016号( タルシウス第16号 目次 (2009/01) ・2009年を迎えるにあたって

タe
北スラウエシ日本人会
NORTHSULAWES=APAN CLUB
⊂向『命日凹S
日本人会会報
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矛屯封牛用
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目 次
1 2009年を迎えるにあたって
後藤 昭
2 エチオピアについて(その2)
石野 赫
3 黒曜石の道探検隊に参加して
川口 博康
4 インドネシアの看護師・介護福祉士受け入れについて
坂本 裕保
5 外国人船員の日本漁船への乗り組み 金城 力人
6 沖縄大学スタディツアー報告 宜野座 剛
19
7 慰霊の辞 糸満 盛健
20
8 慰霊祭の挨拶 上田不二夫
21
9 インドネシアよ永遠なれ(金子酢」も受輩記念誌)
22
編典後記
39
2009年を迎えるにあたって
在マカッサル日本総領事館
後藤 昭
皆様におかれましてはどのような新年を迎えられたでしょうか。
昨年11月に、スラウェシシ島北部で大きな地震が発生しましたが、在留邦人の中で
被災された方がいなかったことは誠に不幸中の幸いでした。
ご承知のようにインドネシアは地震多発国であり、北スラウェシ州やゴロンタロ州を
含むスラウユシ州北部も頻繁に地震が発生する地域です。地震という自然現象を前にし
ては我々人類のなす術は限られてしまいますが、それでも我々は自然災害に対して防災
ということを忘れてはなりません。
鳥インフルエンザは必ずしも自然災害とはいえないかも知れませんが、我々は自然災
害に対する防災と同じように鳥インフルエンザに対しても準備(緊急用としての食料備
蓄を含む)をしておくべきと考えます。ご承知のように、インドネシアは鳥インフルエ
ンザ感染死者数がダントツの世界一です。これは不名誉な世界一には違いありません。
なぜインドネシアに圧倒的に多いのかはわかりません。たぶんいろいろな要因があるの
でしょう。
新型インフルエンザ(鳥インフルエンザ・ウイルスが人に感染し、人の体内で増殖で
きるように変化し、人から人へと効率よく感染できるように突然変異を起こし、そのウ
イルスが圧倒的な早さで感染する)は何時発生してもおかしくない状況にあるとWHO
(世界保険機構)の専門家は発言しています。この新型インフルエンザの世界的な大流
行(ハンデミック)が発生すれば瞬時にして世界中に甚大な被害をもたらすことも予想
されています。総領事館からは主として「総領事館からのお知らせ」で可能な限りイン
ドネシアにおける鳥インフルエンザに関する情報を提供していますが、皆様におかれて
も常日頃から関連情報に注意を払い、防災意識を持たれることをお勧めします。
在マカッサル日本総領事館は昨年末に廃止となり、1月1日より在インドネシア日本
大使館を親公館とする駐在官事務所(ConsularOfficeofJapaninMakassar)に生ま
れ変わりました。ただし、場所事等務内容も変わりません。従いまして、邦人の皆様に
おかれては、従来どおりに当事務所に接していただければと思います。
総領事館が廃止されたこと1こ伴い、総領事ポストはなくなりました。私は近々、当地
をはなれ帰国する予定ですが、当地に着任して4年弱の期間、皆様と親しく接すること
ができたことは欣快の至りです。
ェチオピアについて(その2)
石野 赫 記
前号に引き続きエチオピアについて書かせてもらいます。
前号では、「この国にも建国伝説があり、シバの女王とイ
スラエルのソロモン王との間の息子メネリクI世が初代皇帝であったと言われ
ています。そして彼がイスラエルより「契約の箱」アークを持ち帰ったとされ、
今は聖地アクスムの教会に収められていると言われています。このソロモン王
朝は、最後のハイレ・セレシエ皇帝に至るまで、273代続いたとされていま
す。」と記しました。
皆様ご存知の通り「契約の箱」とは、シナイ山で神がモーゼに授けた「十戒」
が刻まれている石板を納めた聖なる箱です。それが、3000年前エルサレム
の神殿から忽然と姿を消しました。その行方は、まったくもって解らなくなっ
ています。
ところが、エチオピアの人々は、シバの女王の息子メネリクが成長しそェル
サレムにいる父ソロモンを訪問した際、神殿からアークを持ち出し、ナイル川
を遡り、更に支流アトラバ川沿いにエチオピアへ持ち帰ったと信じています。
現在、エチオピア北部にあるアクスムの「シオンの聖マリア教会」礼拝堂に納
められているのだそうです。
この礼拝堂に入れるのは、認められた
修道士唯一人だそうで、その修道士はア
ークの番人として、一生をその中で過ご
すのだそうです。
Y 地中潜 〆
旅行会社のエチオピア案内書を見ま
すと、この教会の謂れが掲載されていま
すが、「観光では入場できませんのでご
了承下さい」とあります。
インドネシアに足掛け30年関係して、
土地とそこに住まう人々の神秘性を体験
してきましたが、今エチオピアという自
分にとって全くの新しい国を知るにつれ
ここでも神秘性を感じています。
左にアークが運ばれたとされる道を、
旅行案内書から失礼して転載させて貰い
ました。
(その2)完
3
黒曜石の道探検隊に参加して
川口 博康
私の住む御前崎には「星の糞」という縄文時代の遺跡があります。
私がこの探検隊に参加するきっかけとなったのは生涯学習講座のチラシが目にとまった
からでした。60歳で定年となり故郷に帰ってあっという間に5年が経ってしまい、もう
少し故郷のことを知りたいなと思っていた矢先にこの講座に出会ったわけです。
「星の糞遺跡」、なんだか変わった名前だな、何で糞とつけたのか。この辺からがこの探
検の始まりでした。
「星の糞遺跡発掘調査報告書」によれば、この遺跡は縄文前期(5000∼6000年前)のも
のだという。はるか彼方に住んでいたという自分達の先祖のことが気になりだしたのは、
この遺跡を探検したときに始まります。アフリカでヒト=ホモサピエンスが誕生したのは、
10万年も前という。アフリカからここにたどり着くまでにどんな旅をしたのだろうか。
星の糞とは、黒曜石の破片がたくさん固まって落ちているところをいうのだと解説して
いただきました。探検隊の目的は、大量に発掘された黒曜石がどこからきたのか、そのル
ーツを探ることにあります。今回の探検のハイライトは信州の「星の糞峠」です。希望に
胸をふくらませた隊員18名を乗せ、バスは針路を北にとって出発しました。
御前崎の追跡に黒曜石の破片があることについては、探検隊員の多くが「塩の道」を使
って御前崎まで運ばれたものだと信じていました。また、ガイドの方は「星の糞」の意味
について「ごみが集まったものを糞と言っていたことから、黒曜石がキラキラ光る=星、
大量に集まったゴミ=糞、このようにして“塁の糞”となった」、との説明がありましたが、
正直なところ半信半疑でした。
当時、御前崎の星の糞遺跡からは、神津島から運ばれてきた黒曜石で作った矢じりが大
桑に発抑されていることから、追跡が兵器製造場であったことは間違いないらしい。この
矢じりは交易にもつかわれたであろう。また、魚獲りの魚網に使われたとみられる石錘も
非常に多い。この二つのことから、我が御前崎が縄文の時代7、ら遥かな神津島と交易を行
い、漁業も盛んであったことがわかります。
今回の探検で茅野市尖石縄文考古学館を訪ね、出会ったのが「縄文のビーナス」と r仮
面の女神」でした。私はこの探検隊に参加し、たくさんの遺跡を見て歩きましたが、この
「縄文のビ一一ナス」に出会ったときの感動はなによりも衝撃的で、しばらくの間私の脳裏
からはなれませんでした。この辺から「縄文人たは何だろう」と興味を持ち始め、本など
を買うようになり、正直私の縄文に対する興味は「縄文のビーナス」に出会ったときから
はじまります。「縄文のビーナス」は我々が知っている西洋のビーナス像より遥かに神秘的
であり、祈りが伝わってくることを感じました。縄文人というのは私が想像していたより
も遥かに優れたセンス・感性をもっていることを知りました。
!
2007年1月のセミナーで池谷先生によって「星の糞遺跡」の黒曜石は神津島のものであ
ることが発表された。信州説が常識であった中で、「星の糞遺跡」から出土した黒曜石の9
9%は神津島産と聞いて、隊員は皆驚いた。池谷先生は最もすすんだ年代測定法である「蛍
光エックス線分析装置」を使って証明されたので反論グ余地は少ない。私は先生の著書「黒
潮を渡った黒曜石」に、先生のサインと共に「黒曜石がわかれば縄文時代がわかる」の添
え書きもいただきました。
池谷先生は考古学者として従来の常識を覆すことの快楽をたっぷり味わったのではなか
ろうか。研究者冥利につきるとはこのことかと思います。
私の家は代々漁師で生計をたててきました。私も人生の半分以上は海に関わってきまし
た。黒曜石は神津島から御前崎まで何らかの方法で運ばれていますが、海上から持ち込ま
れたことは間違いないでしょう。神津島から御前崎へというのは、方向としては畳潮に逆
らうことになります。縄文人はどんな船を使って、どのような航法で黒曜石を御前崎まで
運んだのか。何とかして証明してみたいものです。
縄文時代より後世のことになりますが、日本書紀に「軽野」の地名と言葉が出ているそ
うです。「軽野」は「カヌー」と同義語といわれています。茂在寅男先生著「古代日本の航
海術」によれば、カヌーのアウトリガーもカタマランも古くからあったそうです。また「日
本書紀」によれば、伊豆は造船地であり大木の多い天城地方から造船用の木を切り出した
とあります。
狩野川も「軽野=カヌー」に関係していないだろうか。「軽野=カヌー」に関係した名称
が全国に数多くあるそうです。
私は1昨年(2007年)パプアニューギニアに行ってきました。そこで見たのは丸木をく
りぬいて造られたカヌーでした。パプア人の先祖はスンダランド(インドネシア)から渡
ってきたそうです。日本人のルーツのひとつはスンダランドから来たというのが定説にな
りつつあります。おそらく縄文の昔に御前崎∼神津島の交易をおこなった人々もスンダラ
ンド系のモンゴロイドではないかと考えられます。そのような仮説をたてて、パプアニュ
ーギニアあるいはイ/ドネシアの皆さんの協力も頂きながら実証航海をしたいと勝手に夢
をふくらませています。
今回こんなにも胸を高鳴らせ、楽しい夢をみられる探検隊に参加できたことは、素晴ら
しい思い出になりました。今回の参加をきっかけに隊員の皆様とも顔見知りになることが
できました。今までの人間関係のほとんどが仕事がらみであった私にとって、これは非常
に新鮮なことでありました。
編集者からのお詫び:川口さんの原稿には素敵な写真(カラー)が3枚そえられていますが、モ
ノクロのコピーではうまく写りません。次号でカラーページにまとめる予
定です。ご容赦ねがいます。
5
インドネシアからの看護師・介護福祉士受け入れについて
坂本 裕保
イン下ネシアとの経済連携協定(EPA)が今国会で承認され、急激な高齢化で人手不
足が懸念される看護や介護の分野に、インドネシア人看護師が就労できるようになった。
専門的・技術的分野以外で、日本が外国人労働者に本格杓に門戸を開くのは初めてのケ
ースで、7月中には第一陣が来日の予定である。このことに対し、国内の看護師や介護福
祉士の団体は、国内の(有資格者に対する)労働環境の整備が先決だと反対している。
「人手不足だから受け入れるのではない」。
厚生労働省は外国人看護師・介護福祉士のうけいれについて、「あくまでも特例的」と説
明している。労働市場の開放を求めるインドネシア側の要求に基づき、EPAで受け入れ
を盛り込んだことに対応した措置との姿勢だ。
厚労省によると、資格がありながら働いていない潜在看護師が約55万人、潜在介護福
祉士が約20万人いる。厚労省はこうした人材の活用などで人手不足に対応することを考
えており、外国人労働者に頼ることは考えていないという。国内の労働市場はの悪影響を
懸念し、受け入れは2年間で1000人(看護師400人、介護福祉士600人)とおさ
えている。
このプログラムは、日本側は国際厚生事業団が唯一の受け入れ機関であり、インドネシ
ア側はインドネシア海外労働者派遣保護庁(NBPPIW)が日本側の要請により、インドネ
シアの資格を持つ看護師を中心に募集、審査、選考を行う。
今回はジャカルタを中心に500名を募集したよっだが、募集期間が短かっとこともあ
り350名の希望者のみであった。
.選考された者は7月には日本入国の予定であるが、入国後6ケ月の研修を受けなければ
ならない。日本語675時間、習慣適応研修140時間、介護導入研修40時間である。
公表はしていないが、研修機関は(株)ニチイになるようであぞノ。
研修終了後、各受け入れ機関(病院、介護施設等)へ派遣され、3年以上(4年)日本
人と同等の雇用条件で就労し、各年おこなわれる試験をへて、看護師、介護福祉士国家試
験を受け、合格すれば日本で長期就労ができる(但し目的外就労はできない)が、同家試
験に不合格の者は帰国しなければならないようだ。
3年以上の現場での就労は、受け入れ機関(病院、介護施設等)が彼女(彼)たちの世
話をすることになるが、6ケ月の事前研修をへての現場での就労は、苦労の連続ではなか
ろうか。
日本側の受け入れ派遣機関である国際厚生事業団(JICWELS)は、管理者として年1回
の現場訪問を予定しているという。
また、労働条件などの苦情等は、彼女(彼)等自らJICWELSへ連絡しなければならな
いということは、問題になるであろう。彼女達の後方支援をするアドバイザー(相談役)
の必要を感じる。
専門分野の看謹師のハードルは高い。日本語も2級程度を要求され、専門用語も習得し
なければならない。その点、介護福祉士、介護士は比較的容易にクリアできるかもしれな
い。各人の適性で途中でののりかえも考える必要があるかもしれない。
受け入れ側(病院等)の負担金額は下記のとおりで、かなりの負担になっている。受け
入れ側が毎月の給料からこれらの負担金(またはその一部)を天引きしないか監視する必
要もあるだろう。
1.求人申し込み手数料 31,500円 (1受け入れ機関当)
2.斡旋手数料 35,000 (1名当、NBPPIWへ)
3.滞在管理費 21,000 (1名/年、JICWEl−Sへ)
4.日本国内での研修費 360,000 (研修費、移動費、片道航空運賃等)
インドネシア人看護師・介護福祉士の給料についてNBPPIW側は月給175,000円を希
望しているが、日本側は日本人と同等の就労条件を提示しているだけで、明確な金額の提
示はしていない。各受け入れ機関の裁鎚にまかせているようである。
とにかく、専門分野への外国人受け入れがはじまった。日本では多くの製造業の現場で
若年労働力が不足している。外国人労働力に多くを依存することは危険であるが、現実に
彼らを必要とするときが追っていることは間違いない。
しかし日本政府の取り組みは、各省の既得権益の壁にはばまれて遅れている。外国人に
