半世紀の軍事裁判・戦艦ヨークの沈没

半世紀の軍事裁判・戦艦ヨークの沈没
January 15, 2012
Harry Hilfield
2001年7月のある日、カリフォルニア州サンディエゴの自宅で、81歳になるジョー・マグ
ラスはぼんやりと外を眺めながらテレビニュースを聴いていた。大柄な体はたるみ切って、濃い
ブルーであった瞳もグレーに変わり、ただ残りの人生を淡々と暮らす年金生活の毎日であった。
妻のエルザはまだ70歳を超えたばかりで、年老いて一段とわがままになった夫を、子供の面倒
を見るように世話を焼いていた。テレビの音はエルザにも聞こえていたが、何かのニュースであ
るという以外彼女は聞いていなかった。突然、夫がソファからすっくと立ち上がった。エルザが
驚いて夫を見ると、ジョーはまっすぐに背筋を伸ばし、海のほうを向いて敬礼した。夫のただな
らぬ様子にエルザがジョーどうしたのと声をかけると、夫は敬礼したまま涙を流しはじめた。
「ジョー?」
「エルザ、間に合ったよ、50年だ、マクベイン艦長の無実が証明されそうだ」
テレビニュースは、戦艦ヨークの艦長であった故ジェームズ・マクベイン大佐の免責決定に関す
るものであった。
太平洋戦争終結間近の1945年7月29日、米海軍の重巡洋艦 USS ヨークは、サンフランシ
スコからテニヤン島へ、後ほど広島、長崎へ投下される原子爆弾を運び、そのあとグアムへ寄港
し、米海軍の艦船が集結するフィリピンのレイテ湾に向け、いわゆるペディ航路(直線航路)を
航行中であった。その日天候はおおむね良好で視界が良く、日本潜水艦から発見されるのを避け
るため、USS ヨークはジグザグ運動を繰り返しながら航行していた。ジグザグ航行をやると、
たとえ潜水艦に見つかっても魚雷攻撃を受けにくく、避敵行動の定石であった。反面、船の中は
ガラガラポン状態になり、海の男でも船酔いし食事の献立も限られる。夕方から天候が崩れ、視
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界の悪化とともに潜水艦に発見される危険性が薄れたため、艦長のマクベイン大佐はジグザグを
やめ、無灯火による直線航行を命じた。だが、夜12時を回ったころ、突然戦艦ヨークは右舷に
日本潜水艦の魚雷3発を受け、瞬く間に沈没した。乗員約1200名のうち、300名は魚雷の
ため即死し、残り900名は島影も見えない大洋に4日間放り出され、疲労とサメのため600
名が命を落とした。海軍は米海軍最大の悲劇をマクベイン艦長の過失として訴追した。終戦間際
でもあり、おそらく原爆との兼ね合いもあり、アメリカ政府および海軍はこの悲劇を隠し、8月
15日になって公表した。
ワシントン DC・1945年12月3日(終戦から4か月)
ニューイングランドは冬が始まろうとしていた。48歳になる海軍法務部のジョン・キャシディ
大佐は、ジョージワシントン大で法務学の学位を取得したベテランの弁護士であったが、今日、
古い友人であり、戦艦ヨークの艦長であるジェームズ・B・マクベイン大佐の弁護人としてワシ
ントン海軍工廠の軍事法廷に立ち、6名の判士を前に口頭弁論を行うところであった。相手の検
事は海軍大佐ダグラス・トライオン大佐であった。トライオン大佐も被告マクベイン大佐の古い
友人であり、日本通で知られる検事であったが、この裁判に関しては消極的で、検事に任命され
たことに苦り切っているようだった。驚いたことにこの裁判は公開で行われ、傍聴席には40名
ほどが詰めかけていた。
キャシディは弁論を始めた。
「被告ジェームズ・B・マクベイン大佐は、合衆国戦艦 USS ヨークの艦長として、危険水域に
おいて必要なジグザグ航行を怠たり、敵潜水艦から魚雷攻撃を受ける結果となったこと、また、
救助信号の発信および被雷後退艦命令が遅れたことにより900名に上る合衆国兵員の命が失
われたとして、その責任を問われております。弁護側は被告にかかる過失が全くなかったことを
証明いたします」
キャシディ大佐は口頭弁論を行いながら、査問会からの一連の流れを見て、先行きに不安を抱い
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ていた。調べれば調べるほど裁判になるはずもない事例に思われた。まして、USS ヨークが危
険水域であるにもかかわらず、護衛艦もつけず17ノットという経済速度で単独行動していた理
由はなにか、救難信号はちゃんと発信、受信されていたにもかかわらず海軍が行動を起こさなか
ったのはなぜか、さらに、900名が死亡したとはいえ、だれの発意でなぜ訴追を受けたのかな
どが全く触れられず、それがキャシディ大佐の調査の要点となった。艦長のマクベインが自分の
過失であると認めているにもかかわらず軍部はなぜマクベイン艦長を告発したのか。彼が膨大な
書類の山に取り組み始めて3か月が経過していた。
45歳の USS ヨーク艦長ジェームズ・マクベイン大佐は、コネチカット州リッチフィールド郊
外に妻と二人の娘とともに居住していた。キャシディ大佐にとってこれが2度目の訪問であった。
その家は北欧風の造りで、きれいに刈り込まれた芝生にはメタリックブルーのポンティアックが
置いてあった。キャシディが芝生をほめると、今では私が芝刈りの役目なんですよと夫人は視線
を落とした。
「ジョン、皮肉なもんだが、自分を守るためには機密事項も話さなければならなくなる。それは
軍機上できないことだ。私は、自分のミスで900名を死亡させたという謗りはあえて受けるが、
自分を守るため喋ってはいけないことまで喋ったという非難だけは受けたくない」
「ジム、機密情報まで無理に話すことはないが、もうすぐ機密は機密でなくなる。戦争は終わっ
たんだよ。私は自分が手に入れることができた情報に基づきベストを尽くすのみさ。おそらく争
点は、危険海域であったにもかかわらずジグザグ航法が取られなかった点、救助信号の発信が遅
れたとされること、さらに退艦命令の遅れ、これもそう言われているだけだが、ということにな
るだろうな」
「なんにでも理由はあるさ、しかしそれを言いすぎると海軍を非難することになる。自分として
はそれはできない」
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日本海軍潜水艦「伊58号」は水中排水量3700トンの最新鋭大型艦である。1945年7月
29日夜、フィリピン海の荒れた海面に苦労しながら、伊58は知らずして戦艦ヨークと斜めに
鉢合わせする角度で、深度30メートルをほぼ南西に潜望鏡航行していた。折から電探(レーダ
ー)の調子が悪く、天候の回復が見られた午後10時過ぎ、艦長の橋口中佐はメインタンク・ブ
ロー(浮上)を命じ、伊58はその巨体をフィリピン海面に浮上させた。海上はまだ荒れていた
が波は静まりつつあり、ちぎれ雲の間から明るい半月が顔をのぞかせていた。ハッチが開けられ
ると艦内に新鮮な空気が流れ込み、艦橋に航海長をはじめ3名のスタッフがのぼった。その中に
は人間魚雷「回天」の島田一等水兵も交じっていた。太平洋戦争末期のこのころ、特攻に選ばれ
たものには防国の意識が特に強く、早く敵艦に突っ込みたいと願うものが多かった。特攻である
から、当然魚雷を操縦する人間も死ぬ。それでも彼らは必死になって自分の死に場所を求めてい
た。伊58号潜水艦は上部重火器が取り払われ、代わりに特攻兵器回天を積んでいた。
電探があてにならず、双眼鏡をのぞいていた航海長が「左90度艦影を発見!」と叫んだ時、時
刻は夜11時を過ぎていた。この海域で艦影といえば味方であるはずがなかった。橋口中佐は直
ちに艦橋に上り、まだ小さな艦影を遠方に確認すると潜航を命じた。伊58は浅く潜航し大型の
水防潜望鏡によるウォッチに切り替えた。艦影はまだはるか遠くにあり、丸い点にしか見えなか
ったが、次第に戦艦特有の3角形に変わってきていた。敵艦は衝突進路をまっすぐに潜水艦に向
かっていた。
「艦種がわかるか」
「かなり大型の艦です。真正面ですから、距離も速度もまだわかりません」
「聴音はどうだ」
「カチャカチャという音がかすかに聞こえます。たぶん4軸の大型艦です」
「ベント開けろ、回天発艦準備、魚雷戦用意、合計6発を発射する」
「不思議です、敵は単独行動の模様。ほか艦影は見当たりません。まっすぐこちらに向かってい
