能勢之彦 - Japanese Society for Artificial Organs

●連載エッセイ
能勢之彦,人工臓器の歴史を語る 世界の巨人たち
第一話 ̶ 人工臓器の神様,ウィレム・コルフ先生と私 ̶
ベイラー医科大学・マイケルドベイキー外科学教室・人工臓器開発センター
能勢 之彦,高場 準二
Yukihiko NOSÉ, Junji TAKABA
1957 年に彼が世界で初めて臨床使用した膜型人工肺は,
1. 序 説
今や世界の心臓手術のみならず,肺不全の患者の救命にも
早いもので「人工臓器の始祖」と言われるウィレム・J・
使われている。年間約 100 万例以上がコルフ先生の作った
コルフ先生(図 1)が 2009 年 2 月 11 日に亡くなって 2 年以
人工肺の技術によって救命されているわけである。膜型人
上が経つ。亡くなったのは,98 歳の誕生日の 3 日前のこと
工肺は最も安全で有効であるにもかかわらず,長時間使用
である。したがって,彼の人工臓器に対する学問的な功績
可能な装置である。
はすでにたくさん発表されている 1),2) 。また彼の個人的な
面も含めて発表されたものもある 2) ∼ 4) 。
「アメリカ人工心臓計画」にまでなった政府主導の人工
心臓の開発はヒューストンのマイケル・ドベイキー教授に
彼は人工腎臓を 1943 年に初めて臨床に使った人であり,
よって 1964 年に始められたが,それに先がけ,世界で初め
その後,様々な実用的な人工腎臓を開発してきた。現在,
てその実現の可能性を信じ,1957 年にその開発を始めたの
約 200 万人の患者が人工腎臓で生命を維持しており,患者
がコルフ先生である。現在,年間約 6,000 例の患者が末期
によっては 40 年以上透析によって生きている。
心不全で死亡する直前に不全心を補助する人工心臓によっ
て救命されている。したがって,コルフ先生は主な人工臓
器のすべての開発者としてよく知られている 4) 。しかし,
彼が個人的にどのような人物であったかということはあま
りよく知られていない。このようなすばらしい医学的成果
を達成したコルフ先生とは個人的にどのような先生であっ
たのだろうか?
幸い能勢は,コルフ先生を 1962 年より知っており,1964
年からは彼と共にクリーブランドクリニックで働いてい
た。1967 年に彼がユタ大学に転出した後,能勢はクリーブ
ランドクリニック人工臓器部門のチェアマンとしてその後
を継いでいる。その後約 40 年,様々な機会で人工臓器の開
図 1 ウィレム・J・コルフ教授(1960 年代)
オランダで人工腎臓を作り上げ,1950 年にクリーブランドクリニッ
クに参加。1957 年より人工臓器部門部長として 1967 年まで勤務。そ
の後,ユタ大学に移っている。
がって,本稿のタイトルのようにコルフ先生のことを誰よ
りも知っていると言っても過言ではない。そのような背景
から,コルフ先生の個人的な側面について,彼との交流経
験に基づいて記してみたいと思う。
■著者連絡先
Center for Artificial Organ Development, Michael E. DeBakey
Department of Surgery, Baylor College of Medicine
(One Baylor Plaza, Houston, Texas 77030, USA)
E-mail. [email protected]
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発のためにお互いに助け合って努力した仲である。した
彼も能勢もストレートに意見を表現する傾向にあるた
め,時にはお互いに侮辱し合っているような表現になる場
合があったが,お互いにそのような気持ちは更々なかった。
人工臓器 40 巻 1 号 2011 年
これはコルフ先生も能勢も「英語が母国語でない」からで
と人工肝臓”の話をしたい」ということで,約 2 時間の時間
ある。母国語でない英語を使ってアメリカで生活するため
をとってくれた。
にはできるだけストレートに,そして分かりやすい言葉で
残念なことに,当時の札幌のトラベルエージェントが,
間違いなくコミュニケーションしなければならない。コル
日本よりアメリカに来る場合,出発と同じ日にアメリカに
フ先生はオランダ人であり,能勢は日本人である。しかし,
到着するということをよく分かっていなかった。したがっ
この両人とも外国人でありながらアメリカで受け入れられ
て,もらった予定表に記されたクリーブランド到着日の 1
ている。これは,彼らの主張が理解できるからである。コ
日前に着いてしまったわけである。このことは,アメリカ
ルフ先生は WASP(ホワイト,アングロサクソン,プロテス
到着当日に立ち寄ったミッドランドのダウコーニング社で
タント)であるから当然であろう。しかし能勢はジャップ
発覚した。当時ダウコーニング社は医療用シリコンゴムを
で あ る に も か か わ ら ず で あ る。 特 に 1960 年 代 末 ま で
