美術史学と文化政策

美術 史 学 と文化 政 策
-19世 紀 ドイツ美術 の研究 と当時 の文化政策 をめ ぐって 一
高阪一治 *
AH Histoly and CulturaI Policy
―
A Mcmorandum of Gttman Alt Histoり
Kosaka,
in the 19th Ccnt■liy and Cultural PoLcy“
Kazuhalu
01は じめ に
ドイツが美術 史学発祥 の 地であ る ことは意外 と知 られて い な い 。美術 とい えば, イ タリアや フラ
ンスが 真 っ先 に思 い浮 かぶ ことか ら美術 史学 の成立 も この どち らかの地 で あ る と想像 しが ちであ る
が ,そ うで はな いので ある。 もちろんラ イ タリア ・ル ネサ ンス期 を中心 とす る美術 史研 究 に占め る
G・ ヴ ァザ ー リの F美 術 象列伝』 (1550,1568)の 意義 は揺 るが な い と して も,こ の 書 に明 らか な美
術 京 の伝記 の 集成 と して の 美術 史 とい うので な く,形 を重視 した様式 史 と しての美術 史 を提 唱 した
のは,18世 紀 の ドイツの古典考古 学者 」・ ヴ イ ンケル マ ンで あ った。 そ して,1813年 ,Fイ タ
リア研 究 』 (1827)で 知 られ る フ ォ ン・ル ーモ ール を弟子 に持 つ ヨハ ン ・ ドメ ニ コ ・ フ イオ リ ロ
,ゲ ッテ イ ンゲ ンの 地 で 大学 におけ る最初 の美術 史 の 講義 を開始 した。その後 , G・ ヴ
ァーゲ ン (waagcn)が ,ベ ル リ ンでの絵 画館 の 建設 に意 を注 ぐ一 方 で ,ベ ル リ ン大学 の美術 史講座
担 当教授 と して , 1844年 以来 ,教 授 活動 に励 んだ。美術 史学 が大 学 にお け る専攻分野 と して認
(Fお
llo)が
め られたの は ,こ の ヴァー ゲ ンの招聘 を もって晴矢 とす る。 これ に次 ぐの は,
(1)
イテルベ ル ガーによるウイー ン大学美術 史講座担 当教授 へ の就任 であ る。
1852年
の R・ ア
19世 紀 は,今 日に続 くさまざまな文化 的諸制度 が成立 を見 た時代 で あ る。 上 記 の よ うな学問分
野 にお いて は ,学 問 の細分化 と再編が 図 られ ,と りわけ 自然科学 は技術 と結 びつ いて発展 を とげ る。
こ う した動 きを推進 した実証 的精神 は,理 系学 問 に とどまらず ,さ まざまな文 系学問 に も及 び ,歴
史学 にお いて は,厳 密 な史料批判 に基 づ く近代学 問 と しての姿 を生み 出 した。芸術 の 分野 も例外 で
18世 紀末 ,カ
19世 紀半 ば になる と,こ れ に対抗
す る形 で近 代 芸術学 が立 ち現 れ る。学問 か ら美術 の現象 に目を転 じる と,す で に前世紀 に成立 した
はない。
ン トに よつて近 代美学が成立す るが ,
ものが あ るにせ よ,美 術館 ・博物館 ,展 覧会 ,批 評 ,美 術教育 ,美 術市場 とい つた制度 が 出現 す る。
美術 史研 究 にあつては,今 日,
19世 紀美術 の研究 にお いて,1960年
代後半以 降,そ れ まであ
へ
つた フランス美術 中心 の研 究方法 の 見直 しが起 こ り, R・ ツ ァイ トラ ーは 19世 紀 は「未 だ知 ら
*芸 術 表 現 講 座 美 術 理論 美 術 史研 究 室 、 教 授
Selninar of Thcoly of Art and Att History,
