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平成 25 年度
学位請求論文
校歌をめぐる表象文化研究
~近代国家成立における校歌の制定過程と現代の諸状況をてがかりに~
日本大学大学院芸術学研究科
博士後期課程芸術専攻
髙嶋有里子
0
目次
凡例
・・・・・p.6
はじめに
・・・・・p.7
本研究の動機
本研究の意義
本論文の構成
第1章
日本における校歌の成立と歴史
・・・・・p.11
第1節 校歌の発生起源
1-1-1)東京女子師範学校“みがかずば”
1-1-2)儀式用唱歌
1-1-3)唱歌
1-1-4)軍歌
1-1-5)まとめ
第2節 「校歌」の始まり
-辞典・書物・新聞記事-
1-2-1)「校歌」の始まり
-辞典-
1-2-2)
「校歌」の始まり
-書物-
1-2-3)
「校歌」の始まり
-新聞記事-
第3節 校歌調とはなにか
・・・・・p.22
・・・・・p.24
1-3-1)校歌の価値観の変容
1-3-2)作詞者・作曲者の思い
第2章
時代ごとの校歌・教育概観
・・・・・p.28
第1節 明治期 近代教育の成立と校歌
2-1-1)時代背景
2-1-2)明治期の音楽教育
2-1-3)明治期における校歌の歴史
2-1-4)明治期のまとめ
第2節 大正期 自由主義教育と校歌
・・・・・p.30
2-2-1)時代背景
2-2-2)大正期の音楽教育
2-2-3)大正期における校歌の歴史
2-2-4)大正期のまとめ
1
第3節 昭和前期 皇国主義体制と校歌
・・・・・p.34
2-3-1)時代背景
2-3-2)昭和前期の音楽教育
2-3-3)昭和前期における校歌の歴史
2-3-4)昭和前期のまとめ
第4節 昭和後期 民主主義と校歌
・・・・・p.38
2-4-1)時代背景
2-4-2)昭和後期の音楽教育
2-4-3)昭和後期における校歌の歴史
2-4-3-①)様々な校歌の取り組み
2-4-3-②)新たな校歌
2-4-4)昭和後期のまとめ
第5節 まとめ
第3章
・・・・・p.45
女子中等教育の校歌の成立と変遷
・・・・・p.47
第1節 調査・分析方法
3-1-1)調査対象校の選定について
3-1-2)分析方法について
第2節 明治期
・・・・・p.48
3-2-1)明治期における女子中等学校の教育環境
3-2-2)明治期キリスト教主義女学校の校歌分析
3-2-2-①)共立女学校(現
・・・・・p.51
横浜共立学園)
3-2-2-②)捜真女学院
3-2-2-③)雙葉学園
3-2-2-④)女子学院
3-2-2-⑤)青山女学院(現
青山学院)
3-2-2-⑥)立教女学院
3-2-3)明治期における女学校の校歌分析
3-2-3-①)跡見女学校(現
・・・・・p.63
跡見学園)
3-2-3-②)三輪田学園
3-2-4)明治期における府立の女学校の校歌分析
・・・・・p.69
3-2-4-①)東京府立第二高等女学校(東京都立竹早高等学校)
3-2-4-②)東京府立第三高等女学校(東京都立駒場高校)
3-2-5)まとめ
・・・・・p.77
第3節 大正期
・・・・・p.80
3-3-1)大正期における女子中等学校の教育環境
2
3-3-2)大正期キリスト教主義女学校の校歌分析
・・・・・p.83
3-3-2-①)頌栄女学校 (現 頌栄女子学院)
3-3-2-②)横浜英和女学校
(現
横浜英和学院)
3-3-3)大正期における女学校の校歌分析
・・・・・p.89
3-3-3-①)上野高等女学校(現 上野学園)
3-3-3-②)東京家政女学校
(現
豊島岡女子学園)
3-3-3-③)文華高等女学校(現 十文字学院)
3-3-4)大正期における都立高等女学校の校歌分析
・・・・・p.94
3-3-4-①)東京府立第六高等女学校(現 東京都立三田高等学校)
3-3-5)まとめ
第4節
・・・・・p.96
昭和前期
・・・・・p.97
3-4-1)昭和前期における女子中等学校の教育環境
3-4-2)昭和前期のキリスト教主義女学校の校歌分析
3-4-2-①)東洋英和女学校(現
・・・・・p.98
東洋英和女学院)
3-4-2-②)恵泉女学園
3-4-3)昭和前期の高等女学校の校歌分析
・・・・・p.103
3-4-3-①)青蘭高等女学校(現 青稜中学・高等学校)
3-4-3-②)立川女学校(現 立川女子高等学校)
3-4-4)昭和前期における府立・市立の高等女学校の校歌分析
・・・・・p.107
3-4-4-①)東京府立第四高等女学校(現 東京都立南多摩高等学校)
3-4-4-②)東京市立目黒高等女学校(現 都立目黒高等学校)
3-4-4-③)東京府立第十高等女学校(現 東京都立豊島高等学校)
3-4-5)まとめ
第5節
・・・・・p.114
昭和後期
・・・・・p.117
3-5-1)昭和後期における女子中等学校の教育環境
3-5-2)昭和後期のキリスト教女子中等教育の校歌分析
・・・・・p.118
3-5-2-①)カリタス学園
3-5-2-②)光塩女子学園
3-5-3)昭和後期の女子学校の校歌分析
・・・・・p.121
3-5-3-①)青蘭学院中学校・高等学校(現 青稜中学校・高等学校)
3-5-3-②)中延学園(現
朋優学院高等学校)
3-5-4)昭和後期における県立の女学校の校歌分析
・・・・・p.125
3-5-4-①)栃木県立宇都宮松原高等学校(現 栃木県立宇都宮中央女子高等学校)
3-5-4-②)埼玉県立松山女子高等学校
3-5-5)まとめ
・・・・・p.129
3
第4章
教材としての校歌
-東京都私立和洋九段女子中学校・高等学校を例として-
・・・・・p.130
第1節 はじめに
第2節 研究対象校(和洋九段校)について
第3節 校歌について
第4節 ある日の授業
4-4-1)2012 年 6 月 27 日
4-4-2)2012 年 12 月 6 日
4-4-3)2012 年 12 月 8 日
第5節 校歌に含まれる音楽用語
第6節 おわりに
第5章
校歌の制定背景
-東京都練馬区光が丘地区小学校統合における校歌制定までの流れ-
・・p.142
第1節 問題の所在
第2節 研究の目的と方法
第3節 校歌の予算
第4節 校歌制定の流れ
第5節 結果
第6節 まとめ
第6章
復興と再生 -東日本大震災における校歌の役割-
・・・・・p.152
第1節 はじめに
第2節 東日本大震災の被害状況
第3節 震災直後
第4節 震災以後
第5節
校歌の持つ力
6-5-1)陸前高田市立高田東中学校
6-5-2)東松島市立鳴瀬桜華小学校
6-5-3)鳴瀬未来中学校
第6節
おわりに
結論
・・・・・p.166
第1節 日本における校歌の成立と歴史
第2節 時代ごとの教育概観
第3節 女子中等教育の校歌の成立と変遷
4
第4節 教材としての校歌
第5節
校歌の制定背景
第6節 復興と再生
第7節 まとめ
付論
下總皖一の校歌-資料の統計分析による下總皖一校歌研究-
・・・・・p.172
第1章 作曲家「下總皖一」と校歌
第1節
下總皖一の生涯
第2節
下總皖一作曲の校歌について
第2章
下總皖一の校歌について
第1節
調査方法
第2節
分析結果
2-2-1) 学校
2-2-2) 調子
2-2-3) 拍子
2-2-4) 小節数
2-2-5)
曲態
2-2-6) 音域
2-2-7) 前奏の小節数
第3節
第3章
結論
下總皖一略年譜
練馬区光が丘地区統合準備会で話し合われた校歌の要点記録
参考文献・資料・新聞・サイト
・・・・・p.195
・・・・・p.227
5
≪凡例≫
・発令された法規名は〈
・図書名は『
〉で示す。
』で示す。
・曲名は《 》で示す。
・儀式・式典で校歌を歌うことを指示するとき、「校歌斉唱」と言う場合が多い。『現代教
養百科事典 11』
(暁教育図書
1968(昭和 43)年 1 月)では、
「斉唱」…「一つの旋律を同じ高さ、ないしはオクターブ上または下で、多人数が歌
唱する形態。ハーモニーのないユニゾンである点で、厳密には合唱と区別している。た
だし、合唱曲の一部分がユニゾン(斉唱)になることは往々にしてあり、独特の効果を
あげることができる(略)
」であり、それに対する言葉で「合唱」がある。
「合唱」…「多人数でうたわれる演奏形態の総称である。普通、二つ以上の声部を、
それぞれ複数(普通、四人以上)の歌唱者によって演奏する場合をいい、多人数であっ
ても単旋律をユニゾンでうたう斉唱とは区別している。(略)」と表記している。
多くの学校では斉唱(単旋律、ユニゾン)で歌うことが慣例になっていると思われる
が、実際の楽譜には合唱(複旋律、ハーモニー)で書かれていることがある。今回の研
究は明治期から現代までの校歌の歴史的変遷をまとめる。校歌が合唱譜であった場合、
実際に合唱で歌われているのか、また、斉唱で歌われているのか確認をとることが時代
を遡ることほど困難になる。旋律分析の共通性を律するために合唱譜であっても主旋律
を斉唱と考え言葉・分析の統一に用いる。
・キリスト教はカトリック、プロテスタント、その他細部に分かれるので、総称して「キ
リスト教主義」と統一し、用いる。
6
はじめに
本研究の動機
日本の国公私立に所属する多くの人々(園児・児童・生徒・教職員)が、入学式、始業
式、運動会などの各式典で“校歌斉唱”の号令のもとに歌っている。その歌詞は学校周辺
の自然環境であったり、建学の精神であったり、旋律の形式に於いては、4 分の 4 拍子で
16 小節、付点四分音符+八分音符+四分音符+四分音符が多いのではないだろうか。あり
きたりな歌詞や旋律であることから“単調でつまらない”と批評されがちである。
しかし、校歌は校旗・校章と同じ、学校を象徴するものである。とりわけ校歌は学校を
卒業しても、同窓会や校歌祭(例
東京校歌祭、かながわ校歌祭)で愛唱する機会はある
し、そのような機会がなくとも何気なく口ずさむこともあるのではないだろうか。このよ
うに、校歌は各学校に制定されていて、私たちの記憶に刻まれていて当たり前の状況に疑
問がわいてきた。
校歌は明治 30 年頃から多くの学校で制定されはじめた。おそらく明治期には明治期、大
正期には大正期の旋律・歌詞内容であったのではないか、その時代の価値観を校歌から読
み解くことで、見えてくるものがあるのではないだとうかと思ったのが本論文を書こうと
思った動機である。
本研究の意義
本研究は明治期から現代にかけての女子中等学校の校歌に焦点を当てた歴史研究と現代
の校歌状況の調査(事例研究)を行う。前者において、女子教育は明治期後期(明治 30 年代)
ごろから確立・各学校で制定されてきた。常に男子優位の環境の中で女子教育は蔑にされ
がちであった。そのような中でも、キリスト教主義の女学校や私立女学校の教育は明治期
前半から開設され、その学校独自の建学の精神に基づき教育を行った。良妻賢母の風潮の
中、多くの私学の女学校が一人の女性としての自立を促すことを掲げた。
女子教育が整備され始めた頃、1899(明治 32)年に〈高等女学校令〉、
〈訓令 12 号〉が施行
され、女子教育の確立と宗教教育の排除が行われた。第一次大戦後、高等女学校の生徒数
は増大し、1920(大正 9)年に〈高等女学校令〉が改正された。昭和に入ると 1943(昭和 18)
年に〈中学校令〉が公布され高等女学校は中学校の一部となる。しかし、戦争の影響下の
中、女子は勤労動員として軍事施設での作業に従事するため学校教育はほぼ行われること
はなかった。戦後、新たな教育体制と民主国家の形成のため〈教育基本法〉、〈学校教育法〉
が新たに施行され、1948(昭和 23)年から 6・3 制教育が始まった。戦後の著しい経済成長の
中、上級学校への進学率の上昇、詰込み型学習からの脱却、ゆとり教育、少子化など社会
背景・問題に対応しながら変化していった。
これらの学校教育・社会の変化の様子はとりわけ校歌の歌詞から読み取れるのではない
7
かと思った。また旋律は、明治期以降、西洋音楽の流入により日本人の音楽の価値観も変
化した。学校を象徴する校歌からその時代ゝゝを読み解けるのではないかと考える。そし
て、女子教育に限定することで、明治期から現代にかけての日本の女子に対する価値観の
変容が解るのではないかと考えた。
後者では、現代の校歌事情について調査を行った。”少子化”、”大学全入時代”、”ゆとり教
育”など、学校を取り巻く環境は依然として厳しい。とりわけ少子化による学校の統廃合や
新設校の設置、時代の流れの中で新たな学校方針に転換していく学校がある。そのような
中で校歌も新たに制定しようとする学校がある。また、2011 年 3 月 11 日に起こった東日
本大震災おいては、津波被害だけでなく、その後の福島第一原発の影響により多くの人々
が避難生活を強いられている。その結果、学校の原状回復が望めなかったり、流出してし
まった児童・生徒数の影響により学校の閉校・統合が行われた。
このような状況下において制定された校歌とはどのようなものか、前者の歴史研究で得
られた校歌との違いはあるのか、実地調査・研究を行った。
本論文の構成
本論文では、具体的に 6 章に分けて校歌について論じると共に、付論として個人の作
曲家下總皖一に焦点をあてた。
第1章「日本における校歌の成立と歴史」では、どのような流れの中で校歌が誕生した
のか歴史資料・先行研究を基に論じる。校歌は明治 30 年代ごろから多くの学校で制定され
始めた。校歌の発生には明治期に生まれた①お茶の水女子大学の校歌《みがかずば》、②祝
祭日に歌われるようになった儀式用唱歌、③唱歌、④軍歌が考えられる。これらの歌がど
のように校歌と重なり合ってゆくのかの仮説の下、参考文献・資料を基に調査を行った。
そうすることにより、校歌の特徴が明らかになると共に、いつ頃から多くの学校で歌われ
始めたのかを明らかにすることができると考える。そして学校外でいつ頃から校歌が市民
に認知され始めたのか、辞書・書籍・新聞等の資料を基に特定を試みた。さらに、校歌は
単調な旋律、自然・建学の精神を入れた歌詞など、他の学校と曲調が似ている部分が多い
と言われている。校歌を制作する側の心情・制作過程を知ることで、学校と作詞者・作曲
者との総合的な制定背景を知ることができるのではないかと考えた。学校が創立すると校
歌も制定されるという状況は、諸外国では非常に稀な現象である。この日本独自とも考え
られる校歌成立の背景を探る。
第2章「時代ごとの教育概観」では、校歌分析を行うにあたり、時代背景・教育状況を
明らかにする。明治期から現代にかけての校歌の歴史を探ると共に、そこから見えてくる
校歌と学校のかかわり、歴史背景を明らかにするものである。具体的には、①明治期から
現代にかけての時代背景・教育環境を明らかにする、②校歌の歴史を整理すると共に、当
時出版されていた学校管理書や出版物に記されている校歌の有り様についても明らかにす
る、③校歌は小学校教育と深い関わりがあったので、小学校の音楽教育の歴史と校歌の関
8
係性を明らかにする。
第3章「女子中等教育の校歌の成立と変遷」では、フィールドワークに適した首都圏に
しぼり、女学校の校歌の採集を国立国会図書館、東京都立中央図書館、野間教育研究所、
当該高等学校を中心に行なう。採集を行う際、私立の女学校にしぼり、さらにキリスト教
主義女学校、私立女学校、府立・県立の女学校と三つのカテゴリーに分けた。分析方法と
しては、学校の沿革、歌詞の意味内容の考察、旋律の分析を行う。これらを分析すること
により、歌詞から、その時代が求めていた人間像を明らかにし、旋律からは、それらの歌
詞がどのように形成しているか、校歌の作曲構造について分析を行なう。また、3 つの学校
種に分けることにより各学校の特徴も明らかになると考える。そうした総合的な視点から、
近代国家成立における校歌の思想を明らかにしようと思う。
第4章「教材としての校歌
-東京都私立和洋九段女子中学校・高等学校-」では、東
京都千代田区にある私立和洋九段女子中学校・高等学校(以下 和洋九段校)の校歌につい
てまとめた。和洋九段校は 1997(平成 9)年に創立 100 周年を記念して新しく校歌を制定
し直した。その校歌は 4 つの曲から成り立つ賛歌(=校歌)である。4 曲それぞれタイトルを
持ち(
《Ⅰ.わたしたちの学舎》
《Ⅱ.ベルが鳴る》《Ⅲ.ほかならぬ私の花を》《Ⅳ.海のかな
たへ》)近代組曲のような編成になっている。各校歌は入学式や始業式など、行事開催時に
歌われる。さらにこの校歌は 4 曲あるだけでなく、音楽教材として使われることを見越し
て作られたというのも特徴である。どのように教材として扱われているのかを論じるため、
校歌に関する音楽の授業を実際にリサーチし、校歌に記されている音楽用語と中学校学習
指導要領音楽第 3 の 2 の(8)と小学校学習指導要領第 2 章 6 節音楽第 3 の 2 の(6)の比較を
行った。
第5章「校歌の制定背景
-東京都練馬区光が丘地区小学校統合における校歌制定まで
の流れ−」では、平成 22 年 3 月 31 日をもって光が丘地区にある光が丘第一小学校、光が丘
第二小学校、光が丘第三小学校、光が丘第四小学校、光が丘第五小学校、光が丘第六小学
校、光が丘第七小学校、田柄第三小学校が閉校した。そして、その翌日の 4 月 1 日から光
が丘四季の香小学校、光が丘春の風小学校、光が丘夏の雲小学校、光が丘秋の陽小学校が
新たに開校した。新たに開校した 4 校は、開校に合わせ校歌を新しく制作していた。その
制作は、
“統合準備会”という組織の中で行われた。この準備会でどのような話し合いがも
たれ校歌が作られていったのか、その制定過程を調査した。
第6章「復興と再生
-東日本大震災における校歌の役割−」では、2011 年 3 月 11 日に
発生した東日本大震災とその地の校歌の関連性について論じる。とりわけ東北地方の被害
は甚大で多くの死者・行方不明者を出した。さらに東京電力福島第一原発で起こった原発
事故は今もなお収束が付かない状態である。多くの人々は様々な事情で避難所や別の地域
での生活を余儀なくされている。東北地方の人口減少は留まることがなく、児童・生徒の
減少は一途をたどっている。結果的には学校が閉校・統廃合が行われる状況になった。震
災後、校歌の価値を見直すような新聞記事等が出た。それらの記事はどのようなものであ
9
ったか明らかにするとともに、東北地方で新たなに開校した学校の校歌はどのようなもの
であるか明らかにする。
「結論」では、第 1 章から第 3 章までを総合的に論じると共に校歌の歴史的変遷をまと
める。また、第4章から第6章までの事例研究から現在の校歌の有り様についてもふれる。
付論「下總皖一の校歌-統計分析による校歌研究-」では、本論において学校の校歌の分
析を行ったが、ここでは一人の作曲家の校歌について統計的にまとめた。具体的には下總
の直筆の楽譜 492 曲と清書された楽譜 3 曲、合計 495 曲の分析を行う。曲数が膨大かつほ
とんどが原譜なので文字、旋律の解読が困難なものは除外した。また、目視で曲が重複し
ていると確認できるものも除外した。調査方法は、ヤン・ラルーの分析方法を基にし、さ
らに論者自身が調査項目を加え集計した。具体的には「Ⅰ調について」、
「Ⅱ拍子について」、
「Ⅲ小節数について」
、「Ⅳ曲態について」、「Ⅴ音域について」を利用した。論者自身で加
えた項目は、
「Ⅵ前奏の小節数」、
「Ⅶ学校」である。「Ⅵ前奏の小節数」については小節数
をそのまま数値化したので、
「Ⅲ小節数について」の調査方法と同じである。「Ⅶ学校」は
①幼稚園、②小学校、③中学校、④高等学校、⑤大学、⑥国民学校、⑦高等小学校、⑧高
等女学校、⑨尋常小学校、⑩不明の 10 種に論者が分け論じる。
10
第1章
日本における校歌の成立と歴史
校歌は明治 30 年代ごろから多くの学校で制定され始めた。校歌の発生には明治期に生ま
れた①お茶の水女子大学の校歌“みがかずば”
、②祝祭日に歌われるようになった儀式用唱
歌、③唱歌、④軍歌が考えられる。これらの歌がどのように校歌と重なり合ってゆくのか
明らかにする。そうすることにより、校歌の特徴が明らかになると共に、いつ頃から多く
の学校で歌われ始めたのかを明らかにすることができると考える。そして学校外でいつ頃
から校歌が市民に認知され始めたのか、辞書・書籍・新聞等の列挙をする。さらに、校歌
は単調な旋律、自然・建学の精神を入れた歌詞など、他の学校と似ている部分が多いと言
われている。校歌を制作する側の心情・制作過程を知ることで、学校と作詞者・作曲者と
の総合的な制定背景を知ることができるのではないかと考えた。学校が創立すると校歌も
制定されるという状況は、諸外国では非常に稀な現象である。この日本独自とも考えられ
る校歌成立の背景を探る。
第1節
校歌の発生起源
1-1-1) お茶の水女子大学《みがかずば》
校歌の先行研究の多くは、日本における最初の校歌は東京女子師範学校(現
お茶の水
女子大学)の《みがかずば》であると述べている。この校歌は皇后(後の昭憲皇太后)が下賜
すえ ひろ
された和歌に東儀季煕(1832~1914)が作曲したもので、同大学のホームページにも「お茶
の水女子大学の前身である東京女子師範学校の開校にあたり、皇后(昭憲皇太后)から、 明
治 8(1875)年 12 月に下賜された御製歌です。明治 11 年に宮内省雅楽課の東儀季熙により
この歌に譜をつけたものが本学の校歌となり、わが国最初の校歌として現在まで歌い継が
しょうけん
れています。
」1とある。1876(明治 9)年に 昭 憲皇太后が下賜された和歌に、式部寮雅楽課
の東儀李熙が 1878(明治 11)年に作曲したものである。その校歌そのものについて丹念に研
究した論文がある。同大学大学院に在籍していた久保島文子の修士論文「校歌の特性につ
いて」(1998)である。それによると、「日本最古の校歌とされているものは、保育唱歌中の
“学びの道”を指しているといえるであろう。」 2と記述している。保育唱歌とは、東京女
子師範学校付属幼稚園の教材で使用された総称である。当時、幼児に教授する適切な唱歌
教材がなかったため、東京女子師範学校は唱歌教育の重要性を「緊要ノ公務ニ関スル意見
書」に記し、文部省に提出した。文部省の許諾が降りると、唱歌制作を 1877(明治 10)年 9
月から 1880(明治 13)年 6 月まで行った。それらの唱歌の一端を東京女子師範学校師範科に
1
2
お茶の水女子大学デジタルアーカイブズ http://archives.cf.ocha.ac.jp/migakazuba.html
(2013 年 6 月 23 日最終アクセス)
久保島文子(1998), 「校歌の特性について」,お茶の水女子大学大学院人間文化研究科人
文学専攻修士論文,p.6
11
在籍していた清水たづが採譜した『保育唱歌』(明治 16 年)で現在もみることができ、この
教本の中に皇太后の歌に東儀李熙が作曲したものが掲載されている。
譜例1 《学びの道》
『保育唱歌』3
譜例2《学びの道》墨譜を五線譜におこしたもの4
3
4
清水たづ(1883),
『保育唱歌』
,ページ記載なし(お茶の水女子大学 教育・研究成果コ
レクション Tea Pot で閲覧可能 http://teapot.lib.ocha.ac.jp/ocha/handle/10083/31220)
芝祐泰(1956)『保育唱歌 五線譜 巻一』,ページ不明 (お茶の水女子大学所蔵)
12
譜例3 お茶の水女子大学の校歌《みがかずば》5
現在のお茶の水女子大学の校歌と《学びの道》を比べてみると旋律が大きく異なってい
るということがわかる。
《学びの道》は律旋法を用い、非常に間延びした曲調になっている。
また、
「保育唱歌は、同付属幼稚園のみならず、他地域の幼稚園の一部、東京女子師範学校
等の教育機関でも用いられた。たとえば、同付属幼稚園に続いて、2 番目に設立された公立
幼稚園である鹿児島女子幼稚園でも保育唱歌を用いた教育が行われたとの記録がある。」6
ということから幾つかの幼稚園では歌われていたとういうことが明らかである。また、《学
びの道》は『淑女の修養』(1909)という一般書籍にも掲載されている。
「此御歌、嘗て、皇后陛下の御詠遊ばされ給ひしを、宮内省雅楽局に於て、雅楽上の
曲譜を附し、過る明治四十年五月、芝離宮に於て、雅楽会開催の際、陛下の御前に於て、
華族中の雅楽家、及び雅楽局の楽師が、奏唱し奉りければ、御感斜ならざりし事を拝聴
し、当日奏唱し奉るの栄を辱ふせし、子爵藤井行徳氏に就て、親しく朗詠法を習得し、
苦心の結果、右の如く楽譜を調製し、是を生徒に教授せしに、楽曲、高尚優雅にして奏
唱中、知らず識らずの問に、御詠の有り難さ、御恩召の程を窺ひ得て、精神教上、多大
の稗益あるを信するものなり。著者謹誌」7
とあり、幼稚園児以外の学生にも歌われていたということは明らかである。
5
6
7
お茶の水女子大学デジタルアーカイブズ
(http://archives.cf.ocha.ac.jp/migakazuba.html)では校歌を視聴することが可能。また、
携帯の着信メロディーにダウンロードすることも可能である。
(2013 年 2 月 19 日最終ア
クセス)
東元りか(2009)「保育唱歌および雅楽に関する楽書資料の収集および研究調査(学生海外
調査研究)」
,大学院教育改革支援プログラム「日本文化研究の国際的情報伝達スキルの
育成」活動報告書,海外教育派遣事業編,p.68,
(お茶の水女子大学教育・研究成果コレ
クション Tea Pot http://hdl.handle.net/10083/49257)
田島敎惠(1909)
『淑女の修養』
,寳文館,pp.84~85
13
さらに、タイトルが《みがかずば》ではあるが、同大学の校歌とは異なる旋律を持つ歌
がある。この唱歌は『尋常小学唱歌
五学年用』で使用された。文部省唱歌の作詞者、作
曲者は明らかになっていない部分が多い。この唱歌集の作曲委員らが湯原元一(委員長)、上
眞行、小山作之助、島崎赤太郎、楠美恩三郎、田村虎蔵、岡野眞一、南能衛であったこと
からこの委員の誰かが作曲に携わったと考えることができる。
譜例4『尋常小学唱歌 第五学年用』に掲載されている《みがかずば》8
この『尋常小学唱歌
第五学年用』を教員の為に解説した書物がある。東京府青山師範
学校教諭森山保が書いた『文部省編
尋常小学唱歌教材解説 第五学年用』(1913)に《みが
かずば》の解説がある。
要旨
尋常小学修身書巻五、第二課「皇太后陛下」の條に、嘗て東京女子師範学校に下し
給はりたる御歌を載せてある。即ちこれがその御歌である。今之を教材として選擇
し、日夕兒童をして愛誦せしめ、陛下の有難き御思召を感佩して、好學の情操を養
はしむるが本課の目的である。
歌詞
所謂我が三十一文字の國風である。題目は最初の句をとりたるものである。今謹み
て其の大體の意味を述ぶれば左の如し。
玉も鏡も磨き上げてこそ、種々の用にも立つのであるが、若しみがかなければ何の
用にもたゝない。學問もその通りで、研究し研鑽して初めて役に立つものであるか
ら、學生たるものは怠らず撓まず努力せねばならぬぞ、よとの有難い御言葉の意で
ある。
曲節
・
(ハ)調 4/4 拍子の、十二小節の長さの曲節で、音域はホ―ハ迄十音間可なりに廣く、
音程は四度迄で左したる困難なる所はないが、少し歌ひにくい曲節である。視唱法
8
文部省(1913)『尋常小学唱歌 第五学年用』,p.2
14
にて試みるべし。9
(以下省略)
これらのことから今、現在歌われている、お茶の水女子大学の校歌の歌詞が、古くは、
学外の多くの児童・生徒らに歌われていたということがわかる。10そして、今現在、私た
ちが考える校歌という概念とはかけ離れたものであるということもわかる。皇族の御言葉
がいかに垣根を越えて使用されているかという事がわかる。
では、保育唱歌として出発した《学びの道》がいつごろから現在歌われている同大学の
校歌となったのかというと、久保島は「作曲は東儀季熙としているが、この旋律がいつ誰
によって作曲されたのか明らかにしている文献は見つかっていない」11と結論付けている。
このことを、同大学の図書・情報チーム情報基盤係に問い合わせたところ、「校歌の作曲に
ついて示すような資料は現在のところ見つかりませんでした。本学は大正 12 年の関東大震
災で多くの資料を失っておりますので、明治 10 年頃の資料はほとんど所蔵していないのが
現状です」12と返答をいただいた。
これらのことから、日本で最初に制定されていたと言われているお茶の水女子大学の校
歌は、最初は教材用として生まれ、さらに、現在の校歌とは旋律が異なるものであった。
後に校歌として作曲・制定・認識されることになったと考えられる。
このように校歌は必ずしも校歌として存在していたのではなく、形を変え学校外の人間
でも歌えるような状況であった。そして、校歌と云う概念を持っていたかというのは不明
である。しかし、これは皇族という特別な存在の歌であることが要因ともいえよう。一般
森山保(1913)『文部省編 尋常小学唱歌教材解説 第五学年用』
,廣文堂書店,pp.12~
13
10 皇族が下賜した歌が唱歌として採用されている状況は華族女学院(現
学習院女子大学)
にもみられる。昭憲皇太后が下賜した《金剛石もみがかずば》も尋常小学唱歌第五学年
用に採用されている。群立足利高等女学校では、「校歌が制定される以前においては、一
体何が校歌の代わりとして歌われていたのであろうか。それは「玉琢かざれば」で有名
な昭憲皇太后(明治天皇の皇后)の御歌「金剛石」であった。校歌の代りというよりは
校歌同様のものであったといってよい。
」(八十年誌編集員会(1989)『八十年史』,栃木
県立足利女子高等学校,p.95)と記されている。ただ、学習院の歌詞は校歌として認知さ
れることはなかった。
「華族女学校・女子学習院ともに校歌・院歌がなく、式日等に斉唱
したのは明治二十年三月十八日昭憲皇太后から下賜された御歌「金剛石」
「水は器」(奥
好義作曲)と、大正十二年六月十九日皇后陛下(貞明皇后)より下賜された御歌「花す
みれ」
(信時潔作曲)である。
」
(学習院百年史編纂委員会(1988)『学習院百年史 第三
編』
,学習院,p.113)現在は、1951(昭和 26)年に制定された院歌(作詞安部能成 作曲信
時潔)を歌っている。
11 久保島文子(1998)
「校歌の特性について」,お茶の水女子大学大学院人間文化研究科修
士論文,p.10
12 2013 年 6 月 18 日に返答をいただいた。
9
15
的な学校では明治後半になって校歌と云うものが制定され始めてきている。
では、次に多くの先行研究で綴られている儀式用唱歌との関係性について述べる。
1-1-2)
儀式用唱歌
儀式用唱歌と校歌の関係性を述べた研究は、すでに入江(1994)、杉沢(2010)の研究がある。
これらの研究から、校歌が成立していく流れを展望しようと思う。初代文相森有礼は、
「國風ノ教育ヲ盛ニスへシ國風ノ教育トハ、國体ヲ彰明ニシ、日本國民ノ保持スベキ
品位資質ヲ辨ヘシメ、自然ニ忠愛慎重ノ念ヲ生セシムヘキヲ謂フナリ、一二其方法ヲ
擧クレバ、學校平常ノ談話ニ於テ、歴史上ヨリ本邦建國ノ萬國ニ秀テタルコト及ビ列
朝ノ聖天子撫育ノ厚キコト等ヲ説述シ、之ヲ生徒ノ脳裏ニ印銘セシメ、又紀元節天長
節ノ大祝日ニ當リテハ、祝賀ノ式ヲ擧ゲ、崇敬歓戴ノ意ヲ表セシメ、継キテ之ヲ一般
ノ父兄ニモ及ホス等ノ事ハ就中要用ナル條件ルベシ」13
と主張していた。
入江氏の論考によると、
「この方針を受けて文部省は 1888(明 21)年に、紀元節14・天長節15に学校儀式を実施
するように内命した。この時すでに、儀式に際して歌うべき唱歌として「紀元節」歌
を作成、配布した。また「天長節」歌も、その後天長節の時期に合わせて配布された。
ここで文部省の発した内命そのものの記述内容は不明であるが、これを受けて出され
た府県の訓令には「祝賀式ハ専ラ唱歌ニ由ラシムヘシ」などとあり、ここから文部省
の発した内命が儀式唱歌を重視したものであったと推察できる」16
実際、文部省に残る明治 24 年の通達の中で、6 月 17 日に出された文部省令第 4 号〈小
學校祝日大祭日儀式規定〉では、
第 1 条「紀元節、天長節、元始祭17、神嘗祭18及新嘗祭19ノ日ニ於テハ學校長、教員
13
14
15
16
17
18
19
大久保利謙(1972)『森有禮全集 第三巻』,宣文堂書店,p.80
神武天皇即位日で 2 月 11 日
天皇誕生日で 11 月 3 日
入江直樹(1994)「儀式用唱歌の法制化過程 -1894 年『訓令第 7 号』が学校内唱歌に残
したもの-」
,
『教育学雑誌第 28 号』,日本大学教育学会,p.210
天皇の位の元始を祝う日で 1 月 3 日
天皇が伊勢神宮に新穀を奉納する日で 10 月 17 日
天皇が新穀を神々に供え、自身もそれを食し、収穫を感謝する日で 11 月 23 日
16
及生徒同一式場ニ参集シテ左ノ儀式ヲ行フヘシ」20
と定めている。
この「左ノ儀式ヲ行フヘシ」の中に
「四
學校長、教員及生徒、其祝日大祭日ニ相應スル唱歌ヲ合唱ス」
とある。
また、同年 10 月 8 日には文部省令第 2 号で、
「小學校ニ於テ祝日大祭日ノ儀式ヲ行フノ際唱歌用ニ供スル歌詞樂譜ハ特ニ其採用ヲ
慎ムヘキナルヲ以テ北海道廰長官府縣知事ニ於テ豫メ本大臣ノ認可ヲ經ヘシ但文部省
ノ撰定ニ係ルモノ及他ノ地方長官ニ於テ一旦本大臣ノ認可ヲ經タルモノハ此限ニ在ラ
ス」21
と定めた。
さらに、明治 26 年、文部省告示第 3 号〈小學校祝日大祭日儀式唱歌用歌詞及樂譜選定〉
を告示した。
「君が代」
、
「勅語奉答」
、
「一月一日」、
「元始祭」、
「紀元節」
、「神嘗祭」、「天長
節」
、
「新嘗祭」これら 8 曲は学校の祝祭日で歌うようにと定めた。
翌年の明治 27 年 12 月 28 日には、文部省訓令第 7 号
「小學校ニ於テ唱歌用ニ供スル歌詞及樂譜ハ本大臣ノ檢定ヲ經タル小學校敎科用圖書
中ニ在ルモノ又ハ文部省ノ撰定ニ係ルモノ及地方長官ニ於テ本大臣ノ認可ヲ受ケタル
モノヽ外ハ採用セシムルヘカラス但地方長官ニ於テ一旦本大臣ノ認可ヲ經タルモノハ
此限ニ在ラス」22
と定めた。
昭和 6 年 9 月 10 日に〈訓令第 7 号〉が廃止されると、同年同日〈小学校令施行規則第
53 条第 2 項〉で、
「唱歌用ニ供スル歌詞及樂譜ハ文部省ノ撰定ニ係ルモノ、前条ニ依リ府縣知事ノ採定シ
タル小學校敎科用圖書中ニ在ルモノ及其ノ採用小學校ニ特ニ關係アルモノニシテ府縣知事
20
21
22
教育史編纂会(1938)『明治以降教育制度発達史 第 3 巻』,教育資料調査会,p.88
教育史編纂会(1938)『明治以降教育制度発達史 第 3 巻』,教育資料調査会,p.89
教育史編纂会(1938)『明治以降教育制度発達史 第 3 巻』,教育資料調査会,p.145
17
ニ於テ文部大臣ノ認可ヲ受ケタルモノノ外採用スルコトヲ得ス」23
「其ノ採用小學校ニ特ニ關系アルモノ」という文言を設け、さらに規制を強くしていった。
現にこの頃の小学校における校歌認可数は急増している。24
昭和 16 年 3 月 1 日に国民学校令が施行され、同月 14 日文部省令第四号で国民学校令が
改訂された。
「第 36 条
歌詞樂譜ハ敎科用圖書中ニ掲グルモノノ外ハ文部大臣ノ撰定シタルモノ若ハ
其ノ圖書ニ檢定シタルモノ又ハ當該學校ニ特ニ關係アルモノニシテ地方長官ニ於テ
文部大臣ノ認可ヲ受ケタルモノタルベシ
第 47 条
紀元節、天長節、明治節及一月一日ニ於テハ職員及児童學校ニ参集シテ左ノ
式ヲ行フヘシ
一
職員及児童「君が代」ヲ合唱ス
ニ
職員及児童ハ 天皇陛下 皇后陛下ノ御影ニ封シ奉リ最敬禮ヲ行フ
三
學校長ハ教育ニ関スル勅語ヲ奉讀ス
四
學校長ハ教育ニ関スル勅語ニ基キ聖旨ノ在ル所ヲ告ス
五
職員及児童ハ其ノ祝日ニ相當スル歌唱ヲ合唱ス
御影ヲ拝戴セザル學校及特ニ
地方長官ノ認可ヲ受ケ複冩シタル御影若ハ地方長官ニ於テ適當ト認メタル御影
ヲ奉藏セザル學校ニ於テハ前項第二號ヲ欠く」25
〈小学校令施行規則第 53 条第 2 項〉とほぼ変わらぬ内容ではあるが、戦時色が色濃くなっ
てゆくことから、国の統一を正すために改めて規制をかけたと考えられる。
これらの訓令をみると祝日大祭日においての唱歌の規定はあるが、校歌の法的根拠につ
いてはどこにも記載されていない。このようなことから各学校が、校歌を作る義務はなか
ったということである。入江氏は結論として、「学校歌は(略)儀式用唱歌との分かち難い関
係下に置かれ、またこの一部として発展してしまった。そのことが、今日に通じる一般的
な学校歌のスタイルである、修身的な内容の歌詞を主体とし儀式用唱歌に適当とされるよ
うな厳かで単調なリズムを持つという特徴を形成した主因となっている」26と結論付けて
23
24
25
26
教育史編纂会(1938)『明治以降教育制度発達史 第 7 巻』,教育資料調査会,p.95
校歌の認可状況は杉沢盛二(2010)『戦前の歌曲認可制度に関する研究-認可記録収集と
法令の検討を通して-(第十一訂版)』(私家版)の「全国校歌認可状況調(都道府県別)」
で見ることができる。
官報,1941 年 3 月 14 日,第 4254 号,金曜日,pp.482~483
入江直樹(1994)「儀式用唱歌の法制化過程 -1894 年『訓令第 7 号』が学校内唱歌に残
したもの-」
,
『教育学雑誌第 28 号』,日本大学教育学会,p.215(入江は「学校歌」とい
18
いる。いざ校歌を制作した場合、この明治 27 年の文部省訓令第 7 号があることから、各小
学校は校歌の認可を求めなければならない風潮だったとも言える。実際、最初に認可され
た校歌は、忍岡小学校(東京)で明治 26(1893)年 5 月のことであり、忍岡小学校は明治 24 年
から申請をしていた。
では、上級学校ではどのような状況だったのだろうか。多くの上級学校は小学校同様に
校歌を所有していた。しかしながら、学校内で歌われる歌に関しての規制は昭和 14 年 8 月
24 日文部省令 49 号が施行されるまで何もなかった。
「師範学校中学校高等女学校実業学校並青年学校ニ於テ唱歌用ニ供スル歌詞・楽曲ハ文
部省ノ撰定又ハ制定ニ係ルモノ文部大臣ノ検定シタル教科用図書中ニアルモノ及其ノ採
用学校ニ特ニ関係アルモノニシテ地方長官ニ於テ文部大臣ノ認可ヲ経タルモノタルヘ
シ」
校歌の認可状況も小学校とは異なり、周知徹底していなかったようである。そのことに
関し杉沢(2010)は「①文部省令第 49 号施行日以前に制定された校歌等の歌曲は、改めて認
可を受ける必要が無く、施行日以後に制定された校歌等は認可を受ける必要がある。②時
局の推移や文部行政への思惑、府県学務部の指示等から認可を受ける必要を感じた 431 校
は認可申請を行った。
」27と結論付けている。このことから、小学校よりも中等学校の校歌
は文部省の認可制度に左右されることなく、歌詞や旋律に小学校の校歌とは異なる特徴を
見出せるのではないかと考えられる。
1-1-3)
唱歌
儀式用唱歌と校歌との関係性は小学校於いて強い結びつきを示していた。さらに、関連
性があるものとして唱歌が挙げられる。
1872(明治 5)年、学制が公布し、小学校に「唱歌」
、中学校には「奏楽」を規定したが、こ
れからの日本の音楽について、どのように進めていくかという指針がなかった。さらに、
音楽の教員がいなかったこと、教科書、指導法、楽器がなかったこと、様々な理由により、
「当分之ヲ欠ク」とされた。制度的唱歌の義務化ではないが、実際に唱歌の現場指導が始
まったのは 1874(明治7)年の愛知師範学校であった。1877(明治 10)年には東京女子師範
学校(現在のお茶の水女子大学)付属幼稚園でも始まった。しかし、これらの唱歌教育は、
わらべうたや雅楽をベースにしたものであり、特に雅楽のメロディーについては、一般の
市民の子弟等には十分に歌いこなすには難しいものであったようだ。制度としては確立し
う言葉を使用しているが、この言葉には校歌も含まれている。)
杉沢盛二(2010)『戦前の歌曲認可制度に関する研究-認可記録収集と法令の検討を通し
て-(第十一訂版)
』
,私家版,p.85
27
19
たのは、1926(大正 15)年の小学校令改正により正式に「唱歌」の必修科目が小学校で行な
われることとなった。
西洋音楽で唱歌を教え始めたのは、1879(明治 12)年、文部省が音楽教育の実施のために
開設した「音楽取調掛」であった。この音楽取調掛は、文部省管轄の日本最初の音楽教育
機関であり、後の東京音楽学校(現在
東京芸術大学音楽学部)の前身にあたる機関である。
音楽取調掛では①東西二洋の音楽を折衷して新曲を作ること、②将来国楽を興すべき人物
を養成する事、③諸学校に音楽を実施する事、等々であった。これらの目標を達成するた
めの一つとして、1882(明治 15)年、アメリカに留学していた伊澤修二がボストンの音楽教
育家メーソンを中心に『小学唱歌集』を刊行した。この唱歌集には現在でも歌い継がれて
いる歌がいくつか存在する(
《蛍の光》、
《むすんでひらいて》等)。1883(明治 16)年に第二
編を、1884(明治 17)年には第三編を刊行した。音楽取調掛はその後、1887(明治 20)年『幼
稚園唱歌集』
、1889(明治 22)年『中学唱歌集』、1901(明治 24)年、1909(明治 32)年に『中
学唱歌』などを出版した。
これらの多くの唱歌は「唱歌調」と呼ばれる「基本拍内同音反復」で形成されていると、
嶋田(2009)は述べている。この「基本拍内同音反復」は俗に「ぴょんこ節」と呼ばれる「付
点八分音符+付点十六分音符」のリズムから成り立っているものではあるが、「唱歌調」に
はさらに教育的内容を含んだものであると論じている。そして、この「唱歌調」は七五調
の如何なる音数の形にも使用できることを証明している。そのような状況になった理由と
して、
「「唱歌調」唱歌は、明治期後半特有の教育用の歌の作り方によるものであった。そ
れは、もともとあった徳育的な基盤の上に、〈教育勅語〉によって一層、教育全体が拘束さ
れる中で集大成された「必然」の産物でもあった。そしてこの「唱歌調」の生成と隆盛こ
そが、皮肉にも唱歌教育を促進させる原動力となっていたのである。」28と歌と徳目との関
係性が「唱歌調」スタイルを生み出したと述べている。
1-1-4)
軍歌
幕末期、英・仏・露の開国を迫る圧力は幕府、薩摩、長州等の軍事力強化へと繋がって
いった。とりわけ、西洋式の軍隊の編成を取り入れることは、従来の鼓笛隊の編成よりも
軍の規律や志気を高めるものになるであろうと感じた。一般的に軍歌が広まったのは、
1868(明治元)年の《宮さん宮さん》であり、この歌は、慶応 4 年東征大総監有栖川宮熾仁
親王の指揮下の下に薩摩・長州・土佐・肥後の兵士等が歌ったものである。
軍歌調の特徴は 2 拍子系のものが多く、リズムも「付点八分音符+付点十六分音符」の
ぴょんこ節であったり、
「四分音符+四分音符」のような、行進曲風のものであることが多
28
嶋田由美「明治期半期「唱歌調」とは何か -その構造的特殊性と生成に至る教育的背
景-」
,第 39 巻第 1 号,日本音楽教育学会,2009,p.11
20
い。そしてその曲調は唱歌にも多く採用されていることが明らかになっている。
集団統制の一つとして利用された軍歌が校歌にも取り入れられているのは事実である。
軍国調はとりわけ男子学校によくみられる。中高一貫校である海城学園は、「第一校歌とい
うのは最も古いもので、明治、大正を通じて歌われたもの、何年頃制定になったか、又作
詞者、作曲者が誰かもずべて不明である。十節から成っているが、餘りにも超國家主義的
であり、餘りにも軍國調であるので、こゝには(二)、(三)、(四)、(五)、(九)の五節のみ
を掲げる。
」29もちろん現在は歌われていないが、勇ましい歌詞と軍歌調のリズムが校歌と
して歌われていたことがわかる。
二
春爛漫の花の色 水も隅田の川の面に
ヘビーの聲も勇しく
三
櫂先競ふ八丁艫
雪と見粉ふ白ジャケツ 七ツボタンの燦爛と
御濱御殿の深綠 スタイル寫す水鏡
四
帆綱に叫ぶ雪嵐 激浪怒濠の其の中を
木の葉の如く漂ひつ
五
今や行くらん遠き海
秋肅條の海の色 潮に暮れ行く品海に
艫拍子高く歸り行く
九
春秋茲に三十年 植ゑし心の櫻花
色麗しく海の上に
29
海城健兒の雄々しさよ
また陸の上を競ふ
海城六十年史編纂委員會(1951)『海城六十年史』
,海城学園,p.67
21
譜例5 海城学園
1-1-5)
まとめ
このように校歌は、①お茶の水女子大学の校歌“みがかずば”、②祝祭日に歌われるよう
になった儀式用唱歌、③唱歌、④軍歌の複数の伏線から生まれたのではないかと考えられ
る。校歌が多く制定され始めた時期は明治 30 年代である。この頃は忠君愛国の思想が一層
徹底してきた時期でもある。そのような状況下において校歌に課せられた役割は非常に大
きなものではなかったのではないだろうか。
〈文部省訓令第 7 号〉の法の下、多くの学校は、
初めて歌われたとされる《みがかずば》、学校で歌われる唱歌、祝祭日に歌われる儀式用唱
歌に合わせ、または参考に、学校の集団の中に帰属意識を持たせようと校歌を制定した。
これが今日の校歌の一般的概念を生み出す結果になったわけではあるが、校歌という新し
い音楽ジャンルが確立されたのではないだろうか。
第2節「校歌」の始まり
-辞典・書物・新聞記事-
1-2-1)
「校歌」の始まり -辞典-
辞典で「校歌」という言葉を定めている調査を行ったのは牧(2006)である。牧は「校歌」
がどのように表記されるのか複数の音楽系統の辞典を調査した。30その結果『日本歌謡辞
『音楽事典(平凡社)』(1966)、
『新訂標準音楽辞典(音楽之友社)』(1992)、
『新音楽辞典楽
語(音楽之友社)』(1977)、
『音楽中辞典(音楽之友社)』(1979)、
『音楽大事典(平凡社)』(1982)、
『邦楽百科辞典(音楽之友社)』(1992)、『日本歌謡辞典(桜楓社)』(1985)、『日本音楽大事
30
22
典(桜楓社)』のみの記載であったと報告している。また、宮島(2009)は音楽辞典に校歌の項
目がなぜないのか音楽之友社に電話で問い合わせを行っている。その結果「①音楽辞典は
監修者の意見もあるが、外国の音楽辞典を参照して作成していて、外国の音楽辞典には「校
歌」という言葉がない。②「校歌」という音楽ジャンルはない。自由でどのような曲調に
してもよく、どのような傾向の歌か決められない。③「校歌」の歴史が考えられず「校歌」
自体は説明を要するものではない。
」31という回答を記している。これらのことから、多く
の辞典で校歌の記載がないという理由が、海外の辞典を参考にしているからであり、校歌
そのものをみても、歴史・音楽の確立がなされていないということから辞典に表記するこ
とが憚られるということである。
では、一般的な辞典に「校歌」という言葉が常用的であると初めて定めた辞典はいつ頃
に出版されたのか。それは、1915(大正 4)年『大日本国語辞典』である。
「かう-か 校歌(名)
其の學校の校風又は特徴などを擧げたる歌」 32とある。現在でも校歌と引くと「その学校
の理想、特徴、精神などをもり込んで作詞、作曲され、学生、生徒、児童にうたわせる歌。」
33
と記されていることから 1 世紀近く経とうとしている現在も校歌の概念は変らないとい
うことであろう。
1-2-2)
「校歌」-書物-
校歌に関して特化した書物が出版されたのは、1916(大正 5)年であった。
『校歌ロオマン
ス』34と題された本は、いくつかの学校の校歌や寮歌などを紹介し、その学校背景や歴史
について述べている。その後この本の続編として、同 8 年に『續校歌ローマンス』が出版
されている。嶋田(1981)によると、
「大正期には教育関係の雑誌等に、小学校に於ける校歌
の意義について述べ、唱歌教育の中でも効果的にこれを扱うべき旨の論説が掲載され始め
た。そして実際にこの頃、各地の小学校主催の唱歌演奏会でも児童が校歌を斉唱するケー
スが多く見られた」35と記述している。これらを踏まえて検討すると、校歌は大正期にな
典(平凡社)』(1985)、
『ラルース世界音楽事典(福武書店)』(1989)、
『図解音楽事典(白水社)』
(1989)、
『カタカナ引き音楽辞典(春秋社)』(1993)、
『ニューグローヴ世界音楽大事典(講談
社)』(1994)、
『音楽英和事典(リットーミュージック)』(1997)、『最新音楽用語事典(リッ
トーミュージック)』(2003)、
『定番実用音楽辞典(ドレミ楽譜出版社)』(2001)、
『新編音楽
中辞典(音楽之友社)』(2002)、
『日本音楽教育事典(音楽之友社)』(2004)、『新編音楽小事
典(音楽之友社)』(2004)、計 18 冊を調査した。牧具己(2006)「校歌の音楽文化的視点か
らのアプローチ」
,大阪芸術大学博士論文,p.6
31 宮島幸子(2009)「校歌の文化的役割」
,
『京都文教短期大学研究紀要第 47 集』,京都文教
短期大学,p.90
32 上田万年・松井筒治(1915)
『大日本国語辞典 第 1 巻』,金港堂書店 p.700
33 日本大辞典刊行会(1974),
『大日本国語大辞典 第七巻』,小学館,p428
34 出口競(1916)
『校歌ロオマンス』,實業之日本社
35 嶋田由美(1981)『小学校唱歌教育と校歌』
,『日本音楽教育学会 第 12 回総会・研究発
表会』(要旨),p.10
23
ると広く人々に認知され、学校外の人々がその学校の校歌を知ること・聞くことができる
状況になってきたということである。
1-2-3)
「校歌」-新聞紙面-
次に日本で初めて「校歌」という文字が世間に登場した新聞記事・文献について述べて
みる。2013 年現在、インターネット上で検索ができる新聞記事は朝日新聞「聞蔵Ⅱ」、読売
新聞「ヨミダス歴史館」
、神戸大学付属図書館デジタルアーカイブ「新聞記事文庫」がある。
これらの検索に「校歌」という言葉を入力検索してみると、1903(明治 36)年の読売新聞の
朝刊の教育面が最も古い検索結果となった。
「大日本膨張の歌と群馬懸農業學校校歌」36と
いう見出しは、読売新聞が募集した「大日本膨張の歌」を群馬県農業学校が校歌として用
いるという内容である。これ以後「校歌」という言葉は同新聞にたびたび紙面に登場して
37 、
いる。
いくつか列挙すると、1906(明治 39)年「教育界雑事/早稲田大學校歌募集」
1907(明
治 40)年「歌曲採用認可/東京府より東京市南山尋常高等小學校歌(東久世通禧作歌
小山
作之助作曲)を同校唱歌用として採用方文部省へ伺出でしによりえを認可したり」38と続い
ている。
第3節
校歌調とはなにか
明治30年代に多くの学校で制定された校歌は、お茶の水女子大学の校歌《みがかずば》、
儀式用唱歌、唱歌、軍歌との関係性から成り立っていると考えられる。様々な伏線から成
り立つ校歌ではあるが、校歌に対する一般的な考えは単調である。ここでは校歌に対する
一般概念を紹介するとともに、校歌を制作する側である、作詞者・作曲者の考えを紹介し、
その差異を考察する。
1-3-1) 校歌の価値観の変容
児童・生徒の内面の思想統制は校歌によっても行なわれた。これを別の視点で考えてみ
ると、子供たちの心を大人達の手によって、その学校の校風、その他に、都合よく色を付
けてしまうという意味でもある。また、そのことに関して岩城元氏は、「(略)大体において
校歌は、山は青く、水は清く、母校は高くそびえ、児童、生徒は希望に燃え、理想高く、
勉学にいそしんでいるのである」39と述べている点からも分かる。同特集の取材に応じた
36
37
38
39
読売新聞,朝刊1面,1903 年 11 月 17 日,読売新聞社
読売新聞,朝刊 2 面,1906 年 9 月 14 日,読売新聞社
読売新聞,朝刊 2 面,1907 年 2 月 22 日,読売新聞社
岩城元(1985)
「シリーズ・日常からの疑問 43 こんなものいらない!?」,
『朝日ジャー
ナル』
,pp.92~93
24
東京都千代田区神田小学校の米沢純夫教諭も、
「校歌は、子供にとっていい音楽を、という
発想から作るのではなく、親、教師など管理する者の願いを伝えようというのが大部分だ。
しかも、それを歌わされる場所が式とかで、子供にとっては苦痛な音楽になっている」40
と述べている。さらに、詩人であり法大教授宇左近氏も同特集で「(略)校歌ではなく、徳目
が曲を持ったものにすぎない」41と手厳しい意見を述べている。即ち、岩城氏は大人の郷
愁として学校や自分の育った環境、その学校の建学の精神を校歌の歌詞に歌い込んでいる
と指摘している。
同様の意見は朝日新聞“今日の問題”でも
「終戦という文化や風俗の大変革、学制改革などを経てなお、という感じである。第
一、山は青く、水は清くと歌詞の上では学校の所在地をたたえても、その青い山が付
近の住宅の屋根にかくれてみえなくなっていたり、水はきたなくなってしまったりし
た学校も多いはずである。それに固有名詞を変えればどの学校にも通じそうである。
どんな若者を育てたい、どんな人間になりたいという理想がよみこまれているような
校歌にもあまりお目にかからない」42
と歌詞と異なる、変わりゆく学校周辺の環境と類似した歌詞の校歌の多さが校歌の個性
を無くす原因であると批判している。また、校歌の旋律に関しても、
「曲も何となく古くさい。戦前派、戦中派がこれだけは文句なしに戦後派にかぶとを
脱ぐのは音楽に対する感覚である、その若者たちは日ごろ、自分たちの校歌をどう考
えているのだろうか」43
と校歌の歌詞、メロディーに関して批判している。同新聞「ことばと暮らす」ではお茶
の水女子大学教授外山滋比古氏が
「(略)
「偉そうな」校歌が世の中にいかにたくさんあるか、甲子園の高校野球でよく
わかる。試合が終わる。勝ったチームの校旗掲揚にあわせて校歌が流れる。その校歌
がいかにもむずかしい。どうせ聞いているだけではわかるまい、というのでテレビは
字幕を出す。漢文調、文語体でごつごつしていかめしい。なかばお経のように、意味
を考えないで歌われているのかもしれない。それにしても、もうすこしわかりやすい
歌詞にならないものか、といつもながら感じる」44
40
41
42
43
44
同上
同上
『朝日新聞 夕刊
同上
『朝日新聞 朝刊
2 面 1979 年 8 月 20 日』,朝日新聞社
18 面
1987 年 8 月 6 日』 朝日新聞社
25
と歌詞の文体批判をしている。校歌の歌詞と周辺環境のギャップについて述べている記
事もある。
「小・中学校の校歌といえば、地元の名勝や海や山をはじめ、豊かな自然と環境を歌
いこんだものというのが通り相場だったが、ご存知公害はそれすらもストップをかけ
るご時勢になった。とくに代表的な名勝は日本一の山――富士にとどめを刺すが、東
京都内ではこの春、小・中学校あわせて二十四校が新設され、このうち半分はすでに
校歌が作られたが、
「富士」を歌いこんだのはわずか一校だけで、これから作詞する学
校も半数は使わない予定であるという」45
理由は大気汚染により東京都心から富士山を望めなくなってしまったということ、では、
校歌はどうあるべきものなのか。長谷川良夫氏は、
「(略)校歌は慣用的であると共に藝術的でなければならぬと言う原則がここに確認さ
れる。そして、校歌も校舎も個々の學校特有のもので、同じ環境の中で心身を育てて行
く一種の小さい運命共同體をなす學校にとつては、母校への尊敬と愛情のシンボルでな
ければならないだろう(略)校歌の場合、そのような校歌にとつての最も望ましい性格
のためには、藝術性と言うことを殊に重視する必要がある。妙なことにこれが不思議と
忘れられがちなものなのであるが46」
と述べている。
校歌の出発点が儀式用唱歌であったためか、固定観念にとらわれすぎ(校歌の歴史につ
いては第2章で述べる)
、教育的なことが第一義とされ、子供達が好んで歌うことの配慮が
欠けていた。このことは大正期に起こった赤い鳥童謡運動と類似した部分ではないだろう
か。そのことに気づいたのか、戦後制定された校歌には、個性や校風が表された校歌が登
場してきたのではないだろうか。
1-3-2)作詞者・作曲者の思い
ありきたりで単調と言われている校歌だが、作詞者・作曲家自身も悩んではいる。作曲・
編曲家でありピアニストでもある谷川賢作氏は、
「僕自身が悩むのは実際的な部分。どこに“おいしい音域”を持っていくのか。小学
45
46
「教育ニュース 時代の転変 校歌と公害」 『教育手帳』 1970 年 11 月
長谷川良夫(1951)
,
「校歌論-團體歌に於ける諸問題 體驗を中心に-」
,
『教育音楽』
,
第 6 巻,第 9 号,p.19
26
生に歌える音域とかね。ときには、3つも調を作って学校に送ります。98%の子が楽し
く歌えるように、意識して作っています。」47
また、作曲家の木野普見雄氏は、
「わたしの作曲態度として言えることは“歌詞の言葉使いに忠実たらんとする”心構
えである。作詞者は相当にあれこれと思索めぐらして慎重に作りあげるものである以上、
その点を尊重してメロディーを作りあげなければ歌曲としての生命はないと思うのであ
る。一校々々の校歌は異なるはずである。これまでにざっと五十曲の校歌を作曲したこ
とになるが、歌詞の持ち味を生かし、それに忠実な曲譜を書き上げるとすれば、それぞ
れ歌詞が異なるのと同様に曲調も一つ一つ異なる曲であるはずで、そこに類型的なもの
はみられないのが本質かもしれない。しかしやはり、音楽形式は限られた音程や、進行、
終始型に規制を受ける点があるので、マンネリは極力これを排除しつゝも、部分的には
他の曲調に相似たメロディーが現れることはやむを得ない、作曲者の一番気を使う点は
・
・
・
・
・
そこにある。前作の校歌のマネ をしたのではないかと曲解されることがこわいのであ
る。
」48
国語学者であり、多くの校歌を作詞した土岐善麿氏は、
・
・
「どういうことをぼくがまず条件にするかといえば、日本語の正しい表現、それはこと
・
・
・
・
ばして時代的な感覚をもつものであると同時に、うたってアクセントのゆがみの起こら
ないように注意する。具体的にいえばたとえば、第一節、第二節、第三節と、同じメロ
ディーに作曲されて、同じ位置に配されたことばが、もしアクセントのちがうものであ
ると、かならずうたいにくいばかりでなく、日本語として成り立たないものになってし
まう。
」49
これらのことから、作詞者も作曲者も一校ゝゝの校歌に対し、曲調をどうするか、言葉
のイントネーションとの兼ね合いはどうなのか等、真剣に取り組んでいる姿勢がうかがえ
る。しかし、残念なことに校歌を集め見てしまうことで校歌の単純さ単調さが浮き彫りに
なってしまう。校歌制作は学校側から作詞者・作曲者に依頼されるパターンが多い。その
際、
「こんな言葉を入れてほしい」という歌詞内容は、大体が学校周辺の地域環境であった
り、学校の歴史や教育目標だったりする。作曲も、多くの児童・生徒が歌える曲でなけれ
ばならないこと、小学校、中学校、女子学校、男子学校等、学校種に合わせた音域・旋律
作りをしなければならない。このような状況下であっても、作詞者・作曲者は常に依頼さ
れた学校に思いをはせて制作しているということがわかった。
47
48
49
「あなたは校歌を覚えていますか?」,
『月刊ピアノ』,ヤマハミュージックメディア,
2008,p.6
木野普見雄(1967)
,
『学園の歌 木野普見雄作曲校歌集』,私家版,p.102
土岐善麿(1952)
「校歌」
,
『弁論』,第 42 号,信友社
27
第2章 時代ごとの校歌・教育概観
日本の多くの学校では校歌を所有し、入学式や卒業式などの各式典で歌っている。それ
故に学校生活から何年、何十年と離れてもなんとなく口ずさんでしまう人々もいるようで
ある。校歌は学校の象徴の一つである。他の象徴として挙げられるものに、校章や校旗な
どが挙げられる。しかし、これらの中で校歌ほど、私たちは母校を思い返し、涙を流した
り、心が熱くなったりするものは無いのではないだろうか。校歌には集団の中での帰属意
識が高められるという力が潜んでおり、それが後々でも歌われる要因の一つであり、懐か
しむ要因でもあると考えられる。
本章では明治期から現代にかけての校歌の歴史を探ると共に、そこから見えてくる校歌
と学校のかかわり、歴史背景を明らかにするものである。今回は小学校の音楽教育と校歌
を中心にみていく。具体的には、第一に明治期から現代にかけての時代背景を明らかにす
る、第二に、校歌の歴史を整理すると共に、当時出版されていた学校管理書や出版物に記
されている校歌の有り様についても明らかにする、第三に、校歌は小学校教育と深い関わ
りがあったので、小学校の音楽教育の歴史も明らかにする。
第1節 明治期 近代教育の成立と校歌
2-1-1)時代背景
1867(慶応 3)年、大政奉還を行い王政復古をさせ、約 700 年間続いた武家政治は終わりを
迎え新たな時代が到来した。新政府は、諸外国より遅れた日本の文明を近代化するために、
積極的に維新改革を行なった。1868(明治元)年に五箇条の誓文を公布し、同年 9 月に一世一
元の制を導入、翌年には江戸を東京と改めた。薩摩・長州・土佐・肥前の藩主に朝廷へ版
籍奉還をし、さらに中央集権体制を強化するために、1871(明治 4)年廃藩置県を行い全ての
藩は廃止され府県となった。強硬な新政府の改革は旧幕府群の不満を増長させた。それは
明治元年に鳥羽・伏見の戦いに始まり、その後、一年半近くにわたって内戦が続いた。し
かし、新政府軍の力に旧幕府勢力はほぼ壊滅状態になった。
またこの時代は、政府機関の整備も進められ祭政一致による天皇親政の方向性を作り、
大宝令の復活を行なった。国内統制した新政府は同年に岩倉使節団を欧米に派遣し先進文
明を学んだ。
文化の面でも西欧の影響を受けて近代化した。福沢諭吉の『学問のすゝめ』は民主主義の
思想を日本にもたらした。中江兆民はフランスのルソーの思想を紹介し、後の自由民権運
動に大きな影響を与えた。やがて、明治 20 年代以降、森鴎外、夏目漱石らの新時代の作家
たちが、言文一致の文体により、リアリズムの文学を創出した時代でもある。
28
2-1-2)明治期の音楽教育
明治期の音楽教育は第 1 章で記してある。ここでは概要を記す。1872(明治 5)年、学制
が公布し、小学校に「唱歌」
、中学校には「奏楽」を規定したが、様々な理由により「当分
之ヲ欠ク」とされた。そのような状況から 1879(明治 12)年、文部省が音楽教育の実施のた
めに「音楽取調掛」を開設した。音楽取調掛では①東西二洋の音楽を折衷して新曲を作る
こと、②将来国楽を興すべき人物を養成する事、③諸学校に音楽を実施する事、等々であ
った。これらの目標を達成するための一つとして、1881(明治 14)年、アメリカに留学して
いた伊澤修二(1851~1917)がボストンの音楽教育家ルーサー・ホワイティング・メーソン
(1818~1896)を中心に『小学唱歌集』を刊行した。
文学界では明治当初から「言文一致運動」が起っており、明治 30 年以後から音楽界でも
この影響を受け言文一致唱歌が生まれ、日本人にとって歌いやすい新たな唱歌であった。
また、音階も日本の五音音階と西洋の七音音階を融合させた、いわゆる「ヨナ抜き長音階」
が主流ともなっていた。さらに文部省は 1911(明治 41)年から 1914(大正 3)年にかけて『尋
常小学唱歌』を発行し、「文部省唱歌」が誕生したのである。この文部省唱歌集は、現在で
も小学校音楽教科書の教材として使用され、共通教材の一部となっている。
2-1-3)明治期における校歌の歴史
明治期の校歌の歴史は第 1 章で儀式用唱歌との関係性の中で述べている。それらによる
と日本で最も古い校歌は東京女子師範学校(現
お茶の水女子大学)の《みかがすば》である
と指摘されている。
文部省に残る通達は、1891(明治 24)年 6 月 17 日に施行された〈文部省令第 4 号〉「小学
校祝日大祭日」であり、これが契機となり、多くの学校で制定されるようになった。翌(明
治 27)年 12 月 28 日には、
〈文部省訓令第 7 号〉では、小学校で歌う曲は全て文部省の認可
を取らなければならないと定めた。
制定される以前の状況としては、1892(明治 25)年『長崎軍歌』の中に長崎県の尋常高等
学校・小学校の校歌の歌詞をみることができる。その中の例言に「校歌は一に去る明治二
十三年十月三十日に下し賜ひたる教育に関する勅語の御旨を奉戴して作れるをれば其生徒
の心得べきことを叙べたることころは皆い同一にしつ看ん人ことを諒してよ」50と述べて
いる。戦後まで教育の根底を成していた教育勅語を基にして校歌を作ることを提唱してい
る。
1896(明治 29)年、学校で歌う唱歌の体裁をまとめた『学校必用唱歌集』の中に各学校行
事で歌う唱歌が掲載されており、その中に「校歌」 51がある。自序に「此書何の為に作れ
るぞ。曰く世の此種の唱歌を望むもの極めて多し。然るに今猶欠如たり。是れ世の自ら揆
50
51
井口潮(1892)
『長崎軍歌』
,蛾眉三房,p.4
加賀里路・楠美恩三郎(1896)
『学校必用唱歌集』
,村上書房,p.14
29
らずして此編ある所以なり」52と、各行事で歌う唱歌についての有り様について綴られて
いる。
2-1-4) 明治期のまとめ
これらのことから推察するに明治 23 年に発令された教育勅語が一つのきっかけとなり各
学校で校歌が制定され始めたと考えられる。そして、明治 27 年の〈文部省訓令第 7 号〉に
より、唱歌の認可制度が始まり、その中で校歌も認可を求めるようになった。結果的に、
そこでの検閲を通過するために修身的な歌詞や旋律が多くなったのではないかと考えられ
る。そして、明治期は音楽教育がなかなか普及しなかった時代でもある。そのような時代
の中でも学校は校歌を求め、制定した。校歌を制定する学校が多くなってゆくと共に、校
歌の様式についてどのような形が望ましいのか人々は考え始めた。
第2節 大正期 自由主義教育と校歌
2-2-1)時代背景
1916(大正 5)年に吉野作造(1878~1933)は民本主義を提唱し、身分や性別などにとらわれ
ない普通選挙によって立憲政治を実現していこうと、護憲運動が展開された。また、美濃
部達吉(1873~1948)が天皇機関説を提唱した。この 2 つの支柱は第一次大戦後の様々な運
動や芸術に影響を与えたといわれている。
1914 年サラエボ事件がきっかけで第一次世界大戦が勃発し、日本は輸出が増大したため
好景気の状態になっていた。また、対戦中の 1915(大正 4)年には日本は日英同盟のという立
場を利用し中国侵犯を目論だ。結果、中国側に 21 カ条の要求をつきつけ、要求をのませ、
中国を侵略した。しかし次第に日本経済は下降を辿ってゆく。代表的なものとして 1918(大
正 7)年に起きた米騒動が挙げられる。この事件はシベリア出兵を見越した商人達が米を買
