編集後記 - ACA Tozan

コロニア東山創立50周年記念誌
編集後記
50年
50年の歳月は
歳月は長いようで短
いようで短いものです。
いものです。
コロニア東山初期
コロニア東山初期に
東山初期に入植された
入植された方
された方々 が相互親睦融和協同、
相互親睦融和協同、それに子弟
それに子弟の
子弟の 健全な
健全な教育と
教育と言うこ
と で 日 本 人 会 が 発 足 し 、 試 行 錯 誤 の 結 果 今 日 の Associação Cultural Assistencial NipoBrasileira da Colônia Tozan と運営されてきました
運営されてきました。
されてきました。
幾多の
幾多の 難題があった
難題があった事
があった事 ですが、
ですが、 これらの諸事
これらの諸事を
諸事を 得てきたのですが、
てきたのですが、その記録
その記録が
記録が少なかったこ
とが記念誌
とが記念誌の
記念誌の編集を
編集を難しくしました。
しくしました。
史実に
史実に 忠実を
忠実をモットウに
モットウに編集を
編集を 致しましたが、
しましたが、 歴代の
歴代の責任者がその
責任者がその任務
がその任務を
任務を追行継続していな
追行継続していな
かったのではないかと思
かったのではないかと思われます。
われます。
歴史は
歴史は 一日で
一日で出来るものではありませんが
出来るものではありませんが、
るものではありませんが 、正確な
正確な 記録は
記録は次世代の
次世代の 日本人会運営の
日本人会運営の指針とな
指針とな
るので今後
るので今後の
今後の記録の
記録の保持、
保持、継承が
継承が大事になります
大事になります。
になります。
色 々な 方々 から貴重
から貴重な
貴重な 寄稿を
寄稿を賜 り、 感謝しています
感謝しています。
しています。また、
また、日本語の
日本語の構成はもちろん
構成はもちろん、
はもちろん、一番
難 しかったブラジル
しかったブラジル語
ブラジル語 への翻訳
への翻訳に
翻訳に後藤郁代さん
後藤郁代さん卓越
さん卓越した
卓越した日伯両語
した日伯両語の
日伯両語の 理解、
理解、松熊マリ
松熊マリさん
マリさん、
さん、 松
熊クララ(浦口
クララ 浦口クララ
浦口クララさん
クララさん)の
さん の翻訳、
翻訳、坂本サンドラ
坂本サンドラさんの
サンドラさんのブラジル
さんのブラジル語
ブラジル語の監修、
監修、紙面を
紙面を持ちまして、
ちまして、
御礼申し
御礼申し上 げます。
げます。コンピュータを
コンピュータを活用して
活用して、
して、 日本語の
日本語の修正などに
修正などに惜
などに惜しまなかった大久保
しまなかった大久保ア
大久保ア
メリコ氏
メリコ氏に衷心よりお
衷心よりお礼申
よりお礼申し
礼申し上げます。
げます。
総括の
総括の冊子組み
冊子組み立てに全面
てに全面協力
全面協力してくださった
協力してくださったジョルナリスタ
してくださったジョルナリスタ Hellen Naomi 早野さんに
早野さんに深謝
さんに深謝
いたします。
いたします。
この小冊子
この小冊子が
小冊子が日本人会の
日本人会の今後の
今後の運営に
運営に幾分か
幾分か役たてれば幸
たてれば幸いに存
いに存じます。
じます。
編集責任者
東治男
32
コロニア東山創立50周年記念誌
私の第二の
第二の故郷
池田光子
今 から、
から、三十年前の
三十年前の冬 、私 が最初に
最初に 踏んだブラジル
んだブラジルの
ブラジルの大地がこの
大地がこのコロニア
がこのコロニア東山
コロニア東山でした
東山でした。
でした。澄 ん
だ 青空とその
青空とその風
とその風 が気持ちよく
気持ちよく、
ちよく、 それにもまして、
それにもまして、そこに住
そこに住んで居
んで居られた方
られた方々のお優
のお優しい心
しい心 に
触 れて嬉
れて嬉しかったことが忘
しかったことが忘 れられません。
れられません。 入植当時の
入植当時の苦労話も
苦労話も 聞きました、
きました、 本当の
本当の 日本人の
日本人の
心 がコロニアに
コロニアに 存在しているのを
存在しているのを知
しているのを知 って感動
って感動しました
感動しました。
しました。 年配の
年配の 方々 の礼儀正しさに
礼儀正しさに頭
しさに頭が下 が
りました。
りました。実に
素直で
素直で 明るい子供達
るい子供達に
子供達に 出逢ったり
出逢ったり、
ったり、 少しの間
しの間でしたが、
でしたが、 日本語を
日本語を彼等に
彼等に 教えたり少年野球
えたり少年野球の
少年野球の
応援に
応援に 夢中になったりしたものです
夢中になったりしたものです。
になったりしたものです 。コロニア東山
コロニア東山は
東山は私 の第二の
第二の故郷になりました
故郷になりました。
になりました。この日
この日
本人会が
本人会が五十年間続いてこられたのは
五十年間続いてこられたのは日本人会執行部
いてこられたのは日本人会執行部はもとより
日本人会執行部はもとより婦人会
はもとより婦人会、
婦人会、青年会、
青年会、野球部、
野球部、
ソフトボール部
ソフトボール部 の支援があり
支援があり多
があり多 くの人
くの人々に 護られて来
られて来たからです。
たからです。 コロニアの
コロニアの歴史を
歴史を築いて
来られた方
られた方々も自然齢を
自然齢を重ねて来
ねて来られました。
られました。
この記念日
この記念日にあたり
記念日にあたり、
にあたり、高齢化しつつある
高齢化しつつあるコロニア
しつつあるコロニアの
コロニアの活性化に
活性化に取り組む必要性を
必要性を感じます。
じます。
まず、
まず、 コロニアの
コロニアの人々 の高齢化と
高齢化と人口減少が
人口減少が起 きています。
きています。大家族が
大家族が小家族になり
小家族になり、
になり、コロニ
ア から離
から離れた方
れた方 、一人暮らしの
一人暮らしの方
らしの方、 養老院を
養老院を考 えておられる方
えておられる方 もあります。
もあります。 ところがコロニ
ところがコロニ
ア の人口は
人口は 減って日本人会
って日本人会には
日本人会には近
には近くの町
くの町からたくさんの子供
からたくさんの子供たちが
子供たちが、
たちが、野球、
野球、ソフトボールに
ソフトボールに
入 り、 にぎやかになりました。
にぎやかになりました。 それに日本人会
それに日本人会を
日本人会を支援して
支援して下
して下さる父兄
さる父兄もあり
父兄もあり活性化
もあり活性化してきて
活性化してきて
おり有難
おり有難いことです
有難いことです。
いことです。 一方選手達が
一方選手達が 成人してくると
成人してくると日本人会
してくると日本人会から
日本人会から離
から離 れて行
れて行く 傾向にあり
傾向にあり、
にあり、余
り 青年会活動が
青年会活動が 出来ていないのではないでしょうか
出来ていないのではないでしょうか。
ていないのではないでしょうか 。昔 の青年会にはいくつかの
青年会にはいくつかの活動部門
にはいくつかの活動部門が
活動部門が
あり、
あり、盛り上がっていたそうです。
がっていたそうです。
時代は
時代は 変わってコロニア
わってコロニアは
コロニアは サイクルが
サイクルが回っており、
っており、 そのサイクル
そのサイクルの
サイクルの 中の大きな動力
きな動力の
動力の担い 手
は若者たち
若者たち、
たち、すなわち青年会
すなわち青年会にあるのです
青年会にあるのです。
にあるのです。
彼等に
彼等に是非日本人会の
是非日本人会の活性化活動をしてほしいと
活性化活動をしてほしいと望
をしてほしいと望みます。
みます。
次 に、 長寿社会になって
長寿社会になって来
になって来 たコロニアの
コロニアの人 々の 余生をより
余生をより良
をより良く 暮らせるようにしたいもので
す 。もし高齢者
もし高齢者のための
高齢者のためのサークル
のためのサークル活動
サークル活動の
活動の場 を日本人会に
日本人会に 設け実践するならば
実践するならば高齢者
するならば高齢者の
高齢者の方 々 に
とってどんなにか大
とってどんなにか大きな喜
きな喜 びと楽
びと楽しみになる事
しみになる事 でしょう。
でしょう。日本人会の
日本人会の会員がそれぞれ
会員がそれぞれ出来
がそれぞれ出来る
出来る
事 を提供し
提供し 老若男女子供達の
老若男女子供達の交流の
交流の 場の作 り、 理想的老人社会を
理想的老人社会を大 きな課題
きな課題として
課題として追求実現
として追求実現
して行
して行 きたいと望
きたいと望みます。
みます。 そして将来
そして将来コロニア
将来コロニア東山
コロニア東山に
東山に安 らかで快適
らかで快適な
快適な老人ホーム
老人ホームが
ホームが出来たら
出来たら
と介護や
介護や住む場所などの
場所などの心配事
などの心配事が
心配事が解済され
解済され、
され、家族も
家族も安心できるにちがいありません
安心できるにちがいありません。
できるにちがいありません。
31
コロニア東山創立50周年記念誌
大橋兄弟が
大橋兄弟が確実にした
確実にしたゴヤバ
にしたゴヤバ栽培
ゴヤバ栽培
聞き人 東治男
ゴヤバ栽培
ゴヤバ栽培を
栽培を始 めたのは入植三年目
めたのは入植三年目の
入植三年目の1964年
1964年ジャガリウーナで
ジャガリウーナで ゴヤバを
ゴヤバを 栽培しておられ
栽培しておられ
た 恩田春治氏(
恩田春治氏( コチア産組員
コチア産組員)
産組員) から種子
から種子を
種子を 分譲してもらい
分譲してもらい栽培指導
してもらい栽培指導を
栽培指導を受 けました、
けました、 この時点
この時点
においてはほとんどが実生
においてはほとんどが実生で
で
増殖が
増殖
が
行
われ、
われ
、
コロニア在住
コロニア
在住の
の
渡辺光一氏も
渡辺光一氏
も
同
じころにゴヤバ
じころに
ゴヤバ
実生
在住
栽培を
栽培を始められました。
められました。
彼は、出荷量が
出荷量が多く、コチア産業組合一
コチア産業組合一の
産業組合一の出荷量を
出荷量を誇っておられたようです。
っておられたようです。
この当時
この当時、
当時、すべて赤
すべて赤の種類で
種類で増殖も
増殖も実生によるものでした
実生によるものでした。
によるものでした。
ぺドラブランかの
ドラブランかの熊谷氏
かの熊谷氏の
熊谷氏の圃場で
圃場で偶然に
偶然に白のゴヤバが
ゴヤバが見つけられました。
つけられました。
これは、
これは、改良というものではなく
改良というものではなく、
というものではなく、自然変異によるものだということです
自然変異によるものだということです。
によるものだということです。
増殖の
増殖の 技術も
技術も実生から
実生から芽接
から芽接の
芽接の方法に
方法に 進み、 急速に
急速に苗木の
苗木の 生産が
生産が 進み 、したがって白
したがって白ゴヤバの
ゴヤバの
生産農家が
生産農家が増えました。
えました。
このコロニア
このコロニア東山
コロニア東山でも
東山でも堤兄弟
でも堤兄弟、
堤兄弟、片田、
片田、内田、
内田、藤本、
藤本、後藤氏らが
後藤氏らが栽培
らが栽培を
栽培を始めました。
めました。
どの作物
どの作物も
も
同
じように、
じように
、
同
じ
時期に
時期
に
大量の
大量
の
生産物が
生産物
が
市場に
市場
に
出回る
出回
る
、
いわゆる生産過剰
いわゆる
生産過剰になり
作物
生産過剰になり、
になり、
値段が
値段が暴落し
暴落し、次第に
次第に生産をやめる
生産をやめる人
をやめる人が出てまいりました。
てまいりました。
カンピーナス地
カンピーナス地方はこのゴヤバ
はこのゴヤバ栽培
ゴヤバ栽培には
栽培には適
には適しているとおもいます。
しているとおもいます。
過去に
過去に数回霜の
数回霜の害による立
による立ち枯れもあり、
れもあり、出荷計画が
出荷計画が狂ったこともありました。
ったこともありました。
霜害を
霜害を克服して
克服して、
して、徐々に回復してきました
回復してきました。
してきました。
それというのは選定
それというのは選定技術
選定技術、
技術、 施肥、
施肥、潅水などの
潅水などの総合的栽培管理
などの総合的栽培管理の
総合的栽培管理の 細かい注意
かい注意で
注意で一年間を
一年間を通じ、
生産量の
生産量のコントロールができ
コントロールができ、
ができ、市場価格をもみながら
市場価格をもみながら、
をもみながら、栽培できるおもしろみがあります
栽培できるおもしろみがあります。
できるおもしろみがあります。
一年中暇のない
一年中暇のない果樹栽培
のない果樹栽培ですが
果樹栽培ですが、
ですが、労力の
労力の分配もできるし
分配もできるし、
もできるし、永年ゴヤバ
永年ゴヤバと
ゴヤバと 付き合った私
った私どもな
りのゴヤバ
りのゴヤバ人生
ゴヤバ人生です
人生です。
です。
もっとも古
もっとも古い樹は36年生
36年生で
もなお生産を
けています。
年生で、今もなお生産
生産を続けています。
現在コロニア
現在コロニア東山
コロニア東山で
東山でゴヤバ栽培
ヤバ栽培を
栽培を続けておられるのは内田
けておられるのは内田、
内田、後藤氏だけです
後藤氏だけです。
だけです。
30
コロニア東山創立50周年記念誌
東山ソフトボール
東山ソフトボール
池田尚昭
東山ソフトボールチーム
東山ソフトボールチームから
ソフトボールチームから一九九
から一九九0
一九九0年と 二000年頃
000年頃に
年頃に、ブラジル代表選手
ブラジル代表選手が
代表選手が選 ばれて盛
ばれて盛
んな時期
んな時期がありました
時期がありました。
がありました。徐 々に 選手不足になり
選手不足になりチーム
になりチームを
チームを 組めない時期
めない時期もありましたが
時期もありましたが今日
もありましたが今日ま
今日ま
で絶えず続
えず続いている事
いている事は誠に嬉しい事
しい事です。
です。
私 は二 00二年
00二年に
二年にTボールを
ボールを受持つことになりました
受持つことになりました。
つことになりました。 女子七名の
女子七名の 選手ではじめ
選手ではじめ、
ではじめ、 選手不足
で男子選手を
男子選手を借りての試合
りての試合に
試合に臨んだこともありました
んだこともありました。
こともありました。
コーペルコチア大会
コーペルコチア大会では
大会では良
では良 い成績をおさめることができました
成績をおさめることができました。
をおさめることができました 。次第に
次第に選手も
選手も増えてきて二
えてきて二
00四年全伯大会
00四年全伯大会では
四年全伯大会ではミリンチーム
ではミリンチームが
ミリンチームが準優勝することが
準優勝することが出来
することが出来、
出来、 その翌年
その翌年には
翌年にはT
にはTボール組
ボール組 とミ
リンチームが
リンチームが組めるようになり少
めるようになり少しはにぎやかになりました。
しはにぎやかになりました。
そうして二
そうして二00六年全伯大会
00六年全伯大会銅組部門
六年全伯大会銅組部門で
銅組部門で、ミリンチームが
ミリンチームが優勝することが
優勝することが出来
することが出来ました
出来ました。
ました。
二 00七年
00七年には
七年には年長組
には年長組の
年長組のインフアンチームが
インフアンチームが選手不足のため
選手不足のためチーム
のためチームが
チームが組 めず、
めず、二人の
二人の選手を
選手を
東山以外の
東山以外の チームに
チームに編入してもらい
編入してもらい、
してもらい、そこでもこの二人
そこでもこの二人の
二人の選手は
選手は活躍して
活躍して帰
して帰 ってきました。
ってきました。
二 00八年
00八年にはいよいよ
八年にはいよいよ三
にはいよいよ三 つのカテゴリア
つのカテゴリアの
カテゴリアのチームが
チームが東山に
東山に出来ますので
出来ますので楽
ますので楽 しみにしている
次第です
次第です。
です。 最後になりましたが
最後になりましたがマネージャー
になりましたがマネージャーとはじめ
マネージャーとはじめ選
とはじめ選 手のお父
のお父さん、
さん、 お母 さん方
さん方に練習を
練習を
手伝っていただき
手伝っていただき多大
っていただき多大なお
多大なお世話
なお世話をして
世話をして下
をして下さることに感謝
さることに感謝しています
感謝しています。
しています。
29
コロニア東山創立50周年記念誌
それから、
それから、 資金作りに
