日本の消費社会の起源と構造 −江戸・明治・大正の酒造産業を中心に 第

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日本の消費社会の起源と構造
−江戸・明治・大正の酒造産業を中心に
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江戸は私たちの想像以上に経済社会化が進んだ時代であった。現代社会のさまざまな規
範や制度の淵源が形成されている。
「日本的」と感じられるものも、この 250 年の間に形成
されている。ここでは酒造政策を中心に以下の点を掻い摘んで論じる。
•
江戸とはどんな時代だったのか
•
江戸酒産業はいかに形成されたのか
•
規制政策、規制緩和政策の採用された歴史的背景、政策が産業に与えた影響はどの
ようなものだったのか
•
江戸酒産業と規制政策の歴史的教訓とは何か
結論として、経済規制政策、規制緩和政策、そして産業政策の考え方や枠組もこの時代
に形成されていると言っても過言ではない。
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第1章
規制緩和と酒産業の多元化−江戸期の酒造政策に学ぶ
はじめに
現代が、明治維新、先の大戦での敗北につづく「第三の開国」の時代と呼ばれる大変動
の時代であることは言うまでもない。日本経済においては、バブル経済の崩壊、景気後退
局面から約5年が経過しようとしている。しかし、未だ、明確な方向が見いだせないまま、
自然災害、社会的事件に遭遇し、未曾有の危機に直面している。これは、単なる景気の短
期的な循環的側面の課題ではなく、歴史的、構造的な問題に直面していることの証査であ
るように思われる。
この歴史的危機の状況のなかで、処方箋として提示されているのが、「規制的緩和政策」
ある。経済規制に関しては、
「原則自由」とし、最低限の規制によって、自由競争を促進し、
経済的活性化を進めようとするものである。総論では社会的合意が形成されているように
見えるが、個別産業では、異論、反論が渦巻いている状況である。理論的に多くの問題を
抱えていることもまた事実である。
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本稿は、江戸時代の酒造政策を詳らかにし、政府政策の産業への影響、規制政策の功罪
を歴史的に検証しようとするものである。その狙いは、「人間の知恵」と呼ばれる歴史的教
訓を得ようとするところにある。
江戸という時代
慶長8年(1603)徳川家康が征夷大将軍になり、江戸に幕府を開いて、江戸時代、徳川
日本は始まる。17 世紀から 19 世紀まで約 250 年の期間である。この間、家康から慶喜ま
で 15 代の徳川家の将軍の統治がつづいた。
江戸時代は現代からみれば、「明治以降の近代化」以前の時代である。対外的には「鎖国
体制」をとり対内的には、「幕藩体制」をとった。長い政治的安定と平和が維持された時代
でもあった。経済的には、身分制にもとづく兵農分離、そして幕府と藩を主体とする領主
経済、米を基軸とする石高制がとられた。
この江戸時代を現代との関連でどう評価するかについては、いくつもの見解がみられる。
西洋との比較、特に、科学的精神と科学進歩の遅れの要因を鎖国にみられる「島国根性」
にもとめる否定的な見方は、和辻哲郎の『鎖国』に代表される。
他方、古代奴隷制―封建制―絶対王政―市民革命―近代社会という歴史図式のもとでは、
封建制にもっとも類接する歴史段階である。かつて、歴史家、服部之聰は、同時代に対外
的な影響を受けながら、インドや中国よりも先んじて「近代化」しえた根拠を、資本主義
の前段階における「厳密な意味におけるマニュファクチュアー」が江戸時代にみられたこ
とにある、と主張した。江戸時代をより積極的に評価した代表的見解でもある。いずれに
しても、江戸時代は、貨幣による市場取引が経済の全体を支配する近代社会の前段階にあ
たる。また、市場経済と政治が分離し、市場経済が政治より優位に立つ近代社会にもっと
も近く、市場経済が成長し、経済社会が定着した時代でもある、つまり、もっとも現代に
近い歴史であることに違いはない。
江戸時代の経済を概観すると、17 世紀、18 世紀、19 世紀と 100 年単位でその特徴を整
理することができる。江戸時代の酒造政策を明らかにする前に少し整理してみてみる。江
戸時代の経済は、17 世紀が「都市と外延的成長の時代」であり、18 世紀が「停滞と内包的
成長の時代」
、19 世紀が「地方とプロト工業(近代の工場制工業、工業化の前の原型工業)
の時代」と特徴づけることができる。
酒造政策の転換が行われるのは、17∼18 世紀の転換の時代、すなわち、
「峠の時代」であ
る。江戸の経済成長を山道に喩えるなら、17 世紀は高度成長、バブル経済の道であり、18
世紀は三度の大飢饉と自然災害に見舞われた下り坂であった。丁度、峠は 18 世紀初頭、8
代将軍吉宗の時代である。
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江戸の市場経済化と酒産業の成立
江戸の誕生・消費の分離
江戸の経済は、領主経済といわゆる「民間経済」によって構成されていた。領主経済は、
将軍や領主が貢租として領民から米を徴収し、それを俸禄として家臣に与え、対価として
忠誠と軍役を得る。この領主経済に対して、被支配層である農民と商工業者によって構成
される経済がある。ここでは、農民の農作物と商工業者によって作られた物品やサービス
が、貨幣によって市場取引される。
この民間経済に使用される貨幣は、貨幣の独占的製造権をもつ幕府によって供給、市場
取引されるとともに、米以外の物品やサービスも貨幣を通じて支配階級に取引される仕組
になっていた。被支配層は、自給自足を原則としながらも、徐々に貨幣を通じた市場経済
に依存する比重を高めていった。特に、木綿や酒がもっとも早くその商品としての市場化
を進めていった。
江戸の市場経済化をもっとも大きく進めた要因は大都市江戸の誕生にある。幕府は、領
主制にもとづいて、領主に城下町建設を促した。約 300 もの諸藩の領主はこの方針にもと
づいて城下町建設に乗り出した。城下町には、領主の家臣が居住するとともに、家臣の生
活を支えるさまざまな商工業者が必要になる。新しい城下町にこうした商工業者を誘致す
るためにさまざまな優遇策がとられた。一般的には、住居用敷地の無償提供、地子銭、な
どの租税の軽減、楽市楽座による自由取引の保障などである。
そのもっとも巨大な城下町が江戸である。江戸の人口は正確には知ることができないが、
18 世紀中頃には百万人に達していたとみられている。
「諸国の掃溜」と揶揄されながらも世
界最大規模である。将軍直属の家臣団である旗本や御家人、参勤交代の制により、隔年の
江戸居住を義務づけられた諸大名と常詰家臣が生活をする必要があった。これらの武士層
が 50 万余、生活必需品やさまざまな商品やサービスを提供する商工業者、町人層が 50 万
余であったことが知られている。
この百万人の生活を支えるために市場経済化が進んだのである。さまざまなものが商品
化されて市場取引の対象となっていく。製造商品としての主なものは、養蚕・製糸、綿織
物、酒などであった。江戸期の製造業のなかで、これらの三商業がどれだけの比重を占め
ていたかは定かではないが、明治初期の「明治7年府県物産表」にもとづく推計によれば、
製造業総計の 33%、あるいはそれ以上とされている。酒造業だけでも 17%以上を占めてい
たと考えられる。江戸初期においてはもっと大きな役割をもっていたことが伺い知れる。
この江戸市場に商品を供給したのが、
「天下の台所」と呼ばれた大阪であった。市場経済
化の一方の担い手である。江戸が買い手になり、大阪が売り手となった。なぜ、地理的に
離れた大阪がこうした役割を果たすようになったのかはいくつかの理由がある。
ひとつは、江戸周辺の経済、後の「地廻り経済」が未発達であり、江戸の巨大な需要に
対応できなかったことがあげられる。二つめは、幕府の命により、延宝元年(1673)に、
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東廻り航路、翌年には西廻り航路が、河村端賢によって開かれたことである。このことに
よって、菱垣廻船、樽廻船という恒常的な輸送手段が生まれた。つまり、比較的豊かな西
の物産を大坂へ集中させ、大坂から江戸への大量輸送が可能となったのである。陸路での
馬の輸送には時間と輸送量の面で限界があった。3つめには、大坂及び京都近畿周辺は歴
史的に優れた商工技術と人材が豊富であったことである。
江戸という巨大都市が誕生したことにより、生産と消費が一体となった社会から、生産
と消費が分離された社会への転換が始まったのである。江戸、大坂、地方という地理的分
業化によって市場経済化は進んでいった。
新しい価値・清酒と酒産業の誕生
自給自足が中心の経済では、物産は商品とはならない。酒も同様であった。
酒の醸造は、古代に「民族の酒」とし登場して以来、「朝廷の酒」となり、寺社にその技
術が引き継がれ、中世には「南都諸白」が銘酒として知られた。こうした技術が広く各地
の村々に伝承され、民間に普及していったのである。当時の多くの人々が飲んでいたのは、
「諸白」(清酒)ではなく濁酒であった。
柳田國男によれば、酒の醸造は、村の有力者(庄屋、名主など)が兼業として、自然に
生息する麹と「強清水」と呼ばれる神社の湧き水を利用して醸造した。そして、その飲ま
れようは、神事や通過儀礼などの年中行事や祭りに、大勢の人々とともに饗飲されるもの
であった。人々は酒の旨さよりも、共同で「異常心理」を経験すること、酔うことに酒の
価値を見いだしていた。村の共同の人間関係がこうした酒の価値を規定していたのである。
このような伝統的な酒の醸造と飲み方は、少なくとも明冶 37 年(1904)の自家製造酒の
全面禁止が法制化されるまでは続いたようである。また、地方によっては大正昭和まで続
いていた。宮沢賢治の大正期の作品に『税務署長の冒険』という面白い題名の小説がある。
これは密造酒摘発の物語であり、この事実によって法制化以後も根強く酒造りが村々に残
っていたこと、また、政府への密かな民衆の抵抗を伺い知ることができる。
都市の成立は、「掃溜」という言葉に象徴されるように、村の人間関係とは異なる社会関
係を創造することになった。新しい酒の価値が求められたのである。
「納豆的な人間関係」
から、「原子的な人間関係」の要求する「独りで飲める旨い酒」へと価値が転換したのであ
る。この価値転換に対応したのが、
「諸白」で、江戸市場を最初に制したのは、南都諸白か
ら技術を継承した「伊丹諸白」であった。
井原西鶴が称賛する伊勢松坂の出身の三井家始祖、三井高利に並び賞される大商人に鴻
池善右衛門がいる。現在の鴻池新田(東大阪市鴻池町)は鴻池家の新田開発の成果でもあ
る。この大商人の基礎を創ったのが、鴻池幸元である。幸元は、伊丹に隣接する宝塚で濁
酒をつくっていたが苦心の末、芳醇な清酒の醸造に成功する。
幸元は、これを江戸市場に投入する。これが人気を博し事業が拡大していく。輸送は陸
路で馬を使い、四斗樽を一頭の馬に2つずつ積んで運んでいた。この単位が後の海路での
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輸送単位の「一駄」の語源になる。この事業はさらに成功し、大坂へ進出して醸造とその
販売を始める。さらに、寛永年間(1624∼44)には、海運業に乗り出し、江戸への酒の運
搬と帰りには諸大名の貨物輸送を受託し、「のこぎり商売」でも成功した。「江戸積酒造業」
の始まりである。
大坂から江戸に運ばれた樽酒(
「下り酒」
)は、江戸十組問屋の酒間屋に荷受けされ、小売
りへと卸売りされ、小売店が水を加えて完成品にして、徳利などの容器で「量り売り」され
ていた、と考えられる。しかし、この時代の小売りでは「店先売り」は極めてめずらしい。
呉服業を営んでいた三井高利の「三井越後屋」は「現金掛値なし」、「店先売り」中心で
革新的な売り方として賞賛されていた。多くの大店では風呂敷包みに商品を入れて背負い
訪問販売するのが主流であったからでる。恐らく、小売りの主流は、
「裏店」の長屋に居住
する「雑業的」な人々、「棒手振」(天秤棒でかついで物を売り歩く人)などによっても担
われていたことも考えられる。いずれにしてもこの時期の小売り段階がどのようなもので
あったかは判然としない。生産、卸、小売りの明確な機能分担がなされていなかったこと
にもよると考えられる。銘柄は有名なものを除いては問屋によって決定されていた。(「手
印」)この販売制度は、生産者が問屋に販売を委ね、問屋が主導権を握る「委託販売システ
ム」であった(山田聡昭他、『伝統と革新』)。
ここには、伊丹諸白の典型的な成功物語をみることができると同時に、商品としての酒
の誕生と酒造りの関与者が産業として組織化されていく過程を知ることができる。伊丹諸
白は、「丹醸」として名を馳せるとともに、「剣菱」「男山」などの銘柄も広範に知られるよ
うになる。元文5年(1740)には、将軍吉宗の「御膳酒」となっている。
伊丹諸白が成功した要因には、商品としての品質の高さ、それを可能にした醸造技術の
開発、甕・壷容器から四斗樽への代替による輸送の軽減、馬による陸路輸送手段の開発、
開拓された航路、菱垣廻船の早期利用などがあげられる。
江戸の誕生とともに、酒は新しい価値をもった商品となり、酒の造り手、造り手間の競
争、醸造技術、買い手などで構成される産業が誕生したのである。
酒造規制の強化と緩和−その背景と影響
元禄の酒造規制政策
17 世紀の江戸時代は「人口爆発」の時代だった。
江戸前期には、年率 0.61%ないし 0.96%の成長である。これは、
「前近代社会としては驚
くべきハイ・スピード」(速水・宮本、『経済社会の成立』)であった。城下町が建設され、
新田開発、灌漑工事などにより耕作地が拡大され、人口も増大していった。まさに、労働
人口と耕地面積という経済への投入資源を増大させることによって、外延的な高度成長を
達成したのである。
一般に、為政者の酒規制政策の起源と言われているのは、建長3年(1251)、鎌倉幕府が
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発布した「沽酒禁制令」である。沽酒とは「売る酒」の意味であり、酒の売り買いを禁止
したのである。しかし、経済社会の成立以降をみるならば、その起源は江戸時代、幕府が
酒と関わりを持つこの時期である。
明暦3年(1657)、第四代将軍家綱の時代に酒株が制定されている。これは、酒の製造販
売に関し、三つの側面を規制、制限するものであった。人的限定、量的限定、地域的限定
である。幕府は、この株を通じて酒の生産量を規制し、株札に表示されている株高によっ
て数量を統制した。しかし、現実には減醸規制の有無とその割合が毎年異なっていたため
に、株表示の石高と現実の生産高・生産能力は常に乖離し、幕府は現状把握とその統制と
の繰り返しに陥ることになった。
明暦3年から正徳5年(1715)までの江戸前期に、約 30 の酒造統制令が発布されている。
その特徴は、明暦3年に定められた酒造量を基準に一貫して減醸を命じているが、減醸の
規模は、2分の1から8分の1までに拡大していく。元禄 10 年(1697)には、株が改めら
れ、より固定化されるとともに、50%の運上金が課される。そして、2年後には再び減醸
