「宗教学通論」資料:ビデオ『イスラーム教 帰依の道』

宗教学通論資料:ビデオ(イスラーム教)
「宗教学通論」資料:ビデオ『イスラーム教──帰依の道』
参考文献)
教科書第 1 章第 4 節「イスラーム」pp.48-58.
M.S.ゴードン『イスラム教』青土社、1994 年、2200 円
塩尻和子『イスラームを学ぼう──実りある宗教間対話のために』秋山書店、2007 年、
1700 円
このビデオは、マルセイユというフランスの町に現在イスラーム教徒(ムスリム、ムスリマ)が
多数いることから説き起こして、まず、彼らの礼拝の様子、造形芸術が禁じられているイ
スラームにおいて発展した書道という芸術の実際の制作の様子の映像などを背景に、その
信仰の基本を解説する。次に、この宗教の創唱者である預言者ムハンマドに立ち返り、マ
ディーナにおける教団の成立、そこで確立されたイスラーム教徒の生活実践の基本である
五柱(五行)、さらにその一つであるメッカへの大巡礼を、その実際の様子の映像をまじ
えながら解説する。さらにそれに続いて、預言者ムハンマドの後継者たちの活動、イスラ
ーム世界の拡大、宗派の分裂、法学と神学の確立、スーフィー教団の活動、カリフの没落、20
世紀に入ってからの近代化と世俗化、第二次世界大戦後に起こったイスラーム復興の動き
に至るまでのイスラームの歴史を、関連する現代の映像をまじえながら辿っている。
マルセイユのイスラーム教徒──導入
マルセイユは 600BC にギリシャ人が建設した。ローマ帝国時代以降は、北地中海西方
の最大の貿易都市となり、1600 年以上にわたって「司教座」として機能してきた。この
町はイスラーム教徒に対する十字軍の遠征が行われた時代に最盛期を迎えた。
ラガルド大聖堂にはマルセイユ中の市民が、また世界中の人々が助けを祈願するために
やってくるが、マルセイユでもフランス全土でも教会は社会に精神的方向性を与えること
ができる偉大な権威などではない。多くは過去の遺物である。
近世になってカトリック教会は救済の教えの市場でその独占的な地位を失った。フラン
スは他のヨーロッパの国よりも世俗的な国になった。現在、熱心に宗教を行うカトリック
教徒は数パーセントにまで落ち込み、フランスに住むイスラーム教徒より多いとは言えな
い。フランスに住むイスラーム教徒は 300 万人以上で、ヨーロッパの中では最も割合が高
い(約 4.5 %)。さらに、ドイツやイギリスでもイスラーム教徒はそれぞれ 300 万人に達
しようとしており、イスラーム教徒はヨーロッパではキリスト教に次ぐ大きな宗教団体と
なっている。
礼拝の呼びかけ:ムアッジン、ミナレット、モスク
礼拝は、アブラハムに由来するユダヤ教、キリスト教、イスラームのいずれにおいても
中心的な役割を果たすが、イスラーム教徒は一日に五回儀礼的な礼拝を行う。「ムアッジ
ン(礼拝呼掛人)」が[モスクの塔、ミナレットから]礼拝の時間であることを告げ、早
朝・正午・午後・日没・夕刻に礼拝する。
モスク[masjid ─「平伏する場所」「崇拝所」の意]には絵画も彫刻もないかわりに、
大きなアラビア文字で「クルアーン(コーラン)」の言葉が芸術的に書かれている。荘厳
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な音楽も聖職者の行列も、聖なる宗教劇や秘儀的な宗教劇もない。イスラーム教徒は誰で
も礼拝を先導して声高に唱える人間「イマーム(導師)」の役割を務めることができる。
「文明の衝突」?
