江戸時代女性の噂話 第四部: 大名階級の 女性

University of Pennsylvania
From the SelectedWorks of Cecilia S Seigle Ph.D.
Summer 2012
江戸時代女性の噂話 第四部: 大名階級の
女性
Cecilia (淑子) S Seigle (瀬川), Ph.D., University of Pennsylvania
Available at: http://works.bepress.com/cecilia_seigle/24/
1
江戸時代女性の噂話 第四部: 大名階級の女性
大名階級の女性
大名の夫人、母,娘
松平定信夫人
荻生六兵衛が江戸湾の浜で火術(大砲、のろし、火矢など扱う術)を検分した日に越中守(松
平定信)が夫人と物見へ出られて二階からごらんになった。
「奥方,あれを御覧、六兵衛ののろしの手際は格別なものだろう。特別の合図のためにあげ
る火だよ」とおっしゃっている所へ物見前を稽古の武士連中がぶっさき羽織姿で弓や竹刀を持って大
勢通った。 越中守は又「奥方見なさい、御時節は有難い、奢りをやめて武芸に精出し、あの通り弓
矢をかついで日夜の修行だ。感心なものではないか。」
すると奥様が「そして戦争はいつ始まりますか」と言われた。1
これは寛政の改革の松平定信を諷した小噺であろう。奥方が皮肉に聞こえるとも知らないで
全然的はずれの質問をしているのがおかしい。立派な政治諷刺になっている。それを越中守にさし出
す報告書のような見聞集に記録している水野為永も相当な人だと思うが,水野はこういう市井に流れ
る小話を笑う度量のある主人だと知っていたのだろう。
豊姫、紀伊徳川治宝女、第十一代紀伊藩主
豊姫、紀伊徳川治宝女、第十一代紀伊藩主徳川斎順
第十一代紀伊藩主徳川斎順(
徳川斎順(なりゆき)
なりゆき)夫人
紀伊藩主徳川治寳の娘豊姫は大変な芝居好きとして知られていた。 斎順と結婚し、二十歳
の新婚の時代、文政二年(1819)三月二十五日に浜町のお住居から赤坂の紀伊本邸へ行く途中、わざと
乗物を迂回させて芝居町を通った。三月だったからあちこちで芝居を催していたが、木戸を取り払い
開け放たせて七代目団十郎が助六を演じている所に駕篭を止めさせて、駕篭の戸を細く開けて暫く見
物、それから隣町の堺町へ行き又助六の出ている芝居小屋で同じように透き見した。何時頃にどこ
で助六をやっているかあらかじめ調べさせておいたのである。
四五日経ってからその日のお供の中で頭立つ者が切腹を仰せ付けられ、その他二三人近習が
お暇になった。これは江戸で色々噂になった。『寝ぬ夜のすさび』には「紀伊国の御新文字、御駕篭
の中から芝居をでんぽう」と書かれた。2
この時代には上流階級の芝居見物は禁じられていた。この女性豊姫(1800—1845)は紀伊徳川
藩主治宝の娘で、母親は家治の養女になって治宝に嫁いだ田安宗武の娘種姫である。十一代将軍家斉
の六男(七男とも言う)斎順(なりゆき)は、始めに徳川御三卿家清水を継いだのだが,紀伊に世嗣ぎが
なかったので紀伊十代藩主徳川家治宝の婿養子になって治宝の娘豊姫と結婚した。
この若い夫婦は贅沢派手好きで驕慢だったので評判は悪かった。豊姫が芝居を見たがって、
いくつかの芝居小屋で駕篭をとまらせて見物料を払わずに覗き見したために、家来が切腹を仰せ付け
られ たとは實に不合理なことで納得できない。
この女性はこの事件より前、文化七年の八月に芝三田の土佐侯の中屋敷前を通ったとき辻番
の番士に土下座をさせた。その頃は,天明二年の法令で,御三家御三卿御通過の際,辻番の番士は下
座台、徒士は砂利下座、足軽は土下座と決められていた。それを豊姫の供方が番士を足軽同様に扱っ
て土下座をさせたというのである。これは三田村鳶魚が書いていることだからどの程度信じていいか
わからないが、いう所によるとそれは本家から婿を取ったために驕慢になって法令以上の要求をした
のだという。そうして次の年にはお婿さんの斎順が土佐屋敷前を通って辻番の番士に同じ土下座を要
1 よしの冊子、下:322。
2 三田村鳶魚全集、1:174—175。三升 屋二三治「芝居秘伝集」と甲子夜話続篇にも出ている。
2
求したというのである。しかしそれは前例がないと言って土佐側が断ったので紀州家の家来と土州の
番士たちの喧嘩になり,紀州の侍が番士たちを打擲負傷させたというのである。3こういう理不尽な
事件が起こったのもこの紀州の若夫婦が驕慢で自分たちをよほど高く見ていたからであろう。
徳川宗家や御三家でも, 江戸初期には子供達に人間の道徳倫理や上に立つ者の心得を教え
ていたが,幕末家斉の頃になると、臣下に思いやりのある上司は少なかったようである。それに加え
て紀伊の財政は心無い豊姫と斎順のおかげで相当苦しくなったという。もちろん紀伊の財政的窮乏は
その頃始まったことではなく,光貞時代にすでに将軍綱吉から五万両借金して(実記、5:517,
1684/7/2)後綱吉の娘鶴姫君と紀伊綱教との結婚、綱吉の赤坂紀伊邸の二度の訪問、光貞、綱教,頼
元の続いた死と葬式、旱魃飢饉などで紀伊の経済政状態は十八世紀にさんざんいためつけられた。
(大石学、吉宗と享保の改革、pp.12-14.)どの藩でも徳川本家から養子養女を押し付けられる度に
財政的に非常な損害をこうむったようである。
しかし豊姫を弁護するためか、違う説もある。文政二年(1819) 豊姫は赤坂紀尾井坂の本邸
へ行くと称してかねて手配してあった通り芝居見物に行った。それはその頃玉川座の七代市川団十郎
と中村座の尾上菊五郎が花川戸助六の競演をして大評判だったので,侍女たちがさかんに噂をするの
を聞いて 豊姫はそれを一度見たいものだと思い,見物を申し付けたのである。家中の者たちの手配
で芝居小屋の方では用意万端、表の木戸も羽目板を取払って路上の乗物の中から芝居がよく見えるよ
うにした。そのおおげさな乗物からの見物を見ようと周囲は黒山の人だかりになったのでこの噂はす
ぐに幕府の耳に届き,間もなく家中の責任者が切腹や追放を仰せ付けられ,豊姫は押し込めの刑にあ
った。押し込めは自家の門を閉じて謹慎蟄居することで外出は許されない。『日本女性人名辞典』
(p.752)には『押し込められ四十五歳で死没した』と,生涯その状態だったように書いてあるがこ
れは正確な情報だろうか。芝居があったのは 1819 年で,豊姫が亡くなったのは 1845 年、26年間押
し込められていたとは信じられない。『女性人名辞典』の出典は『徳川諸家系譜』とあるのだが、
『徳川諸家系譜』のどこにもそんなことは書いてない。簡単に生年月日が出ているだけである。
『寝ぬ夜のすさび』の中の文句「紀伊国の御新文字云々」は幕府のお鷹方の片山賢の言葉で
はなくて,文政十一年に江戸で起った事、流行した事を誰かがひょうきんな消息文に綴ったものを、
片山の養父(片山は田家大人と呼んでいる)が写し取って片山に見せたのを又写したのである。4 引
用文自体はその時代の爛熟を風刺的批判的に描写しているが片山自身の著述には時代批判は見られな
い。
その最後の「でんぽう」というのは伝法で、浅草伝法院の雇用人が寺の威光をかさに着て、
境内や近所の飲食店や見世物などに入り込んで無銭飲食見物をした事から、豊姫のように、芝居や見
世物をただで見物することを「伝法」と言った。それに、運に任せて行き当たりばったりすること、
「テンポ、てんぼ」という言葉もかけている。
水戸藩主徳川慶篤の御簾中 — 有栖川宮線宮君(いとみや)
有栖川宮幟仁親王女線宮幟子(たかこ)は第十二代将軍家慶の養女になって水戸藩主徳川慶篤
と縁組みをした女性である。非常に美しかったので有名だったが悲劇のヒロインでもあったようであ
る。将軍の養女になるために,嘉永三年(1850)六月三日に京都から江戸に下向した。同月二十四日に
は将軍の嗣子家定の御簾中が脚気衝心で亡くなった。(前述のように、御簾中というのは 将軍の世
嗣及び御三家、御三卿の家長の夫人の呼称である。)
大奥の女中達は二人の御簾中を失った将軍世嗣家定に同情して,絶世の美人であった線姫君
を家定の御簾中にふさわしい方と判断した。そうして水戸の慶篤に線姫君を諦めて自主的に婚約を破
ってもらい、線姫君を家定に輿入れさせることに骨折ってほしい、という非常識な望みを持った。
3 三田村鳶魚全集,1:175。
4 寝ぬ夜のすさび、P.251。
3
その首謀者として独断で破格の申し出の手紙を書いたのは大奥一の勢力を誇っていた上臈お年寄りの
姉小路であった。5
慶篤の父斎昭は当然の事ながら非常に怒り,それは将軍のお望みであるのか,と聞くと姉小
路は平然として,将軍はその事は全然ご存知なく,これは自分一人の考えで申し出た事である。そう
して水戸老公がそれに御同意ないならば、勿論これは取り消されて公にはされない事だ、と手紙で答
えた。 水戸斎昭は当然始めの申し出を却下した。大奥の密計を聞き知った首席老中阿部伊勢守正弘
は驚いて大奥を制し、将軍養女の入輿を確定したので線姫君は嘉永五年(1852)十二月に水戸家に輿入
れた。6
その後線姫君と温厚な夫の慶篤との仲は悪くなく、随姫(よりひめ)という娘も出来た。 し
かし線姫君は安政三年(1856)十一月に原因不明の自殺をした。謎の死だったのでいろいろ憶測された。
三田村鳶魚などは精力絶倫で側室たちに子供を三十七人ほど産ませた舅の斉昭が関係していたという
噂を伝えている。7 しかし事実はわからない。山川菊栄の『幕末の水戸藩』は慶篤の世嗣ぎを生んだ
古参の気の強い側室の勢力が強くて慶篤を線宮から遠ざけた事が原因らしいとしている。8 しかしこ
れらは皆噂と憶測である。『徳川諸家系譜』には慶篤室有栖川宮幟仁親王女線宮(幟子女王)とある
だけで,継室広幡基豊女鋭姫、とある。9『女性人名辞典』にも線姫君の死については自殺とさえ書
いてない。線姫君の死についての謎は解ける事はないだろうが 悲劇の女性だったことは疑えない。
桂香院,
桂香院, 池田(
池田(松平)
松平)宗泰夫人
桂香院(久姫,1726—1800)というのは紀伊六代藩主徳川宗直の娘で若くして夫君(池田/松平)
相模守宗泰を失った。鳥取藩池田の五代藩主池田重寛の母で、紀伊八代藩主徳川重倫の叔母である。
以下は、随筆「思い出草」を書いて冠山の名前で知られている池田定常( 因幡国鳥取藩の支藩・若
桜藩の第 5 代藩主)の思い出話である。
重倫卿は心が荒々しいので、 桂香院が芝金杉の屋敷によく行かれた時いつも心配しておら
れたが、果して公儀の命令で重倫卿は早く家督を治貞卿にゆずられた。桂香院は治貞の双生子で、姉
であったがこれは世に知られていない。 その後治貞卿が亡くなられ大納言治宝卿(紀伊徳川十代藩
主)の世となってからは桂香院はとくに厚い尊敬を受けられた。
赤坂の御屋敷に逗留なさってお庭を巡られる時など、お足がおぼつかないだろうとおっしゃ
って治宝卿が縁側に駕篭を寄せられ,侍者にかつがせ、ご自分もお肩をおかしになったりしたので、
桂香院はまことに勿体ない事だとお思いになってお帰りになったとき私(著者 池田冠山)にも吹聴な
さった。
「中納言に輿をかつがせることなど禁裏様(天皇)でもとてもないことだろう」とお笑いにな
った。
又私が池田摂津守殿10といっしょにおそばに居た時、老女共が「御分家さま方」と言ったの
で、大夫人は「その御分家がいやなのだよ。家を分けたのではない、知行をわけただけなのです。こ
れからは御分知様方とか御連枝様といいなさい」とおっしゃった。
5 姉小路(1795—1880)は橋本実誠の娘で本名伊予、有栖川喬子(楽宮)に従って江戸に下向した。上臈
は将軍の御台所になる皇族又は摂家の令嬢に京都から着いて来た公家の娘で,普通は大奥の監督役で
あるお年寄りの地位とは兼任しなかった。しかし幕末には何人かの非常に有能な上臈が現れてお年寄
りを兼任した。御台所付の上臈として家斉、家慶、家定,家茂四代の将軍の大奥で権威を振るった 。
6 三田村鳶魚全集、1:393−394。
7 三田村鳶魚全集、1:394。
8 Wikipedia、幟子女王
幟子女王,
幟子女王,脚注2、http://ja.wikipedia.org/wiki/
脚注2、
9 徳川諸家系譜、2:260.
