ゴジラの平和学:日米ゴジラ映画の比較分析 講義概要 広島平和研究所

ゴジラの平和学:日米ゴジラ映画の比較分析
講義概要
広島平和研究所
田中利幸
1) 「怪獣」の出自と移動の違い
第1作『ゴジラ』製作―1954年(同年11月3日封切)
1〜22作まで同じスタッフ・チームで製作
田中友幸・プロデューサー、本多猪四郎・監督、香山滋・原作、円谷英二・特撮
(本多は黒沢明の助監督を務めたことがあり、香山は怪奇・幻想ものを得意としていた探
偵小説家)
怪獣プランを思いついたのは田中友幸:
映画を制作の新構想を練っていた田中は、当時ビキニ環礁でのアメリカの水爆実験が社会
問題化していることに着目。また、アメリカで、原子怪獣を主人公とする映画が評判にな
っていることを知り、太古の恐竜が水爆実験で日本近海に現れ東京を襲うというストーリ
ーを考えつく。
『The Beast From 20,000 Fathoms』 produced in 1953
北極圏の秘密基地(ソ連を想定)で核実験が行われ、この実験によって氷山が崩れ、そこ
から氷河期に冬眠状態となった巨大恐竜が出現(全長30メートル、体重500トン)。こ
れはあくまでも「恐竜」であって「怪獣」ではない。この恐竜に固有名詞はなく、beast,
monster, dinosaur と呼ばれる。怪獣を目撃した人間の証言に対する科学的疑念や目撃者
の精神錯乱と見る心理学者の判断など、科学的見地が最初は優先され、その科学的常識を
崩すために映画は延々と時間を費やす。最終的に怪獣を認識するのは「核実験の影響」に
関して新しく獲得された科学知識であり、怪獣を倒すのもまた新しい科学である放射能と
いう、極めて科学合理主義的な論理展開となっている。
「ゴジラ」は200万年前の白亜紀にいた恐竜が大戸島付近に生きながらえていた。ゴジ
ラの存在は島民には代々言い伝えられており、神楽まである「伝説の怪獣」。身長50メー
トル以上、長く太い尻尾を入れると100メートルを超える。体重2万トン。ゴジラは超
恐竜。眠っていた恐竜が核実験の被爆によって目覚め、すさまじい暴風雨とともに出現。
ゴジラには日本古来の「神」、すなわち「海神」、
「魔神」、
「獣神」といったイメージがあり、
極 め て 日 本 的 で 、 反 近 代 的 な 特 徴 が 見 ら れ る 。 ア メ リ カ 人 に と っ て Godzilla は 、
God+Lizard+Gorilla を想起させる。
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人間が科学力で作った水爆という史上最も強力な兵器がもたらす間接的影響によって、こ
れまた人間が作り上げた近代都市である東京が破壊される、すなわち、人間が自分たちの
作り上げた科学技術によって復讐されるという設定になっている。
2) 都市破壊の様式の違い
アメリカ映画の beast 場合:
ニューヨークに上陸した怪獣は道路を歩く。自分の歩行に邪魔になる車を踏みつぶしたり
くわえ上げたりするが、建物の大がかりな破壊は1回限り。しかもその建物の破壊も故意
に行われたのではなく、警官隊のライフル攻撃を嫌って偶然横にあった古い建物に体重を
かけたため壊してしまった。都市全体が破壊されることがないため、逃げていく市民は身
軽。生活の場が破壊されることがないため、生活必需品を持って逃げる人間はいない。「こ
れはまさに戦争だ」、「戦場は市街地」と繰り返し述べられ、怪獣対都市の全面戦争という
想定になっているが、空襲経験のないアメリカ人の都市における「全面戦争」観がいかに
現実離れしていたかが伺える内容の作品。(1998年製作の『Godzilla』でも、建物より
は特定の人間を襲うシーンが多い。とりわけゴジラの子供たちは人間を襲いその肉体を喰
いちぎる。このアメリカ版ゴジラはゴジラというよりは、やはり肉食恐竜である。)