ラガルド大聖堂で、イスラーム教徒も時に花やロウソクや香を供える。マリアとイエス
がクルアーンの中で重要な役割を果たしているからである。キリスト教とイスラームの信
仰は対立すると考えられているが、これは、それが必ずしも正しくないことを物語ってい
る。しかし、他のヨーロッパの町と同様、マルセイユでも、イスラーム教徒と非イスラー
ム教徒との間の先の知れない緊張関係は存在している。非イスラーム教徒はイラン、スー
ダン、アフガニスタンでの革命を契機に、自分たちが地中海の向こう側のアルジェリアや
エジプトのテロリストに脅かされていると感じている。しかし、イスラーム教徒も自分た
ちが脅かされていると感じている。社会的制限を受け、定職を得ることができず、場合に
よっては国外追放になることもある。また西洋諸国のイラクへの軍事介入、ボスニア、特
にパレスチナでの一方的な政策などで、自分たちが脅かされていると感じている。「文明
の衝突」[アメリカ合衆国の政治学者サミュエル・ハンチントンが 1996 年に出版した著書
のタイトル]といったことを避けたければ、対話と協調しかない。狂信者はイスラーム教
徒の中にもいるが、それはユダヤ教徒にもキリスト教徒にもいる。暴力にはもちろん抵抗
しなければならないが、しかし、宗教にまじめに取り組んでいる人々には、理解と寛容と
民主主義的精神で接するべきである。宗教的な根源、特にユダヤ教・キリスト教・イスラ
ームに共通の根源、唯一であるアブラハムの神に対する信仰を思い起こすことは極めて有
益なことである。
最新かつ最古の宗教
イスラームでは日々の礼拝の動作が決められており、それは唯一の神に集中していく。
5つの決められた動作の中で最も重要なのは、創造者であり、審判者である神に対する服
従の姿勢、つまり額を地面につける姿勢である。
モロッコからインドネシアまで、中央アジアからモザンビークまでの約 10 億人の人々
がなぜイスラームを信仰しているのかというと、彼らにとってイスラームは最も新しい宗
教であり、それゆえ最もよい宗教だからである。彼らの理解によれば、ユダヤ教徒とキリ
スト教徒とは、イスラーム教徒よりも前に神の啓示を受けていたが、それを歪曲してしま
った。イスラームはそれを正したのだから、最古の宗教で最も普遍的な宗教と言える。そ
の理由は、最初の人間であるアダムが、神に「イスラーム」、すなわち服従・帰依してい
たので、アダムはイスラーム教徒であったと主張されているからである。
書道
後世のユダヤ教徒とは異なり、イスラーム教徒は今日に至るまで神の名を唱えることに
何の躊躇もしない。しかし、絵画の禁止については、場合によってはユダヤ教徒よりも過
激な見解をもっている。絵画が禁じられた代わりに文字が、造形芸術の変わりに書道が登
場した。文字をうまく書くことは早くから上層階級で行われてきた。
信仰告白
イスラームの最も重要な基盤である信仰告白は極めて簡潔で、二つの言葉からなってい
る。
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第一の言葉は「アッラー」である。「アッラー」は女性とその息子といった、並んで立
つ神々の存在を許さない唯一の神であり、その神に対する信仰告白がなされている。
第二の言葉は「ムハンマド(マホメッド)」である。これは最後の決定的な預言者、つ
まりあらゆる預言者に封印をする預言者に対する信仰告白である。モーセがユダヤ教徒に
トーラーを、キリストがキリスト教徒に福音をもたらしたように、ムハンマドはアラビア
人に聖なる書「クルアーン」をもたらした。
唯一の神アッラーへの信仰は、イスラーム教徒の第一の義務であり、イスラーム共同体
の基礎であり、彼らが典礼として礼拝するただ一つの内容である。アッラーへの信仰はイ
スラームを信仰するあらゆる民族が一体となるために、人々を精神的に結びつけるもので
ある。ムハンマドは聖なる書をもたらしたので、神から遣わされた特別な使者だと考えら
れている。しかし、彼は人間以上の者ではない。クルアーンにも、次のように書かれてい
る。「我は汝らと同じ人間にすぎぬ。汝らの神が唯一の神であると霊感を受けた一人の人
間にすぎぬ」。
ムハンマド
他の宗教の場合、創始者は多くの場合、その歴史的な像が伝説や神話のなかに埋没して
いる。しかし、ムハンマドの場合はそうではない。彼に生まれてすぐに孤児となり、祖父
とおじに育てられた。そして商人になり、裕福な商人の未亡人の夫となった。この妻のた
めに、彼はアラビアだけではなく、砂漠を越えて長い交易の旅をしていた。しかし、さま
ざまな種類の高価な品物を扱うよりも、祈りと瞑想が彼にとって重要な意義をもつように
なり、商売から身を引き、孤独のなかに引きこもることが多くなった。40 歳になったム
ハンマドは、神から啓示を受けて登場する。彼はこの啓示を家族と友人だけに伝え、最初
の信者の集団を得ることになった。しかしムハンマドが神の啓示を公の場で伝えたとき、
ほとんどの人から拒否され、嘲笑された。その理由は、香料の道、交易都市として繁栄し
ていたメッカの真ん中で正義の倫理を伝えたから。彼はメッカの住民に神の審判が近づい
ていることを知らせ、来世で辛い刑罰が待っていると脅迫的に語って、回心を求め、社会