が指示されている。
この元禄に代表される減醸令はなぜ必要だったのであろうか。どのような背景があったの
だろうか。また、その結果、どのような影響を酒産業に与えることになったのであろうか。
減醸政策をとった三つの理由
幕府が減醸政策をとった背景には三つの理由が考えられる。
ひとつは、物価統制、特に米価の安定をめざす必要があったことである。江戸時代は、
「石
高制」、つまり、「米本位制」である。すべての取引の基礎に米価が置かれることになる。
酒造りは、その主原料が米である。従って、酒の醸造量と米価とは深い関連をもつことに
なる。特に、全国規模で酒産業が成長してくると、米価に大きな影響を与えることになる。
この時期、酒産業は急速に成長し、一方、人口爆発ともいえる需要の拡大に直面している。
また、大坂を中心とする米市場も大きく成長し、米の「延取引」や「空取引」が盛んに行
われるようになっていた。米の値上がりを見越して、差益を目的とした取引が広がったた
め、実需の増加に加え、
「仮需」も生まれた。幕府は、新田開発、灌漑工事などにより米の
耕地面積の拡大を奨励する一方で、米需要を抑制する必要があった。
ふたつめは、都市需要の急増である。寛永 10 年(1633)に、江戸の人口は約 30 万人と
推計されている。それが 100 年後には、100 万人を超すまでに急成長している。特に明暦
から元禄までは、56 万人から 70 万人へ急拡大している。この都市人口の急成長に米を中心
とする諸物産の供給が間に合わなかったことである。
三つめは、幕府支出の増大から生まれる貢租不足、財政的事情である。5代将軍綱吉は、
文治政治を目指し、護国寺・寛永寺根本中堂・湯島聖堂・日光東照宮などの造立あるいは
再建を積極的に行ったため、財政が破綻しつつあったのである。元禄 10 年の酒への 50%の
運上金付加は、荻原重秀の発案で実行された、と言われている。
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これらの現実的な背景とともに、徳川幕府が生まれて 100 年の平和が継続し、戦役を主
任務とする武士の生き方や価値観が揺らいでいたこともある。これまでの思想信念体系の
変動期でもあった。戦役のない武士を社会からみれば単なる非生産的な寄生的な層にすぎ
ず、その存在価値が問われざるを得なくなってくる。
藤原惺窩から林羅山へと引き継がれた朱子学は、朱子学のもつ2つの方向(規範性と自
然性)に引き裂かれる。ひとつは、
「規範性」をより強化し倫理的純化を目指す方向であっ
た。それが「実践」を強調する山鹿素行の目指したものであった。もう一方は、
「自然性」
を純化し、天然・自然秩序と同様に「天」が与えた「性」を「五倫」として受け入れ武士
道を実践することであった。これが「(人間が天から与えられた)性」を道として説いた伊
藤仁斎であった。
こうした朱子学の二元化を再統合し、近世において初めて政治を認識した荻生徂徠を、丸
山真男は高く評価した。徂徠は朱子学を「聖人への人格修行から先王が国を治める学」
、幕府
の政治イデオロギーへと読み替えたのである。徂徠こそは将軍吉宗の政治顧問であった。
この認識の成立によって、政治と道徳が分離され、政策が独立化してくることになる。
経済政策の萌芽が生まれるのである。その先駆けが荻原重秀の元禄8年(1695)の貨幣改
鋳であった。
酒造規制政策は、結果として酒産業にどのような影響をもらしたのであろうか。それは、
既存の酒造業中心に酒産業を再編成し、その急成長に一定のブレーキをかける効果があっ
たと思われる。伊丹諸白の地位は確立した。他方、物価抑制の効果はほとんどなかった。
伊丹諸白の代表的な成功者であり、先に取り上げた鴻池家では、酒造規制が本格化する
元禄以前に酒造業を廃業し、海運業へ、そして金融業へと事業を移行させている。理由は、
「酒造は大切な米穀を年々潰し、自ら米を麁末に致し勿体なき事」(
「籠耳集」)とされてい
るが、先取精神の旺盛な商人にとって、酒産業は魅力のない産業となっていったのであろ
う、と推測できる。収益の鍵が醸造量にあり、その量が幕府によって決定され、毎年変わ
り予測できないようでは計画的な経営など不可能であるからである。
吉宗の勝手造り令と規制緩和政策
元禄の減醸政策は、荻原重秀と真っ向から対立した6代家宣、7代家継の側用人、間部
詮房と侍講、新井白石によって進められた「正徳の治」によっても継承されるが、運上金
付加は廃止される。そして、続く吉宗の時代には減醸政策が 180 度転換され醸造奨励策が
とられる。まさに、原則自由の規制緩和政策がとられるのである。
吉宗は武家政治の復権を目指し、極端な質素倹約で知られるが、酒造政策と米価政策に
関しては、正反対の政策を採用する。そして、その決定打と言えるものが、宝暦4年(1754)、
9代将軍のもとで発布された「勝手造り令」である。
しかし、実質的には、正徳5年(1715)から天明6年(1786)までの吉宗統治の約 70
年間は、自由営業期間であった。なぜ、このような政策の転換が生まれたのであろうか。
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また、規制緩和策=勝手造り令によって酒産業はどのような影響を受けたのであろうか。
政策転換が行われた理由は2つある。
その最大の理由は、米価の引き上げを目的とする政策課題があったからである。すなわち、
米の供給側の改善がみられ、米の需給逼迫状況が解消され、供給過剰状態に陥り、米価が下
落したことである。他方、米以外の物価は下がらなかった。庶民の可処分所得が増え、米以
外の需要は低下しなかったからである。武士階級はこの問題に直面することになった。多く
の大名は大坂に米を送って換金することで、国元や江戸屋敷の生活費を調達していたからで
ある。この結果、俸禄を米で支給されている武士層にとっては死活問題となった。
そこで、吉宗は、「空取引」、「延取引」を幕府公認で行ったり、「置米令」、「買米令」な
どの米の需要創造政策をとった。これらの一連の政策に酒造規制緩和政策は位置づけられ
ていたのである。供給過剰の背景には二つの側面がある。
供給面では、17 世紀に行われた耕地面積の拡大などの成果がでてきたことである。同時
に、投入資源の拡大のような「工学的」努力に加え、米の品種改良などの「農学的」努力
が稔りはじめた。
需要面では、都市の人口増加が一段落したことである。度重なる飢饅と災害といった外
的要因に加え、都市への過剰集中が生み出す「蟻地獄」効果が現われ都市での死亡率が高
まったと推定される。さらに、地方から都市への人口流入が止まり、逆に、地方での農村
工業化の進展によって、都市から地方への人口の流れが生まれた。
また、大坂では、奉公人の年季が長期化し、婚姻年齢を上げ、出生率を低下させた。江
戸では、反対に、職業の「雑業化」
(短期雇用)が進み、結婚制約条件が開放され、結婚年
齢の低下を生み、都市への定住化が促進された。本来、定住化は人口増加の圧力となるが、
何らかの相殺効果が(「蟻地獄」効果との相殺か)働き、江戸の人口は減少せず維持される
ことになった。
このように増え続けていた需要に減少傾向、すくなくとも「停滞」傾向がみられ始めた
結果、需要拡大が抑制されたのである。
政策転換の二つめの理由は、農業政策の転換があったことである。吉宗以前の政権では
「作付制限令」によって米と麦以外の物を作ることは禁止されていた。吉宗はこの基本方
針を転換し、その土地土地にもっとも適した作物を作らせるように変えた。主穀中心の米
作農業から地域特性を生かした特産物農業への転換を行ったのである。
享保 18 年(1733)には、日本全国の資源調査が行われている。この結果、各地に名産品、
特産品が生まれてくる。吉宗の現実主義は日本の自然的風土の多様性を生かそうとしたの
である。そして、醸造の奨励こそは地域特性を生かした産業育成そのものだったのである。
一方、この政策は、一連の米価引き上げ政策の一環としての「減反政策」とみることも
できる。
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大岡越前守の流通組織化政策
果たしてこれらの一連の政策は成功したのだろうか。地域特性を生かした産業育成は確
かに成功しているように思われる。しかし、米価引き上げ政策には失敗していると言わざ
るを得ない。大岡越前守忠相の提案を採用しその政策が効果を見せ始めた享保 20 年(1735)、
吉宗は米価引き上げ政策を断念し、貨幣改鋳を許可しているからである。
大岡越前守忠相の提案は、
「物価引き下げに関する意見書」と言われるもので、吉宗の
ように米価を上げる政策ではなく諸物価を下げる流通政策を採用することであった。米
価を引き上げることではなく諸物価を下げることによって同じ効果を得ようとしたので
ある。
具体的には、流通の三段階、つまり、問屋、仲買、小売りごとに仲間を組織化させ、相
互の監視を行わせ、適正利潤と適正販売の相互監視をさせるとともに、仕入れ先を制限し、
幕府への報告義務を課したのである。つまり、仲間という業界団体を形成して、業界を制
御していこうという政策である。これは一定の成果を収めた。
市場経済において、需要と供給のバランスは価格メカニズムによって調整され均衡する
という経済認識からすれば、吉宗の政策は需要を拡大し、供給を抑制し、米価を引き上げ
るという極めて理にかなった政策であった。しかし、実際には効果はなかった。むしろ、
こうしたメカニズムの本質にある人間行動を洞察した大岡の政策に軍配が上がった。
日本の業界体質、規制体質と椰楡されるものは、歴史的経験をふまえた知恵の総体であ
ることを、このことは示している。日本人のもつ能力のひとつに組織化能力がある、とよ
く指摘される。これはその能力がもっともうまく発揮された事例である。この政策を継承
発展させたのが、後の田沼意次である。
70 年間の規制緩和、すなわち営業自由の時代は、酒産業にどんな影響を与えたのであ
ろうか。それは大変革をもたらしたのである。元禄の規制時代は、既存の醸造業の利益
が保護された。
「都市酒造仲間=古規組を中心とする特権的な酒造業者の繁栄期」であっ
た。規制緩和によって、灘目・今津の新興在方酒造仲間=新規組の台頭を迎えたのであ
る。その結果、伊丹諸白から灘目の時代へと業界リーダーが替わった。勝手造り令はこ
の動きに拍車をかけたのである。なぜ、伊丹諸白から灘目・灘郷への転換が起こったの
であろうか。
灘郷で大きな技術革新が進められたからである。ひとつは、足踏精米から水車による精
米を採用したことである。このことによって、精米スピードと精米率が飛躍的に上昇した。
さらに、仕込技術の革新、寒造りへの集中、それを可能にする巨大蔵の建設、蔵人による
分業体制の確立によって、より品質の高い酒を量産化することに成功したのである。伊丹
諸白よりもより旨い酒をより多くつくることに成功した。
「灘の生一本」の神話はこうして
形成され、明治に台頭する伏見の酒の時代まで灘目・灘郷の時代が続く。この技術革新を
可能にしたのは、地理的特性から生まれた技術(水車)とその土地で育まれた人材の集積
(蔵人)であった。
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江戸の酒造規制・緩和政策の教えるもの
江戸期の酒造規制・緩和政策を前期と中期を中心に整理してみた。この歴史は何を教え
ているのであろうか。いくつかの仮説的な教訓を引き出してみる。
まず、最初に確認しておくべきことは、産業が進化していく原動力は、新しい価値を求
め続ける人間の願望とその需要、そしてそれに応え続けて技術革新を進めるつくり手の存
在である、ということである。江戸の大衆は伝統的な「酔うための酒」ではなく、楽しめ
る「旨い酒」を望んだ。この新しい酒の需要に応えることに最初に成功したのが伊丹諸白
であり、次に、よりよく成功したのが灘目・灘郷であった。
減醸政策はその狙いがどうであろうと、こうした変化の方向にはなんら影響を与えるこ
とはできなかった。
変化のスピードを弛めたり速めたりすることはあっても、産業が変化する方向にはなん
ら影響を与えていない。規制の本質は、供給者間の競争ルールを決めることにある。
「規制」は変化を弛める効果をもち「緩和」は変化を促進する効果をもつだけである。
第二に、価値競争のないところでは価格競争が生まれ、価格競争を制止するものは人間
の組織化能力に依拠した秩序形成しかない、ということである。世界でこうした秩序形成
能力をもつ国は日本しかないであろう。
一方、こうした秩序は、技術革新を阻む既存勢力の特権的な利益保護団体に転化しがち
である。吉宗と大岡の物価政策を比較すれば明らかである。
第三に、イノベーション、技術革新、新しい価値の発見は、自然的、文化的、歴史的多
様性から生まれる、ということである。
なぜ、伊丹諸白が最初に覇を得、そして灘にそれを譲ったのか。
なぜ、灘が成功したのか。品質の優秀性や技術革新については、先に触れた通りである。
しかし、その原因をさらに追求していくと、地理的特性や自然的特性などの自然環境要因
とそれを生み出した人々の価値観や文化などの歴史的背景に収斂されてくる。つまり、歴
史的風土に根ざした固有性こそが革新を生みだしているのである。
灘の水車による精米、宮水の発見などは地理的特性と自然の持つ偶然性以外の何物でも
ない。それを人間に役に立つ価値として引き出し、必然性に転化させることこそが革新の
源泉であるように思われる。
宮本又郎・速水融は、江戸時代の経済社会について、
「こういった(多様な)自然条件は、
日本にとって天与のものであり、(略)経済的発展の条件として、(略)大きな要素となっ
た」と総括している。
司馬遼太郎は、明治を時間としての時代ではなく空間としての国家であるという認識を
示している。
「清廉で透き通ったリアリズムをもった」国家だと評価している。そして、そ
れを生んだのは「江戸日本の無形資産『多様性』」だと主張している。
「長州は、権力の操作が上手なのです。ですから官僚機構をつくり、動かしました。土佐は、
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官にはながくはおらず、野にくだって自由民権運動をひろげました。佐賀は、そのなかにあっ
て、着実に物事をやっていく人材を新政府に提供します。この多様さは、明治初期国家が、江
戸日本からひきついだ最大の財産だったといえるでしょう。
」
(
『
「明治」という国家』
)
最後に、規制緩和によって引き出せる経済活力などは微力なものだろう、ということで
ある。江戸の規制時代、灘は来たるべき時代に備えて着々と技術革新を進めていた。
規制緩和はその発展の契機になっただけである。規制の有無に関わらず、その革新を止
めることはできなかった。
むしろ、人間の本当の活力は、江戸時代がもっていたような多様性にあると思える。シ
ステムという一元的な技術を手に入れた近代日本にとって、表面的な多様性ではなく、真
の多様性をもつことこそが重要だ、ということを江戸時代の規制政策とその緩和政策が教
えてくれているように思う。
規制によって守るべきものは、この、江戸から引き継がれてきた酒産業の無形の資産で
ある「多様性を生かした活力」である。
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第2章 酒販免許制度の成立過程−酒販業界「1940 年代体制」の光と影
解説
酒販免許制度が、規制緩和の対象となり大きな論議を呼んでいることは、周知の通りです。