ゴジラの場合:
ゴジラは人を追っかけたり喰ったりはせず、都市とそこに居住する市民を徹底的に破壊・
殺戮する「無差別攻撃」を夜間攻撃で行う。都市は破壊されると同時に大火災を起こして
火の海と化す。そのため、逃げていく人間はできるだけ多くの生活必需品を持ってできる
だけ遠くへ逃げようとする。こうしたシーンは明らかに太平洋戦争末期の米空軍 B29 の編
隊による都市空襲、とりわけ東京大空襲や、ひいては広島・長崎原爆投下を想起させる。
家財道具を抱えて逃げ惑う人々、炎に包まれて焦土と化す市街地、野戦病院を彷彿させる
避難所と次々と運び込まれる怪我人、泣き叫ぶ子供たち等々、これはまさに、太平洋戦争
の最終段階の1945年、空襲を受けた日本各地の都市で見られた悲惨な光景を再現した
ものであった。松坂屋デパートの下にいる子連れのホームレスの母親が、「もうすぐお父ち
ゃまのところにいくのよ」と叫ぶシーンは、この婦人が「戦争未亡人」であることを暗示
している。
しかし、空襲の記憶を呼び起こすゴジラの都市破壊が、同時に、なぜか観客を「おお、す
かっとした!」、「すごい、やるじゃないか!」という気分にさせたことも確かであった。
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ゴジラが破壊する主な建物は:
* 松坂屋デパート
* 銀座和光ビルの服部時計塔
* 日劇ビル
* 有楽町の高架線
* 警視庁ビル
* テレビ塔
* 国会議事堂
* 勝鬨橋(かちどきばし)
不思議なことに皇居は破壊されない(米軍も空爆の攻撃目標とはしなかった)。やはり皇居
破壊はどこまでもタブーなのである。都市破壊の結果、たくさんの人間が殺されているは
ずだが、それも映像としては現れない。観客が目にする「死」は、破壊された巨大建築物
の下敷きになって命を落とす人たちである。これらの巨大建築物は、戦後の復興を象徴す
る代表的なものばかりである。なぜこれらの破壊に観客は一種の「快感」を覚えたのであ
ろうか?国会議事堂が破壊されるシーンでは多くの映画館で拍手が起きた。一つにはこれ
らの建物が、当時の庶民の日常生活とはかけ離れた手の届かない、銀座に存在する建物や、
いまだ高級電化商品であったテレビをシンボリックに表すテレビ塔といったものが多かっ
たという要素があったのではなかろうか。
3) 核の加害者と被害者という二重性を背負うゴジラ
第5福竜丸事件の影響
1954年3月1日、静岡県焼津市のマグロ漁船「第5福竜丸」はマーシャル群島ビキニ
環礁付近で操業中に、アメリカの水爆「ブラボー・ショット」実験による死の灰を浴び、
乗組員が被爆。『ゴジラ』はこの事件を重要なモチーフとして製作された。したがって『ゴ
ジラ』は当然この第5福竜丸事件を連想させるような「反核」テーマを含むようなもので
なければならなかった。原作者香山滋の検討用台本の導入シーンからもこのことが明らか
となる。
* 第5福竜丸、焼津入港
* 原子マグロの廃棄
* 病院へ運ばれる重症患者
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* 『当店では原子マグロ売りません』の貼紙を出す魚屋の店
* メーデーにおける『水爆は御免だ』のプラカード
* 渡って来なくなった燕の空巣をみあげる淋しそうな子供
* 降ってくる死の灰をおそれて、好天にコウモリをさして歩く被害妄想の男
しかし、時代を特定しすぎるという懸念から、完成映画ではこれらの第5福竜丸事件関連
シーンはカットされた。それでもなお、「原子マグロ」、「放射能」という言葉は使われてい
るし、「放射能の脅威」に脅える当時の日本社会の状況が様々なシーンに反映されている。
実際の作品では、「反核メッセージ」が明確に込められているにもかかわらず、「原水爆実
験の脅威」、「放射能の脅威」がなぜかいまひとつ浮き彫りになってこない。東京に上陸し
...