Profcssor of Tottori Univcrsity
高阪一治 :美 術史学 と文化政策
れ ざる世 紀」 で ある と述 べ た。(2)ま た ローゼ ンブ ラムは「 19世 紀美術 をそ れ 自身へ と戻 し,
世紀美術 を 20世 紀 の語法 ・語彙 で 解釈す るので な く,
19
19世 紀 な りの語法 ・語彙 で解釈す る」 こ
とを提 唱 して ,
19世 紀 自身 が 内包す る多様 ・多彩 な もの を把握すべ き こ とを説 いた。(3)
本稿 は, 19世 紀 ドイツ美術 研 究 の一 環 で は あ るが ,美 術創造 がそ こにお い て な され る社 会的環
境,と りわけ美術創造 にまつ わる環境 の整備 ,す なわ ち,文 化行政 。文化 政策面 を視 野 に入れ , ドイ
ツの美術館 に焦点 を当 て つつ ,少 しく考察 を試 み た覚 え書 きであ る。
19世 紀
ドイツ美術 をめ ぐる歴 史 的背景
19世 紀 ドイツ美術 の状況 は,フ ラ ンス美術 の それ とあ ま りに も違 っていた。周知 の よ うに, ド
イツは 16世 紀 の 宗教改革 と農民戦争 の 戦場 とな り,ま た 17世 紀前半 に生 じた三十 年戦争 か らも
大 きな影響 を受 け た。国 の統 一 と文化 的発展 は ままな らず ,領 邦制 を引 きず っていた。これ に対 し
,
フラ ンス は絶対王政 に よる統 一 を背景 に,美 術 の 面 では美術 アカデ ミー とい う中央集権 的 な中心 を
得 て ,拠 るべ き美術 の伝統 を基 礎 に,連 続 的 な発展 と草新 を可 能 にす る条件 を整 えて いた 。反発 す
る勢力 があ るにせ よ,中 心があ る とい う こ とは これ を乗 り越 え よ う とす る美術 家 の 自発 的 で 創造 的
な制作 を促 す役害↓を果 たす ものであ る。大革命 を経 て も,美 術 アカデ ミーは新 た な意 義 を得 て生 き
残 った。 ドイツの美術 家 たちは ,多 くは文字通 り孤独 に ,彼 らを育 む充分 な伝 統 もな く,一 人 ひ と
りが模索 を重 ねねばな らなか った。 つ ま り,フ ラ ンス にあ っては美術 は 国家及 び 国民 の 歩 み と軌 を
― に したのであ り, ドイツの場合 は ,そ うで はなか った。美術家が革新 の対 象 とせ ぎるを得 なか っ
たのは ,往 々 に して宗教 的 ない し祖 国愛 的 な生 活基盤 で あ った。(1)
2.文 化行 政
。文化 政策 の対 象 としての ドイツの美術 アカデ ミー と美術館
ドイツの文 化政策 と聞け ば ,多 くの人 はまず 20世 紀前半 の ナチ スの文化政策 を思 い 浮 かべ る こ
とで あろ う。 そ して また戦 前 のわが 国 の それ を も連想す るか も しれ な い 。 それ らは まさ しく作 品内
容 に踏み込 み ,創 造 を制約す る,上 か らの 文化統制 であ った。
だが ここで 問題 に して いるのは ,そ れ よ り以前 の 19世 紀 の 時代 で あ る。領邦 制 の域 を出 なか っ
た とはい え,い や出 なか ったか ら こそ , ドイツ各地 には ,害 Jと 小 さな都市 に も,今 日で も美術館 や
オペ ラハ ウス ,図 書館 な どとい った文 化施設 が 競 う ように存在 し,市 民 や観光客 を楽 しませ て くれ
る。 これ らが ,今 日で言 うところの 地域文化振興 に大 い に貢献 して い るこ とは ,明 らかであ る。
