ローマ帝国の崩壊とキリスト教支配 2016

本日の講義要旨
• ローマ帝国は、ビザンチン帝国、サラセン帝国、そして
ゲルマン諸部族による諸王国へと解体された。
ローマ帝国の崩壊と
キリスト教支配
欧米文化論 第6回
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• このうちゲルマン諸部族による王国はローマ・カトリック
教会を共通の宗教とする文化圏(=キリスト教社会)を
構築する。
• キリスト教社会は世界史的に見ても極めて特異な二重
権力構造を持つ社会で、このことが後の欧米文化を形
成する理由の1つになったと考えられる。
• キリスト教社会がどのように形成されたのかを概観する。
ローマ帝国の解体
• ローマ帝国の解体は、ゲルマン民族の大移
動とイスラム世界の確立という2つの要因が
ある。
• ローマ世界解体後の姿は、
– ゲルマン諸国家:キリスト教カトリック文化
– ビザンチン帝国(=東ローマ帝国):ローマ文化
– イスラム世界:イスラム文化
という3つの相対的に独立した文化圏の確立
した。
ローマ帝国の解体(続き)
西ゴート王国
黒海北岸
イスパニア
ヴァンダル王国
オーデル川上
アフリカ北部
流
ブルグンド王国
オーデル川下
ガリア東部
流
アングロ・サクソン デンマーク・西
ブリタニア
七王国
北ドイツ
イタリア
アラリック王の時代にガリアとイスパニアに定住し、418年
ヴァリア王の時代にヴァンダル族、スエビ族などを討ち、
アリウス派→
ホノリウス帝から正式に属州アクイタニアを与えられる。
418-711 カトリックに改
451年にはフン族をカタラティウムの戦いで破る。507年
宗
クローヴィス率いるフランク族に破れ、イスパニアに逃れ
たが、711年イスラム勢力のウマイヤ朝に滅ぼされる。
429年ゲイセリックが王になり、艦隊を建造してジブラルタ
439-534 アリウス派
ル海峡を渡った。439年にカルタゴを占領して建国。東
ローマ帝国のユスティニアヌス帝に滅ぼされる。
建国の経緯は不明。フランク王国に吸収されるが、その
443-534 アリウス派
後もフランスのブルゴーニュ地方の独自性を保つ。
ゲルマン的多
408年にホノリウス帝がブリタニアを放棄すると、アングロ
神教→ケルト
449-829
族とサクソン族が侵入開始。七王国の1つであるウェセッ
系キリスト教
クスのエグバート王が統一。
→カトリック
東ゴート王国
黒海北岸
493-553 アリウス派
フランク王国
ライン川右岸 ガリア
508-843 カトリック
ランゴバルド王国
ライン川中流
北イタリア
右岸
568-774 アリウス派
フン族に吸収されていた東ゴート族は、西ローマ帝国滅
亡時に東ローマ帝国ゼノンからオドアケル討伐を命じら
れる。王テオドリックは、西ゴート王国の助力を得て、オ
ドアケルを破り、そのままイタリア王に認められる。基本
的に西ローマ帝国の統治システムをそのまま採用した
が、内紛や東ローマ帝国との軋轢が多く、最後はユス
ティニアヌス帝に滅ぼされた。
クローヴィスが王位に就くと、507年に西ゴート王国を破
り、ガリアの覇権を確立する。メロビング朝、カロリング朝
と続く。
東ローマ帝国のユスティニアヌス帝によるローマ世界再
統一後、東ローマ帝国はササン朝ペルシャとの抗争で、
イタリアが空白地帯になる。ここに、東ローマ帝国の傭兵
であったランゴバルド族が侵入して建国する。フランク王
国のカール大帝に滅ぼされる。
ローマ・カトリック教会の拡大
• 313年のミラノ勅令と392年のキリスト教の国
教化によって、司教が各地のキリスト教徒を
指導する体制が確立していた。
– 司教は、ローマ帝国の最小行政単位(キウィタ
ス)毎に置かれ、その中心都市に設置された司
教座(カテドラル)から小教区の教会(チャーチ)と
司祭を監督した。
• ローマ帝国の支配階級(元老院議員階級)が
キウィタスの司教を兼ねるようになっていた。
カロンリグ帝国の成立
• 7世紀に入ると、フランク王国は3分立
– ネウストリア:フランス北西部
– アウストラシア:ドイツ
– ブルグンド:フランス南部及びイタリア北部
• アウストラシアの宰相ピピンが台頭し、息子
への権力継承に成功した。
• メロヴィング家からカロリング家への王位の
交替のためにローマ教皇の権威を利用した。
ローマ・カトリック教会の拡大(続き)
• フランク王国を樹立したクローヴィスは、王国樹
立前の496年に部下3千人とともにカトリックに
改宗した。
– カトリックの洗礼を受けることで、ガリア中の都市の
支配者である司教=元老院貴族の支持を得る。
• 他方、ローマの大司教座は、旧西ローマ帝国領
内にある唯一の大司教座として、キリスト教会に
おける首位を主張したいた。
– ローマ大司教=ローマ教皇(東ローマ帝国ではロー
マ皇帝が教皇を兼ねる)
カロンリグ帝国の成立(その2)
• これに対して、ローマ教皇も異端派のランゴ
バルド族への対抗、ビザンチン帝国への対抗
上、フランク王国の軍事力を必要としていた。
• カロリング朝を開いたピピンとその継承者
カールは、イタリア遠征を継続し、教皇領を寄
進した。
• これに対して、ローマ教皇も西ローマ皇帝へ
の戴冠で応える。
カロンリグ帝国の成立(その3)
• なぜローマ教皇はカールの皇帝戴冠を行っ
たのか?