この論考は、酒販免許制度がどのように成立したかという過程を明らかにしたものです。
酒販免許は、一般には政府が酒税確保のために「上から」作ったもののように思われが
ちです。しかし、この論考が明らかにした結論は、酒販免許制度は、酒販業界の強い要望、
特に酒販小売業界の長年の運動によって「下から」推進され、それを「1940 年代体制」へ
と政策転換を進めていた大蔵省が受け入れ成立した、というものです。
背景には、
「昭和初期」という、日本にとって大転換の時代がありました。明治、大正の
酒業界は、日本の近代化と歩を一にして進みます。流通では、大衆消費社会の成立を契機
に、酒販業界に小売業が確立されるに至ります。一方、明治中期に勃興した日本の資本主
義は、自由競争と激しい価格競争の時代を迎え、農業と工業の格差、貧富の格差、社会主
義の脅威の中にありました。酒販業界も例外ではありませんでした。
こうした自由資本主義の悲惨な歴史への反省から、酒販業界の大阪若手小売業者が中核
となって酒販免許制度の設立を請願します。しかし、政府大蔵省は自由主義経済思想の見
地から、一貫して「所管に非ず」と突っぱね続けます。
ところが昭和 10 年代頃から、日本の経済思想に大きな転換が急速に進み始めます。大正デ
モクラシー、社会主義の影響を多大に受けた「計画経済」の思想です。自由主義経済を全面
信頼しない政策思想を持った官僚達が現れます。岸信介を筆頭にした「新官僚」と呼ばれた
人々です。後に、これらの人々が築いた体制が「1940 年代体制」と呼ばれるようになります。
この政策転換によって、大蔵省が主導して免許制度を成立させることになります。
酒販免許制度の成立過程からは、多くのことを学ぶことができます。消費社会と新しい
消費スタイルの成立によって、卸と小売が分離し、小売業が確立される。激しい自由競争
の中で、江戸時代から受け継がれてきた酒販組織が、参入と退出を繰り返す酒販業界を再
生しようとする。自由資本主義の悲惨な経験への反省から、新しい計画経済という発想が
持ち込まれる。
酒販免許の成立は、業界人の経験と反省、そして自由資本主義の経験をもとに成ったも
のなのです。酒販業界の明治人の知恵と経験の集積です。
規制緩和の時代に、この明治人の知恵と経験を無視できないことだけは、厳然たる事実
であるように思われます。
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資本主義勃興期の酒産業−明治維新から第一次世界大戦まで
はじめに
「酒類販売免許制度」、いわゆる酒販免許が発案され、制度が実施される期間は、大正末
期から昭和 13(1938)年までの大正、昭和初期(1910∼1930 年代)の時代である。この
期間は、世界経済史の視点からは、大戦間の「相対的安定期」、あるいは「戦間期」と呼ば
れている。しかしながら、「相対的安定」という言葉とは裏腹に、日本にとってみれば「大
きな間期=転換期」とも呼べる時代であった。
明治以降、日本は「近代化」を進めてきた。そのことは疑い得ぬ事実である。大正、昭
和初期、この選択が問われ始める。これを象徴するのが、酒販業界における免許制度の成
立であり、「日本株式会社」と呼ばれる「1940 年代体制」である。
この時期の選択が、その後の日本の進路、そして戦後の日本の行方さえも決定している
ように思える。ここでは、規制緩和の対象として頻繁に俎上に上る酒販免許の成立過程を
明らかにし、その意義と背景を探ってみることにする。そして、1940 年代体制とは日本人
と酒産業にとってどんな意味を持つものなのか、歴史の事実の中で検証してみたい。この
間の時代は、大きく二つに分けることができる。明治維新から第一次世界大戦までの「資
本主義勃興期」と、大戦後からの「連続する危機の時代」である。
勃興期の日本経済の特徴
明治維新は「青写真を持たなかった革命」と言われる。実際、維新の指導者であった西
郷南州が何を構想していたのか、「敬天愛人」という言葉が残されているだけで、そのビジ
ョンがどこにあったのか今もって定かでない。ただ、その後の大久保利通、伊藤博文らの
指導者が、欧米の植民地化の脅威から逃れ、「富国強兵」、
「殖産興業」というスローガンを
もとに「近代化」を急速に進めたことは明らかである。この近代化路線が、西郷の想いと
異なったことだけは確かである。
明治、大正の日本は、どのように近代化を進めたのであろうか。富永健一によれば、近
代化とは、「政治における民主化」、
「経済における産業化」
、「社会における自由・平等と合
理主義の尊重」と定義される。明治中期に勃興した日本資本主義は、大正初期、すなわち
1910 年代の第一次世界大戦前には、いくつかの特徴を持っていた。
ひとつは、
「維新」のイメージに反して、平衡感覚のある資本主義の特徴を持っていたの
である。
「均衡成長」
(中村隆英)の時代と呼ばれている。この間(1870∼1913 年、維新後
から第一次世界大戦前まで)の実質国民総生産の成長率は、約 3.6%、ひとり当たりでは、
2.5%と推計されている。当時の先進国 15 カ国中、アメリカ、カナダに次いで第三位であ
る。この 3.6%という成長率は、戦後から第一次オイルショックまでのいわゆる「高度成長
期」の年平均成長率 8.4%には及ばないまでも、その後から昭和 54(1979)年までの 3.0%
を上回るものである。こうしたマクロな安定的な成長をとげると同時に、近代産業と在来
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産業がバランスをとって発展したのである。産業構造では、明治初期には有業人口の 80%
が農業などの第一次産業人口であったものが、大正 14(1925)年には、第一次産業が約 50%
にまで減少し、第二次産業と第三次産業がそれぞれ約 23%、約 28%と増大して、産業構造
は激変していた(中村隆英『戦前期日本経済成長の分析』
)。
ふたつめは、対外依存の強い経済構造であった。明治初期には、技術輸入を中心とした
貿易、その赤字を埋めるための生糸や緑茶などの輸出という構造を持ち、そして明治後期
には、生糸に加え、綿織物、綿糸を輸出産業へと育成した。同時に軽工業の発展が、重工
業の発展を促進した。輸出と輸入の国民総支出に占める比重は、それぞれ 24%、17%(1915
∼1919 年)と極めて高いものであった。現在の経済と比較すれば、倍以上の貿易依存構造
であった。
三つめは、その「膨張的性格」(徳富蘇峰)であった。人口成長の勢いを持つ「若い」経
済という特徴を持っていた。日清戦争直前に、若い徳富蘇峰は「日本国民の膨張性」とい
う論文の中で、明治 24(1891)年末の日本の人口は、約4千万人あまりで、人口増加率は
約1%である。このまま推移すれば、50 年目には約7千万人、83 年目には1億人に達する
と予測している。そして、明治 24 年の人口の倍の8千万人に達するのは、62 年目(1953
年)であると。それまでには、「日本国の面積を倍にする」必要がある。日本経済は、人口
圧力の中で成長を余儀なくされていたのであり、「帝国主義的な対外膨張」を促進する要因
を抱えていたのである。明治から第一次世界大戦の共通の特徴は、均衡、不均衡という異
質性を持ちながらも、蘇峰の予言したとおり人口増加に見合う「成長」であった。
明治政府の近代化政策と酒産業
日本の近代化が急速に進められる中で、酒業界にはどのような変化が起こったのであろうか。
江戸時代、酒業界は幕府からさまざまな規制を受けながらも、日本独自の経済社会の発
展によって、幾つかのイノベーションを経ながら、問屋主導型の「委託販売システム」を
構築していた。
明治政府は、慶応4、明治元(1868)年、
「商法大意」を公表し、幕府時代の株仲間の特
権と独占を排除して、営業自由の大幅な規制緩和を行った。しかし、酒については例外で
あった。旧酒造株を酒造鑑札とし、幕府の政策を踏襲した。その際の書き換え料として多
額の冥加金を徴収したが、その金額はたびたび変更され、明治4(1871)年、
「清酒濁酒醤
油鑑札収与並ニ収税方法規則」によって基本政策が確定された。その内容は、旧鑑札を没
収して、営業特権を廃止し、営業自由の原則を貫いたこと、石高に関係なく、醸造税とし
て一律課税を施したことにある。その後、醸造税は、明治 11(1878)年、一律税から造石
税へと改正された。さらに、明治8(1875)年、
「酒類税則」が公布され、営業免許税と醸
造税が引き上げられた。明治 13(1880)年には、さらに営業免許税が引き上げられ、造石
税も倍に引き上げられ、酒造検査が強化された。
この間、営業自由原則によって、地方の「地主型酒造家」が多数参入し、市場を拡大す
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る一方、灘五郷などの「全国型酒造家」も売上を拡大した。その結果、市場は約 500 万石
にまで拡大した。ところが、明治 13 年の増税によって、市場は激減した(約 300 万石)。
この影響を受けたのが新たに参入した地主型酒造家であったことは、言うまでもない。こ
の改正の狙いは、
「造石税の増税と免許課税の大幅な引き上げ、さらに逋税を防ぐための酒
造検査の厳格化によって、土着性の強い地方の小規模酒造家を整理することであった」
(柚
木學『酒造りの歴史』)。このため、植木枝盛をリーダーにして、「酒屋会議」が組織され、
増税反対運動が起こっている。地主型酒造家が、民意を政府へとつなぐチャネルは、憲法
策定運動を中心とし、藩閥政府への批判を進めていた「自由党」の自由民権運動と連動す
る以外になかったからである。
明治前期の政府は、酒産業を在来の伝統産業とみなし、できるだけ多くの税を徴収し、
これを近代的殖産産業の育成に振り向けるという政策をとっていた。そのための自家用濁
酒の禁止と製造免許制の導入(1897)、麦酒酒税法の制定(1901 年)などを図っている。
明治後期には、酒産業近代化政策へ転換し、その切り札となったのが、明治 37(1904)年
に設けられた「醸造試験所」である。この目的が税収確保であることは明らかであるが、
同時に、日本酒の醸造技術に科学的なメスを入れ、醸造技術の近代化への制度的基盤を整
えることにあった。近代化を進める政府にとって、酒産業は近代化の対象としての産業で
あり、同時に近代化のための税収源でもあった。
近代産業への転換と
江戸から継承した組織
近代化の影響は醸造工程に現れる。醸造段階における「瓶詰め革命」とも呼べるもので
ある。明治 11(1878)年、瓶詰め清酒は発売される。この瓶詰めは人気を博し、明治 42
(1909)年、月桂冠が瓶詰め工場を建設し、本格的な生産を開始したのである。これまで
の酒造工程に、瓶詰めという商品化工程が付加された。瓶の原料は当然のように硝子であ
る。明治 40 年頃までは、日本の硝子需要はすべて輸入でまかなわれていた。明治 40(1907)
年、三菱財閥の岩崎俊弥が、尼崎に板硝子製造専門の「旭硝子株式会社」を創設し、本格
的国内生産と硝子国産化を始めていた。このような殖産産業化の成果としての重工業の発
展が、背景にあった。このイノベーションによって酒は計り売り商品からパッケージ商品
となり、製造元による品質の保証が可能となったのである。酒は問屋支配の銘柄、地域の
特産銘柄から、特定の製造業銘柄になっていく。大量生産・大量販売のための生産側条件
が整ったのである。同時に、醸造側と問屋側の力関係が大きく逆転していくことになった。
需要側では、都市化と都市の人口増加が進行することによって、市場が拡大した。東京
の人口は急速に増大した。産業化は雇用機会を創り出し、地方の農業人口を吸収した。労
働者層が形成されるとともに、高等教育の普及にともない、民営企業のサラリーマン層な
どの多くの中間層を創出した。江戸の武士層は、明治以降、経営層や官職に移行するとと
もに、商人層は財閥などへ政商化し企業へ転身した。特に、新中間階級と呼ばれた都市サ
ラリーマンと労働者階級の登場が、新しい需要を創造していくことになったのである。
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この需要側の変化に対応して、供給側の技術イノベーションが起こり、新たな取引ネッ
トワークが再編されたのである。このことによって、江戸吉宗時代、伊丹から灘へ醸造主
導権が移動したのと同様に、明治には灘から伏見へ主導権が移行した。流通では、従来の
「委託販売システム」という問屋優位の流通から新しい流通構造への転換が進むことにな
る。これをもっとも劇的に進めるのは、明治維新後、官営によって産業化を進めたビール
業界であり、メーカー主導型の「特約販売システム」である。
製造業にその優位を奪われた流通でも、新たな変化と江戸時代からの継承が行われてい
た。新たな変化は資本力を巨大化させたことであり、継承されたものは江戸時代からの組
合組織の発展であった。
増税による醸造家の淘汰、人口の都市集中、市場拡大にともなって、問屋は発展した。
明治 40(1907)年頃には、銀行を設立するまでに収益をあげる会社も現れた。京浜地域で
は、中井銀行、中沢銀行、八十四銀行の3行が問屋の出資によって設立された。酒産業を
基幹顧客とする銀行である。
他方、この間に、江戸時代の物価対策として大岡越前によって組織された組合は、田沼
意次によってその政策が引き継がれ、明治以降もその組織を維持していた。
東京の「下り酒問屋」と「地廻り酒問屋」は、それぞれ「東京酒問屋組合(甲組問屋組
合)」と「東京酒類問屋組合(乙組問屋組合)」と改称されていた。大阪では、明治 13(1880)
年、
「大阪酒問屋組合」が組織され、明治 15 年には、日本で初めて小売を中心とした「大
阪酒類商組合」が組織され、明治 21(1888)年には、問屋業者の組合参加も認めて、明
治 39(1906)年には、
「大阪酒類商同業組合」となっている。このようにそれぞれの地域
ごとに組織化された組合は、大正 14(1925)年、大阪で「全国酒類商同業組合連合会」
(全酒連)創立総会を開催するまでに成長していた。この江戸時代から継承された組合組
織が、免許制を推進していくのである。江戸の地域組合は、近代日本の全国組織へと発展
したのである。
酒産業における生産と流通の分化
現代の成熟した資本主義社会から見ると、当時の酒販流通は極めて曖昧であった。酒販
流通だけでなく、一般の流通についても同じことが言える。それは、製造、卸、小売の機
能分担が曖昧だからである。造酒業では、小売兼業(「田舎の造酒屋」
)が数多くあった。
酒販免許の成立を考える上で、このことは忘れてはならない問題である。免許とは、法
的にその販売の社会的役割と存在価値を認めることだからである。そのためには、製造と
卸、そして小売という業態が確立されなければならない。江戸時代、それは極めて曖昧で
あった。そして、流通の機能分化が確立されるためには、社会の近代化を前提としなけれ
ばならなかった。
流通確立の一般理論を整理し、その上で再び酒販の小売業態に議論を戻してみる。誰も
議論してこなかったことだから、迂回することにする。一般理論として単純化して、整理
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してみる。
産業革命、技術革新によって、特定の場所や時間で、より大量に、より効率的に商品を
製造することが可能となると、生産(製造)と消費は分離されることになる。この、生産
