も くじ 序章

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プージャ・カパヒ
編纂
『ヒンドゥー教の神と女神
人の神性のすべて』
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compiled by Pooja Kapahi
"HINDU GODS AND GODDESSES:
Man Comprises All Deities"
目次
序章
偶像崇拝―――無形の神を知る前提条件
第1章
命のゴール
イントロダクション
1.アートマ意識―――なぜ、どのように達するのか
2.肉体としてのアートマの顕現
3.霊性の英知と解放への道 ――― 礼拝・献身・自己探求・瞑想・臆念
4.完全なる帰依 ――― 霊的解脱、命のゴールに達するために
第2章
ガネーシャ
イントロダクション
1.ヴィナーヤカとガナパティ―――ガネーシャ神の2つの側面
2.ビグネーシュワラ―――障害を取りのぞき富を支える者
3.ガネーシャ、ヴィナーヤカ、ガナパティ
―――ブッディ(知性)と無執着をはぐくむ者
4.ガネーシャの姿、持ちもの意味
一本の牙の者(エーカ・ダンタ)
ネズミのムーシカ―――ガネーシャ神の乗りもの
象頭神ガネーシャ
ヤシの葉の書物と数珠
ガネーシャ神の大きなお腹
灰色の体(シャシヴァルナム)、白い衣(シュクラムバラダラム)、慈悲深い顔立ち(プラサナヴァンダナム)
捧げ物(モダカ)
ランボーダラ
5.ガネーシャ神
―――心の霊性修養(サーダナ)を通じ覚醒にいたる道で障害を取りのぞく者
A. 五感と心のコントロールと浄化
B. 覚醒への障害を取りのぞく霊性修行
C. 技術、能力、意志、勇気、信念、不屈の精神、英知
D. 己を知ること
E. 純粋な行い(カルマ)―――覚醒のための心の純化
6.神として、師(グル)として―――障害を取りのぞくガネーシャの恩寵
7.ガヤトリー・マントラ―――覚醒への障害を取りのぞくガネーシャ神
まとめ
第3章
シヴァ神
イントロダクション
1.シヴァ-パールヴァティとアルダナーリーシュワラ
2.シャンカラ
3.サンバーシヴァ
4.サダシヴァリンガム
5.ジュナーナの体現者
6.ハラハラ(毒)
7.慈愛と恩恵の体現者
8.祝福の体現者(マンガラム)
9.トリ・ネトラ(トリヤムバガム)―――3つの目
10.三叉檄トリシュラ、ダマル
11.イシュワラ
12.ナンディ(雄牛)
2
13.シヴァ神の体のバースマ(聖灰)
14.ヒマラヤに住むシヴァ神
15.額の三日月
16.シヴァ神の座る象の皮
17.タンタヴァの踊り
18.シヴァ神
まとめ
第4章
ラーマ
イントロダクション
1.アートマ・ラーマ サット・チット・アーナンダ(存在・知性・至福)の体現者
2.ラーマの御名の威力
3.地上に降りた神の化身
4.ダルマ(正義、美徳)の体現者、人の理想像
5.シータの意義
6.アヨーディヤ(ラーマの王国)、ダシャラタ王(ラーマの父)、
バーラタ、ラクシュマナ、シャトルグナ(ラーマの弟たち)の意義
7.ハヌマーン―――奉仕と献身の模範
8.ハヌマーン―――バクティ(献身)の象徴
まとめ
第5章
クリシュナ神
イントロダクション
1.神の化身の降臨
2.クリシュナ神の誕生―――-闇の二週間
3.名前が語る教え
4.ヨギーシュワラの側面
5.プレマ(神の愛)の化身
6.サナタナ・サラティ(永遠なる御者)
7.ゴパーラとしてのクリシュナ神
8.クリシュナと8人の妻 16000人のゴピカ
9.クリシュナ神とアルジュナ―――クルクシェトラの戦い
10.クリシュナ神の言葉―――バガヴァッド・ギータ
11.好意も嫌悪も抱かぬ神
12.クリシュナ神の笛
13.偉大なる帰依者ラーダー
14.偉大なる帰依者ミーラ
15.クリシュナとゴピカたち
16.クリシュナ神とヤショーダー(養母)
17.バターを盗んだクリシュナ神 バターツボを壊したクリシュナ神
18.ゴクラ、マトゥラ、ブリンダヴァン、ドゥワラカ
19.黄色い白檀(ハリチャンダナ)、額の点(ティラカム)、カウストゥパの宝石、
鼻に輝く真珠、カンカラの腕輪、青い肌―――その意義
20.ナラカスラ―――クリシュナ神に滅ぼされた悪魔
まとめ
第6章
バーガヴァン(神)
シュリー・サティア・サイ・ババ
イントロダクション
1.サティア・サイ・ババの名前の意味
2.バガヴァン・シュリー・サティア・サイ・ババの使命
3.アートマ(普遍の至高の魂)、プレマ(神の愛の化身)、アーナンダ(至福の体現)
4.サティア・サイ・ババ アヴァターの特徴
5.サティア・サイ・ババの神聖なるサンカルパ(意思)と恩寵
3
6.バガヴァン・ババが帰依者にすすめる霊性修行(サーダナ)
7.バガヴァン・ババの誕生日の意義
8.夢の中のババの姿の意味
まとめ
第7章
ブラーフマ、ヴィシュヌ、マヘーシュワラ
イントロダクション
ブラフマー神
ヴィシュヌ神(ナーラーヤナ)
マヘーシュワラ(シヴァ神)
1.三大神 ブラフマー・ヴィシュヌ・マヘーシュワラ(シヴァ)
2.ヴィシュヌ神―――ナーラーヤナ
まとめ
第8章
ドゥルガー、ラクシュミー、サラスワティー
イントロダクション
ドゥルガー
ラクシュミー
サラスワティ
1.ドゥルガー、ラクシュミー、サラスワティ(概要)
2.ドゥルガー―――クリヤ・シャクティ(行いの力)、プラクリティ(自然の力)
3.ラクシュミー―――イッチャ・シャクティ
4.サラスワティ―――ジュナーナ・シャクティ(純粋なる知性、言葉の力)
まとめ
終章
4
序章
私がはじめにこの本のタイトルを『ヒンドゥー教の神と女神: 人の神性のすべて』にしようと
確信したのは、1992年頃で、当時は他の信仰を抱く人はもとより、ヒンドゥー教徒でさえもヒ
ンドゥーの神や女神の秘める意義深さをほとんど知らないことに気づきました。私はこの美しい普