い占めた結果、米価高騰の状態になり、富山県の漁村の主婦たちが一揆を起こしたのであ
る(越中女一揆)
。この暴動は全国に広まり軍隊が鎮圧にあたった。そして、世界大戦終了
後、日本は戦後恐慌にみまわれる。戦後恐慌にみまわれた人々の生活は混沌とし、その不
満を解消するために人々は団結し運動を起こした。代表的なものに、日本労働総同盟が起
せいとう
こした労働運動や日本農民組合が起こした農民運動が挙げられる。また雑誌「青踏」を発
行していた青踏社の平塚雷鳥、市川房枝らが女性に地位向上と参政権を求めたことはよく
知られている。このような社会問題は学問や芸術の間でも影響を与え、総称して大正デモ
クラシーと呼ぶ。また、大正時代は市民文化が非常に反映した時期であり、また、ラジオ
放送、トーキー映画など文化の大衆化が進んだ時代でもあった。
52
同上,
「学校必用唱歌自序」の頁
30
2-2-2)大正期の音楽教育
大正期は教育が行き届いた時代でもある。中学校の生徒数が増大したことにより、高等
教育機関も拡充された。それに伴い大学機関の拡充も行われた。また、軍国主義の強化に
より、兵役義務が 6 週間から 1 年間の延長、中等学校以上への軍事訓練の導入など軍国教
育が確立されていった。また、朝鮮、台湾などの日本の植民地では文化・教育による同化
政策を行った。
では、当時の学校での音楽教育とはどの様なものだったのであろうか。1919(大正 8)年 3
月、小学校令施行規則改正において、一週間に行なわれる唱歌教育時間数が 1 時間ないし
は 2 時間削減することを認めている。また 1926(大正 15)年唱歌が必修科目として認可され、
音楽の教員が正式に教員として採用された時代である。
当時最も使用されていた唱歌教科書は『尋常小学唱歌』である。この教科書は文部省が
明治 44 年 5 月 8 日に第一学年用を発行し、その後、大正 3 年 6 月 18 日までに第六学年用
を発行し完了した唱歌集である。5 年間かけて発行されたこの唱歌集は、以後、20 年間小
学校で使用され続けた。
『尋常小学唱歌』は、前身にあたる『尋常小学読本唱歌』(1910 年発行)の影響を受けて
いる。韻文による作曲、新しい旋律は、前々作の『小学唱歌集』の反省から生まれたもの
である。そして、
『尋常小学唱歌』は国定教科書へ向けての意図もあった。それは早くから
の洗脳教育であり、国としての統一を唱歌からも試みようとしたのである。結果、曲調は
子供向けであるかもしれないが、歌詞が軍国的であったり、教訓めいていたりと芸術的に
は乏しいものであった。
このように唱歌教育というのは子供に社会や大人の独善的な価値観を押し付けるもので
あり、子供の情操教育を養うものではない。『尋常小学唱歌』は長い年月をかけて各学年用
に教科書を作り、中身を吟味し、当時問題になっていた、言文一致運動に対する一つの答
えを提唱したものである。そして、天皇制や軍国主義を唱歌によって子供たちに示した。
しかし、当時の新しい教育や、文化に適してはいなかったため、子供たちの心は離れてい
くばかりであった。
2-2-3)大正期における校歌の歴史
1913(大正 2)年『尋常小学校
管理教授及訓練の実際
第二学年』が発行された。この本
は東京高等師範学校講師の山松鶴吉が書いたもので、はしがきには「予は小学校の教育書
に関して、平素次の如き考を抱いて居る者である」 53と但し書きをした後、小学校の教育
書についてあるべき姿を語っている。そして、理想的な教育書になるように筆者自身の考
えが書物になったと語っている。そのような考えは校歌にも表れている。
「第三編訓練の方
53
山松鶴吉(1913)
『尋常小学校
管理教授及訓練の実際
31
第二学年』,同文館,p.1
面」
、
「第二章校歌」54において、
「一
校歌の趣旨
校歌の趣旨を徹底せしむる一方法としての其の趣意を歌詞によみ含
めたものを校歌といふのである。規則的理屈的の校訓も歌として表せば、一種の感情を惹
起して、心から我々は斯くあらねばならぬといふやうに引き込まることとなるものである。
故に校訓の趣旨を体得せしむる上に於て、校歌を制定することが必要なのである」
、
「二
校歌の実例
校歌の制定には左の条件が必要である。(1)歌詞は極めて平易にすべ
きこと、之を讀んで容易に分る程度のものでなければならぬ。(2)余り長からざること、長
ければ取扱上にも困るし、且つ記憶させるにも面倒である。(3)歌曲は児童の気風と嗜好と
に適したものでなければならぬこと。名古屋市花木尋常小学校の校歌は校名を基礎として
趣意一貫頗る意を得て居るから茲に校歌の実例として之を紹介しておこう。明治三十三年
の/九月一日此の庭に/植えし花の木生ひ立ちて/榮えゆくこそ樂しけれ/つちかふ人の
玉の汗/根にはなさけの雨となり/葉には慈の露となる/なぞのびさらむ庭の木々/智は
つち
ひろかれよ天高く/徳は根ざせよ地深く/その名もかほる花の木の/譽は世々につきざら
む」
「三
校歌の取扱
校歌が制定されたならば、よく之を記憶せしめて成るべく多くの機
会を求めて合唱させることが必要である。折角校歌が出来ても児童が喜んで歌ひ、何時と
なしに口を衝いて歌はるるといふに至らねば、効果は薄いのである。夫故に教師はつとめ
て多くの機会をつくって合唱させる方針をとり、校訓徹底の目的を達するやうの心掛けが
なくてはならないのである」
と、具体的な校歌の書き方や校歌例が提示され、校訓と校歌のかかわり、そして徹底的に
歌うことが鍛錬によいという考えが書かれている。
当時、植民地であった京城(現在のソウル)でも、同様の教育指南を行っていたことがわか
る。
『学校訓育の実際』という教本は、「近時朝鮮半島に於ける教育が次第に盛になりつつ
あるは誠に喜ぶべき事であるが最も意を思想善導に用い、児童訓育の徹底を期することは
何よりも緊要なことであると思う」55述べている。さらに詳しく見てみると、
「第二十三章
校訓(附校歌)」の章で「校歌も亦校訓と同じく制定否制定に何れを可なり
とすべきものでなく、制定の際は適当なるものを選擇し、之をよく利用して徳性を涵養す
るにあるのである。茲に最も留意すべきは、校訓校歌は共に必要なる徳目にて生徒の行為
につきての規範なるも、何れも区々たる断片的の道徳要目多きを以て、之を取扱ひたりと
て決して満足することなく、教育に関する勅語の旨趣を体得せしめ、以て中心精神たる忠
54
55
同上 pp.542~543
大塚忠衛(1924)
『学校訓育の実際』,教育普成,p.3
32
孝の大道を、深刻に生徒の脳裡に徹底せしめねばならぬ」56
と、日本の教育とまったく同じことを言及している。ただ、校歌を「脳裡に徹底」させ
る考えは、生徒らを洗脳するに近い考えではないだろうか。同化政策の徹底さがうかがえ
よう。
このような学校管理書のようなものは多数出版されており、57それらに一貫していえる
ことは校訓との関わりが深いという事である。校訓を歌いこめることにより学校集団の一
員であるという意識が生まれ、教育勅語との関わりで国家の一員であるという意識も生ま
れてくる。大正期における教育の充実は教育意識の改革にもつながってくると考えられる。
大正期には一般書物のなかに校歌について書かれたものが出版され始める。
1916(大正 5)年に『校歌ロオマンス』という本が出版されている。巻頭において「三、予
が材料募集中意外に感じた事は左しも、堂々たる学校にして、未だ一つの校歌をも有して
居ない学校の存在する事であった。校歌と云うものは一般に重視せず月並なものの様に考
える人々があるけど、唄われつつある間に青少年達の頭脳に沁み入る――その人々を直接
間接に感化する事は非常なものである」58と、歌うことにより、学校への帰属意識が芽生
えると述べている。またこの本は 1919(大正 8)年に続編となる『続校歌ローマンス』59が
出版されている。
1917(大正 6)年に出版された育児教本『親のため子のため』において「我が校歌に敬礼し
た運動選手のなつかしさ」60という物語が綴られている。シカゴ大学でフットボールの試
合を観戦している中で、一人の選手が試合中に倒れてしまう。周囲の人間はその選手が死
んでしまったのではないかと思い不安になる中、見物席にいたシカゴ大学生らが校歌を歌
い始めた。その数、五千人の大合唱である。
「
『今そこに傷ついて将に死せんとする若者は、我校を代表する選手であります。奮闘勇
こいねが
よみ がえ
戦して不幸痛手の為に倒れたのであります。神よ。 希 はくば、今一度余命を與えて蘇生ら
せ賜え』と天に訴え地に慟哭するのであります。うれしや、間もなく其選手は息吹き返し
て立ち上った。数万の見物人は、吾を忘れて、ドッと声を上げた。此時こそ敵も味方もな
い。起き上がった選手は懐かしの校歌が学友の声で歌われて居る事を知った」61
と、綴られている。校歌が持つであろう力がわかる一文である。物語は息を吹き返した
56
57
58
59
60
61
同上 pp.146~147
この他にも、横尾繁六・長谷部眞里(1917)
『実際的統一的小学校校規規範』,目黒書店
や乙竹岩造(1924)
『新学校管理法』
,培風館などが挙げられる。
出口競(1916)
『校歌ロオマンス』
,実業之日本社,pp.1~2
出口競(1919)
『続校歌ローマンス』,実業之日本社
岸邊福雄(1917)
『親のため子のため』,実業之日本社 pp.144~150
同上 pp.147~148
33
選手が歌ってくれた学友に対し敬礼をし敬意を表す。怪我をしてしまったその選手は涙を
拭いながらベンチスタンドへ連れて行かれる。この一貫した出来事の観客のマナーが物語
のポイントで観客としてヤジを飛ばすのは無礼な事であるから心得ておくようにと締めく
くられている。この物語は『女子現代文讀本』にも採用され、62将来の母、教師になるで
あろう女子生徒らの教育読本として読まれたのであろう。
同様に、物語の中で校歌を織り込んでいる本がある。『あふれる愛の学校』という本の
「
(七)校歌」がある。63「今日は校歌があるわね」、
「そうそう、今日は月曜日ですからま
たうたえてね」
、「私校歌は大好きよ」、「私も」と生徒が校歌を歌える楽しさ、校歌に対す
る尊厳、愛校心がうかがえる。
2-2-4)大正期のまとめ
大正期は教育環境・文化水準が成長した時代である。教育教本の中に校歌に関する記述
が記されるようになったり、一般書物も出版された。校歌そのものが学校の外を出て、大
衆に認知され始めたということである。さらに大正期は近代文学の発展が目立った時期で
ある。その近代文学を築き上げた人物たちの多くは、唱歌集の作詞だけでなく、校歌の作
詞も行っている。言葉に対する新たな価値観は文化思想だけでなく、国家主義的な教育思
想と重なり、大きな発展を遂げたと考えられよう。
第3節 昭和前期 皇国主義体制と校歌
2-3-1)時代背景
第一次世界大戦後、株価が暴落すると日本は一気に不景気になってゆく。さらに関東大
震災が経済に追い打ちをかける状況となり金融恐慌が始まった。また、関東軍が起こした
満州事変をきっかけに国際社会からの孤立の道へと進んでゆくこととなり、失業者の増加、
農民の貧困は社会の閉塞感を漂わせ、1931(昭和 6)年の三月事件、十月事件や 1932(昭和 7)
年の五・一五事件、1936(昭和 11)年、二・二六事件などテロやクーデターが頻繁に勃発し
た。1937(昭和 12)年盧溝橋事件をきっかけに日中戦争が開戦し、国民意識の統制、思想・
言論の取り締まりを強化し、長期化する戦争体制を確立していった。1941(昭和 16)年に太
平洋戦争が開戦すると、出版物の検閲、米の配給制度、国民の生活は困窮するばかりであ
った。1944(昭和 19)年には本土の爆撃が本格化、1945(昭和 20)年、沖縄の本土占領、広島・
長崎に原爆が投下され、8 月 15 日終戦を迎えた。
62
63
奈良女子高等師範学校国語研究会(1920)『女子現代文讀本 巻二』,金港堂書籍,
pp.8~13
大久保龍(1923)
『あふるゝ愛の学校』,大同館書店,pp.49~52
34
2-3-2)昭和前期の音楽教育
大正期でも記したが、この当時使用されていた校歌は『尋常小学唱歌』が中心であった
が、1932(昭和 7)年に『新訂尋常小学唱歌』が発行された。これは『尋常小学唱歌』とは異
なり、大正期の童謡運動を反映するかのように、修身的な歌詞内容だけでなく、子供たち
の視点にたった歌曲を採用している。しかしながら、堅苦しさを払拭することができず、
今日まで歌い継がれている歌は極めて少ない。1941(昭和 16)年に〈小学校令〉が改正され
〈国民学校令〉が公布されると、尋常小学校は国民学校初等科と名前を変えた。教科書も
同年に『ウタノホン上(第一学年用)』、
『ウタノホン下(第二学年用)』
、1942(昭和 17)年に
『初等科音楽一(第三学年用)
』
、
『初等科音楽二(第四学年用)』
、1943(昭和 18)年に『初等
科音楽三(第五学年用)』
、
『初等科音楽四(第六学年用)』が発行された。これらの教科書
は〈国民学校令〉第一条「国民学校ハ皇国ノ道二則リテ初等普通教育ヲ施シ国民ノ基礎的
錬成ヲ為スヲ似テ目的トス」に沿った内容で軍国調であり、聴音教育に重点が置かれてい
る。音楽が軍事目的で利用されたのは言うまでもなく、戦局が厳しくなっていくと教育自
体が行なわれなくなってしまった。
2-3-3)昭和前期における校歌の歴史
1931(昭和 6)年 9 月 10 日に〈文部省令第 20 号〉で、明治 27 年に施行された〈文部省令
第 20 号〉が廃止された。さらに同日〈文部省令第 21 号〉が施行され〈小学校令施行規則
第 53 条第 2 項〉で、
「唱歌用ニ供スル歌詞及楽譜ハ文部省ノ選定ニ係ルモノ、前条ニ依リ府県知事ノ採定シタ
ル小学校教科用図書中ニ在ルモノ及其ノ採用小学校ニ特ニ関係アルモノニシテ府県知事ニ
於テ文部大臣ノ認可ヲ受ケタルモノノ外採用スルコトヲ得ス」
と定めた。
「其ノ採用小学校ニ特ニ関係アルモノ」という文言により、校歌を制定してい
たが認可を受けていない学校も改めて認可を求める動きになっていった。実際、この時期
の校歌認可件数は急増している。641941(昭和 16)年に国民学校令が施行されると、
〈小学校
令施行規則〉に記された内容を引き継ぐ形で、
〈国民学校令施行規則第 36 条〉に規定され
た。結果、昭和 22 年までその効力は及ぼされたのである。次に、この時代に出版された教
本を記す。
1927(昭和 2)年に出版された、
『標準教材唱歌新教授法』は、校歌の中身について言及し
ている。
64
校歌の認可状況においては、杉沢盛二(2010)
『戦前の歌曲認可制度に関する研究
認可記録の収集と法令の検討を通して-』(発行者は著者本人)がある。
35
-
「一般に此の種の唱歌は、いいものを要求しなければならないのですが、未だ我国一般に
音楽が十分に進んで居らない為に、やれ博士に作歌してもうとか、やれ音楽学校の教授に
作曲してもらうとか、肩書の立派な事を第一とし、いや之は何々博士の作だからと、博士
の作だという事を以ていいとして居るのであって、歌の良い悪いという事は、第二の問題
にして居る。それはとてもつまらないと考えます。」65また、「兎角日本人は、わかり切っ
た様な事を、だれにでもわかる様に言えるものを、わざと擬古文を作ってみたがるもので、
それが為に歌詞がほんとうに通俗的一般的に歌われないのであります。古文は古文で古の
時代に用いられた死文字であります。その現在使用してない様な言葉、死文字をつらねて
みて、立派な歌詞だと心得て居るのはどうも私にはわからない。今の人々には今の人々の
用いる文字言葉で十分に表し得る筈ではないか。それをことさら古い死文字を羅列して得
意然たるものは、ほとんど文学を解していないのであります。(略)私は今日市歌とか、校
歌とか、市町村歌とか、又は青年会處女会の歌は、総て現代文で作ってほしいと思います。
そしてなるべく一般に通じる様にしたいと考えます。しれは然し古い頭の人をどうとかし
なければ、それ等の人々のイバッて居る時代には困難な事かとも考えます。」66
多くの校歌に有りがちな様式について言及している。このような校歌の批判は現在でも
なされていることである。校歌に対する考え方は時代と共に変容するべきであるという価
値観は戦前からあったという事である。
1933(昭和 8)年に出版された『生活学校と学習統制』では、
「校歌はできるだけ概念的な説明を止めて、お互いの協働を赤熱させるものでありたい。
校歌は協働への情熱的統制指標であるべきだからである」67と、校訓や徳育を校歌に歌い
込み精神鍛錬させる考えが推奨されていた大正期とは異なり、校歌そのものの内容よりも、
校歌を合唱するという事に重きを置いている考え方である。
そのような考え方は他の教本でも言われている。
1936(昭和 11)年、
『体験と反省魂の教育実践』では、
「式歌並に校歌は日本精神国民生活の充実を培う上に力がある。唱謡する場所からも、
時からも壮厳そのものでなくてはならぬ。誠をもって謡い、正しき歌曲によって厳粛その
もので歌わねば、その精神的に及ぼす影響はやがて小なるものとは思われぬ。(略)校歌も同
様、愛校心は勿論、凡ての団結力は校旗と校歌に集中し、よりよい愛校精神の培ひとなり、
やがては郷土愛、国家愛の教養ともなって行く。故に此の方面の指導を十分に、国民生活
65
66
67
栗山周一(1927)
『標準教材唱歌新教授法』
,大同館書店,p.276
同上,pp.284~285
野村芳兵(1933)
『生活学校と学習統制』,厚生閣書店,p.157
36
の発展振作に努力することを心掛けねばならぬ。」68
同年、
『児童訓練の原理と実践』では、
「校風又は教育精神を最もよく象徴したものが校歌である。故に校歌を一読するならば、
その学校が如何なる学校であるかを諒解するに、さほど困難を感じないであろう。校歌は
児童がみずから口ずさむことの出来るような、親しみあるものであれば、それだけ児童の
情操を陶冶し、特性の涵養に資することが大であろうと思われる。この意味に於て校歌が
優れたる詩であることは、最も望ましい。」69
1937(昭和 12)年『新日本の学校訓練』には、
「校歌の制定は最近何れの学校に於ても考えられているようで、誠に結構なことである
が、之も要するところ内面的に学校を統制する点に於て重視されるのである。この自覚な
しに一種の流行で制定されるものとするならば、それは機械化した儀式のように何等我々
の精神にタッチせぬであろう。故に校歌はそれを歌うこと、又は聞入ることによって精神
的に一致した境地に入るべきもので、そこに校歌の生命があるのである。之は国家に於て
も同様のことである」70と記されている。
同年、
『新制準拠統合小学校管理法』には、「校歌
校訓と同様に全校児童の修徳の目標
を示すものとして校歌がある。校訓が一般に知的であり形式的であるのに対し、校歌は運
動会・学芸会・卒業式・終業式等児童の学校生活における諸行事の際その感情に訴えるか
ら、不知不識の間に児童の精神生活に徳性を印象する。」71
これらの教本は校訓・徳目を歌詞に表すことを前提として、さらに歌う事の意義を中心
に述べられている。合唱することは集合体から生まれる団結力、精神統一につながること
であり、学校の集合体の考え方は、地域の集合体、国家の集合体に繋がって行くという教
えを促すことにつながるということを示唆している。
2-3-4)昭和前期のまとめ
昭和前期において教本の出版が 1936(昭和 11)年、1937(昭和 12)年に集中している。この
時期は日中戦争が開戦された年であり、翌年には国家総動員法が施行された年である。昭
和 6 年から〈文部省訓令第 7 号〉に代わる、〈文部省令第 21 号〉が施行された。文部省に
よる認可制度は、時代に合う歌詞でなければ認可されることはない。これは国民の思想統
68
69
70
71
入澤宗壽・久保田清(1936)
『体験と反省魂の教育実践』,第一出版協会,p.103
松本浩記(1936)
『児童訓練の原理と実践』
,培風館,p.218
野瀬寛顯(1937)
『新日本の学校訓練』,厚生閣書店,p.132
小西重直・長田新(1937)
『新制準拠統合小学校管理法』,金港堂書籍,p.183~184
37
制が校歌からも行われたという事である。
1937(昭和 12)年『質疑応答 教育音楽の研究』に「問三
校歌が出来たのですが、文部
省への手続きを御教示下さいませ(失名)」とあり、「まずその校歌を正副二通清書し、作曲
者、作詞者名を記し、歌詞とその学校との関係その他、許可するに足る材料説明書等を、
左記の如き認可願に添えて学校長から各地方庁経由文部大臣に申請すればよい」72と、詳
細な説明と申請のフォーマットが掲載されていることからも、多くの学校がこの時期に制
定を求めていたということがうかがえよう。
昭和前期は国難であった。多くの学校で校歌を制定したということは、学校における集
団統制だけでなく、国民としての意識統一も考えていたのであろう。
第4節 昭和後期 民主主義と校歌
2-4-1)時代背景
第二次世界大戦が 1945(昭和 20)年 8 月 15 日に終結した。空襲によって多くの地域が焦
土化し、食糧・住居・インフラ等全てが一からの出発となった。1950(昭和 25)年の朝鮮戦
争(1953 年休戦)により国内の需要が増し、好景気の兆候が見られ国民の生活も安定してき
た。1960(昭和 35)年にカラーテレビ放送開始、1964(昭和 39)年東海道新幹線の開通・東京
オリンピック開催等、高度経済成長が始まる。1968(昭和 43)年に小笠原諸島、1972(昭和
47)年に沖縄が返還され本土復帰した。その成長の陰で東京大学を発端に全国の大学で紛争
が勃発した。赤軍派による日航機によるよど号ハイジャック事件(昭和 45 年)、浅間山山荘
事件(昭和 47 年)は世間を震撼させた。1970 年代も引き続き高度成長期は続くが 1973(昭和
48)年の中東戦争によりオイルショックを受け経済は一時混沌とする。国民の生活が豊かに
なるにつれて、いじめ問題、家族間の問題、入試教育の激化等、豊かさとは反比例するか
のように社会問題が大きく取り上げられるようになる。1990(平成 2)年頃のバブル崩壊は今
もなお日本経済に影響を与えている。1995(平成 7)年、阪神・淡路大震災、2001(平成 13)
年アメリカでの同時多発テロ、2011(平成 23)年東日本大震災による東京電力福島第一原子
力発電所の放射能問題、人災・天災の被害は深刻である。
2-4-2)昭和後期の音楽教育
とりわけ戦争末期に於いて学校教育はほぼ行われていない状況であった。都市部の児童
は郊外へ学童疎開、中等教育の生徒等は軍需工場へ動員、17 歳以上の男子は兵役に徴収さ
れた。終戦後、教育の正常化を図るために、1945(昭和 20)年 9 月 15 日に「新日本建設の教
育方針」を発表した。その内容は、①新教育の方針は国体の護持を基本とし、軍国的思想
72
林松木(1937)
『質疑応答 教育音楽の研究』,照林堂書店,p.79
38
を払拭し、科学的思想力を涵養し、平和愛好の信念を養う。②教育体制を平時体制に復帰
させる。③教科書は新教育方針に従って改訂する。④新事態に即応し教職員の再教育を行
う。⑤学生の学力不足を補うための措置をとる。⑥科学教育と社会教育を振興する。⑦郷
土中心の青少年団体を育成する。⑧国民の宗教的情操を養い世界平和を図る。⑨体育を振
興し競技による国際親善を図る。⑩文部省に体育局、科学教育局を新設する73である。さ
らに教育の正常化のために、
〈教育基本法〉(昭和 22 年)、
〈学校教育法〉(昭和 22 年)を定め
た。戦前までの教育思想は〈教育勅語〉に定められていた。戦後、新たに制定された〈教
育基本法〉は「二十六条
すべての国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じ
て、ひとしく教育を受ける権利を有する。すべての国民は、法律の定めるところにより、
その保護する子女に普通教育受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。」と
規定している。また、
〈学校教育法〉では九章一〇八ヶ条および附則から成り立っている。
これにより六・三・三・四制の新しい学校教育が確立した。さらに、同年、〈学指導要領試
案〉発表し、教科・科目・授業時間数が定められた。その中の音楽の配当時間は以下の通
りである。比較するために現在の授業時間も記す。枠内の数字は 1 年間の総時間数であり、
括弧内の数字は毎週の平均時間数である。
小学校(昭和 22 年)74
音楽
第一学年
第二学年
第三学年
第四学年
第五学年
第六学年
70(2)
70(2)
70(2)
70-105
70-105
70-105
(2-3)
(2-3)
(2-3)
小学校(平成 23 年)75
音楽
第一学年
第二学年
第三学年
第四学年
第五学年
第六学年
68(2)
70(2)
60(1.7)
60(1.7)
50(1.4)
50(1.4)
新制中学校(昭和 22 年)76
音楽(必修科目)
第七学年
第八学年
第九学年
70(2)
70(2)
70(2)
中学校(平成 23 年)77
73
74
75
76
77
上原一馬(1988)
『日本音楽教育文化史』,音楽之友社,p.330
文部省(1972)『学制百年史』
,p.712
文部科学省 HP「小・中学校の授業時数に関する基礎資料」,
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/siryo/07061432/005/001.htm.
文部省(1972)『学制百年史』
,p.723
文部科学省 HP「小・中学校の授業時数に関する基礎資料」,
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/siryo/07061432/005/001.htm.
39
音楽(必修科目)
第一学年
第二学年
第三学年
45(1.3)
35(1)
35(1)
また戦後、授業内で使用される教科書は戦争に関する不適切な部分が墨で塗りつぶされ(通
称「墨塗り教科書」)使用された。昭和 22 年からの新学制により、学習指導要領に基づき国
定教科書を廃止し、検定教科書の方針へ移行した。その検定基準は 1949(昭和 24)年〈教科
用図書検定基準〉に定められている。その中の第五章「音楽科の検定基準」の「一
絶対
条件」の主要部分を記す。
(一)わが国の教育の目的と一致しているか。
(二)立場は公正であるか。
(三)音楽家の指導目標に一致しているか。
①音楽美の理解・感得を行い、これによって高い美的情操と豊かな人間性とを養う
に適するか
②音楽に関する知識及び技術を習得させるに適するか。
③音楽における創造力を養うに適するか。
④音楽における表現力を養うに適するか。
⑤楽譜を読む力及び書く力を養うに適するか。
⑥音楽における鑑賞力を養うに適するか。78
その他にも「二
必要条件」や器楽に関しての条件が細かく記してあり、戦争教育に利
用していた音楽から、子供たちの情操教育を育てる教育へ移行する様子がわかってくる。
2-4-3)昭和後期における校歌の歴史
1893(明治 24)年〈小学校祝日大祭日儀式規定〉が契機となり多くの学校で校歌が制定さ
れ始めたと言われている。さらに 1894(明治 27)年に〈文部省訓令第 7 号〉により小学校で
歌われる全ての唱歌は文部省の認可を受けなければならなくなり、校歌の認可も受けてい
る学校がある。この訓令は 1931(昭和 6)年に〈文部省令第 20 号〉により廃止され、同日に
〈小学校令施行規則第 53 条第 2 項〉に施行され〈文部省訓令第 7 号〉と同様の内容であり、
学校で歌われる唱歌は文部省の認可を受けなければならないというものである。1941(昭和
16)年に国民学校令が施行されると〈国民学校令施行規則第 36 条〉に引き継がれ、昭和 22
年まで効力は及んだ。戦後も同様に校歌の制定義務はなく、文部科学省に問い合わせたと
ころ、
「校歌については、各学校において定めるものであり、届出等に関する制度や推奨す
る通達等はございません。
」79と文部科学省初等中等教育局初等中等教育企画課から返事を
78
79
岩井正浩(1978)『日本音楽教育小史』,青葉図書,p.323
論者が問い合わせ、2012 年 12 月 25 日に返答をいただいた。
40
いただいた。
このように校歌の具体的な制定義務はなく、各学校が制定し、認可を求めた結果が、今
日の日本の校歌の現状である。
谷川俊太郎氏は、
「八十年をへだてた日本語の変わりようは、おそろしいほどである。古
い校歌を廃して、新しい校歌を作ろうという動きは、私の知る限りでも二、三あり、その
動機は例外なく生徒たちが歌詞を理解できなくなったというところにある」80と述べてお
り、現代においても校歌の変化は乏しいということと、そこから新たな学校の象徴を模索
する学校があるということがうかがえる。ではそのような学校はどのような校歌を制定し
ているのだろうか。
2-4-3-①)様々な校歌の取り組み
学校を卒業してから校歌を歌う機会があるとすれば、それは同窓会やクラス会のような
場所ではないだろうか。近年では、そのような単位での集まりではなく、大きな会場を貸
し切り“校歌祭”なるイベントを催している地域がある。東京都では「東京校歌祭」(東京
校歌振興会主催)81、神奈川県では「かながわ校歌祭」
(かながわ校歌振興会)を毎年行っ
ている。82また、2004(平成 24)年、静岡県沼津市では「第五回沼津文学祭」
(沼津市教育委
員会・沼津文学祭開催実行委員会)において、
「心のふるさと我らが校歌 ~「ひと」と「こ
とば」と「うた」の饗宴~」と題して「沼津校歌祭」を行った。毎年どこかの地で“校歌
祭”なるものが行われている。さらに最近の傾向としては、動画で校歌を閲覧したり、同
窓会で校歌をアップしたり電子媒体から発信していく傾向がみられる。
2012 年 12 月 7 日から 3 月 21 日まで NHK 教育テレビ“デジタル・ティーンズ”で「校
歌ミュージックビデオグランプリ」というコーナーがあり、自分たちの学校の校歌のミュ
ージックビデの募集を募り競うというコーナーがあった。校歌をアニメで表現したり、ド
ラマ仕立てにしたり、映像で表現するという手法は新しい校歌の価値観ではないだろうか。
校歌はカラオケ屋でも歌える。83ジャンル“校歌・学生歌”を検索すると 18 曲みること
ができる。1.愛知大学予科逍遥歌/2.足音を高めよ/3.紺碧の空-早稲田大学応援歌-/4.
紫紺の歌-明治大学応援歌-/5.創価大学学生歌/6.第一高等学校第十一回記念祭寮歌/7.
第一高等学校第十二回記念祭寮歌/8.第三高等学校逍遥の歌/9.第三高等学校琵琶湖周航
の歌/10.第二高等学校校歌/11.弘前高等学校校歌/12.法政大学校歌/13.明治大学校歌
/14.立教大学応援歌〈st.paul’s will shine to-night〉/15.立教大学校歌/16.若き血/17.
早稲田大学校歌/18.早稲田の栄光
80
81
82
83
谷川俊太郎(1974)
「校歌は変る -一実作者の感想-」,『世界』,第 348 号, p.302
2013 年 10 月 5 日に第 21 回が行われた。
2012 年 11 月 25 日に第 7 回が行われた。
2012 年 11 月 20 日、東京都練馬区カラオケ館江古田店を調査
41
このうち校歌は 8 曲である。
校歌の力には、音楽的な力と歌詞から表現される力がある。これらの力が合わさること
により、集団の中での帰属意識が高められるということが、潜んでいるのではないかと考
えられよう。これがまた、校歌が後々でも歌われる、思い出に残る要因の一つとも言える
のではないだろうか。
2-4-3-②)新たな校歌
朝日新聞 2012 年 3 月 3 日夕刊に「校歌
型破り列伝」84と題して名古屋にある私立
至学館高等学校の記事が掲載されている。貴校は 2005 年に共学化に伴い新校歌(タイトル
ゆめおいびと
「夢追人」)制定。
「昨夏(2011 年)の全国高校野球選手権大会に野球部が初出場したのを機に、注目が集
まった。動画サイトで再生回数が 100 万回を超え、学校には「カラオケで歌いたい」
「CD
を売って」と要望が相次いだ」85
とある。実際に聞いてみると校歌とは思えないほど、歌詞もメロディーも“今どきの歌”
のような感じである。86
ゆめおいびと
以下に、夢追人の歌詞を記す。
一番高い 所に登って
一番光る 星を掴んだ
一番辛い 道を選んで
一番強い 心をまとった
海を渡る 風が吹いた
カシオペアが
夢を追い続けた
近くに見えた
そしてここまで来た
でもどうしてかな熱い涙が止まらない
うつむきかけた時 君の顔が見えた
差し出された白い腕が翼に見えた
いろんなことを
あんまり先を
84
85
86
経験したね
急がないでね
朝日新聞,夕刊,11 面,2012 年 3 月 3 日,朝日新聞社
同上
アトン・ミュージックから 2012 年 3 月 1 日に販売されている。
42
いろんな人に
めぐり会えたね
そんな旅なら
悪くはないさ
オリンポスの
丘の上から
女神様の 声が聞こえた
夢を追い続ける
もっと遠くへ
でもどうしてかないつもみんなにいて欲しい
一番星よりも
夏の星座が好き
※君がいれば夜を超えて銀河になれる
(※印は、三回くり返す)87
同新聞では他にも「型破りな校歌」を紹介している。1984(昭和 59)年創立の名古屋市立
名東高等学校は英語と日本語の歌詞で歌われているそうだ。また、岐阜県立各務原市立那
加第一小学校は 1929(昭和 4)年に校歌が制定されているのにもかかわらず、3 拍子で作曲さ
れているという。また、1967 年の朝日新聞「学校だより」88には東京都世田谷区立鳥山中
学校の校歌を紹介している。鳥山中学校は校歌に合わせて体操を行っているという。
「運動会などで、みんなで楽しくやります。これによって私たちも、校歌はただうた
うだけでなく、体育にも利用できることを知りました。校歌をうたい、それに合わせ
てからだを動かすことによって校歌の意味もしみとおってゆくようです89」
と、校歌と体育を関連させた教育を行っているという。歌詞とメロディーに身体的リズ
ムをつけることにより、校歌の内容を理解させるだけでなく、記憶もさせるという働きが
あると考えられる。
このように他の学校とは異なる特徴を持つ校歌というものが注目されるということは、
それだけ校歌というものがいかに型にはめられた形式をとっているかということである。
他にも近年の校歌制定の傾向として、芸能人やミュージシャンによる作詞、作曲の校歌
が見受けられる90。彼らが校歌を手掛ける理由は依頼された学校の出身者であったり、出
原文のまま(至学館高等学校校歌『夢追人』 アトン・ミュージック)
朝日新聞,朝刊,24 面,1967 年 10 月 1 日,朝日新聞社
89 同上
90 バンド“レミオロメン”のボーカリスト藤巻亮太氏は山梨県立笛吹高等学校の作詞、作
曲を手掛けている。
『朝日新聞 朝刊 山梨県版 29 面 2011 年 3 月 9 日』
ジャズ演奏家の渡辺貞夫氏が作曲、歌手でありギタリストでもある布袋寅泰氏が作詞を
したのは県立宇都宮工業高等学校(校歌名「無限大」)である。
『朝日新聞 朝刊 栃木県
版 25 面 2011 年 4 月 8 日』
アニメ“新世紀エヴァンゲリオン”の作詞者、及川眠子(ねこ)氏は和歌山市立藤戸台小
学校の作詞をたんとうしている(校歌名「希望のしるし」) 『朝日新聞 朝刊 和歌山
87
88
43
身地であったりすることが多い。その土地、その学校に何らかの関わりがあり、校歌作成
を依頼されるだけの知名度がある。校歌作成者に知名度を求める傾向は昔からあった。し
かし、その地域や学校に関わりがある有名人となると、校歌作成の人物選定は一気に狭ま
り、結果的にそこにオリジナリティが生まれ、校歌に対する愛着が生まれると考えられる。
実際、一昔前までは全国の学校の校歌を一人の作詞家、作曲家が何十、何百曲も作成し
ていた時期があった。
「校歌を制定するには、中央の作詞作曲家に依頼するとか、懸賞募集によって一般か
ら公募するなどの方法が最も多いが、中央の大家に依頼するとなると、校歌一つ作る
のに四~五〇〇万円かかるといわれているので、どこの学校も経費難のおりから、そ
の実現は困難とされている91」
この文章は栃木の県立高校に勤めている福田邦雄氏が記述したものである。実際にその
ような大金を支払わなくてはならないのか否かは定かではないが、校歌の作詞者、作曲者
に名を連ねる人は決まった人々が多い。代表的な人物に山田耕筰、北原白秋、大和田建樹、
信時潔などが挙げられる。彼らに校歌作成依頼する過程もいくつかの学校では学校史等で
明らかになっている。具体的に各学校の分析の際には詳細に触れていきたい。
作詞者、作曲者のオリジナリティを追及するという考えは“校歌”という名前そのも
のにまで及んでいる。通常、
“校歌”は「○○高等学校
校歌」、
「○○学園
校歌」であり、
校歌自体に“校歌名”を持つということはあまりなかった。しかし、近年制定された校歌
には“校歌名”=“タイトル”を持つものが多い。先ほど述べた至学館高等学校の校歌の
タイトルは“夢追人”である。他に脚注でも記されているが、「無限大(県立宇都宮工業高
あけひ
あけひ
等学校)
」
、
「希望のしるし(和歌山市立藤戸台小学校)」
、
「明日の空に(北海道登別明日中等教
育学校)」等ある。タイトルをつけることにより、その学校の“完全オリジナル”校歌にな
るということである。どの学校にもない“我が校だけの校歌”を追求した形ではないだろ
うか。
2-4-4)昭和後期のまとめ
新たな教育方針の下、音楽教育は戦争利用から子供たちの心身の発育に寄与するであろ
う情操教育を中心とした教育に移行した。そして、同じ色に染める集団教育から、個人を
県版 32 面
2011 年 5 月 29 日』
あけひ
シンガーソングライターの大黒摩季氏は北海道登別明日中等教育学校の校歌を作詞作曲
あけひ
している(校歌名「明日の空に」
)
「あなたは校歌を覚えていますか?」(2008),『月刊ピ
アノ』
,ヤマハミュージックメディア,p.6
91 福田邦雄(1966)
「校歌雑感」
,
『高校教育 三月号』,実教出版社,p.15
44
尊重した集団教育へと変化した。また、少子化の影響も伴い多くの学校は閉校・統合の危
機にさらされている。そのような状況下に於いて学校そのものの個性も重要視されている。
その中の一つに校歌を利用した方法もあるということだ。校歌は大人達から押し付けられ
て歌うものではなく、子供達が主体となって歌うものであるという根本的な部分に注目し、
児童等で校歌を制定したり、その学校を卒業した著名人に依頼したりするという、その学
校でしかできない方法で校歌を制定する学校が出てきた。校歌には愛校心を持たせる力も
あるが、メディアの発達により学外の人間がその学校に注目するきっかけにもなる。それ
は世相を反映した新たな価値観の校歌の誕生でもあるのではないだろうか。
第5節
まとめ
このように、近代日本の音楽教育と校歌は時代と密接に結びついていたという事がわか
った。明治後期ごろから制定され始めた校歌は、時代と共に変容し、求められる姿に変り、
日本人のアイデンティティを支配した。そこには明治 27 年に施行された〈文部省訓令第 7
号〉の小学校で歌われる歌は全て文部省の認可を受けなければならないという規定があっ
たからでもある。しかし、
〈文部省訓令第 7 号〉自体はあまり効力を成していたものではな
かった。それを表すかのように大正期では、校歌の書き方や意義について記された書物が
多く出版されている。そして、昭和 6 年に施行された〈小学校令施行規則第 53 条第 2 項〉
は多くの学校に認知され、各学校で独自に制定していた校歌も改めて認可を求めるように
なった。認可を得るために文部省からの歌詞修正を受け入れた学校も多々あった。
校歌は、一般的に単調であると言われやすい。それは制度的な問題だけでなく日本人の
歌唱能力も関係するのではないだろうか。7 音音階になじめず、折衷音階の「ヨナ抜き音階」
を愛唱し、西洋的なリズムや拍にも馴染むことが出来ずにいた。小学校の唱歌の必修化は
大正 15 年になってからである。昭和に入り、戦局が厳しくなれば、西洋音楽に対する検閲
が厳しくなり、終戦間近には授業さえ行われなかった。このような音楽教育も校歌が単調
になってしまう原因の一つではないだろうか。
多くの教本の中に校歌を制定するべきであるという考えは記されてはいる。そして、そ
の考えは時代と共に変容している。そもそも、校歌は文部省が義務付けたものではない。
学校関係者が自発的に作ったものである。多くの学校関係者は教本を参考に校歌を制定し
たのかもしれない。しかし、制定の義務がなかった校歌をこれほどまでこだわるのはなぜ
なのか。近代日本における日本の歴史は発展途上の状態であった。新しい時代と共に西洋
の文化を吸収すること、天皇中心の国家体制にしていくこと、戦争に勝利し国力を上げる
こと、それまであった国民の意識を改革し、全員が同じ方向を向いて前進していく必要が
あった。その中で校歌は日本国民のであるという帰属意識を幼少期から徹底させるのに有
意なものであった。生徒たちにとっては大人たちの押し付けでしかないのかもしれない。
しかし、校歌を斉唱することで自然と学校への愛校心や郷土愛が育まれ、皇国主義的な歌
45
詞は、日本国民としての自覚が芽生えさせる。校歌は国家的帰属意識が生まれる一つの装
置的な役割を成しているという事がわかった。しかし、戦後はそのような教育観から子供
を主体とした教育観に変った。校歌もその様子を反映し、子供達が理解できない文語体、
学校側の教育思想を押し付けるものではなく、理解しやすい文体で子供達が歌いたいと思
えるような校歌が増えてきている。校歌はその時代ゝゝを状況を映す鏡のようなものであ
る。そして、学生時代に何度も歌った校歌は私たちのアイデンティティの形成にも大きな
関わりを持たせるものであるということがわかった。
46
第3章
女子中等教育の校歌の成立と変遷
ここでは女子中等教育で制定された校歌を、①キリスト教、②私学、③都立・公立の 3
つのカテゴリーに分け論じることにする。3 つの学校種別に分けることにより、そこから読
み取れる歌詞・旋律の類似性・相違性を明らかにできるのではないかと考える。また、時
代ごとにみていくことで、その時代背景が校歌からも読み取れるのではないかと考えた。
第1節
調査・分析方法
3-1-1)調査対象学校の選定について
校歌採集にあたりフィールドワークに適した場所であること、歌詞を分析するにあたり
地理的条件がそろっていることを念頭に首都圏に限定した。校歌資料の採集は国立国会図
書館、東京都立中央図書館、野間教育研究所を中心に行なった。高等学校は直接訪問、ま
たは校歌資料を提供してもらえないかと一校々々手紙を書き送付した。なお、横浜共立学
園は論者が資料室を訪問し、資料提供していただいた。
校歌採集を行う際、歌詞と楽譜がそろっている状態が分析対象になりうると考えていた
が、採集を通して必ずしも歌詞、楽譜の両方が揃うという状況になるわけではなかった。
理由として多くの学校は研究調査に協力的ではあったが、そうではない学校もあったとい
うことが挙げられる。それにより著作権の問題が発生し、資料の取得や本論文で掲載が不
可能になってしまった校歌があるのは残念である。また現在歌われていない校歌(旧校歌)
の歌詞は現存するが、楽譜までは所有していていない学校もあった。
明治 27 年以降は文部省に小学校で歌う全ての歌は認可が必要な時期であったが、全ての学
校が徹底していたわけではなかったし、その他の上級学校で求められていたわけでもない。
今回は法的な認可を得ているか否かは関係なく、学校側が校歌として制定していたという
事実を優先した。
3-1-2)分析方法について
まず、学校の沿革を調べた。次に歌詞の意味内容について考察した。歌詞内容を明らか
にすることは、学校側が学生に対し意図する教育思想を明らかにすることでもあるからで
ある。また、可能な限り作詞者、作曲者も調査した。校歌を作った人物を知ることも学校
の教育思想を知る手がかりとなるかもしれないからである。メロディーに関しては、旋律、
伴奏譜や他のパートが記譜されている場合には和声、終止感などの特徴を挙げる。これら
の特徴を挙げることにより、当時の日本の音楽の水準や単調といわれている校歌のパター
ンを明らかにすることができるのではないかと考えるからである。また、歌詞とメロディ
ーとの関係を明らかにすることは、メロディーラインと言葉の響き、言葉の組み合わせに
となるリズムや意味内容との調和が取れているのか、歌詞の意味内容が強調されている部
分とメロディーの強調部分は等しい関係性にあるのか分析をする。
47
これらを分析することにより、歌詞から、この時代が求めていた人間像を明らかにし、
それらの歌詞がどのように旋律と合わさっているのか、校歌の作曲構造について分析を行
なう。そうした総合的な視点から、明治期の校歌の思想、音楽を明らかにしようと思う。
第2節
明治期
3-2-1)明治期における女子中等学校の教育環境
明治期におけるキリスト教主義女学校の教育は、1899(明治 32)年 8 月 3 日〈私立学校令〉
が公布されるまで「各種学校」という範疇に属していた。この「各種学校」は現在でも存
在するが、92比較的職業に直結する学校が各種学校と名乗っている。しかし、明治期にお
いては、
また明治初期では、近世の漢学塾の流れを汲む学校が各種学校であったし、明治中期
まではほとんどの女学校が各種学校であった。不就学の女児のための子守学校も各種学
校であった。また明治中期の小学校に附設された女子の裁縫学校としても存在した。あ
るいは、一八九九(明治三二)年「私立学校令」以後は、中学校、高等女学校同様の教育内
容の学校が、宗教教育を行なうが故に各種学校となる場合があった。93
と、非常に多様さを示している。このような状況下になった理由としては、1879(明治 12)
年の〈教育令〉の中の第二条「学校ハ小学校中学校大学校師範学校専門学校其各種ノ学校
トス」と定めているからである。
キリスト教主義女学校においても多くの学校が〈私立学校令〉が公布されるまで各種学
校であり宗教教育を行っていた。そしてさらに、同年同日〈文部省訓令 12 号〉が公布され
ると、
「一般ノ教育ヲシテ宗教ノ外二特立セシムルハ学制上最必要トス依テ官立公立学校及
学科課程二関シ法令ノ規定アル学校二於テハ課程外タリトモ宗教上ノ教育ヲ施シ又ハ宗教
上ノ儀式ヲ行フコトヲ許ササルヘシ」と宗教学校でありながら宗教教育を禁止され、キリ
スト教主義学校含め、多くの宗教学校では建学の精神を揺るがす問題となった。しかしな
がら、キリスト教主義女学校の多くは「各種学校」に留まり宗教教育を固持する学校が多
かった。結果的に改めて〈私立学校令〉に基づき学校設置願いを提出し、承認してもらい
高等女学校に準拠する形となった。
キリスト教主義女学校は、従来から礼拝の時間や音楽の授業で讃美歌を歌っており、他
の女学校とは異なり、音楽に関する西洋的な知識とそれを応用した音楽表現能力を有して
いると考えられる。当時のこのような音楽に関する西洋的な知識とそれを応用した表現能
力の高さについては 1882(明治 15)年にカールスが「日本語賛美歌のための音楽」で、「疑
92
93
簿記、看護師、調理、受験予備校など。
土方苑子(2008)『各種学校の歴史的研究 明治東京・私立学校の原風景』,東京大学出
版会,p.2
48
いもなく、キリスト教主義女学校では欧米の、あるいは日本の伝統音楽ではない音楽を教
えることができる」94と指摘している。また、1900(明治 33)年には、ジョージ・オロチン
が「日本における讃美歌-その過去の歴史、及び統合讃美歌集が実現する可能性について
-」にも、同じく、
「日清戦争中の一八九五(明治二八)年三月に五人の従軍牧師が、戦闘
中の日本陸軍の伝道と慰問のために戦地に送られた。その中の一人に、宮川師がいた。「輸
送船で広島から出航する前に送別会が開かれ、宣教師や牧師が多数出席した。私にとって
非常に感動的だったのは、メゾジストの女学校の生徒たちが歌った《God be with you》を
聞いた時だった。ちょうどその前の晩私は大阪をたったのだが、同じ讃美歌を梅花女学校
の学生がそこでもうたったのを聞いたのである。二晩連続で二つの学校の女学生が歌った
この讃美歌の歌声の響きは、私に大きな感銘を与えた」95と記している。カールスが「日
本語賛美歌のための音楽」を書いた 1882(明治 15)年、日本の音楽教育界では 1881(明治 14)
年『小学唱歌集(初編)』が刊行された年であり、伊澤修二等が音楽教育からも日本を西洋化
しようと乗り出した時期でもある。しかし、その頃よりも、さらに以前から、キリスト教
主義女学校では西洋音楽に慣れ親しみ、讃美歌を愛唱していたことを考えると、キリスト
教主義女学校へ通う生徒の音楽に関する知識や表現力に関する理解が高かったと言えるの
かもしれない。
さらに、当時のキリスト教主義女学校の音楽教育に関する報告が『近代日本音楽教育史』
に記されている。その中の「ミッションスクールにおける音楽教育」の項96で、1887(明治
20)年前後のフェリス英和学校、神戸和英女学校、活水女学校、東京一致英和学校、97東京
英和学校98の音楽の授業時間は学科により音楽の授業時間は異なるが、どの学校も数時間
の音楽教育を課していたということが分かる。
「その創立の時から英語とならんで音楽が重
視され、キリスト教以外の学校よりも高度な音楽教育が課せられていたのであった」99と
記述されていることから、ミッションスクールに通う生徒らの音楽の習熟度の高さがうか
がえるのではないだろうか。
その一方で、音楽教育の困難さもうかがい知ることができる。嶋田・小川・安田(2005)1
00
は日本人の歌声の変化の調査研究を行っている。明治期における宣教師の布教活動やキ
リスト教主義女学校においての歌唱指導で「口をあける」とうい概念が希薄であり、また、
人前での開口は女性のたしなみとしてはありえないことであったという。さらに、1908(明
治 41)年 7 月 8 日に神戸の松陰女子学院に勤めるグレグソン女史がマッケンジー女史に綴っ
94
手代木俊一(1999)『讃美歌・聖歌と日本の近代』
,音楽之友社,p.262
同上 p.349
96
田甫桂三(1981)『近代日本音楽教育史』
,学文社,p.293
97
後の明治学院
98
後の青山学院
99
田甫桂三(1981)『近代日本音楽教育史』
,学文社,p.303
100
嶋田由美 小川容子 安田寛(2005)「洋楽導入による異文化適応としての日本人の歌
声の変化」
『和歌山大学教育学部紀要 人文科学』,第 56 集,pp.17~23
95
49
た手紙に、
「見るところ日本人には全般的に西洋音楽の才能がないようです。旋律とか音程
といったものに対する耳がなく、とても見当違いな声で歌ったりするのですが、自分では
それに気づいていないようなのです」101と西洋と日本の音程感覚の違い、生徒らの習熟の
遅さを綴っている。
これらのことから、キリスト教主義女学校に通っている全ての生徒らが西洋音楽をたし
なんでいたわけではなく、そこに従事する教師らは西洋音楽を教授するだけの力はあった
が、そこで学ぶ生徒には習熟度のばらつきがあるということが資料から推察できる。
私学の女学校の音楽教育環境は例えば、東京女学館102 では1年次には「単音唱歌」、2
年次には「複音唱歌」
、3,4 年次には「複音唱歌、輪唱」、1 学年から 6 学年まで通して洋
琴(ピアノ)を課している。
また、東京女子師範学校では第 1 期(6 ヶ月)唱歌、第 2 期(同)唱歌、
洋琴、第 3 期唱歌、洋琴と定めている。また今回、分析対象になっている跡見女学校では
琴を課していた。すなわち、今回調査している、キリスト教主義女学校と私学の女学校は
法制化されていない学校であったことから独自の学校教育というものを展開していったと
いうことが分かる。そして、それらの音楽教育は女子のたしなみとして和洋混在の教育を
行っていた。これは、女子教育でいかに音楽が重要視されていたかということを裏付ける
ものではないだろうか。
公立の高等女学校は旧制の女子中等教育機関に対応するものとして、1899(明治 32)年〈高
等女学校令〉が制定された。明治 5 年に発令された〈学制〉以後、初等学校の整備は進ん
だものの、中等学校以上の教育整備が行き届かない状態であった。さらに女子教育ともな
ると、尚のことであった。1882(明治 15)年 3 月 7 日文部省は「普通學務局ヨリ各府縣北海
道諸縣ヲ除クヘ通牃」103という通達を各府県に出した。この中には「女子ニ順良適實ノ教
育ヲ授クルチ」と良妻賢母だけでなく、国家の担い手として、女子教育の大切さを綴って
いる。さらに、1886(明治 19)年 12 月『東京高等女學校104生徒敎導方要項』105という教
育内容に関する三項を通達している。このような動きの中で、東京都(当時は東京府)は明治
21 年に 11 月 15 日に「府立女学校設置伺」を提出している。1888(明治 21)年に女子高等学
校である、府立第一高等女学校が(現在の都立白鴎高等学校)設置された。その後、日本の経
済水準の向上と共に女子教育にも関心が高まり、学校整備か進んでいった。
高等女学校の音楽教育は 1895(明治 28)年〈高等女学校規程〉の「第一条
高等女学校ノ
学科目ハ修身、国語、外国語、歴史、地理、数学、理科、家事、裁縫、習字、図画、音楽、
松蔭女子学院(2004) 『松蔭女子学院史料 第六集』
,松蔭女子学院,p.41
1888(明治 21)年に創立。1900(明治 33)年 5 年の普通科と 2 年の高等科を設置。1929(昭
和 4)年に小学科(すぐに小学部と改称)を開設、1936(昭和 11)年普通科を中等科、小
学部を初等科と改称。1956(昭和 31)年に短期大学を開設、2002(平成 14)年には四年制
大学を開学する。
103 『文部省日誌
明治 15 年 第 1 号至 40 号』(1981),歴史文献
104 現在のお茶の水女子大学
105 『五十年史』(1932),東京女子高等師範学校付属高等女学校
101
102
50
体操トス」106と必修科扱いとしている。またこの当時の音楽の授業時間は週 2 時間であり、
授業内容は、
「単音唱歌及複音唱歌ヲ授ク又便宜箏曲ヲ授ク」であった。1899(明治 32)年『高
等女学校ノ学科及基程度ニ関スル規則』では音楽の授業が週 5 時間と定められ、
「単音唱歌
及複音唱歌ヲ授ク又便宜楽器用法ヲ授ク」と、
「箏曲」が「楽器用法」に変更した。
このように高等女学校の音楽教育は他種の女学校よりも必修科が遅く、当時は日本の伝統
楽器を用いた授業を行なっていた。授業時間の拡大、楽器の使用へ変更した背景には音楽
がもたらす、女性としての教養が重んじられていたからではないだろうか。
3-2-2)明治期キリスト教主義女学校の校歌分析
3-2-2-①)共立女学校(現
横浜共立学園)
日本最古のプロテスタント系女子教育機関。1871(明治 4)年に米国婦人一致外国伝道教会
から派遣されたプライン、クロスビー、ピアソンらによって、横浜山手 48 番にアメリカン・
ミッション・ホーム(亜米利加婦人教授所)を創立。
次に、共立女学校の歌詞の引用と楽譜を記す。
一
雲かとまごう
花の園生
かさねし春を
かぞえまほし
共立わが母
とわにいませ
ながいつくしみ
二
海原わたり
わすれめやも
風は清く
うき世の麈は
麓とおし
共立わが母
とわにいませ
ながいつくしみ
三
ここにわが友
わすれめやも
心の玉
みがきておせよ
共立わが母
かたみの文字
とわにいませ
ながいつくしみ
作詞
106
わすれめやも
大村益荒
しかし、
「外国語、図画、音楽ハ府県立学校ニ就キテハ文部省大臣ノ許可ヲ受ケ其ノ他
ノ学校ニ就キテハ地方長官ノ許可ヲ受ケテ之ヲ欠クコトヲ得又生徒ノ志望ニ依リ之ヲ
課セサルコトヲ得」と付け加えられていたが、同年 3 月に「高等女学校規程ニ関スル
説明」に「(略)外国語、図画、音楽ハ本体ヲ必修科トシ而シテ監督官庁ノ許可ヲ得テ随
意科目ト為スコトヲ許セリ」と定めていることから、あくまでも音楽は必修科目とし
て定められていた。
51
譜例6
共立女学校
ます ら
1905(明治 38)年に大村益荒が作詞した校歌に関することは、学園史『横浜共立学園 120
年の歩み』にまとめられている。
「春になると毎年繰返し桜の花が満開する校庭、初夏とな
れば港の方より吹き来る心地よい海風に身を清められ、卒業式に贈られるグリーンのバッ
ジ KJG に含まれた、奥深い言葉をそのまま心に写せたら」と何も考えずにすらすらでき
た詞であるという(「みどりの園」第八号より)」107 と記述されている。作詞者が「何も
考えず」というほど無意識に書いた歌詞の旋律は、ドイツ民謡の《O Tannenbaum》を用
いている。
1 章では学校の春の風景、2 章では夏の学校の風景とキリスト教世界、3 章では学友との
友情を歌っている。そして、これらの詞章すべてに含まれる歌詞「共立わが母
ませ
ながいつくしみ
とわにい
わすれめやも」は要約すると、母校は永遠にあり続け、大切にさ
れ続けることにより、忘れ去られることはないという学校の永続性を謳っている。
次に校歌の原曲である《O Tannenbaum》の楽譜を掲載する。
107
神保勝世(1991)『横浜共立学園 120 年の歩み』,横浜共立学園,pp.124~125
52
譜例7
O Tannenbaum 108
旋律に関して、上記の譜面は G dur であるが、同窓会報によると、「聞く所によれば今回
編まれた譜は從來歌って居た譜よりも、一音低く歌ふことになつて居るとの事であります」
109
という記述があった。そのことを踏まえ、全体を一音高く考えると、全体が A dur、4
分の 3 拍子、16 小節の二部形式から成り立っている。メロディーラインは最低音が Gis¹
で最高音が Fis²であったことから高音域の発声が困難であったであろうと考えられる。
さらに、この校歌は原曲とは異なり、音符がいくつか省略されている。原曲の音符の数
と日本語の歌詞の文字との不一致によるものが大きいと考えられる。一音一字で構成し、
原曲の各旋律のアウフタクトは省略されている。省略した場合、省略音を補うために音符
の長さを変化させている。付点八分音符+十六分音符+四分音符+四分音符のリズムを多
く用い、さらにキリスト教系の学校ということから慣れ親しんだ讃美歌の旋律を用いるこ
とで、歌詞内容の理解に集中でき歌いやすい校歌ではないだろうか。
3-2-2-②)捜真女学院
1875(明治 8)年 11 月 2 日クララ・A・サンズが来日し山手 75 番地に私塾を開校したこ
とが始まりである。学院のホームページに「1909(明治 42)年 12 月、捜真が山手から丸山
に移ることが決まったころ、女学校教頭藤本伝吉が作詞し、アメリカの古い讃美歌のメロ
108
109
『クリスマス キャロル』(1985),日本基督教団出版局,p.89
『同窓會會報』(1933),共立女學校青年會,共立女學校同窓會,p.68
53
ディーで歌うようになりました。小学校では 1 節のみ歌います」110とある。
次に歌詞を引用すると共に譜例を示す。
一 神の心あらわれて
きよき園となりにけり
真の道とい来よと
おしえの家たちにけり
(おりかえし)111
富士の高嶺の門辺に真白く
八洲の海の軒端に青みて
にぎて
さながら幣 の色や
神の宿りのしるしなるらん
二 世にまじりて世におちず
世をすくいの君のごと
とわに薫れ園のはな
きよくあゆめ家の子よ
三 山秀でて水清し
ここ聖霊のすむところ
気はむすびて人となり
人は国の花となる
作詞
110
111
藤本伝吉
捜真女学院 http://www.soshin.ac.jp
おりかえし部分を各章ごとに歌う。
54
譜例8 捜真女学院
ホームページに記されている、
「アメリカの古い讃美歌のメロディー」について、具体的
に何番の讃美歌を歌っておられるのか飯島節子学院長に手紙で尋ねたところ、「私どもも捜
しておりますが、未だ判明していません。宣教師が使用していた賛美歌かとも思われます
が、見つかっていません。ご了承ください」と文書で回答いただいた。また、生徒らにど
のように歌詞を理解せさているのかも尋ねたところ、「中学校一年生の音楽の時間に、歌詞
の意味の説明がなされています。二代校長・カンヴァース先生の伝記からの抜粋と、私が
2005 年に話しました物のコピーを参考までに同封します」とあり、2005 年 4 月 6 日に高
校一年生の入学式で話した祝辞のコピーが同封されていた。以下は、その文書の歌詞解説
の部分である。
一番は「神の心あらわれて、きよき園となりにけり。真の道、問いこよと教えの家た
ちにけり」とあります。神様の御心によって「真理を捜すために」捜真は建てられまし
た。みなさんはその大きな目的を持った学校で学んでおられるのです。二番の出だしは
「世に交じりて、世に落ちず」です。イエス様の生きかたです。イエス様はこの世の中
で、人々の中で生きられました。特にさげすまれ、差別され苦しみの中に生きたいた人々
に常に優しい眼差しを向けられていました。表面的なこの世の楽しみ、豊かさを求めら
れませんでした。
「世に交じりて、世に落ちず」…何と深い生きかたではないでしょうか。
三番は「ここ御霊の住む所」です。礼拝が毎日守られ、神様への感謝と賛美がささげら
れる所です。そして、皆さんは「神様のみこころが行われる、神様の国の花」としてキ
55
リストの香りを持った気品のある女性に成長するのです。112
長くなってしまったが、一番では建学の精神、二番はキリスト教精神、三番は理想たる
女性像が歌いこまれている。旋律に関しては、As dur、4分の4拍子、32小節で作曲さ
れている。4つの声部は実際に歌う際に声部分けをしているかはわからないが、二分音符
や四分音符などを用い、複雑なリズムや歌いにくい高音域も無く、歌いやすい校歌である。
3-2-2-③)雙葉学園
「幼きイエス会」が設立母体である。1909(明治 42)年にフランスの修道女メール・セン・
テレーズによって設立された。
「立派な学校になったのだから、校名、校歌も定めなければということで(略)校歌は大和田
建樹先生の作詞で、作曲はたしかマダム・セン・フランソワ・レジス(注。二代目校長様)
がよい曲を三、四曲弾いてくださって、私どもも選曲に与からして頂いて、そのうちの一
つを選んでこうして、定められたように思います」113しかしその一方で、「作曲者はあの
頃マダム・セン・フランソワ・レジスだと言われたこともあるが、そうではなく既存のフ
ランス歌曲から選ばれた。しかし、作詞に合わせてマダム・セン・フランソワ・レジスが
編曲なさった部分があると思われる。それゆえマダムの俗名ジュヌヴィエヴ・ルソロン編
曲と記された事もある」114とあり、原曲であるフランス歌曲について知りたいと思い、和
田紀代子校長先生に手紙で回答を求めたところ、「学校でもわかっていない」とあり、論者
自身もフランス歌曲集や讃美歌集を調査してみたが今回見つけることができなかった。
次に歌詞を引用すると共に譜例を示す。
一
雪にも耐へて 栄ゆく春の
松のみどり
時は今ぞ
いざや習へ
いざや習へ
いざや変へぬ 操
二
めぐみの雨に ひもとく百合の
花のつぼみ
園はここぞ
いざや学べ
いざや学べ
いざや高き
色香
作詞
大和田建樹
飯島節子学院長が 2005 年高校一年生の入学式の祝辞に話した原稿。
『雙葉より』(1959),雙葉学園同窓会(同様の記述が『雙葉学園八十年の歩み』(1989)
の p.67 にある。
)
114 『ふたば六号』(1981)
(同様の記述が『雙葉学園八十年の歩み』(1989)の p.68 にあ
る。
)
112
113
56
譜例9 雙葉学園
歌詞の解説が、横浜雙葉小学校のホームページに記載されていたので転載する。
1
きびしい冬の雪にもたえて、かがやかしい春をむかえることができた松。いつ
も変わることのな
い、その美しい緑にならって、今こそならいなさい、ならいなさい。
2
神様のめぐみの雨に心をひらく、ゆりの花のつぼみよ。さあこの花ぞのでまな
びなさい、まなびなさい。すばらしい色とかおりを、そしてすばらしい色とか
おりの、美しいゆりの花となりますように115
と記されていた。自然の情景を照らし合わせて教えを説いているということがわかる。旋
律に関して、どのようなパート分けを行っているかわからないが、6小節目と11小節目
の F²を小学生が歌うのは困難と考えられる。この校歌の特徴はハーモニーを形成するだけ
でなく、二声の掛け合い部分が後半にあり(8小節目から9小節目)、強弱記号、アクセント、
クレシェンドなどがつけられていて、曲に表情がついているということである。
3-2-2-④)女子学院
1870(明治 3)年、ジュリア・カロゾルスによって設立された「A 六番女学校」が前身。
その後、B六番女学校(後の新栄女学校)、原女学校に引き継がれる。1890(明治 23)年桜井女
学校が新栄女学校と合併し、校名を「女子学院」に改称した。
115
横浜雙葉小学校
http://www2.yokohamafutaba.ed.jp
57
1992 年 9 月に出版された、
『目で見る女子学院の歴史』によると、「明治 30 年頃、ルー
ス・タムソン116によって作詞作曲された。1927(昭和 2)年に邦語の現校歌が作られるまで、
唯一の校歌として親しまれていた」117と記述されている。
次に女子学院の校歌の歌詞と楽譜を引用する。
1 Open stand thy portals wide
Bidding all who may,
Treasures rarer far than gold
Freely bear away.
Chorus
Joshi Gakuin ! Joshi Gakuin !
Thy banner o’er us spreads its folds
Our Joshi Gakuin.
2 Through the halls of varied lore
Bright with joy and song,
Wisdom holding out her hand
Leadeth each along.
3 Parted though we be at lengh
Thou dost faithful prove,
All thy daughters in thy heart
Are enshrined by love.