そ の基 を築 い た ものの一 つ は ,
1830年 以 降 に始 まる美術 館 の建設 で あ つた。 1700年
前後
か ら始 まる ドイツ語圏 における美術 ア カデ ミーの 設立 は,各 地 の王 や為政者 の 下 で そ の 威信 を明瞭
に文 化面 にお いて示 し,ま た実益 を もた らす必 要性 か ら,そ れ らの産 物 を生 み 出す美術 家養成 の 機
関 ,並 び に教 育機 関 と して設 け られ た。本来 ,こ れ も美術 の振 興 に資す るはず で あ ったが ,紆 余 曲
折 を経 て 19世 紀 には,美 術 余 を縛 る もの と見 な され る よ うにな っていた。 ドイ ッ語 圏 にお ける美
術 アカデ ミーはパ リを手本 に して い る ものの ,先 に見た よ うに ,フ ラ ンス と社 会的基盤が異 な り
,
(5)
同 じ効 果 を生 む ことはで きなか った。
で は 美 術 館 の 建 設 事 情 を ミュ ンヘ ン に見 て み よ う。 ミュ ンヘ ンは ドイ ッで は 「 美 術 の 都 J
して知 られ る都市 で あ る。 この 地 にあ るアルテ ・ ピナ コ テ ー ク (古 絵 画館 )は ,元
来 ,芸 術 に対 す る熱愛 か ら この 地 を芸術 に溢 れ る都市 た らしめ よ う と した バ イエ ル ン国王 ルー トヴ
(Kunststadt)と
鳥取大学教育地域科学部紀要 教育 ・人文科学
第 5巻
第 1号
1848)の 命 に よ り,バ イエ ル ン国立美術館 の一 環 と して , 1836年 に完 成
(6)レ
オ ・ フ ォ ン・ ク レンツェの 設計 に よ り, 1830年 の グ リュ プ トテ ー ク
を見 た もので あ る。
(彫 刻館 )に 次 いで 完成 した。 デ ュー ラ ー をは じめ とす る世 界的 な ドイツ作家 の 優品 な どを所 蔵展
イヒ I世 (在 位
1825‐
示す る本美術館 は , ミュ ンヘ ン を美術 の都 た ら しめ ,さ まざまな美術 家 を引 き寄 せ ,交 流 させ る と
ともに,多 くの 観光 客 を この地 に呼 び寄 せ る元 ともなって い る。 わが 国 の 画家 の ひ と り,鴎 外 の 親
しい友 人である原 田直次郎 が この 地 の美術 アカデ ミーで 学 んで い た こ とは ,鴎 外 の『 うたか たの記 』
(7)の ち にナチ ス が この美術 の都 にお い て , 1937年 の 7月 か ら 11月 まで い わ ゆ
に詳 しい 。
る「退廃美術」展 を 開催 した こ とは, ミュ ンヘ ンの 歴 史 に と り忌 まわ しい一事 と して記憶 され て い
る。(8'
3.ベ ル リ ンの地 とフランツ・ ク ー グラー
(9)
では ,北 の都 ベ ル リ ンで は文化事情 は ど うで あ ったか 。
19世 紀半 ば ,ベ ル リンの地 で 美術 史学
と文化政策 とを い わば一 身 に体現 した のは ,美 術 史家 に してプ ロ イセ ン国奈芸術 局長 とな り,こ の
王 国 の文化行 政 に決定的 な影響 を及 ぼ した フラ ン ツ ・ ク ー グラ ー (1808‐ 1858)で あ つた。
彼 は 『絵画史提要』 (全 2巻 1837),『 美術史提要』 (全 3巻 1842),そ して 『美術史研究小論集』
(全 3巻 1853,1854),ま た『建築史』 (全 4巻 ,1856-1872)を 者 した,研 究意欲 の旺盛 な美術史家
