂
も
搗
や
き
う
て
や
供
く
へ
出
ぬ
來
乏
て
し
さ
び
の
來
山
ぬ
の
誂
庵
へ
の
し
春
よ
の
り
彼
五
岸
月
に
ぎ
に 夜
ふ
け
て
天
に
ひ
び
か
ふ
山
川
の
た
ぎ
つ
き
く
夢
も
や
す
ら
着
古
し
の
破
れ
衣
を
繕
は
む
糸
も
な
し
す
べ
あ
ら
ぬ
か
も
◆
昭
和
十
五
年
十
月
号
︵
第
三
十
三
巻
第
十
号
︶
千
年
の
年
輪
か
ぞ
ふ
る
良
木
も
山
な
れ
ば
無
價
木
と
云
ふ
◆
壽 れ 一 は 現 昭
司 は 昨 な 世 和
日 し に 十
つ
生 五
の
く
あ 年
暮
り
る 十
れ
羆
も 二
せ
を
の 月
ま
あ
も 号
る
ぶ
無 ︵
頃
り
き 第
と
も 三
り
生
の 十
た
日
も 三
り
こ
土 巻
と
と
に 第
大
ほ
か 十
き
ぐ
か 二
羆
庵
は 号
の
に
り ︶
し
鶯
持
し
啼
た
む
く
ざ
ら
も
る
こ
︵
二
四
︶
資料紹介
◆
る 山 昭
を ふ 和
か 十
き 六
川 年
べ 四
を 月
來 号
つ ︵
つ 第
見 三
守 十
れ 四
り 巻
綠 第
さ 四
や 号
け ︶
く
藻
の
ゆ
ら
げ
︵
二
五
︶
く 夜
の
ふ
け
て
月
光
さ
む
き
北
見
野
の
ま
だ
見
ぬ
村
を
街
を
旅
ゆ
◆
昭
和
十
六
年
六
月
号
︵
第
三
十
四
巻
第
六
号
︶
守谷富太郎の
アララギ
掲載歌 (
田中・中崎)
◆
晝 る 雨 山 ら 生 昭
の 川 に 徒 和
も
ら 十
峠 の
な
は 六
親 岸
ほ
破 年
馬 べ
れ 三
の に
き
ゴ 月
後
峠
ム 号
へ く
の
靴 ︵
に ひ
頂
に 第
濡 と
に
三
れ と
汗
た 十
ぬ こ
ふ
て 四
れ ろ
き
て 巻
て 白
な
朝 第
仔 き
が
の 三
馬 砂
ら
山 号
つ に
熊
︶
き 水
を
は
ゆ 草
氣
し
く の
に
や
筵 靑
せ
ぎ
を
り
な
着
が
た
◆
れ か 一 き 北 昭
ろ
こ の り に 人 ず 見 和
か 子
れ べ
な 十
く の
の
る 六
に
お
野 年
話 組
ど
付 五
ま す
ろ
の 月
と る
が
宿 号
め と
な
に ︵
て
か
二 第
安 吾
に
夜 三
ら は
立
十
け
ち
て 四
く く
古
今 巻
月 北
り
朝 第
あ 見
し
か 五
か の
へ 号
き 秋
浦
り ︶
ゆ
夜 を
く
を 旅
官
名
一 せ
の
人 り
跡
は
ね
ど
つ
む
こ
2
82
◆
ぬ お 朝 る 古 月 昭
大 あ 和
子 の ま
豆 か 十
等 も だ
肥 き 六
お き
料 夜 年
の 郭
に ふ 二
も
せ け 月
太 鳴
む の 号
き け
︵
と
蕗 り
春 に 第
と 澤
雨 下 三
り ぐ
の り 十
か る
降 立 四
ざ み
る ち 巻
し 靑
日 て 第
來 き
す 佛 二
ぬ た
が 法 号
學 り
︶
ら
花
妻 の
か 垂
は
へ る
汗 聲
り る
流 き
傘
し け
持 に
り
た
り も ゑ 朝 の 穗
日 香 に
ろ
出
光
も
で
い
ろ
し
ろ
の
燕
づ
花
麥
く
す
畑
雲
ぎ
の
の
ゆ
す
う
き
が
ご
し
し
き
傍
さ
居
に
よ
り
白
風
夏
萩
が
も
た
も
た
か
て
け
く
く
た
伸
る
る
び
か
百
て
ら
鳥
ふ
す
の
ふ
麥
こ
め
北海学園大学人文論集
山
住
み
も
け
長
く
な
り
て
吹
き
せ
ぬ
靜
か
な
る
夜
は
も
の
足
々
の
蟲
も
減
り
ゆ
き
