西南戦争に関する記録の実態調査と その分析・活用についての研究

 研究成果報告書
西南戦争に関する記録の実態調査とその分析・活用についての研究
西南戦争に関する記録の実態調査と
その分析・活用についての研究
課題番号 21320126
平成 21 年度∼平成 23 年度
科学研究補助金 基盤研究(B)
研究成果報告書
平成
年
24
月
3
平 成 24 年 3 月
谷
正
大
研究代表者
研究代表者 大 谷 正
(専修大学文学部教授)
◆ 目 次 ◆
Ⅰ.研究概要
研究組織………………………………………………………………………………………… 5
研究目的と成果………………………………………………………………………………… 5
年度別研究概要………………………………………………………………………………… 9
Ⅱ.本文編
猪飼 隆明 「西南戦争における長崎の位置とその史料」………………………………13
小川原正道 「西南戦争における久留米支庁の役割について
-福岡県立図書館所蔵電報から-」… ………………………………23
落合 弘樹 「西南戦争と延岡」……………………………………………………………27
佐々 博雄 「党薩熊本隊慰霊・顕彰会「丁丑感舊会」と
関係者所蔵史料調査について」… ……………………………………33
堀内 暢行 「宮崎県立文書センター所蔵西南戦争関係史料について」………………37
大谷 正 「仙台地域の西南戦争関係資料と『仙台新聞』西南戦争関係記事」………43
友田 昌宏 「岩倉文書からみた西南戦争」………………………………………………51
大谷 正 「北海道開拓使と西南戦争関係資料」… …………………………………75
-1-
Ⅰ.研 究 概 要
研究組織
研究目的と成果
研究代表者
1.研究目的の設定
大谷 正(専修大学・文学部・教授)
研究の総括およびメディアと西南戦争情報の
調査
「西南戦争に関する記録の実態調査とその分析・
活用についての研究」 を申請するにあたって、研
究目的を次のように設定した。
研究分担者
すなわち、「西南戦争に関する諸史料が、どこ
新井 勝紘(専修大学・文学部・教授)
にどのような形で保存されているかについて、そ
西南戦争従軍者の手紙と日誌の調査
の全容を明らかにするとともに、このプロジェク
小川原正道(慶應義塾大学・法学部・准教授)
トで蒐集された諸史料が、これまでの西南戦争研
究に如何なる新見地を提供できるのか検討し、そ
西南戦争に関する地域資料の調査
落合 弘樹(明治大学・文学部・教授)
のなかから重要かつ緊要な史料を選び出して、翻
明治大学博物館所蔵・延岡藩内藤家文書の調
刻・出版できる条件を検討する」 ことにある、と
査
目標を設定し、具体的には、次の 2 点を意識しつ
勝田 政治(国士舘大学・文学部・教授)
つプロジェクトを進めるとした。
先ず第 1 に、西南戦争関係史料として次のよう
国会図書館・防衛研修所図書館および国立公
な史料を調査する。
文書館所蔵史料の調査
佐々 博雄(国士舘大学・文学部・教授)
①鹿児島の私学校軍および党薩諸隊、さらに九
州以外の各地の西郷方に組みせんとした士族
熊本丁丑会関係資料の調査
三澤 純(熊本大学・文学部・准教授)
の動向に関する史料の調査。
②政府軍関係史料の調査。
地域史料および民衆史料の調査
③官薩を問わず従軍した兵士の日誌・書簡の調
研究協力者
査。
猪飼 隆明(大阪大学名誉教授)
④指揮官クラスの個人史料の調査。
岩壁 義光(東京外国語大学アジアアフリカ言語
⑤主要な戦場となって多くの被害を出した熊本
県と宮崎県の民衆動向に関する史料。
文化研究所研究員)
友田 昌宏(中央大学文学部兼任講師
⑥新聞雑誌の戦争報道に関する調査。
さらに、以上のような膨大な史料を調査蒐集し
現 町田市立自由民権資料館学芸担当)
長野 浩典(大分県東明高校教員)
た上で分析を行い、これらがこれまでの西南戦争
堀内 暢行(国士舘大学大学院文学研究科博士後
研究に如何なる新見地を提供できるのかを検討す
期課程)
る。そして、その膨大な史料群のなかから、研究
の進展にとってとくに重要かつ緊要な史料を選び
出し、翻刻出版できる条件を作ることが、今ひと
つの重要課題である。
上記のような西南戦争関係の記録の実態調査と
記録の分析・活用の方向性を検討することで、調
査をおこなった史料群を近代史研究者の共有財産
とし、西南戦争研究を新たな視角から始めるため
の基礎条件の形勢を確立することができるし、そ
れが必要であると考えられるようになった。この
理由は、次に述べる西南戦争の研究状況の現状が
-5-
Ⅰ.研 究 概 要
ある。つまり、西南戦争の歴史研究は長い研究史
り本格的戦史作成のための綱要と位置づけられた。
を持ち、戦後にも一度研究のピークがありながら
この後、陸軍と海軍からそれぞれ、『征西戦記稿』
も、その後長い間研究が停滞していた。それが近
年、小川原正道と猪飼隆明の両氏によってほぼ同
(参謀本部陸軍部編纂課編、陸軍文庫、1887 年 5
月、65 巻および付録)と『明治十年西南征討志』
時に西南戦争の研究書が発表されることにより、 (海軍省編、1885 年 9 月、全 4 冊)が刊行された。
研究に新たな進展が期待され、そのための未開拓
これらの著作は、陸軍と海軍の公式戦史というべ
の膨大な資料調査の必要性が理解されるようにな
き大部なもので、政府軍を官軍、薩摩軍・党薩諸
ったのである。
隊を賊軍と称し、政府の立場を代弁している。も
ちろんこれらの陸軍・海軍の公式戦史を作成する
2.西南戦争研究史と史料史について
資料として、現在防衛省防衛研修所戦史部図書館
に所蔵されている西南戦争関係資料(陸軍大日記
言うまでもなく西南戦争とは、1877(明治 10)
に含まれる、膨大な量の当時の原資料や各旅団・
年の 2 月より 9 月までの 7 ヶ月間余の期間、九州
大隊・中隊の記録)があったことは言うまでもな
地域、とくに熊本県、大分県、宮崎県、鹿児島県
い。
を舞台として、私学校党を中心とする薩摩軍とそ
各旅団単位の西南戦争戦闘記録が陸軍大日記中
れに協力する各地の党薩隊が、政府軍と戦いを交
に含まれているが(例えば「出征第一旅団戦記」
え、双方に多大な犠牲を出した激戦の末に薩摩軍
など)、毛筆で書かれた未定稿である。安藤定編
『別働第二旅団戦記』(発行所不明、1887 年、全 8
が敗北した、近代日本最後の内戦である。
西南戦争に関しては近年、小川原正道『西南戦
巻、4 分冊)と旧別働第三旅団参謀部編『西南戦
争 ― 西 郷 隆 盛 と 日 本 最 後 の 内 戦 』( 中 公 新 書、
闘日注』(畏三堂、1887 年、上下巻付録で 800 頁
2007 年)と猪飼隆明『西南戦争 ― 戦争の大義と
を超える、別働第三旅団は警視隊を編成)が刊行
動員される民衆』(吉川弘文館、2008 年)の 2 冊
されたのは例外的な事例である。
の力作が刊行されて、最新の研究水準を知ること
なお陸海軍による公刊戦史と並んで、明治政
が可能となった。なにしろ「西南戦争」と銘打っ
府・太政官の一部局である修史館(1872 年・太
て、歴史研究者が著した研究書、単著が刊行され
政官正院歴史課 → 1875 年・修史局 → 1877 年・修
たのは、半世紀以上も前の、圭室諦成『西南戦
史館 → 1886 年・内閣臨時修史局と変遷、1888 年
争』
(至文堂、1958 年)が最後であるから、それ
帝国大学文科大学に移管され、今日の東京大学史
以後の研究と資料発掘の進展については、小川
料編纂所に)では、六国史に続く正史編纂ともに、
原・猪飼両氏の著書を読み、とりわけ巻末の参考
「復古記」・「明治史要」 のような同時代史を編纂
文献一覧と資料一覧を凝視することで理解できる
していたが、その一環として、西南戦争翌年の
ようになったのである。
1878 年 よ り 「 征 西 始 末 」 の 編 纂 が 開 始 さ れ、
西南戦争の研究史・資料史を簡潔に紹介し、そ
1880 年から 1884・1885 年の間に最終稿本が完成
のなかで西南戦争の歴史的位置づけがどのように
したが、結局は刊行されずに終わった(松沢裕作
変化してきたのかを検討したい。
「明治太政官における歴史記述の模索 ― 修史館編
西南戦争に関して政府側が刊行した最初の文献
「征西始末」 をめぐって―」『東京大学史料編纂所
が、
『明治十年征討軍団記事』(参謀本部編、1880
研究紀要』第 21 号、2011 年所収)。これ以後、近
年)である。その凡例に、「此編ハ薩賊ノ謀反ノ
代日本では戦争の歴史は政府による総合的な歴史
濫觴ヨリ其平定ニ至ルマデノ要領、即チ軍団本営
編纂物ではなく、直接に戦闘を担当した陸軍と海
ヨリ指揮セル部署方略及ヒ交戦ノ梗概ヲ記シ、以
軍の部局史として、陸戦史と海戦史がそれぞれ別
テ征戦記編纂ノ大綱ト為ス者ナレハ専ラ簡明ヲ主
個に相互の関係なく編纂され、差し支えのない部
トス」とあるように、『征討軍団記事』はこの後
分が公刊戦史として刊行されるようになった。
に予定されていた「鹿児島賊徒征討戦記」、つま
-6-
政府軍側の西南戦史刊行に対抗するように、薩
摩軍と党薩隊に共感する立場からの西南戦争研究
法体制への転換を契機として変化し、西南戦争は
として、明治も末年に『西南記伝』(黒竜会編、
戦前と違った文脈の中で語られるようになった。
黒竜会本部出版、1909 年~1911 年)が出版された。
明治維新研究のリーダーであった遠山茂樹は『明
全 6 冊という大冊である。黒龍会の創設者である
治維新』(岩波全書、1951 年、その後岩波書店の
内田良平の肝いりで、1910 年の韓国併合との関
同時代ライブラリー、岩波現代文庫に収録)の中
連を意識しつつ刊行された。その内容は、彼らが
で、西南戦争を明治維新の終わり、士族反乱・士
理想とし、主張したが、日本政府側の「日韓併
族民権から豪農民権への転換点として再評価した。
合」によって挫折した「日韓合邦」論の起源と正
この観点は定説化して各種の辞書で、この観点か
統性を西郷隆盛に求めるという主張を展開したも
ら西南戦争が説明されるようになった。
のである。西郷をはじめとする在野の志士の進取
もう一つの大きな変化は、地域資料の発掘によ
主義と有司専制の藩閥政府側の退嬰主義とが対立
って西南戦争と地域という論点が登場したことで
した第一段階の「征韓論争」・明治 6 年政変と、
ある。先に紹介した圭室諦成の著書は戦場となっ
第二段階の「士族反乱」とそれらが西南戦争に至
た熊本地域の資料を発掘し、地域と西南戦争とい
る過程を、これらの政治運動に参加した在野の志
う観点を先取りしたものであった。やや時代は下
士たちの行動に焦点を当てながら描こうとしたも
るが、『鹿児島県史料・西南戦争』全 4 巻(鹿児
ので、それ故に書名が「記伝」となっている。た
島県歴史資料センター黎明館、1978 年から 1980
だし『西南記伝』の実質的著者である川崎三郎
年に 3 冊発行、第 4 冊は 20 年後の 2000 年発行)は
(号は紫山)は、すでに『征西戦記稿』が刊行さ
西南戦争に関する中央と地域の資料を収集・編集
れた直後の 1888 年に、博文館の依頼を受けて『西
し、その後の研究の基礎となった。
南戦史』全 12 巻を執筆刊行した。その中で水戸
最近の小川原正道と猪飼隆明の著作は、以上の
出身の川崎は、「進取」と「退嬰」とを対比して
ような戦前と戦後の研究状況をふまえながら、さ
政治過程を描くアイディアを、水戸の先輩である
らに徹底的に中央と地域の資料を博捜している。
著名な会沢安(正志斎)の著作『新論』に借りた。
このような地道で時間を要する資料調査を背景に
博文館版『西南戦史』にはすでに『西南記伝』の
して、小川原は従来よりさらに具体的に西南戦争
基本的な構図が表れているが、これを『西南記
の全過程を叙述し、猪飼は熊本地域の民衆の西南
伝』にまで拡大していくためには、膨大な資料調
戦争体験を豊かな地域資料で描くと共に、中央の
査のための時間と内田良平につながる人脈へのイ
資料への目配りも見事な作品を著した。
近年の資料発掘の特徴の一つは、戦争を体験し
ンタビューや協力依頼が必要であったとおもわれ
る。川崎自身も「日韓合邦」運動の渦中で活動し、
た個人の日記のレベルまで調査を進め、読み解く
一進会の 1909 年の「韓日合邦建議書」の起草に
ことによって、戦争の実相と人々の戦場体験を明
も参加している。
らかにしようとするもので、そのために戦争に参
このように政府側とそれに対抗する側の西南戦
争史が明治期に登場し、しかもそのどちらもが、
加した兵士達の戦場体験がわかる手紙や日記の復
刻、資料紹介が相継いでいる。
明確にそれぞれの党派的立場に立ちながらも、豊
従軍日誌の復刻・紹介例は薩摩軍・党薩隊関係
富な資料を閲覧・利用し、かつ叙述に使用する資
者の日記が比較的多い。前記『鹿児島県史料・西
料選択も的確であったので、『征西戦記稿』・『明
南戦争』や西郷南洲顕彰会が発行する『敬天愛
治十年西南征討志』・『西南記伝』の示す西南戦争
人』に興味深い薩摩軍・党薩隊関係者の従軍日記
像が、それぞれが矛盾するところがあるにも拘わ
が掲載されている。熊本隊関係では、古閑俊雄
らず、長く人々の西南戦争理解を規定してきた。
『戦袍日記』と佐々友房『戦袍日記』が熊本の地
このような状態は日本のアジア・太平洋戦争敗
元出版社から復刻されており(青潮社、それぞれ
戦と朝鮮をはじめとする 「大日本帝国」 の植民地
1986 年と 1987 年復刻)、また甲斐利雄編纂・猪飼
の独立、そして大日本帝国憲法体制から日本国憲
隆明監修・解題によって安藤経俊日記が『一神官
-7-
Ⅰ.研 究 概 要
の西南戦争従軍記 ― 熊本隊士安藤経俊「戦争概
各研究分担者が担当し、あるいはゲスト研究者
畧晴雨日誌」
』(熊本出版文化会館、2007 年)と
を招いて実施した研究報告は以下の通りである。
して刊行された。
①新井 勝紘(専修大学文学部教授)
薩摩軍・党薩隊の従軍日誌に比べると政府軍側
「西南戦争と竹橋事件 ― 兵士の従軍日記を中
の従軍日誌は数が少ない。戦争の翌年に、政府軍
心に」
第一旅団会計部長川口武定の『征従日記』が、第
一旅団長であった陸軍少将野津鎮雄の序文を得て
②落合 弘樹(明治大学文学部教授)
刊行された。この日記の特徴は第一旅団のみなら
「西南戦争と延岡」
ず、政府軍全般の兵站補給に関する貴重な情報を
③大谷 正(専修大学文学部教授)
提供していることで、一方で丁寧なスケッチが多
「2009 年度・2010 年度資料調査の実績につい
て」
数収められており、戦場の実相を知ることのでき
る貴重な資料である。1978 年に熊本市教育委員
④友田 昌宏(中央大学文学部兼任講師)
会が、1988 年には熊本の地元出版社青潮社が復
「岩倉具視と西南戦争」
刻している。この他、1931 年には陸軍少将亀岡
⑤松澤 裕作(専修大学経済学部准教授)
泰辰による『西南戦袍誌』が陸軍将校の親睦団体
「明治太政官における歴史記述の模索 ― 修史
館編「征西始末」 をめぐって」
である偕行社から出版された。亀岡は西南戦争当
時は陸軍少尉で、第三旅団参謀部のスタッフ(伝
⑥小川原正道(慶應大学法学部准教授)
令使)として従軍した折の日誌である。政府軍兵
「西南戦争における久留米支庁の役割につい
て-福岡県立図書館所蔵電報から」 士の日誌としては、元川越藩士で警視庁巡査であ
った喜多平四郎の従軍日記が、佐々木克監修・喜
⑦大谷 正(専修大学文学部教授)
多平四郎著『征西従軍日誌 ― 一巡査の西南戦争』
「仙台地域の西南戦争資料 ― 公文書・新聞・
その他」
(講談社学術文庫、2001 年)として出版されてお
り、喜多の日記は熊本城籠城から鹿児島・宮崎へ
⑧佐々 博雄(国士舘大学文学部教授)
の転戦を記録したユニークな資料である。大谷が
「熊本丁丑会と関係資料について」
紹介した 「資料紹介・碓井福太郎『鹿児島征討日
記』―西南戦争に従軍した政府軍兵士の日記―」
また、科研メンバーが参加して実施した調査は
(
『専修人文論集』第 88 号・89 号、2011 年 3 月・6
下記の通りであり、必要な資料についてはコピー
月)は、政府軍の第一旅団所属の一般兵士の従軍
あるいは写真撮影を行った。デジタル化したデー
日記で、田原坂の戦闘から最後の城山の戦闘まで
タについては外付けハードディスクに記憶して各
を、実戦に参加した兵士の視点から描いている。
自が保管し、資料の共有化を図った。なお、この
資料調査及び資料の内容については、本文編の個
3.研究成果の概要
別資料紹介を参照していただきたい。
【北海道】
札幌市琴似屯田兵歴史資料室
3 年間の研究期間において、年度毎に各 3 回の
北海道立図書館北方資料室:
『西南公文録』
・
『黎
研究会議を実施し(3 ヵ年度で合計 9 回実施)、調
明館(北海道)文献』等
査計画の策定と調査の成果の確認をおこなうとと
もに、各研究分担者の研究の進展状況を報告し、
北海道立文書館:旧開拓使関係文書
調査結果の共有を図った。また出来る限り、各研
北海道大学付属図書館北方資料室:白石家文書
等
究分担者が担当し、あるいはゲスト研究者を招い
伊達市開拓記念館
て、研究報告と議論をおこなった。原則として研
究会は公開し、メンバー以外の研究者の参加を求
【山形県】
鶴岡市立図書館郷土資料室
め、議論の深化を計った。
-8-
年度別研究・調査概要
致道博物館
酒田市南州神社資料室
平成21年度(2009年度)
【宮城県】
研究・調査概要
宮城県立公文書館:宮城県庁文書中の西南戦争
関係資料
仙台市立歴史民俗資料館:河田安照文書
① 7/19
宮城県図書館:『仙台新聞』等
・第 1 回研究会議 専修大学神田校舎 774 教室
【東京都】
にて。
明治大学博物館:内藤家文書
・研究報告 新井勝紘氏(専修大学文学部教授)
宮内庁書陵部:西南戦争関係資料小展示会
「西南戦争と竹橋事件 ― 兵士の従軍日記を中
国文学研究資料館:愛知県庁文書・群馬県庁文
書・岡谷繁実文書
心に」
② 11/28
東京都公文書館:東京府公文書中の西南戦争関
・第 2 回研究会議 明治大学研究棟 2 階第 8 会
係資料
議室にて。
【京都府】
・明治大学博物館所蔵内藤家文書(譜代大名・
京都府立総合資料館:本多辰次郎(宮内省臨時
日向延岡藩)調査
帝室編集局御用掛として明治天皇紀編纂に従
・研究報告 落合弘樹氏(明治大学文学部教授)
事)文書および京都府行政文書中の西南戦争
関係資料
「西南戦争と延岡」
③ 3/22-25
【福岡県】
・資料調査。熊本県阿蘇地域・大分県竹田市・
福岡県立図書館郷土資料室:旧福岡県史編纂資
大分県公文書館および宮崎県文書センターを
料中の西南戦争関係資料
調査。
【長崎県】
・第 3 回研究会議 大分県別府市・旅館晴海会
長崎県立歴史文化博物館:旧長崎県立図書館郷
議室にて。大分県教育委員会高橋信哉氏より、
土資料中の西南戦争関係資料
大分県佐伯市南部の大野峠周辺に残る、西南
【熊本県】
戦争時の官薩両軍の構築した塹壕遺跡につい
熊本県立図書館
て説明を受け、現地調査を実施した。
【大分県】
④ 12/3-12/5
大分県立公文書館
・山形県下の鶴岡市立図書館郷土資料室・致道
大分県立先哲資料館
博物館・酒田市南州神社資料室を調査。
【宮崎県】
平成22年度(2010年度)
宮崎県文書センター:宮崎県庁古公文書中の西
研究・調査概要
南戦争関係資料
【鹿児島県】
鹿児島県立黎明館
① 7/23
・資料調査。宮内庁書陵部にて、同施設所蔵の
西南戦争関係資料小展示会を参観。岩壁義光
氏(宮内庁書陵部編修課長)より資料の解説
をうける。
・第 1 回研究会議 専修大学神田校舎 764 教室
にて。
② 8/31-9/2
-9-
Ⅰ.研 究 概 要
館(伊達市館山町 21-5)の調査。
・北海道地域の資料調査を実施、下記の施設を
③ 10/22
調査する。
・第 2 回研究会議 専修大学神田校舎 773 教室
札幌市琴似屯田歴史資料室・琴似神社
にて。
北 海 道 立 図 書 館 北 方 資 料 室 『 西 南公文
・研究報告 小川原正道氏(慶應大学法学部准
録』
・
『黎明館(北海道)文献』
北海道立文書館
教授)「西南戦争における久留米支庁の役割
北海道大学図書館北方資料室
について-福岡県立図書館所蔵電報から」 ・大谷正氏(専修大学文学部教授)「仙台地域
・当初予定の亘理伊達家関係資料(伊達市)は
の西南戦争資料-公文書・新聞・その他」
刊行作業中のため閲覧不可。
④ 11/11-11/13
③ 9/8-9/10
・福岡・長崎調査。福岡県立図書館郷土資料室
・宮崎県文書センターにて資料の撮影、全体の
所蔵 「旧福岡県史編纂資料」 を閲覧・撮影、
2/3 程度完了。
つづいて長崎県立歴史文化博物館所蔵 「旧長
④ 10/8・11/4
崎県立図書館郷土資料」 の調査と撮影を行っ
・東京都立川市の国文学研究資料館にて、愛知
た。
県庁文書・群馬県庁文書・岡谷繁実文書を調
⑤ 2/23
査・撮影。
・第 3 回研究会議 専修大学神田校舎 764 教室
⑤ 11/12
にて。
・第 2 回研究会議 東京都公文書館特別閲覧室
・研究報告 佐々博雄氏(国士舘大学文学部教
にて。
授)「熊本丁丑会と関係資料について」
・東京都公文書館所蔵東京府公文書中の西南戦
⑥ 3/20-21
争関係文書調査をおこなう。
・研究報告 大谷正氏(専修大学文学部教授)
「2009 年度・2010 年度資料調査の実績につい
・京都府立総合資料館調査。本多辰次郎(宮内
省臨時帝室編集局御用掛として明治天皇紀編
纂に従事)文書および京都府行政文書中の西
て」
南戦争関係資料の調査を行う。
⑥ 2011/2/26
・第 3 回研究会議 専修大学神田校舎 774 教室
にて。
・研究報告 友田昌宏氏(中央大学文学部兼任
講師)「岩倉具視と西南戦争」
平成23年度(2011年度)
研究・調査概要
① 2011/5/28
・第 1 回研究会議 専修大学神田校舎 773 教室
にて。
・研究報告 松澤裕作氏(専修大学経済学部准
教授)「明治太政官における歴史記述の模索
-修史館編 「征西始末」 をめぐって」
② 9/30-10/2
・北海道調査、北海道立文書館にて開拓使関係
資料の調査・写真撮影および伊達市開拓記念
- 10 -
Ⅱ.本 文 編
西南戦争における長崎の位置とその史料
猪 飼 隆 明(大阪大学名誉教授)
はじめに
元)年のことである。ワシントンからボルチモア
までの間に電信線を架設し、始めて通信したので
かつて長崎県立図書館に所蔵されていた古文書
ある。その電信機は、早くも東インド艦隊司令長
の多くは、長崎歴史文化博物館に移管されたが、
官ペリーの 2 度目の来航(1854 年 2 月)のおりの、
西南戦争関係の資料も、その移管史料に含まれて
アメリカ大統領から将軍家定への献上品として、
いる。筆者は、その史料中の主たるものを調査し
蒸気機関車の模型などとともにもたらされた。川
複写していたが、今回改めて、本科研費による調
本幸民の『遠西奇器述』には「伝信機」と書かれ
査として、全面的な調査をおこなった。収集資料
ているが、米使の「献上品目録」には「雷電伝信
の全面的分析はこれからの仕事であるが、これら
機」と記載され(もちろん翻訳され)ていたとい
の史料の特質を明らかにするための、基礎的検討
う。この名称表現は公私ともどもまちまちであっ
をここではおこなっておきたい。
たが、「伝信」と書かれる時期が長く続いたとい
西南戦争において長崎がどのような役割を果た
したのかについて考えておきたい。
われる(石井研堂「明治事物起原」『明治文化全
集』別刊)。ペリーは、電信技士を伴ってきてい
まず最初に指摘できることは、長崎が、戦地で
たが、神奈川村の談判所と名主中山吉右衛門宅と
ある九州と中央政府・東京・大阪・京都を結ぶ情
の間に 250 メートルの銅線を架設して、エムボッ
報の結節点にあるということである。
シングモールス電信機のデモンストレーションを
第 2 は、政府の軍隊(警察隊をも含め)の戦地
行っている。
への投入の一つの拠点であることである。一つの
その後、オランダからも 2 台の電信機が寄贈さ
と言ったのは、大阪あるいは神戸から瀬戸内海を
れたり、第 1 回のオランダ留学生の榎本武揚がオ
船で運ばれた兵員は、門司から小倉に到着、ここ
ランダで通信技術を学び、2 台の電信機を注文し
で改めて編成されて、南関へそして熊本あるいは
て帰国するといったことがあったが、日本におい
その他の戦地に送られる、というルートが戦争開
て最初に電信が開通したのは 1869(明治 2)年の
始時から存在しているからである。
ことである。
第 3 は、兵員のみではなく、兵器その他の物資
すなわち、外国官の寺島宗則が英国人ブラント
の集散地として位置づけられたということである。
ンに依頼して、英国人技師ジョージ・マイルス・
第 4 は、九州臨時裁判所が置かれ、捕縛した
ギルバートを雇い、同人と諸器械が 1869 年 8 月 9
「賊徒」の裁判の多くがここで行われたというこ
日に到着したので、横浜弁天の灯明台官舎から本
とである。
町通り裁判所(現在の県庁にあたる)に至る距離
本稿では、これらのうち第 1 と第 4 について検
討してみたい。
7 町の間に架線して、初めて実用に供した。これ
は 6 月のことと思われ、官用に供された最初で、
一般の公衆通信は、同年 9 月 19 日から東京築地運
1.情報の結節点としての長崎
上所・横浜裁判所間の電信線架設工事が開始され
12月25日より開通の運びに至った。
「東京府布令」
(1)電信機の設置
第 13 号は、その日から、毎日朝 8 時から夕 8 時ま
周知のように、世界における電信機の発明はア
で、東京は鉄砲洲運上所門右側之伝信局で、横浜
メリカ人のモールスによるもので、1844(弘化
は裁判所東角の伝信局で取扱うから、「急速用向
- 13 -
Ⅱ.本 文 編
申通」したいものは、事柄をなるべく「簡易」に
と島が捕縛され 4 月 13 日午前 5 時佐賀城内の臨時
仮名書きで書いてくるように、値段は、「一字に
裁判所で裁判にかけられ死刑の判決をうけ、大久
付価銀壹分づゝの割合」と通達している。
保利通が佐賀局から正院宛に「タヾイマ ゾクク
その後、1871(明治 4)年 6 月には長崎 ― 上海
ワイ シマ エトウ … ザンザイ シヨケイ 間、11 月には長崎 ― ウラジオストク間に、海底
アイスム コノダン オントヽケモヲス イサイ
線が開通した。海底線は 1851 年のイギリスのド
ハ ミヨヲニチ イチニン サシダスベシ(只今、
ーヴァーとフランスとの間に開設されたのが世界
賊魁島・江藤…斬罪処刑相済ム。此段御届申ス。
最初であったが、わずか 20 年の間にここまで急
委細ハ明日一人差出スベシ)」と打電したのは午
速に進んだのである。上記の上海には、デンマー
前 9 時 20 分のことで、着信は「午後五時廿五分」
クの大北電信会社がヨーロッパからの海底電線を
である。電信で発信から着信まで 8 時間余もかか
開通していたから、ヨーロッパの情報は上海を経
っているのはどうしてか分からないが、佐賀局か
由して長崎まで届けられた。この長崎から東京へ
ら長崎局を経由して送られることから、この中継
の情報の伝達は、7、8 日かかって郵送された。
に時間を要したのではないか、またことの重大さ
東京―長崎間の電信線の設置が求められ 1871 年
から、その吟味に時間を要したのかもしれない。
から工事がおこなわれ、1873 年 4 月 29 日に開通
この佐賀の乱の当時、熊本にはまだ電信局は設
置されていなかったが、同年 8 月 4 日付で、工部
したのである。
こうして、長崎を起点に、国内では東京と、国
卿伊藤博文から白川県権令安岡良亮に宛てて、
外では上海・ウラジオストクが結ばれたのである。 「今般肥後国熊本ヘ電信局建設ニ付線路三潴県ヨ
ついで、10 月 1 日に小倉・福岡・佐賀の各電信
リ中原駅ヲ経、肥前国佐賀県電信局ニ渉リ架線相
局が開局し電信線で結ばれたのである。この 2 週
成候、付而ハ不日電信寮官員其県々ヘ出張候間、
間後の 10 月 23 日に征韓論争は破裂し、西郷隆盛
打合有之候ハゞ差支無之様取計可申此段相達候
や江藤新平らが下野、翌 1874(明治 7)年 1 月 17
也」との「達」がだされ、いよいよ熊本にも電信
日に板垣退助らが民撰議院設立建白書を政府の左
局が置かれる手筈となった。そして、11 月、電
院に提出して拒まれ、「日新真事誌」(2 月 3 日付)
信局は熊本城の西に隣接する新町 1 丁目札の辻の
に公表されるのだが、この建白書に名を連ねた江
「町端広キ元高札場、床ニ而従来無税官有地」敷
藤新平を頭にいただいた征韓党と島義勇を頭とす
地 40 坪(現熊本 YMCA の敷地内)に建てられる
る憂国党が反乱する。この佐賀の乱で電信はその
ことになった。
威力を発揮するのである。つまり憂国党が 2 月 1
こうして 1875(明治 8)年 3 月佐賀から久留米
日、この建白書に名を連ねた江藤新平を頭にいた
を経て熊本に至る電信線が完成して、3 月 20 日熊
だいた征韓党と島義勇を頭とする憂国党が反乱す
本電信局は開局、ついで 7 月 1 日に久留米電信局
る。この佐賀の乱で電信はその威力を発揮するの
が開局した。
である。つまり憂国党が 2 月 1 日、佐賀県の官金
その 1 年半後の 1876(明治 9)年 10 月 24 日の夜
取扱会社小野組出張所に無理な金談を迫る事件が
更け、神風連あるいは敬神党とよばれる一団 170
起きた。この事件が翌 2 月 2 日午前 8 時に「佐賀
名が、この熊本電信局の北にある藤崎八幡宮に集
県奸賊、寺ニ集マリ征韓論ヲ盛ニ唱エ日々ニ勢イ、
結、参拝して出陣を報告後、3 隊に分かれ、第一
昨夜小野組ニ迫リ手代残ラズ逃ゲ去リタリ」との
隊は要人襲撃、第二隊は砲兵営襲撃、第三隊は歩
史官宛の電報が、政府には、士族の暴発と判断さ
兵営襲撃をそれぞれ敢行した(神風連の乱)。要
れ、4 日には、熊本鎮台に対して、出兵して、県
人襲撃では、鎮台司令長官種田政明、参謀長高島
官と協議の上速やかに鎮圧すべきことを達した。
重徳が殺され、県令安岡良亮は重傷を負いやがて
2 月 15 日に熊本鎮台兵が佐賀城の佐賀県庁に入り、 (27 日)死亡した。熊本県民会議長大田黒惟信も
翌日それを征韓・憂国両党が攻撃、ここに戦闘が
襲撃されたが、危うく難を逃れた。このとき種田
開始され 3 月 1 日戦闘は終わった。逃亡した江藤
少将は愛妾小勝を抱いて眠っていたところを襲わ
- 14 -
西南戦争における長崎の位置とその史料
れたのである。小勝の目の前で種田は殺されたの
から、さきの種田少将の妾小勝は、11 月 1 日に先
であるが、小勝は、東京の両親に宛てて、
の電報を打ったのである。この事実を 11 月 4 日付
の「仮名読新聞」が報じて、名文電報として世に
知られたのである。
ダンナワイケナイ ワタシワテキズ
復旧した電信を通じて、熊本県は近隣の福岡・
と電報を打ったとは、有名な話である。しかし
大分・鹿児島各県に、遁走した反乱士族が「御管
この電報は、事件直後に打たれたものではない。
下潜伏ハカリ難キニツキ、至急手配リ捕縛」して
熊本電信局は、このとき襲撃され、機械は破壊さ
ほしいと正院・内務卿宛に打電し、警視庁・警察
れたからである。『熊本県政資料』(事変神風党)
出張所あるいは関係諸県との間で電報のやり取り
は、次のように記録している。
