初等教育の拡充

第Ⅰ 部
初等教育の拡充
第
3
2章
対話と協働による就学率向上
ミレニアム開発目標の 2 番目は「普遍的初等教育の普及」です。これからもわかるよ
うに、国際協力では教育分野の援助の重心は初等教育におかれています。
1990 年にタイのジョムチェンで 「万人のための教育」(31 頁参照)宣言が採択さ
れ、それ以来複数の宣言が続くことによって初等教育重視の国際世論が高まりました。
それまでの日本からの協力の主流は、首都の大学で教員養成や教材開発をおこなうこ
とにあり、その成果の普及は現地政府に任せていました。地方に対しては、校舎の建
設など、モノの援助に限定されていたのです。
モノを作るだけではうまくいかなかった、っていう話、前にもどこかで……あっ、そうだ、
井戸のときと同じですね!
そうだね。せっかく学校を作っても、貧しい家では子どもを通わせる余裕がない。子ど
もも貴重な労働力だからね。就学率を上げるためには親の意識を変えなければいけない
ことがわかったんだ。
男の子にしか教育を受けさせない国もありますよね。ここにも宗教とか伝統的な価値観
の問題が関係していそうです。そういえば明治時代の日本でも、初等教育の導入期には
反対運動が起こって、学校が焼き討ちされたこともあると聞きました。
日本は今でこそ教育熱心な国だけど、貧しい時代は教育に理解のない親も多かった。そ
こで行政と学校が保護者を巻き込んで就学率を上げてきたという歴史があるんだ。戦後
の学校給食や教科書の無償配布も登校を促すための施策だったそうだよ。国際協力でも
その経験をふまえて、現地に最適な問題解決策を一緒に考えようという姿勢をとったこ
とで効果が上がったんだろうね。
なるほど。日本型の協力は、自国の発展してきた経験に基づいているんですね。そこが
英語やフランス語を解する少数の行政官を育成し、統治の手助けをさせることに注力し
たヨーロッパの植民地型教育との大きな違いですね。
うん。教育は結果が出るまでに時間がかかるから、地域社会の支持を取り付けて持続可
能な仕組みを作ることが重要なんだ。もちろん、学校づくりなどのインフラ整備や高等
教育への支援も地道に続けているよ。
教育って、種まきみたい。10 年後、20 年後にどんな花が咲くか、楽しみですね。
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第3 章
今回は教育の問題です。「国の開発には教育が欠かせない」という言葉は頻繁に
耳にしますが、義務教育でさえ子弟を学校に通わせる余裕がなく、政府の指導
に抵抗する親や、登校させても子どものためになるのか疑わしいと多くの親が
考える国は、いまだに多数存在します。明治期の日本もまさにそうでした。と
すると、この問題は最終的には地域社会の納得と協力を得て進めていくことが
必要です。そもそも、なぜ初等教育は重要なのでしょうか。
初等教育の拡充
❖ 初等教育重視を求める国際世論の高まり
教育は開発の要です。1998 年にアジア人で初めてノーベル経済学賞を受賞した
アマルティア・センはその著作の中で、個々人がその潜在能力を十分に発揮できる
仕組みを作ることが、開発にとってもっとも重要な要件であると述べています(ア
。潜在能力を重
マルティア・セン著/大石りら訳『貧困の克服』集英社新書、2002 年)
視する彼の思想は、各国を人間開発の 4 段階に順位付ける国連開発計画の人間開
発指数へと結実します。人間開発指数は、各国の平均余命、教育、所得指数の複合
により開発を測り、かつ開発の方向付けをするというものです。そこでは、健康や
所得と並んで識字が重視され、手段としての初等教育の普及が重要な開発課題とし
て位置づけられています。
この初等教育の普及という課題については、これまで4つの小課題に分けて取り
組むのが一般的でした。①学校を建設して数を増やすインフラ整備のアプローチ。
②教員の数を確保しながら指導能力を上げていく、教育人材確保のアプローチ。③
教科書を生徒にいきわたらせ、その内容も充実させて教育効果を挙げる教育用資材
調達改善アプローチ。そして④教える内容を系統的に順序だてたカリキュラムを整
備し、それに沿った教育が実施されるように指導監督する教育行政官の能力を向上
させる、教育行政改善アプローチです。その小課題ごとにプロジェクトが組まれ、
また時には連携が図られてきたのですが、普及はなかなか進展しませんでした。
❖ 学校現場を大切にする参加型学校運営改善モデル
そこで、地域の教育行政官、学校関係者、父兄という教育現場にもっとも近いと
ころで活動している重要な利害関係者三者の協議で、初中等教育をどう改善する
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第Ⅰ 部
かアイデアを出し、意思決定する新しい試みが導入されました。教育現場の当事者
から改善案を求めることで必要な条件整備が進み、連携も弾みがつくはずだという
