散歩の文化史 書 評 - 東京成徳大学・東京成徳短期大学

書 評
散歩の文化史
König, Gundrum M, (1996) Eine Kulturgeschichte des Spazierganges:
Spuren einer bürgerlichen Praktik 1780-1850. Wien : Böhlau
市 村 操 一*
近 藤 明 彦**
A Cultural History of Roaming
Soichi ICHIMURA
Akihiko KONDO
1 散歩の有名人たち
2008年、ベートーヴェン(1770-1827)の「田園交響曲」は200歳を迎えた。この交響曲を作曲した
当時のベートーヴェンの逍遥の習慣は、後に彼を自然のなかの散歩の愛好者として、あるいは開拓者
として、英国の詩人ワーズワースとともに名を残させることになった。H.J. シェンクは「ロマン主義
の精神」(1975)のなかでつぎのように述べている。
「ワーズワースにとってのイースデールの谷やグラスミア、ライダルの湖水は、ベートーヴェンに
とってはあの人里はなれたヴィーゼンタールの谷―ウィーン郊外のこんもりした林の多いハイリゲ
ンシュタットの近くの谷―であった。彼がここで何時間も歩きまわり、一方の腕に五線紙のノート
をかかえ、もう一方の手を大きく振りながら一人大声で歌っている、といった姿が目に浮かぶ」(p.
214)
ワーズワース(1770-1850)は1805年出版の『序曲』のなかで、「…毎日毎日私は、さまよい歩い
た。安んじてもの思いにふけることのできる道を」と散歩への愛を語っている(シェンク, 1975)。
彼の生涯のウォーキングの合計距離は28万km 、地球7周という推定もある(Else, 1997)。
べートーヴェンの散歩にまつわるもう一つの逸話は、ゲーテ(1749-1832)との散歩である。「詩
と音楽の二つの星の、千年に一度の出会い」とロマン・ロランが形容した、彼らの出会いは1812年の
避暑先のチェコの温泉地、テプリッツで実現した。二人は何度か一緒に散歩に出かけている。そし
*
**
Soichi ICHIMURA 臨床心理学科(Department of Clinical Psychology)
Akihiko KONDO 慶応義塾大学体育研究所(Institute of Physical Education, Keio University)
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て、いくつかの逸話が残された。
「二人が腕を組んで、いっしょにシュロツス・ガルテンを散歩していたときのこと、ちょうど向こ
うから皇族や廷臣たちが群れをなしてこちらにやってくるのが見えた。それを見て、べートーヴェン
はゲーテにこう言う。『私の腕につかまったままでいらっしゃい。あの人たちの方が私たちに道をゆ
ずるべきです。断じてわれわれの方からではありません』だがゲーテは、べートーヴエンから腕をは
ずし、帽子をぬいで道の脇にひかえた。これは、官職にある者としては当然の振る舞いといえる。
べートーヴェンの方は、両腕をぶらつかせながらまっすぐに進み、貴族たちのまん中を通りぬけな
がら、帽子の緑にちょっと手を触れただけだった。そんな彼のために貴族たちは道をあけ、皆がてい
ねいに彼に挨拶した。
一行が通り過ぎてからべートーヴェンは立ち止まって、ゲーテが道端で最敬礼をし終えてもどって
くるのを待っていた。そしてゲーテに向かって、容赦なく教訓をたれたという。
『あなたはあの連中にうやうやしくなさりすぎましたよ』と。
(青木, 2004: pp.147-148)
もう一つのよく知られた散歩の逸話は、哲学者カント(1724-1804)の散歩であろう。カントはド
イツ人だが生涯を送った場所は現在のドイツ国内ではない。当時のプロイセン(ベルリンを中心と
した王国、1871年バイエルン、ザクセンなどとドイツ帝国統一)の東部のバルト海に臨む港町、ケー
ニッヒスブルグに住んだ。現在のカリーニングラードである。この地方はバルト三国がロシアから独
立したあと、ポーランドの東海岸にロシアの飛び地となっている。
カントの生活は規則正しいもので、散歩の習慣も規則正しく行われたと伝えられている。
「カントの晩年の散歩は午後4時に出発して、1時間ほどのものであった。カントの散歩は、時間の
正確なことで有名であった。市民たちが、カントの散歩姿をみて、時計を合わせたなどと語られてい
