森本さんの宇宙 - アルマ望遠鏡 国立天文台

森本さんの宇宙
ごあいさつ
森本さんの急逝、そして『森本さんの宇宙』の出版
海部宣男
日本の宇宙電波天文学の創設をリードし、世界初の宇宙空間 VLBI 実現、大学の活性
化や社会教育と大活躍をされた森本雅樹さんが、亡くなられました。78 歳。2010 年
11 月 16 日朝、日本フィルハーモニー演奏会の準備に訪れた鹿児島で、心筋梗塞によ
る急逝でした。いつも笑顔の「モリモトおじさん」で元気に飛び回っておられましたか
ら、誰にとっても青天の霹靂でした。
森本さんがブログで意思表明されていたこともあり、葬儀はご家族とごく身近な方に
よる密葬となりました。しかしもちろん、森本さんと働き・楽しみ・教えを受けた多く
の天文関係者や全国の森本ファンの思いは、それで済むものではありません。関係者で
ご家族と相談し、昨年 12 月 26 日、森本さんを偲ぶ 「森本さん ありがとう」 の会を、
国立天文台で開催しました。大きな会場も全国からの参加者であふれ、天才肌で破天荒、
いつも賑やかだった森本さんを、賑やかに・心をこめて送る会になりました。
この会で森本さんについての講演、語られた思い出話、集まった写真や海外からの電
報、森本さんご自身の原稿やブログ、森本さんについての過去の記録などをまとめたの
が、この『森本さんの宇宙』です。
「森本さん ありがとう」の会と同様、国立天文台
電波グループやOBが中心になって編集しました。なお森本さんの会は、森本さんが最
後まで活躍された姫路で2月6日に、そして森本さん「第二の人生」の鹿児島でも2月
20日に、賑やかに開催されました。これら3つの会の参加者を含む関係のみなさまに、
この『森本さんの宇宙』を送付させていただきます。
私は過去2回、森本さんの業績についてレビューを書きました(60 歳、65 歳の記念
出版)
。姫路での古稀の会では、
「古稀とは、古来まれなり、ということであります。し
かし森本さんは、70 歳になんかならなくたって、
“古来まれな人”なんであります!」
と挨拶し、満場大喝采でした。 3回目のレビューがこうした形になり、傘寿のお祝いの
会ももうないことになろうとは、思いもよらぬことでした。しかし森本さんほどに自ら
楽しく充実した人生を送られた方は、あまりないだろうと思うのです。真っ先に追悼文
を依頼された雑誌『星ナビ』に、そうした思いを書きました。
「ごあいさつ」の続きと
して、次ページに掲載させていただきます。
なお森本さんは「先生」と呼ばれるのが嫌いで、ある時期から「おじさん」と称した
のは、ご存じのとおりです。教授だろうと「さん」で呼ぶのは、電波グループの文化で
した。だからこの出版でも、
「森本さん」です。
2011 年 3 月 海部宣男(
「森本さん ありがとう」の会呼びかけ人代表)
2
★このページは『月刊星ナビ』2011 年 1 月号から転載
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森本さんの思い出アルバム
幼少期~青年期
▲広島高師附属小 3 年生 (?) 兄と弟と
▲昭和 9 年 10 月 13 日 2 歳 5 カ月
両親、兄、弟と ヤンチャの面影あり
▶国民学校 5 年生 (?)
上野動物園で母親と
弟二人と
▲新宿高校の友達と 高 3(昭和 25 年)
野辺山へ一泊旅行
▶東京大学 4 年 昭和 29 年 6 月
産まれた山羊の子と
◀東京大学 3 年
昭和 28 年 6 月 18 日
兄弟 4 人
4
1955 年〜 1968 年
▲ 1956 年春休み 三浦半島 城ヶ島にて
左から 森本さん,齋藤 努さん,
西村史朗さん
▲ 1955 年夏 西伊豆 戸田行き船上にて
左から 森本さん,角田忠一さん,
松波直幸さん ( 故人 ),牧田 貢さん
▲オーストラリア時代
▲ 1965 年 CSIRO 新年記念撮影
森本さん(第 2 列、右から 4 人目)と樋口さん(第 2 列、左から 2 人目)
▼ 1968 年夏 木更津海岸にて
細かったんですね!
▲ 1966 年 12 月 3 日榛名山頂にて
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森本さんの思い出アルバム
1970 年〜 1983 年
▲ 6m ミリ波望遠鏡建設に向けた打ち合わせ
赤羽さん,長根さん,法月さん、森本さん
▲ 1970 年頃 ?
観測所候補地のノイズ調査実施中
▲ 1972 年 8 月 26 日 三鷹 ミリ波にて
センパイ西野氏に謝っている ?
森本さんお気に入りの 1 枚
▲ 1974 年 三鷹 6m ミリ波望遠鏡前にて
▼ 1977 年 修善寺に旅行
ポンチョに注目
6
▲ 1983 年 10 月 28 日天文台記念日
女子職員に囲まれた森本さん
1985 年~ 1987 年
▲ 1985 年 ? 宴会ダンス中
▲ 1985 年 Herzberg 先生 野辺山来訪
▲ 1985 年 11 月 23 日 野辺山公開日
▲ 1986 年 6 月 向井研の訪問
▲ 1986 年 野辺山 VLBI グループ
▲ 1987 年 6 月 6 日 東大職員卓球大会
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森本さんの思い出アルバム
1988 年~ 1993 年 3 月
▲ 1988 年 5 月 17 日天文学会
毎日受付(の女の子のそば)に居た
▲ 1989 年 4 月 5 日
天文台・三鷹で古在さんと
▲ 1991 年 8 月 10/11 日
岩手県 住田町 種山が原
▲ 1992 年 9 月 23 日 野辺山公開日
モリモトマサキ 野外講演
▲ 1993 年 3 月 9 日定年お祝いの会にて
◀ 1993 年 3 月 9 日
溝原婦人手編みのセーターを試着
8
1993 年~ 1997 年
▲ 1993 年 3 月 9 日定年お祝いの会にて
▲ 1993 年 鹿児島 6m アンテナ
若い学生を久しぶりに指導
学生も真剣に教わります
▲ 1995 年 8 月 12/13 日
岩手県 住田町 種山が原
お酒を飲むとこんな風に寝ていました
▲ 1993 年 6 月 11 日東京會舘にて
▲ 1994 年 8 月 6/7 日
岩手県 住田町 種山が原
子供達に楽しく講義
▲ 1997 年 8 月 9/10 日
岩手県 住田町 種山が原 ウチュウという字を発明
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森本さんの思い出アルバム
1999 年~ 2003 年
◀ 1999 年 8 月
岩手県 住田町
種山が原
▲ 2000 年 11 月 25 日
連星研究会@ダイニックアストロパーク
▲ 2002 年 4 月 27 日 Spring 8で講演
▼ 2003 年 8 月 2 日 原村
おいしいよ!
▲ 2001 年 5 月 5 日 自宅でパーティ
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▲ 2002 年 5 月 12 日 古希のパーティで
2003 年~ 2008 年
◀ 2003 年 10 月 18 日
NRO 歴代所長の写真を
撮りました
▶ 2004 年 8 月 7 日 原村
マザーテレサに扮した ?
▲ 2006 年 11 月 5 日
黒田さんの還暦記念パーティで
▲ 2007 年 9 月 1 日
清里スターフェスティバルで
▲ 2007 年 8 月 17 日
天文台マダムと
▲ 2008 年 ? 姫路のカラオケ屋さんで
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森本さんの思い出アルバム
2008 年~ 2010 年 5 月
▲ 2008 年 6 月~ 7 月 ペルーにて
▲ 2008 年 6 月 30 日 ペルー
イシツカご夫妻と
▲ 2009 年 7 月 20 日
皆既日食観測会の出発時
▲ 2008 年 7 月 クスコ近郊
サクサイワマン遺跡
▲ 2010 年 3 月 9 日
世界天文年締めくくり委員会
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▲ 2010 年 5 月 9 日
西はりま天文台にて
2010 年 8 月~
▲ 2010 年 8 月 6 日
なぜかみんな目をつぶっています
▲ 2010 年 10 月 9 日
岡山天体物理観測所開所 50 周年記念祝賀会にて
▲ 2010 年 9 月徳島での講演ポスター
▲ 2010 年 10 月 17 日
この後、森本さんは姫路に行きました
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おじさんのブログをピックアップ
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おじさんのブログをピックアップ
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◆ごあいさつ
森本さんの急逝、そして『森本さんの宇宙』の出版
星ナビ追悼記事
◆森本さんの思い出アルバム
おじさんのブログをピックアップ
◆森本さんの仕事
海部宣男 ………… 2
…………………… 3
…………………… 4
…………………… 14
森本さんの夢(雑誌『自然』の森本さんの記事から抜粋と解説)
◆森本さんの思い出 海部宣男 ………… 32
森本さんの天文学:宇宙電波の開拓
森本さんの VLBI:ぶら下がりから自前に
「望遠鏡をつくる人びと」に志願して
森本先生鹿児島奮闘記
森本さんの天文楽∼兵庫での活躍を中心に∼
◆森本さんの夢
海部宣男
井上 允
近田義広
面高俊宏
黒田武彦
………… 20
………… 22
………… 24
………… 26
………… 28
マーキーとさっちゃんの深い関係
小松左京 ………… 44
先生との初対面
明珍宗理 ………… 45
永遠に輝き続ける森本先生
齊藤律子 ………… 45
エネルギッシュな森本さん
佐藤文隆 ………… 47
朝日新聞に書いた2本の記事を捧げます
高橋真理子 ……… 48
科学記者として、高校の後輩として
青野由利 ………… 49
三菱電機トップへ二度直談判をされた先生
塚田憲三 ………… 50
森本先生のこと 青柳武矩・阿部安宏…………… 51
森本雅樹さんの宇宙
小坂義裕 ………… 52
「来るものは拒まず、去るものは追う」森本おじさんのこと 長根 潔 ………… 53
森本さんありがとう
田原博人 ………… 54
名優だった森本さん
平林 久 ………… 55
野辺山時代の思い出
石黒正人 ………… 56
森本さんと私の電波天文そぞろ歩き
宮澤敬輔 ………… 57
言い尽くせない「ありがとう」を森本先生に
川合登巳雄 ……… 58
「科学とりもの帖」、幕府天文方と森本さん
伊藤節子 ………… 59
森本さんの格闘技
笹尾哲夫 ………… 59
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背中を見て学んだ森本さん
「思考実験大成功」から 36 年
森本さんといた宇宙
森本先生の思い出
偉大な「おじさん」
顔が映ればいいんだよ
森本先生の思い出
森本先生に捧ぐ
鹿児島大学での思い出
笑顔をありがとう
森本雅樹さんの宇宙
森本星まで届け! 日本フィルサウンド
星に帰った森本雅樹を偲ぶ
シドニー時代の思い出
また会うときがあるカナ?
森本さんと天文台職組
金婚祝あちこち
雅樹の子供のころ
鹿児島に、日本フィルに元気をありがとう
森本さんを偲ぶ
◆世界の友人から森本さんへ
インド̶TATA 研究所
アメリカ̶国立電波天文台
アメリカ̶国立電波天文台
資料 1
◆森本さんの 3 つの天文人生 中井直正 ……………… 60
稲谷順司 ……………… 61
宮地竹史 ……………… 61
斎藤新代 ……………… 62
前野将太 ……………… 63
奥田治之 ……………… 63
藤原晴美 ……………… 65
中村昌和 ……………… 65
須藤広志 ……………… 66
時政典孝 ……………… 67
多田欣一 ……………… 68
賀澤美和 ……………… 69
和田英一 ……………… 70
樋口敬二 ……………… 71
齊藤修二 ……………… 72
齊藤 衛 ……………… 73
森本せつ ……………… 74
森本治樹 ……………… 75
二反田信一 …………… 76
石塚 睦 ……………… 77
平林 久 ……………… 78
Pr. Govind Swarup …… 78
Dr. Ken Kellermann …… 79
Dr. W. M. Goss ………… 80
電波天文学を拓いて 40 年(森本雅樹先生還暦・退官記念アルバム)………………… 82
6m 電波望遠鏡と宇宙電波天文学の未来(鹿児島大学退官シンポジウム集録から) …… 99
おじさんは宇宙人 ある天文学者の 70 年(おじさんの古希を祝う会)………… 113
資料 2
◆森本さんの記録 ◆森本おじさんの足跡
近田義広 …………… 131
……………………… 143
森本さんの仕事
◆森本さんの仕事
森本さんの天文学:宇宙電波の開拓
海部宣男
「森本さん ありがとう」の会(国立天文台)での私の講演を基に、森本さんの
仕事のうち、初期の宇宙電波天文学開拓を中心にまとめます。
森本さんは中学・高校時代から、電波少年・天文少年として有名を馳せまし
た。1957 年に東京大学院天文学専攻修士課程を修了、翌年同大学東京天文台助手。
時まさに、電波天文学の世界的創設期にあたります。森本さんは 200 MHz 電波
干渉計に取り組み、太陽の電波バーストの高さを観測して 1960 ~ 61 年に次々論
文を発表しました。1962 年から 2 年間オーストラリアの電波物理学研究所に留
学し、大型太陽電波干渉計「電波ヘリオグラフ」の建設で伝説に残る活躍をされ
ました。電波干渉計による天文学は、その後の野辺山ミリ波干渉計や VLBI など、
森本さんの一貫したテーマになっています。
この 1960 年代、世界では大型の宇宙電波望遠鏡が続々と登場して、電波銀河
やクエーサー、宇宙背景放射、パルサー、星間分子などの大発見が相次ぎました。
日本では畑中武夫教授のもとで、赤羽賢司さんと帰国後の森本さんが宇宙電波天
文の創設に取り組みました。大宇宙電波望遠鏡の計画も日本学術会議の場で検討
されましたが、畑中教授の急逝(1963 年)もあり停滞してしまいます。森本さ
んたちは窮余の策で、郵政省電波研究所などの宇宙通信用パラボラによる「間借
り電波観測」で研究を続けました。筆者はそうして修士論文を書いた「若手第一
号」であり、森本さんの苦闘を知る世代です。
1968 年、赤羽さん・森本さんは東レ研究助成金などで口径 6 mミリ波望遠鏡
の建設を開始。電波で波長が最も短いミリ波は未開拓な領域で、波長が短いため
高い鏡面精度が要求されるいっぽう、比較的小口径でも勝負できるところが、貧
乏だった日本の天文学には利点でした。ミリ波という新しさを目指したことが、
大きな展開につながります。1968 年、宇宙におけるアンモニア NH3、水蒸気
H2O という多原子分子のセンチ波スペクトル線がアメリカで発見され、つづいて
有機分子ホルムアルデヒド H2CO が発見されたのです。宇宙には光で見えない低
温の雲があり、多様な分子ガスを含むらしい。分子のスペクトル線が豊富なミリ
波帯で宇宙の低温度の分子ガスを観測すれば、可視光の観測では見えなかった星
間物質や恒星・惑星の形成過程が見えてくる可能性が高い。そこですぐ、6 mミ
リ波望遠鏡の主目標は星間分子観測に切り替えられました。受信機や電波分光計
を急きょ制作し、1972 年には新しい星間分子を発見。日本の宇宙電波は、6 mミ
リ波望遠鏡でミリ波天文学開拓の第一線に加わることができたのです。
20
▶森本さんと私は、『ミリ波天文
学の開拓』で 1987 年の仁科記念
賞を受賞。記念に故鈴木博子さん
が撮ってくれた写真です。背景は
野辺山 45m 電波望遠鏡。
この成果を足場に、宇宙電波大型計画もミリ波観測可能な 45m 電波望遠鏡と
いう、野心的な計画へ飛躍しました。森本さんが持ちこんだ大口径で高精度の鏡
面を実現するホモロガス変形法の構想と、星間分子分光学の開拓という目標は広
い支持を得て 1970 年に日本学術会議が実現を勧告し、計画が走り始めます。森
本さんと私がこの時提案した「宇宙電波懇談会」は、天文で初の自主的研究者組
織でした。後に光赤外、理論、太陽物理など天文学の全分野で同様な研究者組織
が生まれ、盛んな将来計画等の議論の場になりました。森本さんはミリ波技術を
求めて技術者・工学者と交流を拡げ、科学雑誌に最先端の紹介記事や報告を書い
て電波天文学の面白さを伝えました。大型計画の実現に森本さんの活動が果たし
た役割は、絶大でした。雑誌『自然』には 1960 年から 80 年までの「5年ごとの
3回シリーズ」など 30 回近く寄稿しています。これについては、
「森本さんの夢」
で触れたいと思います。
45m ミリ波望遠鏡+ 10m 5 素子ミリ波干渉計を備えた野辺山宇宙電波観測所
が東京大学東京天文台の共同利用施設として完成したのは、1982 年。基礎科学
最大のプロジェクトで、時間はかかりました。しかし日本は一気に星間物質・星
形成・銀河などの観測の第一線に立って世界的に注目を集め、後のすばる望遠鏡
の実現やアルマの日米欧共同建設への出発点となりました。
森本さんはかねて VLBI(超長距離電波干渉計)に関心を寄せ、短波長 VLBI に
よる天文観測に進んで世界初の宇宙空間 VLBI(VSOP)を成功させますが、それ
は鹿児島大学、姫路での活躍と併せて、後の講演に譲ります。
森本さんは、私には「よき先達」でした。科学は「新しいことを」
「自分の手
で」「楽しく」やる、ということを、その活動から(お酒も含めて)学びました。
各地で森本さんに接した多くの若い人々も、同様だろうと思うのです。
森本さんらしい人生を走り抜けた森本さん。次は天国で一杯やりましょう。
21
◆森本さんの仕事
森本さんの VLBI:ぶら下がりから自前に
井上 允
1.はじめに
VLBI(Very Long Baseline Interferometry;超長基線干渉計)は電波望遠鏡
の一種で、世界各地の電波望遠鏡を結んで構成します。森本さんは野辺山の 45m
電波望遠鏡の建設直後、すぐさまこれを VLBI の一素子として使うべく、活動を
始めました。我が国で彼を中心に VLBI がどのように発展してきたか、簡単に記
してみます。なおサブタイトルは彼が 1980 年に雑誌「自然」に、日本の VLBI
について述べた言葉です。
2.当時の VLBI の状況と森本さん
森本さんが 1960 年代初め、東京天文台(当時)で最初に手がけた観測は、干
渉計で太陽バーストの位置を細かく決めるものでした。干渉計は細かい天体の構
造を観測する装置で、VLBI はその性能を最大限に発揮すべく 1960 年代末に考案
されました。
1970 年代には米欧で VLBI 観測が大きく進展しました。しかしその時期は、東
京天文台の宇宙電波グループを中心に、野辺山宇宙電波観測所の建設に邁進した
時期で、彼は特に 45m 望遠鏡の設計・建設に全精力を注ぎました。森本さんと
いえば、野辺山、特に 45m 鏡建設への大きな貢献が思い出されますが、その後
VLBI の立ち上げをリードします。彼は干渉計の人だったのです。
3.野辺山の VLBI から世界へ
時期について正確な記憶は無いのですが、45m 鏡完成の前後から、彼は VLBI
システムの導入に積極的に動き出します。前述のように欧米の間では VLBI 観測
が精力的に行われていましたが、アジアには参加出来る望遠鏡が有りません。地
理的にも欧米各国が 45m 鏡との VLBI 観測に大きな興味を示すのは当然です。特
にミリ波 VLBI は、当時の VLBI にとって挑戦的な課題で、大口径の 45m 鏡に
寄せる各国の期待は多大なものでした。森本さんはこの期待を受けて、世界の
VLBI に参入したのです。
とも角、1980 年代中頃の VLBI 観測最先端であった高周波数、22、43 GHz で
世界の VLBI 観測網に参入し、さらに 86 GHz 観測では中心的な役割を果たして、
45m 鏡 VLBI 観測の威力を世界に示しました。
22
このような時期、VLBI を宇宙に広げる、スペース VLBI で画期的な進展が2件
有りました。時の宇宙研所長、小田氏が日本でのスペース VLBI の可能性の相談
を野辺山に持ちかけ、計画遂行のため平林氏が宇宙研に異動し、1997 年、世界
初のスペース VLBI 衛星打上げの実現となりました。また 1886 年、米国のデー
タリレー衛星を利用したスペース VLBI 観測実験は、その実現可能性を実証した、
歴史的なものでした。これは宇宙研、野辺山および通信総合研究所の VLBI グルー
プが米国などと国際協力したものです。
日本が世界をリードして進めたスペース VLBI、VSOP は、多くの興味ある成果
を生み出しただけではなく、
「工学と理学の粋を結集して地球より大きな望遠鏡を
実現した」として国際宇宙航行アカデミーから栄えある授賞に浴しました。
VSOP は、自前と言うより、さらに進んで世界をリードした、と言っても過言
ではありません。しかし彼は自前計画も着々と進めました。通信総合研究所鹿島
と 45m 鏡との間で KNIFE(Kashima-Nobeyama Interferometer)と名付けた、
43 GHz 観測システムです。SiO メーザー放射をする天体の、2本のスペクトル
線を同時に受信するもので、他では不可能な観測でした。これにより彼の東大教
官最後の指導学生三好氏が、我が国最初の VLBI 観測による博士号を取得しました。
さらに国内 VLBI 網の基礎として、VERA 建設に大きな貢献をしました。測地
や位置天文学への VLBI の有効性を早くから気付き、VERA 建設を強く応援して
いました。これは国立天文台退職後も続き、VERA の特長である2ビームシステ
ムの検討などに、元三菱電機の別段氏などと参加されました。
4.おわりに
彼は他人が多少でも出来る事は、あっさり他人に任せて、自分しか出来ないこ
とを起こすタイプでした。彼にとっては歯がゆい事も多々あったと思いますが、
「自前」の日本列島 VLBI 網は韓国や中国を巻き込んで、現在東アジア VLBI 網
にまで発展しました。しかしこれもまだ 1980 年の彼の手の内のような気がしま
す。さらに彼の「木星軌道までスペース VLBI やれば、宇宙の大きさを直接測れ
るよ!」は、もうちょっと先の、天文学者の大きな夢です。
VLBI に大きな夢を与え、その魅力で多くの後輩を引きつけて頂きました。ど
うもありがとうございます。
(台湾 中央研究院天文及天文物理研究所)
23
◆森本さんの仕事
「望遠鏡をつくる人びと」に志願して
近田義広
『志願して』などと言いましたが、実態は『拾って頂いた』であった修士課程の
頃、森本さんのいた宇宙電波に参加しました。
森本さんの功績は、何よりも『森本さんという存在そのものが功績だった』と
いえると思います。
『望遠鏡は作るものだ。新しい望遠鏡を作ってまだ見てないも
のを見たい』という揺るぎない信念を持って、生きられました。そのことによっ
て、たくさんの人たちが励まされ、前に進むことが出来たと思いますし、私もそ
の一人です。
私が装置関係の研究をしてきたことから、そちら側から森本さんを見てみなさ
いと言うのが、会を組織された方々のご意向のようで、以下その方向から見てい
きます。
森本さんの装置関連の論文は、共著含む原著論文が 64 編中 16 編、その他論文
が 72 編中 37 編です。内、Culgoora Radioheliograph 関係が 5 編、三鷹 6m 鏡
関係 2 編、野辺山観測所関係 10 編、VLBI 関係 15 編です。その順に森本さんの
足跡を見ていきましょう。
Culgoora Radioheliograph 時代、森本さんによれば『オーストラリア』時代、
森本さんは、太陽電波観測干渉計の各アンテナからの信号の移相量を変えて干渉
計が見ている方向を変えるシステムの製作に腕をふるったようです。オーストラ
リアに行く前の経験が森本さんの『立ち上げ原体験』だったとの海部さんの話が
直前にありましたが、このオーストラリアでの体験も『立ち上げ原体験』の一部
だったのではと私は思っています。
続く三鷹 6m 鏡時代から、私も参加しました。ミニコンで電磁リレーを介して、
アンテナ駆動モーターを On/Off してアンテナの向きを変える制御システムでした。
どなたがこのシステムを考え出されたのか新参者の私には分かりませんでしたが、
森本さんが研究室の雰囲気をリードされていたのはたしかです。声もあらゆる意
味で大きく、敵も多かった。右も左も分からぬ私が修士課程だった頃、学会の昼
食の時間に赤羽先生について行ったら、
『森本を外せ』と談じ込みに現れた某先生
がいて、仰天させられました。
この三鷹 6m 鏡が次の時代を開いていきました。野辺山の電波望遠鏡の準備が
それです。森本さんは「人を口説いて、人にやらせる」のに長けた方でした。た
とえ不安があっても、任せる、というか人が足りないので任せざるを得ないと言
う状況でしたが、任せた人のフォロウはちゃんとされていました。
24
私が任せて頂いた分野は計算機と相関器(干渉計受信信号の信号解析器)でし
た。相関器は私が、広帯域かつ高分解能の同時実現を目指した、これまでにない
新しい方式、計算する機械という方式で作ろうと言い出したために、引き受けて
くれるメーカー探しが大変でした。平林さんや石黒さんとともに、あらゆるつて
をたどりました。要所では、森本さんにも来てもらって、
『ヒト口説き』の神髄を
発揮してもらったのですが、それでもなかなか。でも最後に富士通さんに引き受
けて頂くことになりました。
その様に野辺山の準備と建設が進んでいったある日、近田は「森本さんのやっ
ていることは虚業だ」と面と向かって言いました。
『虚業』という言葉に「森本
さんは実際の装置には手を出さず、人たらしばかりやっている」と言う意味を込
めて森本さんを非難したのです。森本さんはこのことを覚えていて、折に触れて
「近田にこんなことを言われたよ」とおっしゃっていました。でも、今になって、
最初にも言ったように、人たらしこそが、森本さんの功績であったことがよく分
かってきました。
「望遠鏡は作るものだ。新しい望遠鏡を作ってまだ見てないものを見たい」と言
う森本さんの信念は私の信念にもなりました。相関器を『計算する機械』として
作った経験は、『計算機も作るものだ』となって、
『多数の天体間の重力を計算す
る機械』—のちに GRAPE と呼ばれることになる機械を提案することに結びつ
きました。この GRAPE project で開発された機械は何回も Gordon Bell 賞を受
けました。最近でも平木敬 ( 東京大学 ) さん、牧野淳一郎(国立天文台)さんた
ちの GRAPE DR と言う機械が 2010 年 12 月 22 日に、1 ワット当たりの演算量
を競うスーパーコンピュータの The Green 500 List で世界 2 位になる快挙を挙
げました。