世界で唯一作っていた会社であり,日本でシリコンゴムを
WASP 病院であったクリーブランドクリニックで外国人が
輸入していた富士高分子社の川口信久氏に紹介してもらっ
生き残るためには,正確に自分の意見や立場をはっきりと
た。そして,Dow Corning Center for Medical Research の
相手に分かってもらう必要がある。患者を含めてである。
所長代理であるサイラス・ブレリー氏とのアポを取っても
そのためには,はっきりした意見を簡単な英語で言う必要
らっていた。デトロイトより小型飛行機に乗りミッドラン
があるのだが,その場合,どうしても慇懃な表現は使えな
ドの小さな空港に着いたのだが,空港に出迎えてくれるこ
いので,相手を侮辱したと誤解されることが多い。
とになっていたブレリー氏は待てども待てども現れなかっ
しかし,アメリカの医学のリーダーとして認められてい
た。遂に小さな空港が閉鎖される時刻となり,
「どうした?」
る一流の連中にとって,我々外国人がプライドを持って一
と空港の職員が尋ねたので,
「ダウコーニング」
「サイラス・
流のオランダ人や一流の日本人としてストレートな言動を
ブレリー」と何回も叫んだことを覚えている。すでに午後
することは,理解し得ることである。しかし,二流のアメ
5 時を過ぎていたので空港職員は「ダウコーニングにタク
リカ人が間違って侮辱されたと思っても,これはアメリカ
シーで行け」とわざわざタクシーを呼んでくれた。空港が
で生き残る外国人にとって仕方のないことである。このこ
閉鎖される時刻を知っていたタクシーは空港前に 1 台もい
とは避けて通ることができない。能勢はコルフ先生の下,
なかったからである。
3 年間のクリーブランドクリニックの生活で,アメリカで
ダウコーニング社のゲートはすでに閉鎖されていて守衛
が 1 人居たのでアポの手紙を見せ,
「サイラス・ブレリー」
生き残る原則を学んだことになる。
そのため,1967 年以後の能勢の言動がコルフ先生に似て
きているのは否めない。つまり,コルフ先生は「日本の武
と何回も叫んだので彼は電話をとり,約 30 分後にブレリー
氏は現れた。彼の最初の言葉は“Why? Today”であった。
士」のような高い理想を持っており,アメリカの二流の連
能勢は“Because I ar rive today.”と答えた。彼は“Your
中に彼の言動を分かってもらう必要はないという立場を貫
appointment is tomor row.”と言ってゲストハウスに電話
き通した男である。また彼の一生を通じで私利私欲のため
し,
“It is OK, you can stay there, but are you hungry?”と言
の言動は聞いたことがない。確かにオランダ人としてのコ
うので“Yes”と答えると,
“What would you like to eat?”と
ルフ先生の私生活は日本人と比べると倹約家である。しか
言う。つい“Japanese or Chinese food.”と答えてしまった。
し,
「医学の発展のため」という観点において,倹約家のコ
彼は困った顔をした。当時アメリカの田舎のミッドランド
ルフ先生を能勢は知らない。以下の本稿は,能勢の話を高
に“米”を食べさせてくれる所などないからである。今に
場準二が書きとめたものである。
して思うと彼は魚か肉かという意味で「何を食べたい?」
と言ったはずである。考えた後,彼はどこかに電話した。
2. 個人的な出会い
“Everything OK.”と言いながら彼はまず能勢をゲストハウ
1) 能勢の初めての訪米(1962 年 4 月 17 日)
スに連れて行ってくれた。ダウコーニング社のゲストハウ
能 勢 は 1962 年 4 月 16 日 に 日 本 を 出 発 し ニ ュ ー ヨ ー ク
スは当時札幌で一番立派なグランドホテルよりもさらに立
(ブルックリン)のエイドリアン・カントロヴィッツ先生
派なホテルで,大きなダブルベッドが大きな部屋にあった
(40 巻 3 号掲載予定)の研究室に留学した。その途中でハワ
ことにまずビックリした。
イ,デトロイト,ミッドランド(ミシガン)を経由し,クリー
その後,彼は自分の家に能勢を連れて行ってくれた。奥
ブランドに立ち寄った。コルフ先生とはアポイントメント
さんがインスタントライスでチャーハンを作って待ってい
があり,
「能勢が日本で開発した人工臓器,特に“人工腎臓
てくれた。アメリカで初めて食べた食事が普通では犬に食
人工臓器 40 巻 1 号 2011 年
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べさせるのも遠慮するようなインスタントライスであった
2) ケネディ大統領暗殺の日(1963 年 11 月 22 日)
が,その味は 50 年近くたった今でも忘れることができな
この日はアメリカ人のみならず日本人を含めて世界の
い。幸い出されたビールとウイスキーは,日本で飲んだこ
人々が忘れることのできない日である。この日能勢は,コ
とのあるものだったので,
「アメリカ生活も大丈夫」と変な
