第6回(12/10) ドレフュス事件

横浜市立大学エクステンション講座
パリ史こぼれ話
第6回(12/10) ドレフュス事件
横浜市立大学名誉教授 松井道昭
Ⅰ フランス第三共和政略年表
1870
普仏戦争、国防政府、
(第三共和政の始まり)
1871
国民議会政府、パリ・コミューン、普仏戦争の終焉(フランクフルト条約)
1875
第三共和国憲法の成立(共和制の確立)
1886
ブーランジェ事件(86 年 1 月~89 年)
1887
仏領インドシナ成立
1892
パナマ事件(~94)
1894
ドレフュスがスパイの嫌疑で逮捕
1895
労農総同盟C.G.T.創立
1898
エミール・ゾラ「J’Accuse(私は弾劾する)
」を新聞で発表、ファショダの妥協
1899
陸相ガリフェが「事件終了」の通達を各師団長に発令
1905
独軍、モロッコのタンジール港に上陸
1906
ドレフュス、陸軍に復帰し少佐に昇進(事件の終焉)
1907
英仏露の三国協商
1912
モロッコ危機でフランスの保護領となる
1914
第一次世界大戦開戦(~18)
1919
ヴェルサイユ条約
1920
国際連盟発足
1929
ニューヨーク株暴落し世界恐慌始まる
1935
人民戦線内閣成立
1936
スペイン内戦(~1939)
1938
ミュンヘン協定
1939
第二次世界大戦始まる(9 月~1945)
1940
パリ陥落(6.14)
、仏敗北し(6.22)
、ヴィシー政府成立(7 月 1 日)
1941
対独レジスタンス始まり、国民戦線結成
1943
アルジェリアに国民解放フランス委員会結成
1944
アルジェリアにフランス共和国政府成立、連合軍ノルマンディ上陸、パリ解放
1945
ドイツ降伏、国際連合成立
1946
第四共和政成立(~1958)
、インドシナ戦争始まる(~1954)
1949
NATO発足
1954
インドシナで仏軍敗北、アルジェリア独立戦争始まる
1956
チュニジア、モロッコの独立
1958
第五共和政成立
1
1962
アルジェリア独立
Ⅱ 第三共和政成立期の3大事件
1879 年から 1809 年までは中道穏健派共和主義者たちが政治の実権を握っていたが、
その間、政治的・社会的にフランスの共和政を危機に晒した出来事が3つある。この3
つの事件すべてを大佛次郎がノンフィクションとして取りあげたことは前々回の講座で
説明した。それほどに重要な事件であり、以下、ごく簡略に説明しておく。
1.ブーランジェ事件(1886~89)
対独強硬派のジョルジュ・ブーランジェ将軍が対独復讐熱に燃える国家社会主義的
勢力の台頭を利用して共和政に叛旗を翻し軍部独裁を謀ろうとする運動。
右翼と右翼系の新聞と、それに使嗾された民衆たちがブーランジェ将軍に決起を促
す。陸軍大臣に就任していた同将の決断ひとつでクーデタが達成できるまでお膳立てが
整っていた。しかし、共和政の大臣として議会政治に弓を引くことを懼れ、迷いに迷っ
たあげく将軍は愛人の墓前で自殺してしまう。主人公の死でもって共和政は救われたの
である。
時はパリ万博の開催年にあたり、
世間の話題はエッフェル塔でもちきりとなり、
昨年までのブーランジェ騒動は「今や昔の話」で急速に退潮していった。
大佛次郎が「ブゥランジェ将軍の悲劇」を書いた当時の日本では、昭和 6 年、皇道
派の総帥として荒木貞夫が犬養内閣の陸相として入閣。以後数年間、皇道派と統帥派の
さや当て対立が激化していく。皇道派は荒木大将にクーデタ決行を迫る。荒木はその趣
旨に沿った軍改革案を提出するが、最終的に失敗する。かくて、荒木は血気盛んな青年
将校らに見捨てられる。皇道派の圧力は結局、二・二六事件で最高潮に達し、実際にク
ーデタ決行となったが、この挫折によって終わりを告げる。皇道派が後退したからとい
って軍部独裁の危険は去ったわけではなく、むしろ強まっていく。
2.パナマ疑獄事件(1892~94)
スエズ運河建設に成功したレセップスが大西洋と太平洋を結ぶパナマ運河の建設工
事を思いつく。第三共和政が安定期にさしかかった 1880 年代のことである。会社を創
立し、資金集めに国家の助成も得て着工に及んだのだが、炎天と豪雨が交互に襲来する
という自然環境に苦しめられる。また、計画そのものが杜撰だったこともあり、パナマ
会社はたちまち資金難を抱える。
そこでレセップスやエッフェル技師らは国会の議員を通じ、さらなる資金集めの募
金を国民大衆に呼びかけることにした。これを容易化するため、会社は議員買収までお
こなった。金を受け取った議員の数は 104 人にも達し、元首相のフロケ、現職の蔵相ル
ーヴィエ、そして後に大統領になるクレマンソーまでがこの事件に連座した。当然、裁
判沙汰にまでなったが、判決が終わってみると、無罪だらけで有罪はわずか 3 人しかい
ないというありさまだった。だから、
「疑獄」なのである。
2
一般国民は腐敗しきった議会政治に不信と嫌悪の念を募らせる。また、パナマ事件
の金策にユダヤ人が介在していたこともあってフランスで反ユダヤ熱に油を注ぐ結果に
なった。その意味で直後に起こるドレフュス事件はパナマ事件の延長上に位置すると言
ってよい。
3.ドレフュス事件
この事件は今回講座のメインテーマであり、やや詳しく説明しておく。
ドレフュス事件とは、1894 年、ユダヤ系フランス人の砲兵大尉アルフレッド・ドレ
フュス(1859-1935)がドイツへのスパイ容疑で軍に逮捕され、南米ギアナ沖の孤島に