『望遠鏡は作るものだ』は、これからもたくさんの人たちにいろいろな形で受け
継がれていくでしょう。
25
◆森本さんの仕事
森本先生鹿児島奮闘記
面高俊宏
1989 年水沢観測センターに直径 10 mの電波望遠鏡を新設し、野辺山 45m 電波望
遠鏡、郵政省鹿嶋宇宙通信センターの 34m 電波望遠鏡とネットワークを組んで直径
500km の望遠鏡を作る計画が進んでいた。私は 1990 年 1 月水沢観測所で開催された
“ 次世代 VLBI ワークショップ ” に乗り込み、「水沢だけでなく鹿児島に電波望遠鏡を
作ったら直径 1,306km、日本列島サイズの大きな電波望遠鏡が出来ます。皆さん、協
力してください」と訴えた。この訴えに野辺山宇宙電波グループが支援に乗り出し、野
辺山観測所の年齢 23 歳の中古アンテナである6m電波望遠鏡を鹿児島に移設する計画
がまとまった。森本先生が鹿児島大学に赴任される2年前、1991 年 4 月のことである。
しかし鹿児島大学内ではこの計画は暗礁に乗り上げていた。移設場所の問題である。農
学部は圃場の一部であっても1平方メートルたりとも貸さないと宣言した。医学部桜ケ
丘キャンパスも打診したがだめ。しかし私は以前から秘策を持っていた。鹿児島市の錦
江湾公園への移設である。鹿児島市 2 号用地で 1989 年市制百周年のイベントが開催さ
れた。鹿児島市はイベントのシンボルタワーとしてHⅡロケットの実物大模型を建てた。
高さ 49 m、これが錦江湾公園の高台の上に移設されている。高台の下のグリーンベル
トの中に6mアンテナを置くと緑にアンテナの白が映え絵になる。さっそく森本先生に
現地を見てもらい赤崎鹿児島市長を市役所に尋ねた。約束の時間は 10 分、市長室に通
され我々は計画を熱っぽく語った。まもなく秘書が来て次の来客がお待ちですと催促し
た。まだ話を聞いてもらっただけで市長との約束はできていない。全員立ち、別れの挨
拶をした、その瞬間、森本先生が「市長、このテーブルの穴は不思議ですね」。市長の
目が輝いた。
「よく気付きましたね。これは弾痕なんです。西郷隆盛が西南戦争で田原
坂から敗走し裏の城山に立てこもり最後に腹を切って死にますが、その時すさまじい銃
撃戦でした。その弾痕が残ったクスノキの大木を伐って作ったのがこのテーブルなんで
す」
。来客を待たしていることを忘れ市長は饒舌になり、最後に「事務と会って相談し
てください」
。森本先生の小さなチャンスを見逃さないしたたかさに感服した。
1992 年 9 月、コンコンと研究室の扉をノックする音。開けると一人の女性が立っ
ていた。
「山梨大学助教授の鳥養です。森本先生が昨日山梨大学の学長に選ばれました。
先生に応諾してもらおうと昨日お会いしたら「面高先生が良い」と言ったら考えると言
われましたので鹿児島まで説得に参りました。先生は教養部の教授に推薦されていると
聞きましたが何を期待されているのですか? 私達は山梨大学を変える夢を森本先生に
託したいのです」
。圧倒的なパワー。何と言ったか忘れたが、私も反論しました。鹿児
島大学を変革したいとか、森本先生を鹿児島大学の学長にしてみせるとか、移設の決
まった6m電波望遠鏡で研究を頑張りたいとか……。
森本先生は結局山梨大学の学長を断られた。これまで国立大学の学長就任を断った人
はノーベル物理学賞受賞者朝永振一郎博士だけである。山梨大学には大変申し訳ないこ
とをしたし、森本先生の決断には感謝するとともに学長にできないで申し訳ない気持で
一杯だ。
1993 年 4 月森本先生が教養部教授に就任された。先生は新たに宇宙関係の共通教育
の講義を 5 つ開講した。またたく間に学生の関心を引き、特に「宇宙科学」という前・
26
後期 2 コマの講義は全学部の学生が対象で、300 人が座れる大講義室に立ち見が出るほ
どの盛況であった。面白く、楽しくやるとマンモス講義の授業でも学生に受けるんだと
いうのは教官達にカルチュアショックを与えた。
1995 年 4 月には教養部長に選ばれた。時代は教養部廃止の嵐が吹きまくり、鹿児島
大学でも 1 年前に改組案を提示したものの学部から総スカンを食っていた。嵐の中への
船出だ。
学部が反対したのは共通教育に関わりたくないからである。もし受け入れるとして
も様々な学科にまとまってではなく個々バラバラに受け入れたい。退職した後、そのポ
ストを専門の教官で置き換えることができるからだ。同じ分野を多く受け入れると多数
派を形成し面倒になる。一方、教養部の教官たちの要求はまとまって動きたい。これが
嵐の原因であった。法文学部の場合、法学、経済学などの教養部教官は少数なので受け
入れるが多数派の語学の教官はいらない。他方、他学部は教官ポストが欲しいので教養
部教官に個人単位で勧誘を始めていた。森本先生は理科系の教官はまとまって理学部へ、
語学の教官は法文学部に外国語の学科を作る案をまとめて各学部長と交渉を始めた。
この難しい交渉は学部の損得勘定が入り乱れなかなか進まなかった。でも交渉の中で
森本先生の有能さは各学部長の脳裏に焼きついた。
この交渉の最中、1996 年 10 月ごろから学長選が始まった。気乗りのしない森本先
生に「酷いのは鹿児島大学だけではないですよ、旧帝大は大学院重点化に突っ走り、他
の大学は外圧なしには改革できないのです。学長になって国大協で正々堂々と大学改革
ビジョンを討議するオピニオンリーダーになってください」と頼んだ。先生もやはり学
長にならないと鹿児島大学の改革は無理だなと考え始めていた。結局、森本先生は鹿児
島大学改革案を訴え学長選に出馬した。初回は断トツの 1 位だった。ところが医学部か
ら出てきた候補が全学を周り、教養部問題をテーマにきりくずしを図った。残念ながら、
第 2 回投票では医学部候補が票をまとめ森本先生との一騎打ちになった。ある日、法文
学部の教授が森本先生を訪ねて来「語学の教官の問題と共通教育の責任コマ数を減らし
てくれ」と交渉してきた。森本先生は即座にノーと断ったという。これで法文学部が離
れた。私なら勝つためにその案を飲んだのに。さすが森本先生は山梨大学の学長ポスト
を蹴るくらいの大物だなと思った。負けてはならじと私は全学の教官を研究室に訪ねて
説得して回ったのだが努力及ばず敗北した。
学長選には負けたが、先生は天性の明るさで教養部改組を推し進め、理学部を説得し
理系教官は理学部へ、我々は宇宙コースを設立した。文系の教官は法文学部と教育学部
に分属した。
先生の退官時に鹿大広報に書かれた文章が興味深い。「5 年前鹿大に来て、学問の自
治を大学、学部、教授会の自治と狭めていって閉鎖空間を志向する大学の姿は、知って
いたが印象的でした。大学は学生が入っては出る、本来開放空間です。鹿大教官の学外
での目覚ましい活動を見ても、これが鹿大を開放空間にする力にならないのが不思議で
した。閉鎖思考で情報が管理され、信頼関係は薄くなり、コップの中の嵐に強いが外の
権力に弱い体制を生み出しています。自民党の派閥でさえ可能な組織の組み替えが自分
の力ではほとんど不可能になっています」と書いてある。どこの大学でもそういう傾向
があるが、特に地方大学に見られる体質を鋭く追及している。
森本先生、皆で進めてきた VERA 計画も順調に進み、学会誌に VERA 特集号第 2 弾
が出ます。ありがとうございました。
(鹿児島大学理工学研究科教授)
27
◆森本さんの仕事
森本さんの天文楽∼兵庫での活躍を中心に∼
黒田武彦
1. はじめに
森本さんは、天文学の研究だけではなく、その普及・啓発にも積極的に取り組まれ
た。私が直接親しくさせていただく前は、書籍やテレビを通して森本さんと接していた。
「望遠鏡をつくる人々」
「電波で見た宇宙」「星の一生」など 1972 年出版の書籍は、多
くの人に愛読された。また雑誌「自然」では、森本流の筆致で、最新の電波天文学の動
きが伝えられた。テレビでは NHK 教育での宮崎緑さんとの科学番組が好評だった。そ
んな森本さんに直接お話が伺えたら、と思って手紙をしたためたのが 1977 年である。
1993 年4月には兵庫県立西はりま天文台公園の園長をお願いした。ほぼ 33 年のお付
き合いを通して、天文学の研究以外でも大活躍だった森本さんをご紹介したいと思う。
2. 森本さんの話術
森本さんの話術には、何かしらマジックの不思議さとそのタネ明かしをする面白さが
潜んでいるように思う。
講演では、例えの意外性がある。それも「つかみ」で登場する。1977 年に最初にお
聴きした講演では、夫婦の成り立ちから始まった。夫婦は、見ず知らずの男女の出会い
から、熱く激しく燃え、結婚に至る。ところが時が経つにつれ、二人の仲は冷えていく
……星の誕生のプロセスとは逆のセンスである、というわけである。
その後、多くの講演を企画したり、講演時のかばん持ち?を行った経験から、森本さ
んの「つかみ」にはいくつかのパターンがあることに気がついた。代表的なのは「幕の
内弁当」である。自然界の大循環を説明するのに、幕の内弁当のイカの天ぷらが出てく
る。世界中からものが集まってできあがっていることを説明するのだ。「さんまと大根」
の出会いもお馴染みである。いわば海のものと山のものが、本来一緒になることはない
のに、この相性の良さを強調し、自然界の不思議を話す。また、原因と結果を曖昧にし
て槍玉にあがったのがスーパーなどで流れている「さかなの歌」、さかなはおいしいか
ら食べるのであって、頭が良くなるから食べるのではないと強調する。
こんな調子で繰り広げられた森本さんの講演は全国の 46 都道府県で実現した。残り
1 つ福井県だけが空白であったという。
「あと一つ!」と書かれたホームページの主は
もういない。
いずれにせよ、あっと驚くような「つかみ」で楽しく宇宙が料理されていく森本さん
の話術、全国の人々を満足させたに違いない。
日常の対話の中でも、出会った人々を和ませたり驚かせたりする高等な話術が森本語
録として語り継がれることになるだろう。
「まあお美しい」で始まる女性との対話、すぐさま「何チャンって言うの?」とたた
みかける。そして名前がわかると「おじさんの初恋の人に ・・・・」と続けて、相手の女
性をその気?にさせるものだ。森本さんお元気ですね、の答えは「元気は死ななきゃ治
らない」
。
どうしてだと思いますか?と尋ねたり相談したりすると「そんな宇宙に住んでるんだ
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がね」
。
森本博士などと呼ばれたりすると「はかせ(履かせ)の反対な~に?」と煙に巻く、
といった調子である。
3. 森本さんのツアコン術
「おじさんが今とってもやりたいのはツアーコンダクター」と、いつの頃からか森本
さんの口から出るようになった。それが実現することになったのは「兵庫県立子ども科
学館構想」があったからである。森本さんは、もうハコモノは要らない、作るとしても
拠点さえあれば良い、そしてバスがあればもっと良い、と言って構想委員たちを驚か
せた。私も委員の一人として参画していたが、座長を引き受けていた森本さんのこの大
胆な発言に驚くとともに拍手を送った。結局、子ども科学館は実現しなかったが、構想
の途上で、
「本来の科学館の在り方」を示そうと、「森本おじさんのサイエンスツアー~
ひょうごは大きな博物館~」が始まった。1998 年のことである。
要は兵庫県全体が博物館。必ずテーマを掲げ、現地の下見をし、行程や見学のポイン
トを確認、資料を作成して、1泊 2 日で実施した。現地ではできるだけ地元の専門家の
説明を受けるというホンモノ志向のツアーだ。もちろん夜の懇親会は欠かせないが、地
元の専門家にも参加していただき、1 日目の復習と、明日の予習も真剣だった。まさに
森本さん流のホンモノのツアコン、思い入れの深さが伺える。私も事務局として、二人
三脚で続けたツアーは 25 回を重ね、毎回全国から集まった 30 名前後の参加者で盛況
であった。森本さん亡き後も、ぜひ継続したい企画である。
4. 森本さんの市場拡大術
森本さんにとっての市場といえば、やはり天文学の市場?である。市場の拡大という
のは、一人でも多くの子どもたちに、天文学が学べる場を作りたいということである。
森本さんは全国津々浦々、つまり全県の大学で天文学が学べるようにしたいと常々
言っていた。これは森本さんをしても短期間ではさすがに「夢」であったが、ここぞと
決めれば実現のために最大のエネルギーを注いだ。成功例の一つが鹿児島大学である。
兵庫県では、1991 年に森本さんと黒田が兵庫県立姫路工業大学の学長を訪問し、理
学部に天文宇宙が学べるコースの創設を訴えた。熱意が通じ、将来計画委員会で検討さ
れ、理学部にこの問題の担当教授が置かれ、1994 年には「講座新設、再編による姫路
工業大学理学部における地球・宇宙科学の研究 ・ 教育態勢拡充の構想」にまとめられ、
講義、実習科目案までできあがった。しかし 95 年の兵庫県を襲った大地震により、残
念ながらこの計画は頓挫してしまった。
一方、すぐにでも講義を新設することは可能なはず、という森本さんの口添えもあり、
1995 年から兵庫県立姫路工業大学理学部で黒田が宇宙物質科学の講義を始めた。森本
さんの話術には遠く及ばないが、それでも人気の講義となり、選択科目にもかかわらず
毎年入学生の 8 割以上が受講した。少なくとも天文宇宙が学生に期待されている分野で
あることを証明できたのである。
森本さんの学長訪問や知事訪問はその後も続いた。その結果、姫路工業大学をはじめ
県立の 3 大学が統合し、2004 年に兵庫県立大学が誕生した際、自然 ・ 環境科学研究所
に宇宙天文系が新設され、西はりま天文台公園に付置研として設置された。
でも森本さんは不満だった。研究所では、そもそもの目的、兵庫の子どもたちの天文
学を学べる機会が不十分なのだ。学生や大学院生を指導したり、一緒に研究できる態勢
29
を作ろうとした森本さんと次なるステップを検討してきたが、残念ながらまだそれは
実現していない。森本さんの遺志を引き継いで、実現を早く報告したいものである。
5. 飲食術と芸術
森本さんが本格的なホームページを開設したのは姫路に居を構えてからで、大き
なエネルギー?を注いだのが「今日の献立」である。森本さんの日々の食事が写真と
レシピ入りで紹介されている。
森本さんの料理のポリシーは、まず料理をするのではなく、食事をつくることだ。
そして冷蔵庫にあるものを適当に使って、適当ではない食事に仕上げることである。
森本亭とも呼ばれた森本さん宅のダイニングは、家の中で最も良い場所を占め、
多くの来客を応対した。来客時の料理のポリシーは、待たせず、楽しく、座らせずで
ある。座らせず、というのは客も一緒になって料理をする参加体験型の料亭だという
意味だ。特に多種多様の餃子作りは多くの方が体験しているはずである。
食事の際にアルコールは欠かせない。鹿児島に赴かれてからは圧倒的に芋焼酎が
多くなったが、それでも野辺山から続いている白ワインの飲み方は、客の持て成し術
の極みと言える。森本亭の冷蔵庫の冷凍室を開けると、メノウが詰まっている。冷え
たメノウを片口に入れ、白ワインを注ぐのである。結露して白っぽいメノウが、たち
まちカラフルに輝き出すのだ。とてもすばらしい芸術的な飲み方は森本亭の客を魅了
し続けた。
芸術といえば、森本さんと歌は切り離せない。森本亭で歌が出ることは少なかっ
たが、自宅近くのカラオケスナックで、「森本おじさん」は人気者だった。サンタル
チア、黒ねこのタンゴ、大きな古時計、高原列車はゆく、がレパートリー。必ず出る
歌はサンタルチア。大きな古時計では、必ず泣いてしまう森本さん。時々、津軽海峡
冬景色や赤城の子守歌も披露する。宴会芸としては「荒城の月が出た出た」、15 年く
らい前までは踊りつきだった。
6. 森本さん、ありがとうございました
森本さんが、私の家から至近距離、姫路市の JR 播但線、野里駅前に居を構えて
10 年余。野辺山や鹿児島と同じように、ご近所の魚屋さん、酒屋さん、飲食店をは
じめマンションの住人にも人気者だった森本さん。今も続けている野里駅前の天体観
望会をやろうと言い出したのも森本さんでした。新しいことを、自らの力で、楽しく
実現することを身をもって教えてくださいました。
森本さん、本当にありがとうございました。森本さんは、水沢にいた S さん、三
鷹にいた K さんと並び、硬い人間の代表として黒田を選んでくださいました。私は
硬いとは思っていませんが、S さん、K さんと並ぶことができ光栄です。その硬さを
生かして、もうしばらく地上でがんばりますので待っていてくださいね。近いうちに
伺いますので、また酒やカラオケもご一緒下さい。
30
森本さんの夢
森本さんの夢
海部宣男
森本さんは、口も八丁手も八丁。若いころは絶え間なく科学雑誌に寄稿された。
「貧乏
な天文学だから、書く機会が大事」と言いながら、電波天文学という新しい分野を途切れ
ることなく日本に紹介した。それらは新たな発見への森本さんの興奮であり、宇宙電波の
日本での発展を思い描いた森本さんの夢でもあった。特に雑誌『自然』には 5 年ごとに 3
回連続寄稿の「特権」があるんだと自慢もしておられた。ここでは 1970 年の 6m ミリ波
望遠鏡の報告冒頭の2ページ(森本さんの科学への姿勢が感じ取られ、興味を引くだろう)
と、その最後の寄稿となった野辺山 45m 電波望遠鏡建設の記事全文を再録させていただく。
その前に、森本さんが『自然』に残した足跡を見ておこう。まず「5 年 3 回シリーズ」は、
1960 年 -1.「電波で探る宇宙の姿 -1-」
1960.07, p.52
1960 年 -2.「電波で探る宇宙の姿 -2-」
1960.08, p.52
1960 年 -3.「電波で探る宇宙の姿」
1960.10, p.60
1965 年 -1.「電波天文学と準星の発見」
1965.07, p.43
1965 年 -2.「天空のバックグラウンド電波」
1965.08, p.60
1965 年 -3.「最近の電波天文学 -3- 惑星の電波」
1965.09, p.80
1970 年 -1.「曲り角にきた電波天文学 ( 電波天文学の現況 -1-)」
1970.03, p.24
1970 年 -2.「電波天文の得手不得手 ( 電波天文学の現況 -2-)」
1970.04, p.62
1970 年 -3.「動きだした日本の電波天文 ( 電波天文学の現況 -3-)」
1970.05, p.56
1975 年 -1.「電波天文三つのコンプレックス (1975 年シリ - ズ -1-)」
1975.10, p28
1975 年 -2.「南米からの電波天文通信 (1975 年シリ - ズ -2-)」
1975.11, p66
1975 年 -3.「宇宙電波分光はやわかり (1975 年シリ - ズ -3-)」
1975.12, p78
1980 年 -1.「地球は一つの望遠鏡 --VLBI-- クェ - サ - の謎をとくか ?」
1980.09, p96
1980 年 -2.「デジかアナか -- 宇宙電波分光学 (1980 年シリ - ズ -2-)」
1980.10, p80
1980 年 -3.「炭素で作った鏡 --45m 電波望遠鏡 (1980 年シリ - ズ -3-)」
1980.11, p76
このほか、以下の記事がある:
「星間 OH ライン」1967.01、
「オーストラリアのラ
ジオグラフ」1968.03、
「パルサーの発見」1968.10、
「解かれたパルサーの謎」1969.05、
「エドワード・ボウエン」1970.05、
「100m 電波望遠鏡」1971.06、
「欧州電波望遠鏡見て
歩る記」1971.10、
「電波で見たかに星雲」1972.04、
「クェーサー発見 10 年」1972.11、
「宇宙電波分光学事始め」1973.07、
「ノーベル物理学賞の新星 -- 電波天文学」1974.12、
「オズの電波と暗黒星雲 - 続 -」1978.01、
「星間分子の発見から宇宙の曲率へ」1979.02
以上は国立天文台図書係の小栗順子さんのご協力を得て集めたものだが、何と 21 年間
で 28 回の寄稿である。そのほとんどを私も読んでいるが、今回懐かしく読み直し、また
森本さんの見通しの良さや新しいものに向かう精神に、改めて感じたことであった。
この後は本の執筆、最近はブログで健筆(?)を振るわれたのはご存じのとおりである。
32
『自然』1970 年 05 シリーズ③冒頭
森本さん『自然』1970 年シリーズ(3)
『動き出した日本の電波天文学』(1970 年 5 月号)冒頭の2ページ
33
『自然』1970 年 05 シリーズ③冒頭
34
『自然』1980 年シリーズ③『炭素で作った鏡—45m 電波望遠鏡』
(1980 年 11 月号)全文
35
『自然』1980 年シリーズ③『炭素で作った鏡—45m 電波望遠鏡』
(1980 年 11 月号)全文
36
『自然』1980 年シリーズ③『炭素で作った鏡—45m 電波望遠鏡』
(1980 年 11 月号)全文
37
『自然』1980 年シリーズ③『炭素で作った鏡—45m 電波望遠鏡』
(1980 年 11 月号)全文
38
『自然』1980 年シリーズ③『炭素で作った鏡—45m 電波望遠鏡』
(1980 年 11 月号)全文
39
『自然』1980 年シリーズ③『炭素で作った鏡—45m 電波望遠鏡』
(1980 年 11 月号)全文
40
『自然』1980 年シリーズ③『炭素で作った鏡—45m 電波望遠鏡』
(1980 年 11 月号)全文
41
『自然』1980 年シリーズ③『炭素で作った鏡—45m 電波望遠鏡』
(1980 年 11 月号)全文
42
森本さんの思い出
◆森本さんの思い出
マーキーとさっちゃんの深い関係
小松左京
マーキーこと森本雅樹さんと初めてお会いしたのは、樋口敬二さんの紹介だった
が、実はそのずっと前から、私は電波天文学者、森本雅樹さんを存じ上げていた。
NHKの教育番組を聞いていると、
「宇宙空間には、水素原子も酸素原子もアル
コールの原子もたくさんあります。ですから、水割りには困りません」という説
明があり、えっ、と画面を見たら、あのニコニコ笑った顔が写っていたのだ。
それでいっぺんに森本さんの顔と名前を覚えてしまった。その後、白浜で私の
還暦シンポジウム「十賢一愚 宇宙・生命・知性」をおこなった時には、十賢の
一人として参加していただいた。その時はご夫妻で参加していただいたのだが、
夫人のことを「うちの主人」といい、初対面だった私の妻や秘書たちにも、
「ずっ
とあなたのことを思っていました」
「百三十億年ぶりに、お会いできてとてもうれ
しいです」などといっては、彼女たちの度肝を抜いていた。
私にとってSF仲間の星新一に比肩するくらい破天荒に面白くて、しかも知的
なマーキーは、会っているとまったく肩の力が抜けて、楽しい人だった。マー
キーも私のことを「さっちゃん」と呼んで、何かというと「♪さっちゃんはね~」
というテーマソングを歌ってくれた。そんなマーキーがいなくなって会えなく
なったと思うと寂しいが、彼のことだ、どうせその辺で「ここにいますよ~」と
いっているにちがいない。
▼左から森本、明珍夫妻、小松、
乙部(小松秘書)
、黒田
▲左から黒田、小松夫妻、森本
44
◆森本さんの思い出
先生との初対面
明珍宗理(甲冑匠・明珍家第 52 代当主)
十数年前、毎日新聞の「この人」の欄で、森本先生が紹介されていました。地
球の内部は鉄でできているという文を読んで、鉄の仕事に携わっている者として、
一度お目に掛かりたいと思っていました。その矢先でした。
「サイエンスツアー・
ひょうごは大きな博物館」の見学依頼に我が家に初めて訪ねてこられたのです。
ちょうど私の昼寝の時間に来宅されまして、家内に起こされ、森本先生とは解ら
ず、不機嫌な態度で接していました。会話の途中で解り、
「あっ、森本博士!」と
叫んでしまい、私の方から一度お訪ねしたく思っていたことを話しました。そし
てサイエンスツアーを快く受け入れさせていただいたのです。その後、世界に通
じる森本博士とのお付き合いが始まりました。
森本先生や黒田先生を囲むパーティに参加させて頂き、その度ごとに「明珍は、
人の顔色を見て態度を変える男だ」と茶化されておりました。
東京での私の個展の時、せつ夫人の退職記念に、私の製作した最高の玉鋼の火
箸をお買い求め頂き、プレゼントされました。その感激を今でも思い出します。
姫路のご自宅と我が家が近く、時々お酒を飲みに来られたり、時には自宅に招
かれて、夫婦、息子共々、お酒、手料理をおいしく頂きました。今でも玄関のド
アベルが鳴り、飲みに来たよ、と入って来られるような気がしてなりません。
他人様を分け隔てなく愛する心をお持ちだった森本先生との別れが残念でなり
ません。
◆森本さんの思い出
永遠に輝き続ける森本先生
齊藤律子(鹿児島在住)
昭和 63 年 6 月、講師「森本雅樹先生―野辺山宇宙電波観測所長―」
、演題「宇
宙人」
あの日、講演会は終始盛り上がり、概念を破った楽しいものでした。終了後、
慰労会のため天文館へ向かうと、割烹の前の路上で「さぁ~ここのお魚は日本一
おいしいよ~さあ~さあ~」と大声で呼び込む人がいました。思わず宇宙人現る
と思ったあの日のインパクトは今も忘れません。気さくで楽しい先生に、私が初
めてお目にかかった日でした。
その数年後、何と先生が鹿児島大学に赴任され、そして6m電波望遠鏡も連れ
45
てこられたのです。当時、宇宙県として白いロケットの模型が置かれていた見晴
らしの良い錦江湾公園に、電波望遠鏡の美しい姿が現れた時は、ますます宇宙が
近くなった思いでした。ましてや宇宙科学をめざす学生にとってはラッキーだっ
たことでしょう。さっそく水沢と 1,000km の VLBI として威力を発揮し、オリオ
ンからのメッセージに熱くなりました。その後、旅の途中に野辺山、水沢の天文
台を訪ねる計画を入れ、楽しい思い出も作りました。
先生は宇宙の宿(宇宿)を拠点に、愛称「森本おじさん」として県の隅々まで
飛び回り、天文、諸事に多くの活力を注いで下さいました。鹿児島県天文協会員
の私は、後に副会長として鹿児島大学やその他の行事で微力ながらお手伝いする
機会を得ましたが、鹿児島のことでさえ、逆に先生から教わることが多大でし
た。天文イベントには、主人の合唱団も数回参加したことがあります。先生は日
本フィルの鹿児島実行委員長として音楽の分野にも進出され、後に燕尾服で登壇
されたり人気スターでした。平成 9 年には先生の夢を乗せた「はるか」が成功し、
先生の目に光るものがあったのを思い出します。国境のない世界をめざしながら、
元気の樹をあちこちに育てられました。
平成 10 年、兵庫に移られた先生は、
「ひょうごは大きな博物館」と称したサイ
エンスツアーを企画され、11 月には楽しい輪がスタート。今思えば、最後のツ
アーに、先生のお人柄に真から惹かれていた主人が、足を引きずりながらも参加
しました。先生と同じ歳で、仕事に対する一途さは相通ずるものがあったようで
す。
ある私共のコンサートの日「手伝いに来ましたよ~」と、姫路からひょっこり
お見えになった時は仰天でした。昨年 2 月、末期の主人を病床で励ましてくだ
さったのですが、4 月に逝ってしまいました。そして 11 月、思いもよらぬ先生の
ご訃報を東京で知りダブルパンチでした。今天上は突然の先生のお出ましに驚き、
しかし楽しくなっているのでは?