10 摂津守は鹿奴池田藩に多いので確かでないが,多分冠山と同時代の池田仲雅(1780—1841)であろう。
4
故因幡守がまだ永之進という名で芝の屋敷の部屋住まいをしておられた頃、もう一人雄五郎
殿という御舎弟がおられた。11 まだ前髪があった少年時代で、摂津守と私が伺候する時は必ず桂香
院は永之進と雄五郎を呼び出されお広座敷まで送り迎えをおさせになった。ある時伺候しているとそ
の二人にお向かいになって「三田鉄砲州の両家の先祖は興禅院さまのお子です。あなた達は相模の子
で部屋住みです。両家に対して決して決して失礼がないように」とご教訓なさった。これは徳廟(吉
宗公)の時、田安一橋の両卿がまだ江戸城住まいだった頃,吉宗公が、「御三家の面々は親祖(家康)
の御子孫である。その気持を忘れずに謙譲でいるように」と諭された事をお考えになって教訓なさっ
たのだろうか、と有難く思い、また怖れた。
桂香院はいつもお里付きの男女に紀州風を吹かすな吹かすなと言われたので誰もその命を報
じて不遜な者はいなかった。12
先にのべたように桂香院は吉宗の後に紀伊徳川藩主になった宗直[吉宗の従弟]の娘である。
後に甥の重倫の後を継いで紀伊藩主になった治貞は久姫の弟となっているが双生児である。重倫は池
田冠山によっても「御心が荒々しいので」と言われているが非常にうるさ型の隠居になって剃髪して
太真と呼ばれ、八十四歳まで生きた。久姫についてはその生死年月の記録があるだけで他に何もない
が桂香院としての噂が『よしの冊子』にも出ている。夫の宗泰は三十一歳で亡くなった。
興禅院というのは
で岡山藩主池田忠雄の長男である。
興禅院というのは因幡国鳥取藩初代藩主池田光仲
というのは
『よしの冊子』に書いてある事は、松平相模守がこの間内蔵頭の築地屋敷へ行ったところ、
いろいろ内蔵頭からご馳走になった。深川の女芸者が十八人招かれていたが、その女たちと騒いだ後、
内蔵頭は芸者たちを庭の築山へ連れて行って後から後から取って投げたので、彼女らは肩などに大怪
我を受けたそうだ。それを桂香院が聞かれて相模守を呼びつけて、そのような不埒な人間と付き合う
べきではないとひどく叱られたので相模殿も困られたそうである。13
内蔵頭が誰なのか今の所わからない。 松平相模守は、桂香院の夫も、息子の重寛も、孫の
治道も相模守だったのだが、呼びつけられたのは多分孫の治道だろう。もしそれが記録の年 (寛政
四年,1792)に起ったことならば夫の宗泰はもちろん、息子の重寛もすでに亡くなっていた(天明三年、
三十八歳で沒)。治道はこの年二十六七歳くらいで、祖母に叱られてもよい年ごろであった。桂香院
は池田冠山が尊敬をもって大夫人と呼んでいるようにずいぶん勢力のある後室であった。因にこの女
性は、宗直の娘で吉宗将軍の養女になって伊達宗村と結婚した利根姫君の妹、久姫である。冠山の記
述にあるように、誇り高い人だったが、召使い達に紀州風を吹かすな(徳川御三家から来た事を自慢
するな)と常々諌めていた人だと言うから良識のある夫人だったのだろう。
水野対馬守夫人
紀伊徳川家の家老水野対馬守は根っから女好きで仕えている女たちにやたらと手をつけるそ
うだ。三四年前対馬守の妻が出奔したのも色事が原因だったという噂もあるけれど、そうではなくて
対馬が妻をひどくいじめて朝夕むごく扱うので、たまりかねて鎌倉の比丘尼寺(東慶寺)へ行くつもり
で逃げ出したのだそうである。一方対馬屋敷の風習はいたってきびしいらしくて、門の出入りなども
女性には夜十時から厳禁ということなのだが、門番に心付けの六十四文さえやれば家中の妻女も簡単
に出入りできるのだそうだ。対馬守の妻も多分六十四文出して出奔したのだろうという評判である。
今は妻の里から連れて来た女が対馬の妾になっているが、その女は妻のいる時から勢力をふるい、特
別悪い妾であるよし。その妾は自分では善悪邪正どちらも実行するのだと豪語しているということで
11 永之進は七代斉邦の後をうけて鳥取藩主になった斉邦の八代藩主 斉稷(なりとし)でその母は
六代藩主池田治道の側室、浦の方(佃氏)だった。弟の雄五郎も同母だったがその成人後の名前も経
歴もわからない。
12 思い出草 p.236-237。
13 よしの冊子、下:403。
5
ある。出奔した妻は石川(伊勢亀山藩石川家)の娘だということだ。もっとも妻の出奔後は門の出入な
どきびしくなり、今では六十四文出しても出入りが難しいそうである。14
水野氏元祖の水野重央は元和 5 年(1619 年)頼宣が紀州藩に封せられたとき、 新宮に三万
五千石を与えられ、安藤直次と共に頼宣の附家老になり、水野家は紀伊の附家老として明治初年 ま
で十代続いた。一万石以上の知行だと一応大名なのだが、御三家の附家老という地位は大名の資格を
認められなかった。しかしこの女好きだった水野対馬守はどの人だったのかよくわからない。『寛政
重修諸家譜』で調べたがそれらしい人は出てこなかった。
江戸時代苦しめられた武家の妻を救う唯一の方法として鎌倉の東慶寺と上野の萬徳寺があっ
たのは救いであった。そこで三年修行すれば後は自由になるといわれているがそれは必ずしも必要で
はなく夫と妻の家族の調停が整えば妻は実家に帰る事ができたともいう。夫の方が妻に逃げられたと
いうのは男の恥だから何とかして妻を連れ戻し更に罰を加えるつもりの日本男子もそうとういた事だ
ろう。
小野木縫殿助言郷夫人
細川幽斎の和歌の門人に小野木縫殿助言郷(ぬいのすけときさと)という人がいた。縫殿助
は始めは小身であったが、後に丹州福知山の城主になった人である。関ヶ原の役に石田に一味して細
川の籠っていた丹後田辺の寄せ手だった。 若年のころから和歌を好んで、妻をめとろうとしたとき
歌に興味のある女を妻にしようと方々探し、古田織部正の妹が歌に志が厚いときいて仲立ちをたのん
で縁を結んだ。
縫殿助の貧窮はひどかったが時々は和歌の会を自宅で催した。仲間は小川土佐守、熊谷大膳
亮、宇田下野守、木村宗八郎などだった。みんなが座についてから見ると、御簾のかかった所があっ
て雲の上めいているのでみな不審に思った。すると亭主縫殿助が「愚妻も御会に連らなりたいと申し
ますのでこのように御簾の内におります。どうぞお仲間に入れてやってください。」と紹介した。
歌会が始まって皆それぞれの詠草にはげんだあと、食事時分になると四十ばかりの勤勉そう
な女中が出て来て手をついた。「今日のお客さまをおもてなしする品もございません、どういたしま
しょうか」というと奥さまが直ちに短冊に歌を書いて御簾の内から出された。ちょうど春雨が降って
いたので、
月さへも漏る宿なれば春雨のふるまう物もなかりける哉
とあった。ややあって女中が黒く焼き焦がした餅を反古に包んで杉楊枝を添えて出したそうである。
此の話を語った人が言ったことは、此の夫婦は古風で歌の道に志深く,この即興の詠歌は非常に感銘
深かった。貧窮をくったくせずに風流に心を馳せることはなかなかできない事だ。
総じて餅のことをかちんというのは、昔は歌の会に餅を出して勝劣の賞に与えたそうだから
歌賃といったとも,又内裏が貧窮で微々しかった頃,褐色の袴を来た男たちが小豆餅を箱に入れて築
地のあたりを売り歩いたので女房たちが男を褐々と呼んだから餅をかちんというのだともいう。それ
はともあれ、只その会席が厳密で風流を失わず驕奢を優先しない事が大切だ。15
この夫人は有名な茶人、歌人、陶器建築庭園デザイナー大名古田織部正重然(しげなり、通
称左介)の妹なので、夫婦共々精神的な趣味生活を主調にして贅沢には興味がなかったのだろうが、
後に福知山城主になった人がこれほどの窮乏生活をしていたとは信じがたい。まだ少身で結婚して間
もないころのことだったからだろうか。十六世紀の終りまで武士の生活は上下とも質素で、普通の武
士階級の生活は秀吉の豪奢な聚楽第や金の茶室などはとは関係のないものだった事の実証である。
14 よしの冊子、下:329。
15 雨窓閑話、pp.101—102。
6
『おあん物語』のおあんも「十三の時手さくの花染の帷子がひとつあっただけだった。一枚
帷子を十七の年迄着たので、すねが出てなんぎであった。」と言っている。16 一枚しか着物を持っ
ていなかったという事がその頃武士の家庭でも中級以下ならば普通だったのだろう。しかし一世紀足
らずのうちに町民階級の経済的能力と好みは急激に上昇し,一般民まで贅沢を尽くすようになった。
勿論貧乏な家庭ではいつまでも質素だっただろうが、西鶴の小説に描写されているように、元禄時代
までには贅沢極まる美しい着物を着て町を練り歩く町家の主婦や娘が大勢見られた。その結果将軍綱
吉は度重なる倹約令を発して特に服装の簡素化をうながし、着物の材料の値段まで規制した。
この話ではおもてなしに黒こげの餅を出したというが、綱吉は婚姻その他の響宴は二汁五菜,
重要な響宴でも 二汁七菜以上にしてはならない。 後段(夜のおやつ)は一種以上にしてはいけない
等々の贅沢禁止令を発している。そういう禁令自体がその頃の人々が身分不相応な贅沢をしていたと
いう事の証拠である。その一世紀前、十六世起の後半はまだ小野木家のように物質にこだわらない
人々がいたのだ。17
おまん(ねね)、豊臣秀吉夫人
おまん(ねね)、豊臣秀吉夫人
太閤秀吉公の御簾中は杉原入道という足軽の娘で幼名をおまんといった。 杉原は足軽(侍
階級で一番身分の低いもの)だった。 杉原は信長の馬廻りの伊藤右近の配下の岩巻一若(いちわか)
と言う者の下で働いていた。おまんは生まれた時からある理由で伊藤右近の保護を受け、娘に成長し
てからも伊藤の世話であちこちに勤めた。
おまんが岩巻の家で働いていた頃、木下藤吉はまだ足軽で、うこぎ長屋という所にすんでい
た。妻を離別して難渋していたので、岩巻方にいるおまんに妻になってほしいと申しこんだのだが、
おまんは返事を与えずに、まず伊藤右近の所へ行って相談した。右近は「あの藤吉という男は名高い
利口者だから末々のためにもよいだろう。支度は私の方でする。夜着、ふとん鏡櫛笄まで揃えて上げ
よう。けれども私は知っての通り貧乏だから金銭の世話は出来ない。お前の伯父の浅野弥兵衛の所へ
行って借りて来なさい。彼はよい暮らしをしているから恥ずかしくても無心をしなさい」と言い聞か
せた。
そこで、おまんは浅野から金子一両、木綿一反、はな紙三折を貰って来た。右近は喜んで,
夜着布団など洗濯して、その外当分入用の道具を取り揃え、日柄を選んで、おまんにきくという下女
をつけて藤吉方へ嫁入らせた。
藤吉は後にだんだん立身出世して、ついに太閤(関白)秀吉公と仰がれるようになった。
あるとき秀吉は伊藤右近の事を思い出して天下に触れをまわして右近の行方を尋ねた。右近
は名前を隠して清右衛門と変えていたが,貧乏で暮らしかねて甲州の加藤駿河守方へ客分で滞在して
いることがわかった。秀吉はそれを聞き出して清右衛門夫婦を大阪城へ招いた。清右衛門が来ると、
秀吉は昔のことをいろいろ言い出して落涙し,繻子の夜着布団、白銀五十枚と鶴の香箱という名器を
御簾中のおまん手づから清右衛門夫婦に授けた。その時おまんは夫婦の傍によって「木綿の綿入れが
特に汚れています。昔の御礼に私たちが洗濯してあげましょう」と言ってほかの着物を持って来させ
て与えた。 清右衛門夫婦は古綿入れを脱いで、賜った着物を着て退出した。
十日ほどして清右衛門夫婦はお城へ召され,先日の洗濯ができたといって御簾中からじきじ
きに綿入れを返された。その後清右衛門は七百石賜り,七手頭中村式部少輔組に入れられたが、さら
に大録に昇進されそうになった時は辞退した。大阪落城の後、清右衛門は本多美濃守忠政に二百五十
石で抱えられ,その子孫は相続して今でも太閤から拝領した品を使っているそうである。ある人が言
うには、この話を近頃某から聞いたが、まことにおまんの方が出自を忘れなかったことは感じてもあ
まりある。昔は軽かった人が,だんだん立身出世して成り上がると必ず昔の顔を忘れる。それが普通
16 おあん物語、p.373。
17 徳川実記、6:391、 元禄十二年 1699/12/28;6:582,1705/5/3。
月堂見聞集、上:223—224。
7
の人情だがそれに引き換え太閤夫妻は傑出している。誠にこういう人たちだからこそ四海を治めるよ
うな位に至ったのだろう。18
おまん(高台院,1549—1624)は後におねね、おね、ねね、とよばれた女性で尾張國杉原助左
衛門定利の二女であると言うのが通説である。彼女の母は杉原七郎兵衛家利の娘であった。おねねは
幼くして叔母の夫、織田信長の家臣浅野又右衛門長勝の養女になった。永禄四年(1561)織田の足軽木
下藤吉郎と結婚した。夫婦喧嘩をした時信長に訴えて「藤吉郎のやり方は言語道断で曲がっている。
世の中どこを訪ねてもお前さま(ねねのこと)のように優れた女はとてもあの『禿ねずみ』(藤吉郎)
には見つけられないだろう」というたいへんな証明書を貰ったそうである。秀吉が関白に命じられる
とおねねは北政所を呼ばれ,従三位に敍せられ、同十六年(1588)には従一位、ついには准三后にまで
昇格された。京都に高台寺を建立した。19
おまんは叔母の嫁ぎ先・尾張国海東郡津島(現在の津島市)の浅野長勝・七曲殿の養女とな
り浅野家(後の広島藩浅野家)の娘となったと信じられている。ここで著者のいう浅野弥兵衛はおま
んの伯父ではなく、義兄弟だった浅野長政のことである。著者は、浅野家の家来、尾張智多郡の富裕
な百姓又右衛門(浅野長勝)は娘を二人持っていたが、一人を秀吉の妻とし、妹を同じく家来だった浅
野長政の妻としたと書いている。20
長政の母は浅野又兵衛長詮の娘だったので長政は長勝の甥で
ありそれが婿養子にはいって浅野長勝の實の娘と結婚した。おねねの方は叔母の夫であった浅野長勝
の養女になった。だから浅野長勝はおねねの義理の叔父であり、浅野長政はおねね(おまん)の伯父
ではなく、義理の兄妹ということになる。長勝はおねねと浅野長政の養父でもある。たいへん複雑で
あるが江戸時代の縁戚関係というのはこう言うのが多かった。養子養女は規定によって許された関係
でしか成立しなかったからである。秀吉の伝記も秀吉夫人の伝記もいろいろ説があるのでこれ以上の
無駄な詮索はしないことにする。
おねねは周知のように、秀吉の寵姫淀君とは正反対の温和でよい人柄で秀吉にも終世糟糠の
妻として愛され、武将たちにも敬愛され、秀吉の正室として誰からも重んじられた。 秀吉没後剃髪
して京都三本木に隠棲した後、家康の援助で高台寺を建立して秀吉の菩提をと貰い行い澄まして余生
を送った。家康から化粧料として一万六千石を貰ったそうである。『日本女性人名辞典』には上記の