Chorus
Live fair Gakuin ! Live fair Gakuin !
Forever may thy green flag wave,
Our Joshi Gakuin.
作詞・作曲 ルース・タムソン
116
117
当時の女子学院の教師
『目で見る女子学院の歴史』(1992),女子学院,p.34
58
譜例10 女子学院
1章ではキリスト教主義の女子教育、
“黄金よりもはるかに尊いもの”と位置づける。2章
では知恵を導き、3章では愛の偉大さ、学校の永続性を詠っている。118
2章にはコーラス部分が記載されていないが1章と3章のコーラス部分の中に「 Our
Joshi Gakuin(私たちの女子学院)
」という歌詞が両方の詞章に含まれているところに注目
したい。最後のフレーズに学校名を掲げているということは、その部分を強調したいとい
う作詞、作曲をしたルース・タムソンの意図があるはずである。
3-2-2-⑤)青山女学院(現
青山学院)
1874(明治 7)年に米国メソジスト監督教会婦人外国伝道会社、D.E.スクーンメーカーが麻
布に「女子小学校」を開校したことから始まる。
「青山女学院となってから、明治三十五年の秋の創立記念運動会の時に、青山歌が出来
た。作者は講師某というだけで明らかではない」119とある。
以下にその歌詞を引用する。
真
118
空か水かと
た
見まがうばかり 誰か拭ひけん
参考に日本語訳を記す。日本語訳は論者が行なった。
(一番)
門戸を広く開け立ちなさい/ そこに立った者皆に/ 黄金よりもはるかに尊いも
のを/ おしみなく持ち去るがよい
(コーラス)
(二番)
女子学院!/ 女子学院!/ 私たちの信念を広げ掲げよ/ 私たちの女子学院
さまざまな知識の広間を通り抜け/ 喜びと歌と共に輝き/ 智恵が手を差しのべ/
私たちを導いてくれる
(三番)
さいごに私たちは離れていても/ あなたは必ず誠実である/ 心の中の全ての娘
たちは/ 愛によって清められる
(コーラス) 美しく生きよ 学院!/ 美しく生きよ 学院!/ 永遠に緑の旗はなびき続
けているだろう/ 私たちの女子学院
119 『青山女学院史』(1973),青山学院校友会女子短期大学部会,青山さゆり会,p.253
59
清めけん
曇もあらぬ まことの色の
いよいよすめる 青山や
善
高き尾上も
麓の里も 曲れる道は
なかりけり
正しき姿 幾千代かけて
人皆仰ぐ
美
青山や
をごとのしらべ 妙にやさしく 筆の錦の
色はえて
心の花も
さきこそまされ
ああうるわしき 青山や
道
み神の道の
奥しらばやと
雲を払ひて
わけゆけば
空に近づく 心ちこそすれ
げにいや高き 青山や
作詞
講師某
作曲 不明
明治 35 年から歌われていた校歌であったが、歌詞以上の情報を学校側も保持していない
という。
明治三十九年の運動会当日、さきの原口あい作の「告別の歌」が全校生徒に合唱され、そ
の歌の素晴らしいことから、青山歌と入替り、青山女学院の校歌として、以後、昭和二十
七年三月、女子高等部が終わるまで歌い続けられた。(略)曲は別所梅之助教師が今様風の
日本古曲から選んだと云われている120
青山の歌
一
さ と し
月花もわきて 啓示の色深し
く
学びの園の 奇しき青山
二
曇りなくとはに 栄あれ日の本の
さ だ め
運命もかゝる
三
奇しき青山
世をてらす真玉白玉
さゝげよと
神のりませり 奇しき青山
作詞 原口あい
120
作曲
日本古曲
『青山女学院史』(1973),青山学院校友会女子短期大学部会,青山さゆり会,p.254
60
譜例11 青山学院
非常に単調な旋律であるが、
「青山の校友、誰しもの耳底に残るなつかしい歌である」121
とあるように、ヨナ抜き音階で無理のない音域で歌うことにより、親しみやすさが生まれ、
長く愛唱しても忘れない校歌になっているといえよう。
3-2-2-⑥)立教女学院
1859(安政 5)年、米国聖公会の宣教師チャニング・ムーア・ウィリアムズが長崎に来日、キ
リスト教伝道を開始する。1877(明治 10)年、文京区湯島に「立教女学院」を創立。
『立教女学院百年史』によると、
「古い記録によると明治三十三年の第十一回卒業式で校
歌合唱したとある。おそらく、この式ではじめて、校歌“ますかかゞみ”は全校生徒によ
うえさねつら
って合唱されたのであろう」122と記述されている。作詞は大和田建樹、123作曲は上真行
124
である。
つぎに立教女学校の校歌の歌詞を引用すると共に譜例を示す。
一
火に水にきたひて後ぞます鏡
光りは身より出るとぞ聞く
二
朝毎に撓まず向ふますかゞみ
学びの影もうつしくらべん
三
曇りなき心の底のますかゞみ
磨きてなほも世をや照さん
作詞
大和田建樹 作曲
上真行
同上
『立教女学院百年史』(1977),立教女学院,p.16
123 大和田建樹(1857~1910)歌人、国文学者。
《鉄道唱歌》の作詞者として有名な人物で
ある。
124 東京音楽学校の教授。また宮中の雅楽寮にも仕えていた。
121
122
61
譜例12 立教女学院
校歌に関して、同学園史に、
「“ますかゞみ”には立教女学校の主義・教育理想が歌われ
ている。明治三十五年の新聞の『東京の女学校巡り』の中に、立教女学校の記事はあり、
『学
校の主義は同校の校歌をのせてその主義を紹介せんとしている」125と記述されている。さ
らに、同学園史に、
「ますかゞみは立教女学校の校歌として体育・知育・徳育の心をよみつ
るなり」126とあり、詞章は 3 番まであることから、1 章では「体育」、2 章では「知育」
、
3 章では「徳育」を詠っているのではないかと考えられる。全ての章が七五調で構成されて
おり、ミッションスクールでありながら、詞章の作りは七五調の定型を踏まえたものであ
る。
このように、学校が求めるキリスト教的な像を3章にわけて詠い、それらの教育精神、
「体
育」
、
「知育」、
「徳育」を磨くことにより澄みわたる鏡のような、三位一体を具体化したキ
リスト教主義の生徒になってほしいという学校側の意図があるのではないだろうか。この
校歌が作られた明治 33 年当時、校長を務めていた本田増次郎127は『婦女新聞』に 7 回に
わたり、女性としてのあり方について連載している。「嫁入りを一生の最大目的とし、嫁入
りの粧飾として教育をするという主義を、根本から打破せぬ以上は、女子教育は決して正
統の基礎を持たぬ男子を教育するには、賢父良夫などという事は一言も言わないで、女子
だけには賢母良妻の一点張りで押し通そうというのは変である。女子をも矢張一人前の人
間国家の一員、世界人類の一人として教育して何の差支えがあるか」、128「婦人に学問や
芸術はいらぬ、賢母良妻に仕立てさえすればよいと言うような説を折節聞きますが、しか
もこんな説が女子の高等敎育を奨励主張する人の口から出ると猶おかしい」129等、本田校
長が女子教育にかける熱い考えが綴られている。そのことからも、この詞章に込められた
思いを推察することができる。
『立教女学院百年史』(1977),立教女学院,p.17
同上
127 本田増次郎(1866~1925)英文学者、教育家、岡山県生まれ。数々の学校で教鞭をと
り、英語教育に貢献した人物。翻訳に『黒馬物語』(アンナ・シューウェル著)がある。
128 「訪問
本田立教女学校長(三)」
『婦女新聞』,明治 35 年 4 月 14 日,1面
129 「訪問
本田立教女学校長(六)」
『婦女新聞』,明治 35 年 5 月 5 日,1面
125
126
62
3-2-3)明治期における女学校の校歌分析
3-2-3-①)跡見女学校(現
跡見学園)
1875(明治 8)年に跡見花蹊らによって、跡見女学校を創立。早くから寄宿舎を設置し、勉
学だけでなく、女性としての所作を教えた。1947(昭和 22)年の学制改革により跡見学園中
学校、跡見学園高等学校と改称される。1950(昭和 25)年に跡見女子短期大学、1965(昭和
40)年には跡見学園女子大学が開学。女子のみの一貫教育を行なっている。
『跡見学園 -130 年の伝統と創造-』によると、1900(明治 33)年に 4 月 1 日「この日
の卒業式で現在の校歌が初めて歌われる」130と記述されている。作詞大和田建樹、作曲多
久毎131、編曲伊達愛らによって作られた。
次に跡見学園の校歌の歌詞を引用する。
一
二
三
学びの庭に咲きにほふ
やまと心の花ざくら
かざせやかざせもろともに
御代のめぐみの露そへて
へだてぬかげに生ひそだつ
おなじ学びの姉いもと
とけやつぼみの花のひも
雨のなさけを母として
もゆる草葉の野べひろく
教へにもるる色もなし
花のしたみちあととめて
なほ分け入らむ奥までも
作詞 大和田建樹 作曲
多久毎
この校歌のタイトルは《花桜》という。歌詞の解釈について、校友会誌『汲泉
第 57 号』
に当時の学校長である山崎氏が非常に詳しく解説している。
1 章の歌詞について、
「やまとごごろ(大和心)
」=日本人としての心情=朝日に照り映え
れんけつ
せいれん
ている山桜=心の清らかさ、まっすぐな心を象徴しています。
「廉潔」
「清廉」の象徴
いってもよいと思います」132と記述している。さらに、「御代
の露」
と
天皇のご治世」、「めぐみ
めぐみによってうるおうのを草木をうるおす露に譬えていう語。なお、
「めぐみの
雨」
(神仏の憐れみや君恩などのあまねくゆきわたることの譬え)という言い方もあります」
まなびや
と解説されている。全体として1章は「学舎に日本人の精神(廉潔・清廉)の象徴である
桜花が色美しく照り映えている。
(学舎に集える乙女らよ)天皇の恩寵を受けた桜花を飾り
としてみな一緒に髪にさしなさい。さしなさい。」と解説している。
2 章は、
「かげ
離れず付き添う物の意で、「かげと添う」と同じ。「へだてぬかげ」とは
「形と影が常に相伴っているようにいつもそばを離れずに」という意味です」、「生きそだ
つ
ふ
も
成長する」
、
「雨のなさけ 思いやり。なお、「花の父母」という言い方もあって、それ
は草木をうるおし養う雨や露を父母に譬えた語です」と語句を補足し、全体として、「形と
130
131
132
『跡見学園 -130 年の伝統と創造-』(2005),跡見学園
宮中雅楽の家元。
『汲泉 第 57 号』(2007),跡見校友会泉会
63
影が常に相伴っているちょうにいつもそばを離れずに中学 1 年生から高校 3 年生までの姉
妹たちが学舎で学び成長して行く。それは桜花が恵みの雨を母として、つぼみが花開くと
同じように。
」と解説している。
3 章は、
「教へ
花蹊先生の教え」
、
「色もなし 「色」は和歌の伝統的な表現で、
「色もな
し」で「
(漏れるものはなく)すべて」の意で、生徒を指している。」、「花のしたみち
蹊の号の由来である司馬遷『史記』の「季将軍列伝」の中の「桃季
ものい
花
した おのずか
言 わざれど 下 自 ら
けい
蹊を成す」を出典としています。すなわち、美しい花や実は自己宣伝はしなくても、多く
めで
の人がそれを愛るためにやって来て、自然と小道が出来るという意味です。
」と語句を補足
し、全体として「春の草木が芽吹き野辺をすみからすみまでおおいつくす様に、花蹊先生
の教えはすべての生徒に及び、一人も漏れることがない。美しい花を尋ね求めてなお一層
山の奥までも足を踏み入れるように花蹊先生の学問を慕って、先生に一歩でも近づくよう
に学びましょう。
」と解説している。
引用が長くなってしまったが、1 章では、学校にたくさん植えられている桜の情景、近代
日本の帝国主義を反映された天皇崇拝、2 章では学友と学年の域を超えた交流、そのような
学び舎で日々成長してゆく生徒らをつぼみの開花と表している、3 章では創立者である跡見
花蹊が教えは全て生徒らに伝承され、その教えを学び続けなさいと女性としての教養を詠
っている。
また、1 章と 2 章で「学び」という言葉が含まれていることにも注目したい。1 章の「学
び」は「やまと心の花ざくら」の「やまと」とあるように国民に対しての述べている章で
ある。このことから国家体制のもとの「学び」であるということ。2 章では、「おなじ学び
の姉いもと」とあるように学友同士の歌詞ではあるが、姉妹とも置き換えることができる。
さらに、
「雨のなさけを母として」という「母」という言葉の部分でも家族主義を連想させ
ることができる。この章は賢母の「学び」考えることができる。3 章には「学び」という言
葉は存在しないが、
「もゆる草葉の野べひろく」の「草葉」を「学び」と考えることができ
る。
「学び」という直接的な言葉を用いず、植物のやさしいイメージを重ねながら、植物の
成長から学問の深さを問うことができる。
さらに、全ての章に「花」という歌詞が含まれていることに関して、跡見学園に咲き誇る
桜、花の持つ美しさを連想させる。
64
譜例13 跡見女学園
メロディーに関して、全体が D dur、4 分の 4 拍子、16 小節から成り立っている。最低
音は D¹、最高音は D²であることから歌いやすい音域ではないだろうか。曲調は七五調で四
抜き長音階(六音階)で作られている。
「♩.♪♩♩(付点四分音符+八分音符+四分音符+四
分音符)
」というリズムをほとんどの節の中で使い、曲全体のリズムパターンを形成してい
る。さらに、より詳しくリズムに注目すると、三小節目に関して H¹は刺繍音でしかないた
め、この小節の主要和音はⅠ度(D Fis A)であることから、その小節は「♩.♪♩♩」が
成立する。同じことが 14 小節目でも言える。また、6 小節目に関しても、Fis¹は主要和音
に含まれると考え(Ⅰ度)、付随させて考えると、同リズムが成立する。このように考える
と、この校歌は「♩.♪♩♩」のリズムで成り立っていることがわかる。同一リズムパター
ンで構成するということは、教師側からすれば、教授の容易さ、生徒側からすれば、習得
の容易さがある。メロディーの単純化は、生徒の脳裏にインプットされやすく、帰属化さ
せやすいということに繋がると考えられる。
次にこの校歌は 4 節のメロディーで成り立っているということが分かる。注目すべきこ
とは、第 1 節目と第2節目は 2 度で繋がれている(E¹と Fis¹。厳密には長 2 度)のに対し、
第 2 節目と第3節目は 8 度の音程で繋がれている(D¹と D²。厳密には完全 8 度)。第 3 節
目をさらに注目すると、冒頭にフォルテの指示があり、D²からの歌いだしである。先ほど
も述べたが、D²はこの曲の最高音にあたる。冒頭(9 小節目)の和音もⅠ度で、歌いだしが
最高音で、強く歌い出すという事は、この第 3 節目が曲の盛り上がりの部分であり、強調
65
されている部分ということである。さらに、第 4 節目の 14 小節目の 3 拍目と 4 拍目で、も
う一度、最高音が使用されている部分がある。第 4 節目の冒頭は E¹から最高音(D²)を目指
すように上行で、クレッシェンドが指示されている。最高音(D²)の和音は、Ⅳ度を使用して
いて、第 3 節目の最高音とは異なり、曲に柔らか味を持たせている。最後の 2 小節はディ
ミヌエンドで下行形であり曲全体を収めていく形になっている。
ではメロディーの高揚部分、第 3 節目においての歌詞の関係はどうであろうか。1 章では
「かざせやかざせもろともに」
、2 章では「とけやつぼみの花のひも」、3 章では「花のした
みちあととめて」であるが、これらの歌詞は一見してとりとめの無い節であるように見受
けられる。これらの節を高らかに歌い上げたいわけではないと思われる。では、どこにこ
の校歌の歌詞の重要節がどこであるかと言われると非常に難しい。歌詞の分析で行なった
ように、重要な言葉が各節々に含まれていて、どの節が突出して重要かと問うことができ
ないのではないかと考えられる。
メロディーと歌詞に関して、冒頭の 1 小節目、1 章「学び」、2 章「へだて」、3 章の「も
ゆる」の歌詞のイントネーションとメロディーの繋がりが一致しないことに注目したい。
譜面では第1文字目にアクセントがきているが、に本来ならば、1 章では「
(ま)なび」、2
章では「
(へ)だて」
、3 章では「
(も)ゆる」と第 2 文字目にアクセントがくる。というこ
とは、歌詞のメロディーも上がり調子でなければならない。
この校歌は歌詞の節のまとまりごとに付点二分音符を配置し、曲の終止を表している。
このことから歌詞が第一義であることがわかる。そして、それらの歌詞を生かすようなメ
ロディーラインを形成していることがわかった。
3-2-3-②)三輪田学園
1887(明治 20)年に三輪田眞佐子が神田区東松下町に翠松学舎を創立。1903(明治 36)年に
三輪田高等女学校と改称。1947(昭和 22)年の学制改革によりに三輪田学園中学校、翌年に
は三輪田高等学校となる。1951(昭和 26)年に私立学校法制定により、学校法人となる。女
子のみの中高一貫教育を行っている。
『三輪田学園 110 年のあゆみ
1887~1997』によると、「三輪田女学校開校時の入学式
ではオルガンの伴奏で校歌が歌われている。最初の校歌は明治 35 年から約 10 年間にわた
って歌われたが、大正初期には新しい校歌が誕生した。
」133と記載されている。作詞者は
武島羽衣134、作曲者は未詳である。さらに正確な制定年も未詳である。135ちなみに、現
『三輪田学園 110 年のあゆみ 1887~1997』(1998),三輪田学園
明治 35 年 10 月 13 日発行の「婦女新聞」にも開校式の様子についての文章と校歌の歌
詞が掲載されている。
134
武島羽衣(1872~1967)東京大学在学中から詩や文章を発表している。代表作に「美
しき道」
、
「美文韻文霓裳微吟」などがある。滝廉太郎の歌曲《花》の作詞を行なった
人物でもある。
135 学校に問い合わせをしたが、先方の三輪田学園も戦争等で焼失・紛失してしまい確認
133
66
在歌われている校歌は作詞者は三輪田元道、作曲者は岡野貞一である136。
次に三輪田学園の校歌の歌詞を引用する。
一
千本の花につゝまれて
みたま鎭まる招魂社
二
三
君に盡くしゝ武夫が
ちかく仰くぞ尊きや
氣はものゝふのいさましく
心は花のあでやかに
いざやつとめん朝夕に
いざやはげまんもろともに
御國をおもふ師の君か
紀念にたてし學びやの
もとゐをいよゝかたむべく
作詞
名をばますますひろむべく
三輪田元道 作曲
岡野貞一
1 章では「君に盡くしゝ」の「君」は、天皇のことであり、「みたま(御霊) 鎭まる招魂社」
は、靖国神社のことである。三輪田学園は靖国神社の近くにあるので、地理的環境を示し
たものであろう。1 章は靖国神社に眠る殉難者を讃える詞章であり、学校と近隣というだけ
で学校の精神とは関係のない詞章になっているのではないだろうか。もしあるとしるなら
ば、明治期国家との関係性を無理やり結びつけたのかもしれない。
2 章は「氣はものゝふのいさましく 心は花のあでやかに」は、精神は武士のように勇ま
しくあるべきだが、心は女性らしくあるべきであると詠っている。それらの精神鍛錬は日々
必要であると後半の詞章「いざやつとめん朝夕に
いざやはげまんもろともに」で述べて
いる。このような考え方が第二次世界大戦終了までの日本の道徳教育としては当たり前に
あったことであり、教育から日本を軍国主義にしていくという意図があった。
3 章は「御國をおもふ師の君か
紀念にたてし學びやの」とは、創立者の三輪田眞佐子の
ことを示すのではないだろうか。
「御國をおもふ」という思想もまた、この期の日本のモラ
ルであった。後半の「もとゐをいよゝかたむべく
名をばますますひろむべく」では学校
の地位の確立と発展を詠っている。
1 章では、戦前期の天皇家崇拝、2 章では、同じく戦前期の女子の望ましい姿、3 章では、
戦前期のモラルを重ねた学校の発展を歌い上げている。
が取れないということであった。
校歌を改訂した理由について三輪田学園の理事長三輪田勉氏は、論者宛に、
「有名な作
詞家に依頼したにも関わらず、学校を見ずに作詞したと思われ、招魂社=靖国神社の歌
のように作られてしまったため、大変に評判の悪い歌でした」という文面を頂戴した。
136
67
譜例14 三輪田学園
メロディーに関しては、全体が Es dur、4 分の 4 拍子、16 小節、2 部形式で成り立ってい
る。最低音が Es¹で最高音が G²であり、発声の専門教育を受けていない限り歌うのは困難
と考えられる。実際に歌われる時、この譜面通りの音程で歌っていたのか疑問に思われる。
曲調は七五調である。
まず、2 部形式の前半部分に注目したい。第 1 節目と第 2 節目の冒頭(1小節目と 5 小節
目)は分散和音の上行形であり、冒頭の小節で節の高揚部分へ向かっている。次の小節(2
小節目と 6 小節目)から下行形で節の終わりに(共に 4 部休符)に向かっている。さらに、
第 1 節目の 3 小節目に関して、
「つつまれて」という日本語は第二文字目にアクセントにく
るため、メロディーは、2 拍目の音符が 1 拍目の音符より高い音を選択しなければ、日本語
とメロディーが一致しないということである。同様のことが。2 章の「いさましく」という
言葉にも言える。さらに、第 2 節目の冒頭、
「君に盡くしゝ」は「君に」と「盡くしゝ」と
に言葉を分けることが出来る。この二つの言葉は第 1 文字目にアクセントがくる。「君に」
はメロディーも 1 拍目にアクセントがきているのだが、
「盡くしゝ」という言葉はメロディ
ーのアクセントが第 2 文字目にきている。このことから、歌詞とメロディーの調和が取れ
ていないということである。2 章の「心は花の」と 3 章の「紀念にたてし」の歌詞は、日本
語とメロディーは一致している。
次に、後半部分(9 小節目から)は、前半部分より全ての詞章で、比較的、言葉とイント
ネーションが一致している。また、前半部分とは異なり、極端な上行や下行もなく緩やか
なメロディーラインを形成している。10 小節目の 3 拍目の G²の発声が困難だと思われるく
らいで、前半部分と後半部分では大きく優劣がはっきりしていると感じられる。
単調なリズム、言葉とメロディーの調和、音域の問題などから、全体的に特色に乏しく、
バランスの取れていない校歌だと見受けられる。音楽学的に秀でている作品とは言いがた
68
い。
この校歌は、学校と作詞者の校歌に対する考えが一致しなかった作品である。学校側と
しては 1 章の高揚部分である「みたま鎭まる招魂社」と高らかに歌いたくはないだろう。
しかしこの校歌は、音楽学的な視点から見るのではなく、歴史背景から見てみると、明治
期の超国家主義が非常によく表されていている作品であることがわかった。
3-2-4)明治期における府立の女学校の校歌分析
3-2-4-①)東京府立第二高等女学校(東京都立竹早高等学校)
1900(明治 33)年 2 月 9 日、
東京府師範学校(現在の東京学芸大学)は在学生の増加に伴い、
校舎を移転することとなった。そこで、跡地を利用して女子師範学校を設置し、さらに二
校目となる府立高等女学校を併設することになった。同年 2 月 26 日「東京府立第二高等女
学校」は認可された。師範学校との併設関係は昭和 22 年まで続いた。1948(昭和 23)年「東
京都立第二女子新制高等学校」と改称、定時制課程(1996(平成 8)年に閉校)も設置された。
昭和 25 年現在に繋がる男女共学校として、「東京都立竹早高等学校」と改称。
『創立百周年記念誌
竹早の百年』によると、「明治四十年に校歌が制定された。この校
歌は東京府女子師範学校のものと同一の曲で、歌詞も同じであった。各種行事の際には高
女生と師範生とが声を合わせて校歌を斉唱する場面があった。」137と記述されている。作
詞者は畠山健、138作曲者は岡野貞一である。次に、東京府立第二高等女学校校歌の歌詞を
引用する。
一
御稜威かしこき 千代田の宮居
国のしづめの
富士の神山
たなびく雲の
はるけく近く
朝夕に
仰ぐも尊し
我が学びのや
二
露める空の
花のさかりも
千里くまなき
月のけしきも
上野はあれど
隅田はあれど
ゐながらに 眺めぞつきせぬ
我が学びのや
三
137
138
かかる目出たき 庭ふみならし
『創立百周年記念誌 竹早の百年』(2003),東京都立竹早高等学校
『創立百周年記念誌 竹早の百年』(2003)によると、
「作詞者は畠山健だが、その作品
や人物層については残念ながらなく、わからなかった。」とある。
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睦びかはして
こころ
わ
生いたつ我ら
ざ
清心も技能も
いよいよ磨きて
もろともに 世にこそ示さめ
おみな
女性のかゞみ
四
こころ
匂ふ月花 清心も清く
秀でたる山の
わざ並ならず
人の師となり
母ともなりて
むく
まごころに 世にこそ報いめ
みことのまにま
作詞
畠山健
歌詞に関して、1 章は「御稜威かしこき
作曲 岡野貞一
み
い
つ
千代田の宮居」の「御稜威」とは天皇の強い威
勢や光のことである。
「千代田の宮居」とは皇居のことである。「国のしづめの
富士の神
山」とは、国の乱れを鎮めることができる富士山を示している。その富士山から「たなび
く雲」が「はるけく近く」と、雲が遠くにあるのだが、近くにあるようにも見えると詠っ
ている。その富士山を「朝夕に
仰ぐも尊し
我が学びのや」と、学校から毎日見上げ敬
うべきであると、詠っている。1 章は天皇について、天皇と関わりのある富士の山を讃える
歌詞となっている。
2 章では、
「露める空」生まれては消え、消えては生まれる、はかない雲と「花のさかり
も」美しい花々も、
「千里くまなき
月のけしきも」町をくまなく照らす、月の景色も、
「上
野はあれど 隅田はあれど」上野も隅田もさておいて、「ゐながらに 眺めぞつきせぬ 我
が学びのや」と、我が学校はどんなに眺めていても飽きることが無いと詠っている。かな
り学校を讃美しているが、当時は府立の女学校が 2 校しかなかったと考えると、学校に対
する愛校心というものが非常に大きかったと考えられる。
3 章では「かかる目出たき」は「このようなめでたい日」と卒業式を思わせるような歌詞
である。その喜ばしき日を「庭ふみならし」と表現している。「睦びかはして 生いたつ我
こころ
わ
ざ
ら」とは学友との友情を交わし、学校を巣立っていく状況を詠っている。
「清心も技能も
い
よいよ磨きて」とは、学校で学んだ精神も技術も卒業してからも磨き続けるということで
あり、それらのことを「もろともに
世にこそ示さめ
おみな
女性のかゞみ」と、他の女性たち
の模範になるようにと、社会での役割について詠っている。3 章は学校から巣立ってゆく生
徒達が、これから社会に羽ばたいてゆく。学校では社会の一員となるべく教養を養ってい
るということを証明している。
こころ
4 章では、
「匂ふ月花 清心も清く」美しい月と花のように、私たちの心は清らかである
と詠い、「秀でたる山の
わざ並ならず」優れた山の技は並ではなく、と詠っている。「秀
でたる山」とは「富士山」であろうと推測される。その富士山の力は普通ではなく、「人の
70
師となり 母ともなりて」と、将来、教師や母親となりうる力を持っていると詠っている。
そしてその力は、
「まごころに
むく
世にこそ報いめ みことのまにま」真心をもち、世の中に
奉仕せよ、天皇の仰せのままに。と学校で培われた知識を世の中に還元し、それだけでで
はなく賢母としても生きよと詠っている。
1 章では天皇とその関わりのある富士の山、2 章では学校周辺の景色、3 章では学友との
成長と別れ、4 章では女性としての生き方について詠っているのではないだろうか。
譜例15 府立第二高等女学校
メロディーに関して、全体がBdur、拍子記号が記載されていないが、4 分の 4 拍子であ
ることは間違いない。18 小節で成り立っている。最低音がBで、最高音はF²と幅の広い音
域を形成している。さらにこの校歌は 1 小節目から 8 小節目までが第 1 節目、9 小節目から
14 小節目までが第 2 節目、14 小節目のアウフタクトから 18 小節目までが第 3 節目と分け
ることができる。
まず、第 1 節目に関して、1 小節目のリズム「♩. ♪♩♩(付点四分音符+八分音符+四分
音符+四分音符)」が第 1 節目の各小節全てに使用されているということに注目したい。し
かもそのまとまりが、さらに各 2 小節ごと(①1 小節目と 2 小節目、②3 小節目と 4 小節目、
③5 小節目と 6 小節目、④7 小節目と 8 小節目)
、4 つに分けることができる。1 小節目から
6 小節目までの 3 つのカテゴリー(①②③)は和音を展開させて、1 小節目の 1 泊目のBか
ら 6 小節目の 4 拍目 Es²を大きく上行形を描いている。7 小節目と 8 小節目は大きく描いた
分散和音を納める形に終止し、しかも ritardando を指示している。
第 2 節目は、ritardando から a tempo に戻す指示がある。9 小節目と 10 小節目のメロデ
ィーの問いに対し、11 小節目と 12 小節目が応答している。注目すべきことは、この 4 小節
間は他の小節とは異なり短調なメロディーを形成していると思われる。伴奏譜が無いので
71
断定的なことは言えないが、低音部でメロディーが流れ、10 小節目の 4 拍目の Fis¹がより
私たちの気分を憂鬱にさせ、暗くさせる。この 4 小節間で曲の雰囲気が大きく変化してい
るということが、分かるのではないだろうか。しかし、その暗い雰囲気から、最低でも 13
小節目以降は長調へ戻っていると考えられるのではないだろうか。そして、14 小節目の付
点二分音符のD²の力を、
第 3 節の冒頭へ引継ぎ、15 小節目 Es²へ導いていることができる。
その盛り上がりのまま、最高音F²へ上行し、そこから 8 度(完全 8 度)下行する。F²を
発声する事も専門教育を受けていないと難しいし、完全 8 度も音程が一気に低くするのも
難しいと思われる。
歌詞とメロディーの関係について、まず、曲調ががらりと変る第 2 節目の歌詞とメロデ
ィーから注目したい。1 章は「たなびく雲の はるけく近く」、2 章は「上野はあれど 隅
こころ
わ
ざ
田はあれど」
、3 章は「清心も技能も
いよいよ磨きて」
、4 章は「人の師となり
母ともな
りて」である。これらの歌詞を低音で短調で歌う必要があるのだろうか。況して 4 章の歌
詞は長調で強調して歌い上げたくなるのではないだろうか。メロディーだけ見れば、第 1
節目から大きなフレーズで歌い上げて ritardando をかけて落ち着いている。第 1 節目を
「明」とするならば、第 2 節目は低音のメロディーで短調であることから、「暗」と表すこ
とができ、曲調の雰囲気が富んでいる。しかし、歌詞とメロディーとの両方の視点から見
てみると、バランスの取れていない部分ではないかと思われる。
次に、この校歌の山場の部分は第 3 節目である。その部分の歌詞は、1 章は「仰ぐも尊し
我が学びのや」
、2 章は「眺めぞつきせぬ
むく
のかゞみ」
、4 章は「世にこそ報いめ
おみな
我が学びのや」、3 章は「世にこそ示さめ 女性
みことのまにま」である。1 章の「尊し(と)おと
し」
、2 章の「
(つ)きせぬ」
、3 章の「示さめ(し)めさめ」、4 章の「報いめ(む)くいめ」
は最高音F²からF¹へ下行部分である。教えを説いている部分ではあるが、音程の確保も難
しいので、歌詞を正確にきちんと歌い上げるのは難しいと考えられる。
この校歌は、歌詞は他種の学校と変らず、国家主義的な歌詞を綴っているが、メロディ
ーは大げさかもしれないが、他の校歌よりドラマティックに展開していると思われる。作
曲者の岡野貞一は第4節の非ミッションスクールの「共立女子職業学校」でも分析を行な
っている。2 つの校歌を比べてみると、似たようなリズムを形成していると言うことが分か
る。しかし、東京府立第二女子高等学校の方が音の高低差(全体的には 4 度の高低差が一
番多いが、第 3 節目のF²からF¹の部分、第 2 節目の 12 小節目のD¹からB¹の 6 度の上が
り部分もある)
、節ごとの音程の高低差が大きく(第 1 節目の時点でBから Es²まで音程が
上行する部分や第 3 節目の最高音がF²まであるということ)、曲としては躍動的ではないだ
ろうか。そのようなメロディーに歌詞がうまく反映されているかというと、第 2 節部分以
外は高らかに歌い上げているのではないだろうか。今後の課題としては、第 2 節部分を明
らかにするために、伴奏譜を手に入れ、もう一度検討する必要がある校歌ではある。
72
3-2-4-②)東京府立第三高等女学校(東京都立駒場高校)
1902(明治 35)年 4 月 1 日に開校した。開校時は麻布区東鳥居坂町 13 番地、私立東洋英和
学校を仮校舎としていた。同年九月には新校舎(麻布区麻布北日ヶ窪町)が落成したため移転。
1911(大正 10)年に高等科を新設、(この時は私立では千代田高等女学校、府立では第一高等
女学校と第三高等女学校が新設された。)より高い、高等教育が行なわれた。1945(昭和 20)
年 5 月 24 日に校舎全焼し、南山国民学校、養生館139、東洋永和140、を仮校舎とした。
翌年には現在の駒場の地へ移転してきている。1948(昭和 23)年には「東京都立第三女子新
制高等学校」
、定時制は「東京都立第三女子新制高等学校二部」と改称。1950(昭和 25)年に
は「東京都立駒場高等学校」
、定時制は「東京都立駒場高等学校二部」と改称し、男女共学
が始まる。同年 4 月には職業課程として「保健体育学科」、「芸術科」を併設した(芸術科は
1972(昭和 47)年に「東京都立芸術高等学校」として分離独立)。1997(平成 9)年に定時制課
程は廃止されるた。現在、このような高い教育環境を保持していることから、教育庁から
「進学重点校」に指定されている。
『中寿』の略年表によると、
「明治三十七年(一九○四年)
を挙行。校歌披露(作詩
千家尊福141
作曲
10 月 30 日第 1 回開校記念式
小山作之助142)。
」143とある。次に、東京
府立第三高等女学校の校歌の歌詞を引用する。
仰ぐ千代田の
宮居近く
恵の露しく 麻布の丘に
桜ひめ松 栄ゆる園生
真金白玉 よそえる文のや
慕ひて集へる
吾等の友よ
色香は匂へる
桜にたぐひ
操は緑の 松にも競へ
松よさくらよ誠の志をり
真金ときたへて
家をも守り
玉とも磨きて世をしも照せ
玉よまがねよ
望みの光
光よまことよ吾等の生命そ
当時、有栖川公園の中にあった。1934(昭和 9)年高松宮家が皇太子誕生を記念して子
供たちの教養、福祉のための道場設立を願って所有地を下したことに始まる。現在は
取り壊され、跡地には都立中央図書館がある。
140 東洋英和は戦時中、学校名を「東洋永和」としていた。翌年には改称している。
141
千家尊福(1845~1918)白樺派の詩人。童謡「お正月」の作詞者でもある。
142
小山作之助(1863~1927)作曲家、音楽教育家。
《夏は来ぬ》、
《敵は幾万ありとても》
等、数々の唱歌、軍歌の作品を作曲した人物である。
143 『中寿』(1982),東京都立駒場高等学校
139
73
作詞
千家尊福
歌詞に関して、
「仰ぐ千代田の
作曲
宮居近く
小山作之助
恵の露しく
麻布の丘に」は、当時学校が麻
布にあったということで、より皇居の近くに校舎があるということ。「桜ひめ松 栄ゆる園
生
真金白玉
よそえる文のや
慕ひて集へる
に集う生徒を詠っている。
「色香は匂へる
吾等の友よ」は学校の校庭の風景とそこ
桜にたぐひ
操は緑の
松にも競へ」は桜のよ
うに美しい容姿、松のように節操守ること。これらは植物に込められている意味を掛け合
わし、学生に教えを説いている。それらの教えを「松よさくらよ誠の志をり」と守り通せ
よと詠っている。同様のことが次の詞章部分、
「真金ときたへて
家をも守り」は妻として
母としての家での立場を詠い、
「玉とも磨きて世をしも照せ」は社会に出て世の中の担い手
となるよう詠っている。先ほどの植物の例えではなく、「真金」、
「玉」の物体に込められた
意味を教えとして説いている。そして「玉よまがねよ
望みの光」と将来のあるべき姿で
あると詠っている。最後に、
「光よまことよ吾等の生命そ」と詠っている。「光」は「真金
ときたへて 家をも守り
は匂へる 桜にたぐひ
玉とも磨きて世をしも照せ」の部分であり、
「まこと」は「色香
操は緑の
松にも競へ」の部分のことである。
このことから、この詞章は大きく 2 つの部分に分けて考えることができる。前半部分は
学校周辺と生徒を詠っていた部分、1 節目の「仰ぐ千代田の 宮居近く」から 5 節目の「慕
ひて集へる 吾等の友よ」まで。後半部分は生徒に教えを説く部分、6 節目の「色香は匂へ
る
桜にたぐひ」から最終節の「光よまことよ吾等の生命そ」まで。詞章が 1 番しかない
ので、1つの詞章の中に幾つもの讃美や教えを説いている。
74
譜例 16 東京府立第三高等女学校
この楽譜に書かれている歌詞は現在一部改訂されてはいるが現在も歌われ続けている。
144
メロディーに関して、全体が Es dur、65 小節で成り立っている。最低音はB、最高音
は Es²である。最低音は冒頭のアウフタクトから使用される。非常に低い音程から始まって
いることが分かる。拍子は 1 小節目から 16 小節目まで 4 分の 4 拍子、17 小節目から 65 小
節目までが 4 分の 2 拍子である。全体的には 7 抜き音階だが、38 小節目の 1 拍目だけD²
を使用している。
まず 4 分の 4 拍子の部分を注目したい。アウフタクトのBから 8 小節目が第 1 節目、9
小節目から 16 小節目までが第 2 節目と、2つの節から成り立っている。第 1 節目は最低音
Bから最高音 Es²まで大きなフレーズを描き終止している。その変化をもたせるため、第 2
節目はフレーズの描き方は一緒だが、8 部音符を増やし音の変化を付けている。
144
1948(昭和 48)年に歌詞を一部改定し、現在も歌われている。現在の歌詞は、
仰ぐ千代田の/宮居近く/恵の露しく/麻布の丘に/桜ひめ松/栄ゆる園生/真金白
玉/よそえる文のや/慕ひて集へる/吾等の友よ/色香は匂へる/桜にたぐひ/操は
緑の/松にも競へ/松よさくらよ誠の志をり/真金をきたへて/家をも守り/玉とも
磨きて世をしも照せ/玉よまがねよ/望みの光/光よまことよ吾等の生命そ
75
次に 4 分の 2 拍子の部分だが、4 分の 4 拍子の曲調とは違い、非常に躍動的なリズムを形
成している。元々、2 拍子のリズムは強拍が 1 拍目にくるので、行進曲風に捉えられやすい。
先の学園史にも「明治四十年(一九○七年)12 月 21 日
室とする。」
145
毎朝礼二に校歌を合唱、行進曲で入
と記述があることからも、その様子がうかがえる。この校歌は付点 4 部音
符、付点 8 部音符を多用しており、軍歌調であることがさらに躍動さを増す要因となって
いるのではないかと考えられる。
17 小節目から 32 小節目までが第 3 節目、33 小節目から 48 小節目までが第 4 節目、49
小節目から 65 小節目までが第 5 節目と分けることができる。第 3 節目はさらに①17 小節
目から 24 小節目と②25 小節目と 2 つに分けることができる。まず①のフレーズは 4 分の 4
拍子から 4 分の 2 拍子に変る部分ではあるが、前節よりフレーズのまとまり小さくなった
だけで、突出して大きな変化が見られるわけではないような気がする。②の部分は付点 8
部音符と 8 部音符でフレーズがまとまっており、音が頻繁に動いている。このように①と
②では対照的なリズムを展開していることが、曲の雰囲気を豊かにしているということが
分かるのではないだろうか。同様の事が第 4 節目でも言える。ただ、まったく同じと言う
わけではなく、①の部分に関して、第 3 節目の①(17 小節目から 24 小節目)は山形のフ
レーズであるが、第 4 節目の①(33 小節目から 40 小節目)は Es²から始まり B¹に下行形
を描いている。②は両節共にまったく同じメロディー、リズムである。第 5 節目も同様に、
①49 小節目から 57 小節目の 1 拍目まで、②57 小節目の 2 拍目から 65 小節目までと、2 つ
のフレーズに分けることができる。まず①の部分は第 4 節目の①と同じリズムパターンで
ある。第 4 節目の①は下行形なのに対し、第 5 節目は上行形を描いている。その上行した
強い音の力を②に引き継ぐのではなく、1 オクターブ下のBから 1 度(Es G B)の展開型
を 3 回繰り返し、最高音 Es²まで音を持ってきている。最高音の Es²は各節で出てきてはい
るが、第 5 節目の Es²は 2 回連打され強調されている。さらに、64 小節目と 65 小節目には
フェルマータが使用され雄大さが表されいることも曲調の変化を表している部分である。
歌詞とメロディーの関係について、4 分の 4 拍子のメロディーの部分の歌詞は「仰ぐ千代
田の
宮居近く
恵の露しく
麻布の丘に
桜ひめ松
栄ゆる園生
真金白玉
よそえる
文のや」である。メロディーは大きなフレーズでまとまっていることから、学校周辺の景
色を、雄大に歌い上げているということがわかるのではないだろうか。このことから 4 分
の 2 拍子の部分は生徒に対しての教訓が綴られている部分にあたる。メロディーでも歌詞
同様に風景の部分と、教えの部分に分かれ、生徒にとって歌詞内容を理解しやすい校歌に
なっているのではないだろうか。
この校歌の高揚部分は 2 箇所ある。1 つ目は「松よさくらよ誠の志をり」
、2 つ目は「光
よまことよ吾等の生命そ」である。これらは歌詞の部分で分析したように、教えをまとめ
ている部分である。メロディーの「松よさくらよ誠の志をり」部分は、前節の最後の小節
(32 小節目)の 2 拍目の Es¹から最高音 Es²の 8 度(完全 8 度)の跳躍をし、歌いだして
145
『中寿』(1982),東京都立駒場高等学校
76
いる。そして、As¹と Es²の高音部間で高らかに歌い上げていることが分かる。
「光よまこと
よ吾等の生命そ」の部分は最低音Bから和音の展開型を描き、最高音 Es²へ向かう。Es²の
部分の歌詞は「吾等の」である。高音部で歌い上げることにより、生徒らの意識統制に非
常に有効なのではないかと考えられる。
言葉とメロディーの部分に関して、第 2 節目の 13 小節目から 14 小節目の「白玉」とい
う言に注目したい。
「白玉」のアクセントは第 1 文字目「し(らたま)」である。しかし、メ
ロディーは「(し)ら(たま)」と第 2 文字目に一番高い音(C²)を配置している。
この校歌のメロディーは 1 章しかないことから、非常に長い作品になっている。長い詞章
は大きく 2 つに分けることができ、それを生かすかのように、曲調も 4 分の 4 拍子と 4 分
の 2 拍子に分け単調さを回避している。確かに最低音のBは女子生徒らには低い音程であ
るし、8 度の跳躍も多く(14 小節目の 3 拍目と 4 拍目、24 小節目と 25 小節目、等)音程の確
保が難しいと考えられる。しかし、メロディーの細かい指摘を除けば、詞章に合わせたメ
ロディーが付けられ、優雅さと躍動という相対的な表現で曲調が表されているのではない
だろうか。
3-2-5)まとめ
明治以前の学校教育は、藩が主体的に子弟教育を行なう藩校、僧侶や武士等が庶民のた
めに開いた寺子屋、専門的な教育を施す私塾などであったため、全国的に教育の共通性が
欠けているようであった。明治に入り「学制」が制定された後は、教育の共通化が図られ
るものの、生徒の就学率が明治 6 年は男子 39.9%、女子に至っては 15.1%しかなかった。
しかし、その後の就学率は年を追うごとに上昇し、明治の終わりには男女共に 90%台にま
でなった。
明治初期は学校教育に対する一般庶民の価値観は低く、子供に勉学をさせるという考え
方が定着していなかった。特に女子は学問よりも家事労働や女性としての教養が重視され
ていた。しかし、日本の近代化は進んで行き、庶民の教育への価値観が変化し、全ての子
供達が学校に通うということが当たり前になってきた頃から、学校の中での意識統制、コ
ミュニティーの形成に校歌というものが利用されたとも考えられる。
歌詞について、女子学院を除く校歌が文語体で書かれていた。口語体の文章へ転換して
いくのは大正時代の言文一致運動からであることから当然の結果といえばそうかもしれな
い。しかし、女子学院の英語の校歌は当時の英語教育の高さがうかがえる。そしてキリス
ト教主義女学校の讃美歌の旋律と日本語の歌詞は親和性があるといえよう。私学と府立の
女学校は七五調の文体で、四抜きや七抜き音階を用いていることがわかった。日本の西洋
音楽教育は始まったばかりである。そのことを表すかのように校歌も日本の伝統音階を用
い歌いやすい曲調になっているということがわかった。
77
表1
明治期女学校の校歌制定状況
学校名
創立年
制定年
作詞者
作曲者
調性
拍子
小節数
音域
曲調
音階
アウフタクト
女子学院
1870(明治3)年
1897(明治30)年ごろ
ルース・タムソン
ルース・タムソン
ヘ長調
8分の6
16 E¹-D²
英語詞
長音階
無
共立女学院
1871(明治4)年
1905(明治38)年
大村益荒
ドイツ民謡
ヘ長調
4分の3
16 E¹-D²
自由詩
長音階
無
青山女学院(青山歌)
1874(明治7)年
1902(明治35)年
講師
不明
青山女学院(青山の歌)
1874(明治7)年
1906(明治39)年
日本古曲(推定)
別所梅之助
ハ長調
4分の4
10 D¹-D²
七五調
ヨナ抜き音階
無
立教女学院
1877(明治10)年
1900(明治33)年
大和田建樹
上真行
ハ長調
4分の4
11 D¹-E²
和歌
長音階
捜真女学院
1886(明治19)年
1909(明治42)年
藤本柏陵
アメリカの讃美歌(推定) 変ロ長調
4分の4
32 Es¹-Es²
自由詩
長音階
有
共立女子
1886(明治19)年
1911(明治44)年
下村莢
岡野貞一
ハ長調
4分の4
24 D¹-D²
七五調
七抜き長音階
無
雙葉学園
1909(明治42)年
明治期に制定
大和田建樹
メールセン ・フラ ン ソワレジス
変ホ長調
4分の4
13 F¹-F²
自由詩
長音階
有
跡見学園
1875(明治8)年
1900(明治33)年
大和田建樹
多久毎
ニ長調
4分の4
16 D¹-D²
七五調
四抜き長音階
無
神田女学園
1890(明治23)年
明治・大正・昭和
故伯爵 松浦詮
石野
ト長調
4分の4
16 H-E²
七五調
四七抜き長音階
無
淑徳女学校(淑徳SC)
1892(明治25)年
1902(明治35)年
不明
不明
歌詞のみ
京華商業学校(京華学園)
1897(明治30)年
1908(明治41)年
長谷川四朗
楠美恩三郎
ト長調
4分の4
16 D¹-E²
七五調
四七抜き長音階
無
実践女子
1899(明治32)年
1904(明治37)年
下田歌子
沢田孝一
ト長調
4分の4
16 D¹-E²
七五調
長音階+四七抜き長音階
無
成女学園
1899(明治32)年
1909(明治42)年
杉谷代木
東儀鉄笛
ト長調
4分の4
16 D¹-E²
自由詩
長音階
無
三輪田学園
1902(明治35)年
1902(明治35)年
武島羽衣
不明
変ホ長調
4分の4
16 Es¹-G²
七五調
長音階
無
山脇学園
1903(明治36)年
1907(明治40)年
不明
不明
ト長調
4分の4
24 D¹-E²
七五調
七抜き長音階
無
東京女子学園(東京女子中高学校)
1903(明治36)年
1905(明治38)年
高津鍬三郎
安藤幸子
ニ長調
4分の4
24 Cis¹-D²
七五調
長音階
無
鎌倉女学院
1904(明治37)年
1911(明治44)年
山内淳吉
小林錠之助
変ロ長調
4分の4
16 C¹-F²
七五調
長音階
無
麹町学園
1905(明治38)年
1905(明治38)年
中村春二
鈴木米次郎
ヘ長調
4分の4
20 C¹-D²
七五調
長音階
無
東洋高等女学校(東洋女子学園)
1905(明治38)年
1908(明治41)年
尾上紫舟
山田源一郎
歌詞のみ
宇都宮高等女学校(県立宇都宮女子)
1875(明治8)年
1903(明治36)年
篠崎権三郎
栗本清夫
イ短調
4分の4
40 D¹-F²
七五調
七抜き短音階
無
東京府立第二高等女学校(都立竹早)
1900(明治33)年
1907(明治40)年
畠山健
岡野貞一
変ホ長調
4分の4
18 B-F²
七五調
長音階+七抜き長音階
無
女子師範学校(埼玉県立浦和一女)
1900(明治33)年
1907(明治40)年
橋本光秋
楠美恩三郎
変ホ長調
4分の4
24 B-Es²
七五調
長音階
有
東京府立第三高等女学校(都立駒場)
1902(明治35)年
1904(明治37)年
千家尊福
小山作之助
変ホ長調
4分の4
65 B-Es²
自由詩
長音階+七抜き長音階
有
七五調
七五調
七五調
表 2 高等女学校の学校数・教員数・生徒数の推移(文部省(1972)『学生百年史』,pp.484~
487 の表を参考に論者が作成)
学校数
高等女学校
1882(明治 15)年
1883(明治 16)年
1884(明治 17)年
1885(明治 18)年
1886(明治 19)年
1887(明治 20)年
1888(明治 21)年
1889(明治 22)年
1890(明治 23)年
1891(明治 24)年
1892(明治 25)年
1893(明治 26)年
1894(明治 27)年
1895(明治 28)年
1896(明治 29)年
1897(明治 30)年
1898(明治 31)年
1899(明治 32)年
1900(明治 33)年
1901(明治 34)年
1902(明治 35)年
1903(明治 36)年
1904(明治 37)年
1905(明治 38)年
1906(明治 39)年
1907(明治 40)年
1908(明治 41)年
1909(明治 42)年
1910(明治 43)年
1911(明治 44)年
1912(明治 45)年
1913(大正 2)年
5
7
9
9
7
18
19
25
31
29
27
28
14
15
19
26
34
37
52
70
80
91
95
100
114
133
159
178
193
201
209
231
教員数
実科
高等女学
校
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
49
90
117
高等女学校
55
61
73
72
70
136
186
278
311
332
319
331
166
186
237
310
406
450
658
958
1173
1349
1457
1561
1770
2011
2395
2743
2913
3300
3211
3315
78
実科
高等女学
校
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
276
607
802
生徒数
学校種別
実科高等女
高等女学校
学校
286
-
450
-
590
-
616
-
898
-
2363
-
2599
-
3274
-
3120
-
2768
-
2803
-
3020
-
2314
-
2897
-
4152
-
6799
-
8585
-
8857
-
11984
-
17540
-
21523
-
25719
-
28533
-
31918
-
35876
-
40273
-
46582
-
51781
-
56239
-
64809
-
64871
10257
68367
14920
1914(大正 3)年
1915(大正 4)年
1916(大正 5)年
1917(大正 6)年
1918(大正 7)年
1919(大正 8)年
1920(大正 9)年
1921(大正 10)年
1922(大正 11)年
1923(大正 12)年
1924(大正 13)年
1925(大正 14)年
1926(大正 15)年
1927(昭和 2)年
1928(昭和 3)年
1929(昭和 4)年
1930(昭和 5)年
1931(昭和 6)年
1932(昭和 7)年
1933(昭和 8)年
1934(昭和 9)年
1935(昭和 10)年
1936(昭和 11)年
1937(昭和 12)年
1938(昭和 13)年
1939(昭和 14)年
1940(昭和 15)年
1941(昭和 16)年
1942(昭和 17)年
1943(昭和 18)年
1944(昭和 19)年
1945(昭和 20)年
1946(昭和 21)年
1947(昭和 22)年
1948(昭和 23)年
1949(昭和 24)年
214
223
229
238
257
274
336
417
468
529
576
618
663
697
733
757
770
776
781
790
788
794
806
818
824
849
880
933
974
1299
1263
1272
1413
1401
44
4
132
143
149
157
163
188
178
163
150
156
170
187
199
201
207
231
205
204
182
185
182
180
179
178
175
170
186
193
194
-
-
-
-
-
-
-
3413
3535
3654
3806
4082
4410
5241
6353
7492
8672
9688
10742
11604
12386
13050
13529
13868
13896
13792
14049
14341
14659
15230
15655
16200
16933
17756
20950
-
26340
26709
28965
30314
26683
-
47
79
976
1055
1104
1191
1205
1385
1325
1100
1047
1123
1180
1301
1264
1326
1280
1352
1355
1361
1297
1259
1211
1228
1225
1232
1233
1192
1310
2289
-
-
-
-
-
-
-
-
72140
75832
80767
86430
94525
103498
125588
154470
185025
216624
246938
275823
299463
315765
331757
339669
341574
336478
336751
347180
363544
383861
403559
424948
448818
479513
518584
575710
631678
756955
817172
875814
948077
358066
3413
124
17869
20117
21198
23427
24417
28213
25700
22338
21839
22777
24437
25624
26745
27813
27512
28057
27425
26147
24988
24627
25391
28265
28994
29475
30607
32663
37005
41571
44218
-
-
-
-
-
-
-
第3節
大正期
3-3-1)大正期における女子中等学校の教育環境
大正期における女子中等教育の環境は、1899(明治 32)年 2 月 8 日に公布された〈高等女
学校令〉146により女子中等教育が独立した制度を持つようになった。この〈高等女学校令〉
は「第一条
高等女学校ハ女子ニ須要ナル高等普通教育ヲ為スヲ以テ目的トス」と記され
てはいるが、実際には良妻賢母主義教育を推し進めるものであった147。〈高等女学校令〉
は 1920(大正 9)年 7 月 6 日に一部改正され、「第一条
高等女学校ハ女子ニ須要ナル高等普
通教育ヲ為スヲ以テ目的トシ特ニ国民道徳ノ養成ニ力メ婦徳ノ涵養ニ留意スヘキモノト
ス」と「特ニ国民道徳ノ養成ニ力メ婦徳ノ涵養ニ留意スヘキモノトス」という部分が付加
され、より女子教育の位置を明らかにした。このように、大正期の公教育は明治期に確立
されつつあった教育理念を基盤とし、さらなる発展を遂げようとした時期である。
一方、キリスト教主義女学校においては、1899(明治 32)年 8 月 3 日に〈私立学校令〉148
と〈文部省訓令 12 号〉149が公布されると、私学に対する国からの罰則が強化され、さら
にキリスト教主義学校は宗教教育を続けるために各種学校150に留まるか、宗教教育を捨て
て文部省に準じる教育へ転進するかの二極化に迫られることとなる。特に、キリスト教主
義の男子学校においては、各種学校のままでは上級学校進学の機会を失ったり、徴兵の義
務に従わなくてはならないことから、宗教教育を捨てて普通教育の学校にしたり、廃校を
選択したりした。幸いにもキリスト教主義女学校は男子学校のように権利の確保に深刻に
なるほどのことでないことから、各種学校の選択に留まる学校が多かった。しかし、1903(明
治 36)年に〈専門学校令〉151が出ると、各種学校らは高等教育機関と位置づけられるよう
になり、多くのキリスト教主義女学校が権利を得るようになった。このように、明治後半
の教育制度は男女教育、公私学校の差別化を図ってゆき、大正期もその流れを組み、さら
なる発展をしようとしていた時代である。
また、校歌に関しては明治 27 年 12 月 28 日に発令された〈専門学校令〉152以降、学内
この〈高等女学校令〉は 1895(明治 28)年の〈高等女学校令改正〉において制定された。
当時の文部大臣である樺山資紀は、
「高等女學校ノ敎科課程ハ巳ニ之ヲ公布シタリ高等女學
校ノ敎育ハ其生徒ヲシテ他日中人以上ノ家ニ嫁シ賢母良妻タラシムルノ素養ヲ爲スニ在リ
故ニ優美高尚ノ氣鳳温良貞淑ノ資性ヲ涵養スルト倶ニ中人以上ノ生活ニ必須ナル學術技藝
ヲ知得セシメルコトヲ要ス」と述べている。開發社『教育持論』 第 514 号 明治 32 年 7
月 25 日号
148 この〈私立学校令〉は 1911(明治 44)年に改正され、さらに私立学校を監督強化した令にな
っている。
149 「一般ノ教育ヲシテ宗教ノ外ニ特立セシムルハ学政上最必要トス依テ官立公立学校及学科
課程ニ関シ規定アル学校ニ於テハ課程外タリトモ宗教上ノ教育ヲ施シ又ハ宗教上ノ儀式ヲ
行フコトヲ許ササルヘシ」と規制をかけている。
150 明治 12 年 9 月 29 日に公布された〈教育令〉の第ニ条「学校ハ小学校中学校大学校師範学
校専門学校其他各種ノ学校トス」の「其他各種ノ学校」と括られたことが発端である。
151 第五条「専門学校ノ入学資格ハ中学校若ハ修業年限四箇年以上ノ高等女学校ヲ卒業シタル
者」とあり、大学に相当する教育を受けることができる。
152 明治 27 年 12 月 28 日に発令「小學校ニ於テ唱歌用ニ供スル歌詞及樂譜ハ本大臣ノ檢定ヲ
146
147
80
唱歌の認可制度は変っておらず、中等教育以上の認可制度は求められていなかった153。
大正期の高等女学校の音楽教育は、現在の学習指導要領に相当する「高等女学校教授
要目」に明記されている。この要目は 1903(明治 36)年に制定され、1911(明治 44)年に改正
され、改正後は昭和初期頃まで要目に則した教育が行なわれてきた。
高等女學校敎授要目
「音樂」
第一學年 毎週二時
樂典
譜表 諸記号 標語等
基本練習 發聲練習 音程練習
歌曲
聴音練習
呼吸練習
平易ナル單音唱歌
第二學年 毎週二時
樂典
前學年ニ準シ音程論ヲ加フ
基本練習 前學学年ニ準ス
歌曲
單音唱歌
第三學年 毎週二時
樂典
音階論ノ大意
基本練習 前學学年ニ準ス
歌曲
單音唱歌
二部輪唱歌及ビ重音唱歌
樂器
おるがん(基礎練習 簡易ナ樂曲)
ぴあの若ハばいおりんヲ授クルコトヲ得
第四學年 毎週二時
樂典
和聲ノ初歩
基本練習 前學学年ニ準ス
歌曲
單音唱歌
二部三部ノ輪唱歌及二部三部ノ重音唱歌
樂器
前學年ニ準シ程度を稍々進メル
修業年限五ヶ年ノモノノ第五學年ニ於テハ左ノ事項ヲ教授スヘシ
歌曲
樂器 第四學年ニ準シ稍々進ミタル程度ニ於テ授クヘシ
經タル小學校敎科用圖書中ニ在ルモノ又ハ文部省ノ撰定ニ係ルモノ及地方長官ニ於テ本大臣
ノ認可ヲ受ケタルモノヽ外ハ採用セシムルヘカラス但地方長官ニ於テ一旦本大臣ノ認可ヲ經
タルモノハ此限ニ在ラス」
153 校歌制度の成立過程については、
入江直樹(1994)「儀式用唱歌の法制化過程 -1894 年『訓
令 7 号』が学校内唱歌に残したもの-」,
『教育学雑誌』
,第 28 号や、嶋田由美(1986)「小学
校校歌制定に関する研究 -明治後期における東京府内小学校校歌制定過程の分析を通して
-」,