ます」
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この時、伊58の乗組員は、自分たちが捉えている艦影が、まさか原子爆弾の主要部品をテニヤ
ンに運んだ重巡洋艦ヨークであるとは夢にも思わなかった。原爆投下の1週間前、終戦の15日
前のことである。
敵艦はまだ真っ直ぐに潜水艦に向かっていた。月明かりの中、その黒々とした艦影は潜望鏡の中
で次第にはっきりしたシルエットとなっていたが、11時9分になってもまだその艦種と距離に
ついては特定できなかった。
「艦長、目標が戦艦であると想定しますと、そのブリッジの高さから距離5000m、敵艦の速
力20ノットです」
20ノット?そんなはずはない、もっと遅いはずだ…艦首のウェーキ(波)が小さすぎる、橋口
中佐は決断を迫られた。必要な情報が揃うまで待っていたのでは獲物を逃してしまう。相手は高
速の戦艦である。こちらは最新型ではあっても水中速度最大で8ノットの潜水艦でしかない。
「右舷45度からの攻撃を行う。2ノットで前進。だが駆逐艦である可能性もある。爆雷攻撃に
備えよ」
伊58号潜水艦はジリジリと戦艦ヨークの迎撃ポイント、ただし想定であるが、に近づいて行っ
た。月が雲間に隠れ、また現れた。その時、敵艦が潜水艦から見てわずかに左にそれた。つまり
潜水艦にそのサイズと右舷を曝すのみならず、絶好の雷撃ポイントを与えてしまったのである。
橋本中佐の目に前後二つの艦橋を持つシルエットが見えた。
「アイダホ級だ(本当はポートランド級)、でかいぞ、魚雷発射用意。2秒間隔で6発行く。距
離2000」
艦内に最高の緊張がみなぎる中、酸素魚雷が発射される圧搾空気の解放音が艦を震わせた。この
時、日本側の時計は午後23:30分過ぎ、アメリカ軍の時間で24時過ぎであった。
ジグザグ運動は戦闘行動である。USSヨークは危険水域に入ると日中ジグザグ航法を採ってき
たが、夜になって海が荒れだすと視界が悪化し潜水艦に発見される危険性は減るので、艦長のマ
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クベインはジグザグを取りやめ、高速航行で潜水艦を振り切る作戦に切り替えた。乗員を休ませ
るためでもあった。7月29日夜24時、つまり30日の零時ころ、天候が回復し、視界が良く
なってきたので、ブリッジで当直に当たっていたデニス・コード中尉は操舵手のファーガソンに
ジグザグ再開を命じた。だがこの時伊58が発射した強力な酸素魚雷はヨークのすぐ近くまで迫
っていた。戦艦ヨークが左へ転舵した途端、右舷艦首部で激しい爆発が起こり、あっという間も
なく続けて次の爆発が起こった。重巡洋艦の艦首は大きく持ち上がり吹き飛ばされ、ブリッジ(艦
橋)にいた者は全員空中に放り投げられた。だがその数秒後、今度はブリッジの近くでさらに大
きな爆発が起こりコード中尉は操舵室の天井まで吹き飛ばされ床にたたきつけられた。コード中
尉が苦痛をこらえて必死に立ち上がると、前部は艦首自体が無くなり激しい炎と煙に包まれてい
た。ドシーンという誘爆の振動が続いていた。日本が開発した酸素魚雷は、当時世界最高の性能
を備えており、航跡を残さないばかりでなく、一発でビルの一つくらい吹き飛ばす能力があった
そうである。
「中尉、至急損害を調べろ」
コードが振り返ると、いつの間にか艦長のマクベインが頭から血を流しながら立っていた。だが
船内通信システムは完全に死んでおり、情報収集の手段は途絶していた。ブリッジにはいろいろ
なものが燃えるにおいが漂ってきていた。マクベインは振り返るとウィンターズ少佐に、第一通
信室へ行き、
至急救難信号を発信するよう頼んだ。ウィンターズ少佐は駆け足で降りて行ったが、
2度と戻ってこなかった。その第一通信室では通信士のモーリーが必死にXVMLとキーを叩き
続けていたが、彼はそのキーがすでに死んでいることに気が付かなかった。いっぽう艦の後方に
ある第2通信室はまだ生きており、ウッド兵曹とエール大卒業の無線の専門家メーヤーは、旧型
の真空管式発信器を取り出すとスイッチのオン・オフだけでモールス信号を送り続けていた。
救難信号はフィリピン・レイテ島にある米作戦基地で受信されていた。無線機の前に座っていた
ヤング一等兵は飛び上がった。まぎれもないUSSヨークの遭難信号ではないか。ヤングはあわ
てて就寝中のジェンソン准将を起こしに行った。だが准将の返事は驚くべきものだった。彼は、
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騒ぐな、次の入電があったら知らせろと言うと、また寝てしまった。ヤングは准将のあまりに物
馴れた態度に、自分が騒ぎすぎなのかと思い、それ以上の行動をとらなかった。だがその数日後
ヤングは戦艦ヨークが予定を過ぎてもレイテ湾の泊地に到着していないことに気づき、言葉も粗
く上官に再度報告を行うはめになった。
救難信号はフィリピンの他の米軍基地でも受信されていた。その夜マニラ海軍司令部で当直に当
たっていたアレン・サンダースは遭難信号を受け取ると、たまたま湾外にいた海軍の高速外洋タ
グボート2隻に遭難地点へ向かうよう指示を出した。だがその7時間後、ジェラード准将は、自
分の許可なくタグボートが派遣されたことを知ると、遭難信号など無視してタグボートを呼び戻
させた。この時タグボード2隻はすでに総距離の5分の1を航行していた。アメリカ海軍上級士
官によるこの驚くべき失態は他の場所でも発生し、戦艦ヨークからの救助要請は、これでもかと
ばかり2重3重に無視された。その結果、海上に放り出された900名の乗組員は足掛け5日間
も海の上に漂うこととなり、せっかく豊富にあった救命胴衣も水を吸い役に立たなくなったので
ある(この当時の救命胴衣は技術的に問題があった)。
USSヨークは傾きながらもいまだに8ノットで前進を続けており、畑に種をまく自動機のよう
に水兵たちを数マイルにわたり海にばらまき続けた。機関室ではブリッジと連絡が取れないまま、
機関部として決断しなければならない事態に追い込まれていた。つまりこのまま機関を動かし続
けるか停止させるかである。機関長のリック・メインは迷っていた。もし近くに潜水艦がいるの
なら艦の停止は即命取りになる。しかし艦が前傾していることから、もし船首部をやられている
ことが考えられ、そうであれば進めば進むほど海水を吸い込み、艦の沈没が早くなる。迷いに迷
った挙句、機関長は残っているエンジン回転を 165rpm まで上げるよう命令した。停止した艦
にとどめを刺すのは潜水艦の常識である。これ以上攻撃を受ければ艦の維持も何もなくなる。賭
けてみるしかなかった。だがエンジン回転が上がり艦首部がないヨークが前進すると猛烈な水圧
が発生し、厚さ4センチの鋼鉄隔壁さえ突き破り海水が流入した。ついにヨークはグラリと右へ
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90度傾き、左舷のいろいろなものが右へ転がり始め、その中には死体もあれば生きた人間もあ
った。艦長のマクベインも垂直に傾いた甲板を手すりにつかまりながら後部無線室へ這い進む羽
目となった。
狭い艦内通路では、上下感覚と方向感覚を失った水兵たちが出口を求めて押し合いへし合いし、
そこに補助燃料庫の誘爆による高熱の熱風が襲い、そこにいた人間たちはあっという間に蒸し焼
きになってしまった。圧縮された熱風は鋼鉄の隔壁をも破壊し、吹き抜ける高温の嵐は溶鉱炉の
ように艦の中央部と前部燃料庫を誘爆させ始めた。多くがパンツ一枚の乗員たちは負傷したもの
を抱え次々に暗黒の海へ飛び込んだ。責任者たちが声をかけ、ある者は筏に、ある者は辺りに浮
遊している何にでも掴まり塊りを作っていった。船からできるだけ離れるよう指示された漂流者
たちが振り返ると、USSヨークが艦尾を垂直に突き上げ沈むところであった。そうしているう
ちにも負傷したものは力尽き油の海に沈んでいった。
海面に漂う者の中には26歳のガンナー(砲手)ジョー・マグラスもまじっていた。USSヨー
クにはエアコンがなく、彼は熱帯の暑さに閉口して当直明けの仲間と甲板で寝ていたのであった。
その夜、