が頻繁になされるのである。(大塚虎之助『日本
電信情報史 極秘電報に見る戦争と平和』熊本出
廿六日、是より先本月(10 月…引用者)廿
版文化会館 2002 年)
四日夜、兇徒電信局を襲ひ、器械を毀つ。因
ところで、逓信省電務局編纂『帝国大日本電信
て副器を装置す。装置已に成る。乃暴動の梗
沿革史』(1892 年)は、次のように述べている
概を、正院・内務省に上申し、別に急飛を以
(田中信義『カナモジでつづる西南戦争 ― 西南戦
争電報禄 ― 』私家本 1989 年 以下断らない限
て、其原由事実を上申す。
りこれによる)。
これによれば、電信は 26 日には予備機を設置
することで復旧したという。では、事件後政府へ
(明治十年)二月十九日鹿児島賊徒征討ノ令
の通報は、この復旧を待って行われたのかといえ
アリ。是ニ於テ全国私報ノ通信ヲ停ム。是ヨ
ばそうではない。前日、すなわち事件の翌日久留
リ先キ八年一月熊本分局(新町)ヨリ、肥後
米の電信局に人を遣わし、事件を正院・内務省お
国佐敷ヲ経テ薩摩国鹿児島ニ至ル間(凡五十
よび福岡・長崎に報じ、矢張り別に「急飛を以て
里)ニ二線ヲ架シ、一局ヲ置カンコトヲ太政
鹿児島・大分に報じ、一鎮台一小隊を派出し、県
官ニ稟議シ許可ヲ得タリ。然ルニ故アリ、未
庁を護り、印符を勘合して以て庁門の出入を検」
タ起工ニ至ラス、鹿児島賊起ルニ及ヒテ、軍
した。
機ノ急報尽ク電報ニ藉ラサルハナシ。而シテ
熊本分局ハ其要衝ノ地ナルヲ以テ最緊要タリ。
ところで、長久保権中属は南関で変を聞き、か
つ「電線断絶スト聞」き、直ちに久留米電信局に
是日賊兵将ニ熊本ニ侵入セントスルヲ聞キ、
行き、
「本県ニ報知ノ状ヲ問」うも、県報が未だ
仮ニ其局ヲ鎮台営中ニ移シ官信ノ通報ヲ行ヒ
達しないので、熊本電信局に行き、かろうじて逃
新町ノ局ヲ閉ツ。
れ得た電信局官員松村昇一から、次のような報告
これによれば、熊本電信局の開局を前にして、
をうけた。すなわち、熊本電信局から東京および
近隣の数県(小倉・柳川・久留米・山口・長崎・
さらに佐敷を経て鹿児島に至る電信線を 2 本架設
庄内・加賀)に電報を依頼したものがいたが、そ
する計画があり太政官の許可を得ていたのである
の文がすべて暗号であったために、松村はこれを
が、実現しないうちに西南戦争が勃発したこと、
怪しんで打電を保留していたところ、事件が発生
さらにその戦争を前に、新町の電信局を閉鎖して、
し、松村自身の判断で「兵営暴挙アルノ状ヲ報」
熊本城内の鎮台営中に電信局を移したことが分か
じたところに賊の襲来をうけて、器械が破壊され
る。そして、その電信局は 2 月 21 日に「兵燹ニ罹
たのだ、という。これによれば、神風連の側も、
リ電線断絶」したため、四等技手補の清家茂信を
この電信を利用して、各地同志と連絡をしようと
「久留米地方線路の全キ所ニ」機械を装置させ、
していたのである。
「急報ニ備ヘ、官軍戦線進ムに随ヒ電線ヲ引」き
電信復旧後もしばらくは私報を禁じていたこと
伸ばして「急信ヲ便ニ」したのである。
- 15 -
Ⅱ.本 文 編
衝背軍と連絡を取ることに成功し、ついで同月
其局ヲ置ク所ノ地ハ、原町(二月廿三日開、
15日衝背軍の熊本城入城となるのである。そして、
同月廿四日閉 福岡県山門郡…引用者)、南
諸道の官軍はあいついで城下に進んで、17 日官
関(二月廿四日開、四月廿九日閉 熊本県玉
軍本営は城内に置かれることになった。こうして、
名郡)
、木ノ葉(三月十六日開、五月二日閉
この日、久留米から熊本に入る電線を城内に連結
同県同郡)、船熊(三月九日開、同月十六
して、局員は「猶ホ木ノ葉分局ニ在リテ事ヲ執リ、
日閉)等是ナリ。皆工部省直轄ノ局トス。
城内ノ電機ハ姑ク之ヲ軍電ニ委シ、以テ軍用電線
ノ根局ト」したのである。
すなわち、工部省直轄の電信局としては、熊本
そして、4 月 30 日に、熊本分局を仮に出京町に
城攻防戦が終了して、熊本城が開放されるまで、
設けて本線を修理し、官報の通信をおこなったが、
新町の熊本電信局に代わって、福岡県山門郡原町
5 月 21 日にいたって熊本新町の旧分局地に仮局を
ついで南関町に置かれた電信局がその役割を果た
設けて出京町の仮局は閉じた。
新町の仮局が機能しはじめるや、直ちに熊本・
し、その途中で船熊にも 1 週間程度電信局が置か
鹿児島間の架線工事に着手し、6 月 15 日には熊本
れたのである。
仮局から八代までの 12 里 6 町の架線が完了、八代
(2)
「軍電」
に仮局を置いて官報の通信を開始した。さらに 7
もっとも、これだけでは、戦争遂行には役立た
月 3 日には八代・佐敷間の架線が終わり佐敷仮局
(11 月 10 日まで存続)が置かれた。いっぽう戦線
ない。そこで、
は大分から宮崎へと移動しはじめるのに合わせて、
陸軍々団ニ於テ又別ニ電機を設ケ、以テ各旅
6 月 13 日からは小倉分局から豊前中津を経て大分
団軍機ノ伝報ヲナシ、戦捷到処地勢ノ便宜ニ
までの 33 里余の架線工事にも着手し、7 月 28 日
依リ局ヲ置クコト数十、即チ船熊(工部ノ局
小倉分局・大分間の架線竣工、小倉・中津・大分
兼用)
、高瀬、山鹿、小柳,木ノ葉、上木ノ
間が直通して、軍機の急報が可能になった。
葉、七元、南田島、吉冨、妻越、滴水、熊本、
8 月 10 日にはついに佐敷・鹿児島間の 29 里 31
小島、百貫石、隈ノ庄、松橋、宮ノ原、八代、
町に架線竣工して、加治木と鹿児島に仮局が設置
佐敷、人吉、水俣、深渡瀬、二王木、小河内、
された。こうして、鹿児島の情報が伝えられるよ
大口、御船、浜町、馬見原等ナリ。是ヲ軍電
うになるが、軍電も肥後・大隅両道から日向にか
ト称シ、以テ工部省直轄ノ局ト分ツ。
けて陸続と建設され、その数を増やした。横川・
飯野・小林・野尻・紙屋・加治木・田ノ浦・国
とあるように、長崎を起点として張りめぐらされ
府・福山・都城・高岡・宮崎・本庄・佐土原・高
る電信線とは別に、官軍が戦線を移動・拡大して
鍋・都濃・美々津・富高新町・細島・三田井・宮
いくに合わせて、電機を設置し、そこから戦況を
水・船尾・高千穂・新町・八峡・延岡などに次々
報知する、あるいは命令を伝達する電信網を作っ
と仮局が設置されて、「謀攻戦守機宜伝令ノ飛報」
たのである。これを通例の工部省管轄の電信と区
の往復がおこなわれた。
別して「軍電」とよんだのである。「其線ヲ架ス
もちろん、戦線から外れた地においては閉局さ
ルヤ柱杆ハ戦地ニ用ウヘキ樹膠製ノ碍子ヲ備ヘタ
れるところもあったが、9 月 1 日、薩軍が鹿児島
ルモノ、或ハ雑木竹竿ヲ用ヒ、或ハ陶製ノ戸車ヲ
城下に戻り、鹿児島局員は県官とともに長崎に逃
碍子ニ代用シ以テ其不足ヲ補フ等皆臨機ノ処弁ヲ
れたが、一〇等技手藤野景響が殺害された。その
ナセリ」と、苦労を重ねて、軍電網がつくられた
後、官軍が城山に薩軍を囲むに至って、局員は加
のである。
治木に戻り通信に従事、戦争終結直前の 10 月 20
4 月 8 日、熊本城内の鎮台兵 2 大隊は、城を出
日には鹿児島・大分をつなぐ工事が開始され、11
て薩軍の包囲を突破して 1 大隊は川尻にいたり、
月 13 日についに架線が竣工して、九州循環幹線
- 16 -
西南戦争における長崎の位置とその史料
に 300 名余の大斥候隊が鹿児島を発しているが、
が出来上がったのである。
西南戦争開戦以来、軍団が架下線路の総計は
204 里 10 町、およそ 820 キロメートルにおよんだ。
本体は 15 日から 18 日にかけて次々に鹿児島を出
た。
これより先に、政府はつぎつぎに軍隊や警察を
(3)戦況の通報と暗号
九州に送った。2 月 10 日 9 時 20 分、東京大警視は
日本橋局から長崎河内書記官に宛てて、長崎局着
西南戦争の勃発にかかわる最初の情報は、私学
信で、「綿貫少警視、巡査二百名を率いて、其県
校生徒による弾薬庫襲撃事件についてである。こ
へ今日出帆す」と打ち、小倉の乃木希典少佐は、
れは海陸軍が密に兵器弾薬の搬出を謀ったのを知
同日午前 9 時 45 分に、小倉局から同じく長崎河
った私学校生徒 20 数人が、1 月 29 日の夜草牟田
内書記官に宛てて「部下一中隊百八十人余御地
の火薬庫を襲ったのを契機に、2 月 2 日の夜にか
へ遣わす。程良き寺を、陣屋の支度、賄の請負
けて連夜、草牟田の火薬庫・磯集成館銃砲製作
人、取調置き下されたく、此段願う」と打電し
所・阪本上之原火薬庫などを襲撃した事件である
ている。そして、12 日、長崎県令は大久保内務
が、これが、2 月 5 日に熊本の電信局(新町)か
卿に宛てて、
ら
カワムラタユウソノタノデンポウニヨレバ イチゲツサンジユウイチジツホンゲツイチジ
カゴシマスデニソムキタルケイセキアラハレ
ツカゴシマケンニアルカイリクグンシヨウノ
タリ スミヤカニタイグンヲダシ イツハク
タマクスリゴウダツノフウブンアリ(一月三
マモトチンダイヲタスケ イツハトウコウヲ
十日、三十一日、本月一日、鹿児島県に在る
マモリ イツハカゴシマヲツクヲキウムトオ
海陸軍省の玉薬強奪の風聞あり)
モフナリ(河村大輔その他の電報によれば、
鹿児島既に背きたる形跡現はれたり、速やか
と、京都西京行在所に打電されたのである。着信
に大軍を出し、一は熊本鎮台を助け、一は当
は 2 月 6 日である。電文は、このように分かち書
港を守り、一は鹿児島を衝くを急務と思ふな
きされずに、かつ現在のように濁点に 2 字分を占
り)
めさせることも、促音を示すこともなくカタカナ
が連続で打たれる。これを着信局で技術者が現代
と、いよいよ切迫する。2 月 15 日午後 6 時 15 分熊
の仮名交じり文に変えるのである。この電報をう
本発(熊本矢矧正次)の福岡着信(岡村二等警部
けて、ただちに川村純義中将と林友幸内務少輔を
宛)の電信は、
高尾丸で鹿児島に向わせ、9 日に高尾丸は鹿児島
港に入った。川村らは西郷と話し合うことを期待
クマモトケンノタンテイニハ コクキヨノヘ
していたが、大山綱良鹿児島県令を船上に迎える
イハヒキアケ カゴシマニマトメ ホンジツ
ことができただけで、西郷等の動きを抑えること
リクヘイ ミテニワカレシパツシ カイヘイ
はもはや不可能とみて、上陸を断念して帰途につ
ハスグニヲウサカヘイクヨシ イサイハイユ
いたが、折悪しく強風にあおられ、備後の糸崎に
ウビンニテ(熊本県の探偵には、国境の兵は
着いたのが 12 日、そこから尾道に秘書を送り、
引揚げ、鹿児島にまとめ、本日陸兵、三手に
尾道の電信局から熊本鎮台に警備を厳にするよう
分かれ出発し、海兵はすぐに大阪へ行く由、
に打電し、内務卿大久保利通・陸軍少将大山巌・
委細は郵便にて)
海軍中将中牟田倉之助にあてて情報を伝えた。そ
して、その日のうちに神戸港に入港して山県有
との探偵の報告を伝える。もっとも最後の「海
朋・伊藤博文両参議に面会して対策を協議した。
兵」云々は誤認識である。そして、翌日 16 日午
薩軍の進発は 2 月 15 日のことである。その前日
後 4 時 35 分の熊本局(富岡権令)の福岡局(渡辺
- 17 -
Ⅱ.本 文 編
エコメノシラケヲ モウシツケルトイウ
県令)宛の「至急官報」に初めて暗号が用いられ
る。
帰る道筋大口辺まで 人民
換字式暗号表
へ米のしらけを 申しつけるという
上段 暗字
下段 実字
ワ ロ レル
ア イ ウエ
ラ ヨ ユ ヤモ
カ キ ク ケコ
メ ム ミ マホ
サ シ ス セソ
ヘ フ ヒ ハノ
タ チ ツ テト
子 ヌ ニ ナト
ナ ニ ヌ ネノ
テ ツ チ タソ
ハ ヒ フ ヘホ
セ ス シ サコ
マ ミ ム メモ
ケ ク キ
ヤ ユ ヨ
カ ヲ エ ウイ
ラ リ ル レロ
ア リ ン
ワ ヲ ン
ところで、田原坂のたたかいのさなかの 3 月 8
日、参議伊藤博文は福岡県令に、電文にて「諸県
より探偵人多人数入り込み、虚実にかかわらず戦
争の模様を通信するにつき、以来は右にかかわる
伝報は、征討総督または県令の検査済みの印なき
ものは通信差し止むる段、電信局に命じたり。よ
つて諸方の探偵者より通信するときは、その県に
これは、内務省用の「換字式暗号」とよばれる
て虚実をただし、通信局に対し、事実の印を与え、
送信せしむべし」との指令を行い、福岡県令は
もので、その電信は、次のとおりである。
「諸県探偵人、戦争の模様通信につき、虚実検査
ノレヤンムクンメ メエムレヌムヒベクヌハ
の儀、御達示の旨承知す」と返電している。そし
ラモムセキヲラルヲヘエコトワヲ
てこの日、「電信検査例」が示された。すなわち
トウケンジユンサ サルジウニジツダチニテ
次の如くである。
カゴシマヨリカエリタルモノアリ
電信真偽検査例
当県巡査 去る十三日発ちにて
一 諸県探偵人戦争ノ模様ヲ通知スル際、検査
鹿児島より帰りたる者あり
ヲ乞出タル時ハ兼テ総督本営ヨリ通知シ来レ
ル原文ニ引合セ、事実相違ナキニ於テハ其電
信書ニ長官ノ証印ヲ受ケ本人ニ渡スヘシ。
ラトフヌハ タロヘロリユシリスヘヲ
一 総督本営ヨリ通知ナキ内ニ検査ヲ乞フ者ア
ムンロンリキホムセンムフテヒマンコワヲノ
ルカ、或ハ本営ヨリ来レル原文ニ比較シテ差
カノチニテ ヘイタイヲクムヲミタリ
違アル時ハ、其本人ニ聞糺シ其事項虚妄ナラ
ジンインヲヨソシマンシチハツセンモアリト
サルカ如キハ之ヲ本営ニ照会シ虚実ヲ糺シ、
彼の地にて 兵隊を組むを見たり
確居拠ヲ得テ、而ル後検印ヲ為スヘシ
人員凡そ四万七、八千もありと
一 久留米支庁及ヒ其他ヨリ来レル報知書、従
来齟齬ノ項往々少カラス、決シテ準拠ト為ス
ヘカラス
レスブテユンランリリホウハロバミ
一 右通信ノ真偽ヲ定ムルハ一切証ヲ総督本営
ス子ヲユモレミエノクレ チレジン子エキム
ニ取ルヘシ。本営ニ於テ証セサル者ハ断然却
ウミヂハグンカンヲヲソレテイデズ
下シテ証印ヲ為スヘカラス
ミナリクコウスルトイウ フウブンナルヨシ
(参謀本部陸軍部編纂課『征西戦記稿』下巻)
海路は軍艦を恐れて出でず
皆陸行するという 風聞なる由
この戦時期、電信局を通じての私報は禁じら
れ、電信局は専ら公に使用されていたが、諸県
ラルエスフミブリイユフタンセバ ムンスン
から入り込んだ探偵人が通報する戦況に、各県は
ルモサトムカヤリ コレムヒヤエノクレ
翻弄される事態が起きたのであろう。そこで、戦
カエルミチスジヲヲクチヘンマデ ジンミン
況報知を総督本営の指示の下の一元化を謀ったの
である。
- 18 -
西南戦争における長崎の位置とその史料
(「非常囚徒」『長崎県警察史』上巻 長崎
こうして、9 月 24 日午前 11 時、富岡熊本権令
県警察本部 1976 年)
は熊本局から福岡県令に宛てて、
その後、5 月 6 日付の有栖川から長崎宛の電文
ホンジツゴゼンサンジ シロヤマシホウヨリ
(熊本局発)で、「九州臨時裁判所出張所」を長崎
カクリヨダンシンゲキ サイゴウキリノヘ
県下におくので、その費用については「一時」長
ンミムラタイカセンシ ホカコウフクセシヨ
崎県が立て替えるようにとの指示があり、長崎に
シ ホウチアリ(本日午前三時、城山四方よ
も出張所が設置されることになったが、3 日後の
り各旅団進撃、西郷・桐野・辺見・村田以下
5 月 9 日、「福岡エ設置候九州臨時裁判所…長崎エ
戦死、外降伏せし由、報知あり)
移庁候条、此旨相達候」(「鹿児島県賊徒征討一件
諸類」)と、出張所設置ではなく九州臨時裁判所
と打電した。この日未明の官軍総攻撃で、西郷ら
そのものを、福岡から長崎へ移庁すると達せられ
薩軍の幹部は戦死して、7 か月余にわたる戦争は
たのである。
これをうけて、北島秀朝長崎県令は、翌 5 月 10
終結した。
官薩両軍の武器・兵器の差異が、勝敗を分ける
日に九州臨時裁判所を開庁すると、臨時裁判所幹
大きな要因になったことは言うまでもないが、薩
事河野敏鎌あてに伝達し、賊徒の口供書等の引き
軍が相変わらず伝令による命令や指示の伝達に頼
渡しをうけ、いっぽう大蔵卿(代理大蔵大輔松方
っていたのに対して、官軍の情報伝達システムは
正義)に対して、必要経費 2 万円の下渡を願い出
全く異質のものであった。
た。
長崎を拠点に、中央と戦地をつなぐ電信と、戦
檻倉については、その後長崎の 4 檻倉で収容し
地の中を縦横に結び情報と命令の伝達をおこなう
きれなくなり、6 月 20 日に、島根県・石川県・新
「軍電」の存在が、戦局を決定づけたことは言う
潟県・山形県・岩手県・青森県・秋田県・宮城
県・福島県の 9 県に配分されることになったが、
までもない。
この長崎の 4 檻倉(西南戦争終結直前の 9 月 12 日
2.九州臨時裁判所
段階で、740 人の囚徒が収容されていた)で処刑
された国事犯徒は、元鹿児島県令大山綱良の斬罪
西南戦争における長崎の位置を特徴づけている
ものに、九州臨時裁判所の設置がある。まず最初
(桜町監獄)を始め、斬罪・懲役・除族・贖罪収
贖・棒鎖など合わせて 2664 人に達した。すなわち、
に三条太政大臣から、「九州地方国事犯賊徒処刑」
については、征討総督有栖川熾仁に委任するとの
斬罪
22 人
達しが 4 月 3 日付でなされた。そこで、征討総督
懲役(10 年)
31 人
有栖川熾仁は、4 月 18 日付で「福岡ニ臨時裁判所」
懲役( 7 年)
11 人
を設置するとして、「付テハ右事件ニ付同裁判所
懲役( 5 年) 126 人
ヨリ直ニ相達候儀モ可有之候條、事務無差支取扱
懲役( 3 年) 380 人
可致旨」
、長崎県に達せられた(「非常九州臨時裁
懲役( 2 年) 1183 人
判」
)
。
懲役( 1 年) 614 人
その後、4 月 20 日に熊本・久留米に出張所が設
懲役(100 日) 130 人
置され、長崎には「臨時檻倉」4 か所が設置され
懲役(70 日)
2人
た。設置場所は次のとおりである。
懲役(30 日)
2人
第一仮檻倉 大黒町許肥後屋敷
贖罪収贖
20 人
第二仮檻倉 恵美須町元武雄屋敷
除族
242 人
第三仮檻倉 新橋町元太平寺
棒鎖
1人
監獄 桜町
- 19 -
Ⅱ.本 文 編
おわりに
長崎歴史文化博物館所蔵の西南戦争関係の史料
は、きわめて豊富な内容をもつものである。ここ
ではほんの一端に触れたにすぎない。本格的な研
究はこれからである。
長崎県立図書館『郷土資料目録』上 昭和 39 年 3 月 31 日
西南戦争関係史料目録抜粋
(政治行政)1 官省指令留
自明治9年至同10年
長崎県租税課
14-592
2 同
自明治10年7月至同13年1月 同
14-592
3 官省府県往復書
明治10年自3月至5月
長崎県文書係
14-245
4 官省筆記達
自明治10至同16年
長崎県文書係
14-658
5 金出許可物
明治10年
長崎県庶務課
14-240
6 辞令原書留
明治10年中
長崎県文書係
14-58
長崎県庶務課
14-228
7
西南之役管内軍用銃借上並
(明治10年~ 15年)
買物書類
8 懲戒書類
明治10年中
長崎県文書係
14-125
9 庁中諸達
自明治10年7月至同19年
長崎県文書課
14-764
10 内務省御指令留
自明治10年7月至6月
長崎県
14-583
11 同
明治10年自7月至12月
長崎県
同
12 非常人夫取調簿
明治10年4月
長崎県非常事務係
14-236
自明治10年至同11年
長崎県庶務課戸籍係
16-17
明治10年中
長崎県第6課
16-17
16 汽船出入港報告書
明治10年中
長崎県非常事務懸
16-31
17 熊本秋月賊徒暴動日誌
明治9年11月
佐賀支庁
16-46
18 軍人軍属改葬書類
自明治12年至同15年
長崎県
16-124
19 警視負傷者病院出入一件
明治10年自4月至7月
長崎県非常事務係
16-16
20 警視負傷患者入院明細長
明治10年自4月至7月
長崎県非常事務係
16-27
21 国事犯罪囚護送書類
明治10年
長崎県文書係
16-37
22 米小売相場届書
明治10年自3月至10月
長崎県非常事務係
16-41
明治10年
長崎県
16-20
明治10年
長崎県
16-45
阿多平右衛門(俊明)
16-80
長崎県文書係
16-53
(兵事)
14 恩給仮扶助料渡方書類
15
23
鹿児島県賊徒征討一件書類
主計掛雑之部
薩賊征討ニ付本庁臨時費警
視病院被勘定内訳書
24 賞典録
25 征韓録巻五抜書
26
西南騒擾之際御慰労金下賜
一件書類
27 戦地電報鈔訳
明治10丁丑年
長崎県
16-42
28 戦地之景況電報第1号
明治10年
長崎県
16-53
29 戦地之景況電報の直訳
同
同
16-28
30 総督官御入港書類
明治10年7月
長崎県非常事務係
16-53
31 賊徒再挙書類
明治10年
長崎県
16-39
- 20 -
西南戦争における長崎の位置とその史料
32 入院患者名簿
明治10年4月以降
長崎県分派病院庶務掛
16-26
33 肥後八代口戦況蒐輯
明治10年
長崎県
16-53
34 非常一件諸綴込
明治10年3月以降
長崎県外部懸
16-38
35 非常係事務簿雑書 明治10年
長崎県
16-19
36 九州非常臨時裁判
同
長崎県
16-14
37 非常警備
同
長崎県
16-8
38 非常事務書類
明治10年2月以降
長崎県
16-44
明治10年2月26日ヨリ
長崎県
16-35
明治10年
長崎県
16-7
長崎県
16-10
非常事務日誌
40 非常囚徒
41
非常書 追討・兵器・職官・
明治9年11月
警備
42 非常書 自明治10年至同11年
長崎県
16-13
43 非常職官
明治10年
長崎県
19-9
44 非常征討 自1至3
明治10年
長崎県
16-6
45 非常船舶 自1至4
明治10年
長崎県
16-12
46 非常惣雑 自1至7
明治10年
長崎県
16-11
47 非常中行在所並官省達書
明治10年丁丑自2月至4月
長崎県文書係
16-53
48 非常中各地武官往復書
明治10年自2月至10月
長崎県文書係
16-33
49 非常中警察署並各区達書
明治10年
長崎県
16-25
50 非常中雑書
明治10年丁丑
長崎県
16-43
51 非常中電信原書
明治10年
長崎県文書係
16-29
52 非常中電報原書
明治10年自2月至3月、5月
長崎県
16-30
53 非常中電報書類
明治10年
長崎県
16-23
54 非常中電報並戦地探偵記
明治10年
長崎県
16-36
55 非常中電報訳書
明治10年
長崎県
16-21
56 非常兵器
明治10年
長崎県
16-15
57 福岡士族暴発電報訳
明治10年
長崎県
16-53
58 分派病院庶務係書類
明治10年自4月至7月
長崎県非常事務係
16-24
59 兵事課事務簿 穕之部
自明治9年10月至同10年2月 長崎県
16-64
60 兵事課事務簿 常備軍之部
明治10年
長崎県
16-92
兵事課事務簿 予備軍後備
軍之部
明治10年
長崎県
16-92
明治10年
長崎県非常事務係
16-32
61
62 本分派病院書類
63
64
明治十年公布付属書類〔陸
軍将校馬具図例外〕
明治10年
〔明治十年の役に官軍使用の
明治10年
標章通知書
16-152
長崎県
16-123
65 臨時警視病院費金出許可物
明治10年自4月至6月
長崎県第6課
16-142
66 臨時警視病院費出物
明治10年7月
長崎県
16-147
67 臨時巡査徴募ニ付諸書類綴込 明治10年4月
長崎県
16-53
68 臨時日計簿
明治10年
長崎県第6課
16-150
69 臨時費
明治10年
長崎県
16-53
明治10年自2月至12月中
長崎県第6課
16-148
臨時費金出綴込
上記史料中8番の「懲戒書類」は特別閲覧扱いである。
- 21 -
西南戦争における久留米支庁の役割について
― 福岡県立図書館所蔵電報から ―
小川原 正 道(慶應義塾大学法学部准教授)
1.電信の威力
もっとも、西南戦争に際して、この電信が最初
から円滑に機能したわけではない。鹿児島県下の
西南戦争において、政府軍が電信をもってその
不穏な情勢を受けて、2 月 13 日には「各地方共私
作戦を優位に展開したことは、よく知られている。 報電信被差止」となり、県庁が電報を発する場合
開戦前の明治 10 年(1877)2 月 10 日に陸軍卿山
も「証拠トナル官印」が必要となった 4)。熊本電
県有朋が太政大臣に三条実美軍に提出した作戦計
信分局も戦火を避けるため、2 月 19 日に鎮台内に
画書においても、通信線の構築によって「百方臨
臨時電信分局を設けて通信を確保し、局員も籠城
機の指令」を実現すべきだと述べており、実際に
することとなったが、熊本城攻撃初日の 2 月 21 日、
政府軍は伝令や烽火、速達郵便などに加え、この
午後 1 時 40 分に「只今開戦、県のことは混雑にし
有線電信を積極的に活用して、情報伝達において
て調べかねる 5)」との電報を熊本電信分局は発し
薩軍(その連絡手段は主に伝令であった)に大き
たものの、その後まもなく火災によって市内の電
信分局は焼失、午後 3 時 40 分には、熊本鎮台内の
1)
なアドバンテージをとることになる 。
そして、福岡中央電報局発行の『福岡電信百年
臨時電信分局が外部と連絡していた電信線は薩軍
のあゆみ』は、「明治十年西南の役がぼっ発する
によって切断され、外部との連絡を絶たれてしま
に及んで電信の威力が遺憾なく発揮され、中央か
ったのである 6)。
らの指令、地方よりの報告、要請等に利用され、
官用、軍用通信はもちろん増加したが、これによ
って世人の電信に対する認識も高まり、およそ
2.運命の 2 月 21 日
――久留米支庁への着目
(明治 10 年の 1 年間で ―― 引用者)八十万通に近
い数量にのぼった」と、西南戦争は電信そのもの
このとき、にわかに政府軍の作戦遂行上、その
の発展にも大きく寄与することになったことを伝
重要性を増したのが、熊本の隣の電信分局、久留
えている。なお、開戦当初の段階で、福岡県では
米であった。熊本県は前年の神風連の乱のときと
小倉電信分局(明治 6 年 10 月開局)、福岡電信分
同様、まず県官(八等属・井坂幹)を久留米電信
局(明治 6 年 10 月開局)、久留米電信分局(明治
分局に急行させて状況を東京、京都に伝達させ
8 年 7 月開局)まで、佐賀県は佐賀電信分局(明
た 7)。長崎電信分局も同日、「熊本ヨリ之電信午
治 8 年 3 月開局)まで、長崎県は長崎電信分局
後四時ヨリ不通ト相成其原因モ未タ相分不」とし
(明治 6 年 4 月 29 日開局)まで、そして熊本県で
ながら、「久留米ヨリハ無差支通信致居候」と警
は熊本電信分局まで、電線が伸びていた 。佐賀
察署長宛に報告している 8)。電信断裂を知った内
から久留米を経て熊本まで電線が伸び、市内に熊
務卿大久保利通は、さっそく 21 日のうちに福岡
本電信分局が発足したのは、明治 8 年 3 月 20 日の
県令渡辺清に電報を発し、「熊本電信不通に付、
ことである。ここは明治 9 年 10 月の神風連の乱で
其県より人を出し探偵し、不絶熊本の模様最寄電
襲撃され、電信線は切断、通信機も破壊されて県
信局より報知せしむべし」と命じた 9)。「最寄電
は一時久留米電信分局まで県官を派遣する事態に
信局」とはいうまでもなく久留米電信分局のこと
2)
3)
陥ったが、すぐに通信は回復している 。
であり、派遣される探偵もまずは久留米支庁の官
員であった(廃藩置県後の明治 4 年 11 月、それま
- 23 -
Ⅱ.本 文 編
での久留米県と柳河県、三池県が合併して三潴県
った久留米支庁だが、福岡県がまとめた「明治十
となり、明治 9 年 8 月、三潴県は福岡県に編入・
年鹿児島賊徒征討記 上」16)によると、開戦時の
合併されて、久留米に支庁が置かれていた)。大
職員体制は次のようなものであった。
久保はさらに久留米支庁に 6 時 10 分、7 時 2 分と
直接 2 通の電報を送り、次のように命じている 10)。
機務掛 那須拘 荒木元 大塚貢
弁務掛 樋口競 小川源之丞 上野弥太郎 書留(六時十分)
宝子山定輝 神谷道明 蒲瀬瀧千 熊本電信不通についてはその支庁にてしかる
田中応助 他四名
べき人を出し精々探偵し熊本の模様絶えず報
病院掛 後藤良蔵 井上幹助 岩崎伊十
知すべし。もっとも、即刻人を出し、今日の
輜重掛 重松鹿次郎 三池親儀 木原景光 三広扇平 城埼集剛 螧川置三 山
模様を今夜中に報知せよ。
崎謹造 他八名
記録掛 淵上従郎 橋爪政太 他四名
書留(七時二分)
先刻六時十分、申し遣わしたることにつき、
その必要より、熊本県令へさらに急使を遣り、
3.久留米支庁の役割の拡大と縮小
熊本の模様、急に密まで電信分局まで知らせ
電報せしむべく、なお、追々絶えず知らすべ
以後、2 月から 5 月にかけて久留米支庁が久留
き旨を申し遣わすべし。その書面は、隠語を
米電信分局を通じて送受信した電報が福岡県立図
用ゆべし。
書館に「鹿児島暴動事蹟留 乾」「鹿児島暴動事
蹟留 坤」と題する資料して残されている 17)が、
電信による円滑な情報収集に対する大久保の執
その内容は、まことに錯綜としたものであり、こ
念がうかがえる電報であろう。これにより、久留
れだけの官員で対応するには過酷というべきもの
米支庁の官員が情報を集め、久留米電信分局から
であった。電報は基本的に久留米支庁と福岡県本
中央へ報知するという構図ができあがった
11)
庁との間で交わされているが、先述の通り、内務
。
福岡県ではさっそく植木などに探偵を派遣して
12)
郷への直接報告など、戦争に関わるあらゆる部門
、実際に現場に向かっ
が電信を利用した。以下、この「鹿児島暴動事蹟
たのは久留米支庁の官員たちであり、福岡県知事
留 乾」「鹿児島暴動事蹟留 坤」にみる戦争の
は久留米支庁に対してこの日、同支庁の官員 2 名
実態を考察してみよう。
情報収集にあたらせたが
たとえば、兵站である。政府軍は南下に伴って、
を「警部心得にてすぐに出張いたすべし」と命じ
ていた。支庁としては内務卿と県令から同時に命
2 月 23 日には原町、24 日には南関、3 月 9 日には
令を受けて行動していたことになるが、県は支庁
船熊、3 月 16 日には木葉、3 月 29 日には山鹿に電
と大久保との直通を認めており、「熊本その他の
信分局を開設し、久留米からの電線を伸ばしてい
こと確報あれば時々内務卿へ報知すべし。内務卿
った 18)。この電線を通じて、参軍本営や主要部隊
は西京にあり」と電報を打ち 13)、大久保に対して
司令部、城外に疎開した熊本県庁が久留米電信分
も探偵を熊本へ出したので状況は久留米から上申
局まで電報を寄せたが、これをみると、軍のさま
14)
。なお、この 21 日の支庁
ざまな部隊や熊本県庁などが、人力車、荷車、人
に対する 2 番目の大久保の命令については、熊本
夫、人足の手配、薬、弾薬、刀剣の入手、さらに
県庁がすでに移転していたため果たせず、福岡県
は米、布団、梅干し、漬け物、するめ、ほし鰯、
から、熊本県令へさっそく急使を送ったものの、
郵便、切手に至るまで、その買い入れや配付が実
県庁移転のため「県令と面接難しかるべし」との
に多方面にあたって久留米電信分局を通じて久留
すると電報していた
15)
米支庁に依頼していたのがわかる。とりわけ、刀
見通しが大久保に報じられている 。
こうして情報拠点としての重責を負うことにな
剣の購入・送付や巡査隊によって弾薬を護送させ
- 24 -
西南戦争における久留米支庁の役割について ―― 福岡県立図書館所蔵電報から
る任務については、山県有朋参軍から直接久留米
昨十四日、川尻より進撃一中隊熊本に対し本