たゴジラは「放射能火炎」で市街地を焼き尽くし、建物を破壊し、市民を追い散らすので
あるが、放射能の影響についてはほとんど描写されないままに映画は進行する。
ゴジラは1954年の公開映画のオリジナル・ポスターでも「水爆大怪獣」、「放射能を吐
く大怪獣」であったはずにもかかわらず、なぜゆえに放射能問題が重要視されなかったの
か?ゴジラ=水爆、すなわち「核実験の加害者」としてゴジラを表現するようなシーンは、
「核実験の被害者」として認識されたゴジラに、映画全体としては、打ち消されていると
ころに問題がある。古生物学者である山根博士は、国会での調査報告で以下のように述べ
る。ゴジラは「おそらく海底の洞窟にでも潜んでいて、彼らだけの生存をまっとうして今
日まで生きながらえておった、それが度重なる水爆実験によって彼らの生活環境を完全に
...........
破壊された、もっとくだいて言えば、あの水爆の被害を受けたために安住の地を追い出さ
れた、とみられるのであります。」
(強調―田中)
かくしてゴジラは核の被害者であると同時に加害者でもあるという二重性を背負わされた
存在として描かれている。これは核兵器を生み出し、それを実験し使用することで他者へ
の「加害者」であると同時に、その「被害者」ともなっている我々人間そのものの存在を
........
そのまま反映している悲しい存在の怪獣なのである。しかし、やはりゴジラには、日本人
の一般的な意識を反映して、核実験の「加害者」よりは「被害者」としての表象が暗によ
り強く込められているのであろうか、ゴジラは持っているはずの「放射能汚染」機能を前
面には出さない怪獣なのである。ゴジラはこの二重性という矛盾を背負っているからこそ、
単なる恐竜ではなく、人間的要素を持っている愛すべき異端児であり、矛盾をなんとか解
決しようともがき暴れ回る反逆児である。
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しかし一方でまた、人間は究極的に原水爆の製造者としてゴジラに対しては加害者である
と結論づけられる。上述の山根博士のゴジラ論がまさにそれであるが、ここには核によっ
て自然破壊を行っている人間の醜い姿がゴジラを介して表現されている。つまり、プロデ
ューサー・田中友幸の言葉、「人間が造り上げた水爆という文明の利器のために、人間が復
讐されるという理念」が、ゴジラ映画の原理念であった。
かくして第1作の『ゴジラ』には、当時の冷戦と核開発競争、1950年から始まった朝
鮮戦争、日本の再軍備の開始など、当時の日本を取り巻く状況と、再び戦争に巻き込まれ
るのではないかという国民の危機感が映画の中の様々なシーンやシナリオに反映されてい
た。したがってオリジナル映画『ゴジラ』は一般的に言われているような「核批判」を含
んだ作品のみにとどまらず、核問題を含む「反戦」思想が深く込められた作品であった。
4)骨抜きにされたアメリカ版ゴジラの問題点
一方、アメリカ製作のゴジラ映画=リメイク版はアメリカの「お家の事情」をもろに表し
ている。第1作『Godzilla: King of the Monsters! 』
(監督・総編集テリー・モース)(日
本語タイトル『怪獣王ゴジラ』)は、ほとんどのシーンをオリジナルの『ゴジラ』をそっく
りそのまま利用しながら、放射能を吐く怪獣ゴジラがどこから、なぜゆえに誕生したのか
を説明するようなシーンは全部抹消してしまっている。細部にわたって、原爆使用国であ
り原水爆実験国であるアメリカにとって都合の悪い部分は全てに修正が加えられている。
例1:山根博士は、ゴジラがなぜ被爆の経験を持つ日本を選んでやってきたのかと考え、
水爆実験にも生き延びられるこの怪獣の能力の秘密に深い興味を抱く。しかし、アメリカ
版での山根博士は、単にゴジラが珍しい動物という理由から調査しようと試みる。
例2:病院でガイガー・カウンターを使用する場面は、日本の観客にとっては広島・長崎
の悲劇を連想させる痛ましいシーン。アメリカ版では、ゴジラの犠牲者たちの傷は「単な
るやけどである」というナレーションがつけられている。
例3:アメリカ版では、日本の調査団は怪獣の探査にガイガー・カウンターではなくソナ