よる犯罪の増加もにらんで、将来に禍根を残すことのないような施策を望みたい。
研修生受け入れ事業について
私、坂本は10年前から北スラウェシの日系人を支援してきました。日本では日系人と
いえばブラジルが一般的でありますが、あえて私は北スラウェシを選びました。
私とインドネシアとの関係は20年以トにおよびます。最初はジャワでチリメンジャコ
の加工をして日本の自社へ輸出していました。また、私の故郷大洗町は、昔、NHKでも
放映されたとおり、外国人不法就労者が多く、そのほとんどは北スラウェシ川身者でした。
その関係で、マナド周辺に戦前から多くの沖縄出身者が定住していたことを知り、彼ら
/7
の苦境を知って、のめりこんでしまいました。
自社の従業員採用については、ブラジルの日系人ならばブローカーにたのめば怖単に片
付くはずでした。しかし、私はあえて北スラウェシの日系人にかかわることを決意しまし
た。手始めに彼ら(北スラウェシの日系人)と面談し、彼等のおかれた立場を確認するこ
とにしました。
北スラウェシでは戦前・戦中にわたって、多くの日本人(ほとんどが沖縄県出身)がカ
ツオ釣り漁業にたずさわっていました。漁業だけでなく、商業、農園を営む者もいました。
その中の数十人は現地女性を妻にむかえ、家庭生活を営みました。
昭和16年の太平洋戦争の開始によって状況は激変し、漁船乗組員のほとんどは軍属と
して現地徴用されました。そして終戦(敗戦)。終戦を待たずに戦死、病死した者もいます
が、生き残った者はビトウンやオーストラリアでの抑留のあと強制的に日本送還となりま
した。
残された妻子は当然ながら生活は困窮し、また、周囲からいじめられる状況もあったよ
うです。
また、北スラウェシでは周知のとおりスラウェシ独立派とスカルノの中央政府との内戦
もあり、混乱が続いたので、身元を紳列する資料もほとんど紛失、あるいは焼失してしま
った。ほとんど資料がないまま、現地在住の妻子の証言をあてにして夫(父親)を探しあ
るくことになりました。
しかし、戦後60年の壁は厚く、「1本(主に沖縄)での一世さがLは困難をきわめまし
た。息子も沖縄に長期滞在させてこの作業にあてました。
その甲斐があってか、ようやく10名ほどの一世の方がみつかりました。所在を確認し
て面会しても、かたくなに関係を否定する者もいましたが、多くの方が喜んでくれました。
このことは思うに、沖机は古くから海外へ飛脚工ている方が多く、快く府外の家族をうけ
いれられる下地があったからではないでしょうか。それでもやはり戦後60年の壁は厚く、
現在、日系人のルーツ捜しは頓挫している状態です。
次の策として、私は北スラウェシの日系人支援を目的としてNPOを立ちあげました。
また、大洗の同業者達と事業協同組合を立ち上げ、研修生受け入れを企画しました。来年
早々には研修生の受け入れが始まる予定です。現在、多くの日系人から研修生の希望が出
ていますが、私としては日系人だけではなく条件さえ満たしていれば一般のインドネシ人
も採用の対象にすべきであると思っています。
ご存知のとおり、日系人の就労そして研修生制度は、「不法滞在」という問題をかかえて
います。とくに北スラウェシ出身者の不法滞在が目立っています。私たち事業者としても
この問題に真剣に取り組まざるを得ません。
日本人会の皆様にはこのような状況をご理解いただき、適切なご指導を切に希望いたし
ます。
外国人船員の日本漁船への乗組∼漁船マルシップ方式について∼
沖縄中央魚類株式会社
マルシップ係 金 城 力 人
1.はじめに・・・外国人漁船員導入の経緯
日本国内での外国人単純労働者の就労を認めないとするのが政府の基本姿勢であり、
日本漁船への外国人船員の乗り組み形態及びその経緯は以下の通りである。
(1)外国人労働者の受け入れに関する政府の方針・・・雇用対策基本計画制定の際の閣
議決定・・・1967年3月14日「現段階において、外国人労働力をとくに受け入れ
る必要はないと考えられ′JJ
(2)すなわち、入管法によって「在留資格」を有する者以外の受け入れは認められてい
ない。1973年及び1976年上記の内容が確認された。
(3)外国メ漁船員の配乗形態と導入時期及びその概要
(》海外基地方式・‥1990年
*本邦以外の地を根拠地として、外国200海里水域及びこれに隣接する水域で操業
する漁船が対象。
*外国人船員は本邦以外の地で乗・下船し、本邦に上陸できない。
*雇用者・・・船主の海外事務所
*外国人の混乗割合・・・定員の40%を超えない。定員8人の場合、外国人3人。
②外国人漁業研修制度・・・1992年
*外国人研修制度(1990年導入)を活用して外国人漁業研修制度を導入
*研修期間1年、.技能実習2年、最長で3年間。
*受け入れ機関は地方公共団体(市町村)に限定され、漁協などの漁業団体は研修生
を受け入れることが出来ない。沖縄県では、那覇市が受け入れ窓口となり沖縄県近海
鮪漁業協同組合が研修実務を担当している。
*研修・特定活動の査証により入国
*雇用主・・・自治体・船主
*外国人の混乗割合・・・定員の50%未満。定員5人の場合、外国人2人。
③商船外航船マルシップ方式・・・1983年
④漁船マルシップ方式・・・1998年
*外航船舶と同様の運行形態をなすもの。すなわち、主として外国200海里水域で
操業し、必要の都度外国の港に寄港する漁船が対象。
*乗員上陸・・・許可
(−1−7
9
*雇用主・・・裸用船先の外国会社
*外国人の混乗割合‥・19トン型定見8人の場合、日本人最低3人。外国人5人。
⑤全国近海かつお・まぐろ漁業協会(以下全近かつ協)所属船の導入‥・2003年
2.海外基地方式における外国人船員の導入の経緯
(1)外国人漁船員労働問題研究会中間報告・・・1989年11月2日
遠洋漁業の雇用情勢、基本的な考え方、外国人船員の受け入れの範囲と方式等につ
いて官労使による研究結果の中間報告がなされた。
(2主海外漁業船員労使協議会(海船協)の設立・・・1990年3月9日
①労働側・全日本海員組合、全国漁船労働組合同盟(1997年8月1日以降漁船同
盟連絡協議会)、使用者側・大日本水産会ほか漁業種別中央漁業団体9団体(1998
年4月1日現在11団体)によって設立。
②海船協の任務・・・外国人船員の受け入れに当たっての諸手続、ならびに外国人船
員の基本的人権の保護、国際基準に基づく労働条件の設定、労働環境の整備等の協議
を行う。
(3)運輸省海上技術安全局船員部長通達・・・1990年3月30日
対象漁船の条件、外国人漁船員の条件について通達される。
3.漁船マルシップ方式導入の経緯
(1)労使間合意・・・1996年8月8日
(む労働側・全日本海員組合と使用者側・全日本水産会の間で「海外貸渡漁船(漁船マ
ルシップ制度)の導入に関する政策基本協定書」に調印。
②労使共同で、水産庁・運輸省に漁船マルシップ方式の導入要望書を捏出。また、法
務省には外国人漁船員の末員上陸の実現についての要望書を提出した。
(2)水産庁
①漁船マルシップ方式の場合は、漁業法に基づく漁業許可や承認等は失効しない。
②漁業法以外の漁業関係法令にも漁船マルシップ方式を制限するものはない。
③労使間合意がなされたことを受与∴ 漁業経営の改善に繋がること、わが国漁業の国際
競争力の保持に繋がること、漁場の確保に繋がること等の判断。
④1997年7月・・・水産政策検討会報告
マルシップ方式の導入が必要であるとした。
(2)運輸省
(》マルシップ方式においては、当該船舶を一時的に外国船杜に貸し出された時点で配乗
権が外国に移っており、外国船社が外国人を乗り組ませることについて、わが国施策の
対象外である。
・2−
柑
(3)法務省
①漁船マルシップ方式を導入することについて、労使間合意がなされた。
②水産庁・運輸省においCも々方式の導入はやむを得ないとの見解が示された。
③法務大臣見解・・・1998年3月13日
漁船マルシップ方式に移行した漁船は、入管法第16条に定める乗員上陸を許可するこ
ととが出来る。
(4)外国人漁船員労働問題研究会 ‥1998年3月30日
漁船マルシップ方式の基本的な方向等について、官公労使が参加して報告書をとりま
とめた
4.漁船マルシップ方式の概要
(1)漁船マルシップ方式とは
①日本船主が、自社所有の日本籍漁船を外国の法人等に裸用船契約(船舶のみを貸し渡
す契約)で貸し出す。
②その際、自社雇用の船舶職員を含む漁船員を配来して貸渡先に派遣する。
③外国の傭船者はその配乗権にもとづいて外国人漁船員を配乗して、乗組員編成を完了
する。
④当該日本船主が定期傭船契約により運行する漁船。
⑤裸傭船契約の日付と定期傭船契約の日付は、同一一年月日であること。
(2)漁船マルシップの対象範囲
漁船マルシップの対象範囲は、下記のいずれにも該当する漁船であること。
①主として外国200海里水域で操業し、必要の都度外国の港に寄港する漁船であるこ
と。外航分野と同様の運航形態をなす漁船であることが大原則である。
②海外漁業船員労使協議会の構成団体に所属する漁船であること。(漁業許可上の仕分
けの絆細は省略)
③全日本海員組合等と労使関係を有する船主が所有する漁船であること。
④日本船主(船舶所有者)と全日本海員組合等との間で、日本人の定員(配乗枠)お
よび外国人漁船員の人数等について合意がなされた漁船であること。
⑤当該日本船主(船舶所有者)と全日本海員組合等との間で、日本人及び外国人漁船員
の労働条件等について合意がなされた漁船であること。
(3)留意事項
(》船内における漁船員相互の融和に一層留意すること。
②外国人漁船員の人権擁護や労働環境の整備に十分注意を払うこと。
③漁船マルシップ方式の導入に伴い日本人漁船員の雇用不安を惹起させないこと。
④外国人漁船員の本邦上陸に際しては法令等の順守徹底をはかること。
一3−
⑤漁獲努力畳の適正管理など漁業秩序を順守すること。
⑥外国人漁船員の本邦内での失踪事件が発生しないようその対策に万全を期すこと。
5.マルシップ漁船(近海マグロ船)の脱船問題・・・読売新聞2007.10.16
(1)マルシップ漁船の隻数等
①隻数・・・全国180隻
②外国人船員・・・約1000人
③外国人失跡音数‥・112人(03・∼07・10・15までの合計)
(2)一失跡者
多くは日本国内に不法残留し、、就労していると見られる。
(3)漁船マルシップ管理委員会の見方
不法残留してより高額な収入を得るため、逃げ出している。
(4)国交省の対応
①マルシップ方式による近海マグロ船の追加申請の自粛を漁業団体に指導
②船員政策練の永松健次課長の談話
脱船を手引きする者もいるようなので、防止対策には警察や入国管理局の協力も必要。
脱船が続く場合、制度廃止も検討する。
6.外国人船員の脱船逃亡問題に対する全近かつ協の対応
全近かつ協は漁船マルシップ移行審査の一時見合わせ、脱船逃亡問題について関係機
関への協力要請、主要地「藍での指導説明会、インドネシア現地でのマニング会社の指導
説明会など脱船逃亡の防止に向けた取り組みを強力にすすめた。全近かつ協がとった対
策の具体例は下記の通りである。
(1)給与待遇の改善・・・2008年1月1日より適用。
(2)脱船逃亡させた漁船に対する自宅的処分の基準の策定
最悪の場合は漁船マルシップの資格喪失など
(3)水揚港における脱船逃亡防止対策の策定
ガードマンの配備(2007.12.25∼2008.1.23)など
気仙沼、塩釜、銚子の3港にガードマンを配備し警戒に当たった。
(4)邦人マンニング会社登録制度の導入
邦人マンニング会社が影響力を行使できない現地船員派遣会社の使用の禁止など
(5)入港時の防止対策強化
7.マルシップ問題に関わっての所感
刺身に代表される日本の食文化を守り近海海まぐろ延縄漁船を存続させるために、漁
一4−
は
船マルシップ方式は大変重要な制度である。外国人船員の脱船逃亡問題の改善がなけれ
ば、全近かつ協の所属船はこのマルシップ制度から撤退せざるを得ない危機的状況であ
る。また前述の主要3港へのガードマン配備は、マルシップ漁船の船主に多大な負担と
なった。脱船逃亡者を出した船主は処分を受けるばかりでなくその対策に翻弄され、船
員補充に多感の出費を強いられることになる。
脱船逃亡防止のために全近かつ協の懸命な取り組みがあり、船主の−一一個の努力が強く
求められることも当然であろう。もー・方、脱船逃亡者にインドネシア人船員が多いことは
インドネシア側のマンニング会社の責任も問われなければならない。脱船逃亡には様々
な理由があろうとも、実際の人選に当たるのは現地マンニング会社であり、上記6一
(4)の一行の特記はこのことを意味している。
国際協力の一一環としてインドネシアから看護師と介護士が入国した。_今後いろいろな
分野で人的交流が促進されることであろう。漁船マルシップ制度についても、これから
いろいろ改善されよりよい制度となるよう関係者の協力と努力が求められる。
現在わが社は邦人マンニング会社としての登録を目指して準備中である。我が社と連
携しているインドネシア現地のマンニング会社には日本人スタッフがおり、日本の文化
の事前指導や労働条件などについてしっかり確認するとともに、厳しい人物評価を基に
人選している。また沖縄においてはインドネシア人大学生を通訳者として、インドネシ
ア人船員と船主及び我が社担当者との間の意思の疎通に努めるとともに、船員の悩みの
相談や船内生活問題の放り上げに努力している。漁業者の安定経営と沖縄の水産業の発
展のために、そしてインドネシア人船員との良好な共働を通して日本とインドネシアの
友好親善のために社をあげて微力を尽くしたいと考えている。
2008年9月5日
*参考文献
1.漁船マルシップ方式の概要と手続き
2003年11月 海外漁業船員労使協議会、漁船マルシップ管理委員会
2.全回近海かつお・まぐろ榔菜協会の指導説明会資料
3.読売新聞・・・2001.10.16
−5_
/3
:巌蹄
わが国の外国人就労の現状と在留資格制度
出人膚曽糧濃が規定する外属人の在留資格は、
鷹刺として鼻体的な義務内容を特定して認め
与れている●
このうち、載労が嘗められているものにはr人
文知輸・鱒帥軋(通釈など)、醜(エンジニ
アなど)、伽行目故事など)、個胤粥浸入など)、
r教雷J(攣我の脾救鯖など)をほじれ1胡讐頬
がリストアップされている。これらは「高度人材」(薫
れ・技輔車)は受け入れ、r撫鈍労鵬曹Jは入れな
いという鴎の度刑に興らせば、前書に相当する義
大学や嘉技で学ぶ留学や銀章資格の外国人は、地
方入国管理局から「資格外活動」の許可を得てア
ルバイトができる。飲食店鼻などのサービス鴬で
偉く例が多い。
披光や商用をはじめとした「短斯群山(最大餅)
日)などの貰格で入国し、在留期材を超えてとど
まる不法残留者も1γ万人余りいる.ただ、その数は、
合法的な就労の筒口の広がりと取り締まりの強化
により、大幅な減少が練いている。
暑jh
一九二後作義鼻などの車繊労義春と 主春在留責槽と登録者数(2006奪栗)
して偉いている外事人には、無期限の在 戴労目的の在留資格 就労できれ1在留資格
人 文 知 1像・国 語 徽 精 57 .
