8/4『パンを裂く時』(ルカ24:30−35) 白石剛史師(土浦めぐみ教会牧師

8/4『パンを裂く時』(ルカ24:30−35)
白石剛史師(土浦めぐみ教会牧師)
聖餐礼拝に当たり、聖餐式の祝福を学びたい。聖餐式には多様な呼び名があり、それぞれ
が聖餐式の豊かさを教えてくれる。「ユーカリスト」と呼ばれる場合、それは主への感謝に
焦点があり、「コミュニオン」と言われる時には、弟子共同体と主の一体性に意識が向けら
れる。また「主の食卓」と言われる時には、食事を通して弟子たちを教え訓育された主との
交わりに目が向けられ、「主の晩餐」という場合には「過越の食事」で記念されて来た小羊
の血による贖いに強調点がある。どれか一つが重要というのではなく、これらすべてのこと
を含み持つのが聖餐式であり、そのような豊かな恵みを与えるために聖餐を定められたのが
イエス様の意図であったと言える。そこで今朝は、もう一つの呼び名「パン裂き」に込めら
れた聖餐式の意味合いを考えながら、聖餐式の豊かさを改めて確認しよう。
「パン裂き」において想起されるのは、エマオ途上の弟子たちの経験である。パンが裂か
れた時に初めて弟子たちの目が開け、目の前の男がイエスだとわかった
(24:30−31)と告げるこの聖書箇所は、聖餐式が「復活の主との出会いの経験」で
あることを教えてくれる。「パン裂き」におけるパンとぶどう酒は、十字架に死んだイエス
のからだと血とともに、復活されたイエスのからだと血をも意味するのである。そして、聖
餐式は、復活のイエスが私たちの中に住まわれることを、私たちの身体をもって体験する恵
みなのである(エペソ3:17)。
私たちの信仰は、死んでしまったかつての英雄を神に祀る信仰ではない。今も生きて世界
を治め、私たちの中に生きておられる人となった神イエスとともに生きる信仰である。「生
きている方を死人の中に探すな」(ルカ24:5)と言った天使の言葉通り、墓の前で泣き
ながらイエスの思い出にひたる信仰ではなく、「この世の最も小さい者の一人にしたのは、
わたしにしたのである」(マタイ25:40)とおっしゃったイエス様の言葉を思い出しつ
つ、生きた人の中で働きながら、そこにイエスとの出会いを経験することの尊さを、「パン
裂き」にあずかるごとに確認したいものである。