資金作りに乗
りに乗り出し 、日本人会や
日本人会や婦人会の
婦人会の方 々の協賛を
協賛を 得まして資金
まして資金カンパ
資金カンパの
カンパの為 、
コロニア東山
コロニア東山の
東山の会館において
会館において映画
において映画の
映画の夕べを催
べを催すことに決
すことに決めました。
めました。
当時は
当時は 日本シネマ
日本シネマの
シネマの事務所は
事務所はサンパウロ市
サンパウロ市リベルダーデ区
リベルダーデ区にありましたので、
にありましたので、役員三名で
役員三名で リ
ベルダーデの
ベルダーデの事務所に
事務所に 行き、事情を
事情を 話しますと、
しますと、すごい好条件
すごい好条件で
好条件で契約することが
契約することが出来
することが出来まし
出来ました
ました 。
それから、
それから、 会員の
会員の皆様全員に
皆様全員に映画の
映画の 前売り
前売り 券の売りさばきに協力
りさばきに協力していただき
協力していただき、
していただき、予想以上の
予想以上の
成果を
成果を挙げることが出来
げることが出来ました
出来ました。
ました。
コロニア東山
コロニア東山の
の
会館にこれだけの
会館
にこれだけの人
まったのを始めてみたと日本人会
めてみたと日本人会の
たちも喜 んで
東山
にこれだけの人 が集まったのを始
日本人会の 方たちも喜
くださいました。
くださいました。
それから、
それから、急いで運動会
いで運動会に
運動会に合わせる為
わせる為、会員みんなで
会員みんなでハッピ
みんなでハッピ作
ハッピ作りに励
りに励みました。
みました。
資金カンパ
資金カンパで
カンパで予想以上の
予想以上の資金が
資金が 出来ましたので
出来ましたので婦人会会員
ましたので婦人会会員の
婦人会会員の身 ならず日本人会
ならず日本人会の
日本人会の役員各位そ
役員各位そ
して、
して、 盆踊りや
盆踊りや、
りや、フォークダンスの
フォークダンスの 男女青年会の
男女青年会の方、日本語学校の
日本語学校の 生徒多数にまで
生徒多数にまでハッピ
にまでハッピを
ハッピを
お 送りすることが出来
りすることが出来ました
出来ました事
ました事 は本当に
本当に婦人会の
婦人会の皆様方のご
皆様方のご協力
のご協力の
協力の 賜物と
賜物と今 でも運動会
でも運動会で
運動会で皆
様方の
様方のハッピ姿
ハッピ姿を見るたびに、
るたびに、感謝いたしております
感謝いたしております。
いたしております。
その後
その後、なお余剰金
なお余剰金がありましたので
余剰金がありましたので、
がありましたので、会館ように
会館ようにフォーゴン
ようにフォーゴンやなべなどを
フォーゴンやなべなどを整
やなべなどを整えました。
えました。
同 じ年 、11月東山農場
11月東山農場の
月東山農場の日本館の
日本館の 障子の
障子の 張替えの
張替えの依頼
えの依頼があり
依頼があり、
があり、後藤スミ
後藤スミ子
スミ子 さん、
さん、 小坪ヒロ
小坪ヒロ
コ さん、
さん、黒岩シズエ
黒岩シズエさん
シズエさん、
さん、 山口かおるさんと
山口かおるさんと私五名
かおるさんと私五名で
私五名で悪戦苦闘の
悪戦苦闘の末 、障子の
障子の 張替えは
張替えは完了
えは完了い
完了い
たしました。
たしました。
今では愉
では愉しい思
しい思い出となりました。
となりました。
1978年
1978年 、6 月18日
18日は 日本移民70
日本移民70周年記念
70周年記念にあたり
周年記念にあたり皇太子殿下
にあたり皇太子殿下ご
皇太子殿下ご 夫妻(
夫妻(現今上天皇)
現今上天皇)
及 び、 時の ガイゼル大統領
ガイゼル大統領ご
大統領ご夫妻のご
夫妻のご臨席席
のご臨席席を
臨席席を 得て 、その式典
その式典が
式典がパカエンブ球場
パカエンブ球場において
球場において盛
において盛
大に催うされました。
うされました。
当婦人会より
当婦人会より16
より16名
16名の 方も カンピーナス文教婦人会
カンピーナス文教婦人会とともに
文教婦人会とともに総勢
とともに総勢2
総勢2 千人の
千人の盆踊りの
盆踊りの輪
りの輪の 中に
入れていただき、
れていただき、参加することが
参加することが出来
することが出来ました
出来ました。
ました。
そして、
そして、パカエンブ球場
パカエンブ球場の
球場の 満員の
満員の大観衆の
大観衆の 拍手を
拍手を浴 びた感動
びた感動は
感動は 今も 私の 心に 残っております。
っております。
そのとき参加
そのとき参加した
参加した16
した16名
16名のうち、
のうち、6 名の方 がすでに幽明
がすでに幽明の
幽明の境を 異に 致しました。
しました。実 に感無量
です。
です。
1979年会長浦口
1979年会長浦口ハルミ
年会長浦口ハルミ、
ハルミ、副会長原田小枝子、
副会長原田小枝子、会計宮尾勝代で
会計宮尾勝代で私 は二度目の
二度目の会長を
会長を勤 めさ
せていただきました。
せていただきました。 2月には野球部及
には野球部及び
野球部及び青年部の
青年部のサッカ球場
サッカ球場の
球場の建設資金カンパ
建設資金カンパ、
カンパ、バザーな
バザーな
どに婦人会
どに婦人会として
婦人会として協力
として協力が
協力が始まりました。
まりました。また、
また、 年間行事として
年間行事として、
として、料理、
料理、 手芸などはもとより
手芸などはもとより
ピクニックや
ピクニックや母の日、父の日、敬老会などが
敬老会などが定着
などが定着していきました
定着していきました。
していきました。
1980年
1980年 、夫浦口昭は
夫浦口昭は急死したため
急死したため、
したため、翌 1981年
1981年3 月私は
月私は コロニア東山
コロニア東山より
東山よりカンピーナ
よりカンピーナ
ス市へ移転いたしました
移転いたしました。
いたしました。
2005年現婦人会会長山口
2005年現婦人会会長山口マサ
年現婦人会会長山口マサ子
マサ子 さんより私
さんより私 にも入会
にも入会のお
入会のお誘
のお誘 いがあり私
いがあり私は 喜んで入会
んで入会させ
入会させ
ていただきました。
ていただきました。
雑用に
雑用に 追われ、
われ、 出席率の
出席率の悪い会員ではありますが
会員ではありますが、
ではありますが、 これからは出来
これからは出来る
出来る限 り出席して
出席して若
して若い 方た
ちのパワー
ちのパワーをいただきたいと
パワーをいただきたいと思
をいただきたいと思って降
って降ります。
ります。
最後に
最後に、コロニア東山婦人会
コロニア東山婦人会のま
東山婦人会のますますのご
のますますのご繁栄
すますのご繁栄とご
繁栄とご検討
とご検討をお
検討をお祈
をお祈り申し上げます。
げます。
28
コロニア東山創立50周年記念誌
創立 20 周年記念の
周年記念の思い出コロ二
コロ二ア東山婦人会と
東山婦人会と私
浦口ハルミ
浦口
ハルミ
1968 年 11 月、私の一家は
一家はコロ二
コロ二ア東山に
東山に入植いたしました
入植いたしました。
いたしました。
それまで、
それまで、 日本人ばかりの
日本人ばかりの植民地
ばかりの植民地を
植民地を 二、三 ヶ所転々
所転々 といましたがどうしてもブラジル
といましたがどうしても ブラジルの
ブラジルの 生活
に 慣れることの出来
れることの出来なかった
出来なかった私
なかった私 は、 夫を何 とか説得
とか説得して
説得して日本
して日本へ
日本へ 引き 上げることばかりを考
げることばかりを考え
て暮らす毎日
らす毎日でした
毎日でした。
でした。
そのため、
そのため、 言語、
言語、習慣、
習慣、食 べ物 などブラジル
などブラジルのものは
ブラジルのものは拒否
のものは拒否し
拒否し続 けかたくなに自分
けかたくなに自分の
自分の 殻の 中に
閉じこもっておりました。
じこもっておりました。
ところが、
ところが、 コロ二
コロ二ア東山に
東山に 入植して
入植して大勢
して大勢の
大勢の 方々 の暖 かい心
かい心に触 れ、 私の 心は 次第に
次第に 開いて参
いて参
りました。
りました。
特 に、 ブラジル生
ブラジル生まれの奥様方
まれの奥様方の
奥様方の巧 みな日本語
みな日本語、
日本語、礼儀作法に
礼儀作法に触 れたときこの地
れたときこの地、コロ二
コロ二 ア東
山なら私
なら私も生きていけるかも知
きていけるかも知れないと感
れないと感じました。
じました。
そして、
そして、一日も
一日も早く皆様方とお
皆様方とお友達
とお友達になりたいと
友達になりたいと願
になりたいと願うようになりました。
うようになりました。
そのためには、
そのためには、 婦人会を
婦人会を作 り、 大勢の
大勢の方々 に集 まってもらって色
まってもらって色々 なおはなしが出来
なおはなしが出来たらど
出来たらど
んなに愉
んなに愉しいであろうかと思
しいであろうかと思いました。
いました。
そこで、
そこで、夫 にはなしたところ、
にはなしたところ、 賛成を
賛成を得ましたので、
ましたので、池田虎之輔氏夫人、
池田虎之輔氏夫人、俊子様にご
俊子様にご相談申
にご相談申
し上げました。
げました。
俊子夫人もそれは
俊子夫人もそれは本当
もそれは本当に
本当に良 いことだねといってくださったので仲良
いことだねといってくださったので 仲良しの
仲良しの後藤
しの後藤あさ
後藤あさ様
あさ様をお誘
をお誘 い
して、
して、三人でまず
三人でまず、
でまず、コロ二
コロ二アの長老の
長老の方々の説得に
説得に乗り出しました。
しました。
池田虎之輔様をはじめ
池田虎之輔様をはじめ、
をはじめ、大橋和夫様、
大橋和夫様、田島至様、
田島至様、渡辺光一様にご
渡辺光一様にご相談申
にご相談申し
相談申し上げましたところ、
げましたところ、
全員の
全員の方々より大
より大いに賛成
いに賛成の
賛成の声を頂、とても感動
とても感動いたしました
感動いたしました。
いたしました。
しかし、
しかし、この説得行脚
この説得行脚は
説得行脚は池田夫人、
池田夫人、 後藤あさ
後藤あさ様
あさ様 と私三人が
私三人が傘をさして歩
をさして歩 いて1
いて1軒、 1軒を 廻
り、一日がかりの
一日がかりの大仕事
がかりの大仕事でした
大仕事でした。
でした。
今、考えると
えると実に冷や汗ものでした。
ものでした。
その後
その後 、コロ二
コロ二 ア東山日本人会、
東山日本人会、ならびに各方面
ならびに各方面の
各方面の 方々 のご支援
のご支援の
支援の 下、 1970年
1970年 、8月 2
3 日に 会長池田俊子、
会長池田俊子、 副会後藤等あさ
副会後藤等あさ、
あさ、会計原田小枝子の
会計原田小枝子の態勢の
態勢の下 、婦人会を
婦人会を結成し
結成し、発足
することが出来
することが出来ました
出来ました。
ました。
それからは、
それからは、毎月例会を
毎月例会を行い、料理屋手芸など
料理屋手芸など愉
など愉しい日
しい日々が続きました。
きました。
その後
その後 、運動会に
運動会にフォークダンスや
フォークダンスや 盆踊りを
盆踊りを取
りを取 り入 れて小
れて小さな子供
さな子供たちも
子供たちも練習
たちも練習に
練習に励み、 愉し
く踊ったものでした。
ったものでした。
1973年
1973年 、私 は会長を
会長を引 き受 けましたが、
けましたが、ポルトガル語
ポルトガル語はもちろんブラジル
はもちろんブラジル社会
ブラジル社会のあり
社会のあり方
のあり方
も 一向にわからない
一向にわからない私
にわからない私 は副会長後藤スミ
副会長後藤スミ子
スミ子 、会計小坪
会計小坪ヒロコ
小坪ヒロコと
ヒロコと 日伯両語が
日伯両語が堪能な
堪能な二世の
二世の方 に
お願いして態勢
いして態勢を
態勢を整えました。
えました。
そして、
そして、かねてより婦人会
かねてより婦人会の
念願でありました。
ハッピ作りに取
りに取り掛かりました。
かりました。
婦人会の念願でありました
でありました。ハッピ作
その頃
その頃は現在のように
現在のように美
のように美しい既製
しい既製の
既製のハッピはありませんでした
ハッピはありませんでした。
はありませんでした。
27
コロニア東山創立50周年記念誌
私の心のふるさと、
のふるさと、東山植民地五十周年おめでとう
東山植民地五十周年おめでとう
石井さゆり
石井
さゆり
がんばり屋
がんばり屋で、温かい心
かい心の持主の
持主の住む所。
小 さいころ、
さいころ、東山新聞に
東山新聞に、 私のつたない作文出
のつたない作文出していただきました
作文出していただきました。
していただきました 。今 、あのころを思
あのころを思い 出
しながら、
しながら、書いています。
いています。
私 はツッパンと
ツッパンと 言う町 で生 まれました。
まれました。けれど、
けれど、赤 ちゃんのころそこを出
ちゃんのころそこを 出たきり、
たきり、行ったこ
とがありません。
とがありません。ですから、
ですから、何一つ
何一つ、生まれ故郷
まれ故郷の
故郷の事はわかりません。
はわかりません。
私 が覚 えているのは、
えているのは、 ステキな
ステキな 優しいお友達
しいお友達と
と
過
した日
した
日 々。苦労
々。苦労を
らず、 愉しい毎日
しい毎日を
友達
苦労を 知らず、
毎日を過
すことができたころです。
すことができたころです。
毎日畑仕事でせいいっぱい
毎日畑仕事でせいいっぱい頑張
でせいいっぱい頑張り
頑張り、 日曜日には
日曜日には野球場
には野球場で
野球場で 陸上、
陸上、 教会で
教会で日本語の
日本語の勉強、
勉強、会館で
会館で
ピンポンや
ピンポンやコーラスや
コーラスや演芸のれんしゅうでした
演芸のれんしゅうでした。
のれんしゅうでした。仲の良いお友達
いお友達が
友達が大勢いました
大勢いました。
いました。
今、幼なじみの方
なじみの方々と時々出会う
出会う時とは東山運動会
とは東山運動会です
東山運動会です。
です。
皆さんと会
さんと会うたびに涙
うたびに涙がにじむほどのなつかしさと幸
がにじむほどのなつかしさと幸せな気持
せな気持ちでいっぱいです
気持ちでいっぱいです。
ちでいっぱいです。
子供のころの
子供のころの思
のころの思 い出が 頭の 中で 一斉に
一斉に飛びはねます。
びはねます。ほんとうに、
ほんとうに、 あの日
あの日々 の思い出はなつ
かしいものです。
かしいものです。東山へ
東山へ行くたびに、
くたびに、ここは私
ここは私の心のふるさとだと感
のふるさとだと感じます。
じます。
優しかった父
しかった父、頑張りやの
頑張りやの母
りやの母、しっかりやの、
しっかりやの、頼りやすい兄
りやすい兄、姉妹大勢(七人
姉妹大勢 七人)、
七人 、そして、
そして、かけ
がえのないお友達
がえのないお友達のおかげで
のおかげで、
、
愉
しい毎日
しい
毎日と
と
過
すことができました。
すことができました
。
友達のおかげで
毎日
すばらしい家族
すばらしい家族、
家族、親戚、
親戚、お友達、
友達、御近所の
御近所の皆様、
皆様、今あらためてお礼
あらためてお礼を申し上げます。
げます。
私 の幼年時代をこのような
幼年時代をこのような良
をこのような良い 、す てきな経験
てきな経験と
経験と思 い出 、そして幸
そして幸 せいっぱいの、
せいっぱいの、 とても歩
とても歩
みやすい道
みやすい道 にみちびいて下
にみちびいて下 さったことをふかく、
さったことをふかく 、ふかく感謝
ふかく感謝しています
感謝しています。
しています。本当に
本当に、有難うご
有難うご
ざいます。
ざいます。
今後共、
今後共、益々そのご繁栄
そのご繁栄をお
繁栄をお祈
をお祈り致します。
します。
26
コロニア東山創立50周年記念誌
一大花卉生産地を
一大花卉生産地を形成
山口幸男
私に家族が
家族が東山植民地に
東山植民地に入植したのは
入植したのはブラジル
したのはブラジルに
ブラジルに移住して
移住して 6 年後の
年後の 1966 年 5 月でした。
でした。その
頃 の主 な産業は
産業は 養鶏と
養鶏と 野菜栽培が
野菜栽培が多 くトマトの
トマトの 栽培は
栽培は最盛期を
最盛期を 過ぎ 、ビールスが
ビールスが入 り成績が
成績が
悪 くほとんどの人
くほとんどの人がやめるのが多
がやめるのが多く 、トマト栽
トマト栽 培をしても成功
をしても成功はしないといわれ
成功はしないといわれ、
はしないといわれ、 さて、
さて、何
を 作ったらよいか?