十数年前、私の皆既日食の詩に主人が曲を付け、あちこちで歌った詩の一部で
すが……。
「見えなくなって見えてくる 闇に零れる灼熱のコロナ」
中略 「あなたが見
えなくなって 今 あなたがはっきりと見える」
太陽のように明るい光を注いで下さった先生。さりげない話し方で人の輪を耕
し、やがて大きな実をなし、体調がお悪かった時でも「おじさんから元気は逃げ
ていかないんだよ~」と、はしゃいで下さった先生の満面の笑顔は、私たちの心
の中に永遠に輝き続けるでしょう。ありがとうございました。 46
◆森本さんの思い出
エネルギッシュな森本さん
佐藤文隆
湯川秀樹の提唱で基礎物理学研究所で天文と原子核・素粒子共同の研究会が立
ちあがったことはよく知られている。これは 1955 年頃からはじまって、その記
念碑的論文が THO(トテモホントトオモエナイ)論文であるが、THO は武谷・
畑中・小尾である。
「星の進化と元素の起源」が主題であった。
天文と基礎物理の基研での研究会の主題として次に提起されたのが「銀河系、
星間物質、宇宙線の起源」であった。私が大学院に入った 1960 年頃に始まり、
地元の気楽さで大体のぞいていた。このテーマはたぶん畑中さんや早川さんが主
導したのだと思う。武谷さんを含めて、京都以外の研究者の顔を初めて見たのは、
この研究会シリーズにおいてである。2、3 年後、電波天文、準星、ブラックホー
ルへと話が繋がるのである。
かっぷくのいい紳士然とした畑中さんであったが急逝され、間もなくして、
オーストラリアで電波天文を経験して帰ってきた森本さんがこの研究会にも登場
した。この頃はパワーポも OHP もなく、黒板に書きながらしゃべる。そのため
に事前にレポート用紙にメモを用意する、というのが人前でしゃべる時のマナー
だった。初めて仰ぎ見た森本さんの印象は、このマナーの埒外の人だという事で
ある。記憶による印象だが、その頃の森本さんの話は、観測結果の紹介でなく、
電波天文観測の実態の話が主だった。電波望遠鏡の大きさや面精度の装置として
の能力が、角度や波長の分解能や要素といった天文観測の能力とどう関連してい
るか、といった話が明快に彼から教えられた気がする。
時代はとぶが、1991 年の正月 4、5、6 日に白浜温泉で、小松左京が自分の還
暦を記念して、小田稔さんをはじめ幾人かの科学者を招いた討論会を催した。豪
勢な家族連れの招待だったので、私も家内と娘の三人で参加したが、森本さんも
奥さんと一緒であった。二泊三日、食事のときも一緒だから、森本おじさんの聞
きしに勝る騒々しさを堪能させて頂いたことがある。
こういう大学者、著名人になられた、森本さんの活動をインターネットなどで
拝見すると、その活動量には驚嘆させられる。どうしてあんなにフットワークが
軽かったのだろうと思う。集まる人からエネルギーを引き出して燃えておられた
のかもしれない。天文学界にとって大きな喪失であろう。御冥福を祈ります。
47
◆森本さんの思い出
朝日新聞に書いた2本の記事を捧げます
高橋真理子
科学朝日に連載された「立花隆が歩く 研究最前線」は、初回に野辺山の 45
メートル電波望遠鏡を取り上げました。その取材で立花さんと一緒に野辺山に
行ったときが、森本雅樹さんとの「馴れ初め」でした。天空に行ってしまった森
本さんに、私が朝日新聞に書いた2本の記事を捧げます。
〈 1 9 9 8 年 3 月 2 日 夕 刊 コ ラ ム
「 鹿 児 島 に 来 る っ て い う の が ほ か に 直径6メートルの望遠鏡が完成した。
「窓・論説委員室から」
〉
いなかったからさ」
すでにそのとき長野県野辺山に直径
煙吐く桜島を仰ぐ鹿児島市の錦江湾
海部宣男・国立天文台教授によると、 4 5 メ ー ト ル の 世 界 一 の 望 遠 鏡 を 作
公園は、H2ロケットの実物大模型が 日本の電波天文学を引っ張ってきたの る検討を仲間と始めていた。
目印だ。
は「手作り精神」
「新しさの追求」
「楽
金 は な い。 だ か ら み ん な で 知 恵 を
その足元の広場に、白いパラボラア しくやる」の森本イズムだった。中で 出 そ う。 そ れ に は 楽 し く な く っ ち ゃ
ンテナが立っている。
も「楽しく」は、全員が森本さんから と、 い つ も 大 き な 声 で 場 を 盛 り 上 げ
頑丈な鉄骨に支えられているお皿形 学んだ伝統だという。
た。 そ の 魅 力 に、 後 輩 研 究 者 だ け で
のアンテナは直径六メートル。はるか
「 鹿 大 に 宇 宙 コ ー ス を つ く ろ う と し な く、 メ ー カ ー の 人 た ち も 巻 き 込 ま
かなたの宇宙からの電波を受け止めて たら、意地悪するやつがいっぱいいて れていった。
いる。
さあ」
「上の世代は望遠鏡を買おうと計画
日本の電波天文学は、三十年前、こ
あたり構わず大声で話すのは相変わ し た。 そ れ を 自 分 た ち の 手 で 作 る よ
の望遠鏡の誕生とともに始まった。
らずだ。
うに変えたのは森本さん」と先輩で
生みの親の一人が、天文界きっての
意地悪する人より、森本イズムに引 群 馬 県 立 ぐ ん ま 天 文 台 の 古 在 由 秀 台
名物男といわれる森本雅樹・鹿児島大 き込まれる人の方が多少とも多かった 長がいう。
教授である。
らしい。宇宙コースは、昨春発足した。 そ の 精 神 は、 衛 星 と 地 上 で 同 時 観
自称モリモトおじさん。宇宙につい 〈真〉
測して巨大望遠鏡の性能を実現する
て講演すれば、いつでも漫談になって
「はるかプロジェクト」
、現在建設中
しまう。あけっぴろげな人柄にファン 〈 2 0 1 1 年 1 月 2 2 日 夕 刊 惜 別
のチリのアルマ望遠鏡などに受け継
も多い。
野辺山望遠鏡をつくった天文学者〉
がれていった。
望遠鏡は東京都三鷹市の東京天文
人前でも平気でおならをした。女性
92年に山梨大学学長に選ばれた
台(現・国立天文台)で産声をあげた。 を見れば「まあ、お美しい」とほめそ が、 断 っ て 鹿 児 島 大 学 教 授 に 転 じ
長野県野辺山に直径四十五メートルの や し た。 年 齢 そ の 他 ま っ た く 問 わ ず、 た。宇宙コース新設などに取り組み、
巨大な弟分ができて、一時、お役御免 だ。
96年からは志願して日本フィル
の危機に陥ったが、改造でよみがえる。 およそ学者らしからぬ天文学者だっ ハ ー モ ニ ー 鹿 児 島 実 行 委 員 会 委 員 長
鹿児島に移ったのは五年前。国内だ た。酒が好き。温泉が好き。そんな破 に。 鹿 大 を 退 き、 西 は り ま 天 文 台 公
けでなく海外にある電波望遠鏡と共同 天荒ぶりが、日本の天文学を世界第一 園 長 を 務 め る た め 兵 庫 県 姫 路 市 に 居
観測する新しい任務を帯びていた。
線に押し上げた。
を移したあとも委員長を続けた。
このとき、森本さんは山梨大学学長
東京大学天文学科を1955年に卒
昨 年 1 1 月 1 5 日、 鹿 児 島 市 内 4
に選出されていたのに、断って鹿児島 業。 そ の 後、 天 文 学 は「 発 見 の 時 代 」 カ 所 で 開 い た ミ ニ 演 奏 会 に 立 ち 会 っ
に来てしまう。
を迎えたが、日本は蚊帳の外だった。 た。 陽 気 に 酒 食 を 楽 し み、 翌 朝「 息
そんなにも強い愛着が最初の望遠鏡
豪 州 で 電 波 望 遠 鏡 の 建 設 に 腕 を ふ が で き な い 」 と う ず く ま っ て 急 逝。
にあるのだろうか。
る っ て 帰 国 し、
「 日 本 に も 自 前 の 電 波 「新しいことを自分の手で楽しく」と
三月に定年を迎える森本さんは、珍 望 遠 鏡 を 作 ろ う 」 と 言 い 出 す。 7 0 いう森本イズムを最期まで貫いた。
しく真顔で答えた。
年、東京天文台(現・国立天文台)に
48
◆森本さんの思い出
科学記者として、高校の後輩として
青野由利 毎日新聞記者(論説委員)
最初の出会いは科学記者になりたての 1984 年、東京・調布市で開かれた天文
学会だったと記憶している。初対面なのに、向こうの方から「こんにちはー」と
陽気に手を振る森本さんの姿がイメージに残っている。野辺山チームの海部先生
や鈴木博子さんも一緒だったかもしれない。
以来、取材の電話をしても、直接会っても「うわあ、ゆりさんと話せるなんて、
うれしいー」と言っていただいた。もちろん、私に対してだけではないのは百も
承知だが、単なる取材先とは違う親近感を抱いてきた。それは都立新宿高校の先
輩だったためもあるだろう。早春のある日、新宿高校と塀を接する新宿御苑を
いっしょに散歩した後、森本さんの高校のクラス会に同行したこともあった。ク
ラスメートとの話ぶりを見て、そうか、森本先生は、自分の社会的な「役割」を
よくよく認識した上で、演じているのだなと気づいたのはこの時だ。
天文学の本筋だけでなく、「日本列島みんなで電波望遠鏡の夢」
「江戸幕府の天
文方の文書発見」など、脇道の話も書かせていただいた。名前を出さずにコラム
に引用させてもらった言葉もある。
「今は気に入った相手がいなくても、自分の遺
伝子を流れの中に放り込んでおけばいいのに。100 年後にその遺伝子が気に入っ
た相手と出会うかもしれないでしょ」
。婚活の気配もない私を心配してくれたのだ
と納得しつつ、森本さん一流の視点の転換に笑ってしまったのを思い出す。
ボストンで MIT のバークさんを交えてシーフードを食べに行ったり、鹿児島出
張の折に夕食を囲んだり、鹿児島大の最終講義の日に出張先の大阪から駆けつけ
たり。思い出はいろいろある。シンポジウムでごいっしょし、真面目に話をした
ら、「うあわ、ゆりさんて、こんな怖い人だったの」と言われ、はっとしたことも
ある。
最後にご飯を食べたのは東京駅地下の天ぷら屋さん。
「くちびるー、おしりー」
の乾杯から始まり、店員さんにも愛嬌をふりまきながら、楽しくお話した。
「ふじ
丸」の皆既日食クルーズでもごいっしょするはずだったのに、私が「ぱしふぃっ
く・びいなす」に浮気してしまった。 「うわあ、ゆりさんと……」が直接聞けなくなったのはさみしいが、森本さんが
本当にいなくなった気がしない。今も、あちこちで、みんなを笑わせたり、ほっ
とさせたり、常識を覆したりしているに違いないと思うのだ。
49
◆森本さんの思い出
三菱電機トップへ二度直談判をされた先生
塚田憲三(元三菱電機)
文字通り PPK を実行された先生!しかし、早すぎます、悲しすぎます。
森本先生には 45 m電波望遠鏡建設で 1967 年から 15 年間、殆ど、毎年ご指導
を頂きました。ありがとうございました。
色んな、沢山の思い出がありますが、紙面が限られていますので副題を選びま
した、先生におかれましては、ご不満でもお許しください。
1971 年6月、天体物理国際シンポジウムの帰りにヨーロッパ各地の電波天文
関連施設を見て回るので、一緒に行って欲しいと言われました。受注しているな
らまだしも、予算がつくのかも疑わしい?のに会社が許可する筈はない、と答え
ました。数日して、山下精一副社長から、一兵卒に直接電話が入りました。この
電波望遠鏡を造れるのは三菱電機しかない、と答え、視察旅行の許可が下りまし
た。森本先生が副社長に直談判された結果でした。
ボンの 100 mを見せられました。これ以上に美しい電波望遠鏡を設計せよとド
イツに惚れた我々のボス森川洋のプレッシャーもかかってきました。森本先生の
狙いもそこにあったようです。
そして、1978 年1月、この年度から3年計画で据付を終え、1年かけて鏡面
調整や試験観測をする計画で予算が通りました。漸く世界一の電波望遠鏡が出来
る…?
!、実はそうではなかったのです。二番煎じの寄せ集めだったのです。ポ
ロッと口を滑らせたのが稼働率向上の為の CFRP。この望遠鏡の建設に執念を燃
やし、精魂をつぎ込んでおられた森本先生が聞き逃す筈はありません。先生は、
予算が決まった後にも拘わらず、CFRP パネルの採用を当時の進藤貞和社長に直
談判されたのでした。
天文学は自然科学が自然哲学と呼ばれていた頃、学問の中心だったと思ってい
ます。ご先祖は、自然の移り変わりを天体の動きと関連づけ、そこに働く摩訶不
思議な力や法則に気づき、それを与件として受け入れて生きてきました。しかし、
今の天文学はそれを守る事の大切さを教えなくなりました。その結果は推して知
るべし、です。そんな中でも、天文台で組合活動を経験された森本先生は、権力
に迎合しないで本当の事を言う数少ない学者の一人だ、と期待していたのですが
……。
自然科学が自然哲学に戻ることを願っています。
科学を使う人間の暴走を抑える役割を何が、誰が果たすのでしょうか?
森本先生、よろしくお願いいたします。
合掌
50
◆森本さんの思い出
森本先生のこと
青柳武矩 阿部安宏(元日本通信機)
やはり、森本先生と皆様のことを思い起こしますと、6 mφの電波望遠鏡の話
になります。そのころ、たぶん 1971 年ごろ、6 mφ用の電波分光計として、海
部先生がフイルタバンクを開発し、製作中でした。
6 mφの 30 チャンネルが、ホルムアルデヒトの星間分子を見付けました。この
言葉だけは良く耳に残っています。そして「スペクトラム分光計を広げるぞ」と
おっしゃり、それが 256 チャンネルでした。それが私の仕事になりました。私
も初めてのフイルタ設計です。インダクタとコンデンサを繋ぎ測定してもうまく
いかない。そして、長根先生、宮澤先生、宮地先生に教わり、直ぐ製作し、でも
「これダメ」、また話し合い。うまくいくまで一歩一歩、先生たちと仕上げていき
ました。
さて、6 mφは、ミリ波のクライストロン発振器とマイクロ波局部発振器が必
要でした。それはスペクトラルを見るには周波数が動かない様にしなければなり
ません。このとき初めて先生に「位相ロックが必要だよ」と言われ、それをどう
やるかを教わりました。キャビテイは、雑音を下げるには無負荷 Q の大なものが
必要ですが、しかしバラクタで周波数を動かすと又 Q を下げてしまいます。
「そ
れにはこの方が良いよ」と、森本先生です。すぐに製作、実験し、答えがでれば、
殆ど直行即ち夜間行きでした。森本先生はいつも「理論と実験からデータを出し、
それを検討すれば必ず見つかるぞ」でした。私は大好きになりました。そのうち
に社長から「貴方は昼間は会社の仕事をしているのか、お金になるのが企業だぞ」
でした。そんなとき、多分青柳さんが6mφについて助言してくれたのでしょ
う。森本先生が来社され、ひざまづき、
「宇宙電波はこれから文明にも一番大切で
す。私を宇宙電波の仕事をさせてくれませんか」
。大教授のひざまづきは強烈でし
た。私は好きなことをやれるようになりました。このあたりの状況を良い感じに
したのも青柳さんでした。
その後 45 mφ、10 mφ干渉計、16000 チャネルの音響光学電波分光計でした。
現在6mφ系の真髄が判る電波天文グループが出来上がりました。 最後に、私の生き方を教示してくれたのも森本先生の6m望遠鏡です。
「開発し、作り、データを出し、それを改善すれば開発に近づくよ」
。先生のお
言葉を思い出します。この試作を先生と一緒に仕上げをし、その現実を体で感じ
ました。それは私の心のなかに生きつづけております。
51
◆森本さんの思い出
森本雅樹さんの宇宙
小坂義裕 (元富士通)
森本先生が突如お亡くなりになられたとの連絡を受けた時には気が動転するほ
ど驚きました。古在先生の表彰祝賀会では相変わらずの元気さを見せておられた
のを思い出します。
私が富士通へ入社したとき、富士通は無線領域で宇宙開発への参加を考えたよ
うですが、単なる無線技術だけではとても難しいことをさとりました。最初の開
発要請は太平洋の上にある静止通信衛星を管理する装置の開発でした。Kennedy
が暗殺された情報を米国から日本にいち早く伝送した国際通信衛星の管理をする
ためのものでした。静止位置の計測は電波で簡単に出来たのですが、位置の計算
には軌道計算の知識が必要でした。勿論、関係者の中には計算できる人はおらず、
装置があっても管理は出来ないと悟り、上司に天文台で習いたいといい、最初は
仕様にないことまで手をだす必要はないとまで言われましたが、最終的にはOK
となり毎週土曜日の午後天文台に通いました。その時、教えて戴いたのは古在先
生、そして夜、何度も酒を飲みながら、システム開発には大学とメーカが協調し
て初めて完成させられると教えてくれたのは亡くなった森本先生でした。お陰で
開発したシステムには要請のない計算方式まで導入し、衛星までの距離および距
離変化率測定装置を実際に使用できるものに仕上げました。その後、宇宙開発分
野では軌道計算の必要性は極めて高く、気象衛星ひまわり、筑波の宇宙開発事業
団、君津の通信衛星、放送衛星管理センタ、南極観測船しらせなどお陰で受注は
大変容易なものでした。米国 NASA の GSFC には Dr. Velez を尋ねて 20 回ぐら
い訪問、実際面の技術習得に出かけました。月探査衛星アポロの軌道計算に使用
していた GTDS というソフトには間違いがあるのを発見し、NASA の Workshop
で発表もしました。
又、顧客が開発要請してくるものは奥が深く先行して調査研究することの重要
性を説いてくれたのも森本先生でした。勿論、天文台、野辺山の場合も信州大学
の農地だったときから日曜日に見に行った記憶があります。そこでどのような観
測、計算するのか教えていただきました。専門が異なっても技術開発の基礎理論
は共通であることを悟り応用が利かなければ本当の開発はできないと知ったのは
幸いでした。この考え方はスパコンのユーザ開拓に役立ちました。色々と教えて
いただいたことに感謝をしながら先生のご冥福をお祈りいたします。
GSFC; Goddard Space Flight Center,
GTDS; Goddard Trajectory Determination System
52
◆森本さんの思い出
「来るものは拒まず、去るものは追う」森本おじさんのこと
長根 潔
森本さんのことを、東京大学名誉教授森本雅樹先生と呼ぶ人もいます。ご本人
は「森本おじさん」が好きらしく、
「おじさん」でブログを開設しているのを、数
年前私の娘夫婦が海外(パリ)で見つけてくれました(お嬢さんのまなみさん一家
の大学卒業式(ハワイ)
、
「森本おじさん」もおじいさんになるのだと思いました)
。
私は「モリモッタン」と失礼呼ばわりしていましたが、私のことは「長さん」、
時には清潔ではなく、不潔の長根潔と呼んでいましたからおアイコです。
天体電波部門時代、宇宙電波部門時代、野辺山観測所時代、三鷹の官舎時代
(当時 40 数軒、森本さん一家、宮澤敬輔さん一家、ナガネ一家、大分後に長谷川
哲夫さん一家が宇宙電波関係で住んでいた)を家族ぐるみで長い間お付き合い戴
き、ほんとにほんとに有難うございました。
ある酒席で、計算機と人との関係は?などに話が飛んだ時、突如、人しかでき
ない、いや人がやらねばならぬ三つのことがある。一つ目は子を設けること、二
つ目は育てること(一般的な教育(広報も含む ))、三つ目は学問(研究)で、特
に二つ目と、三つ目は多くの人と関係を持つことが大切だと森本節(失礼をお許
し下さい)を展開しておられた。人との接し方は「来るものは拒まず、去るもの
は追う」という森本方式であった。私も森本方式に乗せられた一人ですが、次の
ような話も有ります。
「当時、私はオーバードクター生活の 5 年目を終わろうとしており、……応募
した 30 箇所以上で全て不採用、最後に開所寸前の野辺山で採用となった。どう
いう理由で理論屋の私を採用したのかは闇の中で私にもわからない。人づてに聞
いた話ではモリモトさんは一人位役立たずを置こうということで私に目をつけた
らしい。」これは、高原文郎さん(大阪大学)の、野辺山宇宙電波観測所 20 周年回
想録(2002 年)の一部である。
まさに森本節の面目躍如で、 記念式典での講演者立花隆さんは、
「一人位役立た
ずを置こう」と言うのがえらく気に入った
らしく、講演の中で引用されていたのを覚
えています。定年前の大活躍もさることな
がら、定年後の鹿児島時代、西はりま時代
の更なる活躍は、森本節の二つ目、三つ目
の集大成ではないかと勝手に想像していま
す。多くの人にそれぞれの感動を沢山与え
て下さった森本さんほんとに有難うござい
ました。多分、「森本おじさん」は「なに ▲姫路城をバックに、穏やかな表情の西はり
言ってんですか」と笑っているでしょうね。ま時代の「森本おじさん」と筆者
53
◆森本さんの思い出
森本さんありがとう
田原博人
昼食をすませ、一休みしていると、京都から電話がかかってきた。森本さんか
らである。公衆電話からかけているということで、何用かと思ったら。
「京大の
助手人事の最終選考に残っているらしいが、京大は断って、宇宙電波にこないか。
しばらくは臨時だが、近い内に正式に採用するから」と、今では考えられない人
事の話だった。ということで、私の研究は三鷹に移ることになった。もちろん、
しばらくして助手に採用された。
当時のミリ波は、教員も技官も対等な同士的な雰囲気の中で、それぞれが持ち
分を発揮し生き生きとした場であった、金がなければ知恵と体力、利用できるも
のは何でも利用しようという貧乏暮らしの小さな集団ではあったが、その一方で
宇宙電波の将来計画を推進するという夢があり活気に満ちていた。こうした雰囲
気は、当時の天文台では異質な集団であったが、その中で多くを学ぶことができ
た。
森本さんは、電波天文に限らず、何ごとにおいても先見性があった、一見不可
能とみえることも、森本さんにかかるとできるのではないかと、その気にさせる
魔力があった。自分が指揮するというより、人をうまく活かしながら、個人を組
織力とし、電波天文学を世界のトップに導いた。一方自らはマスコミを通して天
文学の普及に努めるとともに、異分野の方々を巻き込むことにも大きく貢献した。
今では考えられないが、当時の天文台では、研究者組織は徒党を組むと嫌悪さ
れ、装置の開発は研究者の仕事ではないといった雰囲気であったが、森本さんは、
その流れを大きく変え、現在の天文学発展の下地をつくったといっても言い過ぎ
ではなかろう。
三鷹に来て数年後、宇都宮大学から理系学部の新設推進に力をかしてほしいと
誘われた。そのときの森本さんの意見は、
「宇宙電波が三鷹で閉じていたのでは発
展はない、外に広げることも大切だ。宇都宮は距離も近いので両立ができるので
はないか」ということだった。今からみると良くやったなと思える二重生活が始
まったが、ミリ波の熱気の中ではそれが当然のことのように思われた。
大きなプロジェクトを推進することと法人化後の大学経営とは通じるものがあ
る。法人化前後の学長を務めながら、森本さんならどうしただろうと想うことも
度々であった。
時代が森本さんを必要としていたともいえるが、森本さんがいるだけで周囲が
元気づけられた。森本さんに代わる人はいないが、その精神は引き継ぎたいもの
である。
54
◆森本さんの思い出
名優だった森本さん
平林 久
森本さんに初めて会ったとき。大学院生にむかって、傘を持った腰をかがめて
笑いかけながら「森本でございます」と挨拶されたのです。あ、ゲーテのファウ
ストに出てきたメフィストフェレスはこんな感じかと、失礼ながら感じたのです。
オーストラリアのカルグーラでの仕事から帰られたときでした。
森本さんの若い頃に心酔し、今も尊敬しています。それは日本の宇宙電波天文
が生まれ出ずる時代と重なります。現実をシャープにみて、前向きに踏み込んで
いくスタイルです。何もわからなかった大学院生はスタッフになっても、森本さ
んの働き振りをながめ、いろいろな影響を受けてきました。今では自分らしい個
性というのも、どこまでが森本さん抜きのものなのかわからなくなっています。
研究面では、6m電波望遠鏡で、野辺山で、SETI で、VLBI で、VSOP でと、
おもしろい曙光を感じて向かうことができました。個性を尊重して自由にやらせ
てくれた森本さん、古い体質を破って新しい時代をひらき、好きなことを実現し
ていった森本さん。一方では個人的に心配をかけたり、期待に十分に答えられな
かったりの私でした。
野辺山が定常運用に向かう前に、森本さんは野辺山を離れて新しい世界に向か
いたいと、強く主張したことがありました。
「野辺山をちゃんとしてからにしま
しょうよ」、「それでは遅いんだよ」
、そんな押し問答の末にとどまっていただきま
した。本質では多くを語りませんが、ここは森本さんの本心だったのだと思いま
す。その後を思うように生きられたのだろうか。愉快そうにみえた森本さんです
が、そのことが気になります。
棺のなかの森本さんはもはやしゃべらず、一時間余のうちに骨になってしまい
ました。この時は、シェークスピアのハムレットのシーンを思い出しました。ハ
ムレットが道化役のヨーレックの頭蓋骨を手にして、饒舌だったヨーレックに語
りかける場面です。
最初と最期がこのような悲劇の一場面を感じさせるというのも、森本さんとの
ことを終始、劇のように感じてきたせいかもしれません。
森本さんが亡くなられた気がしません。40 年もいると思い出も無数。森本さん
は、どこかこのあたりに生きているのです。名優森本さんの演じた宇宙に居合わ
せて、おもしろい劇を観たのです。その劇は終わっていないのです。
55
◆森本さんの思い出
野辺山時代の思い出
石黒正人
森本さんとの出会いは、今から約 40 年前、野辺山の大型宇宙電波望遠鏡プロ
ジェクトの準備段階でした。当初は名古屋大学空電研究所に所属していましたが、
その後東京天文台に移籍し、本格的に計画に参加することになりました。移籍を
決意させたのは、計画の魅力もさることながら、森本さんという学者の魅力に惹
かれたことです。1972 年には、森本さんの薦めもあって、望遠鏡設計の参考と
なる電波望遠鏡を巡る世界一周の一人旅に出ました。助手に採用直後の自費出張
は経済的に大変でしたが、森本さんから高額のカンパをもらって実現しました。
野辺山の建設で一番思い出深いのは、
「森本流」の仕事の進め方でした。森本
さんは技術者を乗せるのがとても上手で、天文台側とメーカー側の分け隔てなく、
常に同じ夢を共有する仲間として接していました。
「とにかく世界一の望遠鏡を作
るんだ」という意気込みがメーカーの技術者にも浸透し、技術者の情熱をうまく
引き出すことに成功しました。このことが功を奏し、野辺山の宇宙電波望遠鏡は、
要求仕様以上の性能を達成するという快挙を成し遂げました。
森本さんは、宴会でも常に「森本流」リーダーシップを発揮しました。これ
は国内に限らず、国外で開催された会議でも同様で、外国人研究者からも愛さ
れる存在でした。ある時、ある外国人研究者から、
「日本人はみな森本のような
性格か?」と聞かれたことがありました。
「いやいや森本さんは特別」と否定し
ておきましたが、それくらい外国でも有名な存在であり、“ 酒好きの Moresake
Morimoto” として知られていました。いま思い返すと、森本さんの後任として
URSI や IAU な ど 国 際
学術団体の役職を引き
継ぎましたが、宴会役
だけは引き継げません
でした。
心よりご冥福をお祈
りいたします。
▲ヘルシンキ URSI 総会にて(1979 年8月)
56
◆森本さんの思い出
森本さんと私の電波天文そぞろ歩き
宮澤敬輔
東京天文台の電波天文は当時、天体電波部として主に太陽観測をしていた。そ
のうち 1963 年に 24m 球面鏡が完成し、宇宙電波が波長 21cm 中性水素線の観測
が開始された。又、ミリ波の装置として月面電波観測装置として 30cm のカセグ
レンタイプ(6m 鏡の原型となる)の望遠鏡を日立電子の石井さん達と制作した。
この頃 CSIRO カルグーラのラジオへリオグラフ制作に活躍されていた森本さん
が帰国し、国内での大型パラボラアンテナを使った観測を東京オリンピックの宇
宙通信に使用された 30m の郵政省電波研鹿島支所のアンテナを電波天文用に受
信設備を改造し、通信実験の合間を見ながら観測を開始した。受信するのには天
体を追尾出来ずに観測位置を手で入れながらの待ち受け受信であった。
なにしろ通信実験は 9 時から 17 時まで行われ、その間、赤羽・森本さん達と
お借りした宿舎で寝食を共にし、翌朝 8 時頃まで休みなく稼働させていた。ここ
では、海部さん・平林さん……、数多くの研究者が育っていった。
でも、やはり借り物のアンテナでは限界が有り自分達専用の装置が欲しいと、
1969 年東洋レーヨン科学助成金によりミリ波用 6m 高精度望遠鏡建設に着手し
た。801 万円である。早速三菱電機の中西さんに相談、即、無理!と。以前古在
さんにお願いをして購入してあった日立製 3m のオワン(鏡面のみ)を利用しよ
うとしての結果であった。全部の制作は無理なので鏡面だけは三菱で作るから架
台は別の処でなら、ここで森本さんが大活躍! 口径を話して居る内にいつか 3m
ではなく 6m と決まってしまい、東レへの請求書には三菱と架台の制作をお願い
した法月鉄工所の書類が事務から提出された。
何しろ何もない研究室が 1.4GHz の受信機と検波器とテスターしか無く、測定
機はオシロスコープと GR 製 OSC で、無謀にも日本では何処もやっていないミリ
波に挑戦したのでした。
「誰も見ていない領域を見てみたい」
このスローガンの元、手さぐりと手作りの毎日が始まりまった。観測室を作り、
架台も何とか据付け、鏡面の仕上げには最後は手で磨き上げた。受信装置もアン
テナ駆動装置も未だ出来ていません。駆動装置はただ動けばと電磁リレーのお化
けを作り何とか Az / El 共に作動させた。その後ミニコンの導入で近田さんに
よって自動化され、追尾が出来る様になった。ミキサーダイオードは三菱の吉田
さん・電電公社武蔵野通研石井・大森さんと、木更津高専の小平さんの協力で観
測出力が出始め、タウンズ博士はじめ世界中から著名な方々の来訪を受けるなど、
梁山泊に大いに活気が出た。日通機など企業との協力や各大学・研究機関の協力
連携によって、45m 大型望遠鏡建設に向けて計画が前進し始めた。
57
◆森本さんの思い出
言い尽くせない「ありがとう」を森本先生に
川合登巳雄
注ぎ口の付いた鉢(何という茶碗か不明)に冷蔵庫で冷やした山梨で買われた
という平べったいガラスのような小綺麗な石を何枚も入れ、そこに、当時野辺山
の宅間商店で売られていた「甲斐のみのり」
(安めだけどまあまあの口当たり)と
いう一升瓶入りのワインを注ぎ込み、森本先生ご自慢の飲み方をご披露くださっ
た。私も根っからの酒好き、野辺山時代の森本先生をまず思い浮かべるのは、や
はりみんなを森本先生特有の雰囲気で盛り上げてくれる楽しい酒の席です。
飲んだ勢いで、最後は森本邸に押しかけ、さらにおいしい料理とお酒をごちそ
うになる悪(?)循環。結局、翌朝森本邸のベッドから飛び起き出勤なんてことも
よくありました。
ある日の森本邸での酒宴の出来事。
(余計なことですが「出来事」と書いて、今ふと思い出しました。森本さんが
「“ 日常茶飯事 ” を “ 日常ちゃめしごと ” と書くのは要を得てるよね」とよく言わ
れてたことを。注:本文に関係無し、ご容赦を!)