支庁に命令が届くなど、指揮命令系統は必ずしも
日払暁大挙して侵入、賊は所々に放火して奔
明確化されていなかった様子がうかがえるが、支
るとの報知ありたり。右の故なるか、木留、
庁は本庁や他県などにも頼りながら、こうした要
植木の賊は午後四時頃より潰走しただ今盛ん
請に応えていった。山県からの要請から 2 週間余
に追撃最中なり。
りを経て、ようやく刀剣を入手した際には山県に
なお、戦争勃発後、各県から探偵が多数入り込
宛てて支庁は、「刀二百本ようやく揃いたり。代
金ことのほか高く、一本なら四十円ばかりなるに、
んで戦況を通信するようになっていたが、いわゆ
急場ゆえ右にて買い入れ至急その地に送る」と電
るガセネタを集めて売り込むものもいたらしく、
報を送り、苦渋をにじませている。久留米支庁と
これを防ぐため、陸海軍による通信を除いては、
しては自力で対応できる事柄はなるべく自らこれ
征討軍または県令の検査済の印がなければ通信を
に対処し、困難な場合は本庁や他県などの他機関
許さない旨、伊藤博文参議が電信分局に命じてい
に要請するのが基本方針だったようである。
る。3 月 8 日のことであった 19)。
このほか、征討本営への出張者や、熊本県に設
しかし久留米については、右の通りの重要な役
置していた出張所、熊本県庁との連絡、軍の到
割を果たしていたことから、この日、渡辺県令は
着・滞在の予定や状況についての本庁との往復、
「戦争ニ係ル事状ヲ拙者迄通報致シ候電信ハ無差
各地に派遣した探偵から収集した前線の状況や管
支御送信」するよう命じ 20)、さらに 3 月 17 日には、
内士族の動向の本庁への報告などから、山県参軍
電信発信の許可権そのものを支庁にゆだねる旨、
の命令の熊本への伝達や、第二旅団司令長官・三
通知した 21)。
好重臣少将の指示の本営への通知、本営から本庁
もっとも、戦争の経過につれて久留米支庁の機
への紙幣両替の仲介、さらには前線部隊の指揮官
能は次第に縮小するようになり、3 月 23 日には県
の本営への意見具申の仲介まで、その役割は実に
令から、「軍事に関したる諸件への報知は、以来、
多岐にわたっていた。
本庁より通知致すにつき、時々報知あれ」と電報
もとより、当初から最も期待されていたのは現
があり、支庁側もこれを了承し、以後は「戦地の
地情報の中央への伝達であり、有名な田原坂陥落
景況を報知せん」と返信、さっそく前線の木葉に
の一報も、久留米から発信されている。霧が立ち
派遣していた官員に「戦地の景況をいちいち報知
こめる中、ひそかに行動を開始した政府軍が田原
頼む」と命じた。田原坂突破により熊本の戦況に
坂の薩軍堡塁を奇襲したのは 3 月 20 日午前 6 時頃
見通しが付いたためであろう。以後も兵站に関す
で、政府軍は一気に防衛戦を突破して植木方面に
る本庁からの指示を受けつつ、戦況や本営・前線
抜けたが、午後 7 時 35 分時には、本庁宛に次のよ
からの報告の本庁への通知などを行っていくこと
うな電報が打たれている。
になる。
さて、熊本電信分局の電線は断絶したままだっ
今朝、激戦して植木の先へ進みたり。田原坂
たが、熊本城開通を受けて、同局の官員は 4 月 16
もまた落ちたり。さらに熊本に攻め行くの腹
日には市内の電柱や電線、旧電信分局の焼失跡地
なり。山鹿口も逸り進むべしとの報知ありた
などを視察し、4 月 17 日、征討総督本営が熊本鎮
り。
台に移転されるにともなって、久留米電信分局か
らの電線を熊本城内に引き入れて鎮台内からの通
戦局においてやはり重要なターニング・ポイン
信を再開するにいたった 22)。実際、熊本電信分局
トとなった政府軍背面軍の熊本城開通についても、 の復活以降、久留米支庁の役割は戦況報告にほぼ
支庁は 4 月 15 日午後 10 時 45 分、次のように電報
限られるようになり、その通信料量も大幅に減っ
した。
ていった。そして、まもなく戦場は人吉へと移っ
ていくことになる 23)。
- 25 -
Ⅱ.本 文 編
以後、西南戦争下で電信網はさらに拡大 24)され、
支庁ヨリ左ノ通リ報知召リ」として山県参軍に電報を打
ち、前日の熊本鎮台における戦況を「官軍甚タ苦戦ヲ来
熊本鎮台に置かれた征討総督本営を中心として、
セリ川尻ヨリ進入……鎮台柵外マテ迫リ此今出町ヘ出テ
政府軍側はいよいよ情報通信力において薩軍を圧
鎮台ヘ向フ」などと詳細に報知している(
「JACAR(ア
倒していくことになる。それは九州における情報
インフラの重要な整備過程ともなったわけだが、
同時に、我々はその契機となった西南戦争最初期
の激戦期において、「電信」の故に一元的に多大
な重荷を負って前線を支えた福岡県庁久留米支庁
の存在と、情報収集にかけた大久保の強い意志を
ジア歴史資料センター)Ref. C09082903000、来簡録 明治 10 年 2 月 21 日~10 年 3 月 3 日(防衛省防衛研究所)
」
)
。
8)前掲「明治十年 非常職官 庶 二」
。
9)
「電報日誌」
(
「福岡県史編纂資料」福岡県立図書館蔵)。
原文カタカナだが、カタカナをひらがなに直し、適宜
句読点などを補った。以下、電文については皆同じ。
10)
「鹿児島暴動事蹟留 乾」
(
「福岡県史編纂資料」福岡
県立図書館蔵)
。太政官から長崎県令に宛てても、熊本
忘れてはなるまい。福岡県立図書館所蔵「福岡県
の電信が絶えたため戦況をいちいち報告するよう電報
史編纂史料」に収録されている大量の電報は、こ
があった(前掲『カナモジでつづる西南戦争』
、23 頁)。
11)その意味で、電線は政府軍にとって死守すべきもの
のことを物語っている。
であり、たとえば長崎県警察所では、
「電線監守」
(ある
いは「電線看守」
)という役職を設け、巡査をもってこ
注)
の任にあたらせていた(
「明治十年 非常職官 庶 三」
長崎歴史文化博物館蔵)
。おそらく他県でも同様の取り
1)参謀本部陸軍部編纂課編『征西戦記稿』上巻(青潮社、
組みが行われていたものと推察される。なお、大久保
昭和 62 年)、12-16 頁、長田順行『西南の役と暗号』
(朝
は長崎県佐賀支庁に対しても、電信不通を受けて熊本
日文庫、平成元年)、20-23 頁、田中信義『カナモジで
の状況を報知するよう指示し、同庁は多くの探偵を派
つづる西南戦争 ― 西南戦争電報録 ―』(田中信義、平
成元年)、4 頁。
2)福岡中電百年史編集委員会編『福岡電信百年のあゆみ』
(福岡中央電信局、昭和 51 年)、29―43 頁、前掲『カナ
モジでつづる西南戦争』、4、48 頁。
3)宮村進一郎編『熊本電報百年史』(熊本電報局、昭和
43 年)、14―40 頁。
4)「明治十年 非常職官 庶 二」(長崎歴史文化博物館
蔵)。長崎県ではこの 2 月 13 日、電信局の「臨時用」と
して 25 円の支出が提案され、決済されている(
「臨時
費金出綴込 明治十年二月三月分 庶 第六課」
(長崎
歴史文化博物館蔵)。おそらく他県でも同様に、予算措
置を含めた電信の強化、体制整備がなされていたもの
と推察される。ちなみに、長崎からは上海へも電信が
可能だったようで、2 月 27 日に長崎電信局から上海宛の
電報が打たれた際の「The Great Northern Telegraph
China and Japan Extension Company」(「大北部電信
局」と訳されている)による領収書が残されている。
代金は 60 語で 15 ドル。同時期の長崎県庁から福岡県庁
までの電信手数料・届賃は 1 回につき 20 銭、長崎県庁
から大阪・京都までが 1 回 1 円、東京までが 2 円程度だ
った(同前)。距離からして、久留米と福岡、大阪、東
京間もほぼ同等程度だったと思われる。
5)前掲『福岡電信百年のあゆみ』、41 頁。原文カタカナ
だが、カタカナをひらがに直した。
6)大塚虎之助『「唯今戦争始メ候」―電報にみる西南役』
(熊本日日新聞情報文化センター、平成 3 年)、58―59 頁、
大塚虎之助/増田民男監修『極秘電報に見る戦争と平
和 ― 日本電信情報史』熊本出版文化会館、平成 14 年)
、
46 頁。
7)前掲『「唯今戦争始メ候」―電報にみる西南役』
、58 頁。
2 月 23 日には熊本県から警部が久留米に赴いて大久保
遣した(前掲『カナモジでつづる西南戦争』
、24 頁)
。
12)前掲「電報日誌」。
13)前掲「鹿児島暴動事蹟留 乾」。
14)前掲『カナモジでつづる西南戦争』、23 頁。
15)「鹿児島征討日誌」(「福岡県史編纂資料」福岡県
立図書館蔵)。
16)「明治十年鹿児島賊徒征討記 上」(「福岡県史編
纂資料」福岡県立図書館蔵)。
17)「鹿児島暴動事蹟留 乾」(「福岡県史編纂資料」
福岡県立図書館蔵)、
「鹿児島暴動事蹟留 坤」(「福
岡県史編纂資料」福岡県立図書館蔵)。本稿で取り
上げた資料のほか、「福岡県史編纂資料」(福岡県
立図書館蔵)には、久留米支庁が作成した西南戦
争関連資料として、「鹿児島暴徒事蹟留 一・二」
、
「鹿児島県動揺ニ付探偵書編冊 全」、「鹿児島暴動
ニ付諸品献上書 天・地」、「鹿児島県暴動ニ付諸
願伺届諸編冊」、などがある。
18)前掲『熊本電報百年史』、45-46 頁
19)前掲『極秘電報に見る戦争と平和』、49 頁。
20)「鹿児島暴徒事蹟留 一」(「福岡県史編纂資料」
福岡県立図書館蔵)
21)前掲「鹿児島暴動事蹟留 坤」。
22)前掲『極秘電報に見る戦争と平和』、54-55 頁、
前掲『「唯今戦争始メ候」』、201-202 頁。
23 前掲「鹿児島暴動事蹟留 坤」。
24 熊本から八代、佐敷を経て鹿児島にいたる電信線
が明治 10 年 8 月 10 日に開通、小倉から中津を経て
大分にいたる電信線が同年 7 月 28 日に開通、さらに、
大分から宮崎、鹿児島まだ電線が接続され、九州循
環幹線が完成するのは、戦争終結後の 11 月のこと
である(前掲『カナモジでつづる西南戦争』
、4 頁)
。
に戦況を伝え、大久保は 23 日午後 2 時 30 分、「久留米
- 26 -
西南戦争と延岡
落 合 弘 樹(明治大学文学部教授)
はじめに
リ隆盛等政府へ尋問ノ為メ上京スルニ決シ、
随行セントスルモノ一万二千余ニ重ル、飫肥、
西南戦争において、延岡は旧藩士が延岡隊を結
佐土原等ノ士族又大ニ奮発シタル由、延岡モ
成し薩軍に参加するとともに、重要な兵站基地の
此挙ニ加ハラズバ不都合ニ付、是非トモ出兵
役割を果たし、さらに近郊の和田越において、最
スベシトノ事ナリ。……大区事務扱所ニ昨日
終決戦とされる戦闘が展開された。終末段階にお
会集セシ人員ヲ聚メ、県官ノ持参シタル書面
ける西南戦争の中心地の一つといえよう。
ヲ示シ、西郷ノ上京スルハ県庁ノ許可スル処
延岡隊の行動および延岡周辺の戦況については、
ナル上ハ、自分共ノ所為モ名義ニ於テ開ル処
河野弘善『西南戦争延岡隊戦記』(尾鈴山書房、
ナキ杯互ニ語リ合ヒ、此書面ヲ戸長ヲ経テ区
1976 年)が各種の史料を駆使してまとめているが、
内ニ達ス。……人気忽チ動揺、我モ々々卜出
「ノンフィクション文学」的な記述も少なくない。
兵ヲ志願スル形勢ナリシモ、余リ多人数ニテ
しかし、上記を除くと自治体史以外にはまとまっ
ハ軍資金ノ続カザランヲ恐レ、兼テ会議セシ
た文献は見い出しがたく、西南戦争と延岡の関係
人々卜謀リ、凡ソ百人ヲ限ルノ見込ヲ立テ、
については、検討の余地が多く残されているとい
志薄キモノ及ビ老幼病者ハ程能ク申含メ、十
えよう。
三日頃迄ニ都合百余人ヲ撰……(『西南の役
薩軍口供書』)
延岡隊の結成と参戦
上記のように薩軍の決起を聞くと延岡の士族も
周知の通り、西南戦争は明治 10 年(1877)1 月
沸騰した。桐野利秋は、当初は旧日向諸藩の加勢
30 日の、私学校生徒による草牟田火薬庫からの
を無用としたが、小倉処平など旧飫肥藩士は隊伍
弾薬奪取が発端となり、さらに東京から派遣され
を編成した。21 日、熊本に向かっていた飫肥隊
た警視庁密偵に対する県庁の「東獅子狩り」の結
が延岡を通過した際、延岡では弾薬 2 万 5000 発分
果、中原尚雄は西郷「刺殺」の密命があったと供
が貸与されたが、これが起因となって延岡の士族
述し、沸騰は極点に達した。2 月 7 日に西郷は県
も延岡隊を編成して出兵することとなり、2 月 22
令大山綱良への通告で「今般政府へ尋問の筋これ
日に第 1 陣 130 人余が編成を完了。大島景保を小
あり」と出兵を表明する。そして、総勢 1 万 2000
隊長。区長の塚本長民を軍事世話方とした。佐々
名の薩軍が編成され、2 月 17 日に出立した。
木克氏は、日向諸隊の特徴として、出兵動員に際
延岡を考慮する場合に重要なことは、府県統廃
して、区戸長の動向が強い影響力をもっていたこ
合により、明治 9 年(1876)8 月 21 日に宮崎県が
とと、延岡士族が飫肥、佐土原に遅れまいと 「我
鹿児島県に編入されていたことである。大山県令
モ我モ」 と志願したように、日向各地域の士族は、
は宮崎支庁長で旧延岡藩士族の藁谷英孝を呼んで
互いに相手の動きに影響されるような形で出兵を
西郷挙兵を伝達している。2 月 8 日、藁谷は延岡
決断したことをあげている 1)。ただし、軍資金の
の第六大区長塚本長民に書翰送付した。塚本はの
制約があり、第 1 次出兵を 100 余人にしぼらざる
ちに裁判所で次のように口供している。
を得なかった。これは、薩軍の資金面の弱さだっ
た。出兵の動機は、清水湛が「隆盛ハ維新ノ際尊
二月八日、宮崎支庁詰県官同郷人糞谷英孝ヨ
王ノ義ヲ天下ニ首唱シ国家ニ大勲功アルモノナレ
- 27 -
Ⅱ.本 文 編
バ、決シテ大義名分ヲ誤ラズト妄信シ、又之ニ随
田(宮崎県北川町)に移動する。以後、大分と宮
行スルハ同県人ノ義務ナリト心得」と供述してい
崎の県境に沿った黒沢峠、赤松峠、陸地峠、宋太
るように、維新第一の英雄として偶像視されてい
郎峠周辺で持久戦を展開した。この戦線では延岡
た西郷隆盛への傾倒が大きかったと思われる。延
農兵も奮戦し、8 月中旬まで一帯を守り抜き、敗
岡隊は最終的には旧藩士 556 人、農兵 840 人余の
走する薩軍を迎え入れることとなる。
一方、人吉と豊後、延岡と熊本の連絡線である
合計 1400 人余を数えた。
高千穂周辺でも、激しい攻防戦が展開された。5
延岡隊の緒戦の状況は以下の通りである。
月 4 日、高城七之丞指揮の正義隊約 1000 名が江代
肥後進軍
2 月 23 日、延岡隊第一陣 180 人出発(薩軍熊本
を出発する。ここには延岡隊の主力が配置され、
人吉と延岡の交通路にあたる三田井を警備しつつ、
城総攻撃の翌日)
日之影、高千穂、矢部で宿営し、27 日夜に
馬見原の政府軍と対峙し、奇兵隊の支援にあたる
という任務を与えられた。5 月 14 日、鏡山で政府
熊本迎町にある香福寺に着陣
2 月 24 日、清水湛指揮の第二陣 36 人、出発
軍との戦いが開始され、延岡隊は鞍岡から敗走し
3 月 1 日、延岡隊、百貫石港を守備
た。さらに 5 月 25 日、第一旅団は折原を攻撃して
三田井を占領し、延岡隊は撤退する。しかし、6
第三陣解散
3 月 8 日、勅使柳原前光が県に逆徒取り締ま
月 1 日に薩軍は日之影川の線を中村・大楠(七折)
で確保し、政府軍を阻止した。そして、8 月まで
り命令
3 月 15 日、藁谷支所長の勧告で相木常謙(第
延岡方面への官軍の進出を阻止する。
七大区長)の部隊は三田井から引き返す
3.延岡周辺の戦闘
城東会戦
4 月 20 日、延岡隊は健軍の経塚で政府軍と交戦。
死傷者 43 名の大損害
人吉が陥落した 6 月 1 日以降、薩軍の劣勢は顕
穂鷹久徴(新一郎。元家老)ら 18 名戦死、
重傷 25 人
著となり、さらに 24 日の鹿児島失陥は決定的打
撃となった。兵力の中核だった城下士の補充が困
4 月 21 日、政府軍各旅団は木山へ進軍、薩軍各
隊は浜町に集結
難となった結果、諸郷から強制的に兵士が動員さ
れたが、金穀の欠乏は「西郷札」が印刷されるほ
負傷者は三田井経由で延岡に移送。本営は椎
葉から人吉へ
ど深刻だった。7 月 24 日に都城が陥落すると薩軍
の衰微は顕著となり、集団投降もあいつぐ。7 月
31 日に政府軍は増水した大淀川を政府軍は一気
2.肥後撤収後の延岡隊
に渡って宮崎へ突入。高岡の第二旅団が佐土原を
攻撃し、薩軍は高鍋へ後退する。さらに政府軍の
城東会戦に敗北した薩軍は肥後平野から撤収し、 増強をみて山蔭や美々津へ後退して戦線を構築し、
4 月 28 日の江代(水上村)での会議で持久戦に方
国境山岳地帯に勢力を張る奇兵隊との合流で勢力
針決定した。人吉を拠点とする一方、豊後方面突
を回復しようとした。本営は 8 月 2 日に延岡に置
出のため奇兵隊が編成された。隊長は野村忍介で、 かれ、西郷は大貫の山内善吉家に宿陣した。
本営は延岡とした。5 月 10 日、奇兵隊は 8 個中隊
しかし、政府軍の猛攻は止まず、別働第二旅団
約 1800 名で豊後を攻撃し、12 日に重岡、13 日に
は山蔭 ・ 美々津を攻撃。7 日に薩軍は拠点を門川
竹田を占領した。しかし、5 月 15 日に政府軍は竹
へ移動し、さらに本営 ・ 火薬製作所 ・ 病院等を延
田奪回のための攻撃を開始し、29 日に竹田は陥
岡から奇兵隊本営のある熊田に移した。一方、高
落した。その後、奇兵隊は臼杵へと転戦したが、
千穂方面の戦線も、7 月 31 日に薩軍が、鹿川と荒
6 月 7 日の野津道貫大佐の 4 個大隊と軍艦 3 隻によ
平で南北から反撃したが成功しなかった。ただし、
る攻撃で 6 月 10 日に敗退し、6 月 22 日に本営を熊
8 月 5 日に予定された政府軍の総攻撃は、台風の
- 28 -
西南戦争と延岡
影響で中止される。11 日に第一旅団は総攻撃を
訳 第九十九大区
開始し、延岡隊は藤ノ木まで 10 キロ近く後退した。
十四円五十九銭八厘 二小区 恒富村
是ハ居宅焼失六軒江救助ニシテ金二円
8 月 12 日に政府軍は門川および五ヶ瀬方面より
四十三銭三厘ツゝ
延岡攻略を開始した。14 日、大島ら延岡隊は、
野田(延岡市内)で最後の戦闘を行い降伏する。
四十三円七十九銭五厘 五小区 川島村
この間における延岡隊の戦死者は総数 78 人、負
是ハ居宅焼失八軒江救助、一戸金二円
傷者は 90 人という。同日、薩軍は延岡から完全
四十三銭三厘ツゝ
に撤収するが、兵站を支えた住民への配慮から城
〔中 略〕
下に火を放つことは遠慮した。翌日、和田越決戦
三百二十六円三銭一厘 同区 中村町
が開始され、西郷隆盛は陣頭ではじめて全軍を指
是ハ居宅焼失百三十四軒江救助、一戸
揮したが、昼頃には薩軍各隊が総崩れとなり、長
金二円四十三銭三厘ツゝ
井村(北川町)へ退却。そして、全軍の解散を宣
右之通御座候
言したうえで、自らは 17 日に可愛岳を突破し、9
明治十一年十一月十一日
月 1 日に鹿児島に帰還。24 日の城山総攻撃で戦争
第九十九大区長 曽根富弥 ㊞
は完全に終結する。
上記の文書には、13 年には、西南戦争の際に
4.内藤家文書の関連史料
「西郷札」で上納された作得米があり、再請求は
行わず損失として処理する方針が東京に報告され
以下は、明治大学博物館所蔵の旧延岡藩主内藤
ている。薩軍に協力した延岡隊の戦死者遺族や服
家文書に含まれる、西南戦争関連の史料を概観し
役者家族への助成を示す記録もあり、西南戦争の
ていきたい。
影響が様々なかたちで旧藩領に残ったことをうか
がわせる。
① 家令局往復文書
西南戦争勃発に対し、旧藩知事に対しては旧臣
②『明治十年戦争中延岡本営ノ書類』
この史料は、近世の藩政史料を中心とした「内
である士族の収攬と説諭が広範になされたことは
2)
よく知られている。旧延岡藩主内藤政挙 から
藤家文書 第一部」に含まれ、刊行中の『内藤家
も、曽根富弥が派遣されたが、大分からは交通が
文書目録 第一部』(2007 年、明治大学博物館事
遮断され、進めなかった。延岡の城下は上記のよ
務室)では、「維新 100」の目録番号が付けられ
うに無事だったが、周辺の各村は戦災が生じてお
ている。表紙に「小林乾一郎保存シ来リタル所爰
り、内藤家による罹災者の救援が戦後に実施され
ニ一綴トシテ残シ置ケリ」と但書が付けられてい
た。下記は、延岡藩内藤家文書近代史料に含ま
るが、明治中期から大正期まで家令を務めた小林
れ 、延岡の家政管理機関と東京との往復文書を
乾一郎 4)が保存していた記録が、家史編纂などの
記録した『東京文通控』に記された史料である。
素材として内藤家に提供されたものと思われる。
明治大学博物館作成の「内藤家文書近代史料目
主要な内容を摘記すると、以下の通りである。
3)
録」
(未公刊)では「家令局往復」の分類がなさ
れている。
相木常謙の動向
五月十八日豊後表エ出兵五十名(戦死、手負
華族内藤政挙ヨリ客年兵乱ノ際家屋焼失破毀ノ
者ヘ救助金配当調
などの記録)
高千穂口戦況
一、金千円 差出高
佐々友房戦袍日記写
内
開戦時病院宮崎分院からの情報
金三百五十五円二十三銭六厘
馬目成三書翰(中津の風説等)
- 29 -
【写真 1】
Ⅱ.本 文 編
③『西南一件書類』
延岡士族某建白書
この文書は、上記に続き、「維新 101」の目録
鹿児島士族野村綱供述
原時行建白書草案
番号が付けられている。前半は鼠害などで破損が
捕縛警官口供
大きく、判読困難な部分が多い。第七大区の罫紙
四月廿日建ケ宮ト申ス所南方大苦戦ノトキ
を使用した戦況報告書および探索書が豊富に含ま
(死傷者一覧)
【写真 2】
れる。時期的には、延岡隊が派遣された 2 月から
曽根冨弥宛長阪昭徳書翰、
熊本城が政府軍に奪回された 4 月に集中している。
曽根備忘
前項と同様に概要を摘記すると、以下の通りであ
る。
馬見原郵便脚夫ヨリ於三田井聞取(2 月 27 日)
熊本ニ参リ居延岡人ヨリ田原ニテ聞取
人吉ヨリ熊本辺景況ノ略
芳賀新郎宛玉木三益書翰(3 月 13 日鹿児島出
張官員からの情報)
鹿児島行聞見
(「小林乾一郎書取」と朱書。大山県令と
の面談、藁谷への報告など)
熊本出張日記
鈴木才蔵・池内成賢の大島味膳・塚本長民宛
報告書(田原坂、山鹿戦況)
【写真 3】
乗浅間艦記(藤田雪印)
写真1
写真3
なお、上記 2 件の史料は閲覧可能で、前述した
河野弘善『西南戦争延岡隊戦記』にも多数引用さ
れており、延岡隊の動向や延岡周辺の西南戦争を
研究する際には不可欠の史料といえる。ただし、
現状では学術的検討はほとんどなされていない。
おわりに
延岡は、現在は旭化成の企業城下町として知ら
写真2
- 30 -
西南戦争と延岡
れるが、南九州唯一の譜代大名が配置されたよう
注)
に、鹿児島に対する九州東岸の要衝として維新前
1)佐々木克「西南戦争における西郷隆盛と士族」
は位置づけられた。したがって、西南戦争におい
ては、周辺地域で持久戦が継続され、兵站・医療
(『人文学報』第 68 号、1991 年)
2)内藤政挙。1852 年、掛川藩太田資始の子として生
まれる。1862 年、内藤家七代政義(井伊直弼の弟)
の重要拠点となった。ただ、自治体史編纂は進ん
隠居。八代政挙が養子として襲封。1868 年、鳥羽・
でおらず、また 1884 年に城下が大火に遭遇し、
伏見の戦いの際、大坂野田口を守備。征討の対象
さらに太平洋戦争末期の 1945 年 6 月 29 日に延岡
に。藩士は入京禁止、政挙は 5 月 10 日まで京都で
謹慎。1871 年 7 月 14 日、廃藩置県断行。政挙は 9
の中心部が空襲で焼失したことにより、残存する
月に上京。慶応義塾に入校(眼病により翌年中退)
。
史料は豊富とはいえない。『日之影町史 通史編
1884 年 7 月 7 日、華族令。政挙は子爵に叙せられる。
二』
(2001 年)に引用された「甲斐辺日誌」のよ
うな記録も近隣の町村に残っているが、全体とし
て地元の史料が薄い状況にあって、延岡隊の動静
1927 年 5 月 23 日、逝去。
3)内藤家文書近代史料については、落合弘樹・日比
佳代子・鈴木挙「内藤家文書近代史料」の調査に
あ た っ て 」(『 明 治 大 学 博 物 館 研 究 報 告 書 』11、
や戦後の復興に関する情報が含まれた内藤家文書
の存在価値は、西南戦争研究においても非常に高
いといえよう。本論で紹介した一次史料群の詳細
2006 年)を参考のこと。
4)小林乾一郎(1845 ~ 1929)。19 歳のとき藩費留学
な検討と、丹念な地元でのフィールドワークを重
ねることにより、薩軍最後の拠点となった延岡地
方における西南戦争の実相は明らかになるだろう。
そのことは、西南戦争と明治前期宮崎県北部の双
方の研究を大きく前進させることになると思われ
る。
生として長崎に遊学し、漢学・英語を学ぶ。1869
年、大学南校に学び、横浜修文館の英語教師に。
1873 年に延岡社学の英語教師となる。1881 年、国
会開設運動参加後、自由党に入党。1885 年、民有
林国有化反対運動を主導し要求貫徹。県北民有林
の父として延岡郊外愛宕山に銅像が立つ。1886 年、
県会議員に当選。宮崎自由党を組織。1890 年から
2 年間議長を務める。1892 年、第二回衆議院議員
選挙に当選。1899 年、内藤家の家令となる。
- 31 -
党薩熊本隊慰霊・顕彰会「丁丑感舊会」と
関係者所蔵史料調査について
佐 々 博 雄(国士舘大学文学部教授)
2.「丁丑感舊会」の活動
1.調査報告概要
今回の研究調査では、西南戦争に関する膨大な
明治 13(1880)年、拘束されていた熊本隊の
史料の全容調査の一部として薩摩方に与した党薩
人々が免罪になり相次ぎ帰郷し始めると、熊本隊
諸隊について、とくに党薩隊最大の勢力であった
一番小隊長佐々友房ら生存者が、池辺の命日にあ
「熊本隊」関係者の所蔵史料調査をその慰霊・顕
たる 10 月 26 日に戦死者 270 余名を偲んで、第 1 回
彰会「丁丑感舊会」会員について行うとともに、
「丁丑感舊会」の慰霊活動についても調査した。
西南戦争に参加した各地の諸隊は、「党薩隊」
招魂祭を「熊本隊」結成の場所、健軍神社で挙行
した。反政府側勢力の招魂祭としては、比較的早
いものであったと考えられる。やがて彼らは、明
と呼ばれており、都城、飫肥、高鍋、延岡、佐土
治 14 年 9 月、政治結社紫溟会を結成し熊本の戦後
原、中津、竹田(報国隊)、佐伯(新奇隊)など
復興をまず行うことになる。この招魂祭には、遺
の諸隊がある。また、熊本においても、旧藩校時
族親戚同志ら千数百人が参列した。その後「丁丑
習館の学校党首領池辺吉十郎を中心とした党薩隊
感舊会」が結成され、今日まで毎年秋に慰霊祭が
最大の「熊本隊」のほか、民権党の平川惟一・宮
続けられている。
崎八郎たちの「協同隊」、馬術師範中津大四郎の
「龍口隊」
、那須拙速、神瀬鹿三らの「人吉隊」の
(1)「丁丑感舊之碑」の建立
明治 18(1885)年 12 月、熊本隊生存同志の人々
党薩隊がある。この他、上田休の「川尻鎮撫隊」
は、浄財を醵出して熊本市手取本町紫溟学会敷地
がある。
「熊本隊」は薩軍の熊本進攻に臨み、激論の末
に、慰霊塔「丁丑感舊之碑」を建立し、碑前にお
「禁闕擁護」を名分として千数百名が参加して薩
いて戦没諸士への慰霊祭を行い、以後毎年、招魂
軍に合流した。一番隊から十五番隊の小隊に編成
祭を継続した。碑は、六角柱の巨大な熊本石で正
され、大隊長、小隊長、半隊長、斥候、伍長、軍
面には「丁丑感舊之碑」、後方には「戦死者人名
監、参謀などが置かれた。その後、「熊本隊」は
(二百六十四名)」「明治十八年十二月某日 発起
吉次峠を死守したが、田原坂が敗れた後は、薩軍
人(二十二名) 周旋人(二名)」が刻字された。
と行動を共にして、日向長井村で降伏した。大隊
大正 12(1923)年、熊本市電敷設に伴い、「丁
長池辺吉十郎は、長崎の九州臨時裁判所において
丑感舊之碑」の場所が市電の線路に買収されたた
明治 10(1877)年 10 月 26 日午前 5 時斬罪宣告を
め、黒髪町小峰官軍墓地横に私有地の寄贈を受け
受け、同 5 時 30 分処刑された。さらに、熊本隊の
移転した。その際、新たに池辺吉十郎筆の「自誓
松浦新吉郎、桜田惣四郎、大里八郎らは同月 31
書」と宇野東風筆の「丁丑擧兵始末」の 2 基の塔
日同刻に処刑された。その他多くは、宮崎・広
を新設し、両碑の側面に熊本隊の総人名(千五十
島・岡山・東京などの監獄に護送され、傷病によ
六名「脱漏せる者多数」)と建設委員(三十二名)
り軍事病院に収容された者もいた。今回の調査で
の名前を刻字した。同年 12 月 1 日、移転式典が秋
は、党薩熊本隊の足跡をたどるとともに、丁丑会
季祭典を兼ねて現地碑前において挙行され、熊本
会員の所蔵史料調査を行った。
市長ら名士数十人、及び遺族が出席し、総代宇野
東風(漢学者宇野哲人兄)らが祭文・祭詞を朗読
- 33 -
Ⅱ.本 文 編
平成 4(1992)年
した。
「高熊山慰霊碑」に会と有志から寄付。除
(2)丁丑感舊会の変遷
幕式 24 名参列
戦前
平成 12(2000)年 10 月
第 120 回慰霊祭を挙行(健軍神社)。総会で
明治 10(1877)年 10 月 26 日
「西南の役丁丑会」と改称。新体制を組織。
熊本隊大隊長池辺吉十郎処刑
明治 13(1890)年 10 月 26 日
会長 小堀正人、理事、監事、事務局、顧問
健軍神社で第 1 回招魂祭
を置く。参加遺族・関係団体(熊本隊、人吉
明治 18(1885)年 12 月 隊、新奇隊、三州会=鹿児島県人会、自衛隊
丁丑感舊之碑建立
関係者)
大正 12(1923)年 12 月 1 日
平成 13(2001)年 11 月
丁丑感舊之碑、小峰へ移転
役員増員、副会長を置く
昭和 2(1927)年 11 月
平成 14(2002)年 10 月 26 日
「丁丑感舊碑」修復工事竣工式及び第 122 回
宇野東風編『丁丑感舊録』刊行
慰霊祭(小峰墓地)
昭和 12(1937)年 5 月
平成 18(2006)年 10 月
西南の役 60 年祭・記念講演(丁丑感舊会
会長 内藤儀彦 役員増員
主催)
昭和 12(1937)年 11 月
平成 23(2011)年 10 月
丁丑感舊会慰霊祭 会長 三浦喜傳
第 131 回慰霊祭挙行(健軍神社)
平成 23 年度事業計画では、護国神社春季・
昭和 13(1938)年
秋季大祭や他慰霊・顕彰会への参加と慰霊碑
此の頃から丁丑感舊会会長 佐々綏之(細
周辺除草・清掃が主な事業である。慰霊祭出
川家家扶)
戦後
席会員の参加は 30 名程度である。
昭和 37(1962)年
丁丑感舊会会長 古閑 健(元陸軍中将 3.党薩隊関連文献・史料
細川家家扶)
昭和 43(1968)年
熊本隊などの党薩隊の動向については、熊本隊
熊本護国神社に熊本党薩隊戦没者合祀(熊
小隊長(後、中隊長)であった佐々友房著『戦袍
本隊、人吉隊、龍口隊、協同隊、川尻鎮撫
日記』(明治 24 年、明治 17 年出版『硝雲弾雨一
隊 330 名)
斑』を改題したもの、復刻版 青潮社 昭和 61
以後、丁丑感舊会慰霊祭は、官薩両軍を対
年)や古閑俊雄著『戦袍日記』(青潮社 昭和 61
象とする「合同慰霊祭」として挙行
年)、宇野東風編『硝煙弾雨丁丑感舊録』(昭和 2
昭和 51(1976)年
年)など、熊本隊の一員として参戦した人物が著
丁丑感舊会会長 中山政孝
したものや、黒龍会編『西南記伝』(明治 34~45
昭和 55(1980)年
年)などが有名であるが、この他、河野弘善著
丁丑感舊碑敷地修復工事(昭和改修)