雲は50%で明るい半月が見え隠れしていた。涼しい海風にうつらうつらしかけたころ、
突然ドカーンというものすごい衝撃が襲い、寝ていたものは1メートル近くはねあげられた。続
けて鋼鉄の破片を含むガラクタがうなりを上げて飛んできて、近くの構造物にガンガン当たり、
瞬時に体を切断された者の血と肉片が振りそそいだ。マグラスは潜水艦にやられたことをすぐ悟
ったが、パンツ一枚の自分は何をすればよいかが分からなかった。彼はそこにいた者たちのうち
負傷した者の見当をつけると、医者を呼ぶべく走り出した。少なくとも10名が負傷しており、
そのうち何人かは死んでいるのかもしれなかった。床は血でぬるぬる滑り、切断された大腿部が
転がっていた。
マグラスが起き上がろうとすると同時にすぐ目の前の艦橋右舷で激しい爆発が起こり、彼はまた
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吹き飛ばされ、右肩をいやというほど鋼鉄の甲板に打ち付けたが、それでも爆発は終わらず艦は
びりびりと震え続けた。前のほうを振り返ると鋼鉄の甲板から湯気が上がり始めていた。艦内が
高温になっている証拠である。これは医者どころの騒ぎではない、おそらくどこもかしこも怪我
人だらけだろう。彼は方向転換し救命胴衣の保管庫を開けると、手に持てるだけの救命胴衣を持
ち、怪我人たちのところに引き返した。すでに艦は右前方に傾き、前部から猛烈な煙と炎が上が
り始めていた。前部が無くなっているのかどうかさえ分からなかった。マグラスは負傷し呻いて
いる者に救命胴衣を着けると、仲間に声をかけさらに多くの救命胴衣を運び、次に消火作業をす
べきか、上官の命令を待つか考えた。だが艦はさらに右に傾き、もう甲板を走ることさえできな
くなっていった。海面が異様に近く見えていた。多くのものがブリッジ横のドアから出てきつつ
あった。艦はガクンとスピードを落とした。ヨーキーは沈むのか?20名近くいたはずの居眠り
組は半分ほどに減っており、その中で立って歩けるものは数名であった。ジャップのサブだ、こ
れはもう駄目なんじゃないか、誰かが叫んでいた。煙で呼吸も苦しくなっていた。煙幕を通して
50口径の主砲が空を向いているのが見えた。ほどなく艦橋で誰かが叫ぶ声が聞こえた、
Abandon ship!退艦せよ。
マグラスは慌てて引き返し、仲間と動けなくなっているものを抱え海に放り込んだ。中には腕を
失ったもの、首がおかしな方向に曲がり、生きているとは思えないものもいた。親しいものを海
へ放り込むことをためらう暇もなかった。暗い海面はまだ波が高く、すぐそこまで迫っていた。
マグラスは負傷者をあらかた海に放り込んだことを確認すると自分も舷側によじ登り飛び込ん
だ。周りはオイルだらけであった。
うっすらと夜が明け始めた。熱帯の海であるにもかかわらず夜の海は冷たかった。海面には寒さ
に震える数百名が固まっていたが、朝の光が差し始めるとあちこちから意外に元気な声が聞こえ
始めた。いかだの上には数10名が乗っており、誰かが「皆集まれ!」と叫んでいた。声に聞き
覚えがあった。マグラスは無論疲れていたが、多くの仲間の姿を見て、力強い号令の声を聞くと
力がわいてきた。空腹でのどが渇いていたが、間もなく救助の船が到着するはずである。声も出
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せない負傷者もいたが、一方で軽い冗談を言うものもいた。油まみれであった海面は姿を消し、
透明な水を通して小魚が集まって来るのが見えた。こんな外洋にこんなにたくさん魚がいるのか
と感心しながらマグラスが見ていると、ゆっくり回転しながら深みへと沈んでいく死者の姿が見
え、小魚が後を追うように集まっていた。その時、視界を遮るように巨大な黒い影が真下を横切
った。なんだあれは!?巨大なサメであった。マグラスはそんなことがあろうとは全く考えてな
かった。よく見ると下の暗闇から大きな黒い影が続々と湧き上がってきていた。マグラスは恐怖
に震えあがった。実際、サメの襲撃はその時が初めてではなかった。マグラスは昨夜、仲間の一
人が突然すっと沈むのを目撃していた。あれがサメだったのか、その時、向こうのほうでウワー
という悲鳴が上がり、誰かがサメだと叫んだ。マグラスは戦慄した。自分の人生が最後はサメに
食われて終わるなど考えたこともなかった。マグラスが顔を水につけると、まるで水族館の水槽
のようにサメがウヨウヨいるではないか。サメは攻撃を仕掛ける前にまず体当たりしてくる。素
足をサメのザラザラした皮膚がこすると容易に出血した。漂流者たちは自衛のため丸くかたまり、
近づいてくるサメの鼻先を蹴飛ばすなど、笑いたくなるような自衛行動をとった。だがこれでは
せいぜい一日しか持たない。
だがサメは日が高くなると攻撃をやめ、漂流者たちは一時的に自分を取り戻し、犠牲者の数を当
たった。少なくとも 50 名がやられていた。だがサメは夕方になるとまた襲ってきた。漂流者た
ちのうち体力の残っている者はサメを蹴飛ばし、浮遊している棒きれでひっぱたいた。それでも
2日目もほぼ同じ人数がやられた。恐怖に駆られた漂流者たちの体力は失われ、海面は赤く染ま
り、さらに多くのサメが集まったが、不思議なことに、サメは食いちぎられた人体が浮遊してい
るからといって、直ちにそれを襲うわけではなかった。漂流者たちは動かなければ比較的無事に
過ごせることを発見した。サメは動くもの、特に漂流者たちの足に襲い掛かった。
48時間も水につかっていると皮膚はふやけを通り越して海水潰瘍を起こす。すると火傷をした
ようにずるりと皮膚がはがれ、そこに名も知れない小魚が食いついてきた。自分はこんなところ
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で生きながら魚のえさになるのか、マグラスはオハイオの家に残した家族を思った。自分の妻は、
夫が海の中に放り出され魚の攻撃を受けているとは夢にも思わないだろう。だが辛いのはサメだ
けではなかった。強烈な熱帯の太陽は漂流者たちを徹底的に痛めつけた。さらに夜になると低体
温症が漂流者たちを襲った。絶望から明らかに自殺と思われるような沈み方をする者が現れた。
彼らは自ら救命胴衣を脱ぐと、微笑みさえ浮かべながら沈んでいった。それは、苦しみと絶望か
らの解放でもあった。
艦長のマクベイン大佐はいかだの上で事態を理解しかねていた。3日たっても何のレスキューも
来ないなどということは考えられなかった。たとえ救助信号が発信されなかったとしても、入港
予定が遅れれば誰か一人くらい不審に思うものがいるはずではないか。だが、たまに上空を飛び
去る航空機は全く捜索高度ではなく、もう3日も四方八方たった一つの艦影さえ見えなかった。
やはり救難信号は発信されなかったのか。このグループは全員いかだに乗ることができたが、昼
間の暑さは耐え難く、交代に水につかって体を冷やさなければならなかった。皮肉なことに非常
食がかなりおいてあったが水がなく、食べるに食べられない状態であった。皆の士気を鼓舞しつ
つも、マクベイン自身ノドが焼けて声が出なくなっていた。何と戦うのかさえも分からなくなっ
た漂流者たちに長い無慈悲な時間が過ぎていった。三日目になると幻覚に襲われるものが出始め、
島が見える、すぐ水面下にまだヨークがいると泳ぎ去っていった。もっと怖いのは海水を飲むこ
とである。いったん海水を飲むともう助からない。それを止めようとする人間も少なくなってい
った。
遭難から3日目、8月1日朝、ガイ少尉の操縦するベンチュラ双発機は、通常哨戒のためパラオ
を飛び立った。その日は雲が3000メートル辺りにあり、レーダーだけでは不十分と判断した
ガイ中尉は、双発機を1500メートルまで下げた。フィリピン海は雲間から漏れる日光でまぶ
しく反射し、ガイ中尉は双発機をバンクさせ海面に対する角度を変えた。その時、海面に一筋の
油の帯が見えた。不審に思ったガイ少尉が油の筋を追いかけると、やがて海面に数10名の頭が
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見え始めた。ガイ中尉は仰天した。あれは友軍か敵兵か。双発機が海面近くを飛ぶと、海面に浮
かぶ人間たちは一斉に手を振った。
アメリカ兵だ!