二人ともかなり出来上がって上々気分。森本さんが「奥方と麻衣ちゃん(娘)
も呼んだら! タクシー代はおじさんが出すから」と、首を傾け気味ににんまりし
たあの優しい目で私の顔を覗き込み誘ってくれました。当時私ら家族は野辺山か
ら車で 30 分ほどの小海町の借家に住んでいましたが遠慮なく呼び出しました。
三浦海岸でとれたさんまと大根おろし、さんまの骨をすりみにして「つみれ」
に変身、手作りの「ぎょうざ」
、ラー油が無いと言って胡麻油をフライパンで煙が
出るまで熱しそこに唐辛子を投入、即席ラー油の出来上がり、等々いろいろ工夫
された料理が酔っ払っているとは思えない手さばきで次々と繰り出され、次々と
ごちそうになる私たちでした。
私が、家内に「森本さんの料理を見習えよ」と言ったら、森本さんはすかさず、
「見習うのは川合君の方だよ」と言われ、主夫?である森本さんにしてみれば、ま
さに見習うのは私。家内にはそれ以上何も言えない自分がいました。
また、森本さんが私の娘(保育園から小学校低学年にかけての頃)に会うたび
に、「麻衣ちゃんが二十歳になったらおじさんと結婚しようね」なんてよくちゃか
してくれました。そんな娘も良縁があり、今年の4月には出産です。
森本さんと最後にお会いしたのは 2009 年 12 月兵庫で開催された世界天文年日
本委員会のグランドフィナーレでした。もう森本さんとは思い出が作れないと思
うとたまりません。ルミナリエの明かりのようにずっと私たちを見守っていてく
ださい。
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◆森本さんの思い出
「科学とりもの帖」、幕府天文方と森本さん
伊藤節子
「科学とりもの帖」
(毎日グラフ:1992.1 ~ 1993.9.後に丸善から 1994.7 発行)
は、身近な話も含めた科学の話を、森本さんが楽しそうに書いている本だと思う。
このシリーズが始まった頃、森本さんを含めた何人かで、品川東海寺に幕府天
文方であった渋川家代々の墓を訪れた。そのいきさつなどについては、
「科学と
りもの帖」の[品川東海寺]
、
[幕府天文方の重要資料]を読んでいただきたいが、
ここでは、その際のエピソードを一つ。
渋川家の御子孫でいられる A 家で、私たちは[渋川家文書の調査]をさせて
いただいた。陣中見舞いにいらした森本さんは、A 家で喜ばれ、A 夫人が「家の
お爺さん(御当主のお父上で、最後の幕府天文方渋川家につながる)に似ている。
天文学者だからかしら。
」と写真を持って来られ見せて下さった。耳の大きいとこ
ろ、メガネをかけた写真の雰囲気。森本さんは、恥ずかしそうな、でも少し嬉し
そうな顔をして A 夫人と笑い合っていた。
この[渋川家文書の調査]の結果を最初に天文学会ポスターセッションで発表
した時、他のお二人と共に私と、森本さんも名を連ねており、森本さんとの最初
で最後の学会発表であった。この時、取材されたのが、
「科学とりもの帖」にも名
が出てくる由利さんである。
「科学とりもの帖」に S 子さんの一人として参加さ
せて下さった事、森本さんありがとう。
◆森本さんの思い出
森本さんの格闘技
笹尾哲夫
森本さんは、よく「研究は格闘技だ」と言っていた。それには、自然の謎との
格闘と、研究基盤獲得のための格闘、というふたつの意味があったと思う。
後者の意味で、森本さんは天才挌闘家だった。あふれるばかりのサービス精神で、
尽きぬ話題を絶妙な「おじさん」語りにのせ、しかも、人がひそかに誇りにして
いるもの(森本語で言う「性感帯」
)を素早く見つける類まれな能力で、みるみる仲
間と応援団(
「飲み友だち」
)を増やしていった。推進計画の魅力をワンフレーズで
伝える技も抜群だった。反面、道を塞ごうとする相手に対しては、ユーモアたっ
ぷりに弱みを突いて悔しさと怒りで我を忘れさせ、
「夜討ち朝駆け」で結束を切り
崩した。果ては、
「あいつはバカだ、ダメだ」と心底思わせてマークを外させるこ
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とも平気だった。森本格闘技では、これも禁じ手ではなかったのだ。一方で、科
学行政に影響力を持つ真の実力者たちとは、いつも深い信頼と共感で結ばれてい
た。それらの陰にどんな悩みや心労があったのか、凡人には知る術もないが。
45 m を作った頃は本当に大変だったが、45 m は天文学を変えた。その後も苦
労(
「楽しいこと」)は絶えなかったが、大きな計画を次々に実現し、先端観測装
置を持つ新制大学や、大型望遠鏡を持つ公共天文台の新しい時代まで切り拓いて
しまった。必ずしも自分が企画した計画ではなくても、必要と見ればとことん支
援し、実現させてくれた。
とは言え、前者の意味の格闘でも、森本さんは天才的だったろう。カルグーラ
干渉計の仕事は今でも伝説である。自分ではときどき、
「今オレが研究してもそ
こらの奴には負けないよ。でも若い時のオレには、負けるがネ。
」と言っていた。
きっと、森本さんは、
「若い頃の森本さん」が思う存分自然の謎と取っ組めるよう
な研究環境のためにこそ、あり余る才能を惜しみなく注いで人間社会で格闘した
のだろう。そして、
「使用前、使用後」で、こんなにも世界を変えたのだ。
◆森本さんの思い出
背中を見て学んだ森本さん
中井直正(筑波大学)
森本さんには、1982 年に大学院生として野辺山宇宙電波観測所で 45m 鏡にた
ずさわって以来、長い間お世話になりました。研究員のときには、アパートもな
い野辺山で森本さんが借りていた○ × ロッジと称する家の一室を借りて一緒に住
んでいたこともありました。私的なことで気にかけてくださったこともあり、公
私ともに大変お世話になりました。
しかし、私が最も恩義に感じていたことは、その背中を見せて下さったことで
す。世の中の大勢には関係なく、自分の頭で独自に物事を考え、行動されること
です。なかなかついていけない事も多々ありましたが、その姿勢には常に感心し、
多くを学びました。意識的にも無意識的にも自分が研究を遂行する上で影響があ
り、現在の大学での教育にも活かせてもらっています。私が尊敬する人のひとり
でした。
ずっと後年になって、兵庫に移ってこい、と強く言われたことがありましたが、
当時は別の件が念頭にあったので断ってしまいました。その判断は間違いではな
いし仕方のないことでしたが、長くお世話になった森本さんからのほとんど唯一
の要請に答えられなかったことが今でも残念です。
天国にいる森本さんへの恩返しとしては、日本の電波天文学をさらに発展させ
ることである、と思って微力を捧げたいと思います。
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◆森本さんの思い出
「思考実験大成功」から 36 年
稲谷順司(宇宙電波 OB)
私は大学院に入り東京天文台の6m アンテナを訪れたとき(1972 年)から森
本さんとのつきあいが始まった。しかし、優柔不断の私はなかなか自分の仕事を
見いだせずにいた。博士課程に進んだ年の夏,森本さんが「思考実験大成功!」
と叫んだ。直径1m ほどの小さなアンテナで「天の川」の本格的な分子観測が
できる、というのである。1970 年に CO 分子が発見されており、星間ガス研究
の強力なプローブになるという話はあったが、まだ広域観測は始まっていなかっ
た。森本さんは、木更津高専の気鋭の先生(小平眞次さん)がつくったアンテナ
を 115GHz 用に削り直し、それに電電公社通信研究所からもらってくるショット
キー・ミキサーを載せ、三鷹の6m で不要になった 30 チャネルのフィルタバン
クをつなぎこめば、自前の大規模 CO サーベイ望遠鏡ができる、と言った。当時、
次第に、第一線の観測データを生み出す仕事をしたいと思いつつあった私は、こ
の小さくて壮大な計画に魅力を感じて、木更津に入り浸りになった。
しかし、思考実験は大成功でも現実は厳しかった。受信機雑音は数万度。空の
1点の測定にも数時間かかり、サーベイ観測にならない。ミキサー開発は避けら
れなかった。それがその後の私の人生を決めた。観測天文学は技術無しでは成り
立たない。我々にあったのは夢と意欲と創意工夫だけで、あとはすべて外から学
んだ—メーカ、大学工学部、国の研究所、外国の研究所、等々。その学び方、“ 耳
学問 ” の仕方を森本さんは身をもって教えてくれた(手取足取りの系統的な教育
とは無縁のやり方だったが)
、夢と意欲で技術者を魅了し、味方に引きつけ、彼ら
の活力を天文台の力にしていく不思議な魔術。森本さんの迫力には比べるべくも
ないが、私のその後の受信機開発もこの方法論があったればこそ、と思う。ニュー
ヨークの会社に出向いて、受信機の性能を巡って厳しい責任追求をしたときでも、
開発を担った技術者に対して森本さんのかけた言葉は同じ困難に向かう同志に対
するものだった。
◆森本さんの思い出
森本さんといた宇宙
宮地竹史(国立天文台)
東京天文台時代の「宇宙電波部」
(通称「6m」
「ミリ波」
)は、三鷹の片隅に置
かれた小さなグループだった。今でも鹿児島大学の面高さんが、
「七人の侍」と言
うが、40 年を経て、今では国立天文台だけでなく、世界的にも注目される大きな
集団になっている。
61
思うようには進まない事も多くなり、時々会う森本さんと飲みながら愚痴をこ
ぼすと、「僕らは、そういう宇宙に住んでいるのさ」と、笑いながら酒を注いでく
れる。「おじさんと6mしない?」と、太陽電波観測のアルバイト中にキャッチさ
れ、「森本さんの宇宙」に引っ張り込まれた。森本さん曰く「公務員飼い殺し」の
宿舎が構内にあり、仕事と生活がいっしょのような6m時代から、45 m(野辺山)
、
VSOP、VERA といっしょに仕事させてもらったが、仕事の内容も、やり方も常
識破りで苦労も多かった。
そんな中、
「お弁当を作ったから……」と、あちこちに連れて行ってくれ、また
「ご相伴してくれる?」と、客人接待の同席や、夜な夜な晩酌の相手をさせても
らった。いつの間にか、楽しくおもしろい「森本さんの宇宙」のノウハウをたく
さん教えてもらっていた。
「森本さんの宇宙」は、宇宙膨張で希薄な部分も出てきたが、いろんな望遠鏡を
作りながら、夢や希望、「望遠鏡を作る人々」を思いやる心が満ちていた。
「森本
さんといた宇宙」は、忘れることのできない貴重な思い出となった。
◆森本さんの思い出
森本先生の思い出
斎藤新代
森本先生には、野辺山宇宙電波観測所を立ち上げて共同利用の為の食堂ができ
たときからお世話になりました。始めて先生にお会いしたのは雪の降った日でし
た。最初どこかで見た人だと思いましたら昨晩テレビに出ていた人が車にチェー
ンを巻いていました。海外にも仕事でよく行かれてその度に観測所の女性だけを
集めてお土産をくださいました。指輪、ネックレスなどいまだに大切に取ってあ
ります。外国から来た人たちがたいくつしないようにいつも気をつかっており、
家に招いていました。お正月は、学生や外国から来た方々におせち料理を作って
くださっていました。
私達にもよく先生のお宅で食事をごちそうになりました。鶏ガラスープを製氷
皿で冷凍したり、手作りギョウザ、うどんも粉から作ったり、鰯のつみれなべな
ど色々と勉強させていただきました。事務やパートの人の為に、やさしい天文学
の講義も開いてくださいました。
あと先生が西はりまへ行かれて、「兵庫は大きな博物館」というサイエンスツ
アーを始められて 20 何回かのうち7~8回参加させてもらいました。先生らし
いツアーで楽しかったです。町長さんが案内してくださったり町役場の人達が焼
きうどんを作ってくださったりいかに先生が地元の人達との絆を大切にしてい
るかがわかりました。ツアーの常連で今年 93 才になる小林定子さんという方は、
「80 代は森本先生のおかげでキンキラでした」と話しておられました。こうして
書き始めると次から次へと思い出は尽きません。
62
◆森本さんの思い出
偉大な「おじさん」
前野将太(兵庫県立西はりま天文台公園)
会話の中で「おじさん」という言葉が出てくると、真っ先に森本さんを思い浮
かべてしまうほど、私の中でおじさんは非常に大きな存在であった。
おじさんと初めて会ったのはわずか 3 年ほど前。そのときおじさんはその場に
いた女性の名前を聞くと「おじさんの初恋の人と同じ名前だねぇ」と言われてい
た。「え!そうなんですか。それはすごい偶然ですね」と私は真面目に返事をして
しまったが、その後何度か同じ場面に遭い、ようやくおじさんの口癖の一つであ
ると理解することができた。おじさんといるとこれまでになかった新鮮な経験を
することができた。一方で、おじさんの現役時代を知らない私でも、おじさんが
どんなことにでもわずかでも疑問を持てば他の人に質問したり、解決しようとす
る、その研究者としての貪欲さを肌で感じ、脱帽した。
勉学だけでなく、遊び心、懐の深さ、行動力、……数え上げればキリがないが、
おじさんの様々な面を見習っていきたいと思う。おじさん、ご冥福を お祈りいた
します。
◆森本さんの思い出
顔が映ればいいんだよ
奥田治之
大学院時代には宇宙線物理をやっていたのに、何の気の迷いか、赤外線天文に
飛び込んでしまった。赤外線については、何の知識も経験のないままに、月の赤
外線放射の位相特性の観測などを手探りで始めた。もちろん、自前の望遠鏡など
あるはずもなく、観測には、岡山天体物理観測所の望遠鏡を使わせていただいた。
しかしながら、年2、3回の観測では、手作りの観測器で開発的な仕事をするこ
とは至難のわざで、また、赤外観測特有のチョッピング機構のある専用望遠鏡の
必要性を強く感じるようになった。とはいえ、当時は、望遠鏡を作るなどといっ
たことは夢にも考えられなかったが、一緒に仕事をしている大学院生からせがま
れて、物理一般で科研費の申請をすることになった。駆け出しの研究者に一般A
などという科研費が当たるはずがないと思っていたのが、何のはずみか当たって
しまったのには驚いた。しかし、総額 1,400 万円でどうやって望遠鏡が作れるか
途方に暮れ、思い余って、当時、6mのミリ波望遠鏡を作っておられた森本さん
に話をしたところが、ミリ波のアルミ鏡を作っている焼津の法月鉄工に相談して
みようと言われてことが始まった。意欲満々の法月社長が「やってみましょう」
63
という返事をされたと聞いて、まさか、赤外線とはいえ光の望遠鏡が鉄工場でで
きるとは信じられなかった。後で聞いた話であるが、このとき、森本さんは「顔
が映る程度の望遠鏡でいいよ」と社長に言われたそうだ。これでは、話が違うと
思ったが、普通の製法で作れば何億円もかかる望遠鏡を 1,400 万円で作らなけれ
ばならず、また、期間も 3 年間と限られていたので、他に手もなくスタートする
ことになった。
その後は、語るも涙、聞くも涙の毎日が続いた。法月社長の考案で垂直型の旋
盤を作り、旋盤加工で直径1mの鏡の原型を作り、表面をカニゼンメッキしたう
え研磨すると言った手法で何とか鏡らしいものができた。大学院生だった佐藤修
二君はそれこそ寝食を忘れて、シュラフザックを鉄工場に持ち込み完成まで日夜
頑張った。なにはともあれ、望遠鏡は形を整え、1972 年 7 月 7 日に上松町の牧
場の片隅で、ファーストライトを受けた時には、森本さんも駆けつけて下さり
祝っていただいたときの感激は忘れられない。完成後の観測は、手作りの観測機
によるたどたどしいものであったが、若者の涙ぐましい努力によって、新星、彗
星の観測、赤外線星、銀河中心の偏光観測などでいくつかの結果を出すことがで
きた。銀河中心の偏光観測は、ノイズに埋もれた苦しい観測であったが、赤外偏
光の初検出に成功した。森本さんは、その結果をリエージェで開かれた国際会議
で発表することを快く引き受けて下さったことも有り難く懐かしい思い出である。
その後も、森本さんは、我々のような素人集団が始めた赤外線観測を、常に温
かい気持ちで見守り、終始、応援してくださった。電波天文学はもとより、我が
国の赤外線天文学にとっても大恩人である。 何よりも、森本さんの真骨頂は、人を動かす絶大な力であった。そして人の心
をつかむ達人であった。研究者に限らず、技術者、企業人、ジャーナリスト、政
治家、市井の大人から子供まで、森本さんの虜になってしまった。決して権威に
おもねることなく、強きに厳しく、弱きにやさしかった。これが、野辺山のミリ
波望遠鏡の建設、スペース
VLBI 計画の実現などの大
計画を見事に成功させ、定
年後の鹿児島大学での天文
学科創設、西はりま天文台
をはじめ全国各地での数え
きれない活動の原点であっ
た。森本さんの余りにも早
い旅立ちが悔やまれてなら
ない。それにしても、森本
さんの生涯を通じての見事
な生き方には感嘆するばか
りである。 64
▲上松赤外望遠鏡建設 25 周年における記念写真(中央が森本さ
ん。小林行泰君提供)
◆森本さんの思い出
森本先生の思い出
藤原晴美(天文教育普及研究会会員)
1983 年の 8 月、三鷹天文同好会は第 1 回目の合宿勉強会を、清里のペンション
で行った。その時に講師をお願いした森本先生は、開設間もない野辺山電波観測所
のこと、電波天文学の研究のこと、宇宙を知ることは自分たち人間を知ることなの
だ等、分かりやすくて、とても印象深い講義をしてくださった。その後も私たちの
同好会では、先生に何度も講演をお願いし、最新の研究の情報を伝えていただいた
し、野辺山の観測所の見学の時には、いつも案内と説明をしていただいた。
初めて見学に行った日のこと。45m の電波望遠鏡—森本先生は「白象くん」と
呼んでいらした—の展示室で、「晴美さんにならこの面の微妙なカーブが分かる
かも知れないね」と、私にパラボラ面の反射パネルを触らせてくださった。また、
実際に風洞試験に使った 45m の模型も触察させていただいたこともあった。
私は今、森本先生が次のように話していらしたのを懐かしく思い出す。
「一般の
博物館は『触らないでください』でしょ。でね、目の見える人だって触って知る
ことってとっても大きいんだけど、すこーし忘れてんのね」
。
◆森本さんの思い出
森本先生に捧ぐ
中村昌和(1997 年鹿児島大学入学 宇宙コース1期生)
森本先生との出会いは 97 年、私は面高先生の研究室を訪ね、そこで森本先生
と出会いました。それから研究室に通い、研究室では「週刊少年ジャンプ」と昼
寝場所であったソファーの場所取り合戦……。今考えると恐ろしい事をしていま
した。スミマセン! 先生の講義は解りやすく、人気の授業で、学生から出され
るレポートにもよく目を通されていました。
最後にお会いしたのはだいぶ前でしたが、百武彗星の発見者、故・百武裕司氏
の葬儀の席でした。お元気そうなお姿を拝見していただけに、今回の訃報に接し、
大変衝撃を受けました。
実はあの日の朝、家の居間の時計が7時 40 分で止まったのです。先生が知ら
せに来てくださったのかなと夫婦共々話をしています。今もそのままそっと置い
てありますが、今回のお別れ会の終了を機に、時を進めようと思います。そして
私達も前に進んでいきたいと思います。
森本先生、本当にお世話になりました。ゆっくりと彼の地で宴席お楽しみくだ
さい。
65
◆森本さんの思い出
鹿児島大学での思い出
須藤広志(岐阜大学)
森本先生と縁の深い野辺山のほど近くで生まれ育った私が鹿児島大学に進学し
たのは、先生が鹿児島大学の教授に着任されると知ったのがきっかけです。先生
が鹿児島におられた 5 年間は、私の在学期間とぴったり一致しています。
鹿児島大学時代の森本先生を一学生の視点から振り返ると、まず、先生はあら
ゆることが規格外でした。名物授業の宇宙科学概論では、理系文系問わず 500 名
近い受講生に毎週レポートが出され、先生はその全てに点数・コメントをつけて
いました。OCR 装置で学籍番号と点数をスキャンしてデータベースにまとめる作
業を、当時大学院生の石塚さんと私とで一緒に、時には徹夜になりながらも、よ
くお手伝いしたものでした。
輝いていたのは授業の時間ばかりではありませんでした。お昼に学生食堂へ行
かれる時、全然知らない学生たちのテーブルにすんなり入って、いつもの調子で
ずっと話し続けているのです。当時の在学生は皆、授業を受けていなくても森本
先生のことを知っていたと思います。それに留まらず、宇宙の啓蒙活動を通じて、
鹿児島の人々に広く知られる存在でした。
宇宙コースができる以前の教養部時代の森本・面高研究室の学生は、学科の正
規の研究室に所属しつつ、宇宙が好きで自主的に集まってきた学生ばかりで、理
学部、工学部、あるいは文系の学生も含めた混成チームでした。当時は 6m 電波
望遠鏡の立ち上げの真っ最中で、鈴山さん、山口さん、古屋さん、望月さん、古
田島君、渡辺君など、大変個性と情熱あふれるメンバーがいて、とても活気があ
りました。その源泉が、森本先生でした。
しかし、実は私は学生時代には研究面ではそれほど深く交流できませんでした。
私が森本先生から多くのことを学んだのは、むしろ岐阜大学のスタッフに就いた
後です。最後にお会いしたのは亡くなる直前の 10 月でした。私がある研究会で
観測プロジェクトの進め方について少し厳しい発言をしたことを聞いておられ、
冷や冷やしたと言いつつもとても喜んでくださり、励ましていただきました。そ
の時最後に頂いたのは以下のような言葉です。
「研究者とはいえ、最後は人間同士
の関係が大きい。お互い恨みなくプロジェクトを進める(止める)ためには、研
究会などの場で言いにくいことも発言し、同時にプライベートな信頼関係を築い
ておくことだ」
。
学生時代にはユーモアあふれる森本先生しか知らなかったのですが、一研究者
としての森本先生の厳しさ、偉大さを知るにつれ、尊敬の念は増していきまし
た。そして、もっといろいろなことを教えていただきたかった……と残念でなり
ません。大学入学から 20 年近く、公私ともに見守っていただきました。森本先生、
本当にありがとうございました。
66
◆森本さんの思い出
笑顔をありがとう
時政典孝(兵庫県立西はりま天文台公園)
「それってとってもいいことだと思わない?」
おじさんはニコニコしながら話しかけてくれるんですが、こっちはそれどころ
じゃありません。誰かと話をする時、その相手がどんなことを言いたくて、どん
な返事を待っているか、そんなことを考えながら相手の話しを聞きますよね。全
く困ったことに、おじさんはそんなところを分かってか、私には理解しがたいた
とえで語りかけます。みなさんも経験しておられますよね。 お酒を飲んでお話し
する時は、さすがにそうでもないのですが、昼間に二人きりの時に話しかけられ
ると、途中でオーバーヒートしそうになるくらいおじさんのたとえに考え込んだ
ものです。
おじさんはどう思って語られたのか分かりませんが、今になって思い出せば、
そんなオーバーヒートな感覚、とーっても気持ちよかったですよ。あんな思いに
させる人、私の周りには他にいません。これって恋? なんだかおじさんにやら
れっぱなしです。
「おじさん、おじさんはいつからおじさんなんですか。
」
「40 の頃からかなあ。
」
みんなにおじさんと呼ばせて親しまれて、ちょっとうらやましい。でも同じこと
は決してできない。でもそれに近づいてみたい。
「おじさんがおじさんじゃなく
なったら、僕も 40 になったし、おじさんって語っていいですか?」
「いいよいい
よ。」でもおじさんはおじさんのまま逝ってしまいましたね。
「時ちゃん、おじさんといつも遊んでくれてありがとうね。
」
なんでこう低姿勢なんでしょう。おじさんくらいたくさんの業績があると、片
意地を張ってはり合おうなんて醜い人間から脱却できるのでしょうか。
「経済だっ
て学問だって人間から張り合おうとする気持ちが無くなれば、きっと長い間人間
は地球に住めるんじゃないかなと思うんです」ってお話しした時、おじさんは
「面白いこと言うね」って妙に納得してくれました。私はおじさんが若い頃を知り
ません。多くの業績は、きっとガリガリと仕事を進めてきた結果なのだと思いま
す。「業績が無ければ境地にいたれないのでしょうか? おじさん。
」そんなお話も
しておけば良かった。オーストラリアに残された電波望遠鏡の土台。未来人をも
だますつもりだったのかな。いくつものおじさんのお話が、私の記憶の扉が開か
れる度に微笑ましく思い出されます。
67
◆森本さんの思い出
森本雅樹さんの宇宙
多田欣一(住田町長、「すたーうおっちんぐ種山ヶ原」実行委員 OB)
森本先生のご逝去、誠に残念でなりません。心より哀悼申し上げます。
岩手県住田町「種山ヶ原」
。ここは宮沢賢治文学原点の地でもあります。
ご夫妻には、住田町の若者が 1988 年から 16 年間にわたり実施した「すたーう
おっちんぐ種山ヶ原」に毎年お出でいただきました。
先生との出会いは、私が突然野辺山天文台を訪問、イベントの講話をお願いす
ると、私が持参した 42 度の焼酎を茶碗に注ぐと同時に一気に飲み干され、
「満月
の夜に星を見るお祭りを企画する素人では心配だ、お酒も旨いので行きましょう。