『党薩熊本隊 西南役異聞 』(昭和 48 年 尾鈴
昭和 62(1987)年
山書房)、同著『西南戦争延岡隊戦記』(昭和 51
鹿児島大口市高熊山の「池辺吉十郎・辺見
年 尾鈴山書房)、猪飼隆明監修『一神官の西南
十郎太奮戦の地碑」に寄付
戦争従軍記 熊本隊士安藤経俊「戦争概略晴雨日
平成 2(1990)年
誌」』などの党薩隊関連文献がある。また関連史
高熊山山麓の「熊本隊墓地碑銘」に会と遺
料としては、佐々友房関係文書(国立国会図書館
族から寄付
憲政資料室所蔵)、池辺吉十郎日記(熊本県立図
- 34 -
党薩熊本隊慰霊・顕彰会「丁丑感舊会」と関係者所蔵史料調査について
書館郷土資料室所蔵)などがある。個人所蔵史料
明治 11 年 5 月 31 日 1 通
として研究に引用されている史料は、故高橋棣次
② 書簡(東京市谷監獄通信)松村勝三より
松村重次郎宛
氏所蔵、高橋長秋関係文書(前掲河野弘善著『党
薩熊本隊』に史料引用)が知られている。
明治 11 年 10 月 23 日 1 通
③ 書簡(東京市谷監獄通信)松村勝三より
今回の調査では、佐々友房の孫である佐々淳行
松村重次郎宛
氏所蔵史料と松村勝三(熊本隊第一小隊斥候副
長)の孫、松村昌勝氏所蔵史料を主に調査した。
明治 11 年 11 月 5 日 1 通
また、元丁丑感舊会会長中山政孝氏より、熊本県
④ 書簡(東京市谷監獄通信)松村勝三より
松村重次郎宛
内西南戦争碑文調査書類および研究資料の提供を
受けた。
明治 12 年 1 月 22 日 1 通
⑤ 書簡(東京市谷監獄通信)松村勝三より
4.佐々淳行氏所蔵史料(熊本隊第一小
隊「敵愾隊」隊長佐々友房関係)
松村重次郎宛
明治 12 年 4 月 22 日 1 通
⑥ 書簡(東京市谷監獄通信)松村勝三より
松村重次郎宛
① 敵愾隊旗 1枚
② 陣中録事 第一小隊
⑦ 送章 東京警視監獄署より沿道宿駅戸長
(明治 10 年 4 月~)1綴
役場宛
③ 諸文通 第一小隊録事
明治 12 年 9 月 9 日 1 通
(明治 10 年 3 月~)1綴
明治 12 年 10 月 29 日 1 通
④ (戦闘日記 熊本第一小隊)
⑧ 戦記景況概略 熊本県松村勝三
(明治 10 年 2 月 22 日~ 26 日)1綴
⑨ 明治十年西南戦役 田原 吉次 植木 ⑤ 一番小隊名録 3 月 18 日改編
戦蹟図 松村勝三指導
(明治 10 年 3 月 18 日)1綴
⑥ (再編成三番中隊名簿)
明治 12 年 3 月 1 綴
大正 9 年 1 月 1 枚
以上
(明治 10 年 5 月)1綴
⑦ (陣地配置図)
参考文献
(明治 10 年月不明)2 枚
5.松村昌勝氏所蔵史料(熊本隊第一小
隊斥候副長松村勝三関係)
① 書簡(東京市谷監獄通信)松村勝三より
松村重次郎宛
佐々瑞雄『耐震改修工事報告書』
(平成 22 年)
宇野東風編『硝煙弾雨 丁丑感舊録』
(丁丑感舊会 昭和
2 年)
『克堂佐々先生遺稿』
(改造社 昭和 11 年)
古閑俊雄著『戦袍日記』
・佐々友房著『戦袍日記』
(青潮
社 昭和 61 年)
千場栄次編『高橋長秋』
(長崎次郎書店 昭和 13 年)
松村昌勝『恩故知新』
(自家版 平成 20 年 10 月)
- 35 -
宮崎県立文書センター所蔵西南戦争関係史料について
堀 内 暢 行(国士舘大学大学院博士課程)
はじめに
政策の経過やその在り方を本史料群から確認でき
ることも大きな特徴であろう。
宮崎県立文書センター(以下、文書センターと
第二に「戦状報告録」がある。本史料はいわゆ
略称)が所蔵する県庁文書は「近代史料としては
る従軍日誌といった性格とは異なり、宮崎支庁が
量的には他に類をあまりみず、膨大な史料から多
持つ戦況に関する情報を編んだものである。具体
くのことが解明できる。とりわけ明治初期の文書
的には支庁への入電や報告書が綴られている。な
は貴重」であると言われている 1)。同文書は「古
お当史料は全文が『県史』に掲載されている。
公文書」と称され、近代日本の足跡を確認する上
第三に、上に記した二つの史料群以外に明治
で他の自治体が保有する公文書に比してより貴重
10 年(1877)に編まれた史料群である。史料の
な史料として認知されている。
性格から「出張所往復留」と分類されている。そ
本文書センターが所蔵している西南戦争に関係
の理由には、ここに分類された史料の多くが県内
する史料の調査は 2009 年・2010 年の 2 回 4 日間
に設置された各出張所(飫肥・都城・高鍋・延
にわたって実施した。本報告書はその成果である。
岡)と宮崎支庁とのやり取りを綴じたものが多い
なお、当史料群については、すでに小八ヶ代宗明
ことにある。例えば都城出張所が編んだ「諸願伺
2)
氏により『宮崎県史 史料編』(近・現代 2)
の
綴」や「往復留」、また宮崎支庁の「雑書綴込」
「解題」に詳細な説明がある。また、詳細は後述す
といった史料が確認できる。また、支庁と各出張
るが、所蔵している史料は膨大であることが予想
所間にとどまらず、警視庁出張所や臨時裁判所と
され、とても 4 日間という短期間にその全てを確
宮崎支庁とのやりとりを綴った「往復留」にも西
認することは出来なかった。よって、ここでは
南戦争を知る上で重要な史料が綴られていること
『県史』史料編に示された内容に負いつつ、今回の
が確認できる。
調査で得た成果を踏まえ、さらに執筆者の興味関
以上が文書センターが所蔵する西南戦争関係史
心により本報告書を作成したことを先にお断りし
料の大まかな性格である。どの史料群も西南戦争
ておく。
を研究する上で必須となる史料であることは疑い
のないことであるが、特にここでは、「出張所往
1.史料の性格
復留」に分類された史料群に着目したい。という
のも今回の調査で確認した限り、他の分類に包含
『県史』によれば文書センターが所蔵する西南
される史料と比してその数は多く内容についても
戦争関係の史料は三つの性格に分かれる。第一に
多岐にわたっている。また『県史』においても紙
「鹿児島県布達」がある。同史料は明治 9 年(1876)
幅の関係からか、その量に比して紹介しきれてい
宮崎県が鹿児島県へ併合された翌年から明治 16
ないと思われ、その点もここで取り上げる理由の
年の再設置までの間に取り交わされた鹿児島県か
一つである。
ら宮崎支庁や郡役所への布達の写しを主に綴じた
もので、52 冊に分冊されている。奇しくも西南
2.「出張所往復留」
戦争の開戦と同時期の文書から簿冊の編纂が始ま
っており、宮崎県が再設置するに至るまで戦後復
興は完了しなかったことから、戦争終結後の復興
(1)各出張所作成簿冊
『県史』にて本類に分類・紹介された史料の多
- 37 -
Ⅱ.本 文 編
くは明治 10 年に編纂されたものが多いことは先
地ニ於テ軍団本営等ヨリ引請相成候分捕米有之
に述べた。しかしながら飫肥・都城といった出張
候」を戦地へ輸送するよう指示があり、官軍の後
所に残された史料の多くは戦争が終結する同年 9
方支援を担っていたことが確認できる。
月を過ぎた 10 月以降の文書が綴じられている。
その後の同地域における戦争の影響は多岐にわ
ここではまず他の地区より比較的早い段階で官軍
たっていたことが「諸願伺届綴」(都城出張所、
が征圧した都城出張所地域の史料を見ていくこと
明治 10 年)に綴られた文書で確認できる。
まず薩軍に加勢した大崎郷士 29 名に対する罪
とする。
今回の調査で確認した史料の内、都城出張所が
状が 10 月 3 日付にて九州臨時裁判所熊本出張所よ
作成した簿冊は 3 冊(うち 1 冊は分冊)ある。そ
り、例えば「其方儀賊徒ニ与フシ兵器ヲ弄シ官兵
のなかで最も早い段階の文書が綴られているのは
ニ抵抗スル科懲役三年可申付処脅徒ニ係ルヲ以テ
其罪ヲ免ス」と免罪されたことによる「帰郷届一
「明治十年七月 往復留」である。
本史料は 7 月 28 日に当時警視庁官吏であった西
件」の筆写が掲載されている。次ぎに、西南戦争
久保紀林より鹿児島県属にあった田邊輝実に宛て
以前に願い出ていた養子縁組の違変願いや「町村
た都城の状況に関する報告から、同年 9 月 13 日付
別等取調方延期ノ件」など、一見すると西南戦争
都城宮崎出張所より宮崎支庁への志布志区の正副
とは無関係な日常の行政庶務を示しているように
長選挙に関する照会までが綴られている。簿冊の
思われるが、文書の作成年月日とその内容から戦
第 1 件目に綴られた西久保の報告書は 7 月 26 日に
争の影響を受けた結果の願書と思われる。また、
都城に到着したことを伝えている。官軍が都城を
鹿児島県布達乙第三号によって指示された町村反
陥落したのは同月 24 日であった。よって、都城
別士族平民戸数調査について「田畑反別取調帳並
陥落後比較的早い時点の文書から綴られているこ
戸籍帳簿類一切兵火ニ依リ焼失ニ付限日通取調方
とが確認できる。西久保からの報告書に続いて薩
難調候」として期日の有余を各副戸長より都城出
軍側捕虜の取り扱いや状況に関する文書が綴られ
張所に対し願い出ている。他には、都城出張所管
ている。例えば、7 月 30 日付報告書では、氏名と
区内における戦争による死者及び不明者の調査書
出身・身分が記され、
が 11 月段階で各戸長より鹿児島県令岩村通俊に
提出されたことが確認できるが、その数は約 300
右者本月二十九日野尾郷ニ於テ死亡致シ候趣
人にのぼり、各村の回復に相当の時間を要するこ
ヲ以テ同出張大繃帯所ヨリ輸送当郷ニテ屍骸
とが予想される 3)。このように同地域への戦争の
御検査之上仮埋御達シ相成則当郷真方村之内
影響は民衆の生活はもちろんのこと、地域行政の
字赤坂山ヘ仮片付仕置候
執行にも多大なものであった。これは、国家行政
に対しても重要な問題であり、例えば「諸願伺
と、小林郷戸長心得横山通章より鹿児島県仮出張
綴」(都城出張所、明治 10 年)には、各区戸長よ
所(後の都城出張所)に宛てられている。このよ
り岩村に対して出された「徴兵調延期願」(明治
うに戦状となった地域の戦後処理はまず負傷者
10 年 12 月 6 日)が綴られている。それによれば、
(死者)への対応から始まり、またその報告書は
その行為が行われた地域(病院)の戸長の名を以
徴兵調之儀先月三十日限ニ付巨細御達之趣モ
て行われていたことが確認できる。上の事例以外
拝承仕精々取調向差急申候得共兵乱ニ付諸帳
にも捕虜の死亡により「仮埋葬」がその地域で行
簿モ散乱仕其他日限ヲ以テ御達之調方モ相重
われているが、その後仮埋葬した地から出身地に
リ少人数ニテ最早期限モ相過別テ奉恐入候得
移された史料は見当たらず、そのまま現在に至る
共内務省官員差入ニテ官山其他御調査中且又
ケースが多かったと思われる。
畑方兵乱荒撫仕付焼亡宅地等之御検査官員モ
さらに同地域では戦後処理の開始と同時に、8
不日差入之御達モ有之迚モ調応シ不申候ニ付
月 8 日には宮崎支庁より都城出張所に対して「其
来ル十五日迄延期被仰付被下度此段奉願申候
- 38 -
宮崎県立文書センター所蔵西南戦争関係史料について
つまり、ここから都城と比して飫肥出張所では
と、戦災により各区の行政が立ちゆけなくなって
行政機構は早い段階で機能していたといえるかも
いる様子がうかがえる。この他にも当「諸願伺
しれないが、結論に説得性を得るためにはさらに
綴」には、元薩軍兵への対応などが綴られており、
関係史料を読み解く必用があろう。
約 1 ヶ月間を綴った文書の大半は戦争処理に関す
るもので占められている。戦争の影響は、その終
結から 2 ヶ月を経てもなおすべての面にもたらさ
(2)宮崎支庁
『県史』により「出張所往復留」に分類された
史料群のうち、宮崎支庁が作成した簿冊は他と比
れていたことが確認できる。
一方で、同じ「出張所」でも飫肥出張所が作成
して多く確認できる。
今回の調査で確認できたものが全てではないと
した簿冊の内容は都城と比べ整然としているよう
思われるが、宮崎支庁作成の簿冊は「本庁往復
な印象を受ける。
飫肥は都城に遅れること 3 日後の 7 月 27 日に別
留」(明治 10 年 8 月 - 同年 10 月)・「往復其他綴込」
働第三旅団により陥落した。今回の調査で確認で
(明治 10 年 8 月)・「雑書綴」(明治 10 年 10 月 1 日
きた飫肥出張所作成の史料は「雑書類」(飫肥出
-12 月 20 日)・「雑書綴込」(明治 10 年 7 月 -9 月)・
張所、明治 10 年)のみであった。よって、前段
「宮崎支庁往復綴込」(明治 10 年 10 月 25 日 -12 月
において見てきた都城出張所の文書群はとは文書
28 日)
・
「宮崎支庁往復留」(明治 10 年 10 月)
・
「各
の性格が異なるため、単純に比較することはでき
出張所往復留」(明治 10 年 9 月 -12 月)・「各出張
ない。しかし、それを加味してもそこから受ける
所往復留」(明治 10 年 8 月)・「警視支出張所往復
印象は大きく異なるのである。
留」(明治 10 年 8 月 -12 月)・「臨時裁判所往復留」
簿冊は作成年月日不詳第二旅団三好重臣少将よ
(明治 10 年 8 月 -12 月)・「臨時病院雑録」(明治 10
り山県有朋参軍宛の報告書から綴じられているが、
年 5 月 -11 月)・「回覧」(明治 10 年 12 月)等を確
編年式に綴じられていない。冒頭に三好による報
認できた。
告書に続き、9 月 3 日付川村純義参軍発在東京三
あまりにも大部であるため、ここでその全てに
条実美宛電信写をはじめ電信写が綴られている。
ついて言及することは執筆者の能力を超えており、
それに続いて飫肥出張所管区内の「戸数人員調
一部について触れるに留めるが、一点上記の史料
書」や「出軍名簿」・法令・「鹿児島県支庁仮職制
に共通した特色が見られたので触れておきたい。
並事務章程」が雑纂されている。ここで注目すべ
宮崎地域を官軍が征圧したのは 7 月 31 日のこと
き点は「戸数人員調書」の作成日である。飫肥出
である。薩軍は 5 月になって宮崎支庁に至った後、
張管区内では早い区では 9 月 10 日に同調書が作成
陥落するまでの間宮崎地域は薩軍の軍政下におか
されている。最も遅い第一区は 10 月 10 日に飫肥
れた。その結果、支庁は軍務所に改称され、薩軍
出張所に提出されている。同様の調書作成につい
を支えた。陥落した後の 8 月 3 日に軍務所は宮崎
て、都城では 11 月に死者及び不明者の調書がよ
支庁に復帰し、小野修一郎が庁長に就任した。上
うやく作成されており、各区の戸数人員について
記の簿冊はその後に作成された文書を綴っている
は作成できる段階にはなかった。
ことが確認できる。臨時裁判所・警視支出張所・
上記以外の高鍋「御用留」・延岡両出張所「支
臨時病院とのやり取りを残した簿冊以外は、官軍
庁各課掛各出張所往復留」の両簿冊に綴られてい
に征圧された地域の各出張所との往復文書を中心
る文書の性格は都城のそれに近い。例えば高鍋は
に、戦後処理を中心に各地域行政の建て直しを含
8 月 2 日に陥落するが、同出張所が作成した「御
めた「届」や照会・布達・調書が綴られている。
用留」は同月 6 日から 18 日にかけての文書が綴ら
例えば「宮崎支庁往復綴込」には、支庁より各出
れている。それらの大半は同地域における戦後処
張所に対し、「戦死並生死不明ノ者調書差出候也」
理の内容である。具体的には、戦災の状況調書や
糧食に関する文書が多い。
(明治 10 年 12 月 13 日付第 233 号信)といった指示
の電信写が綴られていることが確認できる。
- 39 -
Ⅱ.本 文 編
支庁復帰後の懸案事項の一つに薩軍側に協力
した「賊徒」の処理があった。8 月 11 日司法省
ヲ記載ス」として、5 月 13 日の条から 9 月 24 日
「城山岩崎谷攻撃戦状」の条までが綴られている。
九州出仕今井良一検事代理は支庁に対して、
今回の報告は「出張往復留」のうち、各出張所
今般当地へ九州臨時裁判所出張所被設置候付
作成の簿冊に重点を置き、紹介してきた。西南戦
テハ追テ検事出張迄拙者義検事代理可致様被
争の影響は、戦時にとどまらず、その後の戦後処
申付候
理が各出張所にとって大きな問題であったことが
史料の作成年時から読み取れた。戦争というもの
と 8 月 11 日に伝えていた(「臨時裁判所往復留」)。
を捉える上で、文書センターが所蔵するこれらの
そして同日、鹿児島出張所より派遣されてきた筧
史料群は単に西南戦争という枠組みを超え大変重
元忠判事は九州裁判所宮崎出張所判事として当裁
要な位置付にあるものであることが改めてわかっ
判所開庁を支庁に通知している。「賊徒」への取
た。またその内容に関する詳細な分析は、日本の
調は司法省から派遣された官吏と警視出張所の官
近代史研究において重要な意味をもたらすことは
吏によって進められた。特に警視出張所の動きは
疑いの無いことであるが、それについて深く掘り
早く、8 月 3 日には郵便取扱役に対する取調を開
下げることは今後の課題としたい。
これまで見てきた宮崎県文書センターに所蔵さ
始していることが確認できる(「警視支出張所往
復留」
)
。当該地域での戦闘が終結していたものの、
れている西南戦争関係史料のうち、今回の調査で
隣接する地域では未だ戦闘状態にあったことはい
確認できたものはほんの一部であることが予想さ
うまでもない。戦闘が終結直後から戦後復帰に向
れる。というのも、戦争の経過を知る史料ではあ
けたプロセスが開始されたことがわかる。
るものの今回ほとんど触れることができなかった
「鹿児島県布達」において、宮崎県再設置直前ま
3.その他
で戦後処理・復興に関する史料が断続的に綴られ
ていたことを確認している。また、明治 33 年の
文書センターには、『県史』の分類に当てはま
文書を以て綴られている「雑書兵事」にいたって
らない西南戦争関係史料がいくつか確認できた。
も同様である。よって、文書センターが所蔵する
その点について触れておきたい。
近代史史料を網羅的に調査することにより、多く
戦闘の状況を知る上で公文書の性格を持った文
の関係史料を「発見」することになると思われる。
書として「戦状報告録」があることは前に触れた。
そのためには、今後継続的に調査を行っていく必
その他に第一連隊第一大隊副官小林資敬中尉が綴
用あろうことはもちろん、文書センターによる史
った「戦闘日誌」の所蔵も今回確認できた。当史
料目録のデータ化とその公開が待たれるところで
料は、兵庫県豊岡市の市史編纂中に蒐集したもの
ある。
で、同市より「戦年経過については、すでに多く
まとまりのない成果報告ではあるが、上記のよ
の資料によって解明されているようですが、一つ
うに膨大な史料の存在が予想されることから途
の大隊の記録としては、貴重と存じましたので参
中経過として本文を捉えていただければ幸いで
考までに」としてその写しが宮崎県の県史担当課
ある。
4)
に送付されたものである 。一中尉が綴った史料
であり、その性格を考えると公文書の位置付には
注)
当てはまらないが、一私文書が公的文書館に「永
1)長野暹「貴重な明治初期宮崎県文書」
(
『宮崎県しおり』
史料編近・現代 2、第 10 回、1993 年 3 月)p.1。
2)
『宮崎県史 史料編 近・現代 2』
(ぎょうせい、1993 年 3
月)p. 93-100。以後、
『県史』と略称。
3)この数値はあくまで 12 月段階に作成された「暴挙之
際戦死及生死不明之者取調表」に記載されたもののみ
年」保存されている点でとても興味深い。その内
容は、
「三月二十日肥後田原坂開戦以后木山ニ至
ル間ノ戦闘景況報告ハ既ニ木山駐在中差出シタリ
(。
)依テ今茲ニ堅志田ヘ転移以来ノ戦闘景況報告
- 40 -
宮崎県立文書センター所蔵西南戦争関係史料について
である。
4)1979 年 8 月 20 日付豊岡市郷土資料館内死し編纂室小谷
茂夫発宮崎県県史担当課宛書簡(「戦闘日誌」)
。簿冊の
冒頭に綴込まれている。
宮崎県立文書センター所蔵の西南戦争関係資料(撮影済)リスト
請求記号
21248
表題
主管
年代
戦闘日誌
M10
100479
鹿児島県布達
M10
100480
鹿児島県布達
M10
100481
鹿児島県布達
M10
100483
鹿児島県布達
M11
100484
鹿児島県布達
M11
100485
鹿児島県布達
M11
100486
鹿児島県布達
M11
100487
鹿児島県布達
M11
100488
鹿児島県布達
M11
100489
鹿児島県布達
M11
100491
鹿児島県布達
M11
100492
鹿児島県布達
M12
100493
鹿児島県布達
M12
100494
鹿児島県布達
M12
100495
鹿児島県布達
M12
100496
鹿児島県布達
M12
100497
鹿児島県布達
M12
100500
鹿児島県布達
M12
100502
鹿児島県布達
M12
100506
鹿児島県布達
M13
100507
鹿児島県布達
M13
100511
鹿児島県布達
100516
鹿児島県布達
100517
鹿児島県布達
100518
鹿児島県布達
100521
鹿児島県布達
100522
鹿児島県布達
100526
鹿児島県布達
100528
鹿児島県布達
101932
雑書兵事
104269
諸願伺綴 都城出張所
M9-M10
104284
本庁往復留 宮崎支庁
M10
104291
往復留 都城鹿児島県出張所
M10
104292
往復其他綴込 鹿児島県宮崎出張所
M10
104352
御用留 乾 鹿児島県高鍋出張所 M10
104353
御用留 坤 鹿児島県高鍋出張所
M10
104365
管内達 鹿児島県
M10
104396
雑書綴
M33(M11-18)
M10
- 41 -
Ⅱ.本 文 編
請求記号
表題
主管
年代
104398
雑書綴込 宮崎支庁
M10
104399
雑書類 飫肥出張所
M10
104490
宮崎支庁往復綴込
M10
104492
宮崎支庁往復留
M10
104493
支庁各課掛各出張所往復留
延岡宮崎支庁出張所
M10
104513
各出張所往復留 宮崎支庁
M10
104514
各出張所往復留 宮崎支庁
M10
104516
警視庁出張所往復留 宮崎支庁
M10
104517
臨時裁判所往復留 宮崎支庁
M10
104666
出張所部下達留
104677
民費一件
104694
電信並区長及人民請書類
104695
電信柱敷地手当金取調書
104696
延岡電信分局敷地取調綴
104699
宮崎電信分局敷地買上一件
104753
戦状報告録 宮崎支庁
M10
104754
臨時病院雑録 宮崎支庁
M10
104756
回覧 宮崎支庁
M10
104770
諸届並諸書留 都城出張所
104771
諸届並諸書綴 都城出張所
104772
人民願伺留
104773
各出張所伺届指令留 104775
支庁へ願伺留
104797
大蔵省官員演説書類
104798
大蔵省出張官員演説書
104824
雑書
104902
名勝・旧跡・古墳
107764
戸籍社寺に係る雑書
107766
戸籍社寺に係る雑書
107904
招魂社及官修墳墓 107917
官国幣社
100478-01
鹿児島県布達
100478-02
鹿児島県布達
104270-01
諸願伺届綴 都城出張所
M10
104270-02
諸願伺届綴 都城出張所
M10
104638-01
諸翰発着簿 飫肥出張所
104638-03
届及受書 第五課
104657-01
鹿児島県諸達
104657-02
鹿児島県諸達
104905-02
名勝・旧跡・古墳
108566-02
社会教育
宮崎支庁常願掛
M10
宮崎県
M16-M19
M9-M10
M10
- 42 -
仙台地域の西南戦争関係資料と
『仙台新聞』西南戦争関係記事
大 谷 正(専修大学文学部教授)
はじめに ―仙台地域の軍隊と西南戦争―
についていえば、本来は 2 個聯隊・6 個大隊であ
るべきものが、半分の 3 個大隊しか編成されてい
西南戦争の発生とともに、東北地方の仙台地域
からも戦争に参加する人々がいた。そのほとんど
なかった。総兵力は 2,371 人で、これは全国の鎮
台の中で最も小規模な兵力であった。
は仙台鎮台の歩兵第 4 聯隊に所属する兵士たちと、
幕末から明治初年に、幕府や各藩は製造国の異
内務省警視局の組織した巡査隊に応募して新撰旅
なる、新旧各種の兵器を輸入して使用したので日
団に編成されて戦場に赴いた士族たちであったと
本は世界の銃砲の見本市の状況を呈した。新政府
言われる。本稿はこれらの兵士たちの記録を調査
の陸軍はフランス軍事顧問団の意見を参考にして、
した初歩的なレポートである。
当初はエンフィールド銃(口装ライフル銃・紙製
まず西南戦争開始時点の仙台に置かれた鎮台に
ついて確認する。
カートリッジ使用)を使用したが、次第にエンフ
ィールド銃を底装のスナイドル銃(金属製一体型
1871 年には御親兵として、鹿児島藩(歩兵 4 大
薬莢を使用)に改造して使用するようになり、西
隊、 砲 兵 4 隊 )・ 山 口 藩( 歩 兵 3 大 隊 )・ 高 知 藩
南戦争時点では概ねスナイドル銃に統一されてい
(歩兵 2 大隊、騎兵 2 小隊、砲兵 2 隊)の三藩に対
た。この他に、シャスポー銃(フランス製底装ラ
して兵隊差し出しが命じられ、この兵力を背景に
イフル)、ツンナール銃(ドイツ製底装ライフル)、
廃藩置県が実施された。その後、同年 8 月に諸藩
スペンサー銃(アメリカ製底装連発ライフル)な
の常備兵を解隊して内外警備のため、東京・大
どが混用されていた。大砲は幕末に輸入されたフ
阪・鎮西・東北の 4 鎮台を設置する旨の達しが出
ランス製の口装青銅砲である 4 斤野砲・山砲を政
された。同年末の陸軍兵力は、御親兵 6,275 人と
府軍は使用した。すでにより進歩した底装青銅砲
4 鎮台兵 7,974 人、合計 14,249 であった。さらに、
やプロシア軍が使用した底装鋳鋼砲(クルップ
1873 年には近衛兵と 6 鎮台(東京・仙台・名古
砲)も輸入されていたが、フランス軍事顧問団の
屋・大阪・広島・熊本)の体制に変更され、従来
助言により、産銅国である日本で修理や模造砲製
の 「大隊」 の編成を順次新しい 「聯隊」 編成に改
作が技術的に可能な、旧式の口装青銅砲である 4
変していった。西南戦争直前の 1876 年末の陸軍
斤野砲・山砲を使うことを選んだ。とくに砲身が
兵力は、近衛兵 3,792 人と 6 鎮台兵 29,858 人、合
1 メートル足らずで、砲身重量が 100 キロ程度の 4
計 33,650 人であり、その内訳は歩兵が 16 聯隊(43
斤山砲は、山地が多く、道路事情の悪い日本の国
大隊)
、30,521 人と圧倒的に多数であり、騎兵、
情に適していた。
砲兵、工兵、輜重兵などの歩兵以外の兵種は合計
薩摩軍は、大砲については政府軍と同じ 4 斤野
で僅かに 3,000 人余りに過ぎなかった。とくに輜
砲・山砲を使用したが、小銃はスナイドル銃の金
重兵は、東京に 1 中隊と大阪に 1 小隊の 187 人に
属製一体型薬莢の補給が困難であったので、鉛製
過ぎず、西南戦争で大量の軍夫を動員せざるを得
弾丸や紙製カートリッジを自作できるエンフィー
なかった原因はここにあった。
ルド銃を主に使用し、その他雑多な小銃を使用し
仙台鎮台についてみると、仙台に歩兵第 4 聯隊
た。当時は口装式ライフル銃から底装式ライフル
(第 3 大隊欠)と砲隊 1 小隊、青森分営に歩兵第 5
銃への過渡期であったので、底装式ライフルの装
聯隊(第 2・第 3 大隊欠)が置かれた。歩兵聯隊
填装置が未完成で故障が多く、政府軍の兵器が質
- 43 -
Ⅱ.本 文 編
的に薩摩軍より優れていたと断言はできない(奥
まれているのは 148 人である。数字が少しずつ違
村房夫編『近代日本戦争史・第一編日清・日露戦
うのは、数える戦死者の範囲が少しずつずれてい
争』
(同台経済懇話会、一九九五年)所収の原剛
るためであろうか。また碑文には 「郷人相謀樹碑
「政府直属の徴兵軍隊の建設と展開」 および佐山
于仙台躑躅岡、刻一百四十二人姓名以吊之」 とあ
二郎 「陸戦兵器の調達と国産化」)。
るので、本来は歩兵第 4 聯隊駐屯地に隣接する榴
つぎに仙台鎮台兵と仙台で募集された巡査たち
ヶ岡公園に建立が予定されていたようであるが、
の九州への出動概況について、『宮城県史』第 7
何故か伊達政宗始め歴代仙台藩主の廟のある瑞鳳
巻(宮城県、1960 年)の記述にしたがって述べる。
殿の参道に現在建てられている。
つづいて仙台地域で西南戦争関係資料を所蔵し
西南戦争開始直後には、山形県鶴岡の士族たち
が西郷に呼応して挙兵するのではないかと懸念さ
ている機関について見ていこう。
れ、2 月下旬には遠山千里警部の率いる巡査 20 人
と歩兵第 4 聯隊長山地元治中佐が率いる第 4 聯隊
第 1 大隊が山形県鶴岡に出動した。鎮台兵はその
1.宮城県公文書館所蔵の西南戦争関係
資料
後 3 月 25 日に仙台に帰還した。
鶴岡の様子が一段落すると、3 月 20 日には陸軍
宮城県の県庁資料は宮城県公文書館(〒 983-
省は仙台鎮台に対して歩兵 4 個中隊の出兵を命じ
0851 仙 台 市 宮 城 野 区 榴 ヶ 岡 5 番 地 022-791-
たので、歩兵第 4 聯隊第 2 大隊(仙台・2 個中隊)
9333)に所蔵され、閲覧・複写が可能である。
と歩兵第 5 聯隊第 1 大隊(青森・2 個中隊)が出征、
2010 年 度 の 段 階 で は、 公 文 書 は 明 治 期 公 文 書
別働第 4 旅団に編入されて、4 月 6 日に熊本県宇
3,671 点、大正期公文書 1,692 点、昭和期公文書
土郡綱田村に上陸して背面軍として行動した。こ
24,514 点、平成期公文書 4,442 点、合計 34,319 点
れらの部隊は、11 月 16 日仙台に、11 月 29 日青森
を所蔵している。この他に、絵図面 1,565 点、行
に凱旋した。さらに 3 月 28 日、歩兵第 4 聯隊第 1
政資料等 6,295 点を所蔵し、公文書・絵図面・行
大隊(2 個中隊)にも出動命令が下り、大阪で新
政資料等の総計は 42,179 点である。利用にあたっ
撰旅団に編入されて海路鹿児島に向かった。同大
ては、検索は館内のみ利用可能のコンピュータに
隊の仙台凱旋は 1878 年 1 月 15 日であった。
よって検索し、請求する。
一方、内務省は東北・関東の各県で巡査を募集
2007 年 5 月に最初の調査をおこない、仙台地域
したが、宮城県下では 2,822 人が応募し、合格し
から西南戦争に参加した警視局の召募巡査の関係
た約 700 人が新撰旅団に編入された。巡査召募が
資料を調べるため 「西南/鹿児島/巡査」 で検索
一段落した 3 月 15 日付で、宮城県は召募に漏れた
してみると下記のような簿冊がヒットした。
ものが勝手に有志を徴募することを禁ずる旨の禁
令を出した。以上のように『宮城県史』第 7 巻は
『県達乙号』明治 9 年度
記している。
『御布告文集』明治 10 年 2 月、3 月、6 月、8 月、
一方、西南戦争の犠牲者について、第 4 聯隊戦
10 月
死者は 31 人、新撰旅団に属した巡査の戦死者は
『太政官布告』明治 10 年度
108 人、つまり合計 141 人と記す。瑞鳳殿の境内
『明治十年官省府文書』1 ~ 3
にある西討戦死之碑は、河田安照、茂貫利、戸澤