323
留資格を得ているr永住者」のほか、海
技 術 35 ,
13 5
外に移住した日系人の支族や子孫(日系 興 行 2 1.
06 2
17 .
86 9
2世、31出などの柑本人のだ偶春等」 技 樅 企
蠍
内
転
勤
1
4
.
0
14
陳住讐」といった賃格の人が含まれる。
赦 す 9,
5 11
これらの資格には活劇の制限がないた
教 授 8.
52 5
め、どんな義義でも遭ぶことができる。 捜 貰 ・経 営 7.
34 2
日系人を主な対象とした2つの資格は 瘍 教 4,
65 4
特定活動 97
研
究
2
.
3
32
1卯年の法改正で漸せされ、実質的に
46 2
身分に凛づく在暫賛格
彙蠣隈の外毘人車純労愴着の受け入れに 芸 禰 報 道 27 3
特 別 永 住讐
443 ,
044
道を闊いたとの批判もある.
法論 ・
会 計 集 積 14 1
・
4 枚永 住曹
3
9
4
.
4
77
さらに1年関の研鯵複、2年肩の就労 直 積 13 8
定住着
:
託蛤,
836
釧臥められるr技能寓曹生」も工場など
日本 人の配偶 着 尊
2 60 .
9 55
憎く場合が多い.これは、法務大雷が
170.839
永 住 着 の糾 着 蠍
12 .
89 7
偶々の外電人について判断するr特定活 (漁)書は資格外活きの柵可モ樽て7ルノ1イトが町嘘、不法揖曾着は外車入費緻肴に含ま
れない
軸の賛様で戴労が陣められる.ただ、 く血糖)鎗書省入庫曽種題
覇鯵欺筒中の労嶋に対する手嶺は最低賃
国憲調外国人類菅敷く2008露天)(人)
金法の保疇対象とならなかっか上賃金
未払いなどの軌が横行するなど、
途上国への横縞移檻という本来の趣層か
らかけ薫れた、安価な労偉力として利用
されている実態が明らかとなり、政府内
で割度の見直しが糠鎗されている。
ちなみにフィリピンやインドネシアと
の筒で織結した経済連携協定(EPA)
により、勅後に来日が見込まれる看護
節や介匂l橿社士の榊菅も、特定活動で
#労が詳められることになる.このほか、
!斗
囲サービス鯛開放提言柵え・
配瞑、.受l 掠.
ー‘
.
,
‘
Mロ ケ
乾す
高.度技能も実現
今の制度では途上胞の 今後派別な人草不足が予 年間が﹁技能実習﹂とさ
外国人が最埜三年間、日 想される介護などのサー れる。研修の間は仮に現
本の企躾で鋤きながら技 ビス分野で外国人研修生 場で飽いても労働法制の
能を茸できる。途上国 を積極的に転用すること 対象外で、この間は企業
への技術移転が目的だ が必喪だと判断しち
が研修生を否ヨに低い手
が、製遠などでは研修
また今の制度のもとで 当で鋤かせるような事例
い技能を学ぶための再研修を認める制度の劇取を捷某。賃金面などで研修生の権利を保護すること
も求めた。制−最革を巡って靡生労働省と経済葉省が対立し、見証しが空ない現状を改軋受
案を発表した。介榎などサービス分野の焚け入れを促すとともに、主に製遁美で現行制度よりも高
政府の経済財政諮問金線の照査会は二十一日、蕊l人が日本で拳ぷ研修・技能塞弾制度の見直し
諮問会議湘査会
れ、ナ串が製遺業だ。急
一考現行制度は前半
速に高齢化が握ぢなか、 の一年間が﹁研修﹂、ニ
ただ安倍章二首相が辞
して聖葉の現場では研
修生が責量な働き手とな 任を決めたため、狙い通
っている現状を踏まえた りに具体化が進むかば不
聾省は受け入れの拡大 透明。鯛査企業は相聞合
を摩損した敬草案を示 繊の韻で議論し、決定す
るのが普通の流れだが、
終閉会誰の綱査会は受 政席の混乱で蹄閉会譲の
し、対立している。
の着地点が見えにくい輝
状に誓かけている。.
開会櫓の茸下は繍輸
つつサトビス分野で目新
しさを示したものの、鰐
代尚宏国際基督教大教 の創設を提案。現行制度 間は最低雷金が保証され することでは厚労省の汽 属脚線員の八代氏が交代
授︶が発讃した輩某で 勤夢毒の研修後、一 るようにする.
兄をほげそのまま採り入
す
る可能性すらある。
は、新たに介硬や書経な 度婦均して母国に技術を
同制度を巡っては庫労 れ、﹁双方の良い点を採
外国人研修生の受け入
どサービス分野への研修 伝えることを条件に、改 等が制度を器用する企業 り入れたj︵八代金華。
れは日本経団連も十八日
生受け入れを打ち出し めてより水準の高い二年 晶楓祝し、研膝生をす 行き陪まった議論を打開
に巌官を公司労働界を
ち雲間制度の対象
間
の
研
修
を
受
け
ら
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る
よ
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て
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制
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す
る
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さ
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る
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含めて意見は乱立気味。
は六十二の載積に限ら うにする。
改革茶壷藁。これに対 と壷っている。
照査会某童某を示し
にもなってtJ。
国人が、さらに上の資格 め晒立会は三年間をすべ け入れの拡大で綴産省に 日程が決まらない。新し
膳間会議の労働市塊改 を目指す場合にも受け入 て労働法制の対象とする 近い撮言をする一方、労 い首相が民間議員の人選
革専門調査会︵会長・八 れる﹁高脛技能笑智制空 よう要請。働いている期 鋤法制の適用期間を拡大 を見直せば、調査会長で
生が現場爪融亀な働き辛 技能検定の資格を簿た外 か続出している。このた
現行 の 制度 研 修 1 年 、技 能 個 別器 妾 で 檻 悪 条件 で外 国人を
巽周 2 年 の!
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持
も 2年
大論」 に理 縛
け入れを拡充することを目指している。
外国人研修・技能実習制度、各省の見直し案
とする外国人問題プロジェクト
チーム︵PT︶を発足させた。
夏までに提言をまとめようと、
だが、政府か現在、外成人労
重な姿勢を保ってきた。
中でも厚生労働省は、﹁鴎内
団体の代表らと議論をまねる。
会長の中川氏は﹁人口が紙少す
私案の柱は、専門的・技術的
るなか、移民育成型の社会は、
分野以外の外国人労働着を受け
選択の余地がないr21世紀の日 入れる﹁短期外国人就労創虔j
本の遥−だjと害い切る。
の導入だ。毎年の受け入れ人数
一方、昨年5月、法相時代に に上限を設け︰在留期間も3年
外国人受け入れ私案を打ち出し 限定で再入国は認めない.長勢
9日の経済財政諮問会議では、
毎週、塁庁の鴇ヨ着霊界
室。森喜朗元首相や中川秀宰冗
党幹事長ら有力議員が名を連ね
る﹁自宅貞外国人材交流推進議
員連盟J一重細入︶のメンバー
が虜をそろえ、6月に政府に捷
出する提宮の骨格をまとめた。
た長勢高遠衆院議員も、私案の
実現に向けて鋤き始めた。首相
薯﹁安い労働力を多
は、海外からの人材受け入れ以
直轄の自民党国家戦略本部のも
外にない﹂と断音。単純労働者 とに、今年1月、自らをトップ
を含む外国人の定住を前捷に、
複数省庁にまたがる外国人政策
をr移民庁﹂に統一、今線房謹
間で人口の10%を移民が占める
れる﹁藩用詐可制度﹂の耳に
部︶と惧奉冤
純労働者の流入には﹁穀争力が
弄い産業まで温存される一義
だが、庄簡管理に責任を苧∵
法務笛は反省だけしていろ.空
にはいかな.㍉っある幹部は二や
態として外固′の労働差付?
日本が成り立たない中で、鯖碗
労働者魔人の珊れは変わら㌢
だろう。彼らを悪用させす
っかりした管理体制を琴ヰラー
とが大的歴だこ﹂話す。
実際、最近の法務省の敷き
は、外国人の大農流入を見学・
た準備のようにもみえる。
・鳩山藩の私的懇談会﹁出入
国管理政策懇談会﹂は3月末、
く学に入れたいというなら間趣
の情報を顔写真付きカードに集
市町村が把握する住所の情報と
入国管趨局が管理する在蒼
だjと主饗受け入れに伴う教
育や治安などの社会的コストが
9日の記者会見で鳩山法相は
﹁究極的には移民の議論にな
る。移民政策をとるのか、とら
約し、法務首で一元骨聾するよ
う提音。同省は経書をもとに、
入管法改正案を来年の通常国会
に捷出する方針だ。実現すれば
不法滞在者の判別などに効果が
期待できる。
大き過ぎるとし、国内の非正規
労働者や女性、高齢者の雇用を
優先すべきだと訴えた。厚労省
は、インドネシアなどからの看
護師・介護士侯補の受け入れ
も、経済連携協定︵EPA︶に
墓つく例外措置と位置つける。
経済牽某省も、外国人労働者 ないのか、数年以内に結論を出
の受け入れには前向きだが、単 すべきでしょう﹂と明言した。
で、労働者がブローカーらに払
ない。日本も実態を直視し、正
法務省の動きや、与党内で活 り、機械産業や繊継産業では欠 関に限定して年間の受け入れ人 ら4年弱で、国内労働市場への
気つく単純労働着受け入れ輸の かせない労働力だ。しかも、そ 数に上限を設定。韓国人向けに 影響もまだ評価が難しい。
背景には、少子化による労働力 の劣悪な労働環境が国会で間超 求人を出しても求扱者がいなか
一方で、制度の導入を磯に外
人口の減少に加え、単純労働に になり、政府内では来年の通常 った登是け、外国人を雇える 国人の人権が政治媒慮となり、
従事する外国人がすでに急増し 国会に向けて制度の見直し輸議 仕組みだ。
処
遇を改きするための外国人基
ている実態がある。
が
進
ん
で
い
る
。
韓
国
の
外
国
人
政
兼
に
詳
し
い
中
本法の制定や、永住外国人への
参政権の付与につながった。宜
氏はr見て見ぬふりでは前進し
堀絹鯛佃野辱
内容は、衝撃的だ。﹁人口減
少社会の日本の危機を救うに
やっていくJと話した。
氏はaO日の会合後、﹁党内には
移住を求める人もいるが、私の
PTでは、移住とは切り離して
働者として公式に受け入れてい
るのは、大学数疫や医師、スポ
ーツ選手ら専門的・片棒的分野
に限られる。それ以外の蝕納労
働者の受け入れには一貫して慎
政府は慎重姿勢
移民 扇譲靖に合意されたモ適量†∵志諸
や法務省によると日本でも正英達哉
はない。例えは昆際多生餞測霊一連
常の居住地以外の霞に移動し、クー守くと.㌔∴r善
間その国に居住する人一ととらえて∵Q:三宮一
本では、ある程度長期にわたって定住する芝a人
を指し、留学生や短期の就労目的の外画人は除く
地合が多い。自民党内などの議論でもr竺豊前
提としない長期の労働者や、白本人の配偶者を持
つ永住者ら﹂を想定しているようだ。
受け入れ論加速
迫紘轄畢て汀二王告∵一︷竺r︰恒
る。︵市川渠亜予感間大介、事案浩幸︶
算的な塾純労地毛である研修・技能実
習生や日系人が急増している牢乎こあ
っ。活発な受︸入れ論の背き三 男
論を急ぐ堅忍市警㍑略悌登論㌔ニ二
董巌空士﹂三葦毛啓三宣三∴遠
入れ論が努一モ増してきた。賓帖吉烹
外国人単純労働者
今月15日、自民党本部の一 r多民族社会﹂を目指す−。
めっき工場で働くフィ し
ピン人の重能実習王ら・=ご
愛知県薫、岩下薮遼影
腋内で自由に就労できる日系
同じような状況だった韓犀は 央大学兼任講師の宣冗錫氏によ
人らは∞年規定、10.年前より14
04年8月、単純労働者を受昏入 ると、公的機桝が仲介するの
万人多い訂万人︵厚労省推計︶.