考え方です。住民の意向を大事にしつつ参加型で学校運営を改善する国際協力は、
1999 年にまずインドネシアで実施され、支援対象地域での就学率は大きく向上し
ました。
インドネシアの成果を受けて、この方法は 2004 年からアフリカの中でも特に所
得水準の低い後発開発途上国であるニジェールで、これまで他の援助機関の関与が
薄かった州をパイロット州に選んで「みんなの学校プロジェクト」が開始されまし
た。行政-学校-保護者の三者からなる学校運営委員会が結成され、保護者の代表
は選挙により選出されました。
「就学促進キャンペーン」が委員会によって進められ、
プロジェクト開始後1年間で、46.8%の就学者増を達成した学校も出てきました。
やがてパイロット州の小学校 1229 校の 98%で学校運営委員会が結成され、住民
集会で承認された学校活動計画が実施に移されました。その結果、生活に密着した
内容を盛り込んだ生産実習活動が新たに誕生しましたが、これは学校と保護者の話
し合いから生まれた教科を行政が承認したものです。こうした改革を地域の保護者
も高く評価し、学校への信頼向上と就学への理解を深めました。「学校へ行かせる
ことが子どものためにも家のためにもなる」との認識を拡げることに成功したので
す。この成功を受けニジェール政府は、隣接州への展開、全国6州への展開を日本
の協力で進めたいと要請してきました。
地方行政、学校、保護者は直接的に教育の現場にかかわっている人々です。その
三者を学校運営委員会の適切な運営を通じて基礎教育の改善プロセスに巻き込む方
法は、中進国であるインドネシアから始まって、上で述べたニジェールだけでなく、
マラウイや南アフリカでも成果を上げることができました。思い起こせば日本でも、
明治以降初等教育を普及させるため、地域の寄付を募りつつ校舎建設や教員確保が
進められてきました。しかし、学校の運営に地域の声を反映させる目的で自治体に
教育委員会が設けられたのは、第二次大戦後の改革のひとつとしてでした。日本で
は、戦後改革の洗礼を受けてようやく参加型の学校運営のモデルが根付き、国際協
力の現場に応用される原型を形成したともいえるでしょう。
インドネシアをはじめとする途上国の環境の中で効果を発揮し始めたこの参加型
学校運営改善モデルは、今後も多くの途上国で国際協力の方法としての展開が期待
されます。かつては制度を受け入れる側であった日本の経験が、現在は途上国でよ
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り役に立つように、試行と工夫が重ねられ、応用展開されているといえるでしょう。
初等教育および中等教育の改善は、ミレニアム開発目標で設定された8つの目標
のうち、目標2 「初等教育の完全普及の達成」、目標3「ジェンダー平等の推進と
女性の地位向上(初等・中等教育における男女格差の解消)」でも取り上げられて
第3 章
いた重要な課題です。日本の協力が、限られた地域での一時的な成功に終わるので
はなく持続的な効果を生み出すためには、相手国自身が学校運営委員会制度の普及
初等教育の拡充
に予算をつけ、国の制度として定着させていくことが求められます。国際協力が成
功するためには、支援により開発された「成功例」が、受け入れた側の自助努力に
よって引き継がれていくことが、どう
しても必要なのです。そして、引き継
がれやすい形を探るため、
「ともに考
え、ともに試し」改善を積み上げてい
く作業が続けられています。
西アフリカ、ガンビア共和国の子どもたち
プレワーク・スタディ
初等教育の普及について身近な例から理解するために、以下について調べてみま
しょう。
(1)日本の初等教育の就学率の推移を明治維新後からたどり、どの年代に 90%を超
えたかを Further Steps の「日本の教育経験 途上国の教育開発を考える」を参
照して確認しましょう。
(2)日本では、すべての親は子どもが中学校を修了するまで教育を受けさせる義務
があります。義務化に際して、給食の導入や教科書の無償配布が大きく貢献し
たとする意見があります。これらの施策(昭和 27 年「学校給食法」
、昭和 37 年
「義務教育諸学校の教科用図書の無償措置に関する法律」)の目的を確認しま
しょう。
(3)PTA とは何でしょう。沿革、理念を表すキーワードを 5 つ挙げてみましょう。
(4)教育委員会とは何でしょう。 沿革、理念を表すキーワードを5つ挙げてみま
しょう。
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第Ⅰ 部
グループワーク課題
ワーク1
途上国で子どもが小学校に通うには、子どもだけでなく、親や教師も
いろいろな問題を克服しなければなりません。
親
子 ど も が 学 校 に 行 く と、
農作業の手伝いが減って
大変だ。
息子はいいけど娘は無駄
かな。どうせ嫁にいくん
だから。
お金になることを教
わっているって本当な
のかな?