遍的な知識を、宗派にかかわらずすべての人に役立ててもらいたいという強い願いを感じました。
そして私は時のアヴァター、バガヴァン・シュリー・サティア・サイババの言葉を集めはじめ、4
0年以上にわたって授けられた何ダースもの神の教えの記録が、この一冊の本にまとめられること
になりました。ヒンドゥー教の神は、この宇宙の普遍的真理を示しています。一見したところ神に
は別々の名前や姿があるため、みな同じ存在であるとは感じられないかも知れませんが、すべてが
大いなる神に結びつく多様な側面にすぎず、すべての宗教を超えると同時に、すべての宗教の本質
でもあるのです。ヒンドゥー教の神々は有限の客観世界の中で無限の役割を演じ表現しています。
その姿は人生において出会うできごとを陰で支え、また生みだしているのです。次に続く引用はバ
ガヴァン・シュリー・サティア・サイババが様々な神の御名と御姿について語った言葉です。
◇
◇
◇
◇
神にはどんな名前、どんな姿を与えることもできます。神には様々な名前が与えられてきました。リシたち
でさえ、神を様々な名前―――シヴァ、シャンカラ、アディーティヤ、サンバーヴァ、バガヴァン―――で呼
んでいます。これらはみな神に与えられた名前です。しかし神自らは神に名前をつけません。あなたの見るも
のすべてを神と呼ぶことができるのです。自然が神、力が神、あるいは無が神。しかし無はたんに無なのでは
ありません。無はすべてでもあるのです。すべてと呼ぶものの中に無があり、無と呼ぶものの中にすべてがあ
ります。全が無であり無が全なのです。人はいいます「神はいない」しかしすべては神の手の中です。無神論
者は存在するものを否定します。「There is no God(神は存在しない)」というとき、「There is(存在する)」
という言葉が先にきます。無神論者は存在するものを否定するのです。盲目なだけにすぎません。
(サイババ講話集[西インド地区]
◇
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◇
第1巻
57p)
◇
人はあえて神や女神をああである、こうである、と説明しようとします。しかしそれは人には想像力がある
ことを示しているにすぎません。どんなに言葉をついやしたところで、絵に描かれた肖像を説明しつくすこと
はできません。じかに実感したとき、舌はものを言わなくなります。神の肖像は無限です。人の知力や想像力
のおよぶ範囲を超えています。しかし人は無限に広がる壮大なものを、限られた枠の中に描き、アヨディヤー、
ドゥワルカ、マドゥライ、カニヤクマーリのような場所におさめ、名や姿を与えては、そこを訪れ崇めまつろ
うとします。名や姿が与えられたところで、神が制限されることはありません。ある一か所から海に飛びめば、
その場だけでなくすべての海に飛びこんだのと同じです。海はひとつにつながっているからです。線を引いて
部分部分に分けることなどできません。どこから飛びこもうと、まったく同じ神の至福に飛びこんでいるので
す。
(サティア・サイ・スピークス7
◇
◇
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160-161p)
◇
神はあらゆる名、あらゆる姿をとり、それらすべてを調和の中にうまくおさめています。各信仰、各共同体
に崇められている神はみな、偉大なるただ一つの神の手足にすぎません。五感や手足が絶妙に調和して肉体を
形作っているように、神も人々が与えた名や姿すべてが調和したものなのです。
(サティア・サイ・スピークス8
◇
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95p)
◇
神は唯一無二の存在です。あなたの思うまま、望むままに神を崇めることができますが、神は決して変わる
5
ことがありません。あなたが神の呼び名を変えても、心に抱く神の姿を変えても、神は決して変わりません。
甘いお菓子にはたくさんの種類があって、名前も形も違います。しかしお菓子を甘くしているもの、それはた
ったひとつ、砂糖だけです。その中からどれかを選ぶことも、どれかを好むこともできますが、他人の選択を
なじったり、じゃますることはできません。
あなたがクリシュナを崇めているとしましょう。その名その姿
は偉大な喜び、最大の感激を与えてくれます。しかし同じ神を他の名や姿―――ラーマ、シヴァ、ヴィシュヌ、
その他―――で崇める友を悪く言ってはいけません。あなたがしたのと同じように、その人にも自分の好きな
神を選択する権利があるのです。神の威力はどのマントラ、どの神の姿、どの神の名を中心にすえるかにある
のではありません。心の中に、焦がれる気持ちの中に、求める渇きの中にあるのです。あなたが叫んだ名にこ
たえ、あなたが求めた姿をとるのです。それが神の恩寵というものです。
揺りかごの中の赤ん坊が泣き声をあげれば、母親はすぐさまテラスからかけおりて、あやしたりミルクをあ
げたりするでしょう。泣き声が正しい音程か、適切な音色かなどと考えこんで立ち止まったりしません。それ
と同じで、この宇宙の大いなる母も、純粋な心からわきおこるせつなる想いであれば、自ら玉座から降りてき
て、子どもたちをなで、抱きしめ、慰めるのです。マントラの正しさだとか発音だとか、心の中でせつに願っ
た神の姿が完璧かどうかを確かめたりなどしません。肝心なのは心に抱いた想いであって、帰依してからの長
さでも、つぎこんだお金の額でもありません。
(サティア・サイ・スピークス10
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◇
217-218p)
◇
この神の名こそが他より優れたものだとか有力だなどと言うことはできません。ラーマが、シヴァが、他