『音楽教育学』,第 16 号や、杉沢盛ニ(2010)『戦前の歌曲認可制度に関する研究 -認
可記録の収集と法令の検討を通して-』
,杉沢盛二(私家版)などの論考が挙げられる。
81
このように、高等女学校の音楽教育はかなり充実した内容であったと知ることができる。
さらに、高等女学校において音楽は必修扱いであったことも注目したい。154女子教育にお
いて音楽が、いかに、女性らしさ、良妻賢母教育に必要であったかわかる。また、大正期
に女学校で使用されていた音楽の教科書は、『中等唱歌集』、『新編中等唱歌』などが挙げら
れる。155
では、私立学校ではどうであったか。今回の分析対象である頌栄女学校と横浜英和女学
校をみてみよう。
頌栄女学校が 1910(明治 43)年に定めた「頌栄女学校規則」の「本科学科科程表」の「唱
歌」科目の内容について、
唱歌
第一学年 単音
第二学年 同上
第三学年 複音
第四学年 同上
第五学年 楽器用法
横浜英和女学校は学園史に「一九一三(大正二)年の指定受理の後、高等女学校令による
標準教科課程を採用することによって改正されたものに多少手を加えており、明治期の課
程で最大の欠陥であった理数科が非常に改善されている。」156と記されている。
音楽
第一学年(週 2 時間) 単音、唱歌
第二学年(週 2 時間) 単音、唱歌、復音、唱歌
第三学年(週 1 時間) 復音、唱歌
第四学年(週 2 時間) 同上
第五学年(週 1 時間) 同上
このように、公立の高等女学校とキリスト教主義女学校を比べてみると、頌栄女学校、横
浜英和女学校、共に教科内容の詳細さが欠けているが、公立の女学校の方が教授内容が充
実しているように見受けられる。しかし、キリスト教主義学校は讃美歌を日常に歌うとい
うことを忘れてはならない。成美学園を大正 6 年に卒業した生徒は「ピアノのじょうずな
方が大ぜいいて、長いそでをゆらゆらとさせながら独奏を、あるいは連弾を、二台のピア
男子に関しては中学校令で「唱歌ハ当分之ヲ欠クコトヲ得」とされている。
横浜英和女学校、頌栄女学校、供に国家の行政支配下に置かれていたことには変わりない
ので、使用された教科書もこれに準じる、または、同じものであったはずである。今回の
調査では明らかにすることができなかったので、今後の研究課題とする。
156 『横浜英和学院百三十年史(創立一三○周年記念誌)
』(2010), 横浜英和学院, p.80
154
155
82
ノに四人でたいへんりっぱにひかれたこともありました。そして幸いなことに、私ども十
五、六歳のころに、有名な歌をよくご指導していただきましたので、ユーモレスクとか、
おとめの祈り、ヘンデルのアリア、ブラームスのものなど、英語でしかも三部、四部の合
唱を、娘のきよらかな声でほほを紅潮させて実にたのしく歌いました。」
、157大正 12 年に
卒業した生徒は「講堂での毎朝の礼拝は、日本語と英語の讃美歌を歌った。あの部厚い、
グリーンの英語の賛美歌の本はなつかしい。」158と日常的に讃美歌、英語に慣れ親しみ、
音楽を楽しんでいたということがわかる。
3-3-2)大正期キリスト教主義女学校の校歌分析
3-3-2-①)頌栄女学校 (現
頌栄女子学院)
1884(明治 17)年 12 月 8 日に「頌栄小学校」、翌年に「頌栄英学校」、「頌栄女学校」が開
校。
「頌栄女学校」は 1920(大正 9)年に高等女学校に昇格。1964(昭和 39)年には「頌栄女子
学院中学校・高等学校」に改称。1994(平成 6)年には高等学校の生徒募集を停止し、中高一
貫教育を確立する。また、1982(昭和 57)年にはイギリスに Winchester Shoei College が開
学。日本人の手によって設立されたキリスト教主義女子学校である159。
学園史によると「大正五年(一九一六)に入ると早々に、もう一つの大きな決定がなされた。
現行校歌の制定である。当時の記録には「一月廿六日、午後三時より校歌の件に付協議会
を開く。同五時閉会す」とあるだけで、制定の事情ははっきりしない。」160と記述されて
いる。作詞者は吉丸一昌161、作曲者は弘田龍太郎162。
歌詞に関して、この校歌は三節から成り立っているが、二番の歌詞が制定後すぐに歌わ
れなくなった。理由として、
「高等女学校への転換を図って、そのための条件整備を着々と
進めていた頌栄にとって、前記の、明治三十二年の文部省訓令十二号に規定されている「宗
おそ
教教育規制」の条項は決定的な重みを持っていた。「天を畏れうやまふ」「受くる教のかし
こさ」という表現のもたらす、
“宗教教育”の誤解を避けるために、あえて自ら規制したと
考えるのは、思い過ごしであろうか。」163と記述されている。先にも記したが、頌栄女子
学院は 1920(大正 9)年に、男子学校と同等の教育水準を得るために高等女学校に昇格してい
る。学園史によると、
「(略)頌栄女学校はもともと、
「(創立者が)基督信者になった感謝とし
て、社会のためによい奉仕をしたいという志望から、信仰的女子を教育するために建てた
女学校」で、事実創立以来、他のミッション系女学校と全く変わらない教育を続けたのに
157
158
159
160
161
162
163
『成美学園とキリスト教教育 成美学園百十年史』(1990),成美学園,pp.127~128
『成美学園とキリスト教教育 成美学園百十年史』(1990),成美学園,p.134
創立者は木村熊二である。
『頌栄女子学院百年史』(1984),頌栄女子学院,p. 198
国文学者であり、作詞家でもある。代表作に「早春賦」
、
「故郷を離るる歌」などがある。
作曲家。
《春よこい》、
《叱られて》など現在でも愛唱されている。
『頌栄女子学院百年史』(1984),頌栄女子学院,p.199
83
もかかわらず、対外的にはこれとは違った側面も持っていた。」164と記しており、キリス
ト教教育に固執することなく、キリスト教色が薄くなってしまっても、教育環境の向上の
ほうが重要であると考えていたようだ。
次に歌詞を記す。
一
清き美し白金の 丘にそびゆる学び舎の
窓のあけくれ隔てぬ友と
二
三
おそ
むつみたのしむうれしさよ
天を畏れようやまへよ
人を愛せよいつくしめ
是ぞ我が行く誠の道と
受くる教のかしこさよ
たかく尊きまごころを おのがさまざまおおしたて
菊と桜のさかゆくみ代に
作詞
吉丸一昌
咲くもたのしのゆくすえや
作曲
弘田龍太郎
譜例17 頌栄女学校
第一章の「清き美し白金の
164
丘にそびゆる学び舎の」は当時、校舎があった東京府芝区
『頌栄女子学院百年史』(1984),頌栄女子学院,p.182
84
白金猿町の土地観を表している。
「窓のあけくれ隔てぬ友と むつみたのしむうれしさよ」
おそ
とは学友との学校生活の毎日の楽しさを詠んでいる。第二章は「天を畏れようやまへよ」
とは天に対し敬意の念を持ちなさいということであり、キリストに対することである。ま
た、キリスト教の理念である隣人愛を「人を愛せよいつくしめ」と詠んでいる。さらに、
「是
ぞ我が行く誠の道と
受くる教のかしこさよ」とキリスト教の信仰の大切さと教えを述べ
ている。第二章がキリスト教に重きをおいた歌詞なのに対し、第三章は「たかく尊きまご
ころを
おのがさまざまおおしたて」と、それぞれが高い志を持ち育ててゆくことの大切
さを説いている。第二節目では「菊と桜のさかゆくみ代に」と、天皇の紋章である「菊」
と日本の国花である「桜」を「さかゆくみ代に」と天皇、国家繁栄を表している。「咲くも
たのしのゆくすえや」は、天皇、国家の繁栄を表すだけでなく、生徒らの未来への期待も
詠まれていると考えられる。
このように第二章目と第三章目を比べてみると、第二章目が歌われなくなった理由がわか
る。校歌が制定された大正五年、頌栄女学校は高等女学校の認可を受けようと動いていた
時期である。キリスト教主義女学校であったとしても、これからの将来を考えると、歌う
ことが憚られるのは理解できよう。
メロディーについて、全体が変ホ長調
4 分の 4 拍子、16 小節、最低音が Es¹で最高音が
F²である。1 小節目から 4 小節目が第 1 楽節目、5 小節目から 8 小節目が第 2 楽節目、9 小
節目から 12 小節目が第 3 楽節目、13 小節目から 16 小節目が第 4 楽節目であり、2 部形式
で成り立っている。
まず、二部形式の前半部分に注目したい。第 1 楽節目と第 2 楽節目は音符の配置は異な
るが、メロディーはまったく同じである。さらに小節ごとに見ていくと、
「2 分音符+4 分
音符+4 分音符」と「付点 4 分音符+8 分音符+4 分音符+4 分音符」のリズム形成で成り
立っているということがわかる。このリズムパターンは後半部分にも言えることである。
後半部分の第 3 楽節目と第 4 楽節目もほぼ同じ(12 小節目は四分音符の連符で異なるが)メ
ロディー形成とリズムパターンであり、この校歌は「2 分音符+4 分音符+4 分音符」と「付
点 4 分音符+8 分音符+4 分音符+4 分音符」で作られているということである。このよう
な、単調な校歌というのは多く見受けられることであり、校歌らしい特徴の一つである。
また、この校歌は最低音の Es¹から始まり、最高音の F²を 15 小節目に置いている。Es¹か
ら F²へと大きな上行形を描くように進み、そのまま歌いきってゆく。もちろん、単純に上
行形を描いているのではなく、最高音 F²の半音下の Es²が中間部分にあたる 7 小節目と 9
小節目に配置され、その部分を山にメロディーの放物線を描いている。メロディーに流動
性をつけながらも、最終部分を高らかに歌い上げたいという作曲者の意図が伝わってくる。
その部分の歌詞は 1 章が「うれしさよ」、2 章が「かしこさよ」
、3 章が「ゆくすえや」で
ある。どの部分も最終節目の詞章の最後の言葉の部分である。これらの言葉を最も印象強
く伝えるために、先に記したようなメロディー形成をしたと考えられる。
85
3-3-2-②)横浜英和女学校
(現
横浜英和学院)
1880(明治 13)年、H.G.ブリテンによって「ブリテン女学校」が創立される。1886(明治
19)年に「横浜英和女学校」と改称。1900(明治 33)年には付属幼年学校(小学校)、1908(明治
41)年には早苗幼稚園を設置。1939(昭和 14)年に学校名である「英和」の「英」の字が敵国
を表すということで、校名としての使用は不適切ということで、
「成美学園」と改称。1947(昭
和 22)年の学制改革により、
「成美学園女子中学校」
、翌年には「成美学園女子高等学校」と
改称。戦後、卒業生からの強い要望があり、1996(平成 8)年に「横浜英和学院」と改称した。
幼稚園から高校までの一貫したキリスト教教育を行なっている。
学園史によると、
「(略)大正 5 年(一九一六)四月、校歌が制定された。作詞は武安正和氏で
ある。氏は明治四十五年(一九一二)以来、二代目教頭の職にあり、国語、漢文の教科を担当
した。
」165とあり、作曲者の H.L.Doxsee については「この曲は宣教師がアメリカからも
たらしたものであるが、歌詞は日本的なものである。」 166 と記されているだけである。
H.L.Doxsee はおそらく、宣教師であると思われるが H.L.Doxsee と横浜英和女学校との関
係性が詳しく触れられていないのは残念である。
次に歌詞を記す。
一
港の西なる
蒔田の丘の
学びの園生に おいたつわれ等
あやめ
もく咲く菖蒲の 清く気高く
し
ろ
むらさき
こころにかざす 白色と紫色
(おりかええし)167
うたえ園生のかげに
花と優しく
あおげ園生の徳を
月とさやかに
愛する園のしるし
いよよ映えて
とこしえに幸あれ
二
あさげの富士がね
夕日の海原
雪にかがやき
波をいろどる
たえなる姿を 日ごとながめて
し
ろ
むらさき
こころに映す 白色と紫色
三
栄えゆく園生の めぐみ豊けく
楽しきまといに いそしむわれ夢
迷いの夢路を たどる時しも
165
166
167
『成美学園八十年史』(1961),成美学園,p. 56
『横浜英和学院百三十年史(創立記念誌)
』(2010),横浜英和学院,p.71
『成美学園百年史』(1980),成美学園,p.13,本文のまま引用
86
し
ろ
むらさき
心を覚ます 白色と紫色
作詞
武安正和
作曲
H.L.Doxsee
譜例18 横浜英和女学院
第一章の「港の西なる
蒔田の丘の」は、校舎の場所である神奈川県横浜市南区蒔田町を
表している。
「学びの園生に おいたつわれ等」は、その校舎で学び、成長する学生らを指
あやめ
している。
「もく咲く菖蒲の
清く気高く」の「もく」とは、「木」であり五行の一つであ
る。季節では春、方位では東、五星では木星を指し、この詞章の場合は「春」を指し、春
に咲く「菖蒲」に係ってくる。そして、菖蒲のように清く気高い学生であれと綴られてい
る。第四節目の「こころにかざす
し
ろ
むらさき
白色と紫色」の「白色と紫色」は校色であり、菖蒲の
色でもある。第一章は新たな季節である春をテーマに意気揚々とした学生たちを姿、願い
を詠んでいるのではないだろうか。
第二章は学校から見ることができる風景を詠んでいると考えられる。
「あさげの富士がね
雪にかがやき
夕日の海原
波をいろどる」は、朝の光によって富士を覆っている雪が輝
き、夕方は夕日に染まった海を見ることができる。それらの景色を「たえなる姿を
とながめて」学生らの「こころに映す
し
ろ
日ご
むらさき
白色と紫色」に係ってくる。横浜英和女学校周辺
の環境の美しさ、そのような環境で学べる素晴らしさを詠んでいるのではないだろうか。
第三章の「栄えゆく園生の
めぐみ豊けく」は、学校が繁栄していく中で、学生らはた
87
くさんの恩恵を受け、
「楽しさまといに
いそしむわれ夢」と、学友たちとの楽しい団らん
や夢に向かい勉学に励む姿を詠んでいる。そのような学校生活の中でも「迷いの夢路を た
し
ろ
むらさき
どる時しも」と、つまずくことがあっても、「心を覚ます 白色と紫色」と、学校が支えに
なると詠んでいるのではないだろうか。
このように、第一章では春の躍動的な学校風景、第二章は美しい学校周辺の風景、第三
章は生徒らの繁栄ある未来について詠んでいると思われる。そして、それら全ての詞章に
続く(おりかえし)の部分の歌詞は比喩的な表現を用い詠んでいる。第一節目「うたえ園生の
かげに
花と優しく」と、第二節目の「あおげ園生の徳を
係にある。第三節目「愛する園のしるし
月とさやかに」と節が対比関
いよよ映えて」の「しるし」とは生徒らを指す
のではないだろうか。愛する生徒らの未来が美しく輝かしいものであるように、
「とこしえ
に幸あれ」と願う詞章になっていると考えられる。
メロディーに関して、全体が変ロ長調、4 分の 2 拍子、64 小節、最低音が E¹であり、最
高音が F²である。
「現在はト長調で三度低く歌っている。(略)少し音程を下げて歌い易くし
たとのことであった。
」168と記されている。確かに、最高音の F²は歌いづらい。
アウフタクトから 8 小節目の 1 拍目までが第 1 楽節、8 小節目の 2 拍目から 16 小節目の
1 拍目までが第 2 楽節、16 小節目の 2 拍目から 24 小節目の付点四分音符までが第 3 楽節、
24 小節目の 8 部音符から 32 小節目までが第 4 楽節、33 小節目から 40 小節目までが第 5
楽節、41 小節目から 48 小節目までが第 6 楽節、49 小節目から 56 小節目までが第 7 楽節、
57 小節目から 65 小節目までが第 8 楽節である。形式に分けると、最初のアウフタクトか
ら 32 小節目までがA部分、33 小節目から 64 小節目までがB部分の 2 部形式で成り立って
いる。
まず、A部分について、第 1 楽節が前楽節であり、その楽節に応答するのが、第 2 楽節
の後楽節である。この二つの楽節は同じリズムパターンで形成されている。第 3 楽節にお
いては第 1 楽節とほぼ同じリズムパターンである。その、第 3 楽節の後楽節にあたる第 4
楽節は 23 小節目から 24 小節目にかけて使用されている D²の力を利用し、さらに跳躍し、
最高音のF²を配置している。また、今まで使用していなかった「付点 4 部音符+8 部音符」
を用い、リズムに変化を出している。
「Refrain」と書いてあるB部分についてだが、A部分と雰囲気が異なり躍動的である。
躍動的な雰囲気を出している要因として挙げられるのが、シンコペーション169の使用であ
る。通常ならば「強拍部、弱拍部」が拍子の頭ごとカウントするが、33、37、41、45、49、
53 小節は「8 部音符+4 部音符+8 部音符」のリズムで基本である強弱拍のリズムから外れ、
「弱拍部、強拍部、弱拍部」と変化を付けている。また、A部分は変ロ長調であったが、
B部分はヘ長調へ転調していることも雰囲気の変化といえよう。
168
169
『横浜英和学院百三十年史(創立記念誌)
』(2010),横浜英和学院,p.71
拍子の中で規定された強拍と弱拍の位置をずらすことにより、リズムに変化を与えること
ができる。「切分法」ともいう。
88
第 5 楽節(前楽節)に応答する第 6 楽節(後楽節)は、ほぼ同じリズムパターンである。同様
に、第 7 楽節(前楽節)も第 5、第 6 楽節らと同じリズムパターンであるが、55 小節目でニ長
調へ転調している。ニ長調の主音であるD音を 55、56 小節間で伸ばしているが、第 8 楽節
に入ると、D音は変ロ長調の主和音の第 3 音へと変化し、全体の調性(変ロ長調)に戻してい
る。この校歌はA部分とB部分の調性、リズム、メロディーが異なる二面性をもった曲で
ある。
歌詞とメロディーの関係性について、作曲者が外国人ということもあり、歌詞とメロデ
ィーのバランスが保たれていない。1 章の第1節目の「港」、2 章の「あさげ」
、3 章の「栄
ゆ」のメロディーは最初に強拍が置かれているが、歌詞からみると「(み)なと」、「(あ)さ
げ」
、
「(さ)かゆ」と、第 2 音目からアクセントがつく。また、日本語の言葉の滑らかさと
メロディーの音と音との跳躍の大きさが一層、歌詞に違和感を与える。このことは、この
校歌全体にいえることであり、日本人の作詞と外国人による作曲の溝を浮き彫りにしてい
るのではないだろうか。
3-3-3)大正期における女学校の校歌分析
3-3-3-①)上野高等女学校(現
上野学園)
1904(明治 37)年に私立上野女学校として創立。1910(明治 43)年に上野高等女学校に改称。
1915(大正 4)年には日本で初めての校章が制定された学校でもある。1918(大正 7)年 4 月 1
日に山田美妙齋作詞、石橋藏五郎作詞によって校歌が制定された。ニ長調、4 分の 4 拍子、
16 小節、音域が D¹-E²で構成されている。
歌詞は、3 章で構成されている。1 章では学問に励むことの大切さ、2 章では才色兼備へ
の道を進むこと、3 章では「花もみぢ」とあるように 1 章で用いられた「春」と 2 章で用い
られた「秋」を合わせた終章になっている。1 章に「うかるる人を
「つゑひく人を
よそにみて」
、2 章に
よそにみて」とあるように、何かを否定し、そのような人物ではなく「(1
章)まなびのわざを たゞはげむ」
、
「(2 章)をみなのみちを
ふみならふ」と目指す人物像を
描いている。そしてそのように誠実に勉学や品行に慎むことが、1 章から 3 章の歌詞に記さ
れている「たのしさよ」につながるということである。
一
雲かとまがふ 花ざかり
うかるる人を よそにみて
まなびのわざを たゞはげむ
われらの春の たのしさよ
二
錦をかざる
もみぢばに
つゑひく人を よそにみて
をみなのみちを ふみならふ
89
われらの秋の たのしさよ
三
上野の山の
花もみぢ
ふみのはやしを いろどりて
こゝろのおくに にほひつゝ
とはにうつらぬ たのしさよ170
作詞
山田美妙齋171
作曲 石橋藏五郎172
譜例19 上野高等女学校
旋律は、1 小節目から 8 小節目、9 小節目から 16 小節目の 2 部形式である。そして。4
小節目、8 小節目、12 小節目、16 小節目を除くと、すべての小節が♩. ♪♩ ♩「付点四分音
符+八分音符+四分音符+四分音符」で構成されていることが分かる(3 小節目の 3 拍目の
E¹と 4 拍目の G¹は経過音である)
。これは歌詞が七五調のリズムで構成されているためであ
る。典型的は校歌の旋律である。
5 小節目と 6 小節目、13 小節目と 14 小節目の旋律が一緒であるが、前旋律の後半部分は
下行系をたどり、後旋律は上行系をえがいている。そしてこの校歌は、最高音の E²を 15
小節目の 4 拍目にもってきていることから、最後に盛り上げて歌い上げる校歌でもある。
歌詞引用(
『創立三十年』(1934),上野高等女学校,p.77)
山田美妙齋(1868~1910)小説家・詩人。言文一致の先駆者的存在であり、代表作に『武
蔵野』
、
『胡蝶』等があり、
『日本大辞典』(1892)、
『大辞典』(1912)の編纂にも携わって
いる。
172 石橋藏五郎(1875~1964)上野学園の創始者。
170
171
90
3-3-3-②)東京家政女学校 (現 豊島岡女子学園)
1892(明治 25)年に私立女子裁縫専門学校を創立。1904(明治 37)年に東京家政女学校と改
称。1924(大正 13)年、牛込高等女学校に設置認可、同年 4 月に牛込高等女学校・東京家政
女学校と併設される。1948(昭和 23)年に現在の東池袋の地に移転し、豊島岡女子学園と改
称した。旋律は、ヘ長調、4 分の 4 拍子、16 小節、音域 C¹-D²である。正確な制定年はは
っきりしないが、大正期ではないかと学園史に記されている。
「本校の校歌はいつ頃作られたものであるかは明らかではない。第一節の内容からみる
と、河村、浅村両先生の在世中であることは確かである。大正三年卒業の安達光子さんの
話によると、在校中には校歌を歌わなかったということである。又大正十三年の卒業生は、
入学の時から校歌を歌っていたと語っている。
作詞の阪正臣という方は、安政二年の生まれであって、昭和六年に七十七歳で亡くなら
れた御歌所173の寄人である。作曲の田村虎蔵という方は、明治七年の生れであって、東京
音楽学校の出身者である。
「金太郎」
「花咲爺」
「浦島太郎」「大江山」「牛若丸」等の作曲者
で、明治大正時代の教育音楽界の元老である。以上の状況から推定すると、校歌の作られ
たのは大正七、八年前後のことではなかろうかと考えられる。即ち本校の校歌は、当代第
一流の歌人と、教育音楽界の元老とによって作詞作曲されたものである。古典調の流麗な
歌詞は、流石に御歌所寄人の作にふさわしいものである。
阪先生は、河村、浅村、臼井母子三人の先生方が、辛苦を共にしながら、寄宿舎に生徒
と起居を共にして親身に勝る世話をして勉学にいそしむ、恰も一家の親子姉妹のような校
風にいたく感動せられて、学校のありのままの姿と、暖かい校風を第一節に歌いあげたも
のであろう。更に第二節には、ここに学ぶ生徒の目標、使命を歌われたものであろう。
」174
一 親子はらから数へ子の
こころざしをばたてかはし
清く築ける学び舎は
誰もわがやのここちせん
二 いざや我らもふるひ立ち
学びきはめん学び舎の
もともとは和歌所と呼ばれ、宮中に常設的にはあまり置かれず、
『古今和歌集』、
『万葉
集』等の撰進を行っていた。1888(明治 21)年に宮内省に御歌所として改めて創設され、
1946(昭和 21)年に廃止された。
174 『豊島岡女子学園八十年史』(1972),豊島岡女子学園八十年史編集委員会,豊島岡女
子学園,pp.109~110
173
91
名をもあまねく世に知らせ
御代の光をそへつべく175
作詞 阪正臣
作曲 田村虎蔵
譜例20 東京家政女学校
旋律は、1 小節目から 8 小節目、9 小節目から 16 小節目の 2 部形式である。そして。2 小
節目、4 小節目、8 小節目、12 小節目、16 小節目を除くと、すべての小節が♩. ♪♩ ♩「付
点四分音符+八分音符+四分音符+四分音符」で構成されていることが分かる。最高音の
D²を 13 小節目に置き、1 章目「誰もわがやの」
、2 章目「御代の光を」を高らかに歌い上げ
ていることがわかり、学園史にも記されている「親子姉妹のような校風」、「学ぶ生徒の使
命」を生徒らに理解させることができる旋律である。
3-3-3-③)文華高等女学校(現
十文字学院)
1922(大正 11)年、文華高等女学校が巣鴨に東京女子師範学校の同窓生の十文字こと・戸
野みちゑ・斯波安により女子教育が発足した。1935(昭和 10)年十文字こと氏が校長に就任
すると、昭和 12 年十文字高等女学校と改名された。1941(昭和 16)年の太平洋戦争により軍
事が第一次であったが、学園では英語の授業が続けられた。1945(昭和 20)年終戦でしたが
校歌は焼失。仮校舎で授業が行われた。
175
歌詞引用(二木友吉(1982),
『豊島岡女子学園九十年史』,豊島岡女子学園,p.405)
92
学園史によると、
「校歌は十文字学園の校歌は、学監斯波安により作詞され、東京音楽学
校教授島崎赤太郎が作曲し、晴れの開校式で披露された。」176と記述されている。
身を鍛へ心きたへて世の中に 立ちてかひある人と生きなむ
作詞
斯波安
作曲 島崎赤太郎
譜例21 文華高等女学校
歌詞に関して、学園史に作詞者の斯波自身の解釈が記述されている。
「身を鍛え心を鍛えること即心身を鍛錬することは、生をこの世にうけた人間が当然努
力せねばならぬ第一の必要条件であります。いかなることをなすにも身体が丈夫に鍛えら
れておらず、また意思が薄弱であるとか、真面目に努力を続けぬことが出来ぬとかいうよ
うでは、成功するものではありません。まして世の中に出て何か事業をし出そうとか、人
の信用を得ようとか、また家庭の人となって夫を助け子供を立派に育て上げようとかいう
場合に、どうしてそれが出来ましょう。心身の鍛錬の出来ていない人は必ず劣敗者たり落
伍者たるを免れませぬ。
(中略)この如何によって校歌の下句「立ちてかひある人と生きな
む」が立派にやっていけるかいけないかが分かれるので、人としての存在の価値如何も定
まるのであります。人間……等しく生きがいのある人間といわれなければただ体が存在し
ているというだけであります。
(中略)要するに我が校の生徒は、この校歌の趣旨を真面目
に守っていきさえすれば、心も見も鍛えられて健康体の持ち主となり、確固たる意思の所
有者となることが出来て家庭の人としても、有用なる者となることが出来ると存じます。
」
177
と記述されている。長々となってしまったが、作詞者がたった一遍の和歌に込めた思い
の深さを窺い知る事ができよう。またこの学園では「十文字学」という共通科目の中で創
立者の生き方、女性の生き方を学ぶ授業が机上でも行われているのである。
旋律に関して、全体が d moll、4 分の 4 拍子、11 小節から成り立っている。最低音は Cis¹
で、最高音は D²である。1 小節目から 6 小節目が前半部分、7 小節目から 11 小節目が後半
176
177
『十文字学園七十年史』(1992),十文字学園,p.81
『十文字学園七十年史』(1992),十文字学園,p.81
93
部分に分けられる。和歌を用いていることからこのような半端な分け方になってしまって
いる。しかし、それだけ歌詞に対して思いが深いということがわかる。さらに短旋律で書
かれた校歌はあまりない。また、歌詞が和歌であること、現在も歌われ続けていることか
ら、創立期から現在にかけて建学の精神を守り続けているということでもある。
3-3-4)大正期における都立高等女学校の校歌分析
3-3-4-①)東京府立第六高等女学校(現 東京都立三田高等学校)
1923(大正 12)年東京府立第六高等女学校として開校。1926(大正 15)年 4 月 4 日に作詞土
岐善麿、作曲島崎赤太郎による校歌が制定された。
「大正 13 年 11 月、はじめての学芸会が
行われた。その翌年 14 年 4 月には校歌が制定された。土岐善麿作詞、島崎赤太郎作曲の第
六の校歌は、これからいるも青春の血にもえる乙女らによって愛唱された。」178と綴られ
た文章にあるように力強い旋律観がみてとれる。ハ長調、4 分の 4 拍子、22 小節で構成さ
れている。
一
讃へよ若き命を
ふくらむ蕾の清らのゑみ
よろこびの胸のゆらぎすこやかに
いそしまん
かくこそあれやをとめ我等
わられのこの学びや
二
仰げや高きのぞみを
輝く御空のあふるる愛
とこしへの人の栄
もろともに
親しまむ
かくてこそあれやをとめ我等
わられのこの学びや
作詞
178
土岐善麿
作曲
島崎赤太郎
引用部分の制定年、出版社、歌詞の引用部分の出典不明。
(資料は都立三田高等学校の
音楽担当の仲田賀一教諭から提供していただいた。
)
94
譜例22 東京府立第六高等女学校
「青春の血にもえる乙女らによって愛唱された」と引用にあるように、1 章では冒頭から「讃
へよ若き命を」と、若さあふれる様を表している。
「ふくらむ蕾の清らのゑみ」では、これ
から開花する蕾を生徒にたとえ、
「よろこびの胸のゆらぎすこやかに いそしまん」と、学
校で学ぶ喜びや勤勉さを詠っている。2 章では、「仰げ」、「高き」、「御空」というキーワー
ドが上を向く状態を表している。それらの詞が、
「のぞみ」、
「輝く」、
「愛」
、
「とこしへ」、
「栄」
という未来への繁栄に結びついているということがわかる。
旋律において、アウフタクトから 14 小節目、15 小節目から 22 小節目の 2 つに分けるこ
とがわきる。前半部分は、♩.♪♩
♩「付点四分音符+八分音符+四分音符+四分音符」、
もしくは「二分音符+四分音符+四分音符」の旋律があり、冒頭の「讃へよ若き命を」の
歌詞とは相対する、ゆったりとした旋律である。後半部分は 1 章、2 章の共通部分である、
「かくこそあれやをとめ我等 わられのこの学びや」が 14 小節目の 4 拍目から始まる。8
部音符が頻繁に使用され躍動的であることがわかる。さらに、
「un poco ritard.」(少し次第
にゆっくり)と歌う速度が指示されていることから、最後の「学びや」(20 小節目 4 拍目か
ら 22 小節目まで)の部分は 2 分音符の旋律を一つ一つ丁寧に歌い、終小節のフェルマータ
(本来の長さよりも長く歌う・奏す)を歌い上げるということである。
95
3-3-5)まとめ
大正期は大正デモクラシーの影響もあり女子の社会進出は進み、高等女学校の学校数や
就学率が増加した。その一方で、1920(大正 9)年 7 月 6 日に一部改正された〈高等女学校令〉
は、明治期に確立されつつあった教育理念を基盤とし、さらなる発展を遂げようとした時
期であった。
頌栄女学校は高等女学校へ昇格するために、あえてキリスト教教育色を校歌から排除し、
わざわざキリスト教色の強い 2 章を歌う事をやめたのである。そして、3 章の第 3 節目「菊
と桜のさかゆくみ代に」と、忠君愛国をイメージさせる表現をした。これは校歌から国家
権力に揺れ動くキリスト教主義女学校の一面を歌詞からうかがい知ることができたという
ことではないだろうか。しかし、キリスト教主義女学校の校歌は、西洋音楽に精通した人
物が作曲を行っているのであるから、シンコペーション、転調、音程間における大きな高
低差は、音楽的には内容があり、魅力的ではあるが、いざ、歌詞との重なり合いになると、
均整の取りづらい校歌になってしまう。
一方、私立・府立の女学校は、七五調、和歌の形式がとられているものが多いため、「符
点四分音符+八分音符+四分音符+四分音符」の旋律もあるが、校歌の一般的な枠あては
まらない情操的な旋律や増えてきた。これは、明治期以降、西洋音楽を東京音楽学校や海
外で勉強してきた作曲家の影響と考えられよう。島崎赤太郎は 1902(明治 35)年、文部省の
給付留学生としてドイツのライプツィヒ王立音楽院へ留学している。大正期は教育環境が
充実していた時期でもあるが、その教育に対し批判的な人々が童謡運動を起こしたりして
いた時代である。軍国主義へ向かっていく中、自由主義を求め、表現を求めた時代に校歌
も情操的な曲調があったということがわかった。
表3
大正期女学校の校歌制定状況
学校名
音域
曲調
横浜英和女学校
1880(明治13)年
1916(大正5)年
武安正和
H.L.Doxsee
変ホ長調
4分の4
16 Es¹-F²
七五調
長音階
無
頌栄女学校
1884(明治17)年
1916(大正5)年
吉丸一昌
弘田龍太郎
変ロ長調
4分の2
64 E¹-F²
自由詩
長音階
有
順心女子
1924(大正13)年
1924(大正13)年
嘉悦学園
1903(明治36)年
1913(大正2)年
福島四朗
牛山充
変ホ長調
8分の6
16 B-C²
自由詩
長音階
有
三輪田
1902(明治35)年
1914(大正3)年
三輪田元道
岡野貞一
ハ長調
4分の4
16 C¹-C²
七五調
長音階+四七抜き長音階 無
大妻女子
1908(明治41)年
1917(大正6)年
尾上八郎
島崎赤太郎
ハ長調
4分の4
16 C¹-F²
七五調
長音階
有
上野学園
1904(明治37)年
1918(大正7)年
山田美妙齋
石橋蔵五郎
ニ長調
4分の4
16 D¹-E²
七五調
長音階
無
京華高等女学校(京華学園)
1897(明治30)年
1919(大正8)年
島崎赤太郎
小林愛雄
ハ長調
4分の4
19 C¹-E²
自由詩
四抜き長音階
有
戸板学園
1902(明治35)年
1921(大正10)年 尾上八郎
萩原英一
変ロ長調
4分の4
16 B-Es²
七五調
七抜き長音階
有
文華高等女学校(十文字学園) 1922(大正11)年
1922(大正11)年 斯波安
島崎赤太郎
ニ短調
4分の4
11 D¹-D²
和歌
短音階
有
成田高等女学校
1898(明治31)年
1925(大正14)年 笹川臨風
山田耕筰
ヘ長調
4分の4
15 C¹-F²
七五調
長音階
有
東京家政学院
東京家政女学校
(豊島岡女子学園)
1923(大正12)年
1925(大正14)年 尾上紫舟
讃美歌112番 ニ長調
4分の2
19 D¹-D²
自由詩
長音階
無
1892(明治25)年
大正期
阪正臣
田村虎蔵
ヘ長調
4分の4
16 C¹-D²
七五調
七抜き長音階
有
高崎高等女学校
1899(明治32)年
1916(大正5)年
小松耕輔+
梁田貞
歌詞のみ
桐生高等女学校
1908(明治41)年
1918(大正7)年
中村孝也+
葛原滋
芳賀矢一+
本多亀三
岡野貞一
歌詞のみ
1875(明治8)年
1921(大正10)年 小林良一
梁田貞
変ニ長調
8分の6
32 Des¹-F² 七五調
七抜き長音階
無
1923(大正12)年
1925(大正14)年 土岐善麿
島崎赤太郎
ハ長調
4分の4
22 C¹-E²
長音階
有
宇都宮高等女学校
(県立宇都宮女子)
東京府立第六高等女学校
(都立三田)
創立年
制定年
作詞者
作曲者
調性
拍子
小節数
下田歌子
96
音階
アウフタクト
和歌
七五調
七五調
自由詩
第4節
昭和前期
3-4-1)昭和前期における女子中等学校の教育環境
大正デモクラシーの影響で女性の社会進出・就学率は目覚ましく上昇した。しかしその
一方で、戦争への道のりを辿る状況は、終戦間近になると教育を行える環境ではなくなっ
ていった。1941(昭和 16)年アメリカ・イギリス・オランダに宣戦布告すると大東亜戦争が
勃発。1943(昭和 18)年 1 月 21 日〈中等学校令〉が公布され「第一条
中等学校ハ皇国ノ道
ニ則リテ高等普通教育又ハ実業教育ヲ施シ国民ノ錬成ヲ為スヲ以テ目的トス」と定め、高
等女学校もこの法律に準じるようになる。同年 6 月 25 日には「学徒戦時動員体制確立要綱」
179
、10 月 12 日「教育ニ関スル戦時非常措置方策」180が閣議決定され、中等学校に通う
女子も軍事の際には担い手になるようにと決定された。さらに、翌年昭和 19 年「緊急学徒
勤労動員方策要綱」
、
「決戦非常措置要綱」、
「女子挺身隊制度強化方策要綱」181が閣議決定
され、多くの女子学生は軍事施設や農作業に奉仕することとなった。最終的には、昭和 20
第一 方針
「大東亜戦争ノ現段階ニ対処シ教育錬成内容ノ一環トシテ学徒ノ戦時動員体制ヲ確立シ
学徒ヲシテ有事即応ノ態勢タラシムルト共ニ之ガ勤労動員ヲ強化シテ学徒尽忠ノ至誠ヲ
傾ケ其ノ総力ヲ戦力増強ニ結集セシメントス」
第二 要領
179
「学徒ヲシテ将来ノ軍務ニ備へ国防能力増強ヲ図ラシムルト共ニ必要ニ当リテハ直接国
土防衛ニ全面的ニ協力セシムルモノトシ之ガ為概ネ左記各項ノ方途ヲ講ズ」の
「
(六)中等学校以上ノ女子学徒ニ対シ看護其ノ他保健衛生ニ関スル訓練ヲ強化シ必要ニ
際シ戦時救護ニ従事セシメルモノトシ之ガ為必要ナル施設ヲ整備ス」と明記されている。
(内閣制度百年史編纂委員会(1985)
『内閣制度百年史 下』大蔵省印刷局,
pp.246-248 )
180
第一 方針
現時局ニ対処スル国内態勢強化方策ノ一環トシテ学校教育ニ関スル戦時非常措置ヲ講
ジ施策ノ目標ヲ悠久ナル国運ノ発展ヲ考ヘツツ当面ノ戦争遂行力ノ増強ヲ図ルノ一事
ニ集中スルモノトス
第二 措置
一 学校教育ノ全般ニ亘リ決戦下ニ対処スベキ行学一体ノ本義ニ徹シ教育内容ノ徹底
的刷新ト能率化トヲ図リ国防訓練ノ強化勤労動員ノ積極且ツ徹底的実施ノ為学校ニ関
シ左ノ措置ヲ講ズ
(三)中等学校
(イ)昭和十九年ヨリ四学年修了者ニモ上級学校ノ資格ヲ付与シ昭和二十年三月中等
学校四年制施行期ヲ繰上ゲ実施ス
(ロ)昭和十九年度ニ於ケル中学校及高等女学校ノ入学定員ハ全国ヲ通シ概ネ前年度
ノ入学定員ヲ超エシメズ工業学校、農業学校、女子商業学校ハ之ヲ拡充ス(宮原
誠一(1974)
『資料日本現代教育史 4』
,三省堂,pp.334-336)
181 方針
女子ノ勤労動員ヲ促進強化スルタメ女子挺身隊ノ制度ヲ強化シ其ノ勤労能率ノ昂揚ヲ
図ルモノトス(原朗・山崎志郎(1997)『軍需省関係資料』
,第 8 巻,現代史料出版
pp.204-207)
97
年 3 月 18 日に閣議決定された「決戦教育措置要綱」
、同年 5 月 22 日文部省令第 9 号〈戦時
教育令〉により中等教育は 4 月 1 日から翌 21 年 3 月 31 日まですべて停止される状況とな
った。
校歌において、すでに中等学校では〈文部省令 49 号〉があったため学内で歌われる歌は
文部省の認可が必要であった。さらに、「この決戦態勢下の學園内にあつて、新時代を担ひ
立つ學生が、歌う校歌や寮歌には徒らにゲーテやハイネ調で青春を謳ひ、月や星を讃へた
いはゆる星菫派のものが多く舊態のまゝ取り残されてゐるの状態にあるので、文部省敎学
局では學園戦時體制の一環として、全國各大學や高等學校、専門學校の校歌、寮歌、應援
歌の再検討に乗り出すことゝなり、全國各校から資料の蒐集を行ふこととなつたが、これ
らの校歌、寮歌、應援歌などのうち検討の結果、時局に副はないものや、廢頽的のものは
改作、または廃止させ、これに□つて剛健なる歌曲を新作させ、これを全校に普及さすこと
となった。
」182これにより、全ての学校教育機関において歌われる歌は文部省の認可が必
要となったのである。
3-4-2)昭和前期のキリスト教主義女学校の校歌分析
3-4-2-①)東洋英和女学校(現
東洋英和女学院)
1884(明治 17)年 10 月開校「東洋英和女学校」。カナダ・メゾジスト系。1946 年「東洋英
和女学院」改称。校歌は 1934 年制定。作詞は北原白秋、作曲は山田耕筰。「創立五十周年
に当り校歌作成を決議、生徒一般から募集した処、最後の選に与ったものも、これを校歌
とするには些か威風を欠くということで、当時、校歌の作詞、作曲に於てそれぞれ第一人
者と誉れ高き北原白秋氏と山田耕作氏依頼申し上げた処、快諾された。白秋氏は一日学校
を訪ね、校舎、校庭、お山(略)などを詳らかに参観なされて詩情、曲想を得られたとの
ことであった。」183
以下に歌詞を記す。
一
風にそよぐ
美しきもの
あおぞら
楓よ 楓の園 あおげよこの蒼空
雲よりも遥けき時
二
182
183
まなびや
楓よ 楓の鳥居坂
我が学舎
椎よ 樫よ
日かげ織るこの窓
共に
東洋英和
東洋英和
神を思ふ
清らけきもの
「音楽文化新聞」
,1943 年 7 月 1 日,4 面
「史料室だより No.16」(1982),東洋英和女学院史料室委員会,p.7
98
うやまひ
楓よ 楓の園 幸あれ この敬神
露満ちて静けき朝
我が学舎
椎よ 樫よ
日かげ織るこの壁
共に
東洋英和
三
まなびや
楓よ 光と新なる
東洋英和
つつま
人につかふ
虔 しきもの
楓よ 楓の園 にほへよ この良き土
玉よりも響かふ愛
ことば
まなびや
楓よ 東の 道 がある 我が学舎
椎よ 樫よ
東洋英和
共に
日かげ織るこの庭
東洋英和
作詞 北原白秋
作曲
山田耕筰
譜例23 東洋英和女学院
歌詞の中で頻繁に出てくる「楓」とは校章からとったものである。カナダ・メゾジスト
系ということでカナダの国樹が採用されたのである。北原白秋が実際に学校を訪れ、書き
上げたということもあり、全ての章に学校周辺の環境を詠ったものが多い。この学校が自
然豊かな環境であるという証拠でもある。
99
この校歌は旋律が複雑である。「8 分の 6 拍子と 8 分の 9 拍子とが絶えず入れ替わり、音
域が広いし、言葉は難しいし、第一、前奏から言葉に入ってゆく所が仲々うまくゆかない。
三部合唱という校歌も珍らしい。「椎よ、樫よ……」という所になるとトントントンと指
揮棒が打たれ、「そこは少し早く、早目にですよ」との御注意。「日かげ織る
この窓の
ところでだんだん遅くします。」此の部分を何度練習し直したことだろう。」184生徒らも
なかなか歌いこなせないようである。
旋律は、D dur、8 分の 6 拍子、27 小節、音域 D¹-G²で構成されている。この校歌は 1 小
節目から 13 小節目、14 小節目から 18 小節目、19 小節目から 27 小節目の 3 つに分けるこ
とができる。中間部分の 14 小節目に G²がある。「楓」の歌詞の部分が最高音域に配置して
いることから、この詞が一番重要なのだとわかる。本来、校歌は、全校生徒全員が歌うと
いう観点から単純明快な旋律が多く作曲される。その典型的なものとして 4 分の 4 拍子、
16 小節で調号も 2 個ぐらいで作曲されることが多い。しかし、東洋英和の校歌はより情操
的に歌われるように、クレシェンドやディミヌエンドの音楽記号が細く記されている。さ
らに「Andante tranquillamente, ma quasi」(静かに歩くように)と具体的に曲想も指示
していることが特徴である。
3-4-2-②)恵泉女学園
1929(昭和 4)年に河井道によって創立された学校である。校歌は創立 10 周年を記念して
制定された。作詞は当時、国語を担当していた織田やす教諭、作曲は信時潔に依頼し作曲
してもらった。
以下に歌詞を記す185。
一
愛と泉と
湧きいでし
恵泉の恵泉の 乙女吾等は
いづこにても いつにても
きよらに流れ 豊かにそゝぎ
友なき人の
友となりつゝ
砂漠に花を
咲かしめなんと
愛の聖戦
いさみて戦わん
げに勝利の君の 先立ち給う
大進軍に
二
吾等もつゞかん
希望のゆくてに かゞやける
「史料室だより No.16」(1982),東洋英和女学院史料室委員会,p.7
以下に記された歌詞は
「恵泉」
昭和 11 年 9 月 17 日発行に掲載された歌詞を採用した。
また、歌詞の意味内容を理解しやすくするために、
『史料室だより』, 第 16 号, 恵泉女
学園史料室, 2010 年 11 月, p.10 と学生等に配布する歌詞を参考にした。
184
185
100
恵泉の恵泉の 乙女吾等は
いづこにても いつにても
義の陽に光る 翼をはりて
にくしみしみうらみ
雲と去らしめ
諸族をとざす 闇を破りて
平和の道を
拓きて進まん
げに勝利の君の 先立ち給う
大進軍に
三
吾等もつゞかん
信仰まといて 勇しき
恵泉の恵泉の 乙女吾等は
いづこにても いつにても
まことをかたり 正しきにつき
あざむきそねむ 世と戦いて
皇國の榮
御代の光と
四海に義をば こぞりてしかなん
げに勝利の君の 先立ち給う
大進軍に
作詞
吾等もつゞかん
織田やす
101
作曲
信時潔
譜例24 恵泉女学園
この校歌はキリスト教主義とは異なる歌詞の部分がある。特に「げに勝利の君の
ち給う
大進軍に
先立
吾等もつづかん」という詞が三節全てに使用されて歌詞の印象を強く
する。なぜ、キリスト教主義学校が皇国主義を掲げたのか。その疑問に恵泉女学園自身が
謎を解き明かしている。「最初に創られた時、三節の「皇国の榮、御代の光」は皇国-天
皇の治める国-の字が当てられ、神の国の両方の意味で使われていたと考えられる。「御
代」についても同じことが言えるのではないか。1939 年は、日中戦争の只中であった。創
立 10 周年前後の時代状況を考えると、同じく三節の「四海の義をばこぞりてしかなん」は
当時日本政府が謳歌した「八紘一宇」のスローガンを連想させるかもしれない。」186戦争
最中の中、作られた校歌は歌詞だけみると皇国主義に倣っているようではあるが、学校で
は国からの目があったものの、キリスト教を信仰し続けていたそうである。1 章では、
「愛」、
「清ら」、「友」、「花」、2 章では「希望」、「翼」、「雲」、「やみ」、3 章では「信
仰」、「まこと」、「栄」のキーワードが挙げられる。自愛や未来、知性、信仰が読み取
れることから、当時の生徒たちは愛国心と信仰心の両方を歌っていたと考えられる。
旋律においては、13 小節目の 4 拍目から 17 小節目の 1 拍目の間、ト短調に転調する。リ
186
「史料室だより 第 16 号」(2010),恵泉女学園史料室,p.10
102
ズムは、♪♪ ♩「八分音符+八分音符+四分音符(付点四分音符)」が多く用いられてい
る。最初に出てくるのは、「恵泉の恵泉の
乙女吾等は」の学園名の部分「恵泉」である。
学園名で用いられたリズムを多用することで、学園に対する愛校心が旋律からも深く心に
刻まれるのではないかと考えられる。
恵泉女学園は、校歌が制定される以前は「青空はかなたに」という歌を普段から歌って
いた。その当時は校歌のような役割を果たしていたということなので参考資料として記し
ておく。
一
青空は
かなたに
二
うちけぶる
母の眼と
うるわし
堺無し
仰ぎ見よ
山ぎわ
遙けくも
梢みな
鐘よ鳴れ
鳴れよ鐘
やわらぐ
この日を
新に
緑は
三
野のはて
霞引き
安らけし
近くも
海の藍
光れり
鳩よ飛べ
はね
群れよ翼
鳴りめぐる
潮も
この春
ひと色
まろらかに
つつめり
四
よき空は
我等に
鐘のごと
かかれり
親しきは
人の手
こころみな
その輪を
睦みあえ
ひとしく
満ちよ星
やさしく
人はみな
同胞
ちりばめよ
やわらぐ
この夜を
こまかに
譜例25 青空はかなたに
3-4-3)昭和前期の高等女学校の校歌分析
3-4-3-①)青蘭高等女学校(現
青稜中学・高等学校)
1938(昭和 13)年青蘭商業女学校を現在の品川区二葉町に開校。1943(昭和 18)年に青蘭高
等女学校が開学。昭和 22 年に学制改革により青蘭学院中学校・高等学校に改称し、中学校
が開校された。現在は男女共学化されている。曲調は、変ホ長調、4 分の 4 拍子、20 小節、
音域は B-G²である。作詞は創立者の青田瀧藏、作曲は橋本泰次である。
一 東亜の光
かがやきて
103
聖の春に
咲きかおる
その名ゆかしき 青蘭に
つどうおみなの 幸多し
あゝそのこころ 桜花
二 汲めどつきせぬ 真清水に
教えの庭の
久遠の光
露うけて
仰ぎつつ
いそしみ行かん 窓の雪
あゝその姿
富士の嶺
三 花ひともとに ちよろずの
誉をかけし
学びやぞ
あすの栄えを わが肩に
荷ないて立たん いざ友よ
あゝその操
作詞 青田瀧藏
ときわ草
作曲 橋本泰次
譜例26 青蘭高等女学校
104
日中戦争の影響により「女子勤労挺身隊ができ、本校生徒も沖電気。神田通信工業・松
下電器・日本光学などで勤労奉仕。学校校庭に 200 人以上入れる防空壕をつくる」187、
「太
平洋戦争に突入し、生徒も半減。終戦になっても物資の窮迫、進駐軍の制圧などでいばら
の幾山川超えてきたか…」188と、あることから教育は十分にできていない状況であったと
推察できる。
1943(昭和 18)年に青蘭高等女学校が開学してから歌い続けていた校歌は、1 章「春」、
「桜」
があることから春の学校の風景、「聖」があることから天皇を指している。「つどうおみな
の
幸多し
あゝそのこころ
桜花」は青蘭の生徒の幸せ、春に毎年同じ場所で咲く桜の
ように見守っているということである。2 章は「雪」
、
「富士の嶺」があることから冬の学校
の風景、
「汲めどつきせぬ 真清水に」
、「教えの庭」
、「窓の雪」は学問を表している。そし
て「いそしみ行かん
窓の雪
あゝその姿
富士の嶺」では、切磋琢磨に勉学に励むこと
で学問が向上することを表している。3 章「あすの栄えを
わが肩に 荷ないて立たん い
ざ友よ」は、この学校を巣立ち、社会に貢献する将来、そしてその信念は揺るぎないもの
であるという「あゝその操 ときわ草」で表しているということである。
この校歌は♩.♪ ♩ ♩ | ♩ ♩ ♩ ♩「付点四分音符+八分音符+四分音符 | 四分音符++
四分音符+四分音符+四分音符」を主に用いた旋律であることがわかる。①1 小節目から 8
小節目、②9 小節目から 12 小節目、③13 小節目から 16 小節目、④17 小節目から 20 小節
目の 4 つに分けることができる。①の部分はさらに 1 小節目から 4 小節目、それに応答す
る旋律が 5 小節目から 8 小節目であることがわかる。そして②の旋律は 9 小節目で Es¹か
ら Es²に跳躍し、変化する部分である。そして④の旋律は①の旋律を模倣した形であること
がわかる。最後の④の旋律は、最高音の G²を 17 小節目の 3 拍目に配置していることから一
番の盛り上がりを表現しているところでもある。歌詞おいても、
「あゝそのこころ 桜花」
(1 章)、
「あゝその姿
富士の嶺」(2 章)、
「あゝその操
ときわ草」(3 章)と、一番訴えた
い部分であることから、歌詞と旋律の調和のとれた校歌であることがわかる。
3-4-3-②)立川女学校(現
立川女子高等学校)
1925(大正 14)年 4 月 19 日立川女学校が開校。翌年付属幼稚園が開園。校歌は 1927(昭和
2)年 10 月 7 日に制定。作詞者は創立者の村井敬民、作曲者は小松耕輔、ト長調、4 分の 4
拍子、16 小節、音域 H-E²である。現在も歌われている。
一
操の姿 さながらに
雪降る日にも 変わりなき
みどりの松を 仰ぎみて
まなびや
わが学舎は
187
188
栄えゆく
青稜中学校・高等学校の郡山民子教頭先生が送って下さった資料から引用。
青稜中学校・高等学校の HPhttp://www.seiryo-js.ed.jp/introduction/
105
二
賢母をめざし 愛ふかく
三
作詞
操の道を
踏めかしと
誠の教え
説きたもう
我師の君は
栄えゆく
我師の教え
うやまいて
学びの道を
たどりゆく
心まことに
身もまこと
我らの友は
栄えゆく
村井敬民
作曲 小松耕輔
譜例27 立川女学校
音楽担当の榎教諭によると、
「十数年前までは、生徒たちに詩の意味を解説することもあ
りましたが、現在は“覚えてくれれば、それだけで良い”といった指導に変っております。」
と、校歌と共に同封されたお手紙の中に記されていた。
まなびや
1 章、結尾が「わが学舎は
日にも
変わりなき
栄えゆく」とあることから、「操の姿 さながらに
みどりの松を
雪降る
仰ぎみて」は校舎を表していることがわかる。学校
周辺の環境を詠む学校が多い中、生徒・教職員が集う学校そのものを詠っているのが特徴
である。同じように、2 章の結尾「我師の君は
栄えゆく」は教師(「賢母」、「愛」、「誠の
教え」
、
「説きたもう」
)を表し、3 章の結尾「我らの友は
栄えゆく」は生徒(「我師」、
「う
やまい」
、
「学びの道」
、
「心」
、
「身」
)を詠っていることがわかる。
106
旋律は、導音(Fis)が無い、七抜き長音階で作曲されている。アウフタクトから 8 小節目、
9 小節目 12 小節目、13 小節目から 16 小節目に分けることができる。歌詞が七五調で書か
れているので、♩.♪♩ ♩「付点四分音符+八分音符+四分音符+四分音符」が曲全体のモ
チーフになっている。
3-4-4)昭和前期における府立・市立の高等女学校の校歌分析
3-4-4-①)東京府立第四高等女学校(現 東京都立南多摩高等学校)
1908(明治 41)年、東京府立第四高等女学校として開校。1948(昭和 23)年に東京都立第四
女子新制高等学校と改称、新制中学校も併設。1949(昭和 24)年男女共学化。校歌は 1931(昭
和 6)年 6 月に校歌は制定された。作詞は初代校長の長尾松三郎、作曲者は嶋崎赤太郎であ
る。ニ長調、4 分の 4 拍子、19 小節、音域 D¹-E²である。
一
多摩の郷に我が學び舎は立つ
名にし負えるたまのごとくに
まどかなる徳を磨みがきて
世をも家をもほがらかに照せ
學びのともあゝ我等の友
二
多摩の郷に我が學び舎は立つ
繞るいづみ汲めども盡きず
にごりてもまた澄みかへる
道の眞實をこころに視つめよ
學びのともあゝ我等の友
三
多摩の郷に我が學び舎は立つ
あづまの地に傳へて貫き
たましひにゆたかに適ふ
身をも鍛へてをとめを導け
學びのともあゝ我等の友
四
多摩の郷に我が學び舎は立つ
あふぐ宮居いつくみさゝぎ
かしこみて皇國にはぢぬ
ひめのかゞみにいそしみ生ひ立て
學びのともあゝ我等の友
作詞
長尾松三郎 作曲
107
嶋崎赤太郎
譜例28 東京府立第四高等女学校
この校歌は冒頭「多摩の郷に我が學び舎は立つ」と結尾の「學びのともあゝ我等の友」
はすべての章に共通している。章ごとにみていくと 1 章では「世をも家をもほがらかに照
せ」とあることから社会にでること、良妻賢母の女性になること、2 章では「道の眞實をこ
ころに視つめよ」は、勉学に励み教養豊かに成長すること、3 章は「身をも鍛へてをとめを
導け」とあることから、学問だけでなく体も鍛えよと詠っている。4 章は「宮居」、「皇國」
があることから皇国主義を詠っていることがわかる。
この校歌は、付点リズムを多用していて、女子学校によく見られる、流れるような旋律
ではなく躍動的な旋律であることがわかる。また、クレシェンド(強弱記号、次第に強く演
奏・歌うこと。)と、ディミヌエンド(強弱記号、次第に弱く演奏・歌うこと。)が、旋律を
詳しく指示している。旋律は、1 小節目から 8 小節目、9 小節目から 15 小節目、16 小節目
から 19 小節目の 3 つ分けることができる。特に 16 小節目から 19 小節目は最高音の E²に
アクセント(その音を強く奏する・歌うこと)、
「我等の友」の部分は rit.(だんだん遅く奏す・
歌うこと)と最後の D²にフェルマータ(その音を十分に保つこと)が指示されている。女性ら
しい優雅な旋律ではなく、前へ前進するような力強い旋律であることがわかった。
108
3-4-4-②)東京市立目黒高等女学校(現 都立目黒高等学校)
1910(明治 43)年、目黒村立女子実業補習学校として開学。この補習学校を引き継ぐ形で
目黒村立目黒実科高等女学校が設立。1929(昭和 4)年目黒町立目黒高等女学校と改称。
1932(昭和 7)年に市域拡張により東京市立目黒高等女学校と改称される。1948(昭和 23)年東
京都立目黒女子新制高等学校に改称、1950(昭和 25)年男女共学化に伴い、東京都立目黒高
等学校と改称される。
校歌は 1935(昭和 10)年制定。作詞は校長の加藤因、作曲は音楽科教諭の沖不可止、ヘ長
調、4 分の 4 拍子、24 小節、音域 C¹-F²である。
一
二
匂もゆかし武蔵野の
みどり色こき丘の上
天照る光かげうけて
安けくわれら學ぶなり
目黒 目黒
目黒ぞうれしき
あけくれの
わが學び舎
しる し
學びの校章かざし持つ
常世の春の和やかに
三
月の桂の青のいろ
睦みてわれら勵むなり
目黒 目黒
目黒ぞうれしき
あけくれの
わが學び舎
おしえ
明るく直くうるはしく 校訓まもりて怠らず
輝く國の日の本の
乙女ぞわれら努めなむ
目黒 目黒
目黒ぞうれしき
あけくれの
わが學び舎
作詞 加藤因
作曲 沖不可止
109
譜例29 東京市立目黒高等女学校
「校歌合唱!そういう言葉を聞くだけでも、何となく若い血の躍るような気持ちがする。
全校の生徒が寄って、胸を張って声高らかに校歌を合唱する――そういう場面を、遺
憾ながらわが校は持つことが出来なかった。創立以来十五年、わが校にはまだ校歌と
いうものがなかったのだ。何とかして校歌がほしい、これは私がこの学校に来た時か
らの念願であった。又これは恐らく全職員、全生徒の翹望であったと思う。(略)幸い
なことは、これより先、学校には校訓要項が定められていた。(略)先づこれを一つの
歌の内容にしようと私は思った。(略)食事中でも、何か思い浮ぶ事があると、急に箸
を捨てて立上って紙片に書きつける」189作詞を行った加藤校長先生は寝食を忘れるほ
ど歌詞作成に没頭していることが分かる。一方、作曲を行った沖先生は、
「校歌は娯楽
慰安に歌う歌曲と違ってあらゆる学校の儀式に歌われ、時として国歌と併び歌われる
事もある。その点に思いを致すと今更ながら身の力の足らない事を痛感するのみであ
る。(略)作曲は元来自然から霊感を得て作れるものである。小説をよみ、名画を見て感
激して作曲すると言うもの、それはその小説や名画を通して矢張り自然を感じて作る
ものである。その点に於て校長先生より示された歌詞は一点の非の打処もなく、充分
に私をしてその歌詞の中から感激を興させて呉れた。」190
作詞者、作曲者が校歌を作成するにあたり、校歌は学校の象徴であるということを念頭
に置き真剣に取り組まれていたということがわかる。
歌詞に関しても同会誌に詳しく記されえいる。1 章は「「匂もゆかし」といふのは古歌の
189
190
『尚絅会誌』(1935),第 6 号,出版社不明,pp.6~7
『尚絅会誌』(1935),第 6 号,出版社不明,pp.13~14
110
「紫の一本ゆゑに武蔵野の草は皆がらあはれとぞ見る」といふ意を取って武蔵野に冠した
のである。
「みどり色こき丘の上」は學校の所在地が東京市の中で珍らしく環境に恵まれた
緑地帯であることを言ったので、その緑葉が天日に輝き光ってゐるのを眺めつゝ學ぶとい
ふところを、輦轂の下大君の御蔭をうけて我等は安穏に學んでゐると兩方の意を籠めたの
である。
」と記されている。緑に恵まれた学校周辺の環境と天皇に対する拝謝を表している。
2 章は、
「学校の徽章は八咫の鏡の中に月桂樹の枝が双方から出て東京市のマークを捧げ
・
・
・
たやうな形になつてゐる。銀色の中に緑葉の色がくつきりと出てゐる。「月の柱の青の色」
・
・
・
・
・
といふところを始めは、「月の柱の緑葉よ」「月の柱の若緑」などゝして見たのであつて、
言葉としてはその方が面白いと思ふが、青は青春、若さの象徴であると同時に、東洋では
昔から春の色、東の色として、平和を代表する目出度いものとしてゐる。それ故に特に「青
い色」として、
「常世の春の和やか」に續けたのである。わが校が校内一體となつて協同和
衷、常に春風のにあるが如きは、胸にかざす校章の緑葉から来るが如き感がするのである。
」
この章は学校の象徴の一つである「校章」を用い、若さ・季節・平和を表す「青」を歌詞
に込めている。
3 章「
「明るく」はわが校訓「明朗」を、「直く」は「誠實」を、
「うるはしく」は同時に
「温雅」と「禮譲」とをあらはしたもので、この教を守りて怠らぬ所に「克己」の精神が
含まれる。これでわが校の訓育要目、誠實、克己、明朗、温雅、禮譲の五項目を包摂した
つもりである。多少の無理があつても仕方がない。そして最後が、輝く日本の若き女性と
生れたわれら、人として國民としての完成に努めんことを高調したものである。」そして 1
章から 3 章まで共通して歌われている部分は「本歌と調子を變へて、一層の思慕愛着の情
を抒べたのである。
」ここでは、学校の象徴の一つである「校訓」を用いてる。そして最後
の「輝く國の日の本の
乙女ぞわれら努めなむ」がこの学校が求める将来の女性像である。
この理想像に向かって歌詞に込められた教えや願いを胸に勤勉に努めなさいということで
ある。
旋律において、1 小節目から 16 小節目と 17 小節目 24 小節目の 2 つに分けることができ
る。前半部分は七五調の歌詞を生かすように、♩.
