学力の国際比較に異議あり - 柴田勝征研究室

学力の国際比較に異議あり
-
科学教育のあるべき姿を求めて
(第3巻)
PISA基本文献の批判的紹介・
PISAに対する国際的批判
-- version 3. 3 -http://www1.rsp.fukuoka-u.ac.jp/kototoi/igi-ari-3.pdf
福岡大学理学部
応用数学科
柴田勝征
(埼玉大学名誉教授)
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第3巻
目次
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... 6
3-3.PISA の基本方針を検討してみる。
3-3-1.
「科学的教養
まえがき」.
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... 9
●《ポアンカレ「科学と方法」からの引用
3-3-2.
「科学的教養
「數學上の發見」》
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... 23
領域の定義」.
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●「近代化論」「人的資本論」.
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.. 26
3-3-3.
「科学的教養
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... 28
領域の構成」.
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.●『12人の怒れる男』(Henry Fonda) ....
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[補足
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「国防予算」の問題].
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●大学生にも OECD 国際学力比較テスト..
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●英語下手は文化..
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●プラトン主義とイソクラテス修辞学の対立 ..
●国内最古のほ乳類の化石発見を導いた英語の教師..
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●「子どもの脳と仮想世界」.
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[補足
「酸性雨」の問題].
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... 49
[補足
「グランドキャニオン」の問題].
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● 心の計算理論・パパートの原理..
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● 討論すると、各人は自己の主張に一層固執する度合いを強める..
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● 確信のないことは安易に言わないようにすることの重要性..
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3-4.PISA に対する国際的批判
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3-4-1.
「PISA 基準に従って PISA 自身を判定してみる
/ PISA は自分が提唱していることを自分で守っているか?」.
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3-4―2.2005 年パリ国際会議「PISA - France - Finland」における
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A. Bodin 氏(フランス)の報告より
●防風林は風向きを表す..
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●ブザンソンでサクランボウを盗み食いした話..
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(以下、第3章の残りの部分と第4章はただいま鋭意、構想中です。
)
3-5.PISA の「数学的リテラシー」は「数学」ではない。.
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「数学」はプラトンの「イデア」である。
2
日本の子供たちは算数が大好き -- 答が一つでスッキリしているから。
PISA の「複雑で錯綜とした、正答が1通りではない問題」を日本でマネを
すれば、「算数嫌い」の子供を「激増」させる恐れがある。
3-6.「自分の頭で考えられる」程度のテーマしか教えない教育の不毛
「2次方程式の解法」と複素数の発見
2次方程式の解法を「自分の頭で」発見できる生徒は 100 人にひとり、
2次方程式が常に解を持つように「虚数」を「自分の頭で」考え出せる
のは 100 億人にひとりの超大天才だけ
「博士の愛した数式」
(小川洋子)
e iπ + 1 = 0
この数式の美しさ、すばらしさを「自分の頭で」理解できる
高校生なんていない!!
3-7.ギリシャ教育の文化的伝統
3-7-1.プラトンのアカデミアの授業科目は「数学・音楽・体育」
ユークリッドは、「三角形や円の性質を学んで何の役に立つのですか?」と
尋ねた弟子に金貨を投げ与えて言った「これで、君がこの学校に入学した
甲斐があったかね?」
3-7-2.教育は幼児期から、「最も偉大なこと」「最も美しいもの」を
こそ教えるべきである。
3-8.政府もマスコミも国際テストの成績は「黄門様の印籠」
日本で本当に「学力が低下」しているのは高校生?
それとも「有識者」?
3-9.PISA 型国語授業の失敗実践例 (PISA が栄えて国語力が滅ぶ)..
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4.「疑いもなく明らかなこと」を疑ってみる .........
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私の若者観・教育観のコペルニクス的転換
4-1.「分数のできない大学生」が存在することは素晴らしいことでは
ないのか?
学力で生徒を差別しない現在の日本の教育こそ本当の「地上の楽園」
4-2.「どの子も伸びる」イデオロギーの残酷さ
「落ちこぼれ」生徒を放置した日本人の知恵
「落ちこぼれ」生徒を放置しなかったフィンランド人の愚かさ
フィンランドの教育では子供を「小型の大人」に仕立てようとしているのではないか。
「自分の頭で考えさせる」教育の本質は何か
--
●幼い頃から大人びたマセた思考を調教によって育成している
=> 特定の大人たちの特定の「科学的」イデオロギーを子供たちが
「自分の頭で考え出せる」まで徹底的に洗脳する。
4-3.「21世紀の社会を生きるために必要な能力」は
「22世紀を生きるための障害になる」のではないのか?
3
フィンランド(198X ~ 201?) 「失われた?十年」
この時代に教育を受けた青年たちはロスト・ジェネレーションと
呼ばれるようになるだろう。
「毛沢東思想」を「自分の思想」として身につけさせられた
中国の文革世代と同じように
4-4.PISA(OECD)の国際学力テストの目標自体が本当に正しいのか?
フィンランドの小・中学校は PISA 受験予備校化?
いや、むしろ、人口500万人あまりの小国フィンランドを
OECD(「経済協力」「開発」機構)が使い捨てモルモットにしている?
4-5.最先端で活躍している科学者たちは本当に科学的な思考力が高い
のか?..
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コンピュータや統計学に頼る研究の問題点.
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アインシュタインは特許局の事務職員だった..
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科学者の「質」が変化しつつある?
4-6.日本人のメンタリティー・西洋人のメンタリティー
4-6-1.封建社会ニッポンの知恵
「捨て扶持」「負けるが勝ち」「議を言うな」「葉隠れ」「嘘も方便」
「清き流れに魚住まず」「踏み絵と隠れキリシタン」「和魂洋才」.
..
4-6-2.今西錦司の「棲み分け進化論」
ダーウィンの進化論は個体間の弱肉強食の原理
今西の進化論は集団(種)の共生の原理
4-6-3.日本人はなぜ山本周五郎や藤沢周平を愛するのか
小石川療養所に残ることにした安本青年の判断は
科学的に正しかったか?
●16世紀の宣教師が見た日本人の特異性
● 20世紀の私がフランスで体験した日本人の特異なメンタリティー
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☆フランス人は疑い深い..
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4-6-4.
「福岡ペシャワール会」と「国境無き医師団」
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●アメリカのアフガニスタン空爆下でカブールに水と食料をトラック
輸送し続けたペシャワール会の無謀さ
(中村哲医師はダイ・ハード?)
★君は「七人の侍」を越えた
追悼・伊藤和也
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★ ペシャワール会を憎悪している現地住民もたくさんいる??..
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●凄い!
こんな人がいる!!
スーダンで医療活動する元大使館医務官
●天皇ご一家の非戦への熱い思い
……………………………………… 108
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..…………………………………… 110
4
●医師と職員の安全を優先させて避難した「国境無き医師団」の慎重な対応
--
救援活動を待っている国はアフガニスタンだけではない。.
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4-6-5.
「みんなちがって、それでいい」(金子みすず)………………………... 114
=> 「みんなちがうから、そこがいい」
4-6-6.
「科学的思考力」は人間にとってそんなにも大切なものか?
吹けば飛ぶような将棋の駒に、賭けた命を笑わば笑え
愚痴も言わずに女房の小春、作る笑顔がいじらしい
4-7.教育は社会的要請に応えない方が原理的に正しいのではないか?
戦後数十年間続いた「(旧)教育基本法」の根本精神はこれだ。
いま、日本中を一匹の妖怪が徘徊している、
-「フィンランドの教育は世界一」という
マインド・コントロールの妖怪が......
5
3-3. PISA2003「科学的教養」の基本方針を検討してみる
PISA の基本方針をちゃんと原文を読んで検討してみようと思って、インターネットでい
ろいろ探してみたのですが、見つかりませんでした。そこで、神原敬夫さんにメールでお
願いして、英語の原文を送って頂きました。
そうしたら、その論文のタイトルが「PISA 2003 Assessment Framework」と書いてあ
ったので、この文字列で検索したら、OECD の下記のサイトがすぐに見つかりました。
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http://www.oecd.org/document/29/0,3343,en_32252351_32236173_33694301
_1_1_1_1,00.html
PISA 2003 Assessment Framework: Mathematics, Reading, Science and
Problem Solving Knowledge and Skills - Publications 2003
Send
Print
Buy the English version of the report.
Download the English version of the report.
Buy the French version of the report.
Download the French version of the report.
Download the Spanish version of the report
Top of page
*********************************************************************
つまり、英語版、フランス語版、スペイン語版がダウンロードできるようになっている
わけです。英語版は既に神原さんに送って頂いてあるので、フランス語版とスペイン語版
をダウンロードしました。そして、まず、英語版とフランス語版を見比べてみて驚きまし
た。同じ原本から翻訳していることは明らかなのですが、印象が全然違うのです。ちょう
ど、第2巻「3-2-6.思考実験の有効性」で引用した湯川秀樹「物理講義」を読んだ時
の感じに似ています。物理学の講義では、まず最初にニュートン力学を学びますが、その
最初に出てくるのが「質点」の定義でした。それが基本中の基本なのに、ニュートン力学
のバイブルである「プリンキピア」にはまったく「質点」の概念は出てこなくて、まず最
初に、質量 = 密度×体積 という「質量」の定義から始まるのでした。従って、この定義
6
によれば、体積がゼロの「点」が(ゼロでない)質量を持つことなどあり得ないわけです。
さて、PISA の基本方針に話を戻すと、英語版では、
「Mathematical Literacy」や「Scientific
Literacy」という概念が最初から最後まで繰り返し強調されているのですが、フランス語版
では(そしてスペイン語版でも)まったく出てこないのです。では、フランス語版では、
それらに対応する部分には何と書いてあるかというと、
「Culture Mathematique」
「Culture
Scientifique」なのです。フランス語の「culture」は日本語に直せば「文化」
「教養」
「精神
修養」などの訳語になります。そして「文化・教養」のレベルを千分の一単位で点数付け
して国別順位を付けるなどということは、フランス語圏の教養ある階層の人たちからすれ
ば、「ちょっと、やり過ぎじゃないの。」という感じがするのではないでしょうか。ちゃん
と誰か確かなネイティブに確認したわけではないので、断言はできませんが、
「culture」の
語感は、英語の「literacy(読み書きできる能力)・文盲でないこと)」とは全然違います。
ちなみに、スペイン語版では「competencia matematica」「competencia cientifica」とな
っていて、
「competencia」は英語の「competence」ですが、念のために手元にあるプログ
レッシブ西和辞典を引いてみると「競争」「能力・技量」「権限」などの訳語が書いてあり
ます。時々、若い職人さんたちの工作機械の操作技術などを競う「国際技能オリンピック」
というのが開かれていますが、まさにそういうのが「competencia」を比較しているのでは
ないかと思います。これは、私の非常に個人的な感覚で言えば、英語の「literacy」とフラ
ンス語の「culture」の中間くらいの感じでしょうかね。
それでは「日本語版」はいったいどうなっているのでしょうか。Amazon.com で書籍版
を検索してみたら、以下のようになっていました。
「PISA2003 年調査
評価の枠組み--OECD生徒の学習到達度調査」
(単行本)
国立教育政策研究所(翻訳)
出版社:ぎょうせい(2004/05)¥ 2,500
ブックレビュー
By
真太郎(島根県雲南市)
読解力の評価の枠組みについて知りたくて購入しました。しかし、本文中に日本語とし
て意味が通じないところがいくつかあり、PISA のサイトから原文を入手して該当箇所を比
較してみました。
すると、単純な誤訳(content と context と間違えているようなもの)から、係り受け
の間違い、熟語の誤訳など多数見つけました。国立教育政策研究所監訳となっていますが、
素人の大学生のアルバイトのレベルだと感じました。
7
しかし、OECD の評価の枠組みの訳本はこれしかなく、原文と比較しながら読み進める
には助けになるということで星二つとしました。
ありゃー。これは問題ですねえ。この「日本語版」をバイブルともコーランともして、
その内容を「あーでもない」「こーでもない」と研究している専門学会もあるそうです。ま
あ、好きな人が勝手に研究しているだけなら「どうぞ、ご自由に」と言って済ませていら
れるのですが、科学研究費として税金が何億円も使われているのです。日本では、重い病
気にかかっても、医療費を払える当てがないために、医者にもかかれず、薬も買えずに
死んでゆく老人が何人もいるのですから、このお金は老人医療費に回して欲しいです。ま
あ、教育学に限らず、私の専門分野でも、幾つかの大学では研究費がドバーッと交付され
て、研究者は使い切れなくて困っているという話です。研究者の世界でも、「〇金(マルキ
ン)」と「〇貧(マルビン)」の二極化が激しく進行しているようです。それが知的成果の
二極化と正比例しているのであれば、私も不承不承沈黙を守るでしょうが、どうも、その
ようには思えないようなので、大久保彦左衛門よろしく老体に鞭打って、毒舌で苦言を呈
し続けているわけです。
ところで、第2巻「3-2-3.食品を買う時は「安全第1」を心がけよ!」で以下の問
題を取り上げました。
[問題例]
あるピザ店では、同じ厚さでサイズの異なる2種類の円形のピザを売っています。
小さい方は直径が 30cm で、値段は 30 ゼットです。大きい方は直径が 40cm で、値段は
40 ゼットです。
どちらのピザの方が得でしょうか。考え方も示しなさい。
この最後の質問事項を原文で見てみたら、
(英語原文)
Which pizza is better value for money? Show yor reasoning.
(どちらのピザが金額的に見てお買い得な価格でしょうか?
あなたの論理をしめして下
さい。)
(フランス語原文)
Laquelle des deux pizzas est la plus avantageuse par rapport a son prix? Expliquez
votre raisonnement.
(2つのピザのどちらの方が価格と比較してお買い得ですか?
さい。)
8
あなたの論理を説明しな
(スペイン語原文)
?Que pizza es la major opcion en relacion a lo que cuesta? Escribe tu razonamiento.
(どちらのピザがコストとの関係で最良のオプションですか?
あなたの思考を書いてく
ださい。)
となっていました。第2巻「3-2-3.食品を買う時は「安全第1」を心がけよ!」で解
説したように、このような食品の買い物について、まず第1に単位体積当たりの価格を考
察させることの社会的不適切さを指摘しましたが、ともかくも英語、フランス語、スペイ
ン語のいずれの原文でも、出題者が回答者に対して価格を比較して計算して結論を出して
欲しいことが明文化されています。さらに、「考え方」という曖昧性を生じ兼ねない表現で
はなく、論理的な説明を要求していることも、明確に表現されています。
それに対して、日本の生徒たちに出題された日本語訳文のテストの質問文は、「どちら
の...が得でしょうか。
」という意味不明確な誤訳になっています。国際的なテストにおい
て、このような誤訳の設問を出題したことが不問にふされて良いものでしょうか?
大学
の入試問題でこんなことが起きたら、出題者は少なくとも訓告処分くらいは受けるでしょ
う。文部科学省は、このテストの翻訳者の氏名を公表し、適切な行政処分を行うとともに、
次回のテストからは翻訳者を変更する必要があります。そうしなければ、国際テストの公
正さが保てませんし、一方的に不利な設問を課されている日本人の生徒たちが可哀想です。
まさにスペイン語の competencia desleal (不当競争)です。
実を言うと、上にあげた「ピザ」の問題は「PISA2003 評価の枠組み」に書かれている解
説用の例題であって、実際に日本の生徒たちがテストで解答を要求された問題ではありま
せん。しかし、こういうレベルのいい加減な、というか手抜きそのもののような日本語翻
訳が PISA に関してはずっと続いているようなので、上に述べた私の評価は正しいと思いま
す。実際に出題された問題の日本語翻訳にもいろいろ問題点があることが神原敬夫さんの
論文で指摘されています。また、シリーズ第11回で紹介した論文集「PISA 基準に従って
PISA を判定してみる」の中でも、マルクス プーフハマー(ウイーン工科大学)が英語原
文からドイツ語への誤訳が重大な影響を受験者に与えたのではないかと指摘していますの
で、誤訳の問題は日本だけの問題では無いようです。
3-3-1.
「科学的教養
まえがき」
●PISA2003 評価の枠組み(フランス語版からの柴田の試訳)
第3章
科学的教養
9
現代の若者にとって、与えられた事実と情報から適切で思慮深い結論を引き出すことが
できたり、他の人が出した結論が根拠としている証拠の要素を必要に応じて批判的に吟味
して論争することができたり、事実によって証明されている命題と主観的な意見とを見分
けることができたりすることは、重要な長所であるだろう。この点に関して、科学は特別
な役割を担っている。科学の目的は、思想や理論を周囲の世界における観察可能な事実に
よって検証できるようにする段取りにおいて合理性の原理を確立することにあるからであ
る。これは、科学が創造性や想像力を排除するということを意味しない。それらは常に自
己を取り巻く世界を理解しようとする人間の努力の進歩において本質的な役割を演じてき
た。時には「天から降って来た」とも見える幾つかの着想は、浮遊中に、アインシュタイ
ンが次のように描写したメカニズムに従ってつかみ取られたのである;すなわち、
「外見の背後に隠されている秩序に対するある種の感受性に恵まれた直感の道に沿って」
(アインシュタイン,《Preface to M. Plank》Where is Science Going, 1933)。
[柴田の注1]上に述べられている「外見の背後に隠されている秩序に対するある種の感受
性」というのが、第2巻「3-2-6.思考実験の有効性」で引用した湯川秀樹「物理講義」
に出てくるニュートンの「父なる神が宇宙を支配していて、同時にこれはこの世の秩序を
治める立法者であり創造者でもあるわけなんですけれども、いろんな物質とか機械などの
運動がいかにあるか、これも神様が支配している。それがなんであるかを自分が発見する。
あるいは再興する、そういうようなことを彼は主張しています。」という宗教的な使命感や、
「彼(ハイゼンベルグ)が全体としてたびたび強調しているものはなにかと言いますと、
なにかこの中心的な秩序というものを求めているんだということです。物理現象というも
のはいろいろたくさんあり、それを拾いあげていく原則はそろっている。そこで、それを
まとめていこうとすることは、結局、なにかある中心的な秩序、普通のことばで言えば、
非常に普遍的で基本的な法則を見いだそうとすることなんです。
(中略)ハイゼンベルグは、
彼自身がくり返し言うとりますように、悪く言えばそれにとりつかれているんです。」とい
う執念などを指しています。
[柴田の注2]上記の「天から降って来た」
(英語版では「青空から湧いて出た come out of the
blue」)着想というのは、その部分だけを引用しているので非常に誤解を与えやすい表現に
なっています。第2巻「3-2-6.思考実験の有効性」で引用したアインシュタイン/イ
ンフェルト「物理学はいかに創られたか 」の中に書かれていたように、「私たちは、運動
の法則について成功したように、万有引力の法則をも一般化して、それを特殊相対論に適
合させるように試みることも出来ないわけではありますまい。言いかえれば、古典的変換
に対してではなく、ローレンツ変換に対して不変であるように(万有引力の法則を書き)
改めることです。しかしニュートンの万有引力の法則は、それを簡単にして特殊相対性理
論のもくろみに適合させようとするあらゆる私たちの努力に頑強に反抗しました。」という
わけです。アインシュタインは、ニュートンの非常に簡単明瞭な万有引力の法則をマクス
10
ウェル流の「重力場の方程式」に書き換えようとして何ヶ月間も考えに考え抜いて、精根
尽き果てる程に考え抜いて、そして、ある日一瞬、ふと気を抜いていたときに絶妙のアイ
ディアが閃いたのです。決して、おとぎ話にあるような、三年寝太郎さんがぼーっとして
三年間寝ていたら、突然ぼた餅が棚から落ちてきた、というようなものではありません。
発明王エジソンの言葉と伝えられる、「発明(発見)は99%の汗と1%のひらめきから得
られる」というのも、そういうことを表現しているわけです。
この点については、さらに、第2巻「3-2-6.思考実験の有効性」で紹介したポアン
カレが、自分の数学的な思考の過程を「科学と方法」
(邦訳:岩波文庫、吉田洋一訳、1953
年)の中で描写しています。ポアンカレは数学の論文数は 500 に近く、数理物理学、理論
物理学、理論天文学の著書は30冊を越えており、「フランスのガウス」とも称された天才
ですが、以下の「科学と方法」からの引用を読むと、天才の脳裏に「天からの着想がどの
ようにして降って来る」のかが良くわかります。
《ポアンカレ「科学と方法」からの引用》
第3章
數學上の發見
(冒頭部分、省略)
今やさらに一歩を進めて、數學者の精神そのもののうちに起ることを觀察すべきときと
なった。そのためには、わたくし自身の記憶を回顧してみるのがもっともよいと思う。たゞ、
範圍を限局して、如何にしてわたくしがフックス函數に關する最初の論文を書いたかを語
るにとゞめようと思う。
あらかじめ讀者の宥恕を乞うておくが、少しく専門的な言葉を用いなければならないけ
れども、これは何もおどろくにはあたらないのであって、その言葉の意味を了解する必要
は少しもないのである。たとえば、かくかくの事情のもとにわたくしはかくかくの定理の
證明を發見したというようなことを述べる。この定理は、讀者の多くの知らないあやしげ
な名前がついているであろうが、これは少しも重大なことではない。心理學者にとって興
味あるのは定理ではない、その事情である。
二週間の間、わたくしは、わたくしがその後フックス函數と名づけた函數に類似の函數
は存在し得ない、ということを證明しようと努力していた。當時わたくしは極めて無知で
あったのである。日毎日毎、机に向かって一、二時間をすごし、澤山の組み合わせを試み
ては何等の結果にも達せられなかった。(柴田の注:上記の「日毎日毎、机に向かって一、
二時間をすごし」というのは、いくら何でも少なすぎるのではないか?
恐れながら、吉
田洋一先生が誤訳をされたのではないだろうか、と疑い、フランス語の原文に当たってみ
ました。原文でも、やはりその様に書かれていました。思うに、ポアンカレほどの天才に
なると、意識的な思索の時間は一、二時間で十分で、後は彼がこの数パラグラフ後で詳し
く説明している「無意識的思考機械を脳内で運転させる」ことによって数学的天啓を得る
のかもしれません。ところで、吉田洋一訳には書いてありませんが、フランス語原文の脚
11
注によると、この「数学上の発見」と題する第3章は、総合心理学研究所におけるポアン
カレの講演の記録を再録したものだそうです。冒頭近くに出てきた「心理學者にとって」
という表現は、そういう文脈で出てきたものだ、ということがフランス語原本を読んで分
かりました。
)
或る夜、例になく牛乳を入れずに珈琲を飮んで、睡眠することができなかった。幾多の
考えが群がりおこって、互に衝突しあい、その内の二つが相密蓍して、いわば安定な組合
せをつくるかの如くに感ぜられた。朝までには、わたしは超幾何級數から誘導されるフッ
クス函數の一つの部類の存在を證明することができた。あとはたゞ結果を書き上げるのみ
で、數時間を要するに過ぎなかった。
つゞいて、わたくしはその函數を二つの級數の商によってあらわそうと思った。この考
えは、完全に意識的な、また反省を經た考えであった。すなわち、楕圓函數との類推が私
を指導してくれたのである。もしかゝる級數が存在するとすれば、その性質は如何なるも
のであるべきかをたずねて、困難なく、わたくしのテータフックス級數とよぶ級數をつく
るに至った。
このとき、わたくしは當時住んでいたカンを去って、鑛山學校の企てになる地質旅行に
參加したのであった。旅行の怱忙にとりまぎれて、數學上の仕事のことは忘れていた。ク
ータンスに蓍いたとき、どこかへ散歩に出かけるために乗合馬車に乗った。その踏段に足
を觸れたその瞬間、それまでかゝる考えのおこる準備となるようなことを何も考えてもい
なかったのに、突然わたくしがフックス函數を定義するに用いた變換は非ユークリッド幾
何學の變換とまったく同じである、という考えがうかんで來た。馬車内にすわるや否や、
やりかけていた會話をつゞけたため時がなく、驗證を試みることをしなかったが、しかし
わたくしは即座に完全に確信をもっていた。カンに歸るや、心を休めるためにゆっくりと
驗證をしてみたのであった。
つゞいて數論の問題の研究にかゝったが、これといって目ぼしい結果も得られず、また
これが今までのわたくしの研究と少しでも關係があろうとは、思いもよらぬことであった。
うまく行かないのに氣をくさらして、海岸におもむいて數日を過すことにした。そして全
然別のことを考えていたのであった。或る日、斷崖の上を散歩していると、不定三元二次
形式の數論的變換は非ユークリッド幾何學の變換と同じものであるという考えが、いつも
と同じ簡潔さ、突然さ、直接な確實さを以て浮かんで來たのであった。
カンにかえって、この結果を考えなおして、またそれから得られる結論を引き出した。
二次形式の例は、超幾何級數に對應する群以外にもフックス群が存在することをわたくし
に示した。わたくしはかゝる群にテータフックス級數の理論を應用し得ること、したがっ
てそれまでわたくしは超幾何級數から誘導されるフックス函數を知るのみであったが、そ
の他にもフックス函數の存在することがわかって來た。當然わたくしはかゝる函數すべて
を作りにかゝった。わたくしは組織的に攻撃を始めて、一つ一つすべての外堡を攻略して
行った。ところが、たゞ一つの外堡だけが固守して止まず、しかもこれを陥れれば敵城の
12
主部を陥落を來すに相違ないのであった。しかし、初めはすべての努力もわたくしにその
困難をさらによく知らしめるに役だつのみであった。これだけでもすでに相當の獲物であ
ったのである。以上の仕事はすべて完全に意識してやったのであった。
その時、わたくしはモン=ヴァレリアンにおもむいて、そこで兵役に服さなければなら
なかった。したがって、前とはきわめて異なった仕事をすることになったのである。或る
日大通りを横切っているとき、以前わたくしを遮っていた困難の解決が突然現れて來た。
わたくしはすぐさまそれを深く究めようとつとめずに、服役を終えたのちはじめて問題に
ふたヽび取りかヽったのであった。すべての要素は手中にある。たゞこれを集めて秩序よ
く並べればよいのであった。故に、わたくしは仕上げの論文を一氣に何の苦もなく書き上
げてしまった。
わたくしはこの例一つのみに止めようと思う。多くを擧げるも無益である。わたくしの
他の研究に關することについても、まったく類似な物語をするのほかないであろう。また、
雑誌「數學教育」の調査に現れた他の數學者の意見も、わたくしの意見に確證を與えるの
みであろう。
まず第一に注意をひくことは、突然天啓が下った如くに考えのひらけて來ることであっ
て、これは、これにさきだって長いあいだ無意識に活動していたことを歴々と示すもので
ある。この無意識的活動が數學上の發見に貢献すること大であることは、爭う餘地がない
ようにわたくしには思われる。これほどまでには明瞭でないような他の場合にも、なおそ
の痕跡は見出されるであろう。すなわち、或る難問を研究するとき、最初に手をつけたと
きには、何等効果が上がらないことが屡々ある。そこでともかくも暫く休息をしてまた新
たに机にむかう。最初の半時間は何ものも得られないが、やがて突然決定的な考えが心に
うかんで來る。これは一時中絶して休んだため、精神が力と新鮮さとを回復して、意識的
活動が一層効果を上げたのである、ということもできるであろう。しかしそれよりも、こ
の休養のあいだ絶えず無意識的な活動が行われて、丁度さきに述べた場合の如くに、のち
に至ってその仕事の結果が數學者に啓示されたのであると考える方が、一層事實に近いで
あろう。たゞ、啓示が散歩とか旅行とかの途上に現れないで、意識的活動の際に、この意
識的活動とは無關係に現れるまでである。この意識的活動はたかだか發動の役をつとめる
に過ぎない。あたかも、休養の間にすでに得られながらなお無意識のうちにあった結果に
刺針で刺激して意識的な形をとらせるようなものである。
この無意識的活動の條件に就いて、さらにもう一言注意しておくことがある。それは、
この無意識的活動は意識的活動が一方に於てこれに先だち、また他方に於て後に續く場合
にのみ可能なのであって、さもなければ決して効果が上らないということである。上に引
いた例がすでに十分示しているが、すゝんで努力しても全然無効におわったため、少しも
好結果が得られないものとあきらめて、一見途方もない見當外れをしていたかのような氣
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のする日が、幾日かつゞいた後でなければ、彼の突然の靈感は決して下っては來ないので
ある。故にかゝる努力は人の思うほど無効であったのではなく無意識の機械を發動させた
のであって、もしこれがなければ、この機械は運轉せず、したがって何ものをも生産しな
かったに相違ない。
靈感があった後に、ふたゝび意識的の活動をするを要するわけは、さらに容易に理解さ
れる。この靈感の結果を運用して、その直接の結論を引き出し、それを整頓して證明を書
き下さなければならないのであるが、別けてもその證明を驗證することが必要である。さ
きに、靈感に伴う絶對的確實の感に就いて述べたが、上述の場合にはその感じは偽りでは
なかった。またもっとも多くの場合偽りでないのが普通である。しかしながら、これには
例外がないと信ずることは戒めなければならぬ。その感じが、吾々を欺くものであって、
しかも感じの強烈な點に於て眞である場合と劣らぬことが往々あるのであって、證明を整
備させようとするとき初めてそれに心づくのである。特に朝或は夜、床の中にあって半睡
半醒のときに起った考えに就いてこういう事實が多々あったことを記憶している。
事實は上の如くであって、その事實から必然的に次の如き考察が生ずる。すなわち、上
述の結果によれば、無意識的自我、或はいわゆる潜在的自我は數學上の發見に於て主要な
役割を演ずることになるが、この潜在的自我は通常純粹に自動的なものであると考えられ
ている。しかるに、吾々は、數學上の仕事は單なる機械的の仕事ではなく、如何に完全な
機械にもせよ、機械にまかせておくことは出來ないことを見て來た。單に規則を應用する
とか、或る固定した法則にしたがってでき得るかぎり多くの組合せをつくるとかいう問題
ではない。かくの如くして得られる組合せはいたずらに數多く、たゞ無益にして煩雑なば
かりであろう。發見者の眞の仕事は、たくみに選擇を行って、無益な組合せを除外するこ
と、或はむしろ、かゝる組合せをつくるが如き勞を費やさないことにある。そして、この
選擇を指導すべき規則はきわめて微妙であって、正確な言葉をもってあらわすことはほと
んど出來ない。言葉に述べるよりもむしろ感得すべきものである。かゝる事情のもとに於
て、如何にしてこの規則を機械的に應用し得る篩を想像することができよう。
そこで次のような第一の假説があらわれて來る。すなわち、潜在的自我は何等意識的自
我におとらず、純粹に自動的なものではなく、識別力あり、機略あり、微妙さあり、選擇
をし、洞察力をもつというのである。したがって、意識的自我の失敗する場合にもその成
功するところを見れば、その洞察力は後者よりもさらに強いということになる。一言にし
ていえば、潜在的自我は意識的自我より優れているのではないであろうか。讀者はこの問
題の重要なことを充分理解されるであろう。ブートルー氏は、最近の講演に於て、この問
題が全然ことなった幾多の機會に如何にしてあらわれるか、またこれを肯定すれば如何な
る結論が出て來るかを示した。(同氏の著 Science et Religion 「科学と宗教」313頁以
下を見よ。)
14
上に述べた事實から見るとき、この問題に對しては、必然肯定的な答を與えなければな
らないであろうか。わたくしにして見れば、嫌惡の念なしにはこれを承認できないことを
告白する。よって、こゝに再び事實を檢して、他に説明の法がないかを求めてみることに
しよう。
幾分長い無意識的活動の後に突然一種の啓示の如くに精神にうかんで來る組合せが、一
般に有用でみのり豐かな組合せであることは確實であって、かゝる組合せは最初の選り分
けをした結果であるように思われる。このことから、潜在的自我は、微妙な直覺によって
これらの組合せの有用なことを洞察して、それ以外のものをつくらなかったのである、と
結論できるであろうか。それともまた、幾多の他の組合せもつくってはみたが、そういう
ものは興味のないものであって、無意識のまゝに終わってしまったのであろうか。
この第二の見地を取れば、潜在的自我の自動作用の結果、すべての組合せがつくられる
のであるけれども、たゞ興味のある組合せのみが意識の範圍にはいって來るのである、と
いうことになる。しかし、これでもなおはなはだ神祕的たることを失わない。吾々の無意
識的活動の幾千の結果のうち、或るものは閾を越えてはいり、或るものはその外に止まる
のは、その原因はいずれにあるのであろうか。かゝる特權が與えられるのは、單なる偶然
によるのであろうか。明らかにそうではない。吾々の感覺のすべての刺激のうちで、他に
原因のないかぎり、たとえばもっとも強烈なもののみが吾々の注意を引くであろう。さら
に一般的にいえば、特權のある無意識現象、すなわち意識的になり得る現象とは、直接に
もせよ間接にもせよ、吾々の感受性をもっとも強く動かすもののことなのである。
一見數學の證明は知性以外には關係がないように思われるのに、これについて感受性を
引合いに出しては、人は或はおどろくかも知れない。しかし、これにおどろくことは數學
的優美の感、數と形式との調和の感、幾何學的典雅の感を忘れることであろう。これは、
すべての眞の數學者が知るところの眞の審美的感情であって、實に感受性に屬するものな
のである。
さて、この優美、典雅の特質を歸すべき、また吾々の心に一種の審美的感情を起さしめ
る力を持つ數學的事物とは、如何なるものであろうか。それは調和的に配置された要素か
ら成り、吾吾の精神が細目に徹しつゝ全體を包容するのに、何等の努力をも要しないよう
な事物のことである。この調和は、吾々の審美的要求に滿足を與えるのみならず、また吾々
の精神を助けてこれを指示し指導する。また同時に全體を吾々の眼下に整然と排列し數學
的法則を豫感せしめる。さて、上に述べた如く、吾々の注意を引く價値あり、また有用の
ものたり得る唯一の數學的事實は、吾吾をして數學的法則を知らしめ得る如き事實である。
したがって吾々は次の如き結論に達する。すなわち、有用な組合せとは正にもっとも優美
な組合せである。或はいいかえれば、彼の特殊な感受性をもっともよく魅することのでき
る組合せである。この感受性はすべての數學者の知るところではあるが、しかも門外漢は
これを知らないため往々にしてこれらをわらい勝ちである。
かくして、如何なることになるのであろうか。潜在的自我が盲目的につくった極めて多
15
數の組合せのうち、ほとんどすべては興味もなくまた實益もない。また正にそのために審
美的感受性にも作用を及ぼさず、したがって決して意識の知るところとならないであろう。
組合せのうちのただいくつかが調和的であって、したがってまた有用でもあり美しくもあ
り、さきに述べた數學者の特殊な感受性を動かし得る力をもっているのである。この感受
性がひとたび刺戟されるや、吾吾の注意はその組合せにむかい、かくてその意識的となる
機會が與えられるのであろう。
以上は、一つの假説には過ぎないが、しかも次の如き觀察によってこれをたしかめるこ
とができるであろう。すなわち、突然の啓示が數學者の精神にあらわれたとき、もっとも
多くの場合はその啓示は彼を欺かないのであるが、前にもいった如く、驗證を試みるとき、
その誤りであることを暴露することも、ときとしてないではない。しかも、このあやまっ
た考えは、もし正しかったならば、數學的典雅に對する吾々の本能を喜ばしたものであろ
うということは、ほとんど大抵の場合には認められることである。
かくて、この特殊な審美的感受性こそ、上に述べた微妙な篩の役を演ずるものであって、
この感受性をもたないものが眞理の發見者たり得ないことは、これによっても充分理解す
ることができる。
しかしながら、これですべての難點が消滅したわけではない。意識的自我の範圍は狭く、
潜在的自我にいたっては、吾々はその限界を知らないほどである。吾々が、潜在的自我は
意識的生物が一生かゝっても包容し切れぬほどのさまざまの組合せを小時間のうちにつく
ってしまう、と想像することをあまり躊躇しないのもこの故である。さりながらその限界
は存在しないのではない。潜在的自我が、想像するだに驚くべきほどの數多くすべての可
能な組合せをつくり得る、ということはあり得べきことであろうか。それにも拘らず、こ
のことはやはり必要であるように思われる。すなわち、もしかゝる組合せのうち一小部分
のみをつくって、しかもそれを漫然とつくるのであるならば、吾々の選擇すべきよき組合
せがそのうちにある機會はきわめて少なくなるからである。
(中略)
たしかに、かくの如き見解には、かゝる確證を與えることが必要である。何故ならば、
何としてもかゝる見解は假説的であるし、また、將來も假説的であることを失わないから
である。この問題の興味はきわめて大きい。わたくしはこれを讀者に披瀝したことを悔い
ないものである。
<以上で、総合心理学研究所での講演を再録した第三章は終わりです。ポ
アンカレ「科学と方法」からの引用も、ここで終わります。>
《PISA2003 評価の枠組み(フランス語版からの柴田の試訳)続き》
(「PISA2003 評価の枠組み」は、
「時には”天から降って来た”とも見える幾つかの着想は、
浮遊中に、つかみ取られた」と述べた後、次のように続けています。
)
16
これらの着想が明確にある特定の時代につかみ取られたという事実は、歴史的には、そ
の時代のそれらの思想に対する社会的受容性によって決定されている。従って、科学的知
識の進歩は単に個人の創造性だけによるものではなく、それと同等にその進歩がその中で
産まれる文化の産物でもある。
[柴田の注:このフランス語版の一文は、英語版よりもかなり”社会決定論”的なニュア
ンスが強く出ていますが、英語版でも、基本的な論調はほぼ同じです。
(英文)
Which ideas are "seized upon" has depended historically upon their social acceptability
at that time, so that developments in scientific knowledge depend not only on the
creativity of individuals but also on the culture in which they are proposed.