る」(小牧, 1997:p. 116)
カントの住んだ町の位置を考えると、午後4時の散歩は冬であれあれば照明が必要であったろう。
同じ緯度のコペンハーゲンの冬至の日没は午後3時39分(理科年表)である。カントがカンテラを下
げて散歩をしたという話があったように思い出す。この規則正しい散歩が妨げられたのは、「ルソー
のエミールに読みふけったときであった」と小牧(1997)は紹介している(p. 117)。
J-J. ルソー(1712-1778)もパリ郊外の散歩で名を残している。最晩年まで書き続けられた「孤独な
散歩者の夢想」(1778年の死後公刊)は近代の散歩文献の嚆矢(こうし)とも考えられる。
2 散歩の文化史
上記のような断片的にわれわれの記憶に残っている散歩の逸話をあらためて振り返ってみると、18
世紀後半から19世紀前半にまたがっていることに気づく。そのような漠然とした散歩の歴史のイメー
ジに明確な形を与えてくれる歴史書が1996年にウィーンで出版された。
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bürgerlichen Praktik 1780-1850. Wien : Böhlau
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散歩の文化史
この書名は、ケーニッヒ, G.M. 「散歩の文化史:1780-1850年の市民の実践の足跡」とでも訳すこ
とができよう。
この本は、散歩についてのエッセイではなく、文化史双書のなかの1冊として出版された、純然た
る研究書である。著者はチュービンゲン大学で実証的文化科学と社会学を学んでいる。この本の出版
された年にはチュービンゲン大学やフォルツハイムの高等専門学校の講師を務めている。
本書のあつかっている年代は、この書評の前節の「散歩の有名人たち」で取り上げたいくつかの逸
話の年代とほぼ重なっている。その中で、著者は現代のわれわれの散歩につながる散歩の実践法(歩
き方)が、この時代に形成されていった過程とその意味を、歴史学的に、社会学的に確かめようとし
ている。
現代のウォーキングの源泉ともなっているヨーロッパ近代の散歩を中心テーマとした歴史書は、わ
が国ではまだ出版されていない。また、本書評の対象のケーニッヒの「散歩の文化史」は、NACSIS
Webcat (国立情報学研究所の検索サイト)で探すかぎりでは、日本の大学図書館で保有していると
ころはないようである。つまり、われわれにとっては、日常親しんでいる散歩の、その歴史的社会的
発展の過程は十分には知られていないのではないかと考えられる。
上記のような状況を考え、この書評では、本書の内容の紹介と解説に力点をおいて、その上でいく
つかの論評を行うことにしたい。本書の扱っている年代(1780-1850)のドイツ、さらにはヨーロッ
パ全体を概観するならば、大きな歴史的変動が見られる。1789年のフランス革命、産業革命の進行な
どはよく知られた出来事であるが、1806年のナポレオンによるプロイセンの敗北とか、それに続く
「神聖ローマ帝国の崩壊」とか、「ライン連盟の結成」などというできごとになると、われわれには
なじみの薄い出来事である。しかし、ドイツ人を読者に想定して書かれた本書は、そのような出来事
は誰でもが知っていることという前提で書かれている。地誌についても同様である。そこで、本書評
では、そのような知識を補足しながら本書の内容を紹介することにしたい。大部の研究書であるの
で、今回の書評では本書全体を説明している序章「一見ささいな事としての散歩」(pp. 11-22)を取
り上げることにする。
3 序章「一見ささいな事としての散歩」
原著の表題は“En passant: Der Spaziergang als scheinbare Marginalie”となっている。先頭はフ
ランス語で「ついでに、通りすがりに」という意味である。そのあとの部分は、ドイツ語に寄り添っ
て訳せば「みたところ周辺的な瑣末事としての散歩」ということになろう。この表題のつけ方のなか
には、「実は、散歩は、文化の重要なエレメントなのですよ」というメッセージが暗示されている。
まず冒頭に、日記に記された散歩の記録が紹介される。
3-1 【1811年の散歩の日記】
「1811年5月12目、日曜の朝のこと、ハイルブロン(1)を訪れたルードヴィヒ・ウーラントは友