ルフ先生に呼ばれて留学先のューヨークよりクリーブラン
自信を持ったことを覚えている。
ドに飛行機に乗って向かっていた。途中パイロットが緊急
翌朝,ダウコーニング社の医療サポート研究所全員(約
アナウンスをした。
「アメリカ大統領ジョン・F・ケネディ
12 人ぐらい)の前で約 1 時間,
「人工肝臓」のテーマで英語
がダラスで狙撃され,死亡しました」というアナウンスで
で発表した。後から聞いたところでは,誰も能勢が何を言
ある。残念ながら能勢は,パイロットのアナウンスをうま
わんとしていたのか全然分からなかったとのことである。
く聞き取ることができなかった。急に周りの乗客が泣き出
一方,間違って 1 日早くミッドランドに到着したので次の
したので隣の女性に「何があったのですか?」と聞くと,そ
予定地であるクリーブランドやニューヨークも 1 日早く到
の女性は泣きながら“Our president was dead.”としか言う
着することになる。ブレリー氏はクリーブランドのコルフ
ことができなかった。
教授,ニューヨークのカントロヴィッツ教授をよく知って
能勢はケネディ大統領が大好きであった。彼は北大ク
いたので,
「能勢が到着するのは 1 日早いので悪しからず」
ラーク博士と同じマサチューセッツ出身である。彼の有名
と電話をしてくれたのは幸いであった。その後 20 数年に
“Ask not, what
な就任式の発言は今も忘れてはいない。
わたってシリコンゴムでいろいろな人工臓器を作ったが,
your country can do for you. Ask what you can do for your
その間ダウコーニング社の適切な指導の下で行うことがで
countr y.”この一節は彼が愛読していた北大の先輩の一人
きたのはこのような事情による。クリーブランドに出発の
である新渡戸稲造の「武士道」よりの哲学を要約したもの
とき身に着けていた北海道大学のネクタイピンを「ありが
である。つまり能勢がアメリカに来るまでに信じていた哲
とう」の言葉と共に思わず差し出したのを,その後 20 年
学と同一であった。能勢のこれまでの人生は「いかに日本
経ってもブレリー氏はよく話をしていた。彼はジョークで
のために役に立つ医療機器の開発ができるか」という目標
「ドクター・アーティフィシャルレバー(人工肝臓博士)」
のために捧げたはずである。その時能勢は不思議な因縁を
と,肝臓をドイツ訛りの発音で能勢に呼びかけることが
感じたのである。クラーク先生 – ケネディ大統領 – コルフ
時々あった。
先生が何かつながっているような感じであった。つまり,
クリーブランドには,能勢の札幌での英会話の先生で
あったジャネット・ハイムス夫人の父母が住んでいた。幸
い彼らにも連絡がつき,能勢が空港に到着した時にはゲー
トまで出迎えてくれた。翌日 9 時にクリーブランドクリ
この 3 人共,一生捧げても達成できないような夢を能勢に
与えてくれたからである。
3) 第 9 回アメリカ人工臓器学会(1962 年 4 月)
1962 年 4 月に「約束を守らない男」と烙印を押した能勢
ニックのコルフ先生とのアポがあり(あると思っていた),
を,なぜこの時コルフ先生はわざわざニューヨークよりク
コルフ研究室を訪問した。たまたま彼は毎朝行っている朝
リーブランドまで呼んだのか。実はその前の第 9 回アメリ
のカンファレンスを終えたばかりであった。彼は“Your
カ人工臓器学会にコルフ先生と会っているのである。1963
appointment is tomorrow, not today and I am busy today.”と
年,アトランティックシティで行われた学会で能勢は 2 つ
言ってエレベーターに向かった。能勢はコルフ先生の後を
の 論 文 を 発 表 し た。4 月 15 日 に シ リ ー ズ 型 補 助 心 臓
追い言い訳をしようとした。その時コルフ先生は“I know
(ニューヨーク,カントロヴィッツ研究所で開発,図 2)
,4
you had repor ted plastic ar tificial anus in Japan and Dr.
月 16 日にハイブリッド型の人工肝臓(日本,北大三上外科
Turnbull, head of the colon and rectal surgery is interested
で開発,図 3)である。特に 4 月 15 日の「人工心臓セッショ
in seeing you.”
“I have an another appointment.”これで終
ン」はコルフ先生が司会者であり,5 題の人工心臓関係の演
わりであった。その時はっきりと彼が,
「どのような理由
題が発表された。そのうちの 3 人は日本人である。当時カ
であろうと約束を守れない男とは話す必要がない」という
ントロヴィッツ教授の下で外科のフェローであった能勢が
メッセージを言わんとしていることを強烈に感じた。その
1 番目の演者であった。3 番目の演者は阿久津哲造先生(当
後コルフ先生をよく知るようになったが,彼は言ったこと