どの考えが「つかみ取られる」かは、歴史的に、それらに対するその時代の社会的な受
容性に依存してきました。それで科学的知識の発達は個人の創造力にだけでなく、それら
が提案される文化に依存しています。
この文章は明らかに、数々の科学史、数学史の事実に反しています。たとえば、コペル
ニクスは「地動説」に関する自分の著書を、自分の死後出版するように遺言して、それは
そのように実行されました。生前に「地動説」の考えを発表したジョルダノ・ブルーノは
火炙りの刑によって殺され、ガリレオ・ガリレイは宗教裁判で苦しめられたことは歴史的
事実として良く知られています。数学史の分野にも似たような例がいろいろありますが、
例えば、ノルウェーの天才数学者アーベルが25歳の時にパリの科学学士院に提出した論
文の例を取りましょう。論文の審査委員は老大家のルジャンドルでした。ルジャンドルを
初めとする当時の世界の第一線で活躍していた数学者の多くが、楕円積分と呼ばれる積分
について研究していました。
楕円積分とは読んで字のごとく、楕円の弧の長さを計算する積分です。この楕円積分か
ら発生する多くの難問がありました。アーベルの論文は、この分野の研究に「逆転の大発
想」をもたらしたものでした。楕円積分から定義される関数の逆関数を考察したのです。y
= f(x)という関数の x と y を逆転させて x = f(y) と書き、この方程式を y について解い
て y = g(x) となったとき、g(x) を f(x) の逆関数と言うのです。アーベルが定義した逆関
数は楕円関数と呼ばれます。円弧の計算から定義される関数の逆関数が三角関数 sin(x),
cos(x) であり、これらが 2πを周期とする周期関数であるのと似ていて、楕円関数には2つ
の周期があります(2重周期関数)
。アーベルは、この関数の美しい性質を調べ上げるとと
もに、この関数が数学の他の分野にも様々な応用があることを示しています。後に、これ
も大数学者のエルミートは「アーベルの論文は、後の世代の数学者たちに500年分の仕
事を残してくれた」というほどの画期的な大論文でした。実際、楕円関数の理論はその後、
大いに発展して、最近では整数論のフェルマーの大定理の証明や、コンピュータの最新の
17
暗号理論の作成法など、思いも寄らなかったところにまで応用されています。ところが、
このアーベルの論文を審査したルジャンドルの評価は、
「われわれはその論文が非常に読み
にくいものであることを認めた。それはたいへんうすいインキで書かれ、字は形がととの
っていなかった。われわれは著者にもっと読みやすい写しを提出するよう要請することに
意見が一致した」というものでした。アーベルは貧困のうちに肺結核の病を得て、26歳
と8ヶ月の若さで世を去りました。アーベルの死後、アーベルの研究の内容を伝え聞いた、
これも大数学者のヤコービが「このアーベル氏の発見はなんというすばらしい発見でしょ
う。.
..これに匹敵するものを見たことのある人がいるでしょうか。2年前にそちらの学士
院に送られたこの発見(おそらく今世紀になされた最も重要な数学的発見)があなたの同
僚たちの注意をなぜ引かなかったのでしょうか」と抗議の手紙を送りました。1841年
になって、ようやくアーベルの論文は「フランス科学学士院論集」に掲載されました。不
遇なアーベルの死から12年が過ぎていました。(E.T.ベル「数学をつくった人びと」から
要点を抜き書きしました。)
私は若い頃、フィンランドのヘルシンキで開かれた国際数学者会議に参加した帰り道で、
スイスのジュネーブまでの汽車の旅だったので、途中下車して、ノルウェーの首都オスロ
の宮殿の前の広場に立っているアーベル青年の銅像を見て来ました。何となくミケランジ
ェロのダビデ像に似ているような印象を受けましたが、数学者の銅像が(しかも王宮の前
の広場に)立っている国はノルウェーだけではないかと思います。
アーベルと非常に良く似た運命をたどったのが、もう一人の早世の天才数学者ガロアで
す。ガロアは17歳までに自分が発見したおもな重要な結果をとりまとめて学士院に提出
する論文をつくって、当時の最高の数学者であるコーシーに送りました。コーシーはこの
論文を学士院の審査会に提出することを約束してくれたのですが、自分の研究に忙しくて、
ガロアの論文のことはすっかり忘れてしまいました。ガロアは数学に於いて「群」という
概念を初めて発見したことで知られています。
「群」の理論は数学のほとんどあらゆる分野
に用いられており、数学だけでなく、物理学や化学の分野でも絶対に必要不可欠な概念で
す。しかし、いつまで待っても学士院から審査の結果が届かないことに対してガロア少年
(まだ17歳です!)は、これまでにも学校から(彼のような天才にとっては)不愉快で
不公正な数々の仕打ちを受けており、すっかりキレてしまって、過激な革命運動に精を出
すようになり、「仕組まれた陰謀ではないか」と言われている決闘に巻き込まれて、銃の名
手に腹を打ち抜かれて病院で死んでいます。享年、21歳でした。フランス学士院に提出
されたガロアの論文が「再発見」されて、純粋・応用数学誌(Journal de Mathematiques
pures et appliques) に掲載されたのは、ガロアが死んでから12年後でした。
湯川秀樹は27歳の時、中間子理論構想を発表し、1935年(28歳)で論文「素粒
子の相互作用について」を発表して、中間子の存在を予言しました。当時は、物質の最も
小さな構成単位である原子の構造に研究の注目が集まっていました。原子は陽電荷を持っ
た陽子と、その周囲を回る負電荷を持った電子から出来ていることが分かってきていまし
18
た。クーロンの法則により、陽電荷と負電荷は引き合いますから、丁度太陽の周りを万有
引力に惹かれて惑星が公転しているのと良く似ていて、物理学者には非常に分かりやすい
モデルでした。ところが、原子核の構成要素として中性子が新たに発見され、さらに多数
の陽子で原子核を構成している場合のことも考えると、陽電荷同士は電気的に反発しあう
わけですから、なぜ原子核が結合しているのか、その理由を説明しなければならなくなっ
てきました。ハイゼンベルグは、陽子と中性子が電子をキャッチボールのようにやりとり
を繰り返していることによって、これらが原子核として結合しているのではないか、とい
う仮説を提唱しましたが、これは電子の性質とは計算が合わず、上手く行きませんでした。
その他にも、いろいろな組合せで、なんとか原子核が結合して分離しない理由を説明する
ための仮説が提案されましたが、いずれも上手く行きませんでした。湯川は、既知の粒子
の組合せがいずれも上手く行かないことから、未知の粒子があるのではないかと考え、あ
る晩、ふと思い当たりました。原子核を構成する粒子の間に働く力は非常に到達距離が短
い(十兆分の2センチ程度)のですが、この到達距離と原子を構成する粒子の質量とは反
比例するのではなかろうか、と。明くる朝、早速未知の粒子の質量を計算してみると、電
子の200倍程度になりました。これまで知られていた粒子は、非常に質量の小さい電子
(約 0.5Mev)とそれに比べると遥かに巨大な陽子や中性子(約 900Mev)だけでした。湯
川が考え出した新粒子は、質量の大きさに於いても、今までに知られていなかった異質な
粒子だと言うことになります。これが後に「中間子」と命名された理由です。湯川は、こ
の新粒子が陽子と中性子の間でキャッチボールのようにやりとりされている結果、原子核
は分解せずに結合していられるのだ、という仮説を発表し、この新粒子の満たすべき物理
的な性質について研究しました。1933年に東北大学で開かれた日本数学物理学会の折
りに、湯川は親しい友人(元、京都大学物理学科で同級生)の朝永振一郎に、「原子核の中
の強い力の説明は出来たが、けったいな粒子が出てくるわ」と語ったそうです。
この時代には、湯川の理論が真であるか、それとも単なる空想の産物に過ぎないもので
あるのかを確かめる技術は存在しませんでした。湯川の新説は、数ある仮説の一つに過ぎ
なかったのです。巨大加速器がつくられるようになるのはずっと後の時代のことですが、
1947 年にセシル・パウエルが感光板を設置した観測気球を高空に上げて宇宙線を観測し、
気球を回収後に顕微鏡で中間子の通過した軌道跡を確認し、ここに湯川新粒子の存在が観
測によって確認されたのです。1949 年に湯川秀樹が、また 1950 年にセシル・パウエルが
ノーベル物理学賞を受賞しました。
当時の日本は、1945 年に終了した太平洋戦争の敗北のあとが未だ生々しく残っていた時
代で、日本はアメリカ占領軍の支配下にあり、街には戦争で両親を亡くした子ども達(「浮
浪児」と呼ばれた)が大勢いました。精神的に自信を失っていた日本国民に大きな勇気を
与えたのは、この湯川のノーベル賞受賞(日本人では初めて)と、「フジヤマのトビウオ」
と言われた古橋広之進の水泳・自由形における相次ぐ世界新記録樹立のニュースでした。
ちょうど小学校入学時期に当たっていた柴田少年は、この2つのビッグ・ニュースから強
19
烈なインパクトを受けました。「日本人でも世界最高レベルの人がいるんだ!」柴田少年は
理数系の道に進むことを決意し、高等学校に入学して、水泳部に入部することになるので
す。
湯川秀樹のノーベル賞受賞は、まさに「社会的受容」どころか「社会的フィーバー」ま
で巻き起こしましたが、このことは決して、その14年前に湯川が中間子理論を「つかみ
取った」ことに影響を与えません。時間的な前後関係から明らかなように、革新的な理論
が「つかみ取られる」時期は、それが社会的に受容される時期とは無関係です。革新的な
理論は、比較的短期間の内に社会的に(あるいは専門学界に)受容されることもあるし、
そうはならなくて、かなり長い期間、その正当性が認めてもらえないこともあるのです。
地動説のように、社会的受容性どころか社会的には拒絶される状況であっても革新的な理
論が発見されることはあるし、逆に、フェルマーの大定理や四色問題やポアンカレ予想の
ように、社会的な受容性は大いにあって、その解決には何百万ドルという懸賞金までかか
っていて、多くの有名な数学者が全生涯を賭けて取り組んだにも拘わらず、結局20世紀
末から21世紀初頭までまで数百年の間、未解決のままに持ち越されてしまった数学の大
問題もいくつかあります。
こういうような歴史的事実から検証してみると、「PISA2003 評価の枠組み」の思想は、
機械論的に矮小化された史的唯物論の科学史版という感じがします。政治学者の丸山真男
氏が言う所の「基底体制還元主義」です。「社会的な出来事は、基本的にはそれが生じる経
済的・社会的な体制の発展段階に規定されている」という発想法です。「英雄ナポレオンは
歴史の産物である。もしも 1769 年にコルシカ島にボナパルトが産まれていなかったならば、
歴史は彼の役割を演じるもう一人の人物を産み出していたであろう。」「もしもアーベルが
1828 年に楕円関数の論文をフランス学士院に提出していなかったならば、1840 年頃には他
の数学者が楕円関数の論文を提出していたであろう。」というようなものです。そうであっ
たかもしれないし、そうでなかったかもしれません。私は、個人的には、「そうではなかっ
ただろう」という気がしていますが、「歴史に if ... は意味がない」と言いますから、これ
以上「あーでもない、こーでもない」と空想を巡らすことは止めておきます。
《PISA2003 評価の枠組み(フランス語版からの柴田の試訳)続き》
しかし、いったん創造的な「高ぶり」が産まれ新しいパラダイムが確立された時は、後
はその思考を現実世界の事実と照合させなければならない。ホーキング(1988)は以下のよう
に書いている:
一つの理論は、それが次の2つの要請を満たすならば良い理論である。
すなわちそれは、ごくわずかの任意要素だけを含んでいるモデルを土台として、広い範囲
で観察される事項を正確に描写しなければならない。そしてそれは未来の観察の結果につ
いての明確な予測を提供できなければならない。
20
(ホーキング、A Brief History of Time, 1988, 9 ページ)
[柴田の注:]私はホーキングの本の全体の文脈を見ていないので、上に抜き出された部
分しか見ていないのですが、逆に言えば、PISA 評価基準が自分達にとって最も共鳴できる
と感じた部分を自分達が感じたように引用しているはずですから、この文章はこれだけで
前後の文脈抜きで評価してみることも、また意味のあることだと思います。で、ここでホ
ーキンスが主張していることは、「良い理論」とは、第2巻「3-2-6.思考実験の有効
性」で引用した湯川秀樹「物理講義」に出てきたキルヒホッフの教科書に書いてある力学
が典型例でしょう。教科書で解説している力学は、ごくわずかの任意要素だけを含んでい
るモデルを土台として、広い範囲で観察される事項を正確に描写します。過去・現在・未
来に起きる、あらゆる力学的現象を正確に記述することが出来るのです。たしかに力学は
良い理論ではあります。しかし、と湯川は言います。
<湯川秀樹「物理講義」から再度引用>
とにかくマッハによれば、記述、それ以上のことは考えなくてよい。つまり、現実に天
体が動いている場合、それにぴったり合うような記述というのはニュートン力学です。そ
の概念構成だって同じように合目的的になっとったらええやないか、そういう考え方です
ね。
ところが、私どもより一時代前のシュレディンガーは、やはり哲学的な仕事をしていま
す。彼はそういう意味でもやはり偉大です。物理の力学--つまりキルヒホッフ式の力学
というものができて、力学というものは正確には記述であるということに気がついた。そ
れに気がついたときにものすごい空しさを覚えたというんです。
ハイゼンベルグも哲学的かもしれませんが、シュレーディンガーはやはり非常に哲学的
ですね。ボーアもそうですが、彼らの哲学はみな違っています。シュレーディンガーは、
量子力学の出現以前に大学を卒業しています。彼は一九二五年に--この年はたいへんお
もしろい年ですが--自分の世界観についてあるエッセイを書いています。これを読んで
みますと、彼は、自分は形而上学 metaphysics が全然ない学問はおもしろくない、それは
空論であると言うんです。そして彼は--彼はもちろん物理はできる人ですし、熱力学、
統計力学などに関して非常にいい仕事もあるのですが、自分はほんとうは哲学をやりたい
んだと言う。大学の先生のポジションというものにつき、そこで物理の講義はするけれど
も、それはまあアルバイトであって〔笑〕、自分はそれよりも哲学をやりたいと思ってると、
そう書いているんです。
(後略)
<湯川秀樹「物理講義」再引用中断>
それでは、湯川自身は、このニュートン力学をどのように思っているのでしょう。湯川
は、「完成され過ぎている」教科書の力学ではなく、産まれたばかりの未だ荒々しい「プリ
ンキピア」に帰れ、と主張しているようです。
<湯川秀樹「物理講義」から再度引用>
21
《ニュートンの偉大さ》
しかしながら、ニュートンは同時に重要なことを考えているんです。彼は力学をこしら
えて、それは教科書にはベクトルなんか使って非常にエレガントな形で書かれている。そ
れはいいけれども、しかしニュートンは世界--物理的世界というものの世界像を創ろう
としているわけで、そのことと彼が力学を建設したことは別のことではないはずです。つ
まり、世界システム--世界をひとつのシステムと考えるわけで、こういうことは後の学
者もやるわけであります。物理学というようなものへの興味の持ち方はいろいろできます
が、こういう態度はやはり非常にいいですね。新しい世界観、世界像の樹立ということと
関係しているというほうがたいへんよろしいですね。これは全然哲学の話ではありません
ね。この世界はどうなっているのかというのは、まさに物理学なんですね。
物理学者が考える世界というのには、もちろんそこから落ちているものがたくさんあり
ます。ほかの専門の人から見れば、非常に欠如している、非常に抽象的な性格である。多
くのものが捨象されている--こういうひ弱い批判というものはどんな段階でも出てくる
わけです。しかし、何と何とが捨象されているなどと言ってみても、とにかく彼はひとつ
の世界像、世界のシステムというものを構築している。少なくとも太陽系という一つのも
のをニュートンは構築しているわけです。これは一つの世界です。太陽系の外にずっと、
恒星系とか銀河とかいろいろなものがたくさんあるわけですね。そこまではよくわからん
けれども、しかし少なくとも太陽系という世界はみごとに彼の力学で構築されたというこ
とがあります。これはきわめて重要な点だと思います。
<湯川秀樹「物理講義」再引用おわり>
現代の教科書的力学の出発点である「質点」の概念が「プリンキピア」には全く出てこ
ない。そのかわり、「プリンキピア」は(質量)=(密度)×(体積)という「質量」の定
義から始まる。この定義によれば、体積がゼロの点にゼロではない質量があるはずがない。
物質の究極の極限が大きさのない「点」であるのは、おかしい。こういう湯川秀樹の執拗
な批判が、彼の「非局所場理論」となり、南部陽一郎をして「ひも」理論(弦理論 String thery)
を考案する際に強く影響したと言われています。
「ひも」理論は紆余曲折を経て、最新の「超
弦理論」(Super string theory)に繋がってゆきます。
《PISA2003 評価の枠組み
(フランス語版からの柴田の試訳)続き》
これらの要請に応えることが出来ない理論、あるいはテストしてみることが出来ない理
論は科学的理論ではない。教養ある市民にとっては、科学によって応えられる質問とそう
ではない質問とを識別し、また、科学的なものと疑似科学から生じたものを識別できるこ
とが重要である。
22
[柴田のコメント:「PISA2003 評価の枠組み
第3章
科学的教養」の「まえがき」部分
はこれで完了です。PISA の科学史観は基底体制還元的な偏向があること、「科学」そのも
のに対するとらえ方が「記述主義的」であることが分かりました。
3-3-2.
「科学的教養
●PISA2003 評価の枠組み
領域の定義」
第3章
科学的教養
(フランス語版からの柴田の試訳)
《続き》
[領域の定義]
すべての市民のための科学教育の望ましい成果として今日(こんにち)期待されている
ことは、第一に、科学のいくつかの概念および根底的な説明の枠組みとしての科学をグロ
ーバルに理解させることを促進することである。また、科学が知識を根拠付けるために説
得力のある証拠を収集する方法や、さらに、現実の世界における科学の力と限界について
理解させることである。
各個人にとって本質的なことは、結論が査定される必要があり、決定が下される必要が
ある現実の情況に対して、自分が獲得した科学の知識を活用できることである。
たとえば、ミラーとオズボーン(1998)は現代科学教育の目標は次のようなものでなけ
ればならないと規定している:「科学的・技術的情報を読みかつ理解する能力とその重要度
を査定できる才能。」
彼らは続けて:
「この観点からすると、どのように’科学をするか’は本質的ではない。どのように科学
的知識を創造するのか、あるいは、最終試験の為に一時的に覚えられるかどうか、は問題
ではない。[PISA 自身による省略]すなわち、科学の授業では、生徒たちは証拠を評価す
るための能力があることを証明する様に要請されるべきであり、理論と観察を区別し、提
起されている説明に与えられている信頼性の度合いを評価するための能力があることを証
明する様に要請されるべきである」
(ミラーとオズボーン、1998)。
上に定義されていることは、すべての生徒のための科学教育の目標である。明日の科学
者になるであろう少数のいく人かの生徒たちの為には、このベースは、科学的概念の徹底
した勉強と「科学をする」才能の発達にまで拡張されるだろう。
この観点からすると、科学教育の本質的な目標、それは OECD/PISA プログラムの中心
であるべきだが、は科学的教養を身につけた生徒を産み出すことだと考えることには根拠
がある。「科学的リテラシー」あるいは同じことだが「科学的教養」という概念は様々な文
脈で使われてきた。たとえば、「すべての人の為の科学技術の読み書き能力に関する国際フ
ォーラム(ユネスコ、1993)」はそれに関して複数の種類の見解を提供したが、その内
の一つは次のように述べている:
23
「適切なレベルで、物質世界と科学技術の思考の世界を最適に制御する方法に従って、原
因を理解し余裕を持って行動するための能力」
(ユネスコ、1993)
。
[柴田の補足]前回、英語版には頻繁に出てくる「科学的リテラシー」という言葉がフラ
ンス語版やスペイン語版には全く出てこない、と書いてしまいましたが、実はたった一カ
所、上記のように出てきます。そして、すぐに続けて、「litteracie scientifique」すなわち
「culture scientifique」である、として、これ以降ではすべて「culture scientifique」と訳
されています。「litteracie scientifique」というフランス語は、余りにもせまい意味に取ら
れる感じがするので、科学に対するもっと広い理解をイメージさせる「culture scientifique」
の方を好んだものと推測しますが、これ以降の解説を読んで行くと、このようなフランス
語訳語の選択にも拘わらず、「科学的教養」が非常に狭い、「実利主義」に偏った概念であ
ることが詳しく説明されてゆきます。
(フランス語版からの柴田の試訳)
《続き》
科学的教養についての多くの異なった捉え方(シャモ、1995によって総括されてい
る。また、ロークシュ、2000;グレーバー&ボルト、1997も参照)が、科学的教
養のレベルという概念を提起している。たとえば、バイビー(1977)は4つのレベル
を提案した。それらの内の低い方2つは、名称と用語の知識から成り立っている「名称の
科学的教養」と、限定的な文脈で科学的語彙を使う事が出来る人達に当てはまる「機能的
な科学的教養」である。これらは OECD/PISA の枠組みの内部で目標となるには不十分な
レベルと見なされるべきである。
バイビーによっていちばん高いレベルのものと見なされたのは「多次元的な科学的教養」
で、それは科学の本質やその歴史、あるいはまた文化の中での役割に対する理解を含む、
すべての市民のためというよりむしろ科学のエリートの為に最も適したレベルのことであ
る。もしかしたら、科学的教養とは専門化した思考のこのような高いレベルで考える事だ
と一般に想定されていることが、その教養のよりいっそう到達しやすい観念を広めるのを
困難にしている原因かもしれない。OECD/PISA の科学的思考の枠組みの目的にとってより
いっそう適切であり、非常に近いのは、「概念的および過程的な科学的教養」というバイビ
ーの3番目レベルである。
提唱されているいくつかの叙述を考慮した上で、OECD の PISA プロジェクトでは科学
的教養を以下のように定義している;
科学的教養とは、自然界およびそれに対する人間の活動によって作り出される変化につ
いて理解し、それらに関する決定を下すのに役立てるために、科学的知識を使用して、科
学が解答を与えることが出来る問題を同定し、事実に立脚した結論を導き出す能力である。
以下の注釈では、上の定義の中で述べられているいくつかの項目の意味をさらにくわしく
24
説明する。
科学的教養...
ただ単に、科学的知識(科学に関する知識という意味)とこの知識が開発される過程の両
方が科学的教養にとって本質的であるというだけでなく、上の表現におけるこの理解にお
いてそれらは緊密に結びつけられていることも強調しておく必要がある。以下でより詳し
く議論するように、この過程は科学の素材に適用される時においてのみ科学的である。従
って、科学的過程の利用は、適用される科学の領域に対するいくらかの理解を必然的に含
んでいる。ここで採用されている科学的教養の概念は、世界の科学的側面についての科学
的知識と推論の方法の間に成り立つこの結合関係を考慮している。
科学的知識を使用して、科学が解答を与えることが出来る問題を同定し、事実に立脚した
結論を導き出す...
上で提案されている定義の中で、「科学的知識」は事実や名前や用語の知識よりはるかに広
い意味で使われている。それは科学の根本的な概念に対する理解と科学的知識の限界およ
び人間の活動という科学の本質に対する理解とを含んでいる。同定されるべき問題とは、
科学的調査によって答える事が出来る問題であり、特定の題目の科学的側面についてだけ
でなくさらに科学についてのある種の知識が想定されている。
「事実に立脚した結論を導き
出す」とは、情報とデータを選択・評価する過程を知り、それを応用する事、そして同時
に、情報は決定的な結論を引き出すには十分ではない事がしばしばあるので、利用できる
情報について用心深くそして意識して思索することが必要である、という事を認識するこ
とを意味する。
理解したり決定を下すことに役立てる..
..
この表現は、まず初めに、自然界に対する理解は本来の目標としてそれ自身が高く評価さ
れるだけでなく、さらに決定を下す為に必要である点で評価されるということ、2番目に、
科学的理解は決定を下す際に役立てる事が出来るけれどめったに決定的な要因ではないこ
と、を示している。実生活においては、下すべき決定はいつも社会的、政治的あるいは経
済的な要素から構成される情況の中にセットされており、そして科学的知識はこれらの要
素に関係づけられた人間の価値観の文脈の中で利用される。
[柴田の注]この部分、およびそれに先立つ部分のパラグラフを読むと、PISA を担当して
いる人たちが「科学的知識」を非常に矮小化して捉えていること、「科学的知識」に対する
考え方が完全に間違っていることが分かります。彼らは、実生活において決定を迫られて
いる問題に関係した「科学的知識」はそれぞれの問題について1つだけであり、それはし
ばしば社会的、政治的あるいは経済的な要素に関係づけられた人間の価値観とは対立する
ものであり、それ故に、決定を下す際には「科学的知識」が退けられて、「非科学的な」社
25
会的、政治的あるいは経済的な知識が優先する、と考えているようです。現実は全く違い
ます。
「PISAの 2003 年度、2006 年度テストの設問と<正答>」で取り上げた「ピザを買
う際には、単位当たりの単価がやすい方を買うのが得である」という問題を思い出して見
ましょう。この問題において、「単位体積当たりの価格」を計算することが、この問題に関
する「科学的(数学的)知識の活用」だと PISA は考えています。そして、私が注意喚起し
たような、「まず、食品の安全性を考えよ」という事項は「社会的」あるいは「政治的な」
構成要素であって、「科学的知識」ではない、あるいは「非科学的な要素」である、と考え
ているわけです。また、
「単に安全を確認するだけでなく、健康にも留意して、栄養のバラ
ンスを考えよ」ということも、この問題の「科学的側面」とは見なされていません。しか
し、それは根本的に間違った考え方です。1つの問題を科学的に分析する時には、例えば
上の「どちらのピザを買った方がよいか」という問題であれば、「食品の安全性」に関する
「科学的知識」、人間の健康と栄養に関する「科学的知識」、単位当たりの価格を計算でき
る「科学的(数学的)知識」など、様々な分野の様々な「科学的知識」が総合的、複合的
に関連しています。或る側面だけの「科学的知識」だけで判断すれば、間違った結論に達
することもあります。それらの、場合によっては反対の結論を示唆するようないくつもの
「科学的な知識」の中のどれを重視して判断の基礎とするべきかを判定する際に、社会的、
政治的あるいは経済的な要素に関係づけられた人間の価値観が発動されるのです。社会的、
政治的あるいは経済的な要素に関係づけられた人間の価値観は決して「科学的知識」と対
立する概念ではないし、「科学的知識」を限定したり制約したりするものではありません。
仮に、社会的、政治的あるいは経済的な価値観によって「科学的知識」が退けられ、非科
学的な決定が下されたとしたら、遅かれ早かれ、そのような決定は現実生活の中で矛盾を
引き起こし、最終的には「科学的な知識」に基づく科学的な決定に取って代わられるはず
です。上の解説に書かれているような PISA の考え方だと、「科学的知識」が非常に矮小化
され、制限付きで考えられているので、簡単にそれは「企業の利益」と対立することにな
ったり、そういうときに、科学的知識は「めったに決定的な要因ではない」ということに
なったりするわけです。
●「近代化論」「人的資本論」
世界銀行と共に経済のグローバル化を押し進めてきた OECD(経済協力開発機構)ですが、
黒田一雄(早稲田大学大学院アジア太平洋研究科教授)「教育分野の国際協力政策・戦略の
世界的潮流と日本の教育協力」(2003)によると、世界銀行の「教育援助方針は...最大の社会
的収益率・最大の開発効率・投資効果が期待できるサブセクターとしての基礎教育」とい
うアプローチだそうです。また、同じく黒田氏の報告(2008)によると、「教育開発をめぐる
学問的系譜には大きく分けて、近代化論を基盤にした人的資本論からのアプローチとこれ
に対立する従属理論からのアプローチが存在する。近代化論は Rostow らによって提示され
た、構造機能主義を基とする、すべての社会が単線的に同じ方向に開発されていくとする
26
考え方である。(柴田の補足:W.W.Rostow はアメリカの経済学者ですが、ベトナム戦争の
さなかにアメリカ国務長官に就任し、北爆を開始させた人です。「北ベトナム全土を月の表
面のようにクレーターだらけにしてやる。」「北ベトナムを石器時代に引き戻してやる」と
豪語したことで有名です。)近代化論において、留学や近代学校システムの構築は、近代化
を促進するものとして肯定され、特に 1960 年代の教育援助を理論的に正当化する役割を担
った。近代化論的価値観を基盤として、1960 年代から 70 年代には、Schultz や Becker に
よって人的資本論が構築された。彼らは、教育は経済成長に必要な人的資本を増加させる
という考え方を分析的な手法を用いて明確にし、世銀や各国政府の教育政策に大きな影響
を与えた。Schultz は機会費用を含めた教育の社会的費用という概念と個人の所得向上の教
育への私的効果、社会の経済成長における教育の社会効果という人的資本論の基礎的な枠
組みを概念化し、これを受けて Becker は教育の収益率分析の手法を確立した。この手法は
やがて世銀の Psacharopoulo によって、途上国の教育開発をめぐる実践的議論に多用され、
大きな政策的影響力を持つにいたった。
(中略)一方、途上国の「低開発」の要因を「中心」
と「周辺」の歴史的搾取関係におく従属理論は Prebisch や Frank によって主張されたが、
教育においてもこの従属は存在することを、Carnoy や Mazurui、Arnove などの教育学者
が実証している。また、この従属論の流れを汲む Freire と Illich は従属を断ち切るための
「意識化」や「脱学校化」を提唱し、途上国の教育運動に大きな影響を与えた。このよう
な考え方は、近年「内発的発展論」における地域の「知」の育成と活用の議論へと受け継
がれている。
(後略)」ということだそうです。私はこれを読んで、なるほど、PISA の科学
史観が社会決定論的、基底体制還元的なのは近代化論が理論的な根底にあるからなのか、
PISA の科学及び科学教育観が記述主義的・実用主義的な臭いが強いのは人的資本論のせい
だったのか、
「PISA2003 評価の枠組み」の思想は、正にこの通りだな、と納得しました。
しかし黒田氏の上記報告の引用文献には 2003 年に出版された書籍の名前なども挙がってい
るのに、2000 年、2003 年の PISA への言及が全く無いのが不思議と言えば不思議です。
(フランス語版からの柴田の試訳)
《続き》
情況の中でこれらの価値観について合意がある場合には、科学的データの使用は一般的に
は論争を引き起こさない。それに反して、合意が無い場合は、選択し使用するべき科学的
データについて論争を引き起こす危険はより重大である。
自然界およびそれに対する人間の活動によって作り出される変化..
.
「自然界」という表現は、物理的な環境とそこに生きている物およびそれらの間の関係を
表す為の簡略表現として使われる。
「自然界に関する決定」とは、自己と家族、地域社会や
世界的な問題に結びついた科学的側面に向けた決定にかかわっている。
「人間の活動によって作り出される変化」という表現は、人間の必要を充足させるための
意識的な、あるいは無計画的な自然界への変更を指している。
27
ここでは、そしてあとでよりいっそう明白にされるだろうが、科学的教養は二分法では
ないことを指摘しておくことが適切である。言い換えれば、人々は「科学的に教養のある
人」と「科学的に無学な人」の2つのカテゴリーのどちらか一方に分類され得るという事
を言いたいわけではないのである。むしろ、科学的教養が低い人たちから科学的教養が高
いレベルの人々までの連続したレベルがある。
たとえば、科学的教養が少ししか身に付いていない生徒は、簡単な科学の事実の知識(す
なわち、名称、事実、術語、簡単な原則)を思い出したり、あるいは結論を下したり評価
したりするために常識的な科学の知識を使う事が出来るかもしれない。それとは対照的に、
高い科学的教養を身につけた生徒は、簡単な概念上のモデルを創造するか使用して予測を
立てたり説明を与えたり、それらを正確に作って伝えたりする事が出来るとか、彼らの実
験計画を考慮した科学的調査を分析する事が出来るとか、そしてまた、それらに対する別
の観点や異なった見通しを確かな根拠に基づいて評価するためにデータを活用したり、そ
の意味するところを評価して正確に伝えたりする事が出来るということを示してみせるだ
ろう。
[柴田の注]
「まえがき」を含めて、PISA は科学の目標を「情報判断と説得の道具として
利用する能力を身に付けること」に矮小化しています。(自然)科学および科学教育の本来
の目標は、「吾々を取り巻く(物質)世界の根源を理解し、その美しさ、精緻さ、複雑さ、
奥深さに感動できるようになる」ことです。無藤隆編著「理科大好き!
の子どもを育て
る / 心理学・脳科学者からの提言」(北大路書房)でも、まず第1章の「理科大好きの子
どもを育てる12の原則」の先頭に、「1.身体的動きの原型から発する」「2.自然への
気づきは恣意的なものではない」「3.驚異の念を保持する」...となっていて、第2章は
「自然に対する感性と驚きから理科へ」となっています。その第2章で、「空はただの空。
美しいとかそういうのはない」と言い切った「理科好き」の中学生男子生徒のことを取り
上げて、
「このような発言へと生徒を導いたのは教室内外で優勢な科学観や推奨されている
『科学的態度』ではないだろうか。ひょっとすると、現在の理科の授業自体に、自然に対
する感性や情緒を否定的に扱う傾向があるのかもしれない。」と危惧しています。
3-3-3.