『明治十年官省使府県往復』
精一郎の斡旋で、西南戦争で戦没した仙台藩士を
『明治十年陸軍省開拓使甲達』
追悼して 1878 年 11 月建立されたもので、西討総
『明治十年西京御行在所達』
督有栖川宮熾仁親王の題額、少警視兼太政官少書
『明治十一年官院省寮局往復綴』
記官佐和正撰文、太政官大書記官巌谷修書である。
『明治十一年陸軍省並開拓使達』
碑文には東京招魂社に明治 10 年 11 月に祀られた
『明治十二年度国事犯囚徒放免添翰綴』
仙台藩士は 142 人とある。ただし裏面に名前が刻
- 44 -
仙台地域の西南戦争関係資料と『仙台新聞』西南戦争関係記事
(ママ)
この他に、明治 11 年度以降の各年度『戸籍綴』
ず、十三年西南役に従軍して功あり、勲六等単光
に、西南戦争に従軍して巡査・兵士の従軍恩給・
旭日章を賜ふ、凱旋後須田平左衛門等と七十七国
軍労金関係書類および死亡した巡査・兵士の寡婦
立銀行を創設す、十二年三月登米郡長に任じ教育
扶助料関係資料などがある。これらは東京都公文
土木勧業兵事等の施設大に宜しきを得たり、在職
書館所蔵の東京府関係資料、国文学研究資料館所
九年、奏任官五等従七位に叙す、明治二十二年十
蔵の愛知県庁文書および群馬県庁文書、京都府立
二月九日歿す、享年四十七、仙台北八番丁全玖院
総合資料館所蔵の京都府関係文書など、本プロジ
に葬る」。
ェクトで調査した他の都府県の文書館でも共通し
て所蔵されている文書群である。
河田らが建立した西討戦死之碑の最上段右隅、
つまり戦没した巡査の内で最も位の高い戦没者は
一等小警部中川操吉である。前記の『仙台人名大
2.仙台市歴史民俗資料館所蔵の西南戦
争関係書類
辞書』の中川の項は、「戦死者。明治十年西南戦
役に於て一等小警部を以て別働第三旅団付として
従軍中、九月一日薩摩国鹿児島郡鹿児島米倉に於
仙台市立歴史民俗資料館(〒 983-0842 仙台
て戦死す、享年三十四、同所に葬る(後略)」 と
市宮城野区五輪 1 丁目 3−7)は、旧歩兵第 4 聯隊
ある。中川操吉は明治初年以来のハリストス正教
の敷地である榴ヶ岡公園に位置し、旧歩兵第 4 聯
徒でニコライの弟子であった。幕末に函館に来訪
隊兵舎を使用している。大正期の木造兵舎が残っ
したニコライは、脱藩して函館に来ていた仙台藩
ており、これが建設当初の面影を残しながら使用
士に出逢い彼らに正教を伝え、さらに彼らは故郷
されている例は極めて珍しく、建物自体が貴重な
仙台に教えを伝え、仙台は正教伝道の拠点となっ
展示物である。
た。函館を発った元仙台藩士のイヲアン小野、イ
同館には西南戦争時の別働第 3 旅団江口高確隊
アコフ高屋、ペトル笹川定吉等が、伝導のため仙
の 5 番小隊隊長であった河田安照の文書が納めら、 台に到着したのは 1871 年 11 月 14 日であり、その
これらは同館学芸員の佐藤雅也氏によって翻刻の
直後に中川操吉は入信し、ペトルの洗礼名を与え
上、詳細な解説を付されて『仙台歴史民俗資料館
られた。
東京に出て警視庁(西南戦争時は内務省警視
資料集第 2 冊』(2004 年)に収録された。内容は、
『鎮西日誌』、『別働第三旅団江口隊五番小隊名簿
局)に奉職して九州に出征した旧仙台藩士と、地
( 明 治 十 年 六 月 改 )』、『 五 番 小 隊 負 傷 討 死 名 簿
元仙台で巡査召募に応じて出征した仙台藩士には
(明治十年六月十八日改)』、『江口五番小隊討死
多数の正教徒が含まれていた。石川喜三郎『日本
名簿』、『五番小隊長戦闘報告表』、『招魂塔寄付
正教伝道誌』(全 2 巻、正教会編輯局、1901 年)
名簿』等である。なお、同館では仙台市内の戦
の 「第三編第四章 仙台福音教会の沿革(下)」
争遺跡に関する常設あるいは企画展示をおこなっ
には下記のような記述がある。
ている。
『ガイドブック仙台の戦争遺跡』(仙台市
「一千八百七十七年には西南の役起りて、これ
歴史民俗資料館編、2008 年)はそれら成果を反
が鎮撫のために巡査招募の事ありしかば、仙台教
映したもので、前記の西討戦死之碑の解説も見ら
会の兄弟中にも、此役に赴くものありき、特にペ
れる。
トロ中川・アレクセイ樋渡等は当時警視庁に奉職
河田安照は、「はじめに」 で触れた瑞鳳殿境内
の西討戦死之碑建立の 3 人の斡旋人の 1 人である。
『 仙 台 人 名 大 辞 書 』( 菊 田 定 郷 編、1933 年 刊、
せしかば、仙台に来りて巡査を招募せり、ペトル
笹川も亦当時伝教の職を辞し居るの際なりしかば、
巡査百余名を率ゐて、此役に赴き、ペトル河田・
パフェル細目等も亦警官となりて従軍せり」(第
1981 年再刊)の河田の項は次のようである。
「官吏。縫殿之助安尚の子、初名八之助、陽之
2 巻 78 頁)。
アレクセイ樋渡とは樋渡正太郎で、彼はニコラ
助と改め、のち東と称す、明治六年東京に出で、
ニコライに就て教理を研究し、略欧西の事情に通
イの弟子となって伝道に従事していたが、この頃
- 45 -
Ⅱ.本 文 編
は中川と同じく警視庁に勤務、警部兼陸軍少尉と
募の記事が掲載されるので、仙台で募集された巡
して出征した。西南戦争後は民権結社進取社に参
査たちは 3 月の段階で九州に到着して、各地で警
加したり、県庁職員となったが、さらに後述の横
視隊に編入されて戦闘に参加、つづいて別働第 3
尾東作とともに南洋貿易事業を企画した。また後
旅団に編入されて、熊本南部から鹿児島県各地で
に長司祭として仙台教会の中心となる笹川定吉も
戦った。さらにその後募集された巡査たちは、5
西南戦争に巡査を引率して出向いていたのである。
月 29 日に編成された新撰旅団に編入されたと考
戊辰戦争時に衝撃隊(鴉組)隊長として官軍を
えるのが妥当ではないか。このような経過で巡査
相手にゲリラ戦をおこなった細谷十太夫(直英)
徴募が進んでいるにもかかわらず、『宮城県史』
も巡査招募に応じて出征したが、彼について『日
第 7 巻は、仙台で 2 月下旬という早い段階で他県
本正教伝道誌』は、細谷は北海道去留(サル)の
に先駆けて(?)、警視局の巡査召募がはじまっ
仙台藩開拓所に滞在中の 1870 年に旧仙台藩士の
た経緯と理由を書いていない点と、最初に召募さ
正教徒と接触し、「自ら教を信ぜざるも、斯くの
れた 700 人の巡査たちが新撰旅団に編入されたと
如くにして最初より函館に於て正教を聴きて後、
説明している点で、不十分である。県史は今から
仙台出身の伝教師、教会の生徒等に便益を与えた
半世紀前の刊行なので不十分な点があっても当然
るもの尠からず」(第 1 巻 64 頁)と記している。
であるが、それ以後に刊行された地域史でこの誤
細谷は仙台藩士の正教徒と関係を後々まで保って
りが踏襲されていれば問題である。
いた。以上のように西南戦争時の仙台における巡
査招募とハリストス正教徒の関係は密接であった。
ここで一言しておくべきことは、『宮城県史』
第 7 巻が宮城県下では 2,822 人が応募し、合格し
3.宮城県図書館所蔵の『仙台新聞』所
載の西南戦争記事
た約 700 人が新撰旅団に編入された、と述べてい
ることの当否である。
宮城県図書館(〒 981-3205 宮城県仙台市泉区
『警視庁史稿』全 2 巻(1893 年・1894 年)を読
紫山 1 丁目 1 − 1)にも西南戦争関係資料が所蔵
むと、1877 年 2 月 10 日の 「令シテ巡査ヲ九州地
されていると思われるが、今回は西南戦争当時に
方ニ差撥ス」 の項の説明に、2 月 10 日以降、9 月
仙台で発行されていた『仙台新聞』に掲載された
5 日に至る九州地方への巡査派遣について、日付
関係記事を紹介する。
と派遣人員と派遣地を列挙した上で、「合計九千
五百名、其戦地ニ赴ク者ハ初メ警視隊ヲ以テ警備
(1)『仙台新聞』の成立と性格
若クハ戦闘ニ従事シ、後多クハ別働旅団ニ編入ス、
宮城県図書館には『仙台新聞』61 号 (1877.2.3)
其戦没スル者六百七十余名」(上巻、158 頁)と
から 200 号 (1877.12.24) が所蔵され、これには宮
述べている。さらに巡査の臨時召募については、
城師範学校所蔵本という印が押されている。『仙
4 月 6 日の項に、先に警視局巡査の九州派遣に伴
台新聞』は『東北新聞』(1875 発刊、美濃紙に活
い 「茨城等諸県ヨリ臨時二千六百名ヲ徴募」 した
字印刷の冊子体の新聞)を継承したものである。
が、なお不足のために 「巡査三千人ヲ東北諸県ニ
『東北新聞』ははじめ不定期刊行、後には月 10 回
徴募スルヲ太政官ニ稟議取決ス」、4 月 18 日の項
刊行となり、1876 年秋(日付は不明)に『仙台
には 「巡査一千人ヲ徴募スルヲ太政官ニ稟議取決
新聞』と改題して、号数を引き継いだ。1878 年 1
ス」 とある(上巻、167 頁)。つまり巡査の臨時
月 4 日(202 号)より『仙台(遷台)日日新聞』
徴募は、2,600 人(茨城等諸県)+ 3,000 人(東北諸
に改称、号数を継承した。さらに『陸羽日日新
県)+ 1,000 人
(場所を特定せず)= 6,600 人という
聞』を経て『奥羽日日新聞』(1883 年以降)とな
数字になる。
り、宮城県下の明治中期の代表的新聞に発展した。
次の節で宮城県図書館所蔵の『仙台新聞』の記
出版元は須田平左衛門が起こした相愛社(県庁内
事を確認していくが、仙台では 2 月下旬に巡査徴
の印刷所)、『東北新聞』は最初木活字を使用して
- 46 -
仙台地域の西南戦争関係資料と『仙台新聞』西南戦争関係記事
いたが、途中で金属活字に変わった。『仙台新聞』
年後の 1887 年なので、『仙台新聞』の有力情報源
は政府の公布、宮城県の告示、宮城県議会日誌を
の東京で発行される中央紙を入手するにも、海路
掲載する御用新聞であった。月水金の週 3 回刊行、
または人力車等を乗り継ぐ陸路であり、当然時間
4 頁、判型は現在のタブロイド判とほぼ同じ大き
がかかった。
政府は報道制限をおこない、2/26 の『仙台新
さである。1878 年から週 5 回へ、判型も拡大した。
各号 4 頁の末尾に、新聞社所在地として 「宮城
聞』の紙面に 19 日付の 「第二拾一号 鹿児島県
県庁下二日町七百七十三番地 相愛社」(後に二
下暴徒に関し無根の伝説等新聞掲載禁止」 という
日町二番地に変わる)とあり、ついで新聞社のス
岩倉具視名の告示が掲載された。
開戦とともに鎮台兵の動向に興味が向けられ、
タッフとして 「社長 須田平右衛門 編輯長 立花良次 印刷人 下飯坂秀治」 とある。この
「鹿児島暴徒熊本県下繰り出しにつき鎮台動向」
3 人以外に何人のスタッフがいたのか不明だが、
(2/23)などの記事が掲載された。ところが、仙
他紙の例から考えると、まだ記者はいなかったよ
台の鎮台兵が最初に向かったのは九州ではなく隣
うだ。紙面は、①県庁の告示・県議会議事録・裁
県山形の鶴岡であった。戊辰戦争では鶴岡に城を
判所判決など、②さまざまな噂話・伝聞と投書か
置いていた荘内藩は武力抵抗を続け、兵を秋田や
らなる雑報、③読者からの論説の投書(記者や主
越後に派遣して領外で戦い、最後まで領内に新政
筆が書く社説はまだ登場しない)、④他紙からの
府軍を入れなかった。東北で最後に降伏したにも
転載で埋めている。西南戦争開始当初の、「薩摩
かかわらず荘内藩の降伏条件は寛大であった。こ
芋のため余白を奪われ諸方より投寄の雑報或は論
れを荘内藩は西郷隆盛の尽力と理解し、明治初期
説」 は遷延(2/19)、「薩の動静、各新聞より摘
には藩主を含む多数の藩士が鹿児島に留学、帰国
取て五覧に入れ升」(2/21)などの記事から、伝
した藩士達は鶴岡郊外松ヶ岡に集団的に帰農し開
聞・噂と読者の投書(雑報と論説)で情報と記事
墾に従事した。そのため荘内藩士が西南戦争に呼
を集めるやり方と小新聞的な文章スタイルが分か
応するのではとの観測が政府内にあり、2 月下旬
る。新聞社所属の記者が取材し、事実に基づいて
に歩兵第 4 聯隊長山地元治中佐が率いる第 4 聯隊
記事を書くという必要もなかったし、そのような
第 1 大隊と遠山千里警部の率いる巡査 20 人が山形
観念も存在しなかったと思われる。そもそも記者
県鶴岡に出動した。それに関連する下記のような
に手当を支払う程に経営が安定していたか疑問で
記事が掲載された。
ある。
雑報 「仙台の東北鎮台兵が山形へ繰り出す」
このような素朴な地方新聞が発生した直後、西
(2/23)
南戦争が発生し、紙面に掲載される情報が量と質
投書 「最上捜 鎮台兵山形へ出発、荘内士族
の両面で拡大し、それとともに新聞の性格が変わ
に関する風聞」(3/4)
っていったと考えられる。
雑報 「山形県下動静」 「山形開墾党 2500 人」
(2)
『仙台新聞』から見た西南戦争と仙台 (3/7)
論説 「朔望生稿 旧荘内藩士族と西郷」(3/
2 月中旬から紙面にさまざまな鹿児島情報が掲
12)
載される。事件が発生する以前に 「鹿児島県にて
士族が暴発したとの風説あり」(2/14)という類
雑報 「旧荘内藩士族動向」(3/14)
いの記事が度々掲載されていたが、2/15 の薩摩
雑報 「鶴岡の動静、鎮台兵、宮城福島の巡査
多人数入れ込み」(3/26)
軍の鹿児島出発以降さまざまな憶測記事が紙面に
あふれた。3/2 付の 「西南動向は東京新聞抄撮、
山形はじめ東北地方景況を実地探偵の上確報」 と
荘内藩情報に関する記事の多くが読者から寄せ
いう記事から、同紙の情報の集め方がわかる。し
られた雑報と論説で占められていたことに注目す
かし、上野-塩竃間の鉄道開通は西南戦争の 10
べきである。
- 47 -
Ⅱ.本 文 編
(3)巡査徴募
葦名蘆洲が出征し、それに先だって細谷直英(幕
巡査の徴募に関する記事の最初は、2 月 23 日の
末に衝撃隊を組織して政府軍に抵抗、維新後北海
「今般警視局より巡査召募のため横尾某と申方か
道開拓、開拓使雇用)等も東京に向かい、警視局
当県江出張なりしとの風説」 という雑報である。
に採用された。
ついで 2 月 28 日にはより具体的に、「今般東京警
新聞記事だけでは全体像がつかめない所がある
視局より巡査召募の為め横尾東作君が五出張にな
が、幕末に政府軍と戦った額兵隊・衝撃隊の指導
り県下勾当台通三十四番地渡邊幸兵衛所を事務取
者、そして伊達宗亮・葦名蘆洲らの幕末の仙台藩
扱所となされ平素品行正しく忍耐力に乏しからす
指導者(彼らの背後には旧藩主がいる)が巡査募
ホボ読書も出来て年齢ハ(徴兵年齢を除くの外)
集にあたった。さらにハリストス正教信者グルー
十八年以上三十五年以下にして志願の者は士族平
プもいた。最初の 700 人のみならず、その後も
民〔平民は士族の帰農と旧二千石以上の陪隷に限
度々巡査募集記事が見えるので、700 人を越える
と云〕を論せす召募」 との記事が掲載された。「
巡査が仙台から出征していった。
士族平民を論せす」 とあるものの、仙台藩の特殊
それではこのような巡査招募に名を借りた実質
事情である地方知行制の残存から、仙台本藩の直
的な壮兵募集に対して賛同する意見ばかりではな
臣と地方知行を行っていた家臣の家来(陪臣、多
かった。3 月 2 日の杞憂散人の投書、3 月 9 日の穴
くは廃藩後平民身分に編入された)に限ったので、
尾捜の投書は、壮兵募集が徴兵制に悖るのではな
実際は旧武士からの壮兵募集であった。
いかと疑問を呈し、また巡査募集に集まった士族
3 月 2 日になると、「昨日内務省より東京巡査に
連中のトラブルを批判的に報じる雑報もあった。
宛てたきもの七百余名を募集の旨県庁へ電報の風
説、あるいは横尾東作・竹内寿貞連名で、東京巡
(4)戦場からの手紙と詩作
査召募の内検を実施する場所を、仙台南町共立病
戦場に向かった仙台鎮台関係者と巡査招募に応
院から百騎丁定禅寺通西南角須田平左衛門宅へ移
じた仙台出身の警視隊の人々は詩作と手紙を新聞
す旨の広告が掲載された。横尾東作は仙台藩士、
社に寄せた。武士としての素養を有していた彼ら
幕末に福沢諭吉の慶應義塾と横浜で英人ブラオン
は、漢詩に感慨を托すものが多く、漢詩が苦手な
に英学を学び、藩校養賢堂の英学教授となる。戊
ものも和歌を詠むことはできた。それらを投書の
辰戦争期には奥羽越列藩同盟に参画、さらに仙台
形で新聞社に寄せ、新聞社はそれを掲載したので
藩が官軍に降伏すると、脱藩して星恂太郎ととも
ある。
に額兵隊を率いて箱館に渡り官軍と戦い、捕らえ
最初は仙台から東京に向かう途上の感慨、風景
られたが処刑を免れ、1876 年から 1886 年まで警
を読むものであったが、ついで九州に到着後の状
視庁に勤務した。横尾だけでなく、既に名前の出
況を伝えるものが登場した。3 月から 4 月までに
た中川操吉(ペトロ)、樋渡正太郎(アレクセイ)
掲載された手紙と詩作のいくつかを例示的に挙げ
らの仙台人が警視庁に在職していたので、彼らが
ると下記のようになる。
仙台在住の人士と連絡を取りながら 2 月末から 3
3/19 「召募巡査中学校連の詩作を投寄・砂田
月の初め、巡査招募をはじめた。
宮城県知事宮城時亮(山口県人)は、巡査 700
人を募集し、その選別は伊達宗亮(亘理郡坂元の
館主、4,000 石、幕末仙台藩執政)・葦名蘆洲(登
米郡石越邑主、1,000 石、戊辰の役に藩主側近と
して出陣、参政、閉門に処せられたが、西南戦争
に三等警部として出征、のち伊達家家扶)等が担
当するので、旧仙台藩士族に対して応募するよう
呼びかけた(3/12)。3 月中旬には、伊達宗亮・
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真管その他」
3/21 「詩作・当県士族岡徳輔、東京に赴く途
中の詩作なりとて或る方より投寄」
4/16 「警部補茂貫氏が神戸より本月四日に発
せし便り」 「三等少警部伊達宗亮の作詩」
4/25 「菱沼勒一郎氏四月八日中津より郵送書
状」 「同日同所より関震六氏の郵書」
4/27 「同日同所より関震六氏の郵書の続き」
仙台地域の西南戦争関係資料と『仙台新聞』西南戦争関係記事
4/30 「本吉郡小泉村及川與助は近衛兵、大坂
(5)凱旋・慰霊・地域新聞の定着
この他に、紙面には銃後の仙台の状況、戦争の
軍事病院より発せし家書」
5/4 「当県より臨時召募に応じたる巡査谷田
終了とともに鎮台兵と警察官が凱旋してきた際の
作吉氏四月十三日八代口より発したる家書」
状況、さらに戦没した人々に対する追悼行事や建
「熊本県下宮の原駅より陸軍中尉小梁川氏よ
碑の動きに関する動向が掲載された。なかでも西
り弊社への郵書の写」
南戦争終了の翌月 1877 年 10 月には、旧仙台藩主
伊達宗基と仙台藩士の基金で、経ヶ峰の瑞鳳殿境
これ以後も大量の手紙が掲載された。本人から
内に弔魂碑(戊辰戦争の仙台藩戦死者の慰霊碑)
直接新聞社へ送られた場合や、家族・知人が受け
が建設され、さらに翌年 1878 年 11 月には西南戦
取った手紙またはその写しを持ち込む場合があっ
争に出征した仙台藩関係の警視隊・新撰旅団の戦
たようである。このような行為は新聞の掲示板機
死者と仙台鎮台の戦死者を併せて追悼する西討戦
能である。平時に士族を中心とする新聞読者サー
没碑が瑞鳳殿参道横に建立された。明治天皇の東
クル内で、情報や詩作を共有して楽しんでいたも
北行幸(1876 年)と西南戦争での仙台藩関係の
のが、彼らが九州に出征するとはじめて体験する
警視隊・新撰旅団の活動と犠牲によって、戊辰戦
風土、風習そして戦場の情景を故郷の仲間と共有
争の賊軍関係者の追悼が公的に可能となったよう
するようになったのである。戦場を体験するとと
に思われる。これらの項目については別稿を用意
もに、手紙は長く具体的になり、何度かに分けて
している。
連載されるようになった。これらの手紙はまだ歴
そして『仙台新聞』は週 3 回発刊から、翌年
史学の素材として本格的に分析されたことはない
1878 年には週 5 回発刊になり、判型も拡大した。
が、丹念に読み込むことによって、仙台から旅立
掲載する情報量が格段に増えたのである。戦争と
った人々の戦場体験の実態が明らかにできるし、
ともに、地域の新聞が替わり、地域に定着してい
また彼らが戦場体験の結果抱くようになった西南
った。
戦争観についても興味深いものがある。
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岩倉文書から見た西南戦争
友 田 昌 宏(町田市立自由民権資料館)
はじめに
らんでいたからである。たとえば、西南戦争勃発
直後の岩倉宛の書翰において木戸孝允は「肥後・
科研「西南戦争に関する記録の実態調査とその
佐賀・筑前・土佐・備前・因州・彦根・桑名・会
分析・活用についての研究」ではこれまで、様々
津・庄内ナトハ必饗応難図、其内証跡ヲ得候モノ
な機関において西南戦争関連の調査を行ってきた。
モ御坐候。何卒及一変動候上ハ於東京煽動候モノ
しかし、その多くは公文書であり私文書の調査は
ハ一時ニ捕縛無之テハ不相成事ト奉存候」(2 月 6
ほとんど行っていない。西南戦争を内在的に捉え
日付岩倉具視宛木戸孝允書翰④)と全国の士族の
ようとするなら、やはり当事者たる個人の文書の
呼応を警戒している。とりわけ、東京で留守をあ
調査は欠かせないだろう。さすがに最大にして最
ずかる岩倉は各地の士族の呼応を極度に恐れ、
後の士族反乱、内戦だけあって、国立国会図書館
様々な手を打っている。本稿ではもっとも警戒さ
所蔵の大木喬任関係文書や早稲田大学図書館所蔵
れた庄内と高知の士族への政府の対応を探ってみ
の大隈重信関係文書などには西南戦争関係の書類
たい。
つぎに、注目したいのは華族たちの動向である。
が数多く含まれている。そのような個人のなかで、
今回とりあげるのは「岩倉具視関係文書」である。
明治 9 年の秩禄処分により、士族だけではなく華
「岩倉文書」は現在、国立公文書館、岩倉公旧蹟
族に対しても家禄の支給が打ち切られることとな
保存会、国会図書館憲政資料室、海の見える杜美
った。華族をいかにこれからの国家に位置づけて
術館に分蔵されている。多くは岩倉の伝記の編纂
いくかは自らも公家華族であった岩倉にとって非
のために諸家から集められた筆写史料だが、なか
常に重要なことであり、明治 9 年末には第十五国
には『岩倉公実記』や日本史籍協会叢書の『岩倉
立銀行の設立に乗り出している。そのような矢先
具視関係文書』『木戸孝允文書』『大久保利通文
に起こったのが西南戦争であった。この内乱のさ
書』に収録されておらず、かつ原本の所在が確認
なかに華族たちはどのような動きを見せたのか、
できないものも含まれており貴重である。国会図
岩倉をはじめとする在官の華族たちは彼らをいか
書館憲政資料室所蔵岩倉文書の川崎本(神戸川崎
に誘導し近代国家のなかに位置づけようとしたの
造船社長川崎武之助旧蔵の史料群、この他憲政資
か考察した。
料室は近江八幡の豪商西川甚五郎旧蔵の史料も所
以上のように士族・華族の動向をふまえたうえ
蔵)には「岩倉家蔵書類 明治十年西南戦争一
で、岩倉が早くから主張していた士族募兵の実態
件」
(全 10 冊、本報告では「岩倉家蔵書類」所収
と、そこにはらむ問題について考えたい。
の史料については出典を明記せず、その冊番号の
み①~⑩で示す)があり、今回はこれを中心に、
1.華族の動向
以下のような視座にたって西南戦争を外縁から考
(1) 大名華族の旧領国下向
察したい。
西南戦争の勃発するや京都の天皇への天機伺を
同じ旧参議でありながら西郷隆盛というカリス
マを担いだ薩軍は「江藤・前原ノ比ニアラサ」(3
願い出る大名華族が続出する。
月 22 日付岩倉具視宛柳原前光書翰⑩)る敵であ
「追々旧知事願出候者ハ 天機伺トシテ西下願
った。なぜなら、九州という局地での戦争が戦局
之通聞届候。何卒少敷御優待充分御鼓舞之上
如何によって常に全国的内乱に発展する危惧をは
宜敷御指揮速ニ帰県有之度存候コトニ御坐
- 51 -
Ⅱ.本 文 編
候」
(2 月 17 日付三条実美・木戸孝允・大久
毫も無之、又一点鼓舞致候筋も無之候間、右
保利通宛岩倉具視書翰⑤)
等条理上少しも取違ひ居候義無之候間御安慮
可給候。毛利元敏之如キ宗族挙テ上京之内評
も有之候由ニ候得共、既ニ本家毛利元徳も供
また、天皇への天機伺は、その後の旧領国への
奉之義旁以而一同罷出候も不都合ト之評決ニ
下向をも兼ねたものであった。
「元武家華族之輩追々 天気伺ヒ并ニ帰県申立
相成、残り宗族総代として元敏参向之旨ニ候
之者有之候分ハ夫々聞届候。又天気伺ノミ (右ハ御征討御駐輦被仰出候故之事ナリ)。将
行在所へ参向、何ナリトモ相応御用伺度トノ
又板倉勝達之如キ、一ピヲ振ひ先鋒タランコ
輩も有之候間参着之上宜敷御沙汰願候」(2
トヲ懇願、又尤不及御沙汰旨附紙致候。此段
月 20 日付三条実美・木戸孝允・大久保利通
御含ミ願入候。外ニ関係ナキ地方之旧知事出
宛岩倉具視書翰②)
願も難計勢ひ有之候得共、精々ハ相諭し留マ
ラセ候心得なから如此非常之時臣子之分前文
之通云々条理ヲ以而天気伺ヒ申出候節ハ類例
岩倉はこれを華族奮起の絶好の機会と捉えてい
も有之候義ニ付、不得已事と存候間御心得置
たようである。
「此間申入候通り今般華族意外奮発ニて追々西
可給候。新聞紙上ハ勿論一般衆庶華族ハ訳而
下之処、尚又今日願出候向酒井宗族中五軒不
痴愚ト云フハ今日之常ナリ。然レトモ右者十
残、元紀州旧知事、元備前旧知事、毛利元敏、
年之浅キニアリ。情ハ数百年ノ深キニアリ開
相良頼紹等各 天気伺西下之事願出候。尤各
化ヲ唱フルモノ十中ノ二三、小生兼而慮ラズン
旧県鎮撫見込ニ候。其中旧県異状無之見据ヘ
ハアルベカラズト今日迄旧官武華族之為メ非常
付候者ハ何卒京都ニ於而如何様之御用也とも
之配慮致候も偏ニ 王室ヲ奉存候微志ノミ。
相勤メ度趣、元ヨリ拝領物等望ミ毛頭無之次
宜敷御推覧懇願仕候」(2 月 21 日付木戸孝允・
第、臣子之分如此非常之節御奉公不申候而ハ
徳大寺実則・杉孫七郎宛岩倉具視書翰②)
鴻大 君恩何レ之時か可奉報ト頗ル感心之議
論有之条、宜敷此機ヲ不被為失御優待被為在
細川護久の場合
戦場となった熊本の旧藩主細川護久は大名華族
候得ハ目今而已ならん、後来之御為メニも天
皇御直轄華族面目旁大事之御場合ニ付厚ク御
の旧領下向の魁となった。
注意有之度企望致候。愚考ニハ御駐輦中トカ
「今朝旧細川家ヨリ内談、今日之形勢囂々之議
御征討中トカ何レヘカ詰メ被仰付、折節君側
論有之候ニ付テハ、此末又候旧熊本県士族何
へも被召、大義名分ヲ弁別シ奮発候様御沙汰
等ノ心得違致候コトモ難計ニ付、朝廷ノ御為
有之候ハヽ、幾分か響き合候者可有之、旧臣
旧主従ノ情誼ニ而私願ヲ以旧県へ罷越精々説
等も幾分カ感戴可致者可有之存候。各旧知事
諭いたし度トノ事、尤ノ義ニ付願出サヘ候
之内既ニ戦地トナリ帰県も難相成向モ可有之
ハヽ可聞届旨申置候」(2 月 10 日付三条実美・
歟。右等之輩自費ヲ以テ還幸迄空敷旅館ニ安
木戸孝允宛岩倉具視書翰⑤)
然罷在候時ハ、却而心倦ミ或ハ令扶中不平ヲ
生シ可申も難計、若シ愚考不被行事ニ候ハヽ、
「細川公一昨日、鍋島公昨日、長崎へ向御発途
帰県之輩ハ勿論別段其他無用之者ハ御賞詞有
ニ相成、臨機御入県之御見込ニ御坐候」(2
之帰京被仰付候方可然歟。元ヨリ御賢考も可
月 23 日付岩倉具視宛香渡晋〔宮内省十等出
有之候得共肺肝吐露候。池田慶徳抔ハ定メテ
仕〕書翰③)
速ニ帰県アリシ事と推考候。抑此度華族之如
此奮ひ候も全ク細川志願ニ起り佐土原父子、
「〔人吉〕本陣ニ滞ルコト一昼二夜耳目ノ衆多
黒田父子等之奮発誠忠ヨリ此勢ひヲ為シ候者
ナルヲ以テ明々地ニ談話スルコトヲ得ス。因
ト被存候。元ヨリ小生 朝命ヲ以テ内諭候義
テ池辺吉十郎ヲサシマネキテ懇ニ来示ヲ告ケ
- 52 -
岩倉文書から見た西南戦争
且旧知事ノ手書ヲ付ス」(5 月 11 日付細川家
仕申候。右談話詳細之都合者筆紙ニ難相認
家扶鬼塚通理書翰⑦)
候ニ付、拝謁之節迄省略仕候。
一 今十一日再ヒ久光江緩話致、登京之儀忠
「細川護久も於熊本大勉励ニて説諭共行届申候。
告仕候処、同人儀色々苦心難渋之廉を不差
乍随行家扶共因循之風説有之、鬼塚通理ナト
置相咄申候。併し私儀ニ於てハ 朝廷上御
充分張込不申、兎角鋭気ヲ相サヽヘ候ト申事
政体等之儀ハ曾テ関係不致儀ニ付兎角可申
ニて士族共歎息致候人も有之」(6 月 14 日付
様も無之候得共、親戚上之交際ニ関する鄙
岩倉具視宛東久世通禧書翰④)
見之趣ハ無遠慮縷々申演説候処、久光ニ於
而も私之申分を尤之次第ニ引受、就而者一
「旧知事細川護久も非常勉励候由ニ付御面晤之
応熟考之上登京之儀返答ニ可及旨申聞候。
節取束ね御賞詞有之候」(5 月 16 日付岩倉具
依而明日同人家令奈良原繁・有村金兵衛を
視宛三条実美書翰④)
相招云々之趣得と申聞、協同尽力仕候様相
含メ候心得ニ御座候間御放念可被下候。但
「過刻条公より御示御坐候細川護久永々旧県地
久光心配難渋之廉々并私儀ヨリ同人江咄聞
出張非常尽力仕候間、近日之内被召御陪食被
候条理等之儀ハ是亦後日拝謁之上以口演御
仰付且其節大臣公参議等一緒御食事被下候様
咄可申上候ニ付書中ニ不相認候。
可取計」(8 月 28 日付岩倉具視宛徳大寺実則
一 勅使柳原殿江ハ明日当県御出艦ニ付、私
江も便利次第乗込候様今日懇話有之候得共、
書翰⑧)
私儀にハ前文之次第ニ付暫く当表ニ相残り
黒田長溥の場合
久光之登京決答有之迄滞留之含ニ候段、御
島津久光を親類に持つ黒田長溥は、勅使柳原前
答申述同行相断申候。切角之御申談ニ候処
光とともに鹿児島に下向することを願い出て許さ
無拠御断申出候段心外之至ニ付、乍憚御序
れ、久光と忠義の説諭に努めている。 之節柳原殿へ程宜御挨拶被為下候様奉伏願
「黒田長博 来訪、島津家は元来同氏の実家な
(ママ)
るを以薩摩へ罷越、久光父子に方向を不誤様
候」(3 月 11 日付三条実美・岩倉具視宛黒
田長溥書翰⑦)
意見吐露いたし度との心事に而預相談り、老
人にして不厭寒冷奮発の次第感心なり」(『木
「黒田長溥昨日帰京面会致候。同人鹿児島ニ於
テノ周旋之模様ハ既ニ同人ヨリ之書翰ニテ御
戸孝允日記』三、明治 10 年 2 月 25 日条)
承知之事ト奉存候へ共、尚又面話之次第大略
「私儀以御蔭 勅使御船江乗組神戸出艦之後、
左ニ申入候。
本月旧領博多江着之所、護衛将官黒田〔清
黒田長溥、島津従二位ニ面会段々説諭懇談い
隆〕殿戦地探索御坐候より両三日繋泊相成、
たし候処、従二位ニハ大ニ満足シ実ニ親戚骨
依而私儀旧領人民江も尚又方向を誤らさる様
肉之好誼ト云者ハ此ノ如キ際ニ当リ殊更嬉敷
申談候処、伜長知説諭之末少壮子弟輩弥以大
者なり。就テハ早速勅使ト共ニ上京天恩ヲ奉
義名分を弁へ、屹度鎮静いたし候ニ相違無之
謝度願望ニ候ヘ共、爰ニ一ノ難事アリ。其訳
候。畢竟 勅使江便船仕候より右等説諭便宜
ハ県下ノ士族或ハ以為ク島津父子ヲ京師ニ引
をも得深難有仕合奉存候。右之次第ニ付旧領
出シ跡ニテ鹿児島県ヲ征討スルノ策なりトテ
之儀ハ御安心被成下候様有御坐度奉願候。
大ニ騒キ立候模様ニ付、若シ従二位一度ヒ足
一 其後本月八日鹿児島着船、直ニ島津忠義
ヲ挙ケ候ハヽ如何様之紛乱ヲ引出シ候モ難計、
江対話之後、午後六時より旧左府久光江出
然ル時ハ益恐入候次第ニ付今暫ク御猶予ヲ願
会十時迄懇話いたし候処、同人赤心明白い
県下鎮定之目途略々相立次第可成速ク上京仕
たし実ニ廟堂御洞察之通ニ有之、大ニ安心
度旨申聞候ニ付、黒田ニ於テモ其情実如何ニ
- 53 -
Ⅱ.本 文 編
モ尤ニ相聞ヘ候ニ付、然ラハ可成速ニ上京可
歟。実際所詮難被行哉と評議仕候。当地ノ処