♪♩
♩「付点四分音符+八分音符+四
分音符+四分音符」を多様していることがわかる。後半部分は学校名である「目黒」を 3
回、反復利用し、上行形を描き最高音 F²に向かっている。さらに音楽記号にフォルティッ
シモを記していることから、作詞者が「一層の思慕愛着の情」を表す、力強く印象に残る
旋律を描いていることがわかる。
3-4-4-③)東京府立第十高等女学校(現 東京都立豊島高等学校)
1936(昭和 11)年、東京府立第十高等女学校開校、1943(昭和 18)年東京都立第十高等女
学校、昭和 23 年東京都立第十女子新制高等学校、1950(昭和 25)男女共学化により東京都
111
立豊島高等学校に改称。校歌は昭和 15 年制定、ヘ長調、8 分の 6 拍子、25 小節、音域 C¹
-F²である。
一
流れも清き千川の
岸の桜のかがよふ彼方
へ
緑色濃き丘の上に
学び勤しむ幸あり吾等
だいじょ
をとめ
とも
吾等第十の少女が輩
一つ心に学び学ばむ
や
二
た
畏き八咫の御鏡を
胸の光といただき持ちて
遠つ雲井の富士の嶺を
高き理想と窓辺に仰ぐ
だいじょ
をとめ
とも
吾等第十の少女が輩
一つ心進み進まむ
三
明るく浄く健かに
心みやびに操は堅く
をみな
大和婦人の道ふみて
やまと みたみ
日本御民の良き母たらむ
だいじょ
をとめ
とも
吾等第十の少女が輩
一つ心に励み励まむ
作詞
佐々木信綱 作曲
112
山田耕筰
譜例 30 東京府立第十高等女学校
学校史に校歌制定までの経緯を記しているので引用する。
高木→第十高女は世間の期待があって誕生したんです。府立の高等女学校が長いことでき
なかったため志願者が大変多かったんです。創立当初仮校舎が青山師範跡(青山北町
五丁目)にあり、足場がよかったために、都内全域からよい生徒を集めることができ
たんです。
司会→校舎の第一期工事完成が昭和十三年三月二十六日ですが、校歌、校章はどんな過程
を経て決まっていったんですか。
雲井→校歌については、皆さんでいろいろ検討しました。高い理想を持っていまして、作
曲は山田耕筰先生にお願いしました。作詞はどなたでしたか……。「流れも清き千川
の…」ができたわけです。野間先生191に私お伴しまして先生のお宅で、女学生たち
に気品の高いノーブルな歌を作ってほしいと野間先生がおしゃっておられたのを記
憶しております。女子としても低い音程ではなく、高いんです。でも、とてもきれ
いなんですよ。
高木→作詞は佐々木信綱先生にお願いして作ってもらったものです。
司会→校歌ができたのが、昭和十五年ですから、その間、何を歌っていたんですか。
雲井→校歌はないんです。…何を歌っていたかしら(笑)。学校で習う歌を歌っていたのかし
ら…。
191
初代校長野間忠雄のこと。
113
1 章では、
「千川」
、
「桜」
、
「緑」
、
「丘」と学校周辺の環境を詠っている。2 章は「八咫の
鏡」
、
「雲井」があることから天皇を指し示していることがわかる。
「高き理想と窓辺に仰ぐ」
は「雲井」
、
「富士の嶺」が未来への距離の部分を表しつつも、学校の窓辺から見える風景
でもあるということである。3 章は「大和婦人」、
「良き母」とあることから良妻賢母を詠ん
でいるということがわかる。1 章が学校周辺の環境、2 章が天皇性、3 章が良妻賢母である
ということがわかった。
旋律は、8 分の 6 拍子で流れるような旋律である。強弱記号が細かに記され、上行する旋
律にはクレッシェンド、下行する旋律にはディミヌエンドが記され、一本調子に歌わない
ように指示されている。「女子としても低い音程ではなく、高いんです。」と記されている
ように、最高音は F²である。しかも、17 小節目から 19 小節目の 3 小節間だけで F²をフォ
だいじょ
をとめ
とも
ルテで 7 回も歌わなくてはならない。その歌詞は「吾等第十の少女が輩」で、学校名が記
されており、1 章から 3 章まで同じ歌詞である。校名を高らかに歌い上げるのがこの学校の
校歌の特徴である。
3-4-5)まとめ
昭和前期は軍国主義の影響から校歌もそのような特色があった。とりわけキリスト教主
義女学校においては、明治期や大正期で用いられた讃美歌の旋律の校歌はほとんどない状
態である。歌詞においても明治・大正期は宗教色が強かったが、昭和前期においてはあま
り見られない。学校も作詞者も作曲者もこの時代においては軍国的でならなければならな
かったということである。
現に、皇国思想の影響はキリスト教主義の学校でも影響を及ぼした。まず、校名の変更
を行う学校が多かった。東洋英和女学校では 1941(昭和 16)年に「英和」の「英」の字がイ
・
ギリスを表すので、
「東洋永和女学校」と変更している。横浜英和学院の「英」の字も敵国
を表すということで、
「成美学園」
(昭和 14 年)と校名を変更した。東洋英和女学校では、
1935(昭和 10)年に文部省から御真影をなぜ奉安しないのかと尋ねられ、1939(昭和 14)年に
下賜されることとなった。
1940(昭和 15)年の皇紀二千六百年は国をあげての奉祝の時代である。この年に校歌を制
定する学校もあった。渋谷商業実践女学校(現
渋谷教育学園)の校歌も「作られたのが
皇紀二千六百年を祝った一九四○年、太平洋戦争のはじまる前の年ですから。日本の伝統
を踏まえた、美しい女たちへの八十氏の讃歌でもありましょう。」192渋川高等女学校(現
群馬県立渋川女子高等学校)では「旧校歌は旧校旗とともに皇紀 2,600 年(昭和 15)年を
記念して作られた。
」193とある。校歌を持っていなかった学校が、皇紀二千六百年をきっ
192
193
渋谷教育学園六十年史編纂委員会(1984),『渋谷教育学園六十年史』,渋谷教育学園,
p.記載なし
渋女 60 年誌編纂委員会(1981),『渋女 60 年誌』
,群馬県立渋川女子高等学校,p.29
114
かけに制定するということは、天皇の赤子であるという自覚、さらには、これから先の国
難に向かい結束力を高めるために校歌が利用されたと考えられる。
さらに、この時代は〈文部省令 49 号〉の影響により学内で歌われる歌の認可が必要な時
代であった。例えば、富士見高等女学校(現 山崎学園)では、
「昭和十五年、文部省から
校歌採用の認可に際し、歌詞と楽譜の一部に訂正の指示があり」194ということから、歌詞
の一部を訂正している。
校歌そのものは 1935(昭和 10)年に制定されていたのにも関わらず、
それまで歌っていた歌詞の一部を、法令の影響で訂正したのである。作詞者は鳥野幸次195、
作曲者永田晴196である。波線部分が訂正前で矢印(→)部分が訂正後の歌詞である。現在も
訂正された歌詞で歌い続けている。
を と め くさ
一
富士見の里の少女草/あした夕におく露の/深き恵を身にうけて/春下もえの雄々し
さよ(→すくよかさ)
うちと
二
蕾の花のうるはしく/おのもゝゝゝに咲き出でゝ(→出でて)/園の内外に匂ふらむ/
高きその香もとことはに
をち
三
里の遠なる(→遠方なる)富士の山/高きのぞみを胸にひめ/まけじ心のひとすぢに/
のぼ
上らば遂にきはめなむ
四
嶺にかゞよう(→かゞやく)しろ妙の/雪はこゝろのまそかゞみ/みがきゝゝゝておの
かしし(→おのがじし)/光そへなむ添へざらむ(→いざやいざ)
旋律に関して、私立・府立の女学校も四七抜き音階や四抜き音階の旋律を用いた校歌が
極端に少なくなってくる。またこの時代は山田耕筰、信時潔、北原白秋など、特定の作詞
者・作曲者が多くなってくることも特徴である。政府の「音楽は軍需品」という考えから
彼らの活躍は戦時中にもおよび、戦後はそのことに関して問題にもなったりした。そのよ
うな人物等に作詞・作曲を依頼するという風潮はこの時代はナショナリズムでしかなかっ
たということだ。しかし、それら校歌の曲想は日本古来の曲想から西洋的曲調へと向かっ
ていった時代なのである。
194
195
196
山崎学園五十年史編集委員会『山崎学園五十年史』
,山崎学園
校,1991 年,P.19
国文学者・歌人。国学院大学教授。
当時、富士見高等女学校に勤めていた音楽教師。
115
富士見中学校・高等学
表 4 昭和前期の女子中等学校の校歌制定状況
学校名
創立年
制定年
作詞者
女子学院
1870(明治3)年
1927(昭和2)年
別所梅之助
フェリス女学院
1870(明治3)年
1929(昭和4)年
寺田醇造
普連土学園
1887(明治20)年 1929(昭和4)年
東洋英和
1884(明治17)年 1934(昭和9)年
清泉女学院
作曲者
調性
拍子
小節数
音域
曲調
音階
アウフタクト
4分の4
12 C¹-D²
七五調 七抜き長音階
有
4分の3
16 Es¹-F²
七五調 長音階
有
中島静子
岡野貞一
ヘ長調
讃美歌79番
変ホ長調
(オランダ民謡)
川村信義
ニ長調
4分の4
10 A-D²
自由詩 長音階
有
北原白秋
山田耕筰
ト長調
8分の6
27 D¹-G²
自由詩 長音階
有
1877(明治10)年 1936(昭和11)年 松島彝
佐佐木信綱
ト長調
4分の4
16 D¹-D²
和歌
長音階
無
普連土学園
1887(明治20)年 1938(昭和13)年 室井犀星
川村信義
変ロ長調
4分の4
16 D¹-D²
七五調 長音階
無
恵泉女学園
1929(昭和4)年
織田やす
信時潔
変ロ長調
4分の4
31 D¹-Es² 七五調 長音階
有
川村女学院
1924(大正13)年 1927(昭和2)年
川村文子
川村文子
ヘ長調
4分の4
13 C¹-D²
和歌
七抜き長音階
無
立川女子
1925(大正14)年 1927(昭和2)年
村井敬民
小松耕輔
ト長調
4分の4
16 H-E²
七五調 七抜き長音階
有
明倫女学校(横浜清風)
1923(大正12)年 1927(昭和2)年
不明
弘田龍太郎
歌詞のみ
中村学園
1905(明治38)年 1928(昭和3)年 金崎賢
与謝野晶子
ハ長調
4分の4
20 C¹-E²
七五調 四抜き長音階
有
日本橋女学館
1905(明治38)年 1928(昭和3)年
佐々木一二
大和田愛羅
変ロ長調
4分の4
28 B-D²
七五調 長音階
有
国府台女子学院
1926(大正15)年 1928(昭和8)年
松島彝
尾上八郎
変ロ長調
4分の4
40 B-Es²
七五調 長音階
無
潤徳学園
1924(大正13)年 1930(昭和5)年
村山四朗
星野義政
ヘ長調
4分の4
20 A-F²
七五調 長音階
有
成城高等女学校(成城大学)
1917(大正6)年
北原白秋
山田耕筰
ニ長調
4分の3
17 D-Fis²
自由詩 長音階
有
瀧野川女子学園
1926(大正15)年 1932(昭和7)年
山口鼎太郎
小堺勝子
変ホ長調
4分の4
16 B-Es²
七五調 長音階
有
宝仙学園
富士見高等女学校
(富士見中学高等学校)
川村女学院
1926(大正15)年 1933(昭和8)年
北原白秋
山田耕筰
ヘ長調
4分の4
20 C¹-F²
自由詩 長音階+七抜き音階
有
1924(大正13)年 1934(昭和9)年
鳥野幸次
永田晴
ヘ長調
4分の4
16 C¹-F²
七五調 長音階
有
1924(大正13)年 1934(昭和9)年
加藤昌子
成田為三
変ロ長調
4分の4
16 B-D²
七五調 長音階+四抜き長音階
無
品川女子学院
1925(大正14)年 1935(昭和10)年 与謝野晶子
下総皖一
変イ長調
4分の2
21 C¹-Es² 自由詩 長音階
無
小松原女子
1936(昭和11)年 1936(昭和11)年 小松原賢誉
大中寅二
ト長調
4分の4
41 D¹-E²
有
鷗友学園
桜丘女子商業学校
(桜丘女子中学高等学校)
渋谷商業実践女学校
(渋谷教育学園)
青蘭高等女学校
1935(昭和10)年 1936(昭和11)年 四賀光子
岡田九郎
歌詞のみ
1924(大正13)年 1939(昭和14)年 西条ハナ
山田耕筰
ハ長調
4分の4
16 C¹-E²
七五調 長音階+七抜き長音階
有
1924(大正13)年 1940(昭和15)年 西条八十
橋本国彦
ハ長調
8分の6
22 C¹-E²
七五調 長音階
無
1938(昭和13)年 1943(昭和18)年 青田瀧藏
橋本泰次
変ホ長調
4分の4
20 B-G²
七五調 長音階
無
白梅学園
1942(昭和17)
1944(昭和19)年 栗原道子
下総皖一
歌詞のみ
東京府立第七(都立小松川)
東京市立第一実科高等女学校
(都立忍岡)
埼玉県立熊谷高等女学校
(県立熊谷女子)
栃木県立真岡女子高等学校
埼玉県立川越高等女学校
(県立川越女子)
埼玉県立粕壁高等女学校
(県立春日部女子)
東京府立第四高等女学校
(都立南多摩)
宇都宮第二高等女学校
(県立宇都宮中央女子)
東京府立第九高等女学校(都立多摩)
1916(大正5)年
1927(昭和2)年
1939(昭和14)
1932(昭和7)年
七五調
七五調 長音階
七五調
七五調
佐佐木信綱
信時潔
歌詞のみ
1903(明治36)年 1928(昭和3)年 佐佐木信綱
信時潔
ホ長調
4分の4
20 H-E²
七五調 長音階
有
1910(明治43)年 1928(昭和3)年
内田常文
信時潔
ニ長調
4分の4
16 D¹-E²
七五調 長音階
有
1911(明治44)年 1928(昭和3)年
藪光吉
信時潔
変ホ長調
4分の4
28 B-F²
七五調 長音階
有
1910(明治43)年 1930(昭和5)年
逸見宮吉
片山頴太郎
歌詞のみ
1911(明治44)年 1930(昭和5)年
岩永胖
梁田貞
ニ長調
4分の4
18 D¹-F²
七五調 七抜き長音階
無
1891(明治24)年 1931(昭和6)年
長尾松三郎
嶋崎赤太郎
ニ長調
4分の4
19 D¹-E²
自由詩 長音階
有
1928(昭和3)年
鈴木貞一
岡野貞一
ト長調
4分の4
23 H-E²
七五調 長音階
無
1923(大正12)年 1935(昭和10)年 平山誠寛
細川碧
ニ長調
4分の6
16 Gis-E²
七五調 長音階
無
東京市立目黒高等女学校(都立目黒)
1917(大正6)年
沖不可止
ヘ長調
4分の4
24 C¹-F²
七五調 長音階
有
帝国第一高等女学校(私立吉祥女子)
1921(大正10)年 1938(昭和13)年 増田啓策
片野光子
歌詞のみ
東京府立第十高等女学校(都立豊島)
1936(昭和11)年 1940(昭和15)年 佐佐木信綱
山田耕筰
ヘ長調
8分の6
25 C¹-F²
七五調 長音階
有
埼玉県立浦和高等女学校(浦和一女)
1900(明治33)年 1940(昭和15)年 佐佐木信綱
弘田龍太郎
ヘ長調
4分の4
22 C¹-F²
七五調 長音階
有
群馬県立渋川高等女学校
1921(大正10)年 1940(昭和15)年 葛原滋
信時潔
ハ長調
4分の4
20 C¹-E²
七五調 長音階
無
東京府立北野高等女学校
1939(昭和14)年 1943(昭和18)年 久松潜一
下総皖一
ハ長調
4分の4
16 C¹-E²
七五調 長音階
有
神代高等女学校(都立神代)
1940(昭和15)年 1944(昭和19)年 葛原道
橋本国彦
ハ長調
4分の4
24 C¹-E²
七五調 四抜き長音階
無
1931(昭和6)年
1935(昭和10)年 加藤因
116
七五調
七五調
第5節
昭和後期
3-5-1)昭和後期における女子中等学校の教育環境
まず初めに戦後の教育は明治から続いた教育体系を改めることから始まった。文部省は
1945(昭和 22)年 9 月 15 日に『新日本建設の教育方針』を発表し、教育の正常化を図った。
さらに同年に〈教育基本法〉
、
〈学校教育法〉が施行され、全ての国民が教育を受ける権利、
6・3・3・4 制の教育体系等が確立された。
宗教学校に於いては、同年 10 月 15 日〈文部省訓令第 8 号〉
「私立学校ニ於イテ自今明治
三十二年文部省訓令十二号ニ拘ラズ法令ニ定メラレタル課程ノ外ニ於テ左記条項ニ依リ宗
教上ノ教育ヲ施シ又ハ宗教上ノ儀式ヲ行フコトヲ得」197が施行され宗教教育が自由に認め
られるようになった。
具体的な教育内容は同年『学習指導要領(試案)
』に記されている。高等学校においては
昭和 26 年の『学習指導要領(試案)
』に記された。以下に音楽の授業時間を記す。
新制中学校(昭和 22 年)198
音楽(必修科目)
第七学年
第八学年
第九学年
70(2)
70(2)
70(2)
第一学年
第二学年
第三学年
70(2)
70(2)
70(2)
高等学校(昭和 26 年)199
音楽(選択科目)
さらに、国定教科書から検定教科書を作成するため、文部省は 1946(昭和 23)年 4 月 30
日に「教科用図書検定規則」を公布した。「第一条 教科用図書の検定は、その図書が教育
基本法及び学校教育法の趣旨に合し、教科用に 適することを認めるものとする」と定めた。
さらに文部省は翌年 2 月 9 日に「教科用図書検定基準」200を公布し、より詳しく教科書検
定を定めた。
197
一
生徒ノ信仰ノ自由ヲ妨害セザル方法ニ依ルベシ
二 特定ノ宗派教派等ノ教育ヲ施シ又ハ儀式ヲ行フ旨学則ニ明示スベシ
三 右実施ノ為生徒ノ心身ニ著シキ負担ヲ課セザル様留意スベシ
198 文部省(1972)『学制百年史』
,p.723
199 文部省(1972)『学制百年史』
,p.730
200 本論文の第 2 章第 4 節の中で主要部分を記している。
117
3-5-2)昭和後期のキリスト教女子中等教育の校歌分析
3-5-2-①)カリタス学園
カナダのケベック・カリタス修道女会が母体でのカトリックの学校である。1953(昭和 28)
年、修道女会のリタ=デシャエンヌ、ローズ=アンナ=バイヤルジョン、グロリア=ボリ
ューの 3 人のシスターが来日。1960(昭和 35)年にカリタス学園を設立。翌年、川崎市多摩
区にカリタス女子中学・高等学校を開設。1962(昭和 37)年カリタス幼稚園、1963(昭和 38)
年カリタス小学校が開設。1966(昭和 41)年カリタス女子短期大学が開設。
「キリスト教の価
値観を基盤とする創立者の精神に従い、一人ひとりの可能性を伸ばし、普遍的な愛をもっ
て人に尽くす人間の育成」201を教育目的とし、幼稚園から短期大学までの総合学園である。
校歌は 1961(昭和 36)年、中学校・高等学校の開設と同じ年に制定された。論者が学園に
問い合わせたところ、作詞者は不明、作曲者はセシリア・レサーS.C.Q であり、修道会の人
物であるらしいということである。すでに幼稚園には園歌があるので小・中・高・短大で
歌われているということである。変ホ長調、8 分の 6 拍子、24 小節、音域は B-Es²である。
やまなみ
一 山脈静か
美しく
こ が ね いろど
黄金 彩 る
あけぼのに
叡智の修め
おもくとも
まなびや
安らぎ競う 学園は
にな
しるべ
負えるものの
導 なり
わざ
負える業の導なり
うみ じ
二 生路の極み
いと高く
ほまれ
さが
なべての栄誉
嶮しくも
まこと
ひかり
真理の道に 栄光あり
仰げる教え
はぐく
育 みて
たゆみもせず 踏みゆかん
たゆみもあらず 踏みゆかん
三
み
つど
幸い充てり 集うもの
かがり火燃えて 愛徳は
まど
あまねく人の 円いなる
みはは
聖母に
よ
も
なら
かぐ
倣い香わしく
四方に与えん
201
いつく
慈 しみ
カリタス学園 HPhttp://www.caritas.ed.jp/
118
四方に示さん 慈しみ
作詞
不明 作曲 セシリア・レサーS.C.Q
譜例31 カリタス学園
1 章では、
「山脈」
、
「あけぼの」は学校周辺の景色を表している。
「叡智を修め おもくと
も
まなびや
にな
安らぎ競う 学園は 負えるものの
しるべ
導 なり
わざ
負える業の導なり」はそこで学ぶ生徒
うみ じ
が将来、先導に立てるよう切磋琢磨せよということであろう。2 章は「生路の極み
く
ほまれ
なべての栄誉
さが
嶮しくも
である。しかし、
「仰げる教え
まこと
真理の道に
はぐく
育 みて
いと高
ひかり
栄光あり」は生きていく道のりは険しいもの
たゆみもせず 踏みゆかん
たゆみもあらず
踏
みゆかん」と、この学園で勉学に励み歩んでゆきなさいということである。3 章は「愛徳」、
「円い」、
「聖母」
、「慈しみ」はシスターや聖母マリアのように愛を持って人と接しよとい
うことだろう。
この校歌は Andante cantabile(ゆっくり歌うように)と指示されていることから、ゆっ
たりとした旋律である。全体のモチーフは♩ ♪♪♪♪「四分音符+八分音符+八分音符+
八分音符+八分音符」である。旋律は①1 小節目から 8 小節目と②9 小節目と 16 小節目と
③17 小節目と 24 小節目の 3 つに分けることができる。さらに、①は 1 小節目から 4 小節
目までが一つの旋律であり、その応答の形が 5 小節目から 8 小節目にあたる。②も同様に 9
小節目から 12 小節目、13 小節目から 16 小節目、③も 17 小節目から 20 小節目、21 小節
目から 24 小節目に分けられるので典型的な A-B-A 形式であることがわかる。②の中間
部分の旋律は変ロ短調に転調しており、曲想を豊かにしている。
119
3-5-2-②)光塩女子学園
創立者であるマドレ・マルガリタはスペインの「メルセス宣教修道女会」のシスターで
ある。1928(昭和 3)年に日本で学校を設立するために来日した。1931(昭和 6)年光塩女学校
設立。1947(昭和 22)年光塩女子学院と改称、さらに高等科・中等科・初等科を設置。校歌
は昭和 33 年に制定。
「歌詞は卒業生の手になるものを岡本ちよ・山本直忠両先生が補訂さ
れました。
」と関戸学院長から返事をいただいた。変ホ長調、4 分の 3 拍子、16 小節、音域
D¹-Es²である。
めぐみ
一 慈恵ゆたけき
みまも
守護りうけつ
きよ
聖らけく
高きをめざし
学院に学びする
我等乙女子
世に出でて
世の光とならん
おもい
二
ゆかし信仰の
まこと
真理たずねつ
つゝましく
深きを望み
学院に学びする
我等乙女子
世に出でて
作詞
地の塩とぞならん
卒業生・岡本ちよ・山本直忠
作曲 山本直忠
譜例32 光塩女子学園
「いよいよ待望の校歌が誕生した。作詞、作曲ともに南山大学教授山本直忠氏、実は、
120
校長様の修道生活金祝に捧げたかったのであるが、間に合わなかったことは些か残念であ
る。校歌は学校の雰囲気に合わなければという作曲者のこまやかな心遣いで、わざわざ学
校まで訪問された苦心の作。校歌としては珍しい二部合唱曲、優しさに充ち溢れた感じの
曲だ。校歌は校旗とともに学校の象徴であり、学生生活の思い出のリズムとなるもの。学
校を愛する心で誇りをもって、高らかに合唱しよう。(略)この校歌はどのように生徒達にう
けとられただろうか。KⅠの U さん達に聞いてみると“光塩にふさわしい歌、きれいな歌
だと思う。でも少し聖歌じみている点があるようにも思われる。
”と言っていた。
」202
作詞・作曲を行った山本直忠は直接学校を来校し、校歌作りのイメージを探しにきたこ
とから、キリスト教精神を歌詞・旋律共に感じることができる。学校周辺の自然環境や四
季の歌詞を用いず、キリスト教色を全面に出した(1 章の「慈恵」、「守護」、「聖」、2 章の
「信仰」)歌詞である。旋律においても、「少し聖歌じみている」と生徒らが思うほど、学
校色と校歌が合致した特色のある校歌である。
3-5-3)昭和後期の女子学校の校歌分析
3-5-3-①)青蘭学院中学校・高等学校(現
青稜中学校・高等学校)
1938(昭和 13)年青蘭商業女学校を現在の品川区二葉町に開校。1943(昭和 18)年に校歌が
制定されたが、1947(昭和 22)年に新たな校歌が制定された。ヘ長調、4 分の 4 拍子、20 小
節、音域は C¹-D²である。作詞は青田瀧藏、作曲は小林八重子である。校歌の歌詞は、
1943(昭和 18)年に制定されたものを一部改訂して使用している。203
202
光塩女子学院発行の「光塩 No.13」
,1958 年 3 月 3 日号から引用。
203
一
東亜の光/かがやきて/聖の春に/咲きかおる/その名ゆかしき/青蘭に/つど
うおみなの/幸多し/あゝそのこころ/桜花
二
汲めどつきせぬ/真清水に/教えの庭の/露うけて/久遠の光/仰ぎつつ/い
そしみ行かん/
三
窓の雪/あゝその姿/富士の嶺
花ひともとに/ちよろずの/誉をかけし/学びやぞ/あすの栄えを/わが肩に
/荷ないて立たん/いざ友よ/あゝその操/ときわ草
(作詞
青田瀧藏 作曲
橋本泰次)
121
一
平和の光
希望の春に
輝きて
咲きかおる
その名のゆかしき
青蘭に
つどうおみなの 幸多し
あゝそのこころ 桜花
二
汲めどつきせぬ 真清水に
教えの庭の
久遠の光
露うけて
仰ぎつつ
いそしみ行かん 窓の雪
あゝその姿
三
富士の嶺
花ひともとに ちよろずの
誉をかけし
学びやぞ
あすの栄えを わが肩に
荷ないて立たん いざ友よ
あゝその操
作詞
青田瀧藏
ときわ草
作曲 小林八重子
譜例33 青蘭学院中学校・高等学校
122
歌詞の大幅な変更部分は「東亜」を「平和」、「聖」を「希望」の 2 箇所だけである。旋
律は四分音符、八分音符、二分音符、付点二分音符の音符だけで作曲されている。
戦後は過去に制定された校歌を歌うのではなく、新たに校歌を作り直す学校が多かった。
それは、戦争を堺に全ての考え方や価値観が変化したためである。皇国主義や軍国主義の
歌詞を歌い続けることは、新たな教育体制の考えにそぐわない。それならば校歌そのもの
を新しくしてしまおうと考える学校の方が多かった。もしくは、歌詞の一部を訂正し、歌
い続けることを選択した学校もある。しかし、青蘭学院は歌詞だけでなく、旋律も変えて
しまっているということが特徴である。創立以来、愛唱してきた校歌の歌詞を大切にして
いる様子がわかる。そして、新たに付けられた旋律も複雑ではなく、シンプルな音を使用
している。戦後の校歌は戦前の校歌とは違い、曲想が豊かなものが多い。青蘭学院の校歌
は校歌の概念に即応した内容になっているということがわかった。
3-5-3-②)中延学園(現
朋優学院高等学校)
1946(昭和 21)年に中延学園高等女学校。普通科、商業科、調理科、服飾、経理等様々学科・
コースがあり多岐にわたる学習環境が提供されている。校歌は 1954(昭和 29)年 3 月に制定
された。作詞は土岐善麿、作曲は信時潔である。ハ長調、4 分の 4 拍子、36 小節(前奏 4
小節)
、音域 C¹-E²である。2001 年に男女共学化に伴い校名を、「朋優学院高等学校」に
校名を変更。
一
富士見丘の空 晴れて 街ひろし 煙たつかなた
かすむは海か ヒマラヤ杉
春秋の花咲くところ
ゆく道は
二
みどりあかるく
新たなり 乙女われらの
清く正しく
まなべは知りぬ いざ常に
世に立ちて 忘れじよ
わざを こころを友よ 幼きもの 声をあわせて
窓のうち
遊ぶも楽し げにかくて
やさしくも
乙女われらは
強くあるべし
あゝ今ここに 築く学園 中延学園
作詞
土岐善麿
123
作曲
われらこぞれり
信時潔
譜例34 中延学園
「卒業年度を迎えた第 3 期生から、校歌がほしいという声が起こった。その頃本校教員
であった相沢一男先生がこれを耳にして、なんとか卒業式までにと努力されたのだが、誰
に、どのように依頼したものか見当が付かなかったそうだ。相沢先生がそれを小学校の時
の恩師水野先生に相談されると、それでは漢詩の研究をしていたときの、土岐先生に頼ん
でみようということになったそうである。土岐善麿は校歌を創るべく中延学園を見に来ら
れたそうである。後に入学式でその時のことを幾度も話された。
「お世辞にも立派な学校と
はいえないが、ここには生活がある。」と「作曲は」と訪ねる相沢先生に、「信時君に頼ん
でやるよ。
」のひとことだったそうである。かくして完成された校歌が学校に届けられる。
卒業式に間に合ったが、生徒は毎日、放課後遅くまで校歌の練習に励んだ。お披露目は昭
和 29 年 3 月、第 3 期生の卒業式の時であった。」204
1 章で詠われている「富士見丘の空」、
「街」
、
「海」、
「ヒマラヤ杉」、
「みどり」、
「花」は作
詞した土岐善麿が見た学校周辺の景色であろう。2 章の「まなべ」、「友よ」、「幼きもの」、
「遊ぶ」
、これらはそこで学ぶ生徒らの様子を見て書かれたのだろう。
♩.♪♩ ♩「付点四分音符+八分音符+四分音符+四分音符」のリズムが基本となってい
る。F(ファ・第 4 音)の音を使用していない部分が多く、17 小節目の 4 拍目で F¹が出て
くるのみである。そのため、日本音階の雰囲気が感じられる。戦後、新たに校歌を制定す
る時には、戦前のような軍国主義の思想や七五調にとらわれない歌詞を作ったりする、そ
204
朋優学院高等学校の音楽担当の松浦教諭からいただいた資料から引用。
124
して、旋律も西洋音階を用い、曲想も豊かになり、3 拍子や 8 分の 6 拍子、リズムもひょん
こ節だけでなく、様々なリズムが用いられるようになってくる。しかし、中延学園の校歌
は 4 分の 4 拍子で♩.♪♩ ♩「付点四分音符+八分音符+四分音符+四分音符」のリズムを
多様し、日本音階を用いる校歌の概念を踏襲する校歌であることがわかった。
3-5-4)昭和後期における県立の女学校の校歌分析
3-5-4-①)栃木県立宇都宮松原高等学校(現 栃木県立宇都宮中央女子高等学校)
1928(昭和 3)年、栃木県立宇都宮第二高等女学校として開校。1951(昭和 26)年、栃木県立
宇都宮松原高等学校に改称、さらに 1957(昭和 32)年宇都宮県立宇都宮中央女子高等学校に
改称している。校歌は 1952(昭和 27)年、作詞者神保光太郎、作曲者平井康三郎、ヘ長調、
4 分の 4 拍子、17 小節、音域 C¹-D²である。
一
咲きにほふさくらの道よ
名もゆかしくろかみの峰
栃の木の永遠なる生命
きみとわれここに集いて
まこと
かはるなき真理を求む
二
あふぎみる山のあなたよ
名もゆかし幸のみづうみ
きよ
栃の葉の聖らの祈り
きみとわれここにいそしみ
まどい
うるはしの家庭を啓く
三
みどりなす松吹く風よ
名もゆかし宇都の宮の地
栃の実の輝く誇り
きみとわれここに誓ひて
しののめの世紀を望む
作詞
神保光太郎 作曲 平井康三郎
125
譜例35 栃木県立宇都宮松原高等学校
「旧校歌は、旋律・歌詞ともに新時代にそぐわないという意見が多く、新校歌の制定が昭
和二十六年の六月、生徒会の議題としてとり上げられた。昭和二十七年七月に至って初め
てこれを具体化するための委員会が設けられ、審議の結果、作詞作曲とも専門家に委嘱し
ていつまでも愛唱することの出来るものにしようと、作詞を神保光太郎氏に、作曲を平井
康三郎氏に依頼することに決定、九月には神保氏を学校に迎えて一日を共にし、十月には
歌詞が出来あがった。次いで平井氏の作曲を乞うて、第四回文化祭当日の十一月三十日作
曲者平井氏を招き、その指揮によって盛大に校歌発表会を行ったのである。当時の「松原
高校新聞」第一二号には、
「くろかみの峰のふもとで、幸の湖のような清らかな女性になる
べく――美しい校歌にふさわしい立派な文化祭になることを望み、更に将来の発展を祈る
こと限りない…」と記載されている。この校歌が現在も歌われているものである。
」205
「咲きにほふさくらの道よ」(1 章)、
「あふぎみる山のあなたよ」(2 章)、
「みどりなす松吹
く風よ」(3 章)の歌詞は、作詞者が学校に来訪し感じたままを詠んでいる感じがする。自然
豊かな土地環境で勉学に励むこと(1 章)、女性としての嗜みをみがくこと(2 章)、未来への希
望(3 章)が歌詞に込められていることがわかる。
旋律はアウフタクトから 8 小節目と 9 小節目から 17 小節目に分けることができる。前半
部分は♩.♪♩ ♩「付点四分音符+八分音符+四分音符+四分音符」のリズムが基本となっ
ている。後半部分は前半部分と対照的に八分音符を多く用い躍動的な曲想である。しかし、
13 小節目で付点二分音符が用いられ、躍動的な部分をここで集約し、最後のクライマック
まこと
まどい
スへ向かうため、C²から C¹へ下行する。
「かはるなき真理を求む」(1 章)、
「うるはしの家庭
を啓く」(2 章)、
「しののめの世紀を望む」(3 章)こららの部分は他の小節よりも mf、クレ
205
栃木県立宇都宮中央女子高等学校六十年史編集委員会『宇都宮中央女子高等学校六十
年史』
,栃木県立宇都宮中央女子高等学校,1988,p.49
126
ッシェンド(記号)、cresc.、f、ディミヌエンド(記号)と詳しく指示されている。丁寧に歌
う部分であり、歌う生徒らの心に刻み込む意図が伺える。
3-5-4-②)埼玉県立松山女子高等学校
1926(大正 15)年松山実科高等女学校を松山第一尋常高等小学校内の敷地内に開校。1942(昭
和)17 年埼玉県松山高等女学校と改称。1948(昭和 23)年、現在の東松山に校地移転、埼玉県
松山女子高等学校に改称する。校歌は 1952(昭和 27)年に制定。変ホ長調、4 分の 3 拍子、
28 小節、音域 B-Es²である。
一
富士の高嶺
青垣秩父
望む丘よ
はるかに見はるかす
には
いみじき場よ
わが学び舎よ
ああ われら われら乙女ぞ
若き力を
二
今ぞそそぎて
天分伸ばし
知性を高め
真理究めむ
いざ
みどり匂ふ
松の里よ
や きゅう
もり べ
箭 弓 の杜辺
開けし場よ
いざ 共に
き
も
きよらに規模広く
わが学び舎よ
ああ われら われら乙女ぞ
若き血潮を
身魂鍛へ
今ぞたぎらし
三
技術を錬りて
道を究めむ
いざ
いざ 共に
都幾の流れ
時じくによ
松のみどりの うるはしとことはに
栄ゆく場よ
わが学び舎よ
ああ われら われら乙女ぞ
若き生命を
情操磨き
今ぞかたむけ
のり
法を究めむ
婦徳を修め
いざ いざ 共に
作詞 浅野光良
作曲
127
高木東六
譜例36 埼玉県松山女子高等学校
「本校が、文化的な活動でも力を発揮しはじめた頃、浅野光良校長の作詞、高木東六氏の
作曲になる、校歌が制定された。一九五一(昭和二六)年のことだった。翌(昭和二七)年四月
二七日、同窓会との共催で校歌発表会と記念音楽会が開かれた。第一部では、浅野光良校
長から、作詞者としての挨拶と説明があり、続いて、生徒の合唱団による校歌の合唱。第
二部は校歌作曲者の高木東六のピアノと、ソプラノの大谷洌子嬢、バリトンの下八川圭祐
氏の演奏が行われた。
」206
1 章「富士の高嶺 望む丘よ 青垣秩父
里よ
や きゅう
もり べ
箭 弓 の杜辺
き
はるかに見はるかす」
、2 章「みどり匂ふ
も
きよらに規模広く」
、3 章「都幾の流れ
時じくによ
松の
松のみどりの
うるはしとことはに」これらの歌詞は学校周辺の環境を歌ったものであり、各章の 3 節目
「わが学び舎よ」に通じている。4 節目の「ああ われら
われら乙女ぞ」も共通した歌詞
である。各章ごとに異なるのは、5 節目からで 1 章では、「若き力」、「知性」とあることか
ら、ここで学ぶことの大切さ、2 章では「血潮」、
「身魂」、
「技術」とあることから心身を鍛
えることの大切さ、3 章では「情操」
、
「婦徳」とあることから女性としてのたしなみや教養
を身につけることの大切さを詠いこんでいることがわかる。
206
『埼玉県立松山女子高等学校 70 周年記念誌』
,出版年不明,p.196
128
旋律は校歌ではあまり見られない、4 分の 3 拍子を用いている。校歌全体の曲想も
Moderato con dolce(中ぐらいの速さで甘美に)と指示されている。アウフタクトから 14
小節目と 15 小節目から 27 小節目の 2 つに分けることができる。前半部分は「やさしく」
と指示があることから流れるような旋律を描いている。後半部分は「少しはげしく」と指
示されており、躍動的な雰囲気が感じられる。特に、最後の部分(22 小節目の 4 拍目から
終小節目)はクレッシェンド、フェルマータ、a tempo の指示があるのでドラマティックに
歌い上げる必要がある。歌唱に困難がある部分は、12 小節目の B¹から B に下行する部分
と、24 小節目の Es²から B へ下行する部分である。特に Es²から B への下行は Es²にフェ
ルマータがかかっていることから腹筋を利用しないと正確な音程をあてることは難しい。
3-5-5)まとめ
戦後の教育は明治期から続いた〈教育勅語〉を改め、新たな教育思想を構築することか
ら始まった。焦土化した土地、衣食住すらまともに営めないような生活にありながらも、
全ての子供たちに教育を施すことは国家を再生するために不可欠なものであった。
校歌も同様に新しい教育体制に沿うものでなくてはならない。戦前まで歌っていた校歌
を改めて、新たに校歌を作り直す学校や、戦前の基本的な教育思想は変わらない・伝統を
重んじてゆきたいと思う学校は歌詞を一部改め歌い続ける選択をした。戦後、新たに制定
した校歌・一部改正した校歌の歌詞は明治期・大正期・昭和前期と変わらず、建学の精神
や学校周辺の地域環境を歌いこんでいるが、軍国的な部分や格調高い歌詞ではなく、子供
でも理解しやすい歌詞内容になった。校歌を歌うのは子供たちであるという原点に気がつ
いたのである。そして、戦後に制定された校歌の旋律は明治期から続いた西洋音楽の教育
により、多くの学校の校歌が西洋音楽の音階、旋律を用い、校歌の概念にとらわれない曲
調であることがわかった。
表 5 昭和後期の女子中等学校の校歌制定状況
学校名
創立年
制定年
フェリス女学院
1870(明治3)年
共立女子学園
1886(明治19)年 1957(昭和32)年
光塩女子学院
1931(昭和6)年
カリタス学園
作詞者
イ長調
拍子
小節数
音域
曲調
音階
アウフタクト
七五調 長音階
4分の4
20 D¹-F²
七五調 長音階+四七抜き長音階 無
4分の3
16 D¹-Es²
七五調 長音階
有
1960(昭和35)年 1960(昭和35)年
中河幹子
中田喜直
ヘ長調
卒業生+
山本直忠
変ホ長調
岡本ちよ+山本直忠
不明
セシリア・レサー ヘ長調
8分の6
24 C¹-F²
七五調 長音階
無
明倫高等女学校(横浜清風)
1923(大正12)年 1946(昭和21)年
松浦一
弘田龍太郎
変ロ長調
4分の4
16 C¹-Es²
七五調 長音階+七抜き長音階
有
青蘭学院高等学校
1938(昭和13)年 1947(昭和22)年
青田瀧藏
小林八重子
ヘ長調
4分の4
20 C¹-D²
七五調 長音階
無
順心女子
1924(大正13)年 1948(昭和23)年
土井晩翠
小川一郎
ト長調
4分の4
20 D¹-D²
七五調 七抜き長音階
有
東京女学館
1888(明治21)年 1948(昭和23)年
尾上紫舟
小松耕輔
ヘ長調
4分の3
32 C¹-F²
七五調 長音階
無
鎌倉女学院
1904(明治37)年 1954(昭和29)年
鎌倉女学院国語科
藤井かね子
ト長調
4分の4
24 B-E²
七五調 長音階
有
中廷学園
1946(昭和21)年 1954(昭和29)年
土岐善麿
信時潔
ハ長調
4分の4
36 C¹-E²
七五調 長音階+ヨナ抜き音階
無
鵠沼女子(鵠沼高等学校)
1925(大正14)年 1961(昭和36)年
加藤卓司
浜田侃
ニ長調
4分の4
23 D¹-D²
七五調 七抜き長音階
無
1940(昭和15)年 1945(昭和20)年
久松潜一
下総皖一
変ロ長調
4分の4
16 D¹-Es²
七五調 長音階
有
1941(昭和16)年 1945(昭和20)年
土岐善麿
山田耕筰
変ロ長調
8分の6
20 C¹-Es²
自由詩 長音階
有
1928(昭和3)年
神保光太郎
平井康三郎
ヘ長調
4分の4
17 D¹-D²
七五調 長音階
有
1952(昭和27)年
團伊久磨
調性
31 E¹-E²
1958(昭和33)年
英康子
作曲者
4分の4
都立南葛飾高等女学校
(都立南葛飾)
都立井草高等女学校
(都立井草)
栃木県立宇都宮松原高等学校
(栃木県立宇都宮中央女子高等学校)
1950(昭和25)年
有
埼玉県立松山女子
1926(大正15)年 1952(昭和27)年
浅野光良
高木東六
変ホ長調
4分の3
28 B-E²
自由詩 長音階
有
埼玉県立浦和一女
1900(明治33)年 1956(昭和31)年
上野彰
高田三郎
ホ長調
4分の4
17 B-E²
七五調 長音階
有
129
第4章
第1節
教材としての校歌
-和洋九段女子中学校・高等学校を例として-
はじめに
校歌指導は入学してきた児童・生徒らに対し、主に音楽教員が歌詞に込められた建学の
精神や、歌唱指導を行うものではないだろうか。また、中等学校では定期テストで歌詞を
書かせたり、歌唱させたりしている学校もあると思われる。しかし、これらの指導は一貫
性のものであるということが特徴である。
東京都千代田区にある私立和洋九段女子中学校・高等学校(以下
和洋九段校)では校
歌を音楽授業で通年使用している。また、その仕様内容も独特で音楽教材の一つとして使
用しているという。
本研究では単調な旋律や修身的な内容が多いと言われている校歌の一般概念とは異なる、
和洋九段校の校歌を紹介すると共に、その校歌が教材207としてどのように扱われているか
を明らかにすることを目的とする。
第2節
研究調査対象(和洋九段校)について
和洋九段校は、1897(明治 30)年に堀越千代が「和洋裁縫女学院」として設置した学校で
ととの
ある。創立以来“和魂洋才”の精神と 1996(平成 8)年、新たな校訓“先を見て 齊 える”を
精神に女子のみの中高一貫教育を行っている。和洋九段校は現在までに 4 つの校歌を所有
してきた。
最初と 2 番目に制定された校歌は明治期(いずれも制定年不明)
、3 番目は 1947(昭
和 22)年、そして 1997(平成 9)年に創立 100 周年を記念して新しく制定された校歌は 4 つ
の楽曲から成り立つ賛歌(=校歌)である。4 曲それぞれタイトルを持ち(《Ⅰ.わたしたちの
学舎》、《Ⅱ.ベルが鳴る》、《Ⅲ.ほかならぬ私の花を》、《Ⅳ.海のかなたへ》)近代組曲のよ
うな編成になっている。全ての作詞は新川和江208、作曲飯沼信義209である。各校歌は各
式典や行事時に歌われる。以下に記すのが、校歌の歌われている状況である。
曲名
わたしたちの学舎
ベルが鳴る
ほかならぬ私の花を
海のかなたへ
表6
公式で歌われる場面
入学式
1学期の終業式
2学期の終業式
3学期の終業式
1学期の始業式
2学期の始業式
3学期の始業式
卒業式
合唱コンクールの発声練習曲
中学一年生の合唱コンクール課題曲
中学二年生の合唱コンクール課題曲
中学三年生の合唱コンクール課題曲
公式な場所で歌われる状況
ここでいう教材という意味は、天城(1953)「学習効果を挙げる上に不可欠の物的財」
(『教材費の解説と研究』
,港出版合作社,p1 でのことである。
208 詩人。
『季節の花詩集』で第 9 回小学館文学賞、
『記憶する水』で第 25 回現代詩花椿賞
など数々の受賞歴があり、多くの詩は作曲されている。
209 作曲家。
《名づけられた葉》
、
《うつくしい鐘が…》など新川氏の詩に作曲している作品
もある。絵画にも精通している。
207
130
多くの学校では 1 つの曲(校歌)を歌い続けることが通常である。しかし、和洋九段校で
はそのような概念にとらわれず新しい形の校歌を制定した。近年このような “校歌らしく
ない校歌”210が制定される傾向が目立つ。学校側が半ば強制的に与えてきた校歌が子供主
体に変わってきているということである。子供達が理解できない言葉を使用したり、嫌々
歌ったりする旋律であってはならない。校歌はその学校に帰属意識を持たせる装置の一つ
であるが、根本的に校歌を歌う主体は子供達である。“校歌らしくない校歌”というオリジ
ナリティが付加価値をおき、帰属意識と、歌い続けたくなる子供たちの気持ちにマッチし
た、新しい概念の校歌であるということではないだろうか。
さらに和洋九段校の校歌は 4 曲あるだけでなく、音楽教材として使われることを見越し
て作られたというも特徴である。その校歌はどのようなものであろうか。
第3節
校歌について
和洋九段校の校歌は、1996(平成 8)年に、創立百周年を記念するということで、校舎や校
則を変える大きなプロジェクトが始動した。その中で、校歌も新しく制定し直そうという
ことになった。現在も在職している音楽担当の守口英一教諭が中心となり 5 年間かけて作
詞者、作曲者と協議を重ね、制作された。1991(平成 3)年から構想が練られた「わたしたち
の学舎」は、入学式・1 学期の始業式・合唱コンクール課題曲になっている楽曲である。Gdur、
4 分の 4 拍子、音域はソプラノ H-Fis²、メゾソプラノ H-C²、アルト H-C²である。
坂道を
のぼりましょう
もちの木坂 そして 中坂
坂の上
そびえ立つ わたしたちの学舎
窓にはいつも明るい日ざし
和やかに微笑みかわす
私たちは和洋の少女
見上げれば 大空に
七いろの虹がかかる
幾千の鳩が飛び立つ
坂道を
210
のぼりましょう
校歌の旋律研究は、嶋田(1988)、が挙げられるが、近年の特徴的な校歌制定を報じる
記事、
「校歌型破り列伝」(朝日新聞,2013 年 3 月 3 日,夕刊 11 面)や有名ミュージシ
ャンが校歌制作に関わった記事(朝日新聞山梨県版,2011 年 3 月 9 日,朝刊 29 面(レミ
オロメンのボーカリスト藤巻亮太氏が山梨県立笛吹高等学校の作詞・作曲を行った)や、
朝日新聞栃木県版,2011 年 4 月 8 日,朝刊 25 面(元 BOOWY の布袋寅泰氏が栃木県立
宇都宮工業高等学校の作曲を行った)等が挙げられる。
131
青春のわたしたちが
腕を組んで のぼる坂道
和洋 和洋
誇り高き学舎
和洋
譜例37 わたしたちの学舎
《ベルが鳴る》は、1 学期の終業式・2 学期の始業式・中学一年生の合唱コンクール課題
曲になっている楽曲である。Cdur、8 分の 6 拍子、ソプラノ H-G²、メゾソプラノ A-F²、
アルト A-C²である。
こころの中に
ひとつずつ
わたしたち
かわいいベルを
吊るしました
リリリリリーン
リリリリリーン
離れていても
ベルが鳴ります
友だちからの
うれしいサイン
この学舎で出会った友だち
132
お互いに自分をうつす鏡です
信じ合い 助け合い
鏡を磨いてゆきましょう
悲しみの雨が降る朝も
よろこびの太陽がかがやく真昼も
この学舎で出会った友だち
お互いに自分をうつす鏡です
わたしたち
こころの中に
ベルを
ひとつずつ
吊るしました
譜例38 ベルが鳴る
《ほかならぬ私の花を》は、2 学期の終業式・3 学期の始業式・中学二年生の合唱コンク
ール課題曲になっている楽曲である。Asdur、4 分の 4 拍子、ソプラノ C¹-F²、メゾソプラ
ノ C¹-Des²、アルト B-C²である。
うつくしい花を
咲かせなければと 思います
133
ほかならぬわたしの名前で呼ばれる花を
わたしの名前で呼ばれる花を
ちちははの愛に守られ
わたしはまだ夢みるつぼみ
花ひらくときは
この世ではじめて奏でられる歌でありたい
光る風の中
ゆたかに流れる水のほとり
呼んでいます
たくさんの声が
呼んでいます
わたしを
うつくしい花を
咲かせなければと 思います
ほかならぬわたしの名前で呼ばれる花を
譜例39 ほかならぬ私の花を
134
《海のかなたへ》は、3 学期の終業式・卒業式・中学生の合唱コンクール発声練習曲にな
っている楽曲である。Gdur、4 分の 3 拍子、ソプラノ D¹-G²、メゾソプラノ D¹-D²、アル
ト H-C²である。
わたしたちは
はばたくつばさを持っている
いつの日にか
飛んで行こう 海のかなたへ
「おはよう」
「グー モン」
「ボンジュール」「ニイハオ」
握り合える あたたかな手と心
人間の住むこの星のすばらしさ
青い目のひとよ
黒光りする肌のひとよ
わたしたちは
学び合おう 高め合おう
それぞれの国の文化を
わかち合おう
水いろの星 地球よ回れ
世界じゅうの人々の
幸福のせて すこやかに回れ
回れ
回れ 回れ
譜例40 海のかなたへ
135
このように 4 つの楽曲は近代組曲と言われているように 4 つの独立したような曲態で書
かれていることがわかる。しかし、歌詞を見てみると、1 楽曲目の《わたしたちの学舎》で
は 4 つの楽曲の中で唯一学校名が歌詞に含まれている。入学してきた生徒が上級生から校
歌を聞く・学ぶ最初の楽曲である。和洋九段校の周辺の環境、生徒としての自覚が芽生え
る楽曲である。
さらにこの校歌は女性 3 部で成り立っている。
実際に生徒たちは 3 部合唱で歌っている。
複数の声部で書かれている楽譜は多くの学校で見受けられるが、実際に声部を分けて歌っ
ている学校はあまり聞かない。しかし和洋九段校では、誰がどの声部を歌うということは、
声帯が出来上がってきた中学 3 年生の時に、生徒自身が歌う選択する。中学 3 年次の声部
を選択することから、生徒たちは全ての声部が歌えるということでもある。そして高等学
校では選択した声部を歌い続けるということになる。このような方法で選択させても、声
部には偏りが出ず、生徒等は自分の声帯に合わせて自分自身で選択しているそうです。
各楽曲が一年間に歌われる回数は 2,3 回と他の学校に比べたら多いとは言い難いが、歌
っている生徒等はこれらの校歌を好んで歌い、この校歌を歌うことのなかった卒業生も、
今では同窓会で練習して歌えるようになっている。
第4節
ある日の授業
“校歌を授業で取り入れている”ということから、この 4 つの楽曲がどのような授業形
態で取り入れられているのか調査するために、守口英一教諭の音楽の授業を見学させてい
ただいた。まず、中学生の学習指導要領に記されている。音楽の「各学年の目標及び内容」
で歌唱に関する部分を記す。
学習指導要領の第2章5節音楽の第2「各学年の目標及び内容」
【第1学年】
1
目標
(1)音楽活動の楽しさを体験することを通して、音や音楽への興味・関心を養い、音楽によ
って生活を明るく豊かなものにする態度を育てる。
(2)多様な音楽表現の豊かさや美しさを感じ取り、基本的な表現の技能を身に付け、創意工
夫して表現する能力を育てる。
(3)多様な音楽のよさや美しさを味わい、幅広く主体的に鑑賞する能力を育てる。
2
内容「A 表現」
(1)歌唱の活動を通して、次の事項を指導する。
ア
歌詞の内容や曲想を感じ取り、表現を工夫して歌うこと。
イ
曲種に応じた発声により、言葉の特性を生かして歌うこと。
136
ウ
声部の役割や全体の響きを感じ取り、表現を工夫しながら合わせて歌うこと。
【第2学年及び第3学年】
1
目標
(1)音楽活動の楽しさを体験することを通して、音や音楽への興味・関心を高め、音楽によ
って生活を明るく豊かなものにし、生涯にわたって音楽に親しんでいく態度を育てる。
(2)多様な音楽表現の豊かさや美しさを感じ取り、表現の技能を伸ばし、創意工夫して表現
する能力を高める。
(3)多様な音楽に対する理解を深め、幅広く主体的に鑑賞する能力を高める。
2
内容「A 表現」
(1)歌唱の活動を通して、次の事項を指導する。
ア
歌詞の内容や曲想を味わい、曲にふさわしい表現を工夫して歌うこと。
イ
曲種に応じた発声や言葉の特性を理解して、それらを生かして歌うこと。
ウ
声部の役割と全体の響きとかかわりを理解して、表現を工夫しながら合わせて歌う
こと。
【共通事項】
(1) 「A 表現」及び「B 鑑賞」の指導を通して、次の事項を指導する。
ア
音色、リズム、速度、旋律、テクスチュア、強弱、形式、構成などの音楽を形づく
っている要素や要素同士の関連を知覚し、それらの働きが生み出す特質や雰囲気を
感受すること。
イ
音楽を形づくっている要素とそれらの働きを表す用語や記号などについて、音楽活
動を通して理解すること
4-4-1)2012 年 6 月 27 日
中学一年生の授業 《ベルが鳴る》を初めて歌う。
10:45 授業開始。前回の復習。五線譜の黒板に記号を書きながら生徒全員に確認しながら
ト音記号、ハ音記号、ヘ音記号、音部記号、拍子記号、8 分の 6 拍子、2 分の 4 拍
子、♯(シャープ)半音上げる、日本語で嬰、 ♭(フラット)半音下げる、日本語で
変、 ♮(ナチュラル)元の高さに戻す。臨時記号、全音符、二分音符、四分音符、
八分音符、十六分音符、四分音符を幾つ集めたら二分音符になるか?、八分音符を
幾つ集めたら二分音符になるか?、はた、ぼう、たま、けたの確認。
10:55 新しい内容の学習。付点四分音符は四分音符とその半分からできている。付点八分
音符は八分音符と八分音符の半分からできている。付点二分音符は二分音符と二分
137
音符の半分からできている。付点四分音符を八分音符だけでまとめて表すには?常
に生徒全員に質問を投げかける。
11:00 校歌を使った授業。校歌の1楽曲目の拍子記号は?調号は?臨時記号は何小節目に
出てくる?校歌の 2 楽曲目の拍子記号は?調号は?では、1 楽曲目と 2 楽曲目との
違いは?拍子記号の分母・分子は何を表しているのか?どのように解釈するのか。
2 分の 4 拍子や 5 分の 4 拍子の解釈の仕方を学ぶ。
11:10 ストレッチ。発声練習。発声であっても最後まで声を大事にするように指示する。
11:15 校歌《ベルが鳴る》を歌う。すでに宿題で楽譜をさらうように指示されている。先
生がソプラノの旋律を弾き模範を見せ、次に階名で生徒らは歌うという反復学習。
楽譜にブレスの記号が出てきたので、復習する。そして、ブレスがない部分で息継
ぎしないように指示する。タイ記号が出てきたので、役割の確認をするとともに、
タイの最後まで声を伸ばすことを指示する。クレッシェンド記号が出てきたので確
認する。また、音楽記号がなぜ書かれているのか、作曲者の意図をくみ取ることを
促す。
生徒は音楽用語に注意しながら歌いなおす。旋律に表情が付いてくる。しかし、先
生の伴奏が小さくなったり、音を少なく弾くと、生徒らは自信なく歌ってしまった
りする。
歌詞で歌う。スタッカート記号がうまく歌えていないので確認する。ついでにテヌ
ート記号、スラー記号の確認をする。生徒の歌声にさらに表情が付きだす。
歌詞を全員で朗読する。
全員起立。《ベルが鳴る》を気持ちを切り替えて途中まで歌う。楽譜を置いてもう
一度途中まで歌う。
11:30 今日、何を学習したか、校歌の旋律はどこを注意して歌うのか、生徒らと確認しな
がら授業終了。
4-4-2)2012 年 12 月 6 日
中学一年生の授業。今日は期末テストを兼ねている。
10:45
授業開始。音階のハミング(発声練習)の発声。発生時、「首を長くキリンのよう
に」
、
「遠くの人にすてきな声をきかせて」と指示。きらきら星(リで発生)の発声。
強弱や表情をつけ発声。1 フレーズを一息で歌えるように指示。半音階ずつ旋律を
あげていく。
11:00 校歌の《わたしたちの学舎》を母音で歌わせる。その際、5,6 人のグループになっ
て互いの声・ハーモニーを聴きながら歌う。
11:05 テスト開始《わたしたちの学舎》を母音で歌う。
11:20 バイオリンを2人1組で準備する。
11:25 チューニングの仕方を学ぶ
138
11:30 簡単な音階の練習、互いに引き合う。
11:35 授業終了
4-4-3)2012 年 12 月 8 日
中学 2 年生の授業。今日は期末テストも兼ねている。
11:45 発声練習(ハミング)
。中学一年生とは異なり、特別な指示をすることがない。
11:50 階名で校歌《ベルが鳴る》を歌う。
11:55 グループに分かれて母音で歌う。6、7 人のグループにわかれ互いの声を聴きながら
歌う。
12:00 テストの順番決めに生徒達まよう
12:05 テスト開始。
《ベルが鳴る》をグループごとに母音で歌う。テストの評価は子ども
達にさせる。
12:30 テストの反省を踏まえて全員で合唱。
異なる学年の授業を見学し、中学一年生より中学二年生の方が声の質や音程がよくとれ
ていたが、少人数や先生の伴奏が小さくなることで、自信が持てなくなることは中学一年
生も中学二年生も共通である。学習指導要領と比べてみると、第2章5節音楽の第2「各
学年の目標及び内容」
、第1学年、第2学年及び第3学年共に、2内容の「A 表現」(1)ア
~ウの共通事項と合致することがわかった。
第5節
校歌に含まれる音楽用語
音楽の授業では基本的には予習復習の反復学習が中心であるとわかった。そして、その
反復学習が校歌でも行われていることがわかった。では、和洋九段校の校歌にはどれほど
音楽学習に適しているのか、学習指導要領に「各学年の〔共通事項〕のイの用語や記号な
どは、小学校学習指導要領第2章第6節音楽第3の2の(6)に示すものに加え、生徒の学習
状況を考慮して、取り扱うこと」とあることから、中学校学習指導要領音楽第3の2の(8)
と小学校学習指導要領第2章第6節音楽第3の2の(6)に記されている音楽用語や記号を
校歌と比較してみる。
139
表7 小学校学習指導要領に記載されている音楽用語と和洋九段校の校歌に記載されている音楽用語
表8 中学校学習指導要領に記載されている音楽用語と和洋九段校の校歌に記載されている音楽用語
学習指導要領に記されている音楽用語や記号は合計 64 項目ある。これらの項目のうち 54
項目が校歌に記されており、ほぼ網羅する形となった。また、学習指導要領には無い記号
や用語(allargando や sfz 等)がいくつか校歌に含まれていたことがわかった。このことか
ら発展的な学習が校歌を通してもできるということが明らかになった。
第6節
おわりに
このように和洋九段校では校歌を学習教材として使用しているということがわかった。
校歌指導は一過性で終わってはならない。なぜなら、校歌ほど学校に対する帰属意識を生
む役割を果たすものはないからである。和洋九段校の校歌は、中学校学習指導要領第2章
5節音楽の第2「各学年の目標及び内容」、第1学年、第2学年及び第3学年共に、2内容
の「A 表現」(1)ア~ウの共通事項の内容と合致している。また、学習指導要領に記されて
いる音楽用語や記号、64項目中54項目(中学校学習指導要領音楽第3の2の(8)と小学
140
校学習指導要領第2章第6節音楽第3の2の(6))が校歌に記されているということがわか
った。校歌を通してこれらのことを学ぶことは、他の音楽の授業(器楽・鑑賞)にも知識
が活用される。
和洋九段校の校歌は、歌詞・旋律・曲調と内容の異なる 4 曲の楽曲が、一つの体系とし
て校歌を構成している。そのことにより生徒らが音楽学習において学ぶべき要素が多く組
み込まれている。校歌学習は 3 年間通して行われる。歌い込んでいくことにより表現力や
歌詞の理解が深まり豊かな情操を養うことができる。また、合唱は一人ではできない行為
である。一般的な斉唱スタイルの校歌よりも合唱の校歌の方が、協同が校歌からも発揮さ
れるのではないだろうか。6 年間学ぶ学校への帰属意識だけでなく、学友との関係性にも合
唱は有意義なものであると論者は考える。
・
・
・
・
これらのことから和洋九段校の校歌は明らかに校歌指導ではなく、校歌教育になってい
ると言える。3 年間教材として使用する試みは音楽教育と校歌教育を兼ね備えた、他の学校
ではみることができない新しい価値観の校歌ではないだろうか。
校歌に対する和洋九段校の意欲的な取り組みは本論文の主旨とは些か趣を異すると言わ
なくてはならない。主意としては、校歌を教科としての音楽教育とは別の文脈の中で捉え
ようとするものだからである。事実、日本の伝統的な校歌の歌唱指導は、たとえ音楽教育
の一環として設定されていたとしても、それは恣意的とはいわないまでも、体系的、組織
的に実行されてきたとはいえない。入学時に短時間だけ指導の単元が設けられ、以後は全
体集会や各種行事の際に習慣的に習い憶えるという形でなされるのが通常の実態である。
そうした大勢が背景にあったからこそ、和洋九段校の実践は注目すべき試みであると判断
できるし、また、校歌の全体像を究明しようとする本研究においても取り上げるべき価値
があると考えたのである。
141
第5章 校歌の制定背景
-光が丘地区小学校統合における校歌制定までの流れ−
第1節 問題の所在
東京都練馬区光が丘には“光が丘団地”と呼ばれる新興住宅地がある。南北に建設され
た団地・周辺地域には 12,400 世帯(平成 25 年 8 月 1 日現在)が生活をしている。近年、
この地区に居住する少子高齢化が問題になっている。とりわけ児童数の減少は著しく、8 校
ある小学校の在籍人数がピーク時から 2 割から 7 割の減少がみられる。211
このような状況から、
平成 22 年 3 月 31 日をもって光が丘地区にある光が丘第一小学校、
光が丘第二小学校、光が丘第三小学校、光が丘第四小学校、光が丘第五小学校、光が丘第
六小学校、光が丘第七小学校、田柄第三小学校が閉校した。そして、その翌日の 4 月 1 日
から光が丘四季の香小学校、光が丘春の風小学校、光が丘夏の雲小学校、光が丘秋の陽小
学校が新たに開校した。
2010年3月閉校
光が丘第一小学校
2010年4月開校
光が丘四季の香小学校
光が丘第二小学校
光が丘第三小学校
光が丘春の風小学校
光が丘第四小学校
光が丘第五小学校
光が丘夏の雲小学校
光が丘第六小学校
光が丘第七小学校
光が丘秋の陽小学校
田柄第三小学校
図1
光が丘地区の小学校の統合状況
新たに開校した 4 校は、開校に合わせ校歌を新しく制作していた。その制作は、
“統合準
備会”という組織の中で行われた。この組織は統合する 2 つの学校ごとに成り立ち、両校
長・副校長・PTA・青少年委員・町会・自治会・学校評議員等が集まり約 2 年間、17 回に
わたり定期的に話し合いが持たれた会である。この会では「統合準備会では統合新校の校