と消費との分離が資本主義社会の成立、経済社会の発展に大きな意味を持つ。生産と消費
が分離されると、両者を結ぶ間に、時間的、空間的な差異が生まれる。生産している場所
と時間、その商品が欲しい人(消費者)の場所と時間が乖離することになる。その時間と
場所の乖離を埋める機能が流通である。この流通を社会的側面から捉え直したのが「分配」
であり、個人的側面からみれば「交換」になる、近代以前の社会では、分配は、階級など
の政治支配力によって規定される。
資本主義社会では、すべて「合理的な市場原理」に基づく交換が行われることになる。
酒産業の発展を例にとるなら、まず、幕府の城下町政策によって、江戸に強大な消費市場
が形成される。一方、伊丹や灘などの特定の場所で新しい価値が創造される。この「差異」
に目を付け、馬や廻船などの新しい物流手段を見つけ、生産者から商品を購入し、江戸の
武士・町人層の消費者に届けたのが問屋であった。
問屋の本来的な役割は二つである。ひとつは、差異の発見、生産者の創造する新しい価
値の発見とそれを欲しがる消費者を発見することである。ふたつめは、リスクをもって、
差異を埋める機能、それを確実に消費者に届ける機能にある。
江戸の問屋はこの機能を見事に果たし、独自の経済社会化の発展要因となったのである。
さらに、交換は卸機能と小売機能に分化していく。交換の近代化以前の歴史的な起源は「市」
にある(F.ブローデル『物質文明・経済・資本主義
交換のはたらき1・2』
)。
「市」と「行商」から商店街への進化
日本では、恐らく次のような発展を示したであろう。
貨幣経済が進展し始めた中世の時代、農民・海民は、その余剰生産物を、それが必要な
人々と交換をするために、他の集落に「売り歩いたり」、人々が集まる寺社などの近辺で不
定期に取り引きを始めた。この取り引きが「市」の始まりと考えられる。また、こうした
市を利用する形で、油や小物など物産を扱う商人や職人が全国を漂泊していた。市は、次
第に、時間的にも、場所的にも、定常化、定着を始めると同時に、専門化し始めたと考え
られる。為政者の保護と交易手段の発展によって、近世に入って商業都市や後の「商店街」
の原型として発展してくる(網野善彦『無縁・公界・楽』
)。
このような交換の歴史の上に、消費都市、江戸が人為的に生まれることになったと考え
られる。従って、江戸における交換は、武士と上層町人の生活では、
「表店」で「座売り」
(店で座って呉服などの商品を次々紹介する売り方)と売り歩く方法とが併用されていた
ようであるが、「裏店」と呼ばれる大多数の庶民の生活は、
「棒手振り」
(天秤棒で商品を売
り歩く人々)によって担われていたと考えられる(斉藤修『商家の世界・裏店の世界』)。
江戸の町人庶民層においては、生活に必要な商品は「買いに行く」のではなく、決まった
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時間に「売りに来る」ものであった。
酒の小売りも大半は、こうした棒手振り、つまり行商人によって担われていたと考えら
れる。店売りは、武士を相手にしたり、行商を相手にしたりする表店であった。売りに来
た酒を徳利で買う、これが江戸時代の酒の購買の形であったろう。このことは、明治 10
(1877)年に公布され、3年後に撤廃された「酒類行商鑑札」
(「酒類請売営業税」を設け、
卸売 10 円、小売5円、行商のための鑑札料1枚 10 銭とした。これは実質的な免許制であ
ったが、製造と販売の両者の反対によって廃止された)によって知ることができる。
つまり、税収として期待されるほど、行商人が存在したのである。従って、小売りの担
い手が行商人的な存在である限り、卸と小売りの区別はありえなかったのである。行商人
はまさに個別的散在的存在であり、消費者との区別が困難であり、卸とはその資本力や機
能において比較できないからである。
小売業が確立するための条件として確認したいことは二つある。
ひとつは、小売業態の確立は、消費と生産の分離を前提としていること、分離したもの
を循環させる機能が流通であることである。この点からは、江戸時代にはすでに消費と生
産が分離し、日本の酒流通は基本的機能を十分果たしてきたということである。
もうひとつは、小売りの起源は市と行商人にあるということである。このふたつの小売
様式のあり方は、買い手の生活様式から生まれる購買行動に依存している、ということで
ある。従って、極めて文化的な側面なのである。現在のような「業種小売店」と呼ばれる「製
造品種を起点に品揃えし特定立地に店舗を構えて販売する」という販売形態の本格的な登場
は、都市が産業化によって大きく変わり始めた明治中期であろうと考えられる。現代的な小
売業が確立するためには、社会の変化と生活様式の近代化が前提条件となるのである。
連続する危機の時代と免許推進運動−第一次世界大戦から昭和初期まで
第一次世界大戦後、日本の近代化は曲がり角に来ていた。世界のスローガンは、
「正常に
帰れ(Come back to normalcy)」
(アメリカ・ハーディング大統領)であった。世界のリー
ダーシップはイギリスからアメリカに移行し、民族主義と社会主義が勃興しつつあった。
日本では、山県有朋元老支配が終わりを告げ、原敬を中心とする政党政治の時代から徐々
に軍部の影響力が強まっていた。そして、人口の膨張も続いていた。
第一次世界大戦後の大正9(1920)年の恐慌、大正 12(1923)年の関東大震災、昭和2
(1927)年の金融恐慌、世界恐慌に連動した昭和5(1930)年の昭和恐慌という危機の連
続であった。これらの危機は、循環的な性格というよりも一連の構造的な累積的な問題と
して生じている。特に、日本の場合は、資本主義的な過剰生産から恐慌に至るというより
も、むしろ金融恐慌の性格を著しく強く持っている。
戦後の日本経済は、
「均衡成長」から、その性格を異にする「不均衡」成長に入っていく。
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不均衡の内実とは、電化、重化学工業化、銀行の寡占化、農業の低迷、過剰人口、都市化、
在来型産業人口の増加、そして、これらの結果として生まれた中小企業と大企業の収益力
格差、賃金の格差、農業と近代産業との格差などの、いわゆる「二重構造」である。
第一次世界大戦は、貿易依存、特に輸入依存体質だった日本経済に、輸入代替という新
しい需要を創り出し、特に重工業分野の産業を育成する結果になった。化学、鉄鋼、機械、
紡績などがその代表例である。電力の普及と電動機の国産化は、消費財の生産に大きな影
響を与えた。そして電力を主要な原料とする化学工業の成立を促進した。しかし、戦後は
再び輸入が急増し、厳しい国際競争にさらされることになる。広範な大企業で採用された
のが合理化政策である。熟練工を尊重し、新規雇用を抑制するという、労働力の節約政策
がとられた。
一方、農業は有業人口の半数を占めながらも、世界的な過剰生産の中で、価格は下落を
続け、収入は低下し続けた。従って、年平均1%ずつ「膨張」する人口の雇用機会は、農
業にも近代産業の大企業にもなく、都市の卸小売、中小企業、さまざまなサービス産業が
吸収することになった。当然、他の近代産業との賃金格差が広がった。また、こうした産
業資本が大きな構造変化を示す中で、金融業はまったく新しい動きに対応することができ
ず、大正8(1919)年で、普通銀行が 1700 行もあった。「国立銀行は濫立を防ぐ意味から
153 行で認可を打ち切り、以後は私立銀行の簇生となったが、私立銀行に対しては当初これ
を取り締まる規制はなく、その多くは極めて小さな資本しか有せず、金貸業類似でしかな
かった」(高橋亀吉『昭和金融恐慌史』)。
大戦後のバブル崩壊と昭和恐慌
戦後恐慌は、ヨーロッパでの戦後景気を見越した株や商品への思惑的な投機と、それに融
資した「金貸業類似」銀行によって引き起こされた。大正9(1920)年、茂木商店の破産
により、その基幹銀行であった七十四銀行が取り付けに合い破綻した。これを引き金に金
融不安が生じ、金融逼迫の結果、多くの企業が換金のための商品の投げ売りや倒産に追い
込まれ、さらに弱小銀行の取り付けが起こるという悪循環に陥ったのである。この戦後恐
慌は比較的軽微に終わったが、政府の銀行保護政策によって銀行の整理は進まなかった。
さらに大震災が起こり、未曾有の危機を察した政府は、再び「震災手形」などの緊急措
置をとることになる。震災時に在庫品が焼け設備が打撃を受けた企業に対し、不渡りが生
じないよう手形の再割引を日本銀行が引き受けた。この処理のために昭和2(1927)年、
震災後4年目に、
「震災手形処理法案」が国会に提出された。この震災手形の中に鈴木商店、
久原鉱業、川崎造船などの大企業の不良債権が含まれているのではないか、という指摘が
野党からなされた。これに怒った片岡直温大蔵大臣の発言が金融恐慌のきっかけとなった。
「野党側の質問の言いたいことはわかる。しかし、そんなことを言って問題を先延ばしに
したら、日本の銀行界・銀行業界は立ち行かなくなる。現に今日、東京渡辺銀行が支払い
停止になった」。こうして預金者が不安に陥り、同規模の他銀行への連鎖的な不安を引き起
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こしていくことになったのである。
昭和5(1930)年には、約 900 行にまで整理されたが、それでもまだ過剰であった。こ
れによって、銀行の財閥系大手による寡占化が進み、銀行の企業への介入が多くなったが、
一方で、紡績などの市場では激しい自由競争=価格競争を繰り広げていた。
自由資本主義の悲惨な結末
こうした未曾有の経済危機を乗り切るために、
「金輸出解禁論」が浮上してくる。この問
題は、大戦後の大きな課題であった。当時、貨幣は現在のような管理通貨制度ではなく、
金本位制であった。従って、貨幣の発行量も政府が所有する正貨(金)に準じ、国家間の
貿易の差額は正貨で行われていた。大戦中はこれが停止されていた。これを大戦前に戻す
というのが金輸出解禁論であり、立憲民政党の浜口雄幸内閣の大蔵大臣、井上準之助によ
って提唱された。金停止期間中、膨れ上がった貨幣供給量と日本経済の水膨れ体質を金本
位に戻すことによって、国際競争に基づく市場原理に戻そうという考え方が根底にあった。
井上は日本銀行の官僚当時、むしろ金解禁反対の立場をとっていた。産業を合理化し、
国際競争力をつけ、過剰な銀行を整理してから、金輸出解禁=金本位制に戻すべきである、
としていた。
「体力をつけて競争しよう」と考えていた。ところが、大臣就任後は反対の考
え方になっていく。産業を合理化し、国際競争力をつけ、銀行を整理し、「強い日本経済」
を構築するためには、金輸出解禁が必要であるというようにである(井上準之助『金解禁』)。
つまり、「競争して体力をつけよう」に変わっていく。
金解禁は、日本経済を直撃し、不幸にも、ニューヨークの株式暴落から始まった世界恐
慌の衝撃をまともに被ることになる。物価は大幅に下落し、綿糸は対前年比で4割以上、
生糸が5割以上、米が3割以上下落した。
「大学は出たけれど」という深刻な就職難を生み、
東北の農家では、冷害が重なって、窮乏のどん底に陥ることになる。山形のある農村では、
15 才から 24 才までの若い女性 460 人中 110 人(24%)が身売りした事実が報告されてい
る。一方で、不況下、失業下にも関わらず「大企業部門」の経済は成長していたのである。
ここに「二重構造」という問題が生まれていたのである。富める者はますます富み、貧し
い者はますます貧しくなる、という市場原理が貫徹していたのである。
近代化、経済における産業化、市場原理に基づく自由資本主義は、かくも悲惨な状況を
長く連続的に創り出したのである。
村井与三郎と酒販業界維新論
酒販業界も例外ではなかった。酒販業界も「熾烈な乱売合戦」、「出血販売の死闘」を繰
り返していた。経済危機を背景に、大阪に酒販小売業を基軸とする新しい組織運動が始ま
る。昭和6(1931)年、「大阪酒販小売商連盟」が組織化される。
スローガンは、「酒類業界の三層分野確立を旗印に酒販業界の昭和維新達成を目指す、そ
の第一目標に酒販免許の実現を期す」とある。三層分野確立とは、
「酒類業三権分野確立論」
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と言われ、「酒販維新の吉田松陰」に譬えられる村井与三郎の提唱した理論である。その内
容は、「生産者は生産業に専念し、卸業者は卸業に専念し、それぞれ三層は営業の分野を守
り、他の業域を侵してはならない。卸、小売業にも生産者と同様に免許制を実施し、酒類
の生販三層が安心して、それぞれの分野で営業の安定、生活の安定をはかるべきだ。」とい
うものである。この理論が生まれるのに、酒販業界は 60 年を要しなければならなかった。
現在の我々からみれば当然の垂直分業論に過ぎない。しかし、江戸時代の慣習から脱却す
るためには、酒産業が、製造と卸、そして小売の登場を見なければならない。その業態が
確立される方向が見え理論化されるには、社会と生活様式の変化が見えてこなければなら
ないからである。理論は、運動に転換され始める。大阪の酒販青年を中核として。
公には、「大阪酒類商同業組合」組長の泉谷宗兵衛によって大正 12(1923)年頃発案さ
れた、酒販免許制請願運動として進められた。大正 14(1925)年の「全国酒類商同業組合
連合会(全酒連)」総会によって決議されてから、昭和 13(1938)年の実施まで、約 13 年
という時間を費やした成立である。泉谷宗兵衛の発想から実に 16 年目になる。そして、そ
の運動の中核となり、卸主導の「酒類商同業組合」の意見を統一し、後に酒造組合との戦
線統一を進めるのも、「村井村塾」で育った人々によって形成された「大阪酒類商青年団」
であった。これらの人々が後々、組合のリーダーとなっていく。
大阪酒販青年の免許推進運動
なぜ、酒販免許制が、三層分野確立という理論をもとに酒販小売業によって推進されて
きたのであろうか。その理由は、これまで述べてきた時代背景と深く関わっている。
理由は、大きくふたつある。もちろん、酒販業界が、江戸時代だけでなく時の為政者と
深く関わってきたのは、酒が精神の異常をもたらす機能を持ち、秩序と深く関わると同時
に、それが広範な欲望の対象であり、税収としての意味を持っているからである。免許制
という、他の産業では馴染み難い発想も、この業界では逆に営業自由の方が身の丈に合い
にくいという事情も忘れてはならない。
第一には、連続する大戦後の経済不況下の、日本経済の「二重構造」の中で、原則自由
の酒販業へ多数の人々が参入し、不況下での価格競争を繰り広げたからである。酒販業界
は雇用吸収、むしろ雇用調整の場となったのである。この当時の酒販業界の関係者数は、
25 万人(『酒販昭和史』
)と言われている。また、こうした酒販側の影響は、当然醸造側に
も及び、約1万2千人あった醸造家が毎年 200 軒ずつ廃業し、昭和 14(1938)年には約7
千人に減少した。
金融恐慌時には、中井銀行、八十四銀行、中沢銀行という酒問屋出身の銀行が営業停止
に追い込まれ、酒問屋の資本力に致命的な打撃を与えた。ビールでも、昭和5(1930)年、
洋酒の寿屋が日英醸造を買収して、
「オラガビール」として参入したのを契機に、激しい価
格競争が生まれ、大瓶1本 41 銭が 25 銭に下落した。大正末期から昭和初期にかけて、大