午前11時であった。ガイ少尉は翼を左右に振って現認したことを漂流者たちに知らせ、多数の
漂流者がいることを基地に連絡し、直ちに救援を要請した。パラオとフィリピンの海軍基地では
大騒ぎとなった。何ということか、今更ヨーク号が到着していないことが認識されたのである。
それも4日目に。ハワイの海軍司令部は、海域にいるすべてのアメリカ艦船に、無線封鎖を破っ
て識別応答するように命令した。多くの艦船が信号を送ってきた。USSヨークを除いて。
生存者は400名を切っていた。それがあちこちに塊となって浮かび、いかだや浮遊物にしがみ
ついているようであった。塊の周りにはサメの大群が見えた。生存者たちはサメを追い払う体力
も残っていないように見えた。ガイ少尉はクルーにどなった。
「おい、あそこへマーカーを落とせ、そしてすぐ位置を報告し救援を要請するんだ」
南太平洋の海軍基地は皆大騒ぎとなり、米海軍史上最大の救援活動が開始された。11機の航空
機と11隻の艦船が6日間にわたって投入された。
PBY-05Aカタリナ機は水陸両用ではあるが、波高の高い外洋に着水するようには造られて
いない。パラオ領のペリリュー島基地に勤務するベリー少佐は、部下のガイ少尉から漂流者の報
告を受けるとすぐカタリナ機の派遣を軍に要求したが、帰ってきたのはそういう確認遭難情報は
ないというものだった。ベリー少佐は司令部に行き直談判しようと車を発進させたが、今からで
はたとえ相手がウンといっても間に合わないと判断し、電話で航空基地に乗員の招集を依頼する
とまっすぐカタリナ機に向かった。早くしなければ生存者の数は減るであろうし、ガイ少尉の飛
行機はそう長く現場にはとどまれない。ベリー少佐と乗員4人は大慌てで機を発進させると最高
速力で現場へと向かった。
現場にはまだマーカーのオレンジ色が残っており、容易に視認できた。
ガイ少尉からは、ほかにもたくさんいる、少なくとも数百名である旨の連絡があった。ベリー少
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佐はすぐ決断した。あそこへ着水する。外洋に着水するなど無謀な行為であった。だが反対する
乗員はいなかった。機はボディを傾けると急角度で降下をはじめ、少し荒れ気味の波にたたきつ
けるようにバウンドしながら強引に着水した。尾翼部分が破損し、二度と飛び上がれないことは
はっきりしていたが、乗員は一斉にカタリナ機のハッチを開け、浮遊者の群れに向かってどなっ
た。水兵たちは最後の力を振り絞り飛行機に向かって泳ぎ始めた。その頃救援の飛行機は次々に
やってきては救命器具、いかだ、水などを大量に投下した。
ベリー少佐のカタリナ機は直ちにできることを行った。周辺にいる若者たちを片っ端から機内に
引き上げ、そこがいっぱいになると翼の上に引き上げた。若者達の皮膚は爬虫類のよう半透明で
つるつるしており、あまり手荒く扱うとボソリとはがれた。引き上げられた若者たちはほとんど
全員錯乱しており、手足をバタバタさせて何かの攻撃を防御している様子であった。カタリナ機
の乗員たちはパラシュートなどを利用して若者たちを包むなど、できるだけの手を打った。しか
し機内には水がなく、やがて漆黒の闇が訪れると、来るべき救助艦を待つ以外なかった。機長で
あるベリー少佐は天候がもつことを祈った。海が荒れれば貧弱なカタリナなどバラバラにされて
しまう。
8月2日の夜、沖にポツンと耀光が見えた。あれはなんだろうか、30名の漂流者を引率するマ
ーク・トンプソン大尉は筏の上でかろうじて体を起こした。彼自身極度の渇きから幻覚を見るよ
うになっており、太陽に焼かれ視力も衰えていた。トンプソン大尉は光を見つめ続けた。それは
幻覚というにはあまりにも現実感があった。光は次第に強く、大きくなり、それが一つではない
ことがはっきり分かるようになってきた。トンプソンは筏の上の30名に声をかけた。おい、船
だ、船だぞ!光はまっすぐに向かってきた。それは巨大な探照灯を満艦に照らした駆逐艦であっ
た。駆逐艦は探照灯に筏をとらえると汽笛を鳴らし、すぐ近くまで接近してきた。アメリカ海軍
の USS ジャービスであった。トンプソン大尉にはジャービスがものすごい速度でこちらに突進
しているように見え、このままでは筏ごと破壊されてしまうのではないかと思ったが、ここまで
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くればそれはそれでいいかと考えた。生きながらサメに食われることに比べればなんということ
もない。だがジャービスはすぐ近くに停止し、多くの兵士がネットを伝って海面近くまで下りて
きた。トンプソン大尉たち30名は声にならない歓声を上げながら必死に筏をジャービスに近づ
けようとした。だが筏は駆逐艦が作り出す波のため僅かずつ駆逐艦から離れだし、体力のあるも
のは海に飛び込み始めた。一方駆逐艦からも数名の兵士が海に飛び込んだが、トンプソンがサメ
がいるぞと叫ぶと慌てて駆逐艦へ戻った。すると今度は別のもの数名が海へ飛び込み筏に向かっ
て泳いできた。これは本当に助かるかもしれないとトンプソンは思った。
USSジャービスよりわずかに南を捜索していた駆逐艦ドリスは75名の漂流者を助け、その中
には軍医のハーンズも含まれていた。ハーンズは上半身にひどい日照火傷を負い、視線も定まら
ないほどフラフラしていたが、一切の手助けを断り、自分で駆逐艦に登っていった。ドリス艦長
のクラークソンが、あなた方はいったいどこから来たのかと聞くと、ハーンズは、我々はUSS
ヨークの生き残りで、4日間海の上にいたと答えた。クラークソンは驚いた。ヨークが沈んだこ
となど知らなったのである。
高速輸送艦リンジーのレーダーに小さいが強い輝点が映った。奇妙な反射であった。
「これはい
ったいなんだろうか」USSリンジーは狐につままれる思いで艦首をそちらに向けた。マクベイ
ン艦長が率いる集団は、昨夜遠くに味方の駆逐艦のサーチライトを見ながら、それが一向に自分
たちのほうには近づかないことを切ない思いで見ていた。マクベインが放った最後の発火信号も
何の役にも立たなかった。だが今朝、一隻の救助艦がこちらに向かってまっしぐらに近づいてい
るように見えた。
「おい、こっちに来るぞ、みんな、あれは味方だぞ」
若い兵士が立ち上がった。マクベインも立ち上がった。全員が立ち上がり突進してくる船に手を
振った。マクベイン艦長を含むいかだに乗っていた全員が救助艦リンジーに救助された。リンジ
ーのレーダーに映った強い輝点は、マクベインたちが救難信号を作るため利用したブリキ缶であ
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った。救難信号を出す装置としては役に立たなかったが、結果としてそのブリキ缶は有効な信号
となったのである。
翌8月3日までにアメリカ海軍の艦船および航空機は大規模な捜索活動の結果、最終的に319
名の漂流者を救助した。もしもう一日遅れていたらおそらく10分の一になっていたであろう。
漂流者たちはそれぞれの艦で真水による洗浄を受けた。多くの兵士は最初意味もなく笑い出し、
そのあと泣き始めた。その後静脈栄養点滴を受けながら真水をスプーンで一杯ずつ眠り込むまで
飲まされ、骨の髄まで水のうまさを味わいつつ20時間の眠りについた。捜索活動は8月9日ま
で続けられ、多くの死体はできる限りの識別検査を行うと海へ戻された。マクベインのグループ
はほかの漂流者に比べ驚くほど良好な体調を保っていた。マクベインは水分や食事をとると個室
を与えられ、マイヤーズ艦長を相手として、さっそくこれまでの経緯の報告を行った。だがマク
ベインには新たな敵が現れていた。海軍であった。1時間ごとに、マクベインは自分が置かれた
恐るべき状況に打ちのめされていった。責任や原因はともかく、自分が指揮する艦の乗員900
名余りが死んだのである。
ペリリュー島到着後新聞記者がマクベイン大佐に質問した。あなた方はどうして4日間も放って
おかれる羽目になったのですか。
「こちらが聞きたいくらいだ。USSヨークくらいの大型艦になれば、ほぼ列車並みの厳密なス
ケジュールで動いている。1日遅れただけでも目立つ。それが4日間も誰も気づかなかったなん
て、一体どういうわけなのかこちらが聞きたいくらいだ」