「科学的教養
「第3章
領域の構成」
科学的教養」の残りの部分を邦訳します。この部分の前半(テスト項目の選択
範囲)についてはヨーロッパの何人かの教育学者が批判しています。
PISA Acording to PISA:
http://www.univie.ac.at/pisaacordingtopisa/pisazufolgepisa.pdf
その要旨の日本語訳は
http://www1.rsp.fukuoka-u.ac.jp/2008_4.html#373go
28
また、後半の部分(科学教育観)については神原敬夫氏の 2006 年の論文
http://homepage3.nifty.com/kkam12/sub3.html
で批判されています。やや重複になりますが、フランス語版から全文を日本語に翻訳して
検討してみます。
●PISA2003 評価の枠組み
(フランス語版からの柴田の試訳)
第3章
科学的教養《続き》
[領域の構成]
OECD/PISA 計画が定義する科学的教養は3つの側面から構成されいている:
●科学的な知識や概念、これらは特定の領域への適用によって査定される;
●科学的過程は、それが科学的理法に従っている以上、科学固有の知識を介在させるけれ
ども、この知識はテストの中で成功への主な障害になってはならない;
●知識や過程がテストされる情況や文脈。そしてそれが科学的な内容の質問事項の形とな
る。
[柴田の注1]上記の2番目の側面に書かれている「この知識はテストの中で成功への主
な障害になってはならない」という考え方に基づいて、PISA のテスト問題では通例、その
問題を解くために必要な知識が問題文の冒頭に与えられています。しかし、その与えられ
ている「知識」は文脈に照らして不適切・不自然なものが多く、その「知識」をまじめに
考えると、頭が混乱して解答不能に陥ります。生徒たちは、ともかく「与えられている知
識」を疑ってはならず、その「知識」の与え方から推測して、出題者が何を解答して欲し
いのかを推測する能力(期待に応える「いい子ぶりっこ」する能力)が査定される仕掛け
になっています。
●PISA2003 評価の枠組み
(フランス語版からの柴田の試訳)
科学的教養
[領域の構成]《続き》
科学的教養のこれらの側面は別々に検討されるけれども、科学的教養の実際のテスト問
題では、いつもこれらの3側面は系統的に結合される事を強調しておくことが重要である。
これらの内の最初の2つの側面は両方ともテスト項目の構築や生徒の成績の特徴付けの
為に使われる。第3の側面は、査定の項目の開発において、十分な拡がりを持った適切な
状況の様々な領域を科学的教養の用語で介在させる事を保証するために役に立つ。
以下の節では、科学的教養の査定にとって本質的な役割を果たす上記の3側面をいっそ
う深く解説して行く。これらの側面に従って構造化することにより、OECD/PISA 計画の概
念的枠組みは、理科教育の結果全体をひとつのまとまりとして認識していることを強調し
29
ている。
科学的な知識や概念
科学的な《考え方》の内のいくつかの典型例だけしか査定される事は出来ない。
そのうえ、OECD/PISA 計画の目的は生徒が持っているすべての知識についての一覧表を作
ることではなく、生徒たちが現在と将来の生活のための適切な文脈の中でそれらの知識を
応用する事がどの程度出来るかを測定することが狙いなのである。従って、我々は、一連
のテストの中に含めることができる知識の完全なリストを作成するつもりはない。むしろ
選び出す為の基準を明白に述べようと試みたのである。
そこで、査定される知識は物理学、化学、生物学および地球と宇宙の科学の主な分野か
ら次の3つの標準に従って選ばれた。
■第1の基準は日常の情況への関連性である。
科学的知識のそれぞれは、日常生活においてそれが役に立つ度合いに違いがある。たと
えば、相対性理論は長さ、質量、時間と速さの間のよりいっそう正確な関係の叙述を与え
るけれど、日常生活で出会う力と運動に関係した現象の理解にはニュートンの諸法則の方
がよりいっそう役に立つ。
■第2の判定基準は、耐用性(持続性)に起因する:選ばれるべき知識とその適用領域は
次の10年間を通して、またそれ以降も、生活との関連性を持ち続けるものでなければな
らないということである。科学的教養に関する査定を主要な評価項目とするテストが20
06年に行われる予定になっているので、OECD/PISA の今回の調査(2003)は、今後長い年
月の間、科学と公共の政策において重要でありつづけるであろう知識の上に集中している。
■第3の判定基準は、査定される知識は、選択される科学的過程と結合する事が出来るか
どうかという事であり、単に暗記した名称や定義を思い出す事だけが関わっている場合に
はそのようにはならないだろう。
[柴田の注2]PISA や PISA が引用する教育学者は、個別的な物体や現象に関する知識を
えらく低いレベルの認識と考えています。それに対して、科学者が自分の学説を正当化す
る際に用いる証拠の提示の仕方・方法などをやけに高いレベルの知識と考えています。こ
れは非常に科学的な精神に無知な人の倒錯した感覚ではないかと思います。科学は何より
も個別的なものや現象を大切にします。たった一輪の花に対しても、その美しさを愛でる
と共に、その花の生物学的な仕組みの中に、厳しい自然界で生き延びてゆくための様々な
驚くべき機能と組織が備わっていることに驚き、生命進化の数十億年の不思議さに感動さ
せられます。また、たった1個の石ころであっても、虫眼鏡でよく見てみれば、それが水
成岩であれ、火成岩であれ、様々な鉱物の微細なカケラを含んでいて、その岩石が作られ
た数百万年、あるいは数億年の地球の歴史が刻み込まれていることに感動するでしょう。
「空はただの空。美しいとかそういうのはない」と言い切った中学生だって、夏休みに草
30
原のキャンプへ連れて行って、満天の星空を眺めながら、引率の先生が星座や星雲の物語
を話して聞かせれば、きっと空に対する見方が変わると思います。そして、夜空だけでは
なく、真夏の炎天下の空だって、そこににょきにょきとわき上がる入道雲を見れば、チベ
ット高原から日本海を越えて張り出してきている熱い熱い高気圧に思いを巡らすことが出
来るようになるかも知れません。ただし、長年コンピュータを利用した小学校教育を先駆
的に行ってきたという戸塚滝登氏の「子どもの脳と仮想世界」(岩波書店)によると、「こ
こは標高九百メートルの山奥にある青年自然の家です。五年生たちは二泊三日で宿泊学習
に来ています。季節は初夏。山の天候は安定し、空気は澄んで、夜空にはものすごい数の
星が見えます。(中略)みちる君は北の方角を指さします。見ると木立の梢の上で銀の砂を
まき散らしたように光っているのはペルセウス座の二重星団でした。みちる君の素晴らし
い目と探求心は星の野原を駆け回り、友達と興奮しています。ところが....、そんな仲間
たちを遠巻きにして、ひとりだけ地面の丸太に腰を下ろしたきり、クールな表情の子がい
ます。(柴田の注:せっかく引用させて頂きながら揚げ足を取るようで恐縮ですが、大勢の
仲間たちを一人の生徒が”遠巻きに”することはできません。以下、引用、継続)クラス
一のネット使い、グーグルくんです。
『夏の大三角って、ベガ、デネブ、アルタイルだろ.
..
.』
別に珍しくもない、そんなの当たり前さって言いたげに、男の子はまるでプラネタリウム
を見るみたいに星空を眺めています。(こちらは本物の星空なのですが!)
きっと昼間の野外活動がきつかったのでしょう。早くこの時間が終わらないかな。ぼく
もう眠いよってあくびをこらえています。彼は社会科や自由研究にもネットを使いまくっ
ているので有名なお子さんでした。探求みちる君は自らの目でこの世界を観察し、自らの
脚で歩き回っては自然をありのままに探索しようとします。でもグーグルくんは、『そんな
ことはもう知ってるよ』とばかり、ネットの世界ごしに世界や自然を見てしまう”ネット
めがね”をかけた脳を持っているみたいなのです。(後略)」ということだそうです。
科学的な思考というのは、大宇宙の前では単なるか弱い一本の芦のような存在である人
間が、時空を越えて大宇宙にまで、あるいは地球や宇宙が誕生した世界の始まりの時にま
で飛躍することが出来る雄大なものなのです。PISA の科学的リテラシー(科学的教養)な
るものは、「どうやって自分の主張を科学的に見せかけて相手を説得するか」、とか「相手
の主張の根拠を評価して弱点を見つけ出す」とか、話がきわめて矮小で皮相的です。人間、
まちがってもこんな風にはなりたくないものです。
●PISA2003 評価の枠組み
(フランス語版からの柴田の試訳)
科学的教養
[領域の構成]《続き》
表 3.1 は科学の主な分野の内容にこれらの基準を適用して得られたテーマを、それらに関
係している知識の2、3の例とともに、列挙している。これらの概念をマスターすること
31
は、自然界を理解し新しい経験を解釈する為に必要とされる;それは特定の事実や現象の
研究に依存し、由来する。しかしこれらの事柄の研究から得られる限定的な知識を越えた
重要性を持っている。表 3.1 で列挙される関連知識の例は、テーマの意味を伝えるために与
えられるのであって、それぞれのテーマに関連させる事が出来るすべての知識を網羅する
つもりはまったくない。
表 3.1 ■科学的教養の査定の為の主な科学のテーマ。
---------------------------------------------------------●物質の構造と特性(電気伝導と熱伝導)
●大気の変動(放射、伝導、圧力)
●物理的・化学的変化(物質の状態、反作用の比率、分解)
●エネルギーの変換(エネルギーの保存、エネルギーの減衰、光合成)
●力と運動(つりあった / 不安定な力、速さ、加速度、慣性)
●形態と機能(細胞、骨格、適応)
●人間の生物学(健康、衛生、栄養)
●生理的変化(ホルモン、電気分解治療、ニューロン)
●生物多様性(種、遺伝形質、進化)
●遺伝子コントロール(優越性、継承)
●生態系(食物連鎖、種の保存)
●地球とその宇宙における位置(太陽系、昼夜・季節の変化)
●地学的変化(大陸の漂動、気候学)
------------------------------------------------------------------[柴田の注3]以上が、科学的教養を構成するとされる3つの側面、
(1)科学的な知識や
概念、(2)科学的過程、(3)情況や文脈、の内の(1)についての説明のすべてです。
次に、(2)科学的過程、の解説を翻訳してゆきます。(2)の部分については、神原敬夫
氏が「科学的認識は大変軽視されます。」と評しておられる所ですが、神原論文に引用され
ている PISA の日本語訳文(国立教育政策研究所訳)を読んでも、それの英語原文を読んで
も、何だか奇怪なことが書いてあるようなのですが、どうも意味が非常にわかりにくい所
があります。フランス語版ではどうなっているのでしょうか?
●PISA2003 評価の枠組み(フランス語版からの柴田の試訳)《続き》
[科学的過程]
過程とは、様々な現象について、知識を得たり理解に達するために、事実やデータを思
32
いついたり手に入れたり、解釈したり利用したりする際に用いられる、精神的(そして時
には身体的な)作業である。過程は必然的に何らかの題材に関連している;具体的な内容
を欠いた過程などありえない。このような過程はあらゆる種類のテーマに適用される事が
出来る。
題材が世界の科学的側面から引き出されていて、科学的理解をいっそう進める為に使わ
れる時、それらは「科学的」過程と呼ばれる。科学の過程として通常述べられている事柄
は、私達を取り巻く世界から証拠を集めて解釈してそこから結論を引き出すために必要な
さまざまな知識と能力とに渡っている。証拠を集めることに関係する過程は、実際に調査
をおこなうことと関係がある過程を含む -- 実験の情況を計画・設定し、適切な器具を用い
て測定と観察をする、など。
これらの過程の展開は、生徒たちが科学的理解はどのようにして築き上げられるのか、
そして理想的には、科学的探求と科学的知識の本質を経験し理解する事が出来るように、
学校の理科教育の目的に含まれている。しかし実際には、学校を卒業した後の人生に於て
これらの実験の技能が必要になる人はほとんどいない。むしろ、多くの人にとっては、こ
の実験や観察操作の結果として発展させられる過程や概念の理解が必要となるだろう。そ
のうえ、結論は観察から帰納的に導き出されるという、「科学的過程」として伝統的に考え
られている見解は、それは多くの学校理科の教材でまだ強い影響力を持ってはいるが、科
学的知識が発展してくる実態に反していると考えられる強固な理由が存在する。
(例えば、Ziman、1980)
科学的教養は、ここで定義した様に、「証拠に基づく結論を引き出す」為に科学的知識を
使う事の方を、自分自身で証拠を集めることよりもより高い優先度を与えている。
証拠やデータを主張や結論に結び付けるための才能は、すべての市民が彼等の生活のうち
で科学によって影響を及ぼされる側面について判断を下すべき事柄にとって中心的である
と見なされている。
[柴田の注4]ここでは、とんでもない暴論がいくつも述べられています。
先ず第一に、
「学校を卒業した後の人生に於てこれらの実験の技能が必要になる人はほと
んどいない。むしろ、多くの人にとっては、この実験や観察操作の結果として発展させら
れる過程や概念の理解が必要となるだろう。」という主張です。日本でも、「学校を卒業し
た後の人生に於て、学校で習った数学(あるいは英語、等々)はちっとも役に立たなかっ
た。だから、もっと役に立つ数学(あるいは英語、等々)を教えろ」という主張が幅を利
かせています。これについて、上野健爾氏(京都大学)は 1997 年度の日本数学会・市民講
演会で、面白い例えを用いて次のように反論しています。「『幾何の時間に習って役に立っ
たことは三角形の二辺の長さの和は残りの辺の長さより長いということである。しかしこ
んなことは犬や猫でも知っている』という趣旨のことを菊池寛が言ったと伝えられていま
33
す。最近では、初等・中等教育の内容の厳選に関して、教科課程審議会会長の三浦朱門氏
は、教科のエゴを無くすために、たとえば数学では『曾野綾子のように「私は二次方程式
もろくにできないけれど、65 歳になる今日まで全然不自由しなかった」という委員』を半
分以上加えて数学教育の見直しを行う必要があると発言しています。私は俳句も短歌もで
きないけれども今日まで全然不自由しなかったからといって、国語の教科書から俳句や短
歌をなくすべきだと主張する人に対して三浦朱門氏は何と反論されるのでしょうか。(後
略)」なるほど、もっともな意見ですね。例の占いおばさんの調子で「ズバリ言うわよ」な
らば、
「三浦朱門さんや曾野綾子さんの文章が国語の教科書に採用されているがどうか私は
知らないんですけれど、仮に生徒がそういう文章を習ったとしても学校を卒業した後の人
生に於て役に立つとは思えないから、三浦朱門さんや曾野綾子さんの文章を国語の教科書
に載せる必要はありません」と言いたい所ですね。... (~o~);
実は、上記の例えは上野氏や私は冗談のつもりで書いているのですが、PISA の人たちは
大真面目なのです。神原敬夫さんの PISA 批判論文に引用されている国立教育政策研究所総
括研究官・有元秀文氏「PISA 読解力調査でわかったこと」という講演によると、PISA の
問題と、わが国で行われる「国語」の問題の違いが次のように説明されています。
■実際社会で直面する、生きるために必要不可欠な実際的な課題が対象になる。
■通常の文章(柴田:散文とか韻文)は6割に過ぎず、実用的な図表・地図などが4割を
占める。
■従来の国語教育の枠を越えて理科や社会科に関連する幅広い話題が含まれている。
(中略)
■読んだことについて、
「自分の意見」を表現することが求められる。意見を書くときには、
「課題文に書かれたこと」を根拠にすることが厳しく求められる。つまり、課題文に書か
れていない根拠を挙げると正答にならない。
(後略)
最後に指摘されている点については、非常に重要なポイントなので、後で再度とりあげ
て解説しますが、問題文に与えられている状況設定に疑問や異論を表明することは許され
ず、しかも自分の意見を表明しない自由も許されず、かならず、問題文に与えられている
条件を絶対的に正しいものと信じ込んで設問者の意向に添うような「自分の意見」を表明
することが強要されるわけです。こういうのを「洗脳」というのです。あるいは「政治的
査問」とか「自己批判書」も同じたぐいです。いずれ、この連載の「2-2.学生のレポ
ートから見えてきたフィンランドの義務教育に蔓延する落ちこぼれ・落第・学級崩壊・い
じめ
●フィンランドの小学4年生の国語の問題「鯨の特徴」の正答を見て驚く」で具体
的に説明したいと思っていますが、フィンランドの小学校教育が、こういう感じの教育に
なっています。
第2に、「科学的教養は、ここで定義した様に、『証拠に基づく結論を引き出す』為に科
34
学的知識を使う事の方を、自分自身で証拠を集めることよりもより高い優先度を与えてい
る。」という点も、近代市民社会、とりわけ高度情報化社会においては多くの人々が陥りや
すい非常に危険な考え方です。この連載シリーズの中で、いずれ時間的余裕ができたら詳
しく書こうと思っている「2-7.
『12人の怒れる男』(Henry Fonda)
与えられた情報
を鵜呑みにせず、その信憑性を根底から検証してゆく態度のお手本となる映画」というの
があります。スラム街に住むチンピラ不良の少年が父親と口論になって、ついカッとなっ
て、日頃から手にしていた特殊なナイフで刺し殺してしまった、という容疑で告訴されて
います。陪審員たちが集まって、「有罪」か「無罪」かを審議します。物的証拠として少年
が日頃から愛用していた特殊ナイフが現場に残されており、
「少年が父親を刺している瞬間
を向かいのアパートの窓から目撃した」
「悲鳴と絶叫が聞こえたので窓の外を見たら少年が
慌てて逃げて行く姿を見た」というスラム街の住人たちの証言も揃っています。
『証拠に基
づく結論を引き出す』ことは簡単です。「有罪」以外はありえません。「さあ、結論は決ま
っているようなものだから、早いとこ裁決して帰ろうぜ」ということになって、12人の
陪審員たちの裁決が行われます。結果はもちろん満場一致...かと思われたのに、11:
1。一人の男だけが「無罪」に挙手をします。
「おい、おい、悪い冗談は止めろよ。あんた
は、あのガキが犯人じゃないとでも言う積もりなのかよ」と問われて、主人公の男(Henry
Fonda が演じており、architect という職業設定になっています)は「私だって、あの少
年が犯人かも知れないと疑っています。しかし、彼が犯人である、と断定するには、まだ
証拠が不十分なのではないでしょうか。未来ある少年に死刑判決を下すのであれば、5分
間という審議時間はあまりにも短すぎるとは思いませんか。未だ時間は十分あります。も
う少し時間を掛けて、じっくりと事件を再検討してみようではありませんか。」と主張しま
す。実は、この「建築士」は、検察側が用意した物的証拠や複数の証人だけに頼らず、警
察ドラマでベテラン刑事がよく口にする「現場100回」の例え通り、自分も犯行現場の
スラム街を歩き回って意外な証拠品を見つけてきていることがやがて明らかにされます。
権威者が提供する証拠だけに満足することなく、「自分の脚で」証拠を探すことの重要性が
非常に強調されています。これこそ真に「実社会で必要とされる能力」なのです。陪審員
全員が PISA 脳で固められていたら(日本でもまもなく「裁判員」という名称で同じ制度が
スタートしようとしています)、もっともらしい論理で「有罪」と裁定されるえん罪事件が
続発するのではないか、と強い危惧を抱かせます。
第3に、「結論は観察から帰納的に導き出されるという、『科学的過程』として伝統的に
考えられている見解は、それは多くの学校理科の教材でまだ強い影響力を持ってはいるが、
科学的知識が発展してくる実態に反していると考えられる強固な理由が存在する」という
奇怪な主張が述べられています。私は最初、神原さんの論文に引用されていたこの日本語
訳文を見て「誤訳ではないか」と疑い、英語原文を見てみたのですが、誤訳ではありませ
んでした。今回、フランス語訳も見てみましたが、僅かな表現上の違いを除いて基本的に
35
同じでした。PISA の人たち、およびそこに参照されている「Ziman、1980
など」は何を
考えているのでしょうか??
第2巻「3-2-6.思考実験の有効性
★アインシュタインの場合」で見たように、2
0世紀初頭の世界の物理学界は、
「真空中での光の速度は互いに相対的に一様に動いている
すべての座標系において同一である」という、これまでの理論からすれば絶対にあり得な
い、しかも実験では精密に測定すればするほど正しいことが検証される事実に苦悶してい
ました。この矛盾を説明するための様々な仮説が提唱されましたが、どれもこれも実験結
果と合致せず、苦悶は深まるばかりでした。そんなときに彗星のように登場したのが、ス
イスの特許局の事務職員だったアルバート・アインシュタイン青年による「特殊相対性理
論」でした。この理論は、動かし難い実験結果である上記の「真空中での光の速度は互い
に相対的に一様に動いているすべての座標系において同一である」という事実を新しい理
論の出発点として採用し、その結論としてどんなことが導き出されるのかを説明したもの
でした。アインシュタインの新しい理論の正しさは、原子の世界での原子核崩壊といった
極微の世界での実験や天文学における水星の近日点移動という宇宙的スケールの世界での
観測によって確認されています。
また、本巻「3-3-1.科学的教養
まえがき」の終わりの方で解説したように、1930
年代の物理学界は、「陽電荷を持つ複数の陽子が、それらの間の電気的斥力(クーロン力)
にもかかわらず、なぜ原子核に結合していられるのか」という事実を説明するのに大変苦
労していました。ハイゼンベルグの電子キャッチボール説など様々な仮説が提唱されまし
たが、いずれも実験結果と計算が合わず、巧い説明が見つかりませんでした。そういう時
代に27歳の湯川秀樹が「中間子」という今まで全く知られていなかった粒子の存在を仮
定すると、みごとにこの矛盾が解決することを示しました。いろいろな実験結果から計算
すると、その新粒子の質量は、電子より遙かに大きく、しかも陽子や中性子よりは遙かに
小さいという、まことに「けったいな粒子」ということで、「中間子」という名前が与えら
れました。このけったいな粒子が湯川の単なる空想の産物ではないことが、13年後にセ
シル・パウエルの宇宙線観則によって実験的に証明されました。
1995年の日本数学会・市民講演会で松本眞氏(当時九州大学、現在広島大学)は、
ニュートンの「プリンピキア」の内容を解説して、「リンゴが木から落ちるのを見ただけで
は、万有引力の法則を導き出すことはできない」と言っています。たしかに、リンゴが木
から落ちる、という現象を如何に普遍化してみても、せいぜい「地球上のあらゆる物体は
地球の中心に引きつけられる」という程度のことしか導き出すことはできません。「それで
は、リンゴは落ちてくるのに、月はなぜ落ちてこないのか?」と考えると、地上の物体だ
けでなく、天体の運行も視野に入ってきます。第1巻「1-7.ケプラーの惑星法則を計
算して地球自転軸の傾きを知る」で紹介したケプラーの第2法則(面積速度一定の法則)
を考えてみると、この一定の面積になっているという扇形の頂点から常に同じ大きさの力
36
で引きつけられている事が、その天体が面積速度一定で宇宙を回転するという条件と同じ
ことを表している、ということをニュートンは「プリンピキア」の中で、初等幾何を使っ
て証明しているそうです。松本さんの解説によれば、ニュートンが「2つの物体の間には、
それらの質量の積に比例し、それらの間の距離の自乗に反比例する引力が働く」という万
有引力の法則に到達するためには、上記のケプラーの法則を含む、少なくとも4つの異な
る天文学的な観測事実が必要だったそうです。それらが無いと、
「質量の積に比例」とか「距
離の自乗に反比例」とかいう性質を導き出すことができないからです。確かに「リンゴが
木から落ちる」という事実をいくら普遍化しようとしても、こういう性質が得られるはず
はありません。松本さんは、この「ニュートンとリンゴ」のエピソードの例のように、や
さしく「分かった気にさせる」言葉の魔術に強い警鐘を鳴らしています。真理を得るには、
多くの実験的事実を積み上げて、それらを総合的かつ合理的に説明できる論理を考え抜く
事が必要なのです。
で、「結論は観察から帰納的に導き出されるという、『科学的過程』として伝統的に考え
られている見解は、それは多くの学校理科の教材でまだ強い影響力を持ってはいるが、科
学的知識が発展してくる実態に反していると考えられる強固な理由が存在する」という
PISA の奇怪な主張は、何を言っているのでしょうか?
かなり無理な解釈だとは思います
が、ひょっとして、「(生徒の頭の中で)科学的知識が発展してくる実態は、自分で実験を
繰り返して科学的知識を増やすことよりも、教師の講義を聴いたり自分で読書したりして、
文章的な説明による知識が増える場合の方が圧倒的に多い」ということなのでしょうか?
しかし、そうだからといって、「実験を自分でさせるより、誰か偉い人が実験してくれた結
果を講義や書物で学ぶ方の優先度を高く評価する」のは変ですねえ。
あるいは、
「観察結果を客観的にズラーっと並べ上げるだけでは真理は得られず、さらに
それらの観察結果を合理的に説明できるような論理を組み立てる思考作用が必要だ」と言
いたいのでしょうか。それだけのことなら言わずもがな、の当たり前のことで、そもそも
実験や観察をするのは、
「ヒマだから何でもいいから何かやってみようか」というわけでは
なく、ある目的、あるいは何らかの予測結果を想定して行うのですから、思考作用抜きの
「単なる実験・観察」などあり得ないわけです。そして「観察から帰納的に導き出される」
ということは、観察された事実に基づいて、それに対する合理的な説明を「帰納的論理」
を用いて導き出す、ということですから、それがどうして「科学的知識が発展してくる実
態に反している」のでしょうか?
正直言って、私はこの PISA の文章の言いたいことがまったく理解できません。日本語訳
文でも英語原文でもフランス語文でも、まったく分かりません。
●PISA2003 評価の枠組み(フランス語版からの柴田の試訳)[科学的過程]《続き》
37
それ故、すべての市民は、科学が答える事が出来る問題と出来ない問題の違いを識別し
て、科学的知識を用いることがいつ適切であるのかを判断できる必要がある。すべての市
民は、提示されている証拠について、結論との関連性についても、また証拠の集め方につ
いても、有効であるか否かを判定できる必要がある。そして、すべての内で最も重要なこ
とは、すべての市民は集められた証拠とそこから導かれる結論との間に関係を成り立たせ
る事が出来る必要があり、そして個人的、社会的あるいは世界的なレベルで彼の生活に影
響を与えるあれこれの行動計画を支持あるいは否定する証拠のそれぞれの重みを計る事が
出来る必要があるということである。
上で提案されたばかりの区別は手短に言えば、以下のように総括する事が出来る:科学
の枠組みの中で適用される過程よりも科学についての過程に優先権を与えるべきである。
表 3.2 に記入されている過程は、先ずもって科学の枠内で適用されるものとしてではなく、
第1義的に科学に関係した知識として理解されることが重要である。すべての過程が科学
的概念の知識を意味している。最初の過程の中では科学的知識は本質的な要素である。
2番目と3番目の過程の中ではこの知識は必要ではあるが十分ではない。これらの過程で
は、科学的証拠とデータを収集したり使用したりすることについての知識が本質的だから
である。
表 3.2
PISA2003年の科学的過程
------------------------------------------------科学的読み書き能力
過程1:科学的現象を描写し、説明し、予測する
過程2:科学的調査について理解する
過程3:科学的証拠と結論を解釈する
------------------------------------------------これらの過程についてのより詳しい解説が以下に続く。
科学的現象を描写し、説明し、予測する
この過程の枠内において生徒たちは与えられた情況に適切な科学的知識を応用する事に
よって彼等の理解の程度を証明する。彼らは現象を描写したり説明したり変化を予測した
りする事ができるべきであり、いくつかの場合には、適当な叙述、説明や予測を認識した
り同定したりする事もできるべきである。
科学的調査を理解する
38
科学的調査を理解するためには、生徒たちは科学的に調べる事が出来る問題を同定した
り定式化したり、そのような調査が何を意味しているのかを決定できなければならない。
彼らは特に、与えられた状況の中で科学的調査の対象になり得る問題を同定したり、示唆
したりすることができるべきである。彼らはまた、この科学的調査に必要な証拠を認識し
たり同定したりする事ができるべきである:たとえば、どのデータが比較されるべきか、
どの変数が変化させられあるいは制御されるべきか、どんな追加の情報が必要とされるか、
あるいは, 適切なデータを集めるためにはどんな行動が取られるべきであるか。
科学的証拠と結論を解釈する
これは、生徒たちは仮説や結論を証拠づけるために科学的結果に意味を与えなければな
らないことを意味する。そのためには、彼らは科学的情報にアクセスし、科学的な事実に
基づいて結論を引き出し、それを他人に伝えたりする必要があるかもしれない。彼らはま
た、用意された証拠用のデータに基づいて様々な選択肢の中から1つの結論を選び出して
他の人に伝えなければならないかもしれない。あるいはまた、与えられた情報に照らして、
与えられた一つの結論が正しいか間違っているかの理由を説明したり、あるいは、あれこ
れの結論に到達するために設けられた仮定を同定する必要があるかも知れない。そしてさ
らに、あれこれの科学的結論が社会に与える意味について塾考し、それを伝える必要があ
るかも知れない。
科学的知識は3つの過程のすべてにおいてそれぞれある程度必要とされる。しかし、2
番目のと3番目の過程に関連した項目においては、その知識は主な「障害物」とはならな
いようにする。なぜなら目的は有効な科学的証拠を集めたり、評価したり伝達したりする
ために用いられた知的な段取りを査定する事だからである。それとは反対に、最初の過程
の中では、評価の対象を成すのはまさに関係する科学的概念に対する理解であり、従って
テスト項目の難しい点の主要な根源はこの理解なのである。
これら3つの過程のそれぞれについて、適用される科学的概念と関係する分野に依存し
て広い範囲の用語の難しさがある事を強調しておこう。
OECD/PISA の評価の本番テストの際に用いられた用語の選択は、参加各国へのフィードバ
ックと現場での予備的な試みを通じて、15歳の生徒たちにとって適切なレベルの難易度
であることを保証している。
[柴田の注5]たしかに、世界各国の15歳児たちが学習してきたカリキュラムは参加国
ごとに非常にバリエーションが大きいでしょうから、それらの差異が国ごとの難易度の格
差につながらないように配慮して設問の分野や問題文を確定することは、並大抵の仕事で
は無いでしょう。ここまで大規模に世界的スケールの教育評価システムを作り上げた PISA
39
の担当者の方々の膨大な労力に対しては、とにもかくにも、敬意を表したいと思います。
さて、ここまでで、(1)科学的な知識や概念、(2)科学的過程、(3)情況や文脈、の
内の(2)まですべてを翻訳してきました。最後に、「(3)情況や文脈」の翻訳が未だ残
っていますが、(3)の要点をリストアップした表3.3「科学的教養を評価するための適
用分野」については、神原敬夫氏の論文に日本語訳文が引用されているので、興味のある
方は、そちらを参照してください。フランス語版の日本語翻訳はひとまずここまでで終了
します。
[柴田の補足1]以下の設問は、「数学的リテラシー」の公開問題例の一つです。
[補足
「国防予算」の問題]
---------------------------------------------------------------問題例14:予算
ある国では 1980 年の国防予算が 3,000 万ドルで、その国家予算は5億ドルでした。翌年
の国防予算は 3,500 万ドルで、国家予算の総額は 6.05 億ドルでした。この2カ年のインフ
レ率は10%でした。
A.あなたは平和主義協会で講演するように依頼されたとします。あなたは、この時期の
国防予算が減少したと説明するつもりです。どうしてそのようなことが言えるのか説明し
て下さい。
B.あなたは、陸軍士官学校で講演するように依頼されたとします。あなたは、この時期
の国防予算が増加したと説明するつもりです。どうしてそのように言えるのか、説明して
下さい。
---------------------------------------------------------------------例によってワンパターンの、見かけ上の絶対的な数値と相対的な数値(比例)の違いを
問う問題ですが、この問題は倫理的に絶対に見過ごすことが出来ません。子供たちに対し
て、「数学的リテラシーというものは便利なものであって、こっちではこう言い、あっちで
は別の主張をする二枚舌に役に立つんだよ」と奨励しているからです。まさに、古典ギリ
シャ時代のソフィスト(詭弁術師)そのものです。こんなトレーニングを受けた子供たち
が成長すれば、世の中には口のうまい詐欺師的なセールスマンや無内容な事をしゃべくり
まくる「科学評論家」のたぐいが続出する危険があります。PISA の多くの設問が、大なり
小なり上の問題と同様の傾向がありますが、上の問題例14ほど露骨に提示してもらえる
と、かえって PISA の本性が良くわかって教訓的です。
お盆休みに東京に帰省した8月15日、東京大学新聞社に行って、古い資料をコピーさ
せてもらいました。その折りに雑談で PISA の話を持ち出し、上記の「国防予算の問題」を
説明したところ、編集部の学生の一人が、「でも、そういう二枚舌に騙されないように教育
するためには良い問題なんじゃないですか」と質問(反論)しました。私は、「それは違い
40
ます。この問題では問Aでも問Bでも『あなたは』という表現になっていて、回答者に二
枚舌の立場に立つことを強制しています。もしも二枚舌に騙されないような能力を付ける
ための設問であれば、予算の数字データを提示してから、問Aでは、この予算の内容を報
じたA新聞の記事は、『この時期の国防予算が減少した』と解説しました。どういう根拠か
らそのようなことが言えると思いますか。説明して下さい、と問いかけます。問Bでは、
同じ予算の内容を報じたB新聞の記事は、『この時期の国防予算が増加した』と解説しまし
た。どういう根拠からそのようなことが言えると思いますか。説明して下さい、と問いか
けることにします。同じ事実を報道しても、その評価が全く正反対になることはメディア
の報道で実際に時々見られる現象です。これら異なる評価のメディアの報道を素材にして
「クリティカル・シンキング(批判的思考)」というトレーニングをする課題が、高校の教
科「情報」の教科書にも載っています。二枚舌を使える能力を養うような表現の問題を出
題するのか、それとも、相対立する2つの立場の違いを考えさせる問題として出題するの
かは、出題者の基本的な人生観・イデオロギーが(意識的、あるいは無意識的に)反映す
るのです。」と解説しました。ジャーナリストの卵である東大生くんは、「うーん、なるほ
ど..
.」と、半分位は納得してくれたように見えました。私は、誰でも100パーセント納
得してくれると信じ込んでいたのですが、他人に納得してもらうのは非常に難しいことだ
と思い知らされました。
また、別の編集部員から、「文科省がいくら頑張ったって、教育現場は変わりませんよ。
少なくとも、僕たちが在籍していたような進学校では大学入試に合格することが目的のす
べてなんだから、文科省が『ゆとり教育』と言おうが、『PISA 型教育』と言おうが、それ
が大学入試に役に立たなければ、生徒にとっても教師にとっても”実用にならない”教育
なんですよ。だから、大学の入試問題が PISA 型にならない限り、日本の高校で PISA 型が
普及することはないと思います。大学の先生さえしっかりしていれば、心配ないんじゃな
いですか。」と、ゲタを預けられたと言うか、励まされた、と言うのか、あるいは「日本の
教育の諸悪の根源は大学入試にあり」という皮肉のつもりなのか、複雑な気持ちになりま
した。
[2009 年9月7日追記]
●大学生にも OECD 国際学力比較テスト. OECD は既に、大学生に対する国際学力テス
ト を 実 施 す る た め に OECD/AHELO(Assessment of Higher Education Learning
Outcomes)という組織を発足させて、各種の調査を行い、準備を整えています。この国際的
な大学生学力テストに日本も参加することが既に決まっており、まず第1回目は、全国の
大学の工学部と経済学部をいくつか抽出して実施する予定だそうです。ただし、具体的に
どの大学が実施校になるかは未定のようです。やがて数年先に、「日本の大学生、学力・勉
学意欲とも世界最低」というような大見出しが朝日新聞のトップをかざるんでしょうねえ。
41
[柴田の補足2]
朝日新聞 2008 年5月26日「opinion:グローバル化の正体@コミュニケーション」欄
に同時通訳者で立教大学教授(言語コミュニケーション論)の鳥飼玖美子さんが、インタ
ビューに答えて興味深い内容の話をしていますのでご紹介します。
■英語下手は文化
--(インタビューアー)「我が子には英語で苦労させたくない」という親の期待も強いで
すね。
(鳥飼)「そうですね。でもどうでしょうか。『英語は大事だ』って皆さんは言いますが、
日本には『ぺらぺらしゃべるのは軽薄』『おしゃべりだと見られたくない』という価値観が
あるでしょう?
家庭でも学校でも『静かにしなさい』『先生の言うことはちゃんと聞きな
さい』としつけられる。そういう価値観の中にいる日本の子どもたちが、英語の授業の時
だけ『積極的にコミュニケーションを取りなさい』とか『しゃべりなさい』と言われても、
実際はなかなか難しい。私は日本人が英語下手なのは、日本人の言語観や文化から来てい
るものだと考えています。ですから、あながちだめだとは言えない」
--英語は出来ないより出来た方が..