私が行かないとお祭りにならないんでしょ。
」と即答、とても衝撃的なものでした。
イベントでは、宇宙と平和のお話しをいただきました。講話の後は火を囲み、
参加者と一問一答、星は見えずとも宇宙を感じることができました。勿論、手か
らビールが離れることは、一時もありません。
私達は、先生との絆を失いたくないと、ストーンサークルの中心に、先生専用
の石を置き、先生揮毫の文字『 』
(ウチュウ)を刻みました。
先生ご夫妻はこの座石を大変お気にいられ一昨年の夏、ご夫妻が種山ヶ原にお
出でになり、これを自分の墓石にしたいと話されました。
失礼ながら私は、お断りしました。この座石がここにある限り、先生と私達の
絆はつながっていると考えたからです。
しかし私たち実行委員OBは、とても光栄なことであると考え、もう一基の
『
』をつくり、先生の一周忌に東京にお届けし墓参することにしました。
また、今年の夏には、奥様にもお出でいただき「森本先生を偲ぶ会」と「す
たーうおっちんぐ種山ヶ原」を行い、再会したいと考えております。
『 』の上には、ビール片手の先生がいます。そして、地球と平和の大切さを、
Dr. MORIMOTO が『 』の上から、広い宇宙に向け発信しているのです。
森本先生、本当にほんとうに、ありがとうございました。私達は、先生の教え
を大切な宝として、種山ヶ原とともに受け継いでまいります。
先生のご冥福を心よりお祈りいたします。
68
◆森本さんの思い出
森本星まで届け! 日本フィルサウンド
賀澤美和(日本フィルハーモニー交響楽団企画制作部)
コンサートホールの客席の灯りが落ち、楽員が上下(かみしも)の袖から登場
すると、雰囲気はいよいよ指揮者の登場を待つばかり……。しかし、1997 年の
日本フィル鹿児島公演で事件は起こりました。世界的指揮者・小林研一郎氏では
なく、森本雅樹先生が「おじさんでぇーす♪」と満面の笑みで登場されたので
す!そのいでたちは、タキシードに星のスカーフ。ご来場のお客様に「みなサー
ンようこそ~」と嬉しそうに語りかける型破りのスピーチに、客席からはどよめ
きと大きな拍手が送られました。
それから 13 年間、このコンサート直前の “ ハッピーセレモニー ” は、1 年も欠
かされることなく続いてきました。最初こそ、異例とも言えるスピーチに度肝を
抜かれていた日本フィルの楽員たちも、
「森本先生だからねえ~」とすっかり納得。
毎年変わる指揮者の方にも、
「鹿児島は、実行委員長のごあいさつがないと始まら
ないんですよ」とレクチャーするまでになっていました。
実行委員長としての森本先生の活動は、ごあいさつにとどまらず、多岐にわ
たっていました。日本フィルは、特定のスポンサーを持たずに活動しているオー
ケストラのため、九州公演にも多くの企業・法人の方から協賛をいただいていま
す。森本先生と鹿児島の実行委員の方々と一緒に、多くの企業を訪ねるとき、先
生はいつでも誰に対しても同じ態度でした。にっこり笑って、決して無理強いす
ることなく、理解と協力をお願いされ、多くのファンを獲得しました。
《伊佐錦》
ブランドで有名な大口酒造は、いつでも焼酎の新酒をご用意されて、先生がお見
えになるのを待っていらっしゃいましたし、MBC 南日本放送のアナウンス室でも、
かつての番組のアイドルとしてひっぱりだこでした。
また、コンサートの当日、鹿児島県文化センターの前庭(大河ドラマ「篤姫」
で有名になった小松帯刀像がある)に望遠鏡を設置し、コンサートにやってきた
お客さまや通りすがりの子どもたち、楽員にも「今日は土星が大きく見えるヨ」
と見せてくださったことも思い出されます。
“ 鹿児島の顔 ” としての対外的な活動の一方で、鹿児島のお客さまにコンサー
トの PR のための電話かけをされる地道な活動もしていらっしゃいました。姫路
に引っ越してからもそれは続き、その数= 1 年に約 2,000 件、遠距離電話代は十
数万円に及んでいたそうです。中には、
「毎年おじさんとお話しするのが楽しみで
す。」という方も少なくなかったとうかがっています。その情熱と行動力には、い
つも感謝と尊敬の念をもっていました。
一方で、女性には常に興味津々。2007 年、ロシア人の美人ヴァイオリニスト、
アナスタシア・チェボタリョーワさんをソリストに迎えたときです。終演後、楽
員との交流会でおじさんの決めゼリフが炸裂しました。
「アナスタシア? わー、
おじさんの初恋の人と同じ名まえ~(♥)
」一同ひっくり返って大笑い。森本先生
の周りは、いつも明るいオーラで包まれ、コンサートの余韻をより思い出深いも
69
のにしてくださいました。
2010 年の 12 月 26 日、国立天文台での《森本先生ありがとうの会》に伺った
ときに、森本先生のお写真の展示を拝見しました。青年時代の森本先生が、私た
ちの知っているお顔のままで笑っておられるたくさんの写真を見て「ああ、森本
先生は人生を笑顔で生き抜かれ、まわりも笑顔にされた方なのだ」と心から実感
いたしました。
今年の鹿児島公演では、森本先生のいらっしゃる星の国まで届くよう、心をこ
めて演奏したいと思います。そして、森本先生を見守りともに歩まれた、ご主人
様・せつさんがお元気でお過ごしになることをお祈り申し上げます。
◆森本さんの思い出
星に帰った森本雅樹を偲ぶ
和田英一(IIJ 技術研究所)
森本との出会いは教養学部から物理に進学した時だ。講義は地物や天文と一緒
で、一際目だつのが森本であった。天文なのに、進んで物理のクラスをまとめて
いた。彌永先生の試験に√2 や√3 などは、有理数で表わせないことを証明せよと
いうのがあり、彼が監督の先生に「などというと√4 も証明するのか」と質問した
のは遠い思い出である。
ニュートン祭で、萩原先生が「森本君は将来の台長」とおだてられたが、あの
才器ならそうなるかとも思われた。
卒業後、森本は天文学、私は計算機と分かれたので、森本の仕事は漠然としか
承知せぬが、一度だけ一緒だったのは近田君の学位論文審査である。論文でプロ
グラミング言語も扱っていたから、工学部にいた私が副査を頼まれた。その際、
古在先生や海部さんとお近づきになれ、貴重な機会であった。
物理 + αのクラス会は毎年開催される。森本の地元開催が 2 回ある。野辺山開
催の時は、電波望遠鏡の説明を聞き、夜は彼の下宿に全員で押し掛けた。森本が
公園長の西はりま天文台公園での開催もあった。ロッジに泊り、
「なゆた」に替る
前の望遠鏡を交代で覗いた。翌朝の佐用の朝霧は記憶に残る。
クラスの有志で、2002 年にハワイのすばる望遠鏡を見学したことがある。こ
の時の最初の取次ぎは森本であったが、私からも海部さんにお願いし、現地の小
笠原さんにお世話になった。多くを経験出来、生涯忘れられぬ旅の 1 つである。
60 年近い森本との付合いが、かくもあっけなく終るとは想定しなかった。何か
とおどけつつも、議論になると適切な事例で諄々と論じ、周囲を納得させるのが
常であった。周囲への気遣いを大切にする人であった。一方、彼のホームページ
には、見事なアングルで撮った花の写真や自分で工夫調理した食事の記録があふ
れ、新たな一面を知らしめた。思い出は尽きぬ。わが心に永く生きる森本に、あ
りがとうといおう。
70
◆森本さんの思い出
シドニー時代の思い出
樋口敬二(名古屋大学名誉教授)
森本雅樹さんと私の交友はほぼ半世紀の長きにわたるので、他の人が遠慮して
言えないような思い出を最初に書いておくと、森本さんの女性の接し方が天才的
であったことである。先ず、せつ夫人のことを “ 主人 ” と呼び、知人には「いつ
も “ 主人 ” がお世話になりまして」と挨拶する。そして他の女性に対しては誰に
でも「綺麗! 綺麗! 大綺麗!」を連発し、集会の場では サッと女性のスカー
トをめくる。“ 東大教授のスカートめくり ” としてマスコミでも有名であったが、
そのめくり方が絶妙で、女性の方も「キャーッ」と悲鳴を上げて逃げ惑うくせに、
相手にされないとちょっとがっかりしたような表情をする。そこが森本さんの人
気の源なのである。
ところで、雪氷学、気象学という地球科学を専門としている私が森本さんと親
しい付き合いをするようになったのは、1963 ~ 64 年、オーストラリアのシド
ニーで、同じ研究所にいたからである。当時、私は北海道大学理学部地球物学
教室・気象学研究室の助教授として航空機による観測方法を学ぶため、この分
野の先進国であるオーストラリア連邦科学工業庁(CSIRO)の電波物理学部門(
Division of Radio Physics)の雲物理学研究室で研究していた。一方、この部門
には世界一流の電波天文学研究室があり、そこに森本さんがいたので、ごく少な
い日本人研究者同士として親しくなったのである。
このようにかけ離れた二つの分野の研究室が一つの部門を構成していた理由は
設立の経緯にある。私がいた時の部門チ-フであったバウエン(Bowen)は、第
2次大戦中、イギリスにおいて航空機を電波で捉える新技術であるレーダーの開
発に主役を果たした人で、戦後にオーストラリアに来て、レーダー技術の発展と
し天体電波を捉える研究を進め、電波天文学の新分野を開く一方、別の応用とし
て気象用レーダーを開発し、その成果が雲物理学、人工降雨実験に発展したから、
この二つが一つの部門になったのである。
だから、CSIRO の電波物理学部門は戦後の科学技術発展史の一断面を示してい
る訳であり、そこから森本さんと私を結ぶ機会が生まれたと考えると、やや大げ
さだが、そこに日本の科学技術の展開が反映していると考えられると述べて、森
本さんを偲ぶ言葉の結びとしたい。
71
◆森本さんの思い出
また会うときがあるカナ?
齋藤修二
野辺山に 45m 鏡が完成し、共同利用の初めの頃に、いくつかの分子の候補の
探査と言うことで時間をいただいた。1984 年 2 月 2 日から始まった観測には、
観測所から森本先生、平林先生、鈴木さん、大石さんが対応してくださり、分子
研から川口さんと私が参加した。意気込みは良かったが、観測はスムーズではな
かった。初日はデータ取り込みのタイミングのトラブル、2 日目は後半が雪、3
日目はソースへのオン ・ オフ不調と後半の雪、観測データとしては 2 日目前半の
TMC-1 のデータが使えるかどうかだった。
3 日目夕方、雪で観測が出来ない状態で、森本先生が突然、“ 装置が不調なの
も、雪が降るのも、全て私のせいで、お詫びに、今夜はうちで夕食にしましょう ”
と言われた。と言う訳で、その夜は森本先生のお宅へ、鈴木、大石、川口、私の
四人で伺い、森本先生手造りの料理で飲み会になった。当然のことながら、45m
鏡製作の発端、開発グループの立ち上げ、そのデザイン設計、資金調達をはじめ
として、宇宙電波分光、特に星間分子分光の世界的な現状と見通し、実験室分光、
星間化学などと、さらに研究以外のもろもろの話題が次から次へと語られ、私は
森本先生のお話に魅了された。お開きになったのは、森本先生宅の飲み物の在庫
が空になった夜半過ぎであった。
当時、少なくとも私、実験室分光研究者は電波天文で将来、面白くなりそうな
分子のデータを供給すればと言う立場だったが、この夜の話の輪、特に森本先生
の巧みな弁舌は、私をその傍観者的立場から一歩踏み出すように一押ししてくれ
た。明け方近く、野辺山の研究棟の入り口の寒暖計が示した、- 20℃以下のとて
つもない寒さの記憶とともに思い出す。
2010 年、森本先生からの年賀状には “ また会うときがあるカナ? ” であった。
今でもまたお会いできるかなとふと思うことがある。
72
◆森本さんの思い出
森本さんと天文台職組
齋藤 衛
東京大学東京天文台職員組合に、森本さんと私が共に所属していたのは、1960
年代後半から 1981 年までの約 15 年間でした。まだ、戦後の民主化運動がつづき、
そのうえにアメリカのベトナム戦争に反対する運動、中国の文化大革命やヨー
ロッパの学生運動の影響のもとでの東大紛争などのため、職組の活動は多方面に
わたり、また活発でした。
森本さんは、職組活動の意義を直感的に理解し、参加支援をしていたと思いま
す。たくさんの想い出の断片から、3つのことを記してみましょう。
1:天文台職組の組織率は、先人たちの努力のおかげで、東大の他の単組に比
べて一貫して高いものでした。主な活動が、職員の待遇改善だったことによると
思います。しかし、いろいろな理由から、組合を辞めたいという人がでてきます。
森本さんが役員のときに、この問題がおこりました。彼は、その組合員の意見を
聞くために岡山観測所まで出かけました。たまたま観測のために滞在していた私
は、森本さんの話し声から、そのことを知り、頭の下がる思いでした。
2:ある集会のために、文部省(本郷だったかも)まで大型貸切バスで出かけ
ることになり、玄関前から事務長の制止を振り切ってバスに乗るという激しいこ
とになりました。委員長のIさんは、あまりの厳しさに車中でぐったりとなって
しまいましたが、森本さんは、Iさんの隣の席に座って、励まし続けていました。
3:天文台構内のふじの花がきれいに咲くころ、メーデーがあります。森本さ
んは毎年のように、
「おにぎりもってメーデーに行こうよ」とみんなに呼びかけま
した。山手線の西端から東端までを進むコースで、森本さんの大きな声でのシュ
プレヒコールの音頭は、東大職組隊列の名物であり、華でした。
国立天文台になっても、職員を大切にする気風が受け継がれること、これが森
本さんが望んでいることであったと思います。
73
◆森本さんの思い出
金婚祝あちこち
森本せつ
昨今は、金婚式を迎える夫婦は珍しくなくなりました。が何故かその時私は人
並みに迎えることが出来たという安堵感がありました。
2009 年 4 月 12 日に姫路の野里の家に一番近いおすし屋さんで静かに盃を重
ねました。すし屋のご主人が笑って祝ってくれました(写真1)
。私たち夫婦は、
チョット変った形で生活をしてきたからかもしれません—結婚して3年目に一歳
の長男を連れてシドニーへ、2 年後に帰ってきて天文台の官舎に住んでからは家
庭というよりはミリ波と一体の生活、15 年後には雅樹だけ野辺山へという風に—。
2009/6 に孫娘の高校卒業式出席のため二人でホノルルに行った際、日本式レ
ストランで2度目のお祝い(写真2)。同じ年の9月 NY に住んでいた長男一家が
帰国して熱海で3回目のお祝い(写真3)
。幸いに包まれた年でした。
彼は、私が 25 年前に建てた中野の家には、ついに住むことはありませんでし
た(写真4)。せっかく小惑星(6650)MORIMOTO の星を頂いたのですから、こ
れからは余り寄り道をしないで早くそこに定住してください。
▲写真 1
▲写真 2
◀写真 3
※編者注:小惑星は、太陽のまわりを回っている多数の小天体であり、
主に、火星と木星の軌道の間にあります。「はやぶさ」がサンプル・リ
ターンに行った「ITOKAWA( イトカワ )」も、小惑星の 1 つです。登録
番号 6650 の小惑星は 1991 年 9 月 7 日に円館 金さんと渡辺和郎さん
によって発見され、その後、渡辺和郎さんと渡部潤一さんの提案により、
森本雅樹さんの名前から MORIMOTO(森本)と命名されました。
74
▼写真 4
◆森本さんの思い出
雅樹の子供のころ
森本治樹
雅樹は 4 人兄弟の 2 男です。長男の私と末弟の間が7歳という近接した年齢で、
20 歳近くまで一部屋で 4 人雑居し、遊んだりふざけたり喧嘩したりしていました。
それについて書き始めると、思出すことが多過ぎてまとまりません。やむをえず
箇条書きすることをお許し下さい。
( )内は私の註です。
1. 当時としては特別大きい 3,050g の、至極健康な赤ん坊だった(幼年期は
背は低めでポッチャリと肥り、ノンビリしたとてもかわいい子でした)
。 2. 1937 年に東京から広島に移る。恐らくその翌年、6 歳のとき、郊外へ梅
見に行く途中、市内電車の終点から横川駅まで数分歩く間に一人だけ見えなくな
る。「迷子は…?」と尋ねても誰も見ていない。実は電車の車掌に「ボク迷子にな
りました…」と交渉して無賃乗車させてもらい、家に帰ってひとりで弁当を食べ
ていた。途中乗り換えがあるので、交渉は 2 回(万事につけて動作が遅い子でし
た。きっとよそ見してノロノロ歩いていたのでしょう。こういう時に全く泣かな
いので、だれにも迷子とわかりません。親の方が泣き出す寸前。8, 6, 5, 1.5
歳(当時)の 4 人を監視するのは大変) 3. 低学年の頃、家族で松茸狩りに行き、お昼のスキヤキ…というとき、マッ
チを忘れたことに気づく。このとき突然、お尻のポケットから虫眼鏡と習字の墨
で真黒の古新聞を取出し、点火して救世主となる(いつも一人で変わったことを
考えているらしい。いつも「救世主」とは限らないが)
。 4. 忘れ物の多さを心配した担任の先生が、各人の忘れ物回数の棒グラフを貼
り出すと、たちまち上端まで独走。次の紙では雅樹だけ 2 欄を与えられる(本人
は一向平気で、ランドセルに弁当だけで行った日もある)
。 5. 父親がいつからか息子の「頭の良さ」の順位を決めていて、雅樹が「もち
ろん」1位(学校の成績が一番良い弟が最下位。天才肌の数学者でかなり独断的
だった父らしい順位ですが、私共も何となく受入れていました)
。
(戦後のこと)1944 年に東京に移り、中1で戦争が終わります。雅樹は秋葉原
で部品を買ってラジオを組立て、高校生のくせに「ラジオ技術」誌に寄稿し、大
人の専門家と一緒の座談会が放送されたりします。さらに「電蓄」
、テレビも組立
てますが、不調・故障も頻発していました。上下逆さに写るテレビを、股の間か
ら見てみんなで笑ったことを、なつかしく思い出します。
75
◆森本さんの思い出
鹿児島に、日本フィルに元気をありがとう
二反田信一(日本フィル鹿児島公演副実行委員長)
日本フィル(日本フィルハーモニー交響楽団)は毎年 2 月に九州 11 都市を 2 週間か
けて演奏して回る九州公演を行っている。36 年もの間市民が支え続けている世界でも
稀なコンサートだ。森本先生はこの九州公演の中の一つ、鹿児島公演の実行委員長を鹿
児島大学在任中から 14 年間にわたり務めてこられた。
先生が実行委員長に就かれる前の鹿児島公演は、実行委員会組織も脆弱で、勿論、一
家の主である実行委員長も不在で危機的状況だった。
実行委員長のお願いに行ったとき「会議に参加していっぱい喋り、いっぱい宣伝して、
いっぱい券を売らせてくれ。そして、燕尾服を着て開演前のステージからあいさつをさ
せてくれ」と度肝を抜かれるような言葉が返ってきた。名前だけでもと軽い気持ちでい
たからだ。先生はその言葉通り実践された。公演は最初の年から 2000 人ホールが一杯
になるほどの盛況ぶりだった。結婚式の仲人が着そうな燕尾服姿で「音楽と縁がないお
じさんが、元気だけが取り柄で実行委員長をすることになった」と、デビューのあいさ
つをされた。2 社しかなかった企業が資金を出し援助する特別会員も、2 年後には 10
社に膨れた。実行委員も増え、まるで魔法でもかけられたかのように、公演はたちまち
にして活気あるものに様変わりしたのだ。
先生はやがて鹿児島大学を退官されることになり、兵庫県姫路市に引っ越されると、
思うように動けなくなられた。それでも実に 12 年間もの長きにわたって姫路と鹿児島
を行き来しながら実行委員長を続けてこられた。そして、チケットの販売が始まると、
毎年 2000 件を越える家に姫路の自宅からせっせと電話で声を届け続けられた。
先生は演奏会で多くの人と会われることを楽しみにされていた。昨年 11 月 15 日、
今年 2 月の本公演を PR するために鹿児島市内 4 箇所で行われた弦楽四重奏団の演奏会
には、大事な用事で来られないことになっていたが、その用事を急きょキャンセルして
参加された。お客さんに悪いと考えられたのだろう。前日の飛行機の最終便で鹿児島入
りされた先生は、特別会員や日本フィル弦楽四重奏団のメンバーに、大好きな天文館の
酒席で暖かく迎えられ上機嫌だった。そして、演奏会はそれぞれの会場が盛況で多くの
感動が生まれ、先生も大変感激された。演奏会も無事終わり、行きつけだった魚屋に立
ち寄ると、久しぶりに会われたお上さんが抱きついて喜ばれた。その晩は、先生と美味
い焼酎を交わしながら昔話や将来の話で盛り上がった。先生はさほど酔ってはおられな
かったが絶好調だった。そして寝る前には「おじさんをこんなに素敵な気持ちにさせて
くれてありがとう」と自分の気持ちを言い現わされた。これが先生から聞いた最後の言
葉になった。ほんの数時間前まではこんなに上機嫌だったのに、翌朝、とても信じられ
ない悲劇が起こった。先生は「息ができない」とうずくまり、2 度と帰らぬ人になられ
てしまった。
先生はとても偉い天文学者でありながら、それをまったく感じさせない人だった。元
気が良くて陽気で、回りに人がいれば愛嬌を振りまき、楽しい気持ちにさせるユニーク
なおじさんだった。最期は苦しい思いをさせてしまって悔いが残るが、大好きだった鹿
児島で、好きな焼酎と温かいたくさんの人と接し、そして、長年尽力されてきた日本
フィルの演奏会の成功に満足されながら去っていかれた。
森本先生、鹿児島を、日本フィルを元気にしてくださってありがとう。日本フィル公
演はこれからも絶やしません。できることなら惑星探査衛星「はやぶさ」のように、ま
たいつか帰ってきてください。
76
◆森本さんの思い出
森本さんを偲ぶ
石塚 睦(ペルー地球物理学研究所名誉顧問)
私が初めて森本さんに会ったのは、1975 年に首都リマ市で開かれた世界電波
科学連合(URSI)だったと思います。その時、同行なさったお母様とお会いし
ました。ところがそのお母様が、URSI の開催するワンカイヨへの同伴者の小旅
行に参加しておしまいになったのです。さあ大変、森本さんが心配なさったのは、
途中に海抜 4800 メートルを超す高い峠があったからです。
私が次に森本さんと東京で会ったときには、丁度兄弟を向かえるように、親し
く私をもてなし下さったのでした。ところが私も手にもつ太陽コロナ観測所の完
成に、気が動転していたのかもしれませんが、森本さんにとてつもない事を押し
付けてしまったのです。それは私の行っている太陽電波の観測ですが、その主観
測研究員であるペルーの国立工科大学の卒業生である有能な若者を 10 ヶ月掛け
て電子管回路を半導体回路に変換する技術研修でした。ところが 10 ヶ月の研修
を我慢できず、8 ヶ月で帰国してしまったその所員は、帰国後数ヶ月で生じたス
トライキでもリーダーを勤めましたが、ストライキに敗れて、免職になりました。
このことは私に非があったように思えてなりません。
日本国のペルーにおけるマニフェスト「日本人の手による太陽コロナ観測所の
建設」が、テロ分子により爆破され、私が同分子によって死の宣告を受けて、リ
マ市に潜伏した後、皆様の御支援の下に、新しいペルー国の天文学の建設が始ま
りました。どなたが最初に援助の手を差し伸べて下さったでしょう。それはプラ
ネタリウムの寄付をはからった北村正利さんと共に、森本さんその人だったので
す。先ず西はりま天文台の黒田武彦氏と共に、60 センチ望遠鏡の製作を企画し
て完成して下さいました。今当国イカ市で据え付けを待っています。ペルー国で
「石塚睦の 50 年の滞在を記念する国際ワークショップ」を開いて下さったのは誰
でしょう。次に私の次男に電波天文学を伝授して大学院を終えさせて下さいまし
た。今次男は 3 カ月来当国ワンカイヨ市近傍のシカイヤ電波天文台で、32m 口径
のパラボラアンテナを始動させることに余念がございません。すべて森本さんの
お陰です。森本さん、安らかにお眠り下さい。忘れませんよ。あなたがペルーに
居ることを。いつまでも。
77
森本さんの死は海外でも驚きをもって受けとめられ、日本の関係者に届けられ
た弔文は 50 通を超えました。お隣の韓国、中国からは丁寧に、国を代表する人々
の連盟の署名入り弔文が届きました。
あの森本さんの特別な才能、魅力的な人となり、弔文には世界各地からの研究
者の「森本像」が記されてその死を悼んでいました。読むほどに、森本さんの姿
をあらためて眺める想いがしました。森本さんを昔からよくご存知で、森本さん
の研究ぶりや個性がよく表れたもの3通を選んで、森本さんを偲ぶ会で紹介しま
した。ここでは、地域のバランス、等々の考慮はせずに、内容を優先しました。
紙面の都合で、その3通だけを掲載します。
また、オーストラリア Dave Jauncey さん(CSIRO)からは、去年の姫路城の
桜の絵(自筆)の額が、偲ぶ会にあわせて送られてきました。森本さんはご不自由
な脚で天守閣まで案内くださったそうです。絵には、爛漫と咲いては散る桜の詩
が添えられていました。相矛盾する無常と永続性をあわせた桜の詩、森本さんを
思わせる詩です。 インド̶TATA 研究所
(平林記)
Prof. Govind Swarup
What a sad day!
