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プージャ・カパヒ
編纂
『ヒンドゥー教の神と女神
人の神性のすべて』
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compiled by Pooja Kapahi
"HIDU GODS AD GODDESSES:
Man Comprises All Deities"
目次
序章
偶像崇拝―――無形の神を知る前提条件
第1章
命のゴール
イントロダクション
1.アートマ意識―――なぜ、どのように達するのか
2.肉体としてのアートマの顕現
3.霊性の英知と解放への道 ――― 礼拝・献身・自己探求・瞑想・臆念
4.完全なる帰依 ――― 霊的解脱、命のゴールに達するために
第2章
ガネーシャ
イントロダクション
1.ヴィナーヤカとガナパティ―――ガネーシャ神の2つの側面
2.ビグネーシュワラ―――障害を取りのぞき富を支える者
3.ガネーシャ、ヴィナーヤカ、ガナパティ
―――ブッディ(知性)と無執着をはぐくむ者
4.ガネーシャの姿、持ちもの意味
一本の牙の者(エーカ・ダンタ)
ネズミのムーシカ―――ガネーシャ神の乗りもの
象頭神ガネーシャ
ヤシの葉の書物と数珠
ガネーシャ神の大きなお腹
灰色の体(シャシヴァルナム)、白い衣(シュクラムバラダラム)、慈悲深い顔立ち(プラサナヴァンダナム)
捧げ物(モダカ)
ランボーダラ
5.ガネーシャ神
―――心の霊性修養(サーダナ)を通じ覚醒にいたる道で障害を取りのぞく者
A. 五感と心のコントロールと浄化
B. 覚醒への障害を取りのぞく霊性修行
C. 技術、能力、意志、勇気、信念、不屈の精神、英知
D. 己を知ること
E. 純粋な行い(カルマ)―――覚醒のための心の純化
6.神として、師(グル)として―――障害を取りのぞくガネーシャの恩寵
7.ガヤトリー・マントラ―――覚醒への障害を取りのぞくガネーシャ神
まとめ
第3章
シヴァ神
イントロダクション
1.シヴァ-パールヴァティとアルダナーリーシュワラ
2.シャンカラ
3.サンバーシヴァ
4.サダシヴァリンガム
5.ジュナーナの体現者
6.ハラハラ(毒)
7.慈愛と恩恵の体現者
8.祝福の体現者(マンガラム)
9.トリ・ネトラ(トリヤムバガム)―――3つの目
10.三叉檄トリシュラ、ダマル
11.イシュワラ
12.ナンディ(雄牛)
2
13.シヴァ神の体のバースマ(聖灰)
14.ヒマラヤに住むシヴァ神
15.額の三日月
16.シヴァ神の座る象の皮
17.タンタヴァの踊り
18.シヴァ神
まとめ
第4章
ラーマ
イントロダクション
1.アートマ・ラーマ サット・チット・アーナンダ(存在・知性・至福)の体現者
2.ラーマの御名の威力
3.地上に降りた神の化身
4.ダルマ(正義、美徳)の体現者、人の理想像
5.シータの意義
6.アヨーディヤ(ラーマの王国)、ダシャラタ王(ラーマの父)、
バーラタ、ラクシュマナ、シャトルグナ(ラーマの弟たち)の意義
7.ハヌマーン―――奉仕と献身の模範
8.ハヌマーン―――バクティ(献身)の象徴
まとめ
第5章
クリシュナ神
イントロダクション
1.神の化身の降臨
2.クリシュナ神の誕生―――-闇の二週間
3.名前が語る教え
4.ヨギーシュワラの側面
5.プレマ(神の愛)の化身
6.サナタナ・サラティ(永遠なる御者)
7.ゴパーラとしてのクリシュナ神
8.クリシュナと8人の妻 16000人のゴピカ
9.クリシュナ神とアルジュナ―――クルクシェトラの戦い
10.クリシュナ神の言葉―――バガヴァッド・ギータ
11.好意も嫌悪も抱かぬ神
12.クリシュナ神の笛
13.偉大なる帰依者ラーダー
14.偉大なる帰依者ミーラ
15.クリシュナとゴピカたち
16.クリシュナ神とヤショーダー(養母)
17.バターを盗んだクリシュナ神 バターツボを壊したクリシュナ神
18.ゴクラ、マトゥラ、ブリンダヴァン、ドゥワラカ
19.黄色い白檀(ハリチャンダナ)、額の点(ティラカム)、カウストゥパの宝石、
鼻に輝く真珠、カンカラの腕輪、青い肌―――その意義
20.ナラカスラ―――クリシュナ神に滅ぼされた悪魔
まとめ
第6章
バーガヴァン(神)
シュリー・サティア・サイ・ババ
イントロダクション
1.サティア・サイ・ババの名前の意味
2.バガヴァン・シュリー・サティア・サイ・ババの使命
3.アートマ(普遍の至高の魂)、プレマ(神の愛の化身)、アーナンダ(至福の体現)
4.サティア・サイ・ババ アヴァターの特徴
5.サティア・サイ・ババの神聖なるサンカルパ(意思)と恩寵
3
6.バガヴァン・ババが帰依者にすすめる霊性修行(サーダナ)
7.バガヴァン・ババの誕生日の意義
8.夢の中のババの姿の意味
まとめ
第7章
ブラーフマ、ヴィシュヌ、マヘーシュワラ
イントロダクション
ブラフマー神
ヴィシュヌ神(ナーラーヤナ)
マヘーシュワラ(シヴァ神)
1.三大神 ブラフマー・ヴィシュヌ・マヘーシュワラ(シヴァ)
2.ヴィシュヌ神―――ナーラーヤナ
まとめ
第8章
ドゥルガー、ラクシュミー、サラスワティー
イントロダクション
ドゥルガー
ラクシュミー
サラスワティ
1.ドゥルガー、ラクシュミー、サラスワティ(概要)
2.ドゥルガー―――クリヤ・シャクティ(行いの力)、プラクリティ(自然の力)
3.ラクシュミー―――イッチャ・シャクティ
4.サラスワティ―――ジュナーナ・シャクティ(純粋なる知性、言葉の力)
まとめ
終章
4
序章
私がはじめにこの本のタイトルを『ヒンドゥー教の神と女神: 人の神性のすべて』にしようと
確信したのは、1992年頃で、当時は他の信仰を抱く人はもとより、ヒンドゥー教徒でさえもヒ
ンドゥーの神や女神の秘める意義深さをほとんど知らないことに気づきました。私はこの美しい普
遍的な知識を、宗派にかかわらずすべての人に役立ててもらいたいという強い願いを感じました。
そして私は時のアヴァター、バガヴァン・シュリー・サティア・サイババの言葉を集めはじめ、4
0年以上にわたって授けられた何ダースもの神の教えの記録が、この一冊の本にまとめられること
になりました。ヒンドゥー教の神は、この宇宙の普遍的真理を示しています。一見したところ神に
は別々の名前や姿があるため、みな同じ存在であるとは感じられないかも知れませんが、すべてが
大いなる神に結びつく多様な側面にすぎず、すべての宗教を超えると同時に、すべての宗教の本質
でもあるのです。ヒンドゥー教の神々は有限の客観世界の中で無限の役割を演じ表現しています。
その姿は人生において出会うできごとを陰で支え、また生みだしているのです。次に続く引用はバ
ガヴァン・シュリー・サティア・サイババが様々な神の御名と御姿について語った言葉です。
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◇
神にはどんな名前、どんな姿を与えることもできます。神には様々な名前が与えられてきました。リシたち
でさえ、神を様々な名前―――シヴァ、シャンカラ、アディーティヤ、サンバーヴァ、バガヴァン―――で呼
んでいます。これらはみな神に与えられた名前です。しかし神自らは神に名前をつけません。あなたの見るも
のすべてを神と呼ぶことができるのです。自然が神、力が神、あるいは無が神。しかし無はたんに無なのでは
ありません。無はすべてでもあるのです。すべてと呼ぶものの中に無があり、無と呼ぶものの中にすべてがあ
ります。全が無であり無が全なのです。人はいいます「神はいない」しかしすべては神の手の中です。無神論
者は存在するものを否定します。「There is no God(神は存在しない)」というとき、「There is(存在する)」
という言葉が先にきます。無神論者は存在するものを否定するのです。盲目なだけにすぎません。
(サイババ講話集[西インド地区]
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第1巻
57p)
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人はあえて神や女神をああである、こうである、と説明しようとします。しかしそれは人には想像力がある
ことを示しているにすぎません。どんなに言葉をついやしたところで、絵に描かれた肖像を説明しつくすこと
はできません。じかに実感したとき、舌はものを言わなくなります。神の肖像は無限です。人の知力や想像力
のおよぶ範囲を超えています。しかし人は無限に広がる壮大なものを、限られた枠の中に描き、アヨディヤー、
ドゥワルカ、マドゥライ、カニヤクマーリのような場所におさめ、名や姿を与えては、そこを訪れ崇めまつろ
うとします。名や姿が与えられたところで、神が制限されることはありません。ある一か所から海に飛びめば、
その場だけでなくすべての海に飛びこんだのと同じです。海はひとつにつながっているからです。線を引いて
部分部分に分けることなどできません。どこから飛びこもうと、まったく同じ神の至福に飛びこんでいるので
す。
(サティア・サイ・スピークス7
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160-161p)
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神はあらゆる名、あらゆる姿をとり、それらすべてを調和の中にうまくおさめています。各信仰、各共同体
に崇められている神はみな、偉大なるただ一つの神の手足にすぎません。五感や手足が絶妙に調和して肉体を
形作っているように、神も人々が与えた名や姿すべてが調和したものなのです。
(サティア・サイ・スピークス8
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95p)
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神は唯一無二の存在です。あなたの思うまま、望むままに神を崇めることができますが、神は決して変わる
5
ことがありません。あなたが神の呼び名を変えても、心に抱く神の姿を変えても、神は決して変わりません。
甘いお菓子にはたくさんの種類があって、名前も形も違います。しかしお菓子を甘くしているもの、それはた
ったひとつ、砂糖だけです。その中からどれかを選ぶことも、どれかを好むこともできますが、他人の選択を
なじったり、じゃますることはできません。
あなたがクリシュナを崇めているとしましょう。その名その姿
は偉大な喜び、最大の感激を与えてくれます。しかし同じ神を他の名や姿―――ラーマ、シヴァ、ヴィシュヌ、
その他―――で崇める友を悪く言ってはいけません。あなたがしたのと同じように、その人にも自分の好きな
神を選択する権利があるのです。神の威力はどのマントラ、どの神の姿、どの神の名を中心にすえるかにある
のではありません。心の中に、焦がれる気持ちの中に、求める渇きの中にあるのです。あなたが叫んだ名にこ
たえ、あなたが求めた姿をとるのです。それが神の恩寵というものです。
揺りかごの中の赤ん坊が泣き声をあげれば、母親はすぐさまテラスからかけおりて、あやしたりミルクをあ
げたりするでしょう。泣き声が正しい音程か、適切な音色かなどと考えこんで立ち止まったりしません。それ
と同じで、この宇宙の大いなる母も、純粋な心からわきおこるせつなる想いであれば、自ら玉座から降りてき
て、子どもたちをなで、抱きしめ、慰めるのです。マントラの正しさだとか発音だとか、心の中でせつに願っ
た神の姿が完璧かどうかを確かめたりなどしません。肝心なのは心に抱いた想いであって、帰依してからの長
さでも、つぎこんだお金の額でもありません。
(サティア・サイ・スピークス10
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217-218p)
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この神の名こそが他より優れたものだとか有力だなどと言うことはできません。ラーマが、シヴァが、他
に勝る神だとか、ましてやサイババこそがすべての中でもっとも完全なる化身であると宣言したところで、あ
なたが神を理解できていないことの証拠でしかありません。ラーマはナーラーヤナのラ、ナマシヴァーヤのマ、
つまりヴィシュヌ信徒、シヴァ信徒のマントラからなりたちます。シヴァとヴィシュヌの本質を示しているの
です。もしくはハラ(シヴァ神)のラ、ウマ(シヴァ神のシャクティ)のマであり、シヴァシャクティを示し
ているともいえるのです。どの名前も、すべての名がひとつであることを教えているというのに、どうして互
いが争いあうことなどできるでしょうか。
(サティア・サイ・スピークス10
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18p)
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神ほど偉大で崇高な慰めはありません。好きな呼び名で神に祈り、名のない神のことを語りなさい。それが
神のサカーラでありニラーカーラです(形があると同時に形のないもの)。海の水は入れられたうつわの形を
とります。うつわに入れられれば形のないものも形をとり、すべてを超えた絶対者も特定することができるの
です。そして気がつくでしょう、すべての歓びの源が形ある神からもたらされており、形のないものには喜び
も悲しみもないことを。形がないということは、二元性を超越しているということだからです。
宝石は歓びを与えます。富を与えるのではありません。神も、その御名を体験し、姿を心に刻むことができ
ます。名や姿を心にとりこみいつもそれを想うことで、歓びに満たされるのです。それがジャヤデーヴァ、ゴ
ウランガ、ラーマクリシュナらが、砂糖そのものになるよりも、砂糖を味わうアリでいたいと願ったゆえんで
す。神の御名は心にまかれる種のようなものであり、神の恩寵がふりそそぐとうっとりするほど美しい木へと
育ちます。神の御名に育てられた木は、どれも等しく、美しくて立派です。クリシュナ・ナーマを抱けば、ク
リシュナの姿と形が思い出され、ラーマ・ナーマを抱けば、ラーマの姿になります。
(サティア・サイ・スピークス1
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217p)
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神はひとつですが、神を愛するあまり人々は神と様々な関係を結んできました、あるものは父なる神と呼び、
あるものは母なる神と呼び、あるものはキリスト、シヴァ、ハリなどと呼んでいます。これらはみな想像力か
ら生じた違いなだけで、すべての背後にあるのは唯一なる神です。
(サマー・シャワー・イン・ブリンダヴァン
6
1992年
239p)
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神の名の多くは二文字か二音節からなりたちます(ラー・マ、クリ・シュナ、ハ・ラ、ハ・リ、ダッ・タ、
シャク・ティ、カー・リー)。二つであることには、前の音節が積みあげられた罪を焼きつくすアグニ(火の
原理)であり、後ろの音節が再生・復活・改心のアムリタ原理であるという意味があります。この二つのプロ
セスは必ず必要です。障害をとりのぞき、新たなるものを築いていくのです。
(サティア・サイ・スピークス9
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129p)
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私がヒンドゥー教の神々、女神たちにこめられた深遠なる意味の数々を一冊の本にまとめようと
思った二つめの理由は、サティア・サイババが、心を浄化し人間性全体を神性に変えていくための
手段として、神の賛歌、つまり神の御名と神の栄光をたたえる歌を歌うことを強調しているためで
す。私の個人的な経験からいっても、もしバジャン(神をたたえる歌)の歌い手、もしくは聴き手
が、神や女神、神と一緒に描かれる持ちものにこめられた意義を知っていたなら(たとえばシヴァ
神の太鼓ダマルは、創造や宇宙のエネルギーの原初音OMを象徴しています)、バジャンはこの宇
宙の真理や人の内なる神性について、深く思いめぐらす基盤になりうると思ったのです。人もまた
神であることに目覚めることで、私たちは人の一生の目的を理解することができるでしょう。内な
る神性を発見するために霊性修養の実践が必要であることを、サティア・サイババは次のように語
ります。
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人は神です。覚醒はすぐそこにあります。人ひとりひとりが神であることをふたたび認識するだけのことで
す。肉体があなたではありません。肉体はうちに秘めた神性のきらめきである魂を宿す入れ物にすぎません。
神はすべての人の心に宿るものであり、その神性のきらめきこそがあなた自身に他ならないからです。他のこ
とはすべて幻にすぎません。このことを深く思いめぐらし真理があらわになったとき、あなたは真の自分とい
うものを見いだすでしょう。あなたの生き方そのものが変わり、すべてのものをひとつの光のもとに見るので
す。
(サティア・サイ・スピークス4
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258p)
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神はあなたから離れてもいなければ、あなたと異なるものでもありません。あなたが神なのです。あなたが
サット・チット・アーナンダ(存在・意識・絶対なる至福)なのです。アスティ(存在)であり、バーティ(意
識)であり、プリヤム(至福)なのです。あなたはすべてでもあるのです。この真理にいつ気づくことができ
るのでしょうか。真理を覆いつくす幻想を振りはらったときです。サット・チット・アーナンダであるブラー
フマ・アーナンダを体験したいと求めるあなたの気持ちが、嘘偽りない純粋なものであるならば、今日この日
から、これから私が言うことをつねに心に留めておきなさい。
1)
「私は神である。私は神と何ら変わることがない」つねにこれを意識しなさい。心にい
ておきなさい。「私は神、私は神、私は神と何も違わない」いつもこう思いつづけ
つも留め
なさい。そしてこの
サーダナ(霊性修行)を忘れることのないよう祈りなさい。
2)
「私はアカンダ・パラ・ブラーフマン(目に見えぬ至高の絶対実在)である」たえまな
くくりか
えし祈りつづけることで、意識に確立すべき二つめの真理がこれです。
3)
「私はサット・チット・アーナンダ(存在・意識・至福)である」
4)
「悲しみも不安も決して私に影響を与えることはできない」これを強く信じ何度も言い
聞かせ、
また祈ることでこの真理を自分自身に確信させなさい。
5)
「私はつねに満ちたりている。どんな恐れも私をおびやかすことはできない」いつもこ
感じていなさい。この確信が強く育つよう祈りなさい。「セルフよ、オーム・タッ
タット・サット(オームこそが真理)。それがブラーフマン(至高の
7
のことを
ト・サット、オーム・
絶対実在)を象徴する3つの言葉」
くりかえし自らにそう言い聞かせなさい。
肉体が5つプラーナ(生気)によって健やかで力強くなるにつれ、この5つの祈りはブラーフマンそのもの
である「ブラフマー意識」をあなたに授けます。
(サティア・サイ・スピークス16
◇
◇
◇
170-171p)
◇
私が何ものであるかをウラヴァコンダで表明したとき、あなたがたに与えた第一の教えは次のものです。「*
マーナサ
バジャレ
グルチャラナム、ドゥスタラ
バーヴァ
サガラ
タラナム」つまりは、まず自分が「バ
ーヴァサガラム=生と死のサイクル」の中にいることを知りなさい、そして「タラナム=そのサイクルを超え
ること」を決意しなさい、あなたに一番訴える神の御名と御姿に心を定め、最後には神の栄華にとどまりなさ
い、バジャン(神の栄華の歌)を心のすべてで歌いあげなさい、ということです。この相対的な世界に惑わさ
れているものはサムサーリ(俗人)であり、それが相対界にすぎないことを知っているのがサダカ(霊性の徒)
です。
*Manasa bhajare Gurucharanam, Dusthara bhava sagara tharanam
(サティア・サイ・スピークス3
◇
◇
◇
152-153p)
◇
ラーマはダルマの体現者であり、クリシュナは人の姿を愉しみました。しかしそれが何だというのでしょう。
自分もラーマやクリシュナの肉親であり、すべてのマーナヴァ(人)がマーダヴァ(神)であり、すべてのナ
ラ(人)がナーラーヤナであると感じたことがありますか?
てラーマのバクタ(帰依者)だなどといえますか?
ラーマのダルマに少しも従わずにいて、どうし
クリシュナのプレマ(神の愛)を実践することなくして、
どうして自分がクリシュナ・バクタ(帰依者)であると誇れますか?
理想の姿から離れていてはいけません。
できる限り近づきなさい。たとえ神が壮大な宝で、一方あなたがほんの小さな宝石にすぎないとしても、理想
として想い描く黄金のように光り輝きなさい。バクタとは自らがバガヴァンの姿であるものです。そうでなけ
ればスワルーパ(神の化身)というものに何かをいうことなどできません。
(サティア・サイ・スピークス4
◇
◇
◇
234-235p)
◇
この本を整えはじめた3つめの理由は、全世界的な偏見を取りはらいたかったことにあります。
「唯一のセルフ=神」がこの宇宙の根源であることを信じていようといまいと、また実感していて
いようといまいと、ヒンドゥー教とはそういった偶像崇拝者でなりたつ野蛮な宗教であるという偏
見です。ヒンドゥー教の根源は、明らかに唯一、存在し、全知全能であるセルフあるのみ、という
ことです。たくさんの神や女神たちで表されているように、このセルフには数多くの働きや側面が
ありますが、万物が唯一なる神の様々な姿からなりたつています。サティア・サイ・ババは、私た
ちを形のない唯一神への認識へと導く偶像崇拝、もしくは姿ある神に対する崇拝の起源、意義、そ
して必要性を次のように語ります。
◇
◇
◇
◇
この現象界のすべてが原子の顕れです。あなた方が飲む水、吸いこむ空気、耳にする音のすべてが原子から
なりたっています。五元素(エーテル、空気、水、火、地)はすべて原子でできており、大宇宙にいきわたっ
ています。この大宇宙は五元素の顕れなのです。そうしたことから、いにしえの人々は宇宙を神の顕現とみな
したのです。
人々が原子の世界を探求したり、原子のエネルギーを発見しはじめるよりはるか昔、化学者たちが霊性とい
うものを理解しはじめる前から、バラティヤ人(インド人)は地(ブーミ)を神として崇拝していました。な
ぜなら地中には五元素があり、地を「ブーデヴィ=地の神」としてたたえたのです。
さらにバラティヤの人々は水に宿る神性を認め、水をガンガーデヴィとして崇拝し、また火の神、風の神(ヴ
8
ァーユデーヴァ)、サッダ・ブラーフマン=音の神をも崇めました。このように、五元素はみな神の顕れとさ
れ、バラティヤの人々によって崇拝されてきたのです。五元素を崇拝することの深遠なる重要性を理解するこ
とのなかったよその土地の人たちは、彼らを軽くみなしました。
すべての原子には形があります。この世に形を持たないものはありません。形は神の顕れ(ヴィグラーハ=
偶像)です。他の宗派の人々は、偶像崇拝をばかげたことだといいます。偶像崇拝を迷信の産物としてあざわ
らうのです。しかし、それではなぜ形の無い物を崇拝するのかを彼らは説明しようとはしません。
誰であれ、この世のものを形と結びつけて学んでいきます。ほとんどの人が神を普遍の存在、すべてに宿り
すべての人におわすものとして理解することができずにいます。ここにあるマイクを指さして「これはマイク
です」と私が言い、あなた方もいったんこれをマイクと認めれば、もう指でさし示す必要はありません。花を
さして「これは花です」と言い、あなた方もこれを花と認めれば、ふたたび示す必要はないのです。同様に、
偶像とは神を示すために用いられます。神の認識がなされるまでは、偶像というものが不可欠なのです。そし
て一度神を認識してしまえば、偶像は必要ではなくなるのです。
偶像を崇拝することで神を体験した後には、誰もが自らの神体験を語れるようになります。神を崇めること
もなく、霊性の体験も得られずに、いったい誰に神の本質が語れますか?
だからこそ神の偶像を崇拝するこ
とが大切なのです。すべてのものが神のしるしであること、すべての原子が神性であることを知りなさい。
命も意識もない偶像を崇拝するとはばかげたこととはいえないか、ある人々は疑問を抱きます。この問いか
けは無知から生じたものにすぎません。今日では、70クロア(1クロア=10,000,000)ものバラティヤ(イン
ド)の人たちが国旗を掲げ敬意を表します。この旗がそういった地位を与えられるまでには、たくさんの人々
がこの国の自由のためにすべてを犠牲にしました。おおぜいの人が長きにわたる投獄に苦しみました。彼らは
独立国として自分たちの国旗を手にするまで、あらゆる苦難を味わったのです。8月15日、1月26日には、
インドでは国中で国旗が掲げられ、国の独立を象徴するものとして敬意が表されます。同じように他国の人々
も、誇り高き自国の旗に敬意を払います。ときには自分の属する集団の旗が敬われることさえあります。
この旗は生きているものですか? 命やエネルギーがありますか? そう問いかけていったなら、この旗を尊
いものにしているのが、人々の信心であることに気づくでしょう。
同様に、崇められる石の像に命や意識があるのかを問いかけたなら、国旗に対する敬意の例に答えを見いだ
すことができるでしょう。旗にされた1ヤード四方の綿の布に、どうして価値があるのでしょう。旗が自由へ
の戦いに勝利したことを象徴していることに由来します。勝利には形がありません。その旗が、なしとげた勝
利を示しているのです。旗がなかったなら、どのようにして自由への戦いに勝利したことを示すのですか?
崇拝される偶像の数々は、「神はどこにいるのだろう」と問いかける人々への答えです。真実は、神はひと
つひとつの原子すべてに宿る、です。ひとつひとつの原子それぞれが、神の力を示しているのです。すべての
原子が崇拝にあたいします。創造されたすべてのものが尊敬にあたいします。人はすべてのものにたいしてこ
の感情を育てていかねばなりません。
しかし、物質的な肉体が永遠であり、何にもましてすべてであると思いこむことにより、人ははかなくうつ
ろうものを追い求め、生をむだにしています。肉体なくして行為はありえません。行為なくして結実は得られ
ません。ですから肉体はすべてにおけるいしずえです。肉体は形(ヴィグラーハ)なのです。ヴィグラーハと
いう言葉は、崇拝される対象としての偶像を意味します。しかしこのヴィグラーハには、それとはまた別の重
要性があります。神を知ることのできるのが、このヴィグラーハを通してなのです。この世界において、形の
ないものへの崇拝(アラダーナ)は決してありえません。姿なきものを崇拝することが誤解されているのです。
偶像崇拝に異議を唱える人々は、その誤解に導かれてしまった人々なのです。
どの宗教にも独自の崇拝の形があります。たとえば、自然(プラクリティ)です。自然には魅了する力があ
ります。そこに五元素のすべて(地・空・火・水・エーテル)が含まれているからです。私たちの食べる食物
をもたらすのもこの自然です。自然はあらゆるミネラルの源です。自然は人の日常を支えています。それが事
実であるならば、自然を崇めることのどこに間違いがありますか? それほど多くを与えてくれるものにたいし、
感謝の念を示すことが間違いですか? この感謝の気持ちが崇拝というものの形です。
人もみな五元素からなりたちます。この五元素なくして存在することはできません。それに感謝を示す義務
などまったくないというのですか?
自然には魅了する力があります。これは磁力と呼ばれます。自然には莫大な磁力があるのです。すべてのも
のがこの磁力の影響を受けています。そのプロセスにおいて、それぞれのものもまた磁力を得、磁気を帯びる
ようになるのです。
今日化学者たちはこの自然の惹きつける力を理解しようとしています。たとえば寺院です。何千という人々
9
が礼拝のために寺院を訪れます。地の磁力が聖域にある偶像にまでおよんでいるからです。そして何千という
巡礼者たちの想いがその偶像に惹きつけられるのです。そうして、惹きつける力はますます強められ、この偶
像のために行われる儀式がさらにその力を高めます。このプロセスは、数本の釘(くぎ)が磁石の近くに置か
れたときの様子からもうかがい知ることができます。そのまま2日もたてば、釘にも磁気が帯びはじめること
でしょう。同じように、寺院を訪れた何千もの礼拝者たちによって力の与えられた偶像は、ますます惹きつけ
る力を強めていきます。そして力を吹きこまれた偶像が、礼拝者たちに活力を与えるようになるのです。
このように、この世においてこういった力を持たないものはありません。原子のエネルギーはいたるところ
に存在します。この原子の力の本質を理解してはじめて神の力をも理解することができるのです。
偶像を崇拝することは意味のない礼拝ではありません。すばらしい習慣であり、それにもとづくことで高次
の意識に到達することができます。家庭には、祖父母や先祖の写真が飾られます。今の世代の人々は彼らに会
ったことがありません。それでも写真には花を捧げ先祖たちを敬います。この写真に命はありますか? 愛を示
していますか? 写真そのものが血縁を表していますか? いいえ、そうではありません。しかし写真がその人
の祖先を表しているという感覚によって、敬い慕われているのです。同様にこういった尊敬の念や慕う心を喚
起するのがものにたいする愛情です。それが献身と呼ばれます。この献身の心はすべてのものにむけて示され
るべきものです。神はすべてに宿り、すべての原子に存在しているからです。そのような献身を育むのは難し
いことかもしれません。しかしこの原理を正しく理解したなら、献身の実践はたやすくなります。
偶像崇拝については過去においても議論の的であり、疑いがもたれてきました。たとえば、チャルヴァカ派
として知られた一派は偶像崇拝を軽蔑しました。しかし後になってその価値を認めています。この世のものに
は原子をはじめとしてすべてのものに形があり、形あるものはすべて崇拝にあたいする偶像(ヴィグラハム)
であると気づいたからです。水の形とはいったいどんなものですか? このコップの中には水があり、コップに
よって形が作られます。同様に、空気も風船の中に入れられればその形をとります。それとまったく同じで、
人の肉体が神のエネルギーに満ちあふれれば、神は人の姿を借りるのです。すべてにいきわたる神性も、神を
示す姿をとることになるのです。神は普遍であり、それゆえ崇められる像の中にも神がいる、という真理を胸
に、神への崇拝を実践しなさい。そうすることで必ず神のヴィジョンへたどりつきます。
(サナタナ・サラティ 1995年3月号 57-62p)
偶像崇拝―――無形の神を知る前提条件
霊性において、ものごとの決定要素は体験です。実際の体験をへた証言の前で、理屈は沈黙するのみです。
どんな理論にも弁証法にも、それら内なる証(あかし)の絶対的な効力を帳消しにすることはできません。偶
像崇拝の例を取りあげてみましょう。多くの人々が偶像崇拝をする人を見て笑い、迷信だと非難します。しか
し偶像崇拝をする人々は、遍在にして全能なる神が目の前の像にも宿っていることを信じるのです。彼らにと
って、像はたんなるうわべだけの飾りものでも装置でも置物でもありません。献身と信仰という内なる働きの
一部なのです。もちろん、偶像は命のない木や石やブロンズにすぎないと考えて「崇拝」したところで、膨大
な時間の浪費でしかありません。しかし、像や偶像には命があり、意識と力に満たされていると堅く信じて崇
拝するなら、偶像崇拝は神意識の覚醒を授けるでしょう。サダカは偶像の材料である石でなく、偶像によって
象徴された聖なる力、あなたのハートにも内在しすべてを超えて万物にいきわたる聖なる力こそを見つめなけ
ればなりません。
(サティア・サイ・スピークス2
◇
◇
◇
18-19p)
◇
聖者や賢者たちは、西洋の人々、東洋の人々に、人から神を隠してしまう無知のヴェールをどう取りはらっ
たらいいのかを様々な形で教えてきました。そのひとつの方法が神の姿を表した偶像の崇拝です。この方法は
融通のきかない狂信者たちによってひどく誤解されてきました。偶像の意義は実に簡潔で、容易に理解しうる
ものです。もしも何か、たとえばミルクを飲みたいと思ったら、コップが必要になりませんか?
ミルクはコ
ップに注がれその形をとります。リンガを偶像にすれば、そのリンガに聖なる輝き、栄華、恩寵がみなぎるよ
うに感じられるのです。クリシュナの偶像を崇拝すれば、神の神髄に満たされたさらに美しいコップを手に入
れ、それを飲み干して渇きを癒すことができるのです。
(サティア・サイ・スピークス8
10
36p)
◇
◇
◇
◇
ヴィマーナは何年もの間寺院を訪れることがまったくありませんでした。偶像が神を表すと思っていた人々
を見て長い間笑っていたのです。しかし娘が死に、ある日のこと、娘の肖像画を手に泣いていたのです。その
瞬間ある思いに打ちのめされました。もしこの肖像が私に悲しみをひきおこし涙を流させているのなら、偶像
にも神の栄華と美を知る者に歓びを呼び起こし涙させることがあるのではないか。偶像は神が普遍にしてすべ
てに宿るということをただ思い出させるものにすぎません。
(サティア・サイ・スピークス1
◇
◇
◇
100-101p)
◇
インドでは人々は木々に、草花に、鳥に、動物に、神を見ます。いたるところすべてにおわす神を崇めます。
肖像を崇めると、人は笑います。気弱な人は笑われて自らを恥じ入るかもしれません。しかし私たちは、肖像
を神としているのであって、神を肖像にしているのではありません。石を神として崇拝しているのであって、
神を石にしているのではないのです。
(サティア・サイ・スピークス10
◇
◇
◇
94p)
◇
偶像を神として見るとき、切り出され、彫られ、石であったものを別のものにしています。寺院に神だけを
見ているとき、石は石でなくなっているのです。寺院にいるときだけでなく、像を見たときだけでなく、いつ
何を見ても神だけが見えるよう、心を浄め磨きなさい。心はあなたの親友になり、もっとも有力な解放の手だ
てになります。
(サティア・サイ・スピークス10
◇
◇
◇
63p)
◇
くり返しますが、偶像崇拝を形のないものを崇拝していることとみなしなさい。水にもミルクにもそれ自体
に形はありません。入れられる容器の形をとる、そうではありませんか?
コップやビン、やかんや水差し、
ジョッキに入れればその形になります。クリシュナの姿も、あなた方が姿のないものを入れたクリシュナとい
う入れものの形になりました。ラーマ、シヴァ、リンガ、チャムンデーシュワリ、ガネーシャ―――すべてあ
なた方の想像力によって、形のない描ききれないものを入れた入れものの姿をとっているのです。そのナーマ
(御名)は甘露であり、入れもの、そして偶像にすぎません。
(サティア・サイ・スピークス4
◇
◇
◇
243p)
◇
求める者は石像を神の複製にまで高めます。神を石の像にしてしまうことはありません。偶像とはたんなる
入れものであり、促すもの、出発点、喚起するもの、そして神のおわす住処(すみか)にすぎません。至高の
存在が小さなものに押しこまれることはありません。小さなものが至高の存在の象徴であるだけです。目に見
えるものから見えないものへ、ひとしずくの水滴から大海へ、顕現するものから潜在するものへ、偶像崇拝は
このように探求者を助けていきます。事実、力、光、慈悲、英知、精気、知性、純粋さとして描くことなく、
全能の神をとらえることのできる人などありません。これらの資質は、太陽や蓮の花、空、海、そして波など、
具体的な感覚を通じてのみ意識に入ります。名前は音のイメージを呼び、音のイメージは形を呼びます。種の
中にはすでに木が含まれているように、リンガは顕すことができ、またすでに顕されているこの大宇宙を含み、
さらには宇宙の意思そのものである創造主をも宿します。
舌の上に神の名をのせ心で像を崇めるとき、決まりきった一連の動作にしてはいけません。御名の意味する
もの、御姿の示すものが、意識を高め啓(ひら)くようでなければなりません。その身を心からの深い崇拝に
浸しなさい。それが安らかに満ちたりているための道であり、人のあらゆる行いはそこにむけられ捧げられる
11
べきものなのです。
(サティア・サイ・スピークス8
◇
◇
◇
37p)
◇
この本の大部分はサティア・サイ・ババの言葉の引用であり、それを提供する形をとっています。
第1章は「命のゴール」と題され、人の一生の行き着く先、つまりアートマのみが唯一の真実であ
ると気づくこと、それについて述べられた言葉が引用されています。そのゴールを理解せず、ただ
礼拝と霊性修養を重ねても、セルフに目覚めるために与えられた絶好のチャンスであるこの一生を、
ただ意味もなく浪費してしまうばかりです。この本に記されたサティア・サイ・ババの言葉の数々、
その中に隠されたもっとも重要なテーマをお伝えしたいと思います。それはヒンドゥー教の神々、
女神たちとは、人の潜在能力や可能性を表したものであり、人に備わる神性、人間性、両者の側面
であり、さらには私たちが養い認識すべき責務を示しているということです。進化の行き着く先は
「人間性」ではなく「神性」なのです。次に続くサティア・サイ・ババの言葉には、今まさに、真
理をおい隠す無知から自由になる差し迫った必要性のあることが示されています。そしてそれは個
人の一生のゴールを理解するためだけでなく、憎しみ、惑い、煩悩(欲望)、貪欲、ねたみに満た
されたこの世界を、真理、愛、平和、正義の治める場所へと変えていくためでもあるのです。
◇
◇
◇
◇
人は幾世もの時代にわたり、自由を求め、くびきから解き放たれるために力をつくしてきました。しかしい
ったい何から自由にならねばならないのか、解き放たれるべきくびきとは何なのかを正しく認識したものはい
ません。また多くの人は囚われ囲いこまれていることにさえ気づかず、自らを解放しようとしていません。家
族が、妻が、子どもがあなたを縛りつけているのですか?
ですか?
富や財産、持ち物があなたを縛っているというの
誘惑するもの、嫌悪をよぶものがあなたを拘束するくびきですか?
いいえ、どれでもありません。
あなたの気持ちや行いに限界をもうける最たるものは、あなたが本当は誰であるかを知らないという無知です。
アートマ(神聖なる魂)に気づくまで、人は喜びという休息をおいては、嘆きから嘆きへとのたうちまわる
しかできません。嘆きには3つの原因があり、その性質にも3種類あります。(1)明らかなものが存在しな
いことからくる嘆き
(2)知りたいという欲求、つまり人のもつ理解力や推論の能力を誤解していること、
すべてに宿る神聖なるものの神秘を誤解したままでいることからくる嘆き
を引きはなし、切りはなしてしまう死というものからくる嘆き
(3)実現すべきことがらから人
この3つです。もし「ジーヴァ(個々の魂)」、
「ジャガット(大宇宙)」、「神というものの真理」に気づいたなら、人にはもう嘆くことも恐れるものもあ
りません。
ジャガット―――私たちをとりまいている目に見え知覚できるこの世界―――について考えてみましょう。
私たちが夢の中で体験したことは目が覚めれば消えてしまいます。目が覚めている間に見るものもまた一時的
なものです。眠っている間はこの世界について何も知ることができません。肉体はベッドの中にありながら、
実にリアルでドラマチックな夢を見、マドラスのマウント・ロードで買い物に大忙しということさえあります。
このように目覚めているとき、夢を見ているとき、眠っているとき、どの状態もが相対的な現実、思いこみの
現実にすぎません。もし夕暮れどき、バジャンを歌いながら宿舎にむかって歩いていて、先頭のものが「蛇だ!
蛇だ!」と恐怖に叫びだしたなら、その恐怖はすべての人に襲いかかり、みなが足を止めてしまうでしょう。
しかしそれは本当に蛇なのでしょうか。懐中電灯の明るい光で照らしたら、それがただの縄だったと分かるで
しょう。無知は恐怖をひきおこし、英知は取りはらいます。もしもこの世を光が照らしたなら、この世には、
神が、ヴィシュヌが、神の化身が、聖なる存在、サット・チット・アーナンダ(存在・意識・絶対的至福)が
見えるでしょう。アサット(非存在)がサット(存在)として認識されるのです。
生きるということは、笑顔と泣き顔の振り子の間を行ったり来たりすることです。子ども時代はあまりにも
甘く清らかです。青年時代は愚かさと誤りに満ちています。中年になると問題とその対処に追われてもみくち
ゃです。老年期には過去に犯した失敗とためらいの数々を悔やんで過ごします。いったいいつ、たとえ小さく
ても心からの歓びを味わえるというのでしょう。自然は神の衣(ころも)です。至高の存在を思わせます。心
の策略を突き抜けて光り輝きます。生きとし生けるものそれぞれの内なる核は神です。喜びも悲しみも、移り
変わるはかないものに巻きこまれた心のもたらす結果にすぎません。神の恩寵は太陽の光のようにふりそそぎ
12
ます。太陽の光はふりそそぐものがどんなに害のあるものであろうとも、決して傷つくことはありません。セ
ルフもさまよう五感に引きずられた心がどこへむかおうと、決して影響されません。セルフが神であることに
気づけば、死という恐怖につきまとわれることもありません。建物は崩れ落ちるかもしれませんが土台は無傷
です。人はいつ死ぬのでしょう。一瞬一瞬死に、一瞬一瞬生まれています。次の一瞬がなくなったとき、それ
が死です。ふたたび動きはじめれば、新しく生まれ変わるのです。信仰が命であり、信仰のないのが死です。
肉体は死にます。アートマ(神聖なる魂)は生死を超えています。それを知り、アーナンダ(神の至福)に浸
りなさい。
捨てさるべきものは手放しなさい、手に入れるべきものを知りなさい。そのときアーナンダはゆらぐことな
いあなたの一部になります。世俗が根拠であるという思いを捨てなさい。セルフの真理を知り、絶対なる源泉
ブラーフマンを手に入れなさい。そこにウパニシャッドの祈りの言葉、授業の前にいつも唱える祈りの言葉の
意義があります。
アサトー
マー
サット
ma
sath
タマソー
マー
ジョーティル
(Thamaso
ma
jyothir
(Asato
ガマヤー
偽りから真実へと導きたまえ
gamaya)
ガマヤー
闇から光のもとへと導きたまえ
gamaya)
ムルティオー
マー
アムルタム
(Murthyor
ma
Amurtham
ガマヤ
死から不死へと導きたまえ
gamaya)
この祈りは、たえまなくくりかえし築かれては解体され消滅するジャガット(世俗の世界)から、決して変
わることなき絶対存在である神へと導かれるよう求めるものです。暗闇とは、肉体-五感-心-理性から成る
ものが私であると思いこませる無知を象徴しています。光によって核心である神が顕わにされたなら、残りの
すべてがそれをおおうまやかし、霧にすぎないことが分かるでしょう。死は肉体と心に影響を与えるにすぎま
せん。光のもとにさらされれば、私たちの奥深くにはアートマがあり、不朽の存在であることに気づくでしょ
う。神の中に、神とともに、神にもとづき、神のために生きなさい。神を飲み、神を食べ、神を見つめ、神に
たどりつきなさい。神が真理です。人の心の本質です。「私はあなたを占めるもの」クリシュナは言いました。
たとえ顕微鏡で見つけることができなくとも、体の細胞ひとつひとつに神がいます。今私の話をカセットテー
プに録音していますが、そのテープに私の声や言葉が見えますか?
いいえ、再生したとき聞くことができる
のです。肉体もテープのようなもので、神の声が吹きこまれています。信仰という装置で、愛のダイアルに合
わせなさい。私の声が、言葉が、吹きこまれます。純粋なハート、磨かれた心、神に満ちた意識によって、あ
なたの内におわす神の声が聞こえてくるでしょう。
(サティア・サイ・スピークス16
◇
◇
◇
11-14p)
◇
人生は市場
人生では
与えたり受けとったり
取引したり
かけひきしたり
それがゲームの一部です
人生には
上りがあり下りがあり
得ることもあれば失いもし
喜びがあれば悲しみがあり
不評を買ったと思えば賞賛され
貸しと借りの一覧表です
しかし
バクティ(献身)とひきかえに
ムクティ(解脱)を手に入れること
それが人に与えられた何にも勝る仕事です
(サティア・サイ・スピークス5
13
14p)
◇
◇
◇
◇
この本の中に描かれた神と女神は、数千年にわたりヒンドゥー教徒に崇拝されてきたもっともな
じみのある神々です。この本には、サティア・サイ・ババも神として含まれています。生きた神と
して、世界中から絶大なる信頼を得ているからです。サティア・サイ・ババは神性のすべてをそな
え、すべての神の名、神の姿を体現しています。
14
第1章
命のゴール
長きにわたり
あちらへこちらへ
寺院へ教会へと
探し求め
ついにあなたは
戻ってきた
出発地点からぐるりとまわり
自らの魂へと
円を完結し
知りなさい
この世の果てまで探しつづけ
寺院で教会で
涙を流し祈りを捧げ
神秘の中の神秘と思いつづけ
覆いの中
もっとも近いところに隠されていた
神が
自らのセルフであることを
命と肉体と魂の
本質であることを
(サティア・サイ・スピークス4
192p)
イントロダクション
サイ・ババによれば、人の一生のゴールは、モクシャ、ニルヴァーナ、ムクティ、などの呼び名
で知られる霊的解脱にあります。霊的解脱はカルマにもとづく生と死の循環を終えることであり、
それはあらゆる欲望に終わりがきたとき達成されます。霊的解脱はいたるところに浸透するアート
マ、魂、セルフ(神意識)を認識したときにおこり、自らのセルフがたったひとつのアートマであ
ることを知ります。次に続くサティア・サイ・ババの言葉は、アートマ意識、つまり霊的解脱のプ
ロセスおよび段階、人の一生の最終目標とそこに到達することの重要性について述べています。
1.アートマ意識―――なぜ、どのように達するのか
あなた方はモクシャ(解脱)を求める人々、モクシャにいたった人々のことを聞いていることでしょう。多
くの人は、それが少数の人だけが手にする希有な名誉であるとか、天国もしくは神に選ばれた人々のいるよう
な領域だとか、英雄のような魂だけが昇りつめることのできるどこかの高みであると思いこんでいるかもしれ
ません。いいえ、モクシャはすべての人が到達しなければならないものであり、英雄であろうとなかろうと、
たとえモクシャを否定する人々でさえ、認識することで終えねばならないものです。なぜなら、歓び幸せを求
める人なら誰もが、まさにこの瞬間にもモクシャを求めているものであり、歓びや幸せを求めない人がいます
か?