..。
「もし、どんどん英語で話すような子供に育てたいのなら、アメリカ型コミュニケーショ
ンが世界標準でいいというのなら、親としては生意気な子供になることを覚悟しなければ
ならないですよ。先生に『それ違う』とか、いちいち反論する子、ああいえばこういう、
そんな子です。生意気な子供に育ったら、『ああよかった、うちの子は国際的なコミュニケ
ーションが出来るようになったんだ』と安心したらどうでしょう。逆説的ですが」
(後略)
[柴田の補足3]
8月9日に早稲田大学で開かれた「数学教育学会夏期研究会(関東エリア)」のパネルデ
ィスカッションにパネラーの一人として招待して頂き、
「因果律のない世界に住む人々の登
場」というタイトルで講演させて頂きました。同じパネラーの一人として講演をした芳賀
正憲氏(コスモロジック)は、廣川洋一「イソクラテスの修辞学校」
(講談社学術文庫)か
らの引用として、次のような内容の話をされました。
古代ギリシャでプラトンが進めたのは、真理のための理論的探究であり、対象に対する
体系的・方法的探求で、厳密な数理知識を求めた。これは理論値の探求をめざしていたと
考えられる。プラトンと対立していたイソクラテスは、言葉を錬磨し育成することこそ人
間が最も人間らしくなる方途であると考え、レトリックに熟達することにより、実生活の
多くの場合において健全な判断をし、最善のものに到達できる、そのような人になること
をめざした。
「実生活の多くの場合において健全な判断をし、最善のものに到達」すること
こそ、実践を重んじたイソクラテスがフロネーシス(賢慮。勇気、節制、正義とならんで、
ギリシャ以来伝えられている4つの徳目のひとつ)として考えた内容である。このように
42
実践知(フロネーシス)はレトリック(修辞学・言語技術)に熟達することにより涵養さ
れると考えられていたものである。
対立するプラトンとイソクラテスの思想は、近代ヨーロッパにおいては、むしろイソク
ラテスが主流となり、「レトリック」は教養人の必須の徳目と考えられた。しかし、西洋思
想が日本に入ってきた時には、日本では圧倒的にプラトンが有名になり、イソクラテスの
名前と思想は殆ど知られていない。しかし、情報化社会の現在では、イソクラテスの思想
と業績を再評価する必要がある。
芳賀さんのお話を伺っていて、PISA の「科学的教養」の思想はギリシャ古典のイソクラ
テスから近世ヨーロッパに受け継がれた「レトリック」中心の「実践知」かもしれない、
という感じがしました。この「実践知」を思想的基盤の一つとしてヨーロッパ近代思想は
資本主義経済体制と一体となって全世界に勢力を拡張してきたのかも知れません。しかし、
日本人の伝統的な思考・思想は「レトリック」中心のイソクラテス思想よりも「純粋な」
プラトン哲学の方が圧倒的に親和力を持ったのでは無かろうか、と想像しました。
[柴田の補足4]
8月10日の朝日新聞「読書」欄に子安宣邦(大阪大学名誉教授)「『近代の超克』とは
何か」(青土社)についての書評が載っていました。
(前略)本書が注目するのは、(太平洋戦争)開戦直後に京都学派の知識人が持ち出した
「近代の超克」という思想である。京都学派においては、明治以来の日本の近代はヨーロ
ッパをまねたものでありその近代の支配を受け入れたものであったが、英米の支配に反発
する大東亜戦争はそれをついに超克する思想の体現なのだとされる。大東亜戦争は「近代
の超克」として正当化されたのだ。
著者は多角的な分析の末、この京都学派の思想は、戦争の自己弁護的なものに過ぎない
とするが、しかし戦後においてこの思想が竹内好によって高く評価されたことを問題にす
る。
著者によれば、竹内はかれ自身の「近代の超克」論を展開し、京都学派にはない「アジ
ア」をそこに持ち込んだ。明治以来の「近代日本はアジアに在ってアジアではない」とす
る竹内によれば、
「近代の超克」とはアジアの原理によって近代日本を超克する思想なのだ。
近代欧米の駆逐の思想なのではない。そのアジアの原理とは何か。それは、アジア固有の
実体的原理ではなくて、自由や平等のような「西洋の生み出した普遍的な価値をより高め
るために西洋を変革する」姿勢である。
竹内は京都学派の「近代の超克」を自らの観点から読み替えたことになるが、実は、著
者は竹内の思想を深く理解した上で、それをさらに読み込んで言う。
「現代世界の覇権的文
明とそのシステムに、アジアから否(ノン)を持続的に突きつけ、その変革の意志を持ち
続ける」という姿勢がアジアの原理であり、それは具体的には、「殺し・殺される文明から
共に生きる文明への転換」を求める意志であると。(柴田:今西錦司の「棲み分け進化論」
43
に似ています。今西も京大だし..
.
。)
そして、そのような意志のない「近代の超克」論は大戦を美化するに過ぎないし、最近
のアジア共同体論も戦前の繰り返しになってしまうであろうと警告する。(評・法政大学教
授
南塚信吾)
竹内好の中国論については、いずれこの連載でも取り上げて考察することになるかも知
れません。(2-5.夢見る知識人
1950 年代に竹内好ら西洋近代文明に飽き足らなかった
日本の文化人は「大躍進」の中国に「立ち上がった六億人民大衆の叡智とエネルギー」を
見た。)
[柴田の補足5]
同じ8月10日の朝日新聞「読書欄」に載っていたロバート・B・ライシュ(カリフォル
ニア大バークリー校教授)「暴走する資本主義」
(邦訳・東洋経済新報社)から。
(前略)本書は、クリントン政権で労働長官を務めた政治経済学者である著者が、現在
の資本主義を「超資本主義(スーパーキャピタリズム)」と規定した上で、その特質や対応
のあり方を包括的に論じるものである。著者の議論の骨子は次のように要約される。
(1)第2次世界大戦が終わった 1945 年から 70 年代半ばまで、アメリカの資本主義はあ
る種の黄金時代を享受したが、それは「経済と政治の融合」と総括しうるもので、多くの
政府規制や調整、労使交渉のシステム、企業ステーツマンと呼ばれる公的役割を担う経営
者等々によって支えられていた。
(2)70 年代後半からすべてが一変し、
「超資本主義」へのシフトが始まった。その本質は
「消費者と投資家が権力を獲得し、公共の利益を追求する市民が権力を失ってきた」とい
う点に集約される。
(3)超資本主義を準備したのは冷戦期の輸送・通信技術などの革新であり、それらがグ
ローバル化、新しい生産様式、規制緩和といった事象と相まって、
「安定的な寡占システム」
としての民主的資本主義を終焉(しゅうえん)させた。
(4)なされるべき対応は何か。鍵は「民主主義」であり、吾々の中にある二面性(市民
としての自己と、消費者・投資家としての自己)を自覚しつつ、前者をいかに回復してい
くかにかかっている。
以上が概略だが、一方で、現在の資本主義ないし経済のあり方についての先鋭な分析で
あり、またアメリカのもっとも「良心的」な部分を代表する書物ともいえる。他方、物足
りなさも残る。それは第1に、著者の議論にはヨーロッパが十分入っておらず、資本主義
の多様性と呼びうる主題が深められていないという点であり、第2に、私利の追求を原動
力とする資本主義の「反転」論ともいうべきテーマが掘り下げられていない点である。前
者については、ヨーロッパは(相違を含みつつも)政府が様々な再配分を行う「福祉国家
的な資本主義」であり、環境政策や社会のありようを含め、アメリカとのコントラストが
きわめて大きくなっている。後者については、CSR(企業の社会的責任)への著者の懐疑
44
は一定の共感ができる反面、都市経済学者のフロリダが論じたような、資本主義がその展
開の極において、物質的な需要が飽和し、コミュニティーや非貨幣的な価値の重視へと行
き着かざるをえなくなるといった、よりダイナミックな議論があってよいのではないか。
(後略)(評・広井良典
千葉大学教授・公共政策)
朝日新聞の好みなのか、同じ読書欄に、やや似たような、しかし興味深い、もうひとつ
の書評もありました。
ジェイン・ジェイコブズ「壊れゆくアメリカ」
(邦訳・日経BP社)
著者は 1950 年代に、ニューヨークのジャーナリストとして高速道路の建設や都市開発に
反対する運動をおこし、さらに 60 年代には、近代の都市計画を根本的に批判する理論家と
して注目を集めた。その核心は、モダニズム以来の都市計画にあるゾーニング(住宅地と
オフィス街を分ける)というアイディアへの批判にある。都市は、雑多なもの、古いもの
と新しいものが集中的に混在しているときにこそ、活発で魅力的なのだと、著者は主張し
たのである。
(柴田:これも、どことなく、今西錦司の「棲み分け論」に似ています。)
(中略)現在、多くの人は昔の都市を覚えていない。たとえば、ロサンゼルスに、かつ
て東京と同様、路面電車が街中を走っていたといっても、誰も信じないだろう。
「モータリ
ゼーション」が都市や都市の生活を根こそぎ破壊したのに、もうそのことに気づくことさ
えできない。過去を覚えていないからだ。そのような集団的記憶喪失が、各所におこって
いる。
著者は大学改革についても、都市計画と同じ問題を見出している。たとえばアメ
リカでは、大学教育をより効率的にするために、ムダと見える学問、特に、人文学を切り
捨ててきた。日本でもその真似(まね)をしている。その結果、一昔前なら、誰でも知っ
ているべきだった文学を、今、ほとんどの人が知らないし、知らなくても平気である。
本書の原題は「暗黒時代が近づいている」(Dark Age Ahead)という意味であるが、暗黒
時代とは、ローマ帝国が滅んだあとのゲルマン社会で、ローマの文化がすぐに忘却されて
しまったことを指している。そのような事態が現在おこりつつある、という著者の予感に、
私は同意する。それをひきおこしているのは、いうまでもなく、グローバルな資本主義で
ある。(評・柄谷行人
評論家)
[柴田の補足6]
「3-1-9.昼間は営業マン、夜は科学者」のところで解説したように、日本の理科
教育・数学教育の素晴らしい成果として、科学・数学の専門的研究者を生み出しているだ
けでなく、他の仕事に従事しつつ夜間や休暇の日に科学や数学の研究に取り組む多くのア
マチュア科学者を生み出していることがあげられます。PISA の科学観・科学教育観では、
「専門家になるであろう少数のエリート学生には高度な科学教育を」
「一般の学生・生徒に
は非専門的な日常的、常識レベルの科学教育を」という2分法で頭が凝り固まっており、
「科
学的な教養のレベルは2分法的に分かれていると言いたいわけではない」といういいわけ
45
にもかかわらず、実際の設問は「すべての生徒のための科学的教養」ということで、レベ
ルの低い、あるいは間違った内容のものが多くなっています。
朝日新聞 2008 年6月25日「ひと」欄に「国内最古のほ乳類の化石発見を導いた地学愛
好家・足立洌さん(64)」のことが紹介されています。
1億数千万年の眠りから、命の痕跡を立て続けに呼び覚ました。
兵庫県の篠山市と丹波市にまたがる白亜紀前期の地層「篠山層群」で昨年10月、脊椎
動物の化石を発見。その場所での専門家との調査で5月、国内最古とみられるほ乳類の化
石が見つかった。ネズミのような姿という。06 年には同じ地層で国内最大級の植物食恐竜
「丹波竜」の化石を掘り当てている。「ともに本当に偶然。一番驚いているのは私です。」
岡山県美作市出身。小学校の先生に土器や鉄の矢じりを見せられ、考古学者にあこがれ
た。だが、父を交通事故で失い、大学進学を断念。海運会社などで働くが合わず、30 歳で
大学へ。父と同じ教員になった。
英語を教えた。転機は県立篠山鳳鳴高校に転任した 83 年。生徒を引率した地理・地学実
習で化石に出会った。発掘への思いが再燃する。篠山層群を「恋人」とし、生徒に「恐竜
発見が夢」と語るようになった。
今回はその丹波竜よりうれしかった。恐竜の足下で地をはっていただろう小動物がいと
おしい。貧しさから修学旅行に行けず、下ばかり見ていた自分と重なる。
今の自分は例えるなら登山のシェルパ。「研究者に『こんなもんがある』とガイドする。
有名になろうなんて思わない」。太古のロマンを楽しむだけで満足だ。丹波竜発見後、学校
で講演する機会が増えた。「ゲーム漬けの子どもたちを自然に引きずり出す。もう一つのロ
マンです」(文・根岸拓朗)
[柴田の補足7]
●「子どもの脳と仮想世界」
朝日新聞8月17日文化欄「身体の能力
楽しく理解」から引用。
夏休み、味わったことのない体験がしたいという子供たちには、東京・初台で開かれて
いる「君の身体(からだ)を変換してみよ展」がお薦めかもしれません(31日まで)。自
分の体の意外な能力や感覚、新しい「分かり方」がゲーム感覚で実感でき、大人も楽しめ
ます。そこには知的な味も潜んでいます。(大西若人)
例えば「伸びる腕」と題した作品。机の下に開いた穴に腕を入れ、届きそうにもない牛
乳パックに向けて腕を伸ばすと、机上に投影された自分の腕の映像は予想を超えてぐんぐ
ん伸びる。パックに届く瞬間、机の下に潜む別のパックに実際の手が触れる。
「視覚情報と具体的な感覚情報が脳で統合され、自分の手が本当に伸びたような新しい
気持ちが味わえるんです。」
こう解説するのは、NHK「ピタゴラスイッチ」の企画などで知られる東京芸術大学院・
映像研究科の佐藤雅彦教授。桐山孝司準教授とともに、会場のNTTインターコミュニケ
46
ーション・センター(ICC)に展示されている6作品の監修をしている。
「ねばねば~」。子供たちからそう声が上がるのは「点にんげん
線にんげん」。手足や
頭に赤外線カメラで読み取れるマーカーをつけてスクリーンの前に立つと、点の集合が現
れる。
止まっていると無意味な点の集まりも、動くとすぐに自分だと分かるし、点が線に変化
して友達の線と絡まると納豆さながらの「ねばねば」感につながる。
手を羽ばたかせると、小さな自分の影が空に昇ってゆく「翔(と)べ!
小さな自分」
は、「影の動きから物事を察する力」を応用している。
作品の背景には、認知心理学や行動分析学の知見があり、「共時性」「群化」「差分」とい
った概念が潜んでいるというが、どれもルールなんか知らなくてもすぐに分かり、すぐに
楽しめる。「こういう普遍的な感覚は、子供にも大人にも共通」と佐藤さん。
「今は、『材料がこうだからおいしい』とか、『この言葉を知らないと笑えない』とか、
文脈主義に走っていますが、それは寂しい。自分の具体的な動きを通じて夢中になって、
新しい身体の気持ちや分かり方を、生き生きと実感してほしい」。そんな思いが企画に込め
られている。
(後略)
(柴田のコメント)上記の「文脈主義」と書いてあるのが、いわゆる「PISA 型」の教育
理念ですが、それを是正する意味で「触覚」と「視覚」の結合を中心とする企画は面白い
のですが、それをバーチュアル・リアリティーで実現することには問題がありそうです。
戸塚滝登「子どもの脳と仮想世界」
(岩波書店)によると、いわゆる「ゲーム浸け」の弊害
は、触覚と身体的バランス感覚が失われることなのだそうですが、上記の「君の身体を..
.」
展では、みごとにその両者を積極的に活用しています。しかし、バーチュアル・リアリテ
ィーの根本的な欠陥として戸塚さんは「子どもの脳と仮想世界」の中で、「バーチュアル・
リアリティー」の世界では倫理観が失われる、という点を指摘しています。同書では、も
ともと小学校教員であった著者の体験に基づく多くの具体的事例を上げた後、「バーチャ
ル・ワールドの危険性に関する4つの法則」をあげて、まとめとしています。
(1)子どもにバーチャルを一つ与えれば、それと引き替えにリアルな能力が一つ奪い去
られる。.
..
『トレードオフの法則』
(2)六歳の子どもの一日は、五十歳の大人の千パーセント分もの価値があると考えよ。.
..
.
『千パーセントの法則』
(3)幼い時代は直接体験と本物体験を最優先した子育てを。できるだけ本物を見せ、で
きるだけ現場へと連れて行き、五感と身体感覚を使わせて。.
..
.『桶の中の脳っ子の法則』
(4)仮想世界では何でも起こりうる。そしてそれはやがて現実世界にもしみ出てくる。
仮想世界ではモラルは居場所を持ちません。仮想世界には門番などいないことを忘れず
に。.
..
.『仮想世界の影の法則』
また、戸塚さんは同書の中で、ガリレオ・ガリレイの「新科学対話」(第2巻「3-
2-6.思考実験の有効性
☆ガリレオ・ガリレイの場合」参照)をもじって、IT教育
47
について、保守先生、進歩先生とその中間の中間先生に対話をさせています。
保守先生「そりゃグーグルはたしかに便利さね。検索エンジンに『エリス、冥王星、セド
ナ』と打ち込むだけで、子どもたちはほんの三十年前までは天文学者さえ知らなかった太
陽系の最果ての天体の知識だってやすやすと手に入れ、学びを広げてゆくことができる。
ヤフーで『チョウ』と画像検索をかければ、アゲハチョウの羽化シーンだの、モルフォチ
ョウなど美しいチョウたちの生体の動画を見たりできる。
これらは確かにIT技術が教育にもたらしたメリットさね。子どもたちをますます物知
りにするだろう。だけど、ますます賢くしてくれるとはいえるだろうかね?」
(中略)
中間先生「あたしも心配なんです。発見ありさちゃんと探求みちる君は実際に野原や林へ
でかけてチョウを追い、虫たちを探し回る現実体験(直接体験)を好みます。
一方、グーグルちゃんたちはパソコンやデジタルテレビを使ってネット世界の仮想自然
に出かけ、映像を追いかけたり、サイトを探し回ったりしながら、どんなホムペ(ホーム
ページ)や解説があるかを見つけて学び取るバーチャル体験を好みますよね。
実はあたし、教室ではそのどちらの学び方も行っているんですけど、時々不安になるこ
とがあるんです。いったい二つとも本当に同じ価値があるんだろうかって。本当にこの学
び方の天秤はうまくつりあうのかしらって?」
(中略)
進歩先生「まあまあ、お二人とも。事実を直視しようじゃありませんか。今や学校の花壇
であろうと近くの公園であろうと、子どもたちの回りにはアゲハチョウはめったに見られ
ませんよ。だけどグーグルの”野原”だったら、いつも世界のチョウが群れを成して飛ん
でいるんです。
ねえ、子どもたちがやっとこさ捕まえた一匹のしょぼくれたモンシロチョウと、グーグ
ルの向こうにある無数の美しいモルフォチョウの世界には、大きな隔たりがあるとは思い
ません?
現実世界よりも仮想世界の方がはるかに巨大で美しいんです。現代っ子たちにとっては
リアルな自然よりもサーチエンジンからのぞくバーチャル世界の方こそ、手を伸ばせば届
く身近な”自然”なんですよ」
(中略)
保守先生「だけどね、自動車という”バーチャル歩行脚”は子どもから運動体験と心肺能
力を奪い、代わりに肥満や心臓疾患を増やしてしまった。テレビという”バーチャル紙芝
居”は子どもたちから読書体験を奪い、文章を読み書きする能力を萎えさせてしまった。
そしてネットという”バーチャルなたまり場”は直接体験と対人関係能力を奪い去ってし
まったとは言えないかね?」
進歩先生「そ、それはそのう..
.」
保守先生「いいかね、バーチャルを一つ子どもに与えるということは、その代償に子ども
48
が持っていたリアルな能力を一つ、引き替えに奪い去ってしまうことでもあるんだ!」
中間先生「そうよ。たかがサーチエンジンでアゲハチョウを一発検索して得られるバーチ
ャル体験ですけど、よく考えてみれば例えばこんなにごっそりとリアル体験が奪い去られ
てしまうんですから。
(1)野原や森までの道を探したり、そこまでの駅や交通機関を探し出す能力
(2)ルートを調べ、位置を知る能力、地図を読みとる能力
(3)捕虫網の使い方、虫かごやルーペの使い方など、道具の使いこなし方の能力
(4)チョウや昆虫を見つけ、捕まえる能力、生き物を殺さないように扱う能力
..
..
.」
進歩先生「な、何とおっしゃる。グーグルだってすごいメリットがあるんですから。こち
らだって次のようになるはずでしょ。
(1)野外に出て事故にあったり、迷子になったり、誘拐されたりする危険など無し。
(2)天候や季節に左右されない、出かける準備や計画、道具を用意する手間も不要
(3)金がかからず、時間もかからず、いつだってできる
(4)何の収穫もなく、虫刺されに擦り傷、くたびれもうけで帰宅する失敗無し
..
..」
中間先生「そういやそうか」
進歩先生「ね、きっとグーグルちゃんは目的地が衛星画像で眺められる Google Earth (グ
ーグル・アース)を利用することでしょうよ。そして目的地までのルートや地形はもちろ
ん、森や野原の様子や当日の天気予報や穴場情報だって収集するにちがいありません。そ
の上で『パパ、連れてって!』とおねだりするか、『行ってもつまんないみたい』と、彼女
だってちゃんと”考える”はずです」
保守先生「いんや、お手軽すぎるというもんさ。思考のファストフードじゃないか!」
進歩先生「とんでもない。物事をすばやく要領よく学んだり、短時間のうちに低予算でた
くさんの知識を獲得したりなど、こちらの能力だって未来社会では大切な『生きる力』で
す。つまり計画力や情報収集能力、判断力が発揮できるんです。子どもたちはググッた(グ
ーグルした)その後で、ちゃんと自分で考えるんです。しっかり自分の脳を使うんです!」
(引用終わり)
私には、上記の進歩先生が、何となく PISA/OECD の思想を代弁しているように感じら
れます。戸塚さんによると、このような「進歩先生」が教育現場では急速に増えつつある
そうです。文科省も猛烈に推進していますし.
..
.。
●「酸性雨の問題」
これまで、
「PISA2003 評価の枠組み」の「科学的リテラシー(科学的教養)」の部分を翻
49
訳・検討してきました。その中で、
[科学的過程]
結論は観察から帰納的に導き出されるという、
「科学的過程」として伝統的に考えられてい
る見解は、それは多くの学校理科の教材でまだ強い影響力を持ってはいるが、科学的知識
が発展してくる実態に反していると考えられる強固な理由が存在する。
科学的教養は、ここで定義した様に、「証拠に基づく結論を引き出す」為に科学的知識を
使う事の方を、自分自身で証拠を集めることよりもより高い優先度を与えている。
上で提案されたばかりの区別は手短に言えば、以下のように総括する事が出来る:科学
の枠組みの中で適用される過程よりも科学についての過程に優先権を与えるべきである。
という主張を見てきました。これらの、非常に「奇怪」とも見える PISA の特徴を良く反映
していると思われる「酸性雨の問題」を以下に具体的に検討してみます。
[酸性雨]
下は 2500 年以上前に、アテネのアクロポリスに建てられた女人像柱の彫刻の写真です。
(写真の引用は省略。)彫刻は大理石といわれる種類の岩石からできています。大理石は炭
酸カルシウムでできています。1980 年に本物の彫刻はアクロポリス博物館に移され、代わ
りに複製が置かれました。本物の彫刻は酸性雨に浸食されつつあったのです。
[問1]通常の雨は、大気中の二酸化炭素をいくらか溶かしているために弱い酸性となっ
ています。酸性雨は、同様に硫黄酸化物や窒素酸化物の気体を溶かしているため、通常の
雨よりも酸性度が強くなっています。
大気中の硫黄酸化物や窒素酸化物はどのようにして生じたものですか。
[問2]酸性雨が大理石に与える影響は、大理石のかけらを一晩、酢につけることによっ
て確かめることができます。酢と酸性雨はほぼ同じ酸性度を持っています。大理石のかけ
らを酢に入れると、気泡が発生します。実験の前後で、乾いた大理石のかけらの質量を調
べることができます。
酢に一晩中つける前の大理石のかけらの質量は、2.0 グラムでした。 翌日、そのかけら
を取り出して、乾かしました。乾いた大理石のかけらの質量はどうなっていますか。次の
うちあてはまるものに一つ○をつけてください。
A
2.0 グラムより小さい
B
ちょうど 2.0 グラム
C
2.0 グラムから 2.4 グラムの間
50
D
2.4 グラムより大きい
[問3]この実験を行った生徒たちは、大理石のかけらを、蒸留水にも一晩中つけてみま
した。実験にこの手順を含めるのはなぜですか。説明してください。
--------------------------------------------------------------------------上記の問題は PISA-2006 で出題された問題です。問1については、神原敬夫氏の論文
「PISA『科学的リテラシーを支える理論』 http://homepage3.nifty.com/kkam12/sub3.html
において、「問1の『どのようにして生じたものですか』という言葉は、『Where do these
sulphur oxides and nitrogen oxides in the air come from?』『どこから来たのか』とは大分
意味を異にしています。
『どのようにして生じたか』と問われれば、生成過程を科学的に説
明するよう求められていると考えるでしょうから難易度が変わってしまいます。
また、この問題も火山、工場の排気、自動車の排気など 適当に一つ答えればよいのです
が、やはり日本の子ども達は無答が多くなっています。」と指摘されています。神原氏は非
常に柔らかく表現しておられますが、率直に言えば、
「完全な誤訳」じゃありませんか。
「ど
こから生じたか?」と「どのようにして生じたか?」では設問として全く違います。しか
も模範解答は例によって、「火山、工場の排気、自動車の排気など 」何でもいいから関係
がありそうなキーワードを適当にいくつか並べておけばよい、というものです。こんな模
範解答を見せられたら日本の生徒たちは、「えーっ、そんないい加減な答でいいのかよー
っ!」と口をとがらせて文句を言うと思います。「いいんです。PISA の科学的リテラシー
の問題は、そんなにまじめに考えてはいけません。設問テーマに関係がありそうな、マス
コミで良く出てくるキーワードを並べておけばよいのです。それらの用語がどんな意味を
持っているか、とかそれらの間にどのような関係が成り立つか、というような科学的な理
解は必要ないのです。そういうことが知りたければ、ネットでキーワード検索をすればど
こかのサイトに書いてあります。大切なことは、科学的な知識を持つことではなく、キー
ワードを聞きかじって知っていることと、インターネットでキーワード検索ができること
です」というのが PISA の「科学的リテラシー」教育観です。PISA の問題作成者や問題解
説者自身がこのような科学観の持ち主で固められており、
「温室効果」問題の作成者は「温
室効果」と「地球温暖化」の区別も知らず、「グランドキャニオン」問題の作成者は「地層
の隆起」と「海面の後退」の違いも分かっていないように見えます。
「検索で共起する頻度
の高いキーワードを並べる」という「がらくたマーケット」(これは、ヨーロッパで開かれ
た PISA 批判の国際会議 "PISA Acording to PISA" の記録に出ていた用語を引用させても
らいました)に終始しています。
問2については、「酸性雨」の性質を調べるはずの実験なのに酸性雨が出てきません。こ
れは本質的に「酸性雨」の設問ではなく「化学」の設問ですらありません。その事をはっ
きり理解するためには、上記の問題で「酸性」と書いてある部分をすべて別の単語、例え
51
ば「アルカリ性」と書き換えても、問題の本質も模範解答も全く同じになることから分か
ります。
[アルカリ雨]
下は 2500 年以上前に、アテネのアクロポリスに建てられた女人像柱の彫刻の写真です。
(写真の引用は省略。)彫刻は大理石といわれる種類の岩石からできています。大理石は炭
酸カルシウムでできています。1980 年に本物の彫刻はアクロポリス博物館に移され、代わ
りに複製が置かれました。本物の彫刻はアルカリ雨に浸食されつつあったのです。
通常の雨は、大気中の二酸化炭素をいくらか溶かしているために弱いアルカリ性となっ
ています。アルカリ雨は、同様にアルカリ化合物の気体を溶かしているため、通常の雨と
は反対にアルカリ度が強くなっています。
[問2]アルカリ雨が大理石に与える影響は、大理石のかけらを一晩、食塩につけること
によって確かめることができます。食塩とアルカリ雨はほぼ同じアルカリ度を持っていま
す。大理石のかけらを食塩に入れると、気泡が発生します。実験の前後で、乾いた大理石
のかけらの質量を調べることができます。
食塩に一晩中つける前の大理石のかけらの質量は、2.0 グラムでした。 翌日、そのかけ
らを取り出して、乾かしました。乾いた大理石のかけらの質量はどうなっていますか。次
のうちあてはまるものに一つ○をつけてください。
A
2.0 グラムより小さい
B
ちょうど 2.0 グラム
C
2.0 グラムから 2.4 グラムの間
D
2.4 グラムより大きい
----------------------------------------------------------------------------この問題を解くためのヒントとして、
(1)大理石の彫刻はアルカリ雨に浸食されつつあった。
(2)アルカリ雨が大理石に与える影響は、大理石のかけらを一晩、食塩につけることに
よって確かめることができる。
(3)食塩とアルカリ雨はほぼ同じアルカリ度を持っている。
(4)大理石のかけらを食塩に入れると、気泡が発生する。
が与えられているのですから、(1)(2)だけからでも三段論法により、「食塩は大理石の
かけらを浸食する」わけで、大理石に限らず浸食されたかけらの重量が減少することは明
らかであり、
「A.
2.0 グラムより小さい」が正解となることは自明です。さらに(3)
(4)
がその推論を状況証拠的に補強しています。
つまり、この問題は受験生が「三段論法」を使えるかどうかを査定しているだけであり、
52
私が上で、これは「酸性雨」の設問ではなく「化学」の設問ですらありません、と言った
のはそういう意味です。本質的に「形式的論理」の能力を査定する設問です。
私は、「形式的論理」の能力を査定すること自体は重要な意味があると考えています。私
のホームページで、現在の「学力の国際比較に異議あり」の連載を始める前の連載テーマ
は「因果律の無い世界に生きる新人類の登場 / 青少年の認知に何が起きているのか」であ
り、学校教育において「形式的論理」の能力に乏しい生徒たちの教育をどうするのかが重
大問題であることを訴えてきました。しかし、形式的推論能力のテストによって「科学」
(物
理学・化学・生物学・地学など)のテストを代替えしてしまうという PISA の考え方は完全
に間違っていると思います。代替えはできないし、するべきではありません。
上の問題で疑うことを許されない仮定としてあげられている(1)~(4)までを疑って、
ちゃんと実験的に確かめることこそ重要です。
(1)大理石の彫刻は酸性雨に浸食されつつあった。
大理石の彫刻が何かの原因で浸食されつつあることは、実物をしっかり観察するか、あ
るいは、経年写真を見ることによって分かります。雨が酸性かアルカリ性かは、リトマス
試験紙で判定できます。
(3)酢(酢酸)と酸性雨はほぼ同じ酸性度を持っている。
これは、リトマス試験紙による「AかBか」の判定よりも、さらに厳密な測定が必要に
なります。
しかし、本当にこんなことが言えるのでしょうか?
そもそも「酸性雨」は一定の規格
に基づいて工場で生産している人工物ではありません。何らかの原因で大気中に大量に放
出された硫黄酸化物(H2SO4)や窒素酸化物(HNO3)の気体を溶かしているわけですから、
その酸性度は地域によって、季節によって、風向きによって、いろいろ変化しているので
はないでしょうか?
それが、一定の工業規格に則って製造している食酢と同じ酸性度と
いうのは、あまりにも不自然です。
(2)酸性雨が大理石に与える影響は、大理石のかけらを一晩、酢につけることによって
確かめることができる。
この命題が、化学的に見て最も重要な命題(within science)です。酸性雨自身は硫酸
(H2SO4)や硝酸(HNO3)の混合溶液ですが、それらを単体に分離した硫酸、硝酸の溶液
も作り、さらに酢酸(酢)の溶液も用意し、それら4つの溶液の酸性度が同じになるよう
に、必要ならば薄めるなどしてpHを調節します。そしてそれぞれの溶液に同じ重量の大
理石のカケラを一晩浸けておいてから、重量の減少値を厳密に測定します。それぞれの酸
にはそれぞれ異なった化学的性質があるにも関わらず、大理石を浸食する作用の強さはそ
れらの酸の酸性度(pH)のみに依存する、という、ということが真実なら、それは全然
自明ではないことなので、しっかり確かめる価値と必要があります。
私は化学のことは中・高で習ったこと以外は何も知らないので断言は出来ませんが、酸
53
性雨が大理石を浸食する速さは、数十年でほんの僅かずつだとすると、大理石のカケラを
一晩浸けておくくらいで、重量計の目盛りが変化する程減少するかどうか、眉唾(まゆつ
ば)ですが、こればかりは「やってみなければわからない」ということでしょう。そして、
やってみればすぐに分かることです。
ちなみに、私が PISA の「酸性雨の問題」に赤ペンを入れて修正するとすれば、次のよう
になおします。
[酸性雨の問題(柴田による修正案)]
下は 2500 年以上前に、アテネのアクロポリスに建てられた女人像柱の彫刻の写真です。
(写真の引用は省略。)彫刻は大理石といわれる種類の岩石からできています。大理石は炭
酸カルシウムでできています。1980 年に本物の彫刻はアクロポリス博物館に移され、代わ
りに複製が置かれました。本物の彫刻は酸性雨に浸食されつつあったのです。
[問2]容積が等しい2つの容器を用意して、一方に酸性雨、他方に酢を同じ量だけ入れ、
同じ重さの大理石のかけらを一晩、それぞれの容器につけました。酢は酸性雨の成分には
全く含まれていませんが、酢と酸性雨はほぼ同じ酸性度を持っています。
一晩中つける前の大理石のかけらの重量は、2.0 グラムでした。 翌日、そのかけらを取
り出して、乾かしました。乾いた大理石のかけらの重量を測定したところ、酸性雨につけ
た方は 1.95 グラムになっていました。酢につけた方のかけらの重量はどうなっていますか。
次のうちあてはまるものに一つ○をつけてください。
A
1.5 グラムより小さい
B
1.5 グラム以上、2.0 グラム未満
C
ちょうど 2.0 グラム
D
2.0 グラムより大きい
(問1、問3は省略)
修正の主な点は、「酸性雨が大理石に与える影響は、大理石のかけらを一晩、酢につける
ことによって確かめることができます。」および「大理石のかけらを酢に入れると、気泡が
発生します。」という原文の部分を削除して、「容積が等しい2つの容器を用意して、一方
に酸性雨、他方に酢を同じ量だけ入れ、同じ重さの大理石のかけらを一晩、それぞれの容
器につけました。酢は酸性雨の成分には全く含まれていませんが、」を挿入した点です。こ
れにより、形式的な三段論法で自動的に正解が出てくることはなくなりました。問2は選
択問題ですから、どれか1つに丸を付ければ確率 1/4 で正答に当たる可能性がありますが、
自分の頭で考える生徒であれば、次の2つの可能性を考えるでしょう。
(a)「酢は酸性雨の成分には全く含まれていません」ということから、酢に大理石のかけ
らを浸けても酸性雨のような反応は起こらず、実験後のかけらの重さは実験前と同じ 2.0 グ
54
ラムであろう。
(b)酸性雨が大理石を浸食する作用は酸性雨を構成する個々の酸による固有の作用では
なく、それらの酸が持っている「酸性度」の強度によるものらしい。従って、酢は酸性雨
には含まれていないけれど、酸性雨とほぼ同じ酸性度を持っていることから酸性雨とほぼ
同じだけ大理石を浸食するであろう。したがって、実験後の大理石のかけらはほぼ 1.95 グ
ラムに近いであろう。
この(a)(b)のどちらが正しいかは、修正案の問題文からは決定できません。PISA
の原問題では、(b)の方が正しいことを問題文の中で「疑うべきでない前提」として頭か
ら与えてしまっているのですが、私はそれを、生徒たちに自分の頭で考えたり推測したり
するようにし向けています。問題文に不足しているデータは自分の既存の知識から補うか、
想像力で補って、解答を選ばなければなりません。実際の社会生活では、そのようなこと
がしばしば起こります。そのときに、どれだけ適切な想像力が働くかは非常に重要なこと
です。たとえ当てずっぽう、ハッタリと言えども、できるだけ的中率の高い想像ができる
ように、カンを訓練することは社会に出てから非常に役に立つはずです。
上記の2つの推論の内、(a)はより即物的な発想であり、(b)の方は具体的な個々の
物質(酸)ではなく、「酸性度」という酸の特別な性質の1つに原因を還元しているという
点で、より抽象度の高い思考を要求しています。科学の世界では(within science)このよ
うに、個々の物質名を同定するだけでなく、いくつかの物質に共通する性質を抜き出して
概念化(たとえば「酸性度」)して、その概念の化学的(あるいは物理的)な実態(たとえ
ば、1モル中に含まれる水素イオンの量)を発見することが、最も基本的な思考の原理の
一つとなっています。理科の教育においてこのような考え方を学ぶことは、将来科学者に
なるであろう一部のエリート的な生徒には必要かも知れないけれど、一般の生徒たちには
必要がない、という PISA の主張には同意できません。
●
神原敬夫さんの素晴らしい「思考実験」
問3については、再び神原論文の指摘を引用させて頂きます。「ところで、こんな実験は
本当に意味を持つのでしょうか?