ーを使っているという設定になっている。また、最後の探索シーンでは明らかにガイガー・
カウンターが使われている場面があるが、これをカットしている。
例4:混雑した満員電車の中での女性会社員のせりふ「せっかく長崎の原爆から命拾いし
て来た大切な身体なんだもの」もアメリカ版ではカット。
例5:山根博士の最後の言葉「ゴジラはこれが最後の一匹だとは、とても信じられません。
もし水爆実験が続けられるならば、ゴジラの仲間はまた現れるでありましょう。世界のど
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こかに」というせりふは、アメリカ版では主人公である新聞記者スティーブ・マーティン
の「脅威は去った。全世界は目覚め、また生気をとりもどすだろう」という言葉に置き換
えられた。
かくして監督テリー・モースは核の問題を直接取り上げることをどこまでも拒否する。ゴ
ジラはあくまでも「なぜ生まれてきたのか誰も分からない未知のもの」とされ、結末では、
その未知の怪獣が死んだのであるから、そのことはできるだけ早く忘れた方がよいとされ
ている。
さらにまた、アメリカ版映画は、当時のアメリカ人がいだいていた日本への文化的優越意
識が露骨に表現されており、オリジナル映画はバラバラに切り裂かれ、全く無意味なもの
にされてしまった。
第2作(厳密な意味では第1作)
『Godzilla』(1998 年製作)では、ゴジラはムロルワ環礁に
おけるフランスの核実験によって放射能を浴びたイグアナがゴジラとなって出現し、それ
がニューヨークに上陸するという設定になっている。アメリカ人たちにとっては超怪獣が
自国の核実験で誕生することはありえないことなのである!しかしすでに述べたように、
日本のゴジラとは全く異なり、このアメリカ版ゴジラはその姿も爬虫類にそっくりの恐竜
であり、大量の卵を産み、大量の魚を食べ、その子供が多数現れる。ある特定の人間を攻
撃するために彼らが乗った車を追跡してニューヨーク市内の街路を疾走する。
『怪獣王ゴジラ』同様、このアメリカ映画もまた、最初のイントロ部分であるフランス核
実験をのぞいて、核の問題には最後まで全く触れない。したがって、基本的には『The Beast
From 20,000 Fathoms』や『怪獣王ゴジラ』を巨額の金をかけて作り直しただけであり、観
客の神経にさわらないように、ゴジラの脱日本化、脱政治化をはかって、日米両国の観客
に政治的緊張を強いるような設定は一切避け、どこまでも気楽な娯楽映画にグローバル化
してしまっただけである。それだけではない、ゴジラが持っていた反逆、自由、異端、社
会批判、さらには人間的要素を全部抜き取ってしまい、単なる動物的本能で動き回る巨大
トカゲに堕落させてしまった。
日本のゴジラは芹沢博士が考案した新兵器、水中の酸素を一瞬で破壊して、あらゆる生物
を窒息死させた後で液化してしまう、つまりあらゆる物質を水にしてしまう「オキシジェ
ン・デストロイヤー」という水中酸素破壊剤で殺される。
「オキシジェン・デストロイヤー」
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は、わずかの量で東京湾全域を死の世界に変えてしまうことができる「第二の水爆」とも
言える強力な「最終兵器」である。この兵器が核兵器のように悪用されることがないよう
に、ゴジラをこれで葬り去った後で、芹沢博士は自分も海の中で自殺を選ぶと言う設定に
なっている。こうして『ゴジラ』の結末は、原爆や水爆という大量破壊兵器を生み出した
現代科学とアメリカへの深い批判が込められた、人間的な内容のものとなっている点で、
アメリカの恐竜まがいのゴジラとは極めて異なっている。ゴジラを倒したのはアメリカの
場合のような軍隊、特に空軍や、日本の防衛隊すなわち「国土防衛」を名目に華々しく登
場する自衛隊でもなかったことは注目すべき点である。
5)未来性を失ったその後のゴジラ
1960年代になってゴジラはペット怪獣に堕落してしまい、社会的リアリズムを失って
いった。1964年の『三大怪獣 地球最大の決戦』から1969年の『ゴジラ・ミニラ・