的連帯を要求した。それは利己主義と物質主義の裕福な商人や交易業者にとって大きな脅
威であった。彼は、正義にして哀れみ深い唯一の神に対する服従、イスラームを説いたか
らである。これは「カーバ神殿」で行われていた多神教崇拝と巡礼者目当ての商売、それ
に伴うメッカの財政と経済とを脅かすものであった。まさに、ムハンマド自身の部族であ
るクライシュ族の統一と名声とを脅かすことになった。その結果、10 年にわたる激烈な
戦いが行われることになった。
ヒジュラ──マディーナ(メディナ)での教団形成
メッカでムハンマドが置かれた状況は悪化し、耐え難いものとなり、彼に唯一残された道
は、移住(「ヒジュラ」)であった。622 年預言者ムハンマドが「マディーナ(メディナ)」
に移住し、後にこの年が新しいイスラーム暦の元年になった。それ以前からメッカの北 300
kmにあるこの町の人々がムハンマドのもとを秘かに訪れ、教えに従っていた。イスラー
ム教徒たちが小さな集団で移住していったのは、信仰のために、自分たちが属している部
族から抜け出て自分たちの種族との関係を断つことを意味していた。まさに新たな世界へ
の移行であった。部族のなかの親族関係ではなく、信仰に基づく共同体、古い神々ではな
く、唯一の神が重要な意味を持つことになった。ムハンマドはマディーナで最初のイスラ
ーム共同体(「ウンマ」)を形成した。これを核として、後に大規模な共同体「ウンマ」
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ができた。「ウンマ」は当初から宗教的な共同体であるとともに政治的な集団でもあった
ので、宗教と国家は分離していなかった。イスラーム国家は元来「神政」、つまり神の支
配する国家である。マディーナの3つのユダヤ人部族が、ムハンマドが預言者であること
を受け入れなかったので、彼は大きく失望した。ムハンマドは2つのユダヤ人部族を強制
的に移住させ、もう一つの部族を全滅させた。アラビア人預言者の特徴として、宗教者で
あると同時に政治家、軍の指揮官でもあった。自分の故郷の部族に対して、6年にわたる
戦争を指揮し、630 年、勝利者としてメッカに帰った。彼はカーバ神殿からそれまでの神
々を追い払い、潔め、イスラーム教の儀礼的な中心地とした。祈りの方向は、ユダヤ教の
中心であるエルサレムではなく、メッカ、つまりカーバ神殿に定められ、ユダヤ教徒も、
キリスト教徒もカーバ神殿に立ち入ることができなくなった。[それゆえ、本ビデオの映
像のうち、メッカおよびカーバ神殿の映像だけは、本シリーズのための撮り下ろしではな
く、過去の資料映像である。]632 年、彼はマディーナで死んだ。こうして、マディーナ
はメッカに次いでイスラーム教徒の第2の聖地になった。ムハンマドの邸宅と祈祷する部
屋は、すべてのモスク(寺院・祈祷所)のモデルとなった。ここはムハンマドの墓の上に
立つ、マディーナで最大のモスクである。こうして、アラビアがイスラーム世界の中心地
となった。
イスラーム教徒の生活実践:五柱
信仰の中心、「五柱」[「五行」]はマディーナですでに確立されていた。マディーナで
はムナンマドの墓に畏敬の念が寄せられている。5つの柱とは(1)唯一の神と預言者ムハ
ンマドに対する「信仰告白」[シャハーダ]、(2)儀礼的に定められた「礼拝」[サラー、
サラート]、(3)毎年、貧者のために支払われる社会税としての性格をもつ「喜捨」[ザカ
ー、ザカート]、(4)毎年ラマダーン月の日出から日没までの間に行われる「断食」[サウ
ム]、(5)一生に一回のメッカ巡礼[ハッジ]である。
メッカへの大巡礼
イスラーム教徒のメッカへの大巡礼は、巡礼月に行われる。少なくとも一生に一回は世
俗に背を向けて、神にのみ向かうことが義務づけられている。キリスト教徒が行っている
ルルドやローマへの比較的快適な巡礼とはまったく異なる。イスラーム教徒の巡礼では苦
難を伴う儀礼を行うことが重要で、巡礼者は身を清めなければならない。女性は縁取りの
ない白衣を着て、男性は二枚の布を纏いって髭を剃らず髪も梳かない。髪や爪を切ること、
香水を使うこと、性交なども許されず、せいぜい縫い合わされていない履き物を履くこと
が許されているだけである。同じ衣服は、神の前ですべての人間が平等であるという意識
を強める。イスラーム教徒は、アブラハム(イーブラヒーム)とその息子イシマエルがカ
ーバ神殿を建て、その土地を偶像崇拝から浄めたと考えている。巡礼者はカーバ神殿の周
りを7回まわる。その際、隕石と思われる黒い玄武岩の石に向かって挨拶し、手で触れて、
口づけをする。カーバ神殿は神がいる特別な場所と見なされている。そこに触れた者は皆、
神の祝福の力を得ると考えられている。巡礼者は、その後、アラファト高原に向かい、恵
みの山であるラーマに登り、そこで罪の許しを得る。このように大巡礼では、メッカの周
りの聖地でまざまな儀礼が行われる。そのなかで特に注目すべきことは、小石を集めて石
柱に投げることである。石柱は悪魔の象徴で、悪魔は廃墟や墓地、つまり不浄の場所に住
んでいて、音楽や舞踏を愛し、ありとあらゆる者の姿をとることができると考えられてい
る。