時クリーブランドクリニックでコルフ人工臓器研究所人工
をやらない男とは付き合わないという信念を持っているこ
心臓開発主任)であり,最後の演者が渥美和彦先生(東京大
とは間違いないと再認識することができた。特に言い訳を
学木本外科人工心臓研究開発チーム主任)であった。この
言うような男はさらに嫌いであった。
セッションの他の 2 人はドミンゴ・リオッタ博士(ヒュー
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人工臓器 40 巻 1 号 2011 年
(a)
(b)
図 2 シリーズ型補助心臓
心室をバイパスする補助心臓と異なり,心室とシリーズ型に埋め込
む補助心臓。
(a)
(b)
図 3 ハイブリッド型人工肝臓
生体肝切片か凍結乾燥した肝組織をメディウムとした体外代謝装置。
ストン,ベイラー医科大学ドベイキー外科学研究所人工心
3 番目の阿久津先生はコルフ先生の弟子 7 年とアメリカ生
臓研究開発チーム主任でドベイキー型人工心臓の発表)
活が長かったため,よく分かる発表をした。日本から来た
と,ジョン・シュダー博士(ミズーリ州立大学外科教授,
渥美先生はスライドが 30 枚あったので,コルフ先生に半分
経皮電力電送システムを作り,その可能性を動物実験で証
に減らすように,そして原稿も半分に減らすように言われ
明)であった。
たが,発表の直前だったので不可能だと困っていた。能勢
セッションの前にコルフ先生は日本人の 3 人を呼び「日
は「準備した原稿を変える必要はない」と彼にアドバイス
本人の英語は分からない。発表は 12 分なのでスライドは
した。その時にコルフ先生は時間を超過した場合,演者よ
10 枚以内,原稿を見ないでゆっくり簡単な英語で発表する
りマイクロフォンを取り上げる先生であることを知らな
ように」と注意した。幸い能勢は 12 枚のスライドで発表内
かったからである。渥美先生はものすごいスピードで原稿
容は数週間前より原稿を作り暗記していたため,時間内に
を読み,スライドを変えていったので,理解することが大
発表できた。また,日本人にとって発音の難しい言葉は,
変であった。しかし,発表は時間内であった。コルフ先生
日本人が発音しても分かりやすい英語の単語に置き換えて
は渥美先生に対して一言も文句を言うことはなかった。
あった。つまり“Heart”の発音がダメなので,
“Circulation”
しかしコルフ先生は,人工心臓に関する 5 題の発表のう
に代えて発表したわけである。しかし発表後,コルフ先生
ち 3 題を発表した日本人の人工臓器問題に対する真剣な
は能勢に質問せず,カントロヴィッツ教授に質問をし,能
チャレンジは会員の皆が認めるべきであると強調した。ア
勢は完全に無視されたのであった。世界で初めてのシリー
メリカ人工臓器学会誌に印刷されたディスカッションを読
ズ型人工補助心臓の発表であるにもかかわらずであった。
み直すたびに忘れることのできない良い思い出である。
人工臓器 40 巻 1 号 2011 年
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4) コルフ先生訪問からクリーブランドクリニック滞在
へ(1963 年 11 月)
話を戻すが,このアメリカ人工臓器学会で発表したシ
リーズ型補助人工心臓を,その後動物(犬)に埋めて 14 日
間生存させた結果を聞くために,コルフ先生は能勢をク
リーブランドクリニックに呼んだのである。アトラン
ティックシティで 4 月に発表したときには急性実験しか
行っていなかったのだが,この 11 月までに犬に補助心臓を
図 4 クラーレンス・デニス教授(1960 年代)
ニューヨーク州立ダウンステート医科大学外科学主任教授。世界で
初めて人工心肺を使って心臓手術をした先生,カントロヴィッツ教
授を含め沢山の弟子を育てている。
埋め込み,14 日間生存させることができたのである。この
話をコルフ先生が誰かから聞きカントロヴィッツ先生に電
話をして,急遽能勢をクリーブランドクリニックに呼んだ
次第である。当時世界のどのセンターにおいても人工心臓,
補助心臓で 24 時間以上の生存を動物実験で達成したグ
その翌日,能勢は日本で開発したハイブリッド型人工肝
ループはなかったからである。コルフ先生は 2 日間にわ
臓を,臨床例を含めて発表した。その時にカントロヴィッ
たってポンプのデザイン,使った材料,動物実験の方法,
ツ先生の主任教授であり人工心肺を世界で最初に臨床で使
手術術式,術後管理などをこと細かく何回も質問した。
用したクラーレンス・デニス教授(図 4)が立ち上がって,
能勢もこのチャンスを大いに利用しようと考えたのも当然
「発表の内容はともかく,能勢の英語の発表が立派であっ
であった。
た。この男はアメリカに来てまだ 1 年にしかならないでこ
当時クリーブランドクリニックの人工臓器研究所は世界
のように英語をしゃべれるのは素晴らしい。多分もう 1 年
一であり,そこの全てを勉強したいので 1ヶ月間そこに滞
経ったらウィンストン・チャーチルよりもっと素晴らしい