ったらよいか?と 迷った挙句
った挙句、
挙句、 ジャカレイの
ジャカレイの親類に
親類に 進められ、
められ、 花つくりを決心
つくりを決心して
決心してバラ
してバラ
とグラジオラスを
グラジオラスを作り始めました。
めました。
村 の長老の
長老の 方々 はカンピーナス近郊
カンピーナス近郊は
近郊は花栽培には
花栽培には適
には適 しないと忠告
しないと忠告を
忠告を 受け、高冷地でなければ
高冷地でなければ
と迷いに迷
いに迷ったのでしたが、
ったのでしたが、一か八かで作
かで作り始めたのです。
めたのです。
その頃
その頃 は花 の栽培者が
栽培者が 少なく特
なく特 に寒 い地区での
地区での生産者
での生産者が
生産者が 多かったので、
かったので、冬の 寒い時期には
時期には花
には花
がなくなることが多
がなくなることが多く 、カンピーナスは
カンピーナスは寒 い時期でもまあまあの
時期でもまあまあの花
でもまあまあの花 が出来たため
出来たため、
たため、 かえって
儲けが出
けが出て生活が
生活が成り立ったようになったわけです。
ったようになったわけです。
でも、
でも、 グラジオラスの
グラジオラスの 栽培に
栽培にサビ病
サビ病 が発生し
発生し始 め、 せいせきが悪
せいせきが悪くなり、
くなり、生産量もはじめそ
生産量もはじめそ
の頃から 1985 年ごろ電照菊
ごろ電照菊の
電照菊の生産が
生産が始まりグラジオラス
まりグラジオラスから
グラジオラスから電照菊栽培
から電照菊栽培に
電照菊栽培に切り替え、2003 年
まで続
まで続けました。
けました。
植民地内でもその
植民地内でもその電照菊栽培
でもその電照菊栽培が
電照菊栽培が 増え 、田島、
田島、井手、
井手、 太田、
太田、深沢、
深沢、増永、
増永、 佐藤、
佐藤、大橋、
大橋、野田、
野田、
など多
など多くの花生産者
くの花生産者をかかえるようになりました
花生産者をかかえるようになりました。
をかかえるようになりました。
今 では、
では、ブラジルの
ブラジルの生産量の
生産量の何割かをしめる
何割かをしめるオランブラ
かをしめるオランブラが
オランブラが近くにありますが、
くにありますが、私が花作りを
花作りを
始めて 10 年後に
年後に花の栽培が
栽培が始まったように記憶
まったように記憶しております
記憶しております。
しております。
ブラジルの
ブラジルの花の消費量は
消費量は多く、将来的に
将来的に見ても花
ても花つくりは未
つくりは未だ見込みは
見込みは
あると思
あると思います。
います。
山口幸男 グラジオラス電照菊
グラジオラス電照菊(切花
電照菊 切花)宿根
切花 宿根、
宿根、かすみ草
かすみ草、
山口定次 電照菊(切花
電照菊 切花)、
切花 、鉢植、
鉢植、観葉植物、
観葉植物、他
田島正一 グラジオラス、
グラジオラス、プリマベーラ
深沢秀史 ビオレッタと
ビオレッタとベゴニア
井手伯男 電照菊、
電照菊、トルコキキョウ 他
太田正一 プリマベーラ
増永勉 電照菊(切花
電照菊 切花 鉢植)
鉢植
佐藤たけし
佐藤たけし 電照菊、
電照菊、ビオレッタ
大橋 電照菊 ラン
野田 電照菊
25
コロニア東山創立50周年記念誌
1999 年会館の
年会館の敷地の
敷地の周りの有刺鉄線
りの有刺鉄線を
有刺鉄線を設ける。
ける。浄水塔の
浄水塔の水漏れがひどくなり
水漏れがひどくなり、
れがひどくなり、新しく購入
しく購入し
購入し
てすえつける。
てすえつける。 会館の
会館の トランスホーマドールが
トランスホーマドールが 焼け 、新 しく取
しく取 り替 える。
える。ついでにパラハイ
ついでにパラハイ
オ柱も新しくする。
しくする。経費は
経費は宮尾忠義と
宮尾忠義と半々づつとす
2000 年会員の
年会員の減少と
減少と会の経費が
経費が増加することによる
増加することによる会計収支
することによる会計収支の
会計収支の悪化から
悪化から会員
から会員を
会員を増やすよう三
やすよう三
月臨時総会を
月臨時総会を招集し
招集し、 対策を
対策を練 る。 その結果会則
その結果会則を
結果会則を 見ると、
ると、植民地内に
植民地内に 居住しなくとも
居住しなくとも近隣
しなくとも近隣
の 町や 農地に
農地に住 む人で 三人の
三人の会員の
会員の 保障があれば
保障があれば正会員
があれば正会員となれると
正会員となれると会則
となれると会則で
会則で決 まっているので、
まっているので、
特 に野球ソフトボール
野球ソフトボール子供
子供たちが
たちが東山
東山でやっている
でやっている人
人
の
父兄など
父兄
など中心
中心に
に
日本人会に
日本人会
に入っても
ソフトボール子供たちが東山でやっている
など中心
らうよう呼
らうよう呼びかける。
びかける。
その結果
その結果 15 名ほどの新入会員
ほどの新入会員の
新入会員の入会を
入会を見る。入会金として
入会金として 50 レアルを
レアルを収めるほかは旧会員
めるほかは旧会員
と同等の
同等の権利を
権利を得る。
2001 年会の
年会の経費を
経費を補うため、
うため、カラオケ大会
カラオケ大会を
大会を行う。5 月 20 日挙行カンピーナスカラオケ
日挙行カンピーナスカラオケ愛好
カンピーナスカラオケ愛好
会東山日会会員、
会東山日会会員、婦人部、
婦人部、野球部の
野球部の協力を
協力を得て大成功に
大成功に終わる。
わる。
6、800レアル
800レアルほどの
レアルほどの純益
ほどの純益を
純益を得る。
2002 年年中行事としての
年年中行事としての運動会
としての運動会ショッピ
運動会ショッピ祭
ショッピ祭り援協巡回診療などをこなす
協巡回診療などをこなす。
などをこなす。
2003 年前年どおりの
年前年どおりの行事
どおりの行事をこなす
行事をこなす。
をこなす。
2004 年一月の
年一月の定期総会にて
定期総会にて新会長井手武利氏
にて新会長井手武利氏に
新会長井手武利氏に会長職を
会長職を引き継ぐ。私にとって 8 年間は
年間は長す
ぎた感
ぎた感 じがしますが、
じがしますが、 これから新会長
これから新会長のもと
新会長のもと、
のもと、 東山日会がますます
東山日会がますます発展
がますます発展しますことを
発展しますことを願
しますことを願 って
筆をおかせていただきます。
をおかせていただきます。
24
コロニア東山創立50周年記念誌
八年間の
八年間の会長時代の
会長時代の回顧
山口幸男
東山農場が
東山農場が 農場の
農場の一部を
一部を切 り売 りして日系人役
りして日系人役50
日系人役50家族
50家族が
家族が入植するわけですが
入植するわけですが、
するわけですが、その最初
その最初の
最初の
方が入植されて
入植されて 50 年ほど経過
ほど経過いたしました
経過いたしました。
いたしました。
このたび、
このたび、50 周年を
周年を記念して
記念して、
して、記念誌を
記念誌を出すことになり編集者
すことになり編集者より
編集者より前日会会長
より前日会会長としての
前日会会長としての 8 年
間の回顧録を
回顧録を書けということでございますが、
けということでございますが、10 年以上の
年以上の前のことを性格
のことを性格に
性格に記憶しておりま
記憶しておりま
せんので、
せんので、多少年代などに
多少年代などに誤
などに誤りがあるやも知
りがあるやも知れませんので最初
れませんので最初にお
最初にお断
にお断りしておきます。
りしておきます。
私が東山日会会長になったのは
東山日会会長になったのは 1996 年 1 月 12 日の定期総会において
定期総会において選挙
において選挙により
選挙により、
により、選出され
選出され
まして以後
まして以後 2004 年一月の
年一月の総会にて
総会にて井手武利氏
にて井手武利氏に
井手武利氏に会長職を
会長職を引き継ぐまで 8 年間会長職にとどま
年間会長職にとどま
っていた次第
っていた次第です
次第です。
です。
八年間の
八年間の在任中の
在任中の出来事を
出来事を年代を
年代を追ってみたいと思
ってみたいと思います。
います。
1996 年 4 月 20 日と 21 日の 2 日間に
日間に亘り行われましたゲートボール
われましたゲートボール全伯大会
ゲートボール全伯大会、
全伯大会、これは当時
これは当時の
当時の
ゲートボール部長
ゲートボール部長であった
部長であった井手伯男氏
であった井手伯男氏が
井手伯男氏が詳 しく書
しく書かれることになっておりますので簡単
かれることになっておりますので 簡単に
簡単に記
しておきます。
しておきます。
この大会
この大会は
大会は全伯より
全伯より250
より250チーム
250チーム、
チーム、1250 名ほどの参加
ほどの参加を
参加を見まして、
まして、野球場二面を
野球場二面を使い、盛大
に行われました。
われました。
日会の
日会の 会長としてまた
会長としてまた大会
としてまた大会の
大会の委員長として
委員長として、
として、前 の準備、
準備、 後片付け
後片付け、 遠くから来
くから来る人のホテル
の世話など
世話など忙
など忙しく働
しく働いたのを思
いたのを思い出します。
します。
この大会
この大会のために
大会のために、
のために、会館の
会館の壁の塗りなおし、
りなおし、入り口の修理、
修理、ポルトンの
ポルトンの新設を
新設を行う。
1997 年 7 月に行われる運動会
われる運動会の
運動会の観覧席に
観覧席にアルミの
アルミの屋根をかける
屋根をかける。
をかける。経費は
経費は日会の
日会の手持ち
手持ち金と不
足の分は寄付金で
寄付金で賄。
日本人会の
日本人会の 運営資金を
運営資金を 得るため、
るため、第一回ショッピ
第一回ショッピ祭
ショッピ祭 りを挙行
りを挙行する
挙行する野球部父兄
する野球部父兄オールドボーイ
野球部父兄オールドボーイ、
オールドボーイ、
婦人部の
婦人部の皆様の
皆様の協力を
協力を得て、大成功に
大成功に終わる。
わる。以後毎年の
以後毎年の慣例行事となる
慣例行事となる。
となる。
会館の
会館の 前にあった旧日本語学校
にあった旧日本語学校が
旧日本語学校が古 くなり、
くなり、壊 れそうになっていたのを壊
れそうになっていたのを 壊してバラッコン
してバラッコンを
バラッコンを
新しく建
しく建てる。
てる。
1998 年東山日伯文化協会
年東山日伯文化協会創立
協会創立 40 周年記念式典を
周年記念式典を開催カンピーナス
開催カンピーナス市長
カンピーナス市長、
市長、カンピーナス日会
カンピーナス日会、
日会、
および近隣
および近隣の
近隣の日本人会、
日本人会、明治会、
明治会、植民地の
植民地の旧入植者などを
旧入植者などを招待
などを招待して
招待して盛大
して盛大に
盛大に挙行。
挙行。歴代会長 14
名に記念品を
記念品を贈呈、
贈呈、記念植樹をし
記念植樹をし、
をし、宴会をして
宴会をして終了
をして終了。
終了。
この年
この年 の下半期の
下半期の事業として
事業として、
として、 会館の
会館の屋根材料が
屋根材料がユウカリ材
ユウカリ材を 使用していたため
使用していたため白
していたため白 蟻の被害
を 受け 、一部屋根が
一部屋根が落 ちかかっていたため修理
ちかかっていたため 修理の
修理の必要に
必要に 迫られ、
られ、会員より
会員より寄付
より寄付を
寄付を集めて修理
めて修理
することを決定
することを決定。
決定。建設委員を
建設委員を決 めて決行
めて決行する
決行する。
する。 屋根のかわら
屋根のかわら、
のかわら、 材木、
材木、天井板、
天井板、バテンチ、
バテンチ、 ポ
ルタなど
ルタなど全部取
など全部取り
全部取り替える。
える。
なお、
なお、この年日本人移民 90 年祭が
年祭がサンパウロ日伯文化協会主催
サンパウロ日伯文化協会主催で
日伯文化協会主催で行われ、
われ、東山日会も
東山日会も参加、
参加、
婦人部の
婦人部の皆様は
皆様は祭典での
祭典での踊
踊
りに参加
りに
参加する
する。
。
での
参加する
23
コロニア東山創立50周年記念誌
対 2か 3で 勝っていたのが力
っていたのが力つきて逆転負
つきて逆転負けとし
逆転負けとし、
けとし、初戦を
初戦を飾れなかったが聖北地方
れなかったが聖北地方にも
聖北地方にも良
にも良 い
チームありと
チームありと全伯
ありと全伯に
全伯に名 を知られるようになった。
られるようになった 。野球に
野球に 限らず、
らず、陸上競技大会にも
陸上競技大会にも優勝
にも優勝、
優勝、 卓
球大会にも
球大会にも出場
にも出場し
出場し、好成績とおさめるたびに
好成績とおさめるたびに会館
とおさめるたびに会館で
会館で祝賀バイレ
祝賀バイレが
バイレが催 され、
され、ピンガや
ピンガや ビールと
ビールと
飲 んだいきおいでダンス
んだいきおいでダンスとしたもので
ダンスとしたもので飲
としたもので飲んでいないと踊
んでいないと踊れない気
れない気の 弱さがあったことを思
さがあったことを思い
出す。
1963年
1963年には研修生
には研修生3
研修生3回生が
回生が入り、MACUCO チームに
チームに延長のすえ
延長のすえ、
のすえ、勝利をつかみ
勝利をつかみ、
をつかみ、準決勝
では INDAIATUBA チームに
チームに9回逆転勝ち
回逆転勝ち。優勝戦は
優勝戦は PEDRABRANCA チームに
チームに勝って輝
って輝か
しい3
しい3 連勝 をつかんだのである。
をつかんだのである 。63年
63年のこの大会
のこの大会には
大会には若林
には若林さん
若林さん西君
さん西君は
西君は コロニア東山分譲地
コロニア東山分譲地
を販売していた
販売していた東山不動産
していた東山不動産の
東山不動産の吉井さんが
吉井さんが後援
さんが後援していた
後援していた SAOPAULO チームにある
チームにある明星
にある明星チーム
明星チーム
に移籍して
移籍して出場
して出場しなかった
出場しなかった。
しなかった。
わがふるさとコロニア
わがふるさとコロニア東山
コロニア東山も
東山も入植50
入植50周年記念
50周年記念を
周年記念を迎 え聖北地方の
聖北地方の野球の
野球の メッカとして
メッカとして現在
として現在も
現在も
盛 んであり、
んであり、野球も
野球も我 々が汗して作
して作 ったもの、
ったもの、 他に 観覧席のある
観覧席のある立派
のある立派なものを
立派なものを有
なものを有し 西君も
西君も年
2 ~3 回オールドボーイ大会
オールドボーイ大会に
大会に出、 旧友と
旧友と 昔話に
昔話に花 を咲 かせ運動会
かせ運動会、
運動会、フェスタダフェイジョ
アーダにとふるさとに
アーダにとふるさとに帰
にとふるさとに帰り、なつかしの昔
なつかしの昔 のお嬢
のお嬢さんや飲
さんや飲み助連と
助連と 交友を
交友を温 めている次
めている次 第で
ある。
ある。
また逢
また逢おうぜ!!
おうぜ!!