であ った。 この他 にも詩や戯 曲をもの し,素 描や作 曲 を手 がけ,当 時 のほ とんどの家庭で読 まれた
『フ リー ドリヒ大王物語』 の著者 で もあ った。それゆえに,ク ルターマ ンがす
旨摘 してい るよ うに
,
彼 はまさしく「普遍的 な教養 とい う武器 を備 えて美術史研究へ と向か った,あ の第一世代 の美術史
家 の典型J(10)で あ った とい うことがで きる。 フランツ・ クー グラーの弟子 ,ヤ ーコプ・ ブル クハ
ル トは自らの 師 を評 して ,「 高貴 な人格。その視野 は美術史 をはるか に超 えて広が る。」 と語 つて
い る。(11)
こ う した人格 は文化行 政面 で も発揮 された。 自著 『国家行政 の対 象 と しての芸術 につ いて』 に彼
は ヴ ィル ヘ ルム ・ フ ォ ン ・ フ ンボル トの次 の 言 を 自 らの モ ッ トー と して掲 げて い る。「 この こ とは
い くら言 つて も言 い 足 りな い こ とで あ るが ,国 民 が い まだ何 か よ り気高 い ものへ の感受性 を失 わ な
い で い よ う とす る限 り,芸 術 享受 は,国 民 に とつて ま った く欠 くこ とので きぬ もので あ る。」 ク ー
グラーはそれゆえに芸術 に,こ れ に相応 しい社 会的位 置 を確保 すべ く努 め ,プ ロ イセ ン国家芸術 局
長 と しての 自 らの任務 を次 の よ うに定 め た。「芸術 を取 り巻 く外 的情勢 ,生 活 に対す る ,生 活 に占
める芸術 の位置 ,外 的世界 に対 す る芸術家の要求 ,芸 術 家 に対 す る外 的世界 の 要求 を検討 し, こ う
(12)威 厳 の あ るい ささか官僚 的 な言 い 回 しで
した情勢 の正 常化 に力 を貸 す こ とJが それ で あ る。
は あ るが ,芸 術 に対 す る尊敬 と支援 の姿勢 が ここか ら見 て取 れ る。 <軍 人 の都 >と して知 られ るベ
ル リ ンで は あ ったが ,ク ー グラー こそは,「 美術 史学 の ベ ル リ ン学派 の 中心 人物 Jと して ,ま た
文化政策 の責任者 と して ,こ の都市 の文化面 を支 えた人物 であ った。
4.ヴ イル ヘ ルム ・ フォン・ ボ ーデ と 1900年
前後 の美術館
(13)
19世 紀後半 ともなる と,美 術 史研究 の推進 は大 別 して , 2つ の 中心 で なされる こ とになる 。大
学 と美術館 が それであ る。美術館 では所蔵作 品 の調査研 究 が充分可 能 であ るこ とか ら,そ こで の研
究 は理 論研 究 よ りもむ しろ 目利 き的要素が まさ り,こ れ を基 礎 と して進 め られる ことになる。大 学
高阪一治 :美 術史学 と文化政策
にはない 強味 であ る。 ベ ル リ ンや ハ ンブル ク, ドレス デ ンでの美術館 にお ける研 究 は ,オ リジナル
作 品 を目の前 に して ,優 れた指導者 の 下 に遂 行 された。
そ う した指導者 の 中にあ つて も,と りわ け顕著 であ ったのは ,ベ ル リ ンの ヴ イル ヘ ルム ・ フ ォン
'ボ ー デ (1845‐ 1929)で あ った 。法学 か ら美術 史 へ と転 じた彼 は「美術 館 の ビスマ ル ク」 と言 わ
れ ,美 術館経営 の全 般 にわた つて辣腕 をふ るった。 第 2次 大戦後 の東西分割時 には東 ベ ル リ ンに位
置 づ け られてい た 円蓋付 きの著 名 な美術館 には ,彼 の 名が冠 されて い る (ボ ー デ美術館 )。 美術 館