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イスラーム教徒はユダヤ教やキリスト教とは異なり、「贖罪」のために動物の犠牲を捧
げる。神の名が唱えられるなかで、カーバ神殿の方向に向けて、羊や山羊の喉が裂かれる。
巡礼者は肉を少し受け取って食べ、残りは貧しい人々に与えられている。こうして、百万
人を超える巡礼者と、数十万の動物の犠牲による犠牲祭が行われる。合理的に構成された
大規模な組織がなければ、このようなことは不可能である。2週間目の最後に巡礼者は、
再びカーバ神殿を回った後、大規模な最終礼拝で次のように述べる。「アッラー、アクバ
ル(アッラーは偉大なり)。」この巡礼はすべてのイスラーム教徒にとって人生のなかで
最大の信仰体験である。
預言者の後継者たちの活動
イスラーム教は預言者ムハンマドに続く最初の4人の後継者、正統なる「カリフ」(ハ
ーリファ、預言者ムハンマドの代理人)の下で、最初の征服の波を広げ、キリスト教地域
であったダマスカス、エルサレムを中心とするシリア、またイラクとアゼルバイジャンを
中心とするササン朝ペルシャ、またエジプトといった、広大な地域がイスラーム化された。
このように急速に広範囲に広がった宗教はイスラーム教だけである。それには、軍事的戦
略という非宗教的な要因もあったが、決定的であったのは、道徳的な正統性と使命感を与
えた新しい聖典宗教の精神的な力であった。まず、
「カリフ」にとって重要であったのは、
イスラーム国家の拡大であり、イスラーム教の普及ではなかった。キリスト教徒やユダヤ
教徒[さらにゾロアスター教徒]は改宗しなくてもよく、税金を納めて国家の財政に貢献
することが求められた。彼らは法的に保護された少数派[ズィンミー dhimmi]で、第2
級の市民として扱われた。[彼らには精神的自律と身体、生命、財産は保証されたが、官
職と軍隊とからは排除された。]
ケロウアン[カイラワーン]のモスク
この静かで寂れたケロウアン[カイラワーン]の旧市街地を歩いていて、イスラーム教
徒が第2の大規模な拡大の波を広げたとき、「兵営の町」という意味をもつこの町にアラ
ビア軍の主要な兵舎が置かれていたことを想像できるであろうか。ここは、イスラーム教
徒が北アフリカで最初に建設した町で、マグレヴ全域から大西洋にかけて行われた、ベル
ベル人やビザンチン帝国に対するすべての軍事行動がここで指揮された。ケロウアンはメ
ッカ、マディーナ、エルサレムに次いで、イスラーム教の4番目の聖地である。今も続く
毛織物と絨毯の産業が9世紀のケロウアンの最盛期を思い起こさせる。当時アフリカ司令
官で、総督でもあったシディ・オクバの名を冠したモスクには、今も何百万人もの巡礼者
が訪れる。彼らのためにマットが掃除され、モスクが整えられる。いくつかの塔と、モス
クには付きものの儀礼的な清めのための井戸がある中庭を、荘厳な「祈りの塔(ミナレッ
ト)」が圧倒している。このモスクは、北アフリカで最も古く、最も重要なイスラーム建
築であり、ムーア人の宗教建築の模範になっている。414 本のローマ様式の円柱はカルタ
ゴや遺跡のある都市から運ばれてきたもので、円柱の森を形づくっている。
倫理的に高度に発達した宗教としてのイスラーム教、そしてクルアーンの独自性
イスラーム教を炎と剣の宗教と見なして、その意義を貶め、宗教的実質を見極めようと
しないのは誤りである。なぜなら、預言者ムハンマドを通してアラビア人が倫理的に高度
の発達した一つの宗教の次元にまで導き上げられたことには疑いの余地がないからであ
る。イスラーム教は唯一の神の信仰を命じるとともに、倫理と正義を拡大すべきだと明確
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に主張しており、それは間違いなく人間性という基本的倫理観に基づいている。イスラー
ム教はその起源以来、律法の宗教というよりも、倫理の宗教であった。だからユダヤ教の
十戒のように、共通の人類的倫理観の根幹となるものが、イスラーム教にも存在する。ム
ハンマドは真の預言者であり、多くの点でイスラエルの預言者たちと似ていることに疑い
の余地はない。しかし、次の点をイスラーム教徒は重視している。イエス・キリストはキ
リスト教の中心であるが、ムハンマドはイスラーム教の中心にはいないということである。
というのも、イスラーム教徒は神の言葉は人間になったのではなく、書物になったと考
えているからである。それがクルアーンであり、神自身の下にその原型が存在し、イスラ
ーム教の中心をなしている。イスラーム教は卓越した聖典宗教なのである。クルアーンは
ユダヤ教のトーラー、キリスト教の福音書を完成するものであり、それに取って代わるも
のである。クルアーンはイスラーム教徒にとって完全無比なるもので、絶対的に信頼が置
けるものである。だからこそ、クルアーンは荘厳に唱えられ、特に専門家に暗記されてい
る。しかし、イスラーム教の神学者は、神の言葉としてのクルアーンは預言者ムハンマド
の言葉ではないのかという議論を重ねてきた。[クルアーンは様々な時期の文書が纏めら
れたものであるが、統一のある「一冊の書物」である考えられている。それはおよそ長さ