22
コロニア東山創立50周年記念誌
わがふるさとコロニア
わがふるさとコロニア東山
コロニア東山
西忠久
若 き西君1958
西君1958年
1958年5 月東山農場研修生として
月東山農場研修生として朋友
として朋友20
朋友20名
20名と共 にバスで
バスで サントスから
サントスからカンピ
からカンピ
ーナス東山農場
ーナス東山農場に
東山農場に真夜中到着、
真夜中到着、 前夜かなりの
前夜かなりの降雨
かなりの降雨があり
降雨があり本部前
があり本部前の
本部前の池 の所 の前 の登り 坂があが
れず、
れず、 研修所まで
研修所までトラック
までトラックで
トラックで行 く途中雑木林の
途中雑木林の 中シカや
シカや 大トカゲ等
トカゲ等 がとびだしてきて大変
がとびだしてきて大変な
大変な
所 に来 たものだと話
たものだと話し 合ったものだ。
ったものだ。東山研修所といっても
東山研修所といっても農場
といっても農場が
農場が 分譲地として
分譲地として売
として売り出した
コロニア東山
コロニア東山の
東山の 一角にあり
一角にあり二棟
にあり二棟の
二棟の宿舎と
宿舎と教室兼食堂の
教室兼食堂の家屋があるのみ
家屋があるのみ。
があるのみ。土・ 日曜日には
日曜日には入植
には入植
者の家にお邪魔
にお邪魔し
邪魔したものである。
たものである。
6 月日本移民50
月日本移民50年祭式典
50年祭式典が
年祭式典がサンパウロし
サンパウロし イビラプエーラ会場
イビラプエーラ会場で
会場で盛大に
盛大に 催された我
された我々21名
21名
濃紺の
濃紺の背広をきたほやほやの
背広をきたほやほやの MACACO NOVO が会場中央部に
会場中央部に入ってきたので会場
ってきたので会場の
会場の人々
も 物珍しくざわつく
物珍しくざわつく、
しくざわつく、 あれから50
あれから50年
50年。日本移民100
日本移民100周年
100周年コロニア
周年コロニア東山入植
コロニア東山入植50
東山入植50周年
50周年、
周年、そ
れに我
れに我々の50周年在伯記念
50周年在伯記念の
周年在伯記念の年感無量である
年感無量である。
である。
さて、
さて、 若き 青年学習実習のみでは
青年学習実習のみでは血気盛
のみでは血気盛んにも
血気盛んにもサッカー
んにもサッカーに
サッカーに野球に
野球に卓球、
卓球、 碁、将棋に
将棋に余暇を
余暇を楽
しむもやっぱり野球
しむもやっぱり野球。
野球。 教室に
教室に隣接地に
隣接地に野球場を
野球場を 作り 1959年
1959年 3月植物軍対動物軍(
月植物軍対動物軍(獣医、
獣医、
畜産関係者)
畜産関係者)に別れ、試合が
試合が行われる。
われる。。。結果
。。結果はどうなったか
結果はどうなったか?
はどうなったか?
その後
その後 コロニア東山
コロニア東山にも
東山にも青年会
にも青年会がうまれ
青年会がうまれ、
がうまれ、 会館が
会館が出来、
出来、 青年有志によって
青年有志によって野球場
によって野球場が
野球場がトラット
ールや
ールやエンシャーダで
エンシャーダで作られ、
られ、時々練習するようになる
練習するようになる。
するようになる。
研修生も
研修生も2 回生が
回生が着伯吾が
着伯吾が 球友若林さんと
球友若林さんと本格的
さんと本格的に
本格的に 野球部が
野球部が発足、
発足、 部員は
部員は14~
14~15名
15名。 堤
3 兄弟、
兄弟、牧田兄弟、
牧田兄弟、後藤の
後藤の タケちゃん
タケちゃん、
ちゃん、佐藤の
佐藤の 5男方、
男方、 ヒガの
ヒガの トクジン、
トクジン、黒田ジョウジ
黒田ジョウジ、
ジョウジ、 内
田、瀬戸口、
瀬戸口、山田、
山田、若林、
若林、西といったところか。
といったところか。
1961年
1961 年 3 月 コロニア東山球場
コロニア 東山球場にて
東山球場 にて聖北野球大会
にて 聖北野球大会が
聖北野球大会 が 開 かれ池田総監督野田監督
かれ 池田総監督野田監督のもと
池田総監督野田監督 のもと
JUNDIAI チームに
チーム に 10対零
10 対零と
対零 と 初戦を
初戦 を 飾 り 準決勝で
準決勝 で COMETA チームに
チーム に 10対
10 対 5 。 決勝は
決勝 は
PEDRA BRANCA チームと
チームと対戦打撃好調な
対戦打撃好調なコロニア東山
コロニア東山の
東山の選手は
選手は女子青年団
父兄の
父兄の 方々、研修生
々、研修生を
研修生を 中心とした
中心とした応援団
とした応援団にも
応援団にも助
にも助 けられ、
けられ、 20対
20対 6と 大勝することが
大勝することが出来
することが出来、
出来、 西
君最優秀選手賞になり
君最優秀選手賞になり、
になり、入植3
入植3年にして得
にして得た大きな出来事
きな出来事であった
出来事であった。
であった。
しかし、
しかし、9月に BOM RETIRO 球場で
球場で行われた全伯大会
われた全伯大会では
全伯大会では LONDRINA チームに
チームに17対零
17対零
とコールドゲーム負
コールドゲーム負けと喫
けと喫いてしまった。
いてしまった。
ついで翌
、ITU チ
ついで翌1962年
1962年3月 MACUCO 球場で
球場で挙行され
挙行され初戦強豪
され初戦強豪と
初戦強豪と目されていた SALTO、
ー ム に 1 6 対 4 、 準 決 勝 は CAMPINAS チ ー ム に 1 1 た い 3 で 勝 ち 進 み 、 決 勝 で
INDAIATUBA チームと
チームと24対
24対4と大勝、
大勝、二連勝を
二連勝を飾り若林さん
若林さん最優秀選手賞
さん最優秀選手賞、
最優秀選手賞、西君最優秀投
手賞を
手賞を手にする事
にする事が出来た
出来た。
4 月には青年団
には青年団の
青年団の資金かせぎに
資金かせぎに東山農場
かせぎに東山農場に
東山農場に 綿に 行き 、初日46
初日46名
46名がさんか、
がさんか、 1280kg
1280kgを
kgを
つみ、
つみ、 2日目44
日目44名女子青年
44名女子青年の
名女子青年の 人々 とつみ競争
とつみ競争をし
競争をし、
をし、1406kg
1406kg収穫
kg収穫した
収穫した楽
した楽しい思
しい思い出が
よみがえる。
よみがえる。
9 月に 全伯大会に
全伯大会にコロニア東山
コロニア東山の
東山のユニホームで
ユニホームで 聖北選抜チーム
聖北選抜チームで
チームで出場、
出場、 菅田、
菅田、清という、
という、全
ブラジル軍
ブラジル軍の投手を
投手を容する SÃOPAULO チームと
チームと対戦7
対戦7対4で破れるも大善戦
れるも大善戦、
大善戦、7回まで4
まで4
21
コロニア東山創立50周年記念誌
コロニア東山
コロニア東山の
東山の 50周年
50周年を
周年を 迎えた今
えた今トマトを
トマトを作 って何
って何を 感じたかと言
じたかと言えばトマト
えばトマトの
トマトの 昔の 味が
変 わった事
わった事 、昔 のトマトは
トマトは 本当においしかった
本当においしかった。
においしかった。また、
また、 電気水道の
電気水道の 無い 泥壁の
泥壁の小屋の
小屋の生活、
生活、
家族が
家族が一つになって仲良
つになって仲良く
仲良く元気に
元気に働き暮らした思
した思い出が一番だったと
一番だったと思
だったと思い出されます。
されます。
20
コロニア東山創立50周年記念誌
トマトの
トマトの出来栄えを
出来栄えを見
えを見に来たタマンドア
佐藤鉄三郎
われわれがコロニア
われわれがコロニア東山
コロニア東山に
東山に 入植したのは
入植したのは1957
したのは1957年
1957年 サンパウロ州奥地
サンパウロ州奥地の
州奥地の コーヒー園
コーヒー園 の仕事に
仕事に
見切りをつけて
見切りをつけて何
りをつけて何か新しい仕事
しい仕事にとそこを
仕事にとそこを出
にとそこを出た年ブラジルに
ブラジルに移住して
移住して3
して3年目のことです
年目のことです。
のことです。
経済的ゆとりも
経済的ゆとりも無
ゆとりも無く、 でも悲観的
でも悲観的ではなく
悲観的ではなく、
ではなく、大 きなゆめを抱
きなゆめを抱いて物事
いて物事に
物事に 当たっていました。
たっていました。
当時の
当時のコロニア東山
コロニア東山は
東山はトマト栽培
トマト栽培が
栽培が主力でした
主力でした。
でした。
トマトの
トマトの果実は
果実は 知っていても栽培方法
っていても栽培方法など
栽培方法など皆目
など皆目わからずとなりに
皆目わからずとなりに入植
わからずとなりに入植されたかたがたの
入植されたかたがたの親切
されたかたがたの親切
な指導の
指導の下に一応の
一応の成果を
成果を得ることが出来
ることが出来ました
ました。
。
出来ました
毎朝早く
毎朝早くトマト畑
トマト畑を見 るのが好
るのが好 きで自分
きで自分の
自分の 背丈より
背丈より高
より高く 、成長した
成長した畑
した畑の中をよく歩
をよく歩 きました。
きました。
ある朝
ある朝 、まだ薄暗
まだ薄暗い
薄暗い畑 の中 を人 が歩 いており
いており誰 だろうと近寄
だろうと近寄ってみたら
近寄ってみたら、
ってみたら、人 と大きさが変
きさが変わ
らない大
らない大きな動物
きな動物が
動物が肩 を左右に
左右に 振って歩
って歩いており、
いており、 それを見
それを見たときの驚
たときの驚 き心臓が
心臓が音 を立てて
打ったのを今
ったのを今でも覚
でも覚えています。
えています。
すぐ家族
すぐ家族に
家族に 知らせ、
らせ、戻 って来
って来ましたが、
ましたが、動物の
動物の 姿は 見当たりませんでした
見当たりませんでした。
たりませんでした。 跡で調 べてみた
ら タマンドアということで
タマンドアということで日本語
ということで日本語で
日本語で 蟻食いと
蟻食いと言
いと言 う哺乳動物で
哺乳動物で強力なつめを
強力なつめを持
なつめを持 っていて人間
っていて人間な
人間な
どに抱
どに抱きついて殺
きついて殺すこともあるということでした。
すこともあるということでした。
タマンドアがわれわれの
タマンドアがわれわれのトマト
がわれわれのトマトの
トマトの出来栄えを
出来栄えを見
えを見に来たのだろうと笑
たのだろうと笑ったものです。
ったものです。
観水用の
観水用の小川の
小川の 周囲には
周囲にはカピバ
カピバラ
ラ
(
齧歯動物でもっとも
齧歯動物
でもっとも大型
大型)
)
鹿
、
タツ(
タツ(アルマヂーリョ)
アルマヂーリョ)
にはカピバ
でもっとも大型
鈴蛇など
鈴蛇など日本
など日本では
日本では見
では見られない動物
られない動物がいました
動物がいました。
がいました。
日本を
日本を 出発するとき
出発するとき広
するとき広 いブラジルのことだから
ブラジルのことだから農業
のことだから農業は
農業は全部機械化されていると
全部機械化されていると思
されていると思っていまし
たが、
たが、 機械化されているのは
機械化されているのは大農場
されているのは大農場の
大農場の一部だけで
一部だけで牛馬
だけで牛馬による
牛馬による農耕
による農耕が
農耕が 主力で
主力で期待はずれでした
期待はずれでした。
はずれでした。
トラクターを
トラクターを使って農業
って農業する
農業する夢
する夢を見たものです。
たものです。
余裕ができ
余裕ができ、
ができ、古 いトラクターを
トラクターを 手にいれたときの喜
にいれたときの喜 びは今
びは今も忘 れません。
れません。機械力と
機械力と 人力の
人力の差
は考えられないくらいで、
えられないくらいで、仕事の
仕事の効率もよく
効率もよく、
もよく、全体として
全体として生活
として生活も
生活も安定し
安定してきました。
てきました。
農業経営を
農業経営を 進めていく上
めていく上に 大きな力
きな力 となったのは
となったのは農業組合の
農業組合の組織でした
組織でした。
でした。植え付け 計画、
計画、 肥
料設計、
料設計、栽培技術の
栽培技術の指導生産物の
指導生産物の販売など
販売など日本人
など日本人、
日本人、日系人の
日系人の支援は
支援は大きなものでした。
きなものでした。
ブラジル人社会
ブラジル人社会との
との交流
交流も
も
盛
んに行
んに
行
われ、
われ
、
友好的なものでした
友好的
なものでした。
。
人社会との交流
なものでした
われわれが特別
われわれが特別な
特別な技術を
技術を持 っていたわけでもありませんでしたが、
っていたわけでもありませんでしたが、 ブラジル人労働者
ブラジル人労働者は
人労働者は 自然
と見よう見真似
よう見真似で
見真似で覚え今では日本人
では日本人より
日本人より野菜全般
より野菜全般の
野菜全般の生産販売は
生産販売は大きく伸
きく伸びています。
びています。
ことあるごとに組合
ことあるごとに組合に
組合に 出入りしていましたが
出入りしていましたが各地
りしていましたが各地で
各地で 起きている自然災害
きている自然災害などの
自然災害などのニュース
などのニュースがわ
ニュースがわ
かり、
かり、 降霜による
降霜による被害降雹
による被害降雹による
被害降雹による全滅
による全滅と
全滅と聞 くニュースの
ニュースの 影に今度はおれの
今度はおれの生産物
はおれの生産物が
生産物が高値で
高値で取
引されると
されると言う災害を
災害を蒙った人
った人の心を無にして喜
にして喜ぶ面もあったようです。
もあったようです。
雹交じりの
雹交じりの西空
じりの西空を
西空を見ながら自然
ながら自然に
自然に両手を
両手を合 わせ、
わせ、神 に祈 っている弱
っている弱 い自分を
自分を 知る思 いでした。
いでした。
コロニア東山
コロニア東山では
東山ではトマト
ではトマト作
トマト作 には土地
には土地が
土地が限定され
限定され、
され、連作は
連作は 出来ず
出来ず 、病気、
病気、害虫の
害虫の発生で
発生で養鶏花
卉果樹栽培へと
卉果樹栽培へと移
へと移り変わって行
わって行き、それに伴
それに伴い高い技術も
技術も要求されるようになりました
要求されるようになりました。
されるようになりました。
19
コロニア東山創立50周年記念誌
私の野球指導の
野球指導の理念
内田高昭
コロニア東山入植
コロニア東山入植50
東山入植50周年
50周年おめでとうございます
周年おめでとうございます。
おめでとうございます。 コロニア東山入植
コロニア東山入植50
東山入植50周年
50周年を
周年を記念して
記念して、
して、
記念誌を
記念誌を発行するとの
発行するとの事
するとの事、 編集責任者、
編集責任者、東 、佐藤、
佐藤、 両氏から
両氏から東山野球部
から東山野球部の
東山野球部の生 い立を書けとの
事 、三十年前の
三十年前の 事で、 正し い記憶がありませんが
記憶がありませんが、
がありませんが、 自分なりに
自分なりに記
なりに記して見
して見 たいと思
たいと思います。
います。 当
東山植民地に
東山植民地に於 けて、
けて、 スポーツによる
スポーツによるブラジル
によるブラジル日系二三世
ブラジル日系二三世の
日系二三世の健全なる
健全なる体育練成
なる体育練成、
体育練成、又、野球を
野球を
通じて心身健全
じて心身健全な
心身健全な育成を
育成を図る目的で
目的で、東山野球部が
東山野球部が生まれました。
まれました。
二十五年以上に
二十五年以上に 亘り、 私の 東山野球部の
東山野球部の指導理念は
指導理念は 、練習でどの
練習でどのように
でどのように指導
ように指導するか
指導するか研究
するか研究と
研究と追
究 でありました。
でありました。まず、
まず、練習は
練習は 基本、
基本、基本を
基本を何度も
何度も 何度も
何度も反復して
反復して、
して、技術を
技術を 身につけ精神力
につけ精神力
を 鍛える頭
える頭 のトレーニングが
トレーニングが必要です
必要です。
です。少年野球の
少年野球の 一番大切な
一番大切な 事は 野球が
野球が上手になるのだけ
上手になるのだけ
ではなく、
ではなく、 人間形成であるから
人間形成であるから、
であるから、野球バカ
野球バカを
バカを作 らない為
らない為 にも社会
にも社会に
社会に 出て 通用する
通用する人間
する人間になる
人間になる
為 にも精神面
にも精神面の
精神面の 勉強が
勉強が 大事で
大事で、 私が 一番大事にしている
一番大事にしている理念
にしている理念です
理念です。
です。 子供の
子供の野球は
野球は良き指導者
親 の理解と
理解と 協力がなければ
協力がなければ発展
がなければ発展も
発展も進歩も
進歩も考 えられません。
えられません。私が 二十五年間指導を
二十五年間指導を続 けられた
のも、
のも、 良き 指導者、
指導者、山岸氏、
山岸氏、小島氏、
小島氏、堤氏、
堤氏、坂上氏、
坂上氏、河辺氏、
河辺氏、 水上氏、
水上氏、 池田氏、
池田氏、深沢氏、
深沢氏、又
野球部役員東氏、
野球部役員東氏、佐藤氏、
佐藤氏、 増永氏、
増永氏、 結城氏、
結城氏、山口(
山口( 兄) 氏、父兄では
父兄では武田氏
では武田氏、
武田氏、井手氏、
井手氏、 宮尾
氏、山口(弟
氏、婦人部の
山口 弟)氏
婦人部の協力と
協力と理解の
理解の賜物感謝しています
賜物感謝しています。
しています。二十五ヶ
二十五ヶ年間には
年間には、
には、色々なこと
の 思い 出が 有ります。
ります。 1) 東山野球部から
東山野球部から総計二十名
から総計二十名の
総計二十名の セレッソンブラジルの
セレッソンブラジル の選手が
選手が選抜さ
選抜さ
れ 、日本、
日本、 アメリカ、
アメリカ、 メキシコで
メキシコで国際試合を
国際試合を通 じて、
じて、知識や
知識や人生体験と
人生体験と 得、人生縮図して
人生縮図して深
して深
い意味を
意味を持ち、将来役立つ
将来役立つ事がある事
がある事と思います。
います。 2) プロ選手誕生
プロ選手誕生、
選手誕生、クレベル小島君
クレベル小島君は
小島君は
台湾国、
台湾国、マコト(?)、
マコト(?)、コーブラスチーム
(?)、コーブラスチームの
コーブラスチームの投手として
投手として活躍
として活躍、
活躍、 正確な
正確なコントロールと
コントロールと百五十
キロの
キロのスピードを
スピードを投げ下ろす、
ろす、正当派投手健闘と
正当派投手健闘と活躍を
活躍を祈っています。
っています。3) 涙飲む
涙飲む東山、
東山、第
四十五回全伯少年野球大会決勝戦で
四十五回全伯少年野球大会決勝戦で ロンドリーナチームに
ロンドリーナチーム に三対一で
三対一で 準優勝、
準優勝、 タカシ、
タカシ、山口君
が キャプテン、
キャプテン、 チームを
チームを良 くまとめ、
くまとめ、準決勝戦では
準決勝戦では昨年
では昨年の
昨年の優勝チーム
優勝チーム、
チーム、 マリンガを
マリンガを激戦と
激戦と 展
開 、守備の
守備の 型が 定評のある
定評のある東山
のある東山、
東山、五対三で
五対三で 決勝戦とこまを
決勝戦とこまを進
とこまを進めた。
めた。 この選手達
この選手達が
選手達が今後東山野
球 チームの
チームの 指導者が
指導者が誕生する
誕生する事
する事 を期待しています
期待しています。
しています。 4) 2007年
2007年 ブラジル国
ブラジル国、主催パン
主催パン・
パン・
アメリカ野球大会
アメリカ野球大会で
野球大会で我 々の 野球部出身の
野球部出身の山田君、
山田君、小島君が
小島君がブラジル対
ブラジル対ニカラグアの
ニカラグアの第一試合
に 出場、
出場、一対ゼロ
一対ゼロで
ゼロで勝利、
勝利、 山田君が
山田君が 先発、
先発、 小島君がおさえで
小島君がおさえで出場
がおさえで出場、
出場、 めざましい活躍
めざましい活躍で
活躍でブラジ
ル選手の
選手の随一の
随一の勝利に
勝利に貢献御目出とう
貢献御目出とう。
とう。
以上を
以上を 以って東山野球部
って東山野球部の
東山野球部の 思い 出を 書いて見
いて見ました、
ました、今後の
今後の東山野球部の
東山野球部の御発展と
御発展と御活躍を
御活躍を