隣村では、学校へ行かせよ
うとする役場に村人が火を
つけたそうだよ。
子ども
学校っていろいろ教わ
れ て 楽 し い な。 ト イ レ
は 臭 い し、 教 室 も 雨 漏
り す る け ど、 友 達 が 増
えるのはうれしいもん。
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先生はお休みが多くて、すぐ
に自習になっちゃう。教科書
も足りないし、文房具も買え
ない。稲刈りのときには来さ
せてもらえないかも。試験と
重なるけど。
教 員
初等教育の拡充
教材も数が足りないか
ら、 板 書 し て 生 徒 に 書
き写させるしかないよ。
人手が足りないから、
算数も国語も理科も社
会も教えなきゃ。準備
が大変。
第3 章
ひとクラスに 60 人もい
る し、 う ち 25 人 は 去
年進級できなかった生
徒だ。欠席がちだけど、
両親が家の手伝い優先
だって言うし。
給料も安くて、3つの
学校を掛け持ちしない
と、生活できないよ。
上にあげたつぶやきに加えて、次の人々のつぶやきを考えてください。
(1)小学校の校長
(2)村役場の教育振興の担当者
(3)村の商工会議所リーダー:村で商店を開き、
(4)県庁の初等教育振興の担当者
地域の零細企業の取りまとめをしている人
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第Ⅰ 部
グループワーク課題
ワーク2
関係者
親
子ども
教員
小学校の校長
村役場の
教育振興の
担当者
村の商工会議所
リーダー
県庁の
初等教育振興の
担当者
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イラストのつぶやきとワーク1で考えたつぶやきをもとにして、途上国の
初等教育を取り巻く論点を整理するために次の表を完成させてください。
願望
抱えている問題
今、自分だけで
できること
外部支援に
期待すること
ワーク3
上の課題で出てきた論点を、下の表に沿ってまとめなおしてください。
対応を急ぐ問題
援助の対象とする場合の
扱い方
第3 章
観察された問題
初等教育の拡充
インフラ
(校舎や教材の整備状況)
に関連する問題
教育にかかわる
人材の質に関連する
問題
教育内容に関連する
問題
教育振興を進める
行政の側の問題
その他
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第Ⅰ 部
学校に通えるようになったと喜ぶ子どもたちの写真、みんな目が輝いていますね。私も
早く会いに行きたいです。
ちなみに、2014 年の人間開発指数のワースト3はニジェール、コンゴ民主共和国、中央
アフリカの順だよ。開発最低位国グループはほとんどがアフリカの国だね。
ワースト1のニジェールで初等教育の就学率が上がったんですね。それってすごいです!
一方、ベスト3はノルウェー、オーストラリア、スイスの順。日本は総合で 17 位だけど、
ジェンダー開発指数では 79 位で、女性の社会進出の遅れが目立っているね。
日本もまだまだ開発の余地があるんですね。これからは女性の活躍が期待されていると
思うと嬉しいです。がんばらなくっちゃ!