に従って 114 の章に分けられており、これがさらに節に分けられている。アラビア語で書
かれており、アラビア語のものだけがクルアーンであり、翻訳されたものはほんとうのク
ルアーンではない。それゆえ、イスラーム教徒はすべてアラビア語を学ぶべきであるとさ
れる。また Qur'an という呼称は動詞 qaraa「大声で読む、人前で朗読する」に由来し、読
誦されるべきものである。また、聖なる書物であり、他の本と異なり、汚い手で触れたり、
不純な心で読んではならない。それを読む前には手を砂か水で清め、謙虚な心で開くべき
ものである。そうしたことからしばしば高価な製本・装丁がなされている。それはイスラ
ーム教徒にとって真理・道・生である。]
エルサレム──アブラハムの神の聖所
635 年、アラビア人は最初の軍事的攻勢で、ユダヤ教徒とキリスト教徒の聖なる町エル
サレムを占領した。ここは十字軍が遠征していた世紀を除き、今日までイスラーム教徒の
影響下に置かれ、「聖所(al-Quds アル・クドゥス)」と呼ばれた。黄金の丸屋根を戴く岩
のドームは、建築史上の比類なき傑作である。しかし、この丸屋根の下で礼拝は行われな
い。モリア山の巨大な岩が剥き出しになっているからである。伝説に拠れば、ここで、ア
ブラハムは息子イサクを犠牲に捧げることを神の恩恵によって免れた。またここで最初の
人間が想像され、ここからムハンマドが天に昇ったと言われている。さらに世界の審判が
行われるのもここにおいてであると言われている。したがって、「岩のドーム(kubbet es
sachra クベト・エッ・サフラ)」はイスラーム教徒にとって、モスクではなく、唯一の神、つまりア
ブラハムの神に思いを寄せる特別な場所なのである。つまり静寂の中で祈りを捧げる場所
なのである。
ユダヤ教徒にとって最も神聖なこの神殿は、ローマ人によって冒涜され、ビザンチン帝
国のキリスト教徒によって蔑ろにされたば、イスラーム教徒が 1200 年にわたって聖地と
して崇めてきたことによって、新たに聖地となったのではないか。岩のドームがあること
で、アブラハムの神の聖所がうちたてられた。3つのアブラハムの宗教の間に、将来平和
が訪れたとき、「岩のドーム」は共通の普遍的な聖なる場所になるであろう。
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イスラームの分裂──後継者をめぐる論争から
ムハンマドの従兄弟であると同時に義理の息子でもあるアリーを支持し、後に「シーア
派」となるグループとの戦いにおいて、メッカ出身のウマイヤ朝が多くの損害を受けなが
らも勝利し、支配権を握った。[シーア派にとってはアリーが唯一真正のカリフであり、
その子フサインはその証人である。フサインは内戦で倒れ、殉教者崇拝の対象へと高めら
れ、これがシーア派地域では宗教的に重要な役割を果たしている。またウマイヤ朝のカリ
フ制の代わりに、シーア派では「イマーム(最高聖職者)の継承」という観念が受け入れ
られた。]こうして預言者に関する伝統(スンナ)と4人のカリフを拠り所とする「スン
ニー派」が多数派となった。[この他に、ハリージー(ハワーリジュ)派が分かれた。こ
れは「離脱した者たち」という意味で、部族・家族に関係なく、最も善いイスラーム教徒
を後継者として認めようとする人々で、道徳的に厳格な立場を取り、長い間スンニー派カ
リフと執拗な戦闘を続けてきた。現在は、ベルベル人の間やオマーン、ザンジバルにのみ
信者が存在する。]スンニー派のウマイヤ朝[初代カリフはムアーウィアで 13 代続く]は
その宮殿をダマスカスに移し、シリアをイスラーム教の中心にし、第二の大規模な征服の
波が、西方と東方に広がっていった。ダマスカスを中心とするアラビア帝国は、ムハンマ
ドの死後 100 年足らずで、スペイン、モロッコからインド、そして中国国境にまで拡大し、
これは今でもイスラーム教徒の誇りである。カリフの下で、アラビア人の部族連合が中央
集権化し、公用語、通貨、法体系、芸術に至るまで、帝国の全土がアラビア化され、イス
ラーム化された。後にバグダッドが中心になった。帝国は1世紀にわたる領土拡大の後、
その生存を脅かす危機に陥った。アラビア人教徒と冷遇されていた非アラビア人教徒との
対立が激化し、まさにイスラーム教の名のもと、非アラビア人教徒はアラビア人による支
配を疑問視し始め、改革が開始された。その転換を武力でもたらしたのは、750 年に成立
したアッバース朝であった。アラビア人の帝国に代わり、すべてのイスラーム教徒のため
の帝国がバグダッドを首都にして生まれた。イスラーム教はすべての民族に普遍的な宗教、
実質的な世界宗教となった。そして古典アラビア語をペルシャ風生活様式およびヘレニズ
ムの哲学や学問と結びつけた。
城塞修道院──暴力とジハード
イスラーム帝国の国境付近にはどこにも要塞があった。軍事活動と厳格な宗教活動とが
結びつき、キリスト教の修道院に似たやり方で信仰の闘士たちが生活していた。アラビア
人は初期の頃から、北アフリカ沿岸地域の戦略的に要となる地にビザンチンの要塞修道院
をモデルにして、城塞修道院を建設していた。この「モナスティール城塞修道院」の名前