御祈りして
御祈りして居
りして居ます。
ます。
18
コロニア東山創立50周年記念誌
これまで述
これまで述 べてきたように学習対象者
べてきたように学習対象者が
学習対象者が複雑であることや
複雑であることや教材
であることや教材が
教材が不足していること
不足していること、
していること、親の 意
識 の変化などが
変化などが原因
などが原因で
原因で 継承日本語教育は
継承日本語教育は難しい局面
しい局面に
局面に立 っていますがその教育
っていますがその教育の
教育の意義と
意義と 重要
性を日系社会がどれほど
日系社会がどれほど的確
がどれほど的確に
的確に把握しているかが
把握しているかが問
しているかが問われているともいえます。
われているともいえます。
多言語、
多言語、多文化社会へとその
多文化社会へとその傾向
へとその傾向を
傾向を 強めている日本
めている日本の
日本の社会においても
社会においても同様
においても同様のことが
同様のことが言
のことが言えます。
えます。
外国人就労者
外国人就労者たとえばブラジル
たとえばブラジルから
ブラジルから日本
から日本へ
日本へ働きに行
きに行 った日系人
った日系人の
日系人の子弟は
子弟は 外国籍の
外国籍の子弟として
子弟として
そこで健
そこで健やかに成長
やかに成長するために
成長するために親
するために親の 言語を
言語を 継承語として
継承語として学
として学びつつ、
びつつ、 日本語を
日本語を 第二言語として
第二言語として
習得していく
習得していく必要
必要があるのです
があるのです。
。
していく必要があるのです
コロニア東山
コロニア東山においてはどうでしょうか
東山においてはどうでしょうか。
においてはどうでしょうか。皆様のお
皆様のお考
のお考えをお一人
えをお一人お
一人お 一人に
一人に聞 いてみたいと思
いてみたいと思
っているのです。
っているのです。
17
コロニア東山創立50周年記念誌
継承日本語教育の
継承日本語教育の意義
佐野ハ
佐野
ハ秀子
コロニア東山
コロニア東山50
東山50周年
50周年おめでとうございます
周年おめでとうございます。
おめでとうございます。
50周年記念
50周年記念の
周年記念の 記念誌
記念誌 を作成するに
作成するに当
するに当たり、
たり、継承日本語教育について
継承日本語教育について書
について書 いてくださいとの依
いてくださいとの依
頼がありました。
がありました。
部外者でありますが
部外者でありますが、
でありますが、 日本語教師としての
日本語教師としての立場
としての立場から
立場から昨今考
から昨今考えさせられていることを
昨今考えさせられていることを書
えさせられていることを 書かせて
いただくことにいたしました。
いただくことにいたしました。
日本語教育はおそらく
日本語教育はおそらく海外
はおそらく海外に
海外に移住した
移住した日本人
した日本人が
日本人が 最初に
最初に取 り組んだ課題
んだ課題であり
課題であり、
であり、日系子弟のた
日系子弟のた
めの教育
めの教育として
教育として各植民地
として各植民地に
各植民地に 日本語学校を
日本語学校を作 り、 継承日本語教育としてさまざまな
継承日本語教育としてさまざまな変化
としてさまざまな変化があり
変化があり
ましたが、
ましたが、100年
100年の年月を
年月を重ねるうちに現在
ねるうちに現在に
現在に至っていると思
っていると思われます。
われます。
異国の
異国の 地で 子や 孫に自分たちの
自分たちの持
たちの持つ 言葉や
言葉や 文化をつたえ
文化をつたえ、
をつたえ、その国
その国で 健やかに成長
やかに成長してくれる
成長してくれる
こ とを願
とを願って始
って始 められた言語文化
められた言語文化の
言語文化の 教育がどのように
教育がどのように現在
がどのように現在どのような
現在どのような問題
どのような問題が
問題が 生じているので
しょうか。
しょうか。
ブラジル日本語教育
ブラジル日本語教育センター
日本語教育センターや
センターや 日経新聞の
日経新聞の 記事など
記事など、
など、参考に
参考に記 して見
して見たいと思
たいと思います。
います。 20
05年
05年 12月
12月ブラジルサンパウロで
ブラジルサンパウロで 他文化教育セミナー
他文化教育セミナーが
セミナーが開催され
開催され、
され、私 も出席傍聴いたしま
出席傍聴いたしま
したが、
したが、教育現場では
教育現場では驚
では驚くようなことが起
くようなことが起 きていました、
きていました、つまり各民族
つまり各民族の
各民族の文化言語が
文化言語が失 われ
つつあり、
つつあり、 それを阻止
それを阻止するために
阻止するために公的機関
するために公的機関がなんだかの
公的機関がなんだかの手
がなんだかの手を打 つ必要があるというものでし
必要があるというものでし
た。
ブラジル、
ブラジル、 アルゼンチン、
アルゼンチン、 ドイツ、
ドイツ、 アメリカなどからこられた
アメリカなどからこられた人
などからこられた人々 により発表
により発表され
発表され、
され、論じら
れた主旨
れた主旨は
主旨は次のようなものです。
のようなものです。
われわれはそれぞれの移民
文化的根っこを
われわれはそれぞれの移民コミュニチー
移民コミュニチーRAIZES
コミュニチー
文化的根っこを尊重
っこを尊重しながら
尊重しながら新
しながら新しい市民
しい市民を
市民を
継承しよりよい
継承しよりよい強制状態
しよりよい強制状態を
強制状態を作る必要がある
必要がある RAIZES を維持継続するには
維持継続するには子供
するには子供の
子供の時の教育が
教育が必
要で州立学校の
州立学校の授業の
授業の一環として
一環として自分
として自分の
自分の RAIZ は何かを見
かを見つめなおすプログラム
つめなおすプログラムが
プログラムが作れない
だろうかわれわれはそれを検討中
だろうかわれわれはそれを検討中である
検討中である。
である。
日系人口100
日系人口100数十万人
100数十万人を
数十万人を 擁するブラジル
するブラジルでの
ブラジルでの継承日本語教育
での継承日本語教育は
継承日本語教育は現在300
現在300校
300校を超える日本
える日本
語学校で
語学校で約 2万人の
万人の学習者に
学習者に対 して行
して行われており、
われており、 また、
また、約50校
50校 の公教育機関でも
公教育機関でも学校教
でも学校教
育の一環として
一環として実施
として実施されています
実施されています。
されています。
日系子弟のための
日系子弟のための教育
のための教育として
教育として日語学校
として日語学校で
日語学校で始 められた日語教育
められた日語教育は
日語教育は 現在継承を
現在継承を意識した
意識した教育
した教育と
教育と普
及を意識した
意識した教育
した教育という
教育という二
という二つの流
つの流れが出来
れが出来たために
出来たために多少複雑
たために多少複雑になっています
多少複雑になっています。
になっています。
アニメブームの
アニメブームの 影響で
影響で 日系人ではない
日系人ではない日本語学習者
ではない日本語学習者が
日本語学習者が急増し
急増し、 日本語環境になく
日本語環境になく、
になく、しかも文
しかも文
化的関心の
化的関心の高い非日系人の
非日系人の学習者のための
学習者のための日本語教育
のための日本語教育が
日本語教育が必要となったからです
必要となったからです。
となったからです。
教師はその
教師はその双方
はその双方の
双方のニーズに
ニーズに 対応するために
対応するために指導方
するために指導方を
指導方を 模索し
模索し、研究して
研究して行
して行 かねばなりません。
かねばなりません。
日系、
日系、 非日系を
非日系を 問わず、
わず、バイリンガル、
バイリンガル、バイカルチャーの
バイカルチャーの資質を
資質を持 つ子弟の
子弟の 教育という
教育という課題
という課題
が浮上してきました
浮上してきました。
。
してきました
16
コロニア東山創立50周年記念誌
野球場建設について
野球場建設について
東治男
1970年代後半幼少年
ともに野球熱
1970年代後半幼少年、
年代後半幼少年、青年 O.B.ともに
ともに野球熱が
野球熱が上がり、
がり、既成の
既成の野球場は
野球場は各チームの
チームの奪い
合 いとなり、
いとなり、また軟球
また軟球と
軟球と硬球での
硬球での危険性
での危険性も
危険性も 生じもう一
じもう一つ 野球場を
野球場を作 るという話
るという話から測量
から測量を
測量を頼
まれたものでした。
まれたものでした。ホースを
ホースを使用する
使用する原始的
する原始的な
原始的な 測量方法で
測量方法で荒地1
荒地1アルケールくらい
アルケールくらい測量
くらい測量した
測量した
とおもいます。
とおもいます。
基点から
基点から一巡
から一巡して
一巡して2
して2センチの
センチの誤差が
誤差が 生じ、 前進法では
前進法では許容範囲
では許容範囲とその
許容範囲とその成果
とその成果に
成果に 図に乗ったのが
契機となって
契機となって設計施工
設計施工となったしだいでした
となったしだいでした。
。
となって設計施工となったしだいでした
顧問役に
顧問役に池田虎之助、
池田虎之助、 建設委員長に
建設委員長に 山口三郎、
山口三郎、 委員に
委員に堤雄一、
堤雄一、 佐藤鉄三郎、
佐藤鉄三郎、宮尾忠義、
宮尾忠義、 増永
勉 、井手伯男、
井手伯男、 ほかに日本人会
ほかに日本人会に
日本人会に所属していない
所属していない外部
していない外部の
外部の 人も協力しました
協力しました。
しました。 その中
その中には今
には今 は
亡き前田好美氏も
前田好美氏も思い出されます。
されます。
確 か16家族
16家族が
家族が 結集して
結集して始
して始 めたことで
めたことで日本人会全体
とで日本人会全体がそれに
日本人会全体がそれに賛同
がそれに賛同していたわけではありませ
賛同していたわけではありませ
んでした。
んでした。
建設資金は
建設資金は 全然目当ては
全然目当ては無
ては無 く、 委員長山口三郎氏の
委員長山口三郎氏の 私財提供は
私財提供は 大きかったものです。
きかったものです。地なら
しに必要
しに必要な
必要な トラックターの
トラックターの 導入は
導入は外交を
外交を担当してくれた
担当してくれた堤雄一氏
してくれた堤雄一氏、
堤雄一氏、 宮尾忠義氏の
宮尾忠義氏の甚大な
甚大な外交
手腕に
手腕に 頼るものでした。
るものでした。伊波秀考氏を
伊波秀考氏を忘れてはなりません。
れてはなりません。土日曜日には
土日曜日には自主的
には自主的に
自主的に 集まりそ
れぞれ鍬
れぞれ鍬、 スコップを
スコップを 手にしたことです。
にしたことです。 バックネットは
バックネットは今は 亡き 、渋田氏に
渋田氏に観覧席の
観覧席の 屋根
は 後藤健氏、
後藤健氏、木材の
木材の提供は
提供は 山岸貞夫などで
山岸貞夫などで最終的資金調達
などで最終的資金調達には
最終的資金調達にはフォルックスワーゲンブラジ
にはフォルックスワーゲンブラジ
リアを
リアを 景品とした
景品としたリッファー
としたリッファーの
リッファーの 販売でした
販売でした。
でした。運良く
運良く インダイアツーバ在住
インダイアツーバ在住の
在住の 福本氏に
福本氏に当 たっ
たのを覚
たのを覚えています。
えています。
日本人会とは
日本人会とは別会計
とは別会計で
別会計で 建設が
建設が遂行されたので
遂行されたので会計
されたので会計も
会計も 自ら 別経理で
別経理で資金調達には
資金調達には各方面
には各方面を
各方面を友人
知人を
知人を 通じ 、寄付方をお
寄付方をお願
をお願 いし、
いし、また外野壁
また外野壁に
外野壁に 広告を
広告を出 すなど有名企業商店
すなど有名企業商店にも
有名企業商店にも協力
にも協力をお
協力をお願
をお願
いいたしました。
いいたしました。
1980年
1980年 8月 2日幾多の
日幾多の 腹を 痛めましたが、
めましたが、 安産ということで
安産ということで当時
ということで当時カンピーナス
当時カンピーナス市長
カンピーナス市長であ
市長であ
った FRANCISCO AMARAL 氏を主賓に
主賓に招きめでたく落成
きめでたく落成いたしました
落成いたしました。
いたしました。
15
コロニア東山創立50周年記念誌
池田虎之輔氏の
池田虎之輔氏の叙勲について
叙勲について
東治男
代は鹿児島県鹿屋下祓川の
鹿児島県鹿屋下祓川の生まれ。
まれ。
一九二七年宇都宮高等農林学校卒業と
一九二七年宇都宮高等農林学校卒業と同時に
同時に東山農場練習生として
東山農場練習生として渡伯
として渡伯。
渡伯。
東山農場支配人、
東山農場支配人、ピンダモンヤンガーバ支場支配人
ピンダモンヤンガーバ支場支配人を
支場支配人を兼任、
兼任、その間
その間 に壱岐俊子と
壱岐俊子と結婚、
結婚、 一男
三女をもうけ
三女をもうけ、
をもうけ、 一九四五年東山事業推進のため
一九四五年東山事業推進のためスマトラ
のためスマトラへ
スマトラへ赴任、
赴任、水田業作の
水田業作の 指導にあたった
指導にあたった。
にあたった。
東山農場在職中に
東山農場在職中に、一九三二年の
一九三二年の改憲革命時戦場となった
改憲革命時戦場となった東山農場
となった東山農場を
東山農場を職員の
職員の 家族の
家族の安全処置
など先頭
など先頭にたち
先頭にたち善処
にたち善処した
善処した。
した。
事業面では
事業面では、
では、牛 の改良取り
改良取り 組み ブラジル在来種
ブラジル在来種、
在来種、カラクーを
カラクーを基本とする
基本とする、
とする、インド牛
インド牛 ゼブーと
ゼブーと
の 原交配を
原交配を 活用、
活用、八年間の
八年間の 改良の
改良の結果、
結果、全伯肉牛品評会で
全伯肉牛品評会で優勝。
優勝。当時の
当時の バルガス大統領
バルガス大統領から
大統領から
称賛され
称賛され、
され、続の年も優勝、
優勝、その改良種
その改良種が
改良種がインドブラジルと
インドブラジルと命名された
命名された。
された。
一九五八年、
一九五八年、再度で
再度で直接コロニア
直接コロニア東山植民地
コロニア東山植民地に
東山植民地に 入植、
入植、日本人会の
日本人会の創立、
創立、 カンピーナス農業組
カンピーナス農業組
合 の経営改善、
経営改善、 全拓連グワタパラ
全拓連グワタパラ農場
グワタパラ農場の
農場の経営指導
経営指導などを終
などを終え、 コロニア東山
コロニア東山で
東山で自営農、
自営農、その
傍ら東山農場顧問をつとめる
東山農場顧問をつとめる。
をつとめる。
コロニア東山入植
コロニア東山入植当初
東山入植当初から
当初からピメントン
からピメントンの
ピメントンのウィルス抵抗性系統
ウィルス抵抗性系統の
抵抗性系統の 選抜に
選抜に取り組 み、その抵抗性
その抵抗性
系統が
系統が カンピーナス農事試験場
カンピーナス農事試験場、
農事試験場、コチア組合等
コチア組合等で
組合等で認 められ、
められ、ピメントンイケダ種
ピメントンイケダ種と 命名され
命名され、
され、
現在も
現在も栽培されている
栽培されている。
されている。
これらの功績
これらの功績で
功績で 一九七三年、
一九七三年、山本善与司賞を
山本善与司賞を受賞、
受賞、 一九九0
一九九0年 には日本政府
には日本政府より
日本政府より、
より、 勲六等旭
日単光章を
日単光章を受章。
受章。
14
コロニア東山創立50周年記念誌
にかけずり廻
にかけずり廻ったのも忘
ったのも忘れられない若
れられない若き日 の一コマ。
コマ。夜安宿に
夜安宿に帰る 前に 私費を
私費を叩いて、
いて、当時
日本から
日本から多
から多 くの若
くの若い女 の子 が来 て働いていたスナック
いていたスナックに
スナックに 行き大法螺を
大法螺を吹 いて若気
いて若気のいたりを
若気のいたりを
発散させたのも
発散させたのも、
させたのも、もう今
もう今はとっくに時効
はとっくに時効になったのでここで
時効になったのでここで白状
になったのでここで白状しておく
白状しておく。
しておく。
六十一年は
六十一年は 植民地のほとんどの
植民地のほとんどの土地
のほとんどの土地に
土地に地主が
地主が入 り青年会が
青年会が人数的に
人数的に一番多かった
一番多かった年
かった年 だと思
だと思う 、
三代目会長に
三代目会長に私 が押し 上げられ、
げられ、三月に
三月に我 が東山グランド
東山グランドで
グランドで聖北野球大会が
聖北野球大会が 行われ念願
われ念願の
念願の優
勝を果たし、
たし、同年九月に
同年九月に聖北代表として
聖北代表として全伯大会
として全伯大会に
全伯大会に出場する
出場する事
する事になった。
になった。
サンパウロから
サンパウロから名前
名前を
を
忘
れたが甲子園出場経験
れたが
甲子園出場経験のある
のあるコーチ
コーチを
を
いて五日間忙しい
から名前
甲子園出場経験のあるコーチ 招いて五日間忙
五日間忙しい家業
しい家業を
家業を 差
し 置いて合宿練習
いて合宿練習をしたが
合宿練習をしたが往時
をしたが往時の
往時の全伯大会の
全伯大会の壁は厚 く一勝も
一勝も出来ず
出来ず 退散したが
退散したが檜舞台
したが檜舞台に
檜舞台に 出た
事は大きな経験
きな経験となった
経験となった。
となった。
五月には
五月にはモジアナ
にはモジアナ競技場
モジアナ競技場で
競技場で聖北陸上競技大会があり
聖北陸上競技大会があり東山
があり東山チーム
東山チームの
チームの圧勝に
圧勝に終わった。
わった。
聖北八地区の
聖北八地区の中 で野球と
野球と陸上は
陸上は 敵なしの強
なしの強さを誇
さを誇ったが、
ったが、ランプを
ランプを灯しての夜
しての夜の陸上の
陸上の練習
は 昼間の
昼間の仕事の
仕事の 疲れを押
れを押して頑張
して頑張ったという
頑張ったという事
ったという事 でそれは矢張
でそれは矢張り
矢張り 皆若くて
皆若くて元気
くて元気が
元気が良かったから
だとなつかしく思
だとなつかしく思う。
一 つ特筆して
特筆して置
して置 きたいのは青年会発足当時
きたいのは青年会発足当時から
青年会発足当時から運営
から運営と
運営と運動面において
運動面において堤六人兄弟妹
において堤六人兄弟妹の
堤六人兄弟妹の活躍が
活躍が
あったこと。
あったこと。彼等なくして
彼等なくして東山
なくして東山チーム
東山チームはなかったと
チームはなかったと云
はなかったと云っても過言
っても過言ではないと
過言ではないと言
ではないと言えよう。
えよう。
六十二年は
六十二年は牧田稔氏が
牧田稔氏が四代目会長になり
四代目会長になり陸上競技
になり陸上競技で
陸上競技で三連覇を
三連覇を成し遂げた。
げた。
当時東山農場に
当時東山農場に 日本から
日本から農業研修生
から農業研修生が
農業研修生が五八年、
五八年、 六十年、
六十年、 六十二年の
六十二年の 三回に
三回に亘 ってやってきた。
ってやってきた。
それぞれ二十名近
それぞれ二十名近い
二十名近い男子青年が
男子青年が 植民地内の
植民地内の道場で
道場で生活していた
生活していた夜
していた夜や 休日はそれぞれ
休日はそれぞれ連
はそれぞれ連だって
植民地内の
植民地内の家庭訪問をして
家庭訪問をして親交
をして親交を
親交を深めて居
めて居た。
青年会とも
青年会とも横
とも横のつながりがあり中
のつながりがあり中でも若林氏
でも若林氏、
若林氏、 西氏の
西氏の二人は
二人は野球と
野球と 陸上で
陸上で我東山チーム
我東山チームに
チームに 入
って活躍
って活躍してくれたのは
活躍してくれたのは大
してくれたのは大きな強味
きな強味となっていた
強味となっていた。
となっていた。
六十三年以降は
六十三年以降は 年輩組は
年輩組は引退して
引退して青年会
して青年会も
青年会も 若返り
若返り指向で
指向で 事業も
事業も 運動面よりも
運動面よりも娯楽
よりも娯楽に