流されてから、1906 年に特赦されるまでフランス全体を揺るがした事件を指す。
いま現在、ドレフュスの無実だけは明白であるが、その他の点に関しては依然とし
て謎につつまれている。最初、国民は圧倒的にドレフュス有罪を信じ、実兄マチューを
は じ め 、 1896 年 に ド レ フ ュ ス の 無 実 を 発 見 し た 参 謀 本 部 ピ カ ー ル Georges
Picquart(1854-1914)中佐などの奔走も徒労に終わり、逆にピカールがチュニジア奥地
に左遷された。その背景としては、当時の財界に強い影響力をもっていたユダヤ系金融
勢力への左右両翼の政治勢力やカトリック教会の反感などが作用している。そうした根
強い反ユダヤ感情が対独復讐熱とからまって一挙に爆発したのである。
ようやく 98 年 1 月、作家ゾラが急進派のクレマンソーの新聞『ロロール 曙光』紙
上で大統領への公開質問状を発表し、ドレフュスの無罪を訴えたのが転機となり、世論
は揺り動かされた。こうなると、もはや一人の軍人の冤罪事件という枠を飛び出して、
対独復讐主義や反ユダヤ主義、軍国主義、カトリック教権主義など、フランス第三共和
政のもろもろの論争が噴出して、フランス国内が真二つに裂かれる状態となった。
ドレフュス擁護派には人権同盟に集まる作家、知識人、共和派議員、クレマンソー
などがおり、反ドレフュス派陣営には反ユダヤ主義、反共和主義の国粋派、カトリック
勢力、王党派、軍部がいた。
98 年 8 月のアンリ(Hubert Henry)偽書[注:1896 年に参謀本部少佐が作成したドレフ
ュス有罪説を補強する偽文書]の発覚によって反ドレフュス派の主張は崩壊したものの、ド
レフュス派の大統領ルーベ(Emile Loubet,1838-1929)に対する 右翼による暴行事件な
ど共和政の危機は頂点に達し、この過程で同年 6 月、第三共和政を支配してきた穏健共
和派の政権は崩壊して共和主義左派の政権が成立し、ドレフュスの特赦につながった。
かくて、いわゆる「ドレフュス革命」といわれる一連の諸改革が達成されるにいた
る。特に軍の共和化、非政治化、政教分離などの内政民主化が進み、社会はベレポック
Belle Epoque(良き時代)の状況となっていく。なお、ドレフュス事件は知識人やマス
コミが政治・社会に大きな役割を演じる画期ともなった。
Ⅲ
第三共和政下のフランス文化
3
第三共和政は共和政の中では、ドゴールとともに成立した第五共和政とほぼ並ぶ、
70 年という長期に及ぶ体制である。途中で第一次大戦に遭うなど、不安材料をかかえな
がらともかく 70 年間つづいた。
フランス文化はこの第三共和政で爛熟期を迎えたことは
周知のとおりである。そこで、本論のドレフュス事件を考察する前に、簡略にせよ第三
共和政の特質についてふれておかねばならないだろう。ここでは政治は省略する。
【経済】
第三共和政下でドイツやアメリカほどではないにせよ、フランスの経済は安定的に
発展し、農業社会から工業化社会へ静かに移行した。ゆっくりと成長したため、社会的
なひずみは英・独などと較べ少なく済んだともいえる。一方、労働組合が各地に叢生し、
やがてこれらが全国的な同盟を結成していく。労働組合化が進むというと過激な印象を
与えるが、むしろ組合を通じて労働者が雇用者側と対峙することによって、政治面での
激越な闘争(暴動)が少なくなることにつながる。暴動と革命に悩まされた 19 世紀と比
較すると、20 世紀のフランスはむしろ静かである。1895 年に結成された「労働総同盟 La
Confédération Générale du Travail」
(C.G.T.
)は、今も強い影響力をもつフラ
ンス最大の労働組織である。
【科学技術】
技術と科学の分野でフランスが一大進歩を遂げた時期に当たる。照明や輸送の手段
として電化が進んだことが挙げられる。動力エンジン、自動車、飛行機、電話、電信、
ラジオ、映画、ワクチンが創りだされたが、その大部分がフランス人の手による。
細菌学と予防ワクチン……パストゥール、ルー、カルメット
無線電信……………………フランリー
映画・映写機………………リュミエール兄弟
医学…………………………クロード・ベルナール
原子力研究…………………ベクレル、キュリー夫妻、ルイ・ド・ブローユ
自動車………………………ヴォワザン
飛行機………………………C.アデール、ブレリオ、ロラン・ガロス、ギヨメ
鋼鉄使用法…………………エッフェル
冶金学………………………マルタン
【哲学・文学】
ベルクソン、マリタン、ムーニエ、サルトル、メルロ・ポンチ、フロベール、モー
パッサン、ゾラ、ルコント・ド・リール、ボ-ドレール、ヴェルレーヌ、ランボー、
A.ドーデ、アンドレ・ジード、ヴァレリー、クローデル、ペギー、ロラン、ベル
ナノス、グリーン、モーリャック、アラン、プルースト
【絵画・彫刻】
マネ、モネ、ルノワール、シスレー、セザンヌ、ゴッホ、ヴラマンタ、レジエ、マ
4
チス、ルオー、ロダン、ブールデル、マイヨール、デスピオ
【建築・都市計画】
ル・コルビュジエ、ペレ
【音楽】
ドビュッシー、ラヴェル、フォーレ、マスネ、グノー、オネーデル、ミロー
【演劇・映画演出】
ジャック・コポー、シャルル・デュラン、ガストン・バチ、ルイ・シュヴェ、ジョ
ルジュ・ピトエフ、アンドレ・バルザック、ジャン・ヴィラール、ルネ・クレマン、
ジャン・ルノワール、ジャン・ドラノワ、マルセル・カルネ
Ⅳ なぜ今、ドレフュス事件なのか?