達2人と連れだって街の並木道に散歩に出かけた。彼らはのんびりとくつろぎ、ナイチンゲールの歌
に耳を傾け、多くの顔見知りとすれ違った。午後になると、3人は街から歩いて半時間のところにあ
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る、緑と散策路に囲まれたレストハウス『狩人亭』まで足を伸ばした。彼らは丘の頂まで登り、そこ
からの眺望を楽しんだ。ウーラントは日記にいろいろ散歩のことを書いているが、……出かけるのは
ほぼ毎日。独りの時もあれば、友達と一緒の時もある。詩を詠みながらの時もあれば、考えに耽りな
がらの時もあり、モミ林で本を読みながらの時もある。日記の中でウーラントは、周囲の景観に触れ
た自分を捉えた感情や思考を反芻した。散歩の連れと交わした会話も記録した。……(2)
ベルリンの医者ルードヴィヒ・ハイムは、ウーラントより20年以上も前に同様の散歩記録を残して
おり、一度ならずティアガルテン(3)で日没を満喫している。両者の日記帳は当時の散歩のあり方
をうかがわせるもので、注目に値する」(p. 11)
(1)Heilbronn: ドイツの南西部のバーデン=ヴュルテンブルグ州の町。シュツットガルトの北方
約30km。シュヴァルツバルト(黒い森地帯)につながる丘陵に囲まれ、ネッカー川に臨む。
1811年当時、すでに神聖ローマ帝国は1806年に崩壊しており、ヴュルテンブルグ王国は「ラ
イン連盟」に加わっている(木村, 2000 : pp.104-107)。
(2)これと同じような自然のなかの散歩の情景を国木田独歩が「天晴れ、風清く、露冷ややかな
り。満目黄葉の中緑樹を雑ゆ、小鳥梢に囀ず。一路人影なし。独り歩み黙思口吟し、足にま
かせて近郊をめぐる」というように『武蔵野』に記すのは、1901年(明治34年)である。
(3)Tiergarten: 動物の園という意味であるが、ここではベルリン市の中央に広がる森林公園の名
称。東北の外れにブランデンブルグ門がある。
ここに紹介された約200年前の散歩の情景は、現在のわれわれの散歩と変わるところはないようで
ある。あるいは、過密な都市生活のなかでこのような散歩ができなくなった現代人が、本来の散歩の
姿として憧れる散歩であるともいえよう。
しかし、「散歩の文化史」の著者ケーニッヒは「このような散歩は200年前に始まったにすぎな
い」と散歩の近代性を指摘する。
3-2 【現代人の散歩の起源はほぼ200年前】
「(現代の)われわれが今日的な意味で散歩を始めたのはそう昔のことではない。散歩の習慣が根
づいてかれこれ200年ほど経つが、当初散歩は食後の消化促進に推奨されていた。『食後、立ったま
までいるか、1000歩あるくべし』という標語があった。この標語以外にも、われわれはご馳走を食べ
た後どのように行動すべきかについて、似たような教訓をきっと聞かされていることだろう。こうし
た散歩のあり方に、いつ変化が現れたのか見定めるのは難しい。幾つかの証拠資料から、散歩が今か
ら200年より更に前にあったと推測できるが、その習慣がその後も続いたかどうかは分からない。古
代ギリシャのペリパトス学派(4)の逍遥や、17世紀の都市富裕階級のぶらぶら歩きなど、散歩らし
き習慣があったことは確かだが、散歩が風景を観賞することと結びあわされるのは、18世紀になって
漸く、「感受性豊かな」ルソーの信奉者たちが「自然の美」を見出してからである」(p. 12)
(4)ア リストテレスは生徒たちと散歩しながら議論をしたり、講義をしたりした。その散歩道
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(ペリパトス)にちなんで、アリストテレス学派の人たちをペリパトス学派(逍遥学派)と
いう。 健康の観点からの食後の散歩については、わが国でも、江戸時代の儒学者・貝原益軒(16301714)の『養生訓』のなかに、「食後の歩行は腹ごなしによい」と述べられている。消化促進のため
の散歩や、古代ギリシャの思索のための散歩に代わって、200年前に出現し現代に続く散歩は自然の
鑑賞と結びついていた。
自然の風景を観賞するという感性は、キリスト教という一神教の社会では、イエス・キリスト以外
に神聖なものを見ようとする汎神論的態度として退けられてきた(市村, 2000;pp.235-236)。しか
し、「ルソーの思想に影響を受けた18世紀末の、教会のなかに神を見失った人々のなかからは、自然