娯楽に 重さをお
く 様になったようだ。
になったようだ。 そうして六十五年
そうして六十五年には
六十五年には青年会
には青年会は
青年会は日本人会と
日本人会と合同したが
合同したが、
したが、これは時代
これは時代の
時代の
流れで必然
れで必然の
必然の流れと見
れと見た。
時 は流 れ最盛期は
最盛期は五十家族も
五十家族も居 た植民地も
植民地も 今は 十五家族位と
十五家族位と言 う。 今は 以前と
以前と違った形式
った形式で
形式で
立派な
立派な 組織の
組織の上 に関係者がそれを
関係者がそれを盛
がそれを盛 り上げ 、この度
この度 の五十周年記念誌製作
五十周年記念誌製作を
念誌製作を 促進しておる
促進しておる事
しておる事
は 一大事であることと
一大事であることと思
であることと思うが微力一助
うが微力一助する
微力一助する事
する事が 出来た
出来た事 を嬉しく思
しく思 う。 個人的には
個人的には不遇
には不遇や
不遇や
多忙の
多忙の 中も 顧みず、
みず、日本人会や
日本人会や 青年会発足時に
青年会発足時に 尽くされた先輩諸代
くされた先輩諸代を
先輩諸代を称 えすでにカンピーナ
えすでにカンピーナ
スの大地に
大地に還された方
された方々の冥福を
冥福を祈りつつ掘稿
りつつ掘稿を
掘稿を終わります。
わります。
13
コロニア東山創立50周年記念誌
青年会発足当時を
青年会発足当時を回顧して
回顧して
後藤健
此の度コロニア東山五十周年記念誌発行
コロニア東山五十周年記念誌発行についてその
東山五十周年記念誌発行についてその打
についてその打ち合わせ会
わせ会があり OB の一人とし
一人とし中
とし中
でも古株
でも古株の
古株の 私に 入植当時の
入植当時の 思い 出を 一筆書けとの
一筆書けとの事
けとの事 で半世紀近い
半世紀近い昔 に思 いをはせている。
いをはせている。東
山農場の
山農場の分譲地である
分譲地である我
である我が コロニア東山
コロニア東山に
東山に 五家族程が
五家族程が入植したのは
入植したのは一九五七年末
したのは一九五七年末で
一九五七年末で油草ばか
油草ばか
りが生
りが生い茂る第一区に
第一区に入り、先づ住む家作りと
家作りと畠作
りと畠作りに
畠作りに一生懸命
りに一生懸命だった
一生懸命だった。
だった。
近所付合もなかったが
近所付合もなかったが一九五九年
もなかったが一九五九年の
一九五九年の 正月に
正月に 、池田邸に
池田邸に招 ばれて十五人
ばれて十五人ほどの
十五人ほどの家長
ほどの家長と
家長と少々の 青
年男女が
年男女が集まった。
まった。
池田日会長の
池田日会長の音頭で
音頭で新年会を
新年会を祝 い、 出来たばかりの
出来たばかりの邸
たばかりの邸は 卓も椅子もない
椅子もないサーラ
もないサーラで
サーラでエンセラー
ドに座り、あたかも山賊同様
あたかも山賊同様、
山賊同様、東山農場からの
東山農場からの東麒麟
からの東麒麟で
東麒麟で祝杯をあげたものだった
祝杯をあげたものだった。
をあげたものだった。
当時の
当時の 日本人家庭に
日本人家庭には 男女青年が
男女青年が多 く、その場
その場 で青年会を
青年会を作ろうと云
ろうと云う 事になり、
になり、佐藤隆俊
さんが指名
さんが指名され
指名され、
され、初代会長に
初代会長に決まった。
まった。
日本人会も
日本人会も 四区に
四区に分けて、
けて、 それぞれ区長
それぞれ区長を
区長を 決めた。
めた。 五九年のあの
五九年のあの正月
のあの正月が
正月が 事実上の
事実上のコロニア東
コロニア東
山の発足だったと
発足だったと思
だったと思う。
入植間もないころは
入植間もないころは二三
もないころは二三の
二三の 例を 除いてどの家庭
いてどの家庭も
家庭も経済的に
経済的に貧しく、
しく、 営農資金は
営農資金は組合や
組合やサンパ
ウロ市
ウロ市 のバラッケイロに
バラッケイロに融資を
融資を 仰ぎ 東山商事には
東山商事には土地代
には土地代を
土地代を残していたので五九年度
していたので五九年度、
五九年度、ほとん
どの入植者
どの入植者が
入植者がトマト作
トマト作 りを主体
りを主体に
主体に一生懸命だった
一生懸命だった。
だった。 青年会は
青年会は忙 しい仕事
しい仕事の
仕事の中 、男子は
男子は野球チ
野球チ
ームを
ームを 作って近隣植民地
って近隣植民地、
近隣植民地、 アマライス、
アマライス、ぺ ドラブランカ、
ドラブランカ、マクコ等
マクコ等 のチームと
チームと交歓試合を
交歓試合を楽
しんでいた。
しんでいた。
CATI 農事試験場の
農事試験場の四 S クラブを
クラブを農家の
農家の若者間に
若者間に広める為
める為、指導班が
指導班が我が東山にも
東山にも派遣
にも派遣され
派遣され、
され、
特 に女子青年を
女子青年を 集めて色
めて色々 な講習をした
講習をした。
をした。 娯楽のない
娯楽のない農村
のない農村で
農村で リクレーションとして
リクレーションとして踊
として踊 りの
練習もしていた
練習もしていた。
もしていた。
海 にまで遊
にまで遊 びに行
びに行く余裕もないので
余裕もないので、
もないので、当時きれいな
当時きれいな砂浜
きれいな砂浜であった
砂浜であったプライアアズール
であったプライアアズールに
プライアアズールに男女青
年六十人余りが
年六十人余りが比嘉
りが比嘉さんの
比嘉さんのトラック
さんのトラックで
トラックでピクニックを
ピクニックを楽しんだのも良
しんだのも良い思い出だ。
一九五九年の
一九五九年のナタールは
ナタールは青年会が
青年会が主体となって
主体となって出来
となって出来たばかりの
出来たばかりのグランド
たばかりのグランドで
グランドで第一回、
第一回、家族慰安
運動会を
運動会を行 い日頃の
日頃の激 しい労働
しい労働から
労働から離
から離れ家族一同楽しく
家族一同楽しく過
しく過したのも遠
したのも遠い 日の 出来事。
出来事。以後四
五年はいつも
五年はいつもナタール
はいつもナタールに
ナタールに運動会が
運動会が行われていた。
われていた。
五九年度は
五九年度は 主作の
主作のトマトの
トマトの 値段の
値段の暴落でおそらく
暴落でおそらく多
でおそらく多 くのの家庭
くのの家庭が
家庭が土地代も
土地代も未約のまま
未約のまま六十年
のまま六十年
代 に入 ったと思
ったと思 われるがこの頃
われるがこの頃 から野菜作
から野菜作りや
野菜作りや養鶏
りや養鶏にも
養鶏にも手
にも手を広 げる多角営農
げる多角営農に
多角営農に変わっていっ
た。
六十年代に
六十年代に 入り 、カンピーナスを
カンピーナスを中心にした
中心にした聖北青年連盟
にした聖北青年連盟が
聖北青年連盟が結成され
結成され、
され、 吾が 東山青年会も
東山青年会も加
入 した。
した。 その年
その年は植民地にも
植民地にも多
にも多くの地主
くの地主が
地主が入植して
入植して来
して来 て男子四十名女子三十名ほどの
男子四十名女子三十名ほどの大
ほどの大 き
な 青年会になり
青年会になり、
になり、第一回聖北陸上競技大会が
第一回聖北陸上競技大会 が東山で
東山で 行われました。
われました。 男女総合は
男女総合は我が 東山が
東山が 初
優勝を
優勝を 果たした。
たした。これらの競技
れらの競技に
に
出場するにはそれなりの
出場
するにはそれなりの出費
出費が
が
重
なり、
なり
、
資金捻出に
資金捻出
に二代会
競技
するにはそれなりの出費
長佐藤鉄三郎氏をはじめ
長佐藤鉄三郎氏をはじめ会計
をはじめ会計の
会計の 私、 運動部長の
運動部長の 堤雄一氏等で
堤雄一氏等で各組合や
各組合やカンピーナスの
カンピーナスの商社を
商社を
かけ巡
かけ巡 って資金
って資金カンパ
資金カンパに
カンパに走 った。
った。私 と堤氏は
堤氏はサンパウロまで
サンパウロまで出向
まで出向き
出向き パンフレットの
パンフレットの広告取り
広告取り
12
コロニア東山創立50周年記念誌
会館建設について
会館建設について
後藤耕二
第四代会長牧田猛四時代
第四代会長牧田猛四時代1964
時代1964年建設計画
1964年建設計画が
年建設計画が 総会で
総会で協議され
協議され、
され、実行することになりました
実行することになりました。
することになりました 。
それ以前
それ以前は
以前は ブラジル語学校
ブラジル語学校として
語学校として建築
として建築された
建築された現野球場端
された現野球場端の
現野球場端の屋根付施設の
屋根付施設の場所に
場所に東山農場から
東山農場から
の 寄贈された
寄贈された5
された5 ,000枚
000枚 のレンガを
レンガを元に 小学校が
小学校が 作られ、
られ、机 、椅子などは
椅子などは市側
などは市側から
市側から提供
から提供さ
提供さ
れ 、ブラジル語初等授業
ブラジル語初等授業が
語初等授業が 行われていた。
われていた。 この学校
この学校は
学校は即日本人会の
即日本人会の 集合場所にもなったわけ
集合場所にもなったわけ
ですが、
ですが、何 かと不便
かと不便な
不便な 点もあり、
もあり、もっと大
もっと大 きな会館
きな会館をということで
会館をということで議論
をということで議論され
議論され意見
され意見が
意見が二分され
二分され
たと言
たと言うことです。
うことです。
A 論としては入植当初
としては入植当初で
入植当初で経済的に
経済的に苦しいのを理由
しいのを理由に
理由に反対派 B 論は話し合いの場所
いの場所を
場所を作り、親
睦融和を
睦融和を広げようと
げようと言う意見で
意見で B 論が優勢で
優勢で会館建設に
会館建設に踏み切った経緯
った経緯がありました
経緯がありました。
がありました。
会館建設委員会が
会館建設委員会が発足し
発足し、 牧田猛会長をその
牧田猛会長をその長
をその長 とし、
とし、当年の
当年の役員全員がその
役員全員がその任
がその任に当たりまし
た。
中村清次郎、
中村清次郎、水野龍資、
水野龍資、佐藤隆俊、
佐藤隆俊、 水野善三郎、
水野善三郎、竹内亀喜、
竹内亀喜、片田仁、
片田仁、田村寿、
田村寿、田島至、
田島至、後藤
耕二、
耕二、野田勇、
野田勇、大石善一、
大石善一、原屋敷善四郎、
原屋敷善四郎、西岡、
西岡、井手武男、
井手武男、黒岩茂の
黒岩茂の諸氏でした
諸氏でした。
でした。
設計は
設計は 牧田会長の
牧田会長の才配によるもので
才配によるもので各自
によるもので各自が
各自が 所有する
所有するユーカリ
するユーカリを
ユーカリを 切り 出し、丸太を
丸太を素材とし
素材とし、
とし、
それを施工
それを施工するために
施工するために牧田会長
するために牧田会長、
牧田会長、後藤耕二らの
後藤耕二らの旧知
らの旧知の
旧知の大工 PEREIRA BARRETOS の立花大
工に要請し
要請し、コロニア在住
コロニア在住の
在住の原屋敷善四郎大工を
屋敷善四郎大工を強力な
強力な施工助手として
施工助手として進行
として進行しました
進行しました。
しました。
立花大工の
立花大工の寝食後藤耕二氏に
寝食後藤耕二氏に依頼したのも
依頼したのも大
したのも大きな協力
きな協力の
協力の源となったものです。
となったものです。
土台建設について
土台建設について井手伯男
について井手伯男、
井手伯男、宮尾忠義、
宮尾忠義、氏らは次
らは次のように過去
のように過去を
過去を話してくれました。
してくれました。
入植者の
入植者の若手が
若手が 反強制的に
反強制的に 労働に
労働に出 て、やぐらを組
やぐらを組 んで土台地
んで土台地をどしんどしんとつき
土台地をどしんどしんとつき閉
をどしんどしんとつき閉めた
と手のひらに血豆
のひらに血豆が
血豆が出来るのは
出来るのは常
るのは常だったと、
だったと、だから土台
だから土台は
土台は末代まで
末代まで狂
まで狂わないと。
わないと。
建設資金について
建設資金について、
について、入植者に
入植者に建設分担金をお
建設分担金をお願
をお願 いしたのですが、
いしたのですが、それでは足
それでは足 りず、
りず、 寄付金も
寄付金も
思 うように集
うように集まらずといったところにこのコロニア
まらずといったところにこの コロニア東山
コロニア東山の
東山の分譲集金責任者だった
分譲集金責任者だった吉井修氏
だった吉井修氏が
吉井修氏が
サンパウロ近郊
サンパウロ近郊に
近郊に住んでいる不在地主
んでいる不在地主に
不在地主に寄付をお
寄付をお願
をお願 いしてはということになり、
いしてはということになり、当時の
当時の 役員
石井、
石井、 堤、 中村、
中村、片田、
片田、後藤氏らが
後藤氏らが、
らが、吉井氏の
吉井氏の 車で 回り 、一日では
一日では回
では回りきれないでサンパウ
りきれないでサンパウ
ロの池田ホテル
池田ホテルで
ホテルで一泊して
一泊して十数名
して十数名から
十数名から寄付
から寄付をいただいたのも
寄付をいただいたのも楽
をいただいたのも楽しい思
しい思い出です。
です。
建設後20
建設後20数年
20数年がたち
数年がたち屋根素材
がたち屋根素材が
屋根素材が白蟻の
白蟻の被害を
被害を 受け 、随時修理が
随時修理が行 われていましたが、
われていましたが、 19
98年前面的改修
98年前面的改修に
年前面的改修に踏み切り、現在の
現在の会館を
会館を維持しています
維持しています。
しています。
11
コロニア東山創立50周年記念誌
祝辞
元会長太田正一
このたびコロニア
このたびコロニア東山開発
コロニア東山開発 50 周年記念祭開催とともに
周年記念祭開催とともに 50 周年記念誌の
周年記念誌の発行の
発行の運びとなった
ことを誠
ことを誠に嬉しい次第
しい次第であります
次第であります。
であります。
去る、1958 年植民地開発移住として
年植民地開発移住として聖州奥地
として聖州奥地から
聖州奥地から住
から住みなれたふるさとに別
みなれたふるさとに別れを惜
れを惜しみつつ遠
しみつつ遠
く 当地に
当地に移住した
移住した人
した人たち、
たち、 奥地と
奥地と変 わった作物栽培
わった作物栽培に
作物栽培に戸惑いつつ
戸惑いつつ、
いつつ、 元老池田虎之助氏
元老池田虎之助氏のお
助氏のお宅
のお宅
を 訪問、
訪問、営農指導をはじめその
営農指導をはじめその他
をはじめその他の 指導者の
指導者の支援のおかげで
支援のおかげで仲間同士力
のおかげで仲間同士力をあわせ
仲間同士力をあわせ、
をあわせ、今の東山
の 発展の
発展の基礎を
基礎を 作った人
った人たち、
たち、 その多
その多くが他界
くが他界し
他界し、 わずかの人
わずかの人 たちも現役
たちも現役を
現役を 去り、 今は 二世、
二世、
三世の
三世の時代となりつつあります
時代となりつつあります。
となりつつあります。
50 年の歳月は
歳月は夢のごとくあっという間
のごとくあっという間に過ぎ、過去となってしまいましたが
過去となってしまいましたが、
となってしまいましたが、親の背を見て
育った二世
った二世、
二世、三世の
三世の大活躍が
大活躍が今東山の
今東山の発展を
発展を支えています。
えています。
終わりに、
わりに、先輩先没移住者のご
先輩先没移住者のご冥福
のご冥福を
冥福を祈るとともに来
るとともに来る 50 年コロニア東山
コロニア東山のますますの
東山のますますの繁栄
のますますの繁栄
を願いつつ筆
いつつ筆をおきます。
をおきます。
10
コロニア東山創立50周年記念誌
Palavras do Presidente
Taketoshi Ide
O ano de 2008 não entra para a história da Associação Cultural e Assistencial Nipo Brasileira da Colônia TOZAN
somente pela celebração de suas cinco décadas de existência, ou pela celebração do Centenário da Imigração
Japonesa ao Brasil, mas, sobretudo marcada pelo esforço, pela perseverança e o trabalho árduo dos ex-Presidentes
e Diretores e o importante apoio de nossos associados e de todas as Associações congêneres, empresários,
colaboradores e o poder público.
O primeiro sentimento que aflora nas nossas expressões é o de gratidão aos pioneiros que permitiram a
materialização de um sonho de progresso e vida feliz. Se hoje podemos considerar vencedores todos os
descendentes desses imigrantes, isso se deve àqueles primeiros, que não mediram esforços para o seu crescimento
econômico e social através de uma integração ampla da Associação.
Esse esforço conjunto, com o seu início na década de 50, contou com a colaboração importantíssima do
idealizador da criação de uma colônia japonesa, o conde Iwasaki, proprietário da Fazenda Monte D´Este, que
vendeu as glebas de terras para o cultivo, a preços e condições excepcionais.
Uma Associação só cresce, desenvolve-se, conquista adeptos, gera bem estar, se for administrada com seriedade,
honestidade, trabalho e muita dedicação.
A tradição de trabalho e disciplina, que tanto encanta os admiradores da cultura japonesa, garantiu que aqueles
bravos homens persistissem. Um ponto de honra era, como sempre foi, a educação dos filhos, e para tanto deram
de si, sacrifícios no limite de suas forças.
Após os 50 anos de luta e a maioria já ausente, vemos que tudo valeu a pena.
A Associação está pronta para uma nova caminhada em busca de novos desafios, novos paradigmas, juntamente
com todos os colaboradores, para oferecer a sociedade, ainda que modesta perante o caos que reina hoje, com as
inversões de valores e costumes, uma alternativa que possa contribuir para promover o desenvolvimento e a