に勝る神だとか、ましてやサイババこそがすべての中でもっとも完全なる化身であると宣言したところで、あ
なたが神を理解できていないことの証拠でしかありません。ラーマはナーラーヤナのラ、ナマシヴァーヤのマ、
つまりヴィシュヌ信徒、シヴァ信徒のマントラからなりたちます。シヴァとヴィシュヌの本質を示しているの
です。もしくはハラ(シヴァ神)のラ、ウマ(シヴァ神のシャクティ)のマであり、シヴァシャクティを示し
ているともいえるのです。どの名前も、すべての名がひとつであることを教えているというのに、どうして互
いが争いあうことなどできるでしょうか。
(サティア・サイ・スピークス10
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◇
18p)
◇
神ほど偉大で崇高な慰めはありません。好きな呼び名で神に祈り、名のない神のことを語りなさい。それが
神のサカーラでありニラーカーラです(形があると同時に形のないもの)。海の水は入れられたうつわの形を
とります。うつわに入れられれば形のないものも形をとり、すべてを超えた絶対者も特定することができるの
です。そして気がつくでしょう、すべての歓びの源が形ある神からもたらされており、形のないものには喜び
も悲しみもないことを。形がないということは、二元性を超越しているということだからです。
宝石は歓びを与えます。富を与えるのではありません。神も、その御名を体験し、姿を心に刻むことができ
ます。名や姿を心にとりこみいつもそれを想うことで、歓びに満たされるのです。それがジャヤデーヴァ、ゴ
ウランガ、ラーマクリシュナらが、砂糖そのものになるよりも、砂糖を味わうアリでいたいと願ったゆえんで
す。神の御名は心にまかれる種のようなものであり、神の恩寵がふりそそぐとうっとりするほど美しい木へと
育ちます。神の御名に育てられた木は、どれも等しく、美しくて立派です。クリシュナ・ナーマを抱けば、ク
リシュナの姿と形が思い出され、ラーマ・ナーマを抱けば、ラーマの姿になります。
(サティア・サイ・スピークス1
◇
◇
◇
217p)
◇
神はひとつですが、神を愛するあまり人々は神と様々な関係を結んできました、あるものは父なる神と呼び、
あるものは母なる神と呼び、あるものはキリスト、シヴァ、ハリなどと呼んでいます。これらはみな想像力か
ら生じた違いなだけで、すべての背後にあるのは唯一なる神です。
(サマー・シャワー・イン・ブリンダヴァン
6
1992年
239p)
◇
◇
◇
◇
神の名の多くは二文字か二音節からなりたちます(ラー・マ、クリ・シュナ、ハ・ラ、ハ・リ、ダッ・タ、
シャク・ティ、カー・リー)。二つであることには、前の音節が積みあげられた罪を焼きつくすアグニ(火の
原理)であり、後ろの音節が再生・復活・改心のアムリタ原理であるという意味があります。この二つのプロ
セスは必ず必要です。障害をとりのぞき、新たなるものを築いていくのです。
(サティア・サイ・スピークス9
◇
◇
◇
129p)
◇
私がヒンドゥー教の神々、女神たちにこめられた深遠なる意味の数々を一冊の本にまとめようと
思った二つめの理由は、サティア・サイババが、心を浄化し人間性全体を神性に変えていくための
手段として、神の賛歌、つまり神の御名と神の栄光をたたえる歌を歌うことを強調しているためで
す。私の個人的な経験からいっても、もしバジャン(神をたたえる歌)の歌い手、もしくは聴き手
が、神や女神、神と一緒に描かれる持ちものにこめられた意義を知っていたなら(たとえばシヴァ
神の太鼓ダマルは、創造や宇宙のエネルギーの原初音OMを象徴しています)、バジャンはこの宇
宙の真理や人の内なる神性について、深く思いめぐらす基盤になりうると思ったのです。人もまた
神であることに目覚めることで、私たちは人の一生の目的を理解することができるでしょう。内な
る神性を発見するために霊性修養の実践が必要であることを、サティア・サイババは次のように語
ります。
◇
◇
◇
◇
人は神です。覚醒はすぐそこにあります。人ひとりひとりが神であることをふたたび認識するだけのことで
す。肉体があなたではありません。肉体はうちに秘めた神性のきらめきである魂を宿す入れ物にすぎません。
神はすべての人の心に宿るものであり、その神性のきらめきこそがあなた自身に他ならないからです。他のこ
とはすべて幻にすぎません。このことを深く思いめぐらし真理があらわになったとき、あなたは真の自分とい
うものを見いだすでしょう。あなたの生き方そのものが変わり、すべてのものをひとつの光のもとに見るので
す。
(サティア・サイ・スピークス4
◇
◇
◇
258p)
◇
神はあなたから離れてもいなければ、あなたと異なるものでもありません。あなたが神なのです。あなたが
サット・チット・アーナンダ(存在・意識・絶対なる至福)なのです。アスティ(存在)であり、バーティ(意
識)であり、プリヤム(至福)なのです。あなたはすべてでもあるのです。この真理にいつ気づくことができ
るのでしょうか。真理を覆いつくす幻想を振りはらったときです。サット・チット・アーナンダであるブラー
フマ・アーナンダを体験したいと求めるあなたの気持ちが、嘘偽りない純粋なものであるならば、今日この日
から、これから私が言うことをつねに心に留めておきなさい。
1)
「私は神である。私は神と何ら変わることがない」つねにこれを意識しなさい。心にい
ておきなさい。「私は神、私は神、私は神と何も違わない」いつもこう思いつづけ
つも留め
なさい。そしてこの
サーダナ(霊性修行)を忘れることのないよう祈りなさい。
2)
「私はアカンダ・パラ・ブラーフマン(目に見えぬ至高の絶対実在)である」たえまな
くくりか
えし祈りつづけることで、意識に確立すべき二つめの真理がこれです。
3)
「私はサット・チット・アーナンダ(存在・意識・至福)である」