今から 120 年前のフランスにおける冤罪事件だが、歴史家によっては「20 世紀はド
レフュスから始まる」と言う人もいる。革命家レーニンはこういう。
「反動的軍閥の何千という陰謀のひとつにすぎず、思いがけない、ちっぽけないきっかけだけで
国民を内乱寸前にまで導くのに十分な大事件だった」
、と。
単なる冤罪事件が一国家社会を政治的にも、社会的にも、思想的にも真二つに引き
裂き、国権と人権、差別と正義、軍と宗教と政治、そして真実をめぐる裁判と新聞と世
論の問題を鋭く突きつけたのである。
日本はまさに「満州事変」前夜の時期(昭和 5 年)に、大佛次郎が総合雑誌『改造』
に「ドレフュス事件」を連載した。大佛は戦後になって、執筆の動機についてこう書い
ている。
「軍部というものが近代国家でどういう地位を占め、誤った場合には如何な方向へ国そのものを
曳擦って行くかを書こうとした。この昭和 5 年前後に政治干渉のきざしを示し始めていた。…ド
レフュス事件も軍部は決して過つことなしとする思い上がった確信から、無実と判っている人間
を犠牲に捧げて軍の尊厳を守ろうとした。この圧制に対して目醒めたフランス国民が如何に闘っ
たかを、私は日本の読者に知って置いて貰いたかった。…」
大佛の作品は当時の文学界や知識人に大きな影響を与えた。のちに筆禍で牢獄に繋
がれた中野正剛が「大佛さん、怖いのが来ませんか?」と訊いた逸話が残っている。
ほぼ同じ時期に幸徳秋水も『ドレフュー大疑獄とエミール・ゾラ』
(現代日本文学全
集 39、改造社)を書いている。
戦後は小島直記『フランス陸軍の光栄と悲惨』
(近代文学)が軍制史の一環としてド
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レフュス事件についてふれたが、事件そのものへの記述はドレフュス事件発生百年を待
たなければならない。事件発生百年前後に多数の書物がフランスはもとより本邦でも多
数出版された。ざっとだが、挙げておこう。
小島直記『モーリス・パレオローグの日記』
(
(
『大佛次郎ノンフィクション全集1』
)
(朝日新聞社)
)
木下半治「フランスの《秘密軍事組織》
」
(
『大佛次郎ノンフィクション全集1』
)
(朝
日新聞社)
井上幸治「世紀末の不安様相」
(
『大佛次郎ノンフィクション全集1』
)
(朝日新聞社)
渡辺一民「
『鞍馬天狗』からの警告」
(
『大佛次郎ノンフィクション全集1』
)
(朝日
新聞社)
稲葉三千男『ドレフュス事件とゾラ・告発』
(創風社)
同
『コミュニケーション発達史』
(創風社)
ジョルジュ・ソレル著、稲葉三千男訳『ドレフュス革命』
(創風社)
モーリス・バレス著、稲葉三千男訳『国家主義とドレフュス事件』
(創風社)
レオン・ブルム著、稲葉三千男訳『ドレフュス事件の思い出』
(創風社)
アルフレッド・ドレフュス著、竹村猛訳『ドレフュス獄中記』
(中央大学出版部)
篠田浩一郎『再びセーヌは流れる』
(TBS ブリタニカ)
M.ドレフュス著、小宮正弘訳『事件―マチュー・ドレフュスの回想』
(時事通信社)
尾崎和郎『若きジャーナリスト エミール・ゾラ』
(誠文堂新光社)
ピエール・ミケル著、渡辺一民訳『ドレフュス事件』クセジュ文庫
渡辺一民『ドレフュス事件』
(筑摩書房)
シャルル・ペギー著、磯見辰典訳『われらの青春』
(中央出版社)
)
平野新介『ドレフュス一家の一世紀』
(朝日新書)
菅野賢治『ドレフュス事件のなかの科学』
(青土社)
外国の事件ながらこれほど多数の和書が出るのは珍しい。それは時代と国境を越え
て普遍的な問題を含んでいるからである。たしかに、わが国の歴史では過去も現在も冤
罪事件や再審中の事件がメジロ押しに並んでいる。被告たちは皆、気の遠くなるような
年月に堪えて闘ってきた。警察官、検事、裁判官、弁護士、新聞人はもちろん、冤罪事
件など自分に関係ないと思っている人々も、ドレフュス事件をめぐる人間的な、あるい
は非人道的なドラマの跡を辿るならば、他人事ではない思いに浸るであろう。
ドレフュス事件の現代的意義をいま特に問いなおすとすれば、ジャーナリズムのあ
り方であろう。この事件は「ジャーナリズムの犯した犯罪」であると同時に、
「ジャーナ
リズムが救出した事件」でもある。よって、一人の被告をめぐってジャーナリズムが「告
発」と「救出」に分かれて闘ったことになる。大佛次郎が真に告発したかったのは軍部
の専横ぶりもあるが ― 彼は他のどこかで述べていたが ―「言論の暴力」である。言論
が権力と結びつくときどうなるか。一個人の生命や尊厳など虫けらほどの値打ちもない
ものになってしまう。
話を戻すとして、ドレフュス事件のさなか、ある新聞が公然と言い放った言がある。
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「ドレフュスのことなど、もはやどうでもよい。今、問われているのは軍と国家の威信
である…!」と。かくて、
「ドレフュスなきドレフュス事件」という文句がはやりことば
となった。
その辺の事情をドレフュス事件の展開に即し細かく見ていくことにしたい。
仏軍参謀本部付き砲兵大尉ドレフュスが反逆罪の嫌疑で逮捕されたのは 1894 年 10
月 15 日のことである。発端は、パリ駐在のドイツ大使館の屑籠から盗みだされた「明細
書 bordereau」と呼ばれる文書である[注]。署名も日付もなく、仏軍の砲兵関係の情報