水(雨)が大理石の劣化に関係するとするならば、大
理石の建物など造るわけがないのですからこんな実験に意味はないのです。これも、PISA
の『対照実験が必要』という固定観念が生んだものでしょうか。」
なーるほど。もしも大理石という物質が、角砂糖や岩塩と同様に水に溶けやすい物質だ
と仮定してみると、おかしなことになります。私は小学校だったか中学校だったかで、「ク
ライモ・グラフ」というのを教わりました。縦軸に気温の目盛り、横軸に湿度の目盛りが
ついていて、たしか毎月の平均気温・湿度をプロットしてゆくのです。地中海性気候では、
ひょうたんが横に寝ているような、2つの楕円が横に繋がったみたいな形になります。つ
55
まり毎年、乾期と雨期が1回ずつ循環するわけで、年間少なくとも数十日は雨の日がある
でしょう。ギリシャ・ローマ時代からの二千年間に、毎年数十日の雨の日があったことに
なりますから、大理石の建物は建築してから数ヶ月を経ずして水(雨水)に溶けてしまっ
たはずです。それが、こうして二千年も溶けないで残っているということは、それと同じ
物質を水に浸けて一晩置いておいたって溶け出すはずが無いではないか、と神原さんはお
っしゃるわけです。(「実験する必要なし。」)私は神原論文を読んで、
「なるほど。背理法に
よる思考実験か!」と思わず感嘆の声を上げました。ガリレオ・ガリレイが、自然に落下
する物体は自分の重量に比例した速度で落下する、というアリストテレスの主張を覆すの
に、わざわざピサの斜塔から物を落として実験しなくても、簡単な思考実験をしてみれば
たちどころに分かる、と「新科学対話」の中で書いていることを連載第14回「続・盗難
事件の問題(思考実験の有効性)」のところで引用・紹介しました。「神原さんは日本のガ
リレオ・ガリレイだなあ、」と思いました。
私もそこまでは考えなかったので、15歳の生徒には無理でしょう。
「大理石を浸食する」
という現象が個々の酸に固有の性質ではなく「酸性」という共通の性質によって起きると
いうことを確認させるために、わざわざ「酸性ではない」ことが普通の生徒にも理解され
ている可能性が高い蒸留水で比較実験を行ったものと考えられます。どうせ比較実験をす
るのであれば、蒸留水だけでなく、食塩水や砂糖水などでもやってみればいいのに、と思
ってしまいます。
●「グランドキャニオン」の問題
[グランドキャニオン]
グランドキャニオンはアメリカ合衆国の砂漠の中に位置しています。非常に大きく、深い
渓谷(けいこく)で、いくつもの地層が重なっています。過去何回も地殻変動によりこれ
らの地層が隆起(りゅうき)したのです。現在のグランドキャニオンの深さは 1.6 km にお
よぶところもあります。谷底にはコロラド川が流れています。
南の縁から撮った下のグランドキャニオンの写真を見てください。渓谷の壁にはいくつ
かの異なった地層が見られます。(写真は省略)
【グランドキャニオンに関する問1】
グランドキャニオン園には毎年およそ 500 万人が訪れます。非常に多くの訪問者があるた
め、この公園が受けるダメージが心配されています。
次の課題は科学的な調査によって答えが出ますか。それぞれについて「はい」または「い
いえ」に○をつけてください。
次の課題は科学的な調査によって答えが出ますか?
はい または いいえ
歩行用通路が利用されることで、どれくらい浸食されるか
56
はい / いいえ
この公園の地域が 100 年前と同じ美しさであるか
はい / いいえ
【グランドキャニオンに関する問2】
グランドキャニオンでは、最低の気温が 0 ℃以下、最高の気温は 40 ℃以上となります。
そこは砂漠地帯ですが、岩石の割れ目に水がたまっていることがあります。この気温の変
化と岩石の割れ目にたまった水は、岩石が崩れるのを早めることになります。それは、ど
のようにして起こるのか、次の中からあてはまるものに一つ○をつけてください。
A 凍った水が、暖かい岩石を溶かしてしまう。
B 水が、岩石同士をくっつけてしまう。
C 氷が、岩石の表面をつるつるにする。
D 凍った水が、岩石の割れ目を拡げる。
【グランドキャニオンに関する問3】
グランドキャニオンの石灰岩 A の層には、貝や魚、サンゴなどの海洋動物の化石が多く含
まれています。これらの化石がその地層で発見されることになったのは、何百万年も前に
何が起きていたからですか。次の中からあてはまるものに一つ○をつけてください。
A 昔、人が海からこの場所に魚介類を持って来た。
B 海は今より非常に荒く、大波によって海洋生物が内陸にまで打ち寄せられた。
C 当時、この場所は海面下にあり、その後、海が後退していった。
D 海に移動する前は、いくつかの海の動物はかつて陸に生息していた。
-----------------------------------------------------------------上の問3に関しては、神原氏の論文では、次のようにコメントされています。
「この問題
では『地殻変動で海底が隆起したこと』が必要な知識です。課題文には、『過去何回も地殻
変動によりこれらの地層が隆起したのです。』と説明されているにもかかわらず、選択肢に
は正解がありません。
『C 当時、この場所は海面下にあり、その後、海が後退していった。』
を正答としているのですがその意図は理解できません。」
確かに、神原論文が指摘するように、上の問題での用語の使い方は不適切のようです。
「海
の後退」は地学の専門用語では「海退」というそうですが、これについて解説している記
事を見ると、
「地球の氷河期に極地での結氷によって海水が減少し、これによって世界中の
海岸線が後退して地表が拡がること」というように書いてある記事もありました。また、
プレート理論に従った解説では、海底プレートが海溝に沈み込む現象が起きると、海の底
57
が深くなるために海面が下がり、その結果、海岸線が海の方に後退する、という解説もあ
りました。これら2つの場合には、「地殻変動による地層の隆起」とは明確に違いますが、
解説者によっては、「海退」とは、一般的に、海岸線が後退してそれまで海面下にあった土
地が地表に現れること、と書いている人もいるので、そうであれば、
「地殻変動による地層
の隆起」によるものであっても、それまで海面下にあった土地が地表に現れたことには間
違いありませんから、そういう最も広い意味での「海退」と言えないことはないでしょう。
しかし、「その後、海が後退していった」という表現は、またまた誤訳の可能性もなきにし
もあらずですが、「少しずつ、少しずつ、海岸線が後退していった」というイメージを与え
るので、「地殻変動による海底の隆起」というダイナミックな現象とはイメージが合致しま
せん。いずれにしても、この問題の表現のままでは「海の後退」=「地殻変動による海底
の隆起」という誤解を生徒に与えかねないので、用語の使い方には、もっと慎重になった
方がよいと思われます。
●心の計算理論・パパートの原理
前回の言問いメールで、「結論は観察から帰納的に導き出されるという、『科学的過程』
として伝統的に考えられている見解は、それは多くの学校理科の教材でまだ強い影響力を
持ってはいるが、科学的知識が発展してくる実態に反していると考えられる強固な理由が
存在する」という PISA の主張は何を言っているのか理解できない、と書きましたが、また、
繰り返し強調されている、「科学の枠組みの中で適用される過程(英語:processes within
science、仏語:processus s'appliquant dans le cadre des sciences)」よりも「科学につい
ての過程(英語:processes about science、仏語:processus s'appliquant aux sciences)」
の方を優先する、という奇々怪々な主張についても書きましたが、私は、これも前回紹介
した戸塚滝登「子どもの脳と仮想世界」(岩波書店)の2回目の読み込みをしていて、「あ
あっ、これが PISA の言いたいことだったんだ!」と気が付きました。(1回目に読んだ時
には気が付かずに読み流してしまいました。)以下に、「子どもの脳と仮想世界」から該当
部分を引用します。
「人工知能の創始者として有名なマービン・ミンスキー(マサチューセッツ工科大学)は
子どもの脳の中に『エージェント(仕事屋さん)』と擬人化して名づけたニューロンたちの
微少な集まりを考えて、この脳内の淘汰競争を説明しています。エージェントはお互いに
シナプスでつながりあって単純な反応をします。(中略)ミンスキー博士は脳内でこのよう
に争いと調停を通じながら新たなエージェントが次々と生成されることによって(つまり
ニューロンどうしのネットワークがどんどん拡大することによって)複雑な思考や感情が
発達していくのだと考えています。
『心の社会』(Society of Mind)と呼ばれる理論です。
仮想の「かめさん」(LOGO)の生みの親である数学者シーモア・パパート(マサチューセ
58
ッツ工科大学)は、このエージェントモデルの立て役者の一人です。彼は子ども脳は知識
を詰め込まれるだけでは巧く発達できず、その知識を使うための知識、より良い方法を見
つけたり、発展させたりするための体験を与えなければ成長できないと考えています。『パ
パート』の原理です。
《子どもの脳(心)が成長するための重要な段階として、単に新しいスキルを身につける
段階だけではなく、既に知っていることを使うための新しい管理方法(知識についての知
識)を身につけてゆく段階がある。
》
子ども脳は単に新しいスキルや知識を身につけるだけでは成長できない。自らが学んだ
能力や獲得した知識をうまく使うための「より良いやりかた」や、「新しい管理方法」も身
につけないと、心はうまく発達できないと言うのです。「知識を使いこなすための知識」や
「知識についての知識」です。いわばパパートの原理は「知恵」とは何かを脳科学的に定
義したものにほかならないのです。
(後略)」
なーるほど。PISA が繰り返し強調する「(科学内部の知識ではなく)科学についての知
識」とは、こういう「メタ知識」のことだったようです。でも、それだったら、誰でも知
っている当たり前のことではないでしょうか?
将棋や囲碁のルールを知っていればプレ
ーすることは出来ますが、勝つためには多くの実戦を積み重ねて、様々な作戦知識を会得
したり、勝負の駆け引きなどを修得する必要があります。スポーツだって、頭の中で理屈
を知っているだけでは成果は上げられません。実際のトレーニングを繰り返したり、何度
も試合を経験することによって、良い成績が上げられるようになるのです。語学の修得だ
って、数学の修得だって同じことです。単に知識を詰め込んだだけでは役に立たないこと
は常識であって、このことは、大げさに「誰々の原理」などどいう程のことではないと思
います。
PISA の理解では、これを更に一面化して、
「メタ知識は知識に優先する」と考えている
ようです。上で取り上げた「酸性雨の問題」の問2が、まさに「酸性」に関する科学的知
識の査定抜きに、三段論法というメタ知識だけを査定している点に PISA の理解が典型的に
現れていると思います。これが「『科学』ではなく『科学的リテラシー』」ということの意
味であるらしい、とようやく分かってきました。
●討論すると、各人は自己の主張に一層固執する度合いを強める
荻上チキ「ウェブ炎上」(ちくま新書)で『集団分極化(group polarization)』という現
象を紹介しています。
<引用開始>
例えば、『集団分極化(group polarization)』という現象があります。集団分極化とは、
集団で討議を行う際、人が異なる意見へと歩み寄るよりは、もともと持ち合わせていた性
質を強化する傾向にあり、討議を終えると人々は当初の意見の延長線上にある極論へとシ
59
フトしてゆく可能性が高くなるという現象を指します。例えば、「討議後には、穏健派フェ
ミニストの女性がもっと過激になる」「討議後には、フランス国民は米国とその経済援助の
意図に対してより批判的になった」
「討議後には、もともと人種差別の傾向があった白人は、
全米の都市でアフリカ系アメリカ人が直面する困難な状況を人種差別主義が産み出してい
るかという問いに対して、より否定的な回答をする」「討議後には、前から人種偏見のない
白人は、同じ質問に対してより肯定的な回答をする」(注:荻上氏による以上の引用は、キ
ャス・サンスティーン、石川幸憲訳「インターネットは民主主義の敵か」毎日新聞社 2003
年、から)というような現象が各所で観測されるように、「話が通じない」という状況は、
いつだってあちこちでおこっていることでした。
ひとはもともと、情報のフィルタリング、取捨選択やふるい分けを行いながら日常生活
を送っています。人は誰しも自分の見たいものを見たがるし、自分の見たくないものは見
たがらない。見たいものを見たら喜ぶし、見たくないものを見たら不快な気分になる。人
は多かれ少なかれ情報のフィルタリングを行うことで、自らの世界観をメンテナンスしな
がら管理しています。
(中略)
例えば集団分極化は、オフラインよりもオンラインで観測されやすい(!)という面が
あります。その理由の一つは、あらゆる面で多くのコストを払わずに済むからです。仲間
を見つけるコスト、発言に要するコスト、失言をすることで評判に傷が付くというコスト、
風評を流した社会的責任を取るコスト..
..
近所では見つけることができないような、似たような趣味を持つ人であっても、わざわ
ざ長い時間をかけて会いに行かずとも済むし、クリック一つであっという間に「不特定多
数無限大」を対象に発言することができます。そして何よりも匿名であることで、軽率な
発言によってネガティブな反応が返ってくるというリスクへの備えが甘くなり、
「不用意な
発言」をしやすくなります。この他、ウェッブ独特の性質が、これまでの仕方とは異なる
形で分極化が表れるのを促しています。
(後略)
<引用終わり>
●確信のないことは安易に言わないようにすることの重要性
上に引用した荻上氏の文章に書かれているように、IT全盛時代の今日、古い日本人(old
Japanese)の品格の一つである「確信のないことは安易に言わない」ことは、非常に重要
な意味を持ってきていると思います。誰かが根拠の薄いことを言ってしまうと、そういう
発言を待ち望んでいた人たちがあっという間にそれをコピペ(コピー&ペースト)してイ
ンターネットの世界に増幅され、そういう多くのコピペが出回っている、という事実自体
が新しい「事実」を産み出してゆくからです。上褐書「ウェブ炎上」には、「乙武洋匡ブロ
60
グ炎上」「イラク人質事件自作自演説」「浅田彰の戯言事件」「福島瑞穂の迷言事件」など、
いい加減な流言飛語が一人歩きして、それ自身が一つの「既成事実」となってしまい、そ
れらが事実無根であった、ということが後から証明されても、多くの人々は「いや、似た
ような、別の所で、そういう事実があったような気がする」と主張して、いったん信じて
しまったことを容易に訂正しようとはしなかった事例が具体的に幾つも示されています。
逆説的かも知れませんが、情報化社会においてこそ、「確信のないことは安易に言わない」
という伝統的な日本人の価値観を復活させることが重要だと思われます。
ただし、疑問を率直に表明することは非常に重要なことだと思います。「私には、これこ
れのことが良く理解できないのですが、分かりやすく説明していただけませんか?」とい
うような質問は、ためらうべきではありません。
3-4.PISA に対する国際的批判
3-4-1.
「PISA 基準に従って PISA 自身を判定してみる
/ PISA は自分が提唱していることを自分で守っているか?」
最近、ヨーロッパで「PISA 基準に従って PISA 自身を判定してみる(PISA According to
PISA)」と題する書物が刊行されました。私の US 式英和機械翻訳システムに、その本の序
文
http://www.univie.ac.at/pisaaccordingtopisa/introduction_pisaaccordingtopisa.pdf
を翻訳させてみました。ちょっと人間には読みにくい部分があるので、私が若干手直しを
して、以下にコピーします。基本的に、すべて逐語訳です。oto3 さん、誤訳チェック、よ
ろしくお願いいたします
/(~o~);
よく、「日本人は、はっきり自分の意見を言わない。西洋人は堂々と自分の意見を述べ合
って、討論を通じてお互いに新しい理解に達する。だから、日本人もコミュニケーション
能力を高める必要がある」という議論を目にしたり耳にしたりしますが、私は何年かヨー
ロッパに暮らして、そういう人間の在り方が本当に嫌になりました。日本の伝統的な生き
方である、それぞれの人間が、好きなように言い、他の人から批判されたら、それが当た
っていると思えば、それに従えば良し、批判が当たっていないと思えば反論せずに無視し
たらよい。それでお互いに棲み分けたらよいのです。「男は黙って〇〇ビール」という世界
です。
私の東大数学科の同級生のS君がイタリアに留学することが決まって、奈良に高名な岡
潔先生にご挨拶に伺ったところ、岡先生から開口一番、「西洋は低く、東洋は高し!」と喝
を入れられたそうですが、神原論文を読んでしまった今となっては、下に翻訳してある西
洋人たちの論文を読むと、岡先生の気持ちがよく分かる気がします。
61
[閑話休題]
序文:
PISA 基準に従って PISA 自身を判定してみる - PISA は自分が約束したことを守っている
か?
<A HREF="http://homepage.univie.ac.at/stefan.hopmann/">
ステファン T. ホップマン </A>
<A HREF="http://homepage.univie.ac.at/gertrude.brinek/">
ゲルトルーデ ブリネック</A>
<A HREF="http://www.univie.ac.at/>ウィーン大学(オーストリア)</A>
いまのところ、PISA は比較教育学でいちばん成功した企画です。新しい PISA の波が揺
れるたびに、あるいは追加の分析が現れると、各国の政府はその結果を気にします。各国
の新聞は各コラムを(PISA の結果で)満たします。そして各国の世論は自国の学校体系に
ついて指摘された欠点に対する解答を要求します。もちろん、そのようなものすごい衝撃
は論議と批判を呼び起こします。
1方の側には、次のような人々がいます:
ある人達は、教育や学校教育(スクーリング)の全領域をカバーしていない事を理由に PISA
を責めます(例えば、フックス 2003;ランデンティン 2004;クラウス 2005;ヘルマン
2005;ドーン 2007;PISA の枠組みへの追加:ベンナー 2002)。
ある人達は、PISA が、増大し続けるテスト(受験)産業の利益のわけまえを追い求める私
企業(「株式会社 PISA」)によって運営されている事実を指摘します(例えば、ブレイシー
2005;フリットナー 2006;ローマン 2006 を参照)。
また別の人達は、PISA を最もネオ=リベラルな新しい公共の政府のアウトレット(がらく
た市場)として描き出します(例えば、ローマン 2001;ヒュースキン 2005;クラウスニ
ッツアー 2006 を参照)。
反対の側に立つ人々は、比較研究の為に今までで最も利用しやすいデータベースを私達
に与える点で、また、研究の新しい道具を開発した点で、そしてそのデータ集合を PISA が
創造的に分析した点で、PISA を賞賛しています(多くの例については、ペクラン 2003; ロ
ウダー 2003;ヴァイゲル 2004;スタック 2006;を参照。本書の中のオルセンも)
。
●PISA に従って PISA を判定する
しかし、驚くことに、そして PISA が人々に与えた大きな衝撃にもかかわらず、PISA は
比較研究の研究者集団の内部では徹底的な方法論の討論を呼び起こしては来ませんでした、
62
少なくとも意識的には。
これまでにも、PISA に参加しているいくつかの国々で、設計や分析の欠点を指摘する批
判はありました。(例えば、ボンネット 2002; ロマンビル 2002; ナッシュ 2003; プライ
ス 2003, 2004; ゴルドシュタイン 2004; アレラップ 2005, 2006; ボダン 2005; ボッタ
ニ & ヴィルグノート 2005; ゲーツ 2005; オルセン 2005; ヤンケ & メイヤホファー
2006; ニュウワース,ポノクニー & グロスマン 2006; グリセイ & ムッシュー 2007).
PISA の研究全般の方法論的堅実さに対する根本的な、かつ大いに論争を呼んだ批判もあり
ました(ヤーンケ & メイヤーホーファー 2006;特にヴゥットケ 2006;プレンゼル & ウ
ォルターによる反論 2006)。
しかしながら、これらのいずれも PISA 社会それ自身の外では PISA の妥当性の主張に関す
る国際的討論には発展しませんでした。まるで、その取り組みの圧倒的な成功が、PISA の
設計、データの収集と分析を方法論的に議論するどんな企ても小心で不敬であるかのよう
に見せてしまうようです。PISA の戦略それ自身が、すべての質問票を含めて完全なデータ
ベースにアクセスを許していません。それがこの問題をいっそう難しくしています。
「PISA に従って PISA を判定する」本書は、たぶん、PISA 自身が推奨している妥当性
と信頼性の要求に関連する PISA 自身の方法論的利点と欠点ついて議論する最初の独立し
た国際的取り組みになるでしょう。
私達の大部分は、PISA が私達の分野の歴史において重要な里程標であると信じています。
しかし私達は、PISA のいくつかの基本的な要素は、例えば、参加国の比較一覧表や教育の
体系の弱点の徹底した分析、の重みを担うことができるほど良くできているのかどうか、
強く疑問に思っています。もっとほかの、そしてよりよい PISA のデータベースの使い方が
保証されないものか、そして「公共の行事としての PISA」がはるかに多くいっそう独立し
た監視の下に置かれるべきではないのか、と私達は問いかけます。 - ただ、PISA から合
法的には導き出す事が出来ない要求と政策を有効にしてしまうようなそれの悪用を避けら
れればよいのですが。
本書は - 可能な限り - PISA の研究過程の全体、すなわち、設計と抽出、データの収集
と分析、データの提示方法と影響に至るまで、をたどって行こうと努めています。私達の
目的は、それぞれの異なった国々における PISA についての論争の概要を提示することでは
なく、むしろ建設と利用の一般的な項目について議論することです。本書の寄稿者たちは
7つの国の、経験的研究の方法論、統計的データ分析、一般的教授法と主題教授法や教育
政策分析、などを含む教育学研究のすべての分野の専門家から成り立っています。本書の
寄稿者の中には、自分たち自身 PISA や同じ様な計画に現在関与している、あるいは継続的
に関与してきた人もいます(巻末の参考文献を参照)。
63
本書の中核的な論文のいくつかをあげてみましょう:
- アントワーヌ ボダン(ブザンソン IREM,フランシュコンテ大学)はフランス人の観点
から、PISA の評価がどの程度(学校の)知識に対する確かな理解に埋め込まれているかを
示します。その結論としては、まったく適合していない、ということです。
- ウォルフラム
メイヤホファー(ポツダム大学)は、PISA はそれの質問票の中で本当は
何を求めているのかを徹底して分析することによってこの議論を続けます。そしてこれが
「古典的教養」あるいは現代的教育内容の幅広い概念とさえも、いかにわずかしか関係し
ていないかを示します。
- イェンス ドリン(シッダンスク大学)はデンマーク人の観点から同じ様な議論をつけ加
え、PISA の言う知識の概念化は学校で教えられ学ばれる事を不正確に伝える危険がきわめ
て大きいことを強調します。
- マルクス プーフハマー(ウイーン工科大学)は - 公表されている例題の質問を用いて どのように翻訳の問題が、比較して解答すべき設問を単なる当てずっぽうの問題にしてし
まうという程度にまで結果に影響するかもしれないことを示します。
- S.J.プレイス(国立経済社会研究所、ロンドン)はイギリスの例を使って、回答率と抽出
法に重大な欠陥があることを証明して、それが必然的に偏った結果を導くことを示してい
ます。
- ベルナデット ヘルマン(ウイーン大学)は、少なくともオーストリアでは、PISA によ
って特別学級の生徒たちが制度的に枠外に置かれており、PISA の取り組み方法の中でこの
生徒たちの役割を正当に取り扱うことが殆どまったく行われてこなかったと指摘していま
す。
- ペーター アレラップ(オーフス大学)はデンマークの場合について、PISA は性差や移
民そして同じ様な因子の影響を分析したことで非常に賞賛されているが、その分析はたっ
た2、3個の非常に問題のある項目だけしか調べていないことを示して、同様の事項を念
入りに分析しています。
- スヴェイン スジョベルグ(オスロ大学)は、PISA の設計と生徒の回答行動は、それぞ
れが別個の文化に埋め込まれたものであり、それら2つのことは部分的あるいは完全なミ
スマッチに導くかもしれないと強調しています。
- ギェルト ラングフェルト(アグダー大学)は、PISA の設計に埋め込まれている構成上
の制約、方法論の欠陥や文化的偏向を指摘して、PISA によって主張されている妥当性と信
頼性に疑問を呈しています。
- ヨアヒム ヴットケは、PISA の研究の行い方とその結果起きている偏向と不確実性につ
いて最近声高に表明されている批判についての幅広い概観を与えます。それは参加国順位
判定と比較調査を無作意とは反対の作為的なものにしています。
- ロルフ オルセン(オスロ大学)は、PISA がその取り組み方法を広げ新しい研究を加え
64
る事によって、いくつかのそれの欠点を克服する事が出来る方法の大要を述べます。
- マイケル ウルヘンス(アボ・アカデミー)は、フィンランドが PISA で成功した理由を、
PISA が求めるものがフィンランドの学校教育の中に、PISA がやって来る前に既に足場を
得ていた事実によって説明します。
- トマス ヤーンケ(ポツダム大学)はドイツの立場から、PISA が、学校で教えられてい
る、あるいは教えられるべきである事を本当に査定する事がどうしてできないのか、そし
て PISA への依存がどのようにカリキュラムについての不毛な見解に導く可能性があるか
を念入りに分析しています。
- ドミニク ボズクルト、ゲルトルーデ ブリネック マーチン レッツル(ウイーン大学)は
オーストリアの例を使って、PISA への公衆および政治家の反応は、PISA が本当に扱った
り証明したり出来ることに無関係に展開することを示しています。
- 最後に、シュテファン T. ホップマン(ウイーン大学)は、PISA の計画と PISA の講演
の両方を比較した視点から、PISA の設計、利用と PISA への反応は、PISA に関わってい
る関係者の必要性と慣習にどれだけ依存しているかを示しました。
要するに、本書に寄稿されている論文は全体として、PISA の努力について非常に様々な
描写を与えています。
PISA の研究の過程のどのステップも、本質的な問題の無いものは無いように見えます。
そしていくつかのステップは厳密な学問的基準に合致しません。
私達のいく人かは、これらが PISA の骨組みの内部で解決可能な障害であると信じている
ようですし(例えば、アレラップ、ドリン、オルセン、スジョベルグ)、他のいく人かは PISA
のプロジェクトは修復不可能だ(例えば、ラングフェルト、メイヤホファー、ヴットケ)、
あるいは, PISA はあまりにも特定の政治的目的の中に深く埋め込まれているので、それは
むしろ教育的事業としてではなく調査に基づく政策決定の1つのタイプとして考えられる
べきだ(ホップマン、ヤーンケ、ウルヘンス、ボズクルト=ブリネック=レッツル)、とい
う結論に傾いているように見えます。
ほとんどすべての章は、PISA の内部で適用されている理論的、そして方法論的標準に関
して重大な疑問を提示しています。そして特にそれのいちばん突出した副産物である国別
順位一覧表と学校体系の分析に対して。初期データの完全な集合にアクセスすること無し
には、最終的な結論に達する事は難しいです。
しかし私達の観点からすると、2、3の点は、道理にかなった疑いを差し挟む余地もな
いほど明かであるように見えます:
- PISA は、その設計からして、学校の中で、また学校によって実際に何が達成されるのか
を正確に表現することを不可能にするほどに文化的に偏っており、方法論的に制約されて
います。それがカバーしている事柄が、すべての生徒が知るべきである事の正当な概念化
であるかどうかの証明もありません。
65
- いちばん公共的価値がある生産物である国別順位一覧表はあまりにも多くの弱い鎖の輪
に基づいているので、それらはただちに破棄されるべきです。本書に掲載されている方法
論についての2、3の論文に載っている一覧表について言うなら、その順位一覧表は、実
現不可能であるそれらの妥当性と信頼性についての仮定に依存しています。
- 「良い学校」
「良い教授法」、学校体系の間のちがい、あるいは、性差、移民や社会的な背
景などの事項についての分析のような、広く議論されている PISA の副産物は、これらのデ
ータへの用心深い取り組み方法が許容する範囲を遙かに越えています。それらはしばしば、
投機的ではないとも言えないくらいです。そして少なくとも、PISA が設計上の制約によっ
て、カバー出来ないか、あるいは間違った情報を得ているような局面を正しく観るような
調査を追加することによって PISA の枠組みをより幅広くする必要があるでしょう。これら
のデータに基づいてどんな政策(学校の構造、標準、あるいはカリキュラムについてであ
れ)を作ることも正当化される事は出来ません。
そんな文脈の中で PISA のデータの使用と悪用 - PISA の研究者の同意や協力のあり、無
しにかかわらず - はただ単に政策決定の問題に属します。もちろん PISA の研究者はすべ
ての市民と同様に公然と彼等の政治的確信を表明する権利を持っています。しかし彼等は
彼等の議論の為の疑問の余地のない土台として PISA の研究を論拠として利用する権利は
持っていません。これは、PISA から引き出せる貴重な教訓が無いという事を意味しません。
少なくともそれは、様々な国々で若い人びとの間での独特の種類の知識と才能の一様でな
い分布についてのとても革新的な比較研究です。しかし、経済協力開発機構やそれのメン
バーやこの事業に結びついたいくつか研究グループによる学校教育についての調査として
の PISA の使用は、科学的証拠となるものとか単によくなされた調査という域を遥かに超え
ています。
PISA がこれらの場合にどのように生産されて、どのように使われているかという点にな
ると、PISA は PISA に従っていません。
PISA - 教育研究の Contergan ですか?
(柴田の注: Contergan とは、サリドマイドの売薬名の1つです。以下の原文では
Contergan という単語が何回か出てきますが、これは商品名なので、以下の日本語訳では
化学物質名の「サリドマイド」にしておきます。)
もちろん私達は、ここで展開されている事柄に対する PISA 協会のメンバーによるコメン
トと批評を本書に追加することをどんなに強く望んだことでしょう - 私達は広く、そして
抑制されていない学究的な交流の必要性を信じているからです。
しかし、開かれたシンポジウムでこれらの問題について講演するか、あるいは本書に寄
稿するように繰り返し送られた招待状には、無回答か、あるいは拒絶回答でした。ドイツ
の PISA 協会は本書の企画には参加しないと公式の決定をするまでに至りました;
66
他の国の協会はただ単に沈黙を守りました。
幾度も幾度も私達は公的に、また集会で、PISA に関して発表されたほとんどの方法論的
批判は間違っていたことが証明された、そしてすべての有り得る弱点は改善された、と伝
えられました。しかし、私達は、この主張を正当化する印刷物を手に入れる事が出来ませ
んでした。本書に対する反論の要約を寄稿する招待すら拒絶されました。
これは悲しいことではありますが、決して驚きではありませんでした。
本書の準備の過程で私達は、PISA についての国内の討論が’私達の’国でどのように展
開するかについてかなり多くの情報を交換しました
出現した事は、大企業が潜在的なスキャンダルに出会った時、例えば、調剤会社が間違
った思いつきの薬を取り扱った時、の行動の中に見られるそれ、と似ていないこともあり
ません。そしてそこでの戦略は「問題を枠にはめる」というものです。
ちょっと、最新のドイツの例を取ってみましょう:
- 公(おおやけ)にいくらかの批判の声が発せられた時は、最初の反応は沈黙であるように
見えます。
すなわち、ドイツの PISA 協会のリーダー、 マンフレッド プレンゼル、がそれを本書の場
合に行ったように:
人は「立証されていない主張の為のフォーラム」を開催したいとは思いません(2007-05-09
のメールで本書の企画に参加するように招待された回答として。招待は、2007-05-21 のメ
ールで確認されたように、ドイツ PISA 協会の「満場一致の」決定によって拒絶されました)。
彼は本書に含まれる著者と1つを除く章のタイトルとを知る前に、これを書きました。
- それ(無視する態度)では十分でない時は、次のステップはしばしば、企業に批判的な人
達の動機と能力に対する疑いを高めることです。
たとえば、最近発行された「PISA 株式会社」という書物についてたずねられた時、ドイ
ツ国立教育向上研究所長として、オラフ コラーは、次のように示唆しました。
(1)これらの評論家は(彼等がドイツにおける数学教授法研究の多くの指導的メンバー
を含んでいたにもかかわらず)PISA について議論するための資格が無い。
(2)彼等はたぶん羨望かあるいはほかの非学問的な動機によって駆り立てられている(コ
ラー 2006a; ケルスタン 2006)。
- 次のステップは、いくつか問題があったことを認めたうえで、それら(それらの問題)は
性質と範囲が非常に限られており、全体像には影響しないと主張することのように見えま
す。あるいはまた、これらの問題は PISA のような種類の大規模な調査研究の内部では良く
知られており、比較研究の場合には避けがたい問題である、とすら指摘されます(例えば コ
ラー 2006b)。
もちろんその主張は結果の妥当性に関するこれらの問題の影響を解消させません。
- 最後に、批判は新しいものは何も含んでいない、PISA の研究それ自身の内部で取り扱わ
れてこなかった様なものはなにもない、という声明が発表されます。- そしてしばしばこの
67
主張には、ただ内部の人(インサイダー)だけが分かる公表されていない技術レポートや、
未発表の論文かレポートへの参照が続いています(例えば プレンゼル & ウォルター
2006; シュライヒャー 2006)。
起こらない事は、通常「良い科学」と考えられている事です:主張に対する賛成者と反
対者の公開討論。
1つの経済企業体として PISA を理解するならば、上に述べた調剤会社の線で、これはとて
も道理にかなったことです。無視、黙(だんま)り、あるいは公衆の面前で論争するより
も批判者を単純に主流から排斥して、ブランド商品により少ない害しか与えないようにす
る。公開の場での反論では、いく人かのお客がどうしても完全には説得されない(「semper
aliquid haeret」)危険を伴います。それはただ、批判がついにあまりにも公共的なものと
なり、お客や買い手によって無視される事が出来なくなった時だけ、よりしっかりしたス
テップを取る必要があります。
しかし最初の動きは依然として、批判者と彼等の支持者を、情報に通じていない、良く
装備されていない、あるいは単に個人的予定表に従って行動している疑わしい人たちと思
わせることです。最後の行動は、ほかの研究があって、それは批判が間違っていることを
証明している - しかしながら、いろいろな種類の理由の為にこれらの結論が基礎を置いて
いるデータ-集合は一般の人には利用出来ない - という主張になります。そのような手法
によって、会社は、証明された欠陥さえも実質的にそして一定期間に渡って販売に被害を
与えないだろうという現実的な期待を持つ事が出来ます。
もちろん、PISA をサリドマイドにたとえることはやりすぎだと見なすことも出来ます:
サリドマイドは何千人という重度の障害を持った新生児を生み出しましたが、PISA は最悪
の場合でも、ただ子供たちの教育に害を与えるだけです。その上、グルネンタール社(サ
リドマイドを商品化して販売した会社)は高い危険性を承知で直接薬剤の広告を出しまし
たが、一方、PISA 協会は、PISA の伝える事を信じるか信じないかは人びと次第であると
主張する事が出来ます。
しかしほかの類似は顕著です:
PISA は守るべき大きな「市場占有率」を持っています:教育についての研究への最近の公
共投資の大部分は PISA および同じ様な取り組み方法(標準と試験のビジネス)に投入され
ています;教育学の多くの講座が関連したトピックや項目に振り向けられ、このようにし
てその分野の協力者たちの為の重要な(就職)市場を供給しています。単に、企画全体あ
るいはそれが行われる方法を支持しない2、3人のほかの学者がいるからといって、これ
はみんな(批判や疑惑の)危険にさらすのは大き過ぎ、魅惑的過ぎます。
本書の読者はここに述べられていることに対して同じ様な反応を期待するべきです。
しかし心配しないように:誰もそれの(PISA の)欠陥のために PISA を法廷に引き出そう
とはしていません - 調剤会社の場合の様に。公共的な論議の法廷だけが利用できる法廷で
す。しかしカントに従って、私達はこれがすべての内でいちばん強力な法廷だと心から信
68
じています。
討論は科学の本質的な部分です。そのために私達はあなたにインターネットの上の私達
の討論のフォーラムに参加するように、また、本書に関してあなたの意見と批評を投函す
るように呼びかけます。
http://institut.erz.univie.ac.at/home/fe2/
でより多くの情報を見付けてください。
私達は鼓舞するような討論を楽しみに待っています!