さすが友子さん。頼もしいなあ。
Further この章で議論したことをより深く掘り下げるために、以下の報告書をネッ
Steps
ト検索し、その内容を確認してみよう。
・JICA 国際協力機構「日本の教育経験 途上国の教育開発を考える」2003 年 11 月
(pdf)
こちらの文献や資料も当たってみよう。
・アマルティア・セン/東郷えりか訳『人間の安全保障』集英社新書、2006 年
・アマルティア・セン/大石りら訳『貧困の克服』集英社新書、2002 年
・ 佐久間潤「基礎教育協力の新たな可能性―インドネシア地域開発支援調査
(REDIP)の事例」『国際協力研究』Vol.18、No.1、2002 年
・牟田博光「総合的国際教育協力の可能性と問題点―マラウイ国前期初等教育学校
プログラムを例として」『国際教育協力論集』第 4 巻第 2 号、2001 年
・JICA 国際協力機構ウェブサイト「みんなの学校プロジェクト」ニジェール
・日本ユネスコ協会連盟ウェブサイト「世界寺子屋運動」カンボジア
・廣里恭史「途上国における基礎教育支援」『国際的なアプローチと実践』 学文社、
2008 年
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「人間の安全保障」 という言葉は、国連開発計画(UNDP)が 1994 年の「人間開発報告書」
の中で初めて使いました。人間の生存を脅かすものを脅威と捉え、これに対処することを国際
協力の基本姿勢とするように求めたのです。現在もこれを引き継ぎ、人間の安全保障委員会が
第3 章
国際協力キーワード
人間の安全保障 にんげんのあんぜんほしょう Human Security
活発に発言しています。人間の安全保障のためには、国家の安全保障だけでは不十分であり、個々
人が「欠乏」や「恐怖」にさらされないように対処することが必要とされています。「個人の生
存、生活および尊厳を守るための制度」をつくり、「人間の中枢にある自由」 を守り、ゆくゆく
初等教育の拡充
は「個々人の潜在力を開花させ意思決定に参画できるようにする」ことを国際協力のテーマと
することを求めています(2003 年 5 月 1 日付け、人間の安全保障委員会事務局報告書)。この
章で扱った初等教育の強化は、人間の安全保障強化のための重要な活動です。
ばんにんのためのきょういくせかいかいぎ
万人のための教育世界会議 World Conference on Education for All
1990 年タイのジョムチェンで、155 カ国の代表、国際的な援助機関、NGO、研究者らが参加し、
基礎教育の普及は国および国際社会の義務であること、基礎教育を受けることは人権の1つで
あることを 「万人のための教育宣言」 として発信しました。基礎教育の範囲に、初等教育だけ
でなく、幼児教育、識字教育、ノンフォーマル教育なども取り入れ、2000 年までに成人も含
めてすべての人が基礎的な教育を受けられる環境をどのように整備するかという「行動枠組み
(Framework for Action)
」
も採択されました。
この会議以降、
基礎教育重視の国際世論が形成され、
国際協力は基礎教育重視の方向に傾いていくこととなりました。
ダカール行動枠組み ダカールこうどうわくぐみ Dakar Framework for Action
世界銀行および国際援助機関の呼びかけで、164 カ国の代表、35 の国際機関、多数の NGO
や研究者が 2000 年セネガルのダカールに集まり、基礎教育普及の徹底を求めました。6 つの
目標が設定され、
「教育機会の男女格差をなくすこと」
、
「初等教育を 2015 年までにすべての子
どもに受けさせること」についてはミレニアム開発目標としても採択されました。また、「生活
の改善に役立つ学習内容(life-skill)を盛り込んだ教育をおこなうこと」など教育の質に関連す
る目標も掲げられています。これは、この章で取り上げたニジェールの「みんなの学校プロジェ
クト」の進める重要な活動のひとつでもあります。
この行動枠組みでは、ジョムチェンで採択された行動枠組みの執行が不十分な形で終わった
ことを反省し、目標の達成に向けた活動の進捗を監視すること、予算措置を確保すること、関
係者間の協働態勢(パートナーシップ)を強化することを特に強く求めることとなりました。
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