をドイツ大使館に通報した文書で、真犯人は放蕩者にして詐欺師でドイツ大使館と通じ
ていたエステラージー少佐だと判明したが、筆跡が似ているとしてドレフュスに嫌疑が
かかった。ドレフュスは謹直で優秀な軍人だったが、ユダヤ系ということで真犯人にさ
れてしまったのである。
[注]
「屑籠から盗む」に違和感を覚える向きもあろう。大使館はどこも(今もそうであろうが)ス
パイ機関のようなもので、ドイツはフランスの機密文書を探していた。ドイツは仮想敵国の政情
や軍事関係の様子を窺っていた。ドイツのスパイが入手した文書がドイツ大使館に送り届けられ、
それが処理済みとして屑籠に捨てられる。それをフランス人の掃除婦が取り出して、仏軍に届け
るのである。
フランス銀行の専門家に筆跡鑑定が委嘱され、その結果はドレフュスの字ではない
という結論にいたった。ところが、警視庁の非専門官はうろたえて、どうしたものか?
と参謀本部に捜査次第を参謀本部に伝える。ここらあたりから雲行きがおかしくなる。
参謀本部は軍そのものからスパイを出したことが世に広まるのを恐れて幕引きを急ぎは
じめるのだ。
事件の調査を命じられたデューパチ・ド・クラン少佐はドレフュスの出頭を求め、
口述筆記させてみて、ドレフュスの字にまちがいないと確信した。デューパチにそう確
信させたのは彼のユダヤ人に対する偏見のせいだが、ドレフュスの必死の抗議にもかか
わらず、その場で逮捕されてしまう。ドレフュスの実兄マチューの回想によれば、デュ
ーパチはマチューに向かって「あなたの弟が無罪であるなどは、千に一つの可能性もあ
りませんな、それどころか、彼はもう半分くらいは自白しているんですよ」と言った。
実のところは、ドレフュスが自白どころか、あくまで無罪を主張したので「お前の兄も
共犯者だ」とドレフュス自身を脅迫していたのである。
権力を前に一個人の抗議など何の意味ももたないようになっていく。デューパチは
ドレフュスを逮捕したのはよいが、自白の物証も得られず、上官に対しては「結論とし
て、私は捜査の現状からみて、ドレフュスには何の前科もありませんし、本件に関し起
訴を断念するに足る理由があると思います」という報告書を上げていたのだ。それなの
に、ドレフュスは起訴されてしまう。なぜなのか?
一人の権力の手先が躊躇思案している間に、ある特殊な事情が作用したのだ。
『リー
ブルパロール(自由言論)
』という反ユダヤ主義の新聞が「軍内部にいるユダヤ人」とい
う見出しでドレフュスの逮捕をすっぱ抜いた。この記事が出ると、右系の新聞が一斉に
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がなりたてはじめる。非難の眼は一斉にメルシエ陸軍大臣(将軍)に注がれた。記事の
真の狙いは軍を非難するところにではなく、反ユダヤの世論を挑発するところに定めら
れていた。曰く。
「メルシエが2週間も黙っていたのは、ユダヤ人が沈黙を強制したから
だ」
、と。こうなると、メルシエは脅迫されたも同然となる。つまり、軍の名誉のために
はドレフュスを犯人に仕立てねばならなくなるのだ。メルシエはそう決心する。
あらかじめ舞台装置が整っていると、無理も嘘もなんのその!と事が独り歩きをし
はじめる。良心的な人々も、力あるものに与し、流れに沿っていったほうがラクという
心情に襲われる。しかも、
「スパイとされているのが評判の穏やかでないユダヤ人ではな
いか」
「ユダヤ人ならばやりそうなことだ」となってしまう。
ドレフュスは裁判で本人の罪状否認のまま「明細書」だけの証拠物件で有罪と宣告
され、さっさと南米の流刑地に送られてしまった。幕引きが急がれたのである。あとは、
ドレフュスの家族がむなしく無罪を求めて政治家や法曹界の有力者を訪ね歩く。しかし、
彼らに同調する者はほとんどいなかった。いたとしても、ユダヤ系の弁護士ラボリだけ
では局面を変えるほどの力にはなりようがない。
ドレフュス無罪のきっかけをつくったが『ロロール(曙光)
』に載ったエミール・ゾ
ラの「私は弾劾する!」という文章であることは有名だが、無実の人間を罪に貶めるき
っかけをなしたのも新聞だったことに注意されたい。
「新聞」と「世論」と「真実」の絡
み合いの問題は古くて新しい問題である。
「明細書」が発見され、ドレフュスが筆記を命じられた同じ年の末 12 月 12 日、パ
リ軍法会議はドレフュスに終身流刑の判決を下す。メルシエがひそかに裁判の原則を踏
みにじる重大な違法行為をしていたのだ。
「国家的な理由」から4点の捜査資料を法廷に
提出しないまま、したがって、被告と弁護人が弁解も反論もできないように仕組んだう
え、判事たちに密かに閲覧させていたのだ。
それらの資料の中にドイツ大使館武官シュヴァルツコッペンからイタリア大使館付
き武官パニツァルデイ宛ての「あのD…奴が」と書かれた手紙が含まれていた。
「D」と
はだれか? ・・・参謀本部に一枚 10 フランで売りつけていたデュボワという男だと後
でわかったが、イニシアルが「D」であるゆえ、メルシエは「D」はドレフュスに違い
ない、と判事たちに吹き込んだのである。
世論は敵意を剥き出しにする
マチューは書く。
「弟は裁判にかけられたのではなかった、彼は暗殺されたのだ。… 世論は私たちに対し恐ろし
いほどの敵意を剥き出しにした。私の声は何の影響も呼ばず、虚空に向かって叫んでいるような
ものだった。
」
1896 年 3 月、仏軍参謀本部情報部は、差出人「c.t.