モクシャとは永続する歓び、永続する平安を得たときのことです。はかない快楽や長続きしない平穏さ
に疲れ、人はついには永遠の歓びと平安の神秘、いわばモクシャという生と死の循環からの解放の神秘を知ろ
うと力をつくすことになります。
永続する歓びと平安への道を知りさえすれば、五感の快楽というわき道をとり乱してうろつくことはなくな
るでしょう。夢の中で感じた歓びが目が覚めれば消えてしまうのと同じように、目覚めている間に感じた歓び
も、ジュナーナと呼ばれるより高次の意識に目覚めたときには消失します。よってウパニシャッドはいうので
す「起きよ、立ちあがれ、目覚めよ」時は飛ぶように過ぎ去ります。一瞬一瞬をできうるかぎり最大限に活用
し、すべてに宿る神を知るために用いなさい。死のときには、ただ木やけものや虫けらのように死んでしまっ
てはいけません。自らがマーダヴァ(神)であることを認識したひとりの人間として迎えなさい。それが人の
姿で過ごす年月の終着点です。
(サティア・サイ・スピークス5
◇
◇
◇
◇
15
82p)
アートマにいたり
神のヴィジョンを得るべく
奮闘しなさい
たとえこの奮闘に失敗しても
その他俗事の成功よりも
崇高なこと
(サティア・サイ・スピークス5
◇
◇
◇
102p)
◇
学生たち、探求者たち、農民から教えを学びとりなさい。若い時期は精神と知性を耕す時期です。この時期
には強靱さと聡明さを養わねばなりません。いったん無駄に過ごしてしまえば二度と取りかえしがつかないか
らです。どんな困難や障害にもかかわらず、この時期を前進のために活用する決意をしなさい。そうです、障
害は乗りこえねばなりません。五感の要求を静かにさせ、飢えや渇きをコントロールし、眠りたい、休みたい
という衝動を抑えねばなりません。
ゴールに到達すること、それが目標です。貴重な日々をつまらぬ快楽や軽薄なゴシップ、饗宴やお祭りさわ
ぎ、怠惰さや睡眠についやせば、霊性の英知―――獲得すべき大切な結実―――を授かり保持するに適さぬ人
物になってしまいます。だからこそ、かつての時代、聖者たちは家や家族のもとを去り森の庵(いおり)に隠
遁し、神の恩寵に授かったのです。集中して努力することなしに成功を手にすることはありまえせん。怠惰さ
は人にとりつき衰弱させる悪魔です。この悪魔の兄弟が慢心です。二つが一緒になってナラ(人間)を支配す
れば、人はナーラカ(悪魔)に変えられてしまいます。人は悪魔にも神にも人間にもなりえます。…(略)…
人は一生のうちに三種のヴィジョンを得ます―――最初がアジュナーナ・ドリシュティで、無知の目を通じ
てみるヴィジョンです。自分の肉体とそれが要求するもの、親族と身内の資産、階級、カースト、共同体、ま
た信条やその価値、有効性だけをみています。二つめのヴィジョンはこれらのことがらを超え、人格や倫理観
に関心をよせます。個人的な関係のあるなしにかかわらず、すべての人々の中に善を見いだすこの視点はジュ
ナーナ・ドリシュティ、英知の目です。三つめがヴィジュナーナ・ドリシュティ、至高の普遍的英知、神の愛
の視点です。全宇宙を息づく神の御姿とみなします。この段階を超えたところに完全なる融合の段階がありま
す。
ランプにはいろいろあってもその光はひとつです。地面のどの水たまりにも太陽は映りますが、おおもとの
太陽はたったひとつです。唯一の太陽が何千という水がめや湖、井戸や池の水に映るように、唯一のパラムジ
ョーティ(至高の神の光)が、気づこうと気づくまいと、何千の心に英知の光となって輝いています。水がめ
や他の入れものの中の水が蒸発すれば、映っていた像は消えてしまいます。しかし太陽そのものは少しも影響
を受けません。同じように、アートマも欲望(水)の入った肉体(水がめ)の中に姿を顕します。肉体が自分
であるとみなすことをやめ、その結果欲望が干あがったときには、映し出されていたアートマの像が真のアー
トマとひとつに溶けあいます。これが永久不変の成就というものです。
これが今日のこの日、はじめなければならないサーダナ(霊性修行)です。様々な入れものに入ったアート
マが、唯一の大いなる魂パラマートマであることを学び理解しなければなりません。しかし悲劇的なことに、
この唯一なるものが多種多様なものとして誤解されています。ちっぽけな自分のつまらぬ欲望をおおげさに扱
っているところに問題があります。自己に執着するものが、どうして高次のセルフにむかうことができましょ
う。無執着のみが人を不滅のセルフの認識へと導きます。それが報酬を手にするために払わなければならない
代償です。手放し、そして手に入れる、それが神の法則です。
(サティア・サイ・スピークス15
◇
◇
◇
149-153p)
◇
どんな動きや騒乱のさなかにあっても、アートマは影響されないままです。純粋にして汚れなき意識なので
す。肉体とその付属物、装着物には生と死があり、成長しては衰えます。しかしアートマは変化することがあ
りません。
永遠なるもの
生も死もなく
16
始まりも
間も
死せず生まれず
それが観照者
終わりもない
滅びることもない
セルフ
アートマ
このアートマの認識にいたろうと力を尽くす人は、授かった人生を真に生き抜く人です。しかしまったくの
無知から今日人々はそちらにむかおうともしなければ、その方向に進んでいこうともしません。歩みは着実で
もなければまっすぐでもありません。かつてシャンカラチャルヤは、三つの間違いを許してほしいと心の奥底
から一心に祈りました。「神よ、あなたが知力を超え想像力をも超えているのを知りながら、私はあなたを瞑
想するという間違いを犯しています。あなたのことを言葉ではいいつくせぬのを知りながら、あなたの栄光を
言葉にしようとしています。あなたが遍在であることを知りそれを説いてきたというのに、それでも私はカー
シーに巡礼にやってきました。私の行いは説いていることにそむいています」この世に蔓延するこの大いなる
過ち―――あることをいいながら反対のことをなしとげようと懸命になる―――には注意していなさい。
人は確実なものとの思いこみにつき動かされ、砂の上にもろい宿り場を築きあげます。とほうもない力が無
慈悲にもその期待をうち砕きます。急な嵐が開いた花の花びらをむしりとり地面にまき散らすのです。無知の
中に沈みこみ、人はこれら厄災の教えるものを学びません。哀れにも欲望や計画の数々にしがみつきます。そ
うして刈り取る結実は、描いていた計画とはまったくの逆になっています。計画していたものを手にすること
ができるのは、努力と行いの数々が望んだ結果とうまく一致していたときだけです。ヴェーダが宣言するよう
に「言葉、思考、想像力の範ちゅうを超えている」のです。
ヴェーダはこのゴールを表すのに二つの言葉を用いています。ニッティヤとスワガタです。ニッティヤとは、
過去・現在・未来において変化しないものの意味です。スワガタとは、変化することのないある定位置から、
意識(ジュナーナ)をあますことなく照らしだすものを意味します。たったひとつの太陽は、その位置する場
所からあらゆる方向へと光を放ちます。一カ所に置かれたランプは家全体に光をさしかけます。同じようにア
ートマもたったひとつのものでありながら、英知の光ですべてを目覚めさせるのです。
(サティア・サイ・スピークス15
◇
不変なるアートマの体現者たちよ!
◇
◇
190-191p)
◇
人には純粋なる神性をそなえた人格に成長する力があります。しかし
無知と気まぐれに成長をはばまれています。低い理想にからめとられ、恐れと嘆きにはまりこんでいます。ウ
パニシャッドは、目覚め、自らの主(ぬし)になるよう人々をいましめています。「*ウッティシュッタ、ジャ
グラタ、プラピヤ
ヴァラン
ニボーダッタ」―――そう警告します。人は無知という眠りにうちのめされて
います。失いつつある貴重な文化遺産を知る年長者によって、呼びさまされ教えを授からねばなりません。こ
の眠りはエーシャナ、伴侶や子ども、富などへの執着に原因があります。もちろん簡素に暮らしていくに十分
なものは手に入れなければなりません。しかし適度なレベルを超えてためこまれた富は、人を酔わせ邪悪な欲
望や習慣を生じさせます。財産は、正しい暮らしや社会的責任をはたすといった有益な活動のために信託され
たものとして取り扱わねばなりません。(*Utthishtta, jagrata, prapya varan nibodhata)
(サティア・サイ・スピークス15
◇
◇
◇
29p)
◇
あなた方の誰もが、誕生と死の循環から解放される切符を手にしています。しかしほとんどの人がどの列車
に乗らなければならないのかを知りません。多くの人が途中の駅で下車してしまいます。そこが終着駅だと思
いこみ、哀れにも荒れ地に迷いこんだり、目にした風景に吸いよせられていってしまうのです。
(サティア・サイ・スピークス15
◇
◇
◇
32p)
◇
覚醒とは何でしょう。自らに美しさを見いだし、他のことをすべて忘れるくらいその美に満たされた瞬間、
あなたはあらゆる束縛から自由になります。あなたはこの大宇宙というものの美のすべて栄華のすべてであり、
力のすべて偉大さのすべてであることを知りなさい。自然は神の栄華の微少のかけらにすぎません。にもかか
17
わらず、あなた方は自然の与える喜び、自然について知り得たこと、自然の現す神秘に満足してしまうのです。
(サティア・サイ・スピークス4
◇
◇
◇
238p)
◇
神に到達したいという抑えきれない衝動を抱き、霊性の道を歩みなさい。あらゆる重荷からの解放を渇望す
る気持ちを抱きなさい。
覚えておきなさい、頑丈な四つの柱―――ダルマ(正義)、アルタ(富)、カーマ(欲望)、モクシャ(解
脱)―――に支えられた家に住むことです。ダルマがアルタを支え、カーマつまり欲望がモクシャのみを欲す
るように。
どんなに富や強さを手にしても、アーナンダ(至福)の泉のふたを開けないかぎり、平安も永続する充足感
も得られません。
(サティア・サイ・スピークス1
◇
◇
◇
219p)
◇
人類が創造の頂点に立つことを真に理解する人はめったにいません。生まれながらの栄華に気づいている人
もめったにいません。もしも人が無類の存在であることをたえず意識していたなら、人の一生はより輝き、よ
り有益で、歓びのきわみに満ちあふれていたことでしょう。そして人は主観世界、客観世界の両者を抱きつつ、
意識のより高いレベルへ、さらに高いレベルへとたどりつくくべく、たゆまぬ努力を続けていくのです。今や
こうして知性を用いることで服従させ制御できている獣性という低次のレベルに、自らをおとしめることもな
いでしょう。
84ラーク(1ラーク=10万)種におよぶ生き物の中、人類は最終的でたいへん重要な種です。人は自分
たちのみならず、その創造者、支配主を知る能力、また自分たちに潜在する可能性ぱかりでなく、神の威力を
も知る能力をそなえた唯一の動物です。他の生きものたちは命を守りぬくことに懸命です。人には、理想を追
求し人生を捧げ差し出すようにとの呼びかけに答える準備ができています。
人間だけが過去生の数々に慰めを見いだしたり、後の転生への導きを考慮することができます。未来ばかり
でなく過去をもかいま見、役立てることができるのです。向上するか堕落するかを選択する力、神にも動物に
も悪魔にもなれる力をそなえています。人は人特有の知性や言葉に秘められてきた記憶を、視野を広げ、自然
や社会に順応し、他の人の知識と経験を役立てるために活用することができます。社会が人にたいして働きか
けるのと同じくらい、社会にたいして働きかけることができるのです。
人は意識的に設定した道すじにそって、自らの性質をつくりかえていくことのできる唯一の動物です。動物
は死ぬまで愚かで残酷ですが、人は霊的に努力し神とともに歩むことで、問題のある自分にとりくみ、想いや
行いを修正していくことができます。ダコイトだったヴァールミーキや、のちに熱心な仏教徒になった追いは
ぎのアングラマーラらは、そういった人の特質を例証しています。教えと信仰を通じて、罪人にも聖人にもな
れるのです。
さらには人だけがクンダリーニ・シャクティとして内に眠る、蛇にも似た生命エネルギーを目覚めさせ、各
チャクラ(高次の意識の場)を通じ、頭頂の千にあるスポークをもつ車輪状のチャクラにまで上昇させること
ができます。これがウルドワ・ガティ(上昇の道すじ)です。このヨガ・サーダナは人間が実践できるもので
す。直立した肉体をもち、胴体と頭をまっすぐ垂直にして座ることができるからです。人間以外の四足獣、二
足獣には決定的に不利であり、彼らはクンダリーニ・シャクティをひきだすことができません。
人を表すサンスクリット語「マーナヴァ」はマ(~でない)、ナヴァ(新しい)のことです。つまり、人は
いく度もの誕生と死をへており、やっかいな善と悪の遺産を重苦しく背負っていることを暗示しています。こ
の地上に降りたったのははじめてのことではないのです。この重荷を処分し、自由になることが人の課題です。
またマーダヴァの別の意味にも目をむけなければなりません。マが「無知、幻惑、誤認」、ナが「~のない」、
ヴァが「ヴァルダナ(行為)」を意味します。人は本質的なもののかわりにうわべに惑わされてしまうことな
く、行い、話し、考えなければならないのです。人は唯一なる実在アートマ(神聖なる魂)に気づかずに、ち
らちらと人をあざむくマーヤー(幻惑の力)にとりつかれるがままです。
(サティア・サイ・スピークス16
18
84-86p)
◇
◇
◇
◇
バガヴァンは主要な7つの特質をそなえています。アイシュワリヤ(繁栄)、キールティ(栄華)
ジュナーナ(英知)、ヴァイラーギヤ(無執着)、スリシュティ(創造)、スティティ(維持)、ラーヤ(消
失)です。この7つをそなえるものは内に神性を宿すと考えることができます。この7つはアヴァターが必ず
そなえる特質であり、外見上マーヤー・シャクティ(幻惑の力)によって様々に変わるようでありながら、一
貫して存在しつづけるマハー・シャクティ(至高の力)の特質です。これらが見いだされたときには神とみな
すことができます。
あなた方もマハー・シャクティをそなえたアートマと同じ性質の存在です。しかし泥棒の隠れ家に転がりこ
み、そこで育てられた王子のように、アートマが真の自分を認識できずにいる、それだけのことです。本人は
知らなくとも、宮殿にいようと森にいようと泥棒のすみかにいようと、王子は王子です。しばしば王子は本当
の自分の姿を内からほのめかす直感や、継承すべき遺産であるアーナンダへの渇望、そこから脱し真の自分に
なるようにとの意識の奥底からの呼びかけを受けとります。これが魂の飢え、永続する歓びを求める渇きです。
あなた方は自分の名前を忘れてしまったようなものです。心の飢えはジュナーナを手に入れることによっての
み癒されます。
(サティア・サイ・スピークス1
◇
◇
◇
200-201p)
◇
見せかけのものと本質的なものをより分けなさい。できごとの核心、意味を見いだしなさい。つねに自らの
アートマの実在性に想いをはせなさい。あなた方は純粋で侵すことのできぬ存在です。人生の上り下りに影響
されず、真理、永遠、普遍のブラーフマン、これらのすべてである存在です。たった5分間の問いかけで、あ
なたが肉体でもなく、五感でも心でも知性でもなく、名や姿でもなく、アートマそのものであること、この多
様な世界のすべてを顕しているのと同じアートマであることが分かるでしょう。一度この真理をかいま見たな
ら、しっかりとつかんでいなさい。逃してしまってはいけません。永遠にあなたのものにしておきなさい。
(サティア・サイ・スピークス5
◇
◇
◇
31p)
◇
人生の目的、目標、行きつく先とは何でしょう。バガヴァータ、バガヴァット・ギータはそれを明らかにし
ています。私たちの行きつく先とは、私たちが生じた源です。プラクリティ(現象界)にとらわれているかぎ
り、人の心は落ちつかず不安定です。命が宿っている間、肉体はシヴァム(神聖なるもの)です。しかしいっ
たん命が抜け出てしまえば何でもないものです。ヴェーダはこういいます。「ソーハム(「神は私」)は呼吸
のとき、息を吸うことで表現される」息を吐いて「アハム」と言うときには「私」を手放しています。「ソー
ハム」は人と神が同一であると宣言するものです。物質世界にからめとられているかぎり、この同一性は理解
されえません。
(サティア・サイ・スピークス16
◇
◇
◇
28-29)
◇
あなたの真の姿はアートマであり、パラマートマ(至高の実在)のひとつの波です。人間として存在するこ
との唯一の目的が、この真理、このアートマ、この大海と波との関係を認識することです。その他の行いはみ
なとるにたらないものであり、鳥や動物もすることです。しかしこれは人特有の特権です。この高貴な一生を
授かるため、人は獣性のレベルをひとつひとつはいあがり、進化のはしごを一段一段のぼってきました。動物
のように、生と死の間の年月を食物と住みか、安楽と快楽を探しまわることで無駄についやせば、人はさらな
る生まれ変わりの判決を自らに科しているといえましょう。
(サティア・サイ・スピークス8
◇
◇
◇
◇
19
114p)
カーマ(欲望)が誕生の原因であり、カーラ(時間)が死の原因であり、ラーマ(神)が人生の守り主です。
欲望から誕生が生じます。やむことなく流れ、誰をも特別扱いすることのない「時」により、命の糸が切られ
ます。たえず神の御名を唱えることで一生が価値あるものになります。人生は闘いです。闘いは勝利するまで
続きます。勝利とはアートマが王位につくこと、真の自由が君主となることです。ヴェーダンタ哲学によって
しかれたプロセスをへることで、到達し獲得されるものです。
(サティア・サイ・スピークス7
◇
◇
◇
44p)
◇
つねに生きる意義と目的を視野にとらえていなさい。そしてその意義と目的を体験しなさい。汝は神なり、
それが真理です。あなたと遍在なる者はひとつ、あなたと絶対なる者はひとつ、あなたと永遠なる者はひとつ
です。あなたは「個」でも「特定」の何かでも「はかない者」でもありません。それを感じなさい、知りなさ
い。それにしたがった行いをしなさい。ある人がラマーナ・マハリシのところにきてこう尋ねました。「スワ
ミ!
この18年というもの、私は熱心にディヤーナ(瞑想)を続けてきました。しかしディヤーナの際、集
中している神の姿を悟ることができません。あと何年これを続けなければならないのでしょう」ラマーナは答
えます。「それは年数の問題ではない。ディヤーナをしているという意識が消失するまでディヤーナを続けな
ければならない」エゴを忘れなさい。意識のあらゆる層の中に溶かしこんでしまいなさい。
(サティア・サイ・スピークス5
◇
◇
◇
22p)
◇
「ヴェーダンタ」とは知識の集積の末、最終的に生み出されたもの―――解放―――の意味です。ミルクは
最終的にギーになります。温め、凝固させ、攪拌してできたバターを純化することでギーになり、それ以上他
の何かに変わることがありません。これが最終的な形です。ヴェーダンタはジュナーナ、明らかにする知識で
あり、心のもつれをほどいて外界の対象物との束縛をゆるめ、瞬時にしてこの多種多様な創造のすべての真理
である一体性をあらわにします。それだけがシャンティ(平安)とスカ(幸福)を与えます。人は果てしない
ものの内にあるとき、より偉大なる力、荘厳なるものに満ちあふれたときにのみ、幸せになることができます。
人々は平野部の夏の暑さをのがれようと、ナイニタールやコダイカナル、ムッソーリへと避暑に出かけます。
それと同じで、「個別化」された命の息苦しさからのがれようと、人は果てしないものを追い求めます。はか
ないものでも何か特定のものでもない、永遠で絶対なるものを求めるのです。
(サティア・サイ・スピークス7
◇
◇
◇
172p)
◇
あなたは神からやってきました。あなたは神の栄華のきらめきです。至福の大海のひと波です。ふたたび神
に溶けこんで、はじめて平安にいたることでしょう。迷子の子どものように、ふたたび母親と一緒になれた歓
びを得るのです。大海のしずくは蒸気となって上昇し、雲と呼ばれる集合体になり、地上に落ち、谷間を流れ、
最後には海にたどりつきます。見失ってしまった海にたどりつきなさい。この旅路に出発し、速やかに、軽快
に、旅をしなさい。
(サティア・サイ・スピークス6
◇
◇
◇
154p)
◇
人生とは、でこぼこ道やいばらの道に足をとられる巡礼の旅です。唇に神の御名をのせていれば、渇きをお
ぼえることはありません。心に神の御姿を抱いていれば、疲れを感じることはありません。神聖なるものとと
もにいることで、旅路に希望と信仰が吹きこまれます。神がいつでも声の届くところにいる、つねに近くにい
るという確信は、手足に力を与え目には勇気を与えてくれます。
あなたは一歩一歩神に近づいていること、そして神のほうでもあなたが一歩歩みを進めるごとに、10歩あ
なたに近づいていることを覚えておきなさい。この巡礼の旅にどどまる場所はありません。やむことなく続く
旅です。昼が過ぎ夜が過ぎ、谷を抜け砂漠を抜け、涙の数々と笑顔の数々をへて、生と死を、墓場と子宮を通
20
りすぎます。
道に終わりがやってきたとき、ゴールにたどりつきます。この巡礼の旅が自分から自分にいたる旅にすぎな
かったこと、道は長く孤独であっても導きを与えていた神がつねに自らの内に、まわりに、ともに、となりに
いたことを知るでしょう。自らがいつでも神だったのです。神に溶けこみたいという切望は、海が大海にむか
って呼びかけていたにすぎません。人は愛します。神が愛だからです。人は旋律とハーモニーを熱望します。
人が神でできており、神なしには生きられないからです。
もしも道すじとゴールを知ったなら、自分が前進しているかどうかが分かるでしょう。それが分からずにど
うしますか。ゴールとは、神が愛、慈しみ、恩寵をふりそそいできたように、自らの視野、思いやり、愛を広
げていくことです。自らの内にもっともっと神をとりこむ努力をしているかどうか、いつも心にとめておきな
さい。
(サティア・サイ・スピークス8
◇
◇
◇
39p)
◇
人間として誕生することはたいへんな幸運です。なぜなら人間のみが自分という存在の真の姿を認識し、神
に到達することができるからです。ここまで高い認識にいたることは、けものや鳥には決してできません。し
かしこの貴重な機会を活用することなく年月を無駄にし、光を見ることもなく死にゆくとは、ほんの1分考え
てみただけでも、人がどれだけゴールからほど遠いところにいるのかが分かるでしょう。人は絵でも像でもあ
りません。どちらも命がなく向上心のないものです。人には活力があり能力があり、拡張することへの渇望、
不変不滅のものへの渇望があります。しかし一生を神に捧げることもなく、安楽で快適な暮らしをむなしく追
求することにからめとられてしまっています。自分をバーラタ・マータ(母なるインド)の子どもと称しなが
ら、ひどく愚かなふるまいをしているとはたいへん恥ずかしいことです。よく晴れた月明かりの夜空を漆黒の
暗闇にしてしまっているだけです。
(サティア・サイ・スピークス6
◇
◇
◇
84p)
◇
心(マインド)は体系だった努力によって打ちこわすことができ、あなたは自分自身の主になれます。はし
ごは昇りたいと思う分だけ高くなければならない、違いますか?
マインドを制御するための霊性修行はサク
シャトカラム(覚醒)に到達するそのときまで、一歩一歩進めていかねばなりません。なべの米は十分に火を
いれることで、やわらかく甘くなります。そうなるまで火を燃やしつづけなければなりません。「肉体」とい
う入れものの中で、いわば「五感」という水とともにマインドを火にかけ、やわらかにしなさい。火とはサー
ダナ(霊性修行)のことです。あかあかと明るく燃やしなさい。最後にはジーヴァ(個々の魂)がデーヴァに
なるでしょう。
(サティア・サイ・スピークス4
107p)
目に見えるものの背後に、目には見えない崇高なるものの存在があります。見えるものと見えないものとは
唯一者を二分するもの、さらにいえば唯一者の二つの側面です。完全なるものからずべてが生じ、かつ完全な
るものは完全なままです。唯一者の顕す創造は唯一者と同じく完全です。それを経験するものも、経験される
ものと同じく完全です。砂の一粒は夜空のひとつの星と同じく完全です。唯一にして完全なる者パラマートマ
が、この完全なるものを分かちあう存在として人類を意思しました。人は半分は努力という恩寵、半分は内に
宿る神性の恩寵によって、自らの能力を十分に発揮しなければなりません。不完全であるという幻想からのが
れ、この完全性に気づくこと、それが人の一生のたどりつくべきゴール、最終地点です。創造主を悟り体験し
たときには、人も創造主と同じように力強く、雄大で、ものごとを知った存在になります。究極的な起源は、
じかに目で見ることのできる対象でも、論理的に推論して見いだされるものでもありません。神聖なる言葉、
サブダ、ヴェーダの言葉を頼りに、それらのしいた道すじをたどっていかねばなりません。
(サティア・サイ・スピークス15
◇
◇
◇
◇
21
26p)
人は神にならねばなりません。人は神から生まれてきました。ですから世俗への執着をへらさなければなり
ません。世俗から自分を切りはなすことによってではありません。神の手の内にあるひとつの道具として世俗
の中にいること、内側で頭をもたげエゴにむかおうとするあらゆる傾向を服従させること、ダルマと呼ばれる
神の指示に一心に集中することによってです。科学者エジソンは頭を悩ませていた問題にあまりにも集中して
いたため、研究室に差しいれられた食べもの、飲みものにも口をつけなかったくらいです。あなた方もサーダ
ナ(霊性修行)をするときには、同様の集中力を発揮しなければなりません。
最善のサーダナとは、自分がアートマという存在であり、あらゆる人とアートマにもとづいた家族であると
認識することです。それを達成するまでは肉体の手入れが必要です。肉体の目的とはまさにそのためです。軽
快に、活発にしておきなさい。肉体は幻想の海、偽りの多様性という海を越えるボートです。物質やその他に
執着して重量を増やしてしまってはいけません。旅の間に沈んでしまうおそれがあります。
ナマスマラナ(神の御名の念唱)はもっとも効果的なサーダナです。唱えるごとに御名の背後に輝く神の栄
華を想いなさい。怒り、嫉妬、憎しみ、悪意、貪欲の手からのがれなさい。他人の欠点を探ったり、笑っては
いけません。他の人から欠点を指摘されたときには感謝しなさい。さなくば、仏陀がそうであったように沈黙
を守っていなさい。
(サティア・サイ・スピークス4
◇
◇
◇
245p)
◇
あなたは完全、無限、すべてです。肉体、心、魂としてのあなたは夢幻にすぎず、真のあなたは存在、知性、
至福です。大宇宙の神です。あなたがこの宇宙のすべてを創りだし、描きだしているのです。
(サティア・サイ・スピークス5
◇
◇
◇
154p)
◇
完全なる自由とは、地上の誰かから与えられるものではありません。欲望をへらせばへらすほど自由になり
ます。完全なる自由とは、完全に無欲であるということです。
(サティア・サイ・スピークス5
200p)
2.肉体としてのアートマの顕現
次に続くサティア・サイ・ババの言葉は、霊的解脱に到達し、自らの主となった人の状態を説明
しています。
神は真理、真理は善、善は美です。真・善・美、サティアム・シヴァム・スンダラム、それがあなた、真の
あなたになりなさい。
(サティア・サイ・スピークス5
227p)
人は本来神性です。ですから、愛、正義、真理、平安という神の資質を顕現すればするほど、自然にアーナ
ンダ(至福)を享受し分け与えることができます。少ししか顕現できずにいればいるほど恥じいることになっ
てしまいます。授かった資質にそむいた生き方をしているためです。
一生という木には根に水を与えなければなりません。しかし今日、生活水準を向上させようと、人々は枝や
葉、花びらに水をまいています。根とは美徳です。美徳を培うことで、行い、言葉、想いの花が香り高く花開
き、セヴァ(奉仕)の果実、アーナンダの甘い果汁たっぷりの実を結ぶようでなければなりません。衣食住を
整えるのは、肉体という荷車の健康を促すためにすぎません。それを引く心という馬も整えなさい。衣食住そ
の他の物質を「エゴから脱し普遍性に達する」という高い目的に活用するよう、心を整えなさい。
(サティア・サイ・スピークス6
◇
◇
◇
◇
22
104p)
よくいわれるように、この世に創造された生きものには84ラーク(1ラーク=10万)の種があり、人は
進化のプロセス上一番最後に位置します。しかしなぜその数は840万で止まったのでしょう。人類がその頂
点であり、完成形だからです。人々はその真理を無視し、人間はただ人間であるとかたくなに信じてきました
が、事実人はマーダヴァなのです。人にはマナス(心)、ブッディ(知性)、チッタ(思考力)、アハムカー
ラ(エゴ)、この4つが人格の中に円満にそなえられている一方、鳥や動物その他のほとんどにはアハムカー
ラ(エゴ)しかありません。人間以外の生きものの一生は、アハムカーラとその欲望、要求が中心です。しか
し人はサティア(真理)、ダルマ(正義)、シャンティ(平安)、プレマ(神の愛)に従う能力があります。
人にだけその能力があるのです。その能力を発揮し、培っていかないのであれば、人はヴァナラ(猿)やダー
ナヴァ(悪魔)と同様悪い生きものです。人が創造されたとき、創造されうるそれ以上に高度な生きものは何
も残っていなかったのです。
(サティア・サイ・スピークス6
◇
◇
◇
81p)
◇
新年はヴィシュワヴァスと呼ばれますが、それをヴィシュワサ(信仰)を強める呼び声ととらえなさい。愛、
不滅のものへの渇望、無執着、美徳の賛美、自然が喚起する畏怖や神秘、これらの姿をとり顕現する自らのア
ートマ、自らの神性への信仰です。しかし人はこの最高の機会、自らの崇高さを知る機会をなおざりにしてい
ます。白檀の木を燃やし、炭にして売ろうとしています。その木の価値を知らないからです。神であるのにた
んなる人間と思いこみ、スカ(幸福)とシャンティ(平安)を目の前の目標として設定してきました。理にか
なったことではありましょう。しかし何歩か進んでは立ち止まり、偽物と本物を取りちがえるのです。これが
悲劇というものです。一日に二度おなかいっぱいの食事を食べ、身につける数メートルの布地と頭の上の屋根
といくらかの雑貨が手に入れば、それで目的に達したのだと信じこみます。しかしそこから得られる歓びはと
るにたらないもの、嘆きの入りまじったものであり、いともたやすく痛みにかわり、他を傷つけ、プライド、
羨望、悪意、貪欲、その他の有害なものに満ちています。数時間で新鮮さを失う食物で維持される肉体が、ど
うしてそう長い間新鮮でいられるでしょう。まさにこのことから、作り出されるもの、そこなわれるものが真
理になることはありえません。真理は作られるものでも、そこなわれるものでもないからです。真理とは、今
も以前もこれからも、決して変わることがありません。
人にあるもので永遠のものとは何でしょう。積み重ねてきた財産ですか?
建てた家ですか?
いいえ、人
がしてきたこと、作りあげ、手に入れてきたものはみな滅びます。すべては時が破壊するにまかせるしかあり
ません。たとえ一握りの土でさえ、どんなに愛した土でさえ、もっていくことはできないのです。もしも死者
がそれぞれ一握りの土をもっていけるのだとしたら、今のうちからひとりひとりに割り当てておかねばならな
いほどの土不足がおこっていたでしょう。永遠不滅の「私」を見いだし、それが自らの内に宿る神のきらめき
であることを知りなさい。壮大にして無限なる至高者とともに生きなさい。あなたが壮大さ、無限さ、そのも
のになることでしょう。
(サティア・サイ・スピークス5
◇
◇
◇
150-151)
◇
人々はこの世に食べて寝るために生まれてきたのではありません。修練を通じて内なる神性を顕わにするた
めにやってきました。そこから人は、内に宿るシャクティ(能力)―――人の原動力である神性エネルギー―
――をヴャクタ(明らかに)する者、ヴャクティ(個)と呼ばれるのです。
その目的のために肉体を授けられ、その肉体を制御し活動に役立つ手段として用いるために知性が授けられ
て、人はこの世に生まれてきました。ダルマ・ニシュタ、カルマ・ニシュタ、道徳と善行をたえず追求し、こ
の目的を達成しなさい。
(サティア・サイ・スピークス1
◇
◇
◇
◇
すべては過ぎゆくショーにすぎず、あなたが中心人物であり、唯一にして全登場人物であるも
・
・
のと思いなさい。タット・トワム・アシ「汝が それなり」それがこのことです。外界は根
23
165p)
本的には「ひとつ」であり、ブラーフマンそのものが多様に見えているのです。トワムとは、あなた、あなた
自身のことです。聖人たちの経験が伝えるところとは何ですか?
れた深遠なる発見とは何ですか?
・
ヴェーダの英知に記さ
・
タット( それ)がトワム(あなた)であり、トワム(
あなた)
・
・
がタット( それ)であるということです。二つでなく「ひとつ」です。
自らの本質にそむいて行い、想い、話せば、自らをおとしめることになります。自分で自分の本質を否定す
ることになります。ブラフマタトワム(ブラーフマン原理)とは、ヴィマラム(純粋)、アチャラム(不動)
です。純粋、そして不動でありなさい。トリグナ・ラヒタム、3つの資質、鈍性・激性・調和をのがれた純粋
なる意識です。あなたも感情や怠惰、ものぐさの霧にかき乱されてはいけません。操り人形のようにあなたの
役割を演じなさい。目に見えぬ神という監督が、神の意思したドラマを展開するのです。
(サティア・サイ・スピークス5
◇
◇
◇
168p)
◇
真理の発見―――それが人の特別な使命です。人はマーヤーとマーダヴァの混じりあいです。マーヤー(幻
想)はマーダヴァ(神)を隠す霧を発生させます。しかし前世の肉体の行いから受けついだ健全な動機による
行い、今生の肉体による修行の数々、また神の恩寵を通じて、マーヤーは消失します。太陽を前にすれば消え
てしまう霧にすぎません。そしてナラ(人)がナーラーヤナ(神)に姿を変え、ブーロカ(この地)がプラシ
ャンティ・ニラヤム(平安の地)へと高められるのです。
(サティア・サイ・スピークス2
3.霊性の英知と解放への道
―――
175p)
礼拝・献身・自己探求・瞑想・臆念
ほんの一歩前に踏みだすのにも、内側からの促し、意図、刺激が必要です。欲望が人の意志を動かします。
ですから人はより高い目標、より神聖な目的を望むよう努力しなければなりません。人の心は欲望の束です。
欲望ひとつひとつの要求に、あちらへむいてはこちらをむき、割り当てられた時間と授かった能力を無駄にし
ています。正しい行いをしていると思いこみ、良心を奴隷にしてしまっています。
時間が貴重であることを理解しなさい。一秒の何分の一といえども無駄にしてはいけません。つねに自らに
課せられた真理の探究と責務に従事していなさい。命は一滴、また一滴とその入れものからもれだしています。
時間は鋭い剣のようにひとりひとりの頭の上につりさげられ、死の一撃を加える用意をしています。それなの
に、人はつねにそこにある危機に何の注意もはらっていません。
皮肉屋は「人類は創造の頂点である」という言葉がたんなる教科書通りのきまり文句だと主張します。しか
し事実人の命は高尚、崇高、神聖、つねに新しくつねに新鮮です。ウパニシャッドはこの真理に気づくよう、
人々をゆり起こし目覚めさせようとするものです。人は無知の眠りをむさぼり、エゴと欲望にくるまれている
からです。「目を覚まし、神なる太陽を崇めその光に照らされて、自らの本質を知れ」それがウパニシャッド
から響きわたる呼び声です。しかし人はこの呼び声に耳をかそうとしません。
3つのエーシャナ(強い欲望)が人をとどまらせています。人は富、妻、子どもにわれを忘れています。こ
れらが足を踏みだすのを妨げ、霊性の前進の障害になっています。もちろん生きる過程で金銭は必要ですし、
そのために働くことはさけられません。しかし限度をこえた富は心を汚し、傲慢さの原因になります。財産は
徳や健康を促し、ダルマ(倫理)を養い、神の道にそった責務をはたすといった善い目的のために使わねばな
りません。
(サティア・サイ・スピークス15
◇
◇
◇
◇
人生の目的とは何でしょう。泥沼にはまりもがくことですか?
進むことですか?
33-34p)
それとも永遠なるものにむかってまっすぐ
何が楽しいことかをいえる人は何千といても、そのうちひとりでも、あなたにとって何が
善いことかをいえる人はなかなか得られるものではありません。真理とはたやすいものではありませんが価値
あるものです。何があろうと真理から離れずにいなさい、というのはうれしいアドバイスではないでしょう。
24
しかし真理のみが最終的な充足を与えます。
ほんの少しの間静かに座り、何が残り何が残らないかを、自分の内にむかって問いかけてごらんなさい。あ
なた方は世界のできごとや、この世のあらゆるところで起きている人々や情勢の幸不幸の移り変わりを知ろう
とはしても、あなたの最奥の核心、不変のアートマという永遠なるものを背景に、あなたの内なる世界で起き
ている状態、混乱について知りたいという渇きがありません。それを知ればすべてはおのずと明かされます。
それだけで他のどんな行いも必要ありません。それさえ手に入れればすべてがあなたのものになります。
人の内には多様の背後にある「ひとつ」を知りたいという奥深くからの衝動があります。科学者はエネルギ
ーのすべて、物質とその状態のすべてを説明する法則を見いだそうとします。あなたもそれさえ知れば他のす
べてが明かされる、というものを知ることができます。アートマの至福に浸りきることです。ひきうすの土台
は固定され動きません。上の石が動きます。しかしどちらも石でできています。それと同じで、チャラ(固定
されたもの)とアチャラ(変化するもの)、土台と上部構造、どちらもブラーフマンです。プラクリティ(客
観世界)には動きがあり、ブラーフマン(至高の実在)は不変です。どちらも互いに切りはなせず、一方は一
方と相互に結びついており、アヴィナバーヴァ・サムバンダ(相互依存関係)にあります。
ものごとを決めるときのよりどころは神でなければなりません。そのとき人生はスムーズに進みます。物質
世界、精神世界、客観世界―――これらは神を中心に展開しているのであり、神との密接な関係性を理解した
とき、あなたは光のもとに導かれます。カナヅチで何度もたたくことで金に形と美しさが与えられるように、
アートマは多種多様なカルマの影響により、誕生から誕生へと続く名と姿を得ています。アカーラム(形)が
アートマをヴィカーラム(ゆがんだ形)にしてしまっています。形のゆがみはアディヤトの実践―――霊性修
行―――によって正されねばなりません。
今日、この種の鍛錬に何の努力もなされていません。国の教育機関は何も教えていません。時間がないとい
うのは違います。時間が障害になることは決してありません。時間ではなく、あなた自身がじゃましているの
です。口の小さいツボからにぎりこぶしをだせなくなった猿は、ツボかツボの作り手に文句をつけます。しか
し手の中につかんだピーナツを放しさえすれば、手は簡単に出るのです。原因は原因そのものの中にあるもの
です。時間の不足も人の貪欲さに問題があります。手をツボの中に入れるよう強制する人は誰もいません。猿
にピーナツをつかむようしいた人は誰もいないのです。自分で自分の貪欲さの犠牲となった、それだけのこと
です。
(サティア・サイ・スピークス4
◇
◇
◇
259-261p)
◇
自分が神性であることに気づかずに低次元の仲間と浮かれさわぎ、不名誉に陥るようないやしい衝動の奴隷
になって苦労し汗しています。真のあなた、王者になりなさい。湖の底の泥の中で芽を出し、まっすぐな意志
の力で太陽を見るため水面まで上り、その光で花開く蓮の花のようでありなさい。蓮の花は水の中で生まれ育
っても、水との接触を断ちきります。あなたもあなたをかりたてる初歩的な衝動に執着するのは避けねばなり
ません。いつまで道化役、汚れ役に満足して座りつづけているのですか?
たに意志はないのですか?
恥ずかしくはないですか?
なぜ自分でつけた仮面の下に真の自分の姿を隠すのですか?
あな
どれも役まわりと
しては無(ゼロ)に等しいものです。あなたの権利である英雄(ヒーロー)の役を演じなさい。輝きなさい。
(サティア・サイ・スピークス4
◇
◇
◇
47p)
◇
あなた方は人(ナラーカラム)の姿をとった姿のないもの(ニラーカラム)、有限の役を演じる無限なるも
の、有形の微少のものとして顕れた無形の無限なるもの、相対性をよそおった絶対なるもの、肉体としてふる
まうアートマ、具象のふりをした抽象なるものです。不変のアートマ(セルフ)があらゆる生きものの根本で
す。空の下に建物がたてられる前にも空はありました。その間空は建物に浸透しいきわたります。やがて建物
はくずれおち、がれきの山になります。しかし空はいっさい影響されません。それと同じでアートマも肉体に
いきわたり、肉体がちりになっても残りつづけます。
説明しがたく目に見えない同じ電流が、電球、ファン、コンロ、冷蔵庫、噴霧器に流れ、それぞれを働かせ
たり同時に働かせたりすることができます。同様に*イシュワラ サルヴァ ブータナム、神性原理が万物を動か
しています。それが内なる核、神性の火花、微少のものより微少にして最大のものより最大なるものです。微
25
少のものを見るには顕微鏡が必要であり、遠く離れたものを見るには望遠鏡の助けをかります。これらはヤン
トラ(物質的道具)です。このようにふしぎにも相矛盾する属性があり、核心を認識する助けになる道具がマ
ントラ―――瞑想することであなたを救う言葉―――です。その実際的な側面が強調されるときにはタントラ
(儀式・供儀)とも呼ばれます。科学者にとってヤントラの効力や手順の正しさを信じ、より深く知ろうと探
求を続けている物質というものの存在性を信じることが不可欠であるように、この偉大なる冒険に成功するに
はこの「核心」が存在することばかりでなく、これらマントラの効力を信じ、決められた手順の有効性を信じ
ることが必要です。(*Ishwara sarva bhootanam)
この課題には最初から誠実にとりくまなければなりません。無知は知性によってのみ取りのぞかれ、闇は光
によってのみうち砕かれます。どんなに議論しようと脅そうと説得しようと、闇を追いはらうことはできませ
ん。一瞬の閃光、それで十分、闇は消えさります。この一瞬の光のときにむけて準備をしなさい。光はすでに
そこに、あなたの内にあります。しかしそれを抑えこむ要因が重くのしかかり、姿をあらわにすることができ
ずにいます。光があらわになったときにおこる「闇からの解放」、それがモクシャと呼ばれます。たとえ今そ
れにむけて努力をしていようといまいと、誰もがみなそこに到達しなければなりません。この奮闘の避けるこ
とのできない結末であり、あらゆる人がむかっているゴールです。
(サティア・サイ・スピークス4
◇
◇
◇
44-46p)
◇
人生とは理想を抱き、ゴールにむかって前進し、たゆまず進みゆくものでなければなりません。人生のたっ
たひとつの目的は、人を神にしていくこと、私たちが自分するところの「人」から私たちの真の姿である「神」
へと姿を変えていくことです。グルという言葉の「グ」とはグナティータの資質、つまり属性や様態に影響さ
れず、特定の性質と結びつくことのない資質を示します。そして「ル」はルーパ・ラティタ、どんな姿形にも
制限されずあらゆる姿形に遍在する、といういう意味です。このことからいえば、この大宇宙もそれを構成す
る万物も、教えを授ける教師、教科書としてみなされるべきです。
(サティア・サイ・スピークス15
◇
◇
◇
83p)
◇
ほんの少し考えてごらんなさい。「どうして人は神性を忘れてしまったのか、このとるにたらない幻想に陥
ってしまったのか」心(マインド)がはかない快楽を追いまわしている結果であると分かるでしょう。どう対
処したらよいのでしょうか。答えはたったひとこと、「崇拝」です。すべてを「崇拝」として行いなさい。*
ヤト
バーヴァム
タト
バーヴァティ―――「人は想ったものになる」人はいちどプレマ(神の愛)を味わ
ってはじめて神を想えるようになります。だからこそアヴァターはプレマの味をあなた方に与えるためにきた
のです。神へのせつなる想いがあなた方のハートに植えこまれるように。(*Yath bhavam thath bhavathi)
神の御名により、神をつねに近づけておくことができます。祈りやプージャ(礼拝)は神の御名の後に続け
られます。神の栄華と恩寵により、あなた方が神をたたえ必要のすべてを神に頼るようにです。はじめはたた
える者とたたえられる者には距離や違いがありますが、サーダナ(霊性修行)が強く確かなものになるにつれ、
しだいに混じりあっていきます。なぜなら個と普遍はひとつだからです。波と大海だからです。完全に融合し
ます。融合するとエゴは消失し、名、姿、カースト、肌の色、教条、人種、宗教や宗派、権利や義務、すべて
の象徴、記号が結果として消えていきます。
そのような人々、「個」という狭さから自らを解き放った人々にとって、なすべき仕事はたったひとつ、人
類の向上、世界の幸福に貢献し、愛をふりそそぐことです。たとえ何も言葉にしなくても、彼らの至福の状態
が世界に至福をふりそそぐのです。すべてに愛があり、すべてのために愛があり、すべてが愛です。
(サティア・サイ・スピークス7
◇
◇
◇
240p)
◇
すべて知ったなら知らされるべきすべてを知らしめるもの、それを知りなさい。これがウパニシャッドに述
べられている、グルがウッダーラカに与えたアドバイスです。あなたは核であり、あなたの世界の中心です。
あなたなしにあなたの世界はありえません。あなた自身を知らずして、あなたの創りだしたこの世界について
26
知ることはできません。人々は人に会うとこう言います。「どうされてますか?」しかし自分自身に「私はど
うしているのか」を尋ねたことがありますか?
人についてこう尋ねます。「あの人は誰ですか?」しかし自
分に「私は誰なのか」と尋ね、その答えを探ったことはありますか?
これがヴェーダンタ哲学の教え、ヴェ
ーダの学僧たちがしきりにあなた方に伝えてきたことです。
(サティア・サイ・スピークス5
◇
◇
◇
134p)
◇
あらゆる行いを、神によって促され意図され祝福された、神に捧げ差しだすものとして行いなさい。神の御
名のナマスマラナ(臆念)がこのサーダナを助けます。神の御名はその御名で呼ばれる神を心に強く想いなが
ら唱えなければなりません。録音したテープをテープレコーダーで再生するような、同じ調子のくりかえしで
はいけません。一生とは神を知るためのものであり、とるにたらない成功の数々を手にするためのものではな
いことを理解しなさい。理想と決意と行い、この3つどれもがひとつの最終目標、至福の成就にむけられなけ
ればなりません。神の御名はあらゆる行いを崇拝のようにありがたいものにし、崇拝行為の立会人となり、御
名で呼ばれる神に形を与えるでしょう。真理を明かす英知を授けてくれるでしょう。
(サティア・サイ・スピークス7
◇
◇
◇
228p)
◇
自らの真の姿を見ることは、自由の扉を開くことです。そのためにはハートの鏡の裏面をサティア(真理)
とダルマ(正義)でコーティングし、準備を整えなければなりません。そうでなければ像は姿を映せません。
どんな行いをするにも真理と正義を守っていれば、自らの真の姿が明かされていくのが見えるでしょう。行い
とその必然的結実という重荷が生じる、あなた方はそう言うかもしれません。しかし神の恩寵はその重荷を一
瞬にして焼きつくします。万物の中に自らを見、自らを万物の中に見るとき、あなたは真理を知った、クリシ
ュナはギータの中でこう言います。ですから私にたいして抱くのと同じ量、同じ質の愛を、他のすべてにたい
しても育みなさい。あなたが普遍になったとき、どこが自分の家、どこが自分の街だといえますか?
もはや
あなたは個でなく普遍なのです。この意識を心にしっかり抱きなさい。神はたやすく心動かされます。バター
のように、ほんの少しの熱が神の心を溶かすのです。
(サティア・サイ・スピークス5
◇
◇
◇
143-144p)
◇
ヴェーダは3つの部分からなりたちます。カルマ、ウパサナ、ジュナーナです。カルマ、すなわち献身的な
姿勢で、その結果結ぶであろう利益にとらわれずに行いに従事することで、心の純粋さが築きあげられます。
ウパサナ、多種多様の姿で顕れる神の栄華を想いながら、体系だった礼拝を行うことで、集中力が授かります。
この2つにより真理をはっきりと認識できるようになります。いわばジュナーナ(霊性の英知)を得るのです。
幻惑というヴェールが落ち、至福があらわになります。今日ではこの3つは無視され、笑いものにさえなって
います。
(サティア・サイ・スピークス5
◇
◇
◇
123p)
◇
秘訣は内なる源泉を見いだすことです。決して欠乏することなく、つねに満ちあふれ、つねにみずみずしい
泉です。なぜなら神からわきあがる泉だからです。肉体とは何ですか?