噂話は少しもなく、おまんという名前さえ出ていない。しかし北政所は侍女たちにはしばしば昔話を
して,藁の寝床で欠けた盃で祝言を挙げた話をしたそうであるから,決して昔を忘れない慎ましい性
格だったことはたしかである。 質素で心がけのよい人だったから、国の最高の地位に達しても昔恩
になった人を忘れなかったという事も、汚れた綿入れを脱がせて洗濯をしてあげようと言ったことも
(召使いにさせたのだろうが)信じられる。今なら汚れた着物など捨ててしまうだろうが、上記の小野
木縫殿助言郷夫人の項にもあったように、十六世紀終りの頃は、普通の人は質素で着替えも一二枚し
かなかったから、なんでも洗い張りをして綿に手入れをして仕立て直したのである。そういう手のか
かる事をして物を大事にリサイクルしていた。ただ新しい着物を恵んだのではなくて、そういう事に
よってその人の出自を忘れなかった事、恩をわすれなかったこと等が強調されるている良い挿話であ
る。
以上の話と違っておまんの結婚について意地悪いゴシップを書いた人もいた。ひねくれ者の
上田秋成はどこから聞いて来たのか、秀吉の結婚をことさら意地悪い目で見ていたようである。
木下藤吉が足軽だった時代、清洲の町に松本平右衛門とかいう質商人の質物を持ち運んだ時
に、松本の娘のおまんとなじんで忍び逢いをしたのを見つけられて、平右衛門に「憎いやっこだ、俺
の娘をやるものか」と棒を持って追いかけられ打たれた。娘は逃げて行った藤吉の後について走り出
18 雨窓閑話、 pp.65—66。
19 日本女性人名辞典、p.431。
20 二川随筆,p.430。
8
て親の許さぬ夫婦となって、後に政所とあがめられた、と書いている。21 言うまでもなくおまんは
清洲の町の松本平右衛門という人の娘ではない。
しかし上田秋成が悪口を言っているのは木下藤吉とおまんのことばかりではなく、淀君の事
も、「色好みの性質で後には大野修理を召してまつわらせ、みだりがましい行為があったので、世の
人々は豊臣家はこの女性のおかげで天下を失ったのだという人が多かった。片桐且元は淀君の容色に
まどわされて人のいない所で彼女の手を捕らえると、淀君はその手を打ち払って怒ってひどい事を言
ったので、 且元は恨めしく思って敵方に廻ったのだと言う事だ。色欲に乱れて国を失ない家を亡ぼ
した人は日本中国に数限りない」と書いている。22
細川忠興夫人ガラシャ
この夫人のことは有名過ぎるが一応引用する。
松浦静山が書いていることは、『藩翰譜』の細川伝によると、上杉氏が謀反を起こした事が
聞こえて来て徳川家康は関東へ出撃し、細川忠興も後を追ってすぐに馳せ下った。その隙を狙って大
坂の豊臣秀吉は兵をおこして家康を壊滅しようと図り、東征した大名の妻子を捕らえて人質にすれば
諸侯はみな帰って来て大阪方につくだろうと思った。
まず最初に細川忠興の妻子を大阪城に呼び寄せることをこころみた。細川夫人は相当な人物
(明智光秀)の娘であって、女性ながら強く賢明で、日頃から夫の心の奥をよく知っていた。秀吉は使
者を繰返し送ったが、夫人は一向にその要請に応じない。 秀吉はさらに強く出て、外の者たちの見
せしめのために絡めとるように命令を与えて軍兵をさしむけた。忠興の妻は家来たちに命じて攻撃の
勢を弓矢で防がせ、自分は十歳になる息子と八歳になる娘を刺し殺し、家に火をかけて自害した。秀
吉は案に相違した失敗から、これでは諸大名は徳川方についてしまうかも知れないと考えて人質をと
ることをやめ、目標を変えて細川の城を攻め落とそうと丹後但馬の軍勢を差し向けた。23
この、ガラシャ夫人玉子の有名な最後は本能寺の変のそうとう後の話である。 玉子は明智
光秀の二女で天正六年(1578)十六歳のときに織田信長の媒酌で同じく十六歳の細川忠興と結婚した。
父が反逆を起こしたのは四年後で、かの女はすでに長女と長男を生んでいた。変が起こったとき彼女
は丹後の味土野に幽閉されたが、二年後に秀吉にゆるされて大阪玉造の細川邸に帰参した。その後次
男興利と三男忠利を生んだ。玉子が美しいことを聞いた秀吉が彼女を大阪城に招いたとき、彼女は短
刀を懐中にかくして登城した。秀吉はそれを知って罰することなくかえって彼女の心ざまを褒めたそ
うである。玉子はその後高山右近からキリスト教を教わった夫の影響を受けて、熱心にカトリックの
教えを学んだ。細川家臣がそれは危険なので家に閉じ込めて外出させなかったが、自分の侍女を教会
に送って勉強させ、彼女から教理を教わった後改宗した。その内に二女と三女を生んだ。
慶長五年に夫の忠興が上杉征伐に向かった家康に従って東征すると、石田三成は七月十七日
にガラシャ夫人に大阪城に入って人質になるように命じ、細川邸を包囲させた。夫人はかねて覚悟を
していたので、邸内の礼拝堂に入って祈り、家老の小笠原少斎に命じて短刀で胸を刺させて三十八歳
の生涯を閉じた。この最後は侍女霜の「霜女覚書」によって知られている。ガラシャは夫忠興によっ
てキリスト教様式で盛大な葬儀によって弔われたという。24
ガラシャ夫人、細川忠興ともに傑出した人々であった。彼女はやはり江戸時代も早期の,戦
国時代的な女性であったと思う。
大久保大隅守夫人
21 胆大小心録、p.397—398。
22 胆大小心録、p.398。
23甲子夜話続編1:182-183。
24 日本女性人名辞典、pp.937-938。
9
大久保大隅守は元は甚兵衛という名前で遠山和泉守の妹婿だった。しかし大久保は外出ばか
りしていてめったに家にいることはなく、特別夜遊びを好み、どこへとも知れずかけ歩き、その上遊
女や野郎(男色の芝居者)と遊ぶことを常のたのしみとしていた。けれどもその奥方はすこしも嫉妬
することはなかった。というのは奥方も又珍しいほどの遊び好きで、家では小歌、浄瑠璃、三味線を
たのしみ、外では芝居が大好き、特にその頃の名代役者萩野沢之丞をひいきにして彼の出る芝居には
一ヶ月に十度も見物にいく。小袖の模様に沢之丞の紋五三の桐を付け、櫛,こうがいにまで紋を付け
ている。 沢之丞が芝居で演じるときはひときわ舞台の方へしゃしゃり出て紋所を見せびらかしたそ
うである。
さて沢之丞の芝居が終わると、その帰りを見ようとして先に立って通り町に行き、辻に立
って沢之丞が通ればつくづくと眺めたと言う事だ。一人でさえ目立つ服装なのに、召使いの女中を何
人か、各々の好みの野郎役者の紋所を衣類や諸道具に付けさせて、前後左右に召し連れている。そん
な様子を近辺は言うまでもなく遠方の者まで知っていて、大いに取り沙汰した。
家老たちは残念な事に思って殿様に忠告したが、大隅守は「お前たちが心配するのももっ
ともだ。けれども総じて人間には身持ちのよい者も悪い者もいる。夫婦のなかでさえ欲はわからない
ものだ。人が卑しい噂をしているのを止めることはできない。 沢之丞が普通の人間ならともかく、
芝居の者だからそれをひいきにする事はたいした事ではない。捨てておけ」と言って全然相手にしな
かった。 大隅守は奥方の部屋へも機嫌良く出入りし、奥方も又隔てなく楽しそうに一緒にあそんだ
り物語りをしたり、芝居の話やら遊女の噂やら遠慮なく話しあって面白がっていたそうである。
世間では大久保夫婦の噂をして、つまらない軽い人たちだとばかり言っていたのに、大隅守
はお公儀の方面では非常に有能で、だんだん出世したので、まことに不思議だ、と諸人は悪口を言わ
なくなったということだ。25
大久保大隅守は旗本であるが夫人は大名遠山友貞(
(美濃国苗木藩の第三代藩主)の娘で四代藩
主友春の妹だからこの部に入れた。
大隅守は元禄十六年(1703)に普請奉行として大和川の吹き替えを完成した大久保甚兵衛忠香
のことだと思われる。普請の成功でその後大阪奉行に任じられ、大隅守に昇進、たしかにだんだん出
世した人である。遊び回っていてもちゃんと有能に仕事をする,という人はたまに世の中にいるもの
である。萩野沢之丞は上方から江戸へ下って美しい和女形として人気を博した人なので、大久保夫人
が噂通り彼にうつつを抜かしたとしても、これは夫が仕事で上方へ上る相当以前の事である。大久保
忠香もえらくなる前には江戸でたいそう遊んでいたのである。彼が大和川の工事にかかるころには萩
野沢之丞はもう死んでいた。だから夫婦が遊び廻ったのは二人とも若い頃だったのだろう。夫が出世
して江戸に帰った頃は夫人も年を考えて慎んで行いを改めていた事だろう。面白い夫婦だったと思う。
本清夫人 (松浦邦
(松浦邦夫人)佐竹氏
松浦静山公はたびたび本清夫人のことを書いている。本清夫人(1734—1798)は静山公の伯父
本覚院(松浦邦)の後室で秋田の佐竹家から輿入れた人であった。壽姫と言い(素姫とも)佐竹少将源
義峰とその妾の娘であった。満十六歳の時九州平戸の松浦家の江戸邸へ嫁入った。彼女の夫邦(くに
し)は肥前国平戸藩の第八代藩主の松浦誠信の長男であったが家督を継ぐ前に二十六才で早世した。
邦は静山公の父政信の兄であった。静山は伯母の彼女を心から尊敬し愛したらしく、彼女について長
い記事をあちこちに書いている。伝記的事実だけでなく、彼女の日常生活も記録、年譜まで入れてい
る。 本清夫人は寛政十年(1798)十一月十三日卒。享年六十五歳。以下は本文。
本清夫人は容色美しく、お心優美に正しく、始めて会ったときから人は皆其の美しさをほめ
ていた。婚礼は夫人が十八歳の時、宝暦元年(1751)十二月十八日。御夫婦はたいへんに睦まじく、夫
25 久夢日記、p.93−94。
10
人はよく夫に仕えた。本覚院は色好みだったので侍女たちは容色で選ばれたが,夫人は少しも嫉妬の
様子はなかった。そのねたみのなさは私(静山)もよく見て知っている。 夫人は嫁して五年後に一女
を生んだ。長姫(ちょうひめ)と呼ばれたが三歳の春其の短い生涯を終えた。同じ年(1757)の五月に
本覚院も亡くなられた。
私は小さいときから本清夫人をよく見知っていた。夫人は、まず誠嶽院殿と久昌夫人(静山
公の祖父母)にお会いになる時も父母に仕える如くであった。私の家にいらっしゃる時はいつもいろ
んな贈物を持って来てくださった。私が小さい時、久昌夫人に連れられてあの浅草の御邸(本清夫人
と夫の邸)に行った時もねんごろなご馳走にあずかった。私は少年時代軽々しく放蕩であったが、そ
れでさえやさしくあしらってくださった。酒宴の席にも度々召されて、時には娼妓の三味線や舞踊な
どさまざまな余興もあったのだが、少しも不行儀淫らなお姿を見た事がなかった。ただ私が若くて浅
はかでうきうきしているのを羨ましいなどとおっしゃって、たのしまれる御様子だった。こうして長
年お側にいたのだが、いささかも昔(注:伯父本覚院の生存時代)をお忘れになった様子はなかった。
厳粛に貞節を守られ端正で気品のある方だった。又光照夫人、水巌夫人(注:二人とも不明)などと
共にわが邸へお迎えした時も、いつも上座におすわりになって姑妹姪甥とむつまじく、温和でたのし
そうな御様子だった。
伯父本覚院逝去の次の年宝暦八年(1758)、里の佐竹家から、本清夫人はまだ年若いのだから
再婚なさるべきだと云う手紙が来た。本覚院の御父誠嶽院(松浦肥前守誠信)も同じ意見で其の事に
ついて時の佐竹家の当主秀丸が手紙を書いて勧められた。(注:秀丸は本清夫人の従弟佐竹義明の子
である。義明は義峰の子義真の跡を継いだ人である)。佐竹家からの要請によって本清夫人は一応里
方へ帰られた。しかし一ヶ月後の夫の忌日に仏間に入って誦経をしてから誰にも云わず自らの髪を切
られた。他家に再婚する意志のないことを表明されたのである。
夫人の老女の浦瀬が昔のことを覚えていて私に話してくれたのだが、夫人は本覚院が亡くな
られてから少しも髪飾りを用いず、いつも島田くずしに結っておられた。「里に帰られてからそれさ
え切ってしまわれたのは哀れ過ぎます」と浦瀬が言った。佐竹家の記録によれば髪を切られたのは宝
暦九年(1759)九月二十五日。執政松平右近将監の手紙によると、後室が薙髪して法号を称したいと請
われたので二十九日に承っておき,翌十月四日に薙髪と法号が許されたとある。
又夫人は非常に事に敏くていらっしゃった。もと本覚院のお墓も野外であったのに、明和六
年の十三回忌の時(夫人は三十六歳であった)夫人が私財を投じて御墓に上屋(うわや;注:墓の上
におく模造の屋形)を造られ、香華の器も備えられた。それから二十八年の御忌に当たって、四月晦
日に御髪をお剃りになって翌五月四日(本覚院の正命日)に剃髪の式をあげられた。正忌日には毎年必
ず天祥寺の住持ならびに僧侶を招いてご馳走をなさった。三十三回忌には先に切られた髪を本覚院の
お墓に納められ、合葬の式にならって墓標に御法号を並べ刻まれた。天明四年(1784)の二十八回忌に
は本清夫人は御年五十一、三十三回忌には五十六になられた。五十二にして慕うとは夫人のことをい
うのだろう。
世の中には芝居のひいきをする者が多くて、その甚だしいのはほとんど眷恋と言っていい程
の焦がれようである。例えば夫人の女中たちは各々のひいき役者を持っていてその衣紋を写して喜ん
でいた。私も年少の頃侍女たちがそうしてさわぐのを面白がってからかったりしていた。夫人は傍か
ら見て微笑していらっしゃったが、やがて私の方を顧み、又侍女たちの方へ向かれてこうおっしゃっ
た。お前たちが大切にする紋所を私は羨ましいとは思わない。けれど、今に至るまで一人もひいきす
る者を持たなかった自分を恥ずかしく思う。私がひいきに大切に懐にしまっているのはこれ、とおっ
しゃって着ておられた羽織の紋、梶の葉(夫君の紋)を示された。侍女たちは、冗談をおっしゃると
面白がっていたが、私はさすが年少の心にも夫人のお気持ちをさとって胸が塞がり、涙が浮かんでし
ばしお答えもできなかった。今これを聞く人たちもまた夫人の貞節を思い、私の哀悼を察してほしい。
11
私がある日夫人の邸を訪ねた所、本を読んでいらっしゃったので、何をお読みですか、と聞
くと、『武徳編年録』だった。おっしゃった事は、私はこの頃昔のことが知りたくてこの本を読んで
いる。それにつけても云うことがある。あなたのお家が羨ましい。私の祖先は関ヶ原の時つまらない
方についたので、今になっても其の事を心苦しく思っている。けれど大坂の戦いでは東軍について手
柄を立てたので今でもこんな安穏に生きていられる。それは祖先の忠孝によるのだ、とおっしゃった。
夫人は多能だった。和歌は冷泉家に学ばれ、御詠草も多かった。左近が云ったことによると
香道は春竜という僧(米川流)でついに奥をきわめられ、侍女たちには自ら教えられ、茶道は千家で浅
草の邸に茶室を構え、茶事もなさった。晩年には書を東江(沢田東江)についてその流儀をよくなさっ
た。
世の中には尼となって戒律を保つと言って僧衣を着ている者が多いが、夫人は剃髪のあとも