4)
「悲しみも不安も決して私に影響を与えることはできない」これを強く信じ何度も言い
聞かせ、
また祈ることでこの真理を自分自身に確信させなさい。
5)
「私はつねに満ちたりている。どんな恐れも私をおびやかすことはできない」いつもこ
感じていなさい。この確信が強く育つよう祈りなさい。「セルフよ、オーム・タッ
タット・サット(オームこそが真理)。それがブラーフマン(至高の
7
のことを
ト・サット、オーム・
絶対実在)を象徴する3つの言葉」
くりかえし自らにそう言い聞かせなさい。
肉体が5つプラーナ(生気)によって健やかで力強くなるにつれ、この5つの祈りはブラーフマンそのもの
である「ブラフマー意識」をあなたに授けます。
(サティア・サイ・スピークス16
◇
◇
◇
170-171p)
◇
私が何ものであるかをウラヴァコンダで表明したとき、あなたがたに与えた第一の教えは次のものです。「*
マーナサ
バジャレ
グルチャラナム、ドゥスタラ
バーヴァ
サガラ
タラナム」つまりは、まず自分が「バ
ーヴァサガラム=生と死のサイクル」の中にいることを知りなさい、そして「タラナム=そのサイクルを超え
ること」を決意しなさい、あなたに一番訴える神の御名と御姿に心を定め、最後には神の栄華にとどまりなさ
い、バジャン(神の栄華の歌)を心のすべてで歌いあげなさい、ということです。この相対的な世界に惑わさ
れているものはサムサーリ(俗人)であり、それが相対界にすぎないことを知っているのがサダカ(霊性の徒)
です。
*Manasa bhajare Gurucharanam, Dusthara bhava sagara tharanam
(サティア・サイ・スピークス3
◇
◇
◇
152-153p)
◇
ラーマはダルマの体現者であり、クリシュナは人の姿を愉しみました。しかしそれが何だというのでしょう。
自分もラーマやクリシュナの肉親であり、すべてのマーナヴァ(人)がマーダヴァ(神)であり、すべてのナ
ラ(人)がナーラーヤナであると感じたことがありますか?
てラーマのバクタ(帰依者)だなどといえますか?
ラーマのダルマに少しも従わずにいて、どうし
クリシュナのプレマ(神の愛)を実践することなくして、
どうして自分がクリシュナ・バクタ(帰依者)であると誇れますか?
理想の姿から離れていてはいけません。
できる限り近づきなさい。たとえ神が壮大な宝で、一方あなたがほんの小さな宝石にすぎないとしても、理想
として想い描く黄金のように光り輝きなさい。バクタとは自らがバガヴァンの姿であるものです。そうでなけ
ればスワルーパ(神の化身)というものに何かをいうことなどできません。
(サティア・サイ・スピークス4
◇
◇
◇
234-235p)
◇
この本を整えはじめた3つめの理由は、全世界的な偏見を取りはらいたかったことにあります。
「唯一のセルフ=神」がこの宇宙の根源であることを信じていようといまいと、また実感していて
いようといまいと、ヒンドゥー教とはそういった偶像崇拝者でなりたつ野蛮な宗教であるという偏
見です。ヒンドゥー教の根源は、明らかに唯一、存在し、全知全能であるセルフあるのみ、という
ことです。たくさんの神や女神たちで表されているように、このセルフには数多くの働きや側面が
ありますが、万物が唯一なる神の様々な姿からなりたつています。サティア・サイ・ババは、私た
ちを形のない唯一神への認識へと導く偶像崇拝、もしくは姿ある神に対する崇拝の起源、意義、そ
して必要性を次のように語ります。
◇
◇
◇
◇
この現象界のすべてが原子の顕れです。あなた方が飲む水、吸いこむ空気、耳にする音のすべてが原子から
なりたっています。五元素(エーテル、空気、水、火、地)はすべて原子でできており、大宇宙にいきわたっ
ています。この大宇宙は五元素の顕れなのです。そうしたことから、いにしえの人々は宇宙を神の顕現とみな
したのです。
人々が原子の世界を探求したり、原子のエネルギーを発見しはじめるよりはるか昔、化学者たちが霊性とい
うものを理解しはじめる前から、バラティヤ人(インド人)は地(ブーミ)を神として崇拝していました。な
ぜなら地中には五元素があり、地を「ブーデヴィ=地の神」としてたたえたのです。
さらにバラティヤの人々は水に宿る神性を認め、水をガンガーデヴィとして崇拝し、また火の神、風の神(ヴ
8
ァーユデーヴァ)、サッダ・ブラーフマン=音の神をも崇めました。このように、五元素はみな神の顕れとさ
れ、バラティヤの人々によって崇拝されてきたのです。五元素を崇拝することの深遠なる重要性を理解するこ
とのなかったよその土地の人たちは、彼らを軽くみなしました。
すべての原子には形があります。この世に形を持たないものはありません。形は神の顕れ(ヴィグラーハ=
偶像)です。他の宗派の人々は、偶像崇拝をばかげたことだといいます。偶像崇拝を迷信の産物としてあざわ
らうのです。しかし、それではなぜ形の無い物を崇拝するのかを彼らは説明しようとはしません。
誰であれ、この世のものを形と結びつけて学んでいきます。ほとんどの人が神を普遍の存在、すべてに宿り
すべての人におわすものとして理解することができずにいます。ここにあるマイクを指さして「これはマイク
です」と私が言い、あなた方もいったんこれをマイクと認めれば、もう指でさし示す必要はありません。花を
さして「これは花です」と言い、あなた方もこれを花と認めれば、ふたたび示す必要はないのです。同様に、
偶像とは神を示すために用いられます。神の認識がなされるまでは、偶像というものが不可欠なのです。そし
て一度神を認識してしまえば、偶像は必要ではなくなるのです。
偶像を崇拝することで神を体験した後には、誰もが自らの神体験を語れるようになります。神を崇めること
もなく、霊性の体験も得られずに、いったい誰に神の本質が語れますか?