5つのさやに包みこまれたアートマ
に他なりません。アンナマヤ(食物でできたさや)、プラーナマヤ(生気でできたさや)、マノマヤ(マイン
ドでできたさや)、アナンダマヤ(至福でできたさや)の5つです。この5つのさやについてよくよく考える
ことで、サダカは外側から内側へ、そして最後のさやへとたどりつける認識力を手に入れます。このように一
歩一歩ひとつひとつのコシャを捨てさりすべてを消失させていくことで、ブラフマーと合一する英知に達しま
す。
(サティア・サイ・スピークス5
27
191p)
◇
◇
◇
◇
4つのユガのうち、現在のカリ・ユガは他の3つ(クリタ・ユガ、トレタ・ユガ、ドゥワパラ・ユガ)より
はるかに英知を得、識別力(ヴィヴェーカ)を養うのに適しています。なぜなら自らを解き放つためのやさし
い道が数多くあるからです。経典はいいます「人々よ、カリ・ユガに匹敵する時代などありえない!」スマラ
ナとチンタナだけで神に到達しうるのです。スマラナとはつねに神を心にとどめておくこと、チンタナはたえ
ず神の栄華に想いをはせることです。おおぜいの人が、カリ・ユガの間にこの世の終末の大洪水をみることに
なると恐れています。また現在いたるところで紛争がおきていることから、カハラ・ユガ、戦争の時代と呼ぶ
人もいます。いいえ違います。この時代には神を求める人々や、ヴィヴェーカを獲得し身につけるには黄金の
時代なのです。
(サティア・サイ・スピークス15
◇
◇
◇
◇
個人の努力と神の恩寵、そのどちらもが大切です。シャンカラは言いました「*イシュワラ
エヴァ
プムサム
アドワイタ
157p)
アヌグラハト
ヴァサナ―――神の恩寵を通じてのみ、人は大宇宙の非二元性にたいする情
熱を育むことができる」唯一無二なるものへの情熱です。唯一なるものを見ること、それがジュナーナ(霊性
の英知)であり、ジュナーナのみがカイヴァリヤム(解放)を授けます。(*Ishwara anugrahath eva pumsam ad
waitha vasana)
これまでに求めてきたものを全部書きだしてごらんなさい。とるにたらないものや一過性の名誉、はかない
名声ばかりを求めてきたことが分かるでしょう。神のみを、自らの浄化と成就のみを求めなさい。6つの頭の
コブラが内にひそみ、あなたの心を毒していることをこそ嘆きなさい。6つの頭とは、欲望、怒り、貪欲、執
着、傲慢、悪意です。蛇使いが笛を使ってするように、それらを静かにさせなさい。静かにさせる旋律とは、
神の御名を高らかに歌いあげることです。そしてうっとり聴きいり、動くことも傷つけることもできなくなっ
たところを、蛇使いがするように首をおさえて毒牙を引き抜くのです。そのあとではそれらは遊び道具も同然
です。思うがままに扱えます。
(サティア・サイ・スピークス8
◇
◇
◇
55p)
◇
新聞は世界がどれほど愚かであるか、どれほど英雄的行為が少ないか、どれほど名誉がはかないものかを知
るために読みなさい。伝えられた情報の中にそれを読みとったならわきにおしのけるでしょう。味気ない紙く
ずにすぎないからです。それと同じで一度だけ生きなさい。一度だけ生まれるために生きなさい。にせの愛着
が喜び悲しみの混じりあったこの幻惑の世界に何度もあなたを誕生させるほど、この世に恋してしまってはい
けません。すべては神の監督する劇にすぎないと知りながら、この世とのかかわりあいから一歩ひき、少し離
れていないかぎり、巻きこまれすぎてしまう危険があります。世界を犠牲心、奉仕、心の拡大、感情の浄化の
ための訓練場として活用しなさい。この世の価値とはそれだけのものです。
(サティア・サイ・スピークス7
4.完全なる帰依
―――
67p)
霊的解脱、命のゴールに達するために
帰依なくして解脱はありえません。小さな「私」にしがみついているかぎり、監獄の4つの壁は頭上に迫っ
てきます。「私」を消しさればあなたは自由です。「私」を消滅させるにはどうしたらよいでしょう。自らを
神の御足に捧げこう言いなさい、「私」ではなく「あなた」です―――それであなたはのしかかる重荷から自
由になります。つねにニランジャナ―――広大、無限の神―――とともにいなさい。絶対なるものと溶けあう
ことを夢見、意志しなさい。超越者、限りない者からの呼び声で耳を満たしなさい。壁や柵、錠前、鍵、鎖を
超えなさい。自らの無限性に心をさだめることでたやすくなしとげられるでしょう。
(サティア・サイ・スピークス2
28
224p)
◇
◇
◇
◇
あなた方はたったひとつの目的のために生まれてきました。死ぬためです。つまり「私」を死にいたらしめ
るためです。ブラーマ(幻想)が死を迎えたとき、あなたはブラーフマン(至高の魂)になります。むしろ、
あなたがブラーフマンであることを知る、といえるでしょう。経典、修行、ヤジナ、教えの数々は、どれもみ
な真のあなたの姿が見えるよう、目の前に鏡をすえるためのものにすぎません。
(サティア・サイ・スピークス2
◇
◇
◇
242p)
◇
人には他との違いをきわだたせる独自の資質があります。ティアガ、手放し放棄し犠牲にする能力、意欲で
す。高次の目的のためにこの資質が授けられました。
その目的とは実際何のことでしょう。ヴェーダはそれを明確に示しています。「不死は放棄によってのみ獲
得される」死ではなく不死であること、それが純然たるダルマであり人間性の本質です。だからこそ人類は創
造物の頂点に位置するのです。しかし人はこの尊い資質を失い、利己心の奴隷になって生きています。エゴ(ス
ワルタ)に執着すると、より高次の意識レベル(パラルタ)とのつながりを失います。その結果、真理(ヤタ
ルタ)を逃すことになります。そして真理を逃してしまえば、相矛盾する結末(ナナルタ)に対面することに
なるのです。この思考プロセスの惨事(アナルタ)が、山のような精神的混乱(アシャンティ)につながりま
す。
(サティア・サイ・スピークス15
◇
◇
◇
65p)
◇
肉体や心を捧げるといういいまわしは伝統的、慣例的に用いられてきたものにすぎません。捧げる行為はア
ートマ・アルパナとしてしばしば重要視されてきましたが、行いとして表現するのはさらにばかげたことです。
あなた方は本来アートマであるというのに、どうやってアートマがアートマに捧げることができるでしょう。
「肉体は五元素でなりたつ。衰えゆくのは避けられない。しかし肉体の内に宿る者には誕生も死もなく、欲望
も絶望も、執着も束縛もない。事実その内在者とは、アートマとして肉体に宿る神々の中の神である」これが
求道者たちが求めてきたことです。ですからアートマ・アルパナとは意味をなさない言葉です。あなたの内に
は神に捧げる「あなたのもの」などまったく何もないのです。
では自らを捧げるとは、何を意味し示唆しているのでしょう。神の遍在を体験すること、神それのみである
と知ること―――それが真の帰依です。あらゆるもの、あらゆるところにつねに神を見る、それが真のシャラ
ナガティです。神が享受し、神が体験する。もしもあなたが捧げ、神が受けとるなら、あなたが上位について
しまいます。それでは神が全能とはいえません。仰々しいいいまわしで神の栄華を減じてしまってはいけませ
ん。
(サティア・サイ・スピークス15
29
147-148p)
第2章
ガネーシャ神
イントロダクション
次に引用するスワミ・チンマヤーナンダの言葉は、ガネーシャ神を説明し、さらにその意義をそ
えています。
シヴァ神の第一子は、どんなときでもシヴァ神に仕え従至高の導師(ヴィナーヤカ)、ガナの導き手(ガナ
パティ)、またはあらゆる障害を取りのぞく神(ヴィグネーシュワラ)として描写されます。どの御名も、ガ
ネーシャがあらゆる状況をもつかさどる者であり、たとえ神であろうと道をさえぎることのできないことをは
っきり示しています。あらゆる障害を超える神であることから、ヒンドゥー教ではこの神格に祈りを捧げずに
儀式をしたり、何かをはじめることはありません。ガネーシャ神の恩寵により、目に見える障害、見えない障
害、いずれにも行く手をさえぎられることはない、そう信じられています。
ガネーシャ神はラクシュミー、サラスワティーという、富の神、知識の神両者と結婚したとされるため、霊
性の知識(ヴィディヤ)の主であると同時に、俗世の功績(アヴィディヤ)の勝者でもあります。
シュリー・ガナパティは「完成された英知の者」、完全に覚醒したヴェーダンタ哲学を象徴します。…(略)
…
ヴェーダンタ哲学を学ぶ者にとって「英知の道」は本質的に知性的なものであり、その理論を理解し解釈
するだけの優れた知性が必要です。実際、ヴェーダンタ哲学の真理は、導き手の教えに耳を傾けることを通し
てのみ理解されうるものであるため、スラヴァナ(傾聴)は学びはじめる者が身につけるべきまず最初の段階
です。ですから、シュリー・ガナパティは集中して知性的に導き手に耳を傾けつづけることを表し、大きな耳
をしているのです。
ウパニシャッドの真理に「傾聴」したのち、ヴェーダンタ哲学の徒は聴いたことについて自分なりに「思索
(マナナ)」しなければなりません。そのためには、この大宇宙の生きとし生けるものすべてを抱きかかえら
れるような豊かな慈しみを内側に見いだし、その慈愛に満たされたきめ細かい知性を必要とします。
ヴィジョンに多様な世界の全体像を抱きとるには、知性にそれほどの深みと広がりが必要です。全宇宙をヴ
ィジョンに抱くのみならず、さらには永遠にして不変であり遍在する意識、神聖なる魂と、その衣装である移
り変わり滅びゆくものごととを見分けられる鋭敏な識別力(ヴィヴェーカ)をも必要とします。学ぶ者が知性
を意識的に養い、完成にむけて大きく近づけることのできたとき、識別できるようになります。
額から伸びる象神の鼻には特別な能力があり、人々が達成したこと、科学や工学による発明、すべてをうち
砕きます。たちまち木を根こそぎにすることもできれば、地面に落ちた一本のピンを拾いあげることもできる
ような「道具」です。…(略)…この象の鼻のように、知性の発達により完成された識別能力は、数々の外界
の問題を解決するために発揮されると同時に、幾重もの層をなす個人の精妙な内面世界でも効果的に用いられ
るべき能力です。
識別の力は、見分けるべき2つの要素があるとき働きます。その2つの要素が象神の牙の表すものであり、
2つの牙の間から鼻が伸びています。私たちは一生の間、善と悪、正と誤、二元性の間で識別し、独自の判断
と結論を下さなければなりません。…(略)…折れた片方の牙は、真のヴェーダンタ哲学の徒とは、相対する
二つのものを超越していることを示します。
この完成された者は、いわば人生のできごとすべて、幸運も不運もみな静かに飲みくだすことのできる大き
なお腹をしています。…(略)…
シュリー・ヴィナーヤカが描かれるとき、そこにはいつもネズミがいます。…(略)…
小さな歯をした小
動物ですが、穀物倉のたった一匹のネズミが、少しずつかじり食べつづけることで大きな損害を与えます。ひ
とりひとりの内にも、山のような利益でさえも食いつくす「ネズミ」がいます。欲望という名のネズミです。
この完成された者は、得たい、所有したい、味わいつくしたいという衝動、自らを破滅に追いやる欲望という
ものの力を、完全に制し意志に従わせることができるのです。さらには世に祝福を授ける役割を演じるとき、
そのネズミを乗りものにします―――つまり世の中で活動するときの乗りものが、世のために働きたいという
欲望なのです。
ガネーシャ神には4本の腕があります。縄、斧、米菓子(モダカ)、蓮、牙を握る姿がよく見られます。こ
の斧で多様なこの世にたいする帰依者の執着を断ちきり、そこから生じる悲しみの数々を終結させ、縄を用い
てより真理の近くへとひきよせ、最終的に至上のゴールに結びつけるのです。手にした米菓子(モダカ)は、
帰依者のサーダナに与える喜ばしい報酬を表します。そしてもう一方の手で帰依者を祝福し、至高者を求める
30
霊性の道であらゆる障害から守ります。
(スワミ・チンマヤーナンダ著
◇
R.S.ナザン編纂
◇
◇
『ヒンドゥー教の象徴性』
171-177p)
◇
ガネーシャ神の御姿のさらなる特徴、たとえば牙、ネズミ、書物や数珠、象の頭、白い衣、灰色
の体、グラム粉の菓子、大きなお腹などの意義は、この章のサティア・サイ・ババの言葉によって
説明されます。
またひとりひとりの内にあるガネーシャ原理の側面として、霊性修行(サーダナ)の役割や、神
の恩寵とグルの恩寵、人生における障害や覚醒を求める道での障害を取りはらうガネーシャ、そし
てガヤトリー・マントラなどについても言及されています。
1.ヴィナーヤカとガナパティ―――ガネーシャ神の2つの側面
ガネーシャ神は心と知性が最高に調和した状態の象徴であり、そこからあらゆる行いや儀式をはじめる前、
どの神よりも先に礼拝されます。つまり、心と知性にガネーシャの美徳と資質のすべてをそなえ、どんな行い
や礼拝をするにも、まずこの2つを十分にコントロールし調和させていなければならないことを示しています。
ガネーシャは知性の主です。御姿そのものが正しい知性の働きすべての象徴です。
(ジョイ・トーマス著『サティア・サイ・ババのメッセージ:人生は夢
◇
◇
◇
叶えなさい』132p)
◇
ヴィナーヤカ、ガネーシャ、ガナパティ、ヴィグネーシュワラ―――すべて象神を表します。若者からも老
人からも人気を集め、あらゆる儀式、サムスカーラ、ヤッギャ、ヤジナをはじめる前、あらゆる誓い、断食、
巡礼をはじめる前に、まず最初に礼拝する神です。ガネーシャ神は人の肉体の内にも外にもある聖なる力、ガ
ナの主であり、たとえどんなに大きく重いものであろうとあらゆるヴィグナ(障害)をとりしきりうち砕く神
です。これらのことは、ガナパティがヴィディヤ(学識)、ブッディ(知識)といった知識の神であるという
事実から自然に派生しました。
ガナパティはタントラ(儀式にまつわる学問)の中で崇められ、またあらゆるヴェーダのマントラにも崇め
られる神です。
(サティア・サイ・スピークス11
◇
◇
◇
210p)
◇
ヴィナーヤカはどのようにしてシッディ(至高の能力)を手に入れたのでしょうか。両親が二人の息子――
―ガネーシャとスッブラマニヤ―――のためにコンテストを開きました。二人のうち先に宇宙をひとめぐりし
たほうに、果物を賞品にして恩恵を授けようと言いました。弟のスッブラマニヤは飼っていたクジャクに乗り、
すぐさま宇宙一周に出かけました。一周し終え両親のもとに近づこうとしたスッブラマニヤを見て、その間ず
っと静かに座っていたヴィナーヤカは立ちあがり、両親のまわりを一周するとまたもとのところに座りました。
パールヴァティ(創造のシンボル)は、数々の困難を乗りこえ宇宙を一周したスッブラマニヤこそ勝者だと言
いました。パラメーシュワラ(シヴァ神)は、自分たちのまわりをまわったことにどういう意味があったのか
をヴィグネーシュワラに尋ねました。するとこう答えました。「この宇宙すべてがあなた方二人の顕れ、万物
がシヴァ-シャクティの顕現です。目に見える現象界をひとまわりするのは幻想に惑わされた行いです。お二
人のまわりを一周することこそ真に宇宙をひとめぐりすることといえましょう」これを聞いてパールヴァティ
は言いました。「この果物はあなたのものです」そうしてガネーシャは神のひきいるあまたのもの(ガナ)の
主になりました。イシュワラ(シヴァ神)はヴィナーヤカの最上級の知性に深く感銘を受けて言いました。「私
を礼拝しようとするものは必ずまずおまえに祈りを捧げるだろう」ヴィナーヤカはそれほどまでに恩恵を授け
られました。なぜでしょう。主であり遍在する神への信仰があったからです。あらゆる人が進むべき正しき道
とは、神への信仰心を育て、信仰にもとづいた一生を歩むことです。
31
(サナタナ・サラティ
◇
◇
◇
1991年
9月号
276p)
◇
ヴィナーヤカはあらゆる学問(ヴィディヤ)の主です。学問とは書物から得られるような知識のことでしょ
うか。いいえ、学問(ヴィディヤ)という言葉には、この宇宙に付随するものごとからの学びすべてが含まれ
ます。歩く、しゃべる、笑う、座る、食べる、ぶらつく、考える―――すべての行いが学びに結びつきます。
ヴィナーヤカはあらゆる学問の師です。今日では学びが情報を記憶することになっています。しかしこの世に
は自然界にまつわる知識だけでなく、科学、芸術、その他の技術など、実に様々な知識があります。
ヴィナーヤカはあらゆる知識の師です。学びは知性(ブッディ)に関連します。たんなる学識のことではあ
りません。書物に親しむことが知性的なのではありません。ひとりひとりの人生そのものが、たえまない学び
のプロセスなのです。あらゆる問いかけが学びになります。しかし本来、何が移り変わるもので何が不変なの
かを問わなければなりません。それこそが真の知識といえるものです。
(サナタナ・サラティ
◇
◇
◇
1995年
10月号
255p)
◇
ヴィナーヤカは生命の神です。人は利己心を取りはらい、至高のセルフへの愛を育てることを学ばなければ
なりません。これがヴィナーヤカに秘められた真理です。ヴィナーヤカをたんに象の頭をしてネズミに乗った
神だと思っていてはいけません。
(サナタナ・サラティ
◇
◇
◇
1995年
10月号
259p)
◇
今日のこの日、私たちはガネーシャ・ジャヤンティ、ヴィグネーシュワラの誕生日をお祝いしています。ヴ
ィグネーシュワラとは誰でしょう。この神格の偉大さとは何でしょう。世に教えたこととは何でしょう。あな
た方はジャヤンティをお祝いしても、その背後にあるタトワ=原理を理解する努力は何もしません。この神格
が自ら示した至高の教えとは大宇宙との一体性です。商品を勝ちとるために宇宙を一周するよう両親から求め
られたとき、ただ両親であるシヴァ神とパールヴァティのまわりを一周し、二人のまわりをまわることが宇宙
を一周することなのだと言いました。なぜなら、シヴァ神とパールヴァティが大宇宙の象徴だからです。
(サナタナ・サラティ
◇
◇
◇
1993年
11月号
296p)
◇
ガナパティとはガナ(神聖なるものたち)の主という意味です。また知性、識別する力の師という意味もあ
ります。偉大な知性と知識をそなえるからです。そのような知識は純粋で神聖な心から生じます。そしてこの
知識は英知(ヴィグナーナ)へといたります。ブッディ(知性)とシッディ(英知つまり覚醒)をつかさどる
ことから、ブッディ、シッディの主として語られます。またブッディ、シッディがヴィナーヤカの妻だといわ
れています。
(サナタナ・サラティ
◇
◇
◇
1991年
10月号
275p)
◇
ヴィグネーシュワラはガナたちの至高の主として、ガナパティと呼ばれます。ガナとは知覚器官(ジュナー
ネンドリヤ)と行動器官(カルメンドリヤ)を意味します。心がそれら10の器官をつかさどります。心をと
りまとめる神格は、インドリヤ(器官)の主であることからインドラと呼ばれます。この心を支配するのが知
性(ブッディ)です。
ガナとよばれるものが人の肉体の部分であることは次のことからきています。個人(ヴャクティ)は創造(ス
リシュティ)の一部です。そのためこの大宇宙を照らし出す神性というものも人に内在します。*ヴィガト
ーヤカ
ナ
ヴィナーヤカ(ヴィナーヤカを支配するものは存在しない)。つまりヴィナーヤカは完全に自立し独
32
立した神であるということです。より上位の神がいません。この世では誰であれ、どの道をきわめたものであ
れ、必ず上に位置するものがあるものです。しかしヴィナーヤカには上位の主がいないのです。(*Vigatho na
yaka Vinayaka)
バーラタの国においては太古の昔からヴィナーヤカが信仰されてきました。リグ・ヴェーダ、ナラヤノパニ
シャッド、タイトリヤ・ウパニシャッドにヴィナーヤカについて述べられた部分があります。それらがガヤト
リー・マントラの一部になりました。
タットプルシャヤ
ヴァクラトゥンダヤ
タンノ
ダンティ
ヴィドマヘー
(Tatpurushaya Vidomahe)
ディーマヒー
(Vakrathundaya dheemahi)
プラチョーダヤート
(Thanno Danthi Prachodayath)
ヴィナーヤカの神性がガヤトリー・マントラの中でもたたえられていることが、このマントラから分かります。
ガナパティはあまねくいきわたる神の力を象徴しているといえます。今日人々の間でガナパティはパールヴァ
ティの息子といわれています。パールヴァティはプラクリティ(自然)を表します。人は自然の子どもです。
ですから誰もがヴィナーヤカなのです。万物は自然(プラクリティ)から生じ、自然の側面それぞれを表しま
す。神々にまつわる祝祭が行われてきたのは、こういった神聖なる真理を示すためなのです。
(サナタナ・サラティ
◇
◇
◇
1995年
10月号
253-254p)
◇
目に見える外界のものはみなドリシャ(見られたもの)です。太陽も月も星も、この大宇宙の構成要素であ
る五元素も、みなドリシャです。またあなた方は他のものを見るように、自分の肉体も見ています。ですから
肉体もドリシャです。では「見るもの」とは一体なんでしょう。ドラシュタです。肉体は見られる対象であり、
あなたが見るものです。ある人々はスーニャ、つまり空もしくは無というものについて語ります。目で見るこ
とができないのに、どうやってスーニャについて語ることができるのでしょうか。見るもの、見られるものに
まつわる知識は、今日私たちがこうして降臨を祝しているガナパティからの偉大なるメッセージです。「ガ」
はブッディつまり知性を、「ナ」はヴィグナーナつまり英知を、「パティ」はつかさどる者を意味します。ガ
ナパティは知識、知性、英知の神といえるでしょう。またガナパティという言葉には、天界の存在であるガナ
の導き手という意味もあります。ヴィナーヤカとも呼ばれ、その名はより上位の主がいないことを示していま
す。至高の主なのです。ガナパティは心のあらゆる状態を超越しています。心を制したものは何ものにも支配
されません。
(サナタナ・サラティ
◇
◇
◇
1994年
10月号
263p)
◇
学生たちはガナパティ崇拝を好みます。ブッディ(知性)とシッディ(大志を実現する力)を授けてくださ
いと祈ります。ガナパティという御名のガはグナまたは美徳を、ナはヴィジュナーナ(英知)を意味します。
ガとナが結びついて、ヴィジュナーナ(物質的知識)とパラジュナーナ(霊性の英知)両方を得ます。ヴィジ
ュナーナとパラジュナーナが組み合わされた結果サジュナーナ(至高の知性)が生じ、それが真の人間の特徴
的しるしです。アジュナーナは無知のしるしです。ガナパティはヴィジュナーナ(俗世の知識)、パラジュナ
ーナ(霊性の英知)の主です。そこから、ガナパティに祈りを捧げるとき、帰依者はヴィジュナーナ、パラジ
ュナーナ、サジュナーナを授けてくださいと求めます。
(サナタナ・サラティ
1992年
9月号
◇
224p)
◇
◇
◇
ガネーシャを見ならうなら、食べた食物の量でなく、ヴィナーヤカとしての側面を見ならいなさい。ヴィナ
ーヤカというなみはずれた導き手になるためには、長い間無私の愛情に満ちた奉仕を、熱心に情熱的に続けな
ければなりません。奉仕はリーダーシップを学ぶ最適の学校です。その学校で、ほんの少しの嫌悪も怒りも根
気のなさも、根こそぎ取りのぞいてしまわなければなりません。傲慢さや偏見が、貧しい人や病んだ人に仕え
33
る気持ちのじゃまをしようとするでしょう。しかし自ら選んだ正しい道を進むのに、決して信仰を捨ててはい
けません。自らが一人のサダカ(霊性の探求者)であること、そしてセヴァ(奉仕)があえて立ちむかうべき
最善にして最短の霊性の道であることを、いつも心にとめておきなさい。
(サティア・サイ・スピークス13
◇
◇
◇
111p)
◇
知性が花開くのは人が純粋になったときです。霊性のゴール(シッディ)にたどりつくのはこの知性が花開
いたときです。ヴィナーヤカは知性(ブッディ)と霊的覚醒(シッディ)を支配します。シッディとは英知を
理解するという意味です。数々の経典にシッディとブッディがヴィナーヤカの妻で、クシャマとアーナンダが
二人の息子と記されています。シッディ、ブッディは、ガナパティの魅了する力の象徴です。
ガナパティを祝うお祭りは、人々が心を純粋にする機会です。人はたいてい自分のもつ欠点を他人の中に見
いだします。自分と同じ欠点を人のものにして、自分からは目をそらしているのです。これは実によくない癖
です。自分にある欠点を、人の中ではなく自分の中に認めてこそ進歩します。人の良いところを見、自分の欠
点を見つめなさい。そのような人が前進します。人は自らの欠点を無視し他人の欠点を大げさにとらえること
で、人間性をだいなしにしています。
(サナタナ・サラティ
1992年
9月号
222p)
2.ビグネーシュワラ―――障害を取りのぞき富を支える者
ヴィナーヤカ、もしくはヴィグネーシュワラ、ガナパティと呼ばれる神を崇拝することで、この世での行い
と、それを最後までやり通すのに必要な勇気と自信が授けられます。象は森で一番大きな動物です。大変頭が
よく絶大な記憶力をもっています。深い森の中を歩きまわり、他の動物の道をつくります。象の頭をもったこ
の神は、知性と記憶力、また悪意や悪徳を制する力を授け、道を切り開いてくれる神です。儀式、式典、事業
をはじめるとき、まずこの神を礼拝するのは実にしかるべきことといえましょう。
(サティア・サイ・スピークス13
◇
◇
◇
136-137p)
◇
ヴィナーヤカは別名ヴィグネーシュワラです。イシュワラ(シヴァ神)とは考えられる富すべて―――豊か
さ、知恵、健康、恩寵、愛など―――を授かった者のことです。ヴィグネーシュワラとはこれらの富をさらに
増進する神で、その富を享受するのに障害となるものをきれいに取りのぞきます。礼拝するあらゆる人にすべ
ての富を授けてくれます。ヴィナーヤカはプラタマ・ヴァンダナ(最初に礼拝される神)といわれます。人は
みな富と繁栄を求めており、まず最初にヴィグネーシュワラに祈りを捧げます。
しかしヴィナーヤカ原理とは、帰依者であるなしにかかわらずすべての人にとっての唯一の真理を意味しま
す。ヴィナーヤカとは自らを完全に制する者の意です。上位の主がいません。誰をも頼りにしないのです。
ヴィナーヤカはあらゆる悪の資質を取りはらい、善の資質を注ぎこみ、自らを瞑想する帰依者に平安を授け
ます。
(サナタナ・サラティ1991年
◇
◇
◇
10月号
275p)
◇
ヴィナーヤカは、心から祈りを捧げる帰依者の道からあらゆる障害を取りのぞくため、ヴィグネーシュワラ
とも呼ばれます。また学生たちは本に書いてあることがみな頭に入るよう、本をたずさえて礼拝します。
(サナタナ・サラティ 1994年
◇
◇
◇
10月号 265p)
◇
何をはじめるときにもまずヴィグネーシュワラが最初にくるのには特別な意義があります。深い森の中で象
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が歩きまわることで、他のものに道を切り開きます。それと同じで、ガネーシャに祈ることで私たちの進もう
としている道すじが切り開かれるのです。また象のとても大きな足で動きまわると、他のどんな動物の足跡も
踏み消されてしまいます。これにもまた象徴的な意味合いがあり、ガネーシャをたたえることにより道にふさ
がるあらゆる障害が取りのぞかれるのです。ガネーシャの恩恵により、人生という旅がよりスムーズに、より
幸せなものになります。
(サナタナ・サラティ
◇
◇
◇
1989年
10月号
263p)
◇
ヴィナーヤカはあらゆる悲しみ、困難、苦悩を追いはらいます。障害にしてみれば天敵なのです。ヴィナー
ヤカは道をふさぐどんな障害も許しません。障害を破壊する者であり、幸せと平安を(帰依者のもとに)運び
ます。それらの力(ブッディとシッディ)の主です。シッディ(成就)とは何でしょう。心が純粋になったと
き、平安の成就(シッディ)を迎えます。そうしてヴィナーヤカはブッディ(知性)とシッディ(覚醒)の主
になりました。そうです、誰もがみな心をコントロールするすべを身につけなければなりません。
(サナタナ・サラティ1995年
10月号
225p)
3.ガネーシャ、ヴィナーヤカ、ガナパティ
―――ブッディ(知性)と無執着をはぐくむ者
闇を照らす光―――たえまない煩悶、終わりの見えない模索、とほうもない苦悩、ないものまでつかもうと
するあがきからあなたを解放に導こうとする光に、人は気づこうとしていません。なぜでしょう。知性ではな
く心(マインド)が人を導いているからです。知性は識別し、探り、分析します。しかし心(マインド)は盲
目的に気まぐれや思いつきを追いつづけます。知性はその人に与えられた役割や責務を明らかにする助けにな
ります。気まぐれな心(マインド)にまるで奴隷のように縛りつけられ、人は休む間も平安を感じる間もなく、
ただあちらからこちらへととびまわります。バスにかけ乗り、仕事に映画に店にととびまわり、穏やかさや静
けさなど一瞬たりともありません。平安は霊的努力のつみかさねから得られます。想い、言葉、行いのひとつ
ひとつを霊性の段階にまで高めるということです。世の中を正していくのに必要なのは、新たな法や新たな集
団をつくることではなく、純粋な心をもった男性女性たちです。そういった人々こそがこの世界を泥沼からす
くいあげていくのです。
(サティア・サイ・スピークス15
◇
◇
◇
34p)
◇
つねに高い意識でいなさい。ボールに入れられた空気はボールの形になります。風船に入れられれば風船の
形―――丸いもの、長いもの、円、楕円―――になります。心は執着するものの形をとります。ちっぽけなも
のに固定すればちっぽけに、壮大なものに固定すれば壮大になります。カメラは焦点のあったものなら何でも
写します。シャッターを押す前に注意を払いなさい。執着を強めてしまう前に識別しなさい。妻や子ども、土
地や建物、銀行口座の残高に執着すれば嘆きがやってきます。普遍なるものに執着し、自ら愛と輝きになりな
さい。普遍なるものへの執着、その執着を偽りのないゆるがぬものにしなさい。
(サティア・サイ・スピークス5
◇
◇
◇
20p)
◇
心を知性(ガネーシャ)で点検しなさい。よこしまな想いは後悔に終わります。善い行いを決意し、歓びを
手にしなさい。欲望とそれを追い求める衝動を制すれば、必ずゆるぎない平安を得ることができます。もし手
綱(たずな)をゆるめ心に主導権を与えてしまったら、人は不正から不正へと引きずられてしまいます。自分
を敬う気持ちも失うでしょう。法も正義も、行動規範も社会的規律も無視するでしょう。人生はあちらからこ
ちらへ、あれからこれへと半狂乱にかけまわるだけになります。
無執着だけが幸せを授けます。ティヤガ(捨てさること)が真のヨガです。本来になうべき役を授かるまで
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に、人は3つの資質を捨てなければなりません。英知(ジュナーナ)をもみ消す怒り、行為(カルマ)を汚す
欲望、神への愛と人への愛を破壊する貪欲さです。この「捨てさること」によって、行いが賞賛にあたいする
ものであるかどうかが分かります。利己的であったり、エゴをふくらますものであるならそれは罪です。
(サティア・サイ・スピークス15
◇
◇
◇
29-30p)
◇
アートマ、それがあなたの真理であることを知りなさい。そしてそれが大宇宙の内なる力と同じであること
を知りなさい。知性を真理(ガネーシャ)に到達させなさい。自らを分析し、意識がいくつもの層―――肉体、
五感、神経、心、知性―――であることを見いだしなさい。そして最後の層、歓びという核心にたどりつきな
さい。真理にいたるには5つのさやを超えなければなりません。真理とはアートマです。
アートマはとぎすまされた知性と純粋な心(ガネーシャ)で理解することのできるものです。どうしたら心
を純粋にすることができますか。心の追いかける悪い食べもの、いうなれば物質的な快楽に飢えさせて、健全
な食べものである神意識を与えるのです。移りゆくものと不変であるものを識別するのに用いれば、知性も鋭
くなっていきます。想いを神に、御名に、御姿に集中させなさい。どんなときでも純粋で永遠なるものととも
にいることを知るでしょう。そしてそこから純粋で永遠なる歓びを手にすることができるのです。だからこそ、
私はナマスマラナやサーダナに重要性をおくのです。
(サティア・サイ・スピークス4
◇
◇
◇
296p)
◇
探求者に第一に必要なもの、それは無執着、ヴァイラーギヤの資質です。無執着とは、私たちを取り囲む物
質界の本質だけでなく、五感、心、知性の本質や特質を洞察した結果得られるものです。目覚めているとき、
夢見ているとき、深い眠りに落ちているときの体験は、その有効性に関して相対的であること、そしていずれ
の体験をも観照している「私=セルフ」がいることをじっくり考えてみなさい。
その観照者があなたです。永遠にして遍在である観照者のきらめきのひとつ、それが真のあなたです。それ
ほど壮大な遺産と壮大な意志とを授けられたあなたが、どうしてつまらない結果や長続きしない成功にむかっ
てしまうのですか?