I have had greatest admiration of Masaki Morimoto. I first met him at the
Culgoora Observatory in 1967 and on many other occasions when we had
great discussions.
Apart from his many great contributions to radio astronomy and optical
astronomy, his negotiation skills were most remarkable. I remember so
vividly my interaction with him in 1986 at Noboyema when I visited
there on his invitation, when he negotiated with many Japanese solar
radio astronomers till past midnight for the mm solar array to be built at
Noboyema rather than at Nagoya. Similarly on other occasion at an IAU
when he conversed Japanese optical astronomers to get together and think
big! That led to Subaru project. And of-course, his humour: I used to call
him the Bob Hope of radio astronomy!
Apart from Noboyama, VSOP project was truly unique. I do hope that the
young generation will continue to follow his pioneering pathways.
Best regards
78
アメリカ̶国立電波天文台 Dr.
Ken Kellermann
Like so many of our colleagues around the world, I was deeply saddened
to learn about the loss of our good friend Morimoto-san. I think I first met
Mori (as he was called by Paul Wild) in 1965 when we were both working
at the CSIRO Radiophysics Lab in Sydney. Mori was in the solar group and
I in the cosmic group, so we did not interact too much professionally, but
we were able to enjoy time together outside the Laboratory. Since then, of
course, our paths crossed many time, in Japan and throughout the world.
Indeed, over nearly the past half century during the period when he led
the development of radio astronomy in Japan, he was an active participant
in numerous international meetings, where his good spirit and enthusiasm,
was a welcome relief to the tensions of the meeting and helped to develop
the strong camaraderie which still links the international radio astronomy
community.
I recall in 1978, after an international meeting in Heidelberg, I entertained
many of the participants in my garden outside my home in a small farming
village near Bonn.
Morimoto-san led the group of about 50 radio
astronomers in singing international songs in many languages.
I was
concerned about what my very conservative German farming neighbors,
who had little exposure to international experiences, would think. But, the
next day they all commented on how they enjoyed the party, especially the
“Japanese man.”
Morimoto-san’s important contributions to space VLBI, mm astronomy,
and the development of the Nobeyama Observatory are well known.
Perhaps less well known is the important role he played in the development
of the high-density MKIII/VLBA tape recorders by getting Matsushita to
adopt their commercial VHS technology to radio astronomy.
We will remember his impact to radio astronomy, not only in Japan but
more globally as well; but perhaps more important we will remember Mori
as a good friend who brought joy to our community throughout many
countries for nearly half a century.
79
アメリカ̶国立電波天文台 Dr. W.
M. Goss
I am so sad to hear the news of the death of Mori—as he was known in
Sydney. I meet Morimoto-san in August 1967 when I joined the Division of
Radiophysics in Sydney. I remember many discussions in his office (shared
with Steve Smerd) about compact HII regions; his interests were already
shifting to galactic astronomy. We became friends for life—later on we were
at some wonderful (and exciting) diner parties in Sydney.
I hope that his colleagues do not forget the tremendous contributions
that Morimoto-san made to Australian solar radio astronomy. In the special
edition of the Proc IREE Australia from 1967 (at the time of the opening
of the Culgoora Radioheliograph) Mori has 4 articles in the proceedings
( ‘ The Culgoora Radioheliograph’ : (1) ‘ The Computer ’ by Maston Beard,
Morimoto and Hedges, (2) Morimoto and Norm Labrum ‘ The Phase and
Gain Calibration System ’, (3) Morimoto and Don McLean, ‘ The Effects of
Errors in Gain and Phase’ and (4) finally the final paper in the volume by
Kevin Sheridan, Morimoto and Paul Wild ‘ Initial Observations ’.
I had only been at Radiophysics for a few weeks when my wife and I
drove from Sydney to Narrabri for the Opening. Morimoto was a major
star of this event and the following meeting of the Astronomical Society of
Australia. I certainly remember the high regard that Paul Wild (JP Wild) had
for Mori. Morimoto-san was a favourite staff member at Radiophysics—he
and the two other colleagues from Japan (Kai-san and Suzuki-san) made
lasting contributions.
Please extend my best wishes to Morimoto-san's family—we all meet in
Australia in March 2007 at the IAU Maser Condolence in Alice Springs;
Morimoto-san gave a typical hilarious after dinner talk about Australian
radio astronomy—based on his own experiences of course.
Best wishes to you and colleagues.
Miller
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資料 1
森本さんの 3 つの天文人生
◆森本さんの天文人生 -1 電波天文学を拓いて 40 年
82
83
◆森本さんの天文人生 -1 電波天文学を拓いて 40 年
森本先生と電波天文学
日本の字宙電波天文学の「ぬし」とも言うべき私達の先輩・森本雅樹先生が、こ
の春で国立天文台を退かれました。もちろん「停年」は抜きで、鹿児島大学教養部
に新天地を求め、6 メートル・ミリ波望遠鏡とともに、何度目かの新しい天文学人生
をスタートされています。
日本の宇宙電波天文学を興し、発展させてきた森本先生のこれまでのご活躍・奮
闘ぶりについては、皆様も充分ご承知のことと思います。
森本先生は、中学・高校時代から、天文少年・ラジオ少年としてその道では勇
名を馳せておられたと聞いています。1955 年に東京大学理学部天文学科を卒業の
後、大学院天文学専攻課程に進まれ、故畑中武夫先生に率いられていた東京天文台
の太陽電波グループ(通称「ノイズ」
)に加わって、当時世界でも最先端であった
200MHz 太陽電波干渉計の実験に携わりました。オーストラリアのポール・ワイル
ド先生に招かれて、カルグーラの世界初の電波ヘリオグラフ建設に参加(1962 〜
1964 年、1967 年)
。そこでの大活躍は、モリモト伝説として今もオーストラリアで
語りつがれています。
帰国後は、赤羽賢司先生らとともに、日本の宇宙電波研究をスタートさせるため
の苦闘が始まります。畑中先生の急逝、研究費不足の苦況のなかで試行錯誤を繰り
返し、電波研究所(当時)鹿島支所の 30 メートルパラボラなどでの「間借り観測」
で経験を深め、若手を育てるかたわら、東レ科学財団の援助を得て、三鷹で 6 メー
トル・ミリ波望遠鏡の建設を進めました。1971 年から観測を始めた 6 メートル・ミ
リ波望遠鏡は、日本初の自前の宇宙電波望遠鏡であり、ここにミリ波という学問の
新しさと活気、そして森本先生のエネルギーに惹かれた多くの若手が集まり、観測、
研究、装置開発、縦横の議論など、日本の宇宙電波にとっての出発点となりました。
森本先生は、一方でさらに大きな飛躍を展望し、45 メートル・ミリ波望遠鏡計画
へと驀進します。
「出来るはずがない」などの批判やさまざまの障害を乗り越えて、
空電研究所(当時)など多くの人々の協力を得、グループが一致協力しての努力に
より、1982 年、野辺山宇宙電波とその強力な装置が完成しました。これは日本が世
界に新しいデータを供給できる先端的大型装置を持つに到ったという点でも、天文
学のみならず日本の基礎科学全体において、特筆すべき出来事であったということ
ができます。
野辺山の電波観測所は、その後も 45 メートル望遠鏡・ミリ波干渉計の強化に加え、
新鋭の電波ヘリオグラフの活躍も始まるなど、世界の電波天文学をリードしつづけ
84
ています。
しかしそこに留まらないのが、森本先生です。野辺山の完成と同時に、地球を一
つの望遠鏡として超高分解能を目指す、VLBI(超長基線電波干渉計)に乗り出しま
した。国際的 VLBI 網の一環に野辺山を加え、国内にミリ波 VLBI 網を実現するべく
努力する一方、宇宙科学研究所と共同で、宇宙にアンテナを打ち上げる宇宙 VLBI の
大計画に邁進します。この宇宙 VLBI アンテナは、森本先生命名になるプロジェクト
名 VSOP のもとに 1995 年度に打ち上げられる予定で、準備が鋭意進められつつあ
ります。
森本先生は 4 月から、鹿児島大学教養部教授(物理学)として南国に移られました。
一足先に鹿児島に移転した昔なじみの 6 メートル望遠鏡とともに、VLBI を中心とし
た研究・教育を進め、また VSOP 国際委員会の責任者として、計画の成功に全力を
尽くしておられます。
森本先生は、
「新しい学問を」
、
「自分の手で」
、
「楽しくやる」
、という信念のもと
に電波天文学研究を貫き、酒と冗談と才気とやる気とで、この 40 年間を通してこら
れました(これにあと一つか二つ、足される向きもありましょうが)
。その中で、電
波の「干渉」の天文学観測への応用という一貫した方法の追及があったことにも、
お気付きの方は多いでしょう。
森本先生が 40 年間の「電波天文学生活」を送られた国立天文台(東京天文台)を
去り、新しい生活と新しい計画に向けて進まれるにあたって、先生のこれまでの業
績を讃え、またこれからのご活躍を祈って、ささやかながら記念の事業を企画いた
しました。
この小冊子は、事業の一環として編んだものです。
森本先生の実に広く華やかな 40 年間の記録としては、不十分すぎるものではあり
ますが、森本先生の活躍ぶりの一端をでもお伝えできれば、幸いに思う次第です。
(世話人一同)
85
◆森本さんの天文人生 -1 電波天文学を拓いて 40 年
東大・教養の仲間「ドイツ語既習」クラスと
知らずに入り大いに困ったとか……
天文大学院・5 月祭 前列左から黒田成俊、亀井理、
森本、故水戸巌、盛光の各氏、後列お茶大からのゲ
スト 中央の女性に注目のこと
天文修士 2 年 白井さんの新居を訪ねて。
左から牧田、白井、後は近藤、右は白井夫人
86
「都物懇」夏の学校で、早くも大活躍
右端こそ後の森本夫人、柿崎せつさん
森本先生最初の電波望遠鏡 太陽バーストの高さ
を測った 200MHz 太陽電波干渉計(三鷹)
結婚式ではサスガに神妙に
左から萩原、畑中、右端本庄五郎の各先生
当時、
偉容を誇った電波グループ(通称「ノイズ」)
の 10m 太陽電波望遠鏡(三鷹)
先棒清水(実)
、後棒森本 ホイサッサ
お大名は、故畑中先生
87
◆森本さんの天文人生 -1 電波天文学を拓いて 40 年
太陽電波で一世を風靡したカルグーラの電波ヘリオ
グラフ
電波ヘリオグラフの建設
やっとビームが出たか?ラボの仲間、左からブラック、
ペイトン、シェリダン、ラブラムの各氏
ヘリオグラフのボス、ポール・ワイルド博士と語る(ハンサムですネー)
ピンポンも楽しく
88
30m アンテナを借りての観測から、
日本の宇宙電波は始まった
宇宙通信用に作られた 30 メートル
アンテナ(電波研究所鹿島)
ミリ波への小さなステップはこのこ
ろ。波長 8mm 用の「月面電波観測
装置」
(三鷹)
KDD の 22m アンテナ
これで ScoX-1 の電波を検出
長男はじめくん、長女まなみちやん
89
◆森本さんの天文人生 -1 電波天文学を拓いて 40 年
6m 鏡の設計打合せ 左から赤羽さん、長根さん、中央
は日本の電波天文の功労者法月さん
ついに作った「われらの電波望遠鏡」三鷹
の 6m・ミリ波望遠鏡は、梁山泊となった
モジャモジャ頭をそろえて何を語る?
右から故井口哲夫君、日本通信機の阿部さん、
森本先生、左端宮地さん
梁山泊に酒はつきもの
長根さん、宮澤さんと(ミリ波観測室)
星間分子の発見者タウンズ博士来訪
手前左より霜田、赤羽、川尻、海部の各氏
90
建設進む 45m 電波望遠鏡(野辺山)
大望遠鏡の適地を求めてノイズサーベイ
左から森本、宮地、鳥居、石黒、東条、
田中の各氏
三菱電機の工場で製作中の 45m 鏡架台の前で勢ぞろい
野辺山も楽しく、にぎやかに……
宇電懇の懇親会 右は故田中先生
91
◆森本さんの天文人生 -1 電波天文学を拓いて 40 年
星間分子を次々と発見
故鈴木博子、海部、大石とデータを見る
講演す
る森本
先生
VLBl 初観測に成功! 45m 観測室にて、VLBl グループ
92
仁科賞の受賞(森本、海部)を記念して
鈴木さんがとってくれた写真
オールト先生を囲んで
ロシアでのスペース VLBI 会議
宇宙に 8 メートルパラボラを打ち上げて……
スペース VLBl 計画(VSOP)を推進
展?
大発
種山ケ原、すた−うおっちんぐの大スターに
野辺山での楽しい暮しにも終止符が…
森本さんの第四子(?)6m 鏡とともに
鹿児島大学へ 中央が森本夫人
右端は「オーナー」面高さん
93
◆森本さんの天文人生 -1 電波天文学を拓いて 40 年
ー!
ルゾ
バ
ガン
メーデーでの風景にはちがいないけれど……
ル
りビー
やっぱ
いつでもどこでも「フェミニスト」
94
ァ
イナ
はウマ
この伊勢エビは手強い!
やつぱりここでもフェミニスト?
樋口先生御夫妻「二人展」を野辺山の近くの八ヶ岳高原ロッジで開催
(1988 年 9 月 3 日)
森本さんの右から樋口、古在、早川、小田、小松、川村の各氏
有名な「料亭森本」の名品の数々
「料
亭森
本」
亭主
和歌山県新宮での「畑中先生記念碑」除幕式
95
◆森本さんの天文人生 -1 電波天文学を拓いて 40 年
酒もいけるが槍も使える
むかしな
「こ じみのワイルド
んな小さ
先
かったの 生
に…」
どこへ長りょう都落ち……
れいか
ちゃん
森本一家勢ぞろい
96
おじい
ちゃん
ですよ
〜
97
◆森本さんの天文人生 -1 電波天文学を拓いて 40 年
98
◆森本さんの天文人生 -2 鹿児島大学退官シンポジウム集録から
99
◆森本さんの天文人生 -2 鹿児島大学退官シンポジウム集録から
100
ほめてやりたい6m
赤羽賢司(元 NRO)
森本先生の鹿児島大学退官記念シンポジウムで 6 メートル鏡の事が取り上げられ、私
(赤羽)も 2 日目から出席させて頂きました。6 メートル鏡の研究的アウトプットや、コ
メント等は、1日目午後に、海部先生によって、報告されております。又、その日の夕
刻の錦江湾での会合にも、出席出来ませんでしたが、その折り NRO の宮澤敬輔君を介
して、私共のメモ:
「6 メートル」物語を皆様方にお配り致しました。このメモは、故
法月惣次郎様の、天文学への御功績感謝申し上げる記念号の一部分(赤羽、宮澤執筆)
、
の別刷であります。全体がカラー写真集で、関係の無い方にも、案外見て頂けるのでは
ないかと、考えました。部数が足りませんで、後にお送り申し上げた方もございました。
ご迷惑をおかけ致しました。
このメモに 6 メートル鏡の建設に関する故事・来歴が述べられておりますが、一口に
申し上げて、法月さんや、三菱電機に大変な御世話になった事以外に、特に人様に誇れ
る様な事は、殆どありませんでした。「ほめてやりたい 6 m!」と面高先生が演題をお
決めになったのも、おそらく 6m のアルミニュームと駆動歯車に対する、感謝の意であ
ると思います。実際建設に携わった人達の、天文学的スピリットは、全くみすぼらしい
ものであった事を、白状しなければならないと、思います。しかし、例え一部少数の天
文学者であっても、6m のアルミニュームと鉄を、30 年もの長い間ご愛用された方がい
らっしゃるとすれば、本当にあり難いと言うか、なにかが間違っているのかと、複雑な
気持ちになるのであります。面高先生が「ほめてやりたい」
、とおっしゃるよりは、
「6m
の鉄とアルミニュームさん、長い間御苦労さまです」
、と言われるほうが、何か実情に
あっている様に思います。私自身(老人)の立場から考えますと、古い天文学が、どん
どん死んで行く中で、古い鉄とアルミニュームがまだまだ役に立つのを、見せつけられ
ますのは、全くやりきれない気持ちになるのであります。天文学者のスクラップが、望
遠鏡より早い事が、良い事なのか、悪い事なのか、判断に困るのであります。
只、先の法月さんへの「メモ」にも、書きましたが、
「その装置から、新しい天文学
が生まれてこそ、はじめてその装置が “ 望遠鏡 ” と呼ばれる」と言う望遠鏡作りの気持
ちは、いつまでも変わらないものと思います。
長い間、ありがとうございました。
101
◆森本さんの天文人生 -2 鹿児島大学退官シンポジウム集録から
1. 拡がった 6m 鏡の遺伝子達
102
森本記念 6m 望遠鏡シンポジウム (1998.2.20-21, 鹿児島大学)
6m 電波望遠鏡と日本の宇宙電波
海部宣男(国立天文台ハワイ観測所)
0・【はじめに】
森本雅樹先生の鹿児島大学停年退官記念の本シンポジウムは(
「森本先生」と呼ぶの
はどうにもわざとらしくてこそばゆい。以後これまで通り、親しみを込めて「森本さん」
と呼ばせていただくことにする)、森本さんとともに日本の宇宙電波の歴史を作ってき
た 6m 電波望遠鏡中心に据えるという、珍しくもまた嬉しい企画である。私は面高さん
からこの企画をお聞きして、ぜひ私にレビュー講演をさせてほしいとお願いした。この
機会に、6m 電波望遠鏡が果たしてきた大きな役割をまとめておきたいと思ったからで
ある。私達仲間が「6m」と呼んでいたこの望遠鏡はミリ波望遠鏡として作られ、その
後マイクロ波での VLBI に用いられ、現在鹿児島で両方の役割を担っている。だからこ
れは全体としては「6m 電波望遠鏡」であり、本報告のタイトルもそうした。
まず、6m 電波望遠鏡関連の年表を作ってみた。当然それは、日本の宇宙電波の年表
そのものになった。本稿ではこれに即して 6m 電波望遠鏡の各時代について述べるが、
年表全体をまとめて資料 1 として本報告の末尾に添付してある。次に、面高さんと笹尾
さんの協力を得て、6m 電波望遠鏡による論文リストを作成した。国際会議等での発表
もと思ったのだが、何分ハワイにいてのことだから資料不足で、査読付きジャーナルの
みに止まった。合計 18 編を、資料 2 として添付した。また、6m 電波望遠鏡でどんな
人々が育ったのかを、表にしてみた。
こうした資料をもとに本講演をまとめたわけだが、当初考えたほどまとまったものに
なったか、はなはだ自信がない。「海部君は計画倒れなところがあるからねー」と森本
さんに言われた(と思うけど)ことは、前々から自戒の種にしている。ともあれこの記
念すべき時にあたり、一応の報告にはなるかと思う。
1・【6m ミリ波望遠鏡以前】
(年表より)
1965 東京天文台にて 24m 固定球面鏡による試験的観測開始(赤羽ほか)
1966 東京天文台グループ、電波研究所鹿島の 30m アンテナによる観測開始(森本
ほか)
1967 口径 30cm ミリ波観測装置、三鷹に完成
日本の電波天文学は、戦後まず太陽電波から始まった。小田、高倉、畑中、田中(春
男)らが日本における先達である。ジャンスキーによる宇宙電波の発見が 1931 年、ヘ
103
◆森本さんの天文人生 -2 鹿児島大学退官シンポジウム集録から
イとサウスウォースによる太陽電波の発見は 1942 年であるが、世界的にも、強度が強
く通信等の実用に関係がある太陽電波の研究が先行した。1960 年代から、東京天文台
の赤羽グループ、空電研究所田中グループが、宇宙電波にも手を伸ばそうと手探りを始
めた。三鷹に設置された直径 30m 固定球面鏡は赤羽苦心の作であり、設計に先進的な
ものがあったが、21cm 水素輝線の観測という目的は、リーダー畑中武夫の急死(1963)
などもあって果たせなかった。
当時、大型宇宙電波望遠鏡を建設しようという将来計画の議論も始まっていたのだが、
これも畑中教授亡きあと、進まなかった。森本、赤羽らは当時建設され始めた宇宙通信
用大型アンテナによる電波天文観測で突破口を開こうと、KDD のアンテナや電波研究
所鹿島支所の 30m アンテナでの観測を開始した。海部、平林らが、この頃の鹿島での
初期的観測をした院生である(ともに修士論文)
。さらに田原、井上、大師堂等が観測
し論文を書いた。また未開拓であったミリ波への進出を考え、長根が中心となって波長
8mm 用の太陽・月面電波観測パラボラ(口径 30cm)も試作された。
2・【6m ミリ波望遠鏡の製作】
(年表より)
1967 東洋レーヨン科学研究助成金によリ 6m ミリ波望遠鏡の建設開始
1968 ミリ波帯低雑音受信機の開発開始(科研費一般 A)
45m ミリ波望遠鏡計画の立案スタート
タウンズらによる星間分子スペクトル(NH3 および H2O;波長 1cm)の発見
1969 東京天文台に宇宙電波部設置
6m 望遠鏡によるミリ波星間分子スペクトルの観測計画の立案
「星間分子スペクトルの検出と “ 宇宙電波分光学 ”」
『天文月報』9 月号、海部
星間分子用マルチチャネル電波分光計の試作開始
1970 6m ミリ波望遠鏡完成祝賀会
月面、金星、3C273 等の 70GHz における試験観測
1971 リエージュ・シンポジウム(星間分子初の国際研究集会)森本・海部
当時東京天文台では、宇宙電波グループはまだ継子扱いだった。赤羽、森本は東洋
レーヨン科学研究助成金による 6m ミリ波望遠鏡の計画に宇宙電波の命運を賭けたが、
幸いこれが認められ、建設が開始された(文献 1)
。この当時のメンバーには、その後
の宇宙電波の技術系の中核となった長根潔、宮澤敬輔がいる。若手では田原、海部、平