construção de uma sociedade mais justa, igualitária e ética.
Compartilhar esse momento especial, que para nós representa um avanço nas nossas relações, muito nos orgulha e
gratifica.
Continuaremos contando com o apoio, comprometimento e participação de todos.
9
コロニア東山創立50周年記念誌
目次
Palavras do Presidente ............................................................................................................................. 9
Taketoshi Ide ......................................................................................................................................... 9
祝辞 .......................................................................................................................................................... 10
元会長太田正一 .................................................................................................................................. 10
会館建設について
会館建設について .................................................................................................................................. 11
後藤耕二 .............................................................................................................................................. 11
青年会発足当時を
青年会発足当時を回顧して
回顧して .................................................................................................................. 12
後藤健 .................................................................................................................................................. 12
池田虎之輔氏の
池田虎之輔氏の叙勲について
叙勲について .............................................................................................................. 14
東治男 .................................................................................................................................................. 14
野球場建設につい
野球場建設について
について .............................................................................................................................. 15
東治男 .................................................................................................................................................. 15
継承日本語教育の
継承日本語教育の意義 .......................................................................................................................... 16
佐野ハ
佐野ハ秀子 .......................................................................................................................................... 16
私の野球指導の
野球指導の理念 .............................................................................................................................. 18
内田高昭 .............................................................................................................................................. 18
トマトの
トマトの出来栄えを
出来栄えを見
えを見に来たタマンドア .......................................................................................... 19
佐藤鉄三郎 .......................................................................................................................................... 19
わがふるさとコロニア
わがふるさとコロニア東山
コロニア東山 .................................................................................................................. 21
西忠久 .................................................................................................................................................. 21
八年間の
八年間の会長時代の
会長時代の回顧 ...................................................................................................................... 23
山口幸男 .............................................................................................................................................. 23
一大花卉生産地を
一大花卉生産地を形成 .......................................................................................................................... 25
山口幸男 .............................................................................................................................................. 25
私の心のふるさと、
のふるさと、東山植民地五十周年おめでとう
東山植民地五十周年おめでとう ...................................................................... 26
石井さゆり
石井さゆり .......................................................................................................................................... 26
創立 20 周年記念の
周年記念の思い出コロ二
コロ二ア東山婦人会と
東山婦人会と私 ........................................................................ 27
浦口ハルミ
浦口ハルミ .......................................................................................................................................... 27
東山ソフトボール
東山ソフトボール .................................................................................................................................. 29
池田尚昭 .............................................................................................................................................. 29
大橋兄弟が
大橋兄弟が確実にし
確実にした
にしたゴヤバ栽培
ゴヤバ栽培 ...................................................................................................... 30
聞き人 東治男 .................................................................................................................................. 30
私の第二の
第二の故郷 ...................................................................................................................................... 31
池田光子 .............................................................................................................................................. 31
編集後記 .................................................................................................................................................. 32
東治男 .................................................................................................................................................. 32
8
コロニア東山創立50周年記念誌
1987
小坪誠一
宮尾忠義
山口幸男
山口かおる
山口かおる
桧垣イネ
桧垣イネ
堤多那子
1988
小坪誠一
宮尾忠義
山口幸男
山口かおる
山口かおる
桧垣イネ
桧垣イネ
堤多那子
1989
小坪誠一
山口かおる
山口かおる
桧垣イネ
桧垣イネ
堤多那子
1990
小坪誠一
山口かおる
山口かおる
桧垣イネ
桧垣イネ
堤多那子
1991
小坪誠一
片田陽昭
渡辺文子
桧垣イネ
桧垣イネ
内田あき
内田あき子
あき子
1992
小坪誠一
片田陽昭
渡辺文子
桧垣イネ
桧垣イネ
内田あき
内田あき子
あき子
1993
小坪誠一
片田陽昭
渡辺文子
桧垣イネ
桧垣イネ
内田あき
内田あき子
あき子
1994
片田陽昭
渡辺文子
桧垣イネ
桧垣イネ
内田あき
内田あき子
あき子
1995
片田陽昭
後藤スミ
後藤スミ子
スミ子
1996
山口幸男
井手伯男
後藤スミ
後藤スミ子
スミ子
1997
山口幸男
井手伯男
後藤スミ
後藤スミ子
スミ子
1998
山口幸男
井手伯男
後藤スミ
後藤スミ子
スミ子
1999
山口幸男
井手伯男
後藤スミ
後藤スミ子
スミ子
2000
山口幸男
井手伯男
後藤スミ
後藤スミ子
スミ子
2001
山口幸男
井手伯男
後藤スミ
後藤スミ子
スミ子
2002
山口幸男
井手伯男
後藤スミ
後藤スミ子
スミ子
2003
山口幸男
井手伯男
後藤スミ
後藤スミ子
スミ子
2004
井手武利
堤雄一
後藤スミ
後藤スミ子
スミ子
2005
井手武利
堤雄一
山口マサ
山口マサ子
マサ子
井手郁子
深沢俊子
2006
井手武利
堤雄一
山口マサ
山口マサ子
マサ子
井手郁子
深沢俊子
2007
井手武利
岸根敬
山口マサ
山口マサ子
マサ子
井手郁子
深沢俊子
2008
井手武利
岸根敬
山口マサ
山口マサ子
マサ子
井手郁子
深沢俊子
7
コロニア東山創立50周年記念誌
歴代会長など
歴代会長など
年
会長
副会長
会計
青年会長
婦人会長
婦人副会長
会計
1957
1958
池田虎之輔
1959
池田虎之輔
佐藤隆俊
1960
池田虎之輔
佐藤鉄三郎
1961
池田虎之輔
後藤健
1962
池田虎之輔
水野善三郎
1963
野田勇
牧田猛四
水田龍資
堤たけお
1964
牧田猛四
中村精次郎
中村精次郎
水田龍資
後藤きよし
後藤きよし
1965
石井三郎
後藤耕二
片田仁
井手伯男
1966
石井三郎
佐藤隆俊
片田仁
野田アントニオ
野田アントニオ
1967
井手武男
片田仁
黒岩寛一
後藤あきら
後藤あきら
1968
田島至
後藤耕二
水田龍資
1969
後藤耕二
渡辺光一
水田龍資
婦人会発足
婦人会発足
1970
田島至
堤雄一
水田龍資
池田俊子
後藤アサ
後藤アサ
原田小枝子
1971
井手武男
堤雄一
水田龍資
池田俊子
後藤アサ
後藤アサ
原田小枝子
1972
後藤耕二
太田正一
水田龍資
田島としえ
山口かおる
山口かおる
堤多那子
1973
片田仁
桧垣知之
水田龍資
浦口ハルミ
浦口ハルミ
後藤スミ
後藤スミ子
スミ子
小坪ヒロ
小坪ヒロ子
ヒロ子
1974
太田正一
後藤耕二
浦口明
桧垣イネ
桧垣イネ
佐藤絹子
藤本美和子
1975
山口三郎
堤雄一
後藤耕二
黒岩シズエ
黒岩シズエ
野田ナホコ
野田ナホコ
渡辺文子
1976
桧垣知之
渡辺光一
小島賢太郎
原屋敷キク
原屋敷キク
大橋静子
竹内藤子
1977
渡辺光一
桧垣知之
小島賢太郎
原屋敷キク
原屋敷キク
大橋静子
竹内藤子
1978
太田正一
浦口昭
山口幸男
山口かおる
山口かおる
渡辺文子
岸根タヨ
岸根タヨ子
タヨ子
1979
桧垣知之
浦口昭
山口幸男
浦口ハルミ
浦口ハルミ
原田小枝子
宮尾勝代
1980
渡辺光一
宮尾忠義
山口幸男
佐藤絹子
野田ナホコ
野田ナホコ
内田あき
内田あき子
あき子
1981
渡辺光一
宮尾忠義
山口幸男
山口かおる
山口かおる
桧垣イネ
桧垣イネ
堤多那子
1982
渡辺光一
宮尾忠義
山口幸男
山口かおる
山口かおる
桧垣イネ
桧垣イネ
堤多那子
1983
渡辺光一
宮尾忠義
山口幸男
山口かおる
山口かおる
桧垣イネ
桧垣イネ
堤多那子
1984
小坪誠一
宮尾忠義
山口幸男
原屋敷キク
原屋敷キク
野田ナホコ
野田ナホコ
佐藤絹子
1985
小坪誠一
宮尾忠義
山口幸男
後藤スミ
後藤スミ子
スミ子
深沢きくを
深沢きくを
堤多那子
堤多那子
1986
小坪誠一
宮尾忠義
山口幸男
後藤スミ
後藤スミ子
スミ子
深沢きくを
深沢きくを
堤多那子
牧田稔
6
コロニア東山創立50周年記念誌
1999
2000
2001
会館敷地周囲を
会館敷地周囲を有刺鉄線で
有刺鉄線でセルカを
セルカを作る。浄水塔
浄水塔を新設する
新設する。
する。トランスフォルマドール
(変圧器)
変圧器)と 避雷針を
避雷針を更新する
更新する。
する。経費は
経費は宮尾氏と
宮尾氏と分配。
分配。
会員増加を
会員増加を見込んで
見込んで会員
んで会員の
会員の勧誘をする
勧誘をする。
をする。15名勧誘
15名勧誘する
名勧誘する。
する。
5月20日
20日カラオケ大会
カラオケ大会を
大会を開く。
2002
2003
2004
2005
2006
2007
日本人会役員全員入れ
日本人会役員全員入れ替え。井手武利会長 堤雄一副会長 会計 中村リカルド
中村リカルド 書記
小林 ソフトボール屋比久
ソフトボール屋比久杯
屋比久杯 ボイノロレッチ ゲートボール大会
ゲートボール大会 フェイジョアーダ
ショッピ祭
ショッピ祭り 運動会 餅つき。
つき。
会計の
会計の中村氏が
中村氏がリオ勤務
リオ勤務になり
勤務になり小林氏
になり小林氏が
小林氏が会計を
会計を勤める。
める。フェスタカイピーラ3
フェスタカイピーラ3,000
にん集
にん集まる 日伯文化協会の
日伯文化協会のフェスチバールドジャポンにさんかする
フェスチバールドジャポンにさんかする ボイノロレッチ
ゲートボール大会
ゲートボール大会 フェイジョアーダ ショッピ祭
ショッピ祭り 運動会 餅つき。
つき。
新しいバラッコン
しいバラッコン建設
バラッコン建設される
建設される 総工費15
総工費15,
15,000レアル
000レアルは
レアルは有志から
有志から借用
から借用する
借用する。
する。援協巡
回診療に
回診療に地域の
地域のポストデアウーデから
ポストデアウーデから診察用寝台
から診察用寝台などを
診察用寝台などを借用
などを借用する
借用する。
する。
副会長岸根敬 会計中村 書記塩沢きみえ
書記塩沢きみえ 会計でそれぞれの
会計でそれぞれの純益
でそれぞれの純益から
純益から20
から20%
20%日本人会
に その他
その他はそれぞれ主導
はそれぞれ主導した
主導した部門
した部門で
部門で分配する
分配する。
する。レウニオンデセグランサ
レウニオンデセグランサ コロニアの
コロニアの
治安が
治安が悪くなり水田氏宅
くなり水田氏宅に
水田氏宅に2回めの被害
めの被害を
被害を受けたあと防犯会議
けたあと防犯会議を
防犯会議を開く。
5
コロニア東山創立50周年記念誌
1980
1981
1982
球場完成資金調達
球場完成資金調達にフォルクスバーゲンブラジリアを
フォルクスバーゲンブラジリアを商品とする
商品とするリッファー
とするリッファーを
リッファーを売り出
す。当選者は
当選者はインダイアツーバの
インダイアツーバの福本氏 落成式02
落成式02.