接
竣碑3
自民内に移民案・
♂才.末2/ 嘉jI鋤観望可
聞
新
堺絆午
=鵜飼啓︼米国務省は
たにもかかわらず、不法労働の有罪確
定は過去2庄間で2件しかなかったと
紹介。人身塑買撲滅への取り組みで評
師した.4分類で、日本を上から2番目
′し
接研修・実習の外国人
受け入れ団仕
′る
許可制導入へ
坤
ク
クー
低賃金労働や搾取が問雷
されている﹁外国人研修・技
能者制度﹂をめぐり、厚生
労働省は13日、研修生の受け
入れ団体に対し許可制を導入
する方針を決めたH同日まと
まった有識者研究会の最終報
告に盛り込まれた.這労省は
法務得などと協l漉し、来任の
通常国会へ提出が予定されて
いる出入国管理法改正案に盛
り込みたい考えだ.
鞄蕪受け入れ川体になる
には入国管理局による書類審
査がある㌢けい受け入れ団体
の義に不仁な搾取を行うケ
ースもみられることから、厚
労省などによる許可制への変
更を目指す。制度が低賃金労
働者の確保に利用されている
との批判を受け、実習の実効
性豊岡めるため、技能検定3
級レベル以上の受験の義務つ
けも検討q.合格率の高い企業
には受け入れ枠拡大などの優
遇静思を諦じる。
Jf7
のランクに入れた。
人道目的以外の援助停止など制裁の
﹁第2段階要監視リスト﹂に入れヤひ
を指摘し、下から2番首のランクの
や性産業への従事を迫られていること
北朝鮮から脱出した人たちが強制労働
北朝鮮など14カ国4中国に関しては、
可能性がある﹁最低ランク﹂の国には、
人身売黄報告書
小目発表した世界の人身売買について
の年次報告著で日本の外国人研修・実
習制度に触れ、不正瀞用や賃金未払い
が伝えられているとして﹁政府の法執
行の意藩欠如が深刻﹂と指摘した。
報告青は、労働基準局が外国人研修
・実習制度にからみ、06年に1209
件以上の労働関連の法律違反を認定し
「処罰の意志欠く」
冒謂誓詞離 ∫
整鮎怒髪堅趣警讐
Jクりザ////ワ
マルシッフ資格の剥奪も
の対策に盛り込んだ。
入港時対読こしては、
﹁︵入港時留外部との接
触が脱胎・塾﹂につなが
っている芸多く、外
部との誓謡刀減らす
ことが声として、対
応が可能な漁準︵市場︶
では、船の沖留め、ガー
ドマンなど見張りの配
備、外出時の日本人の同
た漁船に対する対応策も
厳格化する。.具体的な罰
則壷丁は今後桔めていく
ことになるが、﹁脱胎・
逃妄茅曲した船はマル
シップの資格剥奪もあり
う淫という厳しい措置
になる見通しだ。いずれ
の対策もすでに国交省、
水産庁には報告済みで、
会岸に対しても周知徹底
壁廃甲嶺亡者を出さ
窮警描開醜
行する者かいると原因と れまでと翠わらないが、
Cや
厳しい措置導入へ
来年1月1日付毒を改定する︰
全近か.つ協・が対策∴
要 る こ と で 対 応 試し最低賃金を月額7万 るか、所属船に対しては
し、そのほセロ本で対応 円監引き上げる。
徹底指導していく﹂と結
できる部分について今回
脱胎・逃亡を発生させ している9
盛り込んだ。入港時対策はすでに実施への準備に入っており、待遇改善と自主処分は 寧分析。穣借犯につ 乗船経験1年以上の者に ないにしなければならな
いては、雇用現地での審 は、金日本海患雪嶺 い。厳しい措置も含まれ
者窓甲した船に対しては、マルシップ漁船の資格の剥︵はく︶鷲を含む厳しい措置も
まとめた。対策には、入港停泊時の見張り︵ガードマン︶の配備のはか、腕船・逃亡
全近かつ協は脱胎・逃 等 L 済 臭 挙 る 。
を囲っている。
今年8月玖降﹂マルシップ方式の近海マグロ漁船から外国人栗鼠鼻の脱船・逃亡が
一方、外聞−人乗組員の
全近かつ協の納富善裕
相次いだことを受け、全国近海かつお・まぐろ漁業協会︵全近かつ協、丸山英満会長︶ 亡について、最初から劇
船・逃亡鷺目的に乗船す 不満を解潜する措置とし 専務は﹁会の漁業にとっ
は10月31日までに、①入港時対警︻人乗組員の待葺船・逃亡があった漁
る穣借犯のほか、由に乗 て、.給与待遇も改善。未
船に対する自主的処分の基準化−を柱とする、外国人乗組員の脱胎・逃亡防止対策を
りながら企てる者、給与 経験者に対する月額最低
・㌧環境に対する不満で実 賃 金 6 万 1 0 0 0 円 は こ していくためにも、これ
亡
臥車 匝逃
外
柚
この頃は沖縄のローカル紙「琉球新報」(平成20年12月9日)に掲載さ
れたレポートです。沖純大学は平成20年度に創立50周年を迎えました
が、その記念行事の一環として、韓国、スリランカ、インドネシアに学生
のスタディーツアーを実施しました。インドネシア班は引率の教授1名に
学生5名(大学院生1名)という構成で9月7日から15日まで、主にト
モホンのタマシロ家を拠点にして主に水産業関連の見学を行いました。
沖縄大学スタディーツアー報告
法経学部3年 宜野座 剛
現在、インドネシア北スラウェシ州マナド周辺に沖縄県人をルーツとする5世までの
県系人が数百人定着している。11町は糸満や本部などの出身で、追い込み網やカツオ釣
り漁業、カツオブシ製造業に従事し、現地に根をおろしていったという。
今回は北スラウェシ州のトモホンにあるタマシロさん宅でお世話になったのだが、私
たちが一番驚かされたのが食文化である。バリ経由でマナドへ行くためデンパサール空
港に到着した際、その地域をアピールしたポスターが張り=されていた。
犬、コウモリ、サル、ネズミ、蛇、魚、豚などがのっていた。現地の言葉を読めない
わたしたちは当然、現地の動物を守るためのポスターのたぐいだと思っていた。しかし、
マナドで最初の夕食にでた「黒い物体Jに私たちは衝撃を受ける。味はおいしかったの
だが、黒い物体はなんとこうもりだという。異は魚の皮、身はチキンの味そのものであ
った。
他にも現地ではニシキヘビも食べた。空港に張ってあったポスターは、全部現地の食
べ物であったのだ。沖縄でも廿は蛇、火、コウモリ、ねずみは食べる機会があったらし
い。昔の沖縄を体験できたという意味では肯巾な体験であった。
ひとつ残念なのは、日本はダシ文化だがインドネシアは調味料文化で、基本的に味付
けは辛いわけで素材本来の妹を堪能できなかった点である。
ツアーの目的である水産関係晦設の見学とあわせて、日本人墓地の慰霊祭に参加し、
現地の食材で作ったかまぼこを配った。インドネシアの海は沖縄とほとんど変わらず、
現地のグルクン(タカサゴノ で魚ハンバーグ風のカマボコを作ることができた。カマボ
も
コは現地にないものであったが、若いひとには好評であった。
文化の共通点が「食」以外のにもあり、インドネシアと沖縄は似ている点が多いこと
を実感した。
インドネノアと日本・沖縄は昔から喋いつながりが存在するのだ。これほどまでにつ
ながりのあるインドネシアのことを沖縄側はもっと知らなければならない、伝えていか
なくてはならないと感じた10日間であった。
1
19
ビトウンに眠る沖縄漁業者へ(慰霊の辞)
鵬程万里の地、インドネシア国ビトウン市のカナナアン峠に眠る沖縄ウミンチュの御霊
に、古里の沖縄から沖縄の漁業者を代表して慰霊の辞をおくります。
皆様のふるさと沖縄では今、各地で豊年祭や若者たちによる勇壮なエイサーの踊りが練
り歩き、村々に三線の音が響いております。皆様がふるさとを離れ遠くビトウンに渡られ
てから70年余の歳月を経たかと思いますが、遊び戯れた懐かしいあの山や川、▼海辺の姿
は昔とそれほど変わることなく、みなさんの喩に刻み込まれたままに残っているのが多い
かと思います。
しかしながらく 今の沖縄の漁業のすがたを見ると、皆さんが潜って獲っていた魚や貝な
ど、あの豊かな資源は年々減り、昔とは大きく変わりつつあります。また、昔を語るウミ
ンチュも年々少なくなり一抹の寂しさを感じます。
ところで、歴史はくり返すといわれておりますが、皆さんが漁業に夢を抱き、沖縄ウミ
ンチュここにありと活躍し、セレべス島はじめ南の島々で築いてきた漁業の歴史が、今、
振り返られつつあります。
今回、沖縄大学の学生諸君が、先人の残した偉業を学び、これからの沖縄の漁業になん
らかの道を開きたいとして北スラウェシを訪れております。今回は初回でもあり、直ちに
なんらかの方途を見つけるのは難しいかと思いますが、これを機会に、漁業に限ることな
くいろいろな交流を通じて沖縄とインドネシアの間に新しい紳が築かれ、相互発展の足が
かりになるのではないかと、大きな期待を寄せているものであります。
南海に羽ばたいた皆様の心意気が今の若者達にも受け継がれて、沖縄の漁業にも新しい
息吹を与えられるように、ビトウンに眠る皆様の御加護をお願いするしだいです。
合掌
平成20年9月11日
沖縄県漁業振興基金理事長 糸満盛健
20
慰霊祭の挨拶
この遠きインドネシアの地において、若い学生と共に皆さんの慰霊祭に参加できる幸せ
をかんじています。
日本とインドネシアは1958年に外交が開始されてから今年で50周年、「日本インド
ネシア友好年」という記念すべき年をむかえました。
わが沖縄大学も今年で創立50周年をむかえましたが、インドネシアとの不思成なご縁
を感じます。
ところがここメナドと沖縄との関係はもっと古くからあり、糸満の」功励む(たましろと
く)率いる追い込み網グループか約92年前に当地で操業したことが記録にのこされてい
ます。
現にこの地において祖先を日本人とする多数の方々が活躍しています。この地に永眠さ
れた皆様にとっても、このように現在活躍している方々をみることは、誇らしいことだと
思います。
日本の若い学生が、この地で活躍されたみなさんと対面することは、単に慰霊の意味だ
けではなく、日本とインドネシアの應史を学ぶことでもあり、今後の「ll仙司の友好につなが
ることでもあります。歴史は大きな財産ですが、それを今後に活かせるかどうかで評価も
かわります。皆さんの業績を後世にどのように伝えるか。この地に眠る皆さんの意味をも
っと真剣に考えたいと思います。
どうぞ安らかににお休みください。
平成20年9月11日
沖縄大学法経学部教授 上田不二夫
ヱ!
l t M叫1F・霊票:;慧豊慧霊:NARARYA LT ̄ ̄ ̄1一
インドネシアよ永遠なれ
NegaralndonesiaberIangsurigterUSkearahmamur
1989年4月7日
Ap州7,bh川1988
一i\与.