林、近田、紺野、技術系の宮地など。ごく小さなグループであったが、新しいことに挑
もうと意気は天を突くものがあった(文献 2、3)
。
1968 年末から 99 年にかけて、カリフォルニア大学のタウンズのグループが、波長
104
1cm 付近でアンモニアと水蒸気分子のスペクトルを星間空間で発見した。分子の回転
スペクトルが豊富なミリ波観測において、星間物質・星形成など星間分子分光の大きな
世界が開けるのではないかと考えた森本・海部は、ミリ波星間分子の観測計画を練り、
マルチチャネル電波分光計の製作に着手した。これによって、6m ミリ波望遠鏡に星間
分子という明確な戦略が付与された。
当時天文教室の助手になりたての海部(しかし相変わらず三鷹に入り浸っていた)は、
森本さんの薦めにより、東京天文台の談話会で発見されたばかりの星間分子の報告と、
ミリ波での観測の展望を話した。これをさらに天文月報に書くように言われてまとめた
のが、「星間分子スペクトルの検出と “ 宇宙電波分光学 ”」
(文献 4)である。いま読み
直すと、既に星形成・惑星系形成といったキーワードとともに、45m 高精度電波望遠
鏡計画による “ 宇宙電波分光学の飛躍的発展 ” への期待、そして 6m 望遠鏡で HCN 分
子(当時未検出)発見をねらうなどの観測計画が述べられていて、感慨深い。
こうして 6m ミリ波望遠鏡はまだ世界的にも未知数であったミリ波での星間分子観測
に乗り出した。1970 年の盛大な 6m 望遠鏡完成祝賀会・シンポジウム、森本さんと出
かけたリエージュ・シンポジウム(年表参照)
、6m 望遠鏡立ち上げへの全員の猛烈な
奮闘など、思い出は尽きない。6m パラボラの最終面精度出しをほとんど手で仕上げた
三菱電機のエンジニア達。電波分光器作りを機会にその後長く大きな信頼関係を築いた
日本通信機の青柳さんや安部さん。半田ごてかたわらに夜中まで装置作りに熱中する作
業台に、いつの間にか配られるウイスキーのグラス。日本の宇宙電波の土台は、こうし
て形成された。星間分子のホープであり皆に愛された故井口哲夫君(1976 年 6 月、脊
椎ガンのため 30 歳で夭折)を含め、この当時の写真をいくつか掲げる。
この時期に 6m 望遠鏡建設と並行してもう一つ特筆すべきことは、それまで停滞して
いた日本の大型電波望遠鏡計画を、ミリ波という方向性を明確に付与することによって
一挙に浮かび上がらせたことである。ここでも、森本さんの大きなリーダーシップが発
揮された(文献 5)
。
しかしこのころ既に、6m ミリ波望遠鏡の分子観測はアメリカに大きく水をあけられ
ていた。
3・【6m ミリ波望遠鏡による星間分子観測】
(年表より)
1972 星間分子用 30 チャネル電波分光計完成
1973 6m ミリ波望遠鏡にてパラ H2CO 分子と OCS の新遷移を検出(72GHz)
1974 星間 CH3NH2 を発見
Kohoutek 彗星のミリ波検出
1975 6m 望遠鏡 90GHz 帯受信機整備、観測開始
105
◆森本さんの天文人生 -2 鹿児島大学退官シンポジウム集録から
6m 用 256 チャネル電波分光計完成
木更津高専 1.5m ミリ波望遠鏡 CO 観測開始(小平、中村、稲谷他)
1976 6m 望遠鏡用 AOS(音響光学型電波分光計)開発完了、試験観測
アメリカの国立電波天文台(NRAO)では、タウンズの発見を受けてカリフオルニ
ア大学やベル研究所のミリ波受信機をキット・ピークの 11m ミリ波望遠鏡に持ち込ま
れ、1970 年頃から続々とミリ波での星間分子の発見が報じられるようになる。科学で
も、アイデアや努力だけではダメである。
「やって見せて、ナンボ」の世界なのだ。技
術、金、人員すべてで大きく劣っていたわが 6m ミリ波望遠鏡がどうにかまともな星間
分子スペクトル観測に入ったのは、1972 年である。天体追尾は半分人手で行う「どれ
い船方式」、受信機の周波数追尾も人間が受信機箱の中でローカル発信器のダイヤルを
まわす「人間サーボ」
、海部・森本が手作りした 30 チャネル電波分光計の 16 進出力を
卓上計算機で 10 進数に直して方眼紙にプロットし、といった状況ではあったが、1973
年にパラ H2CO 分子および OCS 分子の新しい遷移を 72GHz で検出したことで、やっ
と「ミタカの 6m ミリ波望遠鏡」は注目された。これはアメリカに次いで.ミリ波星間
分子観測の 2 番乗りだった。
観測の成功に力を得て、追尾や出力も何とか自動化され(追尾ソフトは平林の “ROM
−10 月 ”、それを発展させた近田の “ アカイホシ ”)
、波長 3 ミリの受信機を搭載しマッ
ピングも始まるなど、6m ミリ波望遠鏡はようやく「電波望遠鏡」らしくなる。この頃
には、「新しさ」に惹かれて、6m のまわりに若手が大勢集まっていた。野辺山宇宙電
波観測所を支えてきた中核研究者は、その大半がこの時期に「6m ミリ波望遠鏡グルー
プ」に属し、あるいは何らかの形で関わった。富山大学の高木光司郎さん達が実験室で
測った「日本の分子」メチルアミンを発見したり、海部が NRAO 留学中に赤色巨星で
発見した SiO メーザの観測のために「音響光学型電波分光器(= AOS)
」の開発に乗り
出したのも、この頃である。手作りのバラック暗室、借り物の光学部品で作り上げた星
間分子用音響光学型電波分光器第一号は、256 チャネル・周波数分解能 37kHz であっ
たが、浮田による SiO メーザの観測などに使用されて抜群の性能を発揮し、45m 用大
型 AOS へと発展する基礎となった。また木更津高専の小平真司、中村強たちが 1.5m
ミリ波望遠鏡を完成させ、稲谷が木更津に住み込んで、日本で初めて CO 分子での観測
に乗り出した。名古屋大学でも河ばた・小川のグループが、現在の 4m ミリ波望遠鏡の
前身になる 1.5m ミリ波望遠鏡を作り、受信機開発などを進めた。
この時期はまた、星間分子という新しい分野を開くために、非常に広い協力関係の基
礎を築いた時期でもある。日本の分子分光学は早くから世界的に高い評価を受けていた。
その開拓者である霜田、森野両先生をはじめ、高柳和夫、高木光司郎、斎藤修二、岡 武、
中川直哉、等々数多くの優れた分子科学者の方々から支援と密接な協力をいただき共同
106
研究にも発展したたことは、日本の星間分子研究のその後の発展にとって決定的であっ
た。その成果は、今に続いている。また三菱電機、電電公社武蔵野通信研究所、同横須
賀通信研究所、松下電子部品など多くの研究機関や企業の研究者に、ミリ波検出器や音
響光学素子などの技術開発でご協力をいただいた。こうした「人間関係構築」の面で森
本さんの力が縦横に発揮されたことも、言うまでもない。
4・【6m ミリ波望遠鏡から野辺山 45m ミリ波望遠鏡・干渉計へ】
(年表より)
1968 45m ミリ波望遠鏡計画の立案具体化
1969 宇宙電波将来計画総合シンポジウム
1970 日本学術会議第 56 回総会勧告「電波天文学の振興について」
宇宙電波懇談会 発足
「大型宇宙電波望遠鏡計画」
『科学』12 月号、赤羽・森本・海部
1971 科研費(試験研究)による大型電波望遠鏡の調査開始
1978 大型宇宙電波望遠鏡建設開始・野辺山宇宙電波観測所設置
1982 45m 電波望遠鏡完成・観測開始、32000 チャネル音響光学型電波分光計完成
1983 6m 望遠鏡、CO による観測開始、このころ 6m 望遠鏡「ミリ波時代」終わる
野辺山宇宙電波観測所は、ミリ波で世界をリードする観測成果を送り出してきた。
45m 望遠鏡をはじめ国際水準を抜くミリ波観測装置の日本における実現は、国際的に
は一つの驚きであり、
「日本の実験科学の分野が初めてなした世界的貢献と『NATURE』
誌が書き、米国や欧州のミリ波望遠鏡計画にも大きなインパクトを与えた。日本が先進
的な観測装置を開発し第一線の観測データを生み出し得ることを実際に示して、その後
の技術開発の興隆やすばる望遠鏡の実現にもつながった。だがこの野辺山の宇宙電波は、
6m ミリ波望遠鏡無くしてはあり得なかった。
その要因の第一は「ミリ波」である。6m 鏡の建設を進める中で、45m サイズのミリ
波望遠鏡も可能ではないかとの自信が、グループで育った。特筆すべきは森本さんが持
ち込んだ「ホモロガス変形法」である。これは理論的には NRAO のフォン・ヘルナー、
実践的にはパークスの 64m 電波望遠鏡などが知られ、当時建設が進んでいたドイツの
100 m電波望遠鏡もその思想が採り入れられていた。しかしそれを徹底的に応用して大
型ミリ波パラボラを実現したのは、野辺山 45m 望遠鏡が最初である。
45m は現在も世界最大集光力のミリ波望遠鏡である。森本さんを先頭に三菱電機大
型アンテナグループとの技術検討や実験が繰り返され、当初「1cm rms がせいぜい」
だった鏡面精度が「0.4mm rms はいけるでしょう」になった(完成時 0.25mm rms、
現在は 0.1mm rms)
。
107
◆森本さんの天文人生 -2 鹿児島大学退官シンポジウム集録から
もう一つの要因は、
「星間分子」である。既に述べたようにミリ波での星間分子観測・
宇宙電波分光は、星間化学、星間雲、星形成、惑星系形成などミリ波天文学の大きな未
来を約束していた。そうした新しい分野と 45m 望遠鏡の持つ大きな魅力は特に物理分
の研究者の広い支持を得て、宇宙電波計画実現の大きな力となった(ここでも森本さん
の「宣伝力」が大いにものを言った)
。
そして最後に、6m ミリ波望遠鏡で開発や観測を「やって見せた」ことによるミリ波
グループヘの信用がなければ、やはり計画の実現はなかった。多くの若手が技術開発に
参加し、それによって観測成果が生まれて来るという装置開発の実戦の場として、
「6m」
は大きな成果を挙げた。
1970 年に、45m ミリ波望遠鏡を中心とした大型宇宙電波望遠鏡計画が天文研連にお
いて支持され、実地調査が始まった。天文学研究者組織の草分け「宇宙電波懇談会」も
創設されて、大きな役割を果たすことになる。調査費が正式に認められたのは 1974 年
度だったが、建設開始までにはなお 4 年を要した。この間 6m ミリ波望遠鏡による観測
や技術開発が進み、多くの若手研究者が育ったことは幸いであった。章末論文リストに
あるように、ミリ波望遠鏡としての「6m」の論文はほとんどこの期間に出版されている。
しかしこの期問の終わり頃は「6m」の主力は野辺山の建設へ完全に割かれていた。冷
却 CO 受信機をやっと載せて始めた観測には長谷川・宮脇・林正彦など大学院生が中心
になって取り組んだが、その成果は既に 45m の初期的観測と時期的に重なる。
こうして、日本の宇宙電波・ミリ波天文学の生みの親としての「6m ミリ波望遠鏡」
の役割は終わった。
「完成祝賀会シンポジウム」から、およそ 15 年である。
5・【6m ミリ波望遠鏡から VLBI へ】
(年表)
1971 「日本列島干渉計」構想(平林、森本)
1985 このころ、45m 望遠鏡による VLBI の試験的観測開始
1991 6m 望遠鏡、野辺山にて IRIS-P による測地観測開始(水沢観測センター)
1992 6m 望遠鏡、鹿児島に移設開始
1993 同上移設を完了
1994 国内 VLBI 観測ネットの一局として試験的観測を開始
1997 VSOP 打上げ
しばらく休眠していた 6 m電波望遠鏡が、水沢グループによる測地 VLBI 観測のため
の試験望遠鏡として甦ってから以降のことは、既に「現代史」に属するので詳述の必要
はない。ここでは、日本における VLBI 天文学の系譜について若干触れたい。
VLBI は、太陽電波の干渉計観測から天文学に入った森本さんにとっては、初期から
108
継続してねらっていたターゲットだった。カナダのグループによって初めて、VLBI と
いう技術が観測で実証されたのは、1967 年である。1971 年に既に、平林・森本によっ
て「日本列島 VLBI 構想」が天文学会年会で報告されているのは、注目すべきである。
日本では電波研究所などによる測地 VLBI の方が、地震予知などと絡んで予算も付き、
先行した。東京天文台でも位置天文グループの中に測地 VLBI への関心はあったのだが
実現には結びつかず、国立天文台への移行に伴う水沢緯度観測所との合併によって、水
沢での観測の実績の上に立ち、VLBI 専用望遠鏡の実現への動きが具体化した。
野辺山では、森本、平林、井上等が、45m 望遠鏡による VLBI 観測の実現に努力を重
ね、1985 年頃から徐々に観測が可能になってきた。森本さん等の提唱による国内 VLBI
ネットの議論が盛んになり、笹尾ら水沢のグループ、電波研改め通総研のグループなど
により、VLBI 懇談会が形成された。こうした流れの中で、6m 電波望遠鏡を水沢が目
指した VLBI 専用 10m 電波望遠鏡の建設に先立つ開発用望遠鏡として用いることにな
り、まず一旦水沢に移して大修理を行い、次いで野辺山において 45m の VLBI 装置と
つないで測地 VLBI 実験に参加した。これによって水沢グループは大いに電波望遠鏡と
VLBI の腕を磨き、水沢に 1 測地 VLBI 用 10m 望遠鏡を見事作り上げた。そういう意味
で、「6m は日本の VLBI の生みの親(この場合は片親くらいか)の役割を果たしたと言
える。野辺山 VLBI 天文技術と、通総研の測地 VLBI 技術との協力・交流も大いに進ん
だ。
いま早期の実現が期待されている VERA は、こうした活動の積み重ねの上に得られ
た全国的共同計画であり、いわば森本さんが推進してきた日本の VLBI の総仕上げであ
る。それが鹿児島大学という重要なパートナーを得たことも、
「6m」と森本さんとの大
きな成果である。
もう一つの VLBI は、もちろんスペース VLBI = VSOP である。これは「6m」から
直接というわけではないが、そもそもは森本さんの壮大な提案から始まり、宇宙研が
紆余曲折の末に「MV ロケットによる工学試験衛星」という位置づけでスタートさせ
た。どちらも、大きな英断である。
「6m」初期からのメンバーで、野辺山宇宙電波観測
所 VLBI の責任者であった平林さんが宇宙研に移って推進することになり、天文台側は
井上(允)などが頑張って、宇宙研と国立天文台の強力な共同体制が構築された。この
計画は世界的に見ても非常に先進的なものであり、多くの技術的困難を越えて無事軌道
に打ち上げられ、観測が始まった。装置上の若干のトラブルを抱えているとはいっても、
大局的には大きな成功であり、今後の科学的成果に期待が寄せられている。VSOP を成
功させた宇宙研と国立天文台のグループ、また製作に携ったメーカーなど関係者の努力
を讃えたい。
VSOP(はるか)を実現させたことは、野辺山に続く森本さんのホームランである。
109
◆森本さんの天文人生 -2 鹿児島大学退官シンポジウム集録から
6・【6m ミリ波望遠鏡から未来の電波天文学へ】
1998 6m 望遠鏡シンポジウム
1999 VERA 計画スタート?
2001 LMSA 計画スタート?
6m 電波望遠鏡は、森本さんの国立天文台退官(1993 年)と同時に、一緒に鹿児島
に移った。「6m」はここで VLBI、ミリ波観測の両方の役割を果たすべく 3 回目の人生
を歩むことになった。その上、面高さんや鹿児島大学の若い人々が集い、特に学生さ
んたちの勉強と修練の場となったのは、
「6m」にとっても嬉しいことだったに違いない。
実際「6m」の存在は大きく、VERA 計画に於いて鹿児島がその重要な一翼を担う上で
欠かせない役割を果たした。鹿児島「6m」をめぐる関係者の涙ぐましい奮闘は、日本
で新しい分野を大学に起こすことの難しさをも私たちに実感させはしたが、面高グルー
プのねばり強い工夫と熱意、森本さんの活躍により、今日電波天文学が鹿児島にしっか
り定着したことを喜びたい。
VERA 計画は、提唱者の笹尾さんはじめ水沢グループの頑張りや周囲のサポートで、
いま一息で実現というところまで来た。これを実現しなければ、わが国で折角大きく育
ち国際的リーダーシップもとるところまできた VLBI とその大きな将来を、水に流すこ
とになる。電波と国立天文台が総力を挙げるべき課題である。その実現をもって「6m
電波望遠鏡」から残された課題は一回りし、日本の電波天文学は次の時代への大きなス
テップ、LMSA の実現へと向かうことになる。
7・【森本さんと 6m 電波望遠鏡——まとめに換えて】
まず、6m ミリ波望遠鏡が果たした役割を、天文学の面から振り返って見たい。
6m 電波望遠鏡建設に際してのキーワードは、
「ミリ波」であり、
「未開拓の波長域」
であった。これは観測装置において欧米にはるか遅れていた当時の日本にあって、物理
や工学と密接につながる自前の装置作りの伝統を育てていた電波分野にして、はじめて
持ち得た意識でもあっただろう。
(1)クエーサー、電波銀河等、銀河(中心核)活動の解明。
(2)星間分子のミリ波回
転スペクトル=宇宙電波分光学の開拓。
(3)新しい観測技術の開発。図示すると、下の
ようになる。
6m ミリ波望遠鏡の計画当時には、どちらかといえば電波=連続波という視点が強
く、そこでは当時ようやくにして銀河中心核活動との関連に於いてとらえられはじめた
クエーサーや電波銀河の初期活動を、ミリ波でとらえようという目標を第一に置いてい
た。1969 年開催の「宇宙電波将来計画総合シンポ」においても私は、星間分子の重要
110
6m ミリ波望遠鏡のキーワード
ミリ波=未開拓の波長域
クエーサー・電波銀河
=銀河(中心核)活動
星間分子回転スペクトル
=宇宙電波分光学
新しい観測技術
星間物質
サブミリ波
恒星形成
干渉計
VL B I
星周物質・恒星進化
VLBI
偏波観測
銀河構造・力学
スペース技術
メーザスペクトル
銀河形成
惑星系形成
性を強調しつつも、
「宇宙電波の先端は、すなわち天文学の先端部つまり extra galactic
souces である」と、当時の状況を反映して述べている(文献 6)
。活動銀河のテーマは
田原、井上(允)を中心に 45m に引き継がれ、当然 VLBI グループの主要テーマになっ
ていった。45m では偏波などで成果を揚げはしたが、大局的にはこの課題は VLBI・大
型干渉計で花開くことになった。
星間分子=宇宙電波分光の課題に関しては、ここで改めて言うまでもない。現代天文
学のほぼ全分野を含む大きな領域として開花し、野辺山宇宙電波が拓いた主要分野と
なった。特筆すべきは、感度の向上につれ VLBI でのメーザスペクトル観測など新しい
分野へ多様に結びついていったことで、ここでも野辺山の活躍は華々しかった。
技術では、6m 時代から受け継いだミリ波受信機と、空電研等のマイクロ波干渉計技
術をベースにしたミリ波干渉計の発展がまずめざましく、野辺山の発展を支えることに
なった。その上に、次の大きな発展であるサブミリ波・LMSA が展望されている。測地
分野とも結んだ VLBI、および VSOP やサブミリ波に関連したスペース技術への進出も、
大きな収穫であった。
次に、6m 電波望遠鏡と森本さんが果たした役割を、
「ひと」の面からまとめてみたい。
絵にしてみれば、こんなことになるだろうか。
言いたいことは、もうこの絵で出尽くしたような気がするが、森本さんが「6m」を
通して私たちに教えてくれたのは、
天文学(科学)は、
(1)新しいことを、
(2)自分の手で、
(3)楽しく、
やりなさい、ということだった。
その中で、大勢の研究者や技術者が育った。
111
◆森本さんの天文人生 -2 鹿児島大学退官シンポジウム集録から
(生物的)遺伝子
電波
畑中、田中、赤羽……
モリモト大明神
手作り精神
楽しくやる
一緒にやる
「新しさ」の追求
宇電懇・VLBI 懇
技術開発
概念の「新しさ」
宇宙
(1)と(2)とは、科学をやる以上は当たり前のことであろう。ただそれが昔は必ず
しもそうでなかったし、初期の赤羽さんや森本さんの苦労も大変だった。私も多少はそ
れを知っている。
(3)は何と言っても、森本さんの独創(独走!)と言える。もちろん物理学の雰囲気
が伝わる(“ ノイズ ” と呼ばれた)電波の伝統と、もっと多くは森本さんの生物学的遺
伝子が寄与していることは確かだが。
楽しくて、若者がいくらでも大きな夢を持てる場所。それはこれから大きく伸びるで
あろう日本の天文学にとって、とても大切ではないだろうか。
(参考文献)
1. 赤羽賢司・宮澤敬輔「6 メートル物語」、法月総次郎さん追悼出版より
2. 森本雅樹『電波望遠鏡を作る人々』、岩波書店
3. 海部宣男「星間分子スペクトル検出と “ 宇宙電波分光学 ”」、『天文月報』1969 年 9 月号
4. 赤羽・森本・海部「大型宇宙電波望遠鏡計画」、『科学』1969 年 12 月号
5. 宇宙電波懇談会編『宇宙電波将来計画総合シンポジウム』集録、1970 年
6. 宇宙電波懇談会編『宇宙電波将来計画総合シンポジウム』集録、1970 年
7. 東京天文台年次報告(各年次)
※なお、本文中に記載された参考文献については、紙数の都合上割愛させていただきました。
112
◆森本さんの天文人生 -3 おじさんは宇宙人 ある天文学者の 70 年全文
113
◆森本さんの天文人生 -3 おじさんは宇宙人 ある天文学者の 70 年全文
おじさんと行くサイエンスツアー
おじさんは、東京大学、国立天文台、鹿
児島大学という大学および研究機関の名誉
教授の称号をお持ちである。そもそも以前
の法律では、大学等で長期間にわたって教
授として功労があった教員に退職後に与え
られるものであったため、一人の教授が 3
つの国立機関の名誉教授となるのは不可能
であった。おそらくこんな「名誉」はおじ
さんが初めてかもしれない。
「名誉」なことがお嫌いで「不名誉」が
大好きというおじさんは、この中でも、5
年間しか在籍しなかった鹿児島大学の名
誉教授が嬉しいと仰っていた。おじさん
にとって鹿児島は、水も酒(焼酎)も人
もすべてピッタリだったのだろう。
そんなおじさんだが、いつの頃からか
夢は「ツアーコンダクターになること」
だった。その夢が実現したのは 1998 年、
鹿児島大学ご定年後、兵庫県姫路市に居
を構えられてからである。
その頃、兵庫県では県立子ども科学館
(仮称)構想があって、おじさんは検討懇
話会の座長となられた。
「コンクリートば
かりを大量に使った科学館などもう時代
遅れだ。実物、本物に接する機会を提供
するための拠点さえあればいい」—こう
主張され続けたおじさんは、科学館でそ
れを実現する前に、その面白さを体験す
るサイエンスツアーを自ら実行に移され
たのである。「科学は最高の遊び、究極の
快楽である」
、この主張もサイエンスツ
アーに散りばめられることになった。
114
▲サイエンスツアーはこれだから楽しい l
「森本おじさんのサイエンスツアー——
ひょうごは大きな博物館」
、こうして
1999 年初頭、玄武洞と但馬海岸・城崎と
蟹ツアーで夢が実現した。その後、竹田
城跡と姫路城、鉄と宇宙・鉄と人間・鉄
と兵庫、一番低い分水界、世界一の放射
光施設とそうめんの里、鳴門の渦潮と淡
路花博見学、生野の歴史と銀山を訪ねて、
宿場町平福探訪と宇宙の出会い、瀬戸内
の海と島と魚三昧の旅、但馬満喫—コウ
ノトリ・餘部鉄橋・円山応挙、山崎断層
とシャクナゲの里を訪ねて、と毎年 2 〜
▲こんな顔だってできるんだよ(理化学研究所:
戒崎さんと)
3 回実施しており全国からおじさんファン
が集いなかなかの評判である。もう実施
回数は 11 回に達した。
しかし、おじさんの真の狙いはこの輪
を大きく広げることだ。
「ひょうご」から
「日本」
、
「地球」いや「宇宙」にまで対象
も参加者も広げることがおじさんの本当
の夢なのだろう。
一般のツアーコンダクターは目立って
はいけない。縁の下の力持ち的存在であ
る。おじさんは違う。おじさんは目立た
なくてはいけない。おじさんと本物体験
が売りのツアーである。これからのツアー
サイエンスツアーは科学の心をくすぐる
コンダクターはこんな形になるのかもし
れない。
おじさんとアルコール
おじさんは「俺の元気は死ななきゃ治
らないよ」と仰る。元気の源は何だろうか。
ある人はアルコールだと言い、またある
人はこの世に女性がいる限り……と言う。
しかし、何かにつけ楽しみ、好奇心旺盛
115
◆森本さんの天文人生 -3 おじさんは宇宙人 ある天文学者の 70 年全文
というのが共通項であり、これがそもそ
もの元気の秘訣なのだろう。
ともあれ、アルコールがお好きなこと
は言うまでもない。でも住む先々で好み?
が変わっていったことは案外知られてい
ない。まあ好みというより、その土地の
特性を採り入れ、適合する能力に秀でて
いると言った方が相応しいだろうか。
東京天文台三鷹時代はごくごく一般的
に日本酒とビールだった。時折ウイスキー
ということもあったと思う。中でも日本
酒がお好きだったという記憶がある。そ
▲萩尾望都さんに言い寄る?おじさん
れが野辺山に移られて一変した。
野辺山は長野県であるが、山梨県との
県境に近い。山梨県といえばぶどうの産
地、おいしいワインが生産されているの
だ。おじさんの好みは専ら甲州ワインの
白。急な来客にも対応できるように、ワ
インはいつも冷やしてある。というのは
嘘で、おじさんが冷やしているのは「め
のう」のブロックである。原石もあれば
磨いたものもある。冷やすのは冷凍室。
かたくち(という名の器)に冷凍しため
のうを入れ、そこに白ワインを注ぐので
ある。ワインが適度に冷えるだけでなく、
めのうの美しい色が映え、飲欲?をそそ
る。これは未だに続いているおじさんの
最高のワイン持て成し法である。
鹿児島に移られて、好みは急変?した。
焼酎である。芋焼酎のふるさと、鹿児島
ではこの焼酎のお湯割り、しかも梅干も
レモンも入れずに、もっともシンプルな
お湯割りを好まれるようになった。郷に
入れば郷に従え、ではなかった。ほんと
116
▲小田稔さんご夫妻とイタリアレストランで一杯(神
戸にて:左端は黒田)
うに焼酎のあっさりした飲み口がお気に
召したということである。
こんなにおいしい焼酎を静かに味わお
う、学生がよくやる一気飲みは危険だし
愚の骨頂である、そんな思いもあって新
聞の一気飲み反対のキャンペーン広告に
登場された。おじさんの対談記事半分、
名刺広告半分の全面広告であった。鹿児
島の宇宿というところに住んでおられた
ときのことである。
「宇宙の宿から小宇宙
へ」
、これが紙面の見出しだった。小宇宙
は何を隠そう、焼酎の別称?であること
にお気づきだろうか。
兵庫は酒どころである。日本酒の有名
銘柄の多くが兵庫に集まっている。しか
し兵庫に移られてからもおじさんのアル
国際会議ではおじさんの存在は欠かせない
コールの好みは変わらなかった。おじさ
んにとって日本酒は甘すぎるのだそうだ。
口の中でのベタベタ感がお嫌いだという。
甘くてベタベタは女性の唇だけでいい、と
豪語されるおじさんが、兵庫の酒をたしな
まれる日はやってこないかもしれない。
アルコールが入ったときのおじさんは、
ふだんよりさらに楽しくなる。ふだんで
も楽しいのにそれがさらにエスカレート
…。そうそう、最近は披露される機会が
少なくなったが「荒城の月が出た出た」
という歌と踊りは、私が最初に聴き、見
たものである。一番は「荒城の月」のメ
ロディで「炭坑節」を静かに歌い、二番
はその反対、あのアップテンポの炭坑節
に乗った「荒城の月」と動きの早い踊りは、
聴衆?を唖然とさせ、完全に虜にしてし
まうには十分すぎるものであった。
117
◆森本さんの天文人生 -3 おじさんは宇宙人 ある天文学者の 70 年全文
おじさんの料理
おじさんは知る人ぞ知る料理の達人で
ある。野辺山時代から「森本亭」の屋号?