のなかに『崇高な神殿』を見出す人も出てくるのである。理性を重要視した啓蒙主義の時代から、感
性や個人の自我を重要視したロマン主義への変化のなかには、このような自然神秘主義の出現が含ま
れていた」(シェンク, 1975 : pp. 209-229)
つぎに、散歩の動機や、やり方が本書のテーマの時代に多様化し始めることが指摘されている。
3-3 【多様化する散歩の動機と方法】
「(自然の中の)散歩のやり方もまた変わってきた。貴族の紳士淑女がイギリス式庭園を優雅に散
策している間に(5)、市民の徒歩旅行者はせっせと学術的ウォーキングに精を出し、18世紀最後の
30年間にアルプス山脈はくまなく踏破された(6)。こうした新しい行動様式の根底には、18世紀後
期の科学的・学術的な進歩に伴う人々の自然観の変化があり、それは市民階層の自然思想家や感受性
溢れる自然愛好者の登場を先取りしていた」(p. 12)
(5)イギリス式庭園: 幾何学的に美しく区画された庭園をフランス式とすると、イギリス式庭
園は自然のままの景観を利用した、あるいは自然らしく見せようとした庭園。
(6)こ の時代にはアルプス山脈は多くの登山者を引き付けるようになる。ワーズワースは1800
年、英国からスイスアルプスへの徒歩旅行を行っている。シェンクはこの徒歩旅行は「前例
をみないほどの規模に及んでいた」(p.211)と書いている。マッターホルンの初登頂は英国
人ウインパーによって、1865年になされている。ウインパーによる「アルプス登攀記」には
綿密な自然・人文地理的観察が記録されており、登山者もドイツやイタリ―からも集まって
いる様子がうかがえる(ウインパー, 1987)。
「天侯や季節に応じて、朝昼晩を問わず戸外でくつろぎを求めて散策するのは、市民階層の暇つぶ
しだった。この暇つぶしの散歩は、18世紀末期から19世紀初頭にかけて、『自然』の中にはっきりそ
の足跡を残していった。だが当時散歩は、自然を楽しみながらリフレッシュするためのウォーキング
だけではなく、同時に公共施設のプロムナード、市の門、市壁の上、自宅に面した小道、程度の差こ
そあれ人工的に手入れされた自然といった場所でも行われた。つまり散歩をすることは杜交上の必要
性を充たすことでもあり、友人知人の様子、政治談議、流行調査、ゴシップといった知る必要のある
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情報が『ぶらりと出かける』だけで手に入ったわけである」(p. 12)
本論の初めに示した、ゲーテとベートーヴェンと、彼らと出会った人たちの散歩もこのような散歩
であったのだろう。
3-4 【市民の憧れの地としての自然】
歩くということが、苦労なことでもなく、煩わしいことでもなく、卑しいことでもなく、市民の愛
好する習慣になっていった契機をケーニッヒはつぎのように書いている。
「乗合馬車や輿(こし)で移動するのではなく、自らの足で歩くことの動機には民主主義的な動機
があった。つまり、市民(7)に要請された平等という理念を目に見える形で現わそうとする動機で
あった。それでもなお、1800年前後にこの新しく根づいた習慣、日中人前に堂々と姿を晒してぶらぶ
ら歩き回り、市民階層としての優越意識を満足させることのできた人々は、ほんの一握りにすぎな
かった」(p. 14)
(7)本書評ではドイツ語の(bürger=ビルガー)を「市民」と訳した。(bürger)という言葉を
「独仏辞典」で引くと(bourgeois=ブルジョワ)であり、「独英辞典」で引くと(citizen,
townsman, bourgeois)とある。小学館「独和大辞典」では(プロレタリア=無産階級に対
しての中産階級、貴族・僧侶に対する[都]市民・平民)と説明がある。王宮や貴族の館の音
楽会には招かれなくとも、ベートーヴェンの予約演奏会なら自分でチケットを買って聴きに
行けた人たち、イタリアオペラのイタリア語は理解できなくとも、モーツアルトの「魔笛」
(1791年作曲)のドイツ語なら楽しめた人たち、と考えてよいだろう。
ここでわれわれが思い起こさなければならないことは、1789年に始まったフランス革命である。こ
の革命を支えた「自由・平等・博愛」の共和思想はヨーロッパ全体の封建制をゆるがせた。1806年に
イェナでプロイセンがナポレオンに敗れると、共和思想はドイツ諸国に大きな影響をあたえた。馬車
を捨てて自分の足であるくということが、新しい思想の実践の象徴的行動と感じられたのであろう。