▼
:金子智ナ氏の受章を祝う食
ヽ
t
5
21
ヨギ・スバルディ駐日インドネシア共和国大使閣下より授賞さる。
(1988年9月14日 東京・インドネシア大使館にて)
番号 4769/Uり1988
勲 記
インドネシア共和国大統額は
氏 名 金 子 智
授 職 財団法人日本インドネシア協会理事
に対し、功労勲章ナラリヤNararyaを指輿する
本叙勲は、1963年第5号法律に碁きインドネシア共和固政府
との友好関係緊密化に降し、インドネシア国家及び民族に対し、
多大かる貢献をされたことを評価してなされたものである
(KEPPRES.R.1.No.050/TK!TA11t:Nlt)舶l
ジー甘食ルタ 1988..乱17
イン軒孝シア八個日月大総織
署 名
ス ハ ル ト
23
ご受章を祝って
叙勲を視して
末 次 一郎
わが同志金子さんが、こげたび栄誉あるナ
わが敬愛する金子智一先生が、このたびイ
うりヤ勲章を受章されたことは、わがことの
ンドネシアの撮高勲章を受ホされた。仲間の
一・・人として、こんなに嬉しいことはない。こ
ように嬉しく、インドネシア共和同を代表す
るスハルト大統領閣下に、心から敬意を表す
るものである。
の栄誉に対して、心からお祝いを申し上げた
い。
金子さんが、インドネシアの独立運動′こ挺
戦後、ユース・ホステル運動に熱心にとり
身協力されたということは、金了・さ/の知人
くみ、また、近年は日本歩け歩け協会の会長
達はよく話してくれるが本人自身はあまり語
として「歩け運動」の普及、振興に大きな役割
を果してこられたことは良く知られているが、
積 ろうとしない0それが今回の受章で、インド
ネシア側がいかに高く評価していたかが実証
余丁・先牛のインドネシアに対する貢献は、そ
れよりもはるかに長く、深い。
されたもので、まことに喜ばしい。
その金子さんが、前ぶれもなくインドネシ
戦時中、インドネシア独立を臼ざす青年層
ア人をよく連れてくる。それが実に優秀な人
の指導にあたられて以来、戦後、そして今日
達で、インドネシアばかりでなく、アジアを、
に圭るまで、いっときも絶えることなく一黙
世界を、どうしようかという人達である。、そ
して、インドネシアのために、liUJLてこられ
れが何十年とつづいている。,この人脈はまこ
たのである。
金子先生は心身共にまだお若い。叩二界も、
とに貴重なものである。
金子さんは、まさしく「】イのかけの架け橋
アジアも人きな曲り角に立った今日、インド
として、今まで以上に、今後ますますご活躍
ネシアのために、口・イ関係のために、愈々
あらんことを、祈念するものである。
(元内閣総理大臣)
のご梢進とご活躍を祈念してやまやい。
(舶青少年育成国民会議副会長)
金子智一氏の受章を祝う会 発起人会
恍嶺藤深内崎次橋井谷山島崎
欄稲伊井橡芝末高玉中永水宮
表員
代委
親 犬 元内閣総理火臣
▼・郎 日本インドネシア友好団体協議会会長
牧 夫 朝日カルチャーセンター埋事長
大 (杜)青少年育成国民会議会長
義 雄 (財川本ユース・ホステル協会会長
亨 埼二1潮来帆=市有長
一 郎 (財)育青協会理事長
武 平 (杜)日本歩け歩け協会副会長
顕 冶 著術業
武 一世 日本アラブ協会会長
武 臣 (財)東京都ユース・ホステル協会会長
廣 雄 そごう(株)社長
輝 旭化成上薬(株)会長
山 u 敏 夫 衆議院議員
渡 辺 美智雄 (財)日本インドネシア協会会長
世話団体 日本インドネシア友好団体協議会
(財)日本ユース・ホステル協会
(祉)日 本 歩 け 歩 け 協 会
(社)青 少 年育 成 国 民 会 議
今もふりかえる。アブドルファミッド、イシャ
アンシアリー、タスマット・タバールや了l)ムti
トポなどの同志連や、市来龍努、り浴義男、吾住
留五郎、柳川宗成、此間尿判など、蝕、1軌11て戦
死したり、イ国儀勇雛を育てるなど、日イの架け
橋となって、今は亡い仲間たち・あげ;まじめると
きりがない。
「インドネシアの栄えよ、永読なれIと祈りなが
らlあなた達に代って受呈;′tLました」と、雲の彼方
に合掌するユ
私にとって、インドネシアは、すでに第二の机
国である。オランダから完全に独立し、39年前
の1950年9月29日剛射二加配した。日本の5倍
の広さをもち、人目は=敗7丁・ソ1をこえ、地下寮
源はもとより、几ゆるでf源に忠まれた、明日の位
人なl叫家として、アセアンでいよいよ重きをなす
叙勲に感動して
であろう。Flイの関係は、より緊密にしなければ
ならない。それには、政1台や軽湘関係の強化とと
金 子 智 一
もに、より文化的に、より人間的に「心と心」を結
TOMOKAZUKANEKO
び、信頼を深めることが絶対に必要である。その
栄誉あるナラリヤ勲章を、スハルト大統領制下
−一端に余生を志したい。
に代り、ヨギ・スバルデイ駐日大使閣下から、 ̄首
曽って350年有余の支配者で、独立斗争の相手
にかけてもらった時、思わず感動の涙があふれた。
でもあったオランダは、現在はインドネシアを蝦
顧りみれば、47年前、陸軍報道班員として徴
も良く理解する協プJ国家に変り、lGGl(インドネ
用をうけ、南方に出発。昭和17年3月Il]未明、
シア情撤回会議)の分場岱与国でもある。そのオ
ジャワ畠西部、バンタム湾で[欄海軍の交戦とな
ランダ国ナイメ一一へン面内に、社ト欄三人Ll本射ナ
り、乗船さくら九は魚雷をうけて沈没、危うく上
射ナ協会がlW友好の碑」を、平成元年7月に組、招 ̄
陸。
る。
その日から約5年、ジャ式日レタとパンドゥンで
】!)75年以来、串けオリンピックと受榊される
ナイメーヘンの聞l日嗣J・進国際大会に辿桃参加し、
宣伝報道の什掛こついたが、日本は戦中に敗れ、
聯合軍のポツダム宣言を受諾した昭和20年8月
大歓迎をうけ、友好の実をあげ、わが東松11川iを
15日の2日後の17日、インドネシア民族の名に
中心の日本スリーーデーマーサは、その射ナオリン
おいて、スカルノとハッタが連名で独立を宣言し、
ピックに学んで発足したものである。
オランダとの激烈な独立斗争時代に入った。イン
35年前の1954年、独仏にはさまれたザールラ
ドネシアの若い仲間の志士連は轍起した。文字通
ンドでの国際ユース・ホステル連盟総会で、加盟
り起居を狛こした独立の意欲に燃える昔年達。街
をりlL込んだわが日本ユー・ス・ホステル協会を最
を焦土とし「ハローハローーバンドゥン……」と歌い
ながら独立へ戦いつづけた苗′.売。
その青年達とあまりにも近すぎたとして聯合軍
によりジャカルタのグルトック刑務所に昭和は1
年1月収容され、約1年後出所。奇しくも22年
2月2日、宇品に上陸復員。原子爆弾で廃墟となっ
た広島の惨状を見ながら、よくも生きて帰れたも
の、と痛感。
その後、賠償閉塞の解決や、賠償留学年の壮語、
9.30事件後のスハルト新政権への1㌢力、ポロプ
ドール修復事業への募金活動などで、微力を志し
た。
も支持応援してくれたのは、連盟会長でオランダ
人のレオ・メーリンク氏で、恩粗を越えた声援で
あった。
世界は動いている。ものごとは移り変る。それ
にしても、敵対園としたオランダと今は友好の輪
をひろげ、歩けオリンピックには、来る7月、第
12回目の参加をし、インドネシアの独立記念口
8月17日には、ナラリヤ勲章を楓用し、第16回
日の参加をナ定している。何という人生の編譲で
あり、不思議さであろう。そして心の奥底から祈
りつづける−一画界は平和であって欲しい、と。
ユ㌻
インドネシア
独立運動秘話
評論家村上 素
今年九月、二人の日本人
がインドネシア政府からナ
ラリア勲車を受車した。一
人は黛讐郎氏︵前参議院
識貝、現在、琉球石油会長、
ASEAN協会会長︶、も
う一人は金子智l−氏︵㈲日
本・インドネシア協会常栴
理事、日本・インドネシア
友好団体協議会専梼理事、
評論家 村上 薫
るように多くの日本人が、
った日本は、今や世界最大
の焼け跡の中から立ち上が
開されている。一方、敗戦
の僻権国となり、その一挙
文字どおり身体を張ってイ
きたからであ
ンドネシア独立に協力して
手一投足は世界の注目の的
本人の心に〝傲︵おご︶り″
経済大国になった途端、日
になっている。ところが、
る。
本籍を軋れ、
このほか日
独立戦争に参
区が石百人を
はスマトラ地
がチヤホヤされるのは、ず
まっている。海外で日本人
周辺諸国に対日不信感が高
加した日本兵 が生じ、アメリカやアジア
超え、ジャバ
島 で 約 三 百 ばりいってカネだけが目当
かに先撃切
は日本兵がい
が、このこと
べき戦死率だ
のぼる。能く
数は四百人に
に対する日本の認識の欠卯
本の行動であり、その行竹
の最大の理由が、戦前の日
れているとはいい難い。そ
日本は、近隣諸国から好か
であるが、その伝でいけば
国をどれだけ持っているか
免れる一つの尺度が、友好
国家が国際的に孤立化を
て尊敬されていない。
人、このうち てであり、心の中では決し
連合軍との戦
って勇敢に戦
いで戦死した
ったかを示し
にある。
﹁日本はアジアで真の友
ている。
人を一人も持っていない。
日本人はアジアを一段低く
だと、西独のシュミット前
見て威張り過ぎているから
首相も辛らつな批判を行っ
26
日本歩け歩け協会会長︶で
あ
る
▼
.
・
.
ナラリア勲章はインドネ
シアの独立と復興、発展の
ため尽力した人に与えられ
る最高の巣苦で、これまで
この動串をもらった日本人
は前田棉海軍少将︵ジャカ
ルタ海軍武宮府長官、死
本橋では金子氏らの証言
ている。日本が〝経済大圏″
去︶、濁杉晋一︵海外経済
を基に、当時、多くの名も
から〝尊敬される園″へ変
移所に約一年間も投獄され
なき日本人が、いかにイン
身するためにはどうあらね
いた。そして翌十七口午前
侵略戦亀としてとかく悪
ドネシアの独立のため生命
ばならぬか−それを解く
協力基金総裁、故人︶、清
評轟き太平洋戦争ではある
を投げ出して闘ったか、そ
カギを、インドネシア独立
水斉︵陸軍報道班員︶、小
が、その中にあって東南ア
の当時の模様を掘り起こし
連動に挺︵てい︶身した日
てしまったのである。
だがその陰で、相窄金子
ジア、とりわけインドネシ
てみることとする。
本人たちが提供してくれる
十時、スカルノは全インド
氏らは、インドネシア独立
アが戦時中から戦後、そし
現在、米国ではP・ケネ
ネシア民族待望の独立冒膏
日本が降伏した翌日の一
故人︶民ら四人だけである。
を支援したとして、翌年一
て今日に至るまで、一貫し
はずである。
笠公紹︵日本・インドネシ
九四五年八月十六日、前田
月︵金子氏︶と三月︵稲嶺
ディ教授の﹁大国の興亡﹂
を発表した。
少将の官部内でスカルノ、
をめぐって激しい論争が展
独立貫首の起草に当たって
ア協会会長、元参議院議員、
ハッタ等独立の闘士たちが 氏︶が、それぞれ英軍に逮捕
て親日的な態度をとり続け
日本への信頼勝ち取る
ているのは、両氏に示され
稲嶺一郎氏(左、と金子智一氏こジャカルタ
大紡頭割竹廓で
され、ジャカルタ市内の刑
●10
全子コレクションより
百余聾の大輸送船相に分
乗した今村均大将率いろ第
十六軍がジャワ上埋作磯だ
開始したのは昭椚十L隼一
月一日、主力は西軍ンヤワ
のバンタム湾に上時した
が、バクビヤ沖海戦レ遍ば
れる夜戦が行われ、今村軍
司令官は重油の海を泳い
で、七日にジャカルタに頂
入、九日オランダ軍が正式
に降伏した。
評論家 村上
●2・、
インドネシア独立宣言11945年8月17日1
の地の記念碑と金子智一氏
こ、彗干、至 習三つ正賓、一
芸、考楽家の飯田信夫、朽
戸畢登琵琶運軒家の清水
た
る
オ
ラ
ン
ダ
の
支
配
を
、
同
二
一
呈
・
警
告
一
け
る
ナ
こ
土
亘
る
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こ
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三
軍
二
二
二
軍
声
な
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迎
宝
斉
た
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達
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を
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則
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拠
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、
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を
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る
と
と
も
に
、
・
三
雲
蔓
運動が発案され、当時、民
藤信英、苫住鰐五郎︵戦死︶、
少将と、そのスタッフの佐
に起用され
が中央本部長
たスカルノ氏
人気が高かっ
々は学生時代のマルク下﹁
動を姦し左二しれらの人
軍と違った立場から椴立運
は・﹁独立塾﹂を設置し、陸
ことは、東京
立旗を掲げる
と、紅白の独
歌を歌うこ
り上げ、昭和十八年上り、
ネシア人指導者の建白を取
に深い理解を示し、インド
原田熊吉司令官も独立僅勅
に転任し、新左に着圧しだ
今村軍司命日がラバウル
義者が多かっ左
の統帥部の方
めたへ二大甲貴人で粍輿
郷士防衛義勇華の景画と︹
時には六上し王制、二り㌧
針の安寧で、
るを等なかっ
TA︵ペウノ.し呼ばれだ苑
.儀の兵力がありに。P上
勇軍は独立戦争のす戦力
千人に達し、駐封じ本草の
は墜羞与え
た、フィリピ
るが、インド
マル副大統領なごちペタ山tJ
で、現スハ牛ト大統領、ウ
身者であり、これを育てた
睡軍中野学校出鼻の柳用宗
戌ぺ封は埋草の父と呼ばれ
一ヒ太軍がノ∵/Fス、ンアに
ている−
甲二義高のプレゼント
宣ぺクのほか農業その他
芦\こてよこう\!ノ㍉、
〒−こたこ完儀、領こち︶
校に力を入れたことであ
ヾき、一丁語き、一望幸二.︶当
﹁√を教育し憲し・二、イン
氏との連絡係だった清水斉
一一㌧、きミミ星空等た∵モネ
続言責ううえで、どれだ
ドネシア民族が追立の意思
計り知れない。
二言﹁三重運動一へアジア
H二三一三﹁一吾二二三.
光・E本、アジアの増二ヒ
へ這尊書二三一、てい、▼二
るよう這与ったl一スカルノ る。このことが讐㌧イン
ネシアの心ある人々と交わ
班長はじめ市来穐男氏︵戦 各種学校を造って青年約十
この軍の方針に町田宣伝
領にするというのである、.