ふつうの世間の着物で、時々黒い頭巾をかぶられるだけだった。冗談をおっしゃって「世の中の戒行
者である尼が羨ましい。私はなまぐさ坊主で魚肉も忌まず、出される物は何でもおいしくいただく」
とおっしゃった。世の中の僧服を着た偏固な尼に比べればそのお心はくらべようのないほど高かった。
夫人は貞節であったが、又豪華な気分も持っていらっしゃって、時としては吉原に遊びに行
かれ、春は桜をめで秋は灯籠の見物に行かれた。私が少年の頃は志もなく放蕩にふけっていたのを、
どんな行末を察知なさったのか「若い時は遊興もなさいませ。私もこの間吉原の松葉屋という所に行
って染之助という名高い傾城を招いて興じました。風流壮麗な家でしたよ」とおっしゃった。そんな
遊筵にも男女の事を上下なしに論じられた其のお心の深さに今私は思いをはせる。
ある時のお話に昔の事をおっしゃった。「私がこの家に来たころは松英院殿(六代平戸藩主
松浦肥前守篤信)はご隠居でいらっしゃいましたが、私をことさら可愛がってくださいました。お目
にかかりに行くと、時には近くへお招きになって私を撫でいとしんでくださったのですが、御手を着
物の中へ入れて肌をなでられる事があって、背中を撫でられるときは恥ずかしいけれどまだ我慢がで
きましたが、おなかをお撫でになるときは堪え難い思いをしました。今でこそ私は年取っていますけ
れど、其の時はまだとても若かったのでたいへん苦しい思いをいたしました。けれど松英院殿は優雅
な方でした。」
夫人はいつも「私は終りに臨んで苦しまず往生できる事を願っています」とおっしゃってい
たが、十一月十三日にそのお言葉にたがわず、泰然として亡くなられた。この日、佐竹右京大夫
(注:義和、 本清夫人従弟佐竹義明の孫、佐竹二十五代藩主)が夫人の邸を訪ね、生花をして興じら
れた。いつもと変わらない御様子だったので、右京も夜に入って帰って行った。夫人は厠から出て来
られて部屋に御入りになり、心地がいつものようでない、とおっしゃって床に御入りになった。侍女
が怪しんでお側へ行って御機嫌を伺うともう人心地はなく、眠るようにおかくれになった。医師もも
う退出してしまっていたので、驚いてかけつけた時にはすでに亡くなられた後だった。左近が言った
事は、夫人は平生法華を信じ、祖師(日蓮上人)を厚く崇敬しておられたが、その日が祖師の寂日と同
じであったことは不思議であった、と。
又左近が「夫人が常に人におっしゃった事は、私が死んだら身体は総泉寺の地にあっても魂は
天祥寺に行くだろう。だから私の墓に詣でようと思う人は、決して総泉寺に行かずに天祥寺にいらっ
しゃる私の夫のお墓に行って欲しい。私の心はあそこにこそあるのだ」おっしゃったと語ったが、こ
れは左近だけでなく私も親しく聞いたことがある。26
平戸侯松浦家に嫁入って六年ばかりで未亡人になった美しく,一生貞節で賢く、しかも自由
な気持ちで生きた女性の肖像である。静山公はよほど夫人に心酔していたらしく度々彼女の名前を出
し、その行動や人柄をくわしく描写している。 静山公が若かった頃放蕩し,浅薄な人間だったという
ことを自分でみとめているのもよいが、 本清夫人がそれを批判したりしないで寛大に見守って遊興
26 甲子夜話続篇、6:pp.3—20。
12
をすすめていたのもよい。 本清夫人は自分でも松葉屋へ上がって染之助を呼んだというのだから相
当な自由主義の人である。自由主義などと言う言葉も、自由という観念すらなかった時代に『青鞜』
の女性のようなことをした女性がいたのは驚きである。役者などに夢中になっている女中達を叱らず
に、贔屓が一人もいない自分が恥ずかしいと言って自省したのは反対に自分の貞節さをひけらかして
いるとも取れるが、人間にはそういう柔軟さが欲しいという心だろう。また必要な所では誇り高く威
厳を保った人だったのである。
しかし十六歳で嫁に来た彼女を三代前の藩主篤信(松英院)
)が近寄らせて体を触ったというのは
言語同断の仕打ちである。大名の独裁的態度は弱い目下の者たちだけでなく、同級の諸侯の娘にまで
及んだとはひどい話だと思うが、これはそんな同級内での横暴が実際に記録された数少ない例ではな
いだろうか。しかも松英院は夫の祖父である。結婚したとは言えまだ幼い本清夫人はさぞ気味悪く恥
ずかしかったことだろう。助平爺に体中撫でられて身をすくめている少女が眼に見えるようである。
久昌夫人
私(松浦静山)は幼いときから 久昌夫人に非常に可愛がられた。今私が年を取ってからでもその昔
のお言葉の柔らかい御教訓が日時に胸に浮かぶのは不思議である。私が七八歳のとき病身だったので
灸治療をさせられた。私はその熱さ痛さが堪え難かったのであるとき夫人に申し上げた事は「通旅食
町の三枡屋は、商売とは言いながら,あいつのために都下の子供たちが何人も灸治療の難儀にあって
いる。( 注:通旅食町の三枡屋平右衛門というもぐさを売る大商人がいたのである)私は成人して
大勢の者を率いる身になったら,真っ先にあの三枡屋を討伐し,都下の子供たちの厄をのぞくつもり
だ」と言った。私はそのときはまだ子供で乳母のほかに市平という下僕一人の従者しかいなかった。
夫人は涙を流されて「よくぞおっしゃった。私があなたを養育するのは外でもない,やがて名将とし
て任を果たされることを願うからなのです。今のお言葉はその責任に堪えられる証拠です」とおっし
ゃった。後に不肖乍らも壱岐肥前両州の守になってしばらく幕府の権を執り、寛政有道のときには義
務を十分に果して無事にすませ今こういう退老の身となったのである。夫人のお言葉の有難さは今な
お骨にしみている。
又十余歳の頃だったか,何時も久昌院殿の傍に置かれたとき,佐野という老婆を私の守り役と
してつけておかれたが,私がとかく小刀を持ちたがるので,手指を傷つけるだろうと佐野が何時も心
配していた。ある日『家内教草』とかいう,単語を一句づつのせてある小冊子があったのを佐野が讀
んで 久昌院殿に「ごらんなさいませ。この句の中で『童の小刀使い』とありますのは英君(私の幼
名)の事でございましょう。これからは小刀をもてあそぶのをおやめになるようにお申付けください
ませ」と申しあげた。私は口惜しく思ってその本を取り上げてちょっと讀んでから「これ見ろ,『年
寄りの仏頂面』というのがある。これこそお前のことをいうんだろう」とやり返した。すると 久昌
院殿は微笑まれて「この子は秀才でいらっしゃる」と特別嬉しそうだった。今にして思えば老涙に耐
えかねる事である。27
久昌院殿、久昌夫人(1718—1786)というのは松浦静山の祖父松浦誠信の室であった。本名は宮
川トメといって,江戸日本橋の商家近江屋伊兵衛の娘、幼児から利発で美人であった。平戸藩主松浦
篤信の女小姓となって,次男誠信の眼に留まったので,稲垣対馬守の養女となった上で誠信の側室と
なった。享保十三年(1728) 誠信が藩主になり,同十九年政信を出産した。明和元年(1764)正室とな
った。政信が宝暦八年(1758)に死没したとき,その子静山が襲封して藩主になった。夫人は孫静山の
養育に専念し,自筆の訓戒書を与えたりした。「ほめ候者はわがあだ(仇)なり、そしる者はわが師
なり」など十ヶ条の君主学を提示したもので静山は終世それを体得したという。28
享保十四年
この夫人が十二歳の頃日本につれて来られた象を見て何度もその話をされたらしく静山は夫人から聞
いた事だけでなく、自分でしらべた事をも詳しく記録している。29
27 甲子夜話三篇1:167—168。
28 日本女性人名辞典、P.377。
29 甲子夜話三篇1:217—227。
13
静山公は身近にあった女性たちに母親がわりの面影を見たのかずいぶん彼女たちに心酔してい
る。又その女性たち、久昌院にしても本清夫人にしても考え方が凡庸でなかったのに驚く。
自由主義的とはいえないのだが静山が「三枡屋を討伐し」てやる,などと物騒な事を言ったり,小刀
を扱って老女をはらはらさせているのに 久昌院はのんびり構えて微笑んでいる。本清夫人も静山公
の若い時の放蕩を少しも批判しなかった。これらは特権階級の身びいき甘やかしか、それとも特権意
識なのかもしれないが,江戸時代一般の儒教道教的な狭い考え方でなかった事は確かである。
松平相模守治道夫人生姫
松平相模守治道夫人生姫
松平(池田)相模守治道侯の室は松平(伊達)陸奥守重村侯の娘で母堂は近衛殿の御養女だから、
生姫も和歌の道にすぐれ、殊に容貌が美しかったので婚姻始めから夫婦のお仲はたいへん睦まじく、
側室も置かれなかった。相模守が在所の因幡へ下られたときは夫人が陪妾を置くようにすすめられた
けれども同意なく下向された。或る年夫人が懐妊された時も夜の伽に妾を置かれるようにすすめられ
たけれども承諾なさらなかった。それを気の毒に思われて夫人はお里へ行かれて母堂と相談なさり,
召使の中で容色のすぐれた女をえらんで里邸から送られたのでとうとう妾を取られた。
相模守は始めは妾と馴染みは薄かったのだが、日を追って寵愛されるようになり,在所へも
連れて行かれる程になった。そうして江戸へ帰られてからもこの妾だけをもっぱら寵愛して正夫人を
なおざりにしたので人々は批判した。もともと夫人から進められた事だったので夫人も仕方なく思わ
れただろうが、産後に腫気が出た上に種々の思いも重なってだんだん病気がつのり、ついに寛政四年
(1792)の夏死去された。誰もが悲しんだが甲斐もなかった。没後夫人の褥の下に夫人の手跡で一首の
歌が残されているのが見つかった。
むすびても甲斐なき物を玉の緒の行く末ながくなど契りけん
これを見つけた事で人々はいっそうあわれに思って語り伝えたそうだ。30
これは先に言及した桂香院の孫池田相模守治道の若く美しい夫人生姫(暾子)が、仲睦まじか
った夫に妾をすすめたばかりに捨てられてしまったというたいへん気の毒な話である。大名家で妾ば
かりを寵する人は多かったので、普通は別に噂の種になったり批判されることではなかったので、夫
人はただそれを黙って受け入れるより他はなす術もなかった。此の場合は始め珍しく夫婦仲がよく、
娘を一人儲けて、理想的に幸福な結婚に見えたのに、夫人があまりにも夫のことを気遣ったためにこ
う言う悲劇になった。
そもそも御産をひかえた妻が夫の浮気のためのお膳立てをするなど、他所の國では考えられ
ないことである。封建時代の男たち、とくに大名など好き勝手なことができる権力の地位にいたから、
この奥方は仙台家や他の家の話を聞いていて,大名が側室を入れることが当然だと思い込んで、必要
もないのにそんなお膳立てをしたのだろう。珍しく側室をほしがらなかった夫なのに、余りにもよき
妻であろうとして裏目に出た例である。 今では日本でもそんなことをする妻は一人もいないだろう。
側室が普通だった日本の過去の異様な一面である。この生姫は二十一才の若さでなくなり(17721790),夫の相模守治道も三十三才で亡くなっている(1766—1798)。
浅野安芸守吉長夫人節子
松平安芸守(浅野吉長侯)のご先祖の奥方は江戸城(徳川家)から御入輿なされ御守殿などもで
きて華麗であったという。(注:これは著者の間違い。浅野家は御守殿の称号を使う資格はなく、そ
の建物はお住居と呼ばれた。)
30 譚海、
p。175-176。
14
その奥方が厳島の祭礼を御覧になりたいとお望みで、わざわざ宮島の社人巫女などを江戸へ
召され,安芸守の築地の下屋敷で祭礼興行があった。そうして国でする通りの厳島の祭礼が再現され
た。その祭りの終りに神主が供物を奉る時,厳島ではいつも神に仕える鴉が二羽飛んで来て神供物を
口にくわえて空高く飛翔する。江戸でもその日その通りにどこからともなく鴉が二羽飛んで来て神供
物を口に含んで大空へ駆けのぼり消え失せたので皆神威の不思議を語り合ったという。
安芸守の御邸にはお家附の雛と言ってひな祭りにおもての書院にかざられる雛がある。これ
も奥方がお輿入れの時に持参された雛で,世に類いない一揃いなので、昔からの伝統のお家の秘蔵の
品として、毎年本家で規式通りに飾られる雛である。浅野家にお姫様が生まれてもこの雛は相続しな
い。内裏様の剱は小鍛冶宗近の打った物だそうで,その外槍、長刀、武具を始め皆名作がそろえてあ
る。人形はご夫婦を始め家老、用人,次々の家司、奴足軽の類まで皆揃っている。奥女中も同じ数だ
けの人形が作ってあり、若君を乳母が抱いている人形もある。此の人形は若君の様子を生きた人間の
ように写して粉ばかりでこしらえた物とは見えない珍しいものである。畳を並べ,御殿をしつらえて
飾るのだがその道具一切の作者や,その年の三月に雛を飾った責任者の名を記してしまっておく位大
切にされている雛だそうである。31
安芸守吉長侯の奥方は加賀守(前田綱紀)の御妹(注:實は娘)である。賢女でいらっしゃって
毅然としたことがお好きだったので、召し使われる女房たちも御前に居る時は脚をくつろがさず,腰
を伸ばして正しく座るような女を好まれた。安芸守が奥へ入られて奥方のお膝を枕にして休まれると
きは,お目覚めになるまで相当時間がかかっても少しも膝を動かされる事がなかったという。この奥
方は女の子ばかり八人まで生んで最後に一人若殿を儲けられた。その後儒者をめされ、ときどき学問
をされた。四十になって学問をするのはどうかと人々は思うだろうが岩松殿が成人した後、中国の事
など問われた時答えができないのは残念なことだから勉強を始めたとおっしゃった。32
安芸守の父君は尾張徳川の御母源常院様(注:広島浅野家出身)のお孫でとくに寵愛された
方だが幼い時祖母君を訪問なさると,なぜもっと度々逢いに来て下さらないのかと苦情を言われたの
で,御門から玄関まで歩いて行くのがたいへん遠いので苦しくて度々は来られないと答えられた。そ
うすると,そんな事はたやすい事だ。籠に乗って玄関まで来て横付けにしなさい,と内緒でその許可
を下さったので、この安芸守は一生尾張徳川家の玄関まで籠に乗ってこられたそうである。33
この源常院様は仏教をとくに信仰なさってその姫君も同様に信心者だった。母君が何かで患
って病気が長引いた時,姫君が色々の願をたてて本復を仏に祈られたところ、ある夜の夢に尊い僧が
現れてこの病気の平癒を願うなら地蔵尊の像を千体絵に描いてほどこすようにと言われた。姫がその
事を母君に言われて二人で手づから地蔵尊の絵を千枚板におしてほどこされた。その結果か源常院様
の病気はすっかり平癒したということだ。34
以上の幾つかの挿話は皆広島の浅野家の女性たちに関したことである。しっかりした武家の
娘らしい女性たちであったようである。
尾張徳川の御母源常院様というのはその名前で探すと誰かわからない。浅野家から尾張に嫁