在したいという希望は伝えてあり,すでにカントロヴィッ
英語をしゃべるだろう」と言って褒めてくれたのは,今も
ツ先生のみならずコルフ先生からも許可を得ていた。この
学会誌を読み直すたびにありがたく思い出す次第である。
1 ヶ月の間にコルフ先生の人工心臓,人工肺,人工腎臓の全
実は発表の後,コルフ先生は能勢に初めて質問をしてく
てにわたって勉強したことは今でも忘れることができな
れている。それは臨床例についてである。発表の内容は,
い。事実,当時のコルフ先生の研究室は日本人とドイツ人
4 例のうちの 2 例は閉塞性黄疸手術の前処置として行った
によって維持されていた。また各プロジェクトのチーフは
もので,両例とも生存していた。しかし,肝性昏睡の患者
日本人であった。つまり人工心臓および肺の開発チーフは
2 例は 2 例とも昏睡状態より回復したが死亡している。コ
前述した名古屋大学出身(1947 年)の阿久津哲造先生であ
ルフ先生は,
「世界で初めてのハイブリッド型人工肝臓と
り,人工腎臓の臨床は山口県立医学専門学校出身(1951 年)
して皆が褒めているが,私はこの発表は何もすごいとは思
の中元覚先生であった。しかしながら,コルフ先生はこの
わない。肝性昏睡の患者が 2 例とも昏睡より回復している
2 人に責任を持たせているにもかかわらず,その全てにわ
が,結果的に死亡している。人工腎臓でもそうだが救命が
たって自分で決定し,詳細に関しても彼の意見に基づいて
できない人工肝臓は人工肝臓として完成しているとは思え
全てを決めていた。
ないからだ」とのコメントであった。
毎朝研究室でカンファレンスが開かれていた。いわゆる
この論文はアメリカ人工臓器学会 50 周年記念誌で,それ
有名な“30 分会”である。各研究員にどのようなトピック
まで発表された約 5,000 の論文の中で特筆すべき 25 の論文
でも良いので 30 分話し,それに対してコルフ先生が意見を
の一つに選ばれている。ちなみにマルチェスキー,能勢が
述べる会である。また当時,コルフ先生の意見に対して誰
1981 年に発表した膜型アフェレーシス装置の論文もこの
も意見を差し挟んだり反対意見を述べたりしないのが非常
25 の論文の中に入っている。つまりコルフ先生はあまり
に強く印象に残った。この時能勢は,日本で行った「電気
人を褒めない先生ということである。コルフ先生が「良い
洗濯機を使っての在宅透析」を発表したが,コルフ先生は
ことをした。良い発表をした。良い研究をした」などと誰
「日本のような貧乏な国ではそのような透析を行うことが
かに言ったことを聞くことはその後もなかった。しかし,
許されるかもしれないが,豊かな国であるアメリカではま
その時はコルフ先生が褒めてくれなかったことにガッカリ
ずやってはいけない医療行為である」という一言で片付け
したことも事実であった。
られてしまったことを記憶している。
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人工臓器 40 巻 1 号 2011 年
つまり,コルフ先生は自分の一方的な強い自信と信念を
い。これは北大三上教授との約束で,アメリカ留学 2 年が
持っており詳細に関してまで「このようにしなければいけ
終えたので帰国しなければいけない」と言ったら,コルフ
ない」と当時の教室員に強く一つ一つ指示を与えていた指
先生は「心配するな,自分が電話する」とのことであった。
導者であった。したがって,1 ヶ月の滞在が苦痛になった
コルフ先生には「日本は今真夜中で電話をするのは失礼
と言っても過言でない。当時,もし能勢がボスになったら
ではないですか?」と聞いたが,
「心配するな」と言ってす
絶対にコルフ先生のようなボスになりたくないと誓ったこ
ぐに三上教授の家に電話をした。当時は 2 時間ほど待たな
とも事実である。幸いコルフ先生が彼の自宅に能勢を呼ん
ければならなかった。交換手からの連絡で三上教授と繋
でくれたため,何とか 1 ヶ月滞在できたが,もしそれがな
がった。コルフ先生は二言三言,何かを言った後で受話器
かったら,1 週間でニューヨークに帰っていたであろう。
を置き,
「三上教授はお前がクリーブランドクリニックに
能勢はこの 1 ヶ月の間に 2 回呼ばれている。当時コルフ
勤務することに OK してくれた」と言う。それでも能勢は,
先生はクリーブランドハイツの大きな古い家に 5 人の子供
「ちょっと待って欲しい,自分がもう一度かけ直して確認
と共に住んでいた。したがってお客として呼ばれても特に
を取るから」と言って三上教授に電話をし直した。また 2
ご馳走はなく,普段家族で食べる普通の食事である。奥様
時間ほど待って三上教授と繋がった。三上教授は「寝ぼけ
のヤンケがお客も家族の一人のように扱ってくれたので,
ていた。誰が電話をして何を言ったか分からなかった。誰
かえって能勢はこのような食事を楽しんだ。サラダとスパ
だ?」との返事である。三上教授はドイツ語は分かるが英
ゲッティ,サラダとインドネシアカレーの 2 回の食事が記
語は分からない。「コルフ先生が先生に電話をして能勢を