も、ギリシャ語の「モナステリオン(修道院)」という言葉から派生している。この城塞
修道院は、イスラーム教徒が北アフリカで建設した最も壮大な最古の要塞の一つである。
イスラーム教徒はこの要塞から近郊のキリスト教地域であるシチリアへ戦争に出かけた。
信仰に基づく戦争を行ったのは、イスラーム教だけではない。信仰に基づく戦争は、神の
名においてユダヤ教にもあり、またキリスト教でも十字軍が行われ、イスラーム世界ほぼ
全域で植民地獲得を目的とした征服、伝道活動が行われた。これは今日までイスラーム教
徒にとってのトラウマである。すべての宗教に暴力という問題が存在し、暴力が存在する。
しかし、特に外部に向けて戦いと伝道を行った預言者宗教に暴力の問題が顕著であった。
そのなかでもイスラーム教で暴力が顕著に現れた。ムハンマドは預言者としてだけではな
く、偉大な成果を上げた将軍として活躍し、イスラーム教徒たちはそれを誇りにしている。
今日まで「ジハード」の召集に際してクルアーンが引用されている。しかし私は「ジハー
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ド」は「聖戦」と訳されるべきではないと考える。「ジハード」の文字通りの意味は「努
力」であり、神と自らの不完全さに対する道徳的精進である。多くのイスラーム教徒たち
は最悪の場合にだけ、神に向かう道程の労苦が不信仰な敵に対する闘争の義務であると理
解している。
イスラーム法とイスラーム神学
アッバース朝の初期に古典的なイスラーム法[フィクフ]が作られ、今日まで続いてい
る「4つの法学派[厳格なマーリク派、ハンバル派、自由な解釈を認めるハナフィー派、
その中間のシャーフィイー派、]」ができた。この時期に正典的価値をもつ宗教的法典の
集大成である「シャリーア」が広範囲にわたって整えられた。この「シャリーア」は伝統
的な考えをもつイスラーム教徒にとって、今日も規範としての価値をもっている。
イスラーム神学[カラム]もこの時期に古典的な形態を整えた。多くの書物が記され、
イスラーム教の本質を理性で説明しようとする「スコラ学」も成立した。そのような理性
的な神学の立場に立つ神学者たちは、クルアーンは神の永遠の言葉ではなく、作られたも
のでしかないので完全なものではないと考えていた。しかし、時が経つにつれて、クルア
ーンの永遠性と完全さとを強調し、理性を伝統に従属させようとする伝統主義者たちの影
響力が強まっていった。「理性」「クルアーン」と並んで「伝統(スンナ)」が同じ価値を
もつと認められることになった。
アッバース朝以後──ウラマーとイスラームの教育機関
13 世紀にモンゴル人が侵入してきたとき、アッバース朝は最後のカリフとともに没落
していった。それ以来、イスラーム教には政治の中心になる権威も統一の象徴も存在しな
くなった。イスラーム教の学者である「ウラマー」がいなかったら、イスラーム教は「カ
リフ」不在の時代を生き延びていくことができなかったであろう。「ウラマー」たちは、
ここチュニスにある「ゼイトゥーナ(ジャマ・ゼイトゥーナ、大モスク)」で活躍してい
た。ここにはかつて、カイロ[のアル・アザール]とフェス[のカラウィイン]に次いで
有名なイスラーム教の法学と神学の高等教育機関があった。モスクのなかやそばには儀礼
的な浄めを行う場所がある。そこでイスラーム教徒たちは用便、性交、生理、睡眠による
不浄を浄めるために、顔、手、腕、足を洗う。水がない場合には砂が代用される。このよ
うな清めをした後、祈りを始める。クルアーンの学者と、預言者ムハンマドの言行録であ
る「ハディース」の学者は、この時代に、宗教的な問題に関して独立した権威をもつよう
になった。この法学者であり神学者でもある人々は、国家の問題では支配者の権威に代わ
ることはなかったが、今日まですべての宗教的問題に関する権威を要求している。なぜな
ら宗教的な問題は「スンナ」とクルアーンに基づいてのみ正しく判断できるからである。
こうしてウラマーは宗教的生活と世俗的生活の全般にわたって影響力をもつようになっ
た。ウラマーの教育機関はモスクであると同時に法学校であり、神学の教育機関でもある。
慈善行為、学校教育、宗教的な奉仕活動の中心でもあり、時には政治的・宗教的な宣伝を
したり、民衆を扇動をすることもあった。とにかく、そこではクルアーンが学ばれ、リズ
ムに合わせて共にクルアーンが唱えられた。カリフ制度の没落後、誰が政治的権力の座に
ついているかに関係なく、イスラーム教徒たちは宗教的・倫理的・法的に、「カリフ」や
「スルタン(君主)」ではなく、「ウラマー」の指導を求めるようになった。そして、神
秘主義者とその修道団体に拠り所を求める人々も増えていった。彼らは「ウラマー」の指
導による、あまりに冷静なイスラーム法の研究では満足を得られず、神秘主義的な道に進
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宗教学通論資料:ビデオ(イスラーム教)
むことを選んだ。
スーフィー(神秘主義者)
神秘主義者はアラビア語で「スーフィー」と呼ばれる。彼らは最初は単なる禁欲者であ
った。苦行者たちは「スーフ」という荒いウールでできた悔恨の服装をしていたが、これ