あなたが確立しなければならない無執着(ガネーシャ)とは、こういったことを識別す
ることでもたらされます。気をつかいとても大切にしているダイヤモンドがたんなるガラス玉だったとしたら、
投げすてるのに何の説明もいりません。有益なことに従事し、報酬を得なさい。しかし狂ったように富を握ろ
うとしてはいけません。信用にもとづいてものを預かる財産管理人のようでありなさい。神の代理人として、
神の望む使われ方をするまでものを保管する管理人でいなさい。
(サティア・サイ・スピークス4
◇
◇
◇
298-299p)
◇
五感を働かせている心の中の衝動は、五感そのものより強いものです。たとえば、目はたんに見るための道
具ですが、「見ようとすること」それ自体に目に勝る力があります。同様に「聞こうとする力」はたんなる耳
に勝ります。感覚器官に勝るのが心、心に勝るのがブッディ(知性)つまり識別する力(ガネーシャ)です。
ブッディの上位にあるのが躍動する生命原理ジーヴァです。ジーヴァアートマ(個々の魂)の上にパラマート
マ(至高の魂)があります。個々の魂と神の魂の間には、人を魅了し幻惑するヴェール、マーヤー(幻惑の力)
があります。このヴェールが落ちたとき、個々のセルフと普遍なる全セルフがひとつになります。
覚醒を求めた心が五感からブッディ(ガネーシャ)にむかうと、アーナンダ(神の至福)が流れはじめ、ア
ートマ(神聖なる魂)があらわになり、ブッディが内なる探求を促します。感覚器官―――目、耳、鼻、舌、
肌―――が外界の対象にむかって開かれているのに対し、真のサーダナ(霊性修養)とは、実にその激流にさ
からい視野を内にむけることにあります。しかしいったん五感を内にむけたなら、覚醒というゴールはすぐそ
こだということはめったに理解されません。
(サティア・サイ・スピークス16
◇
◇
◇
◇
36
101-102p)
理性(ガネーシャ)は、宇宙の一体性、起源と行き着く先、アヌ(小宇宙)とブルハット(大宇宙)をつか
さどる法則を知ろうと探ります。そして背後で糸を操るスートラダーラ(人形師)を一目見ようと、決して下
ろされることのない幕の後ろをのぞき見します。
(サティア・サイ・スピークス1
◇
◇
◇
121p)
◇
ブッディ(知性)は論争や議論に夢中になります。いったん議論の誘惑に屈せば、その鎖からのがれ、誘惑
をぬぐいさり、その力が無効になってはじめて生じる至福を享受するまでに、長い時間を要します。つねに理
性には限界があることを心にとめておきなさいLogic(論理)はLogos(神の言葉)に道を明け渡し、Deduction
(推論)はDevotion(献身)に地位をゆずらなければなりません。ブッディが手助けできるのは、神にいたる道
のほんの少しの距離だけです。残りは直感力に照らされます。感情や激情は思索のプロセスまでをもゆがめ、
理性は飼い慣らされていない雄牛にされてしまいます。実によくあることですが、エゴは狂気を増長し正当化
します。自分だけの理屈で、つごうのよい、誤った道に導かれてしまうからです。しまいには勝手な結論にた
どりつくだけです。
何かを理解しようとするプロセスそれ自体に十分注意を払わなければなりません。そのプロセスが進んでい
る間でさえ、自ら敷いた道の上を歩いているだけになる危険がつきまといます。理性の力は首輪や鼻輪、ムチ
などを用い、体系だった訓練をすることで飼いならされていきます。つまりディヤーナ(瞑想)、シャンタム
(平穏)、クシャマ(忍耐)、サハナ(努力)などを指します。まず最初は狭くてまっすぐな道を理性に歩ま
せ、穏やかに語るよう訓練しなさい。理性が十分従うようになったときには、6つの誘惑―――欲望、怒り、
貪欲、幻想、傲慢、嫉妬―――が並ぶ道をも歩いていけるでしょう。
(サティア・サイ・スピークス1
◇
◇
◇
119p)
◇
識別力をつけ、不変なるものとそうでないもの、恩恵(ガネーシャ)とそうでないものを見分けなさい。グ
ルを選ぶときでさえ、ヴィヴェーカ(識別力)を用いなければなりません。雲ならどれもが雨を降らすわけで
はありません。真の導き手はその人柄だけで遠く離れた求道者さえ惹きよせます。何かを熱っぽく語る必要も
なく、その存在自体が感じとられ、まるで満開の蓮にむかう蜂のように求める者たちがかけつけます。
(サティア・サイ・スピークス1
◇
◇
◇
71p)
◇
人はそもそもヴィヴェーカ(識別力、ガネーシャ原理)をそなえた見分ける力のある動物です。たんに動物
に必要なものだけでは満足しません。何らかの空虚さ、満たされない思い、癒されない渇きを感じます。なぜ
なら人は「永遠」の子どもであり、死が終わりではない、終わりであってはいけない、と思うからです。この
ヴィヴェーカは頭から離れない疑問、「私はどこから来たのだろう、どこへ行こうとしているのだろう、この
旅はどこへ行き着くのだろう」という疑問の答えを見つけだすようかりたてます。ブッディ(知性)をとぎす
ませておきなさい。
ブッディは3つのグナの優劣に従って、3つのタイプに分けられます。サティヤム(真理)とアサティヤム
(虚偽)を混同し、アサティヤムをサティヤムとしてしまうタマス。あちらからこちらへと2つの間で迷い、
見分けることもできず振り子のように揺れつづけるラジャス。そして何がサティヤムで何がアサティヤムかを
知るサトワです。
今日世の中はタマス(鈍性)というよりはラジョブッディ(激性の知性)という病に苦しんでいます。人々
には暴力的な好意と嫌悪があり、熱狂的、偏向的になっています。虚偽や雑音、ショーやプロパガンダにひき
ずりまわされています。だからこそ識別力が必要なのです。ゴールにいたるにはサトワブッディ(浄性の知性)
が不可欠です。静かに真実を見いだし、何が起ころうともそこにぴったりよりそいつづけるでしょう。
(サティア・サイ・スピークス1
37
62p)
◇
◇
◇
◇
覚えておきなさい。愛(プレマ)の剣はヴィヴェーカ(英知)のさやにおさめなさい。インドリヤ(五感)
をヴィヴェーカ(識別心)とヴァイラーギヤ(無執着)で厳しく律しなさい。この2つの能力は人にだけ授け
られました。ヴィヴェーカはあなたの仕事、あなたの仲間をどう選んだらよいかを示してくれます。物質世界
と意識の世界の相対的な重要性を教えてくれます。高揚したとき、絶望したとき、手放すということを知らせ
てくれます。空を舞う鳥には2つの翼があります。世俗が移ろいゆくことと、真の至福は不変であることを示
しているのです。この2つはあなたの一生を、霊的なサーダナとたえまない神の栄華の臆念へとむかわせます。
(サティア・サイ・スピークス1
◇
◇
◇
260p)
◇
帰依への道のもっとも大きな障害はアハムカーラ(利己主義)とママカーラ(私のものという所有意識)で
す。時代をこえて人格につきまとってきたものであり、日一日とその触手はより深いところにまで達してきま
した。これは識別すること、神にゆだねること、その2つの洗剤によってのみ落とすことができます。バクテ
ィ(献身)がこの積年の汚れを洗い流す水です。ジャパム(御名の念唱)、ディヤーナ(瞑想)、ヨガ(神と
の合一)という石鹸は、より早くより効果的に汚れを落とす助けになります。ゆっくり確実に進む者は必ず勝
利します。たとえ遅いとけなされても、もっとも安全な旅は徒歩の旅です。より速い手段に頼る旅は災難に結
びつきます。手段が速いものであればあるほど災難に出合う確率も高くなります。お腹がすいた分だけ食べる
べきであって、それ以上は病につながります。サーダナ(霊性の努力)は一歩一歩進みなさい。次の一歩を踏
みだす前に、今ある一歩を確実に踏みこえなさい。
(サティア・サイ・スピークス1
◇
◇
◇
19p)
◇
今日の世の中は、一般の人も指導者も低次の欲望と原動力に気をとられ、深い苦悩に陥っています。それら
が使うのは、とるにたらない能力とつまらない衝動のみです。これを私は「過小評価」と呼びます。本来神性
である人間が動物のレベルで暮らしているのです。人間のレベルの人さえほとんどいません。
家庭、地域、街、地方をプラシャンティ・ニラヤム(平安の宿るところ)に変えていくかわりに、怒りや憎
しみや貪欲という乱暴な感情の争いあう場にしています。五感(粗末な情報と案内を提供するもの)を召使い
ではなく主(あるじ)にし、見せかけの美しさやつかの間の音楽、肌触りのよいもの、快い刺激を与える味の
奴隷になっています。エネルギーのすべて活力のすべてを、これら低次のものが望むまま、つまらぬ満足感を
得ることについやしています。
もしも心が五感を制すれば、永続する歓びを手にすることができるでしょう。五感を主(あるじ)にしてい
ては泥の中にひきずりこまれるだけです。これこそもっとも悲劇的な「過小評価」の結末です。ヴィヴェーカ
の権威をおとしめ、五感の発するサイレンに栄誉を与えるような行いひとつひとつが人間の価値を下げていま
す。知性が主(あるじ)、師(ガネーシャ)でなければなりません。五感が何かを欲したら、知性によって識
別し問いかけなさい
「これは内におわす私の神性にそった行いだろうか」そうすることで過小評価から離れ
ていることができます。
(サティア・サイ・スピークス6
◇
◇
◇
218-219p)
◇
人間には、自らを肉体、五感、心、知性から切りはなす能力が授けられました。人はこういう表現を使いま
す。私の目、私の耳、私の足、私の心、私の理由、などなど。意識の奥深くでは、そういったものと別の存在
であること、そういったものを使い、所有している主であることを知っているのです。肉体が自分ではないと
思う動物はいません。肉体こそが自分だからです。肉体という入れものの居住者であることを知らないのです。
人は筋道立てて考える力を静かに働かせるだけで、肉体という入れものがうわべだけの一時的なものにすぎな
いことが理解できます。これがヴィッチャークシャナ(分析)を通じて得られるヴァイラーギヤ(無執着)で
あり、またヴィヴェーカ(識別力、ガネーシャ)のもたらすものです。
38
いったん肉体とそれにともなうものへの過剰な執着から自由になれば、喜び悲しみ、善悪、快不快などから
も解放されます。平穏、ゆるぎない強さ、乱れることない調和を確実に築きあげることができるでしょう。世
界が歓び、愛、至福という神に満たされた、ひとつの家族であることを知るでしょう。目に見えるこの世界の
すべてそのものが自分であること、この世の多種多様さのすべてが神の意思、神の想像力の顕れであることを
知るでしょう。こうしてあるひとりの個の存在が大宇宙の果てにまで拡大すること、それが人に与えられた最
高の飛翔であり、賢者聖者が長年にわたり祈りと修行生活を続けて求めた至高のアーナンダ(至福)です。
(サティア・サイ・スピークス7
◇
◇
◇
217p)
◇
人は一歩一歩無執着を実践しなければなりません。そうでなければ貪欲さ、欲深さが人のよりよい性質(ガ
ネーシャ)をおびやかしてしまいます。よりよい性質とは神性のことです。「人」とは名であり姿にすぎず、
その実体は神だからです。これを理解するには、不変のものと移り変わるもの、永遠なるものと一時的なもの
とを識別する力(ガネーシャ)を手に入れ培わなければなりません。「*サーダナ・チャトゥシュタヤ、ニッテ
ィヤニッティヤ
ヴィヴェーカ」―――この大宇宙はたえまなく変化と変更を余儀なくされるものであり、ブ
ラフマーのみが不変であると知ること。「**イハ
アムトラ・パラ・ボーガ・ヴァイラーギヤ」―――それが
はかなく嘆きに満ちたものであることを知ったなら、天上の快楽のみならず地上の快楽にも執着せずにいるこ
と。「***サーマ
ダマディ・シャトカ
サンパッティ」―――望ましい6つの資質を手に入れなさい。五感や
五感の求める刺激にたいし、外側からも内側からもコントロールすること。悲しみや苦しみにくれ、喜びや勝
利に酔いしれていても、ゆるがぬ心でいること。「ウパラティ」―――後になって束縛をもたらすような行為
からいっさい手を引いていること。「シュラッダ」―――師や読み進めている経典に対する堅い信頼。「サマ
ダナム」―――他の思考の波にじゃまされることなく、たえまなく根源ブラフマーを瞑想すること。(*Sadhan
a-Chatshtaya: Nithyanithya Viveka, **Iha amuthraphara-bhoga-vairagya, ***Sama damadi-shatka sampathi )
ミルクは牛の全身から作り出されるものであっても、4つの乳からしか得られません。それと同じで、霊性
の知識を得るには、4つの乳であるサーダナを(日常という場で)絞らなければなりません。
(サティア・サイ・スピークス5
◇
◇
◇
196-197p)
◇
人には2つの特別な贈りものが授けられました。ヴィヴェーカ(理解力)とヴィグナーナ(分析力、統合力)
です。この2つの贈りものをあなたの真の姿を見いだすために使いなさい。それはすべての人の真の姿、すべ
てのものの真の姿でもあります。あらゆる国家がこの大地に支えられ養われています。みなにぬくもりを与え
ているのは同じひとつの太陽です。すべての肉体が同じ神性原理を宿しています。すべてが同じ内なる導き手
に導かれているのです。
(サティア・サイ・スピークス8
◇
◇
◇
114-115p)
◇
人にはブッディ(知性、ガネーシャ)が授けられています。何かをはじめるとき、何を守るのが有益で、何
が害悪となるのかを判断するためです。ガンディーは憎しみに満ちた土地を歩きながらこう祈りました。「*
サブコー
サンマティ
ド
バガヴァン(神よ
すべての人に善なる心を授けたまえ)」知性はいつも鋭く、
明晰に、まっすぐにしておきなさい。(*Sabko sanmathi dho bhagavan)
知性が人を導く方向には4つあります。(1)「スワルタ
シュカ
ブッディ」これはエゴの性質に満ちた
もので、妻や子どもさえも気にとめず、自分の望むことをまっさきに満たそうとします。そして(2)「スワ
ルタ
パラルタ
シュカ
ブッディ」これは他の幸福についても考慮しようとするものです。鳥はヒナにエサ
を与え、大変な苦労をして育てあげます。さらには(3)「パラルタ
ブッディ」これをそなえる人は自らの
求める幸せを他のためにも求めます。他を救うためには困難をものともしない気がまえがあり、彼らの想いは
他に幸せを与えます。そして最後が(4)「アディヤト
ブッディ(霊的知性)」これは人を献身と奉仕の道
に導きます。それのみが霊的成長に結びつくからです。…(略)…
39
アディヤトの知性は万物が「ひとつ」であることを認識するものであり、そのためある人が何かを想うとそ
の人もまったく同じことを想ったことになります。ここに集う膨大な数の人々は、たった一本の神という糸に
よってつながれた多彩ないろどりの花輪のように、アディヤトの知性になることができます。多様さの背後に
ある唯一なるものを見つめなさい。ブラフマスートラ―――ひとつひとつの花を通す糸―――を見つめなさい。
(サティア・サイ・スピークス13
45-46p)
4.ガネーシャの姿、持ちもの意味
一本の牙の者(エーカ・ダンタ)
ヴィナーヤカが聖者ヴィヤーサの語るマハーバーラタを口述筆記したとき、ヴィヤーサは何を語ろうとも書
き記す手を止めてはいけないという条件を定めました。一方ヴィナーヤカも、決して口述を止めることなく休
まずに語りつづけなければならないという条件をヴィヤーサに申しわたしました。書きつづけるうち筆が折れ
てしまいました。ヴィナーヤカはためらうことなく自らの牙を折って筆にしました。そうして「エーカ・ダン
タ=一本の牙の者」と呼ばれるようになったのです。ここにヴィナーヤカが人類の繁栄のために示した輝かし
い自己犠牲が表現されています。ヴェーダで自己犠牲のみが不死の道にたどりつくとされているゆえんです。
(サナタナ・サラティ
◇
◇
◇
1994年
10月号
7p)
◇
象にはふつう2本の牙があります。心もつねに2つの間で答えを出そうとします。善と悪、優れたものとた
んに便利なもの、手にある仕事と頭を悩ます心配、目の前の現実とそれを払う魅惑的な妄想など。しかし何か
をなしとげるには心を一点に集中させなければなりません。象の頭のガネーシャ神はそれで1本の牙なのです。
ガネーシャ神は「エーカ・ダンタ=一本の牙の者」と呼ばれます。心を一点に集中させなければならないこと
を人々に思い起こさせるためです。
(ジョイ・トーマス著『サティア・サイ・ババのメッセージ:人生は夢
叶えなさい』133p)
ネズミのムーシカ―――ガネーシャ神の乗りもの
一部の無知な人々は、大きな動物の姿をしたこの神格についてあれこれとりざたし、どうしてそれほど大き
な体で小さなネズミに乗れたのかと疑います。ムーシカとはその無知の暗闇を象徴し、一方ガネーシャが無知
の闇を取りはらう輝く英知を象徴しているのです。
(サナタナ・サラティ
◇
◇
◇
1994年
10月号
5p)
◇
ヴィナーヤカの乗りものはネズミです。このネズミにはどんな意味が秘められているのでしょうか。ネズミ
は嗅覚を体現するものと考えられます。世俗的なもの(ヴァサナ)への執着を象徴しているのです。ネズミを
捕まえたいなら、強い匂いの食べものをワナにしかけるとよいことが知られています。またネズミは夜の暗闇
の象徴です。暗がりの中でも目がきくからです。ヴィナーヤカの乗りものとしてのネズミは、人を暗がりから
光のもとへ導くものの意味です。ですからヴィナーヤカ原理とは、人の中にある悪い資質、悪い行い、悪い想
いをきれいに取りはらい、善い資質、善いふるまい、善い行いをたたきこむ者を意味するのです。
(サナタナ・サラティ
◇
◇
◇
1991年
10月号
275p)
◇
ガネーシャの乗りものはたった一匹のネズミです。ネズミはヤシの葉の書物(知性の象徴)をボロボロにし
て喜びます。ネズミは、知性の力を劣悪で悪質な批判でそこない破壊してしまう無知を象徴しています。ガネ
40
ーシャは知性と英知の主であり、無知の象徴ネズミを世で働くときの乗りものにします。このように知性や英
知を崇拝する者は、その知性を運ぶのにまさにその知性による批判や批評を用いなければならないことがある
のかもしれません。
(ジョイ・トーマス著『サティア・サイ・ババのメッセージ:人生は夢
叶えなさい』
132-133p)
◇
◇
◇
◇
ネズミはガネーシャの乗りものです。ネズミは頭がよく活発な生きものです。ひとつのシンボルとして、行
いをするときには賢く勤勉であるよう私たちに教えています。
(サナタナ・サラティ
◇
◇
◇
1989年
10月号
263p)
◇
ヴィナーヤカが象の頭をもち、ネズミを乗りものにしているのはどうしてでしょう。ネズミはムーシカ(サ
ンスクリット語)と呼ばれます。夜を象徴し暗闇を意味します。暗闇の象徴なのです。ヴィナーヤカが暗闇を
支配する力をもつため、ムーシカの乗り手として描かれるのです。ヴィナーヤカは暗闇を取りはらい、世に光
をかかげます。
ネズミ(ムーシカ)は嗅覚の象徴でもあります。匂い(ヴァサナ)をたどって動きまわります。ヴィナーヤ
カはヴァサナをつかさどる者、つまり欲望と無知の主なのです。
(出典不明)
象頭神ガネーシャ
ガネーシャ神は象の頭をしています。象はもともと移り気、かたくな、権力を好む動物です。しかし訓練す
ることで、その力強さは人が自然(*ネイチャー)のもたらす障害を乗りこえていく助けになります。同様に、
人の心も移り気でかたくな、支配的ですが、訓練を積むことで人の性質(*ネイチャー)を乗りこえていくたい
へん大きな助けになります。象は鼻、耳、舌、目をよく動かします。人の心もたえず五感の快楽を求めます。
ですからプラーナ集に、心は象のようだと記されているのです。知性はそのような心の動きの先頭に立つもの
です。そこからガネーシャという知性の主が象の頭で描かれます。(*印同音異義語
(ジョイ・トーマス著『サティア・サイ・ババのメッセージ:人生は夢
◇
◇
◇
訳者注)
叶えなさい』132p)
◇
ガネーシャ神が象の頭をしていることにはどんな意味が秘められているのでしょうか。象はその鋭い知性に
ついて語られます。ガネーシャ神の象の頭は、とぎすまされた知性と最高級の識別力を象徴しているのです。
その知性の純粋さからブッディ(知性)を授ける者と呼ばれます。帰依者の祈りにこたえることからは、シッ
ディ・ヴィナーヤカ(求めるものを授ける者)と呼ばれます。
(サナタナ・サラティ
◇
◇
◇
1989年
10月号
263p)
◇
ヴィグネーシュワラは象の知性(ガジャ・テリヴィ)を授けられた者とされています。象はその無類の知性
で知られます。また主人に対する絶対的な忠誠心でも知られます。主人を救うためなら自らの命をも犠牲にし
ます。これらのことを直接証明するのがサイ・ギータ(サイババの象)です。ふだんから何百もの車が前の道
を行きかいます。サイ・ギータはまったく気にかけません。しかしスワミの車が通りかかると直感的に気づく
のです。なじみの叫び声をあげ、車にむかってかけだします。なんというスワミへの愛でしょう。象にも信仰
心があるというなら、それは決して大げさな表現ではありません。
(サナタナ・サラティ
41
1991年
10月号
276p)
◇
◇
◇
◇
象はおそらくもっとも知性的な哺乳動物であり、サトワ(調和、純粋)の性質を示す菜食動物です。ガナパ
ティは象の頭をしています。霊性のみならず、世俗的な達成の道においても障害をうち砕くことのできる知性
を象徴しているのです。
(サティア・サイ・スピークス11
◇
◇
◇
211p)
◇
ガネーシャの象の頭が象徴的に意味することを正しく理解しなければなりません。象には深遠な知性がありま
す。たとえば昨日、サイ・ギータ(バガヴァンの象)はスワミの車が近づいてくる音を聞き分け走ってきまし
た。たくさんの車がスワミの車に続いていたにもかかわらず、サイ・ギータは車の音を鋭く聞き分け、決して
間違えませんでした。これがガジャ・テリヴィ(象の知性)と呼ばれるものです。鋭い頭脳の者が象の知性を
持つといわれるゆえんです。それはメダー・シャクティです。さらに象はその大きな耳でほんの小さな音さえ
聞くことができます。鋭く聴きいることが大切な霊性のサーダナにおいて、「スラヴァナム=神の栄華に聴き
いること」はまず最初に求められる段階です。耳を傾けたあとには頭の中で反芻し、それを実践に移さなけれ
ばなりません(このプロセスをスラヴァナム、マナナ、ニッディディヤーサナといいます)。象は賞賛(ドゥ
ーシャナ)も非難(ブーシャナ)も同じように受け止めます。善いことを静かに記憶する一方で、悪いことを
きいたときには体を揺すり、好ましくないものをふり落としてしまいます。
(サナタナ・サラティ
1994年
10月号
265p)
ヤシの葉の書物と数珠
ガネーシャは一方の手にヤシの葉の書物、一方の手にジャパマラ(数珠)を持った姿で描かれることがよく
あります。書物は知性と英知を表します。数珠は心に決めた御姿に意識を集中し、その御名をくりかえし唱え
ることを示しています。
(ジョイ・トーマス著『サティア・サイ・ババのメッセージ:人生は夢
叶えなさい』133p)
ガネーシャ神の大きなお腹
ガネーシャが象の頭と大きなお腹をしているからといって、ぶかっこうな神とみなしてはいけません。ヴィ
ナーヤカはその身に大宇宙を抱える神なのです。無限の力をそなえた神格です。
(サナタナ・サラティ
1989年
10月号
264p)
灰色の体(シャシヴァルナム)、白い衣(シュクラムバラダラム)、
慈悲深い顔立ち(プラサナヴァンダナム)
ヴィグネーシュワラは白い衣を着た姿で描かれます。体は灰色です。4本の腕をもち、ほがらかな顔立ちを
しています。白い衣は心の清らかさを象徴します。ヴィグネーシュワラを崇拝し、あなた自身も清らかさを手
にする努力をしなければなりません。ヴィナーヤカはいつも誠実で穏やかです。その恩寵に頼り、一生の内に
上り下りがあろうとも、この神のように穏やかでいられるよう努めなさい。
(サナタナ・サラティ
◇
◇
◇
1998年
10月号
264p)
◇
ガネーシャは神の栄華に浸っています。それがシャシヴァルナムの意味です。またチャトゥール・ブージャ
(4本の腕)と形容されます。これは目に見える2本の腕に加え、見えない2本の腕があることを意味し、神
として2つの仕事に用いられます―――(1)帰依者に祝福を与えること(2)帰依者を厄災から守ること。
最後はプラサナヴァンダナム(慈悲深い顔立ち)という表現です。この慈悲深さは内面の穏やかさ、幸福、調
和、内なる恵みと慈しみ、力強く独立した意識を物語ります。
42
ガナパティに祈りを捧げるとき、よく用いられるある有名な詩があります。この神の様々な特質を述べるも
のです。まず「シュクラムバラダラム(白い衣を着た者)」。これは純粋さを象徴します。アムバラ(shkl・am
bara・daram)には空という意味もあり、心のアーカーシャを示すからです。ガナパティは普遍的な愛と慈しみの
清らかな神です。2つめの特質は「ヴィシュナム」という形容です。「ヴィシュヌ」とは、いついかなるとき
もあらゆるところにおわす、という意味です。次に用いられるのが「シャシヴァルナム=灰、ヴィブーティの
肌の色」という表現です。霊的栄華、霊性の功績・到達・潜在能力の威光で光り輝いているということです。
このことはギータの中で「ヴィブーティ」とも呼ばれます。クリシュナ神がこう述べていることによります。
「神の威力、神の栄華、神の威光(ヴィブーティ)を見たとき、それが私のものであると知りなさい」
(サティア・サイ・スピークス
16
211p)
捧げ物(モダカ)
ガネーシャ神に捧げられる供物にも重要な意味があります。*グラム粉、**ジャッガリー、コショウを合わせ
たものを、米の粉のペーストでくるみ、油を使わずに蒸しあげます。アーユルヴェーダの見地からも、健康的
でおいしい食べものとされています。現代医学でもこの蒸されたイドリー(米菓子)が大変消化によく、術後
の患者の食事に勧められることから、その重要性が認められています。ジャッガリーには体内のガスをコント
ロールする作用があり、目のトラブルを緩和し、胃の不調を防ぎます。(*ヒヨコ豆の粉
液からとる粗黒砂糖
**ココナツヤシの樹
訳者注)
太古の昔このお祭りを祝ったときには、清らかな心で霊性の探求をする際の前提条件として、健康に強調が
おかれていました。ダルマ(正しさ)、アルタ(富)、カーマ(欲望)、モクシャ(解脱)という一生の4つ
のゴールに到達するには、健康な肉体が基本です。正しい手段で富を得、解脱への切望を抱くには、丈夫で健
康な肉体が不可欠です。
(サナタナ・サラティ
◇
◇
◇
1994年
10月号
264-265p)
◇
ガネーシャ祭りでは、クドゥムルやウンドラルなどのプラサダムが神に捧げられます。神に捧げるにはどん
な食べものがふさわしいのでしょう。油を使わず蒸して調理したもの、米の粉、豆、ゴマを使った食べものが
ガネーシャに捧げられます。油も火も使わずに調理します。それには次のような意味があります。バードラパ
ーダの月、農民はゴマを収穫します。ゴマには医学的に肺と目に良い成分が含まれます。ゴマと豆が蒸される
とその成分が消化されやすくなるのです。またこのような食べものを神に捧げるのには2つの目的があります。
おいしいことと体によいこと(喜びを与え健康を増進する)です。昔の人々が様々なお祭りをお祝いしてきた
のにはそれぞれ理由があるのです。
(サナタナ・サラティ
1992年
9月号
222p)
ランボーダラ
ガネーシャ神はランボーダラとも呼ばれ、それは「富を守る者(ラクシュミー・スワルーパ)」の意です。
ここでいうラクシュミーとは、ラクシュミーの8つの側面のうちダーナムラクシュミーと呼ばれるダーナム(金
銭)の神だけでなく、あらゆる富や繁栄を表す神を意味します。また「富」とはスカ(歓び)とアーナンダ(至
福)のことです。歓びや至福なくして他の何を得ることに意味があるでしょう。
(サナタナ・サラティ
1994年
10月号
264P)
5.ガネーシャ神
―――心の霊性修養(サーダナ)を通じ覚醒にいたる道で障害を取りのぞく者
A.
五感と心のコントロールと浄化
五感のコントロールがなければ、人は目隠しのない馬、首輪のない牛も同然です。サーダナ(霊性修行)を
43
したところで、時間とエネルギーの浪費にすぎません。人の人たる特徴とは、識別力、無執着、すべてを見わ
たす知性(ガネーシャ)が授けられたということです。真理を見いだし、そこに定まり、ゆるがぬ平安を得る
ことができるのです。
(サティア・サイ・スピークス5
◇
◇
◇
90p)
◇
心(マインド)は悪党です。欲望についた別の呼び名です。心という布地は欲望でできています。縦糸も横
糸も、欲望、それしかありません。欲望が去れば心(マインド)は消えさります。布地からすべての糸を引き
抜けば布地はなくなります。欲望を引き抜きなさい。心(マインド)が消え、あなたは自由です。
(サティア・サイ・スピークス6
◇
◇
◇
158p)
◇
心(マインド)が人(ガネーシャ)の君主に、五感が大臣になっています。召使いの奴隷のようなもので、
そこに平安はありません。自らの内に神性を顕し広げようと志すサダカ(霊性の徒)なら、五感を支配しなさ
い。それが最初のステップです。次のステップが心(マインド)を征服し追いだすことです。3つめがヴァサ
ナ(衝動)を根こそぎにし、4つめがジュナーナ(霊的英知)を手にすることです。五感が枝、心(マインド)
が幹、衝動が根です。アートマ(神性)の真理を認識するには、これらすべてにうち勝ち滅ぼさなければなり
ません。
(サティア・サイ・スピークス16
◇
◇
◇
64-65p)
◇
インドの聖者たちは、感情を浄め信仰を堅固にする助けとして、様々な儀式、祭事、祝祭、規律や行動規範、
しきたりを定めてきました。今日はそれらのうちの重要なもののひとつ―――食物に関する規律―――につい
てお話ししましょう。簡素で純粋、清潔なもの―――聖者たちのいうサトウィック・フードを食べなさい。衝
動や感情をあおったり、気持ちを高ぶらせたり、平安な心を動転させたり、健康をそこねることのない食べも
のです。また神に捧げる食べものは、人を傷つけるかすかな邪悪な波動もないものです。お腹がすいて食べる
ものも、同様に良質なものにしなさい。食べものは感情や想いに微妙な影響を与えるものであすから、たえず
注意をはらわなければなりません。
(サティア・サイ・スピークス10
◇
◇
◇
37-38p)
◇
ディヤーナ(瞑想)とは、心(マインド)を内面的な分析と統合にむける訓練です。ディヤーナの最終目的
は、あらゆる「私」がもっとも純粋な形で統合されひとつになることです。その「ひとつ」とは、ギータの中
で8つの性質を持つと記されています。カヴィ(過去・現在・未来を知ること)、プラナム(起源が時間を超
越していること)、アヌシャシタラム(行動規範がもうけられること)、アノラネーヤ(微少よりさらに小さ
いこと)、サルヴァーシャ・ダータ(すべての根幹であること)、アチンティヤルーパ(説明しつくせぬ姿形)、
アディティヤ・ヴァルナ(まばゆいばかりの輝き)、タマサ・パラスタット(暗闇を超越していること)、こ
の8つです。これが根気強くディヤーナをつづけることでなしとげるべき課題です。
またディヤーナは五感のコントロールとともに行わなければなりません。五感が天へと続く門をふさいでい
ます。五感のどれをも自由にさせてはいけません。
(サティア・サイ・スピークス16
◇
◇
◇
81p)
◇
ディヤーナは理想から理想へとぐらついたりゆれたりするものであってはいけません。たんなる機械的で教
科書通りの決まりきったものや、時間通りにきっちり左右の鼻孔を交換する呼吸法、無意味に鼻先を見つめて
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いるだけのものにしてしまってはいけません。ディヤーナは五感、神経の流れ、想像力の翼を厳密に律してい
くためのものです。ディヤーナが、「6つの敵」という名の頂をもつ巨大な山脈の一角の「平安の谷」と呼ば
れる理由はここにあります。「6つの敵」とは欲望、怒り、貪欲、執着、傲慢、嫉妬です。山脈を越え平野に
たどりつきなさい。真理が見えるよう、目から流れる大きな滝を取りはらいなさい。マーヤーとは滝のもたら
す無知の霧の別名です。セルフの深みに没入しようとする心を苦しめます。
(サティア・サイ・スピークス10
◇
◇
◇
79p)
◇
サントーシャ(幸福)とシャンティ(平安)を得るには、純粋で汚れのない心、エゴやエゴの子どもたち―
――欲望、貪欲、嫉妬、怒り、憎しみなど―――に汚れていない心を育てなければなりません。そのためには、
サット・サンガ(善い仲間)を求め、サット・カルマ(善い行い)をし、サット・アロチャラ(善い想い)だ
けを心に抱き、サット・グラナマ(善い書物)を読みなさい(障害を取りのぞくガネーシャ神の特徴)。
何千もの善いものを見、何千もの善い言葉を聞き、何千もの善い本を読んだとしても、少なくともそのうち
のひとつでも実践にうつさなければ、心の鏡についた汚れを落とすことはできません。神がそこに姿を映すこ
とができないのです。
(サティア・サイ・スピークス10
◇
◇
◇
172p)
◇
マナス(心)をおろそかにし野放しにしていれば、「タマス=鈍性、幻惑」に支配されてしまうでしょう。
一部の人々は心の動きのひとつひとつを観察し、間違った動きや悪い考えが浮かんだら全部書き出すことをす
すめています。違います、これは危険をはらむやり方です。勝手気ままな心に気をとられてはいけません。何
をしてはいけないかではなく、何をするべきなのかを大切にしなさい。間違いを数えあげればまた同じ過ちを
くり返します。正しく歩むことを決意しなさい。よろけることもつまづくこともありません。
(サティア・サイ・スピークス2
◇
◇
◇
183p)
◇
心の強さ、想いの純粋さ(ガネーシャの特質)が進歩を左右します。心の状態と、想いから生じた行い、こ
の2つが束縛か自由か、幸運か不運か、前進か後退かを決定します。心が人の意図、決断、したいこと、した
くないことを決めています。このサンカルパが五感の原動力であり、それをあらわにする行動をはじめます。
井戸に小石を落とせば、波紋がどんどん広がり表面全体におよびます。それと同じで、ある想いが心に起これ
ばそこから生じた波が全身を包みこみ、様々な行動をおこさせようとします。
想いが純粋なら(ガネーシャの資質)行いも純粋です。不純であれば行いも不純になります。十分に注意を
しなさい。心に何かの想いが浮かんだら、それが行いに価するのか、その価値のないものかすぐさま確かめな
さい。知性を動員して確かめなさい。
心に浮かんだ想いには偉大な潜在能力、エネルギーがあります。死を迎えた後でさえ、できごとを起こした
り、善いこと悪いことをもたらします。どういうことでしょう。その想いが何度も何度も人の姿をとり、さら
なるいくつもの生を送る原因なのです!
有益なことを意志し抱きつづけなさい。その決意は剣になり、雑草
を切りきざみます(ガネーシャ)。その結果、善い想い、善い計画、善い行い、善い方針がのびのび育ってい
くのです。
(サティア・サイ・スピークス15
◇
◇
◇
196p)
◇
マナス(心)、ブッディ(知性)、チッタ(想い)を飢えさせ栄養不足にしてはいけません。ありとあらゆ
る汚れた食べものを追い求めてしまうでしょう。適切な食べものを与えれば、それらは機能的に働き、内在す
るアートマを照らし出し、アートマがすべてであることを見いだす助けになります。時が満ちるその瞬間まで、
すべてが混乱するかもしれません。心配はいりません。…(略)…神の恩寵はあらゆる障害をうち砕き(ガネ
45
ーシャ)、サーダナの果実を授けます。いったん恩寵を手にすれば、その恩寵によりあらゆる願いが叶えられ
ます。
(サティア・サイ・スピークス2
◇
◇
◇
189p)
◇
心を猿のようだと一方的に責めてはいけません。解放も束縛も手にすることのできるすばらしい道具になる
からです。どちらを取るかはあやつり方しだい(ガネーシャ)です。心は実に細かくあなたの指揮を遂行しま
す。あなたが望めば、気高き道の先に続く覚醒の扉へとまっすぐあなたを導きます。歩くたびに汚物にはまる
袋小路をさまようことにもなるのです。
(サティア・サイ・スピークス2
◇
◇
◇
224p)
◇
感情や衝動のコントロールは、知性を浄める霊性の鍛錬、「ヨガ」の定義に含まれる教えです。真理を覆う
無知の厚い霧をつき破るには、美徳をいしずえにして知性を築きあげなければなりません。献身のためにカル
マ(行為)がなされ、あらゆる命に欠かせぬものとしてウパサナ(礼拝)がなされるとき、知性は霧を追いは
らうまでに浄められ、真理があらわにされます。カルマが神への捧げものとしてなされるとき、行為者を害す
る効力はなくなります。
(サティア・サイ・スピークス7
◇
◇
◇
82p)
◇
ジャパ(神の御名を心から唱えること)、タパス(苦行)、プージャ(儀式による崇拝)、ヴラタム(誓い
を守る行)―――これらはみな五感を律し従わせます。神が映し出されるよう心を浄めます。目に見える砂糖
を手でつかんで水の中に溶かせば、二度と見ることもつかむこともできなくなるように、遍在する神を五感や
知性で理解することはできません。チッタシュッディ(心を浄めること)によってのみ、神を知ることができ
ます。舌だけが水に溶けた砂糖を味わえるのと同じことです。…(略)…一体心は何をしていますか?
な心の動きがどれだけ害をおよぼしていますか?
どうしたら心をつくりかえていくことができますか?
様々
そ
れらを理解し、心の支配から自らを解放しなければなりません。同時に心を支配する(ガネーシャ)ための努
力をもしつづけなければなりません。そのとき一生が価値あるものになります。そうでなければ一生は途方も
ない浪費です。
(サティア・サイ・スピークス7
B.
156-157p)
覚醒への障害を取りのぞく霊性修行
霊性の鍛錬は実に重要です。炭を燃える炭の上に置いただけでは十分ではありません。その炭もまた燃えだ
すよう勢いよくあおがなければなりません。プッタパルティにいるからといって十分ではありません。私から
のサンカルパ(答え)を勝ちとるためのサーダナを行いなさい。前世でなされた行いからくる重荷はなぜたや
すく落とすことができないのか、疑問に思うかもしれません。いいえ、ひともりの綿(わた)が火花によって
燃えつきるように、打ちこわすことのできるものです。「*ジュナーナグニ
ダグダー
カルマナム―――ジュ
ナーナ(英知)の火花はたちまちカルマ(行い)の結果を消滅させる」これは晴れた日に街道を走るバスの後
ろにまいあがる土ぼこりのようなものです。砂利道や石の敷かれた道に入れば少なくなりますが、それでもま
だ上がります。タールで舗装された道に入ればなくなります。土の道はカルマ(行い)の道、石の道はウパサ
ナ(崇拝)の道、土ぼこりのないタールの道はジュナーナ(英知)の道です。力を発揮し努力を重ねることで、
過去の行いによる重荷はへらすことができるのです(ガネーシャ)。(*Jnanagni dagdha karmanam)
あなた方はコーヒーが飲みやすい温度にさめるまで手をあわせて待ちはしないでしょう。もう一つカップを
もらい、一方のカップからもう一方のカップへとくりかえしコーヒーを移しかえる、違いますか?
神の恩寵
という飲み物を飲むときにも、これと同じ欲する気持ち、懸命なサーダナを霊性の面で示さなければなりませ
ん。キリストはサーダナの重要性を示し、霊性の鍛錬から得られる平安を世に示したからこそ偉大だったので
46
す。
(サティア・サイ・スピークス5
◇
◇
◇
93p)
◇
ヴィナーヤカは人々にきわめて重大な教えを授けています。偶像をすえるプージャは数日間続けなければな
りません。自らの師、ナーヤカになる努力(ガネーシャ)をしなければなりません。献身には9つの段階があ
ります。スラヴァナム(耳を傾ける)、キールタナム(神の賛歌を歌う)、ヴィシュヌスマラナム(神を想い
御名を唱える)、パーダ・セヴァナム(御足に仕える)、ヴァンダナム(神に従う)、アルチャナム(崇拝す
る)、ダシヤム(主人に仕える召使いのように神に仕える)、サキヤム(神に親しむ)、アートマニヴェダナ
ム(肉体、心、魂を神にゆだねる)。その間のすべてが成就するよう、象は最初と最後のもの、スラヴァナム
とアートマニヴェダナムを象徴します。
(サナタナ・サラティ
◇
◇
◇
1994年
10月号
266p)
◇
人々は神を崇拝する様々な方法を発展させてきました。実に多様な儀式、お祝い、お祭り、賛歌、断食、制
約、巡礼があります。しかし神の恩寵を最大限にひきだす最善の崇拝とは、神の指揮に従うことです。たんに
へつらうのはみじめな献身です。神を遠く離れたところにおいて、全知全能、遍在であると崇めたところで神
を喜ばせることはできません。親密さ、身近さを培い、神と家族になりなさい。神に従い、忠実、謙虚、純粋
になり、神をその手に勝ちとりなさい。
(サティア・サイ・スピークス10
◇
◇
◇
42p)
◇
まばゆく光り輝く太陽は、光で姿をあらわにします。同様に、神の恩寵(ガネーシャ)があってこそ、神の
ヴィジョンが得られます。神を体験するのに何の能力も知性も学位もいりません。まるで雲が太陽を隠すよう
に、エゴや執着、憎しみという雲が神を見いだす妨げになっています。祈りとサーダナは、この雲を追い散ら
す手段です。サーダナ(霊性修行)は神にいたる王道です。
(サティア・サイ・スピークス
◇
◇
◇
出典箇所不明)
◇
永遠不滅のきらめきを必ず見いだす確かな方法があります。たとえ難しく見えたとしても、目の前の一歩は
次の一歩を容易にし、鍛錬によって整えられた心は、人の源も創造の源も神であることを一瞬にして見いだし
ます。成就にいたる道に近道はありません。これまで積みあげてきた障害すべてを断ち切り(ガネーシャ)、
旅する光になりなさい。欲望、貪欲、怒り、悪意、うぬぼれ、ねたみ、憎しみ、飼い慣らされたこれらの資質
をすべて捨てさりなさい。サイババの講話を聞いて、これでいくつ聞いたのか数えるだけでは十分ではありま
せん。目の前には何千もの人がいます。しかしこの数に意味はありません。私が強調することのうち、たった
一つでも実践する人が数に入れられるのです。
(サティア・サイ・スピークス4
◇
◇
◇
295-296p)
◇
バーラタ(インド)の人々にとって、神を崇拝するのに花を捧げプージャ(儀式による崇拝)を行い、神に
敬意を示すのがふつうのやり方です。しかしより神聖な方法があります。善良で清らかな心、善い行いによっ
て崇拝するという独特な献身のしかたです。これはパラ・バクティと呼ばれてきました。いつもプージャと花
で神を崇拝することにより、サダカ(霊性の徒)は場所を変えずにすみます。これはある意味良いことですが、
ずっと同じ場所にいることで、より高い段階に上がりそこねてしまうのは好ましいことではありません。善い
資質、善い行い、善い想い、善い仲間を通じて神を崇拝する、それがよりすばらしい崇拝です。スルティ(経
47
典)にはこの形の崇拝が「善良なる資質による崇拝」と記述されています。神を喜ばせるには、どんな善い資
質を捧げたらよいのでしょう。
神に捧げる第一の花がアヒムサ、非暴力です。第二の花がダマ(五感のコントロール)です。第三の花がダ
ーヤ(生きとし生けるものへの慈しみ)、第四の花がクシャマ(忍耐)、第五の花がシャンティ(平安)、第
六の花がタパス(苦行)、第七の花がディヤーナ(瞑想)、第八の花がサティア(真理)です。ここにはこれ
ら8つの花(ガネーシャ)を通じて崇拝することで神の恩寵が注がれる、という意味がこめられています。
(サティア・サイ・スピークス15
◇
◇
◇
47-48p)
◇
あなた方はプッタパルティにやってきては、写真を手に入れ、家に持ち帰り、毎日または毎週木曜日に礼拝
するようになります。しかしそれはたんなるサットカルマ(善い行い)にすぎません。それだけで十分ではあ
りません。同時にサットグナ、美徳、善い習慣、善い心構え、善い資質や善い人格を養いなさい。そうでなけ
れば一生はプラスとマイナスの連続、一方が一方を相殺
・
・
し、合計ゼロになるだけです。「タット・トワム・アシ=汝は それなり」というとき、あ
なたであるとされるものの資質を手に入れなければなりません。「それ」も「これ」も同じであるなら、「そ
れ」をうやまい「これ」をけなすのも、「それ」をけなして「これ」をうやまうのもまったく同じことです。
(サティア・サイ・スピークス5
C.
69p)
技術、能力、意志、勇気、信念、不屈の精神、英知
ここで望まれるのは、ウトサハ(努力)、ダイリヤ(勇気)、そしてヴィシュワサ(信仰)です。努力とは、
その道の達人から学んだことを規則正しく実践することです。勇気とは、向上するに価する価値を自らに見い
だすことです。決して自分を罪のために罪の中に生まれた罪人にしてはいけません。そのように自分を責める
のは、神の子アムリタプトラにふさわしくありません。
あなた方ひとりひとりの内に、あなた方を動かしているまぎれもない神の魂があります。神の意思、神の計
画、神の法に従い、神の仕事を遂行するためにここにいるあなた方が、どうして罪人になどなれるでしょう。
神を探り神にいたるため、神はたくさんの能力をあなた方に授けました。死刑の判決を受け、うち捨てられた
無力な存在ではありません。求めるがままに豊かな遺産を受け継いだアーナンダスワルーパ(至福の化身)な
のです。あなた方が求めていないだけです。神が与えた使命を信じ、喜んで着実にそれをはたしなさい。
(サティア・サイ・スピークス1
◇
◇
◇
162p)
◇
一生という限られた年月の貴重な一瞬一瞬を、むなしい気晴らしのためにつまらぬおしゃべりで浪費してい
る人々を私は好きではありません。怖じ気づいてためらうばかりでいるのも好きではありません。動きなさい。
力のかぎり心のすべてをこめて行動しなさい。授けられた技術、能力、勇気、自信を最大限に活用しなさい。
神が祝福します。あるラーマバクタ(ラーマの帰依者)のことを聞いたことがあるでしょう。壊れてひっくり
返った荷車のそばで不運を嘆いて座りこみ、荷車をもとに戻してくれとラーマの名を呼びました。しかしラー
マは現れず、倒れた荷車も壊れた車輪もそのままです。男は信仰そのものを非難しはじめ、ラーマを「海のよ
うな慈悲深さ」と称した聖者の言葉を疑いだしました。そのときラーマが姿を顕し男にこう言いました。「愚
か者よ、私はあなたに知恵も力も授けました。それを使いなさい。目の前におかれたことに精進しなさい。最
善をつくしてもなお足りないとき、そのとき私を呼びなさい。あなたの努力がより確かなものになるよう、私
はいつでも恩寵を授ける準備を整えているのだから」
(サティア・サイ・スピークス2
◇
◇
◇
145p)
◇
神への信仰は決してゆるがぬものにしなさい。どんな状況にあろうとも神の指示にそむいてはいけません。
どんな礼拝を捧げようと、どんなに深く瞑想しようと、神の指揮にそむけばまったく無意味な献身です。神の
48
意図や目的には私欲のかけらもありません。神聖なる神の指揮にそむくのは、その人に狭い心と利己的な動機
があるからです。神にそむくほんの小さな行いが、やがては危険なまでに大きくなります。
空に浮かぶ雲が、風によって集められたり追い散らされたりするように、時の経過というものは、仲間との
出会いや別れ、喜び悲しみを人のもとにもたらします。時は神の御姿です。浪費してはいけません。このよう
な神聖な真理を理解するため、ガネーシャ・チャトゥールティのようなお祭りが祝われます。
(サナタナ・サラティ
◇
◇
◇
1991年
10月号
276p)
◇
つねに光を求めなさい。自信と熱意に満ちていなさい。絶望に屈してはいけません。絶望は何も産み出しま
せん。知性をくもらせ疑いにひきずりこみ、ますます問題を難しくするばかりです。熱意を持ってサーダナ(霊
性修養)を続けなさい。身の入らぬふらついた足どりでは何の成果も得られません。水を流して泥を落とすの
と同じことです。流れに勢いがなければ泥は落ちません。泥がきれいに落ちるよう、勢いよく大量の水であた
りを洗い流さなければなりません。
私はほんの最初の段階をお話ししました。サダカ(霊性の徒)にとってもっとも大切なことであり、あなた
方みながサダカ、もしくはサダカとなる人々だからです。「モクシャはスクシュマにあり」―――つまり「解
脱は緻密な手段によってなしとげられる」人にはあなたがして欲しいと思うようにしてあげなさい。すぎたこ
とを思い悩むのはよしなさい。嘆きがあなたを打ちのめすとき、過去に起こった同じようなできごとを思い出
し、さらに嘆きを追加してはいけません。むしろ嘆きが扉を叩くことなく、幸せだったときのことを思い出し
なさい。そこから慰めと強さをひき出し、荒れ狂う悲しみの波から自らを引きあげなさい。
(サティア・サイ・スピークス1
◇
◇
◇
71p)
◇
神によってつき動かされた意志の力は、あなたを前進させる積極的な力です。これをサンカルパ・バーラと
いいます。集中すること、ジャパを行うことで、意志の力を養いなさい。心をその意志の指示に服従させなさ
い。あなた方は気まぐれな心に導かれ、いともたやすく道をはずれてしまいます。ですから私は「WATCH(見
つめなさい)!」と言うのです。WはWord(言葉)を見つめること、AはAction(行い)を見つめること、Tは
Thought(想い)を見つめること、CはCharacter(人格)を見つめること、HはHeart(心)を見つめることです。
「WATCH(見つめる)」という言葉が、一瞬一瞬この5つを見つめることを思い出させるようになったなら、
あなたは幸せでいられるでしょう。
(サティア・サイ・スピークス7
◇
◇
◇
184p)
◇
多くの人が、識別や無執着というものを時々かいま見ています。しかしあっという間にその呼び声を忘れ、
無視し、極端になったりいいわけしてはそこから目をそらします。一歩進んで一歩戻る―――そんな旅では遠
くに行けません。たとえサーダナをはじめても着実さに欠けています。しっかり握っていないため、手から床
に転がる糸玉のように何度でも転がり落ちてしまうのです。どんなことにもいえるように、着実な努力のみが
成功をもたらします。すぐに心をコントロールできるでしょうか。いいえ、気まぐれな心を服従させるのはた
いへん難しいことです。心にはたくさんの側面があり、実にかたくなだからです。
神の反映、神の落とす影であるプラクリティ(性質)を理解することができずに、どうして神そのものを理
解できるというのでしょう。着実に不屈の努力を重ねてこそ心を従わせることができ、心を従わせてこそ神を
体験することができます。そのためにはあなたがあなたの教師にならなければなりません。あなたの内にすで
に吹きこまれた英知のきらめきで、あなた自身を訓練しなさい。全力でのぞめば、さらなる前進を助ける神の
恩寵が得られるでしょう。霊性の第一歩は言葉を清らかにすることです。怒りを取りのぞき、優しく語りなさ
い。学位や業績をおごってはいけません。謙虚になり、熱心に働き、言葉を大切にしなさい。沈黙を実践しな
さい。つまらぬ口論や、役に立たない考え、争いごとからあなたを守ってくれるでしょう。
(サティア・サイ・スピークス2
49
24p)
◇
◇
◇
◇
勇敢であることは、精神面のみならず肉体にも健康と力強さを与える強壮剤です。疑い、ためらい、恐れを
捨てなさい。それらが心に根づくチャンスを決して与えてはいけません。内に授けられた神の力を用いれば、
人はどんなことでもなしとげられます。マーダヴァ(神)にさえなれるのです。
(サティア・サイ・スピークス1
◇
◇
◇
80p)
◇
恐れや疑いを捨てるには、舌の上、心の中でいつも神の御名を唱えていなさい。神の御名を唱えるときには、
果てしない神の御姿、限りない神の栄華を想いなさい。神に執着していなさい。はかないものへの執着が崩れ
落ちていくでしょう。少なくとも、それらをほんの相対的な現実にすぎないものとして適切に見られるように
なるでしょう。ちっぽけなエゴに大きな価値を認めれば、あらゆる悩みが生じます。それがすべての苦しみの
原因です。
(サティア・サイ・スピークス1
D.
81p)
己を知ること
たった五分の問いかけで、あなたが肉体、五感、心、知性、名や姿でなく、アートマそのもの、この多種多
様な姿で顕れたのと全く同じアートマであると確信することでしょう。一度この真理をかいま見たならしっか
り握っていなさい。逃がしてはいけません。永遠にあなたのものにしておきなさい。
(サティア・サイ・スピークス1
◇
◇
◇
25p)
◇
自らの人格を調べあげ、そこにはびこる欠点を見いだす努力をしなさい。他人を分析して他人の欠点を見つ
けようとしてはいけません。霊性の前進をそこねかねない欠点をあらわにするには、こうして自分を調べるこ
とがまさに不可欠です。人はほこりや汚れが目立たぬよう濃い色の服を買い求めます。汚れがはっきり分かる
白い服は好みません。しかし汚れを暗闇に隠しておいてはいけません。汚れた性質を恥じ、速やかに洗い清め
る努力をしなさい。
(サティア・サイ・スピークス6
◇
◇
◇
37p)
◇
心(マインド)は自己の探求がはじまればすぐに消えはじめます。縦糸と横糸からなる布のようなものだか
らです。一本一本が欲望、願望、執着です。それらを取りのぞけば布は消えてしまいます。幻想が綿(めん)、
欲望が糸、心が布地です。ヴァイラーギヤ(無執着)によって、縦糸も横糸も引き抜くことができます。サダ
カ(霊性の徒)はヴィヴェーカ(英知)とヴァイラーギヤ(無執着)を警備員として雇いなさい。そうするこ
とで俗世を無傷で歩んでいけます。
(サティア・サイ・スピークス6
E.
180p)
純粋な行い(カルマ)―――覚醒のための心の純化
純粋な行い(カルマ)―――覚醒のための
心の純化
カルマによってもたらされた結果は、カルマを通じてのみぬぐいさることができます。とげは別のとげでな
ければ取れないのと同じことです。今苦しんでいる過去の悪いカルマの痛みを癒すには、善いカルマを行いな
さい。最善にしてもっともやさしいカルマとは、神の御名を唱えることです。たえず唱えつづけなさい。悪い
性質、邪悪な思いを遠ざけます。あなたの周囲に愛を輝かせるでしょう。
いにしえの聖者たちは、カルマをヴィカルマ(意図的になされたもの)とアカルマ(結果を得ようという意
図なしになされたもの)とに分けました。後者に従えば苦しむことはありません。富や名誉、名声、評判を得
ようとすれば苦しみに終わります。内なる平安、内なる歓びを手に入れなさい。手に入れようとせずに行うこ
50
とで、手にすることのできるものです。行いはそれ自体が報酬であるべきです。結果を神にゆだねるには、む
しろ内なる神の働きかけに従って行わなくてはなりません。つねにこの心構えで実践しなさい。あなたの内に
もまわりにも、大いなる平安が流れ出すのを感じるでしょう。
(サティア・サイ・スピークス5
◇
◇
◇
97p)
◇
サーダナは欠かすことのできないものです。カルマの結果はカルマにしか取りのぞくことができないからで
す。とげは別のとげでなければ取りのぞけないのと同じことです。ナイフでもハンマーでも、たとえ剣でさえ
も取りのぞくことはできません。
かのシャンカラチャルヤも、この世が実在しないものだという認識を、ムット(僧院)の設立、本の執筆、
論議への参加という、実在しない世界での活動を通じて広めました。
カルマをすっかりやめてしまうことはできません。ただ、それがプレマに満たされ世界の幸福を促すもので
あるよう、心をつくすことならできるのです。
(サティア・サイ・スピークス
◇
◇
◇
出典箇所不明)
◇
カルマの法則は希望の手を差し出します。カルマがあるということは結果があるということだからです。し
かしカルマの結果を追い求め、これ以上自らを縛りつけてはいけません。カルマは神の御足に捧げなさい。カ
ルマで神をたたえなさい。神の栄華をより輝かせなさい。努力の末の成功、失敗には無頓着でいなさい。その
とき死はもはやあなたを縛る縄ではなくなります。投獄するものでなく解放するものになるのです。
(サティア・サイ・スピークス10
◇
◇
◇
11p)
◇
あなたには自分の愛が狭いか広いか、献身が浅いか深いかを自ら判断することができるはずです。達成した
ことに満足していますか?