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--------------------------------------------------------------------------どうでしたか、みなさん?
ヨーロッパでは、PISA 派と反 PISA 派の政治闘争が激烈に
なってきているみたいですね。
それにしても、このような海外の「PISA は是か非か」という激烈な論争がなぜ日本では
まったく紹介されないのでしょう。論壇紙には、「世界」
「中央公論」
「文藝春秋」など、い
ろいろな雑誌に「学力論争」は花盛りと言ったところで、PISA のこともしばしば論じられ
ていますが、PISA 論争の件は、これらの雑誌の論文にも、
「朝日」「毎日」「読売」
「産経」
どの新聞にもまったく言及されていません。政府・文科省側の人も、日頃は政府・文科省
72
を批判している側の人たちも、日本全体が「教育は PISA の線で行こう」という闇カルテル
を結んだ如くに報道管制が敷かれています。太平洋戦争下の軍事報道管制よりも徹底して
いる感じです。海外での PISA 論争に関しては、日本は完全な「情報鎖国」の状態にありま
す。毎日溢れるほどの情報が飛び交っているのに、ヨーロッパ各国で激烈な PISA 論争が行
われているという情報だけは、保守派の指導者にも、進歩派の指導者にとっても、国民の
目から隠しておきたい事実のようです。
3-4-2.2005年パリ国際会議「PISA - France - Finland」における
A.Bodin 氏(フランス)の報告より
(翻訳の紹介に先立つ柴田の前書き)
古代の日本人は、仏教が伝来した時にそれを「日本流」に解釈して、土着信仰と「棲み
分け」を行ってきました。また、近世にキリスト教が伝来した時にも「日本流」の受容を
して、江戸時代には厳しい禁圧政策もありましたが、長崎などで「隠れキリシタン」とし
て生き続けて来ました。日本の歴史においては西洋のような血で血を洗うような宗教戦争
は、ごく局地的で一時的なものを除けば、殆どありませんでした。よく言えば「おおらか
な」、悪く言えば「論理的に曖昧な」日本人の伝統的な性格だと思います。PISA に関して
も、ヨーロッパの国々とは違って、日本では一種独特の「日本流に改善された PISA イメー
ジ」に変形されて、「問題解決学習」など、日本の教育を改革してゆくために大きな貢献を
した、と私は考えています。これと「ヨーロッパに本部を置く PISA 本家」とは、2つの異
なったものであることに誰も気が付いていないように見えます。この2つは厳密に区別さ
れなければなりません。私が強く批判しているのは「ヨーロッパに本部を置く PISA 本家」
の「科学に対するなめきった態度」です。それが、「日本流に改善された PISA イメージ」
を攻撃していると誤解されて反発を呼んでいる面があるように感じています。
日本では、大学教育のレベルで、前回紹介したヨーロッパと同様の、予算と人事の覇権
を巡る PISA 紛争が危惧されます。この場合の「PISA」は「ヨーロッパに本部を置く PISA
本家」の意味です。科学研究費の配分を巡って、
「PISA」は大きな流行テーマになりつつあ
ります。こうなると、教授、準教授の採用人事などでも、
「PISA 型教育推進方法を研究し
ていること」が大きな選択因子になる可能性があります。私は、ここ数年間、科学研究費
やその他の選択的科学補助金に当たっていないので、研究は主として自費で行っており、
3年間で一千万円を超える貯金を自分の研究資金に支出しました。公的な研究費の配分を
受けることが出来るかどうかは、老後の生活資金に大きく影響します。「ヨーロッパに本部
を置く PISA 本家」の問題は、小・中・高校レベルよりも、むしろ大学レベルでこれから深
刻になって行くと思われます。インターネット検索で「科学研究費」と「PISA」のAND
73
検索をすると、ズラーッと出てきます。日本でも、かなり多額の科学研究費予算が「PISA」
のために支出されていることが分かります。つまり、
「PISA」によって相当に潤っている人
が増えており、
「PISA」に対する批判が高まることは、これらの人々の既得権益を脅かすこ
とになる可能性があります。もっとも、風向きが変ったら、素早く新しい研究テーマに切
り替える、「機を見るに敏」なる研究者が増えているご時世ですから、流行が変化しても困
らない人が多いのかも知れませんが..
..
.。
[閑話休題]
<A/HREF
http://smf.emath.fr/VieSociete/Rencontres/France-Finlande-2005/BodinGB.pdf>
PISA は本当は何を査定するか? それが査定しないことは何か?
あるフランス人の見解</A>
アントワーヌ ボダン
IREM(数学研究教育研究所), フランシュ=コンテ県
フィンランド=フランス共同会議「数学を教える:PISA の調査を越えて」
2005年10月6日~8日,パリ
(第1章から第4章までを省略します。)
5.認識論的分析に向けて
5.1.フィンランドとフランスの差について
この論文に関して、私達はフィンランドとフランスの結果のちがいに格別の興味をもっ
ていました。大域的目盛りの上の概観的な結果は、このちがいが標準正規分布の 0.033(柴
田の注:ここは 0.0033 の間違い)の標準偏差のちがいを意味し、そしてそれは確率密度
が最大になる点における差である、という事実を隠します。多くの人びとはそれを知らな
いし、それを理解出来る人はさらに少ないです。
調査の下位項目(「量」、「変化と関係」、「空間と形」、「不確実性」)に注意を向けても、
補足的な理解は何も得られません。その観察された差異を理解するのを助けるためには、
質問それ自体とそれぞれの国における成功のパーセンテージに(ほかの取り組み方法の為
には、調査されたそれぞれの部分的な集団に)注目することが不可欠です。
初めに、この試験はフィンランドの結果の方が良かった事を確認していると言いましよ
う - 問われているのは、ただその差の大きさとその意味です。その大きさについては、調
査された範囲の項目によってその正答率の差は、フィンランドが+30%の優位の項目からフ
74
ランスの方が+25%の優位のものまで変動していると言っておきましょう。その差の平均値
はフィンランドの方が 3.5%の優位です。
私達が観察するのは、より「現実的な」項目に対してはフィンランドの生徒が優位にあ
り、より抽象的なあるいは、より形式的な質問に対してはフランスの生徒の方が優位にな
るという傾向があるという差異が重要だ、という事実です。(たとえば、下の、「リンゴの
問題-問1」の結果を同じく「リンゴの問題-問3」の結果と比較しなさい。ただし、こ
の傾向は一般的なように見えます。
)
もしも良い成績が得られなかったフランスの生徒たち10%(下から10パーセントの
範囲)を除けば、フィンランドとフランスの間の結果の差は全く消滅するだろうという点
に注意することが重要であるように見えます。事実として、OECD 平均ではたった7%が
レベル1かレベル1以下(熟達度を1から6までのレベルで評価します)なのに、17%
のフランスの生徒がこれらの範疇に入ります。それは、フランスが数学教育において、全
ての生徒にとってうまく成功してはいないという事を確認します。他方の極(レベル
6)
には、フィンランドの生徒の 7%が含まれ、フランス人の生徒は 3%しか含まれません。こ
の事実は、低いレベルの生徒たちに関する危惧より心配が少ないかもしれません。
PISA はただリテラシー(読み書き能力)を評価するだけで、全般的な数学の能力を査定
するとは言っていないということをここで思い出しましょう。この会議で与えられるプレ
ゼンでは、PISA2000と PISA2003のすべての公開された数学の項目と、OECD(経
済協力開発機構)とフィンランドとフランスだけでなく、さらに、成功のより高い、ある
いはより低いパーセンテージの OECD とすべての参加国の記録された結果が展示されます。
5.2.これが数学ですか?
数学の分野は様々な概念に従って拡張されたり制限されたりするかもしれません。いく
つかの PISA の数学の設問は多くのフランスの数学教師達を驚ろかせます。それらは彼等が
教えるように努力している数学ではありません。同時に、彼等はこれらの設問が意味して
いる知識の社会的な有用性を認識しています。
数学者たちにとっても同様です:
PISA の数学の設問の多くは、理論数学の建築物に挿入するには、彼等にとって明白なこ
とではありません。量、変化と関係、空間と図形、不確実性、... は数学の理論でモデル化
されています。しかしそれらはまた、日常生活の中で日常の言語を用いて使われもします。
PISA は、実生活に執着する努力の結果、それの問題を提示するために普段の言語を使う事
を避けられません。時とすると、決して数学的ではないテキストを理解することが、生徒
75
が直面する主な困難であったりします。確かに、それも数学の過程の一部です。しかし本
当の数学の作業は、その問題が十分に理解された時に、開始されます。ここでは、(日常言
語から「数学の問題」への)「翻訳」の進行はコントロールされていません。そして生徒が
その問題を解くのを妨げたのは、問題が埋め込まれている「状況」や言葉使いの問題だっ
たのか、あるいは(しばしば)レベルの低い数学的困難のせいだったのかは決して確かで
はありません。この点をより良く理解するためには、各個人ごとの、国語の読み書き能力
と数学の読み書き能力の結果の間の相関関係の調査が役に立つでしょう。
「数」、
「量」、などは PISA の「国語」の問題や、
「理科」や「問題解決」の問題の中にも
現れます。PISA の問題が、ある分野ではなく別の分野に置かれるべきであるかどうかは必
ずしも明白ではありません。特に、
「問題解決」分野の問題は一連の数学の問題と一緒に分
析できる可能性があります。私達はそれをする事が出来ませんでした。しかしそれは後の
為に保留しておくべき考えです。
5.3.リンゴの問題例
この問題は、OECD が査定かつ促進さようと試みている現実的な数学(そして本物の評
価)の典型です。
この文脈では、良い問題は、以下のような枠組みの中で解説されている過程に対して開
かれていなければなりません:
a. 現実の中に位置している問題から出発する。
b. 数学の概念に従ってそれを構成する。
c. その問題のどの特徴が重要であるかについての仮定を立てたり、その問題を一般化し、
形式化し、状況を忠実に表現する数学の問題へと変換するようなプロセスを通して、しだ
いに現実から離れる。
d. その数学の問題を解く。
e. 現実の状況に照らして数学的解答を意味のあるものにする。
----------------------------------------------------------------------------[リンゴ]
農民が四角のパターンにリンゴの木を植えます。彼は風から木を守るために果樹園の周
りをぐるりと囲んで針葉樹を植えます。ここに、リンゴの木の任意の数(n)の列に対して
リンゴの木と針葉樹のパターンを見る事が出来る状況の図表が見えますね:
76
x = 針葉樹
o = リンゴの木
問1
下の表の空欄を埋めて完成させなさい:
n
リンゴの木の数
1
1
2
4
針葉樹の数
8
(
)
3
(
)
(
)
4
(
)
(
)
5
(
)
(
)
問2
上に描写されているパターンのリンゴの木の数と針葉樹の数を計算するために用いる事
が出来る2つの公式があります:
リンゴの木の数 = n2
針葉樹の数 = 8n
ただし、n はリンゴの木の列の数を表す。
針葉樹の数がリンゴの木の数と等しくなる n の値があります。その n の値を見付け、
これを計算するあなたの方法を示しなさい。
問3:
この農民が多くの並木を用いてより大きい果樹園を作りたいと思っていると想定しなさ
い。農民がその果樹園をより大きくしてゆく時、どちらがより速く増加するでしょう:
リンゴの木の数ですか?
それとも針葉樹の数ですか?
あなたがどのようにあなたの答えを見付けたか説明してください。
------------------------------------------------------------------------問1については、主なことは状況を理解する事であり、その後はパターンを補間する事
が出来るかどうかです。ただ単に図表の中の最初の4行を数えるだけで完成する事が出来
77
ます。5番目の空欄に対しては、生徒は図表を延長して、それから数えるか、既存の図表
から数の増え方のパターンを推測するか、どちらか一方を使って答える事が出来ます。
フランスとフィンランドの生徒達の間の 10%のちがいは、フランスの生徒たちの相対的
な自信の欠乏あるいは創造心の欠乏を実証しています。彼らはその問題を取り扱うための
数学的手順を手もとに持っていません。それで彼らの内の何人かは立ち止まってしまいま
す。
逆に、この最初の困難を首尾よく乗り越える人達は問2でフィンランドのライバルたち
よりずっと良くやっています(フィンランドの正答率 38% に対してフランスは 62% - 比
率は問1を成功裏に完成させた人達を分母として単純に計算しました)。
これもまたかなり全般的な傾向であるように見えます。
問2に関しては、数学化はとても明白で、次の方程式を解けばよいことが分かります:
n2 =
8n.
フランスの生徒達は(しばしば形式的で、現実的ではない文脈の中でではあるけれども)
このタイプの方程式を解くことに慣れています。私達は、彼らのうちの多くは正式な数学
の方法を使った、すなわち、[n(n - 8) = 0] と因数分解して 0 と 8 という2つの値を見付
けた、とさえ思ってもよいでしょう。それから(上述した PISA の問題解決過程の[e]に従
って)値の0を失格させ、値の8を保持しています。
しかしいく人かの生徒は(フランスもフィンランドも)ただ単に正当ではない簡約化:
n2 = 8n ⇔
n=8
すなわち、
n×n = 8×n ⇔
n=8
によって正解を得たに違いありません。
別の解き方として n = 8 まで図表を延長する方法があります。
少なくとも1つは数学的に誤っている部分を含むそれらの手順は、ほかの手順と合わせ
て、正解と考えられました(完全な、あるいは不完全な正答!)。
それは認識論の問題を提起します:
どの数学に賭けるのですか?
何が高く評価されるのですか?
はっきりさせましょう:
この問題の有益性を否定する事は私達の目的ではありません。数学のテストの中におけ
るそれの適切性を否定するものでもありません。実用性の観点で判定の物差しを造ること
についての合法性さえも否定するものでもありません(その働きは素晴らしいです!)。
【柴田の注】私はこのような評価には「異議あり」ですが、あとで説明することにして、
とりあえず先に進みます。
(翻訳文の続き)
ここで提起されている事は、より深く数学的観点から生徒の手順を分析する補足的な定
性的研究の必要性です。
78
問3では2つの変化の割合を比較する必要があります。
ここでは、それは f(n) = n2 と g(n) = 8n のような関数の導関数の増大を比較することに、
そして、最後に2次導関数を比較することに導くかもしれません。ここでもまた生徒が導
関数を知っていることは仮定されていません;彼等はただ単に問題への良識ある自主的な
取り組み方法を持たなければなりません。いくつかの手順が可能なです。それらはそれぞ
れに異なった数学的価値があります。しかしそれらは皆同じと考えられます。
この問題は決して自明な問題ではないということに注目してください。そして世界中の
ほんの少しの生徒しかそれを処理する事が出来ない事はそれほど驚くべき事ではありませ
ん。
【柴田の注】何を言っているんですか、Bodin さん。2つの関数の差を取れば、f(n) - g(n) =
(n - 8)*n となっていて、n の値が増大するに従って、差はどんどん大きくなって行くこと
が自明だから、f(n) の方が速く増大することは中学生にでも分かる自明の理ではありませ
んか。こんなトンチンカンなことを言っているから PISA 協会にバカにされて、相手にして
もらえないんですよ。「2次導関数」を持ち出す必要なんか全然無いじゃありませんか。
(翻訳文の続き)
(それは TIMSS に関しても同じでした):
本当に数学的な困難、基本的概念と結びついた困難の事ですが、は世界中で同じ様子で
経験されています。着飾っていること(「埋め込まれた状況」)や言葉使い(「用語」)の問
題に関係しているのではありません。
リンゴの問題は第10学年で EVAPM の調査で使われました。
【柴田の注】EVAPM とは、フランス数学教員協会とフランス国立教育研究所によって2
0年前から続けられている教育調査プロジェクトです。
(翻訳文の続き)
このような状況は PISA の「長方形」の問題においても出現します。
正しい数学的手順だった生徒の割合は、6%(フランス)と 4%(フィンランド)しかあり
ません。それらの割合は、日本が獲得した 11%、および EVAPM によって得られたフラン
スの第10学年の 11%と比べられるべきです。全ての国の問3の正答率は、唯一の例外を
除いて、2%から 12%の範囲にあります。ただ一つの例外、韓国の 24%は、いっそう深く分
析するに値します。
5.4.本棚の問題例
次の問題は現在のフランスの数学のカリキュラムにぴったり合わない1つの問題の典型
的なケースです;
79
より正確に言えば、それは小学校のレベルとする方がいっそう適切であると見られるで
しょう。同時に、フランスではみんなが(そして特にフランスの数学の教師たちが)15
歳の生徒たちはこの問題を解く事が出来ると期待するでしょう。
---------------------------------------------------------------[本棚]
1組の完全な本棚を作るには、大工は次の部品が必要です:
◎4枚の長い木の板
◎6枚の短い木の板
◎12個の小さなクリップ
◎2個の大きなクリップ
◎14本のネジ
大工は26枚の長い木の板、33枚の短い木の板、200個の小さなクリップ、20個の
大きなクリップと510本のねじを在庫で持っています。
大工は何組の本棚を作る事が出来ますか?
-------------------------------------------------------------正答率は、フィンランドではフランスより 10%高いです。
そしてそれは、現実的な問題について語られた事を実例で説明しています。
しかしそれは数学の問題でしょうか?
それとも、数を使っているどんな問題でも数学の問題として考えられるべきなのでしょう
か?
いくつかの国々では、この問題はむしろ科学技術の内容の領域でたずねられるでしょう。
数学的な解法は次のようになるでしょう;
N = Min { [26/4], [33/6], [200/12], [20/2], [510/14] }
N は大工が作る事が出来る本棚の数の最大値であり、そして [x] は x の整数部分を表して
います。ここでもまた、生徒はこの複雑な公式を書くことは期待されてはません。
実際、彼等は試行錯誤によって進んで行きます。それにもかかわらず、もしも彼等が彼等
の結果を証明しなければならないとすれば、彼等は日常的な言語で、この公式の内容だけ
でなくさらに意味まで書き下す事を余儀なくされるでしょう。象徴的な公式を書くのはい
っそう難しいに違いありません。PISA に取っては幸運なことに、どの生徒もそんな公式を
用いることは考えません。
80
(私達でもこの論文の中以外では考えないでしょう!)
それで成績の結果は国際的には大部分が 50%から 70%までに並んでいて、とても高いです。
しかしそれは、それでも数学ですか?
この種の現実的な問題を練習することは、よりいっそう抽象的な数学の為の良い準備であ
るかもしれないのでしょうか?
いくつかの教育組織では現実的な数学を強調するように教師に要求する傾向があるので、
その問題を提起する価値があるのは確かです。この問題は他の多くの問題と共に、PISA は
(数学的な)証明を理解することに弱い強調しか与えていない点を指摘しています。説明
したり、正当化することさえ、PISA の採点のスキームではあまり高く評価されていません。
それは数学的達成についての通常のフランス人の概念とは大きく異なります。
6.教訓的な分析に向けて
前節の注意から教訓的な疑問が直接に導かれます。
どちらの系列の教育状況が、数学的読み書き能力(一部分は常識的知識)においても抽
象的で記号的な数学においても、両方で生徒が熟達するのを助ける事が出来るのでしょう
か?
いく人かの人は、こういう問題の立て方は適切ではなく、常識的知識から理論的知識に
至るまでの連続体があるのだ、と主張する事を私は知っています。私が思うには、事実は
まったく逆で、フランス教授法学派と呼ばれる人々の全業績が、学習にとって常識的知識
と理論的知識を切り分けることが必要であり不可欠であるという事を私が理解するのを助
けてくれました。それで、実生活や具体的な情況を強調し過ぎると、その反動としていく
つかの否定的影響を与えるのではないかと私達は恐れています。
ここに1例があります。
この問題は不確実性の分野に属していて、確率の値がたずねられています。
確率は15歳のフランスの生徒の 98%が学習しているカリキュラムには載っていませんが、
彼らは他の OECD 諸国の生徒と同じレベルの成績を上げています。私達は TIMSS で13
歳の生徒たちについて同じ種類の結果を手に入れました。確率がカリキュラムの中に含ま
れてはいなかったのに、フランスの生徒達は確率がカリキュラムの一部として考えられて
いた国の他の人々より上手にやり遂げました。ほかの調査(EVAPM)は、確率の概念を紹
介された生徒はこの種の質問に答えるのが、この題目を教えられていない時よりも(少な
くとも初めは)より多くの困難に出会うという事を示しています。
------------------------------------------------------------------------[色着きキャンディー]
問1
ロバートのお母さんは袋の中からキャンディーを1個つまみ上げるように言いました。
81
ロバートは袋の中を見ることが出来ません。袋の中に入っているキャンディーの色は次の
様になっています。
赤(6個)、オレンジ(5個)、黄色(3個)、緑(3個)、青(2個)、ピンク(4個)
)、紫
(2個)、茶色(5個)
ロバートが赤いあめを抜き取る確率はどれでしょうか?
A; 10%
B; 20%
C; 25%
D; 50%
-----------------------------------------------------------------------ここでまた私達は常識的な知識について語る事が出来ます:図表を理解して、あめの全部
の数(30)を数え、それらの内の6つは赤いことに注意し、最後に30個から6個を選
び出すチャンスがある事を確率の値として解釈します。それは数学の基本概念についての
日常的な言語と予断です。この種の課題を強調して、特に MCQ 形式で、そして生徒(およ
び他の多くの人々)に彼等がいくらか確率の知識を得たと思わせるならば、きっと重大な
誤解に導くでしょう。ほかの多くの問題についても、この種の吟味が必要しょう。
7.予備的な結論
PISA は国々横断的に巨大な量の定性的データを集めました。それは更なる研究への道を
開きます。
採点と順位付けに焦点を当てている計量教育学の研究成果の他に、多くの興味深い定性的
な研究のための余地があります(より正確に言えば、定量的取り組み方法と定性的な取り
組み方法を明確に区別する研究調査の為の)。
莫大な資源が PISA の調査に投入されました。それだけでなくさらに、様々な変化に富ん
だ介入と資産も投入されました。
生徒たちが最初の受益者でないならば悲しいことでしょう。
この論文の中で、私達は、PISA の研究に対してはある種の用心が必要であるという事を
証明しようと努力しました。しかし同時に、全体として、PISA の研究はまじめに受け止め
られる価値があるという事も証明しようとしました。それらは教師たちに新しい問題や新
しい考えをもたらす事が出来ます。そしてそれは私達の社会の必要性にぴったり合う教育
方法だけでなくさらに彼等が現在保存している価値を持って彼等が前進してゆくのを助け
る事が出来ます。
この論文は、研究者の注目を引き付け、そして数学教育の研究者社会の研究によって、
またその内部で(いくつかの)補足的な研究が取り組まれるべきであるという考えを正当
82
化することを特に狙っています。PISA の研究は様々な国の学者たちを助けて、彼等の国や
地方の場所から距離を置き、数学の教授法と学習法に対するよりいっそう幅広い理解を得
られるようにするかもしれません、未来の市民と消費者の為に、そして何より人類の前進
の為に。
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84
-------------------------------------------------------------------●防風林は風向きを表す。
世界には風の強い地域で果樹園を経営している農村地帯がたくさんあると思います。そ
ういう地域で育った子ども達も数万人、あるいは数十万人が PISA のテストを受けているで
しょう。その生徒達は「リンゴ」の問題を見て、「あれーっ、こんな防風林なんて無いよ」
と当惑したに違いありません。
私は中学生の時に社会科の授業で、日本では強い北風から家屋や果樹園を守るために各
地で防風林が植えられていること、防風林は基本的に北風を防ぐためのものだから、家屋
や果樹園の北の位置に隣接して植えられることが多いが、山間、谷間の地形によっては風
が「回り込ん」だりするので、やや北東の位置や北西の位置にずれることもある、従って、
家屋や果樹園と防風林の相対的な位置関係を見れば、その地域の風の向きが分かる、と教
わりました。中学生の頃は東京のど真ん中に住んでいたので、自分の目でそれを確かめる
事は出来ませんでしたが、成人してからは汽車で旅行をするようになって、北関東の「赤
城下ろし」や「榛名下ろし」の地域では確かに北の山に向かって立ちふさがるように防風
林が植えられているのを確かめました。
だから、PISA の「リンゴ」の問題の図のように、4方を防風林で囲むようなことはあり
えません。だいたい、果樹園の収穫作業というのは、たいへんな季節集約型農業です。ア
メリカ映画「怒りの葡萄」
(ノーベル文学賞作家 John Steinbeck “The Grapes of Wrath” を
John Ford 監督、Henry Fonda 主演で映画化した名作)でも、季節労働者がブドウの収穫
期に大農園に雇われて収穫する光景が出てきますし、フランスなどでは収穫の時期になる
と毎年北アフリカからの季節労働者が海を渡って大挙してやってきます。そういうものす
ごく忙しい労働の場において、4方が針葉樹の並木で塞がれていたら、仕事になりません。
袋いっぱいに収穫した果実を入れて、労働者は果樹園を大急ぎで出たり入ったりして働く
のです。
収穫の時期でなくても、剪定の作業などで脚立や刈り込みバサミなどの大きな道具を持
って果樹園に出入りする機会は頻繁にあります。果樹園の4方に防風林を植える、などと
考える農民は世界中に一人もいないでしょう。例によって、PISA の「状況に埋め込まれた
問題」というのは、先に数学の計算問題を作っておいてから、出題者が観念的に頭の中で
でっち上げたバーチャルな「現実」を当てはめているだけなので、それに相当する現実を
熟知している生徒ほど、解答しづらくなっているという「逆理」が起こります。今回翻訳
して紹介した Bodin 氏の用語では、数学的問題を「dressing up」しているだけなのです。
つまり、きれいな衣装を着せて飾り立てているだけなんですね。その衣装がけばけばしい
だけで、全然似合っていない、というわけです。
85
●ブザンソンでサクランボウを盗み食いした話
上に翻訳して紹介した Bodin 氏はブザンソン大学の先生ですが、私も若い頃にブザンソ
ンに5ヶ月ほど住んでいたことがあります。ブザンソンはスイスとの国境に近い小さな町
で、ちょっと歩くと、もう街を外れて眼前に広大な畑や果樹園が広がっています。私たち
国費留学生はしばしばフランス語の授業をサボって、郊外にサクランボの盗み食いに出か
けました。ブザンソンのサクランボの果樹園には柵も防風林も全然無いので、誰でも勝手
に「侵入」することが出来ます。そして地面に落ちているサクランボウは自由に拾って食
べても良いのだそうです。当時は未だ日本には外国産のサクランボウが輸入されていない
時代でしたから、日本のものに比べて格段に大きくて甘いフランスのサクランボウはとて
も魅力的でした。
時々、果樹園の持ち主と思われるお百姓さんがバババッとバイクに乗って見回りにやっ
て来ます。そして「おい、おまえ達、地面に落ちているのを拾うだけならいいけれど、枝
に付いているのをもぐと犯罪になるんだぞ。枝になっている実は絶対に取ってはいかん。」
と私たちに宣言するので、私たちはもちろん、
「ウィ、ムッシュー」と答え、おじさんは「よ
しよし」とばかりに貫禄を付けて頷くと、またババババッとバイクを駆って他の畑に見回
りに飛んでゆきます。私たちは彼の後ろ姿にあかんべえをしながら、せっせと枝に実って
いるサクランボウをもいで食べました。Mark Twain の「トム・ソーヤーの冒険」や「ハ
ックルベリー・フィンの冒険」のような青春時代でした。40年前のフランスは本当にお
おらかなものでしたが、今でもブザンソンのような田舎はあまり変わっていないのでしょ
うか?
日本では、他人の畑に勝手に立ち入ると法律違反になるのではないでしょうか。しばら
く前に、自衛隊員の宿舎に立ち入って「イラク派遣反対」のビラを配布した人が「建造物
不法侵入」で最高裁まで争って、結局有罪になりましたから、厳しいもんですね。
それから、落ちているサクランボウは勝手に拾って食べて良い、というのも日本人の感
覚からすると、ずいぶん大らかに思えます。現在埼玉県の志木市の市長を務めている長沼
明君が学生時代に、何のテーマだったか忘れましたが、何かに抗議して国会前でハンガー・
ストライキをやったら、たちまち警察に「窃盗容疑」で逮捕されちゃったんです。長沼君
は、浦和駅前に置き捨てられていた壊れた自転車を自宅に持って返って、修理して使って
いたのですが、警察がナンバープレートから元の持ち主を割り出して、その人に「盗難届」
を出させて、長沼君を「窃盗」容疑で逮捕した、という経過だったことが後で分かりまし
た。長沼君は、
「盗んだんじゃない。落ちていたものを拾っただけだ」と主張したのですが、
日本には「遺失物不法占有ナントカ法」という法律があって、拾ったものを勝手に使った
りする人は逮捕できることになっているそうです。サクランボウが道に落ちていたのを拾
って食べても、その法律に違反するのでしょうか?
(以下、第3章の残りの部分と第4章はただいま鋭意、構想中です。
)
86
3-5.PISA の「数学的リテラシー」は「数学」ではない。
「数学」はプラトンの「イデア」である。
日本の子供たちは算数が大好き -- 答が一つでスッキリしているから。
PISA の「複雑で錯綜とした、正答が1通りではない問題」を日本でマネを
すれば、「算数嫌い」の子供を「激増」させる恐れがある。
2004 年の文科省 PISA 対応ワーキング・グループの設置で
日本の教育は崩壊の危機を迎えようとしている。
元旦の朝から寝っぱなしの母親が
「民族的伝統としての御節料理を守る重要性」を作文できるようになる。
●「現実から出発した問題」とはどういうことか。
「数学の問題」を PISA 的に「日常生活に即して考える愚かさ」??
新聞紙は4回以上、折り畳めません!!??
岡部恒治ほか「分数が出来ない大学生」の中の「新聞紙を10回折り畳む
問題」について。
3-6.「自分の頭で考えられる」程度のテーマしか教えない教育の不毛
3-6-1.
「2次方程式の解法」と複素数の発見
2次方程式の解法を「自分の頭で」発見できる生徒は 100 人にひとり、
2次方程式が常に解を持つように「虚数」を「自分の頭で」考え出せる
のは 100 億人にひとりの超大天才だけ
「博士の愛した数式」
(小川洋子)
e iπ + 1 = 0
この数式の美しさ、すばらしさを「自分の頭で」理解できる
高校生なんていない!!
3-6-2.ノーベル賞と PISA 調査
ノーベル賞・フィールズ賞受賞者の数と PISA の順位は負の相関関係にある
(世界で唯一の例外が日本)
たった数名の天才・秀才を出すことの重要性
--世界全体の科学・技術・文化は少数の天才たちによって発展させられ、
世界中の人々がその恩恵に浴してきた。
3-7.ギリシャ教育の文化的伝統
3-7-1.プラトンのアカデミアの授業科目は「数学・音楽・体育」
ユークリッドは、「三角形や円の性質を学んで何の役に立つのですか?」と
尋ねた弟子に金貨を投げ与えて言った「これで、君がこの学校に入学した
甲斐があったかね?」
3-7-2.教育は幼児期から、「最も偉大なこと」「最も美しいもの」をこそ教える
87
べきである。
「感動」こそ教育の「命」!
日頃見慣れた「日常生活」と結びつけても、生徒には何の感動も起きない。
3-8.政府もマスコミも国際テストの成績は「黄門様の印籠」
日本で本当に「学力が低下」しているのは高校生?
それとも「有識者」?