ガバラ
オール怪獣大進撃』までの6作品では、ゴジラは地球を守り、他の怪獣とプロレ
スまがいの格闘を行って常に勝つ「善玉ゴジラ」になってしまった。ペット・ゴジラは人
間に飼いならされた従順なゴジラであって、そこには「恐怖のゴジラ」が持つ予測不可能
性(何をするかわからない)、すなわち我々の想像の限界を次々に破壊していく「未来性を
もった怪獣」という性格を失ってしまっている。ペット・ゴジラの誕生は、それを見る子
供たちを親に従順な飼いならされた子供、親にとってペット的存在である子供、いわゆる
「いい子」にさせようという小賢しい大人の意図が含まれている。未来を失ったゴジラは
もはやゴジラではない。それは、想像力を失った子供が子供でなくなってしまうというこ
とと同じことを意味している。
しかし1980年代に入り、かつて少年期にゴジラ映画を見て育った大人たちの中に「ゴ
ジラ懐古ブーム」が起き、1984年には再び米ソ対立を題材にした「ゴジラ」が制作さ
れた。続いて1989年には『ゴジラ VS ビオランテ』が制作され、「平成ゴジラシリーズ」
が始まった。これら「平成ゴジラシリーズ」には、バイオテクノロジーや環境破壊といっ
た現代の問題が多少反映されているという点では、60年代のゴジラ映画とは確かに異な
っている。
しかし、最近のゴジラ映画作品の問題点は、「自衛隊」がどんどん強くなっていき、ゴジラ
映画というよりは自衛隊映画と称した方がよいくらいに内容が変化してきていることであ
る。しかもその「自衛隊」は防衛するより攻撃する自衛隊となっている。次々と新兵器を
開発し、情報操作を行い、若いエリート制服組が大活躍する。
『ゴジラ VS メカゴジラ』、
『ゴ
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ジラ VS スペースゴジラ』
、『ゴジラ VS デストロイヤー』では、
「G フォース」すなわち自衛
隊が物語の展開をほとんど支配している。それもそのはず、最近の怪獣映画にはほとんど
の場合、防衛庁と自衛隊が映画製作に協力している。例えば1996年製作の『ガメラ2
レギオン襲来』は、「陸・海・空各自衛隊が戦闘や避難シーンはもちろん、シナリオ段階で
もアドバイスするなど全面協力した異例の作品だ。政治課題の有事への対処行動のリアル
な描写も盛り込み、スクリーンの裏からは『国民の理解』を求める防衛庁・自衛隊のした
たかな広報戦略も見えてくる」(毎日新聞1996年6月13日)のである。自衛隊が怪獣
化してきている今日、本物の怪獣であるゴジラには制御装置が打ち込まれ、人間に支配さ
れるようになり、ますます未来がなくなってきたのも当然と言える。
アメリカのゴジラは言うまでもなく、日本のゴジラにも未来の夢を託せなくなってきた現
在の私たちにとっては、自分たち自身の未来そのものが暗くなってきた。私たちは、私た
.....
ちの心の中に残っている、反逆、自由、異端、社会批判、人間的要素を持った革新的ゴジ
.
ラを今こそ復活させなくてはならない。なぜなら戦争を防止し平和を構築するためには、
社会変革が必須の条件だからである。ヤンキーズの松井のように単なるニック・ネームで
はなく、私たち自身が皆本当のゴジラにならなくてはならない!ゴジラ映画を本来のゴジ
ラ映画に戻すことができるのは、映画制作会社や映画監督ではなく、私たち観客である市
民である。しかし、そのためには私たちは平和構築へ向けて私たち自身の想像力を豊かに
しなければならない。
参考文献
高橋敏夫著『ゴジラが来る夜に』(集英社)
東雅夫編『怪獣文学大全』(河出文庫)
ピーター・ミュソッフ著『ゴジラとは何か』(講談社インターナショナル、1998年)
『特撮映画大全集・東宝怪獣映画編・傑作選1』(株式会社セプト、2003年)
『ゴジラ画報・第3版』
(竹書房、1999年)
『超最新ゴジラ大図鑑・増補改訂新版』(株式会社バンダイ、1992年)
坂井由人・秋田英夫著『ゴジラ来襲・東宝怪獣・SF 特撮映画再入門』
(KK ロングセラーズ、
1998年)
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