然旨申置帰京仕候云々」(3 月 20 日付岩倉具
ハ引請誘導可仕候」(3 月 21 日付岩倉具視宛
視宛三条実美書翰①)
三条実美書翰④)
「廿 二 日付条公ヘノ御書翰正ニ相達申候。其
岩倉は大名華族らの旧領地への下向を歓迎した。
(一カ)
しかし、3 月 10 日に公家華族の鷲尾隆聚(元愛知
中之ヶ条ハ既ニ電信郵便等ニテ大 低 相済居
県令)が挙兵した西郷隆盛の意図をさぐるべく鹿
ニ、唯当地華族出金高未相分ラズ候ニ付何レ
児島に下向し、島津久光とともに西郷の説諭にあ
惣数何程相分り候次第其惣数ノミヲ電報ニテ
たりたいと建言したことがもとで、同月 13 日、
御報知可致候間、直様其数ニ因テ会館之金ヲ
東京において拘留されるという事件が起こり、さ
立替御差出方御取計有之度、各家之出金ニテ
らにこれに先立ち京都の華族のなかでも鷲尾に気
明細書ハ跡ヨリ郵便ニテ申上ヘキ積りニ御坐
脈を通ずるものがあると聞くと、大名華族の帰県
候」(3 月 27 日付岩倉具視宛尾崎三良書翰⑥)
(ママ)
にも一定の慎重な態度を示している。
「立花〔種恭〕・松浦〔詮〕兼テ勤王有志之人
しかし、京都での献金・贈金は難航した。
卒先帰県可被申立カト存居候処、今日ニ依然
「西京華族ハ至而静謐、西南ノ暴動ヲ痛心ノ人
何之音ナシ不審之事ニ候。鷲尾・五条、窃カ
ハ先すくなしと可申、全井蛙之見識故と存候。
ニ有志ヲ募リ非常 宮闕ヲ守ルトカ彼是奔走、
過日於支局懇会御坐候。太政大臣ヨリ柳原氏
忠カ叛カ尤不分明候得共笑止ニ不堪、話備御
へ御申越、撒糸一件も今日談合、近々相運ヒ
一笑候。京都華族中兼而鷲尾ニ関スル人ア
可申、兎角握貪ニ而出金ハ不至 至 存候。何
リ」
(2 月 21 日付木戸孝允・徳大寺実則・杉
れ委曲ハ柳原氏より可申上候」(3 月 21 日付
孫七郎宛岩倉具視書翰②)
岩倉具視宛東久世通禧書翰⑦)
(ママ)
↓
「華族 天気伺之義ニ付てハ追々申入候通にて
「今般衆華族ヨリ応分之出金、妻女ハ応分之綿
華族惣代松浦〔詮〕参向之上ハ何レモ差留候
撒糸贈与云々之事、廿三日飛信ヲ以委シク申
様仕向候」(2 月 24 日付木戸孝允・徳大寺実
入候。尚又今便東久世ヘモ一筆申入候。定テ
則・杉孫七郎宛岩倉具視書翰②)
夫々御承知ニ可相成候条、西京華族中宜敷御
説諭願候」(3 月 26 日付柳原前光宛岩倉具視
(2)献金
書翰④)
このように大名華族にとって西南戦争は奮起の
機会となりえたが、公家華族にとってはなかなか
そうなりえなかった。そこで、岩倉は負傷者への
そこで、三条は岩倉に説諭を加えることを提言
する・
献金・贈品を通じて奮起を促そうとする。
「贈金之儀当地滞在并ニ貫属華族申談相整次第、
「然者郵便ヲ以テ御申越有之候負傷兵士江送物
電信ニテ可申上一両日ハ隙取候半ト存候。何
之儀尤御同意宜希入候。金子ニテ差出候ヨリ
分当地之華族ハ実ニ難渋ノ小家ノミニテ木綿
品物差送候方可然歟。乍然割合金員之処御地
ヲ送リ候丈モ届兼候程ニ付、其上出金之処甚
ニテ御見込被相立御申越有之度。既ニ麝香間
困難ト相察、柳原抔トモ申談、程克懇諭各得
人々ニハ品物被相贈候申合茂有之候儀。麝香
心ニテ出金相成候様致候方可然申談周旋仕候
間計別ニ相成候義不可然候ハヽ、当地華族ハ
事ニ候。何卒御諒察有之度候」(3 月 27 日付
在住并滞在とも一束ネニ致シ相贈可申歟。尚
岩倉具視宛三条実美書翰⑥)
御地ノ御都合御示願度候。妻女等綿撒糸相調
候事一紙拝見、柳原抔御談異見無之候。但有
余暇者ハ自ラ看護ニ従事ノ文ハ御刪ノ方可然
- 54 -
「於是我聖明ナル
天皇陛下忝キ夙ニ軍人現場ノ惨劇ヲ思フニ忍
岩倉文書から見た西南戦争
ビス、特ニ天使ヲ発シテ軍人ヲ慰撫激励シ賜
シ候位故何分撒スルノ暇ナキ由何レモ理申出
フニ酒肴ヲ以テス。嗚呼宸念此ニ至ル、聖恩
候ニ付、勧業(女紅場)課へ依頼シ相調候次
ノ隆渥誰カ感激セサルアランヤ。況ンヤ現場
第委曲ノ情実柳原前光より陳述致され御承知
将卒敵愾ノ気ヲ増シ奮発ノ気ヲ長スル実ニ想
之義と存候」(4 月 5 日付岩倉具視宛徳大寺実
フニ堪タリ。亦我賢明ノ
則書翰②)
聖后深ク
天皇陛下宸念ノ在ル所ヲ補助シ特ニ親使ヲ発
(3)戦地慰問
柳原前光は献金・贈品を手始めとして、さらに
シテ現場負傷ノ軍士ニ賜フニ若干ノ綿撒糸ヲ
以テス。嗚呼
華族たちに奮起を促すべく、華族惣代による戦地
聖天子・聖后ノ深念此ニ在リ。臣民何ゾ黙止
慰問を岩倉に提案する。
スルニ忍ンヤ。臣実美・具視等恭ク惟ルニ、
「先般閣下御勧誘ニより従同族綿撒糸金円等負
今我西陲滔天ノ賊焔真ニ我前史ニ載セザル所
傷兵士へ寄贈頗高庇ニより義務竝名誉相立大
実ニ維新政府ノ隆替ニ関ス。而シテ我族ハ則
慶候。就而者追々暑気ニも相向ゐ将卒労苦可
華々族々者ハ則チ
想事ニ候故、前意ヲ今一層推拡シ惣代一両名
天皇陛下直轄ノ臣タリ。其直轄ノ臣タル者何
九州総督本営へ遣ハシ親王御安ヲ奉慰献物或
ゾ如此キ国歩艱難ノ時ニ際シ之ヲ坐視スルノ
ハ将官へ見舞品送り候而者如何哉と存候」(6
理アランヤ。然リト雖トモ今ノ
月 4 日付岩倉具視宛柳原前光書翰②)
朝廷ハ則創業ノ 朝廷ニ非ス。文武ノ官各既
ニ其所ヲ得、緩急ノ間素リ其職ニ非サルノ人
「武者小路〔実世〕・板倉〔勝達〕両人着京ニ
ヲ用ユルヲ要セス。我族何ゾ其間ニ干与スル
付去廿三日柳原・徳大寺・東久世・山本〔実
ヲ得ンヤ。然ラバ則或ハ云ン、我族果シテ今
政〕等同席御申含件々面承遂評議、贈物ハ灘
日ニ用ユル所ナキカト。何ゾ其忠愛ノ心薄シ
銘酒五百樽と決シ、坊城中尉以下同族武官ヘ
テ而シテ何ゾ用意ノ諫ナルヤ。臣実美・具視
ハ葡萄酒十六本ツヽ相送り候積り。右運送候
等切ニ思フ、我族仮令戦闘ノ功ヲ奏スルニ由
儀西郷〔従道〕中将へ示談、惣テ都合克相整
ナク亦制勝ノ策ヲ献スルニ乏シキモ、尚須ク
候間御安念有之度、船便次第右両人先ツ熊本
我族ノ真心ヲ尽スベシ。再念スルニ、今日ハ
本営へ到リ、次ニ各将官陣所へ巡回之筈ニ候。
聖意聖念ノ一意愛恤ニ在ルニ体認シ、我族
当地同族ヨリ総代一名差加候儀者致再評見合
万一義務ヲ果サンカ為メ負傷ノ軍士ニ若干ノ
候事ニ決シ候」(6 月 26 日付岩倉具視宛三条
綿撒糸ヲ贈リ将卒ノ全癒ヲ祈リ、併セテ我三
実美書翰⑧)
千万中ノ同胞三千万中ニ就テ数多ノ無智不軌
ノ薩賊ヲ速ニ誅鋤シ、以王師振旅ヲ短フセン
「武者小路・板倉去廿九日便船ニて先長崎へ向
コトヲ誓祈ス」(三条実美・岩倉具視の華族
ケ出発、其後熊本総督府へ参営之目途ニ候。
への親諭⑤)
尤贈物ハ従大坂陸軍局廻送之手筈ニて諸事整
候間御安念被下候」(7 月 2 日付岩倉具視宛柳
しかし、結局、献金・贈品は在官華族が中心と
原前光書翰⑧)
なった。
「負傷者へ贈金送品等之儀ニ付閣下格別御配意
「今般有栖川宮御本営鹿児島表御移転ニ付御尋
相成欣喜不啻候。当地滞在華族より贈金高過
問ノ為、実美・具視両人ヨリ依頼致シ松平定
日調出来ニ付山本〔実政〕へ申遣置候間、定
敬同所へ差立度、往復ヲ之除クノ外十五日間
而同人より疾申上御承知ト存候。在官華族出
御暇下賜候様奉願候也。
金五百三十円計と存候。且又妻女より贈ル撒
明治十年八月一日
綿糸ハ当地華族多分貧窶、妻女薪炊ヲ自ラ弁
第一部華族
- 55 -
Ⅱ.本 文 編
従一位 岩倉具視㊞
ようである。
第二部華族
り込み、国家有用の人材に仕立て上げようとした
「鷹司正五位陸軍少尉試補御採用云々今日電信
従一位 三条実美㊞
宮内卿徳大寺実則殿
ヲ以御掛合相成候処、右ハ電信ノ儀ニ付委曲
」
ハ相分り兼候へとも必竟此節柄非常之御採用
(8 月 1 日付徳大寺実則宛岩倉具視・三条実美
と奉存候。然ル処過日出立之節三良へも御申
歎願書⑧)
聞之通り、志操も未タ充分定ラサル少年ヲ以テ
(4)戦死者追悼
此職ニ任シ繁劇之場奔走致シ候迚格別之妙ハ
有之間敷候ニ付、矢張御自論之通り外山学校
西南戦争では華族からも戦死者が出た。彼等の
慰霊を通じて華族の奮起と結束を促すという案が
より順次御登進之方本人之為ニも可然と存候。
柳原から提起された。
則今日電報ヲ以条公より御返答有之候義ニ御
坐候間、尚此辺御含可然御指揮被下度奉願候。
「且又難波〔元明〕陸軍大尉木留口ニテ激戦奮
死ニ付、其賞典ハ他日陸軍一般之全局ヲ以テ
菊亭〔脩季〕も外山学校之義御序ニ御取計奉
朝議可被為在候得共、同族戦死ハ元弘・建武
願」(7 月 15 日付岩倉具視宛尾崎三良書翰⑧)
以来初度之儀、於同族名誉且賞賛すへき事柄
ニ候得共、何卒死者ノ霊父母ノ哀ヲ慰スル為
「過般尾崎〔三良〕書記官帰西之砌、鷹司熈通
同族ノ交誼ニ於テ可尽丈充分之殊典挙行有之
之義御懇諭之趣奉感佩候。武官ハ本人之宿志
度、右者全ク懇親上ニ而施行スレハ更ニ他人
ニ付陸軍外山学校ニ入学之義何卒御周旋之義
ニ関係可有之訳も有之間敷、同人戦死之屍ハ
御依頼仕候。毎事種々私事御面働相掛恐縮之
戦場ニ仮葬相成居候由ニ候得共、東京ニて招
至ニ存候得とも宜冀上候。過日電信ヲ以テ陸
魂祭取行候而ハ如何哉」(6 月 4 日岩倉具視宛
軍士官試補ニ拝任之事御申越相成如何之都合
柳原前光書翰②)
哉。何分電信ニテ更ニ訳柄相分兼候得共、何
分ニも先学術ヲ研究シテ他日之御奉公を遂候
方本人之為と存候ニ付御理申上候事ニ候」(7
「戦死両華族之事ハ如何ニモ御沙汰之通り近来
月 15 日付岩倉具視宛三条実美書翰⑧)
希有之韙事ニて別シテ同族方ニハ御欽望之御
事、如何にもシて特別表旌之御処置有之度候
へとも、朝廷より御処置之儀ハ一般ノ士官ニ
「鷹司熈通陸軍少尉試補拝任之義ニ付来示之趣
も関係いたシ候儀ニ候ヘハ如何ニも致方無之
致承知候。尚東伏見宮より親しく事情致拝承
候ニ付、何卒同族方御申合ニて戦死御祭事と
候処、全く花族御引立之厚き御趣意ニ被為在、
も盛会ヲ被催、且記念石ヲ建テ衆華族ノ奮励
且既ニ拝命候事故此上ハ同宮御懇情ニ服膺可
ニ相成候様御取計可然と奉存候」(7 月 15 日
仕相決シ、其段以電報申進既ニ御承知之事と
付岩倉具視宛尾崎三良書翰⑧)
存候。尚此上宜敷相願候」
「菊亭脩季始四名同族警部拝任之儀同宮より
「戦死候両華族弔礼之儀愚案ニハ墳墓若くハ戦
委細拝承、既ニ御着手相成候趣ニ付異議無之
死場所へ同族醵金ニて石碑建立、其伝ヲ叙載
旨過日以電報申進候通ニ候」(以上、7 月 23
シ弔祭之式於東京同族一同より相営み候事可
日付岩倉具視宛三条実美書翰⑧)
然乎。尚熟按別ニ差出候儀有之候得者可申進
候得共先如是候」(7 月 16 日付岩倉具視宛三
条実美書翰⑧)
2.各地の士族への対応
(1)士族への対応―山形(庄内)の場合
(5)華族の推挙
① 旧藩有力者(松平親懐・菅実秀)の懐柔
また岩倉は西南戦争を好機として軍に華族を送
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薩軍の決起と同時に広く懸念されたのは、東北
岩倉文書から見た西南戦争
の動静、とりわけ西郷信奉者の多い旧庄内士族の
示シ被成下、先以御厚情之段難有奉存候。尤
動静であった。それゆえ元庄内藩大参事松平親懐
西郷先生無道ニ組被為成候御方トハ不奉存候
の動向は当初から警戒の対象となった。
得共、如何之模様歟至極御按思申居候処、是
「松平権十郎弟某十四、五日前鹿児島行せし事」
又御調書ニ付御安否相分一段安堵仕候。猶県
(二月十三日大久保・柳原ヘ内談ヲ条書」⑤)
下之義ハ色々新聞上ニも相見ヘ御按思被成下
候義ト奉推察候得共、決而動揺致シ候事抔ハ
黒田清隆が開拓使の下僚を遣わし旧庄内藩有力
無之、必御安心可被成下候。只兼而御存被為
者の説諭にあたった。彼はまず元部下(元開拓使
在候通り彼ノ悪ル者等浮説ヲ唱ならし出京致
大判官)の松本十郎を通じて松平親懐や菅実秀の
シ官員方ヘ色々吹込、其故
条公御始メ御疑念モ被為在候歟之様ニ承り候。
説諭を試みる。
「今度旧御県〔鹿児島県〕ニ於テ士族等暴挙一
乍去四、五輩ニハ不過、是ハ人気ヲ動カシ候
件諸新聞ニ於テ確証ヲ掲載一同承知仕、旧御
者ニテ元ヨリ小人之常ニ有之、とるニ不足、
県ト申セハ外県士族共別段ト見做シ様々他ヨ
前条之次第ニ御坐候ヘハ決而御按思被成下間
リ臨ミ可申候得共、如前条大義名分方向ヲ定
敷様奉願上候。此度被遣候志賀〔清任〕モ山
メ聊モ順逆ノ道ヲ不取失愈以テ一般ニ 大政
開拓之若キ者之先ニ立居候者ニ御坐候得者、
府ヲ奉戴、今ヤ敢テ一人モ方向ヲ謬リ無之候。
実事モ大抵覚居候間、猶委細之処ハ御聞取可
小生固ヨリ
被成候」(2 月 24 日付黒田清隆宛松平親懐・
閣下ニ何ヲカ包マン。管〔菅実秀〕ト申モ
菅実秀書翰〔国立公文書館所蔵岩倉具視関係
閣下ノ御案内ノ通リ人物ニ付如此大義名分一
文書「諸件雑集 明治十年一」〕)
旦決定ノ上ハ飽迄其趣意ヲ貫徹、又無論ニ
候」
(2 月 20 日付黒田清隆宛松本十郎書翰〔国
「今般志賀ナル者ヲ以懇々被仰下候趣 遂 一拝
立公文書館所蔵岩倉具視関係文書「諸件雑集
承、先以毎々御厚情之至万々難有奉謝候。実
明治十年一」〕)
ハ先頃ヨリ新聞上ニ者種々相見候得共何分確
↓
(ママ)
実トハ致シ兼大ニ心労致居候処、今般確報ヲ
「書中西郷隆盛之動止ニ憶評懸念スルノ語一モ
得大ニ安心いたし、乍併無止事時情ニモ可有
無之ハ彼等其真情ニ於テ闕ル所アリ。抑松本
御坐候得共甚残念之至、段々ノ情体ヲ熟視ス
辞職、函館ヨリ直ニ帰県セシ後只一回極メテ
ルニ甚無忌憚事申上候得共、桜島弾薬一条抔
短簡ナル普通ノ礼状ヲ黒田長官エ送リシノミ
ハ引出サレタルモノト相見ヘ殊更遺憾ニ御坐
ニテ其交際ノ疎薄ニ移リシコトヲ証スルニ足
候。随テハ政府御始世上ニテハ庄内モ尽疑念
ル。然ルニ書中(閣下ニ何ヲカ包マン。管ト
も有之様ニ御坐候得共実ニ歎息ニ御坐候。い
申モ云々)切実ニ似タルヲ示スノ語ニ至テハ
かに固陋ナリトモ暴挙ニ雷同可致訳更ニ無之、
彼却テ其尾毛ヲ顕スモノニシテ畢竟此書ハ我
御明察之事故彼是申上候迄モ無之候得共、此
ヲ怠ラシムルノ策ニ出タルモノナラン歟ト憶
義ニ於テハ聊御心配被下間敷候」(2 月 24 日
察仕ル」
(同上に付された阿部隆明の意見書
付安田定則〔開拓権大書記官〕宛松平親懐書
〔国立公文書館所蔵岩倉具視関係文書〕「諸件
翰〔国立公文書館所蔵岩倉具視関係文書「諸
雑集 明治十年一」)
件雑集 明治十年一」〕)
↓
また、松平・菅に直接説諭を試みる。
「過日奉達 御内聴置候黒田〔清隆〕長官ヨリ
「過日鹿児島県下弾薬積込之為大坂鎮台ヨリ汽
庄内ノ松平〔親懐〕・菅〔実秀〕エ書状ヲ為
船赤龍丸被遣候処、同士族積込之途中奪取候
持遣候志賀清任ト(庄内人)申者昨日返書ヲ
趣、右ニ付都下風説紛々相唱此之地ニテモ浮
取帰京候ニ付、不取敢右写并安田定則ヘ松平
説而已多虚実不分明之処、段々之形勢逐一御
ヨリノ書面共写取供高覧候。志賀ヨリ親ク聞
- 57 -
Ⅱ.本 文 編
取候ニモ先差タル異状無之哉ニ相見候得共、
黒田長官ヨリ書状差出候節ハ隆盛等ノ事情判
このような事態を前に岩倉は京都の三条に布告
然不仕内ニテ、右志賀ナルモノモ帰京ノ上隆
書の公布といざというときの軍隊の発動の許可を
盛等ノ賊魁タルヲ始テ承知驚キタル模様ヲ見
求める。
受申候。然レトモ最早爰ニ至リ仮令暴挙候共
「一 鶴岡士族、西郷始メ官位剥奪之義聞知、
必 高慮ヲ被為労候程ノ事ハ有御座間敷歟ト
俄ニ模様相替り何時暴発モ難計報知アリ。
奉恐察候」(3 月 6 日付岩倉具視宛西村貞陽
右ハ宮城鎮台探偵ニシテ地方官暗号電信ト
ハ稍差違アリ。未可信ト雖トモ弥反状顕然
〔開拓大書記官〕書翰⑦)
之上ハ只速ニ討滅スルニアルノミ。右ニ付
彼御征討之御布令書兼て御廻シ置願候。尤
② 軍隊の発動
松平らから黒田・安田への返書を見てもわかる
留守ノ任アリト雖トモ軍事ノコトや素ヨリ
とおり、黒田は薩軍に西郷が参加していないと述
大事、殊ニ軍議ハ 行在所云々ノ御布令も
べたようである。後に西郷の関与がわかったとき、
有之候旁御布令案予メ御廻シ願候。万一只
西村はだからといって心配には及ばないと岩倉を
今ニも頓発候ハヽ暗号電信ヲ以御往復申候
述べているが、当の岩倉はこのことを重く見てい
間、速御下知之様兼て御含ミ置願候。
一 鶴岡之義ハタトヒ暴発候トモ四境ヲ固メ
た。
置キ暫く差置候トモ格別ノコト有之間敷、
「午後四時岩倉殿江参上候処、上段奥之間ニ案
内あり而右府面会あり。左に
偏ニ西陲之賊燼滅一途ニ力ヲ尽シ候得者其
此度鹿児島暴徒朝威を不憚熊本江蹈入候ニ付
他ハ顧ルニ足ラスト云々説アリ。臣甚憂之。
鎮台より抗撃致候ニ付最早天下之大乱と相成
依て弥暴発ノ上ハ内閣海陸責任之者ト密談
候。就而東国之方面者如何可有之候哉。
シ、其機ヲ不誤可奏功ト存候。是レ関以東
予答而曰ク。米澤士族之過日来騒立候事者製
ハ勿論天下ニ声焔ノ係ル所大小軽重不可定
糸場設立ニ付而資本金募集とし而凶荒備籾を
ル者可有之ト存候。既ニ金沢士族壮士輩、
其掛之者公評ナシニ売却より起り候事ニ而、
茨城県、旧会津、弘前其外追々少々ノ事相
此度九州之禄券一条より憤怒致候事と者雲泥
聞ヘ候。モシ鶴岡処分日ヲ曠シ候ハヽ足下
之事なり。然らハ此度決而鹿児島暴徒と声援
トシテモ不可測者有之へくト存候」(3 月 9
を通じ候様の事ハ断し而無之御安心被下度旨
日付三条実美宛岩倉具視書翰②)
申述。庄内之事ハ士族組合を立て開墾致し遥
これに対して、三条は布令書の公布は拒否する
に西郷ニ声息を通じ居るよし承り候得者、此
度若しも西郷にし而暴挙之一人ニ有之時者庄
ものの、軍隊の発動については許可を与える。
内之処ハ保證すべからず。但し西郷不動時ハ
「三島〔通庸〕県令ヨリ電報之趣ニテハ暴挙之
此亦決而御懸念ニ及まじと申述」(宮島誠一
形モ無之趣安心仕候。御示之如ク鎮台報知ト
郎「養浩堂日録 明治十年丁丑」〔早稲田大
ハ反対之儀ニ付余リ軽侮ニハ無クヤトモ被存
学図書館所蔵宮島誠一郎文書〕、2 月 25 日条)
候得共、同人儀ハ鶴ヶ岡県ノ事情ハ従来悉シ
ク承知之訳ケ同県士族ニ於テモ相服シ居リ候
間、定メテ相違モ有之間敷ト信用致候。尚右
「十時前政府江出頭候処、右府左に 昨日御高慮之続致相談候庄内之処ハ西郷さへ
ニ付御申越之趣評議ヲ遂ケ候処、征討ノ儀ハ
不動時者加担不致よし申聞候処、西郷此度之
不容易事柄ニ付内密トハ申シ乍ラ反跡未タ顕
発党にて暴徒を指揮して進来候ニ付昨日官位
然無之処ニ御布令書予メ御廻シ申候儀不可然
褫奪被仰出候。茲に到り庄内方向者如何相成
トノ評議ニ及ヒ候間、則昨日電信ヲ以テ御答
候哉。且米澤之処ハ西郷之進退ニ影響可有之
エ申入候次第ニ候。尤軍事之儀ハ間髪ヲ不容
歟及相談候となり」(同上、2 月 26 日条)
神速ヲ尊ヒ機会ヲ不失ル様肝要ニ候得共、征
- 58 -
岩倉文書から見た西南戦争
討ノ事タル実ニ国家之大事件ニ付未前ニ御布
心ニ掛り居一事候。右ハ疾ニ御注意被為在候
告御廻シ申候儀如何ト心配仕候。尤万一反状
御事トハ奉存候得共、人民私送ハ兎角遅引可
顕然以電信御報知有之候節ハ即刻御発令相成
相成候間、官ヨリ御差送被下候方可然ト存付
候筈ニ候間、此段於当地評議ノ次第御答申入
候まゝ書取ヲ以テ申上候」(3 月 5 日付岩倉具
候。尤暴挙顕然之節ハ征討之令無之トモ鎮台
視宛吉井友実〔元老院議官〕書翰③)
↓
ニ於テ臨機之処分ニ及ヒ候ハ勿論之事ト存候。
右鶴ヶ岡事件ニ就而ハ不一方御配意之儀ト存
「山形県人ハ日々官軍之勝報以電信相報申候。
候。多分無事ニ可有之候得共尚御注意申迄モ
其他之県ヘハ大勝利云々之報告のみ仕置候儀
無之儀ト存候」(3 月 13 日付岩倉具視宛三条
ニ御坐候。猶新聞紙之逓送方等一層注意相加
実美書翰①)
御意ニ相適候様可仕候」(3 月 5 日付岩倉具視
宛前島密〔内務少輔〕書翰③)
↓
「庄内着手見込今日陸軍ニ於テ評議之上決定ノ
これ以降も岩倉は勝報の通達を京都の三条に求
筈ニ候得共、予メ今朝内閣ニテ西郷〔従道〕
・
前嶋〔密〕等評議之処、山形江一大隊、巡査
めている。
三百名、越後江二大隊、巡査三百名、先右辺
「諸口官軍日々勝利吉報尤欣喜。然ルニ開戦ヨ
ニテ可然哉ノ義ニ候得共、山形之方今一大隊
リ数週日ヲ経タリ。実地如何ト遥察。素ヨリ
可繰込之評議モ有之候。最巡査ニモ兵器ヲ渡
廟謨本営閑暇ニ於て一点遺算無之事ニ候得共、
シ候」
(3 月付岩倉具視意見⑤)
如此して尚数日ヲ経バ捷報モ却て世人疑惑ヲ
生スルノ基トナラン歟。既ニ昨日新聞ニモ疑
惑之語ヲ発セリ。厚御注意有之度候」(3 月 9
③ 勝報の喧伝
日付三条実美宛岩倉具視書翰②)
岩倉ら政府要路は、庄内士族の決起は九州の戦
況如何によると考えていた。
「鶴ヶ岡も未た暴挙ニ至ラス。恐ラクハ賊ノ勝
④ ぬぐえぬ不安
3 月下旬になると、庄内の状況は落ち着き、政
敗ニテ起ルヘシ。何レニ致シ是ハ御懸念ナカル
ヘシ」
(3 月 5 日付黒田清隆宛岩倉具視書翰②)
府要人の安堵の色が見え始める。
「鶴ヶ岡之儀ニ付尾崎ヘ御申含之次第モ有之候
処、十八日付御書状ニテ愈静謐之趣承リ候ニ
「鶴ヶ岡模様種々探偵之趣も候得共十中七、八
鹿児島賊之勝敗ニ依り進退スヘキ者ト被存候。
付別段御廻シ不申候」(3 月 20 日付岩倉具視
此義ハ内務卿ヨリ御聞取と存候ニ付別段不申
宛三条実美書翰①)
入候」
(3 月 8 日付三条実美・木戸孝允宛岩倉
「鶴ヶ岡之形勢段々御煩慮被為在候処、其後県
具視書翰②)
令電信ニテ即今平穏何モ懸念之廉無之、同人
それゆえ政府軍の勝報が喧伝された。
保証スルトノコトニ而大ニ安心仕候」(3 月
「扨東北諸県并鎮台分営等電機相通候場所々々
20 日付岩倉具視宛伊藤博文書翰①)
ヘハ九州之捷報一々無遅引御通相成度、尤山
しかし、その一方で現地からは次のような報告
形県之如キハ一刻モ早ク御通知相成度、不逞
之徒ハ悉ク九州之勝敗ニ因テ進退ヲ決シ候ハ
が岩倉のもとによせられた。
必然、尤騒擾之際浮説流言ハ当然之事ニ候間、
「今般船越〔衛〕氏帰京ニ付一書奉拝呈候。当
早ク確説流布致方向ヲ不誤様御注意祈望仕候。
県下之情況先般上申仕候末先鎮静仕、今日ニ
将亦新潟・新発田等電機不通之場所ヘハ態ト
至別段異状無之御放念奉祈候。其初推考仕候
新聞御仕送り相成候ハヽ、県官・軍吏大ニ安
ニハ何程歟暴挙も可有之哉之模様、是ハ兼而
堵可仕、地ヲ換テ考察仕候ニ嘸西南ノ勝敗ハ
御存被為在候通り、気脈欵接之処ヨリ饗応必
- 59 -
Ⅱ.本 文 編
込ニ御坐候。
然ト朝野之嘱目スル処ニ付、兵力ニ非レハ鎮
一 貴下〔佐佐木高行〕の処は少々愚考も有
圧難仕ト奉存候処、速ニ兵隊御差遣し相成候
之候間、尚面上可申入候。
ニ付、彼徒之勢気頓ニ相折ケ妖焔ヲ未然中ニ
一 毛利〔恭助〕・廣田〔均〕の両人も、可
消滅仕、全ク兵勢故之儀ト推測仕候。当県官
成早便出足可然存候。
者巡査ニ至迄彼地方之者多く彼事件ニ付而ハ
公然ト協議も難出来釣合等も有之、一時痛心
右之条々申入度、如御坐候。早々以上
此事ニ御座候得共、爾後松平〔親懐〕氏呼寄
二月十二日
一応尋問仕候処、同氏ニ於テハ別心有之様子
も聊不相見、已然西陬之模様ニ依りてハ今後
佐々木高行殿
具視
」
(『保古飛呂比―佐佐木高行日記』七〔東京大
之処も万可慮義無之とも難申候間、兼而彼地
学出版会、1975 年〕、123 頁)
ニ貯蔵罷在候銃器・弾薬等者此際ニ乗し夫々
処置可仕手筈ニ御坐候。
一 坂元〔純凞〕氏出張相成候頃ハ松平氏之
山内豊範は 2 月 13 日玄武丸にて横浜を出帆、京
尽力説諭も有之候哉ニ而、彼徒已ニ翻然改
都へ向かう。河野・中島の両名は翌 14 日東海丸
図之後ニ在りテ為指景状ニも認識致間敷哉
で京都へ向けて出向。しかし、豊範はもちろんの
ト愚考仕候得共、彼地実況ハ全ク最前より
こと、両名も京都で足止めにあう。岩倉は新たに
追々上申致置候通ニ付、其辺御含被為在御
佐佐木高行(元老院議官)と岡内重俊(権大検
取捨之程奉希上候」(3 月 21 日付岩倉具視
事)を京都に派遣する。
「河野・中島共西京へ被留候様子。付而ハ高知
宛薄井龍之〔山形県大書記官〕書翰②)
旧知事折角帰京ニても或ハ無用ニ属シ可申ニ
(県カ)
九州の戦況如何ではどのような行動に出るとも
付更ニ佐々木〔高行〕・岡内〔重俊〕両人被
わからないという不安から、岩倉はこれ以降も庄
差遣候様斉藤〔利行〕議官態々申出候。是も
内士族に警戒の目を光らせている。
後クレザル様明日便船ヨリ差立可申と存候」
「旧庄内藩云々之儀被仰聞趣承知仕候。早速掛
(2 月 19 日大隈重信宛岩倉具視書翰④)
り之者へ夫々無手抜猶探索方可取計旨申付
候」
(4 月 14 日付岩倉具視宛安藤則命〔中警
「河野・中島御用ヲ以て西京ニ御留メ之趣ニ付
視〕書翰③)
てハ折角旧知事帰県候而も充分之運ひニ難到
ト斉藤〔利行〕・佐々木〔高行〕頻りニ申出
(2)士族への対応 ― 高知県の場合
候ニ付、参議ノ中内談候処可然トノ義ニ付、
① 政府要人下向の延引
今便ヨリ佐々木・岡内〔重俊〕差立申候。余
庄内士族の動向とならび岩倉及び政府要人の警
計之義ト存候得共高知県も油断ハ不相成義ニ
戒の対象となっていたのは高知県士族の動向であ
付差許候」(2 月 20 日付三条実美・木戸孝允・
った。岩倉は高知に帰県する旧藩主山内豊範に元
大久保利通宛岩倉具視書翰②)
老院議官の中島信行と河野敏鎌を帯同させ、県下
の鎮撫にあたらせようとする。
「河野〔敏鎌〕・中島〔信行〕ハ先便申進候通、
「尾の道より唯今川村〔純義〕・林〔友幸〕等
太政官出仕被命将来御用之廉々可被当、佐々
より電報、最早破裂と見据申候。就ては、明
木〔高行〕ハ従明日頃土州出発(少々延引
日玄武丸可差立ニ付、兼て御約申置候次第有
也)、山内ハ尚当地ニ滞在、此末形勢ニ応し
之候間、旧知事山内殿へ宜敷御通知有之度候。
出立之事」(「別紙柳原把筆」〔2 月〕⑤)
一 中島〔信行〕義ハ、明朝私願を以て帰省
申立、聞届候筈ニ候。
3 月 8 日に河野に高知県派遣の命が降るが、佐
佐木・中島の高知下向はなおも延引される。彼が
一 河野〔敏鎌〕儀は、御用を以て差立候見
高知県に入るとかえって士族たちを刺激するとい
- 60 -
岩倉文書から見た西南戦争
心得迄ニ申入候。尚又此度何レカ勝候共、天
う政府要路の思惑があったようである。
「私事も東京出足之節ヨリ速ニ入県微力を尽候
下ハ薩ノ天下也。此時ニ際シ威力ヲ殺キ、幸
心組ニ御座候処、御聞取被仰付候通西京ニ於
ニ土人志ヲ得ヘシトノ趣意。乍去右等ハ極密
て種々見込有之、入県仕候而者返而立志社等
探偵者ヨリ聞ク処ニテ、表面ハ鷲尾計リトシ、
へ抵抗シ動揺を醸候抔之説も差起候事ニ相成、
両人ハ影武者ニテ隠然策ヲ施候次第ニ付、表
心外ニ西京ニ滞在罷在候」(8 月 3 日付岩倉具
向キ着手モ不相成候。過日来同志ト申者、凡
視宛佐佐木高行書翰⑧)
ソ八十名余ニ及ヒ候」(3 月 11 日付三条実美・
木戸孝允書翰〔国立国会図書館所蔵岩倉具視
関係文書(川崎本)「東西報信草案 第二
また、いまだ佐佐木や中島が入県するほど事態
号」〕)
は切迫していないという認識もあったようである。
「高智之処も先ツ今日迄ハ相替義も無之由。中
国も先左まて之事も無御坐候。唯此上之模様
島本の拘引は高知県に影響を及ぼすことを予期
次第ニ可有之候。九州丈ハ夫々押へ付ケ有之
させた。岩倉はこの件につき尾崎三良(太政官大
候得共中国迄は行届不申、乍去是ハ京師近傍
書記官)を京都に派遣する。
ニ候間臨機如何様共処分相調申候間、御安心
「鷲尾・嶋本一件難差置義ニ付今日俄ニ尾崎三
被為在度候」(2 月 25 日付岩倉具視宛大久保
郎差立候。就而者種々御内談申入候条々宜敷
利通書翰②)
御聞取同人江御答願入候」(3 月 13 日付木戸
孝允宛岩倉具視書翰〔国立国会図書館所蔵岩
倉具視関係文書(川崎本)「明治十年岩倉公
「高知県之処も当節艦之往来甚不便ニ相成事情
返書草案 弐」〕)
速ニ相通不申、佐々木ニも未滞京仕候。併近
報承り候処異状無之由ニ候」(3 月 3 日付岩倉
三条らも事態を憂慮した。
具視宛三条実美書翰⑤)
「鷲尾〔隆聚〕一条も御着手云々拝承、猶其後
そのようななか、公家華族の鷲尾隆聚(元愛知
委しく御吟味之次第早々申越給度、自然高智
県令)が 3 月 10 日に提出した建議がもとで 13 日
辺(板垣・後藤等)ニ関係有之候而者又々心
に東京において拘引された。「人民ヲシテ国ノ為
得モ有之候間、内々御示願度候」(3 月 18 日
メニ尽シ君ノ為ニ尽シ或ハ国益ヲ謀リ人民方向ヲ
付岩倉具視宛三条実美書翰④)
誤ラサル様尽力致度」との意図から鷲尾とともに
この件につき中島の高知県下向が現実味を帯び
報国社を結成した旧土佐藩士島本仲道(元司法大
丞)は、提出の前日にこの建言を示され、自分も
始める。
政府に建言するつもりだと鷲尾に述べたという。
「島本〔仲道〕拘留云々之儀ニ付高知県へ波及
このことから、島本も 14 日に拘留される(「鷲尾
セサル様ニ予防之為メ中島〔信行〕議官ヲ被
隆聚建言・同人口供・嶋本仲道口供・沼間守一演
差遣候筈。しかし島本御糺問之始末今少シ御
説書」
〔国立公文書館所蔵岩倉具視関係文書〕)。
報知次第出立之積りニテ既ニ今日電信ニテ申
岩倉は鷲尾の建白の背後に島本や岡本健三郎の影
上候次第ニ御坐候」(3 月 19 日付岩倉具視宛
を見ていた。
尾崎三良書翰④)
「此中間ニ入ル者ハ土州ナリ。仍テ先鷲尾ヲ使
しかし、高知県の情勢がこれによって動揺しな
ヒ、追々同志ヲ募リ、此説ヲ拡充シ、天下ノ
人心ヲ得、大ニ為ス者アリ。仍テ近々島本
いことが明らかとなる。
〔仲道〕
・岡本〔健三郎〕下坂帰国、専ラ板垣
「猶島本仲道ノ儀ハ出立之節も巌谷〔修、太政
ヲ説ク見込之由ニ御座候。意外之奸計ナカラ、
官大書記官〕先生へ申上置候儀も有之候処、
或ハ板垣動カサルヽコト無之トモ言難シ。御
追々不良徒ヲ嘯集し奸謀相企テ発露警視局拘
- 61 -
Ⅱ.本 文 編
引相成候趣、右劣生京都着之上中村〔弘毅、
ヲ称ヘ、前左太臣久光ヲ始メ有志ノ輩ヲ闕下
太政官大書記官〕氏も密談之節、仲道云々為
ニ被為召集、天下ノ公議輿論ヲ以テ止戦ノ大
差事も有之間敷候得共決して見捨置がたく申
号令ヲ被仰出候様申出候得共、拙者之ヲ排斥
入置候。乃チ条公・大久保殿へも中村氏ヨリ
シ今日戦ヒ酣ナルニ当り休戦ナドノコト思ヒ
御内聴ニ入れ候由之処、此儀ハ自御地委細御
モヨラス、所謂論スベクシテ行フベカラザル
懸合尾崎〔三良〕へ御託シ中村氏ヘノ貴書拝
事ナリ、断念スヘク申聞候事ニ御坐候。誠ニ
見仕候。其節同氏ヨリ土国着手如何哉見込申
贅言ナガラ申上置候条、条公・木戸氏ヘハ
出候様内談ニ付、右仲道・鷲尾〔隆聚〕両人
内々申陳置候」(4 月 5 日付岩倉具視宛徳大寺
拘引ハ十五日電報ハ既ニ滞京立志社組ハ承知
実則書翰②)
仕候得共別ニ意トセズ、決して驚候様ノ事ハ
無之候。如何トナレバ板垣・後藤両人仲道出
「高知県事状賢孫〔具定〕御出発之際従条公御
会談論せしハ前月十二、三日之事にて、鹿児
内示之通ニ而、立志・静倹両社建白者従佐々
島暴徒官庫ノ弾薬ヲ奪ひ続て太平丸ヲ拘留せ
木〔高行〕内々借受、従前光賢孫へ御渡し申
し事ノミ東都ニ聞へ、右ニ付板垣ハ土国ニ帰
置候間定而御覧と存候。右建白異同有之候得
り人心ヲ結合シ西陲ノ勢ニヨリ臨機進退シ、
共、護郷兵一条ハ各社衆議同意、尤立志社建
先民権ヲ主張シ政府ノ模様ヲ視察シ時宜ニヨ
白稿片岡東京へ持参、同志ニ謀り候処点刪有
リ右主意ヲ突立ベシ。後藤ハ西京ニ上リ政府
之候故、其後林有造高知へ行キ再議ニ取掛り
之処分ヲ見ルベシ。島本ハ東京ニアル嘯集結
候趣(此点刪ハ征薩ヲ不可トシ休戦ヲ乞フノ
合して民権ヲ更張スベシト而已ノ談論、板垣
意ヲ最初ノ建白中ヘ増加セリト)」(6 月 4 日
ヨリ機密ハ深ク不談候。如何トナレバ仲道ハ
付岩倉具視宛柳原前光書翰②)
忍ブコトノ不出来ヌ人にて一方ノ惣督ハ粗暴
にて決して出来ヌナリト云ひ、右位ノ打合せ
しかし、このような動きも重要視されず、佐佐
ゆへ此度拘留相成候ても立志社ノ人気ニ関シ
木・中島の高知下向に結びつかず
「過日賢孫〔具定〕へ高知県事状申述候節、尚
候儀ハ無之候。既ニ板垣等御地出立之節ハ薩
賊之出立詳細不相分、又板等出立爾来仲道ハ
余情者佐々木談合書取追而可差上申入置候。