阪では7千軒の酒販店があったが、毎年、約5%ずつ増加していた。しかも、そのうち新
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規参入者が 12%前後あり、廃業者も 10%前後あった。つまり、毎年、20%前後が入れ替わ
るという激しい状況にあった(『酒販昭和史』)
。
こうした危機的な状況を回避するためには、免許制度の導入によって、新規参入を抑制
し、乱売競争をやめる必要があった。新規参入が相次ぐ状況では、江戸時代から受け継が
れた業界内部の組織力だけでは調整できなかったのである。
第二には、小売業の新しい可能性と現在の厳しい状況の中で、小売業としての生存権を
酒販免許制に求めたことである。集客力のある立地に小売店舗を構え、瓶詰めの醸造元銘
柄の酒を店頭に並べ、座売りする小売業態が、産業化によって生まれた新中間階級をもと
に成立し始めたことである。小売業に新しい可能性が見えたのである。
一方で、当時の酒販店は、
「おみき酒屋」と呼ばれるように極めて零細な酒販店が多数を占
める現実があった。当時の指導者であった村井の店は次のような有り様であった。
「酒屋の屋
根看板はなく入口はせいぜい三尺位でやっと一人が通れる程度、入口の柱に大阪酒類商同業
組合員章の木札がかかっているだけだった。店内の広さは四畳半位で四斗樽が二挺と瓶詰が
十本置いてあったのを記憶している」
(
『酒販昭和史』
)
。まさに、
「貧商業団」であった。
革新官僚の登場と酒販免許の成立−「1940 年代体制」の光と影
社会の危機、そして酒販業界の危機が連続する中で、行政府はどんな対応をとったのだ
ろうか。政府はなぜ、この要求を拒否し続けたのか。そしてなぜ、後に急変したのであろ
うか。大蔵省は一貫して「所管に非ず」と拒否し続けている。所管に非ず、とは管理、管
掌することのできない問題である、ということであろう。営業の自由を原則とする資本主
義社会の論理と免許制の論理とは、真っ向から対立していた。約 10 年間は、この見解を表
明し続けるのである。
免許制の論理と市場原理の対立
しかし、こうした自由主義の経済思想も大きく変わり始めていた。ひとつは、井上準之
助に見られるような自由主義経済思想が、現実の経済恐慌の中で無力となってきたことで
ある。そして、悲惨な現実を前にして、「市場原理に基づく自由資本主義の限界」がはっき
り誰の目にも見えてきたことである。特に、高等教育において、さまざまな社会主義思想
が導入され、
「大正デモクラシー」のもとで広められていた。同時に、労働者の争議も盛ん
になっていた。
さらに、大正6(1917)年に起きたロシア革命は、日本を始め多くの国から干渉されな
がらも、国内経済は「計画経済」のもとに驚異の成長を見せていたことである。昭和3(1928)
年からスタートさせた「第一次五カ年計画」は、国民所得を 5.4 倍、銑鉄、粗鋼、鉄鉱石を
2倍以上にする計画を立案していた。さらに、世界恐慌から2年後、この計画を推進する
ために熟練労働者6千人を海外から募集した。その結果、応募に応じたアメリカ人の数は
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10 万人であった。市場原理よりも、むしろ「計画経済」に信頼が移り始めていたのである。
これらの流れの中で、日本の官僚体制も大きく変貌しつつあった。
日本の官僚体制は、明治 19(1886)年の帝国大学令の公布、明治 21(1888)年の「文
官高等試験」の制度を定め、すべての人に官僚への道を開いた。新しい制度の中で、徐々
に日本の官僚体制を構築していった。
明治維新後をリードした大久保利通、伊藤博文、山県有朋らが日本近代化のための「第
一次官僚革命」を起こした人々であったとするなら、昭和初期は、岸信介ら「新官僚」と
呼ばれた官僚達の「第三次革命」の時期であった(猪瀬直樹『ペルソナ−三島由紀夫伝』)
。
猪瀬直樹によれば、「第二次官僚革命」は、山県らの権威体制に対して、平民宰相原敬の
政友会と平岡定太郎(三島由紀夫の祖父)等の東大法科出身の大蔵官僚が結んだ政党政治
への転換と言えるものであった。原、平岡等は、政党と官僚が手を結ぶことによって、政
治家が、財界からの陳情を受け、官僚を通じて財界に利権を提供し、政治家への見返りと
して政治資金と選挙票を提供する、そして官僚には退官後の天下りポストを提供する、と
いう「トライアングル」構造を創り出すことによって、大衆が政党を通じて政治へ参画す
る道を切り開こうとするものであった、という仮説を猪瀬は提示している。
現在では、こうした手法はマスコミの否定的な評価が支配的であるが、一方で、これは
政治における近代化、すなわち民主化を政党政治によって実現するために、公式的な組織
の枠組み(政党、行政府、企業)を越えて人格的な「互酬原理」によって私的利害を調整
しながら、社会的ネットワークを構築するという日本人の組織化能力を活かしたものであ
る、と肯定的な評価もできる。その後、政党政治は「大政翼賛会」の結成によって崩壊す
るが、原、平岡らの目指した政党政治は、戦後になって再び形成されることになる。
自由資本主義の限界と岸信介の「計画経済」
「第三次官僚革命」は、昭和 10(1935)年の「内閣審議会」設置と、その事務局としての
「内閣調査局」の設置から始まる。昭和 12(1937)年、企画院設立、昭和 13(1938)年、
国家総動員法、昭和 14(1939)年、会社利益配当及び資金融資令、昭和 14(1939)年、食
糧管理制度発足など、現在では「1940 年代体制」と呼ばれるシステムができ上がる。大蔵省
による「護送船団方式」と呼ばれる銀行行政、従業員中心の企業体制、企業内組合による労
使協調体制、系列による下請け制度、銀行中心の融資体制などの「日本的システム」である。
これらの政策を推進したのが、
「新官僚・革新官僚」と呼ばれた官僚達であり、自由主義経済
思想よりもむしろ革新イデオロギーと計画経済の思想を強く持った人々だった。
電力の国家管理を推進した革新官僚のひとり、奥村喜和男は次のように言う。
「資本主義
的自由法則は、今や、人類生活の全領域において、全く行きづまってしまった。営利活動
の自由は独占資本の自由とはなったが、それはいたずらに労働者を苦しめ、中小商工業者
を傷つけ、今や国家の発展的要求とも背反するにいたった」(橋川文三『近代日本政治思想
史の諸相』)
。橋川は彼らの世代特性を、明治 30 年代後半に生まれ、大正時代に大学教育を
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受け、「彼らが旧官僚と異なった思想をいだき、政治的に新しい機能の担い手となった時代
背景については、(中略)それは彼らが第一次大戦後のデモクラシーと、マルクス主義の洗
礼を多少ともにうけた世代であるということに関係している」(前掲書)と分析している。
もうひとつ挙げるとするなら、「市場原理による自由資本主義の限界」、すなわち、経済
恐慌の悲惨な実態であり、「計画経済」への期待であろう。岸信介は、ドイツでの産業合理
化運動に強く惹かれたようである。
「ドイツでは日本と同じように資源がないのに、発達し
た技術と経営の科学的管理によって経済の発展をはかろうとしていた。私は『日本の行く
道はこれだ』と確信した」と述べている。岸は、その後、満州経営を「計画経済」に基づ
き約3年間実践し、昭和 14(1939)年、商工省に商工次官として戻っている。その満州経
営においてもっとも力を発揮したのが、ソ連の「計画経済」に精通した宮崎正義だったこ
とが知られている(小林英夫『「日本株式会社」を創った男』)。
新官僚のリーダーはなんと言っても岸信介であるが、中堅メンバーは、昭和 10(1935)
年に内閣審議会の事務局として同時に出発した内閣調査局の参加者だと言われている。陸
軍、海軍、内務、大蔵、商工、農林、逓信、内閣から中堅官僚が参加しているが、大蔵省
からは松隈秀男が参加している。
松隈秀男のイニシアティブによる免許制導入
松隈秀男は、明治 29(1896)年、岸と同年の生まれである。共に在学中に文官高等試験
に合格している。岸は東大法科を大正9(1920)年卒業、松隈は同じく大正 10(1921)年
に卒業し、岸は当時の優秀な学生が入省した内務省には行かず、農商務省に入っている。
松隈は大蔵省に入っている。昭和 15(1940)年には、銀行局長、同年末には主税局長、昭
和 19(1944)年にはトップの大蔵次官に就任している。終戦を迎える直前の昭和 20(1945)
年2月に、大蔵省を辞職している。戦後は、日本専売公社総裁、日本蒸留酒酒造組合中央
会長を歴任している。
こうした経歴から伺えるのは、いわゆる計画経済の色彩を色濃く持つ、一連の「総力戦
体制」の税制の重責を担ってきた人物である、ということである。このことは、松隈が岸
と同様に、「市場原理による自由資本主義」の信奉者ではなかったことを示すものである。
松隈秀男こそは、「酒販免許制度の立案者で、商工省との折衝にあたった」人物である。
彼は免許制に反対する商工省を相手に「(商工省は)縄張りだけを主張して、実行はいつか
期待出来ない。そこで『税法(酒税法)に規定を入れて、税務官庁の権限にする』と主張
して、法制局その他の了承を得て押し切ったのである。これが現在も続いている」(松隈秀
男回想録、『酒販昭和史』
)。
市場原理に基づく自由主義経済の限界への認識と計画経済への期待、それを推進した「第
三次官僚革命」が、酒販免許が導入された行政府側の背景である。危機に対処するために計
画経済の発想に答を見い出した新官僚グループが、行政の主導権を握り始めていたのである。
酒販免許の悲願は達成されたが、一方で、革新官僚達の国家総動員体制に完全に組み込
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まれていくことになる。昭和 12(1937)年、日中戦争への突入、そして、昭和 16(1941)
年、真珠湾攻撃と、戦争への道を歩んでいくことになる。生産統制、価格統制、配給機構
の整備などが進められた。配給機構をめぐる大蔵省と農林省の所管争いも経ながら、昭和
18(1943)年「整備」という名のもとで弱小な生産者、卸業者、小売業者が切り捨てられ
ていく。
岸は、昭和 13(1938)年、商工次官、そして昭和 16(1941)年に、46 才で東条英機内
閣の商工大臣に就任する。商工次官当時を回想して、岸はこのように述べている。「日本の
置かれている情勢から、国防産業を中核として国防国家を考えなければいけない。そのた
めには国民生活がある程度不自由になってもやむを得ない。特に流通過程の無駄は省かね
ばならない」と信念を述べている。皮肉なことにこの整備を大阪酒販組合の副組長として
推進したのは、「酒販業界の松陰」こと村井与三郎であった。以後は「鬼の与三郎」と呼ば
れるようになった。
終わりに
太宰治は、「明るさは滅びの美学」と源実朝を論じて評している。「大正デモクラシー」
の明るさは昭和の「滅びの美学」への道である。その前兆は、戦時中歌うことを禁止され
ていた唱歌に代表される。大正 10(1921)年、三木露風作詞、山田耕筰作曲による「赤と
んぼ」である。
夕焼、小焼の/赤とんぼ/
負われて見たのは/いつの日か
山の畑の/桑の実を/
小籠に摘んだは/まぼろしか
15で姐やは/嫁に行き/
お里のたよりも/絶えはてた
「まぼろし」「絶えはてる」という言葉に象徴されるのは、明治以降の革新エネルギーと
なった「立身出世」の価値観が大きく揺らいでいることを示すものである。地方から立身
出世をめざした若者が、「根こぎ」された都会生活の中で追憶している心像が思い浮かぶ。
こうした童謡が一般に広く受け入れられ始めた。このことは、明治以降進められてきた近
代化路線に対する深い疑念を含んでいるように思える。
同時期に、
「大衆文学」が発展した、中里介山は、大正2(1913)年から 27 年にわたっ
て全 20 巻の『大菩薩峠』を連載し始める。この小説のヒーローは、
「音無しのかまえ」で
知られ、ニヒリズムを漂わせながら、由なく人を斬る机竜之助である。人々は、こうした
唱歌や「立身出世型のヒーローではないもの」に共感を抱くようになっていた。
酒販免許の成立過程は、さまざまなことを現代に教えてくれている。市場原理に基づく
自由資本主義は悲惨である。酒販免許の成立過程は、このことをまず教えているのではな
いだろうか。酒販免許の成立に取り組んだ酒販青年達と岸信介らの新官僚達は、市場原理
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の限界については共通認識を持っていたに違いない。経済政策立案の観点からは、もし、
戦間期に大蔵省が第一次大戦後の早期に銀行を整理し、安定した銀行体制さえ構築してい
れば、日本の経済をあそこまで危機的な状況に追い込むことはなかった。この歴史の反省
が、「護送船団方式」と呼ばれる安全第一主義の銀行行政を生み出したように思われる。
現在の状況は、過去の否定の上に成り立った反省と理念によっているのである。現在の
規制緩和、市場原理に基づく自由資本主義の声は、井上準之助の叫びに似て聞こえるので
ある。昭和初期の危機への答を、井上は市場原理と自由資本主義に、そして岸信介は計画
経済に求めた。両者とも間違った。少なくとも両者とも大衆のためにはならなかった。
西郷南州ならどんな答を導き出したろう。市場原理に代わり得るものを酒販青年は何に
求めたのであろうか。現在の日本の危機に対して、我々はどんな答を探さねばならないの
だろうか。もはや「計画経済」への期待は皆無であり、ソ連の「五カ年計画」は失敗の連
続であったことが明らかになっている。彼らが何を考えていたかは、その残された行動か
ら推察するしかない。恐らく、「互酬原理」にあったのではないかと思いたくなる。
彼らは、共通の理念を持って人々を組織した。そして、免許制導入へと運動した。大阪
から東京への請願も「手弁当」であった。日本人の組織化能力とはこういうものではない
だろうか。原敬、平岡定太郎も、政党政治のために、所属組織を越えたネットワーク化、
組織化を始めている。これらの組織化に共通しているのは、市場原理ではない、K.ポラン
ニーの言う「互酬原理」
(対価を求めない贈与)にあるように思える。
互酬原理で成り立っている組織とは何か。その典型例は、現代のインターネットである。
情報提供者は何の見返りもなく情報提供することが基本条件になっている。互酬原理その
もので成り立っている。近年では、この巨大なネットワークを市場原理によって制してい
こうとする動きもあることは事実である。しかし、ここまで組織を拡大してきたのはその
互酬原理にあることは間違いない。同時に、こうした動きも排除はしていない、むしろ共
存していると言える。異なる二つの原理、市場原理と互酬原理を対立共存させているのも
また、インターネットの特徴である。
酒販免許の成立過程とインターネットは、我々の未来は過去に悲惨な結果を招いた市場
原理に戻ることではなく、互酬原理を対立させ共存させる新しい経験と多元哲学を持つこ
とだと教えてくれているように思う。
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第3章 日本の消費社会の誕生−売りに来るものから買いに行くものへ
消費社会では「買い物」という行為を通じて物を消費する。したがって、その成立には
小売業の存在が不可欠である。小売業は、いつ頃どのようにして今日のような形態になっ