現代の知識人の一部が環境意識の実践の一つの象徴として大型車から軽自動車に乗りかえるのに似た
行動として、都市の散歩が行われたのかも知れない。
散歩のもう一つの契機としてあげられているのが「自然への憧れ」である。そのことをケーニッヒ
はつぎのように書いている。
「教養市民(8)や有産市民(9)は、自分の生業と自然が隔てられており、自然に対する憧れの気
持ちが高まった。それは自然が彼らの存在から失われて既に久しかったからである。自然の景観を眺
め楽しむためには、彼ら有産市民が世界との一体感をなくし、それと同時に自然との一体感を失うこ
とが前提条件となるのである。ヨアヒム・リッターは『代償理論』によって、この喪失感情を分析的
に読み解こうとした。つまり、自然との直接のつながりを失うことで、初めて自然を美的に観察する
ことは可能になるばかりか、必要にもなるというのである。人間の自然支配が拡大するにつれ、自然
に対する感情もまた変化してきた。人間の自然との付き合いは、次第に支配-非支配の関係となり、
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散歩の文化史
切実性も危険性も失われた。自然に対して感受性を持つことや、自然の中で夢想するということは、
ドイツの市民階層に不可欠な教養理念の一部となった」(p. 15)
(8)教 養市民と訳したドイツ語は(Bildungsbürger)である。この言葉が社会階層を現わす言
葉として、歴史社会学のなかで使われるのは近年のようであり、ドイツ語辞典『ドゥーデ
ン』の見出し語として採択されるのは、1980年代。野田(1997, p. 13)が紹介している19世
紀の教養市民階層の特徴はつぎのようである。 a. 大学教育を受けていること。職業でい
えば、大学教授、ギムナジウム教授、裁判官、高級官僚、医師、弁護士、著作家、編集者、
ジャーナリスト。 b. プロテスタントであること。 c. 文化エリートであること。
教養市民階層の成立は、18世紀末ないし19世紀初頭とみられ、この時期のドイツ知識人の
間では、にわかに『教養』Bildungという言葉がもてはやされるようになった。
(9)原文では‘bourgeois’となっていて、英語のupper middleの意味に使われている。
このような自然の景観のなかでの散歩の社会心理学的動機は、現代のわれわれもが共有する動機で
あろうが、それが19世紀の初めにすでにあったのである。ただ、それを教養として捉えるかどうか
は、教養主義が後退した現在とはことなるであろう。現代の散歩はむしろ医科学的で実利的な動機で
行われることが多い。
3-5 【新しい地平線の発見】
この時代の散歩では、人々は高い所から周囲の景観を観賞することを好むようになる、という指摘
がある。現代人も同じような好みを持っているが、19世紀初頭の散歩者たちには、特別の動機があっ
たようである。その議論に関する部分を下に抜粋する。
「自然を楽しむ気持ちは、景観を賛美する表現によく現れた。美しい景観を旅した旅行記を読む
と、そこには必ずといっていいほど上から見下ろした描写が出てくる。伝統杜会の中で人々がとらわ
れていた狭い地平線は、高みから周囲を一望することで取り払われた。
目で景観を『支配する』という表現が当時の語彙には見られるが、その際『自然の』地平線をつぶ
さに観察するために市民たちの『武器』として用いられたのが双眼鏡であった。 ・・・・・・・・・・・
故郷を自分と同一視し、また故郷と自分の間に強い絆を感じる意識の芽生えは、歴史的・社会的に
自分がどこにいるのかという自己確認を、散歩を通して行おうとする意図を強めさせた。故郷を見出
し、慣れ親しんだ風景を歩き回ることは、1800年前後には、実は目新しいことだった。遠足やピク
ニック、ハイキング、散歩によって、身の回りの風景は認知されたのである」(p. 17)
自分の町を、周辺の小高い丘に登って見下ろして「これが私の故郷だ」と感じた経験はわれわれに
もあるだろう。そのときには、故郷の町と自分の間に一体感のようなものを感じる。
2001年の夏休みに、本論の著者の二人はドイツのウォーキングを調査する目的で、ケルン体育大学
を訪問した。われわれはケルンを出発点にしてアウトバーンを南下し、ハイデルベルグで「哲学者の
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道」を歩き、さらにヘルマン・ヘッセの生地カルプをたずね、スイスのチロル地方にある哲学者ニー