救助されたすべての兵員はその後グアムへ集められ、外部との接触を厳しく制限された。2週間
後、日本が降伏し、太平洋戦争が終結したことがマクベイン艦長にも知らされた。
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軍 事 法 廷
証人:軍医ルイス・ハーンズ
証人「アメリカ合衆国海軍、大尉ルイス・ハーンズです。USS ヨークでは軍医として勤務して
おりました」
弁護人「大尉、あなたが目撃したことをお話しください」
証人「はい、あの時、ホスピタルには虫垂炎の手術直後の若い水兵と、左脚捻挫の患者がおりま
した。私は座ってコーヒーを飲みながら、皆がカードをするのを見ていましたが、まず爆発が2
回おこり、魚雷にやられたなと思いました。直後に起きた3回目の爆発が一番大きく、我々は椅
子やテーブルごと空中に放り出され、床にたたきつけられました。息が詰まりましたが、すぐホ
スピタルのほうを見ると、捻挫の患者はすでに床に転がっており、虫垂炎の患者はベッドから滑
り落ちまいと格闘している最中でした」
弁護人「それからどうしましたか」
証人「すぐ病室へ向かい、先ず若い水兵、虫垂炎のほうですが、をベッドに戻し、手術した部位
から出血がないかどうか確認しました。ついで左足骨折の患者の状態を見ようとしました」
弁護人「それからどうしましたか」
証人「すぐ床が前に傾き始め、船が沈むなと思いました」
弁護人「爆発からどのくらいの時間がたっていましたでしょうか」
証人 「あっという間でしたが、落ち着いてカウントするとすれば5分以内というところでしょ
う」
弁護人「それでどうしましたか」
証人「すぐナースを呼び、といっても男性ですが、患者に救命胴衣を着せると上からの指示を待
ちました。実際には数分でしょうが、なかなか退艦命令が来ない感じがしたので船は沈まないの
かなと思いました」
弁護人「それから・・・」
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証人「ナースが私に救命胴衣を持ってきて、私は自分がそれを装着していないことに初めて気づ
きました。それを着るか、着ないかのうちに退艦命令が来ました。誰かが叫んでいました」
弁護人「はい、それで・・・」
証人「私の使命は患者の避難が第一ですから、ナースと一緒に苦しむ患者を連れ、上甲板へ急ぎ
ました。むろん緊急キットも持っていましたが、海の中でなんの役に立つでしょう。ウィスキー
ボトル一本のほうがよほどましです」
弁護人「なるほど。ライフボートはどうなっていましたか」
証人「上甲板に着いた頃には船はすでにかなり傾いていて、ボートまで行くことはできませんで
した。そこで私は患者2名を海に放り込みました。ほかにどうしようもなかったのです」
弁護人「その間、どのくらいの時間がたっていたでしょう」
証人「あとで考えると矛盾しているのですが、3番目の爆発が起こってから、患者2名を海に放
り込むまで15分はたっていないのではないかと思います」
弁護人「その後、それら患者2名はどうなりましたか」
ハーンズ軍医は黙って頭を振った。全くわかりません。
弁護人「海上に放り出された後のことをお話しください」
証人「私の周りには何百人もの人間が浮かんでおり、一部を除き救命胴衣を着けていました。海
水は重油だらけで、中には深刻なやけど、けがを負っている者がいました。私とシンプソン神父
はできるだけ皆を元気づけるよう気を配りました。数時間もすれば救助が到着すると考えていま
したので」
弁護人「そうでしょうね」
証人 「しかし救援はいくら待っても来ず、重傷を負っている者は一人ずつ亡くなっていきまし
た。三日目には多くのものが幻覚にとらわれるようになり、沖に島が見える、ホテルがある、
USS ヨークはまだすぐ下にいるなどと口走るようになり、何名かが集団を離れ泳ぎ去りました。
残っている者も次第に体力が尽き、亡くなっていきました。
神父がその場で祈りをささげ、死者は救命胴衣から解放し海に沈めました。救命胴衣を他のもの
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に回す必要があったのです」
法廷に来ていたジェンソン准将、ジェラード准将が居心地悪げに足を組み替えモジモジした。
証人「3日目の夕方、シンプソン神父の体力が尽き、ただ祈りの言葉だけを無意味に繰り返すよ
うになりました。神父は海水を飲んでしまったのです。そしてその夜神父はなくなりました。彼
は死ぬまで自分の使命を果たしたのです。彼は救命胴衣を着けていましたが、水を吸って浮力が
無くなっており、そのまま沈んでいきました」
法廷をしばらく沈黙が支配した。
弁護人「海水を飲んだらどういうことが起きるのですか」
証人「ナトリウム血症です。脳をやられ、神経をやられ、やがて呼吸不全で死亡します」
弁護人「ドクター・ハーンズ、あなたから見たマクベイン艦長はどんな人物でしたか」
証人「規則に厳しい優秀な軍人でした。私はマクベイン艦長が何らかの過失を犯したとは思えま
せん」
証人:デニス・コード少尉
証人「デニス・コード少尉です。魚雷攻撃を受けた時、自分はブリッジで当直についておりまし
た」
弁護人「少尉、当夜全く魚雷警報が出されなかったのはどういうわけでしょうか」
証人「本艦には潜水艦探索用のソナーがありません。おまけに相手は航跡を残さない酸素魚雷を
使用しております。さらに夜間であり、海は多少なりとも時化ておりました。昼間であってもお
そらく分からなかったでしょう」
弁護人「ちょっとお待ちください、ヨーク号にはソナーもなかったというのですか?」
証人「その通りです。本艦は条約型巡洋艦と呼ばれるもので、復元力が劣るだけでなく艦の構造
そのものがぜい弱で、かつてスプルーアンス提督は魚雷一発で簡単に沈むとおっしゃっているよ
うです。そういう老朽艦にソナーさえもつけず単艦航行させたのです!しかも燃料節約とかで3
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0ノットどころか17ノットしか出せませんでした」
コード中尉の口調に強い海軍非難のトーンが混じった。
検事「裁判長、あの当時護衛の駆逐艦をつけずに巡洋艦が航行することは、あの海域では必ずし
も珍しくなく、それで軍部を非難することは不当と考えられます。護衛がなければジグザグを行
うなど、自衛するのが軍人の義務です」
判事が肯いて見せた。
弁護人「ふむ、コード中尉、マクベイン艦長はその時はどこにいましたか」
証人「艦長は私と交代に、ブリッジの左後部にある仮眠室に引き上げました。爆発はその直後の
ことです」
弁護人「艦長はジグザグ航法を指示しなかったのですね」
証人「いいえ、それは正確ではありません。その日は夕方になって海が荒れだし、それまで続け
ていたジグザグより、速度を上げて危険海域を通過するほうが得策という決定をされたと思いま
す。事実、天候が回復したら再度ジグザグを行うようにという艦長命令でした。その、お分かり
と思いますが、天候が回復すれば、潜水艦からも見つけやすくなるわけですから」
弁護人「はい、わかります。それでは、あなたは天候が回復したら、つまり潜水艦に発見されか
ねない天候になった時にはジグザグを再開するように命じられていたのですね?」
証人「はい、そのようにマクベイン艦長から命令を受けておりました。ジグザグを開始しようと
するまさにその矢先にやられました。艦はすでに左転舵を開始していたかもしれません」
検事「コード少尉、それはとりもなおさずあなたのジグザグ開始命令が遅すぎた、言い方を変え
ればそもそもそういう命令を下したマクベイン艦長の判断が間違っていたということではあり
ませんか」
証人「私には何とも言えません。しかし数分早かった、遅かったというのは単に偶然に過ぎない
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とわたくしは思っております」
検事「その数分が分かれ目になることもあるんですよ、今回のようにね」
弁護人「証人、爆発があった時のことを話していただけますか」
証人「爆発が艦首部右舷で突然起こり、すぐに右舷中央部でも起こり、これは魚雷攻撃だとわか
りました。我々は1メートルくらい上に飛び上がり、床にたたきつけられました。私は腹を打っ
て息もできない状態でしたが、何とか立ち上がろうとした矢先、さらに大きな爆発が起こり、艦