」名宛人「エステラージー
少佐殿」という速達封緘はがきを入手した。
「c.t.
」はシュヴァルツコッペンが普段
使っているイニシアルである。のちに「プチ・ブルー」と呼ばれるこの文書はエステラ
8
ージーがドイツと通じていたことを示している。情報部長ピカール中佐はエステラージ
ーの身辺調査を開始する。そして、エステラージーの陸軍省就職願の署名があの「明細
書」の筆跡と一致することを確認した。ピカールは直ちに参謀総長に報告する。ところ
が、参謀次長はピカールに「終わったことだ、忘れるように」と諭す。実際、それだけ
では終わらなかった。なんと!ピカールはチュニジアに左遷されたのだ。
その頃、反ユダヤ主義でボナパルト派の『エクレール』紙が「あのDの奴が…」と
いう手紙にふれ、この手紙はドレフュスの名が登場する逃れられない証拠であり、第一
級の秘密文書として保管され、判事たちにのみ提示されたというスクープ記事を載せた。
つまり、ドレフュス有罪が異論の余地なきことを示そうとしたのだ。だが、皮肉なこと
に、そうした思惑とは逆に裁判上の重大な違反がおこなわれたことをあからさまに示す
結果になった。
それからまもなく、
『マタン(朝)
』紙が軍法会議の筆跡鑑定人から入手した「明細
書」の写真版を掲載した。
『マタン』紙はこれによってドレフュスの有罪を明らかにし、
事件に幕を引こうとしたのだ。マチューは書く。
「とうとう、私は《明細書》の筆跡見本を手に入れたのだ。この報道のおかげで、私たちは弟が
《明細書》の筆者ではないということを直ちにしめすことができたのだ。
」
マチューは《明細書》の写真版にドレフュスの手紙を並べたビラを大量に配った。
これを見たある銀行家が、
「顧客のエステラージーの筆跡と同じだ」
、とマチューに知ら
せてきた。マチューはエステラージーを告発する。
これだけ事実が明らかになれば、ドレフュスは無罪が認められ、エステラージーが
有罪となるだろう、とだれもが考えた。ところが、すぐにはそうならず、ドレフュス事
件はむしろこれから始まっていく。
ドレフュス派の反撃 — 真実を覆い隠しとおすことはできない
右翼の新聞はエステラージーをドレフュス家とグルになったピカールによる陰謀の犠
牲者に祀り上げる。エステラージーは参謀本部から「安心せよ」という伝言を受ける。
彼の家宅は捜索を受けず、逆にピカールの家が捜索を受ける。こうした右勢力の扇動は
極点に達した。エステラージーは実質3分間の審理ののち、全員一致で無罪釈放され、
つづいて、
ピカールが告発され逮捕された。
マチューはこのあたりのことを書いている。
「被告人はエステラージーではない。ピカール中佐だ。注意深くためらいがちだった世論も、こ
の奇妙な措置によって、また、新聞の転倒した断言によって、深く惑わされていった。いったい
誰を信じてよいものか?」
ゾラの「私は弾劾する」が出現したのはまさにこの時である。この「きわめて説得
的な、燃え立つような文章」は、
「深い感動を巻き起こした。こうして、参謀本部と政府
がエステラージーの無罪放免によって決定的に葬り去ったと信じたドレフュス事件は、
再び息を吹き返し、…急に新たな展開を見せ、決定的な道を辿るようになった(マチュ
9
ー)
。
」
それは曲折を極めた道だった。ドレフュスは再審を認められ、破棄院は軍法会議の
有罪判決を破棄したが、軍法会議(ドレフュス再審法廷<レンヌ法廷>)は再びドレフ
ュスを有罪とした。ドレフュスが最終的に無罪となったのは 1906 年 7 月 12 日のことで
ある。ドレフュス逮捕から 12 年近く、ゾラの弾劾から数えても 8 年半後である。
その間、ドレフュスに味方した共和派、
「知識人 Intellectuels」との闘争は新聞と
世論を巻き込んでフランスを二分した。
「知識人」の呼称は当初は半ば蔑みのこもった語
であったが、暴力をものともせず敢然と闘いぬいた「知識人」なる呼び名は徐々に崇敬
を含意した、良い意味に転じていく[注]。
[注]本邦での「インテリゲンチャ」とはニュアンスを異にする。わが国では世事から身を退き、や
たら難しい哲学的な抽象論をふりまわす衒学臭を放つ輩の意味あいがある。
西洋では、知識人はけっして高い報酬を受けていないが、そんなことに忖度せず高邁なことに
コツコツと研究に取りくみ、時々、度肝を抜く発見・発明の異業をなす者、そして、有事に際し
て身を挺して愛国的熱情を吐露する人々として捉えられる。象牙の塔に籠ってばかりではない存
在だ。西洋では「知識人」がもう一度反権力の立場で愛国心を奮う機会があった。それはナチズ
ムに対する抵抗運動への積極的な参画である。日欧においてインテリ評価でこのような差がある。
最終的にドレフュス派が勝ったのは、闘ったからである。闘わなければ勝つことが
できない。もちろん、反ドレフュスも勇猛に闘った。単に権力に与して己の利益を図る
ために闘ったのではない。その意味で「己の出世が国のためになる」という利己的な国
粋主義者ではない。
事件より 30 年前の共和主義者や自由主義者の中からも多数の知識人