自分自身に問いなさい。識別力を用いて評価を下しなさい。動機が純粋であるこ
とが、平安を保証する最善のものです。ぐらついた良心はまとわりついて悩みの種になるばかりです。正しい
行いは決して悪影響をもたらさず、眠りや健康をそこねることもありません。
心に正しさがあるならば
人格に愛があるならば
家庭に調和があるならば
国に秩序があるならば
人格に愛が生まれます
家庭に調和が生まれます
国に秩序が生まれます
世界に平和が訪れます
正しくありなさい。カースト、教条、肌の色、礼拝様式、地位や裕福さをもとに、人を差別してはいけませ
ん。誰をもさげすんではいけません。あらゆる人を真のあなたと同じ神であるとみなしなさい。
(サティア・サイ・スピークス10
5p)
6.神として、師(グル)として―――障害を取りのぞくガネーシャの恩寵
神の恩寵はふりそそぐ雨、さしこむ太陽のようなものです。それを得るにはあるサーダナ(霊性修行)が必
要です。雨水を受けとめる水さしを上にむけておくサーダナ、太陽の光がさしこむように心の扉を開け放つサ
ーダナです。ラジオ放送の音楽のように、恩寵はあたりに満ち満ちています。しかしそれを聴いて愉しむには、
あなたという受信機のスイッチを入れて周波数を合わせなければなりません。恩寵を求めて祈りなさい。そし
て少なくともこのわずかなサーダナを実践しなさい。恩寵はあらゆるものを正します。アートマサクシャトカ
ーラ(覚醒)に導くことがその最たるものですが、同時に他の恩寵も授けます。世俗的に満ちたりた幸せ、冷
静で勇敢な気質を、ゆるぎないシャンティ(平安)の内に築きあげるのです。
51
神への信仰がなければ恩寵の偉大さを知ることはできません。ラーマやクリシュナを捨ててしまえば、必要
なときにあなたのそばにいることはできません。サイババを慕わなければ彼から恩寵を授かることはできませ
ん。皮肉、疑い、批判やあら探しをはじめれば、より深刻な無知と混乱に陥り、汚れた思いが心を悪臭で覆い
ます。どうしてそこに清らかさが宿るでしょうか。
(サティア・サイ・スピークス8
◇
◇
◇
70-71p)
◇
あなたを導き、案内することのできるグル、すでに道を踏破しその道の上りや下りを知るグルが必要です。
ランプと油と火芯があるなら、そこに火をつける誰かが必要です。線の集まりが板に描かれたなら、それがG、
O、Dの文字だと知る人が、ジー、オー、ディーだと教えなければなりません。それで十分ではありません。
その文字には音があり「ジー・オー・ディー」でなく「ゴッド(神)」と読むこと、「ゴッド(神)」という
その言葉が、雨のしずくを地上に落とし、蓮の花弁を開かせ、蝶を空に遊ばせ、太陽を昇らせるものとして、
またこれまでもこれからも、力のすべて、英知のすべて、愛のすべて、奇跡のすべてでありつづけるものとし
て、この宇宙に遍在する神の原理を形で表したものだと伝えなければならないのです。
自然とその法則、物質とその性質・力・影響について教える人たちは、解放でなく束縛を教えています。こ
れでは至福でなく重荷です。歓びと悲しみの波立つ海を渡るのに石の船を与えているのです。浮かぶことはあ
りません。まちがいなく沈んでしまいます。この海を渡るのに必要なのは、バクティ、神の恩寵への信頼、神
の意思への服従という船です。あらゆる重荷をふり捨て、光になりなさい。一歩進んでひと波越え、次の一歩
でまた次を越え、そうして海を渡っていけます。神があなたを連れて行くのです。何も悩むことなどありませ
ん。すべてが神の行うことなら誰が何を気にするというのですか。
(サティア・サイ・スピークス10
◇
◇
◇
86-87p)
◇
エゴを降伏させなさい。一瞬一瞬、すべての行いを神に捧げなさい。神は必ず人々を苦しみと悪から解放す
ると保証しました。神がどこにいるかを尋ねると、人は空や離れたところを指さします。神が姿をあらわにし
ない理由はここにあります。神はあなたの内に、あなたとともに、後ろに前に、いつもあなたとあることを知
りなさい。あらゆるところに神を見、感じることができるのです。そしてまた、神とは純粋なハートからわき
おこる祈りには必ずこたえようとする、完全なる慈悲であることを知りなさい。
この遍在する神について教えるのが真のグルです。御足に財布を置くのとひきかえに救済を約束する者では
ありません。そのような強欲とエゴでいっぱいの俗物についていってはいけません。神があなたの心を照らし、
知性を呼びさまし、あなたのグルになるよう祈りなさい。神はあなたの心の祭壇から、必ずあなたを正しく導
きます。今日、グルの多くが作物よりも囲いに重点をおいています。そのためそもそもサーダナを守るために
定められた規制や規則を、逆にサーダナをそこなうほどに強調するのです。時代遅れな制約や抑制ばかりを狂
ったように主張し、規則の目的そのものは忘れさられていく一方です。運命やカルマの結果をことさら強調す
るばかりで、それをしのぐ神の恩寵の威力を語り人々を慰めることはありません。
人の手足を縛る鉄のカルマの法則があるのなら、どうしてスルティやスミティ(経典)は、求める人々の熱
心な努力や苦行をたたえるのでしょう。努力や苦行によってカルマの悪影響を変質させ、自ら積みあげた運命
からすくいあげることができるからです。死の日を取り消されたマルカンデーヤの逸話はその好例です。マル
カンデーヤはタパス(帰依)により、神の恩寵をひきだし勝利を得ました。アヴァターたちの地上での行いに
は、恩寵がカルマの蓄積に勝ることを示す数えきれないできごとが記されています。
神が授けるものは何であれ、あなたのため、あなたを解放するためのものです。崩壊や束縛のためではあり
ません。邪悪なことをする神は決して神ではありません。神には好意も嫌悪もありません。あらゆる性質、資
質を超えています。神はグナティータ(グナを超越する者)なのです。それなら神が憎しみや復讐心を抱くこ
となどあるでしょうか。神は愛です。神は慈悲です。神は善、英知、力です。神はあなたがのぞんだものを与
えます(何かを望むときには注意しなさい)(ガネーシャ)。真の意味でためになることを願えるようになり
なさい。願いの叶う木に出かけていって、望んだタオルを手に大喜びで帰ってくるのではいけないのです。
(サティア・サイ・スピークス4
52
300-301p)
◇
◇
◇
◇
師はあなたの知性をとぎすまし、視野を広げ、識別力を授け、高いレベルの意識とさらなる広大な愛の地平
にたどりつくよう手助けします(ガネーシャ)。ですからグルにも感謝を捧げなければなりません。母親はあ
なたを父親のもとに導きます。父親はグルのもとに導きます。グルは神のもとへと導きます。今日、子どもを
父親に導く母親はたくさんいます。子どもをグルのもとに送る父親もたくさんいます。しかし教え子を神に導
くグルはほとんどいません。両親は健康に力強く肉体を育てあげ、グルは肉体の内におわす内なる存在に気づ
かせます。
(サティア・サイ・スピークス16
◇
◇
◇
60-61p)
◇
覚えておきなさい。神性はすべての人の内に地下水のように流れています。神はサルヴァブータ・アンター
ルアートマ(万物に宿りしもの)、サルヴァヴィヤピ(遍在するもの)です。神はすべての生きものの内に宿
るアートマ(魂)です。他の誰の内にもいるように、あなたの内にもおわします。お金持ちの中によりたくさ
んいるのでも、大きな生きものにはより大きな姿でいるのでもありません。神の輝きはあらゆる人の心の奥を
照らします。太陽の光はすべてのものに等しくふりそそぎ、神の恩寵もすべてに等しくそそがれます。あなた
を温める神の恩寵の光を、壁を築いてはばんでいるのはあなた自身に他なりません。無知、愚かさ、誤解から、
神を責めてはいけません。水脈を掘りあてると地下水が勢いよく吹きあがるように、たえまなくラム、ラム、
ラムと唱えることで神の源泉に到達しなさい。いずれ大量に吹き出して、つきせぬ歓びがもたらされることで
しょう。
(サティア・サイ・スピークス1
◇
◇
◇
108-109p)
◇
神は求めるものすべてを与えるカルパタル(願いを叶える聖なる木)のようなものです。しかし自らその木
に近づいて、欲しいものを願わなければなりません。無神論者とはこの木に近づかない人であり、有神論者と
は近づいた人のこと、そこが両者の違いです。この木は何の区別もせずにあらゆる人の願いを叶えます。神は
神を認めなくても崇めなくても、罰を与えたり報復したりしません。神を喜ばせる唯一特別な礼拝の形もあり
ません。…(略)…
恐れることなく神に近づく権利、財産の取り分を求める権利を手に入れなさい。神の近くに行ったとき、賛
美の気持ちが起こらぬほどに解き放たれていなければなりません。賛美は距離感と恐れの証(あかし)です。
カーリダーサの逸話を聞いたことがあるでしょう。彼は「私が去ったなら(as soon as I go)」すぐにでも解脱
を手にするといいました。つまりエゴが消えさえすれば自らの本質、ブラーフマン(不朽なるアートマ)とし
て光り輝きだすと言ったのです。「I(私)」の字を横線で消せば十字架になります。覚えていなさい、十字
架にかけられるべきはエゴなのです。そのとき妨げられることなく神が姿を顕わすのです。
(サティア・サイ・スピークス1
◇
◇
◇
55-56p)
◇
道は苦難に満ちています。苦難はあなたの前進を妨げるのではなく助けになります。おいしげった藪(やぶ)
をはらうはさみの働きをします。旅の行く手の上りや下りは誰にも避けることができません。意識をゴールに
定めなさい。それが幸せと平安を手にする方法です。神の恩寵は、障害が何であれ、あなたを助けるものに変
えていきます(ガネーシャ)。障害を助けとみなすよう、自らの心を教育しなさい。縛りつけるのも解き放つ
のも心次第です。ここにあるこのハンカチは、何かと尋ねられれば確かにハンカチそのものです。しかし真実
はたんなる糸の集まりです。縦糸、横糸、すべて引き抜いたら何が残りますか?
なぜ欲望を増加させ、心に
とらえられているのですか。
(サティア・サイ・スピークス6
◇
◇
◇
◇
53
226p)
神とは誰もが財産の分与を要求できるあらゆる人の父親です。しかしそれを得るには、ある年齢に達し、あ
る知性と識別力の基準に達していなければなりません。神は心の弱い者、愚かな者を財産を与えるに適した人
物とはみなしません。神の財産とは恩寵、プレマ(愛)です。識別力と帰依心があるなら、当然の権利として
その分与を要求することができます(ガネーシャ)。
バクティ(献身)をたずさえここに置き、ひきかえに霊性の力を得ていきなさい。その取引がさかんになれ
ばなるほど私の歓びも大きくなります。あなたがその身に抱えるもの、喜び、悲しみ、心配、不安を置きに来
て、私の歓び、私の平安、私の勇気、私の強さを得ていきなさい。私の目には帰依者に初級も上級もありませ
ん。母親は病気がちな子どもの世話により多くの時間を割きます。年長の子どもにはただ自分で自分の世話を
するよう望み、幼子には母親自ら口もとまで食べものを運びます。大きくなった子どもを愛していないという
ことではありません。目に見える注意を払わないからといって、私のプレマのおよばぬところにいると思うの
はやめなさい。
(サティア・サイ・スピークス1
◇
◇
◇
15p)
◇
神はひとりひとりを神のもとにひきよせます。この親和力は両者にある性質です。両者は本来同じものだか
らです。磁石と鉄のようなものです。しかし鉄が泥にまみれて汚れていては、磁石にもひきよせることができ
ません。さえぎるものを取りのぞきなさい。それがあなたのするべきことです。真のあなたを磨きだせば、神
はあなたを胸にひきよせます。試練や苦難はあなたを磨く道具です。だからこそクーンティはクリシュナにこ
う祈りました。「どうぞいつも嘆きをお与えください、決してあなたを忘れぬように」試練や苦難はナマスマ
ラナ(神の臆念)という薬の効きめを高めるため、医師の与える食事その他の処方のようなものです。
(サティア・サイ・スピークス1
◇
◇
◇
6p)
◇
いにしえの教えによれば、人はたんに連携して働く四肢や感覚器官のよせ集めではありません。人とは、何
度もの生で得た記憶や手法によってとぎすませてきた知性を用い、それらすべてを治めるものです。知性それ
自体は能力にかぎりのある道具です。達成することの不可能な目標がたくさんあります。それらの目標は、天
から恩寵と力がふりそそいでこそ達成されうるものです。神の力にエゴが完全に降伏したとき、その力がふり
そそぎあなたを満たします。
(サティア・サイ・スピークス6
◇
◇
◇
41p)
◇
望みを達成しようとするなら、神の手に握られた道具にすぎない他の誰かにへつらうよりも、神に近づくの
が賢明です。神は独自のやり方で、沈黙の内にあなたの心を変質させ、サーダナと実り多き霊的巡礼の旅へと
むかわせます。神はわが子を道に迷わせジャングルの中で苦しませてはおきません。神に近づき助けと導きを
求めるとき、あなたは自らを救う第一歩を踏みだしたのです。そうして神の意思を自らの意志として受け入れ、
シャンティ(完全なる平安)を手に入れるのです。
(サティア・サイ・スピークス13
◇
◇
◇
96p)
◇
他の何よりも、習慣を正し、欲望へらし、より高い資質を磨きあげなさい。その一歩がさらなる一歩を容易
にします。それが優れた霊性の旅路です。一歩ごとに力と確信が増し、受けとる神の恩寵もより大きく、より
強力になっていきます。
(サティア・サイ・スピークス5
◇
◇
◇
◇
54
197p)
賢明な識別力がなければ、技術や能力を有効に活用することはできません。たとえば、火や電気もどのよう
に扱えばよいのか、必要を満たす道具としてどのように用いることができるのかを知らなければなりません。
人の五感も火と同様、つねに警戒をおこたらずコントロールしていなければなりません。
心が純粋で五感が統制されていないかぎりどんな礼拝も成就しません。ガネーシャは障害を乗りこえるのを
助ける神ですが、すばらしい努力が悪い影響を与えるものにじゃまされていると、障害を産み出す神になって
しまいます。ガネーシャは誠実なサダカ(霊性の徒)には道を切り開いてくれるでしょう。善いことの成就を
願うときにはプラサナヴァダナム(慈悲深い御姿)であっても、邪悪な望みのために助けを求めればそうでは
なくなります。ガネーシャ神はプラナヴァ・スワルーパ、オームの体現であり、幸運の証(あかし)そのもの
です。
(サティア・サイ・スピークス11
◇
◇
◇
212p)
◇
7.ガヤトリー・マントラ―――覚醒への障害を取りのぞくガネーシャ神
オーム
ブール
タット
サヴィトゥール
バルゴ
ディーヴァッシャ
ディーヨ
ヨーナ
ブワ
スワハー
(Om bhoorbhuvaha swaha)
ワレニヤム
(Thath savithur varenyam)
ディーマヒー
(Bhargo devasha dheemahi)
プラチョーダヤートゥ
(Dhiyo yonaha prachodayath)
ガヤトリー・マントラ(知性を照らすヴェーダの祈り)は、もっとも古い経典ヴェーダ(神聖なる英知)に
記された普遍的な祈りです。その祈りは「サヴィタ=万物の生ずる源」と名づけられた、遍在しすべてを超越
する神にむけられています。ガヤトリー・マントラは3つの部分からなりたつと考えられます。(1)賛美(2)
瞑想(3)祈りです。まず神がたたえられ、次に崇敬の念で瞑想され、最後に人の識別力、知性を目覚めさせ
強固なものにして下さい、と祈ります。
ガヤトリーはヴェーダサラ―――「ヴェーダの神髄」―――とされています。「ヴェーダ」とは知識のこと
で、この祈りは知性をつかさどる能力を育みとぎすませます。事実4つのヴェーダに記された4つのマハーバ
キヤ、「4つの真理」がこのガヤトリーマントラには含まれているのです。
(サティア・サイ・スピークス13
◇
◇
◇
224p)
◇
知性は両刃の剣です。鎖を断ち切りあなたを解き放ちもすれば、致命傷を負わせ死にいたらしめもします。
だからこそ探求者たちの唱えるガヤトリー(唱えるものを救う)と呼ばれるこの偉大なマントラは、神に知性
をおさめてください、そしてそれを個人と社会の幸福のために授けてくださいと祈りを捧げるのです。
(サティア・サイ・スピークス7
◇
◇
◇
82p)
◇
聖者ヴィシュワミトラは、ガヤトリー・マントラを上質の薬として霊性の探求者たちに与えました。この聖
者は称賛にあたいします。この「薬」は、ブッディを目覚めさせ人を他の動物よりはるかに高い位置にひきあ
げる、人に特有の資質、ヴィヴェーカ(英知)、ヴィッチャークシャナ(識別力)、ヴァイラーギヤ(無執着)
を授けるからです。…(略)…人は神性です。人の内にはハートに宿る神がいます。それなのに手足を縛られ、
みじめで、限られ、弱く、心乱されています。なぜでしょう。自らの真の姿を知らないからです。自分が弱く
てかぎられ縛られた存在であると思いこみ、想像力の源であるはずのその心にきつく制限されているからです。
どうしたら解放されるのでしょう。どのようにこのブラーマ(幻想)を乗りこえることができるのでしょう。
電車を追いこすには、車に乗ってスピードを上げるか飛行機に乗らなければなりません。電車より遅い乗りも
のでは役に立ちません。幻想を乗りこえるには、神の中に自らを確立しなければなりません。マーナヴァシャ
55
クティ(人の力)による幻想は、ダイヴァシャクティ(神の威力)を得ることでのみ超えることができます。
ガヤトリー・マントラはこのダイヴァシャクティの獲得を促します。
(サティア・サイ・スピークス5
◇
◇
◇
46p)
◇
決してガヤトリー・マントラを捨ててはいけません。他のマントラを忘れたり気にとめなくなったとしても、
少なくとも一日数回ガヤトリーを唱えなさい。そうすることで、旅の間、仕事の間、家にいるとき、どこにい
ようとあなたを害悪から守ります。西洋でこのマントラの発する波動が調べられ、ヴェーダに定められた正し
い発音で唱えると、まわりの空気が目に見えて輝きだすことが発見されています。このマントラが唱えられる
とき、神の輝きブラフマプラカーシャがあなたにふりそそぎ、知性を輝かせ道を照らすのです。ガヤトリーは
アンナプールナ、母なる神であり、万物に命を与える維持の力です。おろそかにしてはいけません。
(サティア・サイ・スピークス13
226p)
まとめ
象頭の神ガネーシャ(ガナパティ、ヴィナーヤカ、ヴィグネーシュワラ)は、神の力の様々な側
面や、至高の神にも人の内にもあるシッディの象徴です。
ガネーシャは、理解力、識別力、直感を通じ、自らの神性に気づき不変のものを獲得することが
できるよう純化された知性そのものです。純粋な心、知性、アートマ(魂)はひとつに溶けあい、
完成された者とは障害をつかさどる神ヴィグネーシュワラそのものであることを明らかにします。
ガネーシャは人を自らの肉体、五感、心、感情の主(あるじ)にし、真理、平安、正義、神の愛
へと導き、最終的に魂を解き放ち永遠のものにします。
ガネーシャ神の示す力は、神の意思と一致する強力な意志、生来の神性にもとづく確信、障害を
乗りこえ命のゴール(解放)にたどりつこうとする勇敢さと忍耐、障害をうち砕く内なる技術、能
力、英知の顕れです。
霊性修行(献身の歌を歌うこと、神の御名やマントラの念唱、瞑想、自らの本質を知ること、神
に捧げられる純粋な行いの数々)や、心や感情を浄め五感のコントロールを促す鍛錬は、神への覚
醒にいたる道から障害を取りのぞく、ガネーシャ原理を示すものとみなすことができるでしょう。
障害を取りのぞく神の恩寵、グルの恩寵(どちらも同じもの)は、ガネーシャ神によって象徴的
に示された神の重要な側面です。
ガネーシャ神は人の内にも外にもつねにおわす神を示しています。障害を取りのぞき、命のゴー
ルにいたる手助けとして神の力をひき出すには、信仰を抱き霊性修行をすること、人に必要なのは
それだけなのです。
56
第3章
シヴァ神
イントロダクション
シヴァ神は大宇宙の消滅の責任をになう神格です。…(略)…破壊のあとから次の創造のサイクルがはじま
るまで、宇宙は文字通りシヴァ神のふところで眠るのです。生まれたものは必ず死を迎えます。あらゆる創造
物が消滅し破壊されねばなりません。…(略)…この崩壊をもたらすもの、破壊の背後にある力、それがシヴ
ァ神です。
シヴァ神はそれ以上の存在でもあります。宇宙の消滅は極限まですべてを消していき、最後には果てしない
虚空になります。果てしない虚空、万物が幾度でもくりかえし生じる根源、歴然とした無限の大宇宙、それが
シヴァ神です。ですから、シヴァは破壊の責任をになう神格といわれますが、創造すること、存続することに
もまた責任を負います。この意味においては、ブラフマーもヴィシュヌもシヴァ神であるといえましょう。
シヴァ神は白い雪の肌をしています。この白さは暗闇をも消しさる光、無知を払う知性を表します。シヴァ
神はまさに大宇宙の意識の化身です。…(略)…
シヴァ神はヨガとヨギの主です。座禅をくみ、深い瞑想に入り、セルフの至福の歓びに没入する姿でしばし
ば描かれます。ガンガー(ガンジス川)の水がその至福の象徴です。またジュナーナ(英知)の象徴でもあり
ます。ガンガーは浄化の作用をもたらす偉大なるものとして強く崇拝されており、そのガンガーに崇拝される
神は、いうまでもなく、浄化を行い力を授けるものの化身そのものといえます。
三日月は、月日が月の満ち欠けによって計算されることから時間を表します。王冠を戴くことで、全能であ
る「時間」さえも、シヴァ神にとっては飾りにすぎないことを示しています。死を象徴する毒をもったコブラ
がその御姿を飾ります。死の象徴で装飾されるこの神にだけ、死にいたらしめる毒ハラハラを世を救うために
飲み下すことができます。シヴァ神はムルテュンジャヤ、死の勝利者です。とぐろを巻いた蛇は大宇宙の時間
のらせんと、小宇宙の万物の根源的エネルギーの象徴でもあります。シヴァ神は時間とエネルギーの支配者と
いえます。
守りと攻撃に重要なトリシュラ(三叉檄)は、シヴァ神が至高の統治者であることを示します。手にしたダ
マルは文字、語法、言語を表します。万物の創造が生じた源、ロゴス=音を表してもいます。シヴァ神はその
手にダマルを持つことで、あらゆる芸術・科学を含めた全創造が、シヴァの意思、シヴァの御業によって起こ
りつづけてきたことを明らかにしています。
シヴァリンガムは、恩恵そのものである大宇宙の偉大なる神(マハーデーヴァ)の象徴です。
(スワミ・ハルシャーナンダ著
◇
◇
◇
『ヒンドゥー教の神と女神』
57-66p)
◇
右上の挿絵は踊るシヴァ神、ナタラジャ、踊りの神です。上方右手にかかげられたダマル(太鼓)はナーダ
ー(音)、大宇宙の展開を表しています。あらゆる言葉、音楽、知識は音から生じました。三角形2つからな
るこの太鼓は、万物の創造のためには自然とエネルギーが結びつくことを物語ります。半月を描く形で上げら
れた左手には炎の舌が握られています。なぜシヴァ神は一方の手に創造という希望を握り、もう一方には破壊
という火炎を握るのでしょう。創造と破壊がシヴァ神の存在というものの二元性だからです。この二つは私た
ちの人生の二つの側面です。なぜなら生まれてきたことが確実なら、死を迎えることもまた確実だからです。
それでは、そこにある答えとはいったい何でしょう。守護と安らぎを与えるような美しい形をつくる前方の右
手はこう語りかけます。「ごらんなさい、神の恩寵はつねにあなたとともにあります」左手は道を指し示して
います。足もとを見つめる肉体を超えた先にある道です。…(略)…この手は象の鼻の形を表してもいます。
…(略)…象の鼻は識別します。たいへん重いものを持ちあげたり打ちこわすこともできれば、繊細なものを
扱いもします。どちらの使い方をするか二つに一つを選択できるのです。私たちも高次のものと低次のものを
より分け、識別しなければなりません。それを助けるため、鼻のある障害を払う象頭神ガネーシャが在りつづ
けてきました。
左足がひきあげられていますが、これは踊り手が足を上げるように、人も自らをひきあげ救済へとたどりつ
くことができることを示します。左足が上げられている間、右足は全身、つまり全宇宙のバランスを支えてお
り、固い地面ではなく、もがくこびとのような生きものを踏みつけています。このこびとは真理を虚偽で覆い
かくすアパスマラ・プルシャ、無知と忘れっぽさでなりたつものすべての化身です。ナタラジャのまわりには
57
プラバーマンダラ、炎の輪がかかり、この世界の踊る踊りは輪の中心のセルフ(シヴァ神)からすべてはじま
り、そこから生じそこへと溶けこみ消失します。おそらくこれらのことがら全体が示すもっとも意義深い点と
は、孤高にして瞑想の師である苦行の神が、ヨギとして、芸術家として熱狂的な踊りと結びついていることで
しょう。踊り手は舞台の上では表現しようとするものになりきります。肉体、心、知性、魂、すべてのエネル
ギーが呼びさまされます。これは神への完全なる帰依です。踊りは、自らのすべてを神に差し出すヨギと共通
するのです。
これは劇的であざやかな対照性です。しかしナタラジャの表情をみてみると、静かで内側への没入を示す典
型的なものです。肉体は喧噪に満ちたこの世のように激しく動いていながら、シヴァ神そのものは動きに乱さ
れることなく、このうえなく美しく、限りある人の命と神であるセルフを描きだしています。
(ムリナリーニ V. サラバーイ著
R.S.ナザン編纂
『ヒンドゥー教の象徴性』
165-169p)
◇
◇
◇
◇
左上の挿絵はシヴァとパールヴァティです。パールヴァティはシヴァのエネルギーであり伴侶です。パール
ヴァティには大きく二つの側面があります。優しさ、そして恐ろしさです。パールヴァティ、ウマーとしては
挿絵にあるような優しさを象徴します。マハーデーヴァ(至高の神)とされるシヴァ神の、大宇宙の創造・維
持・破壊を生じさせる力の象徴でもあります。大宇宙の意識の象徴であることからは、「光、輝く者」の意の
ウマーと呼ばれます。またパールヴァティは霊的な英知の象徴でもあり、シヴァ神、神との合一はその英知に
よってなしとげられます。さらに別の概念として、半分女性、半分男性のアルダナーリーシュワラのシヴァ神
がいます。…(略)…最近の心理学では、本来どの男性も心の中に女性性をもち、どの女性にも内なる男性性
があることが明らかにされています。アニムスとアニマの原理です。自然の法則はひとりひとりをアルダナー
リーシュワラとして創造してきたのです。
(アンジャーニ K.R. シュリーヴァスターヴァ著
R.S.ナザン編纂
『ヒンドゥー教の象徴性』
217p)
シヴァ神のその他の側面、ハラハラ(毒)、サダシヴァリンガム(楕円のシヴァ神の象徴)、ダ
マル(太鼓)、トリシュラ(三叉檄)、トリ・ネトラ(3つの目)、ナンディ(雄牛)、バースマ
(聖灰、ヴィブーティ)、額にかかる月、シヴァ神の座る象の皮、タンタヴァの踊り、これらが次
に続くサイババの講話の中で説明されています。
どの人の旅も墓場にむかう旅です。毎日毎日、死の瞬間に近づいているのです。自分自身ためである、遂行
すべき責務を遅らせてはいけません。シャヴァ(死体)になる前に、あなた自身がシヴァ(神)であることを
知りなさい。それがさらなる死のくりかえしからあなたを救いだすでしょう。
(サティア・サイ・スピークス1
◇
◇
◇
211p)
◇
誕生はカーマ(欲望)の結実であり、死はカーラ(時、時間の経過)の結実です。欲望の神はシヴァ神によ
り灰に帰します。時の神カーラ、もしくはヤマはシヴァ神に制圧されます。恐ろしく致命的なこの二つの影響
力からのがれるには、シヴァ(神)に深く帰依しなさい。
(サティア・サイ・スピークス7
◇
◇
◇
179p)
◇
善い行いをしても悪い行いをしても、その結実からのがれることはできません。私たちの祖先はそれを知り、
善なるもの、祝福を示すものを求めました。それがシヴァ神を崇拝することの意味です。シヴァラトリとはシ
ヴァ神に関連する夜のことですが、つまりは祝福された夜のことです。シヴァムとは祝福の意味です。シヴァ
原理はどんな状況であれ、不吉なものよこしまなものから完全に自由です。ラーマやクリシュナが人の姿で顕
れるときには、肉体をとることにともなう何らかの不浄さをそなえています。この世を救い、帰依者を守り、
58
人類を向上させる目的で化身しながら、いつかは肉体を脱ぎすてなければなりません。そこからこれらのアヴ
ァターの名前の前には、その降臨の神聖さを示すため「シュリー」という敬称がつけられるのです。しかしシ
ヴァ神にその必要はありません。シヴァ、シャンカラとは、いつでも神聖なものです。シヴァ神とひとつであ
ると知ることは、永遠に到達するということです。
(サティア・サイ・スピークス16
◇
シヴァ神は平穏を示す至上の模範です!
◇
◇
30p)
◇
プラーナの描くシヴァ神の家族はふしぎな組み合わせをしていま
す。それでもなおそれぞれの家族が平和で調和して暮らせるよう、それぞれがたいへん穏やかで、かき乱され
ることがありません。シヴァ神は腕、首、頭、腰に蛇を巻いています。息子のひとり(スッブラマニヤム)は
蛇を攻撃するクジャクに乗ります。もうひとりの息子(ガネーシャ)は蛇のエサであるネズミに乗ります。こ
の息子はライオンの食欲を刺激する象の頭をしていますが、ライオンはシヴァ神の伴侶であり、左半身(アル
ダナーリーシュワラ)であるがゆえに決して分かつことのできないドゥルガー(パールヴァティ)の乗りもの
です。自然の摂理の中では、ライオンと牛は友好的にはなりえませんが、シヴァ神は牛を乗りものにします。
眉と眉の間(第三の目)には炎があり、頭には川(ガンガー)の水があります。両者は相反するものであるに
もかかわらずです。カイラサでの営みを円満で幸せなものにするためには、これら様々な要素がそれぞれがど
れほど愛情深く、協力的であらねばならないかを想像してごらんなさい。
(サティア・サイ・スピークス11
◇
◇
◇
155p)
◇
シヴォーハム、私がシヴァ神である、ということに気づいたとき、あなたはありとあらゆる幸せ、ありとあ
らゆる祝福を手にすることができるでしょう。シヴァ神は遠い山脈の頂にいるのでも、どこか特別なところに
いるのでもありません。罪も功徳ももともと人の行いにあると聞いたことがあるはずです。シヴァ神も、想い、
言葉、行いの中にいます。なぜならシヴァ神はひとりひとりの奥底にあるエネルギー、力、知性だからです。
このエネルギー、力、知性のすべてはあなたの内にあります。外側に求める必要はありません。時間、空間、
因果の顕現である神は、あなたの内におわします。なぜ自分が弱く無力だなどと思うのですか?
人は野心と
それをはたしたいという熱望にのたうちまわります。しかし、まず自分がどこにいて、どこにたどりつこうと
しているのかをみてみなさい。無茶で無駄な努力を重ねていると分かるでしょう。
(サティア・サイ・スピークス
◇
◇
◇
出典不明)
◇
誰もがみななくした何かを探し求めています。人生は、前回ここにいたとき失ってしまった平安と歓びを取
りもどすために授けられたチャンスです。今回それを回復できればふたたび戻る必要はありません。しかし、
その価値もそれを保ちつづける方法も分からずなくしてしまうのです。もしも「私はシヴァ神、永遠不滅、私
は至福の源泉」というシヴォーハムの意識の中にとどまったなら、このうえなく満ちたりていられるでしょう。
しかし自らの価値をこのように正しく認めて真の自分を認識するかわりに、人は自分の無力さ、無能さ、貧弱
さ、もろさを嘆きはじめます。これこそ救済されねばならない人の悲劇的な結末です。
(サティア・サイ・スピークス5
◇
◇
◇
302p)
◇
ウパニシャッドは、雷がダ、ダ、ダ、の教えを授けているといいます。…(略)…怪物にはダーヤ(慈しみ)、
神にはダマ(自己コントロール)、人にはダルマを教えています。さて、人はこの3つの部分―――怪物・神・
人―――からなりたちます。ですからこの3つを全部実践しなければなりません。ダーヤ(すべてに優しくす
ること)、ダマ(自らの心と五感を治めること)、ダルマ(油断せずに正しい道を進むこと)の3つです。こ
れが天空から聞こえる雷の音の教えです。
(サティア・サイ・スピークス5
59
80p)
1.シヴァ-パールヴァティとアルダナーリーシュワラ
ヴィシュヌプラーナ、シヴァプラーナ両方に、パールヴァティがもっとも美しい女神として描かれています。
自分の魅力が無類のものだと気づいていたパールヴァティは、妻としてシヴァ神を勝ちとりたいと望みました。
しかしどんな努力も無駄に終わりました。この体験から教えを学びとり、エゴを脱ぎすて厳しい苦行をはじめ
ました。暑さ、寒さ、雨風の厳しさに身をさらし、苦行が肉体を衰弱させるがままにまかせました。心はただ
シヴァ神のことだけに集中していました。エゴを完全に手放したのをみて、シヴァ神はパールヴァティを自ら
の半身(アルダナーリーシュワラ)として受け入れることを承知しました。
この逸話にこめられた意義とは何でしょう。自然はパールヴァティの象徴です。他に例をみない美しさです。
その魅力を誇りに思うがゆえ、あらゆる人をひきつけようとします。それに成功すればするほどエゴも成長し
ます。自然の子どもである人もまた、エゴを発達させ利己心に満ちた一生を送ろうとします。知識や肉体的な
強さ、地位や権力、容姿の美しさその他の能力をもとに、エゴはふくれあがります。学識さえも人を神からひ
きはなします。このようなうぬぼれに満ちた人には決して神を理解することができません。うぬぼれのない人
だけが神を知る魂になれます。ヴァールミーキ、ナンダ、クチェラ、サバリ、ヴィドゥラ、ハヌマーンらは、
神を知りながら家柄も富も学識も鼻にかけることのなかった帰依者の模範です。彼らの最高の資質とはエゴが
まったくなかったことです。たとえばハヌマーンはたくみな武術と知性にもかかわらず、喜んで自らをラーマ
の召使いと称しました。
この世でなしとげられたこと、手に入れたものは、はかなく一時的なものにすぎません。これらにとりつか
れ、あおられると、しまいには自ら破滅を招いてしまいます。「私が行う」という考えを捨て、神のみを行い
主とみなしなさい。神が授ける者であり、それを受けとる者であり、さらには授けられたものもまた神なので
す。
(サナタナ・サラティ
◇
◇
◇
1991年
2月号
31p)
◇
科学と工学のこの時代にこそ、アルダナーリーシュワラ(男性原理・女性原理の統合したシヴァ神)の観念
にこめられた意味を理解するよう努めなさい。これまでそれを説明しようと試みた科学者は誰もいません。古
代の聖者たちのアルダナーリーシュワラの観念と、原子に関する現代科学の概念の類似性を考えてみなさい。
聖者たちの抱いた観念の中には、今日なお通用するに十分なものがたくさんあります。あらゆるものが原子(サ
ンスクリット語ではアヌ)からなりたち、どの原子にも陽子と電子があります。この電子はサンスクリット語
では原子のヴェーバガ(左半身)と記されます。ヴェーバガとは女性原理を表し、ダナバガ(右半身)が男性
原理を表します。2つの要素がひとつになり、あらゆるものの物質的基礎を構成します。このひとつに結びつ
けるプロセスが、男性の姿と女性の姿が結びついたアルダナーリーシュワラの観念として表されています。「ア
ルダナーリーシュワラ」とは半分男性、半分女性という意味です。電子が女性性を象徴し、陽子が男性性を象
徴します。この2つがひとつになって原子が構成されるのです。大宇宙のありとあらゆる創造物は原子からな
りたちます。そこから太古の聖者たちは全宇宙をアルダナーリーシュワラ原理の顕現であるとみなしたのです。
(サナタナ・サラティ
◇
◇
◇
1991年
10月号
260p)
◇
神は遍在、これが真理です。深遠なる探求の末、リシたちは神があらゆる創造の源であることを見いだしま
した。リシはジャガット(宇宙)を種にたとえました。種はかならず皮に包まれています。種子と種皮が組に
なって種を発芽させます。それと同じで、この大宇宙では内なる種子が神、外側の種皮が自然(プラクリティ)
です。大宇宙は神と自然の一体性を如実に物語っています。人が神に救いを求めるときにも、神は守護の覆い
を与えてくれます。帰依者
(ダサトワム)からの信頼と、神(ダイヴァトワム)の守護が結びついて、神の御業がなしとげられます。こ
のことは「*シヴァ
シャクティ
アートマカ
スワルーパム=シヴァとシャクティの合一」としても描かれま
す。(*Shiva-Shakti-Atmaka-Swarupam)
60
このように、大宇宙は神と切りはなせません。神とともにあるものです。科学者たちが、物質はエネルギー
である、エネルギーは物質である、というとき、これと同じことを彼らの言葉で述べているにすぎません。
(サイババ講話集1
◇
◇
◇
57p)
◇
シヴァ-シャクティとはジャダ(活動性のない物質)とチット(意識)の結合です。電線と電流の組み合わ
せがファンやストーブ、電球やラジオを活動させるようなものです。シヴァ-シャクティはすべての内に存在
します。私の中にだけあるのではありません。顕わにされた能力と力量に差があるだけです。ホタルには光る
能力があり光を発します。オイルランプ、電球、ガス灯、月、太陽―――どれも光を発します。それが共通す
る資質です。
(サティア・サイ・スピークス3
◇
◇
◇
31p)
◇
シヴァ神の家族の中で、シヴァがエネルギー、パールヴァティが自然(プラクリティ)の象徴であることを
理解しなさい。ガナパティとスッブラマニアがプッディ(知性)とシッディ(成就)を象徴します。それぞれ
が姿形をとりながら、彼らはみなでひとつです。5本の手の指は同じではなく、長さも形も違います。しかし
作業をするときにはひとつになって最大限の力を発揮します。もしも全部が同じ長さだったら効果的に機能す
ることはできないでしょう。そこが神の創造にまつわる秘密のひとつです。
(サナタナ・サラティ
1993年
9月号
297p)
2.シャンカラ
聖者たちは、シヴァ神もまた加護を求める人々の守り主であることを見いだしました。そこからシャンカラ
―――保護と恩寵を授ける者―――と呼ばれます。シヴァ神の意思(サンカルパ)と恩寵は、何の制約も受け
ず、何ものにも、どんな状況、条件にも左右されることはありません。この神がスワヤンブー(自ら創られし
者)と呼ばれるゆえんです。聖者たちは、シヴァ神が人々の保護と救済のため、ダルマを守るためにいつでも
自由に化身することのできる神であると考えました。この超越的威力の面から、ダルマ(正義による統治)が
危機に陥り、善良なる人々に保護が必要になったときには必ず化身する神、サンバーヴァと形容されます。
(サイババ講話集1
◇
◇
◇
52p)
◇
シャンカラは2つの言葉、シャムとカラからなりたちます。シャムとは何でしょう。シャムとは空気のよう
にいたるところにあるものです。空気は至福に満ちています。シャンカラとはこの至福を万物にもたらす者の
ことです。永続する至福=ニッティヤーナンダ、至上にして最高の至福=ブラフマーナンダ、あらゆる種類の
至福がシャンカラによって授けられます。
(サナタナ・サラティ
1995年
3月号
60p)
3.サンバーシヴァ
シヴァ神はサンバーシヴァ(サ・アンバ・シヴァ)と呼ばれます。アンバとは母、シヴァとは父を意味し、
サはサティア、サルヴァヴィヤピ(遍在)、サルヴァジュナ(全知)、サクシャトカーラ(覚醒者)を示しま
す。
(サティア・サイ・スピークス9
61
25p)
◇
「サンバ・サダーシヴァ」、
◇
◇
◇
サ+アンバ+サダーシヴァとは大宇宙の母なる神、父なる神の結びつきを表
します。サンバーシヴァはシヴァ-シャクティの象徴です。世界は移り変わりゆくものであっても、シヴァ原
理は不変です。この母なる神、父なる神の結びつきと同じことが、サイ・ババという名前に示されています。
(サティア・サイ・スピークス16
31p)
4.サダシヴァリンガム
リンガムとは、ジャガット(この世)がラーヤ(消滅)するところ=リーヤテ、ジャガットが行きつくとこ
ろ=ガミヤテ、の意味です。リンガムをよくみてみると、3層からなる土台が3つのグナ(原始的資質)を表
し、その上にあるリンガムは一生のゴールを象徴します。リンガムとは「象徴」のことで、創造を象徴し、3
つのグナの活動の結実を象徴し、リンガムに意味と価値を与えるブラーフマン(至高の実在)を象徴します。
(サティア・サイ・スピークス1
◇
◇
◇
113p)
◇
リンガムは、始まりがなく終わりもなく無限であるものの象徴、しるし、説明にすぎません。顔も手足も、
前も後ろも、始まりも終わりもありません。その形はニラーカーラ(無形の神)の想像図のようです。実際リ
ンガムにはリーヤテ(あらゆる名、姿の溶けこむところ)、ガミヤテ(あらゆる名、姿が目指し成就にいたる
ところ)の意味があります。遍在、全知、全能を象徴するのにもっともふさわしいシンボルといえましょう。
万物がそこに含まれ、万物がそこからはじまります。リンガムからシャンガム(大宇宙)が生じ、シャンガム
からサンガム(共同、参加、活動)が起こり、サンガムの結果、人はリンガム(属性をもたないアートマ)を
真に理解します。始まりのないものから始まりのないものへとつながる輪の完成です!
これがリンゴーダヴ
ァム(リンガムの物質化)の教えです。アートマの宿るリンガシャリーラ(肉体)は、この滞在者のまとう一
時的な衣にすぎません。魂は何度も衣装を変えてきました、その実在は永久不変のものであっても!
(サティア・サイ・スピークス11
◇
◇
◇
86p)
◇
あなた方は私の肉体からリンガムが出現することから、シヴァラトリを偉大な行事、神聖なお祭りだと考え
ます。このリンガムは、今日シヴァ神の化身から出現しました。シャストラ(太古の経典)はリンガムの偉大
さをおしはかろうとしたブラフマーもヴィシュヌも、その試みには成功しなかったと記しています。浅薄な学
者たちは今日がシヴァ神の生まれた日だといいます。サット・チット・アーナンダ・スワルーパにあたかも始
まりや終わりがあるかのようです。ある人々は、この日をシヴァ神がタパス(苦行)をはじめた日だといい、
またある人々はタパスを終えた日だといいます。これは神の顔をのぞき見たり、召使いか奴隷のようにまとわ
りつこうと、神を人間のレベルにひきずりおろそうとするものです。神に親しむとは神を格下げすることでな
く、自らを外面的にも内面的にも高めることにあります。人の卑劣さから、低次の欲望や通俗的な野心を神の
せいにしてしまってはいけません。
神は全能、全知、遍在です。このような広大にして無限なる原理を崇拝するのに、人は24時間の内ほんの
数分をついやし、偶像、肖像、写真を前にたった1分使うだけです。実にばかげています。まったく無意味な
ことです。
呼吸をつづけているかぎり、意識のあるかぎり、神を崇拝しなさい。ただただ神のみを想い、その指揮をく
みとること、それを行動に移すことに心を定めなさい。それが帰依の意味するところです。神にあなたを差し
出しなさい。
(サティア・サイ・スピークス11
◇
◇
◇
◇
62
79-80p)
サダシヴァリンガムは、祝福そのものであるアートマの象徴です。アートマは二元的な相も観念も超越し、
あらゆるもの、あらゆるところに遍在します。時の制約もおよびません。サダ(つねに)、シヴァム(恩恵、
祝福)です。
(サティア・サイ・スピークス2
◇
◇
◇
95p)
◇
今日のこの日に、私から出現したアートマリンガム(霊魂、魂)、ジョーティリンガム(姿をとった光)に
想いをよせなさい。リンガムがあなた方ひとりひとりの内にあることを確信しなさい。リンガムはシャヴァ(肉
体という殻)に宿るシヴァ神のしるしだからです。アートマリンガムのヴィジョンを意識の奥深くに招きいれ、
神の高みにまでひきあげなさい。
(サティア・サイ・スピークス5
◇
◇
◇
53p)
◇
OMが神を音で象徴するように、リンガムは神の形を象徴します。しかし形にすぎません。何もかもがマーヤ
ー(幻想)であり、それを理解するにはマーヤーとかかわらなければなりません。それ以外、マーヤー・シャ
クティ(幻惑の力)を真に理解する方法はありません。卵の中には命が宿っているように、大宇宙には神が宿
っています。卵全部でニワトリになるように、この世のすべてが神です。私はサルヴァブータ・アンタールア
ートマ(あらゆるものの奥底にある魂)という言い方よりも、サルヴァンタリヤミ(内なる万物の統治者)と
いういう言い方の方が好きです。万物がこのリンガムの内にあるのであって、それぞれの内にリンガムがある
のではありません。違いますか?
同じ意味で、神はすべての内にあるというよりも、すべてが神の内にある
といったほうがよいでしょう。
(サティア・サイ・スピークス1
◇
◇
◇
114p)
◇
サダシヴァリンガムとは、つねにシヴァ神のスワルーパ(姿)でありつづける人物をさします。どこにいて
も、昼でも夜でも、喜びの中でも悲しみの中でも、いつでもシヴァム=幸福・祝福・恩恵である人です。アー
ナンダが呼吸であり、力の原動力であり、ふるまいそのものであり、内にも外にも表された人のことです。サ
ダ―――いつでも、永遠に、シヴァム―――祝福です。そこには、この国の工場でつくられた貴重な紙を無駄
に使うパンディットや学者たちがふけったような、議論の余地も、知性のはりあい、競いあいの余地もありま
せん。サダシヴァリンガムを意識に植えつけなさい。この内なる神の恩寵により、すべてがひとつひとつあな
たに明かされていくでしょう。
(サティア・サイ・スピークス2
87p)
5.ジュナーナの体現者
「ハート」を表すフリダヤという言葉があります。フルディ(ハートの中)のアヤム(神)という意味です。
つまりハートとは、全身に血を送りこむ器官のみならず、神の座る椅子、シヴァ神のおわす祭壇、英知の光の
ともるランプのあるところでもあります。
(サティア・サイ・スピークス1
◇
◇
◇
113p)
◇
シヴァ神は、繁栄に欠かせないあらゆる資源の宝庫、イシュワラとしても知られています。もっとも偉大な
資源がジュナーナ(英知)です。ジュナーナには3つの種類があるといわれます。ジーヴァプラジュナ(個別
化された神性に関するもの)、イシュワラプラジュナ(神の姿形の顕現に関するもの)、そしてアートマプラ
ジュナ(一過性の特定の個の根源である普遍的実在に関するもの)です。
63
(サティア・サイ・スピークス
◇
◇
◇
出典箇所不明)
◇
バクティ(献身)が進むにつれ、ジーヴァはシヴァ神に変えられていきます。むしろジーヴァがシヴァ神で
あることを知り、ジーヴァという概念自体が消失していきます。自分をジーヴァであると思いこむのはアジュ
ナーナ(無知)です。自らがシヴァ神であると知ること、それがジュナーナ(英知)です。
汚れてしまった白い服をまたもとの白い状態に戻すには、水に浸し、洗剤につけ、熱を加え、板に打ちつけ
ます。こびりついたアジュナーナという汚れを落とし、純粋なサット・チット・アーナンダ・アートマ(存在・
意識・至福)にするときにも、汚れのないふるまいや行いという水、ブラーフマンという石けん(内省)、ジ
ャパム(御名の念唱)やディヤーナム(瞑想)という水、帰依という板、どれも不可欠です。そうしてはじめ
てアートマが根源ブラーフマン意識に光り輝きます。
(ジュナーナ・バヒーニ
◇
◇
◇
33p)
◇
シヴァラトリは、霊性の道を求める人たちのため、マヘーシュワラ(破壊の神シヴァ神)がリンガムの姿を
とる日です。マヘーシュワラに見いだすべきもの、それがジュナーナ(霊性の英知)です。「*ジュナーナム
マヘーシュワラ
ディーチチェド=人の内にひそむ神を顕わにするもの、それがジュナーナ」英知こそ、あら
ゆるタパス(苦行)、ヨガ、ヤジナ(捧げものをする宗教儀式)が最終的にたどりつくものです。世俗の快楽
を追い求めても、その歓び、いえ歓びのかけらさえ手にすることはできません。夢の中でコブラにかまれたら、
治すには目を覚ます、それしかありません。「目覚めること」とはジュナーナを獲得することです。このジュ
ナーナ(知性)は、全能なる者の栄華と威力をたえまなくディヤーナ(瞑想)することにより授けられます。
(*Jnanam Maheswara dhichched)
(サティア・サイ・スピークス5
◇
◇
◇
54p)
◇
シヴァラトリという言葉には、人の二元性、そして人に課せられた低次のもの高次のものを識別する責務が
示唆されています。「シヴァ」とはジュナーナ(高次の英知、すべてを統治する普遍的ヴィジョン)を意味し、
永続するもの、時間を超えるもの、恩恵を授けるもの、神聖なるもの、祝福の意味でもあります。そして続く
「ラトリ」とは、無知の暗闇、俗っぽい快楽を追う盲目さ、五感の快楽のいたずらにまどわされる様を表しま
す。はかないものや過ぎゆくもの、有害なもの、不吉なもの、冒涜的なことの意味でもあります。つまり、シ
ヴァラトリの教えとは、シヴァとラトリ、プラーナ(生命エネルギー)とその具現、デーヒ(内に宿る魂)と
デーハ(肉体)、霊性と物質、クシェトラジュナとクシェトラを識別するということです。ギータの中でヴィ
バーガ・ヨガ(物質と霊性を識別するヨガ)と呼ばれるものです。
たんなる言葉の響きにつられ、食事を抜いて断食と呼び、眠りを避けて祝日前夜の徹夜と呼びたいがために、
人々はこの聖なる祝日のくる日を丸一年待ちわびます。断食とはサンスクリット語でウパヴァサといい、食事
を抜くことなどよりはるかに重要なことを意味するのです。ウパ=近く、ヴァサ=住む、つまりともに近くで
暮らすことです。誰とですか?
誰の近くですか?