島 の 総 帥 ,ベ ル リ ン美術館 総 長 と して (1905-1920)彼 は意 欲 的 に優 れ た美 術作 品 の 収集 に努 め る
とと もに,研 究 や教育面 ,つ ま り若手研 究者 の 育成 に,ま た 管理運営 に と,活 躍 した。 彼 以前 の 美
術館 は役 人の管理下 にあ るか ,そ れ とも宮廷画家が片手 間 に館長 となるかのい ずれか で あ り,フ ォ
ン・ ボーデ こそ は ,国 立機 関 と しての美術館 が どこまでやれ るか を示 した , と言 われ る。(14)
ハ ンブル クの アル フ レー ト・ リ ヒ トヴ ァル ク
(1852‐ 1914)も
,優 れた指導者 の ひ と りで あ った 。
彼 は教 育面 を も視 野 に入 れ ,今 に至 る も通用 す る次 の 言 を残 して い る。「美術 は人 間 の もつ 創造 力
19世 紀 の学校 はあ ま りに も知的 な も
のに限 られ,す べ ての子供 にあ る美術 的才能 を完全 に無視 して しまって い る。そ の 結果 ,人 生が 単
調 で機械 的な もの に されて しまった。失 われた もの を回復 す るため ,子 供が 自らの 活動 的 。生産 的
の表現 で ある ので ,全 教育 の 中心 に されなければ な らな い 。
なエ ネ ル ギ ー を行使 し得 る方法 が 見 つ け出 されなければな らな い 。J(15)
5。
おわ りに
以上見 た よ うに ,
19世 紀
ドイツ美 術 の研究 の視 点 か らす れば,近 代 美術 史学 の 成立 ,美 術館 に
おける美 術 史研 究 とい う課題 に加 えて ,美 術館 とい う文化施設 の運営面 に如実 に現 れ る美術行 政 ・
美術 政策 とい う,広 く文化政策 の一 環 に据 え られ る課題 も視野 に入 って くる。当時の ドイツの 美術
奈 たちは,こ う した い わば文化制度 の 中で ,制 作 し,鑑 賞 し,生 活 の糧 を得 なければな らなか った 。
しか し繰 り返 す まで もな く,フ ラ ンス とは異 な り,そ れ らが 相互 に関連 して ,美 術 家 たち を支援 す
る とい う体制が整 つていたわ け で はなかった。
第 2次 大戦後大幅 に変 わ った ドイツの文化政策 につ いては ,そ の概 要が小林真理氏 の 手 に よつて
簡 i繁 に まとめ られて い る。(16)本 稿 はそ う した今 日に至 る ドイツの 文化政 策 な い し文 化事情 の い
わば背景 をなす 部分 を,い ささか指摘 した ものであ る。今後 に残 された 多 くの 問題 につい ては ,他
日を期 した い 。
註
(1)美 術 史 学 の 歩 み に 関 して は ,ウ
ー ド・ ク ル タ ー マ ン 著 『 美 術 史 学 の 歴 史 』 (勝
一 治 訳 ,中 央 公 論 美 術 出 版 ,1996),な か で も 第
國興 ・高 阪
9章「 ル ー モ ー ル と美 術 史 学 の ベ ル リ ン学 派 J
(150-162頁 )を 参 照 した 。 Udo Kuhcmalan,Cttθ 力εカセ 滋 r bη ∫rg9∫ じ力,c力 惚,Dθ ′願箸 訪ヵθr
″7sdθ ヵdε 力げ ,Milnchcn 1990,S.89-95
(2)Rudolf Zcitlcr u.a,Dテ g灼 dr'杉 ∫′9プ ♭力/Jク 々汐修rrs(PrOpylacn Kunstgcschichtc,H),1966
I‐
"々
(3)RobeA Roscnblum and H.W.Janson,′