が反ドレフュス派に与した。それは対独復讐熱の大波に乗ってアルザス=ロレーヌを奪
回したいという愛国心にもとづく行動である。第二帝政下で反帝政の論陣を張り、国防
政府の閣僚にもなったロシュフォールはコミュ―ンに際してもコミューン派として新聞
を発行していたが、30 年後には反ドレフュス派として活動する。モーリス・バレスもふ
つうの意味でいう《国士》ではない。彼はアルザスの出身である。
新聞の力は反ドレフュス派のほうが圧倒的に大きかった。それを利用して平気でデ
マと中傷をふりまく。それでもなお、真実は前進する。時に流れる水が停滞し、逆流し、
迂回するようなことがあっても、必ず道を切り開く。妨害が却って前進を助けることさ
えある。
『エクレール』紙と『マタン』紙の暴露記事を思い起こせばよい。あの記事
は息も絶え絶えとなりながらもドレフュス派が闘いをやめようとしなかったた
め、最後のトドメの一撃として刺されたのである。それがドレフュス派の息を吹
き返させることにつながったのだ。
Ⅴ ドレフュス事件が現代に問いかけているもの
1.大衆の政治参加
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フランス人は行動する民族である。哲学の伝統を引きずりながら、重大な事件に遭
遇したとき、沈思黙考に閉じこもることはない。老若男女の別を問わず、誰に対しても、
どんな勢力に対しても迫害を懼れず、いつも勇気ある行動に出る[注]。その淵源はどこ
か? ― 一般大衆が共和政の基礎となったフランス大革命の原理
「自由」
「平等」
「友愛」
にあると見てよい。
ドレフュス事件は 20 世紀西欧社会の大きな特徴である大衆民主主義
の登場を告げる出来事であった。
[注]
「年齢(トシ)の功」などという語を仏訳するのは難しいだろう。
「君子危うきに近寄らず」の
仏訳はあっても、これをしゃべると、フランス人から「何と!卑怯な」という誹りを食らうだろ
う。
「義を見てせざるは勇なきなり」は文字どおりの仏語格言はあるのだが … 。
2.労働運動と政治運動の一体化
今の日本で労働運動と政治運動が一体化して現れるのは少なくなった。戦後から四
半世紀間はかなり活発ではあったが。今はどちらの運動も昔と比べると衰微している。
しかし、時々、一体化して現れるという日本はその点で西欧に似ている。そもそも、そ
の範を垂れたのはフランスである。
1895 年にC.G.T.が結成され、この総同盟は労働運動の中でいつも主役を演じ
るのは当然(週休の制度とスト権の確立)だとしても、政治運動のなかでも指導的役割
を演じてきた。特に 1905 年にジャン・ジョレースを党首として統一社会党が結成され、
第三共和政の全体を通じて主要な役割を演じることになる。そして、1935 年における反
ファシズムの人民戦線の成立によって一時期、政権(レオン・ブルム内閣)の座に就い
たことさえある。
3.自由主義にもとづく3つの自由(言論・集会・結社)の確立
フランスはおそらく民主主義と自由主義を謳歌する点では世界一の国であろう。ア
メリカもそうだが、ただし、この国は歴史が浅く、思想や信仰箇条の問題をめぐって血
で血を洗うような騒動を経験していない。よって、キリスト教原理主義が大手を振るっ
て闊歩しているように、異論・異教に対してアメリカ人がさほど自由放任の態度で接す
ることはない。ところが、フランスでは、宗教内乱や、それらが権力者の手で幾たびか
抑圧されるにいたった歴史があるため、思想や信仰箇条の問題についてフランス人は特
にナーバスであり、寛容である。自由主義の基礎としての民主主義を金科玉条のごとく
大切にするのもその理由である。
ドレフュス事件はユダヤ人迫害や政教一致の弊害を一挙に表面化させた。この苦い
経験から国家と宗教の分離が提唱され、ついに国家の非宗教化が達成された。これは大
きな成果といえよう[注]。
[注]ただし、政教分離の原則を土着のフランス人に適用はできるが、帰化したフランス人にそのま
ま適用することの難しさは今の対イスラム教徒との関係において如実に示されている。イスラム
教では政教分離はいついかなる場所でもありえないことである。これはまた別の問題であるため、
これ以上はふれない。
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ドレフュス派と反ドレフュス派が街頭で衝突し不意の暴力沙汰になることもあった
が、言論・集会・結社の自由が脅かされたことは一度もない。むしろ、これらを活発に
活用し、論争を発展させたことが重要であろう。たしかに「ジャーナリズムの犯罪」と
評される面もあるが、そうした理解は一面的である。つまり、敵手と対抗するために言
論戦を活発に展開した(できた)点は評価に値する。反対派の言論を封じていれば、こ
れこそ専制政治と何ら変わりないことになる。
4.ドレフュス事件がシオニズム(建国運動)の起源となる
ユダヤ人にとってドレフュス事件はとてつもない衝撃だった。人種の違いという事
実だけで、いわれなき迫害に遭ったのである。この過程をつぶさに追いつづけていたユ