山
ふ
か
き
庵
の
ほ
と
り
木
の
葉
ち
る
々
に
し
て
◆
に し 昭
喜 げ 和
ぶ し 十
げ 六
と 年
十
が 一
月
見 号
て ︵
手 第
を 三
握 十
り 四
ま 巻
だ 第
生 十
き 一
て 号
居 ︶
る
と
ひ
た
◆
ほ り 朝 昭
し 和
し
ぐ 十
い
れ 六
ま
枯 年
ま
野 八
に
に 月
生
現 号
き
れ ︵
て
し 第
も
二 三
行
重 十
か
虹 四
な
巻
人
ゆ 第
の
く 八
子 号
ふ
ら ︶
み
と
あ
立
や
ち
ま
て
ら
仰
ぬ
げ
第5
8号(2
0
15年3月)
が あ ひ 打
行 ら む 橋
く れ が に
ま し つ
じ の も
り 珍 る
時 の
雨 光
降 の め
り さ づ
し し ら
く そ し
村 め み
て 渡
を 麓 れ
薪 べ ば
の
用 く る
事 朝 兒
を の ら
も 虹 が
ち た 足
て つ 形
我
◆
け 一 子 垂 ぬ 北 昭
見 和
く 人 よ
へ 十
れ 子 り 根
と 六
の
の
年
母
嫁
く 十
が
げ
と 月
漬
る
つ 号
け
の
げ ︵
た
ち
る 第
る
の
我 三
奈
寂
子 十
良
し
よ 四
漬
さ
り 巻
が
も
第
欲
い
用 十
し
つ
油 号
と
し
が ︶
云
か
欲
ひ
馴
し
き
れ
と
ぬ
て
云
嫁
安
ひ
げ
き
來
る
明
2
81
神
無
月
十
六
夜
の
月
を
仰
ぐ
だ
に
人
の
戀
し
も
山
住
も
舊
り
◆
昭
和
十
六
年
七
月
号
︵
第
三
十
四
巻
第
七
号
︶
年 い
そ
し
み
て
十
三
年
を
山
に
幽
か
な
る
わ
ざ
を
み
今
日
も
ま
た
一
人
越
え
な
む
雨
の
峠
を
嫁
ぐ
子
の
荷
り を
て
親 り
子 出
三 し
人 心
づ 安
ぐ れ く
生
き く
て 北 の
い 見 豆
そ の も
し
今
ま の
む 旅 ま
今 ゆ く
ゆ く べ
幾
し
嫁
ぐ
子
を
山 ぶ
し
を も
い
ゆ
き
か
へ
ら
ひ
雨
ふ
り
の
峠
越
え
け
む
こ
と
も
幾
年
◆
昭
和
十
六
年
九
月
号
︵
第
三
十
四
巻
第
九
号
︶
秋
づ
け
る
北
見
の
は
さ
ぶ
し
も
よ
見
知
ら
ぬ
街
は
な
ほ
し
さ
ら
ず
け
り
︵
二
六
︶
資料紹介
守谷富太郎の
◆
け 安 昭
る け て ら 和
か 十
る
に 七
子
子 年
の
は 一
形
月
見
き 号
と
に ︵
こ
け 第
こ
り 三
に
み 十
い
敎 五
さ
の 巻
さ
第
か
き 一
の
を 号
着
ひ ︶
物
と
を
世
貰
守
ひ
り
寂
つ
し
づ
く
つ
︵
二
七
︶
ア
ラ
ラ
ギ
第
三
十
五
巻
︵
昭
和
十
七
年
︶
アララギ
掲載歌 (
田中・中崎)
離 幾 笑 夜
れ と ふ も
ず き も す
が
も
ら
生
夢
命
を
た
見
も
た
た
り
ぬ
と
子
を
我
み
に
と
さ
り
ま
間
ざ
ま
ま
く
の
ひ
こ
ま
と
な
話
く
し
側
て
を
◆
出 湯 か 老 り 住 昭
ぎ 口 氣 に 人
み 和
え に た
馴 十
の
た
の
れ 七
我
ぬ
わ
し 年
ら
谷
づ
天 九
は
に
か
鹽 月
る
下
乾
を 号
ば
り
け
た ︵
る
ゆ
る
ち 第
移
き
麓
て 三
り
湯
よ
山 十
來
か
り
越 五
て
水
い
え 巻
荷
か
ま
の 第
を
さ
だ
北 九
ほ
や
芽
見 号
ど
り
ぶ
の ︶
き
て
か
町
け
見
ぬ
へ
り
た
山
り
を
の
の
仰
旅
さ
の
ぎ
せ
な
2