たのか。そして、人々は生活をどう変化させたのであろうか。
本稿では酒産業を中心に以下の点を論じる。
•
江戸で酒はどのように小売され、その流通や消費の特徴は何であったか。
•
明治大正期に、消費社会はどのような経緯で成立したのか。
•
消費社会成立の歴史的条件は何であったか。
•
消費社会の誕生で、人々の生活や産業構造はどう変わったか。
現代の日本に於いては、情報化と国際化が消費社会を新たなステージに導きつつある。
消費社会と酒産業の歴史的な関わりを知ることは、我々に将来を見通す有効な視座を与え
よう。
問題の視角
現代社会のひとつの特徴は、生活に必要なものがすべて「商品化」され、「市場化」され
ているところにある。その商品数を小売業の品揃えで見ると、コンビニエンストアで約
2,000∼3,000 品目、総合的な量販店で 20∼30 万品目に上る。すべてのものが商品化と市場
システムによって提供されている社会、すなわち消費社会と言っていい。現代の生活者は、
これらの商品化されたものを「買い物」という行為を通じて入手し「消費」している。
しかしながら、少し記憶を遡れば、数多くの生活に必要なものは自家生産や贈与によっ
て入手していたことがわかる。米はもちろん、蔬菜、魚、卵、味噌や醤油などの日常食す
るもののほとんどすべて、自家生産であった。酒も、明治政府によって自家醸造が法的に
禁止されるまでは各地の有力な農家によって自由に醸造されていた。
ジョオン・サースクは、イギリスでは石鹸や歯磨きなどの日常の消費用品が企業家によ
って生産され広範に流通するようになった起源を 16 世紀の「企業創設の時代」に認めてい
る(『消費社会の誕生』)
。現代社会の特徴は、日常の生活用品が資本主義的な生産に全面的
に依存しているだけでなく、商品が使用価値以外の「記号的価値」を持ち、使用価値の消
費よりも浮遊する「記号消費」の様相を呈しているところにある(ジャン=ボードリヤー
ル『消費社会の神話と構造』)。このことはボードリヤールの指摘を受けるまでもなく、イ
ンポートブランドの隆盛を見れば明らかである。
消費社会は、経済の表層に焦点を当てた議論に過ぎず、経済の批判的理解のためにはや
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はり生産、すなわちポスト産業社会論を基軸にした理解が必要である。従って、消費社会
論にはあまり意味がないという批判的見解(堤清二『消費社会批判』
)を極にし、消費社会
化は社会の物質的生産の限界を越えて、「生きる喜び」を可能にし、自由を希求する人間の
「解放空間」を無限に拡大するという見方もある(見田宗介『現代社会の理論』
)。
現代の日本社会がなんらかの行き詰まり感や閉塞感に支配されていることは、今さら言
うまでもない。悲観論にしても、楽観論にしても、21 世紀の社会の方向とビジョンを探る
上で、消費社会のあり方がひとつの鍵を握ることだけは確かである。
日本の消費社会の誕生は、いつ頃であり、どのように誕生し、現在の社会に至っている
のだろうか。これを酒の事例と日常行動である「買い物」というふたつの観点から明らか
にしようとするのが、本稿のねらいである。さらに我々の社会の行方と酒産業、とりわけ、
消費と生産を繋ぐ流通産業の社会歴史的背景を探ってみたい。
江戸の生活と小売業
江戸の酒消費
江戸時代は、後進的な遅れた社会であったというよりもむしろ、酒産業を通して見た経
済社会では、生産と消費が分離され資本主義システムに限りなく近い経済社会であったこ
とは、かつて指摘したことがある(第一章)。その前提条件のひとつは、巨大消費都市、江
戸の誕生にあった。
江戸時代は石高制であり、
米の生産が経済の鍵を握っていた。
人口 100 万人を有した江戸は、
その半数が武士層であり、残りが武士層に武具などを提供する職人や商人であった。生活必需
品を自家生産しない、市場に依存する人々が、幕府の城下町政策によって突然出現した。これ
らの層の生活を支えるために、大阪がその以西の生産拠点から米などの生産物を集荷し、江戸
に供給するという「天下の台所」機能を果たす経済システムを作り上げていた。
こうしたマクロ的な経済理解が可能な一方で、ミクロ的な「生活」という観点からは、
人々はどのように生活し、どのように暮らしていたのであろうか、という疑問が浮かび上
がってくる。
生活史という観点から見ると、「政治の幅はつねに生活の幅より狭い」という埴谷雄高の
箴言通り、生活は歴史の主原動力でありながら、江戸時代の消費生活は見えてこない。い
くつかの新しい研究成果と限られた資料の中から、都市江戸の酒と生活の消費接点の包括
的な仮説像を整理し、消費社会の歴史的前提を探ってみたい。
商品と生活の接点は小売業である。小売業とは、特定立地に店舗を構え店頭に品揃えし
て集客する機能であるとされる。人々の江戸時代の町の形成像は、多くの場合テレビや映
画などの時代劇や落語などによる。特に、テレビを中心とした時代劇では、現代の外食産
業に類する居酒屋や店頭に品揃えした商店街があり、町人が行き交う光景が映し出され、
何の違和感も持たない。従って、店舗を構え品揃えをした店が小売業であり、「庶民が消費
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物資を購入していた」という強い固定観念に囚われている。本当にそうなのであろうか。
江戸八百八町
江戸城は太田道灌によって築城され、天正 18 年(1590)には、徳川家康が入府し、慶長
8年(1603)に江戸幕府が成立し、寛永 13 年(1636)には江戸城の内郭と外郭が完成し
ている。ほぼこの時期に、都市江戸が成立したと見ることができる。
江戸は、明治2年(1869)の土地調査によれば、その総面積は 1705 万坪と測定されてい
る。武家地はその 69%、町地(町人や職人が居住する地)は 16%、寺社地は 15%を占め
ていたことが知られている。
江戸の人口は約 100 万人、武家層 50 万人、町人層 50 万人であることから、町人層の人
口密度は極めて高かった。一平方キロメートル当たり5∼6万人の人口密度と推定され、
平成2年(1990)の東京都が、5430 人であることから、現在の約 10 倍の高密度であった
ことになる。
武家地は現在の番町や麹町などの山の手を形成し、町地は「八百八町」と称される現在
の日本橋を中心街として下町と外郭に広がっていた。町数は、実際にはその倍に近い 1637
町あった。
町は、「町割」と呼ばれる都市政策に基いて、道路を通し町が割り付けられていた。大火
や地震などを教訓として何度も変更されているが、京都の町割をモデルにして計画されて
いた。その基本原則は、60 間四方の街区中央に 20 間四方の「会所地」と呼ばれる空き地を
とり、街路沿いに奥行き 20 間の町屋敷を配置するということであった。
町は、
「両側町」と呼ばれる形式に従って、街路に面した両側の町屋敷で形成されていた。
町には居住者として同業者集団が集列され、材木町、呉服町、瀬戸物町などの名称がつい
た。個々の町屋敷は、間口が5間程度で奥行き 20 間の長方形の短冊形態が標準で、現在で
も「鰻の寝床」として知られる京都の町並みと似たものであった。この町屋敷は、街路に
面した奥行き5間ほどの居住地が表店坪と呼ばれ、後方は裏店坪と呼ばれた。
江戸研究家の第一人者として知られる三田村鳶魚は、町屋敷の利用方法について以下の
ように説明している。
「いずれの町々でも、そこに住んでいる者をどういう風に分けるかというと、地主・地借、
それからあとは店借です。店借ではあるが、表店を借りているもの、これは、表通りで商売
を営んでいる独立した商人ですが、それでも地面・家作共に借りているのでありますから、
やはり家主の支配を受ける。何右衛門店、誰、という風に書かれているのはこれであります。
それから、表店でない、裏店と称するやつ、これは、俗に九尺二間裏長屋という。間口九間、
奥行二間半。それに六世帯、一住まい三坪二合五勺の棟割長屋というやつで、名称のごとく、
往来に面した場所ではない。裏へ引っ込んだところで、大概一棟が六軒位、それが向かい合
わせに建っていて、一々木戸がついている。
」
(
『三田村鳶魚全集』第七巻)
一町には、平均 87 世帯 350 人くらいが住んでいた。町にはどんな人が住み、どんな暮ら
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しをしていたのであろうか。吉田伸之氏の詳細な「麹町十二丁目」(現在の新宿区四谷一丁
目内)の研究から整理してみる。正確な人口は掴めないが、約 143 戸、約 574 人の町とみ
られ、人別帳から推定すると、先の鳶魚の町屋敷の所有形態別では、家守(ほぼ地主)21
人、家持3戸、地借 76 戸、店借 66 戸となっている。
家持・地借の職業は、古着商売などを始めとして、その多くは街路に面した表店商売とみ
られ、店借には日雇い稼ぎなどの棒手振り、時之物売・賃仕事などの裏店の職種が見られる。
裏店が庶民生活の中心であり、落語で登場する「熊さん八つァん」の生活世界であった。
酒は、町とどのような接点を持っていたのであろうか。
酒と江戸庶民生活
麹町十二丁目には、ふたつの結節点があった。弥八の家守で、表店に古着商売、鋳物商
売、餅菓子商売、乾物商売、そして升酒商売があり、裏店に居酒渡世とあった。両者とも
戸主が女性であり、升酒商売は年齢不詳後見付きのあいさん、居酒渡世は、6才(?)の後
見付きであった。家族数は、人別帳ではふたりとも一人となっている。
江戸時代の生活文化を知る上で貴重な資料である、嘉永6年(1853)に書かれた『守貞
謾稿』(喜田川守貞著)には、酒に関する商売がいくつか挙がっている。「酒問屋」、「升酒
屋」(〔京坂〕では板看板酒屋)などの店を構えた売り方と、「醤油売り」(醤油との併売)、
「白酒売り」
(主に子供相手)、
「甘酒売り」などの振売、棒手振りと呼ばれた行商人である。
升酒屋の見世先には、酒樽や菰樽を並べ、間口には水を張った桶を置き、徳利を洗える
ようにして、計り売りをすると共に、馬子、雲助などを相手に、その場で立ったまま呑ま
せることもした。
麹町十二丁目の居酒屋とは、宝暦(1751∼64)頃の外食化の流れの中で生まれてきたも
のである。「ちろり」(酒を暖めるのに用いる銅・真鍮または錫製の容器)を使って、澗で
呑ませていた。神田鎌倉河岸の「豊島屋」や神田泉町の「四方」などが有名で、明和(1764
∼77 年)前後は上酒1合 12 文、下酒1合8文で呑ませていた。
「豊島屋白酒、神田鎌倉河岸、白酒の高名豊島屋、気強く色薄し一家風、人人買んと欲
するとも、多くは買い難し、売り始め、売り終わり、半日の中」と「名物詩」に記載され
ている。麹町十二丁目の居酒屋は、人別帳から見て裏店であり、女主人であることから、
相当生業に近いものであったと推定できる。
外食の原点は旅での食事にあるが、一般的には外食は反道徳的と考えられていた。にも
かかわらず江戸での外食化が進むのは、地震大火、飢饉によって、家屋を失った人々が否
応なく食事をしなければならなかったからであり、必要に応じて供給されたものが定着し
たのであった。三田村鳶魚によれば、明暦の大火によって「奈良茶飯」が生まれ、元禄の
地震火事で「田楽屋」が焼け場に立ち、天明の飢饉で「煮売り」が始まったと、外食化の
背景を説明している。
これらが、庶民と酒を結ぶ接点であった。
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江戸の垂直流通システム
江戸時代、上方の醸造家が江戸の酒市場で大きな支配力を持っていた。地廻り経済が江
戸の巨大消費に対応できなかったからである。上方醸造家は、樽回船・菱垣回船などの物
流手段の開発と出先を問屋化することによって、問屋を中心とする新しい販売システムを
構築していた。元禄 16 年(1703)には、このシステムは、十組問屋のひとつとして、126
軒の問屋と 42 軒の仲買によって担われていた。つまり、「上方酒醸造家→酒問屋→仲買」
という流通システムが完成していた。
では、先に見た庶民の酒とこのシステムとはどのように結びついていたのであろうか。
また、庶民との接点が深い行商人である振売や棒手振りは、流通システムの中でどんな役
割を果たしていたのであろうか。どうも、この先に現在の酒小売業のような常設店舗を持
った業態が多数、江戸に存在したとは考えにくい。
吉田伸之氏は 17 世紀後半の三井呉服店の研究を通じて、
見世売と振売との関係について、
次のような例証を通じた仮説を提示している。少し長いが、引用してみる。
「17 世紀、都市の売の形態は見世売と振売に二重化していた。これは、中世商業のひと
つの達成物であると言えよう。このうち見世売は、町の表通りに常設の店舗(表店)をか
まえて、特定の売物の入荷と振売への卸売を独占し、町を枠とする仲間を形成した。また、
振売は、当該の町や近辺の裏店に居住し、見世売からの卸買を独占して、町の内外での非
常設店舗、あるいは、行商による小売権を専有していた。そしてこれらの振売も、見世売
に準じて、町を枠とする共同組織をもったのである。こうして見世売と振売は、相互に不
可分の存在として、主要な売物の品目に応じて町を基盤に広く展開した。」(「振売」『日本
都市史入門
III 人』)
この魅力的な仮説に従えば、酒の流通も振売と見世売に二重化していたのではないかと
いう推測が成り立つとともに、その比重は予想以上に大きなものだったのではないかと考
えられる。これを裏付けるのは、明治 10 年(1877)に公布され、3年後に撤廃された「酒
類行商鑑札」
(「酒類請売営業税」を設け、卸売 10 円、小売5円、行商のための鑑札料1枚
10 銭とした。これは実質的な免許制であったが、製造と販売の両者の反対によって廃止さ
れた)によって、行商が課税の対象として無視できない存在であったことをうかがい知る
ことができる。
さらに、振売はその後の近代的な流通業態にも大きな影響を与えているという分析があ
る。三井呉服店が、呉服の常識的販売方法だった「座売り掛売り聖売り(武家屋敷売り)」
を革新し、「店前売り薄利多売現金掛け値なし」という新商法へ転換した意義を、吉田氏は
次のように分析している。
「三井呉服店は、それまで本町二丁目の庇地の前店・店で小規模に行われていた町内聖
商=振売による前売という小売りの形式を学び、聖商の小売り独占を侵しながら前売を営
業の中核に据えたものであると推定される。つまり、庇下での零細で非常設的な小売の形
式を店舗内の売場のシステムに取り込み、手代による常設的な小売の場として拡大・強化
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したものが三井による前売に他ならない。」(同前)
三井呉服店は、経済力が低下した武家層と同業との競争の中で、振売が対象とした裕福
な町人層の取り込みを狙い、その仕組みを庇下という私有性と公共性というふたつの側面
をもった店前に着目することによって、現在の常設店舗で、店頭で品揃えし、接客すると
いう「近代的小売業態」の手法を開発したと言うのである。この手法は、先の豊島屋にも
いち早く取り入れられている。
これらのことを総合すると、江戸の酒の最終消費者までの垂直流通システムは以下のよ
うに整理することができる。
1) 上方醸造家→酒問屋→仲買→棒手振り→消費者(庶民層)
2) 上方醸造家→(酒問屋=仲買)→消費者(武家層)
3) 上方醸造家→酒問屋→仲買→居酒屋(外食)→消費者(庶民層)