ダヤ人のヘルツル(1860~1904)は、ユダヤ人にとって異教徒の国に安住はできないこ
とを悟り、パレスチナにユダヤの安住の地を造ることを決めた。彼はドレフュス事件が
燃え盛る 1897 年にシオニスト団を結成し、政治的な運動を開始した。なお、
「シオン」
とはエルサレム近郊の丘の名称である。全世界に離散したユダヤ人が故地に帰ってくる
となると、アラブ人との抗争は避けられない。その意味でユダヤ人の在り方がユダヤ人
もとよりアラブ人やトルコ人を揺さぶる一大事件に発展していくきっかけとなった。
5.ドレフュス派勝利が国家社会主義を生み出す
ドレフュスの勝利の翌日、当時の社会主義者が分裂した。敗れたはずの社会主義右
派勢力が政界において今度は社会主義から国家主義に続く軌道を敷き、第一次大戦への
道に足を踏み入れる。それがゆくゆくはヴィシー政権へとつながっていく。
そもそも、
「社会主義」は労働者に祖国はないとの前提のもとに、全世界の労働者が
団結して、それぞれの国の圧政政権を倒し、その廃墟の上に平等原理の社会を築くこと
を目標に掲げていたはずだ。
「万国の労働者、団結せよ」である。つまり、現実の世界は
労働者にとっては資本家が支配し、国権を使って搾取する国であった。よって、社会主
義者の特定のフラクションが現体制の国家の擁護にまわるというのは≪背教≫にも等し
い行為である。
もともと社会主義の思想は労働者階級の比重が大きくなるにつれ、体制否認の人々
が増えていき、こうして資本家と労働者の力関係が逆転し、いわば自然の理として社会
主義に移行すると考えられていた。ここにこそ、万事を、そして人間性を「善」と描き、
楽天的に物事を見る傾向が生まれた。
ところが、ドレフュス事件の激越な闘争を経て、人々は素朴な人間信頼から人間不
信の思想への移行していく。これが世紀末のデカダンもしくはペシミズム、あるいはニ
ヒリズムの風潮となる。
「神」とか「愛」とか「理想」とかへの不審が強まり、絶対性の
観念から相対性の観念へ転移を遂げる。人々はキリスト教倫理を積極的な姿勢で棄ては
じめる。そうした心理が圧倒的多数の大衆を掴むやいなや、物的な力となり、国家社会
主義へのうねりと変わっていく。
6.知識人たちの覚醒
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ドレフュス事件は知的世界に大きな影響を与えた。一方ではニヒリズムの思潮をふ
りまき、他方ではその逆のカトリックへの回心をもたらした。それは文学者に顕著であ
る。政治と文学の予定調和から相対主義への転移に伴い、エルネスト・ブシカリ、ジャ
ック・マリタン、シャルル・ペギーなどがそうした思潮の陣頭に立つ。
ドレフュス事件の作家たちはドレフュスの擁護派だろうと、反ドレフュス派だろう
と、いわゆる「象牙の塔」や「書斎」から出て事件に挺身した。この傾向は第一次大戦、
両大戦間、第二次大戦を経て文学・思想の両域の拡大・深化に沿った“行動の文学”
“参
加 engagement”となって表われ、政治・経済・社会が人間そのものに関わる一切の事を
問題として「現代の諸問題と取り組む」姿勢になった。この体験をドレフュス事件が先
取りしたといえる。
これがあるゆえに、知識人は大衆とはいつも一緒に手を取りあって進む。けっして孤
立した存在ではなく、大衆の敬意を受けつつ、また、知識人は大衆から学んでいく求道
者然としたところがある。
Ⅵ 「明細書」
ドイツ大使館駐在武官シュヴァルツコッペン大佐宛てのドイツ参謀本部が送った文書の写し
私に会ってくださる旨の通知がないため、とにかく興味深い情報をお送りします。
(1)120 ミリ砲の水力式制動機とその操作方法に関するノート
(2)援護部隊に関するノート(新作戦計画ではいくつか修正される可能性あり)
(3)砲兵の構成上の変更に関するノート
(4)マダガスカルに関するノート
(5)野戦砲兵射撃教程創案(1894 年 3 月 14 日)
最後の資料は入手が極度に困難なもので、私はそれをほとんど短時日のあいだしか
手許におくことができません。私は大演習に出発するところです。
Ⅶ E. ゾラの「私は弾劾する J’acuse」
(1898 年 1 月 13 日)
」
[抜粋]
…参謀本部全体を告発しないかぎり、ドレフュスの無罪は明らかにされえません。
陸軍省も、ドレフュスを再び叩きつけるために新聞の宣伝、圧迫、強制のあらゆる策
を講じ、エステラージーを庇ったのであります。…戦争の危機を感じ、国防の統帥権
が誰の手にあるかを知っている国民がどれほど多くいることでしょうか。…
ビヨー、ボワデッフル、ゴンスの将軍たちはドレフュスが無罪だと知りつつ、この
恐るべきことを自分たちに隠して、
ここに 1 年の月日が流れたのであります。
そして、
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彼らは夜は眠るのです。…
私はド・クラン中佐を弾劾します。中佐は知らずに ― 私はそうあってほしいと思