だからこそ神の偶像を崇拝するこ
とが大切なのです。すべてのものが神のしるしであること、すべての原子が神性であることを知りなさい。
命も意識もない偶像を崇拝するとはばかげたこととはいえないか、ある人々は疑問を抱きます。この問いか
けは無知から生じたものにすぎません。今日では、70クロア(1クロア=10,000,000)ものバラティヤ(イン
ド)の人たちが国旗を掲げ敬意を表します。この旗がそういった地位を与えられるまでには、たくさんの人々
がこの国の自由のためにすべてを犠牲にしました。おおぜいの人が長きにわたる投獄に苦しみました。彼らは
独立国として自分たちの国旗を手にするまで、あらゆる苦難を味わったのです。8月15日、1月26日には、
インドでは国中で国旗が掲げられ、国の独立を象徴するものとして敬意が表されます。同じように他国の人々
も、誇り高き自国の旗に敬意を払います。ときには自分の属する集団の旗が敬われることさえあります。
この旗は生きているものですか? 命やエネルギーがありますか? そう問いかけていったなら、この旗を尊
いものにしているのが、人々の信心であることに気づくでしょう。
同様に、崇められる石の像に命や意識があるのかを問いかけたなら、国旗に対する敬意の例に答えを見いだ
すことができるでしょう。旗にされた1ヤード四方の綿の布に、どうして価値があるのでしょう。旗が自由へ
の戦いに勝利したことを象徴していることに由来します。勝利には形がありません。その旗が、なしとげた勝
利を示しているのです。旗がなかったなら、どのようにして自由への戦いに勝利したことを示すのですか?
崇拝される偶像の数々は、「神はどこにいるのだろう」と問いかける人々への答えです。真実は、神はひと
つひとつの原子すべてに宿る、です。ひとつひとつの原子それぞれが、神の力を示しているのです。すべての
原子が崇拝にあたいします。創造されたすべてのものが尊敬にあたいします。人はすべてのものにたいしてこ
の感情を育てていかねばなりません。
しかし、物質的な肉体が永遠であり、何にもましてすべてであると思いこむことにより、人ははかなくうつ
ろうものを追い求め、生をむだにしています。肉体なくして行為はありえません。行為なくして結実は得られ
ません。ですから肉体はすべてにおけるいしずえです。肉体は形(ヴィグラーハ)なのです。ヴィグラーハと
いう言葉は、崇拝される対象としての偶像を意味します。しかしこのヴィグラーハには、それとはまた別の重
要性があります。神を知ることのできるのが、このヴィグラーハを通してなのです。この世界において、形の
ないものへの崇拝(アラダーナ)は決してありえません。姿なきものを崇拝することが誤解されているのです。
偶像崇拝に異議を唱える人々は、その誤解に導かれてしまった人々なのです。
どの宗教にも独自の崇拝の形があります。たとえば、自然(プラクリティ)です。自然には魅了する力があ
ります。そこに五元素のすべて(地・空・火・水・エーテル)が含まれているからです。私たちの食べる食物
をもたらすのもこの自然です。自然はあらゆるミネラルの源です。自然は人の日常を支えています。それが事
実であるならば、自然を崇めることのどこに間違いがありますか? それほど多くを与えてくれるものにたいし、
感謝の念を示すことが間違いですか? この感謝の気持ちが崇拝というものの形です。
人もみな五元素からなりたちます。この五元素なくして存在することはできません。それに感謝を示す義務
などまったくないというのですか?