憶に残っている。酒はシェリー酒を小さなグラスに 1 杯だ
クリーブランドクリニックに勤務させるが良いかと聞いた
け飲ませてくれた。
ところ,先生がイエスと言ったとのことですが本当です
ちなみに能勢は,日本で 10 人の子供の 7 番目に生まれ
か?」との質問に「何も分からなかったが,もし私がイエス
た。コルフファミリーと同じように貧しい食事をたくさん
と言ったと彼が理解したのなら,武士に二言はない,君は
の家族と共にとる生活を日本で経験していた。したがって,
残りたまえ。でも 6 ヶ月だけだ。コルフ教授が阿久津先生
アットホームという温かさを感じたのである。普通日本人
の後継ぎを見つけるには 6 ヶ月もあれば十分だろう」との
であれば貧しい食事をお客に出すようなことはしないし,
返事であった。したがって,コルフ先生には 6ヶ月勤務と
したとしても何らかの「言い訳」を言うのが普通である。
いう条件でクリーブランドクリニックに 1964 年 4 月 1 日よ
しかしヤンケは一言も「言い訳」を言わず,自然に能勢を自
り勤務することになった。今にして思うと,コルフ先生と
分の子供の一人のように扱ってくれたことは本当にありが
カントロヴィッツ先生の間で能勢と阿久津先生のトレード
たかった。
が決まっていたらしい。カントロヴィッツ先生はただ能勢
5) 能勢と阿久津先生とのトレード(1964 年 3 月 15 日)
に「ここにエアチケットがあるのでクリーブランドクリ
この日能勢は,コルフ先生に呼ばれて再びクリーブラン
ニックに行って欲しい」と言っただけである。当時この 2
ドに行った。エアチケットはカントロヴィッツ先生が買っ
人とも,日本人をまだ半人前の人間としか思っていなかっ
て能勢に手渡したものを使ってである。これは,前述の阿
たかもしれない。
久津先生がブルックリンのニューヨーク州立大学外科学助
教授としてカントロヴィッツ教授の下に移るためにクリー
6) クリーブランドクリニックでの研究
(1964 年 4 月 15 日)
ブランドクリニックを退職するとの報告をコルフ先生が受
クリーブランドクリニックではポストグラジュエート
けた翌日であった。一方能勢は,北大の三上二郎教授との
フェローで人工心臓プロジェクトのチーフとなった。当時,
約束であった 2 年間の留学期間を終えて 3 月末までに帰国
コルフ研究所で作っていた人工心臓は針糸で埋め込むので
の予定でその準備をしていた。つまり,能勢の後継ぎにカ
はなく,インフローもアウトフローも堅い管であった。そ
ントロヴィッツ先生は阿久津先生をブルックリンに呼んだ
れぞれの管を生体心臓のインフロー(右は上行および下行
のである。クリーブランドでコルフ先生に会ったとたん,
大静脈の 2 本,左は左心房に 1 本)およびアウトフロー(右
彼は能勢をクリーブランドクリニックの理事長フェイ・ラ
は肺動脈,左は大動脈)に挿入して 1 号糸で縛りあげると
フイバー博士および事務長のリチャード・ゴッドランのと
いうスタイルであった。これでは当然 2 週間以上はもつこ
ころに連れて行き,
「この男が Akutsu の後継ぎなのでよろ
とができず,心臓移植のように針糸で埋め込む必要がある
しく」と紹介したのである。ビックリして「ちょっと待っ
と能勢は考えた。幸いブルックリンの研究室では,近藤ヨ
て欲しい,私は 4 月 1 日までに日本に帰らなければならな
シオ博士が子犬の心臓移植を行っており,その助手を務め
人工臓器 40 巻 1 号 2011 年
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図 5 ジャイアント心房人工心臓
生体の心臓と同じように広い大きな心房を持った人工心臓。
ていた能勢は心臓移植と同じ手術が必要と考えた。そこで
り返した。困ったような顔をして研究室から出ていくコル
コルフ人工心臓の心房を大きな口径のまま保ち,直接生体
フ先生に構わず,つまらないことで人工心肺の無駄にした
の心房に縫合できるように作り直した。そして直ちにコル
時間を取り戻すために助手のラリー・トレットバー博士と
フ先生に 1 例の急性実験を行いたいと申し出た。これが
アマレンドラ・セングプタ博士の 3 人で急いで開胸した。
ジャイアント心房人工心臓(図 5)である。
ちなみに胸腔内に人工心臓以外の何も入れたくないので,
当時,コルフ人工臓器研究所には手術場がなく,教授室
の隣にある研究室で手術を行っていた。手術を始めようと
人工心肺は頚静脈と肢静脈より脱血し頚動脈に送血するよ
うにつないでいたのである。
思って子牛に麻酔をかけ人工心肺に連結し,開胸しようと
急いで生体心臓を取り出し,左心房,右心房,大動脈,肺
したときにコルフ先生が入ってきた。この時,急性実験な
動脈の縫合を行い,人工心肺を止めると同時に人工心臓の
のでマスクとキャップをつけ,ゴム手袋のみで手術をしよ
パンピングを始めた。閉胸は胸骨をワイヤで締めつけるだ
うとしていた。コルフ先生は入ってくるなり「ユキ,手術
けで終え,子牛をクレーンでつるして正常位に戻した。手
着を着ろ!