神とともに神の近くで暮らすことです。ウパヴァサとは
ナマスマラナ(神の臆念)をすることで、たえまなくとぎれることなく神の中で暮らすことです。それが真の
断食(*fast)、神にしっかり(*fast)よりそいつづけるということです。(*印同音異義語
(サティア・サイ・スピークス9
◇
◇
◇
訳者注)
17-18p)
◇
ジュナーナリンガムは、「私」という幻想の最後のなごりが消えさったジュナーナ(霊的英知)への到達を
象徴します。たとえ「我想う」という感覚が消失しても、あなたは純粋にして完全、すべてにして永遠不滅の
アートマです。そのときあなたはアートマリンガムを最高の状態で象徴します。
あなた方の誰もが、アートマ(無限の意識)のすさまじいシャクティ(力)を内に秘めています。それをひ
64
き出すことのできる人もいれば、ただ内にあることを知るだけの人、それを活用する方法も存在することさえ
知らない人もいます。着実なサーダナを通じ、すべてはやがてやってきます。…(略)…
家が居住可能であることを証明するとき、技術者は土台の試験をします。神も信仰が強く本物であるか、土
台を検査します。シヴァ神の帰依者であったシルトンダールも、ジャンガマ(苦行者)の姿をかりたシヴァ神
のテストを受けました。世俗に何の執着もないことを証明したとき、シヴァ神は自らを明かしてこういいまし
た。「あなたのセルフを私として崇拝しなさい」するとシルトンダールは求めました。「あなたが万物に内在
する神であることをどうか私に示してください。私が真にあなたであることを体験したなら、私は私を神とし
て崇拝することができましょう」シヴァが祝福を授けると、あらゆるものが光になって見えました。このヴィ
ジョンはマーヤーの中での彼の人生最後を飾るものとなりました。音もなく言葉もなく、光になって神の光と
溶けあいました。さらに体が光のすじになり、はるかなる宇宙へと昇りつめていきました。
(サティア・サイ・スピークス2
101p)
6.ハラハラ(毒)
今日、毒が人の食事です。目は毒を見て喜び、口からは毒を吐き、毒が論じられると耳が動き、毒の巣窟へ
と足をむけ、心は他人の心に毒を盛ろうと夢中です。ハラハラ(原始の海の攪拌から生じた恐ろしい毒)で世
が破滅の危機に陥ったときのシヴァ神のように、毒を飲みこみ破壊からのがれさせることができるのはたった
ひとり、神だけです。飲んだ毒でのどが青くなったシヴァ神を瞑想しなさい。あなたを害する力を消しさりま
す。あなたの内のあらゆる毒を持ってきて私に捧げ、私からは健康と幸せ、神そのものを得ていくよう、私は
あなたに求めています。
(サティア・サイ・スピークス8
◇
◇
◇
51p)
◇
デーヴァとアスラ(天界の存在と悪魔たち)が乳海を攪拌したとき、カマデヌ(繁栄の牛)、カルパタル(願
ったものを授ける木)、富の女神、インドラの4本牙の象、そしてハラハラ(もっとも危険な猛毒)が出現し
ました。それと同じで、人の心も毎日善と悪でかきまわされ、善いものも悪いものも発します。悪いものは心
が五感の快楽にむかって流れだし、貪欲、羨望、欲望、傲慢の沼へと迷いこんで生じます。
(サティア・サイ・スピークス1
◇
◇
◇
163p)
◇
シヴァ神のことをお話ししましょう。海から致命的な打撃を与える毒ハラハラが出現したとき、地上のもの
は瞬時にして壊滅の危機にさらされました。シヴァ神がその毒を飲み、世界を救おうと申し出ました。それ以
来、毒のしみこんだシヴァ神ののどのあたりは青く染まりました。他に仕え、助け、救う意欲をもちなさい。
そのためにはサハナ(芯の強さ、落ち着き)を養いなさい。さもなくば、人生は赤アリの群がる木陰で眠るよ
うなみじめさです。いらだち、怒り、憎しみ、おごりにうち負かされてしまったら、他に達成したことの何が
役に立つというのでしょう。心という大空には、神の御名を星のように、アートマを知ることからわきあがる
自信を満月の月のように、明るく輝かせなさい。
しかしシヴァ神ののどの奥には焼けつくような毒がひそんでいます。このことが人に教えていることは、反
社会的で毒気に満ちた憎しみや、他と争いあう強欲さなどの資質や傾向は、あなたの内だけにおさめておきな
さいということです。
(サティア・サイ・スピークス7
41p)
7.慈愛と恩恵の体現者
神の恩寵は海のように広大です。サーダナ(霊性修行)、ジャパム(神の御名の念唱)、ディヤーナ(瞑想)、
そして規律正しく徳を養うことにより、この恩寵は真理という雲になりってプレマ(愛)の雨をふりそそぎま
65
す。するとアーナンダ(至福)をかきあつめ、川になって洪水のようにそそぎこみ、神の恩寵という海にふた
たび戻ります。プレマが人を包みこむとき、それをダーヤ(慈愛)と呼びます。それは同情というより共感で
す。人の幸せに幸せを感じ、人の不幸を悲しみます。
(サティア・サイ・スピークス1
◇
◇
◇
46-47p)
◇
シヴァ神のことをとりあげましょう。情け容赦なく世界を滅ぼす毒を、のどの奥に隠しました。額には全世
界に祝福を授ける静かで穏やかな慰めの月があります。それをあなたに教えています。自ら迎えた心のならず
者たちを抑えておけないからといって、なぜ人に不幸を与えるのですか?
(サティア・サイ・スピークス2
◇
◇
◇
198p)
◇
数々の儀式により、ルドラが静まり、恩恵であり慈悲であるシヴァ神になりました。神はあらゆるグナ(資
質)を超越します。神にはアグラーハ(怒り)がありません。完全なる愛の体現者です。神はグナに内在して
も、グナが神なのではありません。神が認めていない行いをすべて捨てさることのできるくらい、神を強く愛
しなさい。悪い行いを恐れなさい。人を憎むことを恐れなさい。神の恩寵を失うことを恐れなさい。
(サティア・サイ・スピークス8
65p)
8.祝福の体現者(マンガラム)
シヴァ神の夜(シヴァラトリ)とは、マンガラ=祝福が授けられる夜のことです。このマンガラはマハー、
偉大でかぎりがありません。マハー=限りない祝福は神の源泉からのみ授けられるものであり、世俗の業績や
勝利で手に入れることはできません。マンガラは不変の3原則、サティアム・シヴァム・スンダラムに従いま
す。
シャンタム
シヴァム
それはあらゆる御姿
それはあらゆる御名
唯一なるもの
それが
それが
サット・チット・アーナンダ
サティアム・シヴァム・スンダラム
(サティア・サイ・スピークス15
◇
◇
◇
207p)
◇
神の神秘のかなたを探求し、人は神をシヴァ神と呼びました。シヴァとは3つのグナ(サトワ・ラジャス・
タマス)から自由な者を意味します。3つの資質を超えています。資質のない者が呼ばれるように、シヴァ神
もスッダ・サトワと呼ばれます。シヴァ神は汚れのない純粋なサトワの資質です。祝福(マンガラ)の原理の
象徴です。つまりグナが存在するうちは不浄なものも存在し、グナが存在しなくなってはじめて祝福が姿を顕
すということです。シヴァ神は祝福の体現(マンガラ・スワルーパ)です。
(サナタナ・サラティ
1991年
143p)
9.トリ・ネトラ(トリヤムバガム)―――3つの目
シヴァ神の3つの目は過去・現在・未来をあらわにする目です。シヴァ神だけがこの3つすべてをそなえて
います。
(サティア・サイ・スピークス1
66
113p)
◇
◇
◇
◇
シヴァ神はトリヤムバガム、3つの目の者と賞賛されます。3つの目は現在のみならず、過去も未来も見抜
くことができると考えられます。しかし欲望、活動、知性という、いわば3つの衝動の象徴でもあり、この渇
きが人を動かし運命を決定します。この衝動は、万物を神という一家の家族にします。愛と敬意をもって万物
に奉仕する人は、その核心とつながり自らを救うことができます。自らのハートにまつられた神の肖像、神の
姿を、万物の内にもはっきり認めることができるでしょう。
(サティア・サイ・スピークス10
◇
◇
◇
242-243p)
◇
3つの目をもつシヴァ神は、過去・現在・未来を見つめることができます。かつて10才の少年にあったと
しましょう。少年のそのときの姿を思い出すことはできても、今の姿や10年後の姿を見ることはできません。
しかし過去・現在・未来を見通す3つの目を手に入れたなら、あなたはどれをも見ることができます。時間と
空間を治める者になるのです。
(サティア・サイ・スピークス3
16p)
10.三叉檄トリシュラ、ダマル
ヴァイラーギヤ(無執着)、バクティ(献身、帰依)、そしてこの2つが導く先のジュナーナ(至高者の認
識)―――この3つがシヴァ神の手に握られたトリシュラに象徴されています。ヴァイラーギヤとバクティを
通じてジュナーナを養いなさい。そのときあなたは自らをシヴァ・スワルーパとして認識するでしょう。シヴ
ァ・タトワ(シヴァ神の本質)を顕わにするには、マインドをジュナーナの炎にくべ、溶かしてなくしてしま
いなさい(*ジュナーナグニ
ダグダ
カルマナム)。(*Jnanagni dagdha karmanam)
(サティア・サイ・スピークス7
◇
◇
◇
128p)
◇
人々はシヴァ神が片手にダマル(太鼓)をもち、片手にトリシュラをもつと考え、そのような御姿を与えて
います。…(略)…ダマルは音の象徴、トリシュラはトリ・カーラ、過去・現在・未来の象徴です。…(略)
…シヴァ神がその手に握るもの、それは音、そして時間です。
(サマーシャワー・イン・ブリンダヴァン
1972年
175p)
11.イシュワラ
この神格にはイシュワラという別名が与えられました。つまりこの神を、無限でつきることのない富の所有
者と考えたのです。富とは何でしょう。健康は富のひとつです。物質的豊かさも富のひとつです。知性、美徳、
英知も、この富(イシュワリヤム、アイシュワリヤム)という言葉に含まれます。イシュワラがありとあらゆ
る富の体現者であるという真理を認識したからです。
(出典不明)
◇
◇
◇
◇
シヴァ神は永遠、全能、遍在であり、偉大なるもの輝かしいものすべて―――神性を示す6つのしるし=ア
イシュワリヤ、ダルマ、名声、犠牲心、英知、信頼―――を所有すると考えられました。そしてこのことから
イシュワラという別名が与えられました。イシュワラとはありとあらゆるすべての富を授けられた者のことで
す。
(サティア・サイ・スピークス1
67
52p)
12.ナンディ(雄牛)
シャストラや経典の中にある記述には、どれにも深い意味があります。シヴァ神には人の世界でいう雄牛が
います。雄牛は4本足、サティア(真理)・ダルマ(徳)、シャンティ(平安)・プレマ(愛)でしっかり立
っていることの象徴です。
(サティア・サイ・スピークス9
◇
◇
◇
14p)
◇
イシュワラ(シヴァ神)の寺院では、その前にナンディ(雄牛)がいるのを見かけるでしょう。ここに秘め
られた意義とは何でしょう。よく言われるのが、ナンディはイシュワラのヴァハーナム(乗りもの)だという
答えです。まるでもっとよい乗りものに乗るのを許されていないかのようです。この解釈は誤りです。正しく
は、リンガムが神(イシュワラ)を象徴するように、ナンディ(雄牛)はジーヴァ(個々の魂)の象徴です。
ナンディのように、人もプラクリティ(俗世)に背をむけて、すべての関心をイシュワラ(神)だけにむけな
ければなりません。
この象徴にはいくつか別の意味もあります。たとえば、イシュワラとナンディの間には誰もふみいることが
できません。ナンディの両耳の間からイシュワラの象を見るしかありません。ここにこめられた考えとは、両
耳をイシュワラのことを聴くために使い、両目をイシュワラを見るためだけに使うサーダナを通じて、雄牛に
ひそむ獣性が神性に変えられ、イシュワラと溶けあい、ナンデーシュワラ(雄牛の神)と呼ばれるというもの
です。これが象徴的に教えることは、人もまたナンディの模範に続き、神と溶けあう努力をしなければならな
いということです。
(サナタナ・サラティ
◇
◇
◇
1992年
7月号
153p)
◇
ナンディ(雄牛)は人にある低次の資質です。しかし神の乗りものになったときには、神殿のまん前に置か
れ、神に授けられた崇拝の一部を授かります。価値と意味が与えられるのは神に協力しているときだけです。
心(マインド)も光に照らされ、歓び、平安、静けさを感じることができます。内なるアートマ(神)の本質
である歓び、平安、静けさが心に映しだされるからです。
(サティア・サイ・スピークス7
217p)
13.シヴァ神の体のバースマ(聖灰)
バースマ(聖灰)を与えられると、人によってはスワミは与えた人にシャイヴァテ(シヴァ神の帰依者)に
なるようすすめているのだろうかと頭を悩ませます。灰はそれ以上に壊すことのできない根本物質を象徴しま
す。万物は灰になりますが、灰はどれだけ燃やそうと灰のままでありつづけるからです。また灰は帰依、自己
犠牲、あらゆるカルマの結実を灰にまで燃やしつくして無効にするジュナーナの象徴でもあります。あなたも
また神であることに気づくよう、私はあなたの額にイシュワラのしるしをつけるのです。あなたが誰であるか
という大切なウパデシュ(教え)です。また灰は、肉体がいつでも一握りの灰に帰するものであると思い出さ
せることでしょう。灰は無執着の教えでもあるのです。
(サティア・サイ・スピークス7
87p)
14.ヒマラヤに住むシヴァ神
プラーナ(神々の伝承物語)によれば、シヴァ神はヒマラヤに住んでいます。この記述に秘められた意味は、
シヴァ神は雪(ヒマ)のように純粋、純白、冷静なハート、ヒマラヤの山々のようにどっしりと不動(アチャ
68
ル)のハートに宿るということです。
(サティア・サイ・スピークス13
44p)
15.額の三日月
シヴァ神の額には三日月があります。やわらかい月の光が神を巡礼する道を照らし、旅の苦労が少しでも軽
くなるようにとのことです。シヴァ神は歓び、平安をふりそそぎます。
(サティア・サイ・スピークス11
319p)
16.シヴァ神の座る象の皮
シヴァ神の座る象の皮は、象のような猛々しい原始的な資質の象徴です。シヴァ神は恩寵によってそれをう
ち砕き、無力で害のないものにしてしまいます。事実シヴァ神はそれらの資質をひきさき、いわば皮をはぎ、
その効力を消しさります。シヴァ神の4つの顔は、シャンタム(平安)、ルドラム(激しさ)、マンガラム(祝
福)、ウトサハム(決断力)を象徴します。リンガムを崇拝するときには、これらシヴァ神の秘める数多くの
側面とその意義を理解しておきなさい。
(サティア・サイ・スピークス1
113p)
17.タンタヴァの踊り
シヴァ神、パラマプルシャであり永遠にして絶対的実在は、プラクリティ(自然)を魅了したいという欲望
から、タンタヴァの踊りを踊ります。この踊りは物質的な被創造物を魅了するという神の計画であり、ラーマ
(愉しさ、歓びを与える者)やクリシュナ(魅了する者)らの行った神の御業も、人々を神にひきよせるため
のものです。その目的は、人々を正し浄化するため、信仰を強固にし、奉仕というサーダナに導くためです。
それにより歓びに溶け、忘我の境地に溶けこむことができるのです。タンタヴァの踊りはあまりにも激しく、
その動きの発する熱でシヴァ神の体は炎につつまれます。それを鎮めなだめるため、シヴァ神の妻パールヴァ
ティはシヴァ神の頭にガンジス川をのせ、巻いた髪に三日月をおき、冷たい白檀の粉を体に塗り、両手に風を、
足には冷血動物の蛇を巻きつけ、自らがヒマラヤ(万年雪のつもる山々)の娘となってシヴァ神の膝に座りシ
ヴァ神の一部になりました。シヴァ神が目覚めると、山々とあらゆる創造物が狂喜し、プルシャとプラクリテ
ィがともに踊りを踊ります。プラーナによればこれがシヴァラトリの日に起こることです。
この神話の重要性は、神を喜ばせ恩寵を勝ちとりなさいとの教えを秘めてることです。
(サティア・サイ・スピークス14
4-5p)
18.シヴァ神
聖者たちは、神性原理は万物の内にも外にも存在し、間接的にも直接的にも体験しうるものだと信じて、人
類のためにさらなる苦行を追求しました。まばゆいばかりに輝く聖なる神はこの世の暗闇を超越するという真
理を体験し、すべての人々もまたこれを求め体験するよう呼びかけました。輝くプルシャは完全なる無私であ
り、光そのもの、あらゆる祝福の具現であり、属性がありません。そうしてそれが3つのグナ(サトワ・ラジ
ャス・タマス)を超えた汚れのない完全に純粋なる者、「シヴァ」と呼ばれるようになりました。
(サイババ講話集1
◇
◇
◇
52p)
◇
シヴァラトリのこの日、シヴァ・サイ(ババ)を前に、シヴァ神を万物の内なる力として見いだす決意をし
なさい。呼吸のたびに、今この瞬間にも「ソーハム=私は神」と宣言しています。あなただけではありません。
69
呼吸する生きものすべて、命あるものすべて、存在するものすべてが神です。あなたは長いことこの事実に気
づかずにいました。今この場からそれを確信しなさい。呼吸をみつめ壮大なる真理を瞑想するうち、私(サ)
と神(アハム)が別のものだという感覚が消えてなくなるまで両者はゆっくりと近づいていき、ソーハムから
オームへ、原始音であり神の原始形態であるプラナヴァへと変わっていきます。オームはスワスワルーパ、相
対的現実の背後にある絶対的実在です。
(サティア・サイ・スピークス9
16p)
まとめ
シヴァ神は永遠不滅、神性の源、内なる至福の源泉です。人の肉体もあらゆる創造物も、物質(ジ
ャダ)と意識エネルギー(チッタ)の結びつき、シヴァ-パールヴァティ(シヴァ-シャクティ)
からなりたちます。アルダナーリーシュワラは、物質の基本的構成である、男性原理と女性原理(ア
ニマとアニムス、原子においては電子と陽子)の結合を意味し、それがシヴァとパールヴァティの
関係にこめられた意義のひとつです。
人の肉体の内にも外にもシャンカラ―――空気のように遍在、至福そのもの、保護と恩恵を授け
る者―――がおわします。
人はリンガムの中に在り、リンガムから生じ、リンガムそのものです。リンガムはあらゆる名、
あらゆる姿が出現しまた溶けこんでいく意識エネルギー(シヴァ神)です。リンガムは恩恵、祝福、
至福、永遠です。
シヴァ神を瞑想することで、人はジュナーナ―――すべてを統合する普遍的英知、永遠なるもの
―――にたどりつきます。
ハラハラは、反社会的で悪意に満ちた憎しみや、他と争いあう強欲さなど、否定的なものの象徴
です。この毒を制御し、瞑想を通じて消失させていくことで、英知(ジュナーナ)とリンガムの知
性を獲得することができます。それにより慈愛と奉仕という神の姿があらわにされることでしょう。
シヴァ神の額の月は、冷やし鎮める人の内なる神意識であり、すべてに恩恵と祝福を授けます。
神である人には、過去・現在・未来を体験し、時間と空間を治める能力があります(トリシュラ、
三叉檄)。またオームの化身であると認識する能力もそなえています。オームとは、「肉体-心」
の組み合わせである私たちのみならず、全宇宙をもたえず創造し維持し破壊しつづける、原始的な
意識エネルギーです。
アートマ、つまりシヴァ意識の中で安定した生を営み、真理、正義、平安、愛が自らの資質にな
ったとき、人はナンディ(雄牛)を乗りものとし、荒々しい獣性を克服することができます。
人の肉体を含む形ある物質すべての行きつくところは灰であり、私たちが純粋な意識であると真
に悟ったとき、無執着そのものであるシヴァ神になることができます。それがシヴァ神の体に塗ら
れれた灰の意味するところです。
自らの神性をシヴァ神として臆念すべきです。シヴァ神をたたえる賛歌に聴きいり、マントラ「オ
ーム・ナマ・シヴァーヤ」を唱え、シヴァ神のあらゆる側面、持ちものなどをつねに想うことで、
自らがシヴァ神であると認識できるでしょう。
70
第4章
ラーマ
イントロダクション
ラーマとは、永遠にして形も属性ももたない実在原理、知性、至福である神の名です。紀元前5
000年のインドで、神のアヴァターとして人の姿をとりました。ラーマは生きとし生けるものの
ハートに宿るアートマ、魂であり、全知・全能・遍在、万物に至福を授けます。ラーマという神聖
な御名は、神への無私の奉仕と心からの献身とともにたえまなく唱えつづけることで、人を無知と
束縛から解放するマントラの力を秘めています。
ラーマはあらゆるダルマの化身です。ダルマとは神の愛、真理、平安、非暴力にもとづいた正義、
道徳、正しい行いをさします。ダルマは支え、救い、浄めます。「真理」「神」とはダルマの同義
語です。
ラーマは人の理想的ふるまいを体現します。国を治める役人ばかりでなく、父、娘、会社員、あ
りとあらゆる役割をになう人の理想です。完璧な息子、理想的君主、真の夫、献身的兄弟、気高き
敵、妥協を知らない正しさ、完璧な理想を示します。弓と矢の使い手であることは、ラーマが内に
も外にも、平安と正義を保つに十分な覚悟と力をそなえていることを象徴します。消極的で弱々し
い正しさとは対照的な、積極的に正しくあろうとする理想の体現です。正義を擁護し、不正に意義
を唱えて滅ぼします。
ラーマ(神、プルシャ)の伴侶であるシータは、宇宙の創造におけるラーマのシャクティ(エネ
ルギー)であり、あらゆる自然(プラクリティ)の体現です。英知とアートマが自らのパラマート
マであることを知ったときに起こる、覚醒の象徴でもあります。ラーヴァナは物質的なものを渇望
し、アートマ(ラーマ)にも霊的な生き方にもかまうことなく邪悪な傾向を増長させて、魂の解放
ではなく死に面した人を象徴します。
アヨーディヤーは霊性のハート、アートマのことであり、どんな敵も侵入することはできません。
ラーマたち4人の兄弟は人の一生の4つのゴールを体現しています。ダルマがラーマ、アルタ(富)
がラクシュマナ、カーマ(欲望)がバーラタ、モクシャ(解脱)がシャトルグナの象徴です。ラク
シュマナ(富)は世俗的欲望を完全に克服し、ラーマのプレマ(愛)とモクシャのみを欲しました。
バーラタ(欲望)にはサティア(真理)とダルマへの欲望があり、そこからラーマとモクシャ(解
脱)への欲望を抱きました。シャトルグナ(解脱)はモクシャによる平安(シャンティ)のことで
す。
ラーマの父、ダシャラタとは「10のものをもつ馬車(肉体)に乗る者」の意味です。つまり、
5つの知覚器官と5つの行動器官です。ダシャラタは3人の妻と結婚しましたが、これは人が3つ
のグナ―――サトワ・タマス・ラジャス―――の影響を受けることの象徴です。
ラーマの偉大なる帰依者ハヌマーンは、猿でありながら勇猛果敢なジーヴァ(心、魂)を象徴し
ます。信仰と奉仕によって無知の闇をつき破り、ラーマ、つまりアートマが自らの真の姿であると
認識し、モクシャ、魂の解放をなしとげました。
次に続くサティア・サイ・ババの講話からの引用には、ラーマや、ラーマと深くかかわりあった
叙事詩ラーマーヤナの登場人物に秘められた深い意義が詳しく述べられています。
1.アートマ・ラーマ
サット・チット・アーナンダ(存在・知性・至福)の体現者
ラーマーヤナはまさにバラティヤ人(インド人)の生命です。数年前までは、ラーマを礼拝する寺院のない
村、ラーマの肖像画の飾られていない家庭、ラーマの御名のはずまぬ唇は、インド国内どこを探しても見つけ
るのが難しいくらいでした。国中がラーマの香りに満ちていました。それほどの幸運にみまわれた国が、近頃
ではカーマ(欲望)という伝染病で、頭のてっぺんからつま先まで、悪臭を放つまでに落ちこんでいます。ラ
ーマに満ちあふれる努力をしなさい、救いが得られるでしょう。カーマという悪臭を求めれば破滅に陥ります。
人類の歴史において、トレタの時代、形も属性もない存在・知性・至福の原理が、強い慈悲に包まれ、ダル
マの具現(*ラモー
ヴィグラハヴァン
ダルマハ)として人の姿をとりました。人々に様々な行いの正しい模
範を示し、ダルマによる統治を再建し、本来の力を取りもどさせると、もと来たところである絶対存在にふた
71
たび溶けこみました。(*Ramo vigrahavan Dharmah)
ヴェーダはこの神聖なる実在を「マーダヴァ」と記しています。「マ」はマーヤー、「ダヴァ」は主を意味
します。万物が生まれて万物が死に、移り変わるがゆえにまやかしであるものの支配者のことです。誕生と死
はマーヤー(幻想)の一部であり、神がその君主です。この二重の鎖につながれたものは、みな神に忠誠を誓
い、敬意を表し、その指揮に従わなければなりません。それが幸福への道です。…(略)…
建物の10階に住む人を訪ねるには、9階分の階段を上らなければなりません。マーダヴァ(神)とともに
いる歓びを体験するには、あなたがその純粋さ、愛、真理、平安まで昇らなくてはなりません。慈しみに満ち
なさい。すべてを愛し、すべてに仕えなさい。あなたのつとめを誠実に、喜びとともにはたしなさい。あたな
が真理の道を歩めばラーマが喜びます。その道はラーマのしいた道なのですから。
(サティア・サイ・スピークス11
◇
◇
◇
110-111p)
◇
何気なく演じられたセリフのひとつひとつ、ふるまいのひとつひとつが神の名声を高めます。ラーマの栄華
は後の数十世紀をこえた今も、なお色あざやかに輝きます。後の時代にも燦然と輝きつづけることでしょう。
ラーマとは「歓びを与える者」の意味です。永遠にしてつきることのない歓びの源泉であるアートマ以上に、
人を歓ばせるものはありません。その他の一時的でささいな喜びよりも、アートマを知る歓び、それを知るこ
とで得られる至福を求めなさい。ウパニシャッドはこういいます。「*ディヤゲニケ
アムルタトワム
アナス
―――無執着が永遠不滅の至福を授ける」(*Thyaganike Amruthathavam Anasu)
(サティア・サイ・スピークス5
◇
◇
◇
32p)
◇
ラーマは永遠にして不変のプルシャ(魂)です。そこから、命あるものすべての内に宿るアートマがアート
マラーマと呼ばれます。ラーマが永遠であることから、シヴァ神自らラーママントラムを唱えたといわれます。
ラーマの意味とは、アーナンダ(至福)を授ける者、それにつきます。アートマよりすばらしいアーナンダを
与えるものなどあるでしょうか。ラーマがアーナンダムであり、アートマラーマであり、それがあなたの内な
る意識にあるアーナンダムです。このことが視野にあってこそ、ラーマーヤナを理解することができるのです。
(サティア・サイ・スピークス
◇
◇
◇
出典箇所不明)
◇
ラーマ原理は愛の原理であり、多大なる犠牲の結果、神からの贈り物として天上から降りてきたものです。
ラーマとは歓びの意味です。自らの内にあるセルフ以上にあなたを歓ばせるものなどありません。だからこそ
ラーマはアートマ・ラーマと呼ばれます。
(サティア・サイ・スピークス9
◇
◇
◇
129p)
◇
ラーマとはあらゆるハートに宿るアーナンダの名前です。その御名を唱え、アーナンダに呼びかけ上昇させ
なさい。偽りを言ったり偽善に通じてはいけません。正直で誠実なバラティア(インド)文化のにない手であ
りなさい。偶像、肖像は卒業しなさい。霊性の学校の中では幼稚園の教材にすぎません。姿も名も背負わぬ神
性エネルギーを知りなさい。純粋で属性をもたぬ超越者の高みにまで昇りなさい。
(サティア・サイ・スピークス10
◇
◇
◇
184p)
◇
人に歓びを与えるものは、想い、言葉、ふるまいの中にある優しさです。人のハートに歓びをひきだすこの
不思議な作用は、まぎれもないラーマ原理です。ラーマとは「歓びをもたらす者」の意味です。おなかを満た
す食事、十分な眠り、子どもの笑い声に満ちた家庭―――多くの人が最高の幸せだといいます。しかしこの幸
72
福感は誕生から死にいたまでの間の休憩時間にすぎません。誕生の前,死の後には何の意味もないものです。
肉体はあなたとは別のものです。あなた方は一定期間その肉体を手に入れ、体感し、養い、あなたの意志にそ
うよう飼いならします。しかし肉体の中にある「私」「あなた」というアートマは唯一無二のものです。肉体
が自分であるという意識がうすれたとき、光り輝くアートマが明らかになります。…(略)…
自分であると思っているその肉体が、たんにあなたの使う道具にすぎないと理解できるよう、英知を養いな
さい。それが高次の魂の意識につながる第一歩です。誰の中にも完全で自由で何からも影響されない純粋さそ
のものであるアートマがあります。これがあらゆる人の中に潜在しかつ顕在する宇宙意識、ブラーフマンです。
世界を優れた無執着の目で見れば、ヨガ(神との一体)がゆり起こされます。これが至上のアーナンダ(神の
至福)の源です。
(サティア・サイ・スピークス16
◇
◇
◇
55p)
◇
ラーマはアートマラーマ、内なる神の肉声です。これにそむき、その指揮からのがれようとしてはいけませ
ん。その声がたえず警告を発しつづけてくれるよう謙虚に祈り、忠告には従いなさい。ラーマは慈しみととも
にあなたを正しく導きます。
(サティア・サイ・スピークス16
◇
◇
◇
58p)
◇
太陽には2つの特徴があります。光と熱です。アートマも2つの見方ができます。スワルーパ
・
・
・
・
「 それであること」と、スワバーヴァ「 それであることの作用」です。内なる真理、スワ
ルーパがダルミとして知られ、その作用、特徴がダルマとして知られます。人がダルマを知ったとき、ダルマ・
ブータ・ジュナーナ(アートマ・スワバーヴァ(ダルマ)を知ったことによる変化)を
・
・
得たということができます。アートマの本質、「 それであること=スワルーパ」を知って
生じる純化がダルミ・ブータ・ジュナーナです。スワルーパであるアートマは、微少のアヌ(原子)よりも微
少、広大なるものよりも広大、すべてをいたるところで観照するものです。アートマとはブラフマー、ブラフ
マーとはアートマです。
微少のきわみであるアヌ=アートマは万物に存在し、その特徴はありとあらゆるところに示されています。
すべてに潜在していながら何ものにも左右されません。アートマ原理、ブラーフマン原理は大宇宙の万物に内
在しつつ、何ものをもそれを侵すことはできません。アートマはアヌの姿でアヌとして万物に内在することか
ら、万物がアートマであることは明らかです。
この大宇宙にアヌの欠けたものなどありません。アヌの作用はダルマとして万物の内に認めることができま
す。ダルマは、アートマは、遍在です。人の肉体も例外ではありません。原子=アヌは肉体にも内在します。
私たちはアートマの具現、アートマ・エネルギーの体現者なのです。
(サティア・サイ・スピークス15
◇
◇
◇
191p)
◇
ラーマという言葉自体がアーナンダを指します。ラーマはアーナンダ・スワルーパです。命あるものすべて
のもっとも深い核心、アートマラーマにあるアーナンダ、それがラーマです。それなら嘆きがあなたに影響す
ることなどありえますか?
核心に気づかずに、殻にすぎない肉体が自分であると思っているからです。聖な
るラーマナヴァミの日、道徳的生き方を喚起するダルマスワルーパ、アートマに自らを浸しなさい。ラーマの
いないところなどどこにもありません。ラーマの恩寵に授からない人など誰もいません。ラーマは訪ねてくる
ことも立ち去ることもありません。内におわす永遠なる者です。
(サティア・サイ・スピークス5
◇
◇
◇
159p)
◇
ラーマの物語には主要となる2つのラサ、情緒、雰囲気があります。ラーマの慈しみ(カルナ)と、ラクシ
73
ュマナの愛(プレマ)です、この2つが溶けあい、アーナンダ(至福)が呼びさまされます。アーナンダムは
まさにラーマの本質(スワバーヴァ)です。ヴァールミーキはどこにもそれを明記しませんでしたが、ラーマ
はバガヴァンそのものです。ラーマをヴィシュヌに並ぶ勇敢さと称していても、ヴィシュヌであるとは言いま
せんでした。しかしラーマの息子たちからその秘密が明かされました。バガヴァンとは、バ=輝き、ガ=顕現、
ヴァン=可能にする、つまり神のジョーティ(輝き)、アートマジョーティを顕す能力をそなえた者の意味で
す。大宇宙の創造の源である神が姿を顕し、大宇宙を育もうと意思したのです。ラーマを宇宙の顕現、宇宙の
守り主、宇宙の輝きと知性を映し出す神として崇拝する人々は、バクタ(帰依者)と呼ばれるにあたいします。
しかし今日では探求者のほとんどがパートタイムの帰依者にすぎません。ナタタム・ヨギナ(つねに神とひ
とつである者)ではありません。朝はヨギかもしれませんが、昼にはボギ(美食家)、夜にはロギ(病人)で
す!
(サティア・サイ・スピークス15
◇
◇
◇
30-31p)
◇
ヴェーダンタを学ぶことと実践することを避けつづければ、3つの悲劇が助長されます。パパム(罪)、タ
パム(苦しみ)、アジュナーナ(無知)です。あなたの真の実在に与えられたラーマという御名は、この3つ
を終わらせます。アートマはアートマラーマとして知られます。ラーマという御名には歓びを授ける者の意味
があり、アートマほど莫大で果てしない歓びを授けるものはありません。ラーマという言葉はラ・ア・マの3
つの音でなりたちます。「ラ」はアグニ(火)原理の象徴であり、罪を灰まで焼きつくします。「ア」はスー
リヤ(太陽)原理の象徴で、無知の暗闇を照らします。「マ」はチャンドラ(月)原理を象徴し、タパム(苦
しみ)の熱を冷まします。このようにしてラーマは3つの悲劇をうち負かし、真・善・美をあらわにします。
その偉大さに想いをはせ、ラーマの御名を唱えなさい。すぐさまその威力が感じられるでしょう。
(サティア・サイ・スピークス7
◇
◇
◇
107p)
◇
ラーマという名前はダシャラタ王の息子にかぎられたものではありません。至福を授けるアートマがラーマ
として知られています。聖者ヴァシシュタがダシャラタ王の息子にその名をつけました。ラーマという名は全
知、全能、完全なる至福、神の普遍性を象徴します。
(サナタナ・サラティ
◇
◇
◇
1992年
4月号
60p)
◇
心を解放し、浄め、向上させる最高に強力な呪文、それがラーマナーマ(ラーマの御名)です。ラーマをダ
シャラタ王の息子、ラーマーヤナの英雄とみなすだけでは足りません。宮廷訓戒者が当時すでに一般的であっ
たラーマという名をつけました。この訓戒者ヴァシシュタは、その名が「歓びを授ける者」を意味することか
らラーマと名づけた、と語っています。どんな歓びも、解放され遍在である全セルフが、閉じこめられ固定さ
れた個々のセルフに与える以上のものを授けることはできません。そこからこの全セルフが、つきることなき
歓びを授けるアートマ・ラーマと呼ばれます。…(略)…
ラーマはハートの蓮から蜜を吸いだすミツバチです。ハチは止まった花の花弁を落としていくかもしれませ
んが、ラーマはさらなる美しさと香りを加えます。ラーマは太陽のようでもあります。太陽は日射しで水を空
に吸い上げ、雲の中にためこみ、雨粒にしてふたたび大地の渇きをうるおします。神秘の力を秘めたラーマと
いう音の響きはへそから生まれ、舌までのぼり、そこで歓びの踊りを踊ります。
ラ・ア・マの3つの音からなりたつこの言葉は、ヴェーダの格言「タット・トワム・アシ(汝
・
・
が それなり)」を秘めています。「ラ」がタット(ブラーフマン、神)、「マ」がトワム
(汝、ジーヴァ、個々の魂)を象徴し、その2つを結ぶ「ア」は両者がまったく同じものであることの象徴で
す。
ラーマという言葉には数秘学上の意味もあります。ラ=2、ア=0、マ=5、足して7、これは吉兆を示す
数字です。音楽には7つのスワラがあり、天界の聖者は7人、ラーマの御名を7日間にわたり唱えるのは特に
実り多いこととされています。
74
(サティア・サイ・スピークス8
84-85p)
2.ラーマの御名の威力
ラーマという御名の中には3つの神格―――アグニ、太陽、月―――がいます。この3つの起源は何でしょ
う。太陽には何十マイルも離れたところから地球の表面を焦がす力があります。太陽の両親は誰でしょう。太
陽よりもさらに強い力をもつものだとは思いませんか?
では火の原理はどうでしょう。火はあらゆるものを
焼きつくします。アグニの両親は誰でしょう。月は冷たさと光の原理です。月の両親は誰でしょう。この3つ
の強力な存在の両親が誰かを問いかけていくと、神が両親であることに気づくでしょう。
万物が神から生じました。たいていの人が、万物の根源という基礎的なことを疑問に思いません。何事にも
基礎となるものがあります。科学者たちは今日なお、この基礎が何であるかを見いだそうとしています。
実のところ、名前が基礎であり万物は名前にもとづきます。名前は人やものを特定するもっとも簡単な方法
です。ですから神を見いだし、神の御姿を思い描くには名前を用いるのが最善です。神の御名とは祝福そのも
のです。
(サナタナ・サラティ
◇
◇
◇
1992年
4月号
62p)
◇
ナマスマラナ(神の御名の念唱)にお金はいりません。ものもいりません。特別な場所も時間もありません。
学位も好みも性別も関係ありません。石版の上で小さな鉄の塊をこすれば熱が生じます。しかしそれは力強く
一気にこすった場合にかぎります。休み休み弱い力でこすっても、鉄は熱くなりません。もしも神の優しいハ
ートが溶けるよう熱しようと思うなら、ラームラームラームラームと御名で勢いよく、休むことなくこすりな
さい。そのとき神は恩寵を授けます。朝2分半礼拝し、夕方2分半礼拝したところで、少しの熱はそのたびご
とに冷めてしまい、神のハートが溶けることはありません。
(サティア・サイ・スピークス5
◇
◇
◇
249p)
◇
あなたのハートには永続する歓びを授けるアートマラーマ、ラーマがいます。ハートの蓮を開かせる太陽の
御名、ラーマの御名を唱えなさい。ラーマはダシャラタ王の息子ではなく、ダシャ・インドリヤ(10の器官)
の統治者です。ラーマナーマを唱えるときには自動的でとだえることなく、不可欠な呼吸のようでなければな
りません。ラーマの御名はシヴァ・マントラ、ナラヤナ・マントラ両方のビージャ・アクシャラ(文字の一部)
を含みます。両者の2番目の文字でなりたちます―――ナラヤナ、ナマシヴァーヤ。つまりあらゆる信徒が唱
えることのできる御名です。力、そしてあなたに必要な霊的資産のすべてが授けられることでしょう。
真のアーナンダ(至福)は、心をざわつかせる衝動を変質て獲得されるものです。富の中にあるのではあり
ません。あなたはお金持ちが幸せだと思っています。そうでしょうか。彼らは嘆きでいっぱいです。なぜなら
救いを求めてたくさんのお金持ちが私のところにやってくるからです。彼らにシャンティ(平安)など少しも
ありません。たえまなく神の御名とともにいること、それだけがゆるがぬ平安を与えます。それが人をディー
ラ(勇者)にします。
今日こうして私に会うまで「サイババ」が形のない御名であっても、今こうして形に出会い、そのルーパ(姿)
は心の中に残ります。ラーマという御名にも姿があり、その名を唱えるときには姿を思い浮かべることができ
ます。そうして御名が具体的になりジャパムもしやすくなります。つねに姿の浮かぶ御名とともにありなさい。
人生そのものがたえまない神の礼拝になります。
(サティア・サイ・スピークス1
◇
◇
◇
81-82p)
◇
この世は実在する、肉体が自分であるという誤った観念が、いくたびもの生と死を通してあなたの奥深くに
植えつけられてきました。それを取りのぞくには、強力な薬を続けざまに与えなくてはなりません。治療薬ラ
75
ームラームラームを飲みこんで、無限に消化吸収しつづけなさい。あなたの手足、知覚器官、神経のすべて、
血の一滴一滴に、その治療効果が浸透していくでしょう。あなたの粒子ひとつひとつがラーマに変えられてい
くのです。溶かされ、ラーマの型にそそぎこまれ、ラーマのできあがりです。それがジュナーナの成就という
ものです。ラーマナーマその他の御名は、唱えられ、心の中に吸収されると、あなたを虚しさへと連れ去る五
感の気まぐれをコントロールする助けになります。
(サティア・サイ・スピークス7
◇
◇
◇
4p)
◇
3つのものがこの世の基本です。火、太陽、月です。誰にもこの3つの存在を否定することはできません。*
ヘトゥ
クリサヌ
バーヌ
ヒマカーラテ―――クリサヌは火の原理、バーヌは太陽、ヒマカーラは月を指し
ます。この3つの組み合わせが命あるものすべてを惹きつけ養います。歓びを与え、神秘を呼び起こし、惑わ
せます。歓びを与えることからこの3つはラーマと呼ばれます。ラーマはラ、ア、マの3つの音からなりたち
ます。ラがアグニ(火)、アが太陽、マが月のことです。この3つの存在が結びついたのがラーマ原理です。
(*Hethu Krisanu Bhanu Himakarat)
この世の万物は名と姿によってのみ認識できるものです。すべてのものは名前によって特定され、形は名前
に由来します。名前は万物の基礎であり根本です。
神の御名には強力な力があります。自由気ままな天界の牛カマデヌでさえ、くいにつながれれば制御されま
す。同様に万物のハートに宿る至高の神も、バクティ(献身)という縄でくくられ舌というくいにつながれれ
ば、帰依者のもとにとどまります。神が喜んでとどまる2つの方法があります。御名と愛です。ラーマ、ハリ、
ハラ、どんな御名でもかまいません。あらゆるものに宿る神はどんなものでもありうるからです。
(サナタナ・サラティ
◇
◇
◇
1992年
4月号
59-60p)
◇
ラーマ(ダシャラタ王の息子、ラーマーヤナの英雄、トレタ・ユガ期の神の化身)自ら、ラーマという御名
が強力な救済であると示したことがありました。シータとラクシュマナを伴い森を通りすぎようとしたときの
こと、ラーマが神であることを見抜いた隠者たちがまわりを囲み、霊性の進歩、成就のためにマントラを授け
てほしいと願いました。ラーマは自分が追放されて森をさまよう王子にすぎず、隠者たちに霊性の手引きを与
えられるような者ではないと答え、道を先に進みました。
早足に立ち去るラーマとそれにぴったりよりそうシータ、後ろに続くラクシュマナを見て、年老いた隠者が
感嘆の声をあげました。「仲間たちよ、あれを見よ!
くれたのだ!
ラーマはわれらに教えを授けた!
マントラを授けて
神が先頭を歩いてゆく、自然(シータ=伴侶、神の影)がついていく、神の一部、大海の波で
あるジーヴァ(ラクシュマナ=個々の魂)が後ろに続いていく。人を惑わす自然を崇め、それを超えた者だけ
に、神を見ることができるのだ。これこそサーダナ(霊性修行)の沈黙の教え。ラとは神、マとは神に続く人々、
アがプラクリティ(自然)。ラーマラーマ、それがマントラ。慈悲深き神がそれを授けてくださった。その名
で救済を得よう。私にはもうそれ以上のものなどありえない」
(サティア・サイ・スピークス8
93-94p)
3.地上に降りた神の化身
リグ・ヤジュル・サーマ・アタルヴァーナ、4つのヴェーダに示されたバラティヤの宗教の真髄は、ひとり
ひとりが内なる神と一体になることです。アヴァターたちは、人々が多様性という観念を捨て、根本的な霊性
の本質を悟り、そこに内在する神性をあらわにできるよう、人々にこの一体性の原理を教えるためにやってき
ます。
アヴァターの降臨とは、神が人の位置に降りてくることです。降臨によってその神性がそこなわれることは
ありません。その威力が弱まることもありません。赤ちゃんが床でひとり遊びをしているときを例にしましょ
う。母親が名前を呼び身をかがめたら、赤ちゃんの方から腕の中にとびあがってこなくては、母親の威信にか
かわると思ったとしても、赤ちゃんにはそれができません。わが子への愛情から自ら腰をかがめて抱きあげる
76
ものです。子どもを抱きあげようと頭を下げることが赤ちゃんに屈服することになりますか?
これと同じで、
アヴァターも神の位置まで昇れぬ人々を祝福し救うため、神の方から人の位置まで降りてくるのです。無知な
人々は、人の姿をしていることから神が人のレベルに身を落としたのだと思います。神は腰をかがめたのであ
り、ひざまずいたのとは違います。祝福であって服従ではありません。顕れ方がどんなに素朴であろうと、神
の資質、神の威力はもとのままです。神は、特定の時、場所にまつわる状況、条件、必要性に応じてその力を
示します。最高裁判官を例にあげてみましょう。裁判官には法律に従い誰にでも極刑を下す権力があると同時
に、市民の権利を守る権限もあります。この権力は判事席に座ったときにかぎり行使することができます。こ
の裁判官が家では自分の孫を自分の背中に乗せて遊ばせます。そんなふうに孫を楽しませたからといって、最
高裁判官としての権力を失いますか?