うのですが ― 裁判が誤るように悪魔の手足となって働き、この忌まわしい仕事を守
るために、3年にわたって考えられるかぎり、悪辣な恐るべき陰謀をはたらいてきた
からであります。
私はメルシエ将軍を弾劾します。将軍は、少なくとも意志薄弱のゆえに世紀最大の
不正行為の共犯者となったからであります。将軍はドレフュス無実の確実な証拠を手
にしながら、これを隠蔽し、政治的動機から参謀本部の体面を繕うために、正義に悖
る罪を犯したからであります。
私はボワデッフル将軍およびゴンス将軍を弾劾します。前者はむろん、教権主義者
から、後者は軍当局をもって神聖侵すべからざる契約の要とする軍人精神から、同じ
罪の共犯者となっていたからであります。…
私は、私自身の行為が 1881 年 7 月 29 日をもって名誉棄損に関する処罰を規定した
新聞法第 30 条ならびに第 1 条に触れることを承知しています。
私は進んで処罰される
覚悟であります。
Ⅷ ドレフュス事件の略年表
年
1894
月
日
事
項
9 月末
「明細書」発見
10 月 15 日
ドレフュス大尉反逆罪のかどで逮捕
12 月 19 日
軍法会議で非公開の審理開始
12 月 22 日
ドレフュスの軍歴剥奪と要塞監獄での終身禁固刑宣告
1895
7 月初
ジョルジュ・ピカール中佐、参謀本部情報部長に就任
1896
3 月初
ドイツ大使館発、仏陸軍エステラージー少佐宛ての電報を仏軍諜報部が入手
[注]ピカール中佐は「明細書」の筆跡がエステラージーのものだと確信。ピカールはチュニ
ジアへの転属を命じられる。出発前に友人のルブロワ弁護士に語り、ルブロワは上院議長シュ
レル=ケストネルに話す。後者はドレフュス無罪を確信する
11 月 6 日
ユダヤ系哲学者ベルナール・ラザールが「誤審、ドレフュス事件の真実」を発表
12 月~
反ユダヤ主義者がエステラージーの救済のため、ドレフュスとピカールを虚偽に陥れ
る偽文書を捏造
1897
11 月
ドレフュスの実兄マチューがエステラージーを告発
11 月 25 日
エミール・ゾラは『ル・フィガロ』紙にシュレル=ケストネルが英雄的態度をもって
正義のための論争をおこなっていることを称賛し、
「真実は進む」という名言で結ぶ
14
12 月 4 日
シュレル=ケストネルは上院で再審否定の理由を質問。陸相はドレフュス裁判は正当
かつ合法的だったと断言。首相メリーヌは「ドレフュス事件は存在しない」と答弁
[注]全フランスが事件をめぐり再審派と反再審派に分裂し、騒動は大きくなる
1898
12 月 5 日
ゾラは『ル・フィガロ』紙に調書を載せ、猛威をふるい始めた反ユダヤ主義を非難
12 月 14 日
ゾラは「若い人たちへの手紙」発表し、若者たちに奮起を訴える
1 月 11 日
12 日
秘密軍法会議でエステラージーの無罪放免が決定され、ピカール中佐が告発された
[注]よって、軍部は、事件はこれでもって落着すると軽く考えていたようだ
1 月 13 日
ゾラは大統領フェリックス・フォールに宛てた「私は弾劾する」の公開質問状を発表
2 月 23 日
ゾラは名誉棄損で有罪と宣告され、1 年の禁固刑と 3 千フランの罰金を言い渡される
8 月 30 日
情報部長アンリ大佐はゾラ裁判に先立ち、ドレフュス有罪を決定的なものにすべく、
証拠書類を提出したが、その書類が上官を庇うための捏造であると判明。アンリは翌
日、刑務所モン・ヴァレリアンの独房で自殺
9 月 25 日
英国亡命中のエステラージーは『オブザーバー』紙に「明細書」を書いたのは自分で
あり、情報部によってドレフュス有罪の証明のため役立てられる予定であること、ド
イツ参謀本部はドレフュスだけが通報できる資料を所管していることを知っており、
「明細書」は仏軍諜報機関によって確認された資料のリストであると説明
[注]そうなると、事件はエステラージー個人の反逆から参謀本部の策謀となる
1899
10 月 25 日
共和派は文官優位の原則を承認することを議会に要求し、可決させる
10 月 29 日
破棄院がドレフュス再審請願を受理すると発表
2 月 16 日
大統領フェリックス・フォール(ドレフュス再審反対)が官邸執務室で脳溢血で急死
2 月 18 日
新大統領にエミール・ルーベが選出される
[注]彼はパナマ事件時に汚職を摘発した人物で共和派に属する
6月 3日
裁判差し戻しとなり、ドレフュスが本国に送還される
8月 7日
軍法会議(レンヌ再審法廷)
9月 9日
評決は5対3でドレフュス有罪となり、10 年の懲役と宣告したうえで「情状酌量の
余地あり」という不可解なもの
1906
9 月 19 日
ヴァルデック・ルソー内閣は大統領令のかたちでドレフュスに特赦を与え釈放
9 月 21 日
陸相ガリフェ将軍は「事件は終了した」という通達を出す。
7月 12 日
レンヌ軍法会議の判決破棄を経て、ドレフュスは軍に復帰し少佐に昇任
(c)Michiaki Matsui 2015
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