!」と命令である。「先生,これは急性実験です」
術時間は 1 時間以内であった。幸いこの牛は人工心臓で 16
と答えると,
「テッド(阿久津先生)は手術着を着て実験し
時間生存することができた。ちなみに前任者の阿久津先生
た。着たまえ」とまた命令である。手術着を着て手術を始
が 16 時間以上子牛を生存させたのが,7 年間の実験のうち
めようとすると,
「どうして毛を刈らない?」と質問であ
数例であり,最長で 24 時間以内というのが当時の成績で
「テッドは
る。
「先生,これは急性実験です」と答えると,
あった。
毛も剃っていた。剃りたまえ」と命令である。「イエス,
この結果を見て以来,コルフ先生は能勢の手術に立ち会
サー」と言って毛を剃り,手術を始めようとすると,
「ユキ,
うことをしなくなった。またそれのみならず,どのような
どうして皮膚を消毒しない?」とまた質問である。
「先生
手術をするのかを尋ねることはなかった。つまり,外科医
これは急性実験です」と答えると,
「テッドは消毒してい
としての能勢をリスペクトするようになったのは事実であ
た。消毒したまえ」と命令である。今度は「イエス,サー」
る。その後,コルフ先生よりこの動物実験の結果を人工心
と言わないで消毒して手術を始めようとすると,
「ユキ,ど
臓埋め込み実験の論文の中に入れて発表するよう指示され
うして術野の周りに布をかけない?」とまた質問である。
たが,能勢は「コルフ先生,あれは手術手技を学ぶための
また黙って布をかけ手術を始めようとすると,術野に剃り
急性実験です」と言って入れることを拒んだ。この時はさ
残した毛があった。「ユキ,毛を全部きれいに剃れ」とまた
すがにコルフ先生も反対することはなかった。
7) アメリカ人工心臓 10 年計画の作成(1964 年 5 月 1 日)
命令である。
子牛の人工心肺はすでにつながっている。無駄な時間を
コルフ先生はクリーブランドの郊外に約 100 エーカーの
使えば手術の時間を短くしなければならない。当時,牛の
農場を持っていた(図 6)。阿久津先生が約 3,000 本の木を
人工心肺は 1 時間が限度であった。ついに我慢の限界に来
植えたという有名な農場である。ここに急にコルフ先生よ
た能勢は“Dr. Kolff, get out of here, this is my surgery!”と
り能勢と人工心臓チームのラリー・トレットバー博士が呼
叫んで彼を睨みつけた。彼はしばらくどうして良いか分か
ばれたのは,クリーブランドとしては暑い日であった。農
らないようだったので,
“This is my surgery!”ともう 1 回繰
場のピクニックテーブルでコルフ先生より紹介されたの
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たアメリカ人工心臓計画はコルフ先生の言ったアウトライ
ンとは大きく異なったものになった 5) 。
しかし,このような国家の大きなプロジェクトをまだ英
語もロクにしゃべれない若僧に任せるなどということは普
通ではできるものではない。これが 2 週間前まで手術の
ABC も知らないと思っていたジャップに対してである。
しかしコルフ先生はその時に能勢を人工心臓の研究者とし
て,そして人工心臓を正しく埋め込める外科医として信じ
てくれたわけである。それのみならず,ヒューストンのホー
図 6 ウィレム・J・コルフ教授(1966 年)
農場においてトラクターに乗っているコルフ先生。何か重大なディシジョン
をするとき,コルフ先生は研究室やクリニックでなく,彼の農場において行
うことが多かった。
ル教授とクリーブランドのまだクリーブランドクリニック
のスタッフにもなっていない若僧に,自分も含めてそれか
ら 10 年間の研究生活を左右することになる人工心臓開発
に関する全てを任せたわけである。
その後,2 人の作った青写真のドラフトをコルフ先生に
が,当時ベイラー医科大学ドベイキー外科学研究所長のビ
見てもらったが,彼は一字一句も直さずに“Good job”と
ル・ホール教授であった。彼が言い始めたのは「ケネディ
言ってくれたことは,今もって忘れることはできない。前
のスペースプログラムの次の大型ナショナルプログラムと
述のごとく,コルフ先生が我々に指示してくれたアウトラ
して,人工心臓 10 年計画が認められた。ジョンソン大統領
インより大幅に異なった青写真であったにもかかわらずで
の顧問である,私の先生のマイケル・ドベイキー教授の勧
ある。ヒューストンのドベイキー教授も,コルフ先生が認
めによるものである。したがって,我々でその青写真を 2
可した計画であるということで,一言も変えることをしな
週間で作る必要がある」ということであった。コルフ先生
かった。その時に,この 2 人はバックグラウンドも専門も
は「ユキ,準備をしてヒューストンへ行き,ビルと 2 人で直
完全に異なっているが,何か共通のフィロソフィを持って
ちにアメリカ人工心臓 10 年計画を作りたまえ」とのことで
いることを感じた次第である。それと同時にものすごい責
あった。農場でコルフ先生は,
「人工心臓の簡単な空気駆
任を感じたのも事実である。
動装置であるデトロイトコイルタイマー,人工心臓テスト
したがって,この 2 人の信頼を裏切らないために人工心
用の模擬循環システムをハリーダイヤモンド研究所でそれ
臓計画の完成を見届ける必要があると信じた。そのために
ぞれ 5 台ずつ作り,ブルックリン,クリーブランド,ヒュー
は予定の 6ヶ月で日本に帰ることをあきらめ,この人工心
ストンおよびその他 2ヶ所に送ること。ポンプは各研究室
臓計画のために能勢の人生を捧げようと思ったのは当然で
で作らせ,同じ駆動装置およびテストサーキットでその性
ある。これが能勢が日本に帰ることができなかった理由で
能比較をすべきであること。その結果一番良いデータを出
あり,今日までアメリカに居る理由である。この時初めて
したポンプ 2 種類を,別のインプラントセンターに送り動
コルフ先生を自分の一生の師として,日本の三上教授と共