書柬ノ往復も無之、又東京にて島本ノ奮発如
即其後佐々木と会合内話承及候処、前述件々
何可有哉とも懸念無之ノ事、又深ク関スル所
ト今便従条公御送り相成候休戦論一件位ニテ
もナキ故拘留相願とも社ノ激動致候様ノ事ハ無
其他ハ暗刺明殺ヲ企ツル等之風聞ニ候故別ニ
御坐候」
(3 月 19 日付「立志社探索密書」⑦)
書取言上不仕候」(6 月 4 日付岩倉具視宛柳原
前光書翰②)
政府の要人の間では安堵の色も。
「鷲尾・島本等何カ陰謀有之趣ニテ已ニ拘引相
② 佐々木高行・北村重頼の入県と士族への対応
このようななか、中島の東京帰還の報が京都の
成候由、尾崎三郎ヨリ承知仕候処、其後御取
調之始末如何ニ御座候歟為差事ハ有之間布、
柳原から岩倉のもとに届けられる。
唯口舌上之犯論而已ニテ実事ハ何モ出来不申、
「拝別後陸奥〔宗光、元老院議官〕幹事ニ面会
漸ク煽動ニ止リ可申歟ト被察申候」(3 月 20
承及候処、中嶋〔信行〕議官今明日中ニ大阪
日付岩倉具視宛伊藤博文書翰①)
出発帰府之赴ニ候。然ルニ過刻御内談御坐候
これにより中島の高知県下向も延引となる。
通、高知県下実ニ可注意ニ付、土方ヲ以テ旧
一方、これを機に高知県士族の間では休戦論が
知事及佐々木土佐へ可被差遣、条公へ御申入
之次第モ有之。愚考候処京都ニテハ河野〔敏
高まる。
「去日高知県士族秋沢貞之(陸軍大尉当時非
鎌〕ノ後命ヲ信シ無懸念ト考中嶋被差帰候事
役)ナル者実則邸ヘ来り頻ニ熊本表ノ休戦論
ト存候事得共決而不可油断、且佐々木一人ヨ
- 62 -
岩倉文書から見た西南戦争
リ中嶋同行之方可然被存候間、如左至急条公
室も亦類焼ヲ不免ル者アリ。深く御注意
へ電報御発相成候テハ如何ニ候哉。
是祈。
一 因州士族密談、返答振り其外尋問之輩
西京 東京
へ同断返答云々。
太政大臣殿 岩倉 ―
高知県下ノ事情ヲ探偵スルニ甚穏ナラズ委曲
一 旧知事及佐々木・中島等御差下シ如何。
ハ明日土方ヲ差立御報知ニ及ブ。依テ中嶋議
一 暗殺論云々。
官今明日之内ニ大坂出発ノ趣ニ承知スル故、
此地土方言上ト別紙探偵書トニ譲ル。外
先土方着迄ノ処同人ノ出発御差止メアリタシ。
ニ彼レヲシテ疑惑ヲ懐カシムル尤重事件
右以暗合御発信可然乎。仮令土方着京後、旧
ニ付注意云々
知事及佐々木高知行之儀不被行候共、要スル
一 四国鎮台尤御注意御大事ト愚考ス。其故
ニ中嶋四、五日間帰京延引ニ相成候丈之事故
ハ追々繰出シ兵員僅々ナルヘシ。而シテ器
可然愚考候。前件甚老婆心ニ候得共此際内々
械弾薬充分ノ備ヘアルヘシ。若シ一朝之ヲ
御参考拝啓候也。
奪ハルヽ時ハ其害不少ニ付大兵ヲ入ルヽ歟
四月六日
其コト勿ンハ器械・弾薬当用分ノ外大坂ニ
繰込候方可然歟」(「岩倉公意見」〔4 ~ 5
柳原前光
月〕②)
右大臣殿
内啓
」
5 月頃から日向の薩軍が海路、四国にわたって
(4 月 6 日付岩倉具視宛柳原前光書翰⑥)
高知県士族など呼応する危険性が叫ばれはじめ、
新たに岩倉から派遣された土方久元(調査局
政府は海上の警備に乗り出す。
「高知県事情之儀先般第四号公信ニて申進置候
長)は休戦論の勃興を重く見た。
「止戦論者随分盛之趣、鷲尾・嶋本辺之議論既
末、一昨十四日権令小池浩輔〔国武〕より別
ニ波及仕居候事ト被察申候。賊之跋扈仕ハ勿
紙之通電報有之。就而者機ニ不後処分之方略
論不好形状ニ御坐候得共、官軍之勝利亦不好、
内務卿及西郷中将へも示談、精々配慮致居候。
兵結テ不解長引候中ニハ政府上可乗之機会不
薩賊党類日向ニ散集候ニ付其余波四国ニも連
至哉ト陰ニ窺居候様子ニ御坐候。右ニ付密計
及、到底平穏ニ相済間敷懸念候」(5 月 16 日
ヲ破リ漸ヲ以テ正議之方ニ転シ候様専ラ注意
付岩倉具視宛三条実美書翰④)
尽力仕居申候。彼ノ手足ヲ削候時ハ首領ノ陰
謀自然施ス事不能第一之上策ト愚考仕居候」
「四国旧藩ヘ人ヲ遣ス事大久保ヘ相談候処、至
極宜シクハ可有之候得共、余り此方ヨリさわ
(4 月 14 日付岩倉具視宛土方久元書翰⑥)
ぎ候様ニテモ不可然ニ付機会ヲ見、此方ニテ
また、岩倉は京都へ向かう土方に具体的な高知
夫々処置可致との事ニ御坐候。四国・豊後ノ
間ニ海上備ノコト大久保・西郷も同論ニ候。
県対策を示していた。
「一 高知県事情尤大事、決て不可軽侮ル者ア
是レも閫外御委任ニ付強而致方も無之、尤二、
リ。則チ土方(久元)ヨリ御聞アルベシ。
三艘ハ備へも有之趣ニ御坐候。九州ノ形勢前
一 外国人内談器械弾薬船等云々。
述之如キ故都合ニより西郷ヲ暫時熊本まて遣
一 金権立志社ニアリ。既ニ収納金廿万円
シ、山県江打合セタラバト大久保内心有之候。
・・・ 喬任ノ見込ニテモ何れも格別ノ事ハ有之
云々。
一 林有造東京ヘ帰来、山林代金云々。
間敷、只少々長延仕り可申、就而者各所にも
一 為換方ヨリ四万計融通弾薬云々。
唯禍機ヲ未発ニ防クコト肝要ノ亦肝要ト奉存
一 政府士族兵ヲ募ラハ云々。
候」(5 月 22 日付岩倉具視宛大木喬任宛書翰
一 西郷ニ與セサル云々信スヘシト雖、石
②)
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Ⅱ.本 文 編
如何共難致処ヨリ斯迄相延ヒ罷成申候。乍然
「豊後地方之賊四国路エ逃走モ難計ニ付為取締
此方ヨリモ何レトカ御知セ可有之モノト壮兵
赤松〔則良〕海軍少将江協議之上、本日玄武
輩モ遺憾ニ存候位ニ御座候段申来候旨。桐野
丸ニ海軍士官為乗組両豊并伊土 海エ差出候
氏ヨリ県令布告使節差立候故早ク ニ相
ニ付而ハ、別紙之通山県・川村両参軍江及電
心得居候段被相答候処 御座候。夫ヨ
報置候条粗者音信文ニ而御了解相成度。尤委
リ事ヲ挙候始終巨細ニ被相談候ニ付頓ト安堵
細ハ一両日中従道出京、縷々陳述可仕候也」
致シ候ニ付、速ニ罷帰リ勃興致、互ニ気 時 罷在候テ相立チ候由ニ御坐候。幾度モ
(6 月 5 日付大久保利通・伊藤博文宛西郷従道
因循ハ不致候間其儀ハ合点致呉候様申述候
書翰④)
由」(「高知県ノ両士ヨリ大坂辺ノ景況承リ得
候形行」①)
「一昨日已来縷々申越シタル九州ノ賊四国エ逃
走モ難計ニ付征討海軍ニテ厳重取締ニハ相成
候由ナレトモ先日申入レタル通玄武丸ニ海軍
「昨日高知県人桐野ノ処ヘ来訪候由、今日態ト
士官ヲ乗セ本日ヨリ差出シ九州・四国海岸ヲ
高城ナニ被差遣候。委細承候。土州ニ於テハ
取締ル。尤四国ハ伊予長浜ヨリ土佐サダ足摺
唯今迄遅延致シ、定テ因循者ト御考ノ筈実ニ
岬ヲ界トシ不絶厳戒ヲ加ヱ、九州ノ賊ヲシテ
銃器・弾薬ニ乏ク夫故如此次第ニ押移リ候間、
四国ニ渡ラシメザル様廻舟シ臨機之所分ヲ命
最早直様出発可致、決而因循不致トノ事至極
ス。尤当時小蒸気船九艘ヱ大砲ヲ積ミ各舟ニ
差迫リ候由。第一打合ニ為参候者ト相考ヘ、
海軍士官ヲ乗セ差出ス筈ニテ、船ノ検査ハ済
右之土州人ハ早ク国元ヲ発シ漸々相参り候由。
タレトモ未タ大砲整ヒ兼ル。然シ明日ヨリ大
日向ニ而ハ奇兵ト相逢ヒ委敷情実ヲ取リ候得
砲出来次第順々ニ数艘繰出スニ付、此旨出張
共、是非桐野氏ヘ面会致し帰り度トノ事ニ付
ノ海陸軍ヱモ御通シ置アリタシ」(6 月 5 日山
彼ノ路ヨリ案内相付ケ江代迄参り候」(5 月
県有朋・川村純義宛西郷従道書翰〔電報〕
17 日付別府晋介宛西郷隆盛書翰①)
↓
④)
「井田少将ヨリ之回達熟読仕候。種々之妄説も
不少。サレトモ中ニハ事実ヲ得タル廉モ有之。
このようななかで高知県士族の村松政克・藤好
西郷ノ書翰ハ同人兼テ之口調ニ吻合シ、角力
静と薩軍と接触。先の懸念が現実のものに。
「然レハ高知県士桐野〔利秋〕へ面談云々等ノ
取之説ト歟又ハ大阪ニウロツキ等之語気ヲ玩
事ハ信ナルヤモ難量、且ツ鹿児島県下ヘ通路
味スレハ実物之様相見得申候」(6 月 21 日付
差止メ之儀ハ兼テ御達ニ相成居候得共、尚ホ
岩倉具視宛黒田清隆書翰①)
一層厳重御取締相成度儀ト存候条不取敢此段
また、片岡健吉らの立志社の建白運動も挙兵計
上申候也」(6 月 6 日付山県有朋宛川路利良書
画との関連性を疑われるようになる。
翰①)
「今〔六月〕十二日午前八時過年齢二十四、五
「高知県人藤好静・村松政克日向表ニ於テ奇兵
歳位ニシテ羽織袴トモニ着用セサル士族体ノ
隊ヘ面会事情委細承リ届候得共、尚ホ桐野氏
者一名片岡〔健吉〕ヲ訊問ス。宿主立出テ姓
迄ハ是非面会致度トノ事ニテ奇兵隊ヨリ案内
名ヲ問ト雖モ唯片岡ノ親戚ノ者来リシト通シ
相付ケ、十七日江代ニ参着候テ右両人ヨリ申
呉候様申張リ決シテ姓名ヲ云ハス。故ニ止ヲ
立之趣キ左之通ニ御坐候。
得ス片岡ニ其旨ヲ通シタリ。姓名ヲ云ハサル
土州ニ於テ是迄及遅延候次第何共申訳無之、
ユヘニ島村玄関ニ立出テ、士族体ノ者ト面談
定テ因循トモノト思召被下候半。実ニ是迄延
スルヤ直ニ坐席ニ通シ片岡ニ水ナリト云他ハ
引致シ候モ余ノ義ニ無之、銃器・弾薬ノ乏敷
微声ニシテ明カナラス。唯水ノ一字ノミ漏聞
- 64 -
岩倉文書から見た西南戦争
セリ(察スルニ水野寅次郎ナラン)。夫ヨリ
「私之愚意ニ而者最初ヨリ県地一般ニ 王事ニ
三名ハナニ歟密談ス。微声ナルユヘ隣席ヘハ
尽力之見込者無之候間、其正義之徒を鼓舞致
漏聞セス。唯密談中少シク漏聞セシハ片岡ヲ
シ不正之徒ニ者いか程抵抗致候共不苦、玉石
尋来リシ者ノ言ニハ支那ノ銃砲ト云フ一語、
判然仕候ハヽ必定国家之為と存候 ・・・ 六月初
横浜ニ泊セリト云フ一語、昨夜来着セリ、然
旬ニ相成県地之光景も最早玉石判然可為致場
レトモ参ラサリシト云一語、及ヒ高知ヘノ渡
合ニ立至り候様被考、其間入県之義申出候処
海船ハ既ニ禁止セラレタリト云フ一語ノミ漏
内閣ニ於テも早速御差立之運ニ相成本懐此事
聞セリ」
(「探索書」①)
与大奮発入県仕候」(8 月 3 日付岩倉具視宛佐
佐木高行書翰⑧)
このようにすでに海上の厳戒態勢がしかれ、薩
佐佐木らは決死の覚悟でこれに臨んだ。兵力の
軍と高知県士族との接触が明らかとなった段階で、
ようやく佐々木と北村重頼(陸軍中佐)の高知県
行使は自分たちが倒れて後のことと考えていた。
「同〔六月〕七日、高行下坂、北村重頼相談、
下向が決定する。
「就右佐々木〔高行〕・北村〔重頼〕今般入県
何分高知県ノ事不穏ニテ今日暴挙ハ布間布ナ
之趣意ハ、是迄右両人及谷少将等中立社世話
レ共、立志・静謙両社幷旧郷士連、不平ノ意
致来り、其本趣意ハ専ら現政府ヲ輔助スルノ
ハ有之、縮ル処イカ様ノ場合ニ立至ルモ難計、
目的ヲ以テ従事致し、立志・静倹両社ニてハ
当今政府ヲ軽蔑スル事甚シク、此儘差置候テ
政府党ト名称スルニ至レリ。其人数方今立志
ハ、天下一般ノ人心ニモ関係不少、依ツテハ、
ニ被圧百人余に不過候得共、其持論ハ何国迄
県下正義相唱ヘ候中立社ヲ十分ニ盛大ニ致シ、
も政府を輔ケ西海の艱難ニ際し政府ニ迫るハ
県令等ヘ談ジ、正義ノ徒ヲ培養シ、何分海陸
不正なる歟の説を主張し屹然不動、今佐々
軍ヲ労セズ平穏ニ至ラシメン事ヲ希望スル事
木・北村入県セハ又人数も倍スヘシ。既ニ去
ニテ、上ハ奉対 朝廷、下ハ高知人民ノ旧誼
九日立志社惣代より激切の建議差出、其党目
ヲ思ヒ、兵力ヲ以テ鎮静セザル様、吾輩両人
途確立候上者之ニ続クニ如何様ノ挙ニ可至歟
ニテ十分尽力スルハ、今日ノ義務ナリ、此ノ
不可図故ニ、此両名同県の情誼ヲ推拡シ方向
上、彼レ暴挙シテ吾輩ヲ斃スニ至ラバ、最早
ヲ誤ラシムルニ不忍、現地ニ跋渉シ充分尽力
夫レ迄ニテ、兵力ヲ以テ鎮圧スルモ不得止ナ
説諭ヲ加ヘ万不可制勢ニ至り候とも、尚玉石
リ、依ツテ吾輩単身ヲ以テ死地ニ入リ、誠心
を剖判シ暴徒ノ数を少シ候籌計ニテ、最初此
ヲ以テ周旋尽力シ、斃レテ止ムベシト両人議
事当地内閣ニ者却而激動を来シ不可然辺ニて
決シタリ」(『保古飛呂比 佐佐木高行日記』
抑留相成居候得共、既ニ四国警戒之号令相発
七、178 ~ 179 頁)
(有カ)
し、且北村曾者弾薬・銃類取締来り候上ハ、
公明正大ニ尽力周柝可然廟決ニ而被差遣候事
「不穏光景ニ相成候趣報知も有之候。然ルニ彼
ニ相成り必至報效之目途ニ候。・・・ 将又三菱
レハ三、四百人と申事ニ候。県庁ニ而も中々
会社汽船方今大ニ政府御用弁ニ相成居り候処、
宛ニも不相成候哉存候。吾輩同志も少々ハ有
頃近立志社辺ニて之を妨くるの内謀も有之、
之候得共、何分共彼レヲ打伏セ候程之人数も
右会社人員土州人数多故其重立候者佐々木ヨ
無之事故、四、五日之中ニハ必ス相斃レ候覚
リ内々密譚を加へ、今日ニてハ決し而方向相
悟ニ御座候。就而者速ニ兵隊或ハ巡査隊等を
誤り候懸念無之者勿論、高知往復之汽船二、
差向候様申立度と申出候ものも有之候得共、
三隻自然暴徒頓発掠奪候節ハ、直ニ重要器関
此度吾輩入県之趣意者いつ迄も単身ニ而尽力
破却不用立様其手順迄密定致居候趣ニ候」(6
シ斃レテ初メテ吾輩ノ上ハ奉対朝廷、下ハ本
月 10 日付岩倉具視宛柳原前光書翰②)
県人民江之情誼も尽き候事故聊遺憾無之、彼
レ如此明々白々タル暴挙ニ立至候上ハ賊名を
- 65 -
Ⅱ.本 文 編
「別紙電報之通阿州徳島ニ兵隊四百七十名余六
負候共決して残心有之間敷と存候間、吾輩之
決心致し候趣意ニ而決して不意を取られ不覚
月廿日神戸出帆、玄武丸ニテ差遣之趣ニ有之、
悟と他日天下之譏無之様雅兄江申述置候」(6
伊集院等着坂之上ハ西郷中将ト協議、夫々着
月 15 日付堀田良知宛佐佐木高行書翰①)
手之模様報知モ有之」(6 月 21 日付岩倉具視
宛黒田清隆書翰①)
↓
「高知県事状追而切迫、佐々木・北村〔重頼〕
入県、桐野へ面会候土州人二名捕縛已来弥形
また、北村は立志社の挙兵計画を未然に防ぐべ
跡相露れ候。別紙佐々木ヨリ堀内(土州人ニ
く、銃器商の中岡正十郎から銃器・弾薬の買入を
て佐々木同志、于今京都居住候人也)への私
行っているが、これが立志社をはじめとする高知
状写取呈内覧候。就右昨日船一隻其後景状為
県士族に疑惑を抱かせる原因となった。
視察被差出候間、多分両三日中ニハ報告可有
「北村陸軍中佐、先般高知へ下県候節銃砲・弾
之、同県事状惣而条公ヨリ作間〔一介、太政
薬持帰り銃器取調書別紙小池〔国武、のちの
官権大書記官〕へ御申聞之趣故御親聴、今後
渡辺国武〕権令ヨリ内務卿ヘ届出候通ニ候」
(6 月 11 日付岩倉具視宛三条実美書翰②)
之目算御計画置有之度候。此書翰ハ私状ニ候
得共佐々木誠心相見候。御互ニ感服可致事と
「〔六月〕十五日池田応助同姓池田伝迅(重頼
存候」
(6 月 19 日付岩倉具視宛柳原前光書翰
叔父)宅ヘ俄然来リ云、這般疎濶ニ打過タル
①)
ハ先般御親族ノ北村氏入県ニ成リ中岡正十郎
所蔵ノ銃薬御買上ニ相成ニヨリ、社中過激ノ
玉石分離工作にあたって佐佐木と北村は西郷従
徒トモ大ニ疑惑心ヲ起シ種々ノ紛論ヲナシ、
道に決して兵力を動かさぬよう釘を刺した。
或ハ刀ヲ磨スルノ情態ニ及ヒ苦心此事ニ付、
「二伸県地之景況不穏趣御聞取相成候共、未タ
両人罷在候以上者決して陸海軍又者巡査隊等
色々鎮撫ヲ為スト雖トモ、兎角紛々論多ク漸
御差向之義者何分共御見合被仰付度、此の上
ク鎮撫スル場合。東西ノ郷士輩大ニ紛擾ヲ起
両人共斃候場合ニ立至候ハヽ何分之御処分も
シ社中トモト三千ノ人数ニ及ヒ種々過激ニ出
可有之と存候。此度両人入県致候義者、飽迄
ントスニ当リ、此度又々佐々木・北村入県ニ
も兵力を用ひす鎮静ニ及候様相心掛候義ニ付、
及ヒシニヨリ此上ノ着手ニヨリ如何様ノ紛擾
其辺之処者御了解有之度伏而希望仕候也。
ヲ起スモ難計ト、右等鎮撫ニ付取紛大ニ疎濶
十年六月十五日
北村重頼 ニ打過タリ。此上種々尽力鎮撫スト雖トモ応
佐々木高行
助ノ力届カサルニ至リ苦心此事ナリト咄シセ
西郷中将殿
シヲ伝迅ヨリ重頼ヘ談話ニ及ヘリ」
」
「〔六月〕十五日朝 (防衛省防衛研究所所蔵「密書綴 明治十年
東西郷ニ於テ三四百人起ラントスル形況アリ。
役関係 単」)
此原因ハ西国動揺ニ付兼テ各種ノ論アル所過
般中岡正十郎所蓄ノ銃薬一時御買上ニ成ヨリ
しかし、佐佐木らの要望にもかかわらず陸軍は
疑心ヲ発シ議論紛々、以為ラク本県ニ於テハ
兵力の動員に動き出す。
兼テ立志・静倹及東西郷士ノ徒ニ及ヒ政府ノ
「今般南海為警備当地滞在之歩兵第三聯隊第二
大隊之中二中隊ヲ阿州徳島エ出張為致タリ。
疑念ヲ免カレサルニ因リ、此際ニ乗シ一網打
阿州警備線其外諸事設置之為メ渡辺中佐モ與
尽ノ着手ニ及フヘシ」(佐々木高行・北村重
ニ同地エ出張為致。最モ同人ハ御用相済次第
頼の探索書④)
直ニ帰坂之筈」(6 月 21 日付井田譲・西郷従
このように一時、不穏な空気が流れたものの、
道宛達①)
状況は数日のうちに収束した。佐佐木は安堵しつ
- 66 -
岩倉文書から見た西南戦争
つも、岩倉に対して次のように将来にわたる憂慮
士族への対策の側面も有しており、岩倉の意向を
を表明している。
うけてか一部の県で実施に移されていた。
「一 米沢・秋田・本庄内ハ従来敵視ス。是レ
「此度者是非入県致し正不正判然可為致覚悟候
(ママ)
処、入県五、六日間者或ハ動揺ニ立至り可申
等ノ士ヲ募リ巡査トシ以テ兵器ヲ与ヱ、
光景之処、其後ハ種々様々風評而已ニ而追日
之ヲ総ブルニ元官武華族一人ツヽ両人ヲ
平穏ニ相趣候。一体今度者私輩不平徒之為メ
以テスレバ如何(尤人傑ヲ以テ次官トス
ニ斃候程ニ立至候ハヽ早ク玉石判然、一般ノ
ベシ)
方向も確定仕候而他日政府之御厄介も有間敷
一 弘前士族尤頑固等モ同様如何。相馬・黒
与存候間、御一新以来
羽奇骨アリ。亦考フベシ
天恩之万々一を奉報候時節到来与存候処、意
一 越後旧藩士族亦撰ンデ之ニ倣ハヾ如何」
外之今日之形勢ニ而先以平穏ニ相属シ差向人
(「岩公意見草案」⑦)
民一般ノ幸福ニ候得共、何分陰症立ニ相成い
↓
つ迄も人民之方向ニ疑惑相生候様之奸計も被
「置賜県〔旧米沢藩領〕ノ士族六千人余ニ可有
相行、返而陽症立ニ候ハヽ一時者損害も有之
之候得共、決シテ動揺ノ萌ナシ。近時同県士
候得共、返而毒を残候事ハ有間敷哉と其辺ハ
族ノ内強壮ノ者百名ヲ選挙シ山形県ニテ招募
遺憾万々ニ御坐候」(8 月 3 日付岩倉具視宛佐
相成候由」(3 月 5 日付阿部隆明報告書〔国立
佐木高行書翰⑧)
公文書館所蔵岩倉具視関係文書「諸件雑集 明治十年一」〕)
3.士族募兵
しかし、京都の政府要人たちは一様に岩倉の意
1)士族募兵の経緯
見に難色を示した。
木戸孝允
① 在京都要人の消極的見解
岩倉は早い段階から士族の募兵を考えていた。
「昨夜木戸江面会、段々小子之及ブ丈ケ陳述仕
「一 万一之節士族募兵云々之事」(「巌公覚書
候処、則別紙本紙へ朱書之通り御返事被相認
十年二月十三日大久保・柳原ヘ内談ヲ条書」
候。同人ニハ一々ハ御答不申上要用ノミ貴報
④)
ニ及ブトノコトニテ朱書之通りナリ」(3 月 6
日付岩倉具視宛岩倉具定書翰④)
「廟議 行在所ニアリ。当地ニテハ如何トモ致
↓
方無之候得共、前途大兵ヲ用ユルニ非ザレバ
「今士族其外無用ノ兵ヲ募ル尤不可也。尚如此
成功難カラン。宜敷今ニシテ予備兵ヲ挙ゲ充
際能ク後害ヲ慮ラズンハ有ルベカラス。薩摩
分之御手当有之度愚考ス」(2 月 19 日付大隈
ヲ討シ一小薩摩ヲ生ズルナリ」(3 月付岩倉
重信宛岩倉具視書翰④)
意見に対する木戸孝允の返答〔朱書〕⑤)
「今後ノ模様ニテ万一兵員御増加無之テハ不叶
「山口県ハ元ヨリ其外土備等数県之処モ気脈相
ル場合ニモ至候節ハ我兵必ス不足スヘシ。今
通候処、至急ニ至り候ヘハ壮兵隊ハ士族(十
是レヲ士族ニ取レハ兵制ニ関シ亦政府ノ威令
ニ八九)被相募、山口県ナトモ大ニ奮発致頻
ニ関スル事最大事、然レトモ不得已ハ東京ニ
ニ薩賊へ敵対致度趣多人申越、今日隊伍ヲ編
テ倔強ノ輩人撰、今三、四千名モ巡査ニ募リ
制ノ時ハ数千人ハ容易ニ御坐候得共、軽卒ニ
之ヲシテ繰練セシムルハ如何」(3 月付岩倉
是等之兵隊ヲ編制候時ハ又一之小薩州ヲ生し
具視意見⑤)
候様之ものニ而厳敷取押置申候。先達来も随
分此説不少候得共、孝允ハ尤モ不承知ニ御坐
それは九州における兵員の補充とともに、庄内
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候」(3 月 2 日付岩倉具視宛木戸孝允書翰④)
Ⅱ.本 文 編
三条実美
② 論調の変化
しかし、戦局の膠着から京都の政府当局も士族
「昨日午後条公江拝謁、是又縷々及言上候処、
勅使云々巡査云々両事件早速電信ニテ御差出
の募兵に踏み切る。そして、岩倉の案にも同意を
シ相成タル筈(右写シ為念御廻シ申上候)ニ
示すようになる。
「扨戦地景況も意外手間取鹿児島辺之都合も前
付最早万々御承知と存候」(3 月 6 日付岩倉具
視宛岩倉具定書翰④)
日ニ齟齬、援兵之出張も有之、殊ニ各地蜂起
↓
之由彼是之事情ニテ弥戦地も相運兼候次第ト
「兵員不足ノ士族ヲ巡査ニ募ルコトハ不可然歟。
実ニ苦心ニ不堪、昨今之景況ニテハ勝算無覚
此度実地之景況ヲ承ルニ陸軍ノ兵屹ト実用ニ
束、今一周間モ依然タル情態ニ候ヘハ、大ニ
足レリ。若シ不足スル時ハ後備兵ヲ募トモ士
廟算ヲ被定御親征被遊候外無之ト内々申談仕
族ヲ別ニ編成スルコトハ然ル可カラス」
(3 月
候事ニ候。依テ壮兵之令着手、山口旧近衛兵
5 日付岩倉具視宛三条実美書翰〔電報〕⑤)
も昨日ヨリ招募ニ取掛、高知旧近衛兵モ募リ
候義内評ニテ密ニ着手仕居候。此段御承知有
大久保利通
之度候。東方諸県巡査内々御心配モ相成、意
「今後之形勢ニ依募兵之事モ最重用ニ可有之候
外孰レモ奮テ王事ニ従候情態、誠以為国家欣
得共既ニ戦地ニ万余之兵員出軍、加ルニ今六
然此事ニ存候。前段之景況ニ付テハ猶此上巡
大隊之別働隊を急ニ差向ケ候陸軍之神算ニ有
査之徴集追々着手無之テハ事足不申歟ト存候。
之候(是ハ熊本近海ヨリ賊之中腹を突キ或ハ
尚御尽力有之度存候」(4 月 5 日付岩倉具視宛
鹿児島管内阿久根ヨリ廻シ候か、又ハ鹿児島
三条実美書翰⑥)
湾ニ廻スカ)臨機ニ賊之背後ヲ撃破スルノ目
→戦局の膠着から士族募兵に踏み切る。
的ノ由。右之都合相成候得ハ巡査相混シ殆ン
ト二万之兵員ニ可相成候得ハ何モ不足与申儀
これをうけて岩倉も募兵の方針を具体化させ
ハ無之、今日ノ処ニ而モ官軍ハ陸続与して
る。
日々相加へ此上陸地江ハ難操込程ニ事ニ候由。
巡査を名与して相募り候事ハ猶御勘考被為在
候様奉願候」(3 月 7 日付岩倉具視宛大久保利
「一 従前成規ニヨリ招募兵云々ノコト
一 此際一般疑惑ヲ生シ大小事アル者ト見
認メ厳重警戒ノコト
一 旧各藩其藩情ニより出張ヲ争フノコト
通書翰①)
一 招募ノ命ニ従ヒ表裏之情態深注意ノコ
しかし、陸軍では岩倉の士族募兵論に積極的な
意見も。これをうけて内務省・警視庁では士族か
ト
一 器械弾薬受領之上反覆云々密話探偵ノ
コト
ら巡査の募集を開始。
「募兵ノコト呉々足下ニ申含候処、今朝西郷従
道ヨリ内話、大阪鳥尾〔小弥太〕ヨリ来状云
云 ノ コ ト ヲ 聞 ク。 暗 ニ 愚 考 ト 符 合、 前 島
〔密〕
・安藤〔則命〕充分尽力之都合ニ候」(3
一 招募壮兵旧諸藩混合編製云々成否如何
ノコト
(ママ)
一 米沢旧藩士千坂〔高雅、内務権少書記
官〕・池田〔成章、上杉家家扶〕等内話、
月 4 日付岩倉具定宛岩倉具視書翰⑤)
及広島旧藩士辻〔維岳〕・船越〔衛、戸
→ 2 月 23 日、内務省から東京警備のため巡査
籍局長〕等同断ノコト
1200 人を各県から募集することを申請(27
一 中西国旧藩ヨリ在職之者及非職ニ而も
日許可)。茨城・群馬・福島・宮城各県か
人望アル者宜御採用有之、強藩ヲシテ募
らも臨時召募として定員外の巡査 2600 名
テハ因州・備前・松代・大垣・長州・大
を召募。
村等類歟
但肥前ニ山口〔尚芳〕
・楠田〔英世〕兼
- 68 -
岩倉文書から見た西南戦争
「壮兵召募之事等も一般御達有之候迄ニテ実施
て出張、同藩士ノ処如何歟」(「岩倉公意 ハ山口県ヨリ繰出候而已緩急順序ハ陸軍省之
見」
〔4 ~ 5 月〕②)
都合有之ヲ以テ一時ニ各県ヨリ募候儀ニ無之、
着手ハ鳥尾帰京之上ト相成居候処、今日ノ形
ただし、西国では巡査として徴募することはせ
勢ニ付最早壮兵ニモ不及歟ト当地ニ而ハ御評
ず、あくまで壮兵としてこれを徴募した。
議ニ御坐候」(4 月 17 日付岩倉具視宛土方久
「高知県之模様ハ当地ニ北村長兵衛〔重頼〕ト
元書翰⑥)
申正議之者居合候而承り候処、同人共苦心ヲ
以テ中立党其外立志社中ニテモ方向ヲ改メ候
事出来候者丈ケハ精撰シ、今般壮兵之方ニ募
「昨今之戦報後背之官兵奏功不少御同快奉存候。
リ彼ノ勢力ヲ削リ只々所謂禍ヲ転シ福ト為ス
此向キニ御坐候ハヽ最早新ニ巡査召募ニ及申
理合ニ付、委細ニ申立有之趣ニ付久元ヨリモ
間敷歟ト想像仕候」(4 月 14 日岩倉具視宛土
尚又大久保氏ヘモ申入候処同氏ニハ異存無之、
方久元書翰⑥)
此上ハ陸軍ニテ異議無之候ハヽ其運ニ可致ト
ノ事ニ御坐候。巡査隊比頃之景況ニテハ案外
「尤モ昨今形勢ニテハ募兵ニ不及候得共、同県
用ヲ成サヌ趣。子細ハ抜刀モ意ノ如クニ不相
〔和歌山県〕之儀ハ已ニ着手致候故是丈ハ相
成、銃ヲ持候ヲ好候景況ニ御坐候処、何分警
募候筈」(4 月 18 日付岩倉具視宛三条実美書
視ノ指令ニ而ハ士官ノ場ノ人少ク用ヲ成スコ
翰⑥)
ト十分不成由ニ御坐候。仍テ何分壮兵ニテ募
しかし、高知県への備えとして士族徴兵のニー
候方弁理ノ由ニ御坐候」(4 月 11 日付岩倉具
ズは依然あった。
視宛土方久元書翰⑥)
「大坂江参り西郷中将ヲ相尋候処同人不在ニ而
しかし、西国での募兵は困難を極める。
夕四時比面会仕候。先ツ壮兵募り方同人見込
「目下騒擾ノ秋ニ当テ壮兵ノ募ハ不応シテ還テ
承り候処曰ク、
護郷兵ノ挙ヲナスヨリ各種ノ建白書等、其他
九州之事ハ急ナリ緩ナリ大形已ニ定り居候得
若輩等ニ至テハ或ハ軍事ノ用意ヲナスニ至ル
者、此上大兵ヲ要スルニも及間敷、唯高知之
等ノ聞ヘアリ」(佐々木高行の高知県士族へ
破裂ト否トニテ甚兵ヲ要シ候得者此見留如何
の説諭④)
歟与折角探索最中ニ而候。高知若シ起ルモノ
トセバ募兵着手無之而者不相叶トノ事ナリ。
↓
「右壮兵召募之事ハ一般御達ニハ相成居候得共、
喬任曰ク、高知ノ見留メハ恐クハ只今決着致
凡テ召募致候事ニ無之事、急ニ臨ミ候節之為
ス間敷、兎角九州鎮定ノ緩急ニ関シ可申、若
メ便利之地方より召募繰出之手順ニテ、差向
シ今ヨリ三、四十日モ依然今日ノ形勢タラバ
キ和歌山・山口両県迄ニ着手相成居候。尤其
独り高智ノミナラス各所禍乱ヲ謀ル者ナキヲ
辺ハ陸軍ニ御委任相成居候」(4 月 18 日付岩
不可必、さらば今日ノ上策ハ巧ミナルノ久シ
倉具視宛大久保利通書翰④)
キヲ持センヨリ拙ナキノ速ナルヲ尊ブベシ」
(5 月 22 日付岩倉具視宛大木喬任書翰②)
③ 戦線の長期化、高知県への対応策として
4月15日の熊本城開通を契機に再び論調は後退。
「九州戦争持久且高知挙動も有之候故、速ニ各
「壮兵募集之事モ山口・和歌山両県而已ニテ別
県有望士朝廷ニ御登用大兵募集之御建白有之
段六ヶ敷県ヨリハ未タ着手不相成中大勝利之
度、内密愚意過日賢孫〔具定〕へ申述言上御
吉報有之、実以好都合ニ御坐候」(4 月 20 日
倚頼致置候処、既ニ其御地ニ而新選旅団御設
付岩倉具視宛土方久元書翰③)
ケ御着手之趣公信ニて条公へ御申越頗感服仕
候」(6 月 4 日付岩倉具視宛柳原前光書翰②)
- 69 -
Ⅱ.本 文 編
→高知県への備えとして
戦争が収束に向かう 8 月には解隊されることと
「人数あれハ見方を損セスシテ勝ツ事を得申候。
なった。
今般矢筈岳を取るも今度の千人を見当として
「第二新撰旅団解放云々御示諭奉敬承熟考仕候
占メタル義ニ御座候。人数在迄ハ線を張りテ
処、両三日戦報ハ無之候得共既ニ戦線之短縮
何れ迄も取り付可申、昨今ニ而者賊ニ於テも
と賊勢衰削ニ憑り推考仕候ヘハ、縦然如何程
専ハラ新募の火縄筒ニ有之、此方新募巡査ニ
之激戦有之賊徒充分之防拒仕候とて、三面之
テ能キ程の相手と愚考仕候。願クハ新募巡査
官軍三万有余之強力ニ敵候事万有之間布、必
何程ニ而も御廻シ相成り候ハヽ、利良ニ於テ
数日を出スシテ全勝之報知無疑事と奉存候。
幸ひを得奏功アラン事を伏シテ懇願仕候」(5
聊無御顧念御解隊寸時も迅速ナル方可然と奉
月 28 日付岩倉具視宛川路利良書翰⑧)
愚考候」(8 月 10 日付岩倉具視宛伊藤博文書
→薩軍へ最後の一撃を加える兵力として
翰⑧)
(2)徴募の実態と問題
④ 新選旅団の出動と解体
6 月に入り新撰旅団の召募手続が内務省と陸軍
① 旧藩有力者の呼びかけ
「要スルニ士族ヲ募ルハ先ツ其地ニテ有望ノ者
省の間で作成される。
「新撰旅団招集之手続書内務之部分者已ニ今朝
或ハ旧主ヲ説得シテ尽力セシメ、其有望者ヲ
進呈仕候筈ニ付、御入手被成下候事与最早奉
仕官不為致而者充分ニ難運乎ト存候。因藝米
存候。陸軍之部分ハ乍恐井田〔譲〕江御督促
会等ハ既ニ略其運ニ至り候得共、此外ニテ松
被成下度奉願候。尚下官よりも相促可申候。
代ノ長谷川深美、備前ノ杉山〔岩三郎〕、越
其他御教示之件者夫々江篤与相示シ毫末御意
前ノ中根〔雪江〕・由利〔公正〕ノ類御誘導
ト齟齬不相成候様精々一同配意可仕候」(6
有之候而者如何哉」(6 月 4 日付岩倉具視宛柳
月 1 日付岩倉具視宛前島密書翰⑦)
原前光書翰②)
6 月の段階で高知県への憂慮がほぼなくなった
「今般巡査召募之儀過日御内達之趣ニ付、直ニ
ため、新撰旅団は薩軍掃蕩戦に動員されることと
旧藩々ニ而名望有之者共招集専ラ協議罷在候
なった。
処、猶又元会津藩士ニ而当県下居住内藤助右
「新選旅団追々調練出来、其内五千人七月十五
衛門・上月有両人ハ相応名望有之者共ニ付尽
日迄ニ大坂へ繰込之趣致承知候。戦地へ出張
力致サセ候ハヽ可然」(6 月 12 日付岩倉具視
之都合ハ尚陸軍見込可有之候得共、此際京摂
宛山田秀典〔青森県令〕書翰⑨)
鎮護之為ニも宜敷存居候」(7 月 5 日付岩倉具
しかし、岩倉には懸念も。
視宛三条実美書翰⑧)
「兼テ若松表ニ於テ当時名望アル者別紙四名之
由ニ候。乍去旧各藩大抵党派有之者ニテ、若
「新選旅団到着次第、日州細嶋へ派出賊軍背後
攻撃之積ニ候。之を引率する将校未決定ニ候
シ其当ヲ不得ル時ハ彼是不都合ヲ生シ候事故、
得共、東伏見宮ニハ何れ御出張相成候見込ニ
尚実地ニ付宜敷御賢慮有之度候」(6 月 1 日付
候。尚廟決次第可及後報候 ・・・ 新選旅団四千
山吉盛典〔福島県権令〕宛岩倉具視宛書翰
人今般繰出相成候後兵を要シ候義無之哉御尋
〔国立公文書館所蔵岩倉具視関係文書「巡査
招募ニ付地方官其外ヘ報信草案」〕)
之趣参議へ相談候処、今早募兵ニ及間敷評決
候。何れ委曲ハ西郷中将より御地陸軍省へ通
岩倉の懸念する事態はすでに西国では現実のこ
知候筈ニ候」(7 月 16 日付岩倉具視宛三条実
美書翰⑧)
ととして起こっていた。
- 70 -
岩倉文書から見た西南戦争
和歌山の場合
ク実際却テ埒明き兼候者共、且者今度之募兵
「壮兵募集ニ付テハ旧藩々の党派之勢ヲ再燃ス
ハ兼而衛ヨリ内願之部分ニ付旁同盟之者共へ
ルノ情態不少、已ニ紀州和歌山士族募集ニ付
予テ不相謀着手仕候ヨリ正道一身ニ関シ一時
紛紜之事有之、同県モ両党ニ分レ互ニ他ノ一
議論相発シ候 ・・・」(6 月 10 日付岩倉具視宛西
党ヲ非毀スルノ模様有之 ・・・ 初メ陸軍士官長
本正道書翰④)
井某ナルモノ(紀州人)鳥尾中将ノ内意ヲ受
ケ和歌山ニ趣キ募兵ノ事ヲ謀ル。此長井ト申
石川の場合
者ハ和歌山旧藩之時分兵隊ノ指令官ヲ為シ居
「過般来内務省達ニヨリ再三ノ募集殆ト千名ニ
リ候者ナレトモ、旧藩兵隊ヲ悉ク収拾スルノ
及ヒ尋常士族中ニハ此上志願ノ者ハ僅々ニ可
勢力ナシ。此ヲ以テ県令ニ依頼シ県令ヨリ旧
有之候得共、各党派士族中ニハ是迄応募セシ
藩兵隊ノ者悉ク募集之令ニ応スヘキ旨号令シ
者モ無之ニ付、家令著ノ上ハ第一右等ノ輩ヘ
威力ヲ以テ之ヲ束縛セントス。此ニ於テ士族
程克内諭為致候ハヽ人員モ多分応募可仕。然
共大ニ沸騰シ議論ヲ生シテ曰、朝廷ヨリハ志
ル処兼テ御賢聞被為在候通、金澤士族ハ各自互
願ノ者ハ云々ト有之、然ルニ県庁ノ命令ハ之
ニ嫉妬心ノ深キ衆力一致セサルノ士俗風ニ有之、
ニ異ナリ云々ト。士族処々ニ会合シ議論紛々
且村井恒儀ハ元門閥ノ者ニハ候得共、士俗一
物議匈々、県令モ大ニ当惑シタル様子ナリ」