チェの夏の仕事場のシルス=マリアへドライブする計画であった。出発前に旧知のスポーツ社会学の
クワンツ教授の部屋をたずねて、「哲学者の道はいつごろできて、どの哲学者が歩いたのか、知って
いませんか」と聞いた。「詳しいことは知らないけれど、封建時代には庶民は高い所に登って自分の
住んでいる町を見下ろすことは禁止されていたのですよ。哲学者の道に行ったらハイデルベルグの町
を見下ろしてごらんなさい。防衛上の配慮から庶民はその場所を歩けなかった理由が分かりますよ」
と教授は教えてくれた。確かに、丘へ登っていく哲学者の道の途中からは、ネッカー川を越して古都
ハイデルベルグが一望に見渡せた。ケーニッヒの説明を読んで、クワンツ教授の話を思い出した。
ちなみに、「哲学者の道」がいつできたかはいまもってわからない。だが、ウィキペディアのド
イツ語版はつぎのように説明している。「この道の途中の公園のなかには詩人アイヒェンドルフ
(1788-1857)の胸像がある。土台には、このロマン派の詩人の詩が刻まれている。アイヒェンドル
フが哲学者の道をよく散歩していたことが偲ばれる。このあたりまで登ってくると、眼下にネッカー
川とハイデルベルグのアルトシュタット(旧市街)が広がる。哲学者の道を東端まで歩くと、ヘル
ダーリン(1770-1843)の肖像とこの詩人によって詠まれた『ハイデルベルグ頌歌』が刻まれた大理
石がある。
しかしながら、この道の名前の由来はこれらの詩人たちにあるのではないようで、ハイデルベルグ
大学(1386年創設、ドイツ最古の大学)の大学生たちにあるようだ。彼らは極めて早い時期に、この
道がロマンチックな散歩と、邪魔されることのない二人きりの時間を過ごすのに理想的な場所である
ことを発見していた。当時、彼らは専門科目の勉強の前に、7科目の基礎教養を勉強しなければなら
なかった。これらの7科目はまとめてPhilosophie(愛知=哲学)とよばれていた。つまり、この道
を散歩した学生たちが『哲学者』であった」
やはり、ケーニッヒの「散歩の文化史」の時期に、哲学者の道の散歩を愛した人たちがいたのであ
る。
3-5 【その他の話題】
散歩についての上記のような話題の他にも、散歩の仕方の性差や社会階層の差などの問題などが論
じられている。本書は全体としては、18世紀の後半から19世紀の前半に台頭してきた市民社会の社会
史および文化史的特徴を、散歩に焦点をおいて照らし出そうとしていると受け取れる。本書の研究の
地域はヴュルテンベルグ(10)に限定され、綿密に資料が集められている。
本書にはVeduteとよばれる当時の風景画が数多く紹介さえている。この風景画の特徴は自然およ
び都市景観のなかに人物が描かれていることであり、散歩や散歩の途中の社交の姿が描き込まれてい
て、興味深いものである。この絵画は出版社の許可を得て、時をあらためて本紀要に紹介したい。
本書評のはじめに述べたように、ケーニッヒの「散歩の文化史」は日本にはあまり見当たらない情報
を含んでいるので、これもまた時をあらためて各章ごとに紹介していきたいと考える。
(10)ヴュルテンベルグ王国はシュツットガルト、チュービンゲン、ウルムなどの都市を含むドイ
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散歩の文化史
ツ連邦の南部の王国であり、西にバーデン大公国、東にミュンヘンを中心としたバイエルン
王国があった。現在は「バーデン=ヴュルテンブルグ州」となっている。
参考文献
青木やよひ(2004). ゲーテとベートーヴェン 東京 平凡社
Else, D. (1997). Walking in Britain. London, Planet.
市村操一(2000). 誰も知らなかった英国流ウォーキングの秘密 東京 山と渓谷社
木村靖二(編)
(2006). ドイツの歴史:新ヨーロッパ中心国の軌跡 東京 有斐閣
小牧 治(1967). カント 東京 清水書院
野田宣雄(1997). ドイツ教養市民層の歴史 東京 講談社
シェンク, H. G. (1975). ロマン主義の精神 (生松敬三、塚本明子訳) 東京 みすず書房
ウインパー, E. (1986). アルプス登攀記 (浦松佐美太郎訳) 東京 岩波書店
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