はキリスト教の修道僧が着用していたものであった。苦行者はしばしば貧者、アラビア語
で「ファキール」、ペルシャ語で「デルヴィーシュ」とも呼ばれた。本来の意味の神秘主
義は苦行以上のものである。神秘主義者が目指していたのは、苦行者のように世俗的生活
を捨てる苦痛ではなく、歓喜、愛、神との合一、神と共にあることであった。そのような
状態に導く助けとなるものは、まず音楽であった。音楽を通して友愛が育てられ、神の愛
に対する感覚が呼び覚まされて向上する。次に儀礼化された舞踊である。激しい動きを通
して内的感動が表現され、我を忘れるところまで導かれる。そして最も重要なのが神を想
起すること、「ディクル・アッラー(神の想起)」である。アッラーに常に呼びかけ、ア
ッラーのさまざまな別の名前を口にし、神の偉大さと永遠性が、連続する祈りの形式で讃
美される。イスラーム教徒は神との完全な合一や自己の神格化を目指してはいないが、神
との交わりの追求を許しているのは、この世界で神に基づいて生活を送るためである。こ
うして人間の利己的な努力は神の愛という炎によって形を変えられる。神の前で貧しくあ
ろうとする苦行者は、禁欲的な修行を行い、時には曲芸に近いことをする。この姿は、西
洋の人間には奇蹟というよりも縁日の呼び物を思い起こさせる。このような行為背景には、
神の力によって満たされた人間は身体の苦痛に無感覚になることで、奇蹟を起こす能力を
身につけられるという神秘主義的な考えがあるからである。スーフィーの運動は中世に大
衆運動になり、
[キリスト教の修道会に似た]兄弟団に成長していった。精神的指導者(シ
ャイク)の下で教団の規則、教団長、教団服をもつ修道院として組織され、社会福祉事業
や伝道活動の場となった。
聖人崇拝
チュニジアでは毎年、親類縁者が彼らの聖人「マラブート」の墓や祈念碑に集まる。
[「マ
ラブート」という言葉で埋葬されている聖人、白い墓石や祈念碑の全体が意味されている
ようである。]いかなる宗教も、当初拒否していたもののいくつかを時代とともに容認し
なければならなくなる。特に唯一の神にのみ根拠をもつイスラーム教も聖人崇拝を許して
おり、聖人の墓や記念碑がサハラ砂漠の各地にある。スンナとクルアーンに対して、日々
反省的に取り組んでいる法学者のさめた信仰心は、体験を求める宗教的な欲求を満足させ
ることができない。宗教は頭や人間の理性にだけ訴えかけるものではなく、それと同時に、
心に、心情に訴えかけるものであるべきである。ただし、そのような心の宗教は非合理主
義、迷信、奇蹟の崇拝に陥りやすく、頭で理解され、考え抜かれ、教義として教えること
ができるものをもっていない宗教はあまり有効性がない。宗教は知的エリートだけに訴え
るものではなく、民衆の宗教的な欲求に誠実に対応していくものでもあるべきである。ス
ーフィズムはそれを詩歌、歌謡、音楽、舞踊、祝祭を通じて実践している。スーフィズム
で行われている異教的な儀礼を基にした聖人崇拝、音楽を用いた催し事、呪術は、中世か
ら繰り返し批判されてきた。イスラーム教の改革者たちは純粋なイスラーム教への回帰を
要求してきた。多くのスーフィー聖者や指導者は、政治的な権力者にとって望ましくない
役割を演じることもあった。そのためスーフィーの修道会は多くの場所で抑圧された。近
代「トルコの父」である「アタテュルク」が宗教的にも政治的にも反動的なスーフィー・
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宗教学通論資料:ビデオ(イスラーム教)
グループである「デルヴィーシュ教団」を禁止したのにも肯ける。
近代化に直面するイスラーム教
16 世紀以降、イスラーム教の3つの大帝国が成立した。(1)インドのムガール帝国、(2)
ペルシャのシーア派によるサファヴィー王朝、(3)トルコのスンニー派によるオスマン帝
国である。オスマン帝国はキリスト教の国々に対して、イスラーム教の優位を体現してい
た。そしてエジプト、アラビア、バルカン半島を支配下に置き、イスタンブールにある無
数のモスクの規模と荘厳さに象徴される巨大な帝国であった。しかし、この強大な帝国も
17 世紀以降は守勢に回らざるをえなくなった。各地で交通、学問、科学技術、工業、そ
して民主主義を伴って、ヨーロッパ的な近代の影響が広まっていったからである。ヨーロ
ッパの列強はその影響力を次第に強め、オスマン帝国は経済的、政治的、軍事的に弱体化
し、ヨーロッパ的な近代化と世俗化が進むことを阻止するのは不可能であると思われるほ
どであった。自負心の強いイスラーム教の支配者たちは、あまりに長い間、神から与えら
れた地上を支配する権利を信頼していた。ヨーロッパで発展した科学技術の変化や精神的
な変化を真剣に受け止めなかった。伝統主義的なウラマーと反動的なスーフィーの影響で、
オスマン帝国も、精神的生活と社会的生活が硬直化するという危機に見舞われたのである。
イスラーム教の統合力とその信仰の簡潔さは、確かに数世紀にわたって偉大な力を発揮
してきた。長い間、イスラーム教の拡大にブレーキをかけるものはなかった。すでに長い
間トルコ人は、特権を享受してきたアラビア人の地位に取って代わっていた。しかし 19