名、校歌、校章、交流活動、通学路の安全確保、学校指定用品、歴史の保存、校舎の改修
などについて検討していく」(各第1回の統合準備会要点記録に明記)ことを目的に組織さ
れた。以下に詳細に記す。
211
各旧小学校の状況については『区立学校適正配置第一次実施計画』,練馬区教育委員会
学校教育部 新しい学校づくり担当課,2008 年 2 月に詳細に記されている。
142
【統合準備会の設置目的】
・統合までの 2 年間、統合新校の開校に向けた課題について協議するため、統合の組み合わせごとに統合
準備会を設置する。
・統合準備会では、統合新校の統合新校の校名・校歌・校章、交流活動、通学路の安全確保、学校指定用
品、歴史の保存、校舎の改修などを協議する。
・統合に関する最終決定は、教育委員会や区議会にあるが、統合準備会は、保護者や地域の方々の意見を
反映させるための話し合いの場である。
・統合準備会での協議の過程や決定事項については、適宜、教育委員会へ報告する。
・統合準備会委員の任期は、平成 20 年 5 月 29 日から平成 22 年 3 月 31 日までとする。
・統合対象校の校長、副校長、教職員を構成員とする教職員連絡会の組み合わせごとに設置し、統合新校
の教育目標、教育課程および交流活動などについて検討していく。統合準備会と教職員連絡会は、相互
に報告を行い、教育委員会はこれらを調整していく。
【統合準備会の検討スケジュール】
・スケジュールは、統合準備会の検討状況によって変更もある。また、開催間隔は、1~2 ヶ月に 1 回程度
を想定。最初は校舎の改修、歴史の保存から検討を始めたい。
・校名については、今年度中に意見をまとめてもらい、校歌、校章、校旗については、来年度に検討した
い。
・交流活動については、学校同士が話し合って取り組んでいくが、適宜、統合準備会で報告し、要望をお
聞きしたい。
・学校指定用品については、買い替えが必要なものは区が負担するので、来年度予算に間に合わせるため
に、10 月ごろ意見を取りまとめていきたい。
検討スケジュールに記されているように、「校歌、校章、校旗については、来年度に検討
したい。」とあることから、ある程度、学内・学校周辺の環境整備が整ってからその学校を
象徴するであろう校歌・校章・校旗を作るということがわかる。
第2節 研究の目的と方法
本研究では、4 つの統合準備会で話し合われた校歌の制作過程を比べてみることで、各小
学校がどのような過程を経て校歌が出来上がったのか調査する。具他的には各統合準備会
要点記録での話し合いを基に、①歌詞の選定方法、②作詞者・作曲者の選定方法、③制作
過程の共通性を明らかにする。
143
第3節 校歌の予算
以下に記すのが、練馬区が計上した校歌の歳出である。
予算名目
校歌作成依託
校歌音源制作依託
学校図書整理依託
校章作成依託
表9
計
5,000,000
936,800
399,000
105,000
6,440,800
”校歌等作成委託料”の予算配分(3 学校分)
(出典)練馬区「平成 21 年度練馬区各合計歳入出決算説明書」p.414 に基づき論者作成
予算名目
校歌作成依託
校歌音源制作依託
計
2,000,000
250,000
2,250,000
表 10 ”校歌等作成委託料”の予算配分(1 学校分)
(出典)練馬区「平成 22 年度練馬区各合計歳入出決算説明書」p.406 に基づき論者作成
“校歌制作依託”とは作詞者・作曲者に支払われた金額である。“校歌音源制作依託”と
は CD 制作等の金額である。
学校図書整理依託と校章作成依託は校歌と直接関係ないので、
これら 2 つの歳出は除くと、歳出の合計は 818 万 6800 円である。全体の統合歳出は 24 億
2601 万 2005 円212であることから校歌に使用した歳出は全体の約 0.34%である。
図2 小学校統合全体の歳出金額と校歌の歳出金額
212
平成 20 年度 学校適正設置推進経費(統合準備会だより印刷費など) 2,262,507 円
平成 21 年度 適正設置計画に基づく校舎改修工事 1,322,428,599 円
学校適正配置推進経費(学校指定用品購入費、校具等運搬料、校歌等
作成委託料など) 26,875,513 円
平成 22 年度 適正配置計画に基づく校舎改修工事 1,047,903,125 円
学校適正配置推進経費(廃棄物処分料、校具等運搬料など)26,542,261
円
144
第4節 校歌制定の流れ
新設校を設置するにあたり、様々な話し合いが統合準備会でなされた。その様子は各準
備会が要点をまとめ練馬区のホームページにアップされている。その中に校歌の制定過程
も記されている。
それらによると、4 月開校に間に合わせる様に校歌も制定したい・新設 4 校とも足並みの
そろった過程を辿りたいという事務局の考えの中、必ずしも開校に合わせて制定する必要
性があるのか、募集方法に共通性を持たせる必要性があるのか等、話し合いがもたれたと
いうことがわかった。話し合いの結果、統合前の小学校に通う児童・保護者・教職員・地
域住民に対し、
平成 21 年 8 月 25 日(火)~9 月 15 日(火)の間に募集を行うことが決定した。
以下に詳しく校歌の制定背景を記す。
第 11 回統合準備会
(1)募集の目的
・統合準備会において、統合新校の校歌を検討するにあたり、統合対象校の児童・保護者・教職員、光が
丘および周辺地域を対象として、統合新校の校歌の歌詞に入れたい言葉を募集する。
(2)募集期間
・平成 21 年 8 月下旬~9 月中旬
(3)募集の対象者と応募方法
①児童
・学校を通じて配布する応募用紙で応募する
②保護者・教職員
・8 月下旬発行予定の統合準備会だより(第 12 号)に添付された応募用紙で応募する
③光が丘および周辺地域
・8 月下旬発行予定の統合準備会だより(第 12 号)の町会回覧や掲示により周知し、光が丘区民事務所、
光が丘図書館および地区区民館(旭町南、光が丘、田柄)において配布される統合新校ごとの応募用紙(4
種類)で応募する
(4)募集にあたっての留意事項
・児童・保護者および教職員については氏名欄を、光が丘および周辺地域の方については住所・氏名爛を
設ける
・校歌の歌詞に入れたい言葉の説明や思いを記入してもらう
・メロディ(作曲)は募集しない
・指定の応募用紙でなくても有効とする
さらに事務局から「9 月下旬の統合準備会から、応募された校歌の歌詞に入れたい言葉をもとに、3 回の協
議を行い、協議結果を作詞家に伝えて校歌制作の参考にしてもらう。最終的には学校による調整を行い完
成させる。また、作詞・作曲候補者を選定していただく。
」と報告
第 12 回統合準備会
(1)校歌に入れたい言葉の募集期間
平成 21 年 8 月 25 日(火)~9 月 15 日(火)
(2)制作方法
①委員のかたから、知り合いなどで校歌の作詞や作曲を引き受けてくれそうな方を事務局へ連絡して
もらう
②委員の方から提案された作詞家・作曲家をもとに、第 14 回(9 月下旬開催予定)および第 15 回(10 月
下旬開催予定)統合準備会の協議で候補者を選定する
③11 月中に、事務局が作詞家・作曲家と校歌制作の契約を行う
④第 16 回(11 月下旬開催予定)統合準備会までに校歌の歌詞に入れたい言葉を絞り込む
⑤12 月上旬に、統合準備会の協議結果を作詞家に伝えて校歌の作詞を依頼する
145
⑥歌詞が出来次第、作曲家に曲の制作を依頼する
⑦3 月校歌完成
これらのことから、作詞者・作曲者も統合準備会の中で決定した。下記に記したのが、
各学校の校歌の歌詞と作詞者・作曲者、募集されたキーワードとその言葉の採用状況を記
した。
146
光が丘四季の香小学校
一 新しい朝
新しい風光る 光が丘
人間 いのちのすばらしさを
頬そめて 学びあい
育てあう日よ
小鳥鳴け みどりの梢で
四季の香小学校
さあ 新しい今日を
二 美しい空
美しい雲光る 光が丘
友だち 心をひとつにして
しなやかに はげみあう
二度とない日よ
歌声もひびけ明るく
四季の香り小学校
さあ 美しい明日へ
作詞 こわせたまみ 作曲 竹内邦光
キーワード 件数
アイ
2
青い
4
明るい
8
秋
3
あきらめない
2
あく
1
あした
1
あす
1
あそこ
1
遊ぶ
1
あたたかく
2
新しい
1
あーめ
1
ある
1
いい
6
行け
1
いじめ
2
一小
1
一番
1
一生
1
いっしょ
1
いっぱい
2
いのち
1
今
2
色
3
うきうき
1
うた
2
宇宙
1
美しい
3
うれしい
1
A
1
笑顔
7
大きな声
1
大空
1
大人
1
お花
1
思い出
3
思い
2
おもしろい
2
香り
5
かがやく
13
かこまれる
1
かしこく
6
風
1
学校
3
がっぺい
1
使用有無
△
△
○
○
○
○
○
使用状態 キーワード 件数
がない
1
かなしい
1
明るく かみ
1
かんけい
1
がんばる
2
木
2
キセキ
2
あす
希望
7
きみ
1
境界線
1
今日
1
新しい きらきら
2
きれい
3
草花
1
くじけず
2
雲
1
クラス
1
気色
1
元気
21
校庭
1
幸福
1
ここで
1
いのち こころ
9
50年
1
事
2
こども
1
こと
1
この
5
美しい 最高
2
咲く
1
さくら
2
さやかに
1
C
1
四季
31
しせつ
1
自然
4
児童
1
霜柱
1
小学校
3
香り
しろいくも
1
心情
1
信じる
1
すくすく
1
風
健やかに
1
すすんで
1
ずっと
1
使用有無
使用状態
○
今日
△
心
○
四季
○
小学校
キーワード
すてき
すなお
スポーツ
清
世代
全校
そこに
そして
外
そよそよ
空
それは
だいじ
大好き
たいせつ
だいち
太陽
たからもの
たくさん
たくましく
たちあがれ
たのしい
ちから
作る
つよく
できた
です
手
天
伝統
とうごう
時
どこに
所
とっても
とぶ
友
仲
なかない
夏
なってほしい
なみだ
におい
にこにこ
二小
になってって
件数
2
1
1
1
1
2
1
1
2
1
4
1
2
3
1
1
3
1
3
4
1
10
4
2
2
1
1
2
2
1
1
2
1
1
2
1
10
11
1
2
1
1
1
2
1
1
使用有無
○
△
使用状態 キーワード 件数
日本
2
入道雲
1
のびのび
1
走る
4
花
9
はぼたん
1
バラ
1
春
6
B
1
光
55
空
人
2
火
1
冬
2
平和
1
べんきょう
4
ぽいすて
1
ぼく
1
まけるな
1
町
1
学ぶ
6
みどり
18
みやこ
1
未来
4
みんな
24
モクレン
1
もつ
1
もみじ
1
やさしい
12
休み
1
山
1
勇気
7
友情
2
夕日
1
ゆたか
1
ゆめ
5
よい
2
友だち よかった
2
夜あけ
1
忘れない
3
私達
1
使用有無
使用状態
○
光
△
○
学び
みどり
光が丘四季の香小学校
○…募集されたキーワードをほぼそのまま校歌に採用している。
△…募集されたキーワードを参考にし、校歌に採用している。
表11 募集されたキーワードとその言葉の採用状況
(
「光が丘第一小学校・光が丘第二小学校 統合準備会だより(第 14 号)
」
,平成 21 年 10 月 26 日発行,
pp.2~3 に基づき論者作成)
147
光が丘春の風小学校
1 新しい未来へ 大きく踏み出そう
いつも勇気を 胸に抱き
考える力と 強い意志を持って
さあ 行こう 光あふれる 丘の上に
夢と希望の我が母校 春の風小学校
2 みんなで手をつなぎ 正しく歩み出そう
こころ明るく すこやかに
感謝の気持ちと 思いやりを持って
いま 光 輝く世界に 飛び出そう
夢と希望の我が母校 春の風小学校
作詞 飯沼浩文 作曲 中川英二郎
キーワード
愛
あいさつ
青い空
明るい
秋
あきらめない
あさがお
あさひ
あした
あそぶ
あたたかい
あたらしい風
あふれる希望
あり
ありがとう
安全
いい学校
いいこ
生き物
いっしょ
一生懸命
一歩
色とりどり
いろんな人
うぐいす
うたおう
美しい
えがお
おいしい
大きな夢
大空
おおらか
小川
おくろう
おはよう
思い出
思いやり
蛙
かがやく
学年
風
家族
学校
体
考える
がんばる
件数 使用有無
2
2
8
21
△
2
1
1
1
5
5
1
1
△
1
△
1
2
1
1
1
1
1
1
1
1
1
1
1
1
6
1
1
2
1
1
1
1
1
4
○
1
3
1
10
○
1
4
1
3
○
3
使用状態
キーワード
木
きぼう
きみ
きもち
件数
2
24
1
明るく
3
きゅうしょく
2
きょう
2
協力
2
きらめく
1
きれいな
2
草
2
くじけず
1
新しい 雲
2
あふれる けじめ
1
けんか
2
げんき
42
こころ
8
こども
1
ことり
1
この歌
2
この心
1
この時
2
このまど
2
このゆめ
2
最後
1
咲く
2
さくら
24
さわやか
1
三と四
1
四季
1
じしん
1
自然
1
自分
4
ジャブジャブいけ 1
自由
1
小学校
2
丈夫な
1
思いやり しろい
2
信じる
1
真理
1
すこやかに
2
風
巣立つ
1
すてきな
1
すなお
5
すばらしい
1
考える 成長
1
生命
1
使用有無
使用状態
△
希望
△
気持ち
キーワード
世界
責任
卒業
そよぐ
空
だいすき
大切
大地
太陽
たくさん
助けあい
たのしい
たゆまぬ
たわーこうえん
○
こころ
たんぽぽ
小さい
ちから
ちょうちょ
つぎつぎと
つくし
集う
つぼみ
出会い
できる
手
てんとうむし
てんにゅうせい
○
○
どこか
友
努力
仲
仲よく
鳴く
夏
小学校
何にでも
なみだ
野原
育む
はげましあう
すこやかに 励む
はじける
はしる
花
はばたく
はやい
春
件数
2
1
1
2
3
1
3
4
7
2
6
9
1
1
2
1
5
1
1
1
1
1
1
1
2
1
1
1
27
1
4
12
1
2
1
1
1
1
1
1
1
1
5
1
1
80
使用有無
○
△
○
使用状態 キーワード 件数 使用有無
世界
光
55
○
ひのや
1
ひまわり
1
広がる
1
富士山
1
冬
2
平和
1
勉強
3
ぼく
2
炎
1
毎日
1
前
1
負けない
1
まじめ
2
学ぶ
6
まるた
1
力
みーんな
1
水
1
道
2
緑
24
みらい
7
△
みんな
42
○
虫
1
夢中
1
手
むてき
1
芽
1
もも
3
やさしい
7
やるとげる 2
やりぬく
1
勇気
11
○
優秀
1
友情
3
豊かな
1
ゆめ
23
△
よく
1
よろこび
1
楽園
1
礼儀
1
わが心
1
△
わかば
2
わらい
3
使用状態
光
未来
みんな
勇気
夢
我が
光が丘春の風小学校
○
春
表12 募集されたキーワードとその言葉の採用状況
(
「光が丘第三小学校・光が丘第四小学校 統合準備会だより(第 14 号)
」
,平成 21 年 10 月 26 日発行,
pp.2~3 に基づき論者作成)
148
光が丘夏の雲小学校
一 いちょうの並木 鳥の声
笑顔あふれる 光の子
夢と希望を ふくらませ
あかるく学ぶ すこやかに
みんな友だち
光が丘夏の雲小学校
二 緑ゆたかな この丘に
ひとみ輝く 光の子
知恵と勇気と たくましさ
元気に育つ のびのびと
いつも楽しい
光が丘夏の雲小学校
三 歴史をうけて 新しく
心やさしい 光の子
風の大地を ふみしめて
未来をめざし すすんでく
とわに羽ばたけ
光が丘夏の雲小学校
作詞 石原一輝 作曲 千住明
キーワード 件数 使用有無
青い
3
明るい
5
△
あきらめない 1
あこがれ
1
朝風
3
朝日
1
明日
1
新しい
3
△
熱い
1
ありがとう 3
安全
1
勢い
1
いくぞ
1
一番
1
いつでも
2
△
一歩
1
いろんな
2
歌声
2
宇宙
1
笑顔
1
○
おいしい
1
大きな
3
大空
2
おもいきり
1
思い出
1
輝く
6
○
風
3
○
語る
1
カモン
1
感謝
1
使用状態 キーワード 件数
がんばる
2
あかるく 希望
19
教室
1
今日
1
キラキラ
1
きれい
3
切れない
1
新しく 銀河
1
雲
2
けんか
1
元気
19
五・六
1
交通
1
ごきげん
1
いつも 心
4
子ども
1
小鳥
4
この
1
さぁ
3
笑顔
さくら
1
さわやか
1
自信
1
自然
3
小学校
1
白い雲
3
輝く
しんせい
1
風
健やか
2
世界
1
その先へ
1
空
3
使用有無
○
○
○
△
△
○
△
使用状態 キーワード 件数
大地
3
希望
太陽
7
たくさん
2
たくましく
1
助け合い
1
楽しい
14
たましい
1
力
3
つづいて
1
包まれて
1
元気
つなぐ
1
翼
2
堂々と
1
友だち
4
心
ともに
1
子
仲良く
9
鳥
夏
3
夏雲
2
夏の風
1
夏の雲
18
夏の空
1
夏の太陽
1
夏の光
1
小学校 にこにこ
1
虹
4
練馬区
1
すこやかに 伸びる
1
花
2
はばたく
5
はりきって
1
使用有無
○
△
○
○
○
△
使用状態 キーワード 件数 使用有無 使用状態
大地
光
14
○
光
光が丘
18
○
光が丘
一つ
1
たくましさ 日
2
広い学校
2
楽しい 富士
2
二つ
1
僕
3
ほんとう
1
街
1
学ぶ
1
○
学ぶ
見上げる
1
緑
10
○
緑
友だち 未来
10
○
未来
みんな
20
○
みんな
向かって
1
無限
1
結ぼう
1
胸を張る
1
夏の雲 やさしい
12
○
やさしい
やっぱり
1
勇気
8
○
勇気
夢
16
○
夢
六小
1
若鳥
1
若葉
1
湧き上がる
1
我ら
1
はばたけ
光が丘夏の雲小学校
表13 募集されたキーワードとその言葉の採用状況
(
「光が丘第五小学校・光が丘第六小学校 統合準備会だより(第 14 号)
」
,平成 21 年 10 月 26 日発行,
pp.2~3 に基づき論者作成)
149
光が丘秋の陽小学校
1 あきのひの ひかりにきらり
ともだちの ひとみがかがやく
はしってころんで いっしょにわらう
あしのしたには ちきゅうがあって
あたまのうえには おおきなそらだ
2 かんがえる じぶんはひとり
せんせいに おそわるせかいを
たびしてといかけ いっしょにまなぶ
はちきれそうな きょうのむこうに
どきどきわくわく むげんのあすだ
作詞 谷川俊太郎 作曲 林光
キーワード 件数 使用有無
愛
4
青空
2
明るい
10
秋
17
△
明日
1
△
遊び
1
暖かい心
1
ありがとう 2
いい気持ち 1
池
2
一日
1
一緒
1
△
一所懸命
1
いつまでも 3
稲
4
今
1
いろんな
1
美しい
2
笑顔
7
△
大きな
2
△
大空
1
△
大らか
1
教え
1
おたまじゃくし
1
思い出
2
思いやり
1
おもしろい 1
カエル
1
輝く
4
△
風
1
かっこいい 1
活発
1
枯れ木
1
川
1
使用状態
キーワード 件数 使用有無
かわいい
1
感謝
1
木
1
あき
きずな
2
あす
希望
11
気持ち
1
君
1
協力
1
きよらか
1
ケンカ
2
元気
15
いっしょ 健康
1
校庭
1
交流会
1
心
5
子ども
1
小鳥
1
この学校
1
わらう
この地球
1
おおきな 困ってる
1
おおきなそら 米
1
さかな
1
慈愛
1
自然
2
自分
1
△
小
1
親切
1
すくすく
1
かがやく 進んで
1
スター
1
すっと
3
すばらしい 1
スポーツ
1
せせらぎ
3
使用状態 キーワード 件数
そよ風
1
大好き
2
大地
1
太陽
1
田植え
1
たくさん
1
たくましい 1
楽しい
8
たんぼ
1
小さな
1
力
2
地球
1
秩父
2
月
1
強い
1
テスト
1
手
2
天才
1
東京
1
友
6
共に
5
努力
1
どんな
2
トンボ
1
じぶん 仲間
2
仲良く
4
なにごとも 1
人間
2
練馬
1
伸び
4
はじめ
1
花
2
春
2
はるか
3
使用有無
△
△
使用状態 キーワード 件数
陽
1
光
26
瞳
1
広い
3
二つ
1
放課後
1
僕
3
母校
2
毎日
2
学び
3
魔法
1
ちきゅう 水
1
みどり
2
みのり
4
未来
1
みんな
23
虫
1
恵み
1
燃える
1
ともだち もみじ
1
優しい
4
勇気
4
友情
2
豊か
2
夢
4
ラッキー
1
れんげ
1
我が
3
私
2
我ら
1
使用有無
△
△
△
使用状態
ひ
ひかり
ひとみ
△
まなぶ
光が丘秋の陽小学校
表14 募集されたキーワードとその言葉の採用状況
(
「光が丘第七小学校・田柄第三小学校 統合準備会だより(第 14 号)
」
,平成 21 年 10 月 26 日発行,pp.2
~3 に基づき論者作成)
これらのことから、178 キーワード(光が丘四季の香小学校)、180 キーワード(光が丘春の
風小学校)、118 キーワード(光が丘夏の雲小学校)、132 キーワード(光が丘秋の陽小学校)が
集まった。募集されたキーワードと校歌の言葉を比べてみると、多くの人がキーワードと
して挙げている言葉が必ずしも歌詞に反映されているとは限らないということがわかる。
また、その言葉の使用方法が漢字であるか、ひらがなであるかの興味深い。「校歌に入れた
い言葉等については、校歌の作詞者へ参考としてもらうために渡すことになっている」213
ということがあるから、あくまでも参考として提出された。これらのことから、作詞家は
オリジナリティを追求し、よりよい校歌を作りあげようとしていたということがわかる。
213
各第 14 回統合準備会要点記録
150
第5節
結果
新設される各小学校の校歌は統合準備会で、平成 21 年 5 月から約 6 回の話し合いがもた
れた。募集方法は「統合対象校の児童・保護者・教職員、光が丘および周辺地域を対象と
して、統合新校の校歌の歌詞に入れたい言葉を募集する。」(各第 11 回の統合準備会要点記
録に明記)とあり、旋律の募集は行わない。また、募集の対象者の応募方法は、「①児童→
学校を通じて配布する応募用紙で応募する。②保護者・教職員→8 月下旬発行予定の統合準
備会だより(第 12 号)に添付された応募用紙で応募する。③光が丘および周辺地域→8 月
下旬発行予定の統合準備会だより(第 12 号)214の町会回覧や掲示により周知し、光が丘
区民事務所、光が丘図書館および地区区民館(旭町南、光が丘、田柄)において配布され
る統合新校ごとの応募用紙(4 種類)で応募する。
」と決まる。募集期間は、平成 21 年 8
月 25 日(火)~9 月 15 日(火)で、178 キーワード(光が丘四季の香小学校)、180 キーワード(光
が丘春の風小学校)、118 キーワード(光が丘夏の雲小学校)、132 キーワード(光が丘秋の陽
小学校)が集まった。これらキーワードは作詞者・作曲者に渡され、校歌作成の参考とされ
た。作詞者・作曲者は統合準備会で話し合われ、練馬区教育委員会を通して依頼された。
第6節
まとめ
新設校の開校に合わせて校歌が製作されていった過程が分かった。①計 17 回の準備会の
内、約 6 回校歌について話し合いがもたれた。②歌詞は光が丘の児童・保護者・教職員、
周辺地域住民に歌詞に採用したい言葉のキーワードを求め、旋律の募集は行わなかった。
③作詞者・作曲者は統合準備会で話し合われ練馬区教育委員会を通して依頼された。④校
歌制作にあたり、個々の委員の意見が反映された部分もあったが、基本的には各統合準備
会とも共通性・統一性をもって行われたということが分かった。
公立校における校歌制定の過程は、終始、行政主導でなされる。その際には児童・生徒
を含め関係者の意向を出来る限り集約するという細かい配慮がなされていることが分かる。
校歌制定における行政主導は、公立校の場合、設置主体であるから当然ではあるが、学校
設置の諸要素(校地・校舎の取得・建設等)の中に校歌の制定が必須なものとして盛り込
まれていることに注目しなければならない。これは明治期以降の学校校歌を巡る伝統が現
代において仕掛り踏襲されていることにほかならない。
214
統合準備会で話し合われた内容を地域住民に知らせる広報紙
151
第6章
第1節
復興と再生
-東日本大震災の例を中心に-
はじめに
2011 年 3 月 11 日 14 時 46 分に東北地方を震源としたマグニチュード 9.0 の大地震が発
生した。地震直後、最大潮位 21.1 メートルという巨大津波は太平洋沿岸地域の建物や人々
に甚大な被害をもたらした。その津波の影響は福島県にある東京電力福島第一原子力発電
所にも多大な影響を与え、今もなお多くの人々が避難生活を余儀なくされている。この日
を境に私たちの価値観は変化した。煌々としていた街の明かりは無くなり、各自各々の生
活様式を見直し、人と人とのつながりを見直した人々は多いのではないだろうか。夏期に
は電力の消費状況が電光掲示板に表示されるようになった。個人から集団へ帰属意識の変
化の一端は学校で歌われる校歌からも読み解くことができる。
本章では震災直後から現在までおよそ 2 年半、主に東北地方を中心とする児童・生徒等
の被害状況、校歌が私達日本人に与える精神的影響について考察してみたい。
第2節
震災が与えた児童・生徒等の被害状況
地震による死亡者はおよそ 2 万人であり、多くの人々は津波による被害者であった。そ
のうち園児・児童・生徒・学生の死亡者数が 621 人で中でも宮城県の石巻市立大川小学校
では全校生徒 108 人の内、74 人が津波の被害で死亡または現在も行方不明となっている。
都県
岩手県
宮城県
福島県
東京都
計
死亡
園児
児童
10
70
4
0
84
17
167
24
0
208
生徒
学生
63
158
50
0
271
教職員
11
41
6
0
58
9
24
3
2
38
行方不明
計
110
460
87
2
659
23
41
10
0
74
表15 東日本大震災による死者・行方不明社数(文部科学省,
「東日本大震災による被害情報
について(第 208 報)」,平成 24 年 9 月 14 日,p.4 に基づき論者作成)
また震災以後、東北地方の児童数は減少傾向にある。津波による家屋・学校の倒壊、原
発による放射能汚染等、様々な理由で以前通っていた学校で学んでいない子供たちがいる
のである。以下に読売新聞が行った調査「県内沿岸 12 市町村の園児児童生徒在籍数の推移」
215
215
のデータに基づき論者作成したデータを記す。
読売新聞,2013 年 3 月 17 日,朝刊 35 面
152
153
読売新聞の発表によると、2010 年から 2012 年にかけて全体で 3203 人(8.66%)の園児・
児童・生徒が減少したということである。これから先も児童・生徒数の増加は見込めない
という考えから学校の統廃合も進んでいるということである。216
第3節
216
震災直後に歌われた校歌
沿岸部の統廃合の状況は、朝日新聞,2013 年 3 月 20 日,朝刊 29 面に詳しく記され
ている。それらによると、宮古市では愛宕小学校が 2012 年 4 月から宮古小学校と鍬
ケ崎小学校に分割、田老第一中学校と田老第二中学校は 2011 年 4 月から田老第一中
学校に統合された。
大槌町は大槌小学校と大槌北小学校と安渡小学校と赤浜小学校が 2013 年 4 月から大
槌小学校に統合された。
大船渡市では越喜来小学校と崎浜小学校と甫嶺小学校が 2012 年 4 月から越喜来小学
校に統合された。
陸前高田市は気仙小学校と長部小学校が 2013 年 4 月から気仙小学校に統合、広田中
学校と小友中学校と米崎中学校は 2013 年 4 月から高田東中学校に新設、矢作中学校
と第一中学校は 2011 年 4 月から第一中学校に統合、矢作小学校と下矢作中学校と生
出小学校は 2011 年 4 月から統合されたということである。
154
このような甚大な被害をもたらした地震の直後、全ての交通・公共手段が途絶えた暗闇
の中で校歌を口ずさんでいた児童らがいた。茨城大学教育学部付属小学校ではその悲惨な
状況を、
「普通教室十三室、図工室などの特別教室四室を建物の外壁だけを残して、天井を
ふくむ内装等、そして教室にあるものすべてを無残な状況にしました。」217と記している。
その寄稿に掲載されている地震直後の写真は、教室の原形を留めない状況が写されている。
教室から避難した子どもたちは運動場にあつまり、地震への恐怖と寒さにふるえ
ていました。そんななか、じわじわ広がっていったのが子どもたちの歌声の輪でし
た。だれともなしに「水戸の城あと
風清く」という歌詞ではじまる校歌がうたわ
れると、泣きながらも歌に加わる子どもたち。うたい終わってもまた繰り返す全員。
「次は何を歌おうか」という言葉がやりとりされ、
〈小ぎつね〉
〈かたつむり〉〈ふる
さと〉など、子どもたちがうたう歌声が、暗くなるまで校庭で響きました。(略) 今
この寄稿を書きながら思い出すことは、リズムの激しい、いわゆる「はやりの商業
音楽」がうたわれた記憶がないことです。やはりあの状況では、そういった歌は心
を慰めないのでしょうか。興味深い問題として、研究する価値がありそうです。218
小さな子供たちが生死も危うい極限状況の中、肩を寄せ合って校歌や唱歌を歌う。寒空
の校庭で保護者との再会も思うようにいかない、寒さや寂しさを紛らわすかのように歌い
続ける様子が思い出される。そのような状況の中で、子供たちは普段から慣れ親しんでい
る流行歌よりも入学した時から授業で歌ってきた、校歌や唱歌を歌い続けていた。219以下
にその歌詞を記す。
茨城大学教育学部付属小学校
1
みとのしろあと かぜきよく
ことりのもりは たのしいな
ひかりあふれる きょうしつで
きょうもげんきで
まなぼうよ
かおりゆたかな ばらのはな
ばらのしるしに あつまった
217
218
219
田中健次(2011)
「再考「歌」のもつ力、そしてその歌をうたいつぐために-だれも
がうたった「校歌」を例に-」
,
『わらべ館 童謡・唱歌研究情報誌「音夢」』,第 6 号,
鳥取童謡・おもちゃ館,p2
同上,p4
朝日新聞,朝刊,38 面,2013 年 5 月 23 日「竜巻の恐怖、歌で耐えた」と題された記
事によると、2013 年 20 日午後にオクラホマシティーで発生した竜巻は約 2,400 戸を
破壊する天災となった。竜巻が襲ってくる中、ブライアーウッド小学校の児童らは教
師らと歌を歌いながら過ぎ去るのを待っていた。「怖かったけど、先生がみんなに歌
を歌わせて、気持ちを紛らわせてくれた」と児童がコメントしている。災害時の不安
定な精神状況の中で歌を歌うということは安定をもたらすということで、これは筑波
大学教育学部付属小学校の事例と同じである。
155
みんなのいばらぎふぞくしょう
2
なかのながれは ゆったりと
かがやくくもを うつしてる
こころとからだ たくましく
まことのみちを すすもうよ
かおりゆたかな ばらのはな
ばらのしるしに あつまった
みんなのいばらぎふぞくしょう
3
うんどうじょうの
おおいちょう
はるにはみどり あきはきに
こせいをのばし たすけあい
みなはらからだ なかよしだ
かおりゆたかな ばらのはな
ばらのしるしに あつまった
みんなのいばらぎふぞくしょう
作詞
第4節
震災以後の校歌
石森延男
作曲
入野義朗
-田老第一中学校の例を中心に-
震災以降、校歌に関する記事がいくつかある。朝日新聞 2011 年 5 月 18 日の朝刊に「学
びと震災」のコーナーで「生きる力 試練からつかむ
220
岩手・宮古市の小中
新たな挑戦」
という記事で震災をどのように教育に取り入れているか取材している。その中で、
宮古市市内でも被害が大きかった田老地区。明治、昭和と何度も大津波に襲われ、
高さ 10 メートルの防波堤も造られた。田老第一中学校の校歌にはこんな一節がある。
「防波堤を
偉業や
仰ぎみよ
試練の津波
幾たびぞ
乗り越えたてし
わが郷土
父祖の
跡つがん」校舎は 1 階が浸水し、使えない。近くの田老第一小の 3 階と 2 階
の一部を使い、新学期が始まった。(略)在校生代表の村井旬さんは「普通のことが普
通でなくなり、普通でないことが普通になりました。津波を忘れてもいけないし、ひ
きずってもいけない。校歌には私たちの進むべき道が示されている」と新入生に語り
かけた。221
220
221
朝日新聞,朝刊,33 面,2011 年 5 月 18 日,朝日新聞社
同上
156
田老地区は明治 29 年 6 月 15 日に「明治三陸地震」
、昭和 8 年 3 月 3 日にも「昭和三陸地
震」がありそれ高い津波に襲われ多くの人々が命を落とした。これらの地震を教訓に防波
堤も増設されていった。222
以下に歌詞の引用と楽譜を添付する。
宮古市立田老第一中学校
一
かもめ 群れ泣き
清新の
波の音すみて 朝明くる
二
田老の湾の
輝けば
学びの窓よ
色映ゆる
山王岩の
そのごとく
ゆるがぬ理想 厳として
えぞ浜ゆりの 美しく
三
徳光花と
咲きぬべし
防波堤を
仰ぎみよ
試練の津波
幾たびぞ
乗り越えたてし わが郷土
祖父の偉業や 跡つがん
四
学びの庭は
太平洋を
天恵の
まのあたり
うしろに高き 山の幸
見よ文化の
基なる
田老第一中学校
作詞
222
駒井雅二
作曲
千葉了道
第一防波堤 長さ→1,350m 工期→昭和 9 年~32 年度
第二防波堤 長さ→582m 工期→昭和 37 年~40 年度
第三防波堤 長さ→501m 工期→昭和 48 年~53 年度
157
譜例41 田老第一中学校
田老第一中学校の校歌は歌詞にその土地の歴史、教訓が記され、歌い継がれてきた。高
さ 10 メートルの防波堤を持ってしても津波は完全には防げなかったが、被害を最小限に食
い止めることはできた。歌詞に込められた思いは、子どもたちが卒業しても 10 メートルの
防波堤と共に忘れることはなく、この校歌そのものが生徒の精神的な「防波堤」になって
いる。223
校歌を通して命を守る取り組みに使われる一方で、激励と安否確認に使われる校歌もあ
る。
「校歌や応援歌 震災被災地の友へ」224の記事では、
都留市の谷村工業高同窓会(高取堅二会長)は、東日本大震災の被災地に住む同窓生に、
同校の校歌や応援歌を収録した CD を贈った。大震災から 4 か月近く経つ中、
「復興の
223
校歌を通して命を考える同様の事例として、朝日新聞 2011 年 6 月 3 日の夕刊に「心
臓マッサージ 校歌に合わせて」という記事がある。福岡県の済生会二日市病院の恒
吉俊美医師が臨床救急医学会で発表した内容によると、校歌を歌いながら心臓マッサ
ージをするとマッサージのリズムや交代のタイミングが計るのに役立つという調査
結果を発表した。心臓マッサージは 1 分間に約 100 回のリズムで行い、力強く圧迫を
続けるため、1 分半~二分程度で交代が必要であると書かれている。調査手法は 30
の小中学校にアンケートを行い、回答があった 26 校の校歌のリズムと曲の長さを分
224
析。
「校歌のリズムで圧迫し、短い校歌なら 3 番まで、長めなら 2 番までが交代の目
安に適していた。
」と結論付けている。
朝日新聞,朝刊,山梨県版,33 面,2011 年 7 月 8 日,朝日新聞社
158
歩みは遅く、まだがれきの山に埋まった被災地の様子に心が痛みます」と記したお見
舞い状も添えた。同窓会によると、宮城、福島、茨城などの被災地に住所のある同窓
生は 40~80 歳代までの 90 人。
「お互いに若いころ歌った校歌は、被災した皆さんと同
窓会を結ぶ絆です」と高取会長。同窓生からの返信を安否確認にも役立たせたいとい
う。225
学校という共同体の中で生まれた校歌が被災された同窓生を励ます力に一役買っている
ということは、校歌がいかに何十年と同窓生の記憶に残っていることかということ、学校
生活の楽しかった思い出や辛かった思い出が呼び起され、一人ではないという孤独からの
解放と青春時代の、前向きな気持ちを思い起こさせ、勇気を震い立たせる力がある。226
読売新聞で「母校の校歌で元気に」と題した記事がある。227長い避難生活を強いられて
いる福島県の人々の為に、イベント企画会社「アイデックス」社長の菅原弘道さんが「東
日本大震災“絆”再生プロジェクト
校歌で紡ぐ心の復興」ホームページを作ったという
内容である。228このホームページでは福島県の学校が 2013 年 10 月 14 日現在 167 校の校
歌を公開している。校歌の音源だけでなく、学校の校舎や当時の学校行事の写真も公開し
ている。このホームページに対し菅原さんは「原発事故で生活は一変したが、故郷を思い
出して福島再生の原動力にしてほしい」と思いを述べている。
第5節
校歌の持つ力
東日本大震災以後、児童・生徒数の減少により東北地方ではいくつかの学校が統廃合を
行った。それらの歌詞をみてみると学校名を入れたり、その土地の景観を歌いつつも、震
災を忘れずに前へ前進するような歌詞であることが見受けられる。
6-5-1)陸前高田市立高田東中学校
陸前高田市立広田中学校・小友中学校・米崎中学校が統合され、2013 年 4 月に開校した
225
226
227
228
同上
「島に生きる 思わず校歌を弾いていた」
(朝日新聞,朝刊,39 面,2013 年 11 月 17
日)では、2013 年 10 月 16 日台風 26 号の影響により伊豆大島で起こった土石流災害
の出来事を記している。
「娘たちから「かーこ(和子)おばちゃんのピアノが見つかった」
と電話があったのは、遺体が見つかった 2 日後。がれきの上に横たわっていました。
削れて泥がこびりついていたけど、不思議に音は出たんです。無意識のうちに、妹と
私が卒業した小学校の校歌を弾いていました。妹や見つかっていない人たちが聞いて
いる気がして。妹がきれいな顔のままだったのも、ピアノが近くで守ってくれたんだ
と思いました。
」校歌が過去を反芻する役割と精神的安定をもたらすものであるという
ことがわかる。地震災害ではないが、自然災害という共通した事例である。
読売新聞,夕刊,12 面,2012 年 11 月 15 日,読売新聞社
「東日本大震災“絆”再生プロジェクト 校歌で紡ぐ心の復興」,
http://kizuna-project.net/ , 2013 年 10 月 14 日最終アクセス
159
中学校である。この校歌は作詞覚和歌子229、作曲千住明230によって制作された。両者の
校歌制作にかけた思いが『広報
質問
りくぜん
たかた』に掲載されているので引用する。
校歌の作成を依頼されたときの気持ちは
千住明さん
3 つの中学校が統合して新たな一歩を踏み出すということで、それぞれの魂
を受け継いでいく言葉として、また、生徒たちの人格形成にも大きく作用
するものとして、とても大きな責任を感じましたし、これまでの経験と感
覚で皆さんに伝えられるものを校歌という形にしたいと思いました。
覚和歌子さん
校歌はこれらから高田の地で生きていく子どもたちの未来のものであり、
彼らが大人になって学生時代を振り返ったときのためのものでもあると
思います。皆さんの未来のため、大事な記憶のために、校歌の制作とい
う形で私たちが関われることをすごく嬉しいと思いましたし、生徒だけ
でなく、地域の皆さんの歌でもあるということを意識しながら詩を書き
ました。
質問
校歌が完成したときの気持ちは
千住明さん
完成までに何回か打合せをして、メロディも何回か変えましたが、地域
の皆さんから多くの意見が寄せられて、みんなで一緒につくったという
思いがあります。校歌が完成した後は、多くの方々に歌ってもらい、皆
さんに育ててもらいたいです。
覚和歌子さん
本当にいい校歌ができたと思いました。たとえば早稲田大学のような
力強い校歌もあるし、ポップスに近い校歌もありますが、新しい今の
時代の校歌ができたと思いました。231
陸前高田市立高田東中学校
一
すべてのいのちは海に生まれて
この地に根ざすこのからだがある
尽きない恵みがつちかう今に
生かされてある わたしたち
高田東中学校
二
山の緑を渡りくる風
心の夏は
229
230
231
宇宙を翔る
J-POP、NHK 合唱コンクール、舞台の構成演出、絵本創作など様々な詩作の活動を
行っている。代表作に「千と千尋の神隠し」や「いつも何度でも」等がある。
テレビドラマ・CM・オペラ様々なジャンルの音楽を作曲・プロデュースしている。
『広報 りくぜん たかた』
,2013 年 5 月 1 号,p.4
160
夢を力に
夢を言葉に
君と手と手をはなさぬように
高田東中学校
三
光を結ぶ赤い果実の
種それぞれがひそめる未来
歴史よ記憶よ やしないとなれ
勇気が照らす道の行く手に
高田東中学校
作詞 覚和歌子
作曲
千住明
6-5-2)東松島市立鳴瀬桜華小学校
小野小学校と浜市小学校が統合され鳴瀬未来小学校が統合せれ、2013 年 4 月に開校した。
作詞は松井五郎、作曲は中村雅俊である。統合計画の中のコンセプトに“森の学校”がと
いうテーマが掲げられている。鳴瀬地区の自然環境を生かしつつ安全な学校環境を整備し
ていこうという考えがある。校歌の歌詞も四季、生命、自然等のキーワードが多く含まれ
ている。そして、歌詞の中に「絆を育んで」や「絆に結ばれて」とあるように他者との関
係性を強く繋ぐメッセージも含まれている。以下に歌詞を記す。
東松島市立鳴瀬桜華小学校“花になろう”
春には桜の坂道を 駆け上がれば見える空
夏には鳴瀬川のせせらぎと 響きあう声
蒼く
萌える
風に絆を育んで
心と心が 夢でつなげるように
明日へ咲かせる花になろう
秋には色づくケヤキの葉
優しく季節を染める
冬には雪の音を紡いでは
灯した明かり
どんな
ときも
強い絆に結ばれて
心と心が 愛を奏でるように
明日へ咲かせる
ラララ・・・
花になろう
ラララ・・・
いつも強く
いつも優しい
161
花になろう なろう
誰かのために
いられるような
桜の華に なろう
作詞 松井五郎
作曲
中村雅俊
編曲
大塚修司
譜例42 鳴瀬桜華小学校“花になろう”
6-5-3)鳴瀬未来中学校
鳴瀬第一中学校と鳴瀬第二中学校が統合せれ、2013 年 4 月に開校した。作詞・作曲は加
藤登紀子232である。作詞・作曲は加藤氏が行ったものではあるが、統合校の生徒を対象に
ワークショップが開催され、実際に歌ってみた。その当時の様子が、広報誌に掲載されて
いるので引用する。
鳴瀬第一中学校と鳴瀬第二中学校が統合して、4 月に開校する鳴瀬未来中学校の校歌の
原案が完成し、去る 1 月 21 日(月)に鳴瀬第一中学校講堂で校歌制作ワークショップが
加藤登紀子(1943- )歌手・作詞家・作曲家・女優。
《知床旅情》
、《百万本のバラ》な
どの代表作がある。
232
162
開催されました。作詞作曲は歌手の加藤登紀子さんです。当時は鳴瀬一中・鳴瀬二中の
全校生徒約 250 名の前で校歌案が披露され、生徒たちも加藤さんの歌唱指導を受けなが
ら実際に歌いました。歌詞には鳴瀬地区の豊かな自然や仲間の大切さが込められており
ます。ゆったりとした優しい曲調の校歌です。生徒たちにも親しみやすいメロディーで
後日原案どおり新しい校歌として決定されました。233
さらに、その状況が NHK 総合テレビ首都圏ネットワーク『未来は君たちの歌が拓く -
加藤登紀子さんインタビュー-』234でも放送された。
鳴瀬未来中学校校歌“いつもそばにいるよ”
一 雨の日も嵐の日も 野に咲く花のように
太陽と嵐を呼び 空を見上げている
明日へと手を伸ばす
森の木のように
今日の日の一歩ずつ
夢を広げて行く
いつもそばにいるよ
君のそばにいるよ
同じ空を見上げ 二度とない今を
ここは僕らの世界 鳴瀬未来中学校
二 手をつなぎ 声を合わせ 歌うこの時も
風を受け 息を切らせ 走るこの道も
悲しみに喜びに 泣いた笑った日も
雪の舞う寒い朝 凍えた指先も
いつもそばにいたね
君のそばにいたね
同じ空を見上げ 夢を胸に抱いて
ここは僕らの世界 鳴瀬未来中学校
三 いつか遠く離れても
故郷の海や川
この森を忘れない
飛び交う鳥たちも
今ここにあるすべての かけがえのない命
未来への宝物
夢が
ずっとそばにいたい
今始まる
君のそばにいたい
同じ空を見上げ 二度とない明日
ここは僕らの世界 鳴瀬未来中学校
233
234
「なるせ小中学校復興だより」
,第 4 号,
(発行)鳴瀬地区小中学校統合準備委員会事
局 東松島市教育委員会内,2013 年 2 月 15 日,p.ページ番号なし
2013 年 2 月 13 日 18:10~19:00 関東甲信越で放送。
163
ここは僕らの世界 鳴瀬未来中学校 ラララ
作詞・作曲 加藤登紀子
鳴瀬未来小学校同様に統合計画の中のコンセプトに“森の学校”がというテーマが掲げ
られているので、花、空、鳥等の詞が記されているが、それだけでなく、人間同士の絆の
大切さだけでなく、鳴瀬未来中学校も自然等のキーワードが多く含まれていることがわか
る。周囲の自然環境、特に様々な命を育む森の存在に注目した歌詞は、原発という科学の
産物から背け、エコロジーな社会へ向かう現代の風潮と相応しいものとなっている。
第6節
おわりに
東日本大震災後以後、東北地方で開校した学校は震災を踏まえた歌詞内容になっている
ということがわかった。あの日の出来事を忘れてはいけないが、前へ進むことも大切であ
ると歌いこんでいる。また、調査した校歌はメディアによく出てくる著名人であるという
こと、校歌が制定されるとメディアで報道されるということも特徴である。校歌には集団
の帰属意識を高めるだけでなく、危機的状況でもそれを歌うことによって、精神的に安定
してくるということもわかった。
東京都では「東京校歌祭」
(東京校歌振興会主催)という行事を毎年行なっており、今年
2013 年において、すでに 21 回目である。都立の学校が集まり、OB、OG と在学生が一緒
になって、現在の校歌や旧制時代の校歌を歌ったりしている。同様に、神奈川県では「か
ながわ校歌祭」を毎年行っている。また、2004(平成 24)年、静岡県沼津市では「第五回沼
津文学祭」において、
「心のふるさと我らが校歌 ~「ひと」と「ことば」と「うた」の饗
宴~」と題して「沼津校歌祭」を行った。毎年どこかの地で“校歌祭”なるものが行われ
ている。
2013 年
第 21 回東京校歌祭
2012 年
第 7 回神奈川校歌祭
このように卒業してからも校歌を愛唱し続けるということは、校歌は自身が通っていた
学校の象徴の一つであり、自身の青春の証でもある。他に象徴として挙げられるものに校
164
章や校旗などが挙げられる。これらの中で校歌ほど、私たちは母校を思い返し、涙を流し
たり、心が熱くなったりするものはないのではないだろうか。江幡玲子氏は「小学校で“親”
の参観日があった。(略)何人もの人たちが、うたいながら涙をおさえているのが見えた。(略)
校歌を歌うのは何年ぶりだろう。生のピアノ伴奏でうたったのは何年ぶりだろう。小学校
の頃を思い出して涙が出た。中学校の校歌も一緒に思い出して泣けてきた」235と保護者た
ちの校歌斉唱の様子が記述されている。近年、学校が統廃合になり閉校する学校が多い。
学校がなくなるということは校歌もなくなるということである。無くなってゆく校歌に対
し「体育館に飾ってあった校歌がはずされて、忘れちゃいけないって思った」236と東京都
立日野市立平山小学校に在籍している峰岸春香さんは述べている。
2006 年 3 月まで青森放送のテレビ番組「そういえば…校歌」で番組の進行を担当してい
た岡田照幸氏237は「
“校歌ほどつまらない曲はない”というし、何のために歌うんだろう、
と思うかもしれないけど、校歌はヒット曲とは違う“みんなの心と心をつなぐ”潤滑剤な
んです238」と集団の中で生まれる帰属意識について述べている。
校歌の力には、音楽的な力と歌詞から表現される力がある。これらの相乗効果により、
集団の中での帰属意識が高められるということが、潜んでいるのではないかと考えられよ
う。これがまた、校歌が後々でも歌われる、思い出に残る要因の一つとも言えるのではな
いだろうか。
日本では地方の農村・漁村に行くと、地域の行政単位と重なる形で小学校の通学区域が
定められている。そして多くの地域で、小学校の各種行事、とりわけ運動会などは、神事
の祭礼とは別の大きな行事として位置づけられている。通学児童をもつ家庭はもちろんの
ことほとんどの世帯の人々が、その機会に寄り集まってくる光景が見られる。住人のほと
んど全てが卒業生なのだからそれも当然なのだ。そうした際に歌われる校歌は、したがっ
て住人の心を一つにする大きな力をもっていることは疑いない。大震災以降に制定された
校歌には、そうした地域の人々の押しひしがれた精神を活性化させ、鼓舞する潜勢力に少
なからず期待がかけられているの
である。
東北地方の復興は思うようには進んでいない。原発の汚染処理は今もなお収束がつかず、
廃炉に向けて日夜、作業員の方々が必死に働いている。原発の問題は次世代の子供達にも
降りかかる問題である。東日本大震災は東北地方だけの問題ではないが、住む場所を奪わ
れ、尊い命を落とされた方々はたくさんいる。その事実を踏まえ子供たちは前へ進んで行
かなければならない。論者は校歌が復興に大きく寄与するものの一つであろうと考える。
235
236
237
238
江幡玲子 「連載 親と教師のはざまに5 “校歌”をうたうとき -心の財産を育
てる-」 『児童心理 8 月号』 1995 年 8 月 90-91 頁
「あなたは校歌を覚えていますか?」 『月刊ピアノ』 2008 年 3 月 8 頁
音楽プロデューサー、ピアノスト。11 年間にわたり青森放送のテレビ番組「@なまて
れ」のコーナー番組「そういえば…校歌」の番組進行役を務め、492 校の小学校の校
歌を紹介した。
「あなたは校歌を覚えていますか?」 『月刊ピアノ』 2008 年 3 月 8 頁
165
結論
第1節
日本における校歌の成立と歴史
校歌は明治期から歌われるようになった①お茶の水女子大学の校歌“みがかずば”、②祝
祭日に歌われるようになった儀式用唱歌、③唱歌、④軍歌の 4 つの歌詞・曲調が用いられ
て生まれたのではないかという仮説の下、参考文献・資料を参考に調査した。さらに学校
外でいつ頃から校歌が市民に認知され始めたのか、当時の辞書・書籍・新聞を用い調査し
た。
〈文部省訓令第 7 号〉の影響があったため学校で歌われる歌には制約があった。そのた
め、多くの校歌が似たような歌詞・曲調になってしまった。しかし、それらの校歌は、①
②③④の特徴を併せ持ったものであり、校歌は当時の新しい音楽ジャンルではないかと結
論を出した。また、一般的な辞典に「校歌」という言葉が常用的であると初めて定めた辞
典は 1915(大正 4)年に出版された『大日本国語辞典』であり、校歌に関して特化し、書名で
「校歌」を含む書物が出版されたのは、1916(大正 5)年の『校歌ロオマンス』、日本で初め
て「校歌」という文字が世間に登場した新聞記事は、1903(明治 36)年の読売新聞の朝刊の
教育面(「大日本膨張の歌と群馬懸農業學校校歌」)が最も古い初出であることが明らかな検
索結果となった。さらに校歌を制定するにあたり、作詞者・作曲者側からの考えをまとめ
た。それらによると、校歌を制作する側も単調になりがちな校歌に関して、悩んでいると
いうことである。依頼する学校側が求める校歌の理想像と作詞者・作曲者の制作の考えの
妥協点を模索しながら制作しているということが分った。
第2節
時代ごとの教育概観
明治期から現代にかけての校歌の歴史を探ると共に、そこから見えてくる校歌と学校の
かかわり、歴史背景を明らかにした。明治 27 年に施行された〈文部省訓令第 7 号〉の小学
校で歌われる歌は全て文部省の認可を受けなければならないという規定があった。しかし、
〈文部省訓令第 7 号〉自体はあまり効力を成していたものではなかった。それを表すかの
ように大正期では、校歌の書き方や意義について記された書物が多く出版された。そして、
昭和 6 年に施行された〈小学校令施行規則第 53 条第 2 項〉は多くの学校に認知され、各学
校で独自に制定していた校歌も改めて認可を求めるようになった。認可を得るために文部
省からの歌詞修正を受け入れた学校も多々あった。文部省から校歌の制定を促す通達はな
かったにも関わらず、多くの学校で校歌は制定された。それほど校歌は帰属意識を幼少期
から徹底させるのに意味深いものであった。そしてその意識は時代と共に変容していると
いうことがわかった。
第3節
女子中等教育の校歌の成立と変遷
明治期に於いて、キリスト教主義女学校は創立年が早いにもかかわらず、校歌制定は明
治期後半であった。普段から讃美歌を習慣として歌っているにもかかわらず、校歌を制定
するということは、
〈高等女学校令〉や〈訓令 12 号〉の影響により日本の教育事情に準じ
166
ようとしていたのではないかと考えられる。そしてその曲調は、当時の価値観・音楽感覚
とは異なっていたことが解った。私学の女学校や府立の学校では校歌に比較的用いられる、
建学の精神や賢母良妻の歌詞が入っていたが、女性の自立を促す歌詞もあった。旋律に関
しては、
「付点四分音符+八分音符+四分音符+四分音符」の形式が多く見られ、ぴょんこ
節の拡大表現を用いているパターンが多かった。
大正期では自由主義教育が注目されてゆく中、女子中等教育の教育環境は、大正 9 年に
〈高等女学校令〉が改訂され、明治期からの教育理念を引き継ぐ形でより確立されていっ
た。私学の女学校と府立の学校では相変わらず明治期からの曲調であったが、キリスト教
主義女学校に関しては、日本の教育に準じていこうという姿勢が校歌からも垣間見えた。
長らく続いた、
〈文部省訓令 27 号〉が昭和 6 年に廃止されるも、同日に〈小学校令施行
規則第 53 条第 2 項〉が新たに施行された。さらに昭和 16 年に国民学校令が施行されると
〈国民学校令施行規則第 36 条〉に引き継がれ、学内で歌われる歌は終戦まで認可を求めな
ければならなかった。その影響は中等教育でも広まり、昭和 14 年 8 月 24 日〈文部省訓令
49 号〉が施行されると上級学校でも学内で歌われる歌は認可を受けなければならない状況
になった。日本全体が混沌とした世の中で戦争への暗い道のりへ向かっていく中、この時
代に制定されたどの学校種の校歌もまさに皇国主義を中心とした内容であった。
戦後は新たな教育体制を確立すべく、新たな教育理念を〈学校基本法〉に定めた。集団
的特色よりも個人の自由が尊重され、学校に於いても、児童・生徒を中心に考える教育へ
変化した。国民生活の豊かさと反比例するかのように、人間関係の希薄さが様々な社会問
題を生んだ。学校でも体罰やいじめ、学級崩壊が露呈し学校とは何なのかを考えさせられ
た。また少子化による学校の統廃合は深刻な問題となっている。学校側が個性を求められ
る時代に於いて、校歌は児童・生徒が歌うものであるという考えの下、戦前までの校歌の
ような単調なものではなく、自由な表現が曲調に現れている。また、歌詞も戦前までの格
調高い歌詞を一部修正して利用したりする学校もあるが、新たに制定した学校に於いても
学校で学べる大切さ、そこで出会う友人の大切さ、そして 21 世紀に求められる女性の自立
を強く願う歌詞が込められていることがわかった。
第4節
教材としての校歌
東京都千代田区にある私立和洋九段女子中学校・高等学校(以下
和洋九段校)では校
歌を音楽授業で通年使用している。また、その仕様内容も独特で音楽教材の一つとして使
用しているという。一般的な校歌の概念とは異なる、和洋九段校の校歌を紹介すると共に、
どのように教材として使われているのかを調査した。和洋九段校の校歌は、中学校学習指
導要領第2章5節音楽の第2「各学年の目標及び内容」、第1学年、第2学年及び第3学年
共に、2内容の「A 表現」(1)ア~ウの共通事項の内容と合致している。また、学習指導要
領に記されている音楽用語や記号、64項目中54項目(中学校学習指導要領音楽第3の
2の(8)と小学校学習指導要領第2章第6節音楽第3の2の(6))が校歌に記されていると
167
いうことがわかった。これらのことから和洋九段校の校歌は、多くの学校で行われている
であろう入学してきた生徒に教える一過性の校歌指導ではなく、校歌教育ではないかと考
える。3 年間教材として使用する試みは音楽教育と校歌教育を兼ね備えた、他の学校ではみ
ることができない新しい価値観の校歌が誕生した。
第5節
校歌の制定背景
東京都練馬区光が丘には“光が丘団地”と呼ばれる新興住宅地がある。近年、この地区
に居住する少子高齢化が問題になってきており、平成 22 年 3 月 31 日をもって光が丘地区
にある光が丘第一小学校、光が丘第二小学校、光が丘第三小学校、光が丘第四小学校、光
が丘第五小学校、光が丘第六小学校、光が丘第七小学校、田柄第三小学校が閉校した。そ
して、その翌日の 4 月 1 日から光が丘四季の香小学校、光が丘春の風小学校、光が丘夏の
雲小学校、光が丘秋の陽小学校が新たに開校した。新たに開校した 4 校は、開校に合わせ
校歌を新しく制作していた。その制作は、
“統合準備会”という組織の中で行われ、約 2 年
間 17 回にわたり定期的に話し合いが持たれた会である。統合準備会で話し合われた校歌の
制作過程を比べてみることで、各小学校がどのような過程を経て校歌が出来上がったのか
調査した。①計 17 回の準備会の内、約 6 回校歌について話し合いがもたれた。②歌詞は光
が丘の児童・保護者・教職員、周辺地域住民に歌詞に採用したい言葉のキーワードを求め、
旋律の募集は行わなかった。③作詞者・作曲者は統合準備会で話し合われ練馬区教育委員
会を通して依頼された。④校歌制作にあたり、個々の委員の意見が反映された部分もあっ
たが、基本的には各統合準備会とも共通性・統一性をもって行われたということ、校歌に
関わる経済的事情も得られた。
第6節
復興と再生
2011 年 3 月 11 日 14 時 46 分に東北地方を震源としたマグニチュード 9.0 の大地震は、
私たちの生活や価値観を根本から顧みるほど大きな出来事であった。とりわけ東北地方の
被害は甚大で多くの死者・行方不明者を出した。さらに地震後の東京電力福島第一原子力
発電所の問題は今もなお、収束が付かない状態で多くの住民が避難所や別の地方での生活
を余儀なくされている。東北地方における児童・生徒・園児の人口は減少の一途をたどっ
ており、統廃合が進められている。
震災後、新しく開校した学校の校歌には震災の出来事を忘れず、前へ進むことを示唆す
る歌詞が多く含まれている。また、作詞者・作曲者もメディアに出ている著名人に依頼し、
その制作過程や制定後が報道されることが特徴である。校歌は学校への帰属意識を培うだ
けでなく、危機的状況でも校歌を歌うことによって精神的な安定をもたらすものであると
いうことがわかった。
第7節 まとめ
168
校歌はその時代を映す鏡のようなものである。とりわけ日本は明治期以降長く続いた鎖
国からの多文化の流入は私たちの価値観を一変させるようなものであった。その先進的な
文化・習慣を取り入れることは、他国と肩を並べるべく国を発展させるものだと信じた。
そしてもうひとつ長く続いた幕藩体制の政治から、天皇を中心とする帝国主義的中央集権
国家体制に移行する必要があった。私たち日本人の価値観は明治を境に変容し始めるので
ある。
その中の一つに「校歌」があった。様々な身分や職種を親に持つ子供たちが、同じ学校
に集まり、定められた学級数や児童数で勉学に励む。協調性・規律が求められる中で円滑
に学校生活を送るため、さらには次世代の子供たちを育成するために学校は校歌を制定し
た。唱歌教育もそうだが、その学校に所属する多くの生徒が起立をし、同じ方向を向き、
大きな声で一斉に同じ旋律を歌い上げるという行為は、わらべ歌や民謡を愛唱してきた明
治以前の日本人の生活にはなかった。さらに校歌の歌詞には、学校の建学の精神・学校周
辺の環境・天皇を賛美する等の意味が込められ繰り返し斉唱することは愛国心、愛校心を
生むだけでなく、今日にわたる日本人の音感の変化にも寄与した。明治期以降に入ってき
た西洋の新しい音楽感覚はなかなか日本人には習得しづらいものであった。音楽取調掛に
よる唱歌教育のなかでもその難しさは指摘されている。明治期の校歌には日本の伝統音階
であるヨナ抜き音階で作曲されたものもあるが、西洋音楽の教育を受けた作曲者によって
作曲されるようになってくると西洋音階(7 音階)や情操的な曲調で作曲されるようになっ
てくる。これらの特徴は西洋音楽からもたらされてものである。唱歌同様、校歌も新しい
西洋の音楽だったのである。校歌が歌われる場所は入学式や卒業式という公式な場所であ
る。各式典を通して西洋音階こそが正当な曲調であると日本人に植え付けていったことは
間違いない。こうした劇的な変化は、日本人の「音感の変化」と表現してもよいだろう。
わずか数十年の間で日本人の音感が変化した効果は極めて大きいといえる。“ありきたりな
旋律”と言われがちであるが、我々は西洋音楽の音感を校歌からも体得してきたのである。
しかしその一方で、伝統的な日本人の音感が後景に追いやられ、音楽教育の正統から外さ
れていったことも想起しておいてよいだろう。
このように日本では公に各学校が校歌を制定しているが、239日本のように各式典・行事
で歌われる現象は、諸外国ではあまりみられない。アメリカでは「Alma Mater」、イギリ
ス圏では「School Song」と呼ばれることが多い。
『リーダーズ・プラス』
(研究社)は、
「英
国の多くの学校、特にパブリックスクールで、さまざまな式典で歌う校歌;日本の校歌の
モデルでもあり、生徒に愛校心を育てるのが主なねらい」とあるが、『オックスフォード英
語辞典』
(OED)には、
「School Song n.