02.08.
08.80 PREFEITO
FRANCISCO AMARAL 出席
浦口氏 転出 深沢氏 入植
福岡県農業実習生10
福岡県農業実習生10名
10名コロニア東山
コロニア東山で
東山で3ヶ月間実習する
月間実習する。
する。
1983
1984
1985
1986
1987
1988
1989
1990
池田虎之輔氏 勲六等旭日単光章に
勲六等旭日単光章に輝く。祝賀会は
祝賀会は東山農場で
東山農場で行われる。
われる。
1991
1992
1993
第45回全伯少年野
45回全伯少年野球大会
回全伯少年野球大会で
球大会で準優勝ロンドリーナ
準優勝ロンドリーナに
ロンドリーナに3対1で敗れる。
れる。
小坪誠一会長死亡葬儀は
小坪誠一会長死亡葬儀は親戚が
親戚が主導する
主導する。
する。49日法要日本人会館
49日法要日本人会館で
日法要日本人会館で日本人会主導。
日本人会主導。責任
者山口幸男。
者山口幸男。
1994
1995
1996
1997
1998
山口定次氏 ゲートボール場開設
ゲートボール場開設
全伯ゲートボール
全伯ゲートボール大会東山野球場二面
ゲートボール大会東山野球場二面を
大会東山野球場二面を使用し
使用し競技が
競技が行われる。
われる。参加者1
参加者1,250人
250人4
月20日
20日から21
から21日
21日。
運動場観覧席屋根新築。
運動場観覧席屋根新築。旧学校白蟻被害で
旧学校白蟻被害で取り壊し新築される
新築される。
される。9月にはショッピ
にはショッピ祭
ショッピ祭
り。
会館が
会館が白蟻被害のため
白蟻被害のため全面的改修
のため全面的改修される
全面的改修される。
される。創立40
創立40周年記念式
40周年記念式。
周年記念式。 日本移民90
日本移民90周年記
90周年記
念式に
念式に参加する。
する。
4
コロニア東山創立50周年記念誌
1964
1965
1966
1967
1968
1969
1970
1971
牧田会長時に
牧田会長時に本会館工事着工竣工 大工は
大工は PEREIRA_BARRETO から会長
から会長の
会長の知人を
知人を呼び施工
される。
される。会館建設委員 1964年度役員全員
1964年度役員全員がその
年度役員全員がその任
がその任に当たる。
たる。 牧田猛四、
牧田猛四、中村精
次郎、
次郎、水野龍資、
水野龍資、佐藤隆俊、
佐藤隆俊、水野善三郎、
水野善三郎、竹内亀喜
竹内亀喜, 片田仁、
片田仁、田村寿、
田村寿、田島至、
田島至、後藤耕
二、野田勇、
野田勇、大石善一、
大石善一、原屋敷善四郎、
原屋敷善四郎、西岡、
西岡、井手武男、
井手武男、黒岩茂。
黒岩茂。計画は
計画は牧田会長 植
民地内に
民地内に所有する
所有するユウカリ
するユウカリを
ユウカリを拠出してもらい立花大工
してもらい立花大工に
立花大工に原屋敷善四郎大工が
原屋敷善四郎大工が補佐役とし
補佐役とし
て植民地全員が
植民地全員が一貫として
一貫として完成
として完成させる
完成させる。
させる。そのときの青年会長
そのときの青年会長 後藤きよし
後藤きよし。
きよし。その後
その後、数
年に亘って公式
って公式の
公式の会長を
会長を勤める。
める。
岸根 入植 青年会長 井出アルベルト
井出アルベルト 青年会は
青年会はリオデジャネイロに
リオデジャネイロに観光旅行。
観光旅行。活動
資金に
資金にバタタドーセを
バタタドーセを植える。
える。
山口 入植 青年会長 野田アントニオ
野田アントニオ 活動資金にかぼちゃを
活動資金にかぼちゃを植
える。
にかぼちゃを植える。
青年会長 後藤あきら
後藤あきら
浦口 入植
田村氏宅一角で
田村氏宅一角で日本語学校再開 山口幸男氏が
山口幸男氏がグラジオーラスの
グラジオーラスの栽培を
栽培を始める。
める。オラン
ブラよりも
ブラよりも10
よりも10年
10年まえとのこと。
まえとのこと。婦人会発足初代会長池田としこ
婦人会発足初代会長池田としこ 相談役 田島、
田島、野
田、片田
各種料理教室が
各種料理教室が開かれる。
かれる。
池田氏次女 日本語教師を
日本語教師を勤める 農村電化料金の
農村電化料金の交渉を
交渉を井手武男会長、
井手武男会長、堤雄一、
堤雄一、宮尾
忠義が
忠義が電力会社と
電力会社と交渉、
交渉、改善される
改善される。
される。
1972
1973
1974
1975
田村阿砂子、
田村阿砂子、浦口、
浦口、中山 日本語学校教師として
日本語学校教師として3
として3年間勤める
年間勤める。
める。
小坪会長通学用バス
小坪会長通学用バス導入
バス導入で
導入でバリンニョスの
バリンニョスのバス会社
バス会社と
会社と交渉、
交渉、カンピーナスアダルベルト
校間を
校間を一日一往復。
一日一往復。植民民地主要道路舗装
植民民地主要道路舗装 (州当局の
州当局の農産物搬出の
農産物搬出のプロジェクトの
プロジェクトの中
に入り、舗装さ
舗装される)
れる)。
鈴木荘一氏が
鈴木荘一氏が使用人、
使用人、永井氏が
永井氏が日語教師を
日語教師を勤める。
める。
市営バス
市営バスが
バスがジョッケイクラブまで
ジョッケイクラブまで運行
まで運行される
運行される。
される。
1976
1977
1978
日本人会創立20
日本人会創立20周年記念式
記念アルバム浦口氏所有
20周年記念式 記念アルバム
アルバム浦口氏所有
新しい球場
しい球場の
球場の測量設計始まり
測量設計始まり 東山農場から
東山農場から会所有
から会所有の
会所有の地権を
地権を受ける 太田、
太田、堀内、
堀内、野口
姉妹の
姉妹の証言。
証言。球場建設委員 顧問 池田虎之輔 委員長 山口三郎 委員 堤雄一 佐
藤鉄三郎 井手伯男 宮尾忠義 片田陽昭 増永勉 内田高昭 山田 会員外 山岸貞
夫 前田好美 東など 16名
16名
1979
3
コロニア東山創立50周年記念誌
コロニア東山創立
コロニア東山創立50
東山創立50周年概要
50周年概要
1956
東山農場がその
東山農場がその一部
がその一部を
一部を分割分譲を
分割分譲を始める分譲責任者
める分譲責任者 吉井修氏 入植者 大石善一、
大石善一、比
嘉徳次、
嘉徳次、比嘉栄
1957
入植者 塚本正、
塚本正、田村寿、
田村寿、宮尾只美
1958
入植者 後藤兄弟、
後藤兄弟、牧田猛四、
牧田猛四、佐藤兄弟、
佐藤兄弟、池田虎之助、
池田虎之助、水野善三郎、
水野善三郎、野田勇、
野田勇、山田平一
郎、竹内亀喜、
竹内亀喜、岡畑惣一、
岡畑惣一、中山俊一、
中山俊一、田島至、
田島至、井手武男、
井手武男、渡辺光一、
渡辺光一、鈴木荘一、
鈴木荘一、堤一
家、原田孝、
原田孝、桧垣知之、
桧垣知之、難破、
難破、城間、
城間、西岡、
西岡、石内兄弟、
石内兄弟、服部、
服部、又井、
又井、藤永、
藤永、段野、
段野、黒田
寛一、
寛一、藤本守人、
藤本守人、石井三郎、
石井三郎、黒岩茂
敷地内に
敷地内にブラジル語学校
ブラジル語学校が
語学校が建設される
建設される。
される。東山農場から
東山農場から5
から5千枚の
千枚のレンガと
レンガと左官が
左官が提供され
提供され
る。机、椅子は
椅子はカンピーナス市
カンピーナス市から提供
から提供される
提供される。
される。先生は
先生はピラシカーバ出身
ピラシカーバ出身の
出身の子供連れの
子供連れの
方で田村寿の
田村寿の家に無料寄宿する
無料寄宿する。
する。この学校
この学校が
学校が日本人会の
日本人会の会場にもなった
会場にもなった。
にもなった。
1959
1960
正月元旦家長十五名男女青年数十名が
正月元旦家長十五名男女青年数十名が新築区された
新築区された池田邸
された池田邸に
池田邸に招待され
招待され、
され、広間に
広間にシートの
シートの
上に座って東山醸造
って東山醸造からの
東山醸造からの祝
からの祝い酒で乾杯。
乾杯。青年会発足初代会長 佐藤隆俊。
佐藤隆俊。野球チーム
野球チーム
が結成され
結成され、
され、アマライス、
アマライス、マクッコ、
マクッコ、ペドラブランカ、
ペドラブランカ、カンピーナスなどの
カンピーナスなどのチーム
などのチームの
チームの交
歓試合をする
歓試合をする。
をする。カンピーナス農事試験場
カンピーナス農事試験場 CATI の 4S 活動の
活動の指導で
指導で講師が
講師が派遣され
派遣され、
され、料理、
料理、
ダンスなどの
ダンスなどの講習
などの講習が
講習が行われた。
われた。比嘉氏の
比嘉氏のトラックで
トラックでアメリカーナの
アメリカーナのプライアアズルに
プライアアズルにピ
クニックにいく
クニックにいく。
にいく。クリスマスに
クリスマスに慰安運動会始まるそれ
慰安運動会始まるそれ以後
まるそれ以後、
以後、四五年続く
四五年続く。これが慣例
これが慣例の
慣例の
運動会の
太田氏は
運動会の始まり。
まり。 (太田氏
太田氏は東山農場会計野口氏と
東山農場会計野口氏と親交があり
親交があり両氏
があり両氏が
両氏が東山農場総支配人
山本氏に
山本氏に交渉し
交渉し、現会館所有地を
現会館所有地を暫定地権を
暫定地権を確保する
確保する。
する。地権譲渡は
地権譲渡は1978年
1978年)
田島、
田島、原屋敷、
原屋敷、藤本、
藤本、石井 入植 青年会会長2
青年会会長2 佐藤鉄三郎 日本語学校は
本語学校は田村氏の
田村氏の
家で行われる 教師として
教師として東山農場研修生
として東山農場研修生2
東山農場研修生2人(黒木、
黒木、林)ブラジル語学校
ブラジル語学校の
語学校の先生は
先生はシ
ャレッチで
ャレッチで送り迎えする。
えする。カンピーナスを
カンピーナスを中心にした
中心にした聖北青年会
にした聖北青年会が
聖北青年会が組織され
組織され、
され、東山もこ
東山もこ
れに加入
れに加入 男女青年約70
男女青年約70名
70名。第一回野球大会陸上競技大会コロニア
第一回野球大会陸上競技大会コロニア東山
コロニア東山で
東山で行われ、
われ、男
女とも総合優勝
とも総合優勝する
総合優勝する。
する。これらの活動資金捻出
これらの活動資金捻出に
活動資金捻出に組合、
組合、商社など
商社など遠
など遠くはサンパウロ
くはサンパウロまで
サンパウロまで寄
まで寄
付金募集に
付金募集に行く。
1961
片田、
片田、中村 入植 青年会会長3
青年会会長3 後藤健 聖北野球大会で
聖北野球大会で優勝し
優勝し、全伯大会に
全伯大会に進む。
甲子園出場経験者を
甲子園出場経験者を指導者として
指導者として練習
として練習するも
練習するも全伯大会
するも全伯大会の
全伯大会の壁は厚く、全敗。
全敗。
1962
大橋 入植 青年会会長4
青年会会長4 牧田稔 ブラジル語学校
ブラジル語学校は
語学校はジョッケイクラブの
ジョッケイクラブの学校に
学校に編入
される。
される。
1963
渡辺氏 入植 青年会会長5
青年会会長5 堤たけお
2
コロニア東山
コロニア東山
創立50
創立50周年
50周年
記念誌
記念誌
1957年
2007年
1957年~2007
2007年
(平成20
平成20年
20年4月6日)
(Vr. 1.09)