いだ女性は初代徳川義直の御簾中、浅野紀伊守幸長の娘春姫がいる。この人の法名は高原院である。
しかしこの女性の外に源常院はかんがえられない。
というのは、節子の夫安芸守吉長の父は浅野(松平)安芸守綱長である。尾張徳川の二代の光
友とその側室勘式部(清心院)の生んだ貴姫(あて姫)が浅野安芸守綱長に嫁いで浅野家で安芸守吉
31 譚海、p.395。
32 譚海、p.406。
33 譚海、p.407。
34 譚海、p.407。
15
長を生んだ。「安芸守の父君は尾張徳川の御母源常院様のお孫」とあるら源常院は綱長の母方の祖母
で、尾張初代義直夫人の春姫が源常院だと思われる。
始めに述べられている江戸城から浅野家へ降嫁した姫君は徳川家康三女振姫で、和歌山二代
藩主浅野長晟の正室である。この女性は始め会津藩主蒲生秀行に嫁し、後に浅野長晟に再婚した。
振姫の院号は 正清院である。浅野長晟は和歌山の後で安芸広島藩の初代藩主になった人である。安
芸守吉長の父綱長はその人の孫でもあった。
浅野家でとくに有名な女性は始めに出て来た浅野安芸守吉長夫人節子である。生沒年ははっ
きりしないが享保年間(1716—1736) 十九歳の時に一つ年下の浅野吉長と結婚し,安芸御前と称された。
彼女は加賀松平(前田)綱紀の娘で、なぎなたや乗馬の達人であった。大名の間で武芸の誉れの高かっ
た弟の前田吉徳とともに一騎当千の姉弟であったという。 そうして世嗣岩松を生んだのは三十七歳
だったから江戸時代の女性としてはずいぶん年長で子供を生んだということになる。しかも八人も女
の子を生んで最後に世嗣ぎを生んだのだから大手柄だった。美人ではなく、頬骨高く、顔色くろく、
たくましい女性だったらしい。
手跡は特にすぐれていて、彼女の手紙を父の前田綱紀が自慢して家来達に見せたくらいだっ
た。当時の多くの大名の奥方は夜更かしして朝は遅く起き、化粧と着物を着替えることが一日の仕事
という女性が大部分だった。節子夫人が毎日の生活を規律ただしく生き、多様な能力と学問にすぐれ
た人だったのは希有な事であった。
しかし節子夫人の最後は壮絶だった。夫の吉長は始めは強い正室に遠慮していたが、中年に
なってから酒色にふけり吉原に出入し、能役者や蔭間を贔屓して最後には遊女二人と蔭間の少年二人
を請け出して広島へ帰国する時同伴した。大名の吉原通いは幕府に禁じられていたし、遊興の者たち
をおおっぴらに国まで連れて行くことは幕府の譴責を招き、たいへんな醜聞であったから,夫人はそ
れだけはおやめになるようにと進言したが、吉長はそれを聞き入れないだけではなく、不機嫌に帰国
の際奥方に別れの挨拶にも来なかった。
夫人はお側の者たちに「殿様がこれほどの曲がったことをなさるのに家中に御意見をする者
が一人もいないとは何事だろうか。私が進言したのは嫉妬深い女の言葉ではなかった。全く殿のおた
めに申し上げたのに受け入れられなかったのはいかにも情けない仕打ちである。私の立場はこれまで」
と言った。それから居間に燈火をあかあかと照らして弟の加賀中将吉徳侯に最後の書状をしたため、
その後で切腹してなくなられた。すぐに死なれたのではなく女中たちがうろたえて医者を呼ぼうとす
るのをとめて、切腹する程の者が生きようと思うはずがない。これはかねて覚悟のことである。と中
老の豊田に介錯を望まれた。豊田といっしょにいた局の外山と沢井が詢死の覚悟を述べると、夫人は
詢死は御法度である。それよりも岩松の行先を見届けるようにと言った。女中たちがなおも詢死のお
許しを願ったので夫人は二人のお局にそれを許し、豊田には三人の介錯をした後、三十五日を過ぎれ
ば勝手にしてもよいと許可した。それで外山と沢井は切腹し、豊田は三人の介錯をして事の次第を加
賀中将に報告した。中将は早馬で霞ヶ関の屋敷に駆け付けられた。三十五日すぎて中老の豊田も夫人
の後を追って自害したということである。35
普段から婦道を正しく守って来た女性らしく、節子夫人は必死の進言が退けられた時、妻の
立場がなくなった事を感じ、よく考えた上で自害した。それも男性のように切腹という珍しい死に方
である。咽をかき切れば早く死ぬことが出来る。切腹すれば苦しく、死ぬのに介錯が必要なことは武
士の妻だからよく知っていた。あえてそのような自害の方法を選んだのはそれも夫に対する意見の一
端だったのだと思われる。これは享保の頃で八代将軍吉宗の治世下であったから、将軍の男性的倫理
的な考えを信奉してこのような死に方を選んだのではないか。夫の吉長は知らせを受けて驚いて妾を
追出したということだが、彼はその次の江戸城出仕の時誰にも顔を見せられない程恥じるべきだった。
しかし吉長は普通江戸時代の名君の一人に数えられているのである。政治的に名君である事と家庭で
よい夫であることとは全然別問題であった。
35 三田村鳶魚全集、pp.312—314。
16
迷子になった大名の娘
湯島聖堂の御建立によって多くの人々があちこちから集まって来るようになり、建築の仕事
もあちこちに増えた。ある日本郷から普請に出る者たちが仕事で少なくとも五六人連れで出かけて行
った。すると、道にむこうから、板じめ緋縮緬の大振袖の下着にしごき帯をして、その上に八丈島の
小袖をうちかけのように着た十七八ばかりの娘が、垢付いた木綿の所々破れて綿の出た着物を着た五
十頃の親父に手を引かれて来るのに行きあった。
その娘は仕事師の連中を見て涙を流しながら「助けてください」と言った。容色はすぐれて
美しく、その身のこなしは上品で、育ちのよさそうな態度である。助ける理由を尋ねると、親父がそ
ばから何かと文句をつけ始めた。わけのわからない挨拶なので仕事師の親分が、どっちにしてもその
姿では見苦しい。私の家へ来て支度をしなさいと言って無理に家へ連れて帰り、先ず娘に汚れた足を
洗わせると、馴れない様子で、しかも手拭を土間へなげ捨てた。なぜだと訊くと下をぬぐったのだか
ら不浄だという。その様子はまるきり抜けているとは見えないが、形は自堕落で、帯もひとりではし
め兼ねる様子だった。親分が此娘を預かろうといったけれども、おやじは承知しなかった。そうして
高声で抗儀して叫ぶのを、家主が聞きつけて中へ分け入った。おやじがやっと家主方へ娘を預ける事
に同意したので女の身元を問うと、彼女は自分の名前さへ知らないのでこれは誘拐したのだろうと大
勢が聞きただすと、おやじは文句もいえずあわてて逃げ失せた。
それから娘に宿所や親の名前などを問うのに、泣いてばかりいて物も言わない。 その夕方
人品のよい町人が来て,あの娘は自分の出入りのお屋敷の人だから貰い受けたい、と申し出たけれど
も、最初のおやじのほうからの回し者だろうと家主は取り合わなかった。するとその夜、重立った役
人と見える侍が来て「私どもの屋敷の奥でつとめる女がこちらに居るそうなので,受け取りに参りま
した」という。その様子はしかるべき人品なので、すぐに娘に引き合わせると、彼の娘は此の侍を見
てはじめて安心した様子で,話している様子は主従(注:娘が主)のようだった。此侍は浜町のある屋
敷の家来だから、娘をすぐにわたした。
すると、まもなく何かの礼として樽代五十金を送って来たそうだ。或る人の話によると、娘
の親の大名は乱舞を好んで度々能囃子を催した。その演者のなかに下谷から来る笛吹きの美少年がい
たが、どういう方法でか姫としのび逢うような仲になっていた。近ごろは都合が悪くて中々逢えない
のを嘆いて、姫は恋慕のあまり腰元を連れて出奔して道に迷ったのであった。その屋敷の奥向きと表
の境に竹薮があった。篠竹があつくしげって路がないように見えるが、これをくぐり抜けるとすぐに
表へ出られるので、 若侍たちは此所を通って奥の女中と密通する事が数年つづいていたのだが役人
どもは知らずにいたのだろうか、頼りないことである。今度の事件は、姫が屋敷から忍び出て竹薮を
通って美少年を訪ねようとしたが、道に迷って女中もいなくなり、一人になった時あのおやじにつか
まったのだろう。36
大名の娘というのだが気概も精神も身じまいもそうは見えないふがいない娘である。 自分
の名前さえ知らず、仕事師の親分の家で助けられても有難いとも思わない様子である。着物もちゃん
と一人では着ることができないのは毎日召使いに着せてもらっているからであるが、十七八になって
も自分でするべき最抵の身だしなみ、身じまいも出来ないとは情けない。そういう娘が一人前に恋だ
けはして簡単に悪者おやじに誘拐されそうになった。現代のフェースブックで誘拐に遭う少女達と変
わらない。これは大名だろうが何だろうがやはり親の責任であり環境の所産である。江戸時代も上流
階級にしっかりした女丈夫もいればこんなに頼りない少女も居たので別に変わった時代ではなかった
ということだ。
お姫様の病気
36 梅翁随筆、p.57-58。
17
著者大石千引の友達の松本可員が語った話である。ある大名の姫がお腹が痛いと言ったので
お抱え医師たちが呼び入れられた。さっそく針治療をほどこそうとしたのだが、姫はどの針も痛いと
言って打たせない。町医者某のまだ年若い息子がそれを伝え聞いて、私が痛まないように針を打って
さしあげましょうと申し出た。そこで大名家では彼を召し出して針を打たせて見た。ところが姫は少
しも痛まないというので二三度呼び返して打たせると、腹痛は程なくさわやかに回復した。それでこ
の若い医師は禄をいただいて召し抱えられた。
その時、父の医者が怪しんで、お前は誰にその術を習って痛まないように針を打つ事ができ
たのか、と問うと息子は答えた。「お姫様のお腹はしばらくの間の故障で自然に直るものでした。だ
から私は筒だけをお腹にあてて、針を打つ真似をしただけです。」37
たいへん頭のいい若者で世事にも長けている。彼は旧式のきまじめな父より状況判断、人間
判断が上手だったと見える。この青年は若い甘やかされた女の子のこともよくわかっていて、彼女ら
が痛みに慣れていないので事を誇大化して鍼(針)を頭から受け付けないこともわかっていたらしい。
人間をよく観察していたので近代の心理学を先取りしたような療治を編み出した。父親よりは名医に
なったことだろう。
貞正院
一万石ばかりの小名の妾だった人が男子を生んだので、位が上がって貞正院と呼ばれ小さい
家を与えられた。その男子が一万石を相続してまもなく、ある大国の国主が亡くなった。その家には
跡継ぎがいなかったので、親類であるこの小名に家を相続させることになった。するとその小名は自
分は行儀悪く育ったから大国の領主として一国を治める事はとてもおぼつかない、と言って何度も辞
退した。しかし大国の方ではこの人以外に血族はいないのだからと言葉を尽くして頼み入り,とうと
う承知させた。
大国の領主になった大名は母への孝心が非常に厚かった。しかし母堂の方から息子を訪ねる
という事は絶対にしなかった。老臣たちが集まって評議の上、御実母を大守の屋敷へ引き取り、知行
千石を所領として進めようと決め,御母の屋敷へ行ってその事を申し出た。すると母堂は「お志はう
れしいけれども,大守のおためをお思いになるなら、それはおやめください。私のような身分の軽い
ものが先君の恩寵を得て,その上男子をお生みしたことはもったいない事でした。その有難さは常々
思いにあまっています。今そのお子が大国の家督をついで大守になられたことは恐ろしいほどの幸運
です。それなのに今素性のいやしい老婆があの御邸へ行って御一緒に住みましたら、大守は自然に野
卑になられる事もありましょう。それでは一家一国のためになりません 。又千石の知行は過分です。
私はこの家で十分いただいています。その千石をお分けになって日頃忠勤な人たちに御加増なされば
どんなにか喜ばれることでしょう」と言ったので老臣たちは感涙を流したということだ。
その後母堂が大守の屋敷を一度訪問したことがあった。始めての入来だったから大変なご馳
走が用意され,家中の者共が門前に砂を盛り,飾り手桶など出して待っていた。母公は屋敷の門前ま
で駕篭に乗って来て,門前でおりて女中を二三人を連れて、門番が土下座している前をていねいに腰
をかがめて通った。屋敷内の侍たちは母公があまり質素で簡単な様子なので殿様の御母堂とは知らず
に皆行き過ぎた。殿様の前では母公の所作はまるで家来のようであった。大守が挨拶してどうぞ上座
にお進み下さいと言ってもいやいや勿体ないと言って始終手をつかえて低頭していた。しばらくの後
彼女は別れの挨拶をして帰宅し、その後は再び訪問することはなかった。
あるときこの母公の女中が青黄色の小袖を着ていた。母公がその色は何と言うのかと聞いた
時,「山まい染めとか申します。けれども山まい染というのは間違いだそうです。本当は山藍染とい
うのだそうです。みちおくの山藍というところで染め出すからともいいますし、または夏山の若葉の
37 野乃舎随筆、p.105。
18
青々とした藍のような色だから山藍染というのだとも聞いています。それから定家卿の佐野の渡りの
雪の夕暮れの画を描くのに、馬に乗って右の袖をうちかづいていらっしゃる様子を山あいの袖と言っ
て画家の伝授の画題だそうです。これは佐野の渡りの道が狭い上に雪が積もっているので袖を払う事
さえ難しい山の間なので、山あいの袖と申すとも承っています。もとより古いことらしいのです。此
の色を定家卿の歌に
あわれしれ霜より霜にくちはてて終に古にし山あいの袖
という古歌があるということをお聞きしました」と答えた。
母公がかさねて、その歌はお前が前からずっと知っていたのかと聞くと、「そうではござい
ません。或る年にこの御屋館に仕えておりました滝瀬とかいう方に教わりました」と答えたので,母
公はたいへん感心して「今時は他人の手柄も自分の手柄にして云いふらすのが当たり前になっていま
す。その歌物語よりもお前の律儀で正直なことこそ誉めるべきです」と言って綿絹を褒美に与えた。
この女中は何か大切な用事を承る前夜は粥、梅干し、焼き味噌の外は何も食べず用心して翌日の仕事
につとめる準備をした。貞実無二の者だったから母公の仲介によってある歴々の侍に嫁入りして幸せ
になったそうだ。38
全然関係のない二つの挿話が貞正院について述べられている。始めの話はあまり生まれのよ
くない女性が息子が大大名を継承した後も、慎ましく謙遜な態度を保ったことを賞賛した話だがこの
女性の身元もその息子の大名の名前もわからない。尾張徳川義直の継室で光友の継母の名を貞正院
(あるいは貞松院)というそうだが、その女性は女の子だけ生んで男の子は生んでいない。その貞正院
は始め東福門院に仕えた人で、別に賎しい生まれではないからこの人ではなさそうである。
この女性の謙虚さで思い浮かべられるのは将軍吉宗の母である。吉宗の母浄円院は素性のあ