– ビザンチン帝国との争い
– コンスタンティヌス大帝の寄進状
• しかし、カール大帝の死後、再びフランク王国
は3つに分立した。
ポストカロリング期と神聖ローマ帝国
年号
見出し
817年
ルイ敬虔王の帝国計画令
840年
ルイ敬虔王死去
875年
中部王国(イタリア王国)断絶
888年
西フランク王国、パリ防衛
910年
東フランク王国のカロリング家断絶
936年
オットー1世王位に就く
955年
962年
レヒフェルトの戦い
神聖ローマ帝国皇帝になる
説明
817年にカール大帝の後を継いだルイは、3人の息子に
対して、長子ロタールの宗主権を認めるが、他の2人にも
領土を与えた。更に、823年に王子シャルルが生まれる
と、帝国計画令を破棄した。
父の死後も兄弟間の対立は収まらず、帝国は3分割状態
となった。
カロリング王家断絶
ノルマン人の襲撃に対して、カぺー家の祖先、パリ伯
ウィードがパリの防衛に成功し、西フランク王になる。
各地に大公たちが林立した連合体を形成し、大公の中か
ら王を選んだ。
東フランク王になったザクセン大公ハインリッヒ1世が息
子を王位に継承
永年侵掠し続けてきたマジャール人に決定的勝利
第2回イタリア遠征を行い、教皇ヨハネス12世から戴冠
ポスト・カロリング期の西欧
ポスト・カロリング期の西欧(その2)
• 955年、オットー1世は、マジャール人を撃退
した後、イタリア遠征を行い、ローマ教皇から
戴冠される。
• オットー1世以後の皇帝は、司教座や修道院
に、所領や裁判権、関税権、造幣権などの諸
特権を与えた。→教会高権政策
• しかし、これが後にローマ教皇と神聖ローマ
皇帝の対立の原因にもなる。
• 分裂した3国は、それぞれ異民族の襲撃を受
けていた。
– 中部(イタリア)王国←サラセン人
– 西フランク王国←ノルマン人
– 東フランク王国←マジャール人
• このうち東フランク王国は、カロリング家の血
統が断絶した後、神聖ローマ帝国へと発展し
ていく。
ゲルマン国家の社会と経済
• ゲルマン国家の社会を構成したのは、自由人
と種々の隷属的身分の住民である。
• 自由人は、法的権利を享受し、それに伴う義
務を負った。裁判集会への参加、国王の招集
に応じた軍役、様々な公的活動等。
– 自由人の中に貴族が存在したのか否かは不明で
ある。少なくとも初期のゲルマン国家には存在し
なかった可能性がある。
ゲルマン国家の社会と経済(続き)
• カール大帝は、古典的荘園制を王国全土に
広めた。
• 古典的荘園の成立は7世紀前半である。
• 古典的荘園の経営には、
– 領主直営地:保有農(マンキピアとコロニ)が耕す
– 農民保有地:領主から貸与された土地=賃借料
– マンキピア:奴隷に近い非自由人
– コロニ:自由身分の農民(ただし領主との隷属関
係あり)
の3つの方式があった。