として荘吊し、E右の直轄
軍の兵姑基地
テンアほ南下
ンとビ几マに
途中でやめざ
しかし建立
た。
として民衆に 西嶋重忠、小林良正氏など
族運動指導者
住民から熱狂的な歓迎
作戦に成功
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この時バンタム湾の泊地
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が、陸軍報道班員として雑
誌記者から徴用された金子
氏で、仲間には評論家の大
宅壮lて預野晃、作家の富
竜一、寺号舅、誇・ハのト、て登一、、
ヨ竿一≡篭等華空警戒
わせていた。宣伝班長の町
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ぶ ∵ − + ∴
戦局の悪化に伴い東条苗
明で、インドネシアが政治
参与を認められたのは、敗
戦の前牢、禦㌍九竺ハ日
のことである。サイパン島
が陶落し、東条に代わった
小磯首相が初めて﹁近い将
来、蘭領発印度に独立を認
める﹂と七月の第八十五南
国議会で声明した。文字ど
評論家 村上︰ 儀
うになったが、そこで発見
信じて戦っている。しかし、 契機に歴史に興味を持つよ
独立というものは、他人か
い﹂−−そん
港を奪取、さらにインドを
国が阿片戦争を仕掛けて香
ら与えられるものではな したのはアジアにおいて英
な話をしてい
許せないという思いがつの
侵略したことです。これは
り、中学を卒嚢するころ、
るうちに、い
周辺に染まっ
なんとしてでも乗印度諸国
つのまにやら
てくる若者が
十人、二十人 の独立に芋を貸したいとい
それから京都で学び、作
た。
と次第に増え う思いが胸の中でわいてい
はじめた。
元々、金子
氏は山形県の 家の合田百三先生から教え
涛﹄という名の雑誌に﹃民
族の盛衰史か文化の向上
を受けたが、会田先生が﹃怒
更か﹄という論文を発表さ
が、この荘内
という所は昭
荘内地身だ
和の思想家、
つある。多分、南方で作戦
れた ー いま世界は動きっ
が開始されることになるか
大川周明、天
た石原葉蘭中
イギリスに代わって日本
才的軍人だっ
将のほか、幕
末には清川八
民族がただ学えたり衰えた
りするだけだ一リそれではい
が、同じように支配すれば、
もしれない。そのさい単に
郎を輩出して
いる土地柄で
けない。あくまで文化の向
上史で、東南アジア諸民族
が礫痺地になる思想運動の
清、日露の両戦役を撃っな
代化を達成するまでに、日
本も明治維新から今日の近
う米国の文豪が描いた南北
戦争のころの小説を読んだ
クル・トムス・ケビンとい
二年生の昭和四年冬、アン
ある。﹁たまたま旧制中学
の論文である。
時の軍国主義的風潮の中に
い、という内容だった。当
いうものでなくてはならな
備調査会が発足
中心地だった。赴任しなの
ど大変な苦労を積み重ねて
に独立を与え、解放すると
ィリピンから沖縄に迫って
は昭和十八年からだが、当
きた。しかし国民は一致団
は、同じアジア人である諸
て、こんなことが許されて
入していったのは当然すぎ
て盛立運動の同志として突
売られていくくだりを見 年たちから信頼され、やが
_ユiニ
おり持ちに待った声明であ
った。その窮輿シhカル
タに中央参議鍔が設置さ
れ、州長官など餌要ポスト
にインド、アンア人が登用さ
れ、建立準備調葎責が策定
した。遅まきながらインド
、テンアは、ここにようやく
独立に向け歩みはじめに。l
きた。ビルマのインパール
時、マスコミはすべて検閲
君たちをオランダの鎖から
いいのか、と夜通し泣きな
こうした思いを抱いた金
ちに、いつとはなしに彼ら
がら読みふけった。これを る成り行きであった。
が、その中に黒人が牛馬と
ヾンに転勤していた。バン
も心を開き、擁立の頗望を
解放するためであり、私た
子氏が、インドネシアの青
ドンは西部ジャワの七百㍍
ちは皆、この戦争を聖戦と
同じく競市︵せりいち︶で
の高原にある爽︵そう︶涼
それに対し金子氏は、﹁日
訴えるようになっていた。
結して、耐え抜いてきた。
地。工科大学もあり、何か
日太軍がここへ来ているの
問題が起こるといつもここ
者たちと付き合っているう
あって、これは痛烈な警世
ろだ。当時、金子陸軍報道 制だったので、地元の新聞、
作戦が失敗したのもそのこ
が、その間、戦局はさら
金子氏の下に若者集う
班員はジャカルタからバン・ 放送、演劇関係の若手の記
に厳しくなり、連合軍はフ
バンドン市の中央にある軍宣伝班支部
民族擁立をめざす金子氏
と同志のインドネシア胃牢
たちにとって、この上もな
い強力な援軍が現れたの
は、柊戦前の年の昭和十九
牢十月のことだった。西部
ジャワ旅団長として馬渕逸
雄少将がバンドンに赴任し
てきたのである。
﹁当時のことですから赴
評論家 村上 頗
櫓してもらいたい﹂
氏宅からすぐ前のジ山リ作
当日、馬渕旅用尺は金子
︵金子氏︶。
なく、下士官、
馬渕旅団長は将校だけで
すき焼きパーティ︰に出醸
の青年たちニ.、四上人との
した。金子氏が﹁皆かわい
戦記念館に出かけ、一㍉∵代
人、中国人と
い子供たちです﹂と紹介す
兵、さらにイ
も埴恒酌に話
ンドネ,ンア
し合いの場を
んだ。だが、それ以上に肯
持とうと試み ると、馬渕将軍は非常に喜
た。赴任後間
年たちだった。まきかバン
もなく副官を んだのはインドネシアの青
通じ呼び出さ
ドン地区の頃高の□本軍司
に、馬渕少将 令官から、やさしく声をか
れた金子氏
る。それがインドネシア独
てもいなかったからであ
はこう切り出 ・けられるなどだれ一人考え
﹁これから
立運動の青年たちと馬渕将
した。
民心把握のた
そのうち戦局はますます
軍の最初の出会いだったHU
ならない。つ
金子氏の属するパンドン報
苛︵か︶烈になってきた。
めいろいろ勉
いては当地で
放送を皆、聞いていた。こ
道部は、たまたま世界中の
強しなくては
私が会ってお
れはジャワではここだけだ
くべき人がい
ったJフバウルの戦況も時
々刻々入っており、わりあ
﹁民心把壁しそ大望諸
い正確に戦況判断できる立
いた。そのころ、尾崎士郎
き会い頂いていた。当時、
とは違っていた。それは、司
きた馬渕少将は普選の将軍
のバンドンでは、民心把握
いけない。占領地であるこ
新旅団長として赴任して ある己かし、それだけでは
介します、と答えました﹂−
ださい。私の子供たちを紹
服でなく平服でいらしてく
ます。ついてはその時、軍
こで〇日、拙宅でお待ちし
になってきた﹂︵金子氏︶。
さにそういう切迫した状況
喝、太平洋戦争の戦局はま
−−昭和二十年に入った途
ななければならないのか
おれもこの青年たちと一緒
﹁私はこの言葉を聞いて 態になってきた。いよいよ
﹁これは容易ならざる事
場だった。
にいたのか﹄、﹃また後で﹄
先生の椙介で馬渕さんにお
感激した。普通の軍人はそ
を、君、紹介してくれ給え﹂
﹃きっと来いよhI本当に
君は軍事能力向上のためい
馬渕さんは、有名な元大
本営報道部轟ですが、中佐
私は陸軍画報・編集丘で、
この点について今後十分配
今部で幕僚を前に行った新 こそ何よりも大切である。
のころ乗京でじっ憩におつ
毎月、報道部から企画を蹄
任あいさつにも端的に表れ
さ ︵金子氏︶へノ
目にかかり、憾人的にも兄
るだろう。そういった人々
馬渕少将がバンドン赴任
劇的な出会いでした。
ている。
把握こそ大
馬渕逸雄少将
まれ次々と特集をこなして
二?
任は秘密で、まさか馬渕さ
た。新しい旅団長が赴圧し
んとは夢にも思わなかっ
てこられるというのでバン
ドン空啓まで迎えにいっ
た。飛行機から降り立った
旅団長をひょっと見ると馬
渕さんだった。思わず﹃閣
●4、′
んなこと言いませんよ。そ に、このバンドン地区で死
下!トと叫ぶと、﹃書しこ
′b
ろいろ尽くしてくれてい
民
貴のようにつき合ってい
・’メ 「
る。もちろんそれも重要じ
畢㌢
戦局も押し詰まった昭和
一︰十竺三㌢ペンドン地区
の青年たちの二人のリーグ
、Iが金子氏を訪れ、1全国
から青年同志を集め、独立
運動決起の大会を開きた
い。ついてはその会場を賃
してもらいたい﹂と申し込
んできた。
当時、日本軍はインドネ
ネシアが政治的に独立をか
軍総司皆は八月十一日、ス
た。これを受けた寺内南方
会を設けることを決定し
に刺激され、﹁仮にインド め、ジャワに独立準備委員
ちとっても、経済的独立が
カルノ、ハッタ氏らをサイ
彼らは八月十四日年後ジ
なければ責の
ャカルタに帰国したが、翌
ゴンに招き、この方針を直
して経済的自
﹁五日、日本は運命の敗戦
独立はあり得
立をかちとる
を迎え六一その冶秦、スカ
接伝えた。
かl㍗をテーマ
ルノ\ハック両氏は予定を
次は﹃いかに
に仝インドネ
早め、十七日独三雲mを党
ない。そこで
シア経済人太
葬したり場所はジャカルタ
指導者としてスカルノ、ハ
だが、金子氏は全くひるま
厳しい取り調べを受りる1
ぴたされ、憲兵塚艮荘々に
ともこの時は軍政部に届け ればならない。そのため絶
深くうなずいていた。もっ
感銘を与え、スカルノ氏も 八日軍︵英、蘭軍︶を迎え撃ち、
約百五十人の経済人に深い るためには上陸してくる運
た協同組合編は、参如しに はない′。責の煉立を達成す
評論家 村上
ンの県長都の
宗を、バンド
宣言文が読み上げられ、
紅白のメラ・プティの民媒
市内のスカルノ邸だった。
旗がするすると福摂され、
広間で開催し
してほしい﹂、
民族歌﹁インドネシア・う
たいので協力
という要請が
ヤ﹂が歌い出されると、列
は皆、感涙にむせんだっ三
あった。もち
眉五十年の植民地支配から
席したインドネシアの人々
緒戦直前の
ろん金子氏は
L円、経済の
インドネシア民族にとっ
説する建立竃含丁−それは
快謁した。
権威、ハッタ
て、まさに世紀の感動であ
博士が提案し
もちろんそれだけで本当
ったのだ。
ッタ両氏を正式に確認する
ない。むしろ運に、老兵隊
られ、ジャカしタの軍政監 対に再びオランダの支配を
に独立が保障されたわけで
とともに、出酷した習紅た
長が自宅にオランダ人女性
た。
柑
シア国司の垣会結社、致治
活動は一切撰止しており、
無断で強行すれば厳罰が待
っていた。彼らに対し金子
氏は﹁わかった㌧ただしこ
れは垣対秘密だよ﹂と承諾、
自分が管理票任吾となって
いる作戦記念館を会場とし
この結架、同軍五月、全
て鎖すことに同意した。
年がバンドンに集合。独立
ちはバンドンから戻ると各
を弓に輿■六.た問題を
国から総勢的百二十人の酉
について熱烈に討議した。
地区で活発な報告会を聞い
に索部室全項こ独立を認
の最高戦争指導会議はつい
そしてヒ月十七E、東京 いはすさまじいものがあっ
に立ち上がったが、その勢
一人が派週されてきた。
話からE本人オブザーバ、︰ 許すなと全民族が独立闘争
アンカタン・′一タの或功
た
.
.
り、金子氏は帰宅を許され
村誉k反撃にはたため、憲
しかし軍政当局の許可を
兵隊最に急におとなしくな
得ず青年たちに会場を提供
っていっだハ、
称﹁アンカタン・ムダ︵青
した金子三は、善美塚に坪
.三の壌選が無テ、/憲よま
年隊︶大会﹂と呼ばれてい
その反撃は大きかった。通
る二の大会亮、望†垂動の
き曇∵た圭一でれごりレに
実力で独立をかちとらなけ
ジャフ軍竣順間中、このよ
た一リその積雪全島的に強
昭和20年8月に独立宣言
は警﹂も先にもこの時一同
●5ご)
うな政治集会が開かれたの
アンカタン・ムダ大会の会場となっナこ元イソ
ヲ・ホテル。当時のジャワ作戦記念館と館長
であった金子智一氏
⋮二壱予
当時、独立戦争のため一
斉鋒︵ほう︶転したインド
ネシア剛は、バンドン市問
辺を包囲し、封鎖作戦をと
りつつあった。通行が自由
なのは、市と飛行場を結ぶ
入り口ただ一カ所だけ。そ
の他の出入り口は、義勇軍
が防衛線を築き、厳重な監
緊迫した中で〝﹁閂十日
視の臼を光らせていた。
事件″が発生したっインド
ネシア側は独立闘争のため
に武器が要る。日本側にく
れと頼んでも、連合軍から
インドネシアに武器譲渡を
禁じられているロ本間は、
要求に応じるわけにいかな
い.そこでやむを得ず日本
評論貢 村上 発
隊である。戦車を先頭にし
だった。当時
いていた。
じゅんじゅんとその男に説
だろう。私も君の立場だっ
﹁たしかに武器がほしい
の模様を金子
氏に語っても
らおう。
に入ろうとし
たま旅団長室
月九日、たま
件〟前日の十
がら、われわれの武器は、理
得する方法もある。残念な
的な信頼を高め、認証を椎
政治闘争や外交手段で間際
立をかちとる方策として、
い。戦争によらなくても独
への道は武力だけではな
た私は、あた
会軍命令で誰︵だれ︶にも
たら要求する。しかし独立
りの空気を圧
− それは
して怒鳴り散
っている。これが戦争に由
渡してはいけないことにな
〝十月十日事
らしているィ
その辺を分かってもらいた
れた口本の悲しい立場だ
ンドネシア語
に耳をすまし
石頭。わから
けたからといって義理壬L
一イギリスやアメリカに負
それに対して、その男は
い﹂
た。
ずや、大馬鹿
L、武器を彼らに渡す必要
′ ﹁日本人の
︵ばか︶者!