自然には魅了する力があります。これは磁力と呼ばれます。自然には莫大な磁力があるのです。すべてのも
のがこの磁力の影響を受けています。そのプロセスにおいて、それぞれのものもまた磁力を得、磁気を帯びる
ようになるのです。
今日化学者たちはこの自然の惹きつける力を理解しようとしています。たとえば寺院です。何千という人々
9
が礼拝のために寺院を訪れます。地の磁力が聖域にある偶像にまでおよんでいるからです。そして何千という
巡礼者たちの想いがその偶像に惹きつけられるのです。そうして、惹きつける力はますます強められ、この偶
像のために行われる儀式がさらにその力を高めます。このプロセスは、数本の釘(くぎ)が磁石の近くに置か
れたときの様子からもうかがい知ることができます。そのまま2日もたてば、釘にも磁気が帯びはじめること
でしょう。同じように、寺院を訪れた何千もの礼拝者たちによって力の与えられた偶像は、ますます惹きつけ
る力を強めていきます。そして力を吹きこまれた偶像が、礼拝者たちに活力を与えるようになるのです。
このように、この世においてこういった力を持たないものはありません。原子のエネルギーはいたるところ
に存在します。この原子の力の本質を理解してはじめて神の力をも理解することができるのです。
偶像を崇拝することは意味のない礼拝ではありません。すばらしい習慣であり、それにもとづくことで高次
の意識に到達することができます。家庭には、祖父母や先祖の写真が飾られます。今の世代の人々は彼らに会
ったことがありません。それでも写真には花を捧げ先祖たちを敬います。この写真に命はありますか? 愛を示
していますか? 写真そのものが血縁を表していますか? いいえ、そうではありません。しかし写真がその人
の祖先を表しているという感覚によって、敬い慕われているのです。同様にこういった尊敬の念や慕う心を喚
起するのがものにたいする愛情です。それが献身と呼ばれます。この献身の心はすべてのものにむけて示され
るべきものです。神はすべてに宿り、すべての原子に存在しているからです。そのような献身を育むのは難し
いことかもしれません。しかしこの原理を正しく理解したなら、献身の実践はたやすくなります。
偶像崇拝については過去においても議論の的であり、疑いがもたれてきました。たとえば、チャルヴァカ派
として知られた一派は偶像崇拝を軽蔑しました。しかし後になってその価値を認めています。この世のものに
は原子をはじめとしてすべてのものに形があり、形あるものはすべて崇拝にあたいする偶像(ヴィグラハム)
であると気づいたからです。水の形とはいったいどんなものですか? このコップの中には水があり、コップに
よって形が作られます。同様に、空気も風船の中に入れられればその形をとります。それとまったく同じで、
人の肉体が神のエネルギーに満ちあふれれば、神は人の姿を借りるのです。すべてにいきわたる神性も、神を
示す姿をとることになるのです。神は普遍であり、それゆえ崇められる像の中にも神がいる、という真理を胸
に、神への崇拝を実践しなさい。そうすることで必ず神のヴィジョンへたどりつきます。
(サナタナ・サラティ 1995年3月号 57-62p)
偶像崇拝―――無形の神を知る前提条件
霊性において、ものごとの決定要素は体験です。実際の体験をへた証言の前で、理屈は沈黙するのみです。
どんな理論にも弁証法にも、それら内なる証(あかし)の絶対的な効力を帳消しにすることはできません。偶
像崇拝の例を取りあげてみましょう。多くの人々が偶像崇拝をする人を見て笑い、迷信だと非難します。しか
し偶像崇拝をする人々は、遍在にして全能なる神が目の前の像にも宿っていることを信じるのです。彼らにと
って、像はたんなるうわべだけの飾りものでも装置でも置物でもありません。献身と信仰という内なる働きの
一部なのです。もちろん、偶像は命のない木や石やブロンズにすぎないと考えて「崇拝」したところで、膨大
な時間の浪費でしかありません。しかし、像や偶像には命があり、意識と力に満たされていると堅く信じて崇
拝するなら、偶像崇拝は神意識の覚醒を授けるでしょう。サダカは偶像の材料である石でなく、偶像によって
象徴された聖なる力、あなたのハートにも内在しすべてを超えて万物にいきわたる聖なる力こそを見つめなけ
ればなりません。
(サティア・サイ・スピークス2
◇
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18-19p)
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聖者や賢者たちは、西洋の人々、東洋の人々に、人から神を隠してしまう無知のヴェールをどう取りはらっ
たらいいのかを様々な形で教えてきました。そのひとつの方法が神の姿を表した偶像の崇拝です。この方法は
融通のきかない狂信者たちによってひどく誤解されてきました。偶像の意義は実に簡潔で、容易に理解しうる
ものです。もしも何か、たとえばミルクを飲みたいと思ったら、コップが必要になりませんか?
ミルクはコ
ップに注がれその形をとります。リンガを偶像にすれば、そのリンガに聖なる輝き、栄華、恩寵がみなぎるよ
うに感じられるのです。クリシュナの偶像を崇拝すれば、神の神髄に満たされたさらに美しいコップを手に入
れ、それを飲み干して渇きを癒すことができるのです。
(サティア・サイ・スピークス8
10
36p)
◇
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ヴィマーナは何年もの間寺院を訪れることがまったくありませんでした。偶像が神を表すと思っていた人々
を見て長い間笑っていたのです。しかし娘が死に、ある日のこと、娘の肖像画を手に泣いていたのです。その
瞬間ある思いに打ちのめされました。もしこの肖像が私に悲しみをひきおこし涙を流させているのなら、偶像
にも神の栄華と美を知る者に歓びを呼び起こし涙させることがあるのではないか。偶像は神が普遍にしてすべ
てに宿るということをただ思い出させるものにすぎません。
(サティア・サイ・スピークス1
◇
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◇
100-101p)
◇
インドでは人々は木々に、草花に、鳥に、動物に、神を見ます。いたるところすべてにおわす神を崇めます。
肖像を崇めると、人は笑います。気弱な人は笑われて自らを恥じ入るかもしれません。しかし私たちは、肖像
を神としているのであって、神を肖像にしているのではありません。石を神として崇拝しているのであって、
神を石にしているのではないのです。
(サティア・サイ・スピークス10
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94p)
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偶像を神として見るとき、切り出され、彫られ、石であったものを別のものにしています。寺院に神だけを
見ているとき、石は石でなくなっているのです。寺院にいるときだけでなく、像を見たときだけでなく、いつ
何を見ても神だけが見えるよう、心を浄め磨きなさい。心はあなたの親友になり、もっとも有力な解放の手だ
てになります。
(サティア・サイ・スピークス10
◇
◇
◇
63p)
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くり返しますが、偶像崇拝を形のないものを崇拝していることとみなしなさい。水にもミルクにもそれ自体
に形はありません。入れられる容器の形をとる、そうではありませんか?