きらかでない女性だったが、紀伊藩徳川家の女中のなかでも湯殿の世話をする最低の位の人だった。
噂によると湯殿で藩主徳川光貞公がその女中にたわむれた結果吉宗が生まれたのだそうである。この
挿話の貞正院に似て浄円院は非常に慎ましい女性だったが、徳川宗家を襲続した後の八代将軍吉宗の
態度はそれ以上に慎ましく,非常に母を愛していたにも拘らず、厚遇もせず、京都朝廷から浄円院に
三位を贈られた時もそれを断った。家宣死後に残っていた家宣夫人天英院や側室月光院、法心院、蓮
淨院たちに吉宗が与えた経済的援助にくらベると、自分の母親に支給した物資は非常にすくなかった。
これは五代将軍綱吉の母親の桂昌院に対する態度と対照的である。桂昌院の望む事なら何でも許し、
経済的にも多大な消費を許した綱吉は,それはそれで親孝行の鑑とされてもいいのだが、親子ともに
好みや行動が度をはずれていたので幕府経済の破綻のもとを築いた。貞正院の挿話は浄円院のことを
指して作られたのではないだろうか。
二番目の貞正院の逸話の中心は賢い侍女の話である。これは非常に頭のいい,しかもつつま
しい侍女の話である。それを認めて賞賛した貞正院はもちろん立派だが、この『雨窓閑話』の不詳の
著者は話を聞いてこの女主人があってこそこういう侍女がいるのだ,と思って逸話を書き留めたのだ
ろう。しかしこういう品行方正の優等生のような女性はあまり面白くない。
土屋能登守泰直
土屋能登守泰直夫人
泰直夫人
土屋能登守の奥方は太田家から来られたそうである。 当時所司代だった太田備中守の娘が
能登守の継室になっていた。その夫人が里から連れて来られた美しい女中は能登守に斬り殺された。
老女などが奥方も斬られるかも知れないと怖れ、女たちが集まって能登守を錠口から外へ押し出した
あと、能登守は外で自害された。当然家中は大騒動になった。能登守が奏者番になってからの友人の
松紀侯(松平家の五代当主の紀伊守家忠か?)が表向き病気で死亡したように図られたが、医者は乱
心だと報告した。
38 雨窓閑話、pp.108—111。
19
吉宗将軍時代、ある旗本が女中を切って自殺したとき、医者がどうしてもこれは病死である
と言い張ったので、他の者たちは検死の後医者の家は断絶になるだろうと噂した。すると吉宗公が言
われたことは「大名旗本に限らず最後を見るのは医者だけである。その医者を咎めればこれからは病
死を受けあう医者はいなくなるだろう」と言って医者を救われたので医者は勤務を続けることが出来
た。それで此の場合も土屋能登守は脚気腫瘍で亡くなったということになったそうである。
一説では土屋は自殺ではなく奥方に殺され、奥方も自害されたとかで、世間で綱吉公の御台
様のようだと噂されたという。 斬られた女中は太田侯の家老の娘だったそうで、能登守が妾にした
いと言われたとき奥方をは怒っておられたそうである。女中の父は承知したが母は承知しなかった。
それではっきりと妾にもならずにいる内に斬られてしまった。女中たちに表に突き出されてから能登
守は酒を飲んでその後自害したのだそうである。39
この話は二つの見聞集に出て居る。時代も同じ寛政二年(1790)名前も同じである。内室は当
時京都所司代だった太田備中守 資始(すけもと)の娘である。 太田備中守は遠州掛川城主五万石余
であり、土屋能登守は土浦城主で九万五千石であった。能登守が女中を斬り殺した理由は、能登守は
その女中が美人だったので欲したが、彼女は太田家の家臣の娘なので、内室を越えて寵を受ける事は
出来ないといって暇を乞うた。能登守は一旦暇を出したのだが心残りだったのか彼女を手打ちにして
自分も自殺した。奥方はそれを聞いて口惜しく思ったのか同じく自害したと言う。しかし公表では上
記の如く病死という事になっているそうだ。この事件はその事件当時の『続徳川実記』の寛政二年に
は記録されていない。
土屋家に能登守は二人いたが従五位下能登守泰直がそれらしい。泰直は寛政二年に二十三歳
で急に病死とある。土屋家は相当な家柄、奥方は土屋より大身だがもよく釣り合った大名の娘で、外
見はよい結婚であった。しかし不幸にも若くて考えの足りない泰直が美しい女中に夢中になり、やけ
になって酒ばかり飲んでいた。女中は奥方の実家の家老の娘なので、主家に忠実であろうとして殺さ
れてしまった。自分のものにできない女を殺してしまうというのは全く暴君的な自己中心、無思慮で
野蛮なやり方である。若い内室も絶望して自殺したのだろう。何やら地中海沿いの國の熱情的な恋物
語のようで当たり前の話ではない。江戸時代でも現代でもそう言う自己中心の男性や女性が時々いる
ものである。オペラ『カルメン』のドン・ジョゼ(ホセ)のように情熱的で純粋だといって褒める人
もいるかもしれないが、大名というものは人の上に立つべき人間だったから、普通の武士以上に自身
の規律を守り、毎日の行動の道徳基準に沿って生きているべきだった。女の方から言えば、男に愛さ
れるのはいいとしても、その情熱のためにやたらに殺されては困るのである。
田安定姫 松平伊予守治好夫人
越前侯は御三卿と同格になられたので、お城や外をお通りのときに同じように「下に–––下
に–––」と言わせたく思われてそれを尾張徳川にお頼みになったが尾州ははねつけられた。すると
又々御守殿をつくりたくてそれを申し出たが、これも越前侯にその資格はないので幕府で大困りだっ
たそうだ。此の春伊予守治好の奥方、定姫様がお里の田安へお出でになられ、五日逗留なさったこと
を舅の越前侯が聞かれて「常磐橋(越前邸)には五日も逗留されたことはない。何故田安に五日も逗
留されたのだ」となじられたので定姫はたいそうお困りになったそうである。40
定姫様というのは田安宗武の末女である。つまり将軍吉宗の孫娘で、越前家に輿入れした。
夫は越前公の嗣子伊予守治好、後に越前守、越前松平十一代藩主になった。
になった。 定姫の舅の越前侯は十
代越前藩主、天明七年(1788)に中将に昇格した松平越前守重富のことである。
越前松平家は御家門のひとつだが近親ではない。家康の次男松平秀康の、次男忠昌から始ま
った支流で始め五十二万石の所領だったが定姫が輿入れた頃は三十二万石、その程度の御家門松平は
39 よしの冊子、下:144—145。 翁草、6:114—115。
40 よしの冊子、下:139。
20
他にもあった。御三家御三卿の官位は中将
中将だから同格になったと言えば言えないことはないが、や
中将
はり同じではない。だから行列の共揃えに「下に––– 下に–––」と言わせることは無理だろうし、 御
三家御三卿でもなし、位も三位ではないので御守殿を建てる資格はなく、それは許されない。そんな
無理をいったのは越前守重富が極めて誇り高く,我がままだったのである。
そうして息子の嫁定姫に自分の家には五日も泊ったことはないのに姫の里の田安家に五日も
泊った、と責めているのは了見が狭いだけでなく常識も足りないというものだ。
定姫はそんな理不尽な無理をいう舅を持ってさぞ困った事だろう。世の中の普通の家庭では
姑にいじめられて苦しむ嫁が多いが、徳川家や御家門では人間関係があまり親しくなく、嫁姑が鼻を
突き合わせて住むことはないのでそんないじめは少なかったことだろう。和宮と十三代将軍家定夫人
天璋院の関係は少し問題があったが,それは生家や性格や政治事情など複雑だったので特殊な関係で
あった。大名家では姑と嫁の間でも直接のいじめは少なかったから普通舅が嫁を責める事はまず聞か
ない。
しかし大名だからこそこのように誇り高く,頑固で自己主張に満ちた舅がたまにいたことは
いた。もう一人誇り高く,頑固で自己主張に満ちた人は紀伊徳川家の重倫, うるさ型の隠居になって
剃髪して太真と呼ばれた人である。池田冠山によっても「御心が荒々しいので」と言われた人で、二
十歳の時に藩主を相続したがその傍若無人ぶりが眼にあまって幕府によって三十歳のときに藩主の地
位からおろされた。 重倫を継いだ治貞の治藩中、 重倫の息子で次代の藩主になった治寳に十代将軍
家治の養女種姫君が輿入れした。それは紀伊家が望んだ事ではなく,幕府の指示によるものであった。
その時治貞と重倫 (太真)は大奥に対する質問の手紙をの矢継ぎ早に大量に送り込んでこの二人がど
んなにうるさい人たちだったかを如実に示した。しかし嫁いじめをしたわけではなかった。41
定姫は御三卿の娘でも、夫の父親は敬わなければならない。さぞ難しかった事だろう。
ところが定姫の姉の節姫の立場はその反対だったらしい。
節姫その他の田安家姫たち
節姫その他の田安家姫たち
田安のお姫様たちの中では桜田(注:毛利壱岐守邸)が一番お幸せだということだ。この節姫
様(注:毛利壱岐守治親夫人)は気随な生まれつきなので我がままが折々出るそうだ。大膳公(節姫の
舅、毛利[松平]大膳大夫重就)は節姫をたいへん可愛がられ、節姫がちょっと不機嫌になられたりす
ると色々御機嫌を取られるということだ。節姫の生んだ姫は今九歳で、踊りなども習って器用だとい
うことである。先日も大膳公が鼓、節姫が三味線でお姫様が踊りをなさった由である。その時お側の
者やその他の召使いたちにおびただしい拝領物があったそうだ。
節姫から大膳公にすすめられた妾は天野大膳亮の妹だそうであるが、今は病気で下がってい
るとかである。そのように、先年まではお気にいる婦人は一向にいなかったが近頃はやたらにお気に
入りが出来て、お子様はいくらでも生まれているそうだ。(毛利家では) 節姫様の御姫さまを田安の
御簾中にすすめる計画をたてておられるとの評判である。
円諦院様(注:田安淑姫,鍋島[松平]信濃守重茂の継室)は何もかもご不自由で、女中なども
渡り者,お菜銀(台所の経費)も月々足りないとのこと。
同じく田安脩姫様は左衛門殿(注:夫の酒井忠徳)とお仲が不和だそうだ。お錠口(女性の寝
室のある奥への入り口)の戸は開いたことがなく、たいへんいじめられていらっしゃる様子である。
左衛門殿が国許で勤務中、脩姫は手紙を書かれるのだが返事は一度も来たことがないそうだ。しかし
この家ではお勝手は豊で拝領物も多いらしい。
霊厳島(注:上記の定姫、松平越前守治好夫人) はお仲はたいへんよくお子様もできたのだ
が、あまりお仲が良すぎて先日中はお怪我があったそうで江戸城の奥医師の甫休を呼ぶまでもなく御
41 田安種姫君様御養女仰出書抜、 写本、安永四年—天明七年(1775-1787).
21
家中の医師が膏薬を差し上げたそうだ。お貧乏のように噂されているがそうでもないらしく、拝領物
など時々あるそうである。42
以上、松平定信の家来水野為永が、あちこちで田安家の四人の姫たちの噂をよせ集めてせっ
せと報告書に書いた物だが,水野の主君の定信はこれらの姫たちの兄弟であり,やはり日常の関心事、
心配事だったのだろう。田安宗武は子供が多く、娘は八人息子は七人はいたのだが多くは早生したり、
未婚のままだったりした。
普通の大名家の内情も江戸城大奥に準じて噂は禁じられていたのだが、どうしても噂は漏れ
た。それが御三家御三卿となると、それ以上の好奇心で眺められ、外部のものは興味津々で情報を求
め,内部の者たちはひそかに噂を流したに違いない。噂される方ではたまったものではないが、この
本の著者は主家松平定信が田安家の出身という事もあって特別の目的を持ってその情報を集めたので
あろう。 ちなみに上記の節姫と脩姫は定信の異母姉、淑姫は同母姉、将軍家治の養女になって紀伊
徳川に嫁いだ種姫とここに噂される定姫は定信の同母妹である。
節姫の娘の姫を田安の御簾中に、という毛利家のもくろみは成功しなかったらしい。田安の
世嗣が安永三年(1774)に二十二歳でなくなったので一橋家に生まれた斎匡が天明七年(1787)に田安家
を継いだ。 毛利家ではこの斎匡をねらっていたのだろうが,彼は寛政五年(1793)幕府の命令で閑院
宮美仁親王女の裕宮と結婚した。
淑姫(円諦院)の夫鍋島[松平]重茂は始め伊達宗村(仙台藩六代藩主)の長女(芙蓉院)と結婚し
ていたが彼女は二十三歳で長男を出産してその日に亡くなった(1758)。43 淑姫はその後に輿入れた
のである。
夫の酒井忠徳と不和だったという脩姫(なおひめ、仙壽院)は安永二年(1773)に十八歳で,鶴
岡藩九代藩主の酒井忠徳と結婚した。国学にも和歌にもよく通じていたそうで,忠徳が和歌を好んだ
のは仙寿院の影響によるといわれているそうだから、44 それほど何時も不和だったわけでもないだ
ろう。
田安の姫で長女だった誠姫の母は関白近衛家久の娘の森姫だった。宝暦二年に伊達(松平)陸
奥守の嫡子重村と婚約、納采も住んでいたのだが婚礼がまだ行われない打ちに宝暦九年(1759)十八歳
で死去した。45
田安家の姫でここには噂されていない種姫の母は松平定信と同じく山村氏だった。種姫は安
永四年(1775) 将軍家治の養女になったので種姫君と呼ばれた。そうして天明二年(1782)紀伊徳川家
の岩千代(治宝)と縁組し,天明七年に入輿した。どういう結婚だったか知る由もないが,前述のうる
さ型舅徳川重倫(太真公)がいたから申し分なく幸福だったかどうかわからない。種姫君は三十歳で寛
政六年(1794)兄の定信公が寛政の改革に十分な結果を得ず老中職を退いた後に没した。
大名家の妾、
大名家の妾、召使いなど
妾、召使いなど
松平定信公側室
白川侯松平定信がある頃殿中で少し病気気味だったので詰合の医師が診察に来た。療養する
と程なく効果があったが、まだ気分が悪そうなのですぐに下城されて御屋敷へ帰られるようにとすす
め、医師も屋敷へ行くことを約束した。
御屋敷へ行くと家来が玄関に出迎えお居間に案内した。そこで待っていると木綿の着物を着
てたいへん器量の悪い女性が出て来て案内した。先にたって行くのを見るとすこしチンバだった。医
師はそれを見て取り次ぎの下女だろうと思い、挨拶もろくにしないでお居間へ通ると、 定信侯は木
42 以上、よしの冊子、下:12。
43 日本女性人名辞典、p.667。
44 日本女性人名辞典、p.601。
45 徳川諸家系譜、第三:7。
22
綿布団の上に座っていてすぐに療養をたのまれた。暫くして定信侯が、もう食事時だろう、私もいっ
しょにたべよう、といわれると、その女性が勝手の方へ行って膳を調えて来て医者と侯の前に置いた。
医者がその膳をみるとおったて汁(注:たくさんは食べられないように熱くして出す簡単な汁)にかま
すの干物をむしったものに鰹をかけただけで、酒塩もなにもない。侯の御膳も全くおなじである。医
者は歯がわるくて干魚などたべにくいので上の鰹節だけを食べていると、定信侯がそれはお嫌いか、
と尋ねた。歯が悪くて食べられません、というとそれでは味噌でも差し上げなさい、と侯が云われ、
その女が立って行って蓋茶碗を持って来たが、中に入っているのはただの生味噌だった。医師は心中