239
1819 Examiner 4 July 427/2 We do not happen
もちろん日本においても校歌を所有していない学校は存在する。有名なところでは東
京大学が挙げられる。その他に論者が調査した限りでは、津田義塾大学と茨城キリス
ト教大学がある。これらの大学が校歌を所有しない理由は、生徒の自主性を尊重して
いるため(津田塾大学)
、賛美歌を歌うため(茨木キリスト教大学)、である。津田塾
大学では校訓・校章・校旗もない。
169
to possess the old school song or we might have given a version of it suitable to the
occasion.1934 M.V. Hughes London Child of Seventies vi.68 Another treat to me was the
school song (‘Homo plantat’).2006 N.Y.Times (National ed.) 9 Nov. c18/2, I can still hear
the thumping drums of the pep band, and the words of the school song.」とあり、校歌の
説明はなく用例のみで、それも極めて少ない。初出は 1989 年であり、中世以来大学という
教育機関をもつヨーロッパの歴史から言えば、比較的新しい概念であり、さらに 2006 年の
「ニューヨークタイムズ」の例から、今での一部ではあるにせよ歌われていることが分か
る。
2011 年 3 月 26 日に放送された「地球ラジオ」240で「校歌はありますか」というリスナ
ーの質問に対し、日本や世界各地に住んでいる日本人の人々が回答している。以下にいく
つか列挙する。
モロッコ…モロッコは小・中・高校ともに校歌はないそうです。小学校では音楽の授業も
ありません。学校で全員が集まったときに歌うのは「国歌」だけだそうです。
タイ…①学校では朝八時、国歌がスピーカーから流れ、それに合わせて生徒代表が国旗を
掲揚します。これに先だち、校庭に生徒が整列し、校歌も流れます。英語教育に力
を入れている私学の中には英語の校歌を採用しているところもあります。
②タイ此方で校歌は聞いた事はないですね、あるのでしょうか。どこの学校も国歌、
国王賛歌ですね。タイでは毎日午前 8 時、午後 6 時には放送中の番組も止まり、全
チャンネルで国歌が流れ、国の施設、病院では歩行も止まります。
スウェーデン…スウェーデンの学校には小学校から大学まで校歌はありません。たぶん宗
教的な理由もあると思います。また卒業式などで歌う歌は讃美歌です。
アメリカ…私の教える大学では、年に 2 回卒業式があります。式典の中には校歌もあり
ます。卒業生、教授、学長ほか、すべてが起立をし、音楽科の教授または学
生の伴奏、たまには合唱部もいっしょに歌います。
このように他国では、校歌が日本よりずっと曖昧であり、校歌よりも国歌が重要視され
ていることがわかる。また、本研究の間、様々な外国人の方の「校歌はありますか?」と
いう質問をさせていただいたが、日本のような学校側が公に認め、各式典で斉唱するよう
な歌はなかった。このことから校歌は日本独自のものであるということが言えるのではな
いだろうか。その確固たる論拠が言えないことが残念だが、それは今後の研究のテーマに
していきたいと思う。
Theodor Ludwig Adorno-Wiesengrund (1903~1969)は、「音楽上の趣味の頽廃をな
げく声は今日に始まったことでなく、おそらく、音楽が本能のむき出しの表明でありなが
ら、同時にまたそれを鎮静する任に当たるものであるという、人類が有史時代の幕開きに
240
NHK ラジオ第 1「地球ラジオ」,2011 年 3 月 26 日放送
170
際して得たうちに相剋をはらんだ経験とともに古いのである。」241と述べている。音楽は
いつの時代もディオニュソス的側面とアポロ的側面を持っており、そのことは校歌でもい
えるのではないだろうか。教育現場に従事する側から見れば校歌に入れてほしい歌詞は地
域の環境であったり建学の精神であったりする、しかし、歌う側の人間からすれば、あり
きたりな歌詞よりもオリジナリティのある歌詞であったり、カラオケで歌うような旋律で
あることを好むわけである。作詞者・作曲者は依頼する学校が求める歌詞内容を書こうと
すれば、おのずと他の校歌と類似する内容になるわけで、歌詞が 2 番、3 番とあるのであれ
ば、言葉のイントネーションの統一性を整えないと、旋律に差し障りがある。しかし、様々
な問題を抱えながらも日本では、ほとんどすべての学校で校歌は現在まで歌われ続けてい
る。
校歌はその学校を卒業しても思い起こされるものである。それは、その学校に対する帰
属意識だけでなく、学生時代の思い出であったり、その時代に形成されたアイデンティテ
ィ、大人へと成長する児童期から青年期にかけての過程、すなわち青春ともいうべき出来
事が校歌に凝縮されていってもいいのではないだろうか。校歌は学生時代を表す一つの記
号である。そして過去を反芻する装置としての役割は、われわれ日本人にはあまりにも大
きい。明治期から辿った変遷の中で校歌は学校制度の中で醸成された日本の一つの文化な
のである。
241
Th.W.アドルノ(1998)
『不協和音』,(訳者)三光長治・高辻知義,平凡社,p.17
171
付論
下總皖一の校歌-資料の統計分析による下總皖一校歌研究-
第1章
作曲家「下總皖一」と校歌
幼い頃から誰もが慣れ親しんでいる《野菊》や《たなばたさま》など、童謡の作曲者と
しもおさかんいち
して有名な下總唍一が、何百曲もの校歌を作曲していた人物であったとは知らなかった。
また、彼の名前には、教科書の著者として学生時代に出会っていた。それにもかかわらず、
あらためて調べると、彼の著作物の多さにいまさらのように驚くばかりである。こんなに
も多くの校歌作品、そして音楽の著作を遺した人物なのに、下總唍一研究が進んでいない
のはなぜだろうかと考えた。このままでは、埋もれゆく音楽家の一人になってしまうので
はないだろうかと、心配もした。そこで、私の音楽研究のささやかな第一歩として、下総
唍一の音楽を、私なりに考察してみようと考えた。幸いなことに、加須市の「おおとね童
謡ふるさと室」で資料などのご教示をいただけたことで、まずは彼が作曲した校歌に注目
してみようと考えた次第である。この下總唍一の校歌研究を通して、彼の音楽が少しでも
明らかになれば、これからの下總唍一の研究の足がかりとなるかもしれない。
第1節
下總皖一の生涯
下總の生涯に関しては大利根町から出版されている『利根のほとりに』や埼玉会館友の
会事務局が発行する『下總皖一誕生 90 年』等、多数の出版物に掲載されている。これらか
かんぞう
ら教えられたことによると、下總皖一(本名 下總覚三)は 1898(明治 31)年に埼玉県原道
村(現大利根町)に父吉之丞、母ふさの次男として生まれた。1912 年(明治 45 年)に栗橋尋常
高等小学校を卒業後、埼玉師範学校に入学、1917 年(大正 6 年)同校本科一部を卒業(現
埼
玉大学教育学部)、続けて東京音楽学校師範科(現 東京芸術大学音楽学部)に進学、1920 年
(大正 9)年に同校を主席で卒業した。その後、各地の師範学校や私立学校で教鞭をとる傍ら
作曲活動を開始する。1932(昭和 7)年、文部省在外研究員として渡独。パウル・ヒンデミッ
ト氏に作曲法研究の指導を受ける。帰国後、東京音楽学校の講師となる。以後、東京音楽
学校の助教授、教授、学部長と逝去するまで同大学で教鞭をとった。しかし、1962(昭和 37)
年 7 月 8 日、胆石、肝臓がん、肝硬変の悪化で他界する。その日の新聞の訃報欄に「下総
皖一(しもふさ・かんいち=本名覚三=芸大教授)八日午前四時二十五分、肝臓ガンのため東
大病院で死去、六十四歳。日本教育音楽協会理事で、自宅は品川区上大崎一ノ七六七。告
別式は十三日午後一時から青山葬儀所で。」と小さく掲載されているだけであったが、242音
楽界では、音楽教育界の重鎮の逝去に衝撃を受けることとなった243。
このように下總は、長きにわたり音楽教育とその指導的立場として関わってきた。その
傍ら自身の作曲活動にも力を入れてきた。彼は音楽教育者であり、音楽理論者でもあり、
作曲家でもあったということである。
音楽教育者としての下總は各地の師範学校で教壇に立っただけでなく、1940(昭和 15)年
242
243
「朝日新聞」
,1962 年 7 月 8 日,夕刊 11 面
「同声会報」第 286 号,同声会,1963 年 1 月 10 日に追悼ページが組まれている。
172
から文科省の教科書編纂委員会にも携わり、我が国の音楽教育界をリードしていた立場に
いた。また、厳格でありながらも生徒を思いやる優しい教師であったと、大利根町から出
版された『利根のほとりに
エピソード下總皖一』には記されている。「(略)教え子の試験
かコンクールか何かの事で「発表の事思い時々胸くるし。」とあり」また、
「B を昨日と同じ
ように叱って、あと口悪し、心痛し。
」等、生徒を思いやる優しい教師であったエピソード
がいくつもある。
作曲家としては 64 年という短い生涯の中で 1200 曲以上の作品を残している人物でもあ
る。この数は、著作権登録してある曲に限られているので、それ以外のものも合わせると
3000 曲近くあると言われている244。
「笹の葉さらさら 落ち葉にゆれる」の《七夕》や「遠
い山から 吹いてくる」の《野菊》は、
『初等科音楽(1)』の教科書に掲載されているので、
下總皖一という名を知らなくとも、私たちはそれとは知らないまま下總の作品を耳にして
いたのである。
そして、音楽理論者としては、
『音楽理論』
『対位法』
『和声学』などの著作が有名である。
この本は現在も出版されており主に、作曲学科を受験する受験生が作曲技法を学ぶために
参考にしたり、大学の授業のテキストで用いられたりしている本である。おそらくは、現
在も多くの学生が愛用しているのではないだろうか。
下總皖一
244
加須市 HP http://www.city.kazo.lg.jp
173
第2章
下總皖一作曲の校歌について
下總の人生において、音楽教育者としての業績は素晴らしいものであり、彼が教授し
た生徒の中には山田耕筰や団伊玖磨らがいる。また、音楽理論学者としても多数の著書が
あり、多くの音楽を学ぶ学生が、作曲理論の基礎を彼の著書から学んだのではないだろう
か。
では、作曲家としてはどうであろうか。世の中に下總皖一の作品について綴った本はあ
まり見受けられない。3000 曲以上もあるといわれている曲の数々を、今日誰も注目をしよ
うとしないのはなぜなのか。理由として考えられることは、下總自身が理論者であるが故
に、曲自体に新たな表現方法や個性的な作曲効果が見受けられないのではないかという考
えや、教育者という立場上、世間から求められた曲がいわゆる模範的なものが多かったの
で、注目をされなかった等、理由はいくらでも想像できる。ただ、下總自身は、生前「西
洋音楽と日本音楽の架け橋になりたい」と言っていたそうだ。245下總がドイツ留学から帰
国したのは 1934(昭和 9)年であり、その後、本格的に作曲活動を行なっている。作曲活
動といっても、唱歌作曲が中心であり管弦楽曲の作品はきわめて少ない。唱歌作曲を仕事
としていたために、管弦楽曲への意欲が結果として薄らいだのかもしれない。この辺りは、
想像の域を出ないが、創造的な方向に自ら向かうことができなかった、できる環境ではな
かったのかもしれない。
今回は、下總の数ある業績のうちから“校歌”に焦点を当てたい。下總は校歌を 300 曲
近く作曲したと言われている。公的機関の曲であるにも関わらず、正確な曲数がわからな
いのは学校の改編や統合などで、
“歌われなくなった校歌”も少なからず存在するからかも
しれない。下總が本格的に作曲活動を始めたのは大正 13 年頃とされている。師事したのは
信時潔246である。この時代、下總は栃木県師範学校で教鞭をとっていたため、週末、自宅
があった宇都宮から信時の住む国分寺の家まで6、7時間かけて通っていたようだ。247下
總の初期の作品は歌曲が多く、特に童謡が多く見受けられる。今回の論文の主である校歌
に積極的に取り組みだすのが 1940(昭和 15)年頃からのことである。この時、下總は文部省
教科書編集委員の一員になっていた。この立場と校歌との関係は今回の論文では立証はで
きなかったが、学校の管理機関に関係する下總の地位は依存されやすいものだったのだろ
う。今後、明らかにしていきたい課題である。
「下總唍一を偲ぶ会」 会長中島睦雄氏談
信時潔(1887~1965)作曲家。東京音楽大学でも教鞭をとっていた。合唱曲《海ゆ
かば》
、歌曲《沙羅》
、交響曲《海道東征》等。
247 信時潔から師事された状況を下總は、
「作曲家としての信時先生」(「音楽文化新聞」,
1942(昭和 17)年 7 月 10 日号,5 面)で記している。
245
246
174
第1節
調査方法
下總の校歌に関しては学校機関で歌われるという性質を彼が考慮しているのか、依頼先
の学校の希望なのか断定はできないが、突出したメロディーラインやリズムはほとんど見
受けられない。また曲数も膨大であることから、ここでは、1 曲、1 曲に着目するよりは、
下總の校歌の全体的な特徴を明らかにするほうが懸命ではないかと考えた。今回は下總の
直筆の楽譜 492 曲と清書された楽譜 3 曲、合計 495 曲を分析するのだが、曲数が膨大かつ
ほとんどが原譜なので文字、旋律の解読が困難なものは除外した。また、目視で曲が重複
していると確認できるものも除外した。調査方法は、大和淳二氏が『唱歌のあゆみ
校歌
とは-そのプロフィール-』で行なった調査方法を基にし、さらに論者自身が調査項目を
加え集計した。具体的に大和淳二氏の調査項目は、
「1 調について」、
「2 拍子について」、
「3
小節数について」
、
「4 曲態について」248、
「5 歌詞の文体について」
、
「6 最も多く見られる
傾向」
、
「7 音域について」
、である。この調査項目の中で「5 歌詞の文体について」は今回
の調査趣旨から外れるので除外した。また、「6 最も多く見られる傾向」については1~5
の調査事項の1位となった項目を記載し、プラス結果として「共通詞」、「歌詞の節」が加
えられている。
「共通詞」
、
「歌詞の節」については今回の調査趣旨から外れるし、調査事項
の各 1 位については各調査結果で述べるので、6の項目は今回の調査から除外した。
論者自身で加えた項目に関しては、「前奏の小節数」、「学校」である。「前奏の小節数」
については小節数をそのまま数値化したので、
「3 小節数について」の調査方法と同じであ
る。
「学校」は①幼稚園、②小学校、③中学校、④高等学校、⑤大学、⑥国民学校、⑦高等
小学校、⑧高等女学校、⑨尋常小学校、⑩不明の 10 種に分けた。
以上、7 項目の集計を行い、結果をまとめた。
248
単旋律でできた校歌か、または副旋律(合唱)でできた校歌か。
175
第2節
調査結果
2-2-1)
学校
学校(全校)
250
200
学 150
校
数 100
50
236
145
88
6
3
1
1
8
中
学
校
小
学
校
高
校
高 大
等 学
女
尋 学
常 校
小
学
校
幼
高 稚
等 園
小
学
校
不
明
0
4
まず、戦前の校歌の数の少なさに驚くであろう。この原因はおそらく 2 つあると考えら
れる。1 つ目の要因は、
『野菊のように
下總皖一の生涯』に、「昭和二十年(一九四五)戦争
はいよいよはげしくなっていきました。
(略)5 月 25 日の夜の空襲では、とうとう皖一の住
んでいた家も、あとかたもなく焼け落ちてしまったのです。」249と記述されている。この
時に楽譜等も焼失してしまったと考えられる。2 つ目の要因として、下總の戦前の活躍にあ
る。まだ彼は各地の学校で教鞭をとりながら、作曲の勉強していた時期であり、昭和 7 年
にドイツへ留学、同 9 年に帰国、東京音楽学校の講師になっている。昭和 15 年に文部省教
科書編集委員となっているものの、彼の戦前の作曲活躍はあまりにも途上状態である。そ
のことは第 3 章の資料年表でも明らかである。
具体的に表の分析を行なっていこう。まず、義務教育機関である中学校、小学校の校歌
数が突出して多いことが分かる。これは文部省編集委員に関わっていた関係性からきてい
るのではないだろうか。東京音楽大学の教授であり、文部省の委員会に属していることか
ら、彼の社会的立場が教育界では評価され、学校現場から校歌の依頼がきたのではないか
と考えられる。
実際、彼の恩師である信時潔も多数の校歌を作曲している。250その彼もまた文部省の編
纂にかかわった人物であったことを考えると、関係性があるのではないかと推測できる。
249
250
中島睦雄(1999)『野菊のように 下總皖一の生涯』
,大利根町,p.67
信時潔研究ガイド http://home.netyou.jp/ff/nobu/ (2013 年 9 月 21 日最終アクセ
ス)
176
調子
調子(全校)
6
154
94
学4
校
数2
57
29
21
16
11
5
1
3
2
0
ヘ長調
変ロ長調
調子(戦後)
80
149
69
調子(中学校)
2
2
調子(高等学校)
25
60
21
20
46
16
学 15
校
数 10
31
15
10
10
12
9
9
9
12
5
変
ロ
ハ
長
調
ヘ
長
調
長
の
調
他
調
そ
イ
長
調
ト長
長
調
0
ニ
64
ハ
長
調
ヘ
長
調
変
ロ
長
調
70
60
学 50
40
校
30
数 20
10
0
4
0
ハ
長
調
ヘ
長
変 調
ロ
長
調
ニ
長
調
ト長
変 調
ホ
長
調
イ
長
変 調
イ
長
変 調
ニ
長
調
0
15
調
1
19
長
11
調
16
ホ
28 20
34
校 40
数 20
変
57
イ
長
87
調
107
校 100
数 50
ト長調
学 60
ト長
学 150
ハ長調
調子(小学校)
ハ
長
調
ヘ
長
調
ニ
長
調
変
ロ
長
調
200
1
長
調
変
ホ
長
調
変
イ
長
調
そ
の
他
112
ハ
長
調
ヘ
長
変 調
ロ
長
調
ニ
長
調
ト長
変 調
ホ
長
調
イ
長
変 調
イ
長
変 調
ニ
長
調
180
160
140
学 120
校 100
80
数 60
40
20
0
調子(戦前)
ト
2-2-2)
全校の分析結果を見てみると、ハ長調、ヘ長調が全体の半数以上を占めているというこ
とが分かった。ハ長調というのは調子記号が何も付かない「ドレミファソラシド」である。
ヘ長調は「ドレミファソラシ♭ド」でありシに♭(フラット→音を半音下げる記号)が付いて
いる。これは調子記号が少なければ少ないほど子供たちは歌いやすいし、伴奏の演奏もし
やすくなる。しかし、このことが校歌の単純明快さを出し、校歌をつまらないものにして
いるということも事実である。
次に、戦前と戦後の調子を比べてみよう。まず、戦前であるが、何も調子記号が付かな
いハ長調よりもヘ長調と変ホ長調が多いことが分かった。変ロ長調とは「シ♭ドレミ♭フ
ァソラシ♭」でシとミ♭が付いている調子のことである。戦後では、分析数の多さから、
177
全学校の分析結果とほぼ変らない結果である。このことから、下總の校歌の作曲のスタイ
ルは調子記号は少ないが、調子記号を付けた校歌の場合は非常にフラット系が多いという
ことが分かった。
次に学校種別に見てみよう。まず、小学校の調子であるが、ハ長調が全体の約半数(47.6%)
を占めているということが分かる。先ほども述べたように、子供たちにとって歌いやすい、
演奏しやすい、という利点があるが、調子記号が少なければ少ないほど、曲調は単調にな
ってしまう。下總はまだ音楽に親しめていない子供たちのことを考え、ハ長調を多く作曲
していたと考えられる。次に中学校の調子である。ハ長調(27.1%)とヘ長調(25.4%)が半数
以上占められているということが分かる。しかし、高等学校になると調子記号の少ない、
ハ長調やヘ長調よりもフラットが 2 つある変ロ長調が 23.9%占めている。変ロ長調は小学
校では 125 校中 15 校(10.3%)しかないが、中学校では 236 校中 46 校(19.5%)と作曲
している学校数が上級学校に上がるにつれて増えているということである。これらから分
かることは、下總は高等教育に上がるにつれて、生徒の歌唱能力、音楽的能力が上がって
いくということが分かって作曲しているということではないだろうか。
『発掘!校歌なるほ
ど雑学辞典』の中でも、
「ところが、この変ホ長調の校歌は小学校では比較的少なく、逆に
高校や大学の校歌としては好んで採用されているという現象が見られる。」251という記述
がある。その要因として、さらに著書の中で、
「これには、歌う人の歌唱力の問題が関係し
ている。つまり、音域が広ければそれだけ高度な歌唱力を要するため、「歌いやすい」とい
う校歌の前提条件に反してしまうのだが、高等教育へ向かうほど、そんな制限にとらわれ
ることなく作曲されているということを意味している。」と記述がある。一般論としても変
ロ長調の校歌が上級学校で多用されているという事実があるということがだが、下總の場
合はフラット系の調性を好んで書いているように見受けられ、このことは彼の校歌の作曲
の特徴の一つではないかと考えられる。
校歌こだわり調査隊(2004)『発掘!校歌なるほど雑学辞典』,ヤマハミュージックメ
ディア,p.132
251
178
拍子
拍子(戦前)
拍子(全校)
10
8
学
6
校
4
数
2
0
395
4
6拍
子
13
2
の
3拍
子
4拍子
8分
拍子(戦後)
拍子(小学校)
379
120
100
学 80
校 60
数 40
20
0
80
子
4
の
6拍
子
37
2
4拍子
8分
3拍
9
4拍
3
2
子
子
子
2
8分
8分
の
6拍
子
3拍
子
2拍
子
4拍
8
74
80
学 60
校 40
数 20
0
192
34
3拍子
拍子(高等学校)
拍子(中学校)
250
200
学
150
校
100
数
50
0
2拍子
子
子
2拍
4拍
子
13
106
2拍
400
350
300
学 250
校 200
数 150
100
50
0
2拍子
の
6拍
2拍
子
4拍
子
83
9
子
500
400
学
300
校
200
数
100
0
3拍
2-2-3)
まず、全学校に関して、4 拍子の校歌が 79.8%占めている。このことから、戦前、戦後、
学校種別と分けてみてみても、4拍子の校歌が大半を占めているということがわかる。ま
た、全校の2拍子の割合も 16.8%占めている。4拍子と2拍子は共に強弱という2つのリ
ズムが合わさったもので同等に属する。下總の校歌はほとんどが強弱のテンポを用いた2
拍子系のリズムで作曲されている。これは、ほとんどの校歌で見受けられる現象である。
このことに関して先の著書では、
「校歌における拍子の最大の特徴は、四分の四拍子が基本
になることだ。その背景には、前述のように、校歌の行進曲や応援歌としての役割がある。
」
252
252
と記述されている。下總の校歌が必ずしも行進曲や応援歌の役割を担っていたのかはわ
校歌こだわり調査隊(2004)『発掘!校歌なるほど雑学辞典』,ヤマハミュージックメ
179
からないが、学校種別で見てみても 4 拍子、2 拍子の割合が多い。2拍子系の校歌の多さの
原因として、彼の校歌を単調にさせてしまっている一つの要因が隠されているのかもしれ
ない。
ディア,p.135
180
小節数
小節数(戦前)
小節数(全校)
226
142
小
節
~
33
8
16小節
26
~
31
30
37
節
~
9
31
小
節
30
小
26
~
25
小
31
節
~
31
小
節
30
小
26
~
節
20
小
16
~
~
7
4
15
小
節
~
31
15
節
16
31
小
節
30
小
26
~
21
~
25
小
節
19
節
21
20
小
節
節
20
小
16
~
15
~
15
小
節
~
40
学 30
校 20
数 10
0
69
16
~
77小節
小節数(高等学校)
111
節
28小節
18
節
32
31
小
節
30
小
26
~
節
25
小
21
~
20
小
節
50
16
~
~
15
小
節
43
15
小
20小節
21
~
138
小節数(中学校)
~
1
66
70
60
学 50
校 40
30
数 20
10
0
213
120
学 100
80
校 60
数 40
20
0
1
小節数(小学校)
小節数(戦後)
250
200
学
150
校
100
数
50
0
1
節
小
節
21
16
~
~
25
20
小
節
15
~
小
節
51
小
節
43
10
8
学
6
校
4
数
2
0
25
小
250
200
学
150
校
100
数
50
0
21
~
2-2-4)
全学校に関して、16~20 小節の校歌が多いということが分かった。そもそも、校歌は生
徒に歌を覚えてもらうために、長くも無く、短くも無いメロディーラインが理想的である。
そのことから、多くの小節数は、1 フレーズ 4 小節にまとまり、メロディーを形成する。そ
のまとまりのフレーズに対する応答が 4 小節あり、また別のフレーズ 4 小節に対し、応答
が 4 小節ある(2 拍子の場合、1 フレーズ 8 小節の場合がある)
。これは 2 部形式と呼ばれ
るもので、校歌以外に唱歌や童謡など、比較的歌に見受けられる形式である。
戦前の小節数の分析は、学校数が少なかったため、より詳しく分類した。ここでもやは
181
り 16 小節(11 校中 8 校)が多い。拍子の分析でも 11 校中 9 校が 4 拍子の校歌であること
から、拍子と小節数の因果関係が認められるのではないだろうか。戦後では 4 拍子の校歌
の学校数が 79.6%占めており、ここの表には記載されていないが、さらに 379 校の中で 16
小節数の校歌は 63 校しかなかった。このことから、下總の戦後の校歌は形式に縛られず、
比較的自由に作曲を行なったと考えられるのではないだろうか。それを裏付ける要因とし
て、下總の曲は途中で拍子が数小節変わるものが多い。それ故に、小節数にばらつきが見
られたと考えられる。実際、16 小節~25 小節間で 4 拍子の校歌の小節数は、17 小節が 19
校、18 小節が 37 校、19 小節が 28 校、20 小節が 66 校、21 小節が 33 校、22 小節が 29 校、
23 小節が 22 校、24 小節が 39 校、25 小節が 15 校であった。
182
曲態
曲態(全校)
241
10
8
学
6
校
4
数
2
0
158
6
2
2
2
単旋律
曲態(戦後)
128
8
2部
合
唱
26
11
0
2部合唱 3部合唱 単旋律 4部合唱 その他
曲態(中学校)
3
2
3部
合
唱
4部
合
唱
部
分
2部
合
唱
単
旋
律
1
30
21
20
15
2
2部
合
唱
35
30
25
学
20
校
15
数
10
5
0
84
21
1
曲態(高等学校)
126
2部
合
唱
3部
合
唱
140
120
学 100
校 80
60
数 40
20
0
4
部
分
2部
合
唱
部
分
3部
合
唱
49
3部
合
唱
140
120
学 100
校 80
60
数 40
20
0
158
50
3部合唱
単
旋
律
200
学 150
校
数 100
2部合唱
曲態(小学校)
235
250
1
部
分
4部
合
唱
27
8
単
旋
律
59
2部
合
唱
3部
合
唱
単
旋
律
4部
合
部
唱
分
2部
合
部
唱
分
3部
合
部
唱
分
4部
合
唱
300
250
学 200
校 150
数 100
50
0
曲態(戦前)
4部
合
唱
2-2-5)
校歌というものは単旋律(主旋律のみ)を全学年が斉唱するものだと考えていたが、下
總の校歌はハーモニーを有するものが多い。全学校の分析結果から明らかなように、単旋
律は 495 校中 59 校しかなく、残りの 436 校は何らかのハーモニーを形成しているというこ
とである。戦前、戦後の曲態を見てみると、戦前は単旋律が 11 校中 8 校であるのに対し、
戦後は 476 校中 49 校しか単旋律がない。このことから、戦後の下總の校歌の作曲方法に「ハ
ーモニーの形成」という新たな価値観が生まれたと考えられる。
学校種別に見てみると、小学校では 2 部合唱が 88.3%であり、圧倒的な学校数であるこ
とが分かる。2 部合唱というのは主旋律と主旋律(=副旋律)のハーモニーを形成するメロ
ディーと、2 つあるということであり、この場合は男子と女子で 2 つのパートに分かれて歌
うか低学年と高学年で歌い分ける等、考えられる。
183
中学校では 236 校中 215 校が何らかのハーモニーを形成している。高等学校では 88 校中
73 校がハーモニーを形成している。注目すべきことは、単旋律の割合が上級学校に行くに
つれて少なくなってきているということである。小学校では 7.6%、中学校では 8.9%、高
等学校では 17.0%になる。しかもハーモニーの形成が、小学校では 2 部合唱が圧倒的に多
かったのに対し、中学校では 3 部合唱、2 部合唱が単旋律よりも上位を占めおり、高等学校
においては、3 部合唱、2 部合唱の他に 4 部合唱が単旋律よりも上位を占めていた。このこ
とから、調子同様に下總は上級学校に上がるにつれて曲想をつけているということではな
いだろうか。
多くの学校は生徒が入学した後、最初の音楽の授業で学習することは、教科書の歌では
なく、校歌ではないだろうか。もしかしたら、その授業では各パートに分かれて練習する
かもしれないが、行事において複旋律で歌うことは無いと考えられる。特に小学校の 2 部
形式は男女で分けて歌うと歌いやすいかもしれないが、小学生の低学年の段階ではハーモ
ニーの形成は難しいと考えられる。
184
2-2-6)
音域
音域(戦前)
8
7
学6
校4
数2
2
1
1
D¹-Es²
D¹-E²
0
C¹-D²
C¹-E²
音域(小学校)
76
80
70
60
50
40
30
20
10
0
学
校
数
C¹-D²
19
19
C¹-E²
D¹-E²
16
15
D¹-D² その他
音域(高等学校)
25
20
22
20
15
学 15
校
数 10
5
14
10
7
0
C¹-D² C¹-Es² D¹-E² C¹-E² B-Es² その他
音域に関しては主旋律の音域のみまとめた。また、音域で使用した音は全てドイツ音名
で明記した。以下に、イタリア音名とドイツ音名を明記する。また、音名の右上の数字は
基音を C¹とし、そこからB¹(シ♭)
。さらに基音からオクターブ上のCはC²、D²、E²
…とし、基音から音程が下がる場合は、H、A、G・・・と数字が付かない状態で表している。
イタリア
ド
レ
ミ
ファ
ソ
ラ
シ
ド
ドイツ
C
D
E
F
G
A
H
C
全学校の分析結果において 495 校中 203 校の C¹-D²が圧倒的に多かった。このことから音
域に関しては、戦前、戦後結果と関係なく子供たちの声域に合わせて歌いやすいように作
曲していたと考えられる。
185
学校種別に見てみると、小学校では C¹-D²が 52.4%で圧倒的に多いのが分かる。小学生
の音域に関しては、杉山知子・佐藤桂子・保田薫氏らの共同研究「音域幅と音の使用頻度
が歌唱に与える影響-小学校唱歌教材について-」253がある。この研究の中に、「唱歌教
材の音域」という表がある。小学校 4 年生から 6 年生の教科書に掲載されている音域を分
類したもので、その表でも「C¹-D²」の唱歌が圧倒的に多いことが分かる。
中学校に関しては、堀内秀治氏の「中学校の音域と混声合唱」254という報告がある。そ
れによると、
「発声法のあまり良くない場合」と「発声法の良い場合」と二つの調査をし、
比較検討を行なっている。校歌を歌うタイミングというのは行事の中に組み込まれている
ことが多いので、わざわざ発声を行なってから歌うわけではない。ここでは「発声法のあ
まり良くない場合」のデータを参考に論じたいと思う。沢山の生徒が出せる平均的な音域
は、一年生の一学期では男子は G-G¹(40%)で、女子は H-E²(40%)である。男女ともに変
声期前であることから全体的に高音傾向にある。しかし、三年生の一学期には、男子は C
-D¹(50%)になり、女子は A-D²(30%)、G-D²(30%)になる。男子の音域は変声期またぐ
ことにより音域が約 5 度も下がっている。男子の一年生の音域は、G-G¹が多くの生徒が出
せる音域の結果であるが、その結果を除けば、校歌の音域の結果である C¹-D²(41.5%)
は生徒らの音域でカバーできるので(三年生の男子の結果は 1 オクターブ低い C-D¹なの
で、校歌の音域の結果より低いが、歌うことができるということになる。
)歌いやすい音域
ということが分かる。
高等学校の音域は、は C¹-D²(22.7%)であり沢山の学校が歌っているという事が分か
ったが、次の C¹-Es(17.0%)²、D¹-E²(15.9%)、C¹-E²(11.4%)、B-Es²(8.0%)とあま
り変化がない結果になった。このことから、変声期が終わり、音程が安定し、男女共に音
域の幅が広がっても歌いこなすことができるということを示唆しているのではないだろう
か。
杉山知子・佐藤桂子・保田薫(1999)「音域幅と音の使用頻度が歌唱に与える影響-小
学校唱歌教材について-」
,美作女子大学・美作女子大学短期大学紀要
254 堀内秀治(1956)「中学校の音域と混声合唱」
,音楽教育
253
186
2-2-7)
前奏の小節数
前奏(全校)
200
前奏(戦前)
174
150
学
校 100
数
50
83
75
48
45
21
34
15
4小
節
6小
節
8小
節
5小
節
7小
節
9小
節
10
小
節
そ
の
他
0
10
8
学
6
校
4
数
2
0
8
4小節
70
60
50
学
40
校
30
数
20
10
0
165
150
学
校 100
数
50
82
69
46
45
21
33
15
他
の
節
節
8小節
5小節
12小節
23
26
23
10
8小節
6小節
5小節
30
81
学 60
校
数 40
20
25
学 20
42
30
その他
前奏(高等学校)
前奏(中学校)
80
1
63
4小節
そ
10
小
節
9小
節
7小
節
5小
節
8小
6小
4小
節
0
100
1
前奏(小学校)
前奏(戦後)
200
1
27
32
24
28
19
15
校 15
数 10
15
11
5
の
他
0
4小節
そ
節
7小
節
5小
節
8小
節
6小
4小
節
0
8小節
6小節
7小節
その他
まず、全校の結果で圧倒的に 4 小節が多いのということが分かる。この状況は、校歌の
小節数と関係がある。先の小節数の分析結果で、16~20 小節の校歌が多いということが判
明した。この結果に対し、論者は「(略) 多くの小節数は、1 フレーズ 4 小節にまとまり、
メロディーを形成する。
」と記述した。この 4 小節のメロディーの形成は、前奏でもいえる
ことであり、4 小節間の中で校歌を歌いだすタイミングを計るメロディーを形成すると考え
られる。
学校種別に見てみると、小学校、中学校、高等学校の結果は 4 小節が上位を占めている。
しかし、学校別に見てみると、小学校では 43.4%、中学校では 34.3%、高等学校では 21.6%
と 4 小節の割合が下降していく。特に高等学校では、6 小節と 8 小節が 17.0%、7 小節が
12.5%、その他の前奏数が 31.8%もあり、突出したまとまりが見受けられない。これは単
187
純に歌のタイミングを計るための前奏ではなく、前奏に曲想が付けられていると考えられ
る。その結果を裏付けるように、高等学校の小節数は 16~20 小節の結果が 88 校中 31 校
(35.2%)あるが、21~25 小節も 88 校中 31 校(35.2%)占めている。校歌自体に曲想が付
けられていることが示唆されているのではないだろうか。
第3節
結論
下總の校歌を大きく 7 つのカテゴリーに分けて分析を行なってみた。戦前の校歌が少な
く、分析立証するためのサンプリングとなる校歌の数が足りないのが残念であった。255し
かし、戦後の校歌からは下總の校歌の特質を幾つか見つけることができた。まず、調子の
設定である。ハ長調を用いている学校数が多いのは、調子の分析結果の項でも述べたが、
フラット系を用いている校歌数の多さは彼の特質ではないだろうか。さらに、主旋律のみ
の作曲ではなく、ハーモニーも作曲していたというところにある。ハーモニーがある学校
全てが、その通り歌っていたとは考えられないが、下總は多くの学校にハーモニーを付け
て作曲していたということは興味深い結果ではないだろうか。
学校種別では、下總は小学校、中学校、高等学校に合わせた校歌作りを行っていたとい
うことである。小学校では定型的に収まる形式の校歌作りをほとんどの学校で行なってい
た。その定型さが中学校、高等学校と進むにつれて自由な形式に変ってゆく。これは、上
級学校に上がるにつれて、生徒らの歌唱能力、表現能力の向上を下總は考慮して作曲して
いたということではないだろうか。
これらのことから、下總は生徒らのことを第一義と考え作曲を行なっていたと思われる。
これは下總の優しい人物像を表す一つの論拠になるのではないかと考えられる。
第3章
下總皖一略年表
下總皖一の生涯を記した年表は多々あるが、それらの年表の多くが『下總皖一誕生 90 年
特集』の年表を元に作成しているようである。今回は、彼の生涯と校歌の制定年を対比さ
せられるように上記の著書の年表と「おおとね童謡ふる里室」が発行している、
『下總唍一
全国校歌集』を元に作成した。さらに、論者が下總の研究をしていく中で見つけた新たな
校歌も少しばかりではあるが年表に記した。
255
「下總唍一略年表」を参照
188
作曲年月
明治31(1898)年
略歴
作曲した学校名
作詞者³
認可・制定年
代表作品・著書
3月31日、埼玉県原道村大字砂原75(現 加須市)に
父吉之丞、母ふさの二男として生まれる
明治43(1910)年 3月、原道村尋常小学校を 卒業
明治45(1912)年 3月、栗橋尋常高等小学校を 卒業
4月、埼玉県師範学校(現 埼玉大学)に入学
大正6(1917)年 3月、埼玉県師範学校本科一部を 卒業
4月、東京音楽学校師範科(現 東京芸術大学)に入学
大正9(1920)年 3月、東京音楽学校を 首席で卒業
4月、長岡女子師範学校に赴任
大正10(1921)年 1月、飯尾千代子と結婚
9月、秋田県立秋田高等学校へえ転任。
秋田県師範学校付属小学校でも教鞭を とる 。
大正11(1922)年
大正13(1924)年
4月、岩手県師範学校に転任。
ピ アノトリオを 結成し活発な演奏活動を 行なった。
9月、栃木県師範学校に転任。
千代子夫人病気がち のため伸枝と改名。
曲 ふくろ・きつつきさん・春のおとずれ
下總も覚三改め皖一を 名乗る 。本格的に作曲に取り組
む。
昭和2(1927)年 4月、私立成城小学校に勤務
4月、東京女子高等師範学校講師、
昭和3(1928)年 私立帝国音楽学校講師、
東京府立第九中学校に勤務
埼玉県熊谷市石原小学校
石坂養平
11月1日
埼玉県大利根町東小学校
館野善寿
12月16日
埼玉県加須市大越小学校
野中新平
昭和4年ごろ
東京都品川区源氏前小学校
岩佐東一郎
12月1日
曲 花と花・母・おる すゐ・子狐・お正月
11月、成城小学校を 退職
12月、帝国音楽学校を 退職
昭和4(1929)年 2月、武蔵野音楽学校講師
昭和6(1931)年 4月、私立日本中学校に勤務
昭和7(1032)年 2月、日本中学校退職
曲 スキー・ほたる ・電車ごっこ・
クラ リネットとピ アノのための三つの小品・
パッサカ リア
3月、武蔵野音楽学校退職
3月21日、文部省在外研究員として、作曲法研究のため
渡独。
ベルリン 国立ホッホシューレに入学。パウル・ヒン デミッ
ト教授に師事。
昭和8(1933)年
北海道江別市江別第三中学校
石森延男
10月31日
埼玉県さいたま市常磐小学校
下山懋
9月
昭和10(1935)年
埼玉県熊谷市奈良小学校
石坂養平
9月
昭和11(1936)年
埼玉県熊谷市熊谷東小学校
河野省三
1月
曲 春の雪・三重奏曲Ob, Cl, Fg
昭和12(1937)年
埼玉県小鹿野町小鹿野小学校
逸見宮吉
8月20日
曲 日本万国博覧会行進曲・旅人
昭和13(1938)年
埼玉県大利根町原道小学校
風巻景次郎
12月
曲 筝独奏のためのソナタ・著「作曲法」
昭和14(1939)年
埼玉県越谷市越谷小学校
下山懋
8月
昭和15(1940)年 文部省教科書編集委員となる 。
静岡県立榛原高等女学校
高野辰之
1月13日
岩手県立高田高等女学校
小田島孤舟
2月7日
長野県高森町高森南小学校
北原痴山
10月20日
埼玉県北川辺町北川辺西小学校
河野省三
12月28日
埼玉県立飯能高等女学校
五十嵐力
3月31日
埼玉県幸手市幸手商業高等学校
河野省三
4月1日
静岡県富士市吉原小学校
土井晩翠
8月15日
埼玉県川口市幸町小学校
栗原勇蔵
9月18日
埼玉県さいたま市河合小学校
下山懋
月日不明
東京電気工業学校
五十嵐力
月日不明
昭和9(1934)年
9月3日、滞独2年の留学を 終えて神戸港に帰着。
東京音楽学校講師になる 。
曲 ゆふかげ草
12月、助教授となる 。
曲 三味線協奏曲
著 「和声学」
曲 麥秋・二つのフリュートのための小組曲・
小三重奏曲・フリュートとクラ リネットのロ ン ド・
はなび・朝の歌・たなばたさま・長い道
昭和16(1941)年
曲 筝独奏のための舞曲・青い空・機械・野菊
曲 ピ アノのためのパッサカ リアと舞曲・
筝独奏のための変奏曲・幻想曲姫松・
母の歌
昭和17(1942)年 東京音楽学校教授となる 。
著 「音楽教育と和声学」
昭和18(1943)年
埼玉県さいたま市岩槻商業高等学校
下山つとむ
4月
昭和19(1944)年
埼玉県吉川町三輪野江小学校
土井晩翠
10月16日
189
著 「日本音階の話」
作曲年月
昭和21(1946)年
昭和22(1947)年
昭和23(1948)年
昭和24(1949)年
昭和25(1950)年
略歴
作曲した学校名
作詞者³
認可・制定年
福島県会津若松市会津第二高等学校
柳沢健
月日不明
岩館国民学校
小田島孤舟
月日不明
神奈川県金沢市味噌蔵町小学校
尾山篤二郎
4月1日
埼玉県羽生市手子林小学校
神保光太郎
7月7日
岩手県一関市厳美小学校
小田島孤舟
12月26日
栃木県上三川町上三川中学校
塚原平助
月日不明
栃木県宇都宮市西原小学校
笹川臨風
3月
岩手県花巻市湯本小学校
巽聖歌
7月
埼玉県羽生市須影小学校
宮澤章二
3月28日
埼玉県深谷市深谷第一l高等学校
勝承夫
4月1日
埼玉県川口市飯塚小学校
神保光太郎
5月22日
岩手県盛岡市下小路中学校
小田島孤舟
6月1日
埼玉県秩父市荒川西小学校
逸見喜一
9月28日
石川県能登町松波中学校
信原俊行
10月8日
埼玉県川口市芝中学校
芝中学校 撰
10月9日
新潟県三条市第二中学校
釈迢空
10月20日
埼玉県さいたま市原山中学校
下山懋
10月
富山県射水市放生津小学校
島木茂樹
11月3日
埼玉県さいたま市仲本小学校
下山懋
12月9日
埼玉県さいたま市埼玉大学教育学部付属小学校
服部嘉香
月日不明
福岡県北九州市美萩野女子高等学校
森英雄
月日不明
埼玉県久喜市久喜中学校
宮澤章二
1月1日
埼玉県さいたま市白幡中学校
下山懋
1月
栃木県宇都宮市桜小学校
大関博
5月1日
埼玉県さいたま市土合中学校
吉沢光平
5月25日
埼玉県さいたま市桜木中学校
下山懋
7月5日
新潟県十日町市貝野小学校
福原龍蔵
7月
愛知県名古屋市名古屋西高等学校
山崎敏夫
9月
埼玉県熊谷市大田小学校
下山つとむ
10月
長野県長野商業高等学校
高田浪吉
11月18日
長野県東御市称津小学校
正木不如丘
12月
愛知県蒲郡市蒲郡中学校
石森延男
月日不明
栃木県佐野市佐野高等学校
戸倉洋愛
月日不明
190
代表作品・著書
著 「作曲法」「作曲法入門」「楽典」
著 「楽典解説」「標準和声学「和声学」「模範
音楽通論」、
下總皖一混声合唱曲集10巻の出版始まる
作曲年月
昭和26(1951)年
略歴
作曲した学校名
昭和28(1953)年 上野学園大学講師となる
昭和29(1954)年
認可・制定年
松田覚神
2月5日
栃木県佐野市赤見中学校
勝承夫
2月10日
埼玉県春日部市春日部中学校
下山懋
3月
埼玉県さいたま市三橋中学校
下山つとむ
4月1日
埼玉県さいたま市大成中学校
辻幸雄
4月15日
栃木県佐野市葛生中学校
勝承夫
4月16日
栃木県佐野市北中学校
勝承夫
5月12日
石川県羽昨市羽昨高等学校
昭和27(1952)年
作詞者³
石川県金沢市鳴和中学校
折口信夫(釈迢
空)
6月10日
愛知県田原市福江高等学校
丸山薫
10月8日
茨城県日立市多賀高等学校
五味保義
10月12日
埼玉県蕨市第一中学校
下山懋
11月2日
埼玉県杉戸町杉戸中学校
下山懋
11月3日
佐賀県佐賀市佐賀大学文化教育学部付属中学校
近藤瞭也(内山良
11月3日
男 補作)
愛知県西尾市西尾高等学校
尾崎士郎
2月1日
秋田県鹿角市大湯小学校
石森延男
2月20日
栃木県足利市第二中学校
五味保義
3月8日
埼玉県さいたま市大宮南中学校
西角井正慶
3月23日
埼玉県日高市高麗川中学校
野々宮高成
3月28日
埼玉県鴻巣市鴻巣南小学校
服部嘉香
3月
島根県出雲市大社高等学校
竹友藻風
3月
栃木県宇都宮市横川中央小学校
山口一夫
3月
東京都杉並区神明中学校
勝承夫
4月1日
栃木県宇都宮市雀宮南小学校
大関博
5月13日
東京都葛飾区青戸小学校
勝承夫
11月6日
岩手県大船渡市赤崎中学校
石井昌光
12月6日
埼玉県北本市中丸小学校
服部嘉香
月日不明
埼玉県羽生市三田ヶ谷小学校
宮澤章二
月日不明
岩手県八幡平市松野小学校
小田島孤舟
月日不明
愛知県田原市成章高等学校
石森延男
月日不明
京都府舞鶴市西舞鶴高等学校
四方重衛
月日不明
石川県金沢市金沢大学付属高等学校
室井犀星
1月19日
長野県佐久市中込小学校
石森延男
1月
北海道旭川市北星中学校
石森延男
1月
埼玉県さいたま市日進小学校
下山つとむ
2月7日
栃木県矢板市矢板中学校
石森延男
2月11日
埼玉県幸手市幸手中学校
下山懋
2月18日
栃木県大平町大平中学校
勝承夫
2月28日
埼玉県久喜市久喜高等学校
西角井正慶
2月
愛知県清須市新川中学校
山崎敏夫
6月1日
北海道余市町黒川小学校
石森延男
9月17日
岩手県盛岡市手代森小学校
小田島孤舟
9月
岩手県岩泉町岩泉高等学校
小田島孤舟
10月
福島県湯川村勝常小学校
白岩和夫
11月23日
東京都小平市小平第一中学校
勝承夫
11月26日
青森県種差小学校
佐藤春夫
12月3日
埼玉県さいたま市大宮東小学校
下山懋
12月9日
長野県須坂市小山小学校
石森延男
月日不明
岩手県一戸町奥中山小学校
東山重雄
1月16日
栃木県日光市小来川中学校
小川実
1月29日
岐阜県岐阜市木之本小学校
石森延男
2月21日
大分県大分市大分舞鶴高等学校
石森延男
3月1日
埼玉県草加市草加小学校
勝承夫
3月19日
埼玉県さいたま市大戸小学校
下山つとむ
3月25日
栃木県那須塩原市黒磯高等学校
勝承夫
3月
島根県津和野市津和野中学校
森於莬
4月1日
香川県丸亀市東小学校
石森延男
10月30日
新潟県新潟市新津第五中学校
勝承夫
11月3日
191
代表作品・著書
著 「音楽理論」「対位法」
曲 秋のしらべ・秋くさ
著訳 「作曲の手引き」
曲 お猿・いづみの歌
著 「音楽の辞典」「随筆歌ごよ み」
作曲年月
略歴
昭和29(1954)年
作曲した学校名
埼玉県飯能市原市場中学校
昭和30(1955)年 11月、文部省教科書調査委員となる
昭和31(1956)年 10月、東京芸術大学音楽学部長となる
作詞者³
校歌制定委員会
(松田蘭風 補作)
認可・制定年
代表作品・著書
11月23日
青森県三戸中学校
石森延男
11月29日
埼玉県さいたま市上落合小学校
下山つとむ
月日不明
神奈川県横浜市東台小学校
藪田義雄
月日不明
埼玉県草加市谷塚小学校
梅田能清
月日不明
福島県須賀川市仁井田小学校
勝承夫
月日不明
神奈川県川崎市西中原中学校
早川富潤
1月8日
神奈川県川崎市稲田中学校
安藤壮一
2月12日
栃木県塩原町塩谷中学校
勝承夫
3月17日
福島県郡山市御舘小学校
勝承夫
3月24日
埼玉県行田市長野中学校
宮澤章二
5月23日
埼玉県草加市高砂小学校
勝承夫
5月28日
長野県上田市東小学校
石森延男
7月19日
埼玉県越谷市南中学校
下山つとむ
7月20日
埼玉県羽生市村君小学校
不明
8月15日
栃木県佐野市山形小学校
石森延男
10月3日
埼玉県蕨市南小学校
栗原勇蔵
11月22日
岩手県釜石市鵜住居小学校
藤井逸郎
11月
茨城県古河市古河第二高等学校
五味保義
12月7日
和歌山県和歌山市青陵高等学校
竹中郁
初頭制定
埼玉県伊奈町伊奈中学校
勝承夫
月日不明
埼玉県秩父市南小学校
清水重道
2月11日
大阪府大阪市夕陽丘中学校
小野十三郎
2月13日
三重県津市津商業高等学校
勝承夫
2月28日
埼玉県蕨市第二中学校
堀内敬三
3月5日
栃木県日光市足尾小学校
河西新太郎
3月10日
香川県直島町直島中学校
石森延男
4月1日
栃木県小山市網戸小学校
大関博
7月6日
埼玉県蕨市北小学校
清水重道
8月
京都府綾部市南北中学校
小島吉雄
8月
栃木県日光市足尾中学校
勝承夫
9月10日
北海道美深町北海道美深高等学校
勝承夫
9月15日
栃木県矢板市矢板小学校
石森延男
10月
福井県福井市藤島高等学校
熊谷太三郎
11月
栃木県宇都宮市星が丘中学校
勝承夫
11月28日
栃木県宇都宮市姿川第二小学校
勝承夫
11月
愛媛県松山市愛媛大学
井出淳二郎
月日不明
著 「作曲への道」「楽典新書」
昭和32(1957)年
昭和33(1958)年 1月、東京国立文化財研究所芸能部長となる
栃木県鹿沼市西中学校
宮澤章二
1月19日
埼玉県羽生市井泉小学校
宮澤章二
1月
埼玉県東松山市野本小学校
勝承夫
2月1日
埼玉県蕨市蕨高等学校
勝承夫
2月27日
千葉県八千代市八千代台小学校
三浦勇助
2月
東京都江戸川区小松川小学校
石森延男
3月3日
栃木県宇都宮市東小学校
勝承夫
3月24日
静岡市熱海市第二小学校
土岐善磨
3月
岡山県山口市湯田中学校
藤晃太郎
3月
埼玉県深谷市桜ヶ丘小学校
綱島憲次
4月18日
北海道室蘭市室蘭大谷高等学校
石森延男
4月
三重県津市大井小学校
奥田慶一
4月
長崎県佐世保市佐世保女子高等学校
久田タケ
5月7日
埼玉県東松山市唐視子小学校
勝承夫
7月6日
栃木県岩舟町清和小学校
泉漾太郎
9月19日
埼玉県戸田市戸田第二小学校
栗原勇蔵
10月1日
埼玉県坂戸市住吉中学校
勝承夫
10月20日
埼玉県川島町中山小学校
勝承夫
10月
栃木県宇都宮市姿川第一小学校
三日月朗
11月15日
「対位法新書」「和声法新書」
曲 村雨
著 「楽式論新書」、
共訳 「ニ声部楽曲の練習書」
11月、文部省視学委員となる
192
作曲年月
略歴
昭和33(1958)年
作曲した学校名
作詞者³
認可・制定年
栃木県宇都宮市陽西中学校
宮澤章二
11月21日
栃木県都賀町合戦場小学校
勝承夫
11月25日
福岡県久留米市南筑高等学校
二宮龍雄
昭和33年~昭
和35年頃制定
6月1日、東京芸術大学音楽学部長を 辞任。
昭和34(1959)年
教授として逝去まで同大学に在勤
昭和35(1960)年
昭和37(1962)年 7月8日、胆石、肝臓ガン 、肝硬変の悪化で他界
代表作品・著書
著 「和声学」
長野県小諸市野岸小学校
石森延男
3月4日
埼玉県さいたま市和土小学校
下山つとむ
3月15日
栃木県野木町野木中学校
大関博
3月
長崎県松浦市今福小学校
校歌制定委員会 6月13日
神奈川県相模原市谷口台小学校
石森延男
9月6日
埼玉県蕨市東小学校
栗原勇蔵
10月2日
長野県岡谷市小井川小学校
不明
11月2日
新潟県柏崎市第三中学校
宮澤章二
11月3日
埼玉県深谷市深谷西小学校
綱島孤愛
1月11日
埼玉県ふじみ野市福岡小学校
萩原伸二郎
5月26日
埼玉県さいたま市指扇小学校
岡田正平
12月8日
昭和39(1964)年
埼玉県深谷市豊里中学校
綱島憲次
4月1日
昭和45(1970)年
北海道浦臼町浦臼小学校
石森延男
11月20日
行を 参考
発行を 参考
193
著 「日本音階と民謡の研究」
「作曲法新書」
著 「合唱編曲法」
[下總が作曲をした制定年不明の校歌]
作曲した学校名
作詞者
愛知県名古屋市愛知工業大学名電高等学校
久徳高々
愛知県名古屋市菊里高等学校
不明
石川県輪島市大屋小学校
不明
岩手県一関市大原中学校
宮澤章二
岩手県一関市千厩高等学校
星野菊己
岩手県大槌町安渡小学校
小田島孤舟
岩手県八幡平市松尾中学校
小田島孤舟
岩手県花巻市花巻小学校
小田島孤舟
岩手県宮古市鍬ヶ崎小学校
小田島孤舟
愛媛県新居浜市北中学校
勝承夫
岡山県瀬戸内市裳掛小学校
黒田拓之
岡山県高梁市高梁中学校
米川正夫
鹿児島県薩摩川内市川内高等学校
不明
高知県香南市城山高等学校
不明
埼玉県上尾市上尾中学校
二宮龍雄
埼玉県栗橋町南小学校
高梁郁
埼玉県さいたま市岩槻中学校
下山懋
埼玉県さいたま市浦和西高等学校
不明
埼玉県さいたま市大原中学校
深見金二
埼玉県さいたま市柏崎小学校
不明
埼玉県さいたま市片柳小学校
下山つとむ
埼玉県さいたま市与野東中学校
下山懋
埼玉県秩父市秩父第一中学校
不明
埼玉県秩父市花の木小学校
不明
埼玉県鳩ヶ谷市鳩ヶ谷小学校
不明
埼玉県羽生市羽生実業高等学校
不明
埼玉県深谷市藤沢小学校
不明
埼玉県本庄市児玉高等学校
不明
埼玉県和光市大和中学校
不明
埼玉県蕨市中央小学校
不明
白梅学園短期大学
栗田道子
東京水産大学
勝承夫
徳島県板野町板野高等学校
二宮龍雄
栃木県足利市葉鹿小学校
小林政一
栃木県宇都宮市今泉小学校
小林友雄
栃木県上三川町本郷小学校
泉漾太郎
栃木県小山市間々田中学校
小川てい
栃木県佐野市吾妻小学校
岩本平太郎
栃木県佐野市出流原小学校
勝承夫
栃木県鹿沼市津田小学校
阿部豊三郎
栃木県下野市国分寺中学校
勝承夫
長崎県五島市福江中学校
斉藤清衛
長野県東御市東御清翔高等学校
正木不如丘
新潟県燕市吉田小学校
不明
新潟県長岡市宮内中学校
勝承夫
新潟県新潟市沼垂幼稚園
江口政二郎
広島県東広島市賀茂高等学校
葛原しげる
福井県福井市明道中学校
勝承夫
福島県会津坂下町坂下小学校
柳沢健・牧山伸
北海道興部町北海道興部高等学校
勝承夫
北海道釧路市北海道釧路商業高等学校
不明
宮城県蔵王町円田中学校
不明
宮崎県国富町本庄高等学校
不明
山口県下関市小月小学校
有光憲章
山梨県甲府市湯田小学校
向井房恵
山梨県山梨市加納岩小学校
石森延男
194
統合準備会で話し合われた校歌の要点記録
第一回
光が丘四季の香小学校
光が丘春の風小学校
光が丘夏の雲小学校
光が丘秋の陽小学校
(光が丘第一小学校・光が丘第二小学校)
(光が丘第三小学校・光が丘第四小学校)
(光が丘第五小学校・光が丘第六小学校)
(光が丘第七小学校・田柄第三小学校)
平成 20 年 5 月 29 日
平成 20 年 5 月 22 日
平成 20 年 5 月 23 日
平成 20 年 5 月 27 日
校歌の話し合いなし
校歌の話し合いなし
校歌の話し合いなし
校歌の話し合いなし
(主に、顔合わせ・統合準備会の概要・
(主に、顔合わせ・統合準備会の概要・
(主に、顔合わせ・統合準備会の概要・
(主に、顔合わせ・統合準備会の概
スケジュールの確認)
スケジュールの確認)
スケジュールの確認)
要・スケジュールの確認)
統合準備会の設置目的(共通事項)事務局説明
・統合までの 2 年間、統合新校の開校に向けた課題について協議するため、統合の組み合わせごとに統合準備会を設置する。
・統合準備会では、統合新校の統合新校の校名・校歌・校章、交流活動、通学路の安全確保、学校指定用品、歴史の保存、校舎の改修などを協議する。
・統合に関する最終決定は、教育委員会や区議会にあるが、統合準備会は、保護者や地域の方々の意見を反映させるための話し合いの場である。
・統合準備会での協議の過程や決定事項については、適宜、教育委員会へ報告する。
・統合準備会委員の任期は、平成 20 年 5 月 29 日から平成 22 年 3 月 31 日までとする。
・統合対象校の校長、副校長、教職員を構成員とする教職員連絡会の組み合わせごとに設置し、統合新校の教育目標、教育課程および交流活動などについて検討していく。統合準備会
と教職員連絡会は、相互に報告を行い、教育委員会はこれらを調整していく。
統合準備会の検討スケジュール(共通事項)
・スケジュールは、統合準備会の検討状況によって変更もある。また、開催間隔は、1~2 ヶ月に 1 回程度を想定。最初は校舎の改修、歴史の保存から検討を始めたい。
・校名については、今年度中に意見をまとめてもらい、校歌、校章、校旗については、来年度に検討したい。
・交流活動については、学校同士が話し合って取り組んでいくが、適宜、統合準備会で報告し、要望をお聞きしたい。
・学校指定用品については、買い替えが必要なものは区が負担するので、来年度予算に間に合わせるために、10 月ごろ意見を取りまとめていきたい。
第二回
同年 6 月 27 日
校歌の話し合いなし。
(主に、閉校に伴う歴史の保存・統合
195
同年 6 月 22 日
校歌の話し合いなし。
(主に、閉校に伴う歴史の保存・統合新校の
同年 6 月 23 日
校歌の話し合いなし。
(主に、閉校に伴う歴史の保存・統合新
同年 7 月 2 日
校歌の話し合いなし。
(主に、閉校に伴う歴史の保存・統
新校の大規模改修工事について話し合
大規模改修工事について話し合う)
校の大規模改修工事について話し合う)
う)
第三回
同年 7 月 18 日
し合う)
校歌の話し合いなし。
同年 7 月 28 日
校歌の話し合いなし。
同年 7 月 29 日
校歌の話し合いなし。
同年 8 月 4 日
校歌の話し合いなし。
(主に、閉校に伴う歴史の保存・統合
(主に、閉校に伴う歴史の保存・統合新校の
(主に、閉校に伴う歴史の保存・統合新
(主に、閉校に伴う歴史の保存・統
新校の大規模改修工事について話し合
大規模改修工事について話し合う)
校の大規模改修工事について話し合う)
合新校の大規模改修工事について話
う)
第四回
合新校の大規模改修工事について話
同年 9 月 29 日
し合う)
校歌の話し合いなし。
同年 9 月 22 日
校歌の話し合いなし。
同年 9 月 24 日
校歌の話し合いなし。
同年 9 月 30 日
校歌の話し合いな
(主に、学校指定用品の公費負担・統
(主に、学校指定用品の公費負担・統合新校
(主に、学校指定用品の公費負担・統合
し。
合新校の校名の選定について話し合
の校名の選定について話し合う)
新校の校名の選定について話し合う)
(主に、学校指定用品の公費負担・
う)
統合新校の校名の選定について話し
合う)
第五回
同年 11 月 4 日
校歌の話し合いなし。
同年 11 月 7 日
校歌の話し合いなし。
同年 11 月 10 日
校歌の話し合いなし。
同年 11 月 6 日
校歌の話し合いな
(主に、学校指定用品の公費負担・統
(主に、学校指定用品の公費負担・統合新校
(主に、学校指定用品の公費負担・統合
し。
合新校の校名の選定について話し合
の校名の選定について話し合う)
新校の校名の選定について話し合う)
(主に、学校指定用品の公費負担・
う)
委員→最終的に校名が決定する平成 21 年 6
統合新校の校名の選定について話し
月以降に、校歌や校章を検討して、22 年 4
合う)
月の開校までに準備は間に合うのか。
事務局→正式に校名が決まる前であっても、
校名候補の段階で校歌・校章を検討すること
は可能なので、開校に間に合わせる。
第六回
196
同年 12 月 2 日
校歌の話し合いなし。
同年 12 月 1 日
校歌の話し合いなし。
(主
同年 12 月 4 日
校歌の話し合いなし。
同年 12 月 8 日
校歌の話し合いな
(主に、統合新校の校名の選定につい
に、統合新校の校名の選定について話し合
(主に、統合新校の校名の選定について
し。
(主に、統合新校の校名の選定に
て話し合う)
う)
話し合う)
ついて話し合う)
第七回
平成 21 年 2 月 19 日
校歌の話し合い
平成 21 年 2 月 17 日
校歌の話し合いなし。
校歌の話し合いな
平成 21 年 2 月 18 日
校歌の話し合
なし。
(主に、統合新校の校名の選定について話し
し。
いなし。
(主に、統合新校の校名の選定につい
合う)
(主に、統合新校の校名の選定について
(主に、統合新校の校名の選定につ
話し合う)
いて話し合う)
て話し合う)
第八回
平成 21 年 2 月 20 日
同年 3 月 5 日
校歌の話し合いなし。
同年 3 月 11 日
校歌の話し合いなし。
同年 3 月 9 日
校歌の話し合いなし。
同年 3 月 4 日
校歌の話し合いなし。
(主に、統合新校の校名の選定につい
(主に、統合新校の校名の選定について話し
(主に、統合新校の校名の選定について
(主に、統合新校の校名の選定につ
て話し合う)
合う)
話し合う)
いて話し合う)
委員→校歌の歌詞に入れやすい校名
がよい。例えば「光が丘秋の陽」は、
歌詞として長すぎる。
第九回
同年 3 月 26 日
校歌の話し合いなし。
同年 3 月 23 日
校歌の話し合いなし。
同年 3 月 30 日
校歌の話し合いなし。
同年 3 月 27 日
(主に、統合新校の校名の選定につい
(主に、統合新校の校名の選定について話し
(主に、統合新校の校名の選定について
し。
て話し合う)
合う)
話し合う)
(主に、統合新校の校名の選定につ
いて話し合う)
197
校歌の話し合いな
第十回
198
同年 5 月 11 日
同年 5 月 13 日
同年 5 月 14 日
同年 5 月 12 日
(主に、学校指定用品の公費負担・統
(主に、学校指定用品の公費負担・統合準備
(主に、学校指定用品の公費負担・統合
(主に、学校指定用品の公費負担・
合準備会の検討スケジュール・統合新
会の検討スケジュール・統合新校の校章・校
準備会の検討スケジュール・統合新校の
統合準備会の検討スケジュール・統
校の校章・校歌の検討・統合新校の改
歌の検討・統合新校の改修工事・学校跡施設
校章・校歌の検討・統合新校の改修工事・
合新校の校章・校歌の検討・統合新
修工事・学校跡施設活用について話し
活用について話し合う)校章・校歌の完成ま
学校跡施設活用について話し合う)校
校の改修工事・学校跡施設活用につ
合う)校章・校歌の完成までの流れを
での流れを説明し、サンプルとして他校の選
章・校歌の完成までの流れを説明し、サ
いて話し合う)
説明し、サンプルとして他校の選定方
定方法の説明を行った。また、校章・校歌は
ンプルとして他校の選定方法の説明を行
事務局→校歌についてだが、校歌そ
法の説明を行った。また、校章・校歌
公募による選定ということで、募集時期の話
った。
のものを募集するのは難しいと思わ
は公募による選定ということで、募集
し合いがもたれた。
委員→専門家に作詞・作曲を依頼する場
れる。校歌に入れたい言葉とかフレ
時期の話し合いがもたれた。
委員→校歌は、統合新校の開校前に完成させ
合、経費の面が心配だ。制作にかかる予
ーズを収集し、それを統合準備会の
委員 →事務局が想定している募 集期
る必要はあるか。
算を確保しているのか。
ほうで絞り込む形で考えている。た
間を教えてもらいたい。
事務局→開校前に校歌がなくても、学校の運
事務局→校歌の作詞・作曲にかかる経費
だ、作曲、作詞となると専門的にな
事務局→21 年 6 月中旬から 7 月中旬
営上支障はない。しかし、せっかく新校の開
は、1 校あたり 200 万円を限度、校章の
るので。準備会である程度絞り込ん
までの約 1 カ月を予定している。
校に向けて統合準備会で協議しているので、
デザイン補正に要する経費も同様に、1
だ、言葉とかフレーズ等について専
委員→校章と校歌の公募は同時期か。
開校前に製作していきたいと考えている。
校あたり 25 万円を限度に予算計上して
門家に依頼し、作詞、作曲をお願い
事務局→同時期に行う予定である。
委員→校章図案の補正および校歌の作詞・作
いる。
したいと考えている。校章の図案の
会長 →統合新校の校名が正式に決定
曲についてはどれほどの予算があるのか。
会長→他区では、統合新校の校歌の歌詞
収集等、校歌の言葉・フレーズ等の
するのは 6 月 17 日(水)なので、募
事務局→1 校あたり、校章図案の補正に 25
に入れたい言葉やフレーズを募集し、そ
収集の方法について、事務局として
集期間は早くとも 6 月 18 日(木)以
万円、校歌の作詞に 100 万円、作曲に 100
れらをもとに作詞家・作曲家に依頼する
は 公 募を 前 提に した いと 考 えて い
降となる。
万円を計上している。
という方法がとられていることが多いよ
る。
委員 →校章図案の募集期間が1ヶ月
委員→作詞家および作曲家の人達は、どのよ
うだが、同様の方法でよいか。
副会長→今の説明について、意見、
では、十分とはいえない。公募範囲を
うに行うのか。
委員→公募以外の方法があるのか。
質問はあるか。委員→校名の決定が 6
広げないと、応募数を確保できないと
事務局→統合準備会の協議で決定してもら
会長→校歌の制作を全て専門家に依頼す
月 17 日の議会が最終日だが、決定前
199
思う。
いたい。
る方法や、児童や教職員など学校関係者
に募集をしていくのか。
事務局 →できるだけ多くの図案を募
会長→予算額を念頭に置いたうえで協議し
で、ある程度の形を作っていくという方
事務局→今日は、まず校章・校歌の
集するという観点から、公募範囲は全
てもらいたい。
法があると思う。
検討方法である。事務局が考えてい
区的にしたいと考えている。地域性を
委員→予算額は妥当な金額である。光が丘地
副会長→光六小では、校歌の歌詞を募集
るのは、公募する場合には確かに議
重視するか否かは、募集後に判断して
区には、著名なデザイナー、作詞家、作曲家
した後、校内で設置した選定委員会での
会の決定がないと具合が悪いので、6
もよいのではないか。なお、地域にわ
が数多くいる。また、区内には日本大学芸術
検討での結果、当時の保護者である新山
月 17 日の直後あたりから公募をかけ
かりやすく周知するために、4 つの統
学部や武蔵野音楽大学もある。作成依頼を引
氏のものが採用された。なお、発表にあ
るというようなスケジュールで考え
合準備会が公募範囲や応募方法を統一
き受けてもらえるかという課題はあるもの
たっては、作曲の際に歌詞が多少修正に
ている。
したほうがよいと考えている。
の、人材という点では問題ない。
なる場合がありうるということを説明し
委員→わかった。
委員 →校章図案には専門的な技術等
会長→校歌に入れたい言葉やフレーズを公
ている。応募作品は、コメントを付けて
副会長→例えば今の校章を見てもら
が必要となるため、全区的に公募する
募することについて、意見を述べてもらいた
保護者に配布している。
うと、光七小は昭和 60 年 4 月 1 日に
ことに賛成だ。校歌の公募範囲につい
い。
会長→光五小では、専門家が補正したと
開校したが、校章ができたのはその
ても同様の考えでよいか。
委員→校歌は、校章図案と異なり専門性は必
いう経緯はなく、学校の中で校歌をまと
年の 7 月だ。だから開校したときに
事務局 →校章と校歌を同時期に公募
要ないので、公募範囲は、児童・保護者・光
めあげたということだ。
はなくて、その後決めていったよう
するのであれば、公募範囲も同じよう
が丘およびその周辺地域でよい。
委員→両校の校歌制作の経緯をすり合わ
だ。田柄三小もそうだ。昭和 52 年 4
にしたほうが応募者にとって分かりや
会長→校歌は開校前に完成させるというこ
せるのは難しいので、公募にしたほうが
月 1 日に開校したが、校章が決まっ
すいと思う。
とでよいか。
いい。また、校章や校歌の募集が 6 月 17
たのは 7 月になった。校歌も同じよ
会長 →校章図案および校歌に入れた
委員→両校の児童が、統合新校への期待を膨
日の議会での議決後だとすると、検討の
うに、校章と合わせて 7 月ごろにな
い言葉・フレーズは公募するというこ
らませることができるよう、校歌は開校前に
期間が短くなる。したがって、円滑に進
っている。このような形だが、今回
とでよいか。(異議なし)
完成させるべきだ。そのための最大限の努力
むよう初めは校歌のフレーズを募集した
は新たに学校をつくるというのでは
委員→公募後、校章図案と校歌の言葉
をすることが大人の義務だと思う。
らどうか。
なく、今ある学校が合わさって新し
について、児童に人気投票を行ったら
会長→統合準備会では、開校前に校歌を完成
委員→校章・校歌の募集の範囲をどこま
くスタートする。今の事務局の説明
どうか。
できるよう、最大限の努力をしていきたい。
でとるかというのは、今後、検討してい
では、新しい学校ができてから決め
会長→1 年生は難しいかもしれない。
事務局→本日の協議を踏まえて、次回の統合
くのか。
るのではなく、今年のうちに決めて、
事務局 →応募された案の絞り込み方
準備会では、校章・校歌に関するより具体的
会長→校名の募集では、統合対象校の児
新校がスタートしたときには校帽に
法については、今後、統合準備会で決
な応募方法等について提案する。
童、保護者、地域住民を対象としていた。
も、体育着にも校章を入れて。スタ
地域については、積極的に募集の周知は
ートできたらということのようだ。
しなかったが、住所を記入することが義
校章とか校歌を統合新校が開校する
務付けられていなかったので、他の地域
前、今年のうちに検討し、制作する
の人でも募集できる状況ではあった。
ことについてはどうかということが
事務局→基本的には、校名の募集と同様
1点目。このあたりはどうか。事務
の範囲を考えている。ただ、校章の図案
局としては、開校する前に決めてい
を募集するにあたっては、区報やホーム
くということだが、この進め方でよ
ページを通じて募集を周知をするなど、
いか。(異議なし)
募集の範囲を広げたらどうかと思う。ま
副会長→今度は、校歌も校章もそう
めていただきたい。
た、各統合準備会での募集の方法や範囲
等は、校名の募集と同様に統一したほう
が地域の方々にとって理解しやすいので
だが、校章の場合は田柄三小の場合
は 6 年生の児童が出した原案を、保
護者で専門家だった方に依頼して完
成させてもらった。校歌を見ていた
だくと、光七小の校歌もそうだが、
はないかと考えている。
児童文学者の方が校歌つくってくだ
会長→募集の方法は、4 つの統合準備会
さっている。田柄三小にしても光七
で統一したほうがよいとのことだった
小にしても、そういう専門家がいれ
ば 力 を借 り てと いう こと も でき る
が、他の統合準備会での協議状況はどう
が、今のところ事務局としてはどこ
か。
にだれがいるかということもわから
ない。とりあえず校章については図
事務局→校章・校歌を公募することを確
認しており、次回、事務局が具体的な提
案をすることになっている。
200
案を公募でもして、あとは専門家に
完成してもらう。それから校歌につ
いては全部をつくるといても難しい
ので、こんなような言葉を入れたい、
会長→他の統合準備会でも、公募とし、
募集の範囲は、校名の募集と同様に児
童・保護者・地域とするという流れにな
っているとのことだ。先ほどの意見は、
こんなフレーズを入れたいというよ
うなことを公募していったらどうだ
ろうという提案だが、このあたりに
ついてはどうか。地域にこういう人
がいるから、公募しないでぜひお願
特に校章の検討スケジュールについては
いしたいとか、何かそういうような
難しいのではないかということである。
方がいるか。開校当時の経緯をご存
議会で校名が決定される 6 月 17 日以降
知の方はいるか。
からでないと、校章と校歌の募集はでき
ないということか。
事務局→募集期間は、募集期限が夏休み
委員→私の兄が、田柄三小の最初の
父母会の会長をやっていたから、兄
のほうがよく知っていると思う。副
会長→他にはどうか。
前で、なおかつ 1 か月間の募集期間がと
委員→デザインをしてくれるような
れる範囲は、校名が決定する 6 月 17 日
方は、わからない。
以降の 6 月中旬から夏休み前の 7 月中旬
副会長→今日、確認しておきたいの
である。議会での議決後だとすると、検
討の期間が短くなる。したがって、円滑
は、校章の図案、それから校歌につ
いてはフレーズ関係を公募して、そ
れを専門家に完成させてもらうとい
に進むよう初めは校歌のフレーズを募集
うような方向でいきたいという提案
したらどうか。
だが、このあたりはよろしいか。
委員→校章・校歌の募集の範囲をどこま
委員→今の質問とはちょっとずれて
でとるかというのは、今後、検討してい
くのか。
しまうが、スケジュールだと校章と
校歌が同じようにスタートしていく
形だが、これから決めていくに当た
会長→校名の募集では、統合対象校の児
って校章と校歌を同時進行していく
童、保護者、地域住民を対象としていた。
ような形になるのか。募集する時期
地域については、積極的に募集の周知は
しなかったが、住所を記入することが義
とか、公募に関して決定していく時
期が今のスケジュールだとほぼ一緒
だが、どういう形でやっていくのか。
務付けられていなかったので、他の地域
副会長→スケジュールを見てもらえ
の人でも募集できる状況ではあった。
ばわかるが、例えば公募するには何
か月かかかる。最初からだれかに頼
201
事務局→基本的には、校名の募集と同様
の範囲を考えている。ただ、校章の図案
を募集するにあたっては、区報やホーム
ページを通じて募集を周知をするなど、
むのであればそうでもないが、だか
ら、ここである程度、このような方
向でということが決まれば、スケジ
ュールもはっきりしてくる。校章を
急いでいるのは、いろんなところに
募集の範囲を広げたらどうかと思う。ま
影響する。要するに、一番時間がか
た、各統合準備会での募集の方法や範囲
かるのは校旗。校旗は刺繍なんかが
等は、校名の募集と同様に統一したほう
いっぱいあって、100万円以上す
が地域の方々にとって理解しやすいので
はないかと考えている。
る。発注して作ってもらうとか、体
育館のステージなんかにもある。そ
れから、子供たち一人ひとりに配る
会長→募集の方法は、4 つの統合準備会
帽子にもつけるとなると、色や形を
で統一したほうがよいとのことだった
決めて、業者に作ってもらわなけれ
が、他の統合準備会での協議状況はどう
か。
ばならない。それを校章に入れても
らうようなことにねると。やはり9
月ぐらいまでに校章は決まっていな
事務局→校章・校歌を公募することを確
いと。
認しており、次回、事務局が具体的な提
委員→自分は田柄第二小学校を卒業
案をすることになっている。
した。第2回卒業生だが、そのとき
会長→他の統合準備会でも、公募とし、
に校章も校歌も自分たちが卒業する
までにできていなかった。だから、
募集の範囲は、校名の募集と同様に児
できていなくても慌てなくてもいい
童・保護者・地域とするという流れにな
という気もするし、例えば、これを
っているとのことだ。先ほどの意見は、
専門家に任せるというならば、区の
特に校章の検討スケジュールについては
難しいのではないかということである。
予算というのもあると思う。予算は
大体このぐらいだとかいうのをお聞
かせ願えればありがたい。
議会で校名が決定される 6 月 17 日以降
副会長→先ほど確認したが、できれ
からでないと、校章と校歌の募集はでき
ば新校がスタートするまでに、要す
ないということか。
るに今年度のうちに校章と校歌につ
事務局→募集期間は、募集期限が夏休み
いてという話をしたが、それに反対
というわけではないよね。もし間に
202
前で、なおかつ 1 か月間の募集期間がと
合わないのだったらという程度でよ
れる範囲は、校名が決定する 6 月 17 日
いか。今年検討して何とかしたいと
以降の 6 月中旬から夏休み前の 7 月中旬
いうことについて反対しているわけ
である。このような考え方で今後、具体
的な提案をさせていただきたい。
ではないので、それはそれで確認し
てよいか。
委員→結構だ。
会長→事務局は、次回の統合準備会で、