3-9.PISA 型国語授業の失敗実践例 (PISA が栄えて国語力が滅ぶ)
私の「学力の国債比較に異議あり」を読んで PISA に非常に興味を持った友人の S さん
が、いろいろ PISA 関連資料を収集しているのですが、「このページがまだでしたら、是非
ご覧下さい。心境的にはさびしいですがね。」と紹介してくれたのは、PISA テストの「日
本総代理店」みたいな役割を遂行している国立教育政策研究所の総括研究官・有元秀文さ
んの予定原稿(推敲中)という”「PISA型読解力」の弱点を克服する「ブッククラブ」
の理論と方法”という pdf ファイル。
< http://www.nier.go.jp/arimoto/index.html >
有元さんという人は、「日本の国語教育はオレが改革する」という自負心に満ち溢れて、
「PISA 型国語教育の授業のやりかた」というのの日本での旗振り役をやっている人です。
その有元さんの薬が効き過ぎて、日本の小学校で「PISA 型国語の授業」というのが蔓延
して、子どもたちの国語の読解力が落ちている、というのです。そして有元さんは「PISA
型授業の弱点」を補うために、アメリカで流行している「ブッククラブ型授業」を導入し
よう、と提言し始めたわけです。
そうするとたちまち、例によって、日本全国の小学校の国語の授業でアメリカ流行の「ブ
ッククラブ型授業」というのがいっせいに蔓延することになるんでしょうねえ。あーあ、
確かに、心境的にはさびしいですねえ、まったく。
以下に、上記の有元論文の冒頭部分を引用・紹介します。皆さんも「他山の石」として、
有元さんが紹介する「PISA 型国語授業の失敗実践例」というのをぜひお読み下さい。
<引用開始>
国立教育政策研究所・教育課程研究センター
基礎研究部
総括研究官
有元秀文
「PISA型読解力」の弱点を克服する「ブッククラブ」の理論と方法
はじめに
88
(中略)
PISA型読解力の弱点
私の著書やウェブサイトの情報が広まって、いわゆるPISA型と呼ばれる授業が広まっ
ています。従来行われがちだった枝葉末節の曖昧な発問が改善されることは素晴らしいこ
とですが、困ったことも出てきました。それは丁寧な教材理解と教材解釈の過程を軽んじ
て、クリティカル・リーディング(熟考・評価)の発問ばかりに重点を置いてしまうこと
です。
例えば、小学校で「ごんぎつね」を教えるときに「ごんのおわびの気持ちはどうすれば
兵十に伝わったでしょうか?」というようなクリティカル・リーディングの発問をすれば、
子供たちは実に楽しんでいろいろな発言をします。授業が盛り上がれば教師は楽しいから
PISA型にやみつきになります。これがPISA型授業が広まる大きな理由でしょう。
しかし、この問にきちんと答えるためには、従来から行われてきたような内容の理解と
教材解釈をきちんと行わないと、教材を正しく理解しない実にいい加減な議論を子供たち
はしてしまいます。
また、PISA型の発問を作るのは容易なことではありません。なぜならPISA型の
発問は欧米人のコミュニケーションに基づいていて、日本人の頭からは出てきません。だ
からPISA型の発問を模倣してもとんでもない見当違いの発問をつくってしまうことが
よくあります。
PISA型授業が引き起こす弊害については、冒頭に詳述しますが、このような事情で、
今まで私のリーディングリテラシーのサイト
http://www.nier.go.jp/arimoto/index.html
に掲載されていた「PISA型授業実践事例」全部削除しました。
[ブッククラブの提案]
この本は、PISAに対応するために開発したPISA型の授業をさらに発展したブック
クラブという授業を提案します。
ブッククラブとは、読解力を向上させるためにはたくさんの本を読ませて、読んだこと
について質問したり討論したりする、多読と討論が最も効果的だという確信に基づいて、
アメリカで非常に普及している方法です。
ブッククラブとは単なる読書教育ではありません。
89
教材を段落や場面ごとに読み進める従来の授業とは異なり、文章や本の全体を理解させ、
質問に答えさせ討論して読みを深めさせます。
アメリカでは、国語の授業の代わりに行う教師たちもいて、国のカリキュラムに当たる
ナショナル・スタンダーズや州や学区のカリキュラムが求めている、読む・書く・聞く・
話すの学習内容をすべて学ばせようとします。
従来の国語の授業と違うのは、大量の本を読ませて、子供たちが中心になって本の内容
についての討論をさせるように導くことです。
ブッククラブのやりかたについての詳しい解説は、「PISA型読解力」の弱点を克服す
る「ブッククラブ」の理論と方法-多読と討論で、PISAに対応できる読書力とクリテ
ィカル・リーディングを育てる-http://www.nier.go.jp/arimoto/index.html をご覧ください。
(中略)
Ⅰ 理論編
1.「PISA型読解力の授業」への誤解について
「PISA型読解力の授業」への誤解とは次のようなことです。
①
PISA読解力テストで行われている3種類の発問をそのまま授業の発問にした実践事例
が増えている。
読解力テストの問と授業の発問は一部分重なるところもあるが、テストの問は採点とい
う制約があるため、実際に行われる授業の発問よりはるかに守備範囲が狭くなる。したが
って、テストの問だけで構成される単元計画では教材の本質をとらえることはできない。
②
教材の本質を理解し教材について自分の意見を表現できるようにするためには、十分な教
材研究に基づいて、子どもの発達段階や興味にふさわしい学習課題が、作品の本質をとら
えるような単元構成で組み立てられなければならないのに、PISA型読解力の発問を模
倣して羅列するだけの授業が行われている。
③
読解の過程は、後(P.10)に詳しく述べるように
90
a)正確な「教材理解」
b)教材理解に基づいた「教材解釈」
c) 教材理解と教材解釈に基づいた「クリティカル・リーディング」
d)クリティカル・シンキングによって合意を形成する「課題解決」
の4段階の過程から構成される。
「理解」が十分でないと「解釈」はできず、「理解」と「解釈」が十分でないとクリティカ
ル・リーディングも「課題解決」もできない。
ところが、このような「理解」「解釈」「クリティカル・リーディング」「課題解決」の過
程を無視し、発問だけを模倣した授業実践が行われている。
とくに、従来の授業でも行われてきた「理解」「解釈」の過程が十分行われず「クリティ
カル・リーディング」や「課題解決」を形だけ模倣した実践が現れはじめている。
十分な教材理解や教材解釈を行わないままクリティカル・リーディングや課題解決を行
うことは、根拠の確かでない誤ったクリティカル・リーディングや課題解決に結びつくこ
とになり非常な弊害がある。
2.「PISA型読解力の授業への誤解」の具体的な事例
(1)事例1
ある雑誌に掲載された、新美南吉の「てぶくろを買いに」を教材にしたPISA型の事例
です。
【PISA①】母さんぎつねは、どんな気持ちで子ぎつねを待っていたのでしょう。
【PISA②】子ぎつねが「母ちゃん、人間ってちっともこわかないや。」と言ったのはど
うしてですか。(→ワークシートに書かせる。)
【PISA③】「ほんとうに人間はいいものかしら。人間はいいものかしら。」という母さ
んぎつねのつぶやきで終わっていることについて皆さんはどう思いますか。
(→ワークシー
トに書かせる。)
第一の問題点は、PISA①,②、③という発問の分類です。PISA型の発問に「情
報の取り出し、解釈、熟考・評価」というラベルを貼ることは私が関わった学校に限らず
全国的に行われています。それをPISA①,②、③と略したのは字数を省くためではな
いかと推測して黙認していました。それが、私のリーディング・リテラシーのウェブに掲
載されていました。
91
リーディング・リテラシーのウェブサイトは、PISAに対応できる読解力を育てるた
めの科研プロジェクトのサイトです。これが全国的に広まると重大事だと思いPISA型
読解力の実践事例は全部削除しました。私の現在の考え方に沿った理論と実践事例は、日
本ブッククラブ研究会<リンク>のサイトに掲載されています。
PISA①、②、③という言い方が普及するとまずい理由は、日本の国語の授業をやる
のにいつもPISAの傘下にいるような授業をする必要がないからです。PISAを信奉
する人は疑問を感じないでしょうが嫌悪感を感じる人も少なくないと思います。またPI
SAの参加国が日本でPISA型とかPISA①、②、③の発問をやってると聞いたら可
笑しく思うに相違ないのです。PISAのようなテストは、欧米では、進歩的だがごく普
通のテスト形式だからです。
第2の問題点は、教材の十分な理解と解釈が行われていないことです。
クリティカル・リーディングは、①教材に書いてあることを正確に理解する②書いてあ
ることを手がかりにはっきり書いてないことを推論して解釈する③十分な理解と解釈に基
づいてクリティカル・リーディングする、の三段階を踏む必要があります。
1番目と2番目の発問の答えはどちらもテキストにはっきりと書かれていませんから
「解釈」の発問です。しかし「母さんぎつねが、なぜ子狐と一緒に町へ行かなかったか」
という一番大事な理解ができていません。したがって、十分な「教材理解」ができないか
らから「解釈」もできないのです。
三つの発問の中で一番問題なのは三つ目の発問です。
【PISA③】「ほんとうに人間はいいものかしら。人間はいいものかしら。」という母さ
んぎつねのつぶやきで終わっていることについて皆さんはどう思いますか。
この問は
A「母さんぎつねのつぶやきで終わっていること」についての意見を述べるのか
B「『・・・人間はいいものかしら。』という母さんぎつねの考え」についての意見を述べ
るのかどちらにも取れます。
Aについて批評するのは小学校三年生には至難です。なぜなら作品の構成を批評する教
育を受けてないからです。
Bについて批評するのも三年生には難しいのです。なぜなら母親は人間にひどい目にあ
ったことによるトラウマを抱えているので、同様の体験をした、または想像できる大人で
92
ないと共感も批判もできません。
また、「理解」と「解釈」が十分にできてないとこの答えに答えることはできません。
(2)事例2
ある県の小学校教育研究会ではやはり5年生の「森林のおくりもの」で
PISA1「森林が届けてくれる別のおくりものはいくつあるのか」
PISA2「なぜ筆者は別のおくりものについての1段落を入れたのか」
PISA3「結論と本論につながりがあるか。主張につながるほどの十分な組み立てにな
っているか」
という発問で授業しています。
これは10月に行われたものですから、私のウェブサイトの発問を模倣した可能性が高
いです。誤解されたPISA型が広まると困る最大の理由は、教材の理解と解釈がおろそ
かになることです。
最初のPISA1「森林が届けてくれる別のおくりものはいくつあるのか」は、PIS
A型の問になっていません。「おくりものはいくつあるのか」と言うことがわかっても教材
の理解に少しも役立たないからです。PISAテストではこういう問はしません。
PISA2「なぜ筆者は別のおくりものについての1段落を入れたのか」も、この教材
を理解するのにどうしても必要な問とは思えません。
PISA3「結論と本論につながりがあるか。主張につながるほどの十分な組み立てに
なっているか」がクリティカル・リーディングの問になっています。
しかし、前の二つの問で「森林のおくりもの」の十分な教材理解と教材解釈ができると
は思えないのです。十分な教材理解と教材解釈ができていない段階でクリティカル・リー
ディングの問に答えることはできません。
この問は教材を理解しようとしてつくられたものというより、PISA型の問をつくっ
てみたというだけで、これで作品の理解や解釈ができるとは思えないのです。教材理解や
教材解釈が不十分なままでクリティカル・リーディングをしようとすると、極めて根拠の
あやしいクリティカル・リーディングになってしますのです。
93
クリティカル・リーディングが日本の国語教育にものめずらしいため、取り組む人が多
いのですがたいてい理解と解釈が十分行われず、従来行われてきた授業よりもっとひどい
不幸な授業になってしまっています。
このようなクリティカル・リーディングの問をに答えさせたかったら、
「森林のおくりもの」
の文章全体の構成を時間をかけてとらえさせる必要があります。
(以下、省略)
<引用、終わり>
有本さんによると、PISA 型発問では、(1)原文章からの情報の取り出し、
(2)その情報を解釈する、(3)それを熟考・評価する、という3段階に分けて考える。
この3段階を簡略化して、有本さんが、PISA①,②、③と書いて説明したところ、全
国の小学校の国語の授業のテストの発問形式が3段階に画一化されてしまい、今までなら
「問1」「問2」「問3」と書かれていた設問が、すべて「PISA①」「PISA②」「P
ISA③」と書かれて(印刷されて)出題されるようになった、ということですね。
これを見た小学生たちは、「先生、各問題の先頭にPISA①とかPISA②とか書いて
あるのはどういう意味ですか?」と質問しなかったんでしょうか?
これなら、ある日、文科省が「卒業式の日には、国歌として”Stars & Stripes Forever”
(星条旗よ、永遠なれ)を歌う事」というような通達を出せば、全国の小学校の卒業式で
は、いっせいに”Stars & Stripes Forever”の歌声が高らかに響き渡る事になるでしょう
ねえ。
来年度から、小学校でも「英語」が必修科目になるし、中学校の英語の授業は日本語を
使わないで英語だけで授業を進めるそうですから、なかなかよろしいんじゃないですか。
4.「疑いもなく明らかなこと」を疑ってみる
私の若者観・教育観のコペルニクス的転換
4-1.「分数のできない大学生」が存在することは素晴らしいことでは
ないのか?
学力で生徒を差別しない現在の日本の教育こそ本当の「地上の楽園」
4-2.「どの子も伸びる」イデオロギーの残酷さ
「落ちこぼれ」生徒を放置した日本人の知恵
94
「落ちこぼれ」生徒を放置しなかったフィンランド人の愚かさ
フィンランドの教育では子供を「小型の大人」に仕立てようとしているのではないか。
「自分の頭で考えさせる」教育の本質は何か
--
「鯨の特徴」(小学校4年生の問題)を例にして
「アヒルさんは泳いでいます」
==>
人間的感動こそ教育の原点である
私の「機械翻訳」の実習授業(シラバスより抜粋)
授業アンケートからも抜粋
●幼い頃から大人びたマセた思考を調教によって育成している
=> 特定の大人たちの特定の「科学的」イデオロギーを子供たちが
「自分の頭で考え出せる」まで徹底的に洗脳する。
4-3.「21世紀の社会を生きるために必要な能力」は
「22世紀を生きるための障害になる」のではないのか?
フィンランド(198X ~ 201?) 「失われた?十年」
●「商売上手のケータイ販売ロボット」の高機能化を目指しているだけ
この時代に教育を受けた青年たちはロスト・ジェネレーションと
呼ばれるようになるだろう。
「毛沢東思想」を「自分の思想」として身につけさせられた
中国の文革世代と同じように
4-4.PISA(OECD)の国際学力テストの目標自体が本当に正しいのか?
フィンランドの小・中学校は PISA 受験予備校化?
いや、むしろ、人口500万人あまりの小国フィンランドを
OECD(「経済協力」「開発」機構)が使い捨てモルモットにしている?
4-5.最先端で活躍している科学者たちは本当に科学的な思考力が高い
のか?
●コンピュータや統計学に頼る研究の問題点
私は「US 式和英翻訳システムの制作」
(ラッセル社・2006年)の中で、
『1.4.
「コ
ンピュータに頼る」方法論の問題点』というコメントを書きました。このことは科学研究
を進める上で、きわめて重要な観点だと考えるので、以下に引用して、再度強調しておき
たいと思います。
<< 引用開始
>>
1.4.「コンピュータに頼る」方法論の問題点
以前、計算機による自然言語処理についての研究集会に参加して、いろいろ興味深い研
究発表を聞かせていただく機会がありました。しかし、全体として「コンピュータに頼る」
方法に片寄り過ぎているのではないか、という印象を強く受けました。その例をちょっと
95
紹介してみます。
英和機械翻訳に関する取り組みで、例えば「take」の日本語訳語「...を連れて行く」
「...
を持って行く」「.
..を運ぶ」などの訳し分けの規則(本書のUS式翻訳システムでは「適
訳規則」と呼んでいます)を、大量の例文データからコンピュータ処理と統計学の手法を
用いて効率よく作り上げる、という研究がありました。問題の定式化が明瞭で、かつその
解法も数学的に優れたもののようであり、この分野の最近の研究の中では極めて高いレベ
ルのものであると私は思いました。それだけに、最近“流行”しているこのような方法論
の問題点もかなりハッキリ出ているように思われました。
「take」の例では、
「take」+(目的語)の翻訳例をたくさん集めて、目的語ごとに「take」
の訳し分けの統計データを取っています。例えば、目的語が「boy」なら訳語は「連れて行
く」であり、
「her」でも同じ。
「dog」
「cat」の場合も「連れて行く」ですが「lion」の場合
は「運ぶ」になっていることがわかりました。また、
「lily」
「rose」の場合は「持って行く」
と訳されている、等々の結果から、それぞれの目的語を末端に含むシソーラス(いろいろ
な概念、用語の系統図)を用いて、それぞれの実例をどこまで一般化できるかを統計学的
に最適化するわけです。しかし、よく考えてみると、この例では、
「take」の訳し分けは目
的語の属性に依存しているという前提のもとに解析が行われているわけですが、この前提
には非常に問題があります。むしろ、「take」の訳し分けの基準は、「take」する形態(方
法)によって決まるのであって、
「dog」や「cat」が「連れて行く」で「lion」の場合は「運
ぶ」と訳されていたのは、そのライオンをオリに入れてトラックか何かで運んだから「運
ぶ」と訳されたのであり、「野生のエルザ」のように、ライオンがペットのように主人公に
ついて行く場合には「連れて行く」になるでしょう。また、
「lily」や「rose」は「持って行
く」形態が普通ですが、花屋さんが多くの「roses」の植木を仕入れたりする場合は「運ぶ」
になるはずです。このように、文脈上は明示的に現われてはいない「移動形態」が「take」
の日本語訳語を決定する本当の要因であり、表層に現われている「目的語」は、それが「take」
される通常の移動形態を間接的に示唆しているに過ぎません。
このように、コンピュータによる実例解析の統計的方法では、表層だけを見て、その奥
に隠されている真の要因を見逃してしまう危険が大きいように思います。もちろん、コン
ピュータは表層の解析しかできませんから、それを利用する人間の研究者が、コンピュー
タによる解析の結果を参考にしながら、数字の「裏」に隠されている真の要因を見抜く努
力をする必要があります。ところが、実際の研究例では、どうもコンピュータによる数値
解析の結果を出しただけで、「以上で完成」としてしまう研究発表が多いようです。
天体力学の理論的発展の 3 段階として、(1)ティコ・ブラーヘ的段階(たくさんの観測
データを集積、整理する段階)、
(2)ケプラー的段階(観測データから、それらに合致する
現象論的な法則を抽出して、数式で表わす段階)、
(3)ニュートン的段階(抽出された実験
的法則を、より根元的、普遍的な法則から演繹的に証明する段階)、という概念が科学史、
科学論の世界ではよく知られていますが、「機械翻訳」の分野では、まだ(1)の段階で足
96
踏みしていて、なかなか(2)の段階まで進むことができていないのが現状のようです。
<< 「US 式和英翻訳システム」からの引用終わり
>>
アインシュタインは特許局の事務職員だった
科学者の「質」が変化しつつある?
4-6.日本人のメンタリティー・西洋人のメンタリティー
4-6-1.封建社会ニッポンの知恵
「捨て扶持」「負けるが勝ち」「議を言うな」「葉隠れ」「嘘も方便」
「清き流れに魚住まず」「踏み絵と隠れキリシタン」「和魂洋才」.
..
4-6-2.今西錦司の「棲み分け進化論」
ダーウィンの進化論は個体間の弱肉強食の原理
今西の進化論は集団(種)の共生の原理
●「種は、変わるべき時には、一斉に変わる」
西洋の科学思想 vs 東洋の科学思想
● 木村資生の中立進化論、福岡・YYのウィールス進化論
4-6-3.日本人はなぜ山本周五郎や藤沢周平を愛するのか
小石川療養所に残ることにした安本青年の判断は
科学的に正しかったか?
● 16世紀の宣教師が見た日本人の特異性
「言問いメール366号/3-1-7.昼間は営業マン、夜は科学者」から:
16世紀に布教のために日本にやってきた西洋人の宣教師たちが驚いて、
「こんなに一
般庶民のレベルまで好奇心の強い民族に始めて出会った」と書き残した記録が残って
いることからも、昔からの日本人の特性の一つであった事が分かります。ついでなが
ら、もう一つ宣教師が驚いたのは日本人の清潔好き、当時の西洋世界にも類のない清
潔な日常生活です。
● 20世紀の私がフランスで体験した日本人の特異なメンタリティー
★フランス人は疑い深い
NHK ラジオフランス語講座 2008 年3月号から引用
Le Point-La Croix 誌 2006 年1月に掲載された Sofres (フランス最大の調査機関)に
よる世論調査(18歳以上を対象)から再引用。
①マスコミの提供するニュースに
「非常に、もしくは、かなり興味を持っている」.
.
...76%
「あまり、もしくは、ほとんど興味がない」.
..
..
.
...23%
97
(「興味を持っている」は 1955 年 76%
=> 2001 年 66%
=>2006 年 76%)
②「テレビが報道したとおりに物事が起こった」.
..
..
..
.
..
..
..
..
..
.
. 6%
「だいたい、テレビが報道しているとおりに物事が起こった」.
..
.
..38%
「実際に起こったことと、テレビが報道していることには、
結構違いがあるだろう」
..
..
..
..
..
.
..
...48%
「たぶん物事は、テレビが報道するようには、
全く起こっていないだろう」.
..
..
.
..
..
.. 6%
(ニュース機能において
[1]テレビを「信頼する」(44%)<-->「信頼しない」(54%)
[1]新聞を「信頼する」
(
%)<-->「信頼しない」(47%)
[1]ラジオを「信頼する」(
%)<-->「信頼しない」(40%)
)
★日本人の「新聞(情報)好き」、フランス人の「新聞(情報)、無関心」
世間がどうなろうと、我が道を行くフランス人
NHK ラジオフランス語講座 2008 年3月号から引用
(世界新聞連盟 2003 年度統計からの再引用)
住民 1000 人当たりの新聞発行数(国別数値の比較)
日本 650, イギリス 393, ドイツ 322, アメリカ 263, フランス 167
イタリヤ 158, スペイン 122
日本だけが日刊紙の各戸配達が発達しているが、これは新聞購読者の数が世界的に突出
していることの原因でもあり、結果でもあろう。
☆フランスにおける定期的な(最低週3回)日刊紙購読者の傾向
平均
14.8%(730 万人)
男性
21.4%、
女性
11.8%
管理職・企業のトップ・自由業では、32.8%
パリ都市圏住民
30.3%
高等教育修了者の場合、24.1%
つまり、社会的地位や学歴の高い人ほど日刊紙を定期購読している人の
割合が高い。
●私が中学生の頃の必読書「次郎物語」
感動した柴田少年
「誓約書なら簡単に破られる:信頼する人間同士が口にしたことは
絶対に破られることはない」
4-6-4.
「福岡ペシャワール会」と「国境無き医師団」
●アメリカのアフガニスタン空爆下でカブールに水と食料をトラック
98
輸送し続けたペシャワール会の無謀さ
(中村哲医師はダイ・ハード?)
★ 君は「七人の侍」を越えた
追悼・伊藤和也
2001年11月、アフガン戦争が開始されました。アメリカの猛爆撃の下、アフガニ
スタンの首都カブールは水と食糧が不足して、数十万の市民が餓死の危機にさらされまし
た。福岡ペシャワール会代表・中村哲医師は「飢餓の危機に瀕しているアフガニスタンの
人々を救うための緊急大カンパ」を呼びかけました。日本中から連日多くのカンパが寄せ
られ、各地のペシャワール会の事務所では、ボランティアの人たちが活動支援のために次々
と集まってきて、狭い部屋の中は溢れるばかりになり、まるで「戦争状態」のような混雑
となりました。(言問いメール228号「ペシャワール会訪問記」
http://www1.rsp.fukuoka-u.ac.jp/2001_12.html#228
参照。
ここには、アフガン戦争開始直前の、現地における中村哲医師とアフガニスタン人スタ
ッフとの緊迫した打ち合わせ会議の模様を記録した「ペシャワール会報」の記事も引用さ
れています。会議が終了してペシャワールに戻ってゆく中村医師が、日本語で「この中の
何人かは今生の別れになるかもしれないね」と寂しそうにつぶやいたことも書かれていま
す。)
現地ペシャワール会スタッフはアフガニスタンの隣国パキスタンで小麦粉と食用油を購
入し、連日のように、アメリカの空爆をかいくぐってカブールに小麦粉と食用油をトラッ
ク輸送で搬入し続けました。これは、ベトナム戦争で、猛爆撃をかいくぐってホーチミン・
ルートを通じて北ベトナムから南の解放戦線の基地まで物資を輸送するのにも似た、危険
きわまりない活動でした。まさに、命が幾つあっても足りないような活動でした。死者が
何人も出ても当然の輸送活動だったと思います。そして実際、アフガニスタン人スタッフ
から犠牲者が出ました。しかし、ペシャワール会の現地アフガニスタン人スタッフたちは、
この死を賭した任務を自らかって出たのです。アフガニスタンの男たちは精悍で仁義に熱
く、戦士の気質を持っている人が多い、と言われています。かつて大英帝国がこの周辺の
国々を植民地にした帝国主義の時代に、アフガニスタンの人々は執拗な武力抵抗闘争をお
こなって、ついに植民地化を阻止したという歴史を持っています。また、ソ連に軍事占領
された1980年代にも、果敢な抵抗闘争を続けて遂にはソ連軍を撤退させた実績があり
ます。
アフガニスタン人のペシャワール会スタッフにとって見れば、自分達の身の安全を考え
て輸送活動を見あわせれば、その結果カブールの住民や避難民たち、特に弱者の赤ん坊や
老人たちに多くの餓死者が出ることが目に見えている時に、命を捨てる覚悟で行動しなく
99
てどうするのか、という気持ちだったと思います。
「武士道とは死ぬる事と見つけたり」という「葉隠れ」(佐賀藩に伝わる武士道の奥義を
著したもので、太平の世が続き軟弱になる一方の武士の姿を嘆き、戦国時代の気風を観念
的に理想化した口述筆記の書)は、
「人は何のために生きるのか」という根源的な問に対し
て単純明快に「それは、みごとに死ぬためである」と教えています。この「葉隠れ」の精
神は、太平洋戦争において少年・青年兵たちに「神風特攻隊」として散ってゆくための精
神的動員に使われました。そしてまさにそのカミカゼ英雄伝説によって、1960年代、
70年代のアラブ世界では、「日本人はすごい!
自らの命を捨ててアメリカと戦った!」
という日本人崇拝、強い親日観が広まっていたのです。これは多分に「善意に基づく誤解」
ではありましたが、そのような「誤解」が広まる精神風土がアラブ世界にはあり、それ
がまた極端に走ったのが今日の「自爆テロ」
(ヨーロッパでは最初これを Kamikaze attack
と呼んでいました)の源流です。
国連や各国政府の避難勧告を受けて、すべての国際援助団体・NGO がアフガニスタンか
ら一時的に戦火を逃れて国外退去をする中で、福岡ペシャワール会だけは数名の日本人ス
タッフをカブールに留め、彼らは輸送部隊(コンボイ)がパキスタンから次々と運び込ん
でくる食料や水の配給の指揮に当たりました。輸送トラックの運転手ほどではないにして
も、戦時下での任務はやはり命がけの活動でした。もちろん、アメリカの空爆のパターン
を読み、綿密に輸送ルートを選択する緻密な作戦があってこその成功ではありますが、そ
れでもアフガン人スタッフには犠牲者が出ました。無謀とも言えるこの活動で日本人スタ
ッフに一人の死者も出なかったことは、奇跡でした。
カブールのタリバン政権が崩壊して、PMS(ペシャワール会メディカル・サービス)の診
療所があるジャララバード周辺一帯の治安を仕切るためにハザラット・アリという司令官
の部隊がやってきて、その配下たちが略奪を始めました。ペシャワール会のアフガン人ス
タッフが懸命に説得して、食料や車両の略奪を止めさせるために奮闘しました。それでも
車両は一時的に「調達」されてしまったのですが、付近の村々の長老たちが抗議に行って
くれたので、無事に戻されました。それだけではなく、数人のコマンダー(部隊長)が、
自分にも何かあなた達の仕事を手伝わせてくれ、と言ってきたそうです。
しかし、その後も戦火はやまず、
「テロとの戦い」を口実にしてアメリカ軍や NATO 軍が
タリバンの残存勢力との戦闘を現在に至るまで続けています。2003 年の11月初めには、
ペシャワール会が最重点にしている灌漑用水路工事現場で米軍ヘリの機銃掃射がありまし
た。現場付近には中村医師ら日本人二人と現地作業員ら620人がいましたが、怪我人は
なかったそうです。工事現場があるアフガニスタン東部では反政府ゲリラの掃討作戦を続
ける米軍の誤爆や誤射が相次いでおり、中村医師は「反米感情が非常に高まり、日本のN
100
GO活動にも支障が出ている」と懸念していました。いつ犠牲者が出てもおかしくない状
況になりつつありました。
(詳細は言問いメール272号「米軍ヘリがペシャワール会工事現場を機銃掃射」
http://www1.rsp.fukuoka-u.ac.jp/2003_11.html#272
参照。)
私は、昨年10月3日付けのペシャワール会報で、日本人スタッフの一時撤退を示唆す
る中村医師が「3.安全対策には万全を期すが、都市部は我々にとって危険になりつつあ
る。日本政府の動き次第では、我々の安全に甚大な影響を及ぼす。(日本政府の)欧米軍へ
の協力姿勢が打ち出されれば、独自の現地情報と判断に基づき、日本人ワーカーを段階的
にアフガニスタンから退去させる。危機管理の自衛対策をとる。」と書いておられたので驚
きました。
ソ連軍の侵攻下でも、アメリカ空爆下でも「絶対に撤退しない」と断言して頑張り抜い
たペシャワール会が一時的にもせよアフガニスタンから撤退する方針を打ち出すとは、状
況はそんなにも悪化していたのか、と驚いたわけです。中村医師はジャララバードにいた
約20人の日本人スタッフの半数を今年の4月に帰国させ、年内には残りの半数も帰国さ
せることにしていました。
そんな矢先に、最悪の事態が起きてしまいました。2003 年からジャララバード近郊で農
業指導に当たっていた静岡県出身の伊藤和也さん(31 歳)が8月26日、武装した4人組
に拉致され、付近の村民約 1000 人が出て捜索活動に当たっていましたが、27日、付近の
ダラエヌール渓谷で遺体で発見されました。
伊藤さんは地元静岡県の農業高校と短大で農業を学び、
「自分の経験や知識でアフガンの
人たちの力になりたい。子どもたちが食べ物に困らないようにしてあげたい」と、ペシャ
ワール会の現地活動に参加し、ジャララバード近郊の試験農場を中心に、サツマイモや
日本米、茶の栽培などの農業支援活動に熱心に取り組んでいたリーダーでした。現地語を
習い、地元の人と同じ衣服をまとうなど、現地にとけ込み、しょっちゅう地元の子どもた
ちに「イトー!」とまとわりつかれている姿が印象的だったそうです。ワーカー(ペシャ
ワール会作業者)に渡されていた月1万円の生活費の中から、こつこつとためた20万円
を地元のモスクに寄付していたそうです。地元での人望は極めて厚く、長老から有力者の
娘との縁談を勧められたこともあると言います。ペシャワール会の福元事務局長は、今年
の3月に現地を訪れた時に「お前さんはここで嫁さんをもらうんじゃないか」と軽口を交
わしたそうです。
白い布にくるまれた伊藤さんの遺体を丸太にのせて、村人たちの長い隊列が渓谷の尾根
を下ってくる写真を見て、私は黒澤明監督の名作「七人の侍」のラストシーンを思い浮か
101
べました。七人の侍と村人たちが一丸となって野武士集団と死闘を繰り広げた決戦の一夜
が明けて、村を見下ろす小高い丘の上に四つの盛り土がつくられ、抜き身の刀が一本ずつ
突き刺してあります。七人の侍の内、四人までが討ち死にしたのです。強風にたなびく旗
指物は、その内の一人である菊千代(三船敏郎)が日頃持ち歩いていた旗です。
ペシャワール会による情報として朝日新聞が報道した伊藤さんの葬儀に関する記事は以
下の通り。
「伊藤さんの葬儀が、現地時間の28日午前、会の事務所があるジャララバードで営まれ
た。参列した現地代表の中村哲医師から、福岡市内の同会本部に葬儀の様子が伝えられた。
葬儀には会のスタッフや地元の長老、州知事、米軍を含む治安関係者ら数百人が参列。
当初は数千人の村人たちが参列を希望したが、敷地が限られているため、断念したという。
イスラムの伝統にのっとり、全員で祈りをささげた。参列者はみな、アフガンでの灌漑用
水路の建設や農業支援などの会の活動を高く評価したうえで、4年8ヶ月にわたり農業指
導に尽くしてくれた伊藤さんの死を悼み、「立派な男だった」とたたえたという。事件につ
いては、「恩をあだで返すことになって恥ずかしい」などと語った。犯人グループにつ
いてみな怒っている様子だったという。(中略)
[犯人の引き渡し
怒る住民が要求]
「伊藤さんのおかげで井戸ができたんだ」「犯人を許すことはできない」。ナンガハル州
のシェルザイ知事が伊藤さんが襲われた現場近くを訪れた27日、100 人以上の住民たちが
知事に言ったという。ペシャワール会と、農業支援をしてきた伊藤さんの名前は住民たち
の間でも広く知られていた。それだけに、心ない行為への怒りは大きかった。イスラム教
徒たちは、ひどい行いをした犯罪者たちを石打ちの刑にしてきた。「犯人を引き渡せ。我々
の手で石打ちの刑にする」。住民はこう、知事に詰め寄ったという。」
伊藤和也さんはその31年の短か過ぎる生涯を、みごとに生ききったのだと思います。
★ペシャワール会を憎悪している現地住民もたくさんいる??
人気テレビドラマ「相棒」の10月22日、29日は2週連続の「NGO 職員殺人事件」。
アジアの貧しい村に井戸を掘る人道援助をしている国際援助 NGO の若い男性職員が、村人
と一緒に井戸を掘り、水が湧き出した場面で吹き出した水のしぶきを浴びながら現地の子
どもたちと喜び合う姿が映し出されます。この青年が何故か、日本に一時帰国して東京の
ホテルで殺されてしまいます。そこでお馴染みの警視庁特命刑事の二人組が捜査に乗り出
す、という発端です。
容疑者を逮捕し、共犯者も逮捕する直前に共犯者は海外に飛び立ってしまいますが、飛
行機の行き先がチューリッヒと分かってスイス警察に通報し、被疑者の身柄はチューリッ
ヒ空港で現地の警察官に確保されます。警視庁から身柄を受け取りに二人の捜査員が現地
102
に飛び、スイス警察の担当者と取り調べの打ち合わせをします。その冒頭で、スイスの刑
事が日本の刑事に尋ねます。「Are you speak English?」
「えーっ、いくら何でも、それはないよー。
」とビックリしました。あるいは、私の耳も
老化しているから、
「Can you ...」をイギリス式に「カーンユー」に近い発音をしたのを「ア
ーユー」と聞き間違えたんでしょうかねえ。それにしても、絶対に「Do you ...」という発
音でなかったことは確かです。チューリッヒはドイツ語圏(スイスでは州によって言語が
異なり、テレビもチャンネルによってドイツ語局、フランス語局、イタリア語局に分かれ
ています)ですから、ドイツ語訛りの英語を話す人がいないわけではないけれど、
「Are you
speak ...」と言う人は絶対にいないと私は断言します。もしかしたら、私がドラマの進行に
気を奪われていて、そんな時点で英語が飛び出すとは予想していなかったので、
「Are you
spea...」という出だしを聞いただけで、「あれーっ?
変な英語だなあ」と思ってしまった
だけで、本当は「Are you SP (エスピー Special Police)Japanese?」とかなんとか言った
のを、
「Are you speak English?」と言ったように記憶違いしてしまったのかも知れません。
もしも、そういうことであれば申し訳ありません。私は早とちりのおっちょこちょい人間
ですから、そういう可能性もなきにしもあらずなので、あらかじめお詫びしておきます。
まあ、それはちょっと言葉尻を捉えて些細なことにクレームを付けているように取られ
るかも知れないので、この辺で止めておきましょう。
もっと重要と思われるのは、この話のストーリー展開で、日本からの援助物資が横流し
されて、貧しい人々の手には渡らない。日本の商社が受け入れ国の軍事政権と結託して援
助物資を横流ししている、それを嗅ぎつけた NGO の若い青年が商社の幹部を脅迫して上前
をはねようとして、逆に口封じのために殺された、という「謎解き」が行われることです。
こういう現代物のドラマには終了時に、「このドラマはフィクションであり、現実の団体と
は関係ありません。」というような趣旨の「お断り」が出ることがありますが、「相棒」で
はそういう「お断り」も出なかったし、また、そういう字幕がラストに流れれば十分とも
言えません。何となく、NGO にカンパしても横流しされちゃうんだ、とか、NGO でやっ
てる人もピンハネするんだ、というような印象をサブリミナル効果で与えてしまうように
思われて、非常にイヤーな気分になりました。
「そんなことはない。これはあくまでフィク
ションであることを視聴者はみんな分かって見ているのだから、フィクションと現実を混
同する人なんかいないよ」というのがよくある反論のパターンなのですが、私はこの反論
は事実と異なると思っています。実際、ホラー映画を見る人は、「こんなのは作り物の映画
だから、トリック撮影のウラもミエミエで、面白くも何ともない」と思いながら見ている
わけではないでしょう。現実味を全然感じないのであれば、ホラー映画なんか見ないと思
います。理屈ではトリックであることが十二分に理解されているにも拘わらず、情緒の奥
の方で恐怖を感じてゾクッとしたりするから、ホラーを見るわけですよ。NGOのことだ
103
って同じことで、理屈では、これは主人公に名探偵ぶりを発揮させるための社会派探偵ド
ラマなんだから、こういう筋立てに作ってあるのだ、と分かっていても、こういうドラマ
を見れば、情緒の奥の方で、無意識・無自覚のサブリミナル効果が起きると私は思うので
す。
それから、どことなくペシャワール会代表の中村哲さんを想起させるようなNGOの精
神的な指導者が出てきたりして、ますます不愉快になりました。まあ、演じた俳優さんの
顔も似ていないし、現実の中村さんのように用水路の作業現場で泥と機械油にまみれて、
自らブルドーザーを運転して労働現場で先頭に立って働く、という感じではなかったから、
「違う、全然違います」と反論されれば、確かに違う所も多かったですねえ、と言うしか
無いのですが、NGO の指導者で中村さんほど国民に知られているリーダーはいませんから、
誤解を招く可能性はかなり大きいと思います。ペシャワール会では、輸送費や通信費など
の事務経費を極端に切りつめる努力をしており、予算の 98%(あるいは 95%という会計報
告だったかも知れません。老齢化のため、かなり記憶が怪しくなっています)が直接、現
地での作業経費、資材購入費、アフガニスタン人作業員への労賃に充てられている、と報
告されています。お金や物資の流れについては細部に渡って中村哲氏の目が行き届いてお
り、中村氏以外の人が不正をすることは多分不可能だし、中村氏自身は天地がひっくり返
っても不正などすることが絶対にあり得ない人であることに、会員たちは絶対的な信頼を
持って働いています。ペシャワール会の事務所には「中村哲、命」みたいなおばちゃんた
ちが詰めて、事務作業をしています。そういう意味では、福岡ペシャワール会は「前近代
的な組織」とも言えるような気持がします。1年に1回会費を払う以外に何も活動してい
ない私が勝手なことを書くのは不遜な言動かも知れませんが、まあ、
「勝手連」的に勝手に
応援しているだけですから..