は大馬鹿ものさ。われわれ
はないじゃないかr R本軍
この道理がわ
はほほ一
に武器をくれないで敵のオ
ランダ人に渡そうとしてい
る′U何が閣下程、馬現の石
頭!﹂と怒鳴り散らし、局
た
、
し
からんのか﹂
場所柄もわきまえず怒鳴
﹁おい柳川、お前だました
後に柳川大尉に向かって
あり、ヨ本軍と撃ち今つ気
シア側も目的は武器獲得に
発砲する。一方、インド、ネ
ない一しやむなく登に向けて
ドネシア義勇軍と戦う気は
昨日までの友軍であるイン
守偏している日本兵も、
はいえ日本軍は本格的な軍
事行動を導﹂した。敗軍と
日本軍は連合軍の命令で軍
察隊良だった。やむを得ず
たのはスゴノという特別警
とだった。飛行場を占領し
行場を占領してしまったこ
要な通臍であるバンドン飛
って哲郎ジャカルタとの重
将兵に行ってきた訓示であ
将が旅団長就任以来、部隊
ている﹂ −これは馬渕少
人を味方にするよりまさっ
従腹背のインドネシア人百
人心を獲得することは、面
するインドネシア人一人の
﹁異にインドネシアを愛
の柳川宗成大尉と通訳の中
︵千田商会︶、それに親友
野田大尉、通訳の松村さん
ると馬渕将軍のはか副官の
ア人を囲んでいた。よく見
なって、一人のインドネシ
人ぐらいの人たちがまるく
扉をあけると、そこには五
めつきそって部屋を出た。
てだったっ私は見送りのた
んなに元気のいい人は初め
人は顔見知りだったが、こ
区の主だったインド未、ンア
していた関係から、この地
杓四年間、バンドンに勤務
な﹂と怒って時を立った、。
たヨ本兵の姿を見て、イン
庫を無い、武器、弾粟を手
っている男は一体何物か?
はない。しかし、それでも
した。
わが方に若干の犠牲が出
義困ったことは、イン
に入れようとしたのである。 ド、ネシア側が、連合軍にと ドネシア側は飛行場を放棄
いぶかりながら私がそっと
軍の兵器契しょう︶や増哀
連合軍の命令に従う
JJ
評論家 村上 蔑
ては命が危ないと考えた
だった。このまま黙ってい
いっぱい食ったと感じたス
んと言ってくれず、柳川に
軍に会ったが、なかなかう
て司令部に乗り込み馬渕将
ーその結果、車に同乗し
柳川完成大尉は陸軍中野学
彼は、中島通訳を使って強
ゴノ氏がかんかんに怒って
わからぬ激動のまっただ中
校出身で、ジャワ作戦の初
引に、﹁武器が大電に欲し
部屋に戻った私は事情の
めオランダ軍司令官官邸に
くはないか﹂とそこのスゴ
に会ってくれ。彼なら話は かった。スゴノ氏が帰った
はなかったからである。
心情をそれとなく伝え、彼
イスをすすめ、馬渕将軍の
氏に面会した。私は丁重に
いていたある日、野田副官
ネシア青年たちを通じて留
が無事でいることをインド
そうした緊張の日々が続
め、スゴノ氏
収容後二週間を過ぎたこ
守宅に報告させた。
が私を呼び止
が捕まっぢ﹂
とを教えてく
が出た。周辺には﹁枝は二
れた。それに ろ、馬渕将軍から釈放命令
ノ氏が日本軍 度も飛行場を占領した。連
よれば、スゴ
いう意見も出たが、馬渕将
に捕まったの 合軍に引き渡すべきだ﹂と
は、再び飛行
軍はそれを抑えた。
収容されている問にいろ
場奪還にきた
しい立場を説明。最後にイ
いろ考えたのだろう。スゴ
四、五口前で、
ンドネシアが立派な独立国
ノ氏はおとなしく馬渕将軍
になってほしい、貴君の健
現任司令部の
スゴノ氏に日
軍の意向は、
闘を祈る、と結んだ。スゴ
の前に殿を下ろした。それ
本人の真貴を
ノ氏は連合軍に引き渡せば
地下室に監禁
わかってもら
に対し篤渕将軍は口本の苦
うため、しば
う。しかし馬渕将軍はそれ
当然死刑になっていただろ
されていると
らくそこで休
いう。馬渕将
んでもらうと
帰りの車も準備されてい
をしなかった。
た。そこにはアジア人とし
ての魂と魂の交流があっ
司令部へ行こう。もちろん
く。おれを信頼して一緒に
り出した。しかしこの軍事
襲撃中の諸施設の奪直に乗
ンドネシア側が奪ったり、
買ってきて取調室でスゴノ
れ﹂という。早速、果物を ながら見送った。
ノ君を優遇してやってく ろ姿を、私たちは手を振り
j2
L陛随h匡私の璃友、
単身変装して乗り込み、降
滞っていったのが、事のて
それにしてもスゴノ氏は
ノ特別警察隊長に持ちかけり
すごい男だった。インドネ
伏を皇めさせた豪胆な男と
たが、相手が有名な柳川大
んまつである′−
尉に間違いないことがわか
たっはじめは半官半堵だっ
ドネシア義勇軍の生みの領
シアでこれほど豪胆な男
して有名だが、同時にイン
として知られていた。
ると、話に乗ってきたっ
その役が運格のためジャ
日の夜明け、日本軍は行動
を、それまで見たことがな
わかるし、実権も持ってい
を開始し、拉立にはやるイ
﹁そのためには馬渕閣下
生まれの中島通訳を連れて
る。同道して行けば話はつ
カルタから、インドネシア
ンに入るというところで検
スゴノ氏博通 した馬渕将渾
出発した。まもなくバンド
問に引っかかり、警察に収
容されてしまった。相手は
特別蟄察隊だった。捕らえ
た柳川大尉であることなど
君の安全は保障する。おれ
行動はあっけなく終わっ
た。何度もお礼を言いなが
知るはずがない。それに、
た。お互いに本気で撃っ気
ら去っていくスゴノ氏の後
どんなに昨日までインドネ
ても、何の意味もないよ﹂
をこのままぶち込んでおい
馬渕将軍に会うと﹁スゴ
シアのため尽くしてきてい
いうことだった。
ても、今日はどう変わるか
た側は、彼が義勇軍を作っ
日本の苦しい立場説明
こ、空から英軍機が軍lだ
込んで〓思つくかつかね闇
た竺民が、華地区になだれ
二号善∴重さ豪雪舅ナ▼
南地区に移動せよ﹂との命
令を発した。ところが、着
し、﹁十二時間以内に全員
住むインドネシア人に対
ていたが、英軍は北地区に
の中央に鉄道があり、それ
を境に、衝は南北に分かれ
底弾圧を加えた。バンドン
加え、これに対し英軍は徹
シアの独立闘争は激しさを
それから半月、インドネ
﹁私の宣伝部にいた風聞
に走った﹂こ量一等‡D。
でも壷でも何回となく連絡
打ちした、、そのつどらは夜
て空迄芸、主︼三言壬
﹁金子君、すぐ連中に嬰つせ
それに対し、馬汎将軍は
てきた。
の道案内をせよ﹂と命令し.
落を攻撃する。ついてはそ
に、﹁わが軍は明日cc部
そのため連合軍は日本軍
軍施設に逃げ込んでくる。
びながらオランダ人が日本
︰りるゲリラ作戦で、泣き叫
火炎ビンを白人宅に投げつ
和二十一年一月二日、高井
百人はいたはずである。昭
ドン地区だけでも、ざっと
者が段々等えてきた。バン
こ貢㌧、聖二鞍手に二たる
人の中からインドネシア剛
そのころになると、日本
のです﹂ ︵金子氏︶
に合わず、途中で絶命した
で病院に駆けつけたが、間
た私は彼を抱きかかえ、車
と考え、服毒した。発見し
り、戦犯として処刑される
ダ人をなくったことがあ
していた木戸君は、オラン
る前、捕虜収容所の監守を
インドネシア名を名乗っ
勇敢に戦い、勇名をはせた。
た。それから四日後、スゴ ほかにも市来龍男、苫住留
いたが、彼らは惜しくも戦
ノ氏と会ったのが、私たち 五郎氏など勇敢な日本人が
にとって最後
死した。
ノさんは一度日本に行っ
さんらに会うなり、﹁スゴ
ブデイマン・高井は、馬渕
の別れとなっ
ら、金子は、イ
た。運合軍か
ンドネシア独
たいと口くせのように呂っ
立運動を支捜 て、ぜひ貴書方にお食いし
している疑い
容されたから
の刑務所に収
てジャカルタ
が、残念ながら戦病死した。
独立戦争を戦っていました
ラバヤ地区の司令官として
最後は陸軍少将になり、ス
がある、とし ていました。スゴノさんは、
である﹂ へ金
しかし、最後まで墳君のこ
そして、日本に絶対的な后
いつも涙ぐんでいました。
とを語っており、その時は
子氏︶
は流れ、イン
萄空軍三∴≒ここ二三一
かくて歳月
〓そ撃ち芸
ドネシアは独
えた。
ったわれわれは、今の世で
インドネシアの独立を祈
リ、二八五〇
五年︶九コ㌧
は再び会えなくなってしま
坑︵昭和二十
六十番目の国
っ
た
。
しかし、ベンド、ノで毀れ
連加盟国にな
合った魂と魂は、時間と空
軍芸貰、E太とインドネ
﹁高井君は、そのヨからス
匡革盃杭として掟重要事を
r,モっ窯は、インド、スシア
・高井が初めて日本に帰国
二一三二三、一ニンマ、/
華声差のであった。
ら、馬渕、金子氏らは尊く
ニノマン・葛学芸芋こ芯・
シア両民族を強く結ぶ心の
ンドえシアに撃たれて電
こ、もう丁、考撃て∵て
ゴノ三がつ蔓くれた〝ブ
懸け橋となったことを、プ
賑考自殺した大声君が、私
テノマン壷愛㌃という
J j
評論家 村上 薦
ロケットによる無差別攻撃
受二一∵っ男がヨ去軍を轟
ご有子.ノ、㌘多!
独立戦争へ日本人も参加
君が〝十弓十三事隼.でイ
空間声︺たっ
送ご土手ち翠乗 金子
氏らは義唱に嬰ス、挙︵こ
ぶ.ご空慧巧しめ、望毒
まる英軍の懲撃を巨撃して
、て二・号は、芸重吉ろてこ
〇三一︼乃土で更㌧二つもこ
っ
た
。
収容所から出てきたオラン
ら﹂ろでした。冒芸芦h冥
撃.︶た。それを受け入れた
ダ人、誓弓人が竿∼てい
へり達\ご/三である、.
阜云看た空夢三年た。
いたっそれに対し、インド
1950年9片に国連加盟
′1t一一一 一
′ヽ − こかれh−r
_ YL4
、.‘こ
 ̄ぺ’.r
_ ヽ −
こき
馬潮将軍らのアジア人と
アジア人の魂の交流は、ビ
ルマ独立運動の志士との闇
にも行われた。金子氏に当
るへU
時を語ってもらうこととす
I土手一年几目、緒戦
処理に追われ、あわただし
い毎日が続いていたある
日、バンドンの宣伝部に五
評論家 村ヒ 素
収容計L芭跡赦された五万
た直萌〓ノ乞たまLLLを
人近くのオランダ人がうよ していた。奥さんと子供四
った。馬渕将軍は二台の東
従者のラトン氏と近藤氏だ
うよしていたし、華僑も多 人で、その一人ほ乳飲児で、
マ人をかくま
い。そのような中で、ビル
部ジャワなら
しかし、中
を贈った。精一杯の心尽く
のほか、持てるだけの衣料
⋮本、ダイヤモンド、軍票
うのは難しいJ 瑠車を準備し、金の延べ棒
白人の目が少
しであった。
〓打を送り出して∴日
駆けつけると、げっそりし
くれと伝言があった。早速
日、馬渕将軍からすぐ来て
ないから安全
だろう。さい
鮎嫡
魂瑚酎
特殊部隊︵米
終戦のため拠点を引き払っ
の、柳川大尉の上作地区も
た。話を聞くと、せっかく
サラテガまで行ったもの
各地区にイ胃 た近藤さん一行八人がい
国のCIAの
勤務隊という
ようなもの︶
中野ンヤワの れた人物にも会えなかっ
複九百キつを夜どおし飲まず
る自信がなかったので、往
て㌧㌶雲冨こ霜さ.、≡1︷
至∵若き曇、チ\つ一二∵
萌、巳本革がインパール作
としては環後の円い㌃しなる
〓こ そ∴㌧−′.空∴−一首
竺云東雲.・笹一コ.∵l・ごりる
ら英軍に捕らえられ、対日
で、烹C等㌢㌃すく土筆し
三㌢李三二㌔︺票う
でも英軍によ二義装解除
.∵十㌢..小.▼r.≡妄二誓言
垂三宝㌔一バー.弔う軍︶
.小麦一壷萌した。
三∴て英芳㌢モ七草ト
至芸壷二当.γ崩、払刀
家をかく亭つことになり、
葺.一▼\そこ一∵・テ主一
イ弓動頸課乃一−苧聖毒も
一ヽ ’
を作っており、 て他へ移っており、紹介さ
のサラテガに
マゲラン近く た。どう考えても隠れきれ
も超薫がある
亘ち一㌧窮ヨ 嘉剖一芸へても
い
う
H
J
l・というので、 会わずで引き返してきたと
切り大尉を呼
∴▼︶い、三∴で電熊した婆毎、
バンドンから北東三十㌔の
雲三二土筆−.一ドきた.