の前部から閃光がほとばしりました」
弁護人「その時マクベイン艦長はどうしていましたか」
証人「艦長はいつの間にか仮眠室から出てきておられ、各部の損害把握をするよう命令されまし
た。しかし前部からは全く反応がありませんでした。すでに電気系統を含む通信システムが破壊
されておりました。艦首方向から爆発が続けて起こり、艦は艦首部を吹き飛ばされ、前に突っ込
む形で傾きました。ほどなく艦長はエンジン停止を命じられました。そうしませんと前に潜り込
む形で沈没が早まりますから。しかし機関室との連絡も取れず、艦には勢いがついており、しば
らくそのまま進んでいたようです。それで大量の海水を吸い込んだと思います」
弁護人「艦長からの退艦命令は爆発後何分くらいで出ましたか」
証人「艦が停止すれば潜水艦の餌食になるだけですから艦長はしばらく迷われたようです。しか
し10分かからなかったと思います。艦首部をあれだけやられればどうしようもありません。
」
弁護人「遭難信号の発信はどうだったのですか」
証人「艦長はそれを盛んに気にしておられました。ですが通信室との連絡も取れず、様子を見に
行った士官も戻ってきませんでした。艦長は自分で見に行くことを決断されたのですが、その時
には艦が大きく傾いており、とても通信室にたどり着けるような状態ではなかったと思います」
弁護人「コード中尉、ソナーも持たない老朽巡洋艦が、護衛の駆逐艦もつけずに危険海域を航行
することについてあなたはどう思いましたか」
証人「それが命令であればその通り行うのみです。しかし自分たちを殺す気かという声は艦内に
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ありました。こういう結果になり、率直に申し上げれば、強い憤りを覚えております」
コード中尉は強い口調で最後の言葉を吐いた。
検事「あなたは強い憤りを覚えると発言しましたが、USS ヨークが規定通りジグザグ航行を行
っていればこういう事態にはならなかったとは思いませんか」
証人「そうかもしれません、しかし・・・」
検事「質問は以上です」
証人:橋口中佐 in Washington DC
敵であった橋口中佐の証人喚問は全米に激しい非難を引き起こした。この当時、日本人はずる賢
く残虐であるという洗脳が行われていたため、アメリカ海軍士官の有罪を証拠立てるため敵国で
ある日本の軍人に証言させるなど世論もメディアも許さないのである。だがこの小柄な日本人は
ハワイ経由の軍用機でワシントンへ臆せずやってきた。その態度は、いろいろな嫌がらせを受け
たにもかかわらずホテルでも法廷でも堂々としていた。橋口中佐はある程度英語ができたが、法
廷では専任の通訳がついた。
弁護人「ハシグチ中佐、遠い日本からお越しいただき、誠にご苦労様でした。あなたは日本海軍
の軍人として当然の務めを果たされたわけですが、あなたが最初にヨーク号を発見した時、ヨー
ク号は直進していたと検事に証言されています。しかし同時に艦種も識別できないような両艦の
配置及び気象状況であったとも証言されています。矛盾するのではありませんか」
橋口中佐 「私はヨーク号が大きなジグザグ行動をとっていなかったことについては確信があり
ます。現にヨーク号はほぼ真っ直ぐに私の艦方向へ進んでおりました。しかし小刻みなジグザグ
をやっていなかったかと言えば、それは断言できません。実際2000メートル先でヨーク号が
左に舵を切ったからこそ魚雷発射が可能となりました」
弁護人 「それでは、ヨーク号はジグザグをやっていたと・・・・」
橋口中佐 「私の証言は変わりません。断言できません」
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弁護人 「もしジグザグをやっていれば雷撃は難しかったでしょうか」
橋口中佐 「日本とアメリカでは対艦距離の把握方法が根本的に異なると聞いております。アメ
リカの潜水艦は対勢盤という機械を使って距離と速度を自動的に割り出しますので、我が国の艦
船がジグザグをやってもあまり意味を持たないでしょう。しかし日本海軍はまだ手動式でしたか
ら、アメリカ艦船にジグザグをやられると最適の魚雷発射は難しくなる場合があります。追尾す
るにもこちらの潜望鏡が白波を立てるので高速は出せません。私自身それで獲物、失礼、アメリ
カの艦船ですが、逃したことが実際にあります。ただしヨーク号の場合は大まかな進行方向がこ
ちらに真っ直ぐで、タイミングも合っていましたから、ジグザグをやっても多分撃沈できたでし
ょう」
弁護人「なるほど。ハシグチ中佐、あなたはいわゆる『とどめ』を刺しませんでした。それはな
ぜですか」
橋口中佐 「とどめを刺さなかったのではなく、魚雷の再装填のため潜航しました。しかし爆音
が次々に聞こえ、敵が爆雷攻撃を始めたと思いました。我々にはヨーク号が単独であるという確
信が持てなかったのです。もし随伴している駆逐艦があれば次は我々がやられる番ですから。約
1時間後に浮上しましたが、その時には艦影も何も全くなく、おそらく沈没したのだと思いまし
た」
検事「ハシグチ中佐、そうしますとあなたの意見としては、もしUSSヨークがジグザグをやっ
ていたとすれば魚雷攻撃はできなかったかもしれないということですね」
橋口中佐 「一概には言えませんが、あの速度と進路であれば、ジグザグをやったとしてもたぶ
ん攻撃は可能であったでしょう。ただし、3発の魚雷のうち1発しか当たらない、あるいは全部
外れるなどが起きたかもしれません」
被告:艦長ジェームズ・マクベイン大佐
検事「マクベイン大佐、あなたは USS ヨークの艦長ですね」
被告「その通りです」
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検事「あなたはUSSヨークの艦長として、同艦の沈没および海軍兵員の損失について責任があ
ると思いますか」
被告「むろん、私には責任があります。しかし法廷に出された二つの訴因については無罪を主張
します」
検事「責任は認めるが無罪であるとは矛盾しているのではありませんか」
被告「艦長として、艦の安全と乗員の生命について一般論として責任があることはいずれの艦長
も同じです。それが失われたわけですから艦長として極めて残念に思っております。ましてや、
自分は助かり、多くの部下が犠牲になりました。残された家族の気持ちを思うと、艦長である自
分を私は許すことができません。しかし訴因について私に過失があったとは考えておりません」
検事「7月29日から30日にかけ、つまりUSSヨークが被雷した時、あなたはどこにいまし
たか」
被告 「私は7月29日夜11時30分過ぎ、当直士官と交代し、艦橋後部の仮眠室におりまし
た」
検事「あなたはジグザグ航法を命じなかったのでしょうか」
被告「日中は継続してジグザグを行いましたが、夜になって天候が崩れ、海が荒れだしたため、
潜水艦に発見される危険性が薄れたと判断し、通常走行を命じました。しかし交代する前に、天
候が回復すれば再びジグザグを行うよう命じました」
検事「しかしハシグチ少佐の証言によると、あなたの艦は5キロ先から見えるほど視界が回復し
ていたにもかかわらず直進していた、少なくとも顕著なジグザグは行われていなかった言うこと
です。それがため潜水艦に魚雷攻撃の機会を与えてしまった、違いますか」
被告 「先ほど申し上げたように、天候が回復すれば再びジグザグを行うよう下命しておりまし
た。そのことは忘れられてはいなかったはずです。しかしどの段階からジグザグを開始するかは
人間の判断ということがあるでしょう」
検事「私が言っているのは、現に魚雷攻撃が行われ、900名に上る人命が失われたということ
について、あなたに責任があるのではないかということです」
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被告「私に責任があることは先に申しあげたとおりです。しかし過失はないと考えます」
弁護士のキャシディ大佐は、マクベイン大佐の態度を海軍軍人らしい潔癖なものだとは思ったが、
法廷戦術としてはいかにもまずいものであった。潔すぎる自己破壊型の被告は時々あり、特に今
回のように900名もの死者が出れば、艦長であるマクベイン大佐の心情も十分推し量ることが