4) 上方醸造家→酒問屋→仲買→升酒屋(小売)→消費者
この四つの多元的な流通システムが、江戸時代に形成されていたのではないだろうか。
江戸初期には 1) 2) を中心としたシステムが、江戸中期には外食化への対応としてシステム
3) が広がり、現代の酒販売の酒販店を基軸とするシステム 4) へ進化をとげて来たように
推測できる。
庶民生活から見れば、一日中、家の外へ売り声をあげながら野菜などの日常食材やその
季節ごとの振売が売りに来て、必要な物があれば声をかけ購入するという風景であったろ
う。菊池貴一郎の『絵本江戸風俗往来』には、振売がいかに生活に密着した存在であった
かを証明している。
江戸時代初期には、家で晩酌をしたり、独酒をするなどという習慣や嗜好は生まれてい
なかったろうから、職仲間や長屋近所の人々と酒を呑んだのであろう。その際に必要な酒
を、振売りや升酒屋から貧乏徳利で計り買いして入手していたように思われる。
裏店の棒手振りの一日の生活費は約 450 文(『文政年間漫録』)、100∼200 文の余裕と推
定すると、下酒1合8文は購入できる値段であった。武家層では、饗応機会が多いことか
ら四斗樽などで酒問屋などから入手していたのではないだろうか。逆に、なぜ、常設型の
現代の小売システムが形成されなかったのだろうか。
流通側では、在庫投資や店舗設備を投資するための資本蓄積がまだなかったということ、
問屋−仲買−振売の不可侵関係が根強くあったこと、集客力のある立地が限定されていた
こと、生活に必要な消費物資が少なかったこと、まだ、資本主義的な生産体制に入ってい
る商品が限られたことなどが挙げられる。
他方、生活側にも要因はあった。賃収入が低かったこと、質素倹約の倫理観が支配して
いたこと、そして何よりも買い物の必要もなければ、買い物行為を生み出す消費欲望がな
かったからである。「禄の低い士衆の内方(中略)、とにかく両刀を帯した者の妻女が、青
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物を提げたり、肴を提げたりして帰るのはどうも困る。
(中略)主人は出勤しているのです
から、家をガラ明きにして出るわけにはゆかない。人一人雇うだけの入費を考えれば、持
って来る品の高いのを買っていても、まだ割が安い。」(
『三田村鳶魚全集』第七巻)
買い物をしなければ生活ができないことは、現代人の常識である。しかしながら、買い
物という行為が生活の中心になるには、いくつかの歴史的前提が必要なのである。江戸時
代の棒手振りの活躍は、そのことを如実に物語っている。
どのような歴史的条件が必要だったのだろうか。明治から大正、大正から昭和へ、そし
て現代へと、我々の生活の何が買い物行為を成立させ、消費に依存する生活へと変貌した
のであろうか。
都市の拡大と消費社会の誕生
鉄道が変えた海から陸の生活へ
江戸は東京に名称変更されたが、東京は明治中期まで江戸時代と何も変わらなかったと
言われている。しかしながら、明治中期以後大きく変貌していく。海から陸へと生物が大
進化したように、海運中心の都市から陸運へと変わっていくのである。
東京が大きく変貌していくまでに最も注目されるのは、教育制度の整備である。明治3
年(1871)には、教育行政にあたる文部省を設置し、明治 18 年(1886)の文部大臣森有
礼による「学校令」が発布され、教育水準を上げるために義務教育の制度を整えると共に、
高等教育制度を整備していく。私学では、福沢諭吉の私塾が明治維新と共に「慶応義塾」
と改称され、明治7年(1875)には新島襄が「同志社」を創立し、明治9年(1877)には
「東京帝国大学」を開設する。
こうした教育制度によって、地方から青年層を東京へ吸引するとともに、殖産興業化に必
要な人材を供給していくことになる。そして彼らが、消費社会の主役たる「中間層」の上層
を形成していく核になっていくのである。
明治中期になって大きく江戸、東京を変えていくのは、鉄道である。明治5年(1873)
、新
橋・横浜間に鉄道が走る。これを契機にして鉄道が整備され、山の手環状線が形成される。
ところが、実際に山の手線が環状を描くのは、神田・上野が開通する大正 14 年(1925)
の 52 年後である。山の手線が完成する前に、明治 16 年(1883)に上野・熊谷開通、同 18
年に、赤羽・品川開通というように、群馬県や信州方面へと鉄道は延びていた。それは、
近代化の原資となる外貨を稼ぐ目的で、生糸の輸出を行うためである。群馬県富岡には、
官営製糸工場が操業を開始していた。
しかしながら、輸出と貨物目的のこの線が、東京を変えていく。東京の西部を開拓し、
新宿、渋谷、池袋が副都心となっていく。江戸の町地の中心は、なんといっても日本橋で
あった。神田・上野が開通しなかったのも、繁栄した町の用地取得と工事が困難だったか
らである。当時の山の手線は、「の」の字で運行していた。皮肉なことに、環状線が完成し
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たのは「大震災」が起こったからである。
都心部では、まず日本固有の発明である人力車が発達し、ついで、乗合馬車、レールを
敷いた上に馬車を走らす鉄道馬車が発達し、明治 30 年代には路面電車に替わった。人口約
160 万人に対して1日の乗降客は 120 万人と、盛況を極めた。
この幹線に、私鉄が鉄道を連結させていく。明治 40 年(1907)に「玉川電車」が渋谷・
玉川(現二子玉川)を、大正3年(1914)に「東上鉄道」が池袋・川越間を、翌年に「武
蔵野鉄道」(現在の西武鉄道)が池袋・飯能間を、そして「京王電軌鉄道」が新宿・調布間
を次々開通させ、連結させていった。鉄道は何を変えたのか。
ひとつは、東京の山の手を西へと拡大させ郊外を作ったことである。江戸の山の手とは、
武家地を指していた。従って、麹町・番町などの御家人層の居住地を指していた。それが、
山の手線と私鉄の連結によって、世田谷、目黒などの新しい山の手を形成した。新しい郊
外を作りだした。
ふたつめは、郊外に住むことを可能にしたことである。郊外から、雇用の場である霞ヶ
関、丸の内、日本橋、神田、銀座などへ通勤することを可能にした。つまり、「職住分離」
を可能にしたのである。
三つめは、新宿、渋谷、池袋などが乗り換え地点以上の役割を持ってきた。不特定多数
の人々を吸引するこれらのターミナルは、「盛り場」機能を持ち始めた。江戸時代には、こ
うした不特定多数の人々が集まる拠点はなかった。
新しい中間層と主婦の誕生
明治の殖産興業化は、新しい産業資本、製造業を生み出した。繊維、化学、造船、鉱山
などである。続々と新しい企業が誕生していく。また、明治 18 年(1885)、内閣制度が施
行されたことによって、中央官制も整備されてくる。実業界においても、政府機関におい
ても、事務管理層、経営専門家層が必要になってくる。
こうした人材を提供したのが、明治初期に布石が打たれていた高等教育機関出身者であ
った。これらの人々は、地方出身の高等教育を受けた東京の新しい住人だった。司馬遼太
郎の『坂の上の雲」に登場する秋山兄弟、正岡子規、そして夏目漱石や森鴎外などを連想
すればわかる。
江戸商業の中心は、日本橋、神田であった。しかし、近代的な官制と実業は、新しい拠
点を模索していた。それが、「丸の内」と「霞ヶ関」である。丸の内が三菱に売却され、ビ
ジネス拠点が形成され始めるのが明治 22 年(1889)であり、東京駅の開業が大正3年(1914)、
「丸ビル」が完成するのが大正 12 年(1923)である。霞ヶ関に司法省が完成するのが明治
28 年(1895)。徐々に、分散していた官庁が官庁街として集積していく。
原朗氏の推計によれば、大正 13 年(1924)には、労働者階級は約 21%、新中間層の推
計は困難であるが、全体の約5%前後、東京ではもっと比重が高かったものと思われる。
(『階級構成の新推計』)
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彼らは、新しい生活スタイルを新しい陸運環境の中で創り始めた。もっとも大きな変化
のひとつは、新しい交通機関である鉄道や市電を利用して「職住分離」を始めたことであ
る。江戸時代は、約 70%以上が借家だった。人口が集積し、住み難くなった都心から、郊
外の山の手持ち家へと移住し始めた。これが加速し始めたのが、またしても皮肉なことに
大震災への恐れであった。
さらに、田園都市構想にもとづく、東京横浜電鉄(現・東急)による鉄道敷設と洗足・大
岡山・田園調布の開発、小田急沿線の成城学園・玉川学園、地主が区画整理組合を結成して
開発した世田谷区東南部、杉並区西部などの、新しい暮らしと住宅の提案が相互作用した。
職住分離、郊外持ち家、そして、家族が形成されていく。家族についての公的な考え方
がまとまるのは民法であり、「家制度」を基軸とする明治民法が制定されたのは明治 31 年
(1898)である。彼らが形成した実際の家族は、これまでの江戸庶民の家族とは大きく異
なっていた。
「家父長権威体制」と呼ばれるものである。この家族制度は、「ひさしく『封建遺制』と
考えられてきたが、近年の家族史研究の知見は、『家』が明治民法の制定による明治政府の
発明品であることを明らかにした」
(上野千鶴子『近代家族の成立と終焉』)。
落合恵美子氏は、その特徴を以下の8点に整理している。家内領域と公共領域の分離、
家族成員相互の強い情緒的関係、子ども中心主義、男は公共領域・女は家内領域という性
別分業、家族の集団性の強化、社交の衰退、非親族の排除、核家族である。(『近代家族と
フェミニズム』)
こうした「明治家族」が形成されたのは、明治政府の法的な押しつけ要因だけで説明で
きるものではない。しかしながら、人々がこうした家族観を、特に、新中間層が強く受け
入れられたことだけは確かである。その背景には、明治のイギリスの「家政学」的な発想
に強く影響を受けた稲積清軒らの女子教育の発展、彼らの多くの出身階層であった下級武
士の儒教的倫理観などがあると考えられる。
特に着目されるのは、性別分業である。性別分業が選択されたことによって、
「専業主婦」
が誕生する。家事と育児を主務とし、家族に必要な消費物資を一手に購入する専門家、消
費者が生まれるのである。職住分離、郊外居住、性別分業が、専業主婦を作り出した。
あくまで推測だが、家事があって専業主婦が必要だったのではなく、専業主婦の成立が
「家事」を作り出したのではないか。明治以前の村の生活では、非親族との居住も含めて
多人数が同居し、すべての人がそれぞれの仕事を営んで生活し、家事という独立した仕事
はなかったからである。
新しい中間層が新しい生活を構築する中で、私的な領域、すなわち家庭における晩酌と
公的領域すなわち組織における饗宴という、「酒を飲む場」の分裂が生まれ、独酒という習
慣が、形成され定着していく。酩酊し異常心理を共有し打ち解けることよりも美味しい酒、
集団で飲むよりも独りで晩酌する酒の方に価値が移動していくのである。従って、酒の入
手方法も酒の醸造方法も、新たな進化を要請されてくる。
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プロダクトイノベーションと巨大集客システム
技術革新には、ふたつの性格が異なるものがある。ひとつは、プロセスイノベーション
であり、もうひとつはプロダクトイノベーションである。プロセスイノベーションは、製
造工程におけるコスト削減や品質改良に繋がる革新である。プロダクトイノベーションと
は、既存の製品とは異なる新しい製品を生み出す革新である。
従来は、プロセスイノベーションに多くの注目が集まった。消費社会の成立を考える時、
プロダクトイノベーションに、より注目していく必要がある。同じ製品を作り続けコスト
削減と品質改良を続ける枠の中では、シュンペーターが心配した通り、利潤率が長期的に
低下する傾向を避け得ないからである。(『民主主義・資本主義・社会主義』)
続々と誕生する多くの製造業は、製造に必要な製造装置のための資本と技術、そして経
営技術があればよかった。製品については、欧米の模倣で済むからである。しかし、在来
産業であった酒産業は違った。新しいイノベーションを必要としていた。
酒醸造家も、明治以降より近代的経営を推進し、企業化していく一方で、大きなプロ
ダクトイノベーションを達成している。清酒のびん詰めである。明治 11 年(1878)の
「びん詰清酒」の発売は、好評を博し、広く受け入れられていく。容器を鍵とするプロ
ダクトイノベーションだった。びん詰め工程が新たに加わると共に、量産が成功を左右
する産業になっていった。なぜ成功したかは、言うまでもなく酒の飲まれ方が大きく変
わってきたからである。家庭での独酒、すなわち晩酌や会社組織での飲酒が増加したの
である。
新奇性を望む新しい中間層とそれに応える製造業という「プロダクトイノベーション
による消費者との共同関係」がここで成立した。この共同関係の成立こそが、資本主義
を資本家対労働者という階級対立の関係から救い出し、飛躍的な成長へともたらしたも
のである。
百貨店の登場
百貨店の起源は、嘉永5年(1852)、パリに開業した「ボン・マルシェ」と言われている。
買回り品を中心とした品揃えで、定価販売、現金販売、品質保証、返品自由を特徴とした
大規模店舗であり、多種の品揃えを部門別に仕入れ、販売することを原則とした、最初の
「業態小売業」であった。
日本では、
「勧工場」を起源にすると言われている(初田亨『百貨店の誕生』)
。内国勧業
博覧会は、政府が殖産興業政策に基づき、内務省が中心となり、国内の農工商諸業を勧奨
して各地の物産を盛んにすることを目的としたものである。この博覧会で売れ残った品物
を陳列、販売する場として、物品陳列所を上野に開設したことに始まる。現在の名残は、
銀座の「博品館」(「帝国博品館」)である。
東京には数多くの勧工場が開設され、明治中期から後期にかけて繁栄した。この勧工場
でとられた販売方法が、江戸時代の座売りではなく陳列方式であった。大手の呉服店がこ
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れを見本に陳列方式の販売を始め、同時に、近代的な部門別の商品管理を導入して成立し
たのが、百貨店であった。
三越、白木屋などが先陣を切って成功を収め、他の呉服店も追随して、百貨店は急速に
流通の王座につくことになる。慶応義塾出身の高橋義雄が「デパートメント・ストア宣言」
をするのは明治 32 年(1899)である。
「店」という言葉は、
「見世」から来ていると言われるように、日本の百貨店は、新しい
中間層をターゲットに新しい生活スタイルを、ショーウィンドーを武器にして提案する。
百貨店は、「文化装置」(山口昌男『「敗者」の精神史』)となるのである。
鹿島茂氏は、ボンマルシェの研究を通じて百貨店の意義を次のように述べている。「オペ
ラのように陳列された商品」、「薄利多売によって可能になった信じられないような廉価」、
「奢侈」、
「アルス・コンビナトリア(組み合わせ芸術)の生み出すディスプレイの美しさ」、
「見たこともないものが一堂に会した新奇さ」によって「買い物客の潜在的な購買願望を
目覚めさせ、必要でないものまでを買わせる独特の魔力」を百貨店の売り方の特徴として
挙げ、さらに「消費者に、より豊かなハイライフという目標を設定してやって、そこに到
達するよう叱咤激励してやること。実は、この教育的な側面が存在しなかったら、〈ボン.