80
◆
昭
和
十
六
年
十
二
月
号
︵
第
三
十
四
巻
第
十
二
号
︶
げ 昨 の う
居 夜 思 め
り 一 ふ く
聲
夜
き
た
き
び
て
た
眠
び
れ
起
ず
こ
夜
し
も
背
す
の
が
君
ら
に
病
叱
み
ら
臥
れ
る
た
子
り
の
と
傍
に
に
も
告
り か
淨 く
け に そ
ら
く け け
な
根 る
も り く
湯
も
え
泉
え
ゆ
に
ゆ
く
ひ
く
吾
た
脈
子
り
に
の
我
手
心
ら
ふ
三
れ
を
人
つ
つ
診
に
愛
器
ぬ
し
も
れ
子
て
し
の
臨
わ
を
れ
洗
見
は
へ
守
り
◆
昭
和
十
七
年
三
月
号
︵
第
三
十
五
巻
第
三
号
︶
北海学園大学人文論集
第5
8号(2
0
15年3月)
◆
と し ゆ き 新 れ 秋 昭
く ぬ 麥 り ば 和
り
れ 十
の
り
た
の 八
香
な
て
午 年
す
く
の
後 一
が
一
鹽
の 月
し
葉
野 号
み
の
山
路 ︵
お
紅
女
を 第
ほ
葉
魚
三
ら
出
香
十
か
で
り
の 六
に
て
を
す 巻
霽
來
り
す 第
れ
ぬ
涼
び 一
ゆ
幾
風
し 号
く
年
た
︶
野
か
て
を
路
前
る
さ
の
書
夕
げ
露
に
餉
て
ふ
は
の
か
み
さ
膳
へ
て
み
に
さ 家
裏
に
郭
鳴
き
て
明
け
に
け
り
目
ざ
め
淸
し
き
か
ね
山
の
あ
◆
昭
和
十
九
年
四
月
号
︵
第
三
十
七
巻
第
四
号
︶
◆
山 ひ 永 を 國 昭
和
形 き
の
の
く 十
別
街
離 九
に 憶 と
れ 年
知
來 一
屋
る
て 月
も
よ
老 号
し
な
い ︵
く
も
し 第
な
な
我 三
さ 十
く
り
へ 七
て
親
や 巻
も
今
忘 第
子
は
れ 一
た
も
か 号
た
ね ︶
だ
ね
つ
寂
る
し
麥
き
の
焦
別
も
の
の
と
香
を
思
2
79
ア
ラ
ラ
ギ
第
三
十
六
巻
︵
昭
和
十
八
年
︶
ア
ラ
ラ
ギ
第
三
十
七
巻
︵
昭
和
十
九
年
︶
り ぜ 高 は
つ ん 原 立
つ ま の ち
い 草
も 深
蕨
も を
ほ 夜
ほ ど
け ほ
し し
高 に
原
を き
ゆ つ
る か
ゆ れ
る て
と 曉
と
ぐ な
馬 る
に
乘
は
る
か
に
も
北
見
の
山
を
振
り
さ
け
ぬ
汝
が
住
み
し
◆
昭
和
十
七
年
十
一
月
号
︵
第
三
十
五
巻
第
十
一
号
︶
に
母
◆
ゆ ほ 藤 り ふ 昭
る 和
く の 浪
さ 十
ぼ の
と 八
の 花
に 年
と を
は 十
朝 仰
ら 月
光 ぎ
か 号
さ て
ら ︵
せ 敎
集 第
る へ
ひ 三
武 け
晩 十
藏 り
春 六
野 北
の 巻
を 國
一 第
す に
夜 十
が の
を 号
し み
共 ︶
み 一
に
に 生
語
つ 經
り
つ し
あ
親 つ
か
子 ま
せ
旅 に
︵
二
八
︶
資料紹介
守谷富太郎の
山 み 亡 り か
櫻 居 き ぬ そ
る か
さ り
な
が
き
る
老
て
業
い
百
を
て
鳥
い
の
鳴
そ
後
く
し
の
こ
み
か
ろ
心
ず
は
足
か
匂
り
ず
ふ
て
の
若
六
手
十
紙
を
年
見
つ
あ
出
む
ま
し
も
り
な
お
つ
も
ぎ
か
し
來
し
ろ
ら
、
謝
意
を
記
し
て
お
き
た
い
。
︵
二
九
︶
程
の
田
中
涼
斗
さ
ん
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