できたが、法廷ではそれはまずい。
検事 「マクベイン大佐、あなたは被雷時仮眠室にいたということですが、その後どうしました
か」
被告「艦は一瞬飛び上がり、私はどこかに頭をぶつけました。すぐ艦橋に行き損害の報告を行う
よう命令しました」
検事「はい、そのあとは・・・・・」
被告「通信システムがすべてダウンしており、どの部署とも連絡が取れない状態でした。艦の前
部はなくなり、激しい炎と煙が上がっていました。ウインターズ少佐に、ウィンタース少佐だっ
たと思いますが、下に行って状況把握を行うとともに救助信号の発信を命じました」
検事「それが、どうなりましたか」
被告「ウィンタース少佐は戻ってこなかったと思います。誘爆と思われる爆発が続けて起こり、
私は艦が助かるかどうかの見極めを行わなければなりませんでした。機関を止めなければ自ら沈
没するようなものですから機関室に連絡を取ろうとしましたが、通信不能の状態でした」
検事「そのような状態であれば退艦命令を出すのが当然ではありませんか」
被告「艦長により判断が分かれるところでしょうが、船を救うのも艦長の責務です。私は状況把
握もできないのに退艦命令を出すことをためらいました」
検事「あなたが退艦命令を出した時、船は90度傾いており、すでに手遅れだったのではありま
せんか」
被告「艦が90度傾いたとき、私は後部通信室へ行こうとしておりました。退艦命令は艦橋を離
れる前にもっと早く出したと思います。それは副長の意見も容れての決定でした。しかし停電の
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ため拡声装置は死んでおり、ブリッジから大声で伝えるしか手がなく、他の部署に伝わるのに時
間がかかりました。艦が横倒しになったのはその後のことです。艦が横倒しになってから退艦命
令を出したのではありません」
検事「そのあとの行動を教えてください」
被告 「艦が大きく右へ傾き海面が見えました。海面には既に多くのものが浮かんでおり退避が
進んでいることがわかりました。私の関心事は救難信号の発信でしたので、何とか後部の通信室
へ行こうとしました。しかし艦はその間も傾き続けほぼ真横になり、どこだか覚えていないけど
もそれ以上進むことができなくなり、私も海面に落ちました」
検事「そうするとあなたは非常時に指揮所を離れたということですか、これは服務規範に違反し
ませんか」
被告「そうかもしれませんが、私は、機能を果たせなくなった指揮所にとどまる意味はないと判
断しました。救難信号が発信されているかどうかがあの段階では最も大事なことです。私は電気
系統が死んでいることが気がかりでした。責任というなら、今訴因となっているように、救助信
号の発信は最も重要なことで。私はその責任を果たそうとしたのです」
検事「それは部下にやらせるべきではなかったのですか」
被告「その段階では、私とコード中尉がブリッジに残っていました。中尉に命じてもはっきり確
認が取れるとは思えませんでした。私自身が確認する必要がありました。そのためには自分で行
く以外ないと判断しました」
証人:ギル・マッケイ一等水兵
弁護人「あなたは被雷した時どこにいましたか」
証人「私は監房でウォッチを命じられていました。船底に近いデッキで、軍紀違反で2名が入っ
ていたのです」
弁護人「はい、それで」
証人「爆発が何度も起き、弾薬庫か燃料タンクが事故で爆発したと思いました。すぐきな臭いに
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おいが立ち込め、熱い空気が入ってきました。電気が消え、皆が何か叫ぶ声が聞こえました」
弁護人「それからどうしましたか」
証人「囚人たち、本当は囚人ではなく只の軍紀違反者ですが、を解放しなければならないので、
上のほうに連絡しようと思いましたが電話が死んでいました。それで担当士官のところへ行き、
勝手にですけども鍵を取り、監房を開けました」
弁護人「あなたが行動しなかったらその2名は死んでいたかもしれませんね、続けてください」
証人「避難しようとしましたが、通路を間違うと助からないので焦りました。そのうち非常灯が
つき、皆がいる方向、その階の左側前方の扉ですが、そちらへ向かいました。ですがそこは人で
いっぱいで、ものすごい熱さでした。すでにみなヤケドをしており、そこからは脱出不能だと直
感し、そのデッキの後ろへ回り、人一人しか通り抜けられないハッチを通り、メインデッキに抜
けました。途中怪我して動けないものがおり、囚人たちも手伝って上へ引っ張り上げました。既
に退艦命令が出ていたようで、皆は海へ飛びこんでいました」
弁護人「爆発が起きてから、あなたが後部甲板に脱出するまでどのくらいの時間がたちましたか」
証人「あっという間でしたが10分くらいたっていたと思います」
弁護人「ということは退艦命令は10分以内に出ていたということですか」
証人「私は退艦命令は聞いていません。その時のまわりの様子と、あとで聞いてそう思います」
弁護人「マッケイ一等水兵、そのあとどうしましたか」
証人「ふと見ると、まだ救命艇が懸架されたままになっており、なぜ下ろさないのかと不思議に
思いました。で、3~4人で下ろそうとしましたが、船が傾いているためピンが外れず、結局ボ
ートをあきらめて海に飛び込みました。ライフベストは着けていました」
弁護人「その後どうしましたか」
証人「海面は油だらけで、強い揮発性のにおいがしました。間違ってそれを飲み込むと激しくせ
き込み浮いていられなくなります。私は船から離れるべくすぐ泳ぎ始めました。周りに多くのも
のがいました。振り返るとヨーキー、艦のことですが、大きく艦尾を持ち上げ沈む寸前でした。
回転するプロペラに艦尾から飛び込んだ何人かが弾き飛ばされていました。次の瞬間あっけない
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ほど簡単に艦は沈み、真っ暗になりました」
弁護人「救助されるまでのことをお話しください」
証人「夜が明けたらすぐ救助が来るものと皆思っていました。午前中には来る、午後には来る、
夜に入ったら来る、その繰り返しです。そのうちサメが来て・・・・・・・最初は棒で殴りつけ
るなど撃退しようとしたのですが、だんだん元気がなくなり食われるものが出始めました。怒号
が上がり、海面が血だらけに・・・・・・するとますますサメが来ます。いいですか、五体健康
なものがいきなり体を食いちぎられるんですよ。いきなり引きずり込まれるから悲鳴も上げられ
ない」
マッケイはしばらく絶句した。
「夜が明けて私は筏に拾われ、その上には食べ物の缶詰が少々あったのですが、肝心の水がなく、
太陽が上がると地獄でした。飛行機が何回か来たのですが、我々を発見できなかったようです」
その他およそ 40 名が証言台に上った。無線電信技士のジェフ・マイルズは、間違いなくウッド
兵曹がモールス信号により救難信号を発信していた、そのたびにライトが点滅していたから間違
いないと主張したが、法廷はなぜかこれを無視した。また司令部のネイサン大佐は、USS ヨー
クがグアムを出港するに際し、当該海域で米国の軍艦が魚雷攻撃を受ける可能性はゼロに近いと
判断し、発言していたことを証言した。また潜水艦乗りのベテランとして知られるガイ・ドナヒ
ュー大佐のジグザグ行動にはほとんど意味がないとする証言も取り上げられなかった。弁護士の
キャシディ大佐は、USS ヨークが 10 分から 15 分という短い間に沈没した事実から、退艦命令
の発令がタイムリーであったかどうかを争うことそのものが無意味であると訴えた。裁判の進行
は連日報道され、海軍を直接非難する弁論は行われなかったにもかかわらずメディアは「とんで
もない海軍のヘマ」として報道した。
裁判に先立つ1945年8月15日に太平洋戦争は終結し、アメリカは勝利に酔った。最終弁論
は1945年12月19日に行われた。皮肉なことに検察官であるトライオン大佐は、25年来
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の友人である被告ジェームズ・マクベインに有罪の引導を渡す役目を請け負っていた。一方の、
同じくマクベインの古い友人であるキャシディ大佐はトライオンと正反対の弁論を行いながら、