副会長→費用というのは例えば校歌
具体的な募集方法を提案してもらいた
をつくるのに区としては幾らまで用
い。
委員→「9 月まで」とは、9 月 1 日まで
を指すのか、9 月 30 日までを指すのか。
意してあるのと。そういうことか。
委員→専門家に作曲をすべて任せる
とするならば、どのくらいまでの予
算があるのか。
事務局→9 月 30 日までだ。
副会長→細かく校歌に幾ら、何に幾
委員→統合新校の校章・校歌を作成する
らとなっているのか。それとももっ
にあたって、両校の教職員から職員会議
等で何か意見は出ているのか。児童が統
と大枠なのか、答えられる範囲でお
願いする。
事務局→校歌の予算の組み方だが、
合新校に関心を持って取り組めるので、
作詞と作曲を分けて考えている。予
用職員の意見を校章・校歌に反映させて
算的には100万円ずつ、校歌に関
もいいのではないかと思う。校名の候補
して200万円を見ている。それか
が決定したということは、教職員に伝え
てあるということでよいか。
ら校章に関してはデザインの補正、
最終的にデザインしていただくが、
それについては概ね、一校25万円
会長→校名の候補が決定したことは伝え
で見ている。
てあるが、校歌・校章への教職員の意見
副会長→作詞100万円、作曲10
は聞いていない。
0万円。その他100万円というの
委員 →教職員に意見を聞くべきだと思
う。教職員が関心を持っていないのは寂
は相当高いものか、専門家のどのく
らいの人たちに頼めるような額なの
か、わからないが。事務局、何かあ
しい。
るか。
副会長→新設校の場合なら児童、保護者、
事務局→区の予算というのは枠とし
て確保している。マックスと考えて
203
教職員が協力して取り組めるが、今回は
いただきたい。また、お知り合いの
統合準備会で校章・校歌を決定するとい
方などでご紹介いただいたら、この
う流れになっているので、教職員は意見
を発言しにくい。したがって、実際に教
方だったら安くということであれば
その値段でお願いしたいと思うし、
これは考え方としては区のほうでは
職員に意見を聞くことは難しい。
そのくらいまでお金が用意している
委員→新しい学校が開校するにあたり、
という額だ。
教職員の意見が出ないのは違和感があ
る。
事務局→校名の募集では、教職員は地域
委員→校名も決めるときも、いろい
ろ意見を出し合った結果こうなった
ということで、やはり校歌も校章も
みんなの見える部分が多くあるほう
住民の枠で応募して差し支えないと考え
がいいと思う。公募で、今、こんな
ていたので、実際に応募した人もいたの
ことになっているとか、思っていて
かもしれない。校章・校歌の募集にあた
っては、他区でも募集の対象者に教職員
も意見の出せない人もいるが、思う
ということも大事だし、表すことは
もっと大事だ。やはり、関わりをも
を明記している事例がある。特に、専科
っていった中で決めていったほうが
の教員による応募は、歓迎すべきだと考
よいので、公募をすることがいいと
えている。
私は思っている。ここに例として出
会長→教職員それぞれ一生懸命取り組ん
ているが、みんなで考えていきたい。
副会長→公募した上で、だれが希望
でいるのだが、我々としては、児童や保
する人がいるとか、地域に専門家が
護者に対して自分たちの考えを表明する
いるとか、こういうことについて今
べきではないと考えている。やはり、統
後、協議していくということでよい
合新校の主役は児童、保護者、地域だと
か。
思う。
委員→よい。
委員→統合準備会では教職員の考えが分
からないから、参考までに取り上げても
委員→今の意見に賛成で、公募の方
法で皆が関われる形がいいと思う。
校章に関しても、できれば、3月に
らいたいということだ。
学校指定用品を交付していただける
会長→意見は承った。
ときに、校章が入っていたほうがや
はり親としては、子供たちもうれし
204
事務局→委員の方々にアイデアを集めて
もらう、あるいは知り合いの方からいた
だいても結構だが、収集方法のひとつと
して参考までに挙げさせていただいた。
いと思うので、できればそれに間に
合うように校章のほうも考えていた
だければと思う。
副会長→先ほど確認した2点、統合
校の開校前に、今年度中に何とか決
会長→校章・校歌については、公募を行
めて間に合えばと。それから、校章
うということを確認したい。
(異議なし)
のデザイン、それから校歌のフレー
ズ関係は公募する方向という形で確
認する。事務局は、これくらいの確
認でよいか。
事務局→つけ加えて。公募をしてい
くとなると、どんな公募になるかと
いうことになる。私ども基本的には
校名で公募をしていただいた時と同
じような形で、広く児童・保護者、
地域、委員の方々にアイデアをいた
だくという形での公募がよいと思っ
ている。また、公募していくに当た
っては、4つの統合新校で足並みが
そろわないと応募する側が非常に混
乱するので、そういう意味では校名
の公募と同じようにやったほうがい
い。結果はそれぞれの結果があって
いいと思うが、公募の仕方について
はそろえた形でやると、受けとめる
側もわかりやすいし、スムーズに運
ぶと思っている。今日の統合準備会
での議論をいただいて、それを踏ま
えて事務局としては統一的な方法で
の 公 募が で きな いか なと 考 えて い
る。
副会長→公募の範囲については、基
205
本的には校名のときと同じような形
で。事務局のほうで今の意見を整理
していただいて、次回、こんな形で
公募をするというようなものをつく
ってくることは可能か。
事務局→方向性をいただければ、公
募の具体案として提案したい。
副会長→ほかの学校との関わりもあ
るが、そんなことも踏まえて、いつ
からいつまで公募するとか、その辺
を事務局に具体案をつくってきてい
ただくというような形でどうか。
委員→ほかの準備会はもう終わって
いて、それがそういう方向で決まっ
ているのか。
事務局→昨日、光が丘一・二小があ
った。今日はこれで2つ目だ。光が
丘一・二小では基本的に校章、校歌
についても公募の方向ということで
具 体 案を 示 した いと いう こ とで あ
る。
委員→うちまでは、そういう形でと
いうことで、あと残り2つが、いや、
そうではなくてということになった
場合はどういうふうにするのか。
事務局→そのとき考える。
委員→4つ一遍に足並みをそろえて
とおっしゃったので、てっきりほか
の3つはもう決まっていて、そろっ
ていきましょうという感じになって
いるのかなと思ったところだ。もし
足並みをそろえてということになる
206
のであれば、前回あった準備会連絡
会があったほうがいいのではと思っ
たのだが。
副会長→まだやっていないとのこと
なので、とりあえず一・二小だけは
足並みがある程度そろっている。そ
れから、もう2つについては全然違
うのが出てくるかもしれないが、そ
の場合はそのとき考えるということ
だが、よろしいか。
委員→結構だ。
委員→例えば作曲家にお願いしたい
と か デザ イ ナー にお 願い し たい と
か、そういう全く違う方法で考えら
れるところもあれば、それはほかの
2つがこうだからということはない
のか。公募するなら足並みをそろえ
るということだが。
事務局→そのとおりだ。最初に公募
という方法をとるとすれば、同じ公
募で足並みをそろえた公募というこ
とだ。それぞれ全く別の考え方でや
りたいというのであれば、それはそ
れぞれの統合準備会の中での判断で
よいと思っている。
副会長→向こうが専門家に頼むと言
うから、うちもそうしなければいけ
ないとか、そういうことではなくて、
公募だったら公募期間を同じにする
とか、範囲は例えば校名のときと同
じぐらいの範囲に、こっちも向こう
も同じにしようとか、そういう意味
207
で の 足並 み をそ ろえ ると い うこ と
で、決め方まで全部と、そういうこ
とではない。よろしいか。
委員→よい。
副会長→今の校歌、それから校章に
ついては、このあたりを確認させて
いただくということでよいか。では
次回は統合準備会で今日の話をもと
にして事務局で原案を提案していた
だき、その上で協議したい。そうい
う形で進めたいと思うが、よいか。
(異議なし)
208
第十一回
209
同年 6 月 10 日
同年 6 月 8 日
同年 6 月 5 日
同年 6 月 4 日
(主に、統合新校の通学路の安全確保
(主に、統合新校の通学路の安全確保の検
(主に、統合新校の通学路の安全確保の
(主に、統合新校の通学路の安全確
の検討・統合新校の校章の検討・統合
討・統合新校の校章の検討・統合新校の校歌
検討・統合新校の校章の検討・統合新校
保の検討・統合新校の校章の検討・
新校の校歌の検討について話し合う。
の検討について話し合う。ここでの校歌の話
の校歌の検討について話し合う。ここで
統合新校の校歌の検討について話し
ここでの校歌の話し合いは主に、歌詞
し合いは主に、歌詞の公募方法について)
の校歌の話し合いは主に、歌詞の公募方
合う。ここでの校歌の話し合いは主
の公募方法について)
委員→校名を募集した際、子供たちに冬休み
法について)
に、歌詞の公募方法について)
委員 →応募用紙には単語もしくはま
の宿題にしたと記憶している。今回も夏休み
委員→応募用紙に記載のある「フレーズ」
委員→作曲期間はどのくらいを考え
とまった詞のどちらかを書けばいいの
の宿題にしてはどうか。
という言葉はあいまいな表現であり、児
ているのか。
か。
副会長→校名を募集した時もそうだが、宿題
童には理解しづらいのではないか。
事務局→依頼してからおおむね2~
事務局→単語を募集する。応募用紙に
という形ではなく、応募を投げかけていくと
会長→「フレーズ」は、
「言葉」に言い換
3ヵ月を見込んでいる。
は罫線を入れる予定である。
いうことでよいか。光四小も同様でよいか。
えたほうが児童が理解しやすいと思うの
副会長→校歌の作成は早くて来月1
委員 →メロディの募集は難しいと思
会長→よい。
で、修正することとしたい。
月下旬、遅くとも3月までには間に
うが、どんな曲調がよいか、子供たち
副会長→他に意見はあるか。なければ、事務
委員→募集結果から統合準備会でどうや
合わせるとのことだ。校章図案のよ
等から意見を聞くことはしないのか。
局案のとおり校歌の歌詞に入れたい言葉を
って校歌を決定するのか。
うに、校歌の歌詞に入れたい言葉の
事務局 →曲調の意見を広く聞くこと
募集することとしたほうがよいか。(異議な
会長→募集結果から絞り込んだものを作
採用者を公表するのか。
は考えていない。専門家に任せたい。
し)
詞家に伝える。
事務局→言葉の数は、おそらく多数
委員 →出来上がった校歌が気に入ら
委員→音楽関係者の知り合いがいるので、校
委員→歌詞ではなく言葉を募集して、そ
の応募が予想される。また、統合準
ない場合は、作り直してもらうことは
歌制作の依頼の話をしてもよいか。
れらをできるだけ取り込むように作詞家
備会で決定した言葉を作詞家が必ず
可能か。
事務局→正式に依頼することはできないが、
に依頼するということか。作詞家・作曲
しも、そのまま採用するとは限らな
事務局 →作り直してもらうのは難し
打診はしても構わない。
家はどうやって選ぶのか。
いので、採用者を個々に公表するの
いと思う。
委員→校歌制作を引き受けるとは思えない
事務局→統合準備会で作詞・作曲ができ
は困難だと思う。
委員→責任をもって作詞家・作曲家を
方を検討しても仕方がないので、ある程度話
る方を複数出していただく。該当者がい
副会長→校歌の検討状況は、統合準
選びたい。
を通してから、統合準備会に推薦したい。
ない場合には、事務局が製作会社に依頼
備会だよりで公表するということで
委員→作詞家・作曲家候補の推薦方法
する。
よいか。
の手順を示してほしい。
委員→小学校の校歌としてふさわしいも
事務局→そうだ。
事務局→次回、具体的な制作手順を提
のを作曲していただかなければならない
委員→統合準備会で検討しやすいよ
示する。
ので、作曲家を 1 回で決めようとするの
う、応募のあった言葉は全て資料に
委員→現段階で、校歌の制作希望者は
はリスクが大きい。
載せてほしい。
いるか。
事務局→作曲家に複数作曲してもらい、
委員→応募のあった言葉を一覧にま
事務局→統合計画を公表した際、校歌
そのいずれかを選択する方法もあるが、
とめる際は、言葉の意味合いが変わ
を作りたいと申し出た方がいた。その
予算の制約がある。
らないように、原文に忠実に載せて
方を含め候補者の選定をしてほしい。
委員→複数から選ぶべきだ。
いただきたい。
また、特に頼む方がいない場合は、事
事務局→統合準備会の協議の結果、その
事務局→ご意見は承った。できるだ
務局が制作会社に依頼する。(異議な
ような方法を選んでもよいと思う。1 校
け今、発言のあった趣旨に沿って資
し)
あたりの予算は、作詞・作曲併せて 200
料を作成したいと思う。
万円だ。
副会長→他に意見はあるか。なけれ
副会長→作曲家は自分にとって最善のも
ば、事務局案のとおり校歌の歌詞に
のを 1 曲しか作曲しないと思う。リスク
入れたい言葉を募集することとした
は大きいと思うが、歌詞のイメージを作
いがよいか。(異議なし)
曲家に上手く伝えながら依頼するしかな
いと思う。また、どのような言葉をどの
くらい選んで作詞家に渡すのかというの
も難しい問題だ。
委員→作成途中の曲を統合準備会で検討
する機会ができるとおおと思う。児童が
歌いにくい個所があれば修正する可能性
210
があることを、事前に説明したらどうか。
副会長→依頼者と作詞・作曲家との信頼
関係ができており、依頼者が校歌への想
いをどれだけ熱く伝えられるかが重要
だ。
会長→作成途中の曲を統合準備会で検討
する機会があることを事前に了承いただ
ける方に依頼したらどうか。
委員→そのような条件なら、作詞・作曲
家は、光五小や光六小の関係者が相応し
いと思うので、次回までに保護者の方々
に探していただくことにしたらどうか。
211
委員→作曲家に依頼するのはメロディだ
けなのか。ピアノ伴奏やオーケストラは
どうするのか。
会長→校歌の場合、通常、作曲は伴奏ま
でだ。
委員→資料に記載されている「メロディ」
という表現は正確ではない。
会長 →通常の伴奏つきの校歌を指すな
ら、
「メロディ」ではなく「作曲」に修正
すべきだ。
委員→作詞の完成後、作曲を依頼するの
か。
事務局→作詞の完成後に、2~3 カ月程度
の作成期間で作曲を依頼する。
委員→作詞・作曲で時間がかかると、校
歌を修正する時間がとれなくなってしま
うのではないか。
事務局→修正期間を含めて、完成まで約
3 カ月かかるということだ。
委員→校章の募集が 6 月中旬~7 月中旬、
校歌の募集が 8 月下旬~9 月下旬のよう
に毎月、何らかの募集があって児童が負
担を感じないのか。
212
会長→夏休みを挟んでおり、関心のある
児童だけが応募するので、負担にはなら
ないと思う。
委員→学校からは、例えば、6 月は校章
の募集、8 月は校歌の募集だということ
を児童に伝えるということでよいか。
会長→そうだ。
委員→この応募用紙には、歌詞に入れた
い言葉を 1 つだけ書くのか、複数書いて
もよいのか。
会長→個人的には、いくつ書いてもいい
と思う。
委員→縦書きで罫線を 4~5 行入れて、
言葉は「複数可」としていただきたい。
会長→児童によっては作詞する子もいる
かもしれないが、よろしいか。
委員→募集すると、校名のようにたくさ
んの応募が来ると思うが、校章や校歌の
歌詞に入れたい言葉についても、校名の
検討のように事務局で整理していただけ
るということか。
事務局→検討しやすいように見やすく整
理し、資料を作成する。
213
委員→校歌の作曲ができそうな人を何人
か知っているので、相談しようと思うが、
どのように話したらよいか。
副会長→作曲家が正式に依頼を受けたと
誤解しないように、該当者がいれば、事
務局に情報提供することが先決だと思
う。
委員→複数いる場合、みんなに声をかけ
たほうがいいのか、1 人に絞ったほうが
いいのか。委員→「作曲できる方はいる
か」と聞くのはどうか。
会長→聞くこと自体は問題ないと思う。
委員→作曲家の経歴や実績が選定の基準
になる。選定までの手順については共通
認識を持っておくべきだ。
副会長→他に意見はあるか。まければ、
事務局案のとおり校歌の歌詞に入れたい
言葉を募集することとしたいがよいか。
(異議なし)
統合新校の校歌の検討について(共通事項)事務局報告
214
(1)募集の目的・統合準備会において、統合新校の校歌を検討するにあたり、統合対象校の児童・保護者・教職員、光が丘および周辺地域を対象として、統合新校の校歌の歌詞に入
れたい言葉を募集する。
(2)募集期間・平成 21 年 8 月下旬~9 月中旬
(3)募集の対象者と応募方法①児童・学校を通じて配布する応募用紙で応募する②保護者・教職員・8 月下旬発行予定の統合準備会だより(第 12 号)に添付された応募用紙で応募す
る③光が丘および周辺地域・8 月下旬発行予定の統合準備会だより(第 12 号)の町会回覧や掲示により周知し、光が丘区民事務所、光が丘図書館および地区区民館(旭町南、光
が丘、田柄)において配布される統合新校ごとの応募用紙(4 種類)で応募する
(4)募集にあたっての留意事項・児童・保護者および教職員については氏名欄を、光が丘および周辺地域の方については住所・氏名爛を設ける・校歌の歌詞に入れたい言葉の説明や
思いを記入してもらう・メロディ(作曲)は募集しない・指定の応募用紙でなくても有効とするさらに事務局から「9 月下旬の統合準備会から、応募された校歌の歌詞に入れた
い言葉をもとに、3 回の協議を行い、協議結果を作詞家に伝えて校歌制作の参考にしてもらう。最終的には学校による調整を行い完成させる。また、作詞・作曲候補者を選定し
ていただく。」と報告
第十二回
215
同年 7 月 27 日
同年 7 月28日
同年 7 月 24 日
同年 7 月 29 日
(主に、統合新校の通学路の安全確
(主に、統合新校の通学路の安全確保・統合
(主に、統合新校の通学路の安全確保・
(主に、統合新校の通学路の安全確
保・統合新校の校歌・統合新校の校章
新校の校歌・統合新校の校章について話し合
統合新校の校歌・統合新校の校章につい
保・統合新校の校歌・統合新校の校
について話し合う)
う)
て話し合う)
章について話し合う)
校歌の歌詞の募集期間や制作方法の具
校歌の歌詞の募集期間や制作方法の具体案
校歌の歌詞の募集期間や制作方法の具体
校歌の歌詞の募集期間や制作方法の
体案が出される。これらの事に関して、
が出される。これらの事に関して、
案が出される。これらの事に関して、
具体案が出される。これらの事に関
委員 →他区の統合新校の校歌の制定
委員→校歌の制作を頼めそうな方を何人か
事務局 →委員で、心当たりのある作詞
して、
日を調べたが、開校後に制定している
知っているが、どのように打診すればよい
家・作曲家がいれば、この場でお寄せい
委員→豊玉地区のどこかの小学校の
学校もあった。光が丘四季の香小も、
か。
ただきたい。
PTA 役員が音楽関係の仕事をされて
開校後、児童、教職員、保護者が揃っ
事務局→統合準備会で決まれば、制作を頼め
委員→校歌の作詞・作曲は、専門家に依
いると聞いた。
た時に、自分たちの学校の校歌を制作
ますかという言い方で、打診していただきた
頼するのではなく、学校関係者が自分た
委員→現在、両校の校歌で歌われて
するほうがよいのではないか。
い。
ちで作り上げていくべきものではない
いる言葉を募集してもよいか。
事務局 →事務局としては開校前に必
委員→区内在住の方を重視するか。
か。
副会長→両校の校歌の言葉を募集し
ず制作してほしいとは考えていない
事務局→準備会で判断してほしい。
事務局→事務局としても、同感である。
てもいいし、全く新しい言葉を募集
が、校歌の検討を 2 回行い、開校前に
委員→事務局で制作会社に依頼する場合、ど
会長→校歌の募集および制作方法につい
してもらっても構わない。
制定
のような会社に依頼するのか。また、今まで
ては、事務局案のとおりでよいか。
(異議
事務局→募集結果を見て、両校の校
まとまったと思う。
依頼したことはあるのか。
なし)
歌で使われている言葉があれば、そ
委員 →校章も開校後に制作したほう
事務局→民間の音楽制作会社を想定してい
れらを含めて協議していただいたら
がよいという考えか。
る。練馬区では学校統合が初めてなので、今
どうか。また、前回の応募用紙では、
委員 →校章は学校指定用品につける
まで依頼したことはない。
「フレーズ」という言葉を使ってい
必要があるため、開校前に作成する必
会長→他に意見はあるか。なければ、事務局
たが、児童にわかりづらいという意
要があるが、校歌は開校前になくても
案のとおり校歌に入れたい言葉を募集して
見があったので、
「校歌に入れたい言
支障がない。
いくことでよろしいか。
(異議なし)
葉」に改めたいと」考えている。
することで話が
副会長→前回の話し合いで、校歌に入
副会長→校歌の募集および制作方法
れる言葉を公募していくことでまとま
については、事務局案のとおりでよ
っている。議論が逆戻りしてしまうの
いか。(異議なし)
で、事務局のスケジュールに沿って公
募していくことでよいか。
委員→一度決まったものでも、もう一
度話し合って、よりよい案を出してい
ったほうがよいと思う。
委員 →私は予定通り校歌の公募をし
たほうがよいと思う。児童や保護者が、
新校に対しどういうイメージや思いを
持っているのかも知りたい。公募結果
216
を見て、校歌制作の進め方を検討して
みてはどうか。
委員 →今年度中に校歌を制作しない
と、来年度の予算確保はできないのか。
事務局 →来年度に校歌を制作すると
いうことであれば、予算確保に努めた
い。
副会長→それでは、校歌に入れたい言
葉を募集していくこととし、募集結果
を見て、今年度中に制作するかどうか
協議していくことでよろしいか。
校歌の制作手順について話しあう
統合新校の校歌について(共通事項)事務局報告
(1)校歌に入れたい言葉の募集期間
平成 21 年 8 月 25 日(火)~9 月 15 日(火)
(2)制作方法
①委員のかたから、知り合いなどで校歌の作詞や作曲を引き受けてくれそうな方を事務局へ連絡してもらう
②委員の方から提案された作詞家・作曲家をもとに、第 14 回(9 月下旬開催予定)および第 15 回(10 月下旬開催予定)統合準備会の協議で候補者を選定する
③11 月中に、事務局が作詞家・作曲家と校歌制作の契約を行う
④第 16 回(11 月下旬開催予定)統合準備会までに校歌の歌詞に入れたい言葉を絞り込む
⑤12 月上旬に、統合準備会の協議結果を作詞家に伝えて校歌の作詞を依頼する
⑥歌詞が出来次第、作曲家に曲の制作を依頼する
⑦3 月校歌完成
217
第十三回
同年 8 月 26 日
校歌の話し合いなし
同年 8 月 28 日
校歌の話し合いなし
校歌の話し合いなし
同年 8 月 27 日
校歌の話し合いなし
(主に、平成 22 年 4 月以降の就学先
(主に、平成 22 年 4 月以降の就学先確認ア
(主に、平成 22 年 4 月以降の就学先確
(主に、平成 22 年 4 月以降の就学先
確認アンケートの実施・統合新校の交
ンケートの実施・統合新校の交通路・統合新
認アンケートの実施・統合新校の交通
確認アンケートの実施・統合新校の
通路・統合新校の校章について話し合
校の校章について話し合う)
路・統合新校の校章について話し合う)
交通路・統合新校の校章について話
う)
話し合いは持たれていなかったが、
委員の方から→新校の校歌制作の頼めそう
な方を何人か知っているので、事務局に知ら
せたい。
事務局→色々調べていただきありがたい、次
回から、校歌の検討を行うので、他の委員の
方でも頼めそうな方がいたら知らせてほし
い。
218
同年 8 月 31 日
し合う)
第十四回
219
同年 10 月 1 日
同年9月29日
同年9月30日
同年 9 月 28 日
(主に、統合新校の校章・統合新校の
(主に、統合新校の校章・統合新校の校歌に
(主に、統合新校の校章・統合新校の校
(主に、統合新校の校章・統合新校
校歌について話し合う)
ついて話し合う)
歌について話し合う)
の校歌について話し合う)
副会長 →校歌に入れたい言葉の募集
会長→校歌に入れたい言葉等については、校
会長 →校歌に入れたい言葉等について
副会長→校歌に入れたい言葉につい
後、校歌を今年度中に製作するかどう
歌の作詞者へ参考としてもらうために渡す
は、校歌の作詞者へ参考としてもらうた
ては、校歌の作詞者へ参考としても
かきょうぎすることになっていた。意
ことになっているが、この募集結果を渡すに
めに渡すことになっているが、この募集
ら う ため に 渡す こと にな っ てい る
見はいるか。
あたり、そのまま渡すのか、あるいは校歌の
結果を渡すにあたり、そのまま渡すのか、
が、この募集結果を渡すにあたり、
委員 →開校後に製作したほうがよい
歌詞に使わないほうがよいと思われる言葉
あるいは校歌の歌詞に使わないほうがよ
そのまま渡すのか、あるいは校歌の
と思う。校長先生としては開校後に製
等は除いて渡すのか、意見を出してもらいた
いと思われる言葉等は除いて渡すのか、
歌詞に使わないほうがよいと思われ
作するのは負担か・
い。
意見を出してもらいたい。
る言葉等は除いて渡すのか、意見を
会長→開校後は忙しい。来年の秋に行
委員→考え方をまとめるのは次回でよいか。
委員→多くの言葉をいただいたが、その
出してもらいたい。
う開校記念式典で歌えるとよいので、
会長→本日意見がなければ、次回までに各委
中からどの言葉を歌詞に取り入れるか
委員→新校のイメージが膨らむよう
このメンバーで作っていきたい。
員で考えをまとめてほしい。この回では作詞
は、作詞者の判断になると思う。いただ
に、作詞者に学校を見ていただいた
副会長 →他の統合新校は今年度中に
者・作曲者の話し合いがもたれた。
いた言葉は、そのまま渡したほうが作詞
らどうか。事務局→言葉を渡すだけ
製作するのか。事務局→他の 3 校は、
者も製作しやすいのではないか。少なく
でなく、現場を見てもらいたいとい
今年度中に製作する方向で協議が進ん
とも新校の校名は歌詞に入れてほしい。
う思いはある。委員→できれば、両
でいる。
会長→校歌に入れたい言葉については、
校を理解している校長に作詞を、音
委員 →新校スタート時に校歌がない
次回までに各委員で考え方をまとめてき
楽の先生に作曲をお願いしたい。
のは、子供たちにとって寂しいのでは
てほしい。次に、校歌の作詞・作曲推薦
委員→両校の関わりのある方に作詞
ないか。今年度中に制作したほうがよ
者について、事務局から説明してもらう。
をお願いしたい。また、実際に学校
い。
作詞者・作曲者の話し合いがもたれた。
へ足を運んでいただくよう求めるな
委員→私は小 3 の時、それまで通って
ど、新校のイメージを正しく伝えら
いた学校の児童が増えたため、近くの
れるよう工夫したい。
新しい学校に移ったが、卒業時まで校
副会長→本日意見がなければ、次回
歌がなかった。今年度中に作らなくて
までに各委員で考え方をまとめてき
も、新校の 1 期生の卒業式までに出来
てほしい。次に、校歌の作詞・作曲
ていればよい。
推薦者について、事務局から説明し
委員→昔は校歌がなかった。最初から
てもらう。作詞者・作曲者の話し合
必要なものでもないと思うので、新校
いがもたれた。
で作ってもいいと思う。
委員→他区の例だと、開校後 11 月か
12 月に制作されているケースもある。
委員→他の 3 校が校歌を作るのであれ
ば、校歌に入れたい言葉の募集もたく
さん集まったことでもあるし、作詞者
に渡し、今年度に製作したほうがよい。
委員 →統合する両校の児童からの言
葉や思いなので、新校の児童の気持ち
酌んだ校歌が制作できると思う。今年
度中に製作したほうがよい。
委員→開校後は、先生も忙しいと思う
ので、他の 3 校と同じように、今いる
メンバーで作っていったほうがよい。
委員→平成 22 年秋の開校記念式典で
歌うとなると、練習時間も必要なので、
今年度中に製作したほうがよい。
220
委員→練習時間を考えると、来年の 4
月から作り始めると難しいかもしれな
い。いい校歌を作るために、締め切り
期限を決めないで丁寧に作ってほし
い。
委員→私たちの任期は 3 月までであ
る。きちんと目標をもって、3 月まで
に作るべきだ。
副会長→それでは意見をまとめる。校
歌は今年度中に製作することを確認す
る。この後、作詞者・作曲者の検討が
協議された。
校歌に入れたい言葉募集結果(共通事項)事務局報告
①
が丘四季の香小学校
応募人数(述べ)112 人[内訳
児童 96 人、保護者・教職員 12 人、光が丘・周辺地域 4 人]
、言葉 527 件
②光が丘春の風小学校
応募人数(述べ)137 人[内訳
児童 118 人、保護者・教職員 17 人、光が丘・周辺地域 2 人]
、言葉 705 件
③光が丘夏の雲小学校
応募人数(述べ)69 人[内訳
児童 57 人、保護者・教職員 10 人、光が丘・周辺地域 2 人]
、言葉 360 件
④光が丘秋の陽小学校
応募人数(述べ)70 人[内訳
221
児童 58 人、保護者・教職員 7 人、光が丘・周辺地域 5 人]
、言葉 322 件
第十五回
222
同年 10 月 28 日
同年 10 月 26日
同年 10 月 29 日
同年 10 月 27 日
(主に、統合新校の校歌について話し
(主に、統合新校の校歌について話し合う)
(主に、統合新校の校歌について話し合
(主に、統合新校の校歌について話
合う)作詞者・作曲者の検討が協議さ
作詞者・作曲者の検討が協議され、候補者が
う)作詞者・作曲者の検討が協議され、
し合う)前回から引き続き、作詞者・
れ、候補者が決定する。その後、募集
決定する。その後、募集した校歌の言葉の取
候補者が決定する。その後、募集した校
作曲者の選定が行われ、候補者に意
した校歌の言葉の取り扱について話し
り扱について話し合う。
歌の言葉の取り扱について話し合う。前
向を確認してみるということで選定
合う。
事務局→応募いただいた校歌に入れたい言
回から引き続き、作詞者・作曲者の選定
は終了する。
事務局 →応募いただいた校歌に入れ
葉等を、校歌の製作者に参考としてもらうた
が行われ、事務局から依頼してもらうこ
事務局→応募いただいた校歌に入れ
たい言葉等を、校歌の製作者に参考と
めに渡すことになるが、募集結果をそのまま
とで人物の選定は終了。
たい言葉等を、校歌の製作者に参考
してもらうために渡すことになるが、
渡すのか、あるいは、歌詞に使わないほうが
事務局→応募いただいた校歌に入れたい
としてもらうために渡すことになる
募集結果をそのまま渡すのか、あるい
よいと思われる言葉等を除いて渡すのか等、
言葉等を、校歌の製作者に参考としても
が、募集結果をそのまま渡すのか、
は、歌詞に使わないほうがよいと思わ
協議をお願いする。また、いただいた言葉だ
らうために渡すことになるが、募集結果
あるいは、歌詞に使わないほうがよ
れる言葉等を除いて渡すのか等、協議
けでなく、統合準備会として製作者へ伝えた
をそのまま渡すのか、あるいは、歌詞に
いと思われる言葉等を除いて渡すの
をお願いする。また、いただいた言葉
いことがあれば意見を出してもらいたい。
使わないほうがよいと思われる言葉等を
か等、協議をお願いする。また、い
だけでなく、統合準備会として製作者
委員→応募いただいた全ての校歌に入れた
除いて渡すのか等、協議をお願いする。
ただいた言葉だけでなく、統合準備
へ伝えたいことがあれば意見を出して
い言葉等を渡してほしい。
また、いただいた言葉だけでなく、統合
会として製作者へ伝えたいことがあ
もらいたい。
会長→歌詞は何番までがよいか。
準備会として製作者へ伝えたいことがあ
れば意見を出してもらいたい。
委員 →応募いただいた言葉は全て渡
委員→現在の光三小や光四小と同じ 3 番ま
れば意見を出してもらいたい。
委員→いただいた言葉は手を加えな
してもらってよいが、現在の校名等、
でがよい。委員→小学生にとっては、2 番ま
委員→応募をいただいた校歌に入れたい
いでそのまま渡し、学校の様子を実
新校の校歌にふさわしくない言葉が入
でのほうがしっかり歌えると思う。
言葉には、光五小と光六小の校歌の歌詞
際に見たうえで制作してもらうのが
っているので、それらは使用しないよ
会長→校歌制作の参考にしていただくため、
で使われている言葉が含まれている。ど
よい。
うに、伝えてほしい。
全ての応募いただいた言葉等を渡すことと
う扱ったらよいか。
委員→両校の歌詞が校歌に入れたい
副会長 →アルファベットもふさわし
する。また、歌詞を何番までにするかは、曲
会長→両校の校歌の歌詞で使われている
言葉の中に入っているので、両校の
くないと思う。会長→伝えなくても、
のテンポにもよって違ってくるので、制作者
からと言って、それらを全て除いてしま
歌詞も一緒にお渡ししたほうがよい
現在の校名やアルファベットは使わな
に任せたい。(異議なし)
うと制作に支障をきたす可能性があると
のではないか。
いと思う。
思う。
副会長→現在の両校の校歌の歌詞も
委員→応募いただいた全ての「新校へ
委員→両校の歌詞には、
「緑」
「風」、
、
「鳥」
、
一緒に渡すべきだ。
の思い」も渡して、児童の思いを託し
「大地」の 4 つの言葉が共通して使われ
委員→まずは、両校の歌詞の校歌を
た校歌を作ってほしい。
ている。これらは、光が丘を象徴する表
新校の校歌に入れてもよいかどうか
会長 →校歌制作の参考にしていただ
現だと思うので、残したほうがよい。作
決めたほうがよいと思う。現在の両
くために、全ての応募いただいた言葉
詞者に渡す校歌に入れたい言葉の取り扱
校の校歌も作詞者に渡して、考えて
や新校への思いを渡すこととする。
(異
いは、歌詞制作のための参考資料という
もらってはどうか。
議なし)
ことでよいのではないか。
委員→両校の校歌は作詞者に参考と
委員→同感だ。ただ、少なくとも新校の
して渡せばよいのであって、こちら
校名は歌詞に入れてもらいたい。
で条件をつけて歌詞制作を依頼する
会長→歌詞に入れたい言葉の協議は、次
べきではないと思う。
回、結論を出すこととしたい。
会長→「校歌に入れたい言葉」とと
もに応募者の「新校の思い」も渡す
べきだ。
副会長→両校の校歌とともに、
「校歌
に入れたい言葉」と「新校への思い」
を 作 詞者 に 渡す とい うこ と でよ い
か。
(異議なし)
223
第十六回
同年 11 月 30 日
同年 12 月 2 日
同年 12 月 1 日
同年 12 月 3 日
(主に、統合新校の学校指定用品・統
(主に、統合新校の学校指定用品・統合新校
(主に、統合新校の学校指定用品・統合
(主に、統合新校の学校指定用品・
合新校の校章・統合新校の校歌・交流
の校章・統合新校の校歌・交流活動・学校跡
新校の校章・統合新校の校歌・交流活動・
統合新校の校章・統合新校の校歌・
活動・学校跡施設(光が丘地域)活用基
施設(光が丘地域)活用基本計画について話
学校跡施設(光が丘地域)活用基本計画に
交流活動・学校跡施設(光が丘地域)
本計画について話し合う)
し合う)
ついて話し合う)
活用基本計画について話し合う)
事務局 →作曲を依頼する竹内邦光氏
事務局→飯田浩文氏(作詞)と中川英二郎(作
事務局→前回の協議の結果、作詞は石原
事務局→前回の協議では、作詞は谷
に連絡したところ、作詞については、
曲)に、正式に校歌制作を依頼した。11 月
一輝氏、作曲は千住明氏にお願いできな
川俊太郎氏、作曲は林光氏に依頼で
こわせたまみ氏を推薦してもらい、お
20 日、お二人には学校を見学してもらい、
いかということになった。両氏には、光
きないかということだったので、資
二人に、正式な校歌制作を依頼した。
その際、応募いただいた「校歌に入れたい言
六小校長を通じて連絡を取っていただ
料3では、両氏のプロフィールをま
11 月 19 日、お二人には学校を見学し
葉」と「新校~の思い」、両校の校歌を資料
き、校歌制作の内諾を得ている。
とめた。
てもらい、その際、応募いただいた「校
として渡した。委員→すでに何通りかの校歌
会長→前回の協議では、
「校歌に入れたい
副会長→両氏に依頼したところ、お
歌に入れたい言葉」と「校歌への思い」
、
の案が出来上がっていると聞いている。
言葉」と「新校への思い」を作詞者にそ
二人とも快諾してくれた。ただ、両
両校の校歌を資料として渡した。委員
のままお渡しするという意見、両校の校
氏とも大変お忙しい方なので、校歌
→校歌はいつ頃完成するのか。
歌の歌詞で使われており、光が丘を象徴
の完成時期が開校記念式典が予定さ
事務局→来年の 3 月中旬頃の予定。
(異
する「風」、
「緑」、
「大地」、
「鳥」の 4 つ
れている来年の11月になることを
議なし)
の言葉を新校の使ってもらえるよう作詞
今回、ご了承いただきたい。今年度、
者にお伝えするという意見があった。以
区が校歌の制作経費を予算計上して
上 2 点を踏まえて校歌制作を依頼すると
いるが、校歌完成の時期が来年度に
いうことでよいか。(異議なし)
なっても対応できるか。
事務局→対応可能だ。
副会長→それでは、校歌完成の時期
が来年11月になるということでよ
いか。(異議なし)
224
第十七回
平成 22 年 2 月 1 日
平成 22 年1月 27 日
平成 22 年 1 月 26 日
平成 22 年 1 月 28 日
(主に、統合新校の校歌・閉校式、開
(主に、統合新校の校歌・閉校式、開校式お
(主に、統合新校の校歌・閉校式、開校
(主に、統合新校の校歌・閉校式、
校式および開校記念式典・学校跡施設
よび開校記念式典・学校跡施設(光が丘)活用
式および開校記念式典・学校跡施設(光が
開校式および開校記念式典・学校跡
(光が丘)活用基本計画について報告が
基本計画について報告が行われた)
丘)活用基本計画について報告が行われ
施設(光が丘)活用基本計画について
行われた)
事務局→光が丘春の風小学校の校歌制作の
た)
報告が行われた)
事務局から、正式な、校歌発表につい
進ちょく状況を報告する。歌詞のサビの部分
事務局→光が丘夏の雲小学校の校歌制作
事務局→光が丘秋の陽小学校の校歌
ては新校開校後に行うが、2 月 9 日に
について、最終調整をしており、完成までも
の進ちょく状況を報告する。現在、作詞
制作の進ちょく状況を報告する。先
光が丘第一小学校で校歌のお披露目会
う少しかかるとのこと。曲については、ほぼ
家の石原先生の作詞案を作曲家の千住先
日、副会長とともに作曲家の林先生
が行われることと、そのお披露目会に
完成し、本日サンプル音源の試聴が可能であ
生がご覧になっているところであり、完
の事務所へご挨拶に伺い、今後の進
は作詞者・作曲者・両校の教員・統合
る。
成時期は 3 月中旬頃になるのではないか
め方についてご相談をした。また、
準備委員会の委員の参加を求めた。
委員→校歌は 2 番までで、1 番と 2 番の間奏
と聞いている。校歌が完成したら、何ら
作詞家の谷川先生には、近々ご挨拶
(異議なし)
がないものとなっている。それでは試聴して
かの形でお知らせしたい。
に参りたい旨の手紙を投函したとこ
いただく。
(サンプルを試聴)
委員→完成した校歌を確認したい。
ろだ。新校開校後の4月以降に、両
会長→歌詞が出来上がるのが楽しみである。
会長→両校長の責任で校歌制作を進めて
先生方のイメージが膨らむように新
いるが、委員のご要望は全て含まれてい
校の写真等の資料をお送りする予定
最後のまとめの部分で委員の一人が、
ることを確認している。
だ。
(質疑なし)
委員→新校の校歌制作に役立ててよかった。
事務局→委員の方々に校歌の歌詞を確認
統合準備会は終わりだが、校歌が完成するま
できる何らかの手段を考えている。
で自分の中では終了していない気持である。
委員→校歌を試聴することはできるか。
校歌が完成したら、両校の児童に練習しても
事務局→予算の都合で音声を録音するこ
らいたい。
とができないので、難しい。
会長→校歌の完成予定時期は 3 月中旬で
あり、児童に指導する時間的な余裕はな
225
い。4 月以降、指導していくことになる
と思う。
委員→開校式で公表できるか。
会長→紹介程度なら可能だ。
226
参考文献
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作者
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1984 年
『女子聖学院の歴史 1956 年~
女子聖学院中学
1987 年』
校高等学校
『成城学園九十年』
成城学園
2008 年
『成城学園 70 年の歩み』
成城学園
1988 年
『成城学園六十年』
成城学園
1977 年
『聖心女子学院創立五十年史』
聖心女子学院
1958 年
纂委員会
『写真で見る 65 年史 立川女子高
等学校』
234
2008 年
『聖心女子学院 70 年のあゆみ』
聖心女子学院
1978 年
成美学園
1990 年
『成美学園八十年史』
成美学園
1961 年
『成美学園百年史』
成美学園
1980 年
『捜真-受けつがれるもの・創立
捜真女学校同窓
百周年記念-』
会
捜真女学校九十年史
捜真女学校
1977 年
上野学園
1994 年
『成美学園とキリスト教教育 成
美学園百十年史』
『創立 90 周年記念』
石橋裕編集
埼玉県立浦和第一女子高
『創立九十周年記念誌』
等学校創立九十周年記念
誌事業実行委員会
埼玉県立浦和第
一女子高等学校
1997 年
1990 年
『創立五十年史』
棚橋勝太郎
1952 年
『創立三十五年史』
上野高等女学校
1939 年
『創立三十年』
上野高等女学校
1934 年
文献書院
1913 年
『創立二十五周年記念』
東京府立第一高等女学校
編集
白梅学園短期大
『創立二十五周年記念誌』
学
埼玉県立浦和第一女子高
『創立八十周年記念誌』
等学校創立八十周年記念
誌事業実行委員会
埼玉県立浦和第
一女子高等学校
1982 年
1980 年
『創立百周年記念誌 竹早の百
東京都立竹早高
年』
等学校
『創立六十周年史』
潤徳学園
1984 年
『瀧野川女子学園七十年誌』
瀧野川女子学園
1995 年
神田女学園
1965 年
戸板学園
2002 年
『竹水 創立 75 周年記念特集号』
『知・好・楽
神田女学園創立 75 周年記
念誌編集委員会
戸板学園の 100 年』
東京都立駒沢高
『中寿』
等学校
2003 年
1982 年
『調布学園女子短期大学 30 年の歩
調布学園女子短
み』
期大学
『調布学園 80 周年記念誌』
調布学園
2005 年
『戸板学園八十周年記念誌』
戸板学園
1982 年
235
1997 年
『東京家政学院五十年史』
東京家政学院
1975 年
東京家政学院
2008 年
『東京女学館百年史』
東京女学館
1991 年
『東京女子大学五十年史』
東京女子大学
1986 年
『東京家政学院創立 80 周年記念
誌』
東京文化学園五
『東京文化学園五十年史』
十年史刊行会
1977 年
『東光 東洋英和女学院創立百周
東洋英和女学院
年記念誌』
東光会
『東洋英和女学院七十年史』
東洋英和女学院
1954 年
『東洋英和女学院 120 年史』
東洋英和女学院
2005 年
『東洋英和女学院百年史』
東洋英和女学院
1984 年
1984 年
『東洋女子学園八十年史』
八十周年編纂委員会
東洋女子学園
1984 年
『東洋女子学園百年史』
百周年編纂委員会
東洋女子学園
2005 年
『豊島岡女子学園九十年史』
二木友吉
豊島岡女子学園
1982 年
豊島岡女子学園
1972 年
豊島岡女子学園
1992 年
『とびらの向こうに』
品川女子学院
1996 年
『中村学園八十年史』
中村学園
1989 年
中村学園
2009 年
中村学園
2009 年
成城高等女学校
1947 年
『豊島岡女子学園八十年史』
『豊島岡女子学園百年史』
『中村学園百年史
豊島岡女子学園八十年史
編集委員会
二木友吉
第一巻 はる
かなる道』
『中村学園百年史
第三巻 資料
集』
『ながれ』
埼玉県立松山女
『70 周年記念誌』
『二十五年史』
『日本橋女学館史』
子高等学校
白梅学園高等学校二十五
白梅学園高等学
年史編集委員会
校
日本橋女学館史編集委員
会
日本橋女学館
東京都立白鴎高
『80 年のあゆみ』
等学校
日本橋高等女学
『花菫』
校校友会
236
不明
1988 年
1973 年
1968 年
1936 年
栃木県立真岡女
『百年誌』
子高等学校
不明
『フェリス女学院 100 年史』
フェリス女学院
1970 年
『雙葉学園八十年の歩み』
雙葉学園
1989 年
『普連土学園百年史』
普連土学園
1987 年
『文京学園 55 年史』
文京学園
1979 年
『宝仙学園五十年史』
宝仙学園
1978 年
『宝仙学園七十年史』
宝仙学園
1998 年
『宝仙学園六十年史』
宝仙学園
1988 年
『目白学園八十年史』
目白学園
2005 年
三輪田学園
1998 年
『目で見る女子学院の歴史』
女子学院
1992 年
『山崎学園五十年史』
山崎学園
1991 年
横浜英和学院
2010 年
横浜共立学園
1991 年
『三輪田学園 110 年のあゆみ
1887~1997』
『横浜英和学院百三十年史(創立
一三○周年記念誌)』
『横浜共立学園 120 年の歩み』
栃木県立宇都宮
『40 周年記念誌』
錦織善市
中央女子高等学
1968 年
校
『立教女学院百年史』
立教女学院
1977 年
『立教女学院百年小史』
立教女学院
1977 年
栃木県立小田原
『60 年誌』
女子高等学校
『わたしたちの昭和史』
『私の歩んだ道』
島田依史子
『和洋学園八十年史』
ワカバ会
1988 年
文京学園
1980 年
和洋学園
1977 年
和洋九段女子中
『和洋九段校百周年記念誌』
1971 年
学校・高等学校
1998 年
論文
タイトル
「秋田県雄物川本流域における小中高等
作者
佐々木力
雑誌名
秋大地理 第 54 号
学校歌詞に表現される環境要素 」
237
発行所
秋田大学
発行年
2007 年
「
『跡見花蹊日記』からみるカリキュ
植田恭代
跡見学園女子大学
跡見学園女子大
ラム -落合直文との関わりにふれ
文学部紀要,第 41
学
て- 」
号
「あなたは校歌を覚えてますか?」
月刊ピアノ
ヤマハミュージ
2008 年
2008 年
ックメディア
「ある校歌伴奏のオーケストラ編
絹川 文仁
千葉経済大学短期
千葉経済大学短
大学部研究紀要 8
期大学
青山学院大学教育
青山学院大学教
等教育の状況(1)エミリー・デイヴ
学研究紀要
育学会
ィスによる女子高等教育論の構想」
研究 第 48 号
曲」
「イギリス 19 世紀における女子高
「イギリス 19 世紀における女子高
沖塩有希子
沖塩有希子
教育
青山学院大学教育
青山学院大学教
等教育の状況(2)がートン・カレッ
学研究紀要
育学会
ジ・ソングを手がかりとして」
研究 第 51 号
教育
「いしかわじゅんの判決スペシャル
いしかわじ
『編集会議』
,第 30
校歌で「ゆんゆん」宗左近」
ゅん
号
「歌と帰属意識の醸成
鈴木茉莉花
-大学校歌
と大学への愛着の関係について-」
「英語の校歌」
古澤育恵
2004 年
2007 年
宣伝会議
2003 年
『恵泉アカデミ
恵泉女学園大学
2009 年
ア』
,第 14 号
社会・人文学会
史 料 室 だ よ り
東洋英和女学院
No.61
資料室委員会
「音楽表現と背景にある気候との関
加藤 晴子 ,
岐阜聖徳学園大学
岐阜聖徳学園大
わりの視点から深める音楽と理科の
加藤
紀要. 教育学部編
学
連携による学習の試み -《朧月夜》
進
に表現された春の気象と季節感に注
義博
内藏
2012 年
2003 年
2013 年
, 藤本
目した授業実践例をもとに-」
「学校便覧」
「学校統廃合にともなう校名と校歌
上野学園
丹間康仁
筑波大学「地域と
の変更をめぐる論点 -茨城県大子
教育」研究会報
町における統合事例から-」
第3号
「学校要覧」
都立三田高等学校
「合唱における基礎的能力(3)NHK
高野 敦.
教育学研究紀要
全国学校音楽コンクール中学校の部
2011 年
筑波大学
2012 年
中国四国教育学
2009 年
会
課題曲の分析から」
「環境教育への気候学的アプローチ
大 和 田 道
愛知教育大学教科
―濃尾平野の局地風「伊吹おろし」
雄・田中セツ
教育センター研究
の小・中学校校歌詞への挿入率とそ
子
報告 第 10 号
の地理的分布― 」
238
愛知教育大学
1986 年
「儀式用唱歌の法制化過程
-1894
入江直樹
教育学雑誌第 28 号
年『訓令第 7 号』が学校内唱歌に残
日本大学文理学
1994 年
部
したもの-」
「教育勅語謳いこむ山梨県日川高校
の校歌
田中伸尚
『 週 刊 金 曜 日 』,
「異論」認めて東京高裁が
金曜日
2006 年
日本書籍
1970 年
607 号
憲法判断」
「教育ニュース
時代の転変 校歌
教育手帖 422 号
と公害」
「区立学校適正配置第一次実施計
練馬区教育委員会
画」
学校教育部
2008 年
新し
い学校づくり担当
課
「群馬県中学校の校歌を事例とした
塚 田 伸 也.
ランドスケープ研
テキスト分析により導かれる山岳の
森 田 哲 夫.
究
景観言語の検討」
橋本 隆 他
「訓令 12 号の理想と現実 1」
久木幸男
横浜国立大学
日本造園学会
2013 年
横浜国立大学紀
1973 年
要
「訓令 12 号の理想と現実 2」
久木幸男
横浜国立大学
横浜国立大学紀
要
「訓令 12 号の理想と現実 3」
久木幸男
横浜国立大学
第 57 号」
「言文一致唱歌の成立・内容に関す
Inka U. ・小
る一考察 -『教科適用 幼年唱歌』 楠智子・黒川
跡見校友会泉会
2007 年
音楽教育学研究論
東京学芸大学大
2003 年
集
学院連合学校教
たまみ・清水
育学研究科芸術
歌』の分析を通して- 」
泰博・渡邉厚
系教育講座音楽
美
教育学研究室
久保島文子
1976 年
第 16 号
『教科書準拠教科統合 尋常小学唱
「校歌の特性について」
1974 年
第 14 号
横浜国立大学紀
要
「汲泉
第 13 号
お茶の水女子大学
1998 年
大学院修士論文
「光鹽 第1号」
東京家政専門学
1929 年
校同窓会・東京家
政学院同窓会
「光鹽
第 12 号」
東京家政専門学
1939 年
校光鹽會・東京家
政学院光鹽會
「光塩
第 46 号」
光塩会
239
1996 年
「校歌」
土岐善麿
『弁論』,第 42 号
信友社
1952 年
「校歌」
百田宗治
『実践国語』,第
穂波出版社
1953 年
環太平洋大学
2011 年
九州教育学会
2004 年
実教出版社
1966 年
2011 年
14 巻 150 号
「校歌が児童・生徒に与える影響--
小川 隆章 ,
環太平洋大学研究
卒業生から見た校歌」
東福寺 一郎
紀要 (4)
「校歌・校訓・校章の研究(9) -福
大庭茂美
九州教育学会研究
岡県下の藩校・私塾起源の学校を中
紀要
心として- 」
「校歌雑感」
福田邦雄
『高校教育 三月
号』
「校歌で何を歌うか? -福井県内小
月原敏博 ・
福井大学教育地域
福井大学教育地
学校の校歌と地域環境ー 」
大須賀千種
科学部紀要 ,第 1
域科学部
号
「校歌と子供」
永井萠二
教育音楽 8 巻7号
音楽之友社
1953 年
「校歌に関する調査研究 1 -福岡
牛島達郎
福岡女学院大学紀
福岡女学院大学
2001 年
福岡女学院大学
2004 年
福岡女学院大学
2003 年
フェリス女学院
1981 年
市立小学校を中心に-」
要,人文学部編 ,
第 11 号
「校歌に関する調査研究 III -佐
牛島達郎
賀県の高等学校を中心に-」
福岡女学院大学紀
要,人文学部編 ,
第 14 号
「校歌に関する調査研究パート II
牛島達郎
福岡女学院大学紀
-福岡市と筑豊菊の中学校を中心に
要,人文学部編 ,
-」
第 13 号
「校歌の生まれたころ」
三宅洋一郎
あゆみ
第7号
資料室
「校歌の音楽文化的視点からのアプ
牧具己
ローチ」
「校歌の歌詞にみる心の原風景」
「校歌のこと」
「校歌の中の都市景観 」
大阪芸術大学博士
大阪芸術大学
2006 年
京都文教短期大学
京都文教短期大
2009 年
研究紀要 48
学
史料室だより
東洋英和女学院
No.16
資料室委員会
日本行動計量学会
日本行動計量学
大会発表論文抄録
会
論文
宮島 幸子
中野登美子
北原理雄
1982 年
1991 年
集 第 19 号
「校歌の文化的役割」
宮島幸子
京都文教短期大学
京都文教短期大
研究紀要 第 47 集
学
240
2009 年
「校歌は変る-一実作者の感想-」
谷川俊太郎
世界 第 348 号
岩波書店
1974 年
「校歌論-團體歌に於ける諸問題
長谷川良夫
教育音楽 6 巻 9 号
音楽之友社
1951 年
山住正己
『教育』,第 35 号
国土社
1985 年
「校歌を通してみる八戸地域の音環
前田 沙樹 ,
八戸工業高等専門
境について」
今野 恵喜
学校紀要 43
體驗を中心に-」
「校歌を検討し、つくり直す必要は
ないか -京都府立向陽高校校歌の
ことから-」
2008 年
「広報 りくぜん たかた」5 月 1
2013 年
日号
「五線譜の普及による「国民音楽」
奥中康人
の創成 -祝日大祭日の変遷と制定
阪大音楽学報 第
大阪大学文学
8号
部・大阪大学大学
-」
2010 年
院文学研究科
音楽学研究室
「国家公務員の教育機関紹介(1)
海上保安庁
人事院月報
日経印刷
2011 年
あゝ 海上保安学校!--歌い継がれた
海上保安学
校歌と振り返る 60 年」
校
「近藤忠義先生と校歌 」
塩谷郁夫
日本文學誌要,第
法政大学国文学
1996 年
53 号
会
『わらべ館 童
鳥取童謡・おもち
歌をうたいつぐために-だれもがう
謡・唱歌研究情報
ゃ館
たった「校歌」を例に-」
誌「音夢」』,第 6
「再考「歌」のもつ力、そしてその
田中健次
2011 年
号
「佐佐木信綱作詞の校歌」
小林 國雄
岐阜国語教育研究
日本国語教育学
2012 年
会岐阜県支部
「滋賀県における小・中学校の校歌
尾崎裕次・追
日本建築学会大会
日本建築学会
2011 年
に描かれた景観構造とその風景化に
田正美
学術講演梗概集
伊藤 誠
埼玉大学紀要. 教
埼玉大学教育学
2011 年
育学部 60(2)
部
ついての研究」
「質問紙調査「教科音楽の思い出・
印象について」の分析と考察 : 他専
修(音楽専修生を除く)学生の回答
結果に着目して<教育科学>」
「自由学園 90 年の歩み」
自由学園広報室
2011 年
「自由学園とは?100 問 100 答」
自由学園広報室
2010 年
大阪教育大学
1983 年
「障害児学校の校歌・校章に関する研究
梶本勝史・井
大阪教育大学障害児
-主として聾学校について- 」
谷善則・楠本実
教育研究紀要 第 6 号
241
「小学校歌唱教材におけるリズムパ
上畠力・木本
大阪教育大学紀
ターン(第 1 報)」
治子・ 沢田
要,第Ⅴ部門,教
篤子・ 松村
科教育,第 26 巻,
直行 ・馬渕
第3号
大阪教育大学
1978 年
日本音楽教育学
1988 年
卯三郎
「小学校校歌制定に関する研究 -
嶋田由美
音楽教育学
明治後期における東京府内小学校校
第 16
号
会
日本建築学会
1995 年
1981 年
歌制定過程の分析を通して-」
「小学校校歌に謳われた全国の地域
矢部恒彦・北
日本建築学会計画
景観イメージに関する研究 」
原理雄・徳山
系論文集 第 472
郁芳
号
嶋田由美
日本音楽教育学会
日本音楽教育学
第 12 回総会・研究
会
「小学校唱歌教育と校歌」
発表会
「小学校歌唱共通教材の検証 -音
倉掛妙子
高、リズムを中心として-」
夙川学院短期大学
夙川学院短期大
研究紀要 ,第 12
学
1987 年
号
「唱歌のあゆみ 校歌とは-そのプ
大和淳二
文部時報
ぎょうせい
1982 年
岩城元
朝日ジャーナル
朝日新聞出版社
1985 年
瀬戸口 龍一
専修大学史紀要 5
専修大学
2013 年
ロフィール-」
「シリーズ・日常からの疑問 43 こ
んなものいらない!?」
「私立大学における校歌制定とその
意義について -高野辰之と専修大
学を中心に-」
「史料室だより
第 16 号」
恵泉女学園史料室
2010 年
「史料室だより
No.16」
東洋英和女学院史
1982 年
料室委員会
「新郷地区の小学校・中学校の校歌
田端 利則
(新郷地区の小中学校の校歌等調査
産業文化研究 第
八戸大学・八戸短
21 号
期大学総合研究
及び楽譜・音源データ保存)(地域
2012 年
所
間交流促進モデル構築調査研究事業
(新郷村・八戸市)報告書)」
「世界の花とならむ事を望む -跡
榊原千鶴
名古屋大学文学部
見花蹊にみる"知"の継承と明治初期
研究論集,文学,
の女性教育-」
第 56 号
「戦時下におけるキリスト教主義学
大迫章史.
キリスト教文化研
242
名古屋大学
2010 年
宮城学院女子大
2008 年
校の態度決定 -1940(昭和 15)年
究所研究年報
学キリスト教文
の基督教教育同盟会校長会における
化研究所
申し合わせ-」
「戦時下の女学校生活」
史料室だより
東洋英和女学院
No.76
資料室委員会
史料室だより
東洋英和女学院
No.39
資料室委員会
和歌山大学
2013 年
学び舎,教職課程
愛知淑徳大学教
2011 年
研究,第 6 号
養学会
白鴎大学教育学部
白鴎大学教育学
論集
部
大阪教育大学紀
大阪教育大学
1982 年
芸術・メディア・
日本大学大学院
2014 年
おける校歌表象について -頌栄女
コミュニケーショ
芸術学研究科
学校・横浜英和女学校を例として-」
ン
「戦争中のこと」
下山田典子
田之上浜子
「大正期以降における高等女学校数
谷有加・片岡
和歌山大学教育学
学教育の充実 -史料に見る実際の
啓
部紀要 教育科学
教育課程- 」
「大正期から昭和初期における高等
2011 年
1992 年
第 63 号
三和義武
女学校の発展と学科課程の比較・検
討 -愛知県第一高等女学校と私立
愛知淑徳高等女学校の事例から-」
「大正期における私立女子中等教育
櫛田眞澄
学校のカリキュラム研究 -キリス
2008 年
ト教による生活主義女学校の建学精
神の分析- 」
「大正期の音楽教育 第 I 報 -日本
村松直行
教育音楽協会の創立と創立初期の活
要,第Ⅴ部門,教
動- 」
科教育,第 31 巻,
第1号
「大正期のキリスト教主義女学校に
「大正時代に日本人の音感覚はどの
髙嶋有里子
奈良教育大学教育
奈良教育大学教
ように変化したか -アメリカ起源
研究所紀要
第 24
育研究所
の 3 つの流行歌の音律分析-」
号
第7
明治大学
2002 年
関西学院大学
2007 年
岡山大学環境管
2012 年
「大正デモクラシー期の学生生活-
奥忍
渡辺隆喜
大学史紀要
校歌誕生前夜の学内状況- 」
「竹中郁作詞「紀見小学校校歌」試
1988 年
号
北川久
関西学院史紀要
論 - 故辻田豊学兄に捧ぐ-」
第 13 号
「多彩な季節感を育む日本の気候環
加藤 内藏
境に関する大学での学際的授業(暖
進 , 赤木
環境制御 34
理センター
候期の降水の季節変化に注目して)」 里香子 , 加
藤 晴子 ,
243
大谷 和男 ,
西村 奈那
子 , 光畑
俊輝 , 森塚
望 , 佐藤
紗里
「中学校学習指導要領解説 音楽
東京芸術社
2008 年
共立女學校青年
1933 年
編」
「同窓會會報」
會 共立女學校
同窓會
「東大が今さら校歌制定で漏れ聞こ
堀和世
える「ザワザワ」」
『サンデー毎日』, 毎日新聞社
2004 年
通号 4642
「東洋英和女学院校歌の主題による
長尾嘉晃
変奏曲」
東洋英和女学院短
東洋英和女学院
期大学研究紀要
短期大学
1971 年
第 10 号
「「東洋永和」の勤労動員」
岩原さかえ
「童謡復興運動期の初等科音楽教育
石田陽子
理念についての一考察 -音楽教育
史料室だより
東洋英和女学院
2010 年
No.75
資料室委員会
四天王寺大学紀
四天王寺大学
2008 年
アプロツーワン
2003 年
仁愛大学
2010 年
仁愛大学
2011 年
要 ,第 46 号
者の唱歌および童謡観を手がかりと
して-」
「なお生き、強要される「天皇の勅」 備中臣道.
『アプロ 21』,第
--「神州第一」の山梨県立日川高校
73 合
の校歌をめぐって」
「なるせ小中学校復興だより
第4
鳴瀬地区小中学校
号」
統合準備委員会事
局 東松島市教育
委員会内,2013 年
2 月 15 日
「日本歌曲・歌詞背景の研究(その
坪田信子
仁愛大学研究紀
1) -文部省小学校学習指導要領共
要,人間生活学部
通教材曲において-」
篇,第 2 号
「日本歌曲・歌詞背景の研究(その
坪田信子
仁愛大学研究紀
2) -文部省小学校学習指導要領共
要,人間生活学部
通教材曲において-」
篇,第 3 号
244
「日本語讃美歌のための音楽」
「日本における音楽教育の歴史とそ
カールス著
フェリス女学院大
フェリス女学院
手代木俊一
学 音楽学部 紀
大学
訳
要
近藤光江
川村学園女子大学
川村学園女子大
研究紀要
学図書委員会
の変遷 -「唱歌・童謡」の歌詞・
1998 年
第3号
2007 年
旋律・リズムから探る- 」
「東日本大震災からの学校の復興
-現状と課題-
黒川直秀
第 736 号」
国立国会図書館,
2012 年
ISSUE BRIEF
「東日本大震災による被害情報につ
文部科学省
いて(第 208 号)」
2012 年 9 月
14 日発表
「光が丘第一小学校・光が丘第二小
学校 統合準備会だより(第 14
号)」,平成 21 年 10 月 26 日発行
「光が丘第五小学校・光が丘第六小
学校 統合準備会だより(第 14
号)」,平成 21 年 10 月 26 日発行
「光が丘第三小学校・光が丘第四小
学校 統合準備会だより(第 14
号)」,平成 21 年 10 月 26 日発行
「光が丘第七小学校・田柄第三小学
校 統合準備会だより(第 14 号)」,
平成 21 年 10 月 26 日発行
「「火の会」の別府講演と校歌(大学
吉岡義信
歌)の誕生」
「広島県下における小・中学校校歌
中山裕一郎
史学論叢 ,第 42
別府大学史学研
号
究会
教育学研究紀要
中国四国教育学
に関する調査報告」
2012 年
1986 年
会・四国教育学会
「平成 21 年度練馬区各合計歳入出
東京都練馬区発行
決算説明書」
「平成 22 年度練馬区各合計歳入出
東京都練馬区発行
決算説明書」
「保育唱歌および雅楽に関する楽書
東元りか
大学院教育改革支援プ
お茶の水女子大
資料の収集および研究調査(学生海
ログラム「日本文化研究
学・研究成果コレ
外調査研究)」
の国際的情報伝達スキ
クション
ルの育成」活動報告書,
海外教育派遣事業編
245
2009 年
「〈真白き富士の根〉と賛美歌(2) 手代木俊一
フェリス女学院大
フェリス女学院
-大和田建樹・三角錫子とキリスト
学 音楽学部 紀
大学
教:小さな教会としての〈ホーム〉
要
1997 年
第2号
-」
「宮良長包の音楽教育活動に関する
沖縄キリスト教短
沖縄キリスト教
研究(3) -最新の発掘作品を中心
期大学紀要
短期大学
に-」
号
「宮良長包の音楽教育活動に関する
大山伸子
沖縄キリスト教短
沖縄キリスト教
研究(5) -作品研究Ⅱ(昭和前期
期大学紀要
短期大学
篇)-」
号
「宮良長包の音楽教育活動に関する
大山伸子
第 35
沖縄キリスト教短
沖縄キリスト教
研究(6) -作品研究Ⅲ(昭和篇-
期大学紀要
短期大学
②)-」
号
「明治期キリスト教主義女学校にお
大山伸子
第 36
髙嶋有里子
ける校歌表象」
第 37
芸術・メディア・
日本大学大学院
コミュニケーショ
芸術学研究科
2007 年
2008 年
2009 年
2012 年
ン
「明治後期の校風養成と近代校歌の
東京大学大学院教
東京大学大学院
成立 -学校行事再編のための「校
育学研究科 教育
教育学研究科
訓」・「郷土」・「歴史」・「ジェ
学研究室<研究室
ンダー」」
紀要>第 26 号
「明治期における公立女子中等教育
水崎富美
櫛田眞澄
学校のカリキュラム研究 -天皇制
2000 年
白鴎大学教育学部
白鴎大学教育学
2007 年
論集
部
『現代詩手帖』,
思潮社
2004 年
日本音楽教育学
2011 年
国家主義的イデオロギーによる公立
高等女学校の設置- 」
「明治における詩歌の韻律」
筑紫磐井
第 47 巻,第 8 号
「明治 10 年代~20 年代の京都府女
丸山彩
音楽教育学.
学校・京都府高等女学校における音
会
楽教育の展開 」
「明治初期における音楽教育の展望
馬場健
哲学 第 53 集
三田哲学会
1968 年
権藤敦子
東洋音楽研究 第
東洋音楽学会
1988 年
聖徳学園岐阜教育
聖徳学園岐阜教
1981 年
大学紀要,第 8 号
育大学
-伊沢修二と音楽取調掛を中心に
-」
「明治・大正期の演歌における洋楽
受容」
「明治・大正期の高等女学校教育 -
教育内容と評価-」
53 号
関口礼子
246
「明治・大正期の洋楽系演歌におけ
権藤敦子
る借用の問題 -明治 37 年から大
エリザベト音楽大
エリザベト音楽
2001 年
学研究紀要第 21 巻
大学
弘前大学
2001 年
成城高等女学校
1933 年
正 6 年を中心に-」
「明治四十年前後津軽地方における
安田寛・北原
弘前大学教育学部
洋楽受容に関する考察」
かな子
紀要 第 85 号
「芽 第 4 号」
校友会
「盲学校の校歌・校章に関する考察
楠本実・梶本
大阪教育大学障害
大阪教育大学
1984 年
-聾学校との関連において- 」
勝史・井谷善
児教育研究紀要
則
第7号
「文学表現による過去の積雪量の推
松村光太
小山工業高等専門
小山工業高等専
2005 年
定に関する一考察 -その 2 校歌に
郎・上村 靖
学校研究紀要,第
門学校
おける雪言葉と積雪データとの関係
司 ・柴田 美
37 号
-」
由紀 ・千葉
幸一郎
「も詩も詩 第三回夜の校歌」
穂村弘
文學界
文藝春秋
2010 年
歴史文献
1981 年
東北芸術工科大学
東北芸術工科大
1995 年
紀要,第 2 号
学
「リタイア後の人生を「下り坂」に
『日経マネー 9
日経 BP 社
2012 年
するな 藤原和博」
月号』
「文部省日誌 明治 15 年 第 1 号至
40 号」
「山形市の校歌に見る地域景観」
「連載 親と教師のはざまに5
高野公男
江幡玲子
児童心理 8 月号
金子書房
1995 年
梶本勝史
日本教育学会大會
日本教育学会
1983 年
別府大学短期大学
別府大学短期大
2011 年
部紀要 ,第 30 号
学部
『地域分析』第 50
愛知学院大学産
巻
業研究所
“校歌”をうたうとき -心の財産
を育てる-」
「聾学校における校歌・校章と言語
指導」
研究発表要項 ,第
42 号
「私の作曲活動と作品」
「私の講義風景--始めと終り」
辛島光義
小池 秀夫
247
2011 年
新聞記事
新聞名
発行年月日
面
婦女新聞
1902 年 4 月 14 日
1面
婦女新聞
1902 年 5 月 5 日
1面
読売新聞
1903 年 11 月 17 日
朝刊 1 面
読売新聞
1906 年 9 月 14 日
朝刊 2 面
読売新聞
1907 年 2 月 22 日
朝刊 2 面
音楽文化新聞
1942 年 7 月 10 日
5面
音楽文化新聞
1943 年 7 月 1 日
4面
朝日新聞
1962 年 7 月 8 日
夕刊 11 面
朝日新聞
1967 年 10 月 1 日
朝刊 24 面
朝日新聞
1979 年 8 月 20 日
夕刊 2 面
朝日新聞
1987 年 8 月 6 日
朝刊 18 面
朝日新聞山梨県版
2011 年 3 月 9 日
朝刊 29 面
朝日新聞栃木県版
2011 年 4 月 8 日
朝刊 25 面
朝日新聞
2011 年 5 月 18 日
朝刊 33 面
朝日新聞和歌山県版
2011 年 5 月 29 日
朝刊 32 面
朝日新聞
2011 年 6 月 3 日
夕刊 10 面
朝日新聞山梨県版
2011 年 7 月 8 日
朝刊 33 面
朝日新聞
2012 年 3 月 3 日
夕刊 11 面
読売新聞
2012 年 11 月 15 日
夕刊 12 面
朝日新聞宮城県版
2013 年 2 月 27 日
朝刊 25 面
朝日新聞
2013 年 2 月 27 日
夕刊 14 面
読売新聞
2013 年 3 月 5 日
夕刊 14 面
朝日新聞宮城県版
2013 年 3 月 16 日
朝刊 24 面
読売新聞
2013 年 3 月 17 日
朝刊 35 面
朝日新聞岩手県版
2013 年 3 月 20 日
朝刊 29 面
読売新聞
2013 年 4 月 9 日
朝刊 31 面
朝日新聞
2013 年 4 月 12 日
朝刊 16 面
朝日新聞
2013 年 5 月 23 日
朝刊 38 面
朝日新聞
2013 年 11 月 17 日
朝刊 39 面
248
サイト
名称
URL
青山学院
http://www.aoyamagakuin.jp/
跡見学園
http://www.atomi.ac.jp/
茨城キリスト教大学
http://www.icc.ac.jp/
茨城大学教育学部附属小学校
http://www.esch.ibaraki.ac.jp/
上野学園大学
http://www.uenogakuen.ac.jp/university/
お茶の水女子大学デジタルアーカイブ
http://archives.cf.ocha.ac.jp/
尾張旭市役所
http://www.city.owariasahi.lg.jp/
加須市
http://www.city.kazo.lg.jp
共立女子学園(大学)
http://www.kyoritsu-wu.ac.jp/univ/index.html
共立女子学園(中・高等学校)
http://www.kyoritsu-wu.ac.jp/chukou/index.shtml
恵泉女学園中学校・高等学校
http://www.keisen.jp/
自由学園
http://www.jiyu.ac.jp
十文字学園女子大学
http://www.jumonji-u.ac.jp/
頌栄女子学院
http://www.shoei.ed.jp
女子学院
http://www.joshigakuin.ed.jp/
女子学院
http://www.joshigakuin.ed.jp/
聖心女子学院
http://www.tky-sacred-heart.ed.jp
捜真女学校
http://www.soshi.ac.jp/
塚原康子 「明治 30 年の宮内庁式部職
http://www.lib.geidai.ac.jp/MBULL/31Tsukahara.pdf
雅楽部」
津田塾大学
http://www.tsuda.ac.jp/
東京女学館
http://www.tjk.jp/mh/indexhtml
東京女学館
http://www.tjk.jp/mh/indexhtml
東京都立駒場高等学校
http://www.komaba-h.metro.tokyo.jp/
東京都立竹草高等学校
http://www.takehaya-h.metro.tokyo.jp/
豊島岡女子学園中学校・高等学校
http://www.toshimagaoka.ed.jp/
那覇市役所
http://www.city.naha.okinawa.jp/
練馬区立光が丘秋の陽小学校
http://www.akinohi-e.nerima-tky.ed.jp/
練馬区立光が丘四季の香小学校
http://www.shikinokaori-e.nerima-tky.ed.jp/
練馬区光が丘夏の雲小学校
http://www.natsunokumo-e.nerima-tky.ed.jp/
練馬区立光が丘春の風小学校
http://www.harunokaze-e.nerima-tky.ed.jp/
信時潔研究ガイド
http://home.netyou.jp/ff/nobu/
林那須弘
http://www.rs.kagu.tus.ac.jp/tujimoto/2012hayashi.pdf
「地震津波による田老町の被害」
249
東日本大震災“絆”再生プロジェクト
http://kizuna-project.net/
校歌で紡ぐ心の復興
光が丘第一小学校・光が丘第二小学校統
http://www.city.nerima.tokyo.jp/kusei/ggakk/tekisei/haic
合準備会要点記録(第 1 回~第 17 回)
hi/hikarigaoka1_2.html
光が丘第五小学校・光が丘第六小学校統
http://www.city.nerima.tokyo.jp/kusei/gakko/tekisei/haic
合準備会要点記録(第 1 回~第 17 回)
hi/hikarigaoka5_6.html
光が丘第三小学校・光が丘第四小学校統
http://www.city.nerima.tokyo.jp/kusei/gakko/tekisei/haic
合準備会要点記録(第 1 回~第 17 回)
hi/hikarigaoka3_4.html
光が丘第七小学校・田柄第三小学校統合
http://www.city.nerima.tokyo.jp/kusei/gakko/tekisei/haic
準備会要点記録(第 1 回~第 17 回)
hi/hikarigaoka7_8.html
福岡雙葉小学校
http://www.fukuokafutaba.ed.jp/
本田増次郎Web記念館
http://masujiro.kakukaku-sikajika.com/
宮古市立田老第一中学校
http://www.taro-first.sakura.ne.jp/
三輪田学園
http://www.miwada.ac.jp/
文部科学省
http://www.mext.go.jp/
横浜共立学園
http://www.kjg.ed.jp/
横浜英和女学院
http://www.yokohama-eiwa.ac.jp
横浜共立学園
http://www.kjg.ed.jp/
横浜共立学園PDF
Kanagawa-shigaku.jp/kosho_img/pdf/yoko_kyoritu_ihh1011.p
df
横浜雙葉学園
http://www.yokohamafutaba.ed.jp/
YOMIURI ONLINE
http:://www.yomiuri.co.jp/feature/eq2011/information/201
30322-OYT8T00608.htm
陸前高田市立高田東中学校
http://www.edu.city.rikuzentakata.iwate.jp/higashi-c/ind
ex.html
立教女学院
http://www.rikkyo.ne.jp/grp/jyogakuin
和洋九段女子中学校・高等学校
http://www.wayokudan.ed.jp
250
謝辞
本論文を書くにあたり、お手紙を通して小学校・中学校・高等学校の校長先生、教頭先
生、音楽担当の先生、沢山の先生方から校歌を頂戴しました。中には沿革史や校歌に関す
る詳しい資料を付け加えて送ってくださった学校もありました。お心遣い有難うございま
した。幾つかの学校には直接訪問をし、校歌を頂戴しました。その際、突然の訪問にも関
わらず丁寧な対応をしていただいたこと、感謝申し上げます。また、校歌採集のため大学
付属図書館を訪れた際には司書の方々に丁寧な対応をしていただきました。その大学図書
館へ行くにあたり、何十通と紹介状を書いてくださった日本大学芸術学部図書館の司書の
方々には感謝の念に堪えません。
そして、博士前期課程在学時からずっと峰村澄子教授には音楽の視点から校歌の作品構
造や日本音楽の変遷などご指導していただきました。さらに博士後期課程からは山本雅男
教授、植月惠一郎教授からご指導していただきました。先生方のご指導がなければこの論
文は完成しませんでした。峰村澄子教授の薫陶をいただいた音楽学を核とした学問領域で
の深化と、山本雅男教授と植月惠一郎教授による幅広い領域からの複層的な視点を向けて
いただけたことで、近代の日本音楽史に対して新たな視座をわずかばかり切り開くことが
できたと思います。ただ、先生方のご期待にそえなかったのは、自らの力量不足の結果で
しかありません。これまで研究の機会を与えていただいた学恩に応えることができるよう
に、ここからさらに一歩進みたいと思います。
251