物実験を行うこと。つまり,偏見や先入観のない,そして
に仕えるべきであると信じたのも当然であろう。またコル
ポンプ開発とは関係のないグループによりポンプの動物実
フ先生が 1967 年,クリーブランドクリニックをリタイヤ
験の効果を判定してもらうべきである」という指示を与え
する際,当時まだクリーブランドクリニックのアソシエイ
てくれた。
トスタッフに過ぎなかった 35 歳の能勢を彼の後継ぎに推
「ナショナルプログラムといってもそんなにビックリす
るようなプログラムではないな」というのが,当時の偽ら
ない気持ちであった。能勢は当時 31 歳で,医学部卒業 7 年
薦してくれた。1967 年 3 月末の金曜日のことであった。
8) コルフ先生ご逝去(2009 年 2 月 11 日)
この日,偉大なコルフ先生は 98 歳の誕生日の 3 日前に亡
目の若僧で恐ろしさを知らなかったので,
「イエス,サー」
くなった。彼の一生を通じて沢山の人工臓器に関する功績
と言って引き受けてしまった。青写真を書けると思ったの
は前述のごとく沢山の発表によりカバーされている。また
は,1960 年 7 月に東大工学部渡辺茂研究室の石井威望先
コルフ先生の“人”または個人的な“顔”も前述のごとく,
生,渥美和彦先生と共に日本政府に提出した「人工心臓開
ある程度発表されている 2),4) 。しかし,能勢の個人的なコ
発計画」をすでに書いていたからである。その経験に基づ
ルフ先生とのいろいろな出逢いをそのまま述べたことで,
いて作った計画書であったので,その後ホール教授と作っ
コルフ先生の人となりをいくらかでも知っていただけたも
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のと信じる次第である。
のはちょっとまずいのではないですか?」と言ってストッ
プをかけようとした時に,
「これは事実であるので構わな
3. まとめ
い」というのが先生の返事であった。つまりコルフ先生は
コルフ先生をよく知っている人々もだんだんと減ってい
彼の一生を通じて,事実をあるがままに認め,事実をある
る。アメリカではニューヨークダウンステート州立大学の
がままに使って自分の偉業を成し遂げた先生である。私た
イライ・フリードマン博士はその 1 人であり,コルフ先生
ちが真似をしようとしてもできない偉大な先生である。私
を尊敬していた。彼はユタ大学を退官したコルフ先生を非
たちも人工臓器の分野のみならず人生のあらゆる大切な決
常勤教授として任命した腎臓内科医である。ユタ大学でコ
断をしなければならない時に「コルフ先生ならこのような
ルフ人工臓器研究所をコルフ先生より引き継いだドン・オ
時にどうしただろう」と考えることにより,間違いのない
ルソン教授がもう 1 人である。この 2 人で American Society
方向性を見つけることができるものと信じている。
for Artificial Internal Organs(ASAIO)Journal に書いた論
文 2) にコルフ先生の個人的な面もよく書かれている。
ヨーロッパではドイツ,ロストック大学のホースト・ク
※編集委員会注:著者の意思を尊重して原文のまま掲載させて
いただきました。
リンクマン教授がコルフ先生のことをよく知っている。彼
はユタ大学でコルフ先生の下で人工腎臓および人工心臓の
チーフをドン・オルソンが採用される前まで務めていた。
しかし,能勢も含めて皆が 70 歳以上に年をとってきたのも
事実である。したがって偉大なコルフ先生のことを今書い
ておかなければ,誰からも忘れられると思い本稿を執筆し
た次第である。ちなみに約 20 年前にコルフ先生との対談
によって作られた日本語の『人工臓器に未来をみる』とい
う三田出版会より出版された本 6) があるが,現在は絶版に
なっている。幸い,はる書房より再出版するという報告を
能勢は最近受け取っている。もちろん最近 20 年の人工臓
器の進歩を含めたものである。この本でコルフ先生は彼の
本心をあるがままに語っていた。彼がそれまでに付き合っ
た人々に対しての遠慮のない批判が時には悪口に聞こえた
こともあった。したがってコルフ先生に「そのように言う
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文 献
1) Nosé Y: Dr. Willem J. Kolff: the godfather of artificial organ
technologies (February 14, 1911-February 11, 2009). Artif
Organs 33: 389-402, 2009
2) Friedman EA, Olsen DB: Memoriam and tribute to Willem J.
“Pim”Kolf f, founder of Ar tificial Organs. ASAIO J 55:
181-91, 2009
3) Nosé Y: My life with Dr. Willem Kolff. Artif Organs 22:
969-79, 1998
4) Broers H: Inventor for life; the story of W. J. Kolff, Father of
ar tificial organs. B&V media Publisher, Kampen, the
Netherland, 2006
5) Nosé Y: The birth of the artificial heart programs in the
world: a special tribute to Tetsuzo Akutsu and Valer ÿ
Shumakov. Artif Organs 32: 667-83, 2008
6) ウィレム・J コルフ,能勢之彦:人工臓器に未来をみる
─神の創られしものと人のつくりしもの.三田出版会,
東京,1988
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