を掲げられ、来訪者に究極のおいしい料
理を提供されてきた。
三鷹時代は「料理」と言う言葉を避け
られた。「これは食事なんですよ、食事を
作っているだけなんです」と不思議に料
理という言葉を嫌がられた。理由はよく
▲ねえ、そうでしょう? 力説するおじさん
わからない。そういえば「食事するため
に稼いでいるようなもんだ」とよく言わ
れる。おじさんにとって食事はおいしい
ものでなければならないし、おいしい食
事は待っていてもやってこない、だから
ご自身で作ってしまわれるのだろう。
おじさんは「待つ」ということにもこ
だわりがあるようだ。あまり待つことを
好まれる方ではない。
「待つのはデートの
時の女性だけでいい、それだけは待って
いてもいろんな想像ができるでしょ」
。な
るほど、おじさんは、6m ミリ波電波望遠
鏡でも 45m 電波望遠鏡の建設でもチャン
スをじっと待ったり誰かに依存するタイ
プではなく、可能性を自ら切り開いてい
かれた人なのである。
待つのが嫌い?なおじさんは、調理も
早く、待たせない。大勢の来客があると
きなど、下ごしらえも入念である。テー
ブルに座ればすぐに最初の料理が出てき
て、まず乾杯である。そして飲みながら、
ワイワイガヤガヤおしゃベリしながら
第 2 弾の料理へと移る。食材そのものが
話題にもなって場はどんどん和やかにな
118
▲女性初の宇宙飛行士テレシコワさんと(1987 年)
り、じゃあ私も僕もという感じで料理を
手伝ったり挑戦したりする人も出てくる
ようになる。
「森本亭」は参加型、体験型
料亭でもあるのだ。
おじさんの調理のポイントは、油、香
辛料と食材の組み合わせの意外性である。
例えば餃子にしてもその具は定式化され
たものではない。ピザ風餃子をオリーブ
油とかひまわり油で食べるということも
▲国際会議でオーストラリアのラブルムさんと
「森本亭」では何の不思議もない。それが
またおいしいのである。
詳しくはおじさんのホームページ「今
日の献立」を見ていただきたい。レシピ
もきっちり書かれているので、すぐにで
も同じような調理ができるはずである。
しかしおそらく味はまったく別物だろう。
「森本亭」の味わいは、おじさんがあって
こその味わいなのであり、これこそが最
大の隠し味なのである。
おじさんの過激
おじさんって意外と過激派。角材なん
かは振らないけれど、そんなもの勝負に
ならないほど過激。もちろん地球を救う
過激派、人間を救う過激派である。
おじさんの名前はモリモトマサキ。と
りわけ「モ」と「キ」のつくお役所がお
嫌いである。言わずと知れた「文部科学
省」と「教育委員会」
。なぜだろう——日
の丸、君が代で教育の現場は混乱してい
るのに、そのすばらしさが説明できない
ために問答無用で従わせようとしている、
がひとつの理由だ。
おじさんの「君が代」の解釈はすばら
119
◆森本さんの天文人生 -3 おじさんは宇宙人 ある天文学者の 70 年全文
しい。大和民族として大陸国家に認めら
れ 始 め た 頃、 大 地 の 恵 み と 永 遠 の 繁 栄
をたたえる讃歌として歌い上げたもの
で、 当 時 の 人 々 は 地 球 誕 生 の ド ラ マ を
知っていたのではないかというわけであ
る。つまり、宇宙空間に漂う星雲の中の
「さざれ石」より小さな砂粒がくっつき合
い、やがて「いわお」のように大きくなり、
それが衝突、合体を繰り返して地球をは
じめとする惑星を形成したというストー
▲結婚式での楽しいあいさつ
リーが歌いこまれていると言う主張だ。
ところが、支配者たちは、大地に根ざし
た民族の讃歌を権力者の支配のゆるぎな
きことを祈るという解釈に変更し、押し
つけるようになったと憤慨される。「モ」
と「キ」さえなければ日本の教育はもっ
とよくなると仰るのだが、幸か不幸かお
じさん、いま「キ」にドップリ漬かった
生活ではある。
「 近 頃 の 子 ど も は ……」 っ て 嘆 く 大 人
をおじさんは嫌がる。鼻の穴を膨らませ
て議論する人に限って「近頃の子どもは
……」って言うらしい。今の教育を嘆く
前に、そんな教育を作り上げてしまった
鼻を膨らませる大人を嘆くべきと言うわ
けだ。「キ」に漬かっているお陰で、すば
らしい子どもの感性にいつも触れている
おじさん、子どもの可能性を信じて今日
も「おじさんと遊ぼう!」と笑顔をふり
まいている。
おじさんは、理科嫌い、自然科学離れ
が進んでいるのは教育のせいだと仰る。
確かにデータを調べてみると、小学校低
学年では理科好きが多い。学年が進むに
120
▲開所式でも楽しいあいさつ(岩崎一彰宇宙美術館)
したがって理科嫌いが増える。中学校で
はそれがさらに顕著になる。
「理科を教え
さえしなければ理科嫌いが増えることは
ない」
、おじさんの主張だ。
これは環境問題にもつながる。地球の
自然環境を保全するにはどうすればいい
のか、今や大きな課題である。おじさん
は事も無げに言ってのける。
「人間さえい
なくなればいいんだよ」
。もっともな話で
はある。
おじさんの過激には必ず奥がある。
「原
因」があって「結果」があるのだ。さか
なはおいしいから食べるのに、頭が良く
なるから食べなさいという宣伝は、
「原
因」と「結果」を間違った最たる例であ
る、とスーパーの魚売り場で流れている
曲を批判し始めて 10 年近くになる。おじ
▲ねえ、おじさんはこう思うんだよ
さんは講演の冒頭で必ずといっていいほ
どこの批判を続けた。その甲斐?あって、
この魚の歌は現在、大ブレーク中である。
必ず「原因」と「結果」があるものである。
おじさんと宇宙
おじさんは電波天文学者であるから、
宇宙と深い関わりがあることは当然だ。
でもおじさんがなぜ宇宙を志したかは謎
に包まれてきた。というより煙に巻かれ
てきた。
それはおじさん独特のリップサービ
ス?に由来する。おじさんは大学で専門
を選ぶとき、
「天」
、
「地」
、
「人」のうち、
成績が悪かったので一番人気のない「天」
を選ばざるを得なかった、ということを
いろんなところで宣伝されている。もち
121
◆森本さんの天文人生 -3 おじさんは宇宙人 ある天文学者の 70 年全文
ろんこれは嘘である。
おじさんは天文少年でもあり、ラジオ
少年でもあったという。昔、ラジオの組
み立てが流行ったことがある。おじさん
はかなり早い時期からラジオ技術に関心
を持たれ、独特のアイデアを専門雑誌に
投稿して人気を博したという。鶏を飼っ
て卵を売り、山羊を飼って乳を売り、原
稿料でガッポリ稼いで大人顔負けの少年
時代を送られたのには脱帽である。
その一方で国立科学博物館に出入り
し、神田茂氏が率いる日本天文研究会の
会員として例会などには頻繁に顔を出し
ておられたのだ。後の回想にこう書き記
してある。「学校の屋上にあった 10cm の
望遠鏡ではじめて星をながめたときの驚
き、それがぼくを天文学へ進めさせた動
機でした。ぼくらの仕事はそういう新し
いものを知ったときの驚きが原動力です
ね。……あれは旧制中学のころ、終戦の
年です。」
神田茂さんの日本天文研究会といえば、
東京を中心にそうそうたるメンバーを揃
えたアマチュアの活動的な組織だった。
国立科学博物館を拠点に活動をしていた
ので、長らく理工学研究部におられた村
山定男さんとも旧知の間柄である。といっ
ても村山さんは職員、おじさんは中学生
のイガグリ頭であり、残された写真を見
るとおじさんだけが浮いている。研究会
の会員とはいえ、こんな若い会員はごく
少数で、村山さんの話では、当時の森本
クンはチョロチョロしていて、よく叱っ
たもんだ、とのこと。おじさんにとって
122
▲鹿児島の 6m ミリ波電波望遠鏡
数少ない怖い人の一人なのだそうだ。い
ずれにせよ小さな頃からやはり今のおじ
さんが顔を出していたのである。
おじさんの専門は、当初は太陽電波だっ
た。畑中武夫さんという日本の電波天文
学の大御所が亡くなられる前後から、赤
羽さんやおじさんは宇宙電波に大きな関
心を寄せ始めていた。そんな折、大学院
に入ったばかりの海部宣男さん(現国立
天文台長)が宇宙電波の門をたたいたと
いう。もちろん大した電波望遠鏡があっ
▲西はりま天文台にて
たわけではない。郵政省鹿島の通信実験
用アンテナを借りて宇宙電波の観測に取
り組み始めたおじさんたち、海部さんの
バラ星雲を対象にした修士論文は、おじ
さんが初めて大学院生を指導したという
記念すべきものでもあった。
おじさんたちは、やがて直径 6m のミ
リ波電波望遠鏡の製作に乗り出す。30 歳
台前半のおじさんの大活躍によって 1970
年、4 年がかりで 6m ミリ波電波望遠鏡の
完成を見るのである。日本の宇宙電波天
文学の夜明けを告げる出来事で、これが
1982 年に完成した野辺山の 45m 電波望
遠鏡へとつながった。
「そんな宇宙に住んでるんだがね」
。お
じさんの口癖である。悩んでいてもこの
一言で払拭される。いや、無視に近いわ
け だ か ら「 あ あ、 相 談 し て も 無 駄 か ぁ」
とあきらめの境地になるというのが本当
かもしれない。しかし、この言葉をおじ
▲ 1962 年から 64 年までオーストラリア電波物理
学研究所客員研究員として滞在。帰国の際に贈られ
た寄せ書きの裏表紙の歪んだ(心じゃないよ)おじ
さんの若き日の姿
さんが発するまでにどんなご苦労があっ
たか、我々の比ではないと悟ったとき、
心安らぐものを感ずるのである。
123
◆森本さんの天文人生 -3 おじさんは宇宙人 ある天文学者の 70 年全文
おじさんたちの電波望遠鏡にかける情
熱と苦労はまさに筆舌に尽くし難いもの
があった。一口にミリ波の電波望遠鏡と
言っても、直径 45m のものを精度 0.2mm
程度で作り上げるのである。駆動部分や
支持部分、受信機等、あらゆる部分に初
めての技術が導入された。メーカーの製
作技術陣が不可能だと言ったことがらを
可能にさせたおじさんたちの努力が、今
の電波天文学を支えているのだ。そんな
おじさんの言葉、
「そんな宇宙に住んでる
んだがね」をもっと心して聞かなければ
ならないだろう。
おじさんとカラオケ
おじさんは時々カラオケに行こうと皆
を誘う。もっともおじさんのカラオケは
カラオケボックスではなくてスナックで
ある。おじさんとカラオケは不釣合いか
もしれない。でも嫌いではなさそうだ。
一旦歌いだすと、次々とリクエストを出
して他人はお構いなしということもしば
しばである。しかし、そこはよくできた
もの、おじさんの歌える歌には限界があ
るのだ。
カラオケメニューにはあまり古い歌は
入っていない。
「サンタルチア」とか「高
原列車はゆく」、「赤城の子守唄」、「大き
な古時計」など、おじさんのレパートリー
はおそらく 10 数曲だろう。そんなに広く
はない。
近頃、厄介なのは知らない歌でも適当
に歌ってしまうことだ。声にボリューム
があるので、誰が歌っていてもおじさん
124
▲すばる望遠鏡仮組み立ての見学
(日立造船桜島工場)
には負けてしまう。そればかりではない。
カラオケの得点までもがおじさんの味方
なのだ。曲を知らなくてもおじさんには
曲のイメージが読めるらしい。そんなに
大きく外れないのだ。しかも元気良く大
きな声で歌われるので、悪くても 70 点く
らいには達してしまう。一生懸命歌って
も 66 点とかの採点をされると、カラオケ
の器械、バッカじゃないのって思ってし
まうのである。おじさんにはみんなが味
方するのだ。
ところで、以前は他人が歌っている時
に、おじさんが歌うということは少なかっ
た。なぜならおじさんには得意の踊りが
あったからである。歌に合わせ、独特の
踊りを披露と言うのが定番だった。
おじさんの踊りは動きが激しい。前に
▲おじさんの得意の踊り。今ではほとんど見られない。
後ろに左に右に、時には片足でピョンピョ
ンという、全くジャンルに分けることの
できない踊りであるが、酒の席だけに結
構危険だと思ったことがある。倒れそう
になっても倒れないところがおじさんの
踊りの最大の特徴で、特に後ろ向きに勢
いよく後退して、ああっ!と思わせなが
ら絶対に倒れないという芸当を披露する
のがおじさんの自慢でもあった。おじさ
んは倒れたことは一度もないよ、と心配
をよそにこの踊りは飲む度ごとに披露さ
れていた。
いつの頃からか、おじさんのこの踊り
が消えた。絶対に倒れなかったのに、あ
るときよろけて倒れてしまったのである。
おじさんにはショックだったのだろうか。
▲カラオケは楽し。デュエットはもっと楽し。
でもこの踊りが無くなる方が我々には安
125
◆森本さんの天文人生 -3 おじさんは宇宙人 ある天文学者の 70 年全文
心である。
最 近、 カ ラ オ ケ で よ く「 大 き な 古 時
計」を歌われるようになった。ところが
驚いたことに、あんなに明るいおじさん
が、この歌を歌うと必ず泣き出すのであ
る。おじいさんが亡くなる場面でそれが
起きる。しらふの時におじさんに聞いて
みたことがある。でもおじさんの答えは
「わからない」。おじさん、泣かないで!
おじさんがおじさんでなかった頃
おじさんはこの世にいなかったかもし
れないのだ。そりゃあお父さんとお母さ
んの勝手な行動の産物?だから、誰もが
その可能性は秘めている。ただ、おじさ
んに限っては、この世に生を受けるとい
うことがほぼ決まっているにも関わらず、
誤って母上の胎内で切り刻まれる運命に
あったというのだ。
1931 年のある日、母上は体調がすぐれ
なかったため、某大学病院の産婦人科を
受診、子宮ガンか葡萄状鬼胎の恐れあり
との診断が下されたそうである。念のた
め別な町医者で診察をうけたところ、単
なる妊娠だと告げられたものの半信半
疑。やがて翌 32 年、予定日が過ぎても生
まれる兆しはなく、はらはらしている母
上に告げられたのは「やはり変だ、でも
最悪の場合でも中のものを切り刻んで外
へ出せば済むことで、奥様の命は保障す
る」という言葉だったそうである。お産
の準備が整ってから 3 日目、医者、看護
婦、付き添い、女中さんたちの総力を結集、
熱洗を行って生まれてきたのがおじさん
126
▲オーストラリア電波物理研究所客員研究員時代の
仲間の寄せ書き(上と右)
なのだそうだ。1932 年 5 月 14 日、3050
グラムの元気なおじさん赤ん坊の誕生秘
話である。
まだ秘話は続く。名前は母方のおばあ
さんの勧めで「種樹」となる予定だった
という。これはある占い師の判断だとい
う こ と で あ る が、 母 上 が 嫌 が り、 英 樹、
雅樹、芳樹の 3 つの名を姓名判断にかけ
て雅樹に決まったそうだ。科学者である
おじさんの名がこんなふうに決まったと
いうのもおもしろい。
おじさんは本当に丈夫で育てやすいお
子様だったようである。しかしおじさん
の頭脳が明晰すぎたのか、人の二歩も三
歩も先をゆく考えをしたり、子どもでは
飽き足らず、先生を相手に回して堂々と
渡り合っていたそうだ。もちろん母上の
心配の種だったらしい。
「種樹」にしてお
けば……と考えられたことはなかったそ
うであるが。
このように、おじさんのおじさんたる
所以は、小学校のときに既に芽が出てい
たようである。中学の志望校を決めなけ
ればならない小学校 6 年生のとき、担任
の教師のあまりにも低い成績評価に驚き、
学佼に赴き聞かされた話が母上の手記に
とどめてある。
歴史の試験で「戦国時代にはどんな風
が吹いていたか?」という問いに対するお
じさんの答えは「東西南北、季節に応じて
いろいろの風が吹いていた」としたからた
まったものではない。
「血なまぐさい風が
吹いていた」で正解であろうが、おじさん
の回答は零点、教師は馬鹿にされたとかん
127
◆森本さんの天文人生 -3 おじさんは宇宙人 ある天文学者の 70 年全文
かんに怒ったそうである。
ことほど左様に、おじさんは先生の上を
いく振る舞いで先生からにらまれ、いじめ
られ、だから余計に振る舞いをエスカレー
トさせるという循環であったらしい。
この時期の成績が中学の願書に添付す
る内申書に記載されるため、母上はおじ
さんのことをもっと理解してくれるよう
に教師に掛け合われたそうである。母上
の苦労がしのばれるエピソードである。
おじさんのご主人
おじさんにはご主人と呼ぶ方がいらっ
しゃる。ふつうはみんなオヤッと思う。
この呼び方が相応しいかどうかは別にし
て、わが国では夫を主人と呼ぶ習わし?
が長く続いてきた。おじさんのお宅では、
奥様が主人なのである。
おじさんの説明はこうだ。一家の重要
な事柄を決定する人が主人である、と。
なるほど、奥様にお話しを伺って頷ける
ところがあった。しかし決定権が奥様に
あるわけではないようだ。おじさんが家
のことを何もしない(失礼!)ので、し
ぶしぶながらやらざるを得なくなったと
いうのが本音らしい。
こんな話を聞いたことがある。おじさ
んが出席できないので、学校の同窓会に
代理で出ているうちに、同窓会名簿から
おじさんの名が消え、奥様の名が載るよ
うになったとか。
奥様も大学の教員をされながら、様々
な場面でおじさんの代役をお引き受けに
なって大奮闘、「ママには頭が上がらない
128
▲孫の麗夏ちゃんをだっこして
よー」というおじさんの声は本音かも。
主人の名は返上しても、天文界では常
にリーダーであったおじさん。その姿は
45m 電波望遠鏡の実現、スペース VLBl
(VSOP:はるか)の実現、VERA の実現と、
日本の宇宙電波天文学の発展を常にリー
ドされてきたことで明らかであろう。
あるとき、大阪でおじさんと海部さん
の「師弟」講演会を企画したことがあっ
た。一般的には海部さんは大学院生のと
きにおじさんの指導を受けられたのだか
ら、誰しも師弟コンビだと思ってしまう。
ところが海部さん曰く、
「師匠じゃないよ、
おじさんはリーダーだよ」
。
▲ちょっと若かった頃のおじさん
この言葉に重要な意味が隠されている
と思った。おじさんは常に上意下達を嫌
がっておられる。師弟関係というのは何
かしら上下関係を想起させてしまう。お
▶オーストラリア電波物理
学研究所カルグーラ電波ヘ
リオグラフ
129
◆森本さんの天文人生 -3 おじさんは宇宙人 ある天文学者の 70 年全文
じさんは「いっしょに」「楽しく」「新し
いことをやる」のがお好きである。みん
なで一緒に歩む道を一生懸命創る人なん
だろう。危険な場所があると、ちょっと
振り向いてあのやさしい眼差しを向けて
くださるのだ。リーダー——なんて良い響
きなんだろう、海部さんの言葉におじさ
んの真骨頂を見る気がした。
おじさんは人を立てることを忘れない。
これもリーダーの資質の一つなんだろう
か。おじさんにとって、鹿児島大学時代
のオーナーは面高さん、西はりま天文台
▲西はりま天文台公園に集う人々(右から小松左京
さん、富野夫人、小松さん秘書の乙部さん、萩尾望
都さん、黒田、座った人右から寮美千子さん、おじ
さん、柳家こゑんさん、富野由悠季さん)
公園時代のオーナーは黒田さん、という
ように、お願いして来てもらったにも関
わらず、謙虚に振る舞われて恐縮するこ
とがある。
おじさん!おじさんは偉大だ。やはり
宇宙人だ。どうかいつまでもいつまでも
我々全体の主人であり、宇宙全体の主人
であってほしい。
▲▼ 1967 年オーストラリア電波物理学研究所から
帰国する際のスタッフのサイン(下も)
130
資料 2
森本さんの記録
森本さんの記録
近田義広編
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Division X Working Group on Historic Radio Astronomy Transactions IAU, Volume 6,
Issue T27, 246
和文著書 (森本雅樹)
単著
1. 望遠鏡をつくる人びと(岩波科学の本)森本 雅樹(岩波書店 1972 年)
2. 電波でみた宇宙―電波天文学入門 (1972 年)
(ブルーバックス)
森本 雅樹(講談社 1972 年)
3. 星の一生(1972 年)(NHK ブックス)森本 雅樹(日本放送協会 1972 年)
4. 宇宙をはかる(算数と理科の本 ) 森本 雅樹 ( 岩波書店 1980 年)
5. 宇宙経由 野辺山の旅 森本 雅樹(丸善 1987 年)
6. 宇宙の旅 200 億年(NEW SCIENCE AGE) 森本 雅樹 ( 岩波書店 1987 年)
7. ピンボケ望遠鏡がんばる 森本 雅樹 ( 丸善 1992 年)
8. 科学とりもの帖(丸善ブックス)森本 雅樹(丸善 1994 年)
9. モリモトおじさんの宇宙のはなし 森本 雅樹(誠文堂新光社 1996 年)
10. 生命の旅 150 億年―生命の旅 150 億年―天文学から見た
「われわれ」
の歴史 森本 雅樹(イー
スト・プレス 1998 年)
◆共著、監修、編著
1. 電波天文学(新天文学講座 10:恒星社厚生閣 1964 年)
2. 宇宙電波天文学 森本雅樹 鰀目信三 海部宣男(日本物理学会 新編物理学選集 1972 年)
3. かに星雲の話(中央公論社 1973 年)
4. 現代の自然観(大月書店 1975 年)
5. 電波でみた太陽(出光科学叢書〈12〉) 森本雅樹 甲斐敬造(出光書店 1976 年 )
6. 星と宇宙(東海大学出版会 新地学教育講座 13 1977 年)
7. 星図星表めぐり(誠文堂新光社 1977)
8. 天体観測セミナー(恒星社厚生閣 現代天文学講座 13 1980 年)
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9. 物質の進化(日本化学会 1980)
10. 宇宙の観測 I(恒星社厚生閣 現代天文学講座 11 1981 年)
11. 図説地学(共立出版 1980)
12. ミクロの世界(東京大学出版会 1982)
13. 地学(実教出版 高校教科書 1983 年)
14. 地球は巨大な磁石だ(フレーベル館 1985 年)
15. 親と先生にないしょの話(フレーベル館 1983 年)
16. 星座と望遠鏡(丸善 1986 年)
17. ときをとく―時をめぐる宴 (リブロポート 1987 年)
18. 現代の宇宙観(東京理科大学出版会 1989 年)
19. 宇宙・生命・知性の最前線―十賢一愚科学問答(講談社 1992 年 )
20. 授業 母校の教壇に立って 1(日本放送出版協会 1988 年)
21. 宇宙のアルバム(みるずかん・かんじるずかん―銀の本 ) 森本雅樹 岡村定矩(福音館書店 1989 年)
22. 科学者たちのまじめな宇宙人探し(立風書房 1990 年)
23. 宇宙の誕生と進化(日経サイエンス 1994 年)
24. 宇宙・銀河・星(新版地学教育講座〈13〉) 奥村 幸子、高原 まり子、黒田 武彦、森本 雅樹(東
海大学出版会 1996 年 )
25. 宇宙(ポケットペディア ) キャロル ストット(著)
、クリント トゥイスト(著)
、森本 雅樹(監修)
(紀伊國屋書店 1997 年 )
26. 地学ワンポイント 藤田 至則、南雲 昭三郎、森本 雅樹(編集)
(共立出版 1998 年)
◆訳書、監訳
1. アインシュタインと現代物理学(東京図書 1958 年)
2. 星 上 その構造 (共立出版 モダンサイエンスシリーズ 1974 年)
3. 星 下 その進化 (共立出版 モダンサイエンスシリーズ 1974 年)
4. 元素の起源 (共立出版 モダンサイエンスシリーズ 1974 年)
5. 金属科学入門 (共立出版 モダンサイエンスシリーズ 1974 年)
6. 見えないものをみる―量子から宇宙へ アントニー・ヒューイッシュ 森本 雅樹(紀伊國屋
書店 1977 年 )
7. 収縮する宇宙―ブラックホールの謎アイザック・アジモフ(著)
、
森本 雅樹(訳)
、出口 修至(訳)
(ダイヤモンド社 1978 年 )
8. 現代天文百科 サイモン・ミットン(編集)
、
古在 由秀(訳)
、
寿岳 潤(訳)
、森本 雅樹(訳)
( 岩
波書店 1980 年 )
◆和文雑誌・新聞への投稿
非常にたくさんあるので、残念ですが割愛させて頂きます。
◆学協会への貢献
1. 国際天文学連合 電波天文部会 部会長
2. 国際天文学連合 星間物質部会 組織委員
3. 日本学術会議 天文学、電波科学、宇宙空間の各研究連絡委員会委員
◆受賞歴
1. 電子通信学会実用化業績賞(1985 年)
2. 仁科記念賞(1987 年)
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森本さんの宇宙
発
ⓒ 2011 Printed in Japan
行 2011 年 4 月 25 日
編集総責任 海部宣男、面高俊宏、黒田武彦
編 者 立松健一、大石雅寿、宮地竹史、平林久、近田義広
編集・制作 株式会社星の手帖社
印刷・製本 豊島印刷株式会社
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