アヴァターも人の中に入って活動するからといって、神の至高の威力
が失われることにはなりません。狭量な人々がそれを違ったものとみなすのです。
ラーマの場合にもいくつかの例にこの現象を見いだすことができます。ラーマーヤナの中でラーマは普通の
人間と同じようにシータとの別離の苦しみを体験しました。ラーマはなぜそのような感情を示したのでしょう。
にたような状況のもとでは人がどのようにふるまうのか、ラーマ自身例として示したのです。
(サナタナ・サラティ
◇
◇
◇
1991年
4月号
87p)
◇
太陽と月は光り輝きます。人はどちらもそれ自体で光を放つものだと考えます。太陽や月の光を超越し、光
の源である輝きそのものが存在することを理解していません。月の光は太陽の光の反射です。月そのものが光
を発するのではなく、太陽の光をもとに輝きます。同様に、人は英知(ヴェイヴェーカ)や知性(ブッディ)
を人独自のものと考えます。しかし英知の光はブッディに由来し、ブッディの光はアートマ(内なる魂)に由
来します。人間の本質を喪失した結果、無知に陥り、アートマという光の根源を忘れ、英知や知性が光り輝く
と考えるのです。アートマは根本です。ブラーフマンです。至上の宇宙原理であり、全セルフ(パラアートマ)
です。それがアヴァター原理です。
ふつう人は、無形の絶対者がカイラサやヴァイクンタ(天界)にとどまっているだけでは何の恩恵を得るこ
ともできません。絶対者が無形であっては崇拝できないからです。よって、人々が無形の実在を、近づきやす
く助けになる姿をもつものとして体験できるよう、ラーマ・アヴァターは人の姿で顕れました。アヴァターは
人々のため、人々の手の届く存在となるために姿をとります。人には、形も属性もない絶対者を理解すること
はできません。残念なことに、姿なき絶対者が姿をとったことで、自分たち人間にある欠点がアヴァターにも
あると勝手に判断する人々がいます。「人間と同じ姿や肉体条件で、人間と同じように食べ、話し、行動する
のなら、アヴァターと自分たちの間に違いがあるといえるだろうか」そう問います。つまらぬ考え方をするこ
とで、これらの人々は自ら神を遠ざけているのです。
神の本質を理解するよう努めなさい。経典はこういいます。「*ダイヴァム
マヌシャルペナ(人の姿をとっ
た神)」人々が神をあますところなく体験し、愉しむことのできる機会は神が人の姿をかりたときだけです。
肉体×無限大がヴィラータ・スワルーパ(宇宙の姿)、心×無限大がヒラニヤガルバ(宇宙意識)です。ヴィラ
ータ・スワルーパとヒラニヤガルバはどこか特定の場所にある具体的なものではありません。人の内にあるも
のです。あらゆる宗教は、人がどこからきてどこに戻っていくのか、その源を人々に悟らせるためにこの世に
存在しつづけてきました。(*Daivam manusharupena)
(サナタナ・サラティ
1991年
4月号
86p)
4.ダルマ(正義、美徳)の体現者、人の理想像
今日はラーマナヴァミ、ラーマの降誕を祝う日です。ラーマは、誕生から誕生のない世界へといたるこの危
険の多い旅路で、セルフを救う方法にたけた人物です。ラーマはダルマの体現者です。だからこそダルマを建
てなおすことができました。今日という日は神の栄華と、神と人とのかかわりについて、要点をおさらいでき
る聖なる祝日です。ラーマーヤナにより深く分け入れば、ラーマとは万物に宿る普遍のアートマであると分か
るでしょう。ラーマはダシャラタ王とコーサリヤ王妃の息子でも、ラクシャサの支配者ラーヴァナを殺しに来
たのでもありません。シータとの別離を嘆き悲しみ、ふたたびめぐり会えたことに喜ぶシータの夫なのでもあ
りません。
77
(サティア・サイ・スピークス2
◇
◇
◇
27-28p)
◇
ラーマはサティア(真理)とダルマ(正義)をしっかり守りつづけることを体現しました。ラーマ・バクテ
ィ(献身)に身を浸した人だけが、その栄華に没入することができます。ラーマは気高き理想であり、想いを
はせるべき人物です。そうすることで、あなたもラーマの資質をゆっくりと沈黙の内に吸収することができる
でしょう。木は果実をつけるまで何年もただ静かに成長しつづけます。その場で即座に果実を実らせることは
ありません。
(サティア・サイ・スピークス15
◇
◇
◇
32p)
◇
真の歓びとはダルマの道に沿った生き方をすることでのみ勝ちとることができます。ダルマは人の生まれな
がらの神性を光り輝かせます。その輝きが生と死のくりかえしである人生の目的です。人の内にはこの神性の
きらめきが宿り、それは全知、全能、遍在、全宇宙に内在するものです。この内なる実在をたえず実感するた
めには、それと同じ神によってあらわにされた経典の数々の示す方法を学ばなければなりません。
(サティア・サイ・スピークス5
◇
◇
◇
146p)
◇
ラーマはいつでもダルマに従っていたとよくいわれます。これはラーマを表現する正しい言い方ではあり
ません。ラーマはダルマに従ったのではなく、ラーマがダルマだったのです。ラーマの想ったこと、話したこ
と、行ったことがダルマであり、永遠にダルマでありつづけるのです。
(サティア・サイ・スピークス1
◇
◇
◇
90p)
◇
ラーマを神の歩いた道すじ、神のかかげた理想、神の定めた法とみなしなさい。この道すじ、理想、法は時
代をこえて変わらぬものです。この道に続き、この理想を握りしめ、この法に従いなさい―――それが真の降
誕祭です。そうしてはじめてあなたの人生が実り多きものになります、ラーマの御姿を崇拝し、ラーマの御名
を唱えていても、あなたはラーマの指揮を無視しています。真のプレマ(愛)とはかけ離れています。神が映
し出されるよう心を浄化するために、神が定めた規律を実際守ることがなかったら、他のものはみなうわべだ
けの中身のない儀式です。
(サティア・サイ・スピークス5
◇
◇
◇
160p)
◇
ラーマはダルマの頼みの綱としてサティアを守りとおすことに力をそそぎました。どんな試練が訪れようと
どんなに苦しい思いをしようと、決して真理を手放しませんでした。真理はダルマ、ダルマは真理―――この
2つは決して切りはなせぬほど密接につながりあっています。「*サティアム
ヴァダー、ダルマム
チャラ」
ウパニシャッドはこういいます。サティアムとダルマムをそれほどまでにきつく握っていたラーマという人物
は、山に頂があるかぎり、この世に海があるかぎり、忘れ去られることがないでしょう。もしもラーマが「な
ぜ私は父の言葉に縛られなければならないのか」と異議を唱えていたら、不朽の名声を勝ちとることもなかっ
たでしょう。永遠というものが永遠への道を示すため、ラーマの姿をかりて降臨したのです。(*Sathyam Vad
ha, Darmam Chara)
(サティア・サイ・スピークス5
◇
◇
◇
◇
78
161-162p)
*サティアム
ナスティ
パロ
ダルマ―――真理以上のダルマはない。真理でありなさい。それが正義の極
致です。あらゆる倫理の本質であり、愛・奉仕・平安、そしてすべてとひとつであるための真理であり、道徳
的生き方のいしずえです。多様性とは、野望と憎しみのうちたてた一時的な障壁にすぎません。(*Sathyam na
sthi paro Dharma)
今日では、ヒンドゥー教のダルマ、キリスト教のダルマ、イスラム教のダルマというものが、衣服、髪型、
数珠、カーストのしるしや、許されているもの、依然として禁止されているもの、またいつ祈るのか、どこで
何を食べるのか、といったささいで一時的な符号にすぎない外側の共通項でくくられています。それらのほと
んどが迷信にすぎず、何らはっきりしないものばかりです。あれやこれやにふりまわされてはいけません!
活力をみなぎらせるプレマ(愛)やシャンティ(平安)というさわやかな水のように、ダルマをハートにわ
きあがらせなさい。ダルマがいったい何なのかはラーマーヤナから学ぶことができます。ラーマはまさにダル
マの本質です。言葉のひとつひとつ、行いのひとつひとつがメッセージを響かせます。
(サティア・サイ・スピークス10
◇
◇
◇
45p)
◇
人生という川には4つの橋があります。…(略)…ブラフマチャリヤ(独身者)、グリハスタ(家長)、ヴ
ァーナプラスタ(隠者)、サンニャーサ(僧侶)です。このうちグリハスタの橋が落ちて通行できなくなって
います。よりよきグリハスタになりなさい。人生という道が進みやすくなるでしょう。…(略)…
ダルマの荒廃が進むと、そのダルマを定めた神が顕れ修復します。4つの橋は神によって架けられました。
今それを建て直すため、神がふたたびやってきました。
(サティア・サイ・スピークス4
◇
◇
◇
199p)
◇
ダルマ・スターパナ(正義の再建)には2つの作業が伴います。悪の除去と善の確立です。現時点でその両
者を行うことのできる手段はナマスマラナ(御名の念唱)です。ダルマは今もこれからも人々のあらゆる願い
を授けます。何でも望みを叶えるカマデヌ(天界の牛)です。ナーマ(神の御名)を縄にし、舌というくいに
くくりつけることができます。そのときカマデヌはあなたがせつに求める善なるもののすべてを与えることで
しょう。
(サティア・サイ・スピークス8
◇
◇
◇
103p)
◇
ダルマは道徳規範であり、聖者の体験したものであり、心と五感を制御する規律です。人に働きかけるこの
ような制御機能には様々なものがあります。ヴィヤクティ・ダルマ(個人に働く制御)、サハジャ・ダルマ(人
間の本質に働く制御)、アーシュラーマ・ダルマ(学徒・家長・隠者といった人生の段階それぞれに働く制御)、
ヴァルナ・ダルマ(共同体の一員である人に課せられた責務に働く制御)。これらはみな互いを補完しあうも
のであり、混乱を与えるものではありません。それぞれが独自の方法で前進を促します。
(サティア・サイ・スピークス5
◇
◇
◇
79p)
◇
ある特定の条件下で何がダルマで何がダルマでないかを、あなたはどのように決めますか?
そのようなと
き用いることのできる、ある原則をお教えしましょう。あなたやまわりの人に苦痛を与えないこと―――それ
が正しさ、ダルマです。あなたにも他の人にも歓びを与えるような行いをしなさい。もしくはまた別の行動規
範があります。マナス(想い)、ヴァク(言葉)、カヤム(行い)を一致させることです。つまり話したこと
を行い、感じたことを話し、あなたの中の良心にうそをつかないということです。想いに偽りというコートを
着せてはいけません。良心を力づくで偽りの奴隷にし、良心の認めない行いをしようとしてはいけません。そ
れがダルマにもとづく生き方です。正しいことを行えば行うほどそれが容易になり、習慣になったものは良心
へと育ちます。いったん正しい行いを確立できれば、自動的に正しくありつづけることができます。あなたの
79
行いはあなたの人柄により、あなたの人柄はあなたの行いによります。この2つは強力に結びついています。
もうひとつ原則があります。ダルマは穏やかで落ちついていて、冷静でいられるようあなたを鍛えるもので
す。成功と失敗、富と貧困、喜び悲しみ、期待と落胆、あなたはそれらが一時的な性質のものであることを知
ります。舞いあがることも落ちこむこともありません。落ち着きはらい動じることがありません。ダルマは支
え、救い、浄めます。人は自らが無限の実在であることを知るために、生まれ、命を授けられました。
(サティア・サイ・スピークス2
◇
◇
◇
251p)
◇
ダルマはマリヤダ(境界線)です。人の激しい感情や衝動にたいして知性がもうけた限界です。…(略)…
マーナヴァ(人)とは「マナ(限度、限界)を守る者」の意味です。怒りにわれを忘れたりやりたい放題にな
らない人のこと、コントロール、規則、規律に喜んで従う人のことです。
(サティア・サイ・スピークス8
◇
◇
◇
57p)
◇
静かに優しく話しなさい、それがダルマ(正義)です。気前よく、賢く与えなさい。涙をふき、ため息や嘆
きを静めなさい、それがダルマです。貧しい人々にただお金を投げ与えればいいのではありません。敬意とと
もに、慈愛とともに与えなさい。謙虚さとともに与えなさい。人と調和のもとに暮らせるように努めなさい。
(サティア・サイ・スピークス8
◇
◇
◇
209p)
◇
コーサリヤ王妃(ラーマの母親)はラーマが追放され森を旅立つときこう助言しました。「あなたが細心の
注意で守り通しているそのダルマが、あなたを守ってくれることでしょう」おいしい料理の並ぶ宴(うたげ)
でなく、その言葉がラーマへの惜別の言葉でした。神々を鎖でつなぎ、10の頭をもったラーヴァナにも、ダ
ルマを盾と剣にしたラーマを前に長らえることはできませんでした。ラーマは人の幸福を喜び、人の悲しみを
嘆きました。これが人々に学ばせようとした資質です。人から与えられる苦しみを避けると同時に、人にも苦
しみを与えないよう注意しなさい。そのとき神の恩寵はひきよせられます。他の人を傷つけようとたくらんだ
り、人の不幸を喜んだり、人を傷つけているのに気づかずに、自分の幸せ、自分の前進ばかりに夢中になって
いるときではありません。
(サティア・サイ・スピークス5
◇
◇
◇
162p)
◇
気高い資質、気高い道徳のない知識は、社会に役立つことのない頭だけの知識です。何がラーマを神にした
のでしょう。人格、慈悲、非暴力、心のコントロール、五感のコントロール、名高さ、いわばこの6つの資質
を消化吸収したことです。誰かを傷つけ痛めることは、自らを傷つけ痛めることです。ヴィヤーサが18のプ
ラーナの本質を語ったときの言葉に示されています。「Help ever, Hurt never(つねに助けなさい、決して傷つ
けることのないように)」
(サナタナ・サラティ
◇
◇
◇
1994年
12月号
335p)
◇
ラーマは、人がこの世でどうふるまうべきか、国はどう治められるべきか、人々の誠実さ、倫理はどのよう
に守られるべきかを示す至上の模範です。気高い行い、理想的な資質、神聖な想いは人格の基礎であり土台で
す。ラーマはまさにこの3つを体現しました。つまり、誰もが正しい行い、善良な資質、神聖な想いを育まな
ければならないのです。ラーマはそのような暮らしがどうしたら営めるのかを、言葉で、想いで、ふるまいで
示しました。ラーマはいにしえの格言にそって行動しました。「真実を話しなさい、正義を実践しなさい」荒
い言葉をつつしみ、優しい言葉でみなを楽しい気持ちにさせました。他の人の乱暴な言葉には、落ちついて、
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忍耐強く、優しさと微笑みで答えました。決して他人のことを詮索せず、人の欠点を気にとめず、あざけりに
は参加せず、話したことで人を傷つけることもありませんでした。ラーマの示した模範に続き、ラーマにあっ
た数多くの気高い資質を養い、正しい行いをすることは誰にとってもきわめて重要です。 人は神の肖像です。
神はギータの中でこう明言しています。「私の魂は生きとし生けるものに宿る」神はあらゆる人の内に宿りま
す。今日人は権力を追い求め、自分の目的のためにはどんな罪をも犯し、人にどんな危害を加えようとかまわ
ぬつもりでいます。他方ラーマは王国を断念し、父の誓約を尊重し、森への追放という苦しい試練に立ちむか
いました。ラーマは決して誓いの言葉に背をむけてはいけないことを、その行動で示したのです。王位を捨て、
森の住人となりました。人生において大切なことは苦難でも不運でもありません。ダルマが他の何にもまして
大切であることを世に示そうとしたのです。たとえそれが一生をついやすことになろうと、誓いにそむいては
いけません。
今日、人は一瞬ごとに自分の言葉にそむいています。何においても偽りだらけです。約束の数々は忘れ去ら
れます。そのような人々の状況のどこにラーマ原理が栄えるというのでしょう。ラーマ原理とはかけ離れてい
ます。
神は想いや理想や行いが、ラーマのそれと一致する人に近づきます。ラーマは言葉通りの人物でした。しか
し人は全く逆です。このような状況で、人の内に神がいるなどといえるでしょうか。とんでもありません。け
ものか悪魔がいるというほうが当たっています。どんなサーダナ(実践)をしようと、何回神の御名を唱えよ
うと、神の判断基準はそこにはありません。あなたはハートを変えていますか?
心を変えることがなかった
ら、霊性のサーダナ(実践)に何の効果があるというのでしょう。
人はたんに血と肉でできた生きものではありません。魂(アートマ)の体現者です。真の霊性というものが
あらわにされるのは、人がこの真理に気づいたときです。いつもいつも物質からなる肉体だけが実在だと思い
こんでいては、世のしきたりに時間を浪費するばかりです。肉体を神の宿る寺院とみなしなさい。それ以外の
ものと思うのは愚かさのしるしです。肉体という寺院におわす内なる神を認識した人だけが、真の人といえる
でしょう。経典はこういいます。「人の肉体という寺院には、永遠不滅の全セルフが、ひとりひとりのセルフ
となって宿りたもう」
(サナタナ・サラティ
◇
◇
◇
1995年
5月号
114-115p)
◇
ラーマはバーラタ(弟)にどのように国を治めたらいいのかを教えました。「人格と美徳をそなえ、穏やか
で真理に忠実な人物だけを大臣の地位におきなさい。この4つを欠いた人物ではいけません。さらには、自信
があり正しい行いを実践し、適切なアドバイスを与えられる人でなければなりません。聡明といえる役人には
これらが必須の条件です。利己的な人に地位を与えてはいけません。私利私欲で動く人物のいる場所があって
はなりません。それだけではありません。権力を行使するのに、ギャンブルやお酒を使うことを決して許して
はなりません。人々から尊敬を集め、愛される人物だけを受け入れなさい。そのような大臣の3人もしくは4
人と毎日会議を開きなさい。そこでの言葉は内密にし、決して部外者の耳に入れてはいけません。そうして秘
密が守られてこそ国家は栄えていき、国に平和と繁栄が訪れます。さらには他の国への使節として、国王に完
全に忠実で、裏表のない、迎合者ではない大使を送りなさい。そのような大使だけが真実の情報を伝えること
ができます」
ラーマはこれで終わりにはしませんでした。(スワミは女性の帰依者たちに、誤解して気分を害することの
ないようにといって続けました)
ラーマはバーラタに女性を国務に参加させてはいけないと言いました。女
性には家庭の仕事という尊敬すべき役割があり、国の政治からは離れているべきです。「女性を大臣にしては
いけません。その理由は、国の名誉は女性の名誉にかかっているからです。女性への敬意と名誉が守られてこ
そ、国はたたえられるものです。女性が国事の場をうろついて身をおとしめることはありません」
これがラーマがバーラタに教えた、善い国政に関する神の教えでした。ラーマの理想的な統治の教えと比較
して、今日の国家の状況はどうですか?
ラーマの教え、ラーマの理想とは100%反対です。どうしたら国
家にラーマ・ラジャ(統治)を確立できるでしょう。
ラーマ・ラジャを樹立したいと願うなら、想い、言葉、行いを一致させねばなりません。これはバーラタ(イ
ンド)だけでなく全世界に当てはまります。すべての国がこの3つの純化の原理に従う政府をもたねばなりま
せん。そのとき国民も統治者層の人格を反映するようになるのです。
今日人々は統治者の悪徳を反映しています。大臣が1本の酒瓶を求めれば街の人々は2本求めるでしょう。
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そのような国民がどうやってラーマ・ラジャを建てられるというのでしょう。彼らの心構えが完全に変容して
こそそれが可能になります。どんな教えに耳を傾けようと、心は依然同じままです。心の変容がなかったなら、
「ラーマ」の名を口にする資格もありません。ラーマ・ラジャのことを話す意味などありますか?
ラーマ・
ラジャという言葉だけが存在し、実のところはラーヴァナ・ラジャがあるだけです。
ラーマの理想が本当に価値があると思うなら実践しなさい。ラーマの理想は高すぎてあなたの能力を超えて
いるというかもしれません。しかしあなたにもできることがひとつあります。ラーマは父の言葉を実行に移し
ました(*ピトルヴァキヤ
パリパラナ)。今日何人の人が良心の言葉を尊重していますか?
父が息子にどこ
に行くのかと尋ねれば、息子は「黙ってひっこんでろ」と答えます。父親の言葉を敬う人はめったにいません。
母親にたいする敬意については語るまでもありません。そのような恥ずべき息子たちが世間を破滅におとしい
れています。母親はそんな息子のふるまいに涙を流しているのです。(*Pithruvakya paripalana)
ものごとの悪い状況は変えていかねばなりません。両親の神聖さは回復されねばなりません。若者たちは純
粋な想いを養い、利己的でない生き方を送らなければなりません。
両親を敬わない子どもたちは、いずれ自分の子どもたちから同じように扱われます。部分的には子どもたち
を甘やかした両親も責められるべきです。今日の子どもたちは、ある程度はいうことを聞いたラーヴァナの子
どもたちにも劣ります。知識や富を得た人々は、他の人を助けるためにそれを役立てようとはしません。いら
ないものでも人に与えないというやり方です。これではラーマの模範に続くとはいえません。
今日、人々はラーマの降誕をお祝いはしても、ラーマの理想を実践しません。あなたのハートにラーマの理
想をまつりなさい。そうでなければ祝う意味などありません。気高く理想的な人物の模範に続きなさい。それ
が献身という言葉の正しい意味です。
人は献身について話します。ただバジャン(献身的な賛歌)に参加することが献身ですか?
いいえ、それ
は目につく行為にすぎません。真の献身と呼ぶには、あなたの学んだ教えのうち、少なくともひとつを実践に
移すことが必要です。教えのうちのひとつでも守ることで理想的な存在になれるのです。
ラーマがバーラタに教えたものが理想であることを覚えておきなさい。善い統治の原則を示した後、ラーマ
はバーラタにこう言いました。「両親、訓戒者、年長者を敬いなさい。王国内で誰かが不正を働いたら罰を与
えてはいけません。追放しなさい。それで十分刑罰にあたいします」
さて、ここで罰とは何を意味するのかを説明しましょう。誤りを犯した人を打ったりしいたげたりする必要
はありません。話をするのをやめなさい。堕落していく人と話をして何の役に立ちますか?
私は私の言葉に
重大な価値があると知っています。人々がそれを知らなくても、私はその価値を知っています。利己的な動機
はありません。どの言葉もすべての幸福のためです。そのような広い視野をもたず、ただ個人の利益ばかりを
案じる人がいたなら、そのような人と話すことがいったい何の役に立ちますか?
理解することはできません。
自己中心であるかぎり神を
まず最初にラーマ・ラジャとは何かを理解しなさい。倫理、真理、美徳による
統治のことです。ラーマ・ラジャとは幸福(ラーマヤティ)をもたらすものです。誰にたいしても邪悪な想い
を抱くことがあってはなりません。誰も傷つけられてはいけないのです。それがラーマ・ラジャです。人々の
間にそのような気持ちが起きたとき、自然にラーマ・ラジャが成立することでしょう。
(サナタナ・サラティ
◇
◇
◇
1995年
5月号
117-119p)
◇
ラーマは、父が自分の義母とかわした古い約束を守るため、ラーマに頼んだ願いを受け入れる覚悟を決めま
した。戴冠の儀式の際、王位をあきらめ森への追放を選びました。ラーマは次の国王として実に適任であった
にもかかわらず、父の誓約を守るために森へ行くことを選んだのです。今日人々は父親との約束など無視し、
自分の利益ばかりを優先します。ラーマはイクシュバクの家系に生まれたからには断固として父の言葉を敬う
ことを世に示しました。この神聖な原則を遵守するためには、どんな試練にも立ちむかう覚悟でした。いつも
人々の願いをはたし人々の意見に応じようと、積極的に取り組みました。貧しい洗濯人の一言にも細心の注意
で耳を傾け、その意見は口に出しては言わない他の国民たちの感情を表すものと捉え、シータを森へと連れて
いきました。
ラーマは人々の願いにたいへん敏感だった統治者としてきわだつ人物です。今日では無能で不適格な人々が、
権力を握ろうと野心にかられています。まったくの誤りです。これが国家の停滞をひきおこしています。バー
ラタ(インド)の無惨な衰退は、実に権力を握る人々の無能さに原因があります。人格をそなえた私欲のない
人物が権力の座につくべきです。ラーマは統治する者とされる人々の間の理想的関係を実証しました。
82
(サナタナ・サラティ
◇
◇
◇
1991年
4月号
88p)
◇
ラーマはもっとも人間らしい人間でした。どこにいようと、どの国、どの地域の人であろうと、誰もがラー
マ原理を理解しなければなりません。ラーマは理想的な息子でした。どの家庭にもこの理想的な息子が必要で
す。王位の戴冠のときでさえ、王である父の言葉に従い森への流刑を選びました。父の命令をはたすというこ
とに関し、ラーマは最高の模範として傑出しています。
さらにラーマは理想的な兄でもありました。兄弟と
の親和、親愛を例として示しました。弟たちを自分の呼吸であるかのように扱い、ひとりひとりに等しく愛を
そそぎました。ラーマは家族における兄弟愛の模範です。
またラーマは理想的な夫です。ラーマが一夫一妻制に固執したことは正しく理解されねばなりません。ヴァ
ールミーキはそれをよく分かっていました。ひとつの言葉、一本の矢、ひとりの妻はラーマにとって原則でし
た。なぜでしょう。肉体にはたくさんの器官があります。それらはみなたったひとつの心臓によって動かされ、
養われ、維持されています。同様に妻は夫にとってたったひとり、妻にとっても夫はたったひとりなのです。
世にこの一夫一妻の理想を示すため、ラーマは模範となったのです。
ラーマは理想的な友です。ラーマ以上の友などありえません。世の中には富や権力を握る間だけ友情を示そ
うとするつごうのよい友がいます。しかし富と権力がなくなれば、ひとりとして顔を見せはしないでしょう。
ラーマはそのような友ではありません。愛情深く思いやりにあふれ、富める人にも貧しい人にも、喜び悲しみ
のときには同じように気づかいました。グハはふつうの船のりです。ラーマは彼を4番目の弟と呼び、愛情を
注ぎました。ラーマは助けを申し出たり、寺院を見つけるために訪れたどの人にも、全く同じ友愛精神で接し
ました。
それだけではありません。ラーマは理想的な敵でもあるのです。この世には敵をあざむくにはどんな策略を
も辞さない人がたくさんいます。しかしラーマはそのような恥ずべき陰謀に身をおとしめることはありません
でした。たとえばラーヴァナとの戦いのとき、ラーヴァナがラーマの矢を受け立ち上がることができなくなり
ました。武器はすべて破壊されていました。ラーマはラーヴァナが疲れはて、すべての武器を失ったことに気
づきました。そのような状況で敵を殺すのは正しいことではありません。弱りきった無力な者を殺すのは英雄
行為とはいえません。敵は強力なときにこそ滅ぼされるべきです。ラーヴァナの窮状を見て、ラーマは武器を
おさめてこう言いました。「ラーヴァナよ、疲れはて武器も失った、もう戦いつづける状態ではないだろう。
退陣し休みを取って明日ふたたび戦いに来なさい。また明日戦いを続けよう」このような寛大さを示すことで、
ラーマは理想的な敵でもあることを示しています。
何よりもまずラーマは理想的な息子です。どの国であろうと、世界のどこであろうと、どの家庭にも理想的
な息子が必要です。ラーマの物語はバラティヤ(インド)人のためだけのメッセージではありません。あらゆ
る国、あらゆる人々への教えを授けています。
ラーマは理想的な夫でした。シータが誘拐されたとき、ラーマは自分の半身を失ったかのように感じました。
妻をアルダーンギニ(自分の半身)とみなしていたのです。ラーマがシータとの別離の悲しみに打ちのめされ
たかのように見えたのは、妻を失うということがどんなことであるかを世に示したかったからにすぎません。
次の妻をめとることは一切考えませんでした。ラーマは言いました。「妻を守るのは私の努めです」この世の
夫みながこの確信を抱かなければなりません。
(サナタナ・サラティ
◇
◇
◇
1994年
6月号
141-143p)
◇
神の栄華は太陽1クロア(1千万)分の輝きです。神の顔は太陽の光でまばゆいばかりです。ラーマの顔の
燦然とした輝きに打ちのめされ、われを忘れたサバリはラーマを汚れひとつない満月と称しました(スワミは
今日の男性の顔は、ひげともみあげの深いジャングルで輝きというものがまったくないと、冗談まじりに言わ
れました)。ラーマの顔には一点のくもりもありません。心が純粋で自己犠牲にあふれていたからです。自分
のために何かをすることは決してありませんでした。ラーマの行いはどれもが世の幸福のため(ローカサムラ
ークシャナ)でした。*ラモー
ヴィグラハヴァン
ダルマハ、ラーマはダルマの体現者です。ダルマに従う人
はダルマに守られます。ラーマは宮廷生活の快適さ、楽しさ、すべてを犠牲にし、森での生活に耐えました。
学生たちにとっても理想の人物です。両親の言葉を敬い、それに従わなければなりません。グル、教師という
83
ものは両親の次のくるものです。(*Ramo vigrahavan Dharmah)
(サナタナ・サラティ1994年
◇
◇
◇
7月号
176p)
◇
ラーマの統治は正義と倫理によって特徴づけられます。今日人々はいたるところで不信と疑惑にさいなまれ
ています。「神はなぜこのようなことをなさるのだろう」心の狭さからこのような疑問を投げかけます。神の
本質が無限であることを正しく理解していたなら、このような疑問のおこる余地はまったくありません。神が
全能であることを理解できないみじめな人がこれらのことを口にします。彼らの人生は疑いで浪費しつくされ
るのです。そんなつまらぬものはきれいに捨ててしまいなさい。
(サナタナ・サラティ
1991年
4月号
85p)
5.シータの意義
プルシャであるラーマは、シータというプラクリティを受け入れ、ラーマーヤナという劇を演じました。プ
ラクリティ、つまりマーヤーが、純粋な存在であるブラーフマンの活動を促したのです。さて、何が起こった
でしょう!
ブラフマジュナーナ(至高の実在の英知)が失われ、ラーマはシータを求めて森の中をさまよう
ことになりました。もちろんラクシュマナ=マナス(心)もつねにラーマとともにいます。なぜならマナスは
解脱にいたる道具だからです。ヴァリは絶望の塊であり、識別の英知=ヴィヴェーカ、つまりスグリーヴァの
助けにより滅ぼされねばなりませんでした。
(サティア・サイ・スピークス2
◇
◇
◇
29p)
◇
ラーマはまさに全セルフそのものです。シータはラーマのシャクティ(エネルギー、力)です。母なる大地
の娘であり、自然の化身です。ラーヴァナはラーマへの敵意を増し、シータを誘拐しました。その結果はどう
でしょう。神を憎み、外界を追いまわした結果、どうなりましたか?
ラーヴァナはもとより、王国、血筋の
ものすべてを滅ぼされました。その知力、体力にもかかわらず、倫理の喪失により自らを破滅させたのです。
内なる神性を見いだすことができませんでした。
ラーヴァナの運命から何を学ぶべきでしょう。どんなに世俗の知識を得ていようと、アートマ・ヴィディヤ
=アートマの知識を追求しなければならないということです。両親や親戚とは離れて暮らしているかもしれま
せん。しかし神があなたから離れることはありません。つねにあなたとともに、背後に、まわりにいて、あな
たを守っています。あなたのすぐ近くにいる神を手放し、世俗の幸福を追い求めるのは危険に満ちています。
欲望を満たすことにすべてをそそいだラーヴァナは、自らの敵になり、しまいには滅ぼされてしまいました。
(サナタナ・サラティ
◇
◇
◇
1992年
10月号
236p)
◇
シータは大地の娘、プラクリティ(自然)の娘であり、プルシャとの永遠の結びつきを求めていました。ラ
ーマとして顕れた神、プルシャと結婚しました。ラーマが追放され、14年間という長い間森で暮らすことを
承諾したとき、シータもなれ親しんできたぜいたくを手放しました。ラーマとともにいるために、森での危険
な生活に勇敢に立ちむかいました。ラーマという唯一の目的地にむかうため、心の欲望すべてを断ち切りまし
た。
あえて挑んだ自己犠牲の結果として、シータは完全なる至福の中で13年間神とともに過ごしました。その
とき、突然心の中に欲望がめばえ、シータを連れ去り神から遠くひき離しました。
金色のシカを見かけ、ほしくてたまらなくなったのです。金やダイヤモンドの莫大な資産を捨ててきたシータ
が、このまぼろしに心を奪われたばかりに耐えがたい苦しみを味わうことになったのです。
長い間私に愛を捧げつづけてきた人々にも何らかの欲望―――土地や仕事、家族、名声や地位、権力、所有
欲―――が起こり、去っていってしまうことがあります。しかしシータは自分の過ちを悔い、ラーマとはなれ
84
ばなれになってしまったすさまじい苦しみに心を痛めました。助け出してくれるよう訴え、後悔の念とともに
一息ごとにラーマラーマラーマと叫びました。そして最後にはラーマ自らシータのもとへ、帰依者のもとへと
たどりついたのです。もしもあなたがその出現を切望し、苦しいほどに後悔し、なくしていたことに気づいて
ふたたび会いたいと強く願うなら、このサイラムがあなたのもとにおもむき恩寵を授けるでしょう。
(サティア・サイ・スピークス11
◇
◇
◇
87p)
◇
ラーマとシータの結婚には世界が歓びました。そこには全宇宙的な意味があったからです。プラクリティ(シ
ータ)と、至高の実在であるプルシャの合一を象徴します。大宇宙の万物はみな、その性別、容姿にかかわら
ず、本質的に女性性です。シータは神の半身、アルダーンギニを象徴し、パラアートマ(全セルフ)がプルシ
ャ(至高の神)を象徴します。それがひとつになり、プラクリティとプルシャで半身男性、半身女性のアルダ
ナーリーシュワラの概念を表します。男性性と女性性の組み合わせは、あらゆる人の内に見いだすことができ
ます。ラーマーヤナの示すこの側面は、誰もが理解しなければならないものです。
ラーマーヤナはバラティヤ(インド)人のためだけの聖なる叙事詩ではありません。ラーマとは「ハートに
歓びを与える者(*ラーマヤティ
イティ
ラマハ)」です。誰を崇拝しようと、それはハートに歓びを与える
唯一者を崇拝することです。神はひとつ、ゴールはひとつです。(*Ramayathi iti Ramah)
(サナタナ・サラティ
◇
◇
◇
1994年
6月号
146p)
◇
ラーマーヤナにはまた別の教えがあります。シータの捜索は、体験という領域で自分を理解する秘訣を象徴
しています。シータがふたたびその手に戻ったとき、ラーマは自分を知るという英知を回復し、それは体験に
よって確かなものになりました。ジュナーナがアヌバーヴァ・ジュナーナ(体験から得られた知識)になった
のです。ラーマーヤナは教えています。人が自分を知るという価値ある目的を強く求めたとき、あらゆる自然
の力、あらゆる創造物がそれを助け支えようとするのです。猿、鳥、リス、石や岩までが、その課題に取り組
む仲間になります。高い目標を抱き、最高レベルの冒険を決意しなさい―――あなたをゴールに導くため、あ
りとあらゆるものが準備されていくでしょう。
(サティア・サイ・スピークス9
◇
◇
◇
134p)
◇
ダルマ、道徳的実直さは、決してあなたを裏切りません。他のどんなものが与えるよりも大きな歓びを保証
します。ラーマはラーヴァナを滅ぼしました。10の頭の者にたいする1つの頭の勝利、分散された心にたい
する集中力の勝利です。ラーヴァナはプラクリティに価値と意味を与えるプルシャ(魂)をうち捨て、プラク
リティ(シータ)のみを追い求めました。もしもプラクリティ=客観世界だけを求めるなら、あなたは自分の
価値を下げ、自分という実在を否定し、ラーヴァナ一族に加わるということです。しかし客観世界の一部であ
る神を、プラクリティの外やあなたの外側にいると思うのもまた誤りです。神はあなたの内に、背後に、脇に、
目の前にいます。あなたの目が神の目であり、あなたが「私」と思うもの、それが神の「私」と同じものです。
神という実在があなたの実体であることをゆらぐことなく認識しながら、神とのヨガ(一体)を希求しなさ
い。ヨガを求めれば、どんなボガ(快楽)であれ、真にあなたに必要なものは時期を選んで授けられます。し
かしボガのみを求めればあなたは死んだも同然です。ロガ(病気)とい祝福だけが授けられるのです。それを
覚えておきなさい。
あなたがアートマであるという強い確信の中で生きなさい。それが永遠不滅の教えの核心です。アートマが
あなたの目を通して見、耳を通して聞き、指を通じてつかみ、足を通じて動きます。それがあなたの「根本」
です。誰かがあなたを中傷したら、心の中で理性的にこう考えなさい。「この人は私の肉体のことを悪く言っ
ているのだろうか。それなら何を気にすることがあるだろう。檻(おり)にすぎないこの肉体への執着を捨て
ようとしていることを、この人が言葉にしただけなのだから。それともアートマのことを言ったのだろうか。
アートマの純粋さは何ものにも影響されず、その輝きをくもらせるものもありえない。それなら穏やかに動じ
ずにいよう」あなたはこう思うかもしれません、それではその中傷はいったいどういうことになるのだろう。
85
受けとり拒否をされた郵便物のように、差出人に返されるのです!
(サティア・サイ・スピークス4
◇
◇
◇
49-50p)
◇
ラーマがアヨーディヤの王位に就いたとき、主要な人々は王国を去る際、それぞれ何らかの贈りものを授か
りました。しかしハヌマーンだけは断りました。かわりに、長い間ラーマに忠実に仕えていたにもかかわらず、
ついぞ理解することのできなかったラーマという人物の秘密を明かしてほしいと願いました。するとラーマは、
シータに自分たち二人の生涯の秘密を明かし、ハヌマーンの疑問をはらすようにと言いました。シータは話し
ました。シータとはムーラ・プラクリティ(自然の原理)であり、マーヤー・シャクティ(あらゆる物質をゆ
り動かすエネルギー)であり、この世の多様性というものを取りしきり、幻惑させているものであること。そ
してラーマーヤナとは、シータの書いた筋書きを上演したにすぎないことを。
(サティア・サイ・スピークス
◇
◇
◇
出典箇所不明)
◇
ラーヴァナには霊性の経典の莫大な知識がありました。ラーヴァナが10の頭をしていたことは、6つのシ
ャストラ、4つのヴェーダを学んだことの象徴です。しかし決してその知識を活用することはありませんでし
た。プラクリティ(物質的なもの)を手に入れることだけを求めました。物質世界、客観世界を支配したいと
思ったのです。物質分野の達人でした。しかし霊性について学ぶことはありませんでした。魂、つまりプルシ
ャであるラーマを捨て、ランカーと、シータによって象徴されるプラクリティを手に入れたことで満足しまし
た。それがラーヴァナが身を滅ぼした原因です。
(サティア・サイ・スピークス4
74p)
6.アヨーディヤ(ラーマの王国)、ダシャラタ王(ラーマの父)、
バーラタ、ラクシュマナ、シャトルグナ(ラーマの弟たち)の意義
「ダシャラタ王には4人の息子、ラーマ、ラクシュマナ、バーラタ、シャトルグナがおりました」こう語ら
れます。さて、ダシャラタとは誰でどこの国を治めたのでしょう。かつてアヨーディヤという国があり、ダシ
ャラタという王が統治し、ラーマという息子がいたのだとしたら、このエピソードは私たちにどんな関係があ
るのでしょうか。なぜ私たちはこの物語を時代も場所も違ったところでお祝いしているのでしょう。
物語の内部に少し分け入れば、ダシャラタ王がどこか遠い土地の国王で、地図上では北インドにその首都が
あり、4人の息子が生まれて死んだのではないことが理解できるでしょう。アヨーディヤは、征服されえず、
敵の侵入できない難攻不落の城塞都市のことです。これはアートマ、神の宿るハートの象徴です。誘惑に屈せ
ず、敵である激情、衝動、本能を敏感に察知します。ではダシャラタ王とは?
10のラタ(戦車)に乗る者、
つまり5つの行動器官と5つの知覚器官でなりたつ肉体のことです。あらゆる人間を象徴するダシャラタは、
3人の妻を迎えました。
さて、結婚した男性は、独立した肉体をもつひとりの女性を妻としますが、人はみな「死が分かつまで」自
分から切りはなすことのできない3つのものと結婚しています。サトワ・ラジャス・タマス―――コーサリヤ
王妃=サトワ(浄性)、スミトラー王妃=ラジャス(激性、活動性)、カイケーイ王妃=タマス(鈍性、無知)。
この3つをのがれて生きること、それにともなう様々な反応を体験せずに生きることは誰にもできません。や
がてはそれら3つが従い敬うことのできる主人が心に必要であると強く望むようになります。その苦悩があま
りに激しかったために、超越者神はその願いを叶えました。儀式でたかれた火の中から神の使いが現れて、パ
ヤサム(米がゆ)を与え恩寵を授けたのです。この神の恩寵である贈りものが3つの資質に分けられ、4人の
息子が生まれました。ダルマ(徳)、アルタ(富)、カーマ(欲望)、モクシャ(解脱)という、人の4つの
主要な存在目的です。長兄ラーマがダルマ、残りの3人(ラクシュマナ、バーラタ、シャトルグナ)が残りの
3つの象徴です。
ダルマがあなたの心に生まれるには、多大な犠牲が必要です。ダシャラタ王がプトラカメシュティヤーガ(息
子を授かるための盛大な儀式)を行わなければならなかったのもそのためです。神とはダルマの体現者であり、
86
神を崇める唯一の手段がダルマです。ダルマは神聖なる行い、神聖なる言葉、神聖なる想いという花でできた
首飾りです。善良で熱心で有能な善行の人という名声を勝ちえなさい。そのような善良なふるまいで両親に幸
せを与えぬ息子は、母親に出産の苦しみでしか覚えていてもらえません。
(サティア・サイ・スピークス1
◇
◇
◇
112-113p)
◇
ダシャラタ王とは誰でしょう。アヨーディヤの国王です。ダシャラタという名前は知覚器官をそなえた肉体
という意味です。5つのカルメンドリヤと5つのジュナーネンドリヤ、10の器官です。ダシャラタ王は10
の器官にひかれる戦車のことです。ダシャラタの3人の妻は3つの資質の象徴です。コーサリヤ王妃がサトワ
を、スミトラー王妃がラジャスを、カイケーイ王妃がタマスを象徴します。
ラーヴァナとは誰でしょう。10の頭をもった怪物として描かれます。10の頭とは6つの悪徳、欲望・怒
り・貪欲・うぬぼれ・おごり・嫉妬と、マナス(マインド)、ブッディ(知性)、チッタ(限界のある意識)、
アハムカーラ(エゴ)です。これら10のものはあらゆる人の内にあります。つまり人はみなラーヴァナなの
です!
この10の頭を切り捨てることができたとき、神のラーマになるのです。人が神に自らを差し出した
とき、この10の頭が消え、ラーマに溶けこむでしょう。
(サナタナ・サラティ
◇
◇
◇
1992年
8月号
186p)
◇
ラーマはいっかんしてダルマを守り通すことで強靱な魂を得ていたため、シヴァダーヌスとよばれるたいへ
ん力のいる弓を手に取ることができたばかりか、それを2つに折ってしまいました。ジーヴァ(個の魂)が幻
想をすでに克服していたことの証拠です。ヴィデーハ(知識)の国王であったジャーナカ(シータの父親)が
その弓を保管していました。命取りにもなる欠点を乗りこえた英雄を待ちつづけていたのです。
物語はヴィデーヒ(ヴィデーハの王、いわば肉体と肉体意識のない者)であったジャーナカが、娘シータ(ブ
ラーフマン意識)をラーマに差し出したといいます。シータとの結婚は、別の言い方をすれば「至高の英知の
獲得」といえます。なぜかといえば、シータはどこから来ましたか?
物語はこういいます。「大地の裂け目
から」、つまりプラクリティ=自然からです。プラクリティとの有意義なかかわりあいがあってはじめて、ブ
ラフマジュナーナ(至高の英知)が得られることが明らかにされています。
ラーマが直面した次の舞台は深い森の中での生活です。森は魅了するもの、嫌悪を呼ぶもの両者に満ちてい
ます。至高の英知はそういった二元性と共存することはできません。二元性の両面を断念するよう強いるもの
です。ラーマはシータが手に入れたいと願った金色のシカを追いかけました。このふとした過ちの結果、ブラ
フマジュナーナが姿を消したのです。
ラーマ(ジーヴァの代表)は完全な無執着を取りもどすのに、数々の霊的な苦行に耐えなければなりません
でした。ここでラーマは二人の協力者、スグリーヴァ(識別力)とハヌマーン(勇気)を獲得します。協力体
制は、ラーマが献身的行いをしたことにより保証されました。これはどんな条件下であろうと、ラーマがダル
マに忠実であったことを示します。ラーマは邪悪なもののとりこであった悪者ヴァリを殺しました。ヴァリは
父親を王位からひきずりおろして森に追いやり、悪名高いラーヴァナと連合して、弟スグリーヴァに理由もな
く冷たく当たりました。ヴァリは選んだ仲間のせいでひどく身をおとしめました。アインシュタインはかつて
こう言いました。「誰が友達なのかいってごらん、君がどんな人か当ててみせよう」
ラーマはヴァリのいた玉座にヴィヴェーカ(識別力=スグリーヴァ)を就任させました。その協力のもと、
失った英知(シータ)を求めてさらなる捜索に乗りだしました。行く手に広大なる幻想の海(モハ)が現れま
した。仲間であるハヌマーン(勇気)には、欲望にも無知にもくもることのないはっきりとした想いがありま
した。ラーマの御名と御姿を求めることです。それによって海を順調かつ安全に跳びこえることができたので
す。
ラーマは島にたどりつきました。ラーヴァナ(ラジャスの具現、激昂しやすく衝動的で所有欲の強い資質)
と弟クンバカルナ(タマスの具現、鈍く自滅的で無知な資質)を倒しました。ラーマはシータ(ブラフマジュ
ナーナ)を取りもどし、それは今や努力と奮闘によってさらに強められ、たえず臆念していたがゆえにより確
かで、より価値あるものになっていました。そしてラーマはシータとともにアヨーディヤ(難攻不落の都市、
英知の源泉)へと帰りました。この魂の旅は戴冠式、マハーパッタビシェーカムで幕をおろします。
87
これが探求者ひとりひとりが一生の内にやりとげるべきラーマーヤナ物語です。アヨーディヤとはハートの
ことです。ダシャラタ王は肉体、妻たちがグナ、息子たちがプルシャルタ、シータが英知です。3つの道具―
――肉体・言葉・心―――を浄化していくことで、この覚醒に挑み達成しなさい。
(サイババ講話集1
◇
◇
◇
88-89p)
◇
バーラタ(ラーマの弟)という名前そのものがラーマの愛に浸ったことを示しています(バ=バガヴァン、
ラーマ神、ラタ=歓び幸せを感じる、慕う)。
バーラタのように、神への愛をあなたの心に育みなさい。王位さえも投げすてた崇拝の気持ちを養いなさい。
そのとき、自分の国、自国の文化・社会・宗教・共同体に大きく貢献できるでしょう。そうでなければ、サッ
トサングに参加し、霊性の講義に耳を傾け、霊性の師たちに出会い、経典の数々を学んだ手間は、すべてとほ
うもない無駄な行為になってしまいます。
(サティア・サイ・スピークス9
◇
◇
◇
130p)
◇
寓話物語ラーマーヤナの意味は正しく理解されねばなりません。ラーマはヤジュル・ヴェーダの象徴です。
ダルマの体現者だからです。ラクシュマナはラーマの言葉を法とし、ラーマに従いました。たえずラーマの名
を唱えていました。リグ・ヴェーダを象徴します。バーラタはサーマ・ヴェーダの象徴です。いつもラーマの
栄華をたたえる歌を歌っていたからです。シャトルグナはアタルヴァ・ヴェーダの象徴です。これでダシャラ
タ王の4人の息子が4つのヴェーダを表すことが分かります。王国の首都アヨーディヤは、決して敵の侵入を
受けない場所の象徴です。ダシャラタ王は5つの行動器官(カルメンドリヤ)と5つの知覚器官(ジュナーネ
ンドリヤ)を象徴します。ラーマーヤナの秘める意義が正しく理解されたとき、この物語は理想的人生の手引
き書として、あらゆる人の役に立つことでしょう。
(サナタナ・サラティ
◇
◇
◇
1994年
1月号
13p)
◇
原始音オームカーラから様々な音が生じました。それらの音はたんにオームカーラの変形にすぎません。マ
ハリシたちがラーマのことを「*ラモー
ヴィグラハヴァン
ダルマハ(ラーマはダルマ=正義の化身)」と称
したのもこれと同じことです。オームカーラが3つの原始音A、U、Mからなりたつように、ダルマの体現者
ラーマにも、ラクシュマナ、バーラタ、シャトルグナという脇で支える3人の人物がいます。ラクシュマナ、
バーラタ、シャトルグナが一緒になってダルマの化身ラーマを支えるという類似があります。Aがラクシュマ
ナ、Uがバーラタ、Mがシャトルグナに相当します。この3つの結合がオームカーラであり、ラーマです。オ
ームカーラに他ならないラーマ、この地に正義=ダルマを確立するために出現したラーマに秘められた重要性
を理解しなさい。(*Ramo vigrahavan Dharmah)
(サマー・シャワー・イン・ブリンダヴァン
◇
◇
◇
1982年
120-121p)
◇
人間とは勇猛果敢な存在です。勇気はたじろぐことのない信仰を通じて得られるものであり、暗闇をつき破
り、夜明けというすばらしいニュースをもたらします。ラーマは幻想の海を渡りました。タモグナ(鈍性の資
質)の悪魔クンバカルナ、ラジョグナ(激性の資質)の悪魔ラーヴァナを滅ぼし、サトワグナ(善良な資質)
であるヴィビシャナを王位につけました。そのあとでラーマはたんなるブラフマジュナーナから、今やアヌバ
ーヴァジュナーナ(体験から得た英知)となったシータに出会い受け入れます。パッタビシェーカ(戴冠式)
はこのことを象徴しています。
(サティア・サイ・スピークス2
◇
◇
◇
◇
88
29p)
ラーマとは、知性の認識する力、ヴィヴェーカの体現者です。シータ、ラクシュマナはスジュナーナ、プラ
ジュナーナという高次の意識です。ラーマは邪悪な感情を葬り、善良な想いを促進させ、アヨーディヤの国王
になりました。アヨーディヤとは「難攻不落」「無敵」の意味であり、つまりラーマが王位についたハートに
は、どんなに破壊的でいやしい感情、想いも決して侵入できません。ティヤガラジャは歌いました。「*テリシ
ラーマ
チンタナ
チェヤヴェ
マナサ(おお心よ、ラーマが示したすべてのことを知りつくし瞑想したま
え)」(*Thelisi Rama chinthana cheyave manasa)
(サティア・サイ・スピークス15
◇
◇
◇
130p)
◇
ラーマーヤナの根底には重要な意味が流れています。ダシャラタ王は10の戦車に乗る者、つまり人間の代
表です。ラーマーヤナの中では3つのグナ(資質)、つまり3人の妻と結ばれています。またプルシャルタで
ある4人の息子、ダルマ(ラーマ)、アルタ(ラクシュマナ)、カーマ(バーラタ)、モクシャ(シャトルグ
ナ)がいます。つねに最後のモクシャをはっきりと眼前にすえ、この人の4つの存在目的を体系的に理解して
いかなければなりません。ラクシュマナはブッディ(知性)、シータは真理の象徴です。ハヌマーンは心であ
り、コントロールし従わせれば勇気の源になります。ハヌマーンの主人スグリーヴァは識別力です。これらの
助けを得て、ラーマは真理を求め成功しました。これがこの叙事詩があらゆる人に授ける教えです。
(サティア・サイ・スピークス13
◇
◇
◇
59p)
◇
あなた方はラーマ・ラジャについてとうとうと語ります。しかしラーマを熱心に見ならわずに、どうしてそ
れが樹立できますか?