驚き入って退出したとかいうことである。
側近の人も他にはなく、その婦人だけだったそうだ。後で聞くとその女性は定信侯の側室だ
ということでいよいよ驚き、挨拶もろくにしなかった事を後悔したという。この話は、その医師が
京都の知人への手紙のはしに書いたのだそうだ。
本当に昔の青砥左衛門という人(注:裕福だったが質素に暮らして金を貧者にほどこした鎌
倉時代の人)もこんなだったかと思う程である。著者が先年日ぐらしの庵に住んでいたとき、俳句会
に友人を招いたが、奈良茶飯に豆腐のくず、酒の肴は干物をむしって出した。その頃は自分のような
小身のものでもあらゆる珍肴を並べて奢る事がはやっていたので、このもてなしに皆興ざめた顔をし
ていたが、今こそ思い知るべきである。46
さすが倹約将軍の孫の定信侯である。その質実ぶりは徹底している。女性の方では主人の吝
嗇に見える程の質素さが客に対して恥ずかしかったのではないかと思われるが,この女性が淡々とし
ているのは、定信が一家中に倹約の精神を浸透させていたのだと見える。召使いも他に見えなかった
というが少数の使用人はいただろう。 跛だったと言うのは,妾に入れた時すでにそうだったのか,
それとも年を取って来たから足腰が悪くなったのかわからないが、年を取ったから,脚が不自由にな
ったから,といって長年の関係を解消するような人ではなかったのだろう 。
松平定信の妾候補者
この間四十歳くらいの女が町奉行に出頭して「越中様(松平定信)のお妾になりたい」と願っ
たので奉行所では大いに叱りつけて帰したそうだ。その後その女はまた西下(注:江戸城西の丸の下
にあった松平定信邸)に顔を出してお妾にお抱え下さいと頼んで公用人に怒鳴りつけられて帰ったそ
うである。47
これは寛政四年(1792)の記述である。松平定信は人気の変動の激しかった人である。庶民や
女性や御家人旗本の間ではずいぶん人気があり、尊敬されていたらしい。大奥では倹約令とお説教で
敬遠されていたが。それにしてもお妾になりたいと申し出た---しかも若くはない---女性がいたとは
こっけいな事である。ひょっとするとこの女は上記の『翁草』の話に噂されているみっともないお妾
の話を聞いて,それなら私でも,と野心を出したのかも知れない。
越中様と美人女中
松平定信侯が御親類の屋敷へお見舞いに行かれ奥へ通られた所、女中共が大勢御機嫌うかが
いに出て来て一人が言った。「殿様が先だって菊之丞(瀬川菊之丞 、役者)を牢へお入れになったの
は非常にむごいことで、私どもみんながお恨みしております。」
すると 越中様は「あれは私がしたことではない、係の役人が取り計らったことだ」とおっ
しゃった。
46 翁草、6:342-343。
47 よしの冊子、下:406。
23
その後お酒が出たとき越中様は一杯召し上がられて女中の中で一番美しい女へ盃をお指しに
なった。するとその女中は「先程も申し上げた通りお恨みしておりますのでこのお盃は決して頂きま
せん」と言った。
そのとき越中様は「そち達がどんなに恨んでも、もう一人牢に入れなければならない役者が
いる」とおっしゃったそうだ。その美女が「何と言う役者でどんな罪でございますか」と聞くと「市
川門之助という役者で、密通の罪で牢に入れなければならぬ」とおっしゃった。
「もし私がその盃をいただきましたら門之助の入牢をお許し頂けるでしょうか」と彼女が心
配そうに聞くと、「一杯飲んだら許してやろう」とおっしゃったので、女中はそれならばと言って盃
をいただいたそうだ。
横で気をつけて見ているとその女中は門之助の替え紋を付けた笄を指していた。一瞬の間に
その替え紋をみとめてそのようなご冗談をなさったわけだが、 越中様はよくまあ門之助の替え紋な
どご存知だったことだと噂になったそうだ。これはお城で坊主衆が語ったということである。48
此の菊之丞は時代的には 追贈 四代目瀬川菊之丞(1782–1812)かと思われるが、入牢の事実
はわからない。硬骨漢の定信公も中々粋なところがあったらしく、頭の回転も早かった。市川門之助
を牢に入れるというようなでたらめをよく咄嗟に考えついた事だ。定信は大名の吉原通いなどきびし
く禁制したのに、一旦主席老中の座から退くと吉原通いの絵巻物を描かせたというのだから堅いばか
りではなかった。女中達も厳しいという評判の越中様にのびのびとこのようなことを言って抗儀して
いるのだから、必ずしも怖がってはいなかったわけである。ひょっとするとこの美人女中も定信公の
冗談がわかっていながら盃を受けたのかもしれない。お妾志望者が出て来たのもわかる。
市川門之助は滝野屋の三代目で美人若衆として知られていたが文政七年七月二十七日になく
なったことが『三升屋二三治戯場書留』のなかに見える。49
細川家の二人の側室
近年賢君として仰がれている細川重賢侯は悪い女から生まれた人だといわれる。父君は早く
から仕えていたお妾を、望まれるままに高い身分に取りたて、長刀を許すほどの格に進められた。
ところが後から上がった女が男の子を産み、まだ世嗣がなかったのでこのお妾の勢いは急に強くなっ
て前からのお妾を追い越して上に昇った。もとからの側室は神仏に祈ってやっと男子を産んだが、世
嗣ぎとなったのは始めに生まれた男の子で、その母親は位を取り立てられ外出には長刀も許された。
老臣たちはこの御家中に長刀を許されたお部屋が二人もいた例はないと抗議し諌めたので、
古い方のお部屋が次座に下げられ,長刀も取上げられてしまった。 古いお部屋はだんだん年を取っ
て来たので寵愛も今は衰え、若い方の側室の盛んな世となったことを恨み憤って食物を断ち、部屋に
籠って天地に祈りののしった。「私の生んだ君を世にお立てしないでおくものか」と昼夜泣き叫ぶ声
は四方にひびき渡るほどだったが、ついには両眼が抜け出て彼女は死んでしまった。
その後若い方のお部屋も病気になり殿様も亡くなられたので、長男の若殿が家を継いだ。
若殿は始めは賢明そうに見えたが、月日がたつうち日ましに暗愚になって物もはっきり言えなくなり、
殿中の勤めもできなくなっていた。ところが八月十五日に登城中、人違いで板倉に切られて死去する
に至った。そこで悪女の願いに違わず,次男が相続し非常な賢君になられたのである。50
只野真葛の伝えた細川家の二人の妾の醜い争いの話であるが,賢君で名高い細川重賢の母が
そんなはしたない女だったというのは驚きである。多くの大名家の世嗣ぎの経緯は全く騒動の種、悲
劇の源だった。徳川将軍家でさえ二三度大騒動があったことはよく知られている。しかし普通はそう
いう大名家の世嗣ぎ騒動は芝居や小説にはなっていても、女同士のヒステリックな競争の実話は伝え
48 よしの冊子、上:453。
49 三升屋二三治戯場書留、上:24。しかし同本のp.29には享保十四年の項に『美人若衆市川門之助
終る』と書いている。明らかに大きな間違いである。
50 むかしばなし、p.166—167。
24
られていないのに、この側室はまるで魚屋のおかみさんのような怒り方をしている。それともこれは
只野真葛の脚色だろうか。
板倉勝該(かつかね)があやまって細川宗孝を刺した事については『徳川実記』に延享四年
(1747)八月十五日の朝会の折、寄合の板倉勝該が俄に狂気して白刃をふるい細川越中守宗孝を傷つけ
たとある。 越中守はもう息絶えて大騒ぎだったのに、将軍吉宗が、越中守はまだ生きているだろう
から早く粥をあたえよと仰せられたので皆が安心して静かになった。越中守の死は二日後に普通の病
死のように発表されたので型の如くねんごろに弔せられて異母弟が家を継いだ。元禄の浅野長矩と吉
良義央の時と天地の違いであると世人が感心したそうである。51
これは延享四年八月十五日に起こった事件で吉宗はすでに隠居して家重の時代だった。細川
家と板倉家を両方上手に救ったのは必ずしも大御所吉宗ではなかったのだが、徳川家の記録だから大
御所の手柄にされている。
細川八代藩主重賢侯は六代藩主宣紀の五男だったが、延享四年三十二才だった七代藩主の四
男宗孝が 殿中で殺害された時、その養子として細川家の家督を継いだ。 前田淑氏によると宗孝の母
は側室鳥井氏であり他にも女の子を五人と男子をもう一人生んだらしい。重賢侯の母は側室岩瀬リカ
で他に二人の女の子を生んでいる。姉は豊姫といい,織田山城守信舊の室、妹の名前が鍋姫(育姫,
軌子)であり細川大和守興里の室となって後に清源院とよばれ、『やよひの旅』(安永六年)『海辺
秋色』(天明三年)などの旅日記を残した。52
昔の貴人の側室は正室よりも深く愛されたとしても側室の地位から逃れることは出来なかっ
たので、自己満足を得るためには息子にその家あるいは外の立派な家を継がせ、娘たちをよい家に嫁
入らせることだった。誰もがそれを願っていてもこの岩瀬リカのように魚屋のおかみのようにわめき
たてたりしなかっただろう。彼女はすこし精神異常をきたしていたと見える。
なお旗本板倉修理勝該(かつかね)が乱心して細川越中守の刃傷におよんだことは『翁草』
にやや詳しく出ているが、結局乱心とだけわかっていてくわしい理由はわからなかったようである。
『徳川実記』によると越中守宗孝は十五日に月並の拝賀に来て大広間の厠へ行こうとしたときに宗孝
の紋が板倉佐渡守勝清の紋に似ている所から修理が間違えて刺したのだという。これは板倉修理に日
頃から狂気があって家を治める能力がないので、宗家の
の佐渡守勝清が勝該を隠退させて自分の息子
に家を継がせようとしていると聞いて憤慨したのである。53
岩瀬リカは泣きわめきつづけてついには両眼が抜け出て死んでしまったと只野真葛は書いて
いるがそんな事は生理的に可能ではない。医学的にそういう特殊例があるのだろうか。
溝口主膳正
溝口主膳正直養側室
主膳正直養側室
溝口侯の若い未亡人(正室ではなく妾の一人だったらしい)は二十五歳であるが、先頃から大
道楽、役者の沢村宗十郎と情事にふけり度々宗十郎の家に行ったり自分の家に彼を呼んだりしている
そうだ。堺町に出て居る小きんという軽業が気に入ってその興行を度々見物に行くそうで、大名の奥
方にはあるまじき振る舞いだと言う評判が立った。それが今度露顕して後家は押し込み同様になった
そうである。それと同時に付き添いの女中が三四人、お側が一人、右筆が二人解雇されたという話で
ある。溝口侯は領分は表向き五万石だが実際は三十万石も入っていたそうである。そういう楽な事情
なので一向に倹約しようともしない暮らしぶりだったという。54
溝口侯というのは溝口直養 (なおやす)。越後新発田八代藩主で新発田藩中興の英主と呼ばれ
た人であるが、側室の監督までは出来なかった———というよりしなかったのだろう。
51 徳川実記、9:218。
52 前田淑『江戸時代女流文芸史(旅日記編)』221—246。
53 徳川実記,9:434-435。延享4(1747/8/15)。
54 よしの冊子、下:68。
25
全くどこの國でも同じで、公私の行動が全く一点の非もなく立派だったと言うような人はほ
とんど存在しない。江戸時代には上級武士や富裕な町人の側室、妾という立場は別に軽蔑されること
はなかった。武家の場合は特に世嗣ぎがなければ家系も領分扶持も幕府に返上という制度だったから、
正室に子供がなければどうしても側室を入れなければならなかったので,いつの間にか側室は一目置
かれる地位になり,特に世嗣ぎを生めば絶対的権威を持つことができた。それに正室はよい家柄との
政治的社会的縁組みであったから、しばしば美しくなく,気も利かず、堅苦しくて面白くない女性が
多かっただろう。江戸時代の大名階級の結婚はすべて政略結婚だったから妻を選択する自由は限られ
ていて、恋愛結婚など存在しなかった。 頭から正室よりも側室を愛する大名が多かったので,どうし
ても若くて美しい妾が自分の地位と勢力を鼻にかけるようになった。そんなことで悪い女は何人も出
て来た。しかしいくら勢力を持っても社会的に正室には絶対に勝てなかったし、又正室のように行動
を制約されることもなかっただろうから時々型破りの女性が出現した。
御成見物
九月二十七日、大納言様(家慶が西の丸で世嗣だった時代)が初めて浅草へお成りになった時、
大奥から御通りを拝見するために女中衆が伝馬町大丸屋の呉服店に揃って来られるというもっぱらの
噂が立ち、実際その通りになった。この頃私(松浦静山)は孫に会ったので、当日はお供をしたのかと
問うと、孫は「はい、ほんとうにお供をいたしました」と答えた。その時彼が見ると大丸屋では店の
道具や品物を残らず取り払い、何双かの金屏風を立てならべ、その前に大奥の女中衆がおおぜい座っ
て、さえぎるものは何もなく、皆むき出しに見えたという。
向かいの町家では常の御成のとおり、店主は地べたに平伏し、女子は店の床の上に坐って居
たそうだ。ということは大奥衆と町家の者どもは向き合って御成を拝見したのである。平常の仰山な
様子とはだいぶ違っていたようだ。55
これはいつも思っていたことを裏書きする。江戸時代の女性たちは男性に圧迫されたりひど
い目にあうことも多かったが、一方男にあたえられない特典も貰った。徳川家の姫君の大名家へのお
輿入れや京都から摂家や宮家のお姫様が将軍家へお輿入れの時、 男達は行列の見物をぜったいに見
ることを許されず、道路へ出ることさえ許されなかった。ところが町の女達は見物をゆるされ、店先
の板の間や畳の上に座って拝見することができたのである。上記の場合は将軍の世嗣の行列で男たち
も見物を許されたが、やはり将軍吉宗の時代以前のように地べたに平伏していたのである。
静山公の孫がそう言ったのだから間違いはないと思うが気になる事がある。昔将軍の御成に
行き会った町民は土下座で道に坐って平伏する習慣だったのを,将軍吉宗が享保七年(1722)七月十三
日の令で「頭を下げず膝を下につけずあるべし。お言葉をかけられたときのみ拝伏すべし」というこ
とになったはずである。56 又昔の習慣に帰って男は土下座平伏を強要されたのだろうか。
前にも述べたように、江戸の規則が女にやさしかったのは、江戸初期の女性と男性の人口の
割合が均等でなかった頃の習慣を踏襲したものかも知れない。それ以上に女に対して警戒心がなかっ
たのは、一体に女性は弱いもの、反抗など出来ない存在だから権威ある存在に対して害を加える事は
ない、という安心感に基づいている。
溶姫君(
溶姫君(やすひめ、ようひめ)
やすひめ、ようひめ)の女中たち
世に風聞されている事に加賀侯に嫁いだ溶姫君の用人の事がある。用人鈴木一学は何かの理
由で十一月十七日にお役ごめんになった。この事についていろいろの浮説があるが、その一つは本郷
55 甲子夜話続篇、7:277。