く喜ご一つ﹁ノアと÷つヨ
重を襲った。そんな中であ
一.去一三ノ牽軍学竺−−.、ノ.、
ても、つう二・一〓二㌢.?キ
軍服でなく、開襟シャツ姿
ビル、マ.の指
折にチポタスという在寮が
内至心、E革軍に局後まで
義を貫き、豆㌻三雲孝一 、ノ享主去声薫≒、よ
二三リ.け、ニー、こ、デ
出る村がある。その近くに
睾ノ一丁、〇三三品三
うこ/\二、㌧つ三号である。
采、反英拉壬運転手毎藷さ
一﹂こ
ユ.
J T
十年配の綽十示訪ねてき
た′ l二大きりで議したいと
いうので別芳﹂濁すと、ポ
ケットから遠の手紙を善
し山㌣︶た。萄方総軍の増野
冒琶参謀桑警宗佐の誓書
だった一Jあわてて封を男る
±一号室毒す毒二重奏壷
三莞Y雪二こ号 すべて遥こ
帝王から苛いてくれ。生命
曇りで寄みます一と∵つ文
屋野上﹁γか′き、三﹁
キ柔い一/.∵二㌧ア\つ窄
一三=喜べ−、ニ:∴ィ・∴︼
ぴ、筍合を頼んだ。
一∵∵妻っ丁、﹃ 二、.う
善書で、三や三 亨二手J︰.
イン盟だった、−
二.テ芋⊇牢宇ミニ二ノ
三軍ニ⊥リ﹁二㌔昌一甲早
三二二二−
れていたシンガヂ・ルに棄
一≒三二三≡エ二一二単
・、≡こ∵よ、ぢl宝二T、宗
撃軋、ヒルマは英国債だ
て∴てこ︰、≡エ一芸蔓
票料壷喜ゴミ、ごて ︶
二掌二義手書音
ニー.﹁二主要−.直二二r︸
三㌢三一二二、二〇喜一ユ 声学﹂苧∵﹁.天空誓蟻.一
二三戸′、∵ノ.、二三二、\
ニー芋等二、¥≒‡与、√
ニ享真一二ノア﹂竺云董−﹂
面だった。
独立運動で投獄30余回
二:﹂・ 二毒二 二
タキン・バ・セイン氏(右から2人日)
要一こ、 ÷一隻辛〒
●9ニ
臨.1、‘.、_,t「
オランダ軍と交戦状態に入
がそれを許さなくなった。
問したが、バンドンの状況
まきれて山奥の隠れ家を慰
その後二、三度、やみに
いたが、そんなある日、ク
をしらみつぶしに捜索して
た英軍グルカ兵部隊が民家
に対し掃討作戦を行ってい
う夜襲をかけてくる。それ
ンドネシア側がしょっちゅ
ったので、既述のようにイ
し、用意された飛行機でビ
君の協力を得たい﹂とだま
たい。それについてぜひ負
り、なんとか立派に再建し
禍で荒廃してしまってお
ルマの人間だ。ビルマは戦
と旅団長に会い、﹁私はビ
C
O
l
●
ったインドネシア凧が街角
評論家 村上 薫
に検問所を作り、インドネ
ン氏は、さすがに役者が一
それに対し応対したタキ
ている容疑で英軍に逮捕さ
ドネシア独立運動を支援し
実は当時、金子氏はイン
ルマに帰国した。
を禁止したからだ。そのた
枚も二枚も上だった。彼は
乱の中で、タキン氏のこと
は屈辱的条件だとして拒
は準えず心の隅にかかり続 否、ウー・ソ氏とともに調
すべもなく過 後ビルマ政界で内紛が導﹂
けながら、その消息を知る 印を断って帰国した。その
ってきな二
する情報が入
が起き、バ・セイン氏は容
た。その間、共産党の反乱
四八年まで収容されてい
ン氏は容疑をかけられ一九
ソー⊥派に暗殺され、タキ
九四七年ビル
疑が晴れて釈放されると直
り、オン・サン氏はウー・
マがいよいよ
ちにビルマ民主連盟を褐織
ぎていたが、
英国から独立
し、政界に返り咲いた。
やがて彼に関
り、時のアト
無事に帰還していた近播
することにな
リー英首相相
手に最後の条 さんに連絡してタキン氏に
件交渉を行う 日本に来てもらうことにな
日を迎えた。十一年ぶりの
一年︶十月二日ついにその
べく三人のビ り、一九五六年︵昭和三十
ルマ代表がロ
ったが、オン 再会だった。一馬渕将軍、柳
ンドンに向か
・サン、ウー
一氏ちとタキン・バ・セィ
川大尉、近藤養蔵、金子智
たクキン氏は、私の家の真
るが、国に拘りたいと前々
前からバンドンに住んでい
私はビルマの人間でずっと
聖賢.にパ治られたのでは
が、どういう状況で帰った
かわからなかったので、戦
帰ったことだけは知った
伝言でタキン氏がビルマに
件を主張した。これに対し と会って交流を深めたが、
筆し、その他にも幾多の条 蒙市民や中島嬰壷氏など
ス女王のご前で英連邦内の
アトリー首相はエリザベ
マの指導者であった。五七
叫び続けたただ一人のビル
〓皐としてビルマ独立き主 五寄れ、再び采ヨし、頚頃
「  ̄
キン氏が引っかかった。
めスゴノ氏のところへ送っ
・ソ民らとと
合った。
もにタキン・ 、/氏は互いに抱き合い、竿
バ・セイン氏 きて再会できたことを喜び
の名前も人っ
向かいの元イソラホテルの
から考えていたが、亨だ与
ないかと心配していたので
が、タキン・バ・セイン氏 亡い。
J コ
シア人以外の一切立ち入り
たプデイマン・高井が代わ
れ、一年以上もジャカルタ
最中だった。馬渕将軍から
の監歓にぶち込まれていた
獄中にこっそり届けられた
踏み込んできたグルカ兵に
である。よく迎えにきてく
向かって、﹁諸君、こき労
れた。君たちは英軍だろう。
二㌢、タキン氏は英語は
って運唱複になった。
できるがインドネシア語は
タキン・バ・セイン氏
は、日本がイギリスと戦っ
たからこそビルマが独立で
ジャワ作戦記念館のすぐ下
かチーンスがこなかった﹂
きたのだと公言、日本から
で、ノンドえシア判が封鎖
と述べ、運行された英軍司
オン・サン氏は蟄成した その後病におかされ、今は
ン車上ル
話せない。おまけに身なり
はいいし、カネもありそう
だというので、今度はイン
ドネシア人が短いはじめ
線をしいている間近の民家
ある。
賠償を取ってはいけないと
に引っ越してきた。
らぬ、旅団長に会わせろ一
令部では﹁君たちではわか
ていたのである。
ところがここはオランダ
それから数定、戦後の混
人が住んでいる北地区内だ
た。そこで努の危険を感じ
日本での再会喜び合う
おり独立運動に挺︵てい︶
●
て独立闘争に身を投じるべ
勇し、死ぬまで頑張る。だ
評論家 村上 素
郎両氏が運合軍に逮捕さ きか、爆撃で焼け野原にな
から貴君も将来を窮して帰
ここで金子智一、絹嶺一
った日本に帰って祖国再理
れ、ジャカルタのグルドッ
たのり完た.聖票壷年
疑で、このような目にあっ
活を紹介しておこう。二人
なって結論を持ってきてく
・アリー氏の二人が代東し、
ラ・ハミット氏とジャマル
シア独立運動を支壊した容 た結果、リーダーのアブド
とも連合軍から、インドネ
れた。それは次のようなも
れに対し彼らは皆で相談し
つで思い悩んでいる﹂。そ
ご
︵
一
た
、
し
で英軍司今野三頭したの
つがあったので、恥を忍ん
けとめた。そういういきさ
牢たちのこの申し入れを受
金子氏は拉さながら、脅
国してくれ﹂
限鞋二十一年一戸五E、芙
ク刑務所で送ったムショ生 に尽くすべきか。身体は一
軍司令部から﹁金子を明朝
のだった。
いかなる恥を忍んでも日本
、︶たいことは、このさい、
蒜だちが員君にお願い
り、部屋も匹十人前後の大
べは次第に途準えがち這与
を受けたが、その後、取り調
日のように厳しい取り調べ
最初は独房に入れられ毎
九時、±頭させよ一との命
とっさに、金子王達きっと
部屋に移された。ここは炊
今を受普た時、馬渕将軍は
ブデイマン・高井などと同
に帰ってほしいということ
独閏に入っていた時、夕
方、日が沈むころになると、
浜口君ら外務省の役人が二
だった。私たちの部屋には
調べも長く続いていたよう
は合唱にな
め、しまいに
声が聞こえ始
ネシア人の歌
からもインド
からもこちら
ると、あちら
が歌いはじめ
・票ノ警﹄芦た﹂ へ桔議一
モをパンの闇にはさんで山
いたので、唱報を轟いたメ
日、各部屋に食事を配って
事班長だった金子君が毎
すことにした。さいわい炊
を独房にいる山本少将に流
将に関係のありそうな情報
人と私が集まって、山本少
金子君、それに外務省の二
昭和二十一年も後半に入
る。看守がス
って、稽嶺、金子氏らはよ
郎氏︶
かないっその
トニノを命じ
うち看守も請
一軍以上もの刑撃所生活だ
うやく現放された。すでに
日は戦後初めての官公労ゼ
私は宇品に上撃した。その
﹁昭司二十二年二月二∃、
った︵相嶺氏は十カ月︶。
へあきら︶め
なくなった。
て何にも言わ
てもだれも聞
で歌った。彼 かった。そこで、沢口君や
ア・ラヤ︵独 人いて、彼らは取り調べの
立の歌、現イ 時、通訳に使われていた。
ンドネシア国 お陰で私たちにはいろいろ
歌︶﹂を大声 な人々の取り調べ内容がわ
たので、ずっと独扇で取り
﹁インドネシ
金子氏は鉄窓にもたれて
矛氏が刑麹所生活
じく日本籍を脱し、インド
えシア軍﹂勇至等︺るごろ
う、と考えたという。しか
,︺金子三は累百だパンドン
った⊇∵ある。
刑務所生活を送るようにな
機でジ†カんタに送られ、
ことを罵声している。その
.三一..わナ一考葛毒t︶てく.r−㌢
たち青年隊は貝君が長い間
ために・刀を芦してくれ。私
興し、再びインドネシアの
だ。そして〓汽にn左を唱
陸軍軍政監部の沢巳隆葬氏
.彗二塁、㌻参議票議員 や
㌢っムー窄嶺一罰三二≡竺コ
のが当時、海軍武官呵付き
琴、胃云室﹂入ってきた
て㌢つ、窒董軍票覧訃万⊥
の気高さ考:﹂が多かったへ
﹁炊事班の大部屋に入っ
に。たまたま炊事斑にいた が、なかでも﹁真白き富士
事垂.\そこの誓戸迂っ
至.二試宍毎をLCこ.彗ン
に入っていることを郊っ
いた﹂ ︵金子氏︶
フで引tれた学年たち写しと
た。が、私の心の奥にはジャ
戻る職場もなくなってい
日本の社会も変わり果て、
ネスLがマソカー・サーl命令
≡本の歌もよく訳われた で亡上された彗﹁だった。
≡挙l∵貴等ニ萱.ころ、
ことをわれわれは終生忘れ
㌢ノ﹂票責一は至芸莞っ
実はそれ以前、〝上月ナ
重言薫堅声毒手⊆ぎ
毒妻︶う、大望−つ三
でいつもかかわい亘這・\
きちゅうを訴えたことがあ
耳、∵主箕警÷つデ三・二
コ冥竺蓋査定二男、ヨて
青年の申し入れ受ける
る。﹁ノ、/三八、./て一義っ
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編集後記
新年おめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。
巻頭の後藤総領事のご挨拶にもあるとおり、マカッサルの総領事館は名称変えとなりま
した。業務内容は変わらないとのことですが、総領事館が出張所みたいな名称になるのは
やはり淋しい気がします。
ヽ
今号は外国人就業の問題をとりあげました。当事者の一人である茨城県大洗在の坂本氏、
近海まぐろ漁船の外国人雇用(研修を含めて)について沖縄の金城氏、両名に執筆をお願
いしました。1,000万人移民受け入れ案も出るような日本国の状況ですが、外国人就労の実
態については一般にあまり知られていません。また、北スラウェシ州は日系人が多いこと
もあって、(日本での)不法滞在、脱船逃亡などのよからぬ問題ではいつもからんでいます。
我々にとってこの間題は他人ごとではありません。
昨年9月、沖縄大学上田ゼミ一行の北スラウェシ研修旅行に合わせて、日本人墓地の慰
霊祭を執り行いました。多くの会員のご参列をいただきました。あらためてお礼を申しあ
げます。慰霊祭および研修旅行関連の原稿もいただきました。
御前崎の川口さんはかつお節だけでは物足りないのか、考古学の世界にも足をふみいれ
たようです。忙しいことはいいことです。実績のご報告はrタルシウス」に寄せることに
♂
なっています。川口さんは来る2月に奥様ともども当地にこられるそうです。トモホンで
の再会が楽しみです。
東京の石野さんは、前号に引き続きエチオピアの紹介です。次号もよろしくお顔いしま
す。
巻末に付した「インドネシアよ永遠なれ」は元・陸軍報道班員金子智一(ともかず)氏
のナラリヤ勲章授章記念誌(1989年4月)で、大岩さんの書棚から引っ張り出されたもの
です。村上薫さんによる「インドネシア独立運動秘話」は、題名どおり掛け値なしの独立
運動秘話でしょう。当会会員のみならずインドネシア在住全日本人必読。じっくりお読み
ください。
表紙はいつものとおり羽根井さんです。モデルはレンベ島のウミウシです。
終わりになりましたが、当会の最長老・青木さんは昨年から日本で病気療養中です。一
日も早い回復をお祈りいたします。
長崎
睾「