コップやビン、やかんや水差し、
ジョッキに入れればその形になります。クリシュナの姿も、あなた方が姿のないものを入れたクリシュナとい
う入れものの形になりました。ラーマ、シヴァ、リンガ、チャムンデーシュワリ、ガネーシャ―――すべてあ
なた方の想像力によって、形のない描ききれないものを入れた入れものの姿をとっているのです。そのナーマ
(御名)は甘露であり、入れもの、そして偶像にすぎません。
(サティア・サイ・スピークス4
◇
◇
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243p)
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求める者は石像を神の複製にまで高めます。神を石の像にしてしまうことはありません。偶像とはたんなる
入れものであり、促すもの、出発点、喚起するもの、そして神のおわす住処(すみか)にすぎません。至高の
存在が小さなものに押しこまれることはありません。小さなものが至高の存在の象徴であるだけです。目に見
えるものから見えないものへ、ひとしずくの水滴から大海へ、顕現するものから潜在するものへ、偶像崇拝は
このように探求者を助けていきます。事実、力、光、慈悲、英知、精気、知性、純粋さとして描くことなく、
全能の神をとらえることのできる人などありません。これらの資質は、太陽や蓮の花、空、海、そして波など、
具体的な感覚を通じてのみ意識に入ります。名前は音のイメージを呼び、音のイメージは形を呼びます。種の
中にはすでに木が含まれているように、リンガは顕すことができ、またすでに顕されているこの大宇宙を含み、
さらには宇宙の意思そのものである創造主をも宿します。
舌の上に神の名をのせ心で像を崇めるとき、決まりきった一連の動作にしてはいけません。御名の意味する
もの、御姿の示すものが、意識を高め啓(ひら)くようでなければなりません。その身を心からの深い崇拝に
浸しなさい。それが安らかに満ちたりているための道であり、人のあらゆる行いはそこにむけられ捧げられる
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べきものなのです。
(サティア・サイ・スピークス8
◇
◇
◇
37p)
◇
この本の大部分はサティア・サイ・ババの言葉の引用であり、それを提供する形をとっています。
第1章は「命のゴール」と題され、人の一生の行き着く先、つまりアートマのみが唯一の真実であ
ると気づくこと、それについて述べられた言葉が引用されています。そのゴールを理解せず、ただ
礼拝と霊性修養を重ねても、セルフに目覚めるために与えられた絶好のチャンスであるこの一生を、
ただ意味もなく浪費してしまうばかりです。この本に記されたサティア・サイ・ババの言葉の数々、
その中に隠されたもっとも重要なテーマをお伝えしたいと思います。それはヒンドゥー教の神々、
女神たちとは、人の潜在能力や可能性を表したものであり、人に備わる神性、人間性、両者の側面
であり、さらには私たちが養い認識すべき責務を示しているということです。進化の行き着く先は
「人間性」ではなく「神性」なのです。次に続くサティア・サイ・ババの言葉には、今まさに、真
理をおい隠す無知から自由になる差し迫った必要性のあることが示されています。そしてそれは個
人の一生のゴールを理解するためだけでなく、憎しみ、惑い、煩悩(欲望)、貪欲、ねたみに満た
されたこの世界を、真理、愛、平和、正義の治める場所へと変えていくためでもあるのです。
◇
◇
◇
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人は幾世もの時代にわたり、自由を求め、くびきから解き放たれるために力をつくしてきました。しかしい
ったい何から自由にならねばならないのか、解き放たれるべきくびきとは何なのかを正しく認識したものはい
ません。また多くの人は囚われ囲いこまれていることにさえ気づかず、自らを解放しようとしていません。家
族が、妻が、子どもがあなたを縛りつけているのですか?
ですか?
富や財産、持ち物があなたを縛っているというの
誘惑するもの、嫌悪をよぶものがあなたを拘束するくびきですか?
いいえ、どれでもありません。
あなたの気持ちや行いに限界をもうける最たるものは、あなたが本当は誰であるかを知らないという無知です。
アートマ(神聖なる魂)に気づくまで、人は喜びという休息をおいては、嘆きから嘆きへとのたうちまわる
しかできません。嘆きには3つの原因があり、その性質にも3種類あります。(1)明らかなものが存在しな
いことからくる嘆き
(2)知りたいという欲求、つまり人のもつ理解力や推論の能力を誤解していること、
すべてに宿る神聖なるものの神秘を誤解したままでいることからくる嘆き
を引きはなし、切りはなしてしまう死というものからくる嘆き
(3)実現すべきことがらから人
この3つです。もし「ジーヴァ(個々の魂)」、
「ジャガット(大宇宙)」、「神というものの真理」に気づいたなら、人にはもう嘆くことも恐れるものもあ
りません。
ジャガット―――私たちをとりまいている目に見え知覚できるこの世界―――について考えてみましょう。
私たちが夢の中で体験したことは目が覚めれば消えてしまいます。目が覚めている間に見るものもまた一時的
なものです。眠っている間はこの世界について何も知ることができません。肉体はベッドの中にありながら、
実にリアルでドラマチックな夢を見、マドラスのマウント・ロードで買い物に大忙しということさえあります。
このように目覚めているとき、夢を見ているとき、眠っているとき、どの状態もが相対的な現実、思いこみの
現実にすぎません。もし夕暮れどき、バジャンを歌いながら宿舎にむかって歩いていて、先頭のものが「蛇だ!