(4)Hcお crt
9ど
かC9ガ タっ И/r,Ncw York 1984
von Einem,Dθ ι
ι
なc力 θ′
啄α′
θ
″,′θ
∫K/9郎 彦ぬ7pllrdク η″施 r Rο ttα 刀打た′76θ うな ′∂イθ,Munchcn
鳥取大学教育地域科学部紀要 教育 ・人文科学
第 5巻
第 1号
1978,S15i邦
訳 は,ヘ ルバ ー ト・ フ ォ ン・ アイネム著 『 ドイツ近 代絵 画史 ―古典 主義 か ら
ロマ ン主義 ヘ ー』 (ネ 申林恒道 ・ 武藤 三 千夫訳 ,岩 崎美術社 ,1985),9‐ H tt。
(5)美
術 ア カデ ミー につ い て は
(邦 訳 はN・
,Nikolaus Pcvsncr,々 αttμ ね げ 力 洗 P,Sr αガ
Prι ∫初 r,Ncw Yol・ lc 1973
ペ ヴスナー『美術 アカデ ミーの歴史』中森義宗 ・内藤秀雄訳 ,中 央大学出版部
,
1974)
(6)ア
ル テ ・ ピ ナ コ テ ー ク に つ い て は ,次 の 研 究 書 が あ る 。 Peter Bё ttger,D,9ガ セ P,η αわ 力θた,η
′
ケ
イカ/Tc力 θヵ,Miinchcn 1972
(7)原
田直次郎 につい ては,別 の ところで述 べ たことが ある。拙稿 「《靴屋 の阿爺》 ―原 田直次
郎 と ドイツ 19世 紀末絵画」,鳥 取大学教育地域科学部紀要 (教 育 。人文科学 )第 3巻 第 1
164な お 19世 紀 の ミュンヘ ンの地 にまつ わる美術家 を全体 として取 り上げ
た も の に ,次 の も の が あ る 。 И ttc力 ηθr Maル r,糊 ′9カ
んク″施 汀,BmclQlaalans Lcxikon dcr
号 ,2001ぅ
pp149‐
/2/・
Miinchncr Kunst,4Bdc, 1981‐ 1983
(8)「 退廃美術」展 については,次 の ものを挙げてお く。Petcr‐ Klaus Schustcr(HrSg von)ラ Dセ
<Kar々 ∫恋励
>豚 ,ヵ θ力ιη ′9」 え FVpttο ηαみοz,α ′ね躍″∫ιザη′ <五 物勉rル サθKDrヵ ∫ど>,Munchcn 1987,「 芸 術
危機一 ヒ トラーと 《退廃美術》
J展 (1995年 ,神 奈川県立近代美術館等で開催)図 録。
(9)こ の項 につ いては本稿註 (1)に 挙 げた クル ターマ ン前掲書 ,邦 訳
(10)ク ル ターマ ン,前 掲書 ,邦 訳 155頁 。
153‐
の
156頁 に基 づ く。
(11)前 註 に同 じ。
(12)ク ル ターマ ン,前 掲書 ,同 154頁 。
(13)こ の項 ,ク ル ターマ ン,前 掲書 ,同 230-233頁 に基 づ く。
(14)ク ル ターマ ン,前 掲書 ,同 231頁 。 なお ボ ーデ につ い ては,以 下 の もの を参照。 Wilhclm
von Bodc,Mciη
Lθ う
θ
η,Bcrlin
Ktrヵ ∫
ど
rθ 型
ο
9,Bcrlin
フιちβテ
Эr9ρ ヵテ
(15)本
(16)小
稿註
1930.Manfrcd Ohlscn,″
7肋 9カ ηッ
οηβοプθz14jね じ
/Pθ ヵてρ
Jsθ ′
胞αθ
力√Drη ″
1995
(5)に 挙 げ た ペ ヴ ス ナ ーの 前 掲 書 ,邦 訳 292頁 。
林 真 理 , ドイ ツの 文 化 政 策 :上 野 征 洋 編 『文 化 政 策 を学 ぶ 人 の た め に 』,世 界 思 想 社
2002.258‐271 頁 。
,