これは無罪間違いないという確信を抱いていた。しかし下された判決は次のようなものであった。
つまり、退艦命令が遅れたことや遭難信号の発信がなされなかったという訴因については無罪、
しかしジグザグを怠り被雷を招いたことについては有罪、さらにマクベイン艦長の序列を100
段階引き下げる、
ただし法廷としては被告の輝かしい経歴にかんがみ、海軍に寛大な処分を望む。
トライオン大佐は、裁判終了後マクベインに気の毒だった、悪く思わないでくれと声をかけた。
マクベイン大佐は控訴を行わず、そのままコネチカットの自宅へ隠遁した。
メディアのほとんどはマクベイン大佐に同情的であるばかりでなく、これは艦長の責任というよ
り、遭難信号を受け取っておきながら4日も対応を怠った海軍の失策である、なぜそれらの海軍
士官は追及を受けないのかとキャンペーンを張るところも出てきた。世論もおおむねそういう趨
勢であったが、不思議なことにヨーク沈没後の出来事、つまり多くの兵士が4日間も漂流したこ
とは裁判の争点から外された。それよりもアメリカの民衆は終戦、戦勝ということに6か月を過
ぎても酔っていた。一方で死亡者の家族たちの中にはマクベイン艦長に激しい攻撃を加える者も
あった。マクベイン大佐は、そういう家族に丁寧な手紙を書き続けたが、それでも何10通もの
非難の手紙を送りつける者がいた。マクベインの家族は、深夜マクベインが涙を流しているのを
目撃するようになった。それでいてマクベインは隣人、友人に接するときは全く快活で、率先し
てパーティなどにも参加した。
ギル・マッケイ一等水兵の家族には事実上の死亡報告が届いていた。そのマッケイから、入院は
しているが元気であるとの手紙が届いたとき家族は狂喜した。ハーンズ軍医は顔にやけどを負っ
たが家族との再会を果たした。ジョー・マグラスも結婚して程ない妻のもとへ帰った。あるもの
は軍に復帰し、ある者は実業界へ転身した。マクベインも海軍へ復職した。しかしマクベインに
与えられたものは、ニューオーリーンズ海軍航空隊のデスクワークであった。マクベインはそこ
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で 51 歳になるまで勤務し、退役後、民間の保険会社に転職した。
ギル・マッケイは退役後ミズーリ州に戻り、カイロプラクティクの博士号を取得した。太平洋戦
争終結から 13 年後の 1958 年、マッケイは自分のクリニックで寛いでいた。すると誰かがドア
をノックした。この時間に予約はないはずだがと訝しみながらマッケイがドアを開くと、そこに
はヨークに一緒に乗っていた戦友のティム・ブランソンが立っていた。ブランソンにとって、マ
ッケイはまさに命の恩人であった。負傷し、絶望して生をあきらめようとするブランソンを常に
そばにいて励まし続けたのはマッケイであった。
「お前がここにいると聞いてね、矢も盾もたまらず 2000 キロ運転してきたよ」
マッケイは USS ヨークに関する出来事をだれにも話したことがなかった。その苛酷さをうまく
伝えられなかったし、当事者にしか分からない体験であった。面白おかしく話すことでもなかっ
た。だが当事者同士は別である。二人はボロボロ涙を流しながら往時のことを話し合った。
マッケイはこれを機会に USS ヨーク戦友会の発足を思い立ち、自ら幹事となって 220 名を集め
た。多くの者が思い出したくない事件として参加をためらったが、マッケイは熱心に説得し、
1960 年 7 月、インディアナポリス市で最初の総会を開くまでになった。マクベインは艦長とし
て会への参加を断り、総会への出席を拒否することができる立場ではなかったが、多くのものが
自分を恨んでいるだろうと思うと足が進まなかった。そうでなくとも、いまだに届けられるマク
ベインの責任を追及する家族からの手紙は、マクベイン大佐が人並みの生活を送ることを一瞬も
許さなかった。旅客機はインディアナポリスの飛行場に到着し、マクベインはどんな非難にも耐
える覚悟を固めながらタラップへ進んだ。だがそこにマクベインは見た、地上に 200 名を超す
男たちが軍服をまとい一列に並んでいるところを。彼らはマクベインを認めると、まるで訓練を
受けたばかりの若い兵士のように見事なタイミングで敬礼した。
マクベイン大佐には不幸が続いた。翌年妻のルーシーが癌で死亡し、その 4 年後には可愛がっ
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ていた孫の男の子が病死した。マクベインは幼馴染と再婚し、隣人との付き合いなどさりげない
毎日を送ったが、1968 年 11 月のある日、マクベインの責任を追及する激しい内容の手紙が遺
族から届いた。息子が夜間階下へ降りるとマクベインがその手紙を握りしめ涙を流していた。翌
朝、ジェームス・B・マクベインは自宅の前で自分の頭に拳銃を押し付け引き金を引いた。遺骨
はマクベインがかつて戻りたいといっていたルイジアナの川に散骨された。
1996 年、戦友会はマクベイン大佐に関する再調査を海軍法務部に請求した。だが、その答えは、
下された判決に何の問題もなく、
再審理の必要はないというものだった。
その 3 年後の 1999 年、
ギル・マッケイは上院軍事委員会にその老いた体を運び、マクベイン大佐を擁護する発言しよう
としていた。
「マクベイン艦長はジグザグを怠り、艦を危険にさらしたとして有罪の判決を受けております。
だが、よく考えていただきたい、USS ヨークはすでに出航前には危険な状態にあったのです」
マッケイたち戦友会の活動は、閉じていた扉を少しずつ開けていった。2000 年 10 月、連邦議
会はマクベイン大佐の無罪に向け再審理を行う決定を行うとともに、USS ヨークの乗員すべて
に対し勲章を授与すべき勧告を行った。ダグ・スタントンによれば、この決定は日本の橋口少佐
にも届き、少佐は喜んだそうである。橋口少佐はこの翌年亡くなった。2001 年 7 月、アメリカ
海軍省はマクベイン艦長に USS ヨークの沈没に関し過失、責任がなかったことを正式に発表し
た。
End
この小説にある戦艦ヨークは、実際には重巡洋艦USSインディアナポリスのことである。実際
の軍事法廷では、インディアナポリス沈没後のことは一切審理されていない。つまり兵士たちが
南海に4日もさまよったことは裁判の対象ではないということである。この小説はわかる限りの
事実をベースとして書いてあるが、小説であるから生存者たちが法廷で漂流中のことも証言する
形になっている。その証言内容はディスカバリーチャンネルから再構成した。また戦艦ヨークを
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はじめ、あらゆる登場人物は仮名である。本当は重巡洋艦インディアナポリスについて起こった
ことである。インディアナポリスは広島、長崎に落とされた原爆をテニヤンに運んだことで知ら
れている。また一時はアメリカ海軍の旗艦でもあった。あまりに有名な話であるので実名で書い
てもよかったのだが、遭難信号を何か所でも受信しているにもかかわらず、揃いも揃ってそれを
無視するなど、作者にはもう一つ解せない部分があり、事実が事実でないような気がする。そこ
で読みやすくするためフィクションの体裁とした。また、巡洋艦も戦艦の一部には違いないので、
ここでは巡洋艦と表したり、戦艦と表したりしている。
多くの本および論評はマクベイン大佐に同情的である。もうすぐ映画も作られると聞く。しかし
900 名の人間が死亡したことは重大であり、巡洋艦の艦長として、それが結果として無意味であ
ったにしろ、イロハであるジグザグを軽視したことはやはり過失ではないだろうか。橋口中佐の
証言を聞くと、ジグザグをやっていれば被雷を避けられた可能性はかなり高いと思われる。それ
はアメリカ海軍のお粗末な対応とは別の「基本」であり、にもかかわらずマクベイン艦長に同情
が集まるところは、いかにも英雄崇拝のアメリカ社会らしい。
参考文献
「巡洋艦インディアナポリスの惨劇」ダグ・スタントン
「伊58号潜帰投せり」橋本以行(伊58号艦長)
「ディスカバリーチャンネル」英国(英文)
「総員退艦せよ-Abandon ship」リチャード・ニューカム
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