世紀には、オスマン帝国の政治的没落は明らかであった。イスラーム教のアイデンティテ
ィの危機が訪れた。無力感と疎外感とが広がり、イスラーム教徒としての自覚と威信とが
失われていった。イスラーム教徒が改築した「聖ソフィア大聖堂」はキリスト教に対する
イスラーム教の勝利のシンボルであり続けているが、19 世紀にはヨーロッパで「ボスポ
ラスの病人」という嘲笑が聞かれるようになっていた。
イスラームの近代化と世俗化──アタテュルク
ムハンマド・アリーが、エジプトで行ったように、トルコのスルタンも、19 世紀に近
代化の試みを行った。しかし、軍隊、行政機構、経済、法体系の改革はなかなか進まなか
った。ドルマバフチェ宮殿はボスポラス海峡のほとりに建てられたイスタンブールのベル
サイユ宮殿と言われる豪華な宮殿である。しかし、それはスルタンの消えゆく権力と民衆
の間に生まれてきた革命的な変革の気運とを象徴するものであった。第一次世界大戦はオ
スマン帝国を決定的に没落させ、1918 年の降伏の後にスルタン制は廃止された。5年後、
ムスタファ・ケマル(「アタテュルク」)がトルコ共和国の成立を宣言した。
「トルコの父」
という意味の「アタテュルク」と呼ばれるようになったケマルは、ドルマバフチェ宮殿を
大統領府とし、そこに居を定めた。彼はスルタンを追放し、首都をボスポラスから国の中
央のアナトリア高原にあるアンカラに移した。根本的な改革がすぐに始められた。政教分
離をはじめとして、行政と司法、教育、文字、服装のヨーロッパ化が進められた。[チュ
ニジアやエジプトでも同様の改革が行われた。]1938 年にケマルが没したとき、トルコは
世俗的な共和国としての基盤を確立していた。特に女性の法的な権利は極めて進歩してい
た。トルコで導入された女性の選挙権によって女性の政治参加が法的に定められ、最近で
は女性も金曜日の礼拝や葬儀に、モスクで祈ることができるようになった。大学、銀行、
新聞社、広告会社では女性が多数を占めることも多くなっている。ただし、このような実
情にあった法的な権利はまだ実現されていない。妻が職業に就くには、今でも家長の許可
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が必要であるが、収入を得、教育を受けることで、次第に自立するようになってきた。
スカーフに賛成する女性、反対する女性
今日、多くの若い女性スカーフを着用するようになったのは驚くべきことであるが、こ
れは時代遅れの印ではない。都市に住む女性たちはスカーフとベールの着用に反対してい
る。女性の社会的権利を脅かすものと見なしているからである。女性たちは宗教が再び生
活の隅々にまで干渉し、手出しをするような規則ができることを望んでいない。イスラー
ム教が、経済、政治、文化、そして個人の生活様式まですべてに支配的な力を及ぼすこと
を望んではいない。精神的・道徳的な方向づけには賛成するが、細かい規則による統制に
は反対している。教育のある多くの女性たちが意識的にスカーフを被っているのは、西洋
的な女性の理想に対して、自分たちのイスラーム教的なアイデンティティを表現するため
なのである。
イスラーム復興──近代的パラダイムへの懐疑
ヨーロッパの崇拝者であったアタテュルクが夢にも思わなかったことは、イスラーム教
が新たに覚醒することであった。これは第二次世界大戦後の現象で、決定的要因は 1950
年代、60 年代にイスラーム教の国々が植民地支配から政治的に解放され、70 年代にアラ
ブ=イスラエル戦争と石油の封鎖で軍事的・経済的に成果をあげたことである。そして
1979 年にシーア派の最高聖職者ホメイニがイラン国王とアメリカに勝利したことである。
こうしてアイデンティティと権力に対する意識が向上した以上に、大きな影響を及ぼした
のは、最終的には欧米に対する失望であった。一方的なイスラエルへの加担、非道徳的な
状態、無神論的風潮、これらが欧米の近代的な枠組みに対する根源的な疑いとなった。今
では意識的にイスラーム主義的であろうとする者は、アタテュルクの世俗的な国家に代わ
る宗教的・政治的な選択肢をイスラーム国家に見出している。彼らは西洋と東洋とで蔓延
している無宗教的・無道徳的な唯物論に直面した。その経験から唯一の神に対する信仰、
神の意志への服従、神の戒律に従うことなどを通して、経済、文化、社会の新たな精神的
基盤を求めている。しかし、世俗主義的に考える他の人々は、以前にも増して急進的な政
教分離を要求している。
おわりに──イスラームの未来:近代主義と原理主義の間への希望
期待されるのは、イスラーム教の本質を保持しようとする一方で、クルアーンの福音を
今日の時代に合うように翻訳しようとする人々が、再び影響力をもつことである。つまり、
神なき世俗主義でも、現実の世界を無視した原理主義でもない。今日の人間に意義の見通
しを、倫理的な規範を、精神的な故郷を提供することのできる宗教である。それは、分離
分裂へと導くような宗教ではなく、人々を結びつけ、和解に導くような宗教である。
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