般ヨリ仰視スル程ノ名望之者ニ無之ニ付、仮
令旧知事之内諭ヲ以来ルモ同人ノ接待ニテハ
(4 月 23 日付岩倉具視宛尾崎三良書翰⑩)
迚モ応召之者僅少且各派ノ士輩ヲ動スノ働キ
鳥取の場合
無之ハ万々ニ可有之候 ・・・」(6 月 8 日岩倉具
視宛熊野九郎〔石川県大書記官〕書翰⑨)
「過日河田景與御用召帰京、即 条公ヘ謁シ大久保・伊藤両参議面接、旧鳥取
県壮兵募集之御内意被為在候折柄、大久保卿
② 旧藩主の呼びかけ
かかる事態に直面して当事者たちは一様に旧藩
より鳥取県ヘ向ケ旧鳥取藩士今井鉄太郎と申
者御用召、右同人へも右同様之御内意ヲ受、
主自身の出馬を求める。
然ルニ旧鳥取県内自然党派ノ姿ヲ生シ候際右
和歌山の場合
御内達両辺ニ出候而者旁以後害不可測深苦心
「三浦〔安〕ハ条公ノ内意ヲ受ケ旧知事ヲ輔ケ
仕、
条公・大久保卿ニも御配意有之、河田・
士族説諭ノ事ヲ謀ル。三浦ノ持論、旧藩士ノ
今井へ懇和之御説諭も被為有、陸軍中将西郷
者ヨリ妄リニ着手スル時ハ党派ノ為ニ却テ紛
ニも段々懇篤之示談ニて右両士ハ氷解ニ至候
紜ヲ来シ決シテ不可然、旧士族ノ説諭ハ旧知事
得ども、壮年之輩多人数之義、殊ニ頑固之流
一人ヨリ出ル方其弊害ナカルヘシ。其実地ニ於
弊到底如何可有之ト之事ニ候」(6 月 18 日付
テ召募手続ヲ為スハ、他人県ノ陸軍ノ佐官位ヲ
岩倉具視宛池田慶徳書翰①)
遣ハサレ夫レニテ彼此党派ノ論モ自ラ無ルヘシ
云々」
(4月23 日付岩倉具視宛尾崎三良書翰⑩)
そして、この後も同様の事態に見舞われる。
鳥取の場合
広島の場合
「壮兵募集ハ至急之義河田景与ヨリも早々下向
「折節陸軍中将殿〔西郷従道〕ヨリ船越衛へ広
島県ニヲイテ一大隊召募兵ニ御内命有之候処、
有之度申出情実難黙止次第ニ付、条公へ伺ノ
其後県下之事情モ不承ニ付下調トシテ正道本
上本日出発仕候」(6 月 18 日付岩倉具視宛池
月一日浪花出帆、同三日着広、着手仕候処、
田慶徳書翰①)
速ニ応募之者有之候ニ付同五日県地出帆、同
七日帰坂仕候。然ルニ県地ニヲイテ兼テ正道
石川の場合
等同盟之社中有之候へ共、是等者兎角議論多
- 71 -
「本家父子差支候ハヽ代理トシテ(富山ヲモ兼
Ⅱ.本 文 編
ネ)末家前田(大聖寺)出県仕候様更ニ御内
情誼ヲ已ニ絶チタルニ継ガシメ、以テ封建ノ旧態
命被下候義ハ相叶申間敷哉」(6 月 8 日岩倉具
ニ復セント欲スルノミナラズ、之ヲ興起セン事ヲ
視宛熊野九郎〔石川県大書記官〕書翰⑨)
欲スルニ似タリ」、「日本政府ノ目的ハ陸軍ノ兵制
ヲ度外ニ棄テ旧藩々ノ壮兵ヲシテ各自一手ノ働ヲ
しかし、またも問題が生じる。西国では非協力
成サシメ、封建ノ軍制ノ昨日ニ復セント欲スルニ
似タリ」と非難する。
的な大名華族も。
「募兵ハ至極困却之様子。唯紀州・加州ノ両国
かかる事態を前に、黒田清隆はその情報源を突
ノミ募ニ応シ差出候得共、其他ハ決シテ応ス
きとめ、さらに南部利恭に旧臣たちの説諭に及ば
ル者無之由。
ざる旨を命ずるよう岩倉に求める。
「本日日報社新聞中別紙之通南部従五位より士
三条家ヨリ旧知事ヲ相招キ旧君臣ノ情儀ヲ以
テ士族共募ニ応候様尽シ可呉段々相達候処、
族共ヘノ演説書掲載有之、書中公然尊名を相
越前春嶽侯ヨリ、旧君臣ノ情儀ヲ以テ士族共
認御依頼云々ノ旨有之、右者定而南部家より
募ニ応シ候様尽力可致節可有之時勢ニテハ無
掲載為致候義ニも有之間敷、其事之虚実出所
之訳ニ御座候得ハ御受難致旨返答相成候処、
等確ト御厳重被為在可然奉存候」(6 月 22 日
是非御受致シ呉レ候様強テ被相達候ハヽ迚モ
付岩倉具視宛黒田清隆書翰〔岩倉公旧蹟保存
御即答出来難クトテ其場ヲ引取候由。旧知事
会対岳文庫所蔵岩倉具視関係文書「書状 十
中集会之上評議有之斯ク迄モ相達候ニ付 ハ 、
六 明治十年 五十三」〕)
(テ脱カ)
夫形リ捨テ置ク訳ニ参リ兼候間、兎角家令共
「南部従五位旧盛岡藩士ヘ之説諭書日報社新聞
ヨリ朋友ノ情義ヲ以テ通知致候様為取計可申
ト之返答相成候外有之間敷トノ事決着致候間、
ニ登録有之候ニ付過刻一応申上置候処、猶又
旧知事中ヨリ返答ニ被及候由。然処高知県ニ
熟考致候得ハ、右書面之旨趣ヲ以旧家来ヲ説
於テハ家令県内迄ハ参ラルヽ由ニ候得共、其
諭候義今日ニ取リ候テハ大ニ喜ハシカラサル
辺ノ義ハ一言モ相達セサル由。外ニモ大体右
次第、且盛岡ヨリ引隔タル地方ヘハ名代ノ者
等ノ振合ニテ可有之由」(「高知県ノ両士ヨリ
差出シ説諭可為致手配等モ有之趣ニ付、其儘
大坂辺ノ景況承リ得候形行」①)
ニ差置候ハヽ追々何等之醜態ヲ顕候哉モ難計、
尤モ同人説諭候トテ差タル功能モ有之間敷、
寧ロ此場合ニテ御差留相成候方可然ト奉存候。
一方、新撰旅団編成にあたり岩倉からの旧家臣
の説諭するよう要請をうけた東国の大名華族は、
依テハ右説諭ニ不及旨磐手県令ヲ経御達相成
これを華族の役割ととらえ、積極的な示すものが
候歟、又ハ別ニ好キ取計方も可有之歟、何レ
多かったようである。
前島〔密〕内務少輔ヘ御内達相成候ハヽ御都
「御内談有之候義、素ヨリ同族之義務上ヨリ之
合之義ト奉存候間愚見之儘申上候」(6 月 22
事と拝承仕候ニ付其心得ヲ以説諭方仕候」(6
日付岩倉具視宛黒田清隆書翰〔岩倉公旧蹟保
月 23 日付岩倉具視宛戸田忠友書翰⑨)
存会対岳文庫所蔵岩倉具視関係文書「書状 十六 明治十年 五十三」〕)
しかし、東国では別の大きな問題が起こる。南
これにたいする南部家の弁明は次のようなもの
部利恭が旧盛岡藩士族に対して起こった説諭が
「日進新聞」
(岩手県にて発行)に掲載され、さら
である
にそれが 6 月 22 日付の『東京日日新聞』の「雑報
「今般主人従五位之挙タル、華族応分之義務タ
欄」に掲載された。「年来ノ情義」をもって旧臣
ル素ヨリ不待論義ニシテ、既ニ東下着県否該
たちを説諭すべきよう岩倉から「内命」をうけた
件着手之方法ヲ当県令ニ申出シニ、県令江も
とする説諭書について、『日日新聞』は「日本政
右府公ヨリ御通知有之趣ニ付協議之上至急降
府ノ目的ハ啻ニ華族ト士族トノ間ニ於ケル君臣ノ
手之際、毎戸説諭難行届ヨリシテ庁下ハ東西
- 72 -
岩倉文書から見た西南戦争
二ヶ寺ヲ借受旧臣等一統集合セシメ、時勢坐
これをうけて岩倉は決して巡査召募はあくまで
視スヘカラサル場合新撰旅団御編制御内調も
士族たちの志願を求めるものであり、自分の内命
有之ニ付、右団結之巡査ヲ出願致し鴻恩ヲ可
によるものだとしないよう旧藩主たちに言い渡
報之秋ナレハ別テ出願ノ多キヲ希望スル旨説
す。
「先達新選旅団編成ニ付同族南部利恭旧藩士江
諭有処、数千人之内ニハ万一難致通徹ヲ憂レ、
主人説諭之趣拙者ニ而略書取申述タル者ニシ
説諭書云々不都合有之候ニ付態々御懸念之処、
テ、四方郷里ニ主人代理トシテ出張之者共之
蒙 尊諭委細敬承仕候。勿論当方に於而者旧
義ハ右体裁ニ基キ写取持参セシヨリ伝翻、終
藩士江説諭書指出候義者決而公然申遣候義ニ
ニ一文章之如キニ至候 ・・・」(6 月 29 日付岩倉
者無之志願之者罷出候様乍去可成者召募に応
具視宛山本寛次郎〔南部家家令〕書翰⑨)
し候様全ク弊意ヲ以而申遣置候条右等宜敷御
旧藩主の出馬を仰ぎながら出願者が少なかった
承知可被下候」(6 月 24 日付岩倉具視宛大河
内輝聲書翰⑨)
場合、
主家の名折れになると憂慮してのことだった。
新潟県(長岡)の場合
また何事に依らず、士族の結集に旧藩主を頼む
「旁田者漢と雖も目今之形勢を承ハリ今日ニ当
ことを疑問視する声も
て政府之要用ヲ達する之人民之義務たる儀ハ
「金澤之義ハ村井恒着県後已ニ十六、七日間モ
粗解得いたし、随而当住士族ニ於て或ハ不都
旧門地八家之者ト連日内議仕候由之処、各自
合之次第有之候事ハ、啻其一身之罪責のみな
ノ意見数端ニ渉リ概スルニ、旧情ニヨリ今度
らす自然数百年之高恩ニ背き乍憚御名誉にも
応募方内諭スル而已ナレハ可ナリトスルモ、
差響き候儀と奉存候て一同相警戒し、進退共
此旧情説諭ハ却テ長ク将来ヘ連続シ士族百般
猶一層自治之心を奮興し稍人間之務をなし得
ノ事皆旧情ニヨラシムルノ端ヲ招クモノヽ如
候迄ニ運ひ度存込罷在候儀ニ御坐候」(6 月
クナレハ到底内諭ハ不可然ニ付其段〔前田〕
23 日付牧野忠泰宛三島億二郎書翰⑨)
利嗣ヘ早速可申通ト内議一決之段今朝申出、
出兵して「不都合」があった場合、主家からの
「数百年之高恩」に背くことになるとして、応募
に慎重な姿勢を示す。
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甚タ遺憾至極ニ奉存候」(6 月 27 日付岩倉具
視宛熊野九郎書翰⑨)
北海道開拓使と西南戦争関係資料
大 谷 正(専修大学文学部教授)
はじめに
―西南戦争と屯田兵・屯田予備兵の出征―
黒田は長崎より電奏して、勅使護衛の任務の終了
後は、「護衛兵等ヲ以テ賊ノ背後ヲ衝キ熊本城外
ノ敵ヲ攘フ」 ことを建策した。14 日、黒田は征
西南戦争に際して、開拓使管下の屯田兵 1 大隊
討参軍に任じられ、「兵隊、巡査隊ヲ率イ肥後海
(琴似中隊と山鼻中隊)および屯田予備兵 1 個大
ヨリ賊背征討ヲ委任」 するとの命を受け、高島鞆
隊が出征した。本稿はこれに関する北海道内の資
之助が勅使警護兵 5 個中隊を率いて黒田の指揮を
料を調査し、概要を報告するものである。
受けることとなった。高島隊は警視隊 4 隊を加え、
調査をおこなった施設は、北海道立図書館、北
別働第 2 旅団と改称し、3 月 18 日に長崎を出航し
海道立文書館、北海道大学付属図書館北方資料室、
た部隊は翌日日奈久(球磨川河口八代の南)に上
伊達市開拓記念館であった。この他、琴似の開拓
陸した。これにつづいて 25 日には陸軍少将山田
神社、屯田兵資料室等も訪れた。
顕義が各地の鎮台兵を率い、陸軍少将兼大警視川
はじめにとして、西南戦争と屯田兵・屯田予備
路利良が警視隊を率いて八代に上陸した。黒田参
軍の下に、別働第 1 旅団(高島鞆之助少将指揮の
兵の出征の概略を説明する。
西南戦争開戦時の北海道開拓使のトップは、陸
旧別働第 2 旅団)、別働第 2 旅団(山田少将指揮)、
軍中将兼参議・開拓長官黒田清隆であった。1874
別働第 3 旅団(川路少将指揮の警視隊)が編制さ
年、開拓次官(当時の長官は東久世通禧)であっ
れ、南から攻撃して熊本に逼った。4 月 15 日、背
た黒田は陸軍中将に任じられ、さらに同年 8 月に
衝軍が熊本城に入城し、薩摩軍は一斉に撤退し、
は参議・開拓長官を兼任するようになった。この
翌日 16 日に山県の率いる正面軍が熊本城に入城
年、屯田兵が設置され、翌年 1875 年には札幌郊
した(以上、井黒弥太郎『黒田清隆』吉川弘文館、
外琴似に東北の士族を中心に 198 戸が入植して第
1977 年)。
1 中隊が成立、ついで 1876 年春には山鼻村に第 2
開拓長官兼屯田憲兵事務総理であった黒田清隆
中隊が組織され、ここに屯田憲兵第一大隊の編制
の西南戦争との関連は以上の通りで、かつて兵部
を終えた。西南戦争では参議兼開拓長官の黒田は
省を追われた彼が、西南戦争では予想外の活躍を
参軍として熊本城救援に活躍し、配下の開拓使管
行い、それとともに彼の指揮下にあった屯田兵・
下の屯田兵と新たに編制された屯田予備兵が西南
屯田予備兵も九州の戦場に出動した。現時点で屯
戦争に出征したのである。
田兵の制度と実態に関する研究として最も充実し
まず黒田の行動から見ていこう。1877 年 2 月、
ているのは、伊藤廣『屯田兵の研究』(同成社、
西郷を擁して薩摩軍が立つと、政府は有栖川宮熾
1992 年)である。西南戦争と屯田兵・屯田予備
仁親王を征討総督に任じるとともに、陸軍中将山
兵の出征、それと関連した予備屯田兵条例制定に
県有朋と海軍中将川村純義を参軍に任じて、陸軍
ついては、同書 「第 4 章 西南の役と屯田予備兵
と海軍の責任者とした。この後、黒田陸軍中将は、
条例」(107 頁~ 135 頁)に詳述されているので、
勅使柳原前光を護衛して鹿児島に向かうことを命
つぎにその要点を紹介する。
じられた。黒田は勅使とともに玄武丸にのり、鹿
当初、屯田兵は青森県下の状況に対応するため
児島に向かう途上で諸艦船を集めて、3 月 8 日錦
函館港を警備する訓令を受け、20 名の小部隊を
江湾に入り、島津久光に面会後、黒田は鹿児島県
編制し、小樽で箱館への出動を待機した。4 月 9
令大山綱良を連れて長崎に帰投した。3 月 13 日、
日、黒田参軍より屯田兵出征の内命があり、屯田
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資 料
事務局は琴似・山鼻の 2 中隊を野戦編制とし、出
た。帰還途上の屯田兵が 8 月末に大阪に到着後、
動準備を即日整えた。出動準備を整えた屯田兵は
約 3 週間この地に留まったのは隔離の意味もあっ
本部長堀基准陸軍大佐以下出動総数 645 名で、そ
た。
の構成は本部(堀基准陸軍大佐、17 名)、第一大
あまり知られていないが、北海道から西南戦争
隊(大隊長・永山武四郎准陸軍少佐)、第一中隊
に出征したのは屯田兵だけでなく、急遽編制され
(中隊長・門松経文准陸軍大尉、244 名)、第二中
た屯田予備兵 1 大隊も東京まで移動し、訓練と九
隊(中隊長・家村住義准陸軍大尉、239 名)、輜
州への出動に備えていたから、この経緯について
重(隊外・八等属・上野正、70 名)、砲廠(隊外・
も簡単に紹介する。西南戦争以前から、屯田兵の
一等属新納栄隆、55 名)、小繃帯所(隊外・九等
不足に対応するために、北海道内の士族集団入植
属・中野春海、12 名)というものであり、この
者を組織する予備農兵制度が検討されていたが、
中には民間人約 130 名が含まれていた。屯田兵は
札幌本庁及び東京出張所内部の異論があり中止さ
10 日には小樽に向け出発した。その後、一同は
れていた。北海道内で組織の対象者と考えられて
太平丸に乗船し、4 月 15 日小樽港抜錨、途中悪
いた主なグループは、日高静内の稲田邦植家臣
天候のため佐渡多田浦に寄港した後、23 日熊本
(淡路)、胆振有珠郡伊達邦成家臣(亘理伊達家)、
市外百貫石に到着し、ここで別働第 2 旅団(山
石狩別当伊達邦直家臣(岩出山伊達家)、旧松前
田顕義少将指揮)に編入の命を受け、八代口よ
藩家臣で、彼らを 3 大隊 720 人として組織するプ
り人吉攻撃に参加することになった。約 1 ヶ月の
ランであった。西南戦争が始まり、4 月に屯田兵
熊本県南部八代から球磨川沿いの烈しい戦闘の後、
が出征すると、太政官の要請を受けて、開拓使は
6 月 1 日人吉を占領した。その後、別働第 2 旅団
屯田予備兵招募を決定した。同年 6 月には石狩国
は熊本から鹿児島に向かい転戦したが、各部隊が
当別の岩出山伊達家家臣、胆振国有珠の亘理伊達
鹿児島市街に突入する直前、突然に 8 月 16 日に屯
家家臣、日高国静内の稲田家家臣、旧松前藩家臣
田兵の引揚げ、慰労金を賜ることを旅団長より伝
およびかつての予備農兵プランでは除外されてい
達された。8 月 21 日鹿児島発、神戸経由で 30 日
た余市在住の旧会津藩士をもふくめて組織に着手
東京に到着し、さらに 9 月 22 日東京発、29 日小
し、664 名を召募して屯田予備兵を編制した。彼
樽入港、30 日札幌到着という日程で北海道に帰
らは 6 月下旬箱館に集合し、東京に向かい、ここ
着した。
に留まって軍事訓練をうけて出征を待った。とこ
屯田兵で戦死して靖国神社に合祀されたのは、
ろが 8 月中旬、政府軍が延岡で薩摩軍を潰滅させ
琴似中隊の 7 名と山鼻中隊の 1 名、合計 8 名である。
ると、上記のように屯田兵の北海道帰還が決定さ
また、1879 年には、札幌市北六条西七丁目偕楽
れ、これに連動して東京に留まっていた屯田予備
園前に屯田招魂碑が建立されたが、ここには戦死
兵の九州出征も無用となり、その北海道への帰還
した 8 名と病没した准陸軍大尉門松経文他 28 名の
が決定された。
この時、8 月 30 日に鹿児島より東京に凱旋した
名前が記された。これが公式な病没者数であるが、
北海道に帰還後病没したものも含めると、病没者
屯田兵幹部の准陸軍大佐堀基・准陸軍少佐永山武
数は更に多くなる。『琴似町史』によると、10 名
四郎以下士官は、翌 31 日に御座所で明治天皇に
がコレラで死亡したとあり、また『山鼻創基 81
謁見し、勅語を賜り、酒饌を授けられた。ついで、
周年記念誌』には、1名が戦死、36 名が傷病死
9 月 3 日には天皇が皇居門外で屯田予備兵を閲兵
したとある。これによると琴似・山鼻の 2 中隊で
し、勅語を賜った(『明治天皇紀』第 4)。
基準は異なるが、合計 46 名の戦病死者を出した
北海道帰還後、屯田予備兵は手当金を与えられ
ので、出征屯田兵全体の病死者数は当然にこれ
解散したが、同時に屯田予備兵条例制定が示唆さ
以上になるはずである。多数の病死者が発生し
れた。同年 12 月に屯田予備兵条例が制定され、
た原因は、九州の戦場で既に発生し、部隊の帰
1881 年には条例が廃止されている。
還途上の大阪で猖獗を究めたコレラの流行であっ
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北海道開拓使と西南戦争関係資料
1.北海道立図書館所蔵の西南戦争関係
資料
『八代口征討総人員名簿』
『参軍本営人名』
『鹿児島出張日誌』
北海道立図書館(〒 069-0834 江別市文京台東
『鹿児島出張日誌 第一回部』 2 冊
町 41)
、とくに北方資料室では北海道関係文献の
『鹿児島出張日誌 第二回部』 2 冊
収集が盛んに行われているが、その中に、開拓使
『鹿児島出張日誌附録』
の罫紙を使用した記録が所蔵されている。請求記
『鹿児島出張日誌附録 第一回部』 2 冊
号:原本の請求番号は 393.9 / TO、マイクロフ
リール 3
ィルムに撮影されたものは M1683 ~ 1692 と 2751
『鹿児島出張日誌附録 第二回部』
~ 2753(資料名は『西南公文録(関係文書)』及
『鹿児島出張日誌抜粋』
び『黎明館(北海道)文献』)である。
『鹿児島紀行附録』
これらの資料は北海道本庁あるいは東京出張所
『肥薩従行日誌』 2 冊
で作成された資料ではなく、九州に出動した現地
『西京出張日誌』 4 冊
の屯田兵部隊が日々記録した資料、および黒田参
『八代口征討日誌摘録』
軍と彼を補佐した開拓使関係者によって作成され
『軍団紀事原稿』
た文書類が中心である。言うまでもなく、これは
『戦闘報告類』
開拓使が作成した西南戦争関係記録の基本的な記
録で、西南戦争の際の屯田兵の九州出征に関する
②『黎明館(北海道)文献』 35 ミリフイルム 10 リール
諸問題を検討する際の不可欠な根本資料であり、
今後の本格的な分析が待たれる。今回の科学研究
費補助金を得ておこなった共同調査において、こ
れらの文書を現地で部分的に閲覧した後、マイク
ロフィルムの複製を購入し、プリントアウトして
リール 1
『西南警報原本 乾』
リール 2
『八代口征討参軍本営公文録一 御沙汰書并御
伺御届之部』
製本したものを 2 部製作し、専修大学大谷研究室
と猪飼隆明が保管し、東京地区と九州地区におけ
『八代口征討参軍本営公文録二 達書并指令之
る共同利用に備えている。以下、マイクロフイル
部』
ムに撮影された資料の簿冊名リストを挙げる。た
リール 3
だし、マイクロフイルムに撮影する際に若干の重
『八代口征討参軍本営公文録三 昇級転免之部』
複があったかもしれない。
『八代口征討参軍本営公文録四 諸届之部』
リール 4
①『 西南公文録(関係文書)』 16 ミリフイルム 3 リール
リール 1
『屯田兵出征目録』(日録ヵ)
『屯田兵出征公文録』
『従軍出張姓名簿』
『黒田清隆書簡』
『官員履歴』 2 冊
『黒田清隆履歴書案』
『八代口征討参軍本営公文録五 諸往復之部』
リール 5
『八代口征討参軍本営公文録五 諸往復之部』
のつづき
『西南公文録 草稿』
『西南役文書』
『明治四十四年三月調査 北海道ト各府県トノ
関係』
リール 2
『西南事件雑書』
『分捕品賊徒名簿並日記』
リール 6
『八代口征討参軍本営公文録六 第一旅団届并
往復之部』
『暴徒発配一件』
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資 料
今回の科学研究費補助金による北海道立公文書
『八代口征討参軍本営公文録七 第二旅団届并
館所蔵資料の調査は、2010 年と 2011 年に 2 回に
往復之部』
『八代口征討参軍本営公文録八 第三旅団届并
渉って、延べ 3 日間行った。膨大な所蔵資料を僅
か 3 日間で調査し、必要部分を撮影することは困
往復之部』
難であり、今後とも調査を続ける必要があること
リール 7
『八代口征討参軍本営公文録八 第三旅団届并
は言うまでもない。今回の調査で閲覧しデジタル
カメラで撮影した資料の主要なものを下記のよう
往復之部』のつづき
『八代口征討参軍本営公文録九 第四旅団届并
にリストにしたが、これらは大まかに 3 グループ
に分かれる。
往復之部』
開拓使文書 とは、1869(明治 2)年に設置され、
『八代口征討参軍本営公文録十 運輸局并船艦
82 年まで北海道・千島・樺太(1875 年まで)を
届往復之部』
管轄した開拓使の文書であり、札幌本庁文書・各
リール 8
『八代口征討参軍本営公文録十 運輸局并船艦
支庁の文書・東京出張所文書などに大別される。
なお、開拓使廃止後大蔵省内に設置された旧開拓
届往復之部』のつづき
『八代口征討参軍本営公文録十一 電信往之部』
使残務整理委員の文書も、便宜上開拓使文書に含
『八代口征討参軍本営公文録十二 電信復之部』
める。
グループ①は、最も残存状態が最も良好で、他
リール 9
『八代口征討参軍本営公文録十二 電信復之部』
機関所蔵原本の複製も含めて 3,080 点という最大
の資料群を所蔵する函館支庁文書(1872 年設置
のつづき
『八代口征討参軍本営公文録十三 探偵書之部』
の開拓使函館支庁の文書。前身の函館開拓使出張
『戦闘報告類』
所・函館出張開拓使庁文書をも含む。胆振国有珠
『警報摘要』
3 冊
の亘理伊達家家臣からの屯田予備兵召募関係資料
『賊軍河尻墓標録』
を含む)から主にピックアップした資料で、西南
戦争電報綴、屯田兵関係簿冊、屯田予備兵関係簿
リール 10
『賊軍河尻墓標録』のつづき
冊である。とりわけ、屯田予備兵関係資料は充実
『八代口行営公文録』 3 冊
しており、召募から始まり、屯田予備兵条例制定、
『八代口征討死傷概表』
屯田予備兵制度廃止までの過程を知るための資料
『八代口征討戦記』
がある。
グループ②は、明治3年設置の開拓使東京出張
『衝背軍軍団紀事』
所の文書を中心とする、各省庁との往復文書を綴
『軍団紀事原稿』 2 冊
ったものから、西南戦争に関連するものをピック
2.北海道立公文書館所蔵の開拓使関係
資料
アップしたものである。時間をかけて丹念に捜せ
ば、更に数多くの資料が発見されるはずである。
グループ③は、1882 年、開拓使の廃止を受け、
北海道立文書館(北海道総務部人事局法制文書
残務整理を行うために大蔵省内に設置された、旧
課文書館 〒 060-8588 札幌市中央区北3条西6
開拓使残務整理委員文書よりピックアップした資
丁目赤れんが庁舎内)は、開拓使関係の基本資料
料である。この検索にあたっては、『北海道立文
とそれ以外の個人資料をも所蔵している。文書の
書館所蔵資料目録 19 大蔵省開拓使会計残務整
検索はコンピュータによる検索(館外からも検索
理委員会文書(2)』(2004 年)を使用した。開拓
可能)と冊子目録による検索が可能であり、両者
使廃止とともに開拓使東京出張所書類は、開拓使
を併用することで効率的な検索が可能である。ま
東京出張所記録課文書はすべて札幌県に引き継ぐ
た、レファレンスサービスも充実している。
が、会計編輯に関する書類はそれから除外されて
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北海道開拓使と西南戦争関係資料
大蔵省管理となった。ところが、我々が撮影した
月至六月分迄合綴 函館支庁民事課
リストに明らかなように、「略輯旧開拓使会計書
戸籍係
類」 と呼ばれるこれらの旧開拓使残務整理委員文
簿書 /2624 屯田予備兵関係書類 明治十二年自一
書には、会計関係に限らず、西南戦争の電報綴、
月至六月分合綴 函館支庁[民事課
稟議書綴、屯田兵・予備屯田兵関係書類も含まれ
戸籍係]
ている。そしてもう一つの特徴は、残った書類を
簿書 /4039 屯田予備兵関係書類 明治十二年七月
ヨリ十三年 函館支庁民事課戸籍係
整理せずに、当時の状態のままで簿冊にしている
印象があり、資料の分量が膨大で、かつ内容が豊
簿書 /4843 屯田予備兵領置金一件留 明治十四年
一月
富である。これらの 800 点に達する分厚い簿冊で
ある 「略輯旧開拓使会計書類」 は従来の研究でも
函館県兵事課 簿書 /4844 屯田予備兵割附下渡一件留 明治十四
年 函館支庁民事課戸籍係
ほとんど使われたことがないので、これをきちん
と分析すれば大きな研究の前身が期待される。な
お、「略輯旧開拓使会計書類」 の伝来と編纂事情
グループ②
については、
『北海道立文書館所蔵資料目録 19 簿書 /5664 開拓使公文録 内務省各局往復 明
治十年従一月至十二月
大蔵省開拓使会計残務整理委員会文書(2)』の改
簿書 /5678 開 拓使公文録 本庁往復 三 明治
題を参考にされたい。
十年従六月至十二月
この他に、道立文書館所蔵資料で西南戦争への
屯田兵・屯田予備兵出征関係資料としては、開拓
簿書 /5681 開 拓使公文録 函館往復 三 明治
十年自五月至七月
使事業報告原稿(1881(明治 14)年から編纂が
始められ 85 年に大蔵省から刊行された『開拓使
簿書 /5684 開拓使公文録 宮内省往復 明治十
一年自一月至十二月
事業報告』の編纂資料)や個人文書の中にも関連
簿書 /5849 開拓使公文録 内務省 明治十年
資料が存在する。
簿書 /5851 開拓使公文録 陸軍省往復 明治十
グループ①
年
簿書 /1995 開拓使士族禄高名簿 屯田兵 明治
簿書 /5852 開拓使公文録 海軍省往復 明治十
年自一月至十二月
十年 札幌本庁民事局戸籍課
簿書 /2044 西南騒擾ニ関スル電信往復編冊 明
治十年
簿書 /5853 開拓使公文録 司法省往復 明治十
年自一月至十二月
函館支庁
簿書 /2111 屯 田予備兵召募関係書類 其二 明治
簿書 /5867 開拓使公文録 内務省往復 明治十
一年
十年六月 函館支庁
簿書 /2113 屯 田予備兵召募関係書類 其三 明治
簿書 /5869 開拓使公文録 陸軍省往復 明治十
一年
十年七月 函館支庁
簿書 /2114 屯田兵書類 明治十年 函館支庁
簿書 /6243 開 拓使公文録 社寺・職官・地方・
戸籍・兵制・文書 明治 10 年
簿書 /2115 屯田兵書類 明治十年 函館支庁
簿書 /2348 屯 田予備兵書類 辞令案並辞表 十年
グループ③
東京出張所 記録課
簿書 /2610 屯 田予備兵召募関係書類 明治十年
簿書 /6324 略輯旧開拓使会計書類 第一号第十五
冊(屯田予備兵書類綴込 明治十四
函館支庁 年)
簿書 /2622 屯田予備兵関係書類 明治十二年自一
月至六月分合綴 函館支庁民事課戸
簿書 /6366 略輯旧開拓使会計書類 第四号第二百
十三冊(伺並上申録 十年七月 屯田
籍係
簿書 /2623 屯田予備兵関係書類 明治十二年自一
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予備兵事務)
資 料
簿書 /6369 略輯旧開拓使会計書類 第四号第二
北海道大学図書館では、白石家文書、伊藤左膳
百十五冊(屯田兵出生死没扶助願類
「明治十年屯田兵出征日記」(別 -951.4-Ito)、調所
明治十一年七月 屯田局事務係)
廣丈官途日誌(別 -920-Zu)を閲覧し、必要部分
簿書 /6378 略輯旧開拓使会計書類 第四号第二
を撮影した。
まず白石家文書は、図書館の解説によると、越
百五十九冊四分割ノ一(西陲事件船
後高田藩奏者番方書役兼徒目付であった白石林文
艦入費調書)
簿書 /6382 略輯旧開拓使会計書類 第四号第二百
(十郎右衛門)および子息たちの日記、御用留、
七十冊(各所往復留 明治十年六月
蔵書を中心とする白石家代々の資料(文化 6 年-
廿九日より)開拓使東京出張所黒田
明 治 38 年 頃 ま で ) で 約 480 点。 日 記(107 冊 )、
参軍随行
家譜・覚留など(62 点)、高田藩関係資料(112
簿書 /6383 略輯旧開拓使会計書類 第四号第二百
六十一冊(諸公文并ニ電報扣)開拓
点)、一般書(203 冊)を含む。日記には長州征討、
戊辰戦争、西南の役への参加を含む。手書きの
「白石家資料仮目録」がある。この中で、白石林
使東京出張所黒田参軍随行
簿書 /6386 略輯旧開拓使会計書類 第四号第二
武手留 ( 白石林武は林文の子息、西南出征新撰旅
百六十五冊三分割ノ一(西陲禀議書
団監査隊五分隊分隊長心得二等巡査心得として出
類)
征)を閲覧・撮影した。この冊子は林武の自筆で
簿書 /6393 略輯旧開拓使会計書類 第四号第二
190 丁、25.5cm、成立年は 1877 年と考えられる。
百七十冊(屯田兵凱旋滞京中関係書
内容は、西南戦役に際し、1877 年 6 月に新潟県高
類 明治十年八月)
田で巡査隊に応募し、九州の戦闘に参加した記録
簿書 /6832 略輯旧開拓使会計書類 第四号第九
である。関係の諸文書写のほか従軍日誌を含む。
百四十四冊 (西印追算払評議留 明
白石林武は屯田兵ではなく、出身地高田で巡査招
治十年西南之事係スルモノニシテ処
募に応じ、九州を転戦したのち北海道に渡り、長
済ニ属ス 用度係)
年にわたって樺戸集治監に勤務して「樺戸集治監
勤務日記(1886 年 9 月-1901 年 11 月)」(54 冊)を
3.北海道大学付属図書館北方資料室お
よび亘理伊達家関係資料
残している。
屯田兵の自筆の従軍日記として、伊藤左膳 「明
治十年屯田兵出征日記」 がある。伊藤は第 2 中隊
西南戦争への屯田兵・屯田予備兵出征に関する
(山鼻)第 2 小隊第 4 分隊所属の兵卒であった。
資料の主要なものは、上記の北海道立図書館と北
伊達市開拓記念館には、胆振国有珠に集団入植
海道立文書館に所蔵されているが、その他にも見
した宮城県の亘理伊達家の関係資料が保存されて
逃すことができない重要が存在する。我々が北海
いる。近年、伊達市教育委員会によって、『亘理
道調査の際に訪れたのは、北海道大学付属図書館
伊達家史料』(704 頁)が刊行された。同書には
北方資料室(〒 060-0808 札幌市北区北 8 条西 5
西南戦争期の屯田予備兵関係資料は収録されなか
丁目)と伊達市開拓記念館(伊達市館山町 21-5)
ったが、伊達家の日誌などには関係資料があるの
であった。
ではないかと想像される。
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西南戦争に関する記録の実態調査と
その分析・活用についての研究
課題番号 21320126
平成 21 年度∼平成 23 年度
科学研究補助金 基盤研究(B) 研究成果報告書
2012 年 3 月
発行 専修大学文学部 大谷研究室
神奈川県川崎市多摩区東三田 2-1-1
編集 研究代表者 大 谷 正