.。
ドラマの中に登場する国際援助 NGO の青年の描き方にも非常に問題があります。商社に
よる援助物資の横流しをかぎつけて、それを公表するのではなく商社を恐喝して資金をせ
びり取って、そのお金を財源にしてアジアの貧しい農村に井戸を掘り、小学校を建てる資
金にしようとして、「善意から出た恐喝行為」だという落ちが付いて、最後に主人公の刑事
の一人が現地の僻地の農村にある小学校を尋ねて、殺された青年の現地人の奥さんである
若い女性教師と対面する場面でエンディングになっています。「お前の勝手な連想だ」と言
われてしまうかもしれませんが、どうしても私は先日アフガニスタンで殺された伊藤和也
さんのことを思い出してしまうのです。伊藤さんに限らず、現地で全力で頑張ってきた
NGO の人たちは、絶対に、間違っても、どんなに援助資金が不足しても、商社を恐喝して
得た金で支援活動を強化しよう、などと考えることはありえません。そもそも、このドラ
マの筋立てを考えた人は、国際援助とは、日本でお金を集めて現地の人々にお金や物資
を配ることだと考えているようです。
104
国連の難民援助計画では、アフガニスタンからパキスタンに逃れてきた難民たちに「ア
フガニスタンへの帰還援助資金」というのを交付しています。そのお金をもらった人たち
は、アフガニスタンに帰国します。しかし、アフガニスタンでは、帰国した人々が就職で
きる仕事がほとんど無いのです。やがて数ヶ月で「帰還援助資金」が底を突いてしまった
人々は再びパキスタンに難民として舞い戻り、再び当座を食いつなぐ「帰還援助資金」を
もらって帰国します。これの繰り返しです。
中村哲氏はこの悪循環を断ち切るために、アフガニスタンに井戸を掘る活動を行ってき
ました。しかし、この井戸も、せっかく掘っても数年経つと干上がってしまうものが多い
ので、次々と新しい井戸を掘り続けているのですが、いたちごっこの様相を呈しています。
そこで、中村さんは、これらの困難を根本的に解決する壮大な計画をブチ上げました。ア
フガニスタンの現地の長老会の人々らと慎重な計画を協議した上で、ヒンズークシ山脈の
麓から長大な用水路を建設する事業です。用水路のコースの選び方から工事の進め方など、
常に現地の人々と知恵を出し合いながら、協力して、現地に合ったやり方で進めています。
例えば、アフガニスタン人の伝統的な知恵として、植物の蔓で篭を編んで、その中にたく
さんの石を詰めて用水路の護岸工事に用います。このようにすると、激しい暴風雨の時期
にも堤防が決壊しにくいのだそうです。また、用水路の流れが蛇行している部分では、水
の流れがゆるくなるので、土砂が堆積してしまうのですが、これには「信玄堤」で有名な
武田信玄流の甲州流治水技術にあるという「亀石」を置くという方法を用いています。水
路が蛇行している箇所に亀の甲羅のような形の石を置くと、その部分は水路が狭まるので
水の流れが速くなり、土砂が堆積しにくくなると言うのです。また、アフガニスタンに伝
わる伝統的な水路建設のコツとして、護岸に柳の木を植えるのです。柳の木はしっかりと
根を張って、かなりの濁流にもしっかりと堤防を守ってくれます。ここに紹介した全ての
技術は、基本的にアフガニスタンの人々の伝統的な知恵から産まれたものであり、それら
を建設する材料は基本的に全て現地でまかなうことが出来ます。外国から物資を輸入する
必要が無いので、壊れたら人々が自分達で修復できるものばかりです。
用水路はまだ完成半ばですが、開通した部分から沿岸周辺の土地に水を供給し始めてい
ます。砂漠化しつつあった大地に水が供給されて、畑を耕すことが出来る様になり、パキ
スタンから次々と難民が戻ってきて、畑を開墾し、集落が出来、子どもたちも産まれて豊
かな農村がよみがえりつつあります。初期に開削作業が始まった部分の用水路の柳が緑に
芽を吹き、その日陰で子どもたちが楽しそうに遊ぶ姿が毎日のように見られるようになり、
次第にその数を増しています。
福岡ペシャワール会の海外支援活動は、お金や物資をばらまく活動ではありません。あ
くまでも現地の人と協議して、現地の人の知恵と力を最大限に引き出して、彼らが自主、
105
自立して生計を立てていけるようにする道を探り出してゆくことです。そういう点で、ペ
シャワール会の活動姿勢は他の援助 NGO といくらかニュアンスが異なっている点があり
ます。しかし、ペシャワール会はことさら他の団体の活動の仕方を批判しているわけでは
なく、私個人もペシャワール会だけを応援しているわけではありません。私が十数年前に
福岡に転勤してから入会して以来、年会費を払っていますが、それよりずっと以前から「国
境なき医師団(Medecins sans Frontiers)に毎月定期カンパを続けてきましたし、この団
体がノーベル平和賞を受賞した時には、我が事のように嬉しくなりました。
国連難民事務所は定期的に援助団体 NGO の交流会や懇親会を開いているらしいのです
が、ペシャワール会の現地スタッフは毎日目が回る程忙しすぎてなかなか出席できません。
しかし、あまり欠席を続けていると、なんだかペシャワール会が他の団体を批判してボイ
コットをしているように誤解されても困るので、ある時、水利事業担当者の蓮岡修さんが
出席したそうです。蓮岡さんは、アメリカの対アフガン戦争が勃発した時、福岡の会の事
務所を私が尋ねていった時にいろいろ現地のお話をして下さった若い方です。その蓮岡さ
んが数年前の「ペシャワール会報」に報告記事を書いておられたのですが、国連の難民事
務所が開いたパーティーの席で、ヨーロッパ人の NGO 職員が可愛がっていた犬が、蓮岡さ
んだけに猛烈に挑み掛かって、飼い主が必死で手綱を引き締めて犬を動けないようにした
そうです。飼い主のヨーロッパ NGO 職員が申し訳なさそうに説明した所によると、愛犬家
のこの人がアフガニスタンまで連れてきたこの犬が、あるときアフガニスタンの現地人に
いじめられたことがあって、アフガニスタン人をみると猛烈に怒って挑み掛かるそうです。
蓮岡さんを始め、ペシャワール会の日本人にはみんなアフガニスタン人の泥やホコリや動
物のにおいが染みついているので、嗅覚が人間の数万倍も発達している犬は、アフガン人
の独特の臭いを嗅ぎつけると凶暴になるのだそうです。しきりに謝罪する飼い主に対して、
蓮岡さんは「別に、気にしてませんからいいですよ」と答えたそうですが、あとからこん
な自問自答をしています。アフガニスタンでは、毎朝工事現場に出勤すると、
「やあ、やあ」
と抱き合って朝の挨拶をする。夕方の帰り際にも必ず抱き合って、「ご苦労さんだったね」
と挨拶をする。そのほかにも、毎日何回も肩を抱き合ったりして苦労をねぎらったり、励
まし合ったりする。いやでもアフガニスタン人独特のにおいが身体に染みついてしまう。
ヨーロッパの援助団体の人は、こういう臭いが染みつくような日常的な接触活動をしない
で、一体どんな援助活動をしているのだろうかと不思議に思った」と「ペシャワール会報」
に書いておられました。
ところで、最近インターネットで調べものをしていて、
「ペシャワール会を憎悪している現地住民もたくさんいる」
106
という見出しの記事を見つけて非常に驚きました。しかもそれが、現地のことを何も知ら
ない人が勝手に想像して書いたのではなく「パキスタン在留30年の邦人女性「オバハン」
のブログ」という HP に書いてあったので、なおさら驚きました。具体的には、
<<引用>>
また、昨日も少し書いたが、受益できない人たちからは大いに恨まれていると認識すべき
だろう…。
支援活動では利益を受けることの出来た10人が(その恩恵をもたらした神へ)感謝し、
後の10人は利益をもたらさなかったNGOを恨むと考えるべきだ。
http://blogs.yahoo.co.jp/kimagure_obahan/43390459.html
とは言え…支援活動では、良くも悪くも現地との濃厚な接触が避けられない。現地では利
害対立の村人が出て当然で、利害を挟んでのトラブルに巻き込まれることも、ままある。
それは、オバハンたちにも当てはまることだ…
<<引用、終わり>>
私は、この解説には全く納得できません。前述したように、ペシャワール会の活動は、
いわゆる「援助活動」ではないし、それによって「受益できる人とできない人の利害対立」
が起きることは基本的に無いからです。全ての事業は長老会を初めとする現地の人々のア
イディアや意見を基にして練られてゆくのです。そもそも、「伊藤さんが小銃を持った一味
に拉致されたらしい」という情報が駆けめぐった時、現地ジャララバードの千人もの村人
たちが、自分達の大切な農作業を放り出して、山や谷川に沿って必死の捜索を続けてくれ
たのです。それは自分の利己的な利益など考えていたら決して出来ない行為です。アフガ
ン人の気性として、「恩には必ず報いる」という仁義に熱い性格の人が多い、と聞いていま
す。そんなときにも、「私はペシャワール会から利益を受けていなかったから」と考えて、
「ざまあ、見ろ。いい気味だ」と伊藤さんを憎悪していた村人たちも大勢いたというので
しょうか。
上のブログを書いた日本人のオバハンは「パキスタン在留30年」とおっしゃるのだか
ら、私が勝手に推測するに、アフガニスタンからパキスタンに難民となって流出した人の
何人かから、オバハンがそういう噂を聞いたのではないでしょうか?
確かに、どんなに
現地の人々と一体化して開拓事業を進めていても、それに対して批判や不満を持つ人が現
れることは避けられないでしょう。たとえば現在のように荒れ果ててしまったアフガンの
土地でも、麻薬の原料となるケシは栽培することが出来ます。そしてケシは外国に高値で
売れます。ケシの栽培を厳しく禁止していたタリバン政権がアメリカとの戦争に敗れて以
107
来、アフガニスタンでは(他に生育する作物があまり存在しないために)、多くの地方でケ
シの栽培が復活しました。しかし、ペシャワール会が活動している地域では、伊藤さんを
含む日本人とアフガン人の、それこそ失敗に次ぐ失敗の連続にもめげないで数年間の血の
にじむような試行錯誤を繰り返してきた結果、いくつかの作物を立派に育てることが出来
るようになってきました。例えば、江戸時代に日本でも飢饉対策のために栽培が広まった
サツマイモです。また、ある種のお茶の栽培にも成功しました。アフガン人の食事にはお
茶が欠かせません。しかもお茶はアフガニスタンでは生育しないため、もっぱら外国から
の輸入に頼ってきました。ところがペシャワール会とその協力農家が、アフガニスタンの
土地でも栽培できるお茶の品種を見つけることに成功しました。このような自立的農業が
ようやく成功しつつある現在、ケシを生育して販売利益を上げてきていた人たちの恨みを
買う、というような可能性も無いとは言えません。
しかし、「ペシャワール会を憎悪している現地住民もたくさんいる」というブログの見出
しは、あまりにも事実に反しているように思います。
8月28日、伊藤さんの葬儀がペシャワール会の現地本部があるジャララバードで営ま
れました。葬儀には会のスタッフや地元の長老、州知事、米軍を含む治安関係者ら数百人
が参列しました。当初は数千人の村人たちが参列を希望したが、敷地が限られているため、
断念したといいます。現地でのイスラム教のしきたりに則った葬儀が行われた後、伊藤さ
んの遺体は中村医師によって伊藤さんの出身地である静岡に帰り、ご両親の主催する葬儀
が静岡で執り行われました。葬儀の後、「息子の骨をアフガニスタンの地に埋めてやって欲
しい」というご両親の希望で、伊藤さんの分骨が行われ、アフガニスタンの地に戻ってゆ
きました。アフガニスタンでは、8月28日の公式行事としての葬儀に参加できなかった
村人たちの主催で、今度は「偉いさん」抜きの村民葬(民衆葬)が、9月9日に約800
人の村民が参加して厳粛に行われました。伊藤さんとともに現地に適した農作物の品種を
見つける作業をしていたアフガン人のアキルシャーさんは、「村の子どもたちが、イトーは
どこに行っちゃったの?
まだ帰ってこないの?
としきりに尋ねるのですよ。
」と言って
いたそうです。
葬儀の様子の写真と中村哲さんの弔辞は以下のサイトで。
http://www1a.biglobe.ne.jp/peshawar/inochi/inochi-r-ito2.htm
●凄い!
こんな人がいる!!
スーダンで医療活動する元大使館医務官
--
10月26日、朝食を取りながら眺めていた朝日新聞朝刊の2面「ひと」欄、おもわず
「おお!」とビックリ仰天しました。「凄い! こんなひとがいるんだ!!」
108
<朝日新聞10月26日「ひと」欄から引用>
スーダンで医療活動する元大使館医務官
川原尚行さん(44)
多くの子どもがマラリアやコレラで亡くなっていく。だが、日本大使館の医務官として
は、現地の人たちを診ることは許されない。
アフリカ北東部スーダンに赴任、10人に1人が5歳まで生きられない現実を目の当た
りにした。「おれは何をしているのか」。無力感と使命感。05 年に外務省を辞め、現地で医
療活動を始めた。住民と同じものを食べ、同じ水を飲む。何度も腹をこわし、粗相した下
着を便所で洗い、ポケットに突っこんで診察した。
年収 1700 万円から無収入に。援助もないなかで、助けてくれたのが母校・小倉高校(北
九州市)ラグビー部の仲間だった。国連機関に勤める後輩がスーダン勤務になったのを機
に家に転がり込んだ。05 年秋に活動の基盤になる NPO 法人「ロシナンテス」を設立。
「1
人の力は無力でも、協力すれば大きな力になる」という思いを、ドン・キホーテが乗った
やせ馬の名に託した。
活動資金は小倉高、九大の母校OBら日本からの寄付が頼りだ。年2回帰国し、学校な
どで講演して支援を呼びかける。「混乱が続く国で子どもたちに夢を持ってほしい。子ども
に必要なのは笑顔で遊ぶこと」。現地で学校建設にも取り組む。
北九州市に残る3人の子を養うのは小学校講師の妻佳代さん(43)。
「家族を思うと帰りたくなることはある。でもスーダンに骨を埋める覚悟。10 年 30 年たち、
自分が生きた後に道が開けていればいいなと思う」
文・山根久美子
写真・藤脇正真
(写真は引用省略)
<引用、終わり>
北九州市に妻と子ども3人がいるのに、年収 1700 万円の外務省職員の地位を自ら捨てて、
無収入になったのか。むちゃくちゃだなあ。現地住民と同じものを食べ、同じ水を飲んで、
何度も腹をこわしながら診察をしたのか、これもまた、むちゃくちゃだなあ。ヨーロッパ
人が指導している「国境無き医師団」なら絶対にそんなむちゃくちゃはさせない。診療活
動をする肝心の医師が病気になってしまったら、活動に支障をきたす。それどころか、感
染症にかかったまま診察したら、医師から患者に感染して、合併症を引き起こしたりして
109
たいへんなことになる。まるで、アフガニスタンやパキスタンで医療・農業支援活動を続
ける福岡ペシャワール会の活動みたい。まったく非合理的だけれど、そんなことはお構い
なし。カミカゼ精神丸出しで、全身全霊、現地の人たちの心に飛び込む。そう言えば、こ
の人も、ペシャワール会のリーダー中村哲さんと同じ九州大学医学部の出身ですね。
凄いぞ、九大医学部!
##
小倉生まれで
##
口も荒いが
##
無法一代
##
度胸千両で
##
男一代
(作詞
(唄
九州男児これにあり!!
(奥さんも偉い!)
玄海育ち
気も荒い
涙を捨てて
生きる身の
無法松
吉野夫二郎・作曲
古賀政男)
村田英雄)
福岡の高校生諸君、
まずはしっかり勉強して、九大医学部をめざそう!!
●天皇ご一家の非戦への熱い思い
私は新聞を読みながら朝食を取るという悪い生活習慣があります。11月13日(金曜)
の朝も、コーヒーをすすりながら朝刊を眺めていました。第1面に「天皇即位20年、3
万人祝う」という記事と写真があり、その記事を補足して第30面(社会面)にも「即位
20年、奉祝
老いも若きも」という記事と写真が載っています。その写真には「式典が
終わり、出席者に見送られて退場する天皇、皇后両陛下」という説明が書いてありますが、
退場される両陛下が写真中央に写っており、その後ろの3人目の人物を見たら、あらっ、
あらっ、あら..。なんと、我らが福岡ペシャワール会代表の中村哲医師が、例のちょびヒ
ゲで、神妙な顔をして、胸に招待者であることを示す大きな花のリボンを付けて、パチパ
チと拍手しています。その隣の4人目は、背の高い白人男性でしたから、おそらくはオラ
ンダあたりの王室の方ではないでしょうか。
そういえば、...と思い出したのですが、先週私の所に送られてきた最新の「ペシャワール
会報」には、
「中村哲先生は、活動中のアフガニスタンから所用のため日本に一時帰国しま
す」という連絡ニュースが書いてありましたが、「所用」というのは「天皇即位20年祝賀
会」に列席することだったのだ、と思い当たりました。
数年前にペシャワール会総会に出席した際に、中村哲代表の年間活動報告を聞く機会が
110
ありました。アフガニスタンにおける灌漑用水路建設の話が中心でしたが、それとは別に、
皇居に呼ばれて、
「アフガニスタンの現状について講話をしてほしい」ということで、天皇・
皇后両陛下にお話をして来た、という報告もありました。両陛下は数十年前に、当時は未
だ平和であったアフガニスタンに「皇太子ご夫妻」ということで親善訪問されたことがあ
り、「緑豊かな美しい国」の姿に感動したそうです。その後、アフガニスタンに戦乱が続い
ているという報道に心を痛めておられて、現在の様子を知りたいと思って、中村哲医師に
講話を依頼したそうです。1時間という約束だったのが、両陛下が熱心に質問されて、話
が盛り上がり、時間は伸びに伸びて3時間になってしまったそうです。途中で突然、おか
っぱ髪の女子高生みたいな女の子が入ってきて、ちょこんと座って、両陛下と一緒に中村
先生の話を聞いていたので、中村医師は、「あれっ?
この女の子は何なのだろう」と思っ
たそうですが、後で考えてみると、実は、この女の子は「サーヤ」という愛称で呼ばれて
いる天皇・皇后ご夫妻の娘さんで、当時は山科鳥類研究所の研究員として鳥の研究をして
いる人だと思い到ったそうです。後に、都庁職員の黒田さんと結婚して黒田清子さんとい
う民間人になったことは、皆様よく御存知のところです。お父さん、お母さん、お嬢ちゃ
んが仲良く中村哲先生と懇談している姿を想像して、とても微笑ましく思いました。
自民党の議員を中心として、一部、民主党の議員らも含む「みんなで靖国神社に参拝す
る国会議員の会」(幹事・尾辻秀久元厚生労働相)という国会議員の集団があります。政権
交代が実現した本年も、10月20日に、秋季例大祭に合わせて衆院議員30人、参院議
員24人の計54人が東京・九段北の靖国神社を参拝しました。天皇陛下は一度も靖国参
拝をしていません。これに対する国会議員等の不満は強く、例えば麻生太郎前総理は、外
務大臣当時の2006年1月28日、名古屋で講演した際に「英霊からしてみれば天皇陛
下のために万歳と言ったもので、総理大臣万歳と言った人はいない」とし、天皇が靖国神
社を参拝するのが一番だと発言して、物議を醸しています。天皇ご家族で靖国参拝をした
人は1人もいませんし、亡くなった御父君の昭和天皇も、靖国神社にA級戦犯が合祀され
た昭和 63 年以降は、まったく靖国参拝をおこなっていません。これについては、2006
年7月21日、22日の各紙に報道されたように、昭和63年、昭和天皇がいわゆるA級
戦犯合祀に不快感を抱かれ、「だから私はあれ以来、参拝していない。それが私の心だ」と
語っていた、とする「メモ」を、当時の宮内庁長官の富田朝彦氏が残していたものを遺族
が遺品の中から発見しています。
しかし、天皇ご一家は戦没者の慰霊に対して、決して無関心なのではありません。むし
ろ反対に、たとえば沖縄の「ひめゆりの塔」などの戦没者の慰霊碑への参拝には非常に熱
心に頻繁に出向いておられます。たしか、両陛下が未だ皇太子ご夫妻であった頃に、「ひめ
ゆりの塔」参拝で、地下壕に隠れていた過激派の活動家が発煙筒を投げつけた際に、美智
子妃がとっさに身を以て皇太子をかばったエピソードは有名です。また、両陛下は、太平
111
洋戦争の激戦の地であったフィリピンやグアム島の戦没者慰霊碑にもしばしば参拝されて
います。これら海外の慰霊碑には、戦闘で亡くなった日本兵だけでなく、戦争の犠牲とな
った現地住民たちも一緒に葬られています。天皇は日本国民を代表して、これら日本軍に
よる戦争の犠牲になって亡くなった海外の人々への贖罪の気持ちを表明しているのだと、
私は感じています。
2004年の秋の園遊会の場で、招待されていた日本将棋連盟会長の米長邦雄氏が、「日
本中の学校で国旗を掲げ、国歌を斉唱させるというのが私の仕事でございます」
(米長氏は、
あの石原慎太郎都知事の下で東京都教育委員をやっています)と述べた時、天皇陛下は即
座に、「やはり、強制になることでないことが望ましいですね」と応じられました。実は、
1999年に、国旗国歌法案が国会で審議されていた際に、「強制されるようなことはない
のだろうか」と側近に尋ねておられたそうです。その危惧は、すでに1000人以上の教
員が、卒業式の場で「君が代」を歌わなかった、ということで教育委員会から処分されて
いる、という事実になって現実のものとなってしまいました。
何年か前に新聞の投書欄で、戦争中に陸軍将校だった人の思い出が載っているのを読み
ました。その人は中国戦線で、「東京の大本営からいちばん偉いお方が見えられたので、将
校全員は食堂に集合して訓話を拝聴すべし」と命令を受けたそうです。その偉いお方の訓
話というのが、
「今次の大戦はアジアを西洋の植民地から解放するための偉大な聖戦である。
しかるに我が軍の部隊は南京において中国兵のみならず、一般住民まで大量に虐殺してい
る。何たる暴虐、何たる卑劣、.
.」というような激烈な口調の演説だったので、直立不動の
姿勢で拝聴していた将校全員が、
「こんな反軍演説を聴いてしまった自分たちは全員が銃殺
されるのではないか」と恐怖で震えあがった、というのです。翌日、現地部隊の司令官が、
「あのお方は大日本帝国軍隊の最高司令官である大元帥陛下(天皇のこと)の弟君である。
神様にも等しいあの様なお方の訓話の内容など貴様たちには理解できるわけがない。昨日
の訓話の事はすべて忘れろ」という命令が下ったそうですが、投書の主は戦争が終わるま
で、「やはり、自分たちは軍法会議にかけられるのではないだろうか」という不安を持ち続
けた、と書いてありました。上記の事は、投書の主が数十年前の思い出を綴った記事を読
んだ私が数十年後にあやしい記憶をたどって、今、こうやって書いているので、細部のこ
とはそうとうあやしいと思ってください。ただし、私が日中戦争と皇室の事をいろいろ調
べてみた材料から判断して、上記の投書のような「事件」が大筋において本当にあった可
能性は高いと思っています。
数年前に放映された「聖徳太子」というテレビドラマがあります。タイトル通りの、聖
徳太子の生涯を描いた伝記ドラマで、本木雅弘が太子を演じました。
当時の大和朝廷では、日本人の貴族同士でも朝鮮語で会話していたようです。朝鮮の文
112
化を身につけている事が、大和の貴族たちにとっての知的なステイタス・シンボルだった
ようです。昔、ポーランドの貴族たちも自分の子どもたちには幼い頃からフランス語を教
え、母国語であるポーランド語が話せない貴族もいたと言われています。洋の東西を問わ
ず、似たような事があるものですね。「聖徳太子」のドラマでは、在日朝鮮人のタレントで
あるにしきのあきらさんが、朝鮮からの使者の役で、朝鮮語の台詞で使者の口上を述べま
した。余談ですが、にしきのさんは、漢字検定1級に合格しているそうです。
有力豪族たちの寄り合い政治に立脚していた大和政権を改革して近代的な(当時として
は)国家を打ち立てるために、当時の最先端の文明国であった中国に留学して帰国した青
年たちを同志として、聖徳太子は国家の仕組みとその原理原則となる「憲法」の制定に意
欲を燃やします。議論が百出する中で、太子は「我が国の憲法の第1条は《和を以て尊し
となす》としよう。国家の使命の根本は、戦を無くし民に安寧をもたらす事を第1とする
のだ」と提案して、青年貴族たちから熱烈な支持を受けます。
このようにして「17条の憲法」が制定され、大和朝廷国家の形が整ってゆくのですが、
「憲法第1条」を守って行く事は極めて困難でした。朝鮮半島で新羅と百済の戦が起こり、
大和朝廷の実権を握る蘇我氏(天皇家の外戚)は朝鮮での利権をねらって、大和の軍隊を
朝鮮に派遣する事を強引に決定してしまいます。その派遣軍の名目上の指揮官として、皇
族である聖徳太子の息子が任命されます。大和の兵が出発する前夜に、太子は派遣される
息子を呼んで、「おまえは朝鮮への渡海直前に重病になるのだ。そしてできうる限り渡海の
日程を引き延ばせ」と命令します。息子はその教えを実践して筑紫で重病になり、大和の
軍勢は渡海する事ができません。業を煮やした蘇我氏は司令官の皇子を暗殺し、皇子が病
死したことにして新しい指揮官として聖徳太子の次の息子を任命します。
その新指揮官となった息子が筑紫に出発する直前に、太子はその息子を呼んで、筑紫で
重病になるように再び命じます。そして、「我が血脈が尽きるとも、大和の兵に海を渡らせ
まじ。わが生命ある限り、大和の兵に戦はさせじ」と決意を述べます。そしてその言葉通
りに、聖徳太子が没するまで、大和の兵が海を渡って戦をすることはなかった---とい
うナレーションでドラマは終わります。
皇室では、週に何日も、大和朝廷の時代からの古い伝統に則った儀礼が行われていると
いうことですが、私は天皇ご一家が大和朝廷以来の17条の憲法の精神を、身を挺して実
践しておられるように感じています。
<< 11月12日、皇居・石橋の間で行われた記者会見での1問1答から引用します。>>
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[記者]この20年は日本にとって大変厳しい時となりました。高齢化が進み人口が減少
し始め、経済は不安定です。両陛下は、日本の将来に何かご心配をお持ちでしょうか。
[天皇陛下]今、日本では高齢化が進み、経済が厳しい状況になっています。しかし、日
本国民が過去にさまざまな困難を乗り越えて、今日を築いてきたことを思い起こす時、人々
が皆で英知を結集し、協力を進めることにより、日本が現在直面している困難も一つ一つ
克服されることを願っております。
私がむしろ心配なのは、次第に過去の歴史が忘れられていくのではないかということで
す。
昭和の時代は非常に厳しい状況のもとで始まりました。昭和3年、1928年、昭和天
皇の即位の礼が行われる前に起こったのが張作霖爆殺事件でしたし、3年後には満州事変
が起こり、先の大戦に至る道のりが始まりました。第一次世界大戦のベルダンの古戦場を
訪れ、戦場の悲惨な光景に接して平和の大切さを肝に銘じられた昭和天皇にとって、まこ
とに不本意な歴史であったのではないかと察しております。
昭和の六十有余年は、私どもに、さまざまな教訓を与えてくれます。過去の歴史的事実
を十分に知って、未来に備えることが大切と思います。
(後略)
<< 記者会見からの引用、終わり >>
過去の戦争の悲惨な体験が風化してゆく現状に対して、天皇が極めて強い危機感を抱い
ている事がよく分かります。今上天皇にとっても、「まことに不本意な歴史」が作られつつ
ある現状に対して、我々も身を引き締めてかからねばならないと思いました。
●医師と職員の安全を優先させて避難した「国境無き医師団」の慎重な対応
--
救援活動を待っている国はアフガニスタンだけではない。
4-6-5.「みんなちがって、それでいい」(金子みすず)
=> 「みんなちがうから、そこがいい」
4-6-6.「科学的思考力」は人間にとってそんなにも大切なものか?
吹けば飛ぶような将棋の駒に、賭けた命を笑わば笑え
愚痴も言わずに女房の小春、作る笑顔がいじらしい
4-7.教育は社会的要請に応えない方が原理的に正しいのではないか?
114
2009年12月17日
115
第1巻
目次
1.私の「情報化社会と倫理」の授業風景
1-1.新聞記事を教材にしてフィンランド式教育に挑戦してみる
1-2.おしゃべり学生に厳罰を加えた話
1-3.フィンランドの義務教育制度は日本の直輸入
1-4.フィンランドの教員養成課程の悲惨?
●「1 + 1」はどうして「2」になるのか?
1-5.フィンランドの「学校」は日本式に表現すれば「国立学習塾」
1-6.「情報化社会と倫理」の授業を終えて
1-7.ケプラーの惑星法則を計算して地球自転軸の傾きを知る
1-8.採点者・図書館・読書青年
1-8-1.いくら「テストの成績が悪かった」と言われても、
採点者の頭のレベルを先ず検討してみないと
1-8-2.図書館と著作権
1-8-3.読書青年
1-9.私の「情報化教育法」の授業風景
1-10.私の「情報化と職業倫理」(広島大)の授業風景
2.学生のレポートから見えてきたフィンランド教育の悲惨
2-1.フィンランド式教育には少人数、小教室が不可欠だ。
2-2.フィンランド教育の危機が露呈、日本のマスコミも初めて報道
2-3.フィンランドの教育に根本的に欠落しているもの
(「教師集団」「生徒集団」)
(以下、第2章の残りの部分はただいま鋭意、宿題レポートを査読中です。)
2-2.学生のレポートから見えてきたフィンランドの義務教育に蔓延する「落ちこぼ
れ」「落第」
「学級崩壊」
「いじめ」?
成績の悪い子はみんなから隔離して少人数教育をすれば本当に伸びる?
成績の悪い子はみんなと一緒に卒業させないで、留年させれば伸びる?
●フィンランドの小学4年生の国語の問題「鯨の特徴」の正答を見て驚く
まるで、事務職員の研修コースではないか。
2-3.大学進学率は 30%、大学生の 75%がストレスでノイローゼ状態
2-4.20代青年の自殺率は世界一
若者から生きる希望を奪うフィンランドの教育
2-5.他国との順位の比較に右往左往する日本の有識者、ジャーナリスト
を批判できるようになった私の学生のユーモア
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2-6.夢見る知識人
●1930 年代、西洋の最高の知性はスターリン治下のソ同盟を視察して
「不況知らずの地上の楽園」を見た。
●1950 年代に日本の文化人は「大躍進」の中国に「立ち上がった六億人民
大衆の叡智とエネルギー」を見た。
●「山の彼方の空遠く、幸い棲むと人の言う..
..」--青い鳥症候群
2-7.『12人の怒れる男』(Henry Fonda)
与えられた情報を鵜呑みにせず、その信憑性を根底から検証してゆく
態度のお手本となる映画。
2-8.フィンランドの小学校の授業風景の写真を見ての感想
これは「羊たちの沈黙」だ。
2-9.フィンランド映画を見る
ソ連との凄惨な戦争
第2巻
目次
3.科学的思考とはどういうことか
3-1.地球温暖化とCO2 の関係を「科学的に」調べるには
3-1-1.「グラフ万能主義」批判
3-1-2.PISA 出題者のメンタリティーは普通の日本人の感覚からすると
「異常」である
3-1-3.日本人のメンタリティーの特質とそれを反映した日本語の特徴
3-1-4.地球温暖化と二酸化炭素の関係の有無を調べる科学実験をするには
3-1-5.「原理的・本質論的」理解こそ科学的精神の「神髄」
熱力学や量子化学の重要性を高校生にも語りかけよう!
3-1-6.中学校の「理科」、高等学校の「化学」のレベルで地球温暖化を
「科学的に」考える
3-1-7.地球温暖化再論
3-1-8.日本の生徒たちの頭脳は既に「フィンランド化」されている!
3-1-9.昼間は営業マン、夜は科学者
3-2.PISA の 2003 年度、2006 年度テストの設問と<正答>
3-2-1.巨人はチョコチョコ歩き、小人はノシノシ歩く?
3-2-2.公園を照らす街灯を公園の外に設置する??
117
3-2-3.食品を買う時は「安全第1」を心がけよ!
●ストレスで若者に死を招くフィンランドの教育
3-2-4.太陽活動の活発化は「温室効果」には、まったく影響を
与えません!
●「リテラシー」とは?
「コミュニケーション」とは?
3-2-5.盗難事件の問題
3-2-6.思考実験の有効性
☆ガリレオ・ガリレイの場合
☆アインシュタインの場合
●考える葦
●企業が数年先まで考えて人材を求めれば
☆ポアンカレの場合
☆湯川秀樹の場合
(以下、第3-2節の残りの部分はただいま鋭意、構想中です。)
3-2-7.日本の通貨は「円」ではなく「ゼット」??!!
3-2-8.「ビルの壁の落書きは迷惑か、それとも表現の自由か」
第4巻
目次
はじめに
「街灯」問題
公園内の点の明るさについての2つの定義
謝辞
第1章 平面灯心弧は三角形の対称性の破れを縫い合わせる
1.1 公園内の各点での明るさを積分する
1.2 底辺に平行な方向に明るさの総和を偏微分する
1.3 対称軸に対する明るさの総和の振る舞い
1.4 対称軸に沿って明るさの総和を垂直方向に偏微分する
1.5 三角形の灯心(一般三角形の場合)
1.6 ユークリッド風の定理
1.7 設置地点を変数とする明るさの総和関数のグラフ曲面
1.8 「ミニ・カミオカンデ」問題などのいろいろな拡張問題
118
第2章 内心から出発して重心を目指す立体灯心の久遠の旅路
2.1 高さゼロの街灯の明るさ分布関数はディラックのδ関数になる
2.2 高さ s > 0 の街灯に照らされた公園内の各地点での地面の明るさを積分する
2.3 地面の明るさの総和を街灯の高さ s で偏微分してみる
2.4 地面の明るさの総和を底辺に平行な方向に偏微分すると狭義凸性が分かる
2.5 地面の明るさの総和と三角形の対称軸
2.6 対称軸に沿って地面の明るさの総和を垂直方向に偏微分する
2.7 対称軸上での明るさの総和関数の狭義凸性
2.8 f1(t) + f2(t) の特別に重要な重心での値
2.9 立体灯心の高さゼロと高さ無限大の場合の極限値
2.10 街灯の高さを高くしてゆくと立体灯心の位置はどのように移動するか?
2.11 一般三角形の立体灯心
第3章 結語
補足1.灯心はいかにして発見されたか?
補足2.「街灯問題の正解は外心」という幾何学的直感の錯覚
補足3.双曲幾何学における「街灯」問題
第5巻
目次
6-1.PISA「落書き」問題が日本の教育界に与えた衝撃
6-2.イソクラテス修辞学とプラトン・イデア論/ 2400年に渡る対立
●西洋教育思想の日本による受容の特異性
●PISA のソフィスト流「相対主義」「善悪不可知論」と日本の PISA 支持派
教師・教育学者たちの倫理感覚麻痺
●PISA 化する日本のヤンママたち
--岩村暢子「普通の家族がいちばん怖い
徹底調査!
破滅する日本の食卓」
●ソーカル事件
人文・社会系の著名言論人は難解な自然科学用語がお好き
[補足]
「浅田彰のメービウスの壺」事件
6-3.1980 年代に一瞬の光芒を放って衰退した知能工学
(人間の「思考」はどこまでパターン化できるか)
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●PISA 調査が企画された 1980 年代とは、どういう時代であったか。
●哲学者ドレフュスによる根底的な「人工知能批判」の4つの観点
6-4.Rostow の「近代化論」
6-5.世界銀行の政策と「人的資本論」
6-6.「従属理論」と「解放の神学」
6-7.「世界標準」の導入で分散化する国民の心をナショナリズムで統合する。
(「愛国心」「日の丸・君が代」.
.そして「声に出して読む日本語」?「教育勅語」?
「御真影」?)
西洋文明の奔流に対して、幕末期の日本は「後期水戸学」の「国体論」によって
精神的自己確立を計った。
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