ラーマはヴィグラハヴァン・ダルマ―――まさに美徳の化身―――でした。決してそ
こから外れることはありませんでした。ダシャラタ王とは10の器官、つまり5つのカルメンドリヤ(行動器
官)と5つのジュナーネンドリヤ(知覚器官)の支配者を意味します。つまり成就にいたったサダカです。そ
のような人物にこそダルマ(ラーマ)、アルタ(ラクシュマナ)、カーマ(バーラタ)、モクシャ(シャトル
グナ)という徳の高い子孫が授けられます。ダシャラタになり、神からの贈りものである崇高な子孫を得なさ
い。
(サティア・サイ・スピークス6
◇
◇
◇
100p)
◇
ラーマ、ラクシュマナ、バーラタ、シャトルグナとは誰でしょう。4つのヴェーダがこの4人の息子の姿を
とり、ダシャラタ王のもとを訪れ御業を行いました。ラーマがリグ・ヴェーダであり、いつもラーマの近くに
寄り添っていたラクシュマナがヤジュル・ヴェーダ、つねにラーマの名を唱えることで歓びを得ていたバーラ
タがサーマ・ヴェーダ、3人の兄弟の指示に従い完全に身をゆだねていたシャトルグナがアタルヴァ・ヴェー
ダです。4人の息子は4つのヴェーダの化身でした。
ラーマはプラナヴァ(A・U・M)そのものです。3人の兄弟がオームカーラのA、U、M、一文字一文字
です。ラクシュマナがA、バーラタがU、シャトルグナがM、そして主ラーマがプラナヴァです。
(サナタナ・サラティ
◇
◇
◇
1992年
8月号
186p)
◇
神にもとづいて生きた人々の理想、ラーマを深く想いなさい。ラーマは美徳の化身(ヴィグラハヴァン・ダ
ルマ)でした。主人、夫、息子、兄弟、友、またたとえ敵であろうと、人が生きるうえで養うべき美徳の至上
の模範です。ラーマの3人の兄弟は他の3つの理想の体現です。バーラタがサティア、シャトルグナがシャン
ティ、ラクシュマナがプレマの化身です。幸福な暮らしのため、今生を価値あるものとするため、理想を吸収
することを志し、ラーマーヤナを学びなさい。ありあまるほどの報酬に授かることでしょう。そうして正々堂々
と、自らを神の帰依者であると称することができます。
89
(サティア・サイ・スピークス6
◇
◇
◇
50p)
◇
機械的にラーマの御名を唱え、時間割を決めてラーマーヤナ物語を最後まで体系的に学んだり、ラーマ、シ
ータ、ラクシュマナ、ハヌマーンの肖像を毎日の決まりきった儀式として豪勢に礼拝する人々がたくさんいま
す。しかし一歩後ろに下がるため一歩前に踏みだすような人々は、何年たとうと少しも前進できません。想い
や意志、慈しみや奉仕への切望が純粋でなければ、これらの表面的なふるまいや行いは、あなたを献身的な人
物と賞賛する社会の人々に偽善を働くにすぎません。sight(視覚)をinsight(洞察力)にかえなさい。内側を
見つめ、純粋化、浄化のために用いなさい。
(サティア・サイ・スピークス13
◇
◇
◇
60-61p)
◇
世界の文学史上どの叙事詩をとってみても、ラーマーヤナの描きだした理想的兄弟愛に並ぶものはありませ
ん。ランカー島でのラクシャサ(悪魔)の大軍との戦いで、ラクシュマナが昏睡に陥り復活することができな
くなったとき、ラーマはこう嘆き悲しみました。「おお、ラクシュマナは私の命の源。全世界を探そうとこん
な弟はいないというのに」ラクシュマナの生き方、兄ラーマとのかかわり方は人々の模範として光り輝きます。
こういわれます。ラクシュマナがAUMのA、2番目の弟バーラタがU、3番目のシャトルグナがM、そして長
兄ラーマがAUMである。ラーマは、まず最初に原始音AUMとして発生したといわれるブラーフマン(普遍的絶
対者)の顕現です。ラーマとラクシュマナが、シータが消えてから森の中を歩きまわっていたとき、二人に出
会った聖者たちは二人のことを「太陽と月」と称しました。二人の輝きはそれほどまでに威厳に満ち堂々とし
ていました。勇気と決断力に燦然と輝いていたのです。強い肉体と不動の心が互いを補強しあったなら、人も
魅力的に輝くはずです。今日の若者には肉体の強さも心の安定もありません。一生のそれはそれは若いうちか
ら年老いて見えます。肉体が弱くなれば心も弱くなります。肉体的な健康と力強さを養いなさい。宝石は安全
で強固な箱の中にしまわなければなりません。あなたの真の姿である神性という宝も、頑丈な箱、いわば頑丈
な肉体に保管されねばなりません。
(サティア・サイ・スピークス13
◇
◇
◇
212p)
◇
神を直接的に知る道は神への完全なる帰依の道です。ラーマに帰依したラクシュマナが模範です。ラクシュ
マナはラーマに帰依した後には、自分には自分のものと呼べるものは何もなく、すべてに関してラーマの意思
を遂行することが、自分が存在する唯一の目的である、とラーマに告げています。
ティアガラジャ(聖者、音楽家、詩人)は、ふりかかった困難の数々をしりぞける能力について、ラーマに
たいし一時期疑いを抱きました。しかし後になって、ハヌマーンに海を跳びこえさせ、ラクシュマナの完全な
る帰依の根拠であったラーマの限りない力をたたえました。
(サナタナ・サラティ
◇
◇
◇
1995年
4月号
頁不明)
◇
ラクシュマナの心はまさに誕生の瞬間から純粋でした。成長するにつれ、五感の衝動をうち負かし、自らを
五感の支配者として確立しました。その人間性には非のうちどころがありません。ラーマの指示であればどん
なことでも喜んで熱心に受け入れ、全力をあげてそれをはたすことを愉しみました。ラクシュマナは生後2日
間、母スミトラー王妃の膝の上で大声で泣きつづけました。それをなだめようとスミトラーはまじないや儀式
などあらゆる手段を試してみましたが、ラクシュマナには何の慰めにもならず、食べようとも眠ろうともしま
せん。宮廷つきの訓戒者ヴァシシュタに相談すると、ラクシュマナをコーサリヤ王妃の宮殿にいるラーマの隣
に寝かせるよう助言を受けました。助言通ラーマと一緒にすると、ラクシュマナはぐっすりと眠り幸せそうな
顔を見せました。ラクシュマナにはラーマと離れているのが耐えられなかったのです。ラクシュマナの一番の
90
望みはラーマのそばにいることでした。影のようにぴったりよりそい、ラーマのいないところに姿をみせるこ
とは決してありませんでした。
追放され森へ出発するとき、ラーマが木の皮でつくった服を身につけると、ラクシュマナもそうしました。
14年間兄とその妻を護衛し、自分のことは眠ること食べることさえまったく気にかけず、昼も夜も二人を守
り抜くことに徹しました。トゥルシ・ダスはラクシュマナのこの献身的な働きにたいへんな敬意を表していま
す。追放期間を終えたラーマがアヨーディヤに戻るとき、ラーマの戦車にかかげられた旗を遠くから見つけ、
数ラーカ(1ラーク=10万)にものぼる市民が歓声をあげました。しかし市民たちは、ラーマの勝利を示す
その旗をかかげていたのが、献身的な弟ラクシュマナであることは知りませんでした。追放の苦難をラーマと
ともに背負った弟の献身的な働き、不屈の勇気、ゆらぐことのない忠誠心なくして、どうしてそこまで輝かし
く旗がはためくことなどできたでしょう。
ナーラーヤナがラーマという名のナラ(人間)として役を演じる間、ラクシュマナはきわめて重大な役割を
演じました。アヴァター(神の化身)の使命の実現のために命を捧げました。ラーマが定めた境界線を一歩た
りとも踏みこえることはありませんでした。シータが純潔を(象徴的に)世に示すため、儀式の火の上を歩く
よう助言されたとき、ラーマはラクシュマナにその火をおこすよう指示しました。ラクシュマナは血のにじむ
ような想いでそれに従いました。シータを森へ連れていき、ひとりっきりで護衛もつけずそこに残してくるよ
う言われたときも、心が苦しみにしめつけられてもラーマの言葉に従いました。
ラクシュマナは何をするにも、それがラーマの望むことか、人々のためになることか、この2つをもとに決
断を下しました。ラーマに仕えラーマの使命を進めるために、すべて―――妻ウルミラー、母スミトラー、ア
ヨーディヤでの王子としての暮らし―――を捨てました。戦いでラクシュマナがインドラジットを破ったとき、
ラーマは喜びのかぎりに抱きしめ叫びました。「おお、愛する弟よ、今日のこの日、なんと偉大なる勝利をお
さめたことか!
もうシータをこの手に取りもどした気分だ」
ラーマとラクシュマナの間には嫉妬や疑いの影さえありません。ラクシュマナはラーマにかかわりのないこ
とならば、自分の周囲で何が起ころうとまったく気にかけませんでした。ラクシュマナの偉大さははかりしれ
ません。14年間毎日シータに仕えながら、決して視線をシータの顔まで上げることがありませんでした。ラ
クシュマナのふるまいは正義のきわみです。
インドラジットとの戦いの最中ラクシュマナが気を失ったとき、インドラジットは昏睡しているラクシュマ
ナの体をランカーに運んで、人質にしようと考えました。しかしラクシュマナは宇宙の大蛇シェシャの化身で
あったため、すさまじく重く動かすことすらできませんでした。インドラジットはあきらめてその場を去りま
した。そのうちハヌマーンがそこにやってきました。ハヌマーンがラーマの御名を唱えると、ラクシュマナの
体は羽のように軽くなりました。意識を失っている間でさえ、ラーマナーマ(ラーマの御名)にこたえたので
す。これがラーマの偉大なる弟の謙虚さ、そして勇敢さというものです。
(サティア・サイ・スピークス13
◇
◇
◇
213-217p)
◇
ラーマーヤナには家族のひとりひとりが見ならうべき友好的な関係、調和というものが示されています。理
想的な兄弟愛、崇高な友情、愛や思いやりのすばらしさをたたえています。ラーマは市民の幸福を最優先し、
人々の好き嫌いを的確に配慮したうえで国を統治しました。統治者ラーマに匹敵する人はいません。ラーマは
まさにたくましさ、美徳、愛の源です。ですから学生たちにはラーマを理想として見ならい、その理想を実践
することで幸せを得ることが不可欠です。
ラーマーヤナの第一編はバラカンダ(シュリー・ラーマの少年時代)と題されます。賢者ヴィシュワミトラ
がダシャラタ王を訪ね、ヤジナ(儀式)を安全に行うため、王の二人の息子ラーマとラクシュマナの助けを求
めました。まだ年若くか弱い頃だと思いダシャラタ王がためらうと、ヴィシュワミトラはこう意見を述べまし
た。「おお、ダシャラタ王よ、父としての愛情にゆさぶられ、二人をたんなる人間、血と肉だと思い違いをさ
れています。事実彼らは神の生まれ変わり、悲しむ必要などありません。二人は神の化身です。どうぞためら
うことなく二人を私にあずけてください」
聖者と歩く道すがら、ラーマはそれぞれ気質の違う3人の女性と出会います。最初に出会ったのはタマスの
気質をもつタタキでした。タマスの資質は人に真理と虚偽とを誤らせます。識別の能力を奪いとってしまうの
です。ヴィシュワミトラの行うヤジナを守りつつ、ラーマはタタキを倒しました。ヤジナが妨げられることの
ないよう兄弟二人で働きました。ヤジナが無事に完了すると、ヴィシュワミトラはラーマとラクシュマナをと
91
もないミティラにむかいます。聖者ゴータマの庵に来たときのことです。ラーマは石の姿に変えられていたア
ハリヤの呪いを解きました。アハリヤはラジャスの気質の女性といえましょう。ラーマは道徳的な教えを授け
た後、ふたたびミティラにむかって進みました。
ラーマがシータに出会ったのはミティラでのことです。シータはサトワの気質を象徴します。タマスのタタ
キを倒し、ラジャスのアハリヤを救い、サトワの資質のシータを受け入れました。ラーマとシータの結婚は、
プラクリティとパラマートマの結合を象徴的に示します。ミティラの国民たちはラーマとシータが結婚すると
聞いて大いに喜びました(スワミはその甘美な声で、ラーマとシータの結婚をたたえるバラードを歌いあげま
した)。
インドの結婚に儀式のひとつに「タラムブラル」があります。花嫁が花婿の頭に米をふりかけるというもの
です。シータの父親はたいそうな富豪であったため、米のかわりに真珠をふりかけるようアレンジしました。
シータは一握りの真珠をラーマの頭にふりかけます。シータの手の中の白い真珠は、シータの手のひらの赤み
をおびて輝きました。ラーマの頭に巻かれた儀式用のターバンにふりかけられると、真珠はターバンの白みを
おびて輝きました。浅黒く青いラーマの体を流れ落ちる瞬間には、その青みを映しだしました。赤みをおびた
真珠とはラジョ・グナの象徴であり、プラクリティとともにいるとき人はラジャスであることを教えています。
白く輝く真珠はサトワ・グナの象徴であり、神とともにいるときはサトワの資質を得ることを示しています。
プラクリティにも神にもなじまぬ人の資質は、ラーマの頭からすべり落ちた真珠の色のようにタマスになりま
す。神へとむかう人はサトワの落ち着き、純粋さに輝きます。俗世的な状態にいる人はラジャスの資質を示し、
世俗的でも神性でもない人はタマスの資質になります。
シュリー・ラーマが王者であれば、王の友もまた王です。森の王ジャムヴァバンはラーマのサトワの友でし
た。純粋な愛からラーマの友になりました。猿王スグリーヴァは助けを得るためラーマを求めたラジャスの友
でした。自分の問題や困難から助け出してほしいと望んでラーマを求めました。王国と妻とをラーマの手で回
復してほしいと願ったのです。3人目の友はラーヴァナの弟ヴィビシャナです。ラクシャサ一族に属すること
からタマスの資質を表します。
またラーマには3つのグナを表す3人の敵がいます。最初の敵はサトワの資質のサヴァリです。なぜサトワ
かというと、サヴァリは最後には自分の犯した過ちを認め、ラーマの与えた罰を受け入れたからです。ラーマ
に憎しみを抱いたラーヴァナがラジャスの敵です。ラジャスは決して過ちを認めないからです。3番目の敵ク
ンバカルナはタマスの敵です。タマスになると人は善いものを悪いものと、悪いものを善いものととり違えま
す。ラーマはこの3人の敵を滅ぼしました。
ラーマは落ちぶれたパティタ・パーヴァナ(嘆き苦しむ者)の救い主でもありました。ラーマーヤナの中で
は3人の人物を助け救いを与えています。サバリ、グハ、ジャタユです。サバリは誰も身よりのない無力で不
運な老女です。訓戒者からラーマのことを聞いていました。救い主と信じるラーマチャンドラが来る日を心待
ちにしており、いつでもどこでもラーマの御名を臆念していました。ある日聖者マタンガが来て言いました。
「サバリよ、神ナーラーヤナがラーマの姿をかりてすでにこの世に降りたった。まもなくここに来ることだろ
う。しかし私はそのときまで生きてはいまい。ラーマにまみえたら献身の心で敬いなさい」その日からサバリ
はラーマの来る日のための準備をはじめました。おそらく何か食べ物を望むだろうと、あらゆる種類の果物を
集め、それが甘いかどうか確かめるためにまず自分で食べて、甘い果物だけをラーマのためにより分けました。
サバリはこのようにしてサトワの帰依者になりました。ラーマはサバリの心の奥底の祈りにこたえ、最後には
サバリはラーマに溶けこんでいきました。
(サナタナ・サラティ
◇
◇
◇
1992年
8月号
184-186p)
◇
人々は解脱者のヴィジョン、サクシャトカーラ(神のヴィジョン)についてあれこれ話しをします。見る者
と見られる者とが溶けあい、ひとつになり、唯一無二の存在として体験されねばなりません。これが価値ある
サクシャトカーラです。成果を手にすることもあるでしょう。その手にタパス(苦行)の結実を握ることもあ
るでしょう。しかしそれを食べ、消化し、自分の一部にし、そこから力をひきださなければ、救済は得られま
せん。真のあなたである神に溶けこみなさい。それが成就というものです。
このゴールに到達するにはかなたの先まで前進しなければなりません。まずは現在あなたにあるものを調べ
なさい。欠点を探し出しなさい。たとえばエゴや貪欲、不誠実、移り気、怠惰などで汚れていませんか?
そ
れらの欠点があっては外面的にも内面的にも集中して神を想うことは困難です。プレマ(愛)というプラスの
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資質を養うことも大切です。愛の神は愛によってしか理解することができないからです。それがラーマーヤナ
を心から学ぼうとする人々に物語が授けるメッセージです。そして私が今日ここで、あなた方に伝えようとし
ているメッセージです。
(サティア・サイ・スピークス13
60-61p)
7.ハヌマーン―――奉仕と献身の模範
ダーシャ・バクティは主人に仕える召使いのような献身の形に焦点を当てるものです。ハヌマーンはこのタ
イプの献身を体現する伝統的帰依者の模範です。ハヌマーンはつねにラーマに仕えました。猿の姿をしていて
も、4つのヴェーダの64もの部門にわたる教義をすでにものにしており、6つのシャストラを暗唱すること
ができました。肉体的、精神的、そして霊的にもあなどることのできない英雄です。それでもなおラーマに仕
え、想い、言葉、行いにはエゴのかけらもありませんでした。この3つの浄化をなしとげていました。
しかしハヌマーンのダーシャ・バクティに欠点がなかったというわけではありません。その献身は完全にラ
ーマという神だけにむけられていました。クリシュナやその他の御名の中に愛情を感じることはありませんで
した。ヴェーダでは神は千の御名、千の御姿をもつといわれます。ハヌマーンの忠誠はひとつの御名、ひとつ
の御姿にかぎられていました。ダーシャ・バクティは普遍的絶対者の部分的な理解を導くものといえるでしょ
う。
(サティア・サイ・スピークス15
◇
◇
◇
230-231p)
◇
ハヌマーンは召使いでした。理想的な召使いの模範です。ラーマはハヌマーンを抱きしめこう言いました。
「友ハヌマーンよ!
その肉体は他の種族に属するものです。君は猿、私は人間、しかしお互いの内にある愛
の原理はひとつ、まったく同じものです」カーストや信仰が違っても愛の原理はひとつです。人種を問わず、
国家を問わず、愛はあらゆる人を活気づけます。今やこの愛の原理を世界中にうちたてなければなりません。
神はハートに宿ります。ハートは愛に満ちています。その愛を人々と分かちあいなさい。それがなされたとき
には、古いことわざにあるように、喜び悲しみ、成功や失敗にもゆれ動かぬ静かな心を手にすることができる
でしょう。
(サナタナ・サラティ
◇
◇
◇
1994年
143p)
◇
ハヌマーンは猿の姿で描かれます。猿はもともとむら気で浮かれ騒ぐ性質です。そのため「猿のような」と
いう言葉が気まぐれを意味するようになりました。しかしハヌマーンには気まぐれなところはまったくありま
せん。神の化身であり、ギータに記される神の資質をそなえ崇高です。ハヌマーンはラーマの御名を唱えるこ
とに至福を感じました。肉体、五感の衝動を完全に克服していました。アートマの光に照らされ輝いていまし
た。サティア(真理)とダルマ(正義)にもとづいた生き方を確立し、その模範としての影響力は仲間たちを
もその道に導きました。
(サティア・サイ・スピークス13
◇
◇
◇
184p)
◇
ハヌマーンはラーマの使者でした。使者には3つのタイプがあります。主人の指令を理解していないか、理
解しようとも思わず与えられた仕事をだめにするようなタイプ、文字通り伝えられた指令取りのことだけを行
うタイプ、指令の目的や重要性を把握し、それが達成されるまでひるまず遂行するタイプ。ハヌマーンは最後
のタイプに属します。どんな障害があろうと断固として力をつくし、与えられた任務の結果に満足できてはじ
めてそれを報告しに戻りました。ハヌマーンには、ラーマの指揮を吟味し、それがどういうことを意味するか
を理解することができたのです。
ハヌマーンは指令を受けるとすぐさま内側から力がこみあがるのを感じました。その指令を受けたことで、
93
必要な力強さや知性、勇気や冒険心までラーマその人から授かったという新たな自信を感じたのです。ですか
ら自分の能力、才能に不安を覚えることはありませんでした。肉体も精神も、ラーマから何かをたのまれたと
いう事実によって活気づけられました。電線は合成樹脂の中に銅線が入っていて、うまく機能するためにはそ
の両方ともが高品質でなければなりません。肉体とその内側の精神も、ともに良い状態でなければなりません。
ラーマの言葉はそのどちらをも有能にし活発にしました。ラーマのダルシャン(まみえること)はハヌマーン
に莫大な力を授けました。肉体的な力さえ与えたのです。
(サティア・サイ・スピークス
◇
◇
◇
13
182p)
◇
今日、世界には神の御名を唱える何百万という人々がいます。しかし御名を唱えていても、その偉大さ、栄
光というものを理解してはいません。
ハヌマーンがランカー島に侵入したとき、はじめに出会った友好的な人物がヴィビシャナでした。それまで
猿を見たことのなかったランカー島のラクシャサたちは、興味津々、あれこれ詮索しはじめました。「おまえ
は何者だ。どこから、誰の命令できたのか。どうやってランカーに入ってきたのか」ラクシャサたちをなぎ倒
せる力がありながら、ハヌマーンは落ち着きはらって答えました。「コーサラ国の国王、シュリー・ラーマの
使いの者だ」どんな状況におかれようと、落ちついて動じずにいることの大切さを教えています。
どうしたらこの落ち着きが得られるのでしょう。ハートが純粋であれば平安が得られます。ハートに純粋さ
がなければ平安にはいたれません。平安であるかのように見えてもうわべだけです。ハートの純粋さと心の平
安が得られれば、人は何でもなしとげられます。3つのPがあります。最初のPがpurity(純粋さ)、2つめの
Pがpatience(忍耐)、3つめのPがpreservance(不屈の精神)です。この3つのPがあればシュリー・ラーマの
恩寵に授かることができるでしょう。ハヌマーンがそれをぞんぶんに示しています。
ハヌマーンが誰かを知り、ヴィビシャナは苦しみにあえいで言いました。「ハヌマーン、何という幸運、何
という功績、ラーマチャンドラとともにいられるとは。私はそんな幸運に授かったことがない。何年もの間ラ
ーマの御名を唱えつづけてきたが、これまでラーマのダルシャンにもあずかれたことがない。神とともにいる
ということは楽なことばかりではなかろうが、それでもラーマの指揮を遂行するという特別な名誉に恵まれた。
一体どうしたらそんな恩寵を得ることができるのか教えてくれないか」ハヌマーンは答えました。「ヴィビシ
ャナ、たんにラーマの御名を唱えるだけでは不十分だ。ラーマの言葉を実行し、ラーマのために働くことだ。
そうしてはじめて自らの内にラーマの力を感じることができるだろう」それを聞いたその瞬間から、ヴィビシ
ャナはラーマのために働くことを決意しました。
カリユガの時代、ラーマの御名を唱える人はたくさんいます。しかし御名を唱える(ナーマ・ジャパ)だけ
で十分ではありません。唱える御名が何であろうと、その御名で呼ばれる神の仕事に従事しなさい。「ラーマ・
カリヤ(ラーマの召使い)」という言葉は何を示唆していますか?
ラーマとは全宇宙に遍在します。どこで
あろうとラーマは存在しています。ですから社会的活動に参加しなさい。仲間のために働くこと、貧しい人々
に手を貸すこと、神聖な行いを神に捧げること、そうしてラーマの恩寵を手にする資格が与えられます。
ハヌマーンは神聖な経典などの高度な知識をそなえていましたが、決して善か悪かの判断を下したことはあ
りませんでした。なぜでしょう。ラーマの言ったことはみな真理の福音(ヴェド・ヴァキヤ)だと考えていた
からです。神の言葉に疑問の余地はありません。ハヌマーンは自分には神の言葉に判断を下せるような資格は
ないと感じていました。「私の責務はラーマがなんと言おうとそれを実行することだ(*カルティヤヴィヤム
ヨーガム
ウチャテ)」(*Karthyavyam Yogam Uchyathe)
(サナタナ・サラティ
◇
◇
◇
1995年
12月号
326p)
◇
神の御名は高価で大切な宝石のような、貴重な宝です。トゥルシ・ダスは神の御名(ラーマの御名)をグル
から授けられたはかりしれない贈りものとたたえて歌いました。神の御名はハートにしっかり刻まれるよう、
強い想いで唱えなさい。ハヌマーンは真の献身を示す至高の模範です。ランカーから戻りアヨーディヤで戴冠
したとき、ラーマはラーヴァナとの戦いに協力した人物ひとりひとりに贈りものを授けました。ハヌマーンの
番になったとき、ラーマにはその無類の献身に見合った贈りものを見つけることができませんでした。ラーマ
はハヌマーンのこの上ない働きをたたえ、その献身にむくいるには自らを差し出す以外にないと語り、ハヌマ
94
ーンを愛情深く抱きしめました。それを見ていたシータは、ハヌマーンの偉大な尽力に何も与えずにすますこ
とはできないと感じ、結婚するとき父ジャーナカ王から贈られた真珠のネックレスを首からはずし、ハヌマー
ンに授けました。それを受けとると、ハヌマーンはすぐに歯でかみ切り、真珠を一粒一粒はずしては耳に近づ
け投げすてました。この奇妙なふるまいに驚かされ、シータはそのわけを尋ねました。するとハヌマーンはラ
ーマの御名を唱えないものなどもっていても仕方がないと答えました。シータは、真珠のような生きものでも
ないものからラーマの御名が聞こえることなどあるのですか、と尋ねました。ハヌマーンは腕から一本毛を抜
きとってシータの耳に近づけました。その毛は「ラームラームラーム」とラーマの御名を唱えていたのです!
真の献身とは血の流れさえもが神に御名を唱えることです。そのような帰依者であったからこそ、ハヌマー
ンはラーマの最高の召使いになれたのです。ハヌマーンにはエゴ、おごり、嫉妬がまったくありませんでした。
ランカーでもその腕力を鼻にかけることなく、自分はラーマの召使いにすぎないと喜んで宣言しました。この
謙虚さは真の帰依者のしるしです。
「どこにお住まいですか?」と聞かれたら、「アートマ(内なる魂)に住んでいます」というのが正しい答
えです。これがあらゆる経典、叙事詩の数々から学びとるべき真理です。人類すべてに宿る魂がひとつである
ことを知りなさい。全宗教がどれもひとしく教えることです。
(サナタナ・サラティ
◇
◇
◇
1995年
1月号
15p)
◇
ハヌマーンはシータがどこにいるのか探しだすよう命じられ、何も疑うことなくそれに従いなしとげました。
旅の危険にあれこれ思いをめぐらせてためらったりはしませんでした。重大な旅を命じられたことでおごり高
ぶったり、その感激に自分を見失うこともありませんでした。聞き、理解し、従い、なしとげた、それだけで
す。それによって得たラーマ・ドゥータ(ラーマの使い、召使い)という呼び名はハヌマーンを永遠不滅のも
のとしました。あなたもサイ・ラーマ・ドゥータの名をものにしなさい。不屈の精神、自己コントロールを養
い、思いやりある優しい言葉で話しなさい。行いのひとつひとつを私が気に入るかどうかを基準に調べあげな
さい。「スワミはこれに賛成だろうか」そう問いかけなさい。それが最初に行われるべきタパス(苦行)です。
一生続くタパスであり、ダサラ祭の10日間だけのものではありません。
(サティア・サイ・スピークス8
◇
◇
◇
185p)
◇
ハヌマーンは想い、言葉、行いの調和をなしとげました。だからこそ肉体的強さ、精神的安定、徳高い資
質において独自のきわだつすばらしさをそなえていたのです。ラーマーヤナの登場人物の中でもとりわけ高価
な宝石のように光り輝いています。ハヌマーンはありとあらゆるものごと、9つの学問をものにした優れた学
識者でもありました。4つのヴェーダ(ヒンドゥー教の神聖な経典)、6つのシャストラ(霊性の科学)を知
っていました。ギータでは学識者とは「万物を動かす同一の神性エネルギーを知る者」―――*パンディタ・サ
マダルシナであるといっています。(*Panditha Samadarsina)
ハヌマーンはこの点においても模範的です。それだけのことを知っていながらそれを鼻にかけませんでした。
真の誠実さ真の英知から生まれる謙虚さというものの、まさに体現です。ラーマ原理、アートマラーマが生き
とし生けるものを照らしだしていることを知っており、他の何よりそれをたたえました。
(サティア・サイ・スピークス13
◇
ハヌマーンはこうもいわれます。「*ロマ
◇
◇
ロマム
18p)
◇
ラーマ
ナマメ」―――一本一本の毛すべてが「ラーマ・
ナーマ」を唱えていた。ハヌマーンの尾は恐るべき棍棒です。御名の力にみなぎっていたのですから。また「ス
ンダラ=魅惑的、美しき者」とも形容されます。なぜでしょう。ハートにラーマがいたからです。ラーマの栄
華で顔が照らされ見る者の目をうばいました。ラーマのことだけを話し、ラーマの賛歌だけを歌う魅力的な友
でした。(*roma romamu Rama Namame)
(サティア・サイ・スピークス5
95
250p)
◇
◇
◇
◇
セヴァとは得意満面でするものでも、しぶしぶ行うものでもありません。中庸を守りなさい。ハヌマーンは、
ラーマが南域を進むよう頼むと同時にその旅路が危険であることを示しても、気力をそがれることはありませ
んでした。ラーマのしていたリングをシータに渡すようたのまれたときも、このうえない任務に選ばれ、栄え
ある機会を授けられたことに舞いあがることもありませんでした。ただ従いました。主人に「行ってくれない
か」そう言われただけで十分でした。有能、謙虚、もの静か、奉仕的、知的、熱心、献身的、ハヌマーンは理
想の奉仕者です。
バクティ(献身)とシュラッダ(忠誠的行い)を養いなさい。沈黙と優しさを実践しなさい。サイスワルー
パ(サイの体現者)としてすべてに仕えなさい。それがあなたの内なるサイを実現する最善の方法です。
(サティア・サイ・スピークス7
◇
◇
◇
75p)
◇
ハヌマーンをセヴァの模範としなさい。どんな障害があろうとも、正義の王子ラーマに仕えました。腕力に
たけ学識高く人徳がありながら、みじんのおごりもありませんでした。勇敢にもランカー島に潜入したとき、
ラクシャサ(魔物)たちに何者かと尋ねられ、ハヌマーンは謙虚に「ラーマの召使い」であると答えました。
エゴを根こそぎにするという、セヴァでなしとげられねばならないことを実によく示しています。エゴが勝手
気ままであるうちは人に仕えることなどできません。助け合いと無私の奉仕の姿が「ハヌマーンらしさ」を養
い、内に潜む神性を抱く助けとなります。
神は人々が続くべき模範を示します。何にたいしてなされた奉仕も神に捧げられたものであり、神は大いに
喜んで受けとる、そう教えています。牛や動物への奉仕も、人への奉仕も、称賛にあたいするサーダナです。
(サティア・サイ・スピークス15
◇
◇
◇
164-165p)
◇
ハヌマーンはラーマの献身に没頭し、ラーマの御名を唱えることでつねに忘我の中にいました。ラーマにた
いしてはつねに謙虚でした。ラーヴァナを前にしてもまったく恐れませんでした。神の前では仕える者、ラク
シャサの前では英雄でした。状況に応じたふるまいを分かっていたといえましょう。このうえなく聡明でした。
人々の理想としてきわだちます。
今日人々は自らを奮いたたせる理想もなしに、無意味で無気力な一生を送っています。とらえがたく、木を
支える根のように目には見えないものである神を体験することこそ、人生の目的です。今日人は根のことなど
考えず、果実ばかりをほしがります。太古の聖者たちは結実を得るためにはその根源を追い求めました。かつ
てバラティヤの文化は、何が土台であるかに第一の関心をよせていました。今では土台である真理を忘れ、う
つろなものを追うばかりです。世俗的な生活からのがれることはできません。しかし最終的なゴールを視野に
入れて暮らすべきです。人の行いと神の意思とがともに歩んでいかねばなりません。神を忘れることはけもの
にまで身を落とすことです。神を忘れてしまえばヒーローもゼロになります。
人々は。世界のいたるところであらゆる恐れにとりつかれています。神のみが授けうる恐怖からの解放を手
にしていないからです。神の恩寵のみが人を恐れから解放します。堅い信仰を培い、神の恩寵を手にしなさい。
どの御姿を崇拝しても、どの御名を唱えてもかまいません。ただただ神への堅い信仰を抱きなさい。ラーマ、
クリシュナ、アラー、ジーザス、ブッダ―――どの名で呼んでもかまいません。どの御名もみな同じものであ
り、唯一なる神が異なる名前で崇拝されているにすぎません。
(サナタナ・サラティ
◇
◇
◇
1995年
12月号
328p)
◇
ハヌマーンのなしとげたすばらしい功績の数々、崇高な協力の数々に対し、ラーマはこう尋ねました。「ハ
ヌマーンよ、君にどんなお礼ができるだろうか。感謝の意を表することは別にして、返礼するにふさわしい品
を何も贈ることができない。私のこの感謝の気持ちを示しうるものとして、人生いかなるときであろうと、私
のことを想ったときには必ず君の目の前に姿を顕そう」ラーマはこのように感謝を示しました。
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自分によくしてくれた人には一生を通じて感謝することが、人としてのもっとも大切な努めであるというこ
とがここに示されています。
人は自らの神性を知り、あらゆるものごとを神の視点で見るべきです。しかしそうするかわりに俗世的な目
でものごとを見ています。事実肉体は滅びます。しかし滅びることのない真理を理解する道具でもあるのです。
神のことだけを話し、神のようにふるまい、神のことだけを想うということです。
(サナタナ・サラティ
1995年
5月号
114p)
8.ハヌマーン―――バクティ(献身)の象徴
アンジャネヤ(ハヌマーン)は御名の威力を示しました。御名をハートに刻み、舌にのせ、海を跳びこえま
した。進むのをやめさせようとする誘惑と、戻るよう訴える恐怖心におそわれましたが、ラーマの御名が前進
するよう、シータのいるランカー島まで空をこえていくようせきたてました。ハヌマーンの心には主人の御名
だけがぎっしりつまっていました。
(サティア・サイ・スピークス5
◇
◇
◇
247p)
◇
バクティ(献身)とは、甘く、心をなだめ、すがすがしく、活力を与えます。忍耐と心の強さを授けます。
バクタ(帰依者)とは、他の誰かがインタビューの機会を得たり何かを与えられたからといって、心をかき乱
されたりしないものです。謙虚に時がくるのを待てる人です。ものごとをよく分かっており、正しく公平な高
次の力というものの存在を知っているからです。それを知り、問題や心配事を神に伝えることができます。誰
かれかまわずいいふらして自分に恥をかかかせるようなことはしません。自分と同様無力な誰かが、どうして
人のことを救うことなどできましょう。神への絶対的な信仰心を抱く人だけが、他の何ものでもない神と通じ
あうことができ、アムリタ(不死の甘露)を授かることができるのです。
(サティア・サイ・スピークス5
◇
◇
◇
224p)
◇
バクティ=神への献身は数珠やろうそく、額の模様、髪型、足首のかざりによって判断されたりはかられた
りするものではありません。バクティ(献身)の一部であるプレマ(愛)をハートからもらさぬためには、目
標と意志の純粋さ、それが不可欠です。
(サティア・サイ・スピークス9
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132p)
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霊性の道すじに近道はありません。事実、バクティ(献身)はジュナーナ(英知)よりはるかに難しいもの
です。なぜなら「私」ではなく「あなた(神)」という意識でいるには、神として化身した高次の力に自分の
すべてをゆだねなければならないからです。エゴを完全に制御し、「草の葉一枚でさえ、それを掌握し働きか
ける神という存在がなければ、風に吹かれてゆれることもない」、そう思う信仰心を心に刻まねばなりません。
バクティは手があいた時間だけすればいいものではありません。五感の欲望を消しさりなさい。ハートについ
た汚れをきれいに落としなさい。そのとき鏡の中に映るように、神の姿がハートに映しだされます。
(サティア・サイ・スピークス5
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92p)
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バクティとは、自分と神とは決して別々の存在ではないと思う心の状態のことです。バクタの呼吸が神その
もの、行いのすべてが神であり神のため、想いのすべてがまさに神、口から出るのは神の言葉、神を語る言葉
です。魚が水の中でしか生きられないように、人は神の中でしか―――平安と幸福の中でしか―――生きられ
ません。
97
(サティア・サイ・スピークス
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出典箇所不明)
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あなた方はセヴァ(奉仕)に従事するセヴァク(奉仕者)と呼ばれます。セヴァとは何でしょう。バクティ
(献身)の結果としてそれを外に示す方法ですか?
ものですか?
それともバクティに形を与え養う手段のきっかけになる
どちらも違います。セヴァとはバクティに動機を与えるものでも結果を与えるものでもありあ
せん。まさにバクティの真髄そのもの、バクタ(帰依者)の吐息、バクタの本質そのものです。生きとし生け
るのものが神の子どもであり、誰の肉体にも神の宿る祭壇があり、あらゆる場所が神の住みかである―――セ
ヴァとはバクタのこの実感からわきあがるものです。
セヴァを最高のサーダナ(霊性修行)であると思いなさい。救済を得る大きなチャンスです。おおぜいの人
の中で働くことは、何日ジャパや瞑想をするよりも、はるかにあなたの霊的成長のためになります。
(サティア・サイ・スピークス7
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69p)
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神への献身は、創立したり協賛した施設の数や、建設したり修復した寺院の数、寄付したお金の額によるの
でも、何度神の御名を書いたのか、何時間どれくらい神を礼拝したかによってはかられるものでもありません。
献身とは神聖なる愛のこと、そこから生じる利益や結実、結果を求める気持ちに乱されることのないものです。
その愛に特別な理由などありません。大いなる魂にたいして個々の魂の抱く本質的な愛です。海へ流れる川の
ように、木にからみつくツタのように、夜空に輝く星のように、崖から流れ落ちる滝のように。献身とは料理
に風味をそえる塩やこしょではありません。まさにパンとバターという食物そのものです。舌を刺激しもう少
しだけ食をすすめるピクルスのようなものでもありません。献身とは、変わることのない心の傾向、自然な欲
求であり、喜び悲しみにも耐えうるものです。なぜなら神の至福は神のセルフを知ることによりもたらされ、
帰依者はまさにそれを観照するものだからです。
(サティア・サイ・スピークス4
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67-68p)
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神への献身を通じてのみ、神のセルフを知ることができます。バクティはハートを浄め、感情を高め、普遍
的な視野をもたらします。また神の恩寵をひきおろします。というのは、雲は畑の上にきて雨を降らせなけれ
ばなりません。植物には命を与える水を飲みに空に出かけていけないからです。母親が子どもを抱くにはゆり
かごに身をかがめなければならないからです。ある日賢者ナーラダは、この世で一番偉大なものは何かと尋ね
られました。ナーラダは地面が一番大きいと答えました。しかし水は地上の4分の3をしめており、少しずつ
その割合は大きくなりつつあるではないかと言われました。そこでナーラダは水のほうが偉大であると認めな
ければなりませんでした。しかしこの世の水が聖者アガスティヤによって飲み干され、海は干上がってしまっ
た、さらにそのアガスティヤは今空の星となっている、それなら空がもっとも偉大なのでは?
いや違う、ヴ
ァーマナ・アヴァター(ヴァーマナというヴィシュヌの化身のひとつ)は空を一歩で踏みこえたのだから。そ
れなら神?
いやいや、神は帰依者のハートの中に入りこみ閉じこめられた。そうしてナーラダは、創造物の
中でもっとも壮大なものとは帰依者のハートである、という結論にいたりました。
だからこそ私は弱さを示すこと、弱いと想うこと自体が罪、許しがたい罪だというのです。永遠性という財
産、アムリターシャ・プトラという称号を授かり、それにあたいする人間というものへの侮辱です。弱さ、迷
い、絶望、それらはみな、あなたに永遠不滅の子どもという名誉を与えた神に、不名誉を与えています。あな
たはバーラ・スワルーパ(強さの化身)です。誰かに聞かれたら自分がそれだと断言しなさい。逆をいっては
いけません。屈服し、へつらい、自己の尊厳を売りに出してはいけません。自分が小さな肉の塊だと思いこん
でいてはいけません。うち砕くことのできない永遠不滅のアートマ、それがあなたです。絶対的実在、ブラー
フマンと同じ資質をそなえたアートマ、それがあなたです。
(サティア・サイ・スピークス4
98
69-70p)
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バクティはヨガでもあり、ヨガとは心(マインド)を消失させていくこと、または心(マインド)を神を知
るための道具へとつくりかえていくプロセスのことです。しかしバクティは決まりきった一連の儀式にまで薄
められてしまっています。数珠をくり、一定の時間肖像の前に座り、お香をあげ、炎をともし、鐘を鳴らし、
聖なる川に身を浸し、寺院への山道を登る。これらの行いは、それがふさわしいものであろうとなかろうと、
数ある衝動のうちのあるものを鎮め、あるものを刺激します。
バクティとは儀式に応じて脱ぎ着する礼服ではありません。付近の警官たちは、職務中制服を着てリボンと
メダルをつけますが、仕事を終えて家に帰ればそれらをはずし着替えます。献身は所定の時間の間だけあなた
のもとにとどまり、またもとの状態に戻るときには離れていくものではありません。とだえることのない心の
状態、確固とした心構え、熱意とともに選択され守り通される道すじです。
今日人々は朝の数時間はヨガ(献身的行い)に首をつっこみ、昼間の間はボガ(お祭りさわぎとぜいたくで
五感に娯楽を供給する)に夢中になり、夜間はロガ(病)に寝返りをうっています!
バクティとは心がつね
にむかおうとする傾向、想いの習慣、生き方の指針です。中傷、苦悩、絶望、喪失や喜び、繁栄、権力、富―
――どんなときであろうと誠実に守り通さねばなりません。
真の帰依者とは俗世的な功績が移ろいゆくものであることをよく分かっています。死が最期の審判であり、
神のみがその執行人であることを知っているがゆえ、運不運にかかわらず安定し穏やかなのです。何が起ころ
うと、落ちこみも舞いあがりもしません。自分の崇拝する神が下草の一枚にも、はるかかなたの星にも宿って
いることを知っています。どの国の言葉で祈ろうと、口のきけない人の沈黙の祈りであろうと、神は耳を傾け
ています。神には怒りも不安もありません。あなたにも怒りや心配を増やす理由はありません。
(サティア・サイ・スピークス8
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126-127p)
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献身と奉仕は違います。奉仕にはエゴがあります。「私が奉仕し、神が主であり、神が私の奉仕を受けとる、
私は神にとって必要なのだ」
しかし献身のときには「私」が取りのぞかれます。成果を欲する気持ちはありません。行い自体が歓びだか
らです。
献身を養うには神のことを想いなさい。神の御名を唱えなさい。神への信仰を高めなさい。
(サティア・サイ・スピークス15
27p)
まとめ
サティア・サイ・ババの言葉の数々から、ラーマの姿がはっきり顕されていようといまいと、ラ
ーマにかかわりあった人々が、人には欠かすことのできない側面を示していることが分かります。
ラーマとは人々の核心であり、正しく道徳的な想い、言葉、行いを具現する人々の魂です。シータ
は人の肉体、心、知性、つまりプラクリティ=自然の象徴です。個人の意識は、世俗に夢中になる
こともできれば、生きるうえでアートマに気づき、英知を通じてアートマにむけることもできます。
ハヌマーンは人の心の勇敢さ、献身、純粋さ、帰依心というもの、またラーマという至高の意識と
つねに一体である意識を示します。アヨーディヤは侵入しえない人のハートのことであり、アート
マの光に満ち、世界にその光と愛を輝かせることができます。
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