56 徳川実記、 8: 278。
26
の溶姫君の御住居の近辺に喜福寺という寺があり、観音堂がある。お付女中たちは参詣と申し立てて
実はその寺によく遊山に出かける事が露顕したのだという。又御住居のお慰みに歌舞伎をおおせつけ
られたが、いつもその者たちは女だったので四、五日滞在させていたが、実は其の中にカゲマが二人
いたのを、偶然小便をする所をお付き男子の輩が見てそれが理由で用人が首になったとか。その御付
女中らもお役御免になったものもあり、一人の表使いは御咎め、その外宅預けになった者も多かった
ということだ。57
これには類似する話があって、比丘尼と称して大奥に入る者たちの中にも男子がいたらしく,
長局の不浄所を掃除するときその桶をかつぎ出るのを御門の守吏が調べると目鼻のある胎児が見つか
ったそうである。その事実が露れればそのために罪をこうむる者が少なくないだろうからと、誰が考
えたのか大奥の部屋部屋に誦経のために来る尼僧は下々から来るものだから不浄な事もあるだろう,
向後は風呂をもうけて湯浴みさせてから誦経させるべしというお触れがでたそうである。58
溶姫君(偕子とも子)は十一代将軍家斉の第三十四子で第二十二女である。寵愛した側室お美
代の方の生んだ姫君で前田(松平)加賀中将斉泰夫人である。輿入れに立派なお住居を建ててもらい、
それは斉泰が安政二年(一八)に大納言に昇格したとき住居は称号を御守殿と改めた。その正門は本郷
東大の赤門として今の世まで有名である。溶姫の生んだ長男犬千代(後の慶寧よしやす)はお美代の方
の養父であった勢力家の中野碩翁と家斉の佞臣三人が将軍家慶を隠居させて世嗣の家定を早く位につ
け,世継の生まれそうにない家定に犬千代を御養君にしようという陰謀があったというもっぱらの噂
があったらしい。59 三田村鳶魚が書いていることであって確証はないが、溶姫と母親のお美代の方
はいろいろと話題を生んだ人たちであった。
松山侯松平定国
松山侯松平定国の
松平定国の妾たち
愛宕下(松平定信の兄 松山侯松平定国の屋敷)の召使にお鶴という者がいて、この女性は大
名召使いの中でも賢女という噂があるそうである。今年の春定国侯が松山へ湯治の許可を得られて出
かけられた時も,このお鶴はもう妾だったのだろう、産後で腰が抜けていたのだが、人に抱き抱えら
れお側へ行って諄々と御諌めしたそうである。
お鶴が本之丞を出産した後,定国侯がお鶴の格式を昇進させようとした時、それを承諾せず
「私は自分の考えで御勤め申しておりますのでどんな結構な仰せつけでもただお受けすることはでき
ません。これから御出生があることは度々で、その度に出産した者の格をあげられましてはその者が
どんなに傲慢になるかもしれません。それはお家のために悪うございますから固くご辞退申しあげま
す」と言ってもとのままの位にとどまったということだ。60
この間から松平隠岐守定国がお妾を求める告知を出されると、候補者が三百人も出て来たそ
うである。その中から只一人妾を抱えられたが、吟味が徹底していて容貌はこれ以上ない程美しいそ
うである。支度金とお手当もよいので『一に加州(前田侯),二に隠岐』」と噂されていて、こういっ
た召し抱えがある時には紹介所が忽ち一日に五十人も百人も候補者を集めるそうだ。又、お鶴という
前々からのお妾は去年国へ帰られる前など病気だったのに這い出て来て意見を言う位の賢婦人だった
が、今度のは中々そんな者ではなく、いたって気随我がままな女だという話。
その新しいお妾が最近しくじって、もう六十日ほど部屋に謹慎を申付けられているのだが、
平気で廊下に出て来てあちこちの部屋をのぞき回り、軽々しく騒いでいる。その上どんな事があろう
57 甲子夜話続篇、2:118−119。
58 甲子夜話続編 5:211—212。
59 三田村鳶魚全集、4:210-211;1:198—200。
60 よしの冊子、上:288。
27
ともお暇も出されずお見捨てもなされないという誓書を何枚も取っておいたので、隠岐守は何を言う
事も出来ずお困りのようである。此の家では奥向きの女中でお手のついていないのは一人もいない。
若年寄(監督役のお年寄の補佐)まで手を付けられたそうで、役人たちは、それはおやめになった方が
よい、これでは外へ示しがきかないなどと噂しているそうだ。61
松平隠岐守定国(1757—1804)は田安宗武の六男で定信公の同母兄だったが、君命によって十
一歳のとき松山藩久松松平家の婿養子になり、八代藩主定静の娘鉄姫と結婚した。江戸城に初登城し
て十代将軍家治に初の御目見えをしたのは十四歳の時だった。御三卿家の生まれで将軍家治の従弟で
あったから官位など高く非常に厚遇されていた(帝鑑間譜代席四品末、 中務大輔)。
しかし私的には傲岸で頑固で、人間的には褒められない人だったようである。弟定信が老中
で名声があった事に嫉妬していてあまり仲良くなかった。召し使う女達に手当たり次第手を付けたと
いう話や、知行は少ないのに百万石の前田家の次に給金が多かったなど見栄をはったことで噂をされ
ているように、他の大名家から見れば模範的ではなかった。
一体に大名家での女中の扱いというのは同じではなかった。給料にしても、所々に分限帳
(給料などの記録)があり,それが現代非常に貴重な記録として研究の対象になっているが、それら
によって各家の基準が決まっていたのはわかるが,大名家間で相談の上、基準が決められていたかど
うかはわからない。そうしてこの挿話のように前田家と松平家とは給料がよいとの評判が立ったくら
いだから家によって方針も待遇も違っていたのは確かである。給料がよいと言う事が第一の魅力だっ
たのだろう。女中にやたらと手を付ける殿様は困り者だったが、自信のある女は殿様の色好みを利用
しようとしてこの家に勤める事を望んだかも知れない。
紀州のお台所
紀州家では種姫君様お付き男女共に中位から上は待遇がよいが,中程から下はとかく気に食
わない事が多いらしい。男の方では御本丸で二百俵とっていた者が紀州で御用人をはじめお付人にな
ると別に百俵もらえるそうだ。
女中は江戸城御本丸から種姫君について来たものは残らず紀州家の女中になった。御本丸で
いただいたと同じ量が支給されるのだから御切米はどちらも同じはずである。しかし、紀州へ行った
ら奢りもわがままも出来ると思っていた所、どうして、御本丸とちがって細かい所で万事切りつめら
れる。考えていたこととおおいに違うのだ。別して台所などで無駄な費用がかかるそうである。
贈物も御本丸の時のようにきちんといただけるわけではない。ずっと後になってからしぶしぶ渡され
るので同じ頂きものでもこれでは気分がよくない。その上今御本丸に行けば,種姫君様が将軍家治の
養女におなりになった頃とはだいぶ違い,取り扱いが下っているからあれこれ大当て外れ。
くやしまぎれに紀州の女中たちは大奥風を吹かせて軽いお役人に当たり散らすので,紀伊の
勘定方、台所向きが大困りだそうだ。しかし奥向が言い出すことは何でもハイハイというとか。だか
ら双方行き違いが多い。御家中では上ばかり奢り、家来たちは知行が半分になったばかりか、それも
ろくろく下さらないので腹をたてている。若いお二人はお仲がよいからおっつけお誕生もあるだろう
が、その後はますます勝手が苦しくなり、頂くものもよくはあるまいとのもっぱらの評判らしい。62
御本丸風を吹かせた女中たちというのは、天明七年(1787)に紀伊十代藩主徳川治寳に輿入れ
した将軍家治の養女種姫君に付いて来た女中達である。始めは待遇が良かったのだが、寛政の改革頃
になるともう紀伊のお台所は相当に苦しくなっていて、待遇が段々悪くなった。前述したように
(豊姫、紀伊徳川治宝女、第十一代紀伊藩主徳川斎順夫人参照)紀州の財政は十八世紀を通して非常
に苦しかったのである。
61よしの冊子、下:429。
62 よしの册子、上巻:81-82。
28
『よしの冊子』は天明八年頃から始まっているので、ここに書いてある「お仲のよい,おっ
つけ御誕生もありそうな若い夫婦」というのは種姫君が結婚してから一年くらい経っている時のこと
であろう。明和二年(1765)生まれの種姫君はもう二十三歳であり子供の初誕生には遅いくらいである。
しかし夫の治寳は種姫君より六才年下であり彼女が輿入れした天明七年には十六歳でしかなかった。
実際治寳が側室によって子供を持ち始めたのは種姫君が亡くなってから後のことであり、治寳は案外
遅咲きの人だったらしい。
種姫君は寛政六年(1794)に二十九才で死去したが、治寳は八十一才の長寿をとげている。
松平周防守家の鏡山
松平周防守の奥方に召し使われる老女の沢野は、中老の滝野がちょっとした間違いをおかし
たので、奥方の前で「この不調法者、不届き者」とひどく叱りつけた。滝野があやまって我慢してい
ると、奥方が「沢野の叱り方はあまりに強い、二人ともまず下がりなさい」とおっしゃった。滝野は
涙ぐんだまま、両人共すぐに部屋へおりた。
暫くして滝野は自分の下女の山路に手紙を渡して「私の母の所へもって行っておくれ」と言
った。山路は受け取って御門まで出たが、手紙はいつもは文箱に入れて送るのに、何か様子が変だと
思ったので門の外でその手紙を開いてみた。すると一件の事が書いてあり「これでは私の分が立ちま
せん。御前様へも申し上げて自害をいたします。これはお別れの手紙です」と書いてあった。山路は
この様子ではもう自害なさったと思ってすぐに部屋へ帰ってみると、 滝野は屏風を立ててその内で
死んでいた。その前に一尺二寸ばかりの脇差があった。山路は刃の血を拭って鞘に納め、死体をふと
んで包み、それから沢野の部屋へ行った。
「滝野がちょっとお目にかかりたいと申しておりますのでお出で下さいますよう。参上いた
すはずでございますが少し気分が悪くて臥せっておりますので」と言った。沢野がすぐに連れ立って
来る所を、山路は懐からあの脇差を取り出して「主人の敵は許しません」と沢野の腹へ押し立て胸か
ら背までえぐり通して殺した。
周防守はこの話を御聞きになって「女には珍しい」とお褒めになり滝野の母に「山路を娘に
してこれからどこへも奉公に出さないように、そうして嫁入する時には知らせるように、望み通りに
支度をしてあげるから」とおっしゃった。沢野の年は三十八、滝野は二十三、山路は年十四歳。この
話はあんまり珍しいので書き付けてお見せする。以上63
これはまさに歌舞伎の鏡山(加々見山旧錦絵)の原型である。これは享保九年(1724)江戸、虎
の門の松平周防守康隆邸 (康豊とも)で起こった事件にもとづいている。松平周防守康隆は石見浜田
藩の第四代藩主。大名家の奥で意地悪な老女がお中臈に嫉妬して草履で打ったという話が世間に伝
わって容楊黛によって歌舞伎につくられ、天明二年(1782)江戸外記座の初演で大成功した。實話の十
四才の少女[山路] は一説ではおさつという名で芝居のお初になった。沢野が芝居の岩藤、滝野(おみ
ちとも言われる)が芝居の尾上である。松平周防守邸の騒動は単純な事件だったらしいが,歌舞伎で
はそれに加賀家のお家騒動その他を加えて脚色したのである。沢野は滝野を叱りつけただけだったと
もいうが,その屈辱を大きくする為に芝居では元禄時代に上演された「参会名護屋」にあった草履打
ちの侮辱を加えられたという。(実際に草履打ちの侮辱はあったともいわれている。)さらに主家横領
の陰謀という筋書きを加えて大芝居に作り上げた。その上この芝居は何度も作り替えられ,一連の鏡
山物という実録,歌舞伎、草双紙の群になった。これらは大奥や大名家奥向きに勢力をふるうお年寄
りを岩藤に代表させて意地悪お年寄りの原型ができ上がった。
江戸城大奥の「お年寄り」は大奥の監督で、何もかも取り仕切る実権者である。時代によっ
て六人から八人ほどいた。皆が皆意地悪だったわけではない。しかし『お年寄り』と言えば若い女中
達をいじめるひねくれ婆というイメージが浮かんで来るのである。年にも関係なく、三十歳くらいの
63月堂見聞集、中:245—246。
29
『お年寄り』はふつうだった。江島生島で名高い,少年将軍家継の時代の大奥のお年寄り江島も三十
歳から三十三歳くらいであったという。
現代の職場でも未婚で勢力のある女性が大勢いるが、江戸時代大奥の強制された上級老女の
意地悪のイメージには匹敵しない。男子禁制の環境で、男女交際など絶対禁断、一応表向きには一生
外出もできないという抑圧的な環境は特殊な性格を作り出したのだろう。
薩摩の御隠居の國帰り
薩摩の御隠居(島津重豪)は湯願もすんで国元へ帰られるそうである。御次男と妾も同道なさ
るのだ。その妾は十七八の由で、江ノ島鎌倉を廻ってから鹿児島へ帰るのだとか。妾には女中が二十
七人ほどついて行くのだそうである。江ノ島では岩本院に旅宿したのだが大きな宿札を出し、それに
「薩州御奥様お泊」と書いてあったそうな。今の御台所に仕える女中ならば御奥様でもいいかも知れ
ないが新しい妾を御奥様とはあまりにも僭越だと評判されているそうだ。64
大名の奥方は大名が参勤交代の江戸勤めを終わって領地へ帰るときには江戸に残ったのだか
ら、奥様が旅行する事などなかった。江ノ島の宿屋はそれを知らなかったのか,そうではなくて、多
分知ってはいるがこの勢力のある旅行者、薩摩の御隠居におもねるために「御奥様お泊」などと書い
たのである。
『中級武家』の部の「女性の呼称」に書いたように,昔は女性の呼称はその地位によってき
ちんと決まっていて,「奥様」は始め大名家の奥にいるから奥様だったのだが,二百年ほどが経つと
井戸端会議の女房まで奥様になった。側室はべつに蔑視されてはいなかったが,正しい呼称を使えば
『御奥様』ではない。
また呼び方は呼ぶ方の身分にも関わっていて,御目見え以下の人が大名旗本の夫人の事を言
う時は,御新造様と呼び,身分が御目見え以上になった時始めて「奥様」と呼ぶ権利が出来たのであ
る。65
上記の場合,江の島の旅館は勿論御目見え以上どころか以下でさえない身分だから、 薩摩
の御隠居の妾のことはせいぜい「御新造様」位にしておくべきだった。しかし 御新造様も正式に結
婚している女性の呼称である。お部屋様,という側室の呼び方もあるが、これは将軍の側室で男の子
を産んだ側室だけに使われた呼称なので、「お内証さま」くらいで遠慮しておけばよかったのではな
いか。
幕府の制度というものは何もかも決まっていて七面倒な制度であった。しかし知っていれば
その通りにすればいいのだからかえって簡単だったかも知れない。間違えてもこの程度のことなら首
が飛ぶと言うような事はなかった。ただバカにされたり、笑われたり、権力におもねる奴だと憎まれ
たりしただけである。
64よしの冊子、下:433。
65 徳川盛世録、巻の二、7:25。