蛇だ!」と恐怖に叫びだしたなら、その恐怖はすべての人に襲いかかり、みなが足を止めてしまうでしょう。
しかしそれは本当に蛇なのでしょうか。懐中電灯の明るい光で照らしたら、それがただの縄だったと分かるで
しょう。無知は恐怖をひきおこし、英知は取りはらいます。もしもこの世を光が照らしたなら、この世には、
神が、ヴィシュヌが、神の化身が、聖なる存在、サット・チット・アーナンダ(存在・意識・絶対的至福)が
見えるでしょう。アサット(非存在)がサット(存在)として認識されるのです。
生きるということは、笑顔と泣き顔の振り子の間を行ったり来たりすることです。子ども時代はあまりにも
甘く清らかです。青年時代は愚かさと誤りに満ちています。中年になると問題とその対処に追われてもみくち
ゃです。老年期には過去に犯した失敗とためらいの数々を悔やんで過ごします。いったいいつ、たとえ小さく
ても心からの歓びを味わえるというのでしょう。自然は神の衣(ころも)です。至高の存在を思わせます。心
の策略を突き抜けて光り輝きます。生きとし生けるものそれぞれの内なる核は神です。喜びも悲しみも、移り
変わるはかないものに巻きこまれた心のもたらす結果にすぎません。神の恩寵は太陽の光のようにふりそそぎ
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ます。太陽の光はふりそそぐものがどんなに害のあるものであろうとも、決して傷つくことはありません。セ
ルフもさまよう五感に引きずられた心がどこへむかおうと、決して影響されません。セルフが神であることに
気づけば、死という恐怖につきまとわれることもありません。建物は崩れ落ちるかもしれませんが土台は無傷
です。人はいつ死ぬのでしょう。一瞬一瞬死に、一瞬一瞬生まれています。次の一瞬がなくなったとき、それ
が死です。ふたたび動きはじめれば、新しく生まれ変わるのです。信仰が命であり、信仰のないのが死です。
肉体は死にます。アートマ(神聖なる魂)は生死を超えています。それを知り、アーナンダ(神の至福)に浸
りなさい。
捨てさるべきものは手放しなさい、手に入れるべきものを知りなさい。そのときアーナンダはゆらぐことな
いあなたの一部になります。世俗が根拠であるという思いを捨てなさい。セルフの真理を知り、絶対なる源泉
ブラーフマンを手に入れなさい。そこにウパニシャッドの祈りの言葉、授業の前にいつも唱える祈りの言葉の
意義があります。
アサトー
マー
サット
ma
sath
タマソー
マー
ジョーティル
(Thamaso
ma
jyothir
(Asato
ガマヤー
偽りから真実へと導きたまえ
gamaya)
ガマヤー
闇から光のもとへと導きたまえ
gamaya)
ムルティオー
マー
アムルタム
(Murthyor
ma
Amurtham
ガマヤ
死から不死へと導きたまえ
gamaya)
この祈りは、たえまなくくりかえし築かれては解体され消滅するジャガット(世俗の世界)から、決して変
わることなき絶対存在である神へと導かれるよう求めるものです。暗闇とは、肉体-五感-心-理性から成る
ものが私であると思いこませる無知を象徴しています。光によって核心である神が顕わにされたなら、残りの
すべてがそれをおおうまやかし、霧にすぎないことが分かるでしょう。死は肉体と心に影響を与えるにすぎま
せん。光のもとにさらされれば、私たちの奥深くにはアートマがあり、不朽の存在であることに気づくでしょ
う。神の中に、神とともに、神にもとづき、神のために生きなさい。神を飲み、神を食べ、神を見つめ、神に
たどりつきなさい。神が真理です。人の心の本質です。「私はあなたを占めるもの」クリシュナは言いました。
たとえ顕微鏡で見つけることができなくとも、体の細胞ひとつひとつに神がいます。今私の話をカセットテー
プに録音していますが、そのテープに私の声や言葉が見えますか?
いいえ、再生したとき聞くことができる
のです。肉体もテープのようなもので、神の声が吹きこまれています。信仰という装置で、愛のダイアルに合
わせなさい。私の声が、言葉が、吹きこまれます。純粋なハート、磨かれた心、神に満ちた意識によって、あ
なたの内におわす神の声が聞こえてくるでしょう。
(サティア・サイ・スピークス16
◇
◇
◇
11-14p)
◇
人生は市場
人生では
与えたり受けとったり
取引したり
かけひきしたり
それがゲームの一部です
人生には
上りがあり下りがあり
得ることもあれば失いもし
喜びがあれば悲しみがあり
不評を買ったと思えば賞賛され
貸しと借りの一覧表です
しかし
バクティ(献身)とひきかえに
ムクティ(解脱)を手に入れること
それが人に与えられた何にも勝る仕事です
(サティア・サイ・スピークス5
13
14p)
◇
◇
◇
◇
この本の中に描かれた神と女神は、数千年にわたりヒンドゥー教徒に崇拝されてきたもっともな
じみのある神々です。この本には、サティア・サイ・ババも神として含まれています。生きた神と
して、世界中から絶大なる信頼を得ているからです。サティア・サイ・ババは神性のすべてをそな
え、すべての神の名、神の姿を体現しています。
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