マルシェ〉の本当の意味での発展はありえなかったはずである。プチブル的な倹約精神の
身についた買い物客は、商品にいかに欲望を刺激されたとはいえ、自分を納得させてくれ
る理由がなければ衝動買いにはどうしても罪悪感を感じてしまうことになる」(同氏『デパ
ートを発明した夫婦』)
。
すなわち、百貨店は人々の古い倹約道徳から欲望を解放し、消費を納得するための教育
システムを持っていたということである。三越を中心とする百貨店も、西洋文化の発信拠
点として啓蒙的な役割を果たした。
社会システムの成立と限界
新しい中間層は、新奇志向の強い価値観を持ち、洋風スタイルに憧れ、百貨店が日本化
して提案する商品やサービスを採用していく。欧米への模倣欲望が創造された。それをさ
らに下層の人々が模倣する。模倣欲望がさらに、明治中期から影響力を持ち始めたマスコ
ミによって拡大するという連鎖が生まれ始め、百貨店は次々流行を生み出すことになる。
文化鍋、文化コンロ、文化風呂、そして文化住宅まで設計して販売したのである。
製造業が新しい製品を開発し、それを百貨店が店頭で模倣欲望を刺激する生活スタイル
として品揃えし、演出し、啓蒙教育する。それを新しい中間層が受け入れる。製造業、流
通業、消費者の三者の共同関係が成立した。すなわち、生活が消費に依存し、生産が消費
に従属し、流通が生活に依存する、消費社会のシステムができた。明治後期から大正時代、
東京で5%の新しい中間層を基盤にして産声をあげたのが、「日本の消費社会」だった。
その時期を特定するなら、大正 12 年(1923)の震災後の丸ビルの完成、郊外への移動
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(田園調布分譲開始、大泉学園都市分譲開始、国立学園都市分譲開始)、松阪屋の銀座進
出、松屋の銀座進出、そして百貨店を連結させ、人々の機動力を格段に上げた地下鉄の開
通が相次ぎ、三越が銀座に進出した頃である。このことによって銀座の百貨店と商店街は、
不特定多数の人々を家から引き出す、買い物行為を作り出す巨大な集客システムとなった
のである。
消費社会の産婆役は、残念なことにここでも、すべてを破壊する力をもった大震災であった。
業態小売業と業種小売業の対抗図式
明治時代の就業調査でもっとも多いのが「その他」に分類される人々である。約 30%も
ある。そして、その中に棒手振り、香具師などの仕事があった。明治後半、これらの職業
を持った人々はほとんど姿を消してしまう。
鉄道が新しい拠点を作り、不特定多数の人々の群れを作り出した。百貨店は、旧来の得
意先であった武家層を失い、常設店舗を巨大化し、欲望を刺激するシステムを開発し、郊
外の中間層に対応することによって、不特定多数の人々も取り込んだ。
ここに、生活に必要な総合的な品揃えをする「業態小売業」が誕生した。業態小売業の
第一の定義は、消費を起点に品揃えすることにある。これに対抗する形で、曖昧な形で江
戸時代に機能していた小売、仲買、卸が、より機能を分化させる方向で、「業種小売業」を
定着させた。
業種小売業の第一の定義は、生産を起点に品揃えすることにある。製造業のプロダクト
イノーベーションへの信頼に、より重点を置く小売経営でもある。
業態小売業も業種小売業も、新しい消費社会化の歴史的条件のもとで成立したものであ
る。新しい中間層の成立、消費に依存した暮らしと、独立行為になった「買い物」である。
その後の流通史は、
「業態小売業と業種小売業の対抗図式」の歴史と言っても過言ではない。
通説では、業種小売業がまずあって、そこに「安売り」や「大型店舗」で業態小売業が
後発参入し、市場の寡占化を進めるというような図式で語られることが多い。しかし、歴
史的事実は、両者がほぼ同一時期に同一条件で成立していることを示している。
明治大正時代では、銀座のように、百貨店に対抗し、常設店舗をもつ小売業は、商店
街という業種小売の多様な魅力の集積を対抗手段として見出し、寧ろ小売業内競争を促
進し、巨大な集客システムを作り上げ、棒手振りなどの行商を共同で圧倒してきた。そ
の結果、消費物資は「売りに来るものから買いに行くものへの大転換」が、誰も気づか
ぬまま達成された。
日本で初めて酒小売を中心とした組合が結成されるのは、明治 13 年(1880)の「大阪酒
類商組合」であり、全国組織となるのは大正 14 年(1925)の「全国酒類商同業組合」の創
立総会からである。酒販業界でも、消費社会化と照応しながら「三層分権確立」
(製造−卸
−小売の機能確立)が進んでいくのである。(
「酒販免許制度の成立過程」第二章)
未組織な棒手振りは資本主義の生み出す貧困街の中で、政治勢力とはなり得ず静かに消え
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たのである(横山源之助『日本の下層社会』
)
。消えた棒手振りの微かな痕跡は酒販店に残る
配達機能である。この配達の背景には、棒手振りの名残の「ご用聞き」があったのである。
終わりに
江戸から明治大正まで、酒と酒流通を中心的な事例として扱いながら、流通産業の歴史
と消費社会の成立を跡づけてみた。
新しい中間層は、5%から 90%に膨れ上がっている。5%の消費社会は 90%の消費社
会にまで成熟した。5%を 90%までに拡大したのは、戦後の家電、車、住宅などの大型
耐久消費財を生み出したプロダクトイノベーションであり、量産革命(大量生産、大量伝
達、大量販売)であった。そして、現在はまさに消費社会化が全面開花時代である。
多くの人々は、生活に必要な物を消費するだけで自らの手では生産しない。従って、買
い物なしに生活をすることができない。それを支えているのが買い物という行為である。
その行為は古代から同じだと強く思い込んでいる。ところが、我々は、江戸時代から明治
大正までの酒の入手方法の検証作業を通じて、買い物行為が生活の中で独自の地位を占め
るのはわずか百年ほどの前であるという仮説像を明らかにした。
幾つかの歴史的条件の上で成立したものである。そして、その歴史的条件の上に次々と
消費社会を支えるシステムが重層化して現在に至っているのである。
買い物が一定の歴史的条件の中で成立するものであるということは何を意味している
のであろうか。
ひとつは、買い物という行為は、生活に必要な商品を入手する唯一の行為ではないとい
うことである。買い物は面倒であるという意識は現在ではますます強くなっている。通販
やインターネットを通じた購入が広範かつ急速に広がっている。極論すれば、生活用品が
入手さえできれば、買い物が消滅する可能性も十分あるということを歴史は教えていると
いうことである。
ふたつめは、店売りが本来生活の欲望を創造するシステムであるという起源を持ってい
るということである。一面ではこのシステムが買い物を成立させたと言っても過言ではな
い。売れ筋商品を欠品なく店頭陳列するというシステムは、すでに欲しい商品があるとい
う商品のブランド化を前提にしたものに過ぎない。むしろ、商品への欲望を引き出すこと
に本来の店売りの機能があることを示しているものである。
最後に、近代的な小売形式は、恒久的な、普遍的なものではないということである。店
売りの前提となっている歴史的条件、サラリーマン、職業分離、性別分業、専業主婦、買
い物という生活スタイルが、情報ネットワーク革命によって大激変している。産業革命が
買い物を生み出したように、情報ネットワーク革命は新しい「棒手振り」を生み出す可能
性を持っている。急速に進む情報ネットワーク化が、新しい消費社会を生み出そうとして
いることだけは確かなようだ。
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第4章 消費社会の誕生と酒類産業
−大正期東京の「中流生活革命」とは何か
現在の日本と日本経済の危機的状況は、消費社会を支えるシステムの行き詰まりによる
ものである。このシステムは、大正期にその起源が求められる。
当時の酒類産業は巨大産業であった。当然、消費社会の誕生の影響を受け、産業構造に
変化が生じた。熾烈な販売競争が拡大して、メーカーと流通がともに疲弊し、小売段階に
おいて免許制度による参入制限が求められたのも、その一つである。
こうした変化の引き金になったのは、不特定多数の人が集まる「盛り場」の発生である。
それは、常設店舗で商品を陳列して販売する近代的な小売システムを成立させた。そして
「盛り場」は「人々の欲望を刺激し続ける空間」に変質していった。
この時代に欲望された生活が、大正期の東京のごく限られた人々の間で生まれた「中流
生活」である。強い家父長がいる「家」は崩壊し、新しい家族像が形成され、衣食住のあ
らゆる分野で洋風化が進んだ。それが、今や日本中を席捲している。また、「カフェー」
という洋風酒場が流行し、ビールを含む洋酒の巨大な市場が準備された。
消費社会を支えるシステムの支配者は、消費を突き動かす欲望である。今、酒類業界は、
免許制を緩和し欲望を巡る競争を活性化することで不況を乗り切ろうとしている。しかし、
本質的には、色褪せた「中流生活」に代わって欲望される「新しい中流生活」をデザイン
することによってしか、それは為し得ない。
問題の視角
世紀末に向かって、日本と日本経済は危機的状況を深めている。同時に、酒類産業も、
小売免許緩和、大店法改正などの一連の規制緩和を契機にして激動している。もはや、こ
うした危機は、短期的な景気循環の問題や戦術的手法の問題ではなく、構造的なシステム
の問題であることは誰の目にもはっきりしている。いわゆる、「長期波動」(F・ブローデ
ル)が揺らいでいる。現在、行き詰まっているシステムとはどんなもので、どのような起
源を持っているのであろうか。これらのことを、酒類産業にできるだけ引き寄せて明らか
にしてみるのが本稿の狙いである。
現在の経済システムの特徴は、不特定多数の中流層の生活に必要なものを再生産するこ
とにある。中流の生活は、ライフサイクルから見れば、都市で高等教育を受け、企業や官
庁に定職を持ち、家族から独立し、定期収入が上昇すれば結婚し、性別分業を基軸に新し
い家族を形成し、郊外に住宅を持ち、朝は通勤電車で会社に通い、買い物や余暇に際して
は商業集積である商店街や盛り場に出かける。子供に高等教育を受けさせ、社会人として
独立させる。このような日常性を成立させているのが現在のシステムである。
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日本の近代化とは、これらの中流層を量的に拡大していくことにあったと言っても過言で
はない。この中流生活は、必要な物資を商品化、市場化することによって成り立っている。
戦前には少数であった層が、戦後には、フォーディズム(フォード方式)と呼ばれる大量生産
方式の導入によって、大量複製された。量産によってコストを下げ、安価な商品を提供し、
売上を拡大し、雇用者の収入拡大に繋げ、それが消費に結びつく、というシステムである。
フォーディズムは、商品の量産化であると同時に中流層の大量複製化でもあった。
現在では、約 90%が中流意識を持つ。収入の半分は、生きていくための生活に必要な
い余暇やレジャーなどの選択消費によって占められ、もはや「食べるために働く」とい
う価値意識は崩壊している。生きがいや欲望といった抽象的な目的のために生活がある。
国内総生産(GDP)の6割は個人消費によって占められ、経済の中心は生産から消費に移
行している。
現在の経済システムの問題は、経済の中心が消費に移行し、消費が欲望によって支配さ
れているところにある。欲望は、顕在的で、有限で、自立的なものではなく、潜在的で、
無際限で、他者依存性を持つ。経済システムが浮遊せざるを得ないのは、経済を支配する
欲望の性格を反映しているからである。
現代の危機的状況とは、このシステムの本質とも言える中流生活が崩壊し、それに代わ
る原理として、自由主義を基軸とする規制緩和による自由放任政策という手段しか見出し
得ないことにある。本質的問題は欲望の対象としての新しい生活が見えず、そのためのイ
ノベーションが生まれないことにある。
結論を先取りすれば、大正期東京は、この中流生活への欲望が噴出し、消費社会の起源
となった場所的空間であり、現代と極めて歴史的同型性を持った時代でもあった。この大
正期東京を詳らかにしてみたい。
「大正」と「現在」の同型性
「二重」の大正時代
大正期とは、1912(大正元)年から 1925(大正 14)年までの 14 年間の時期である。少し、
大正期を概観してみよう。
この時代は、対外的には「相対的安定期」と呼ばれる。両大戦間期にあたり、欧米主導
の「ワシントン体制」が形成され崩壊する時期である。戦争と平和の狭間である。1917(大
正6)年には、ロシアでレーニンが指導する「十月革命」が勃発、そして世界で初めて「社
会主義国家」が誕生した時代であった。
国内的には、明治政府の近代化政策によって、「上からの」資本主義化が進められ、原
始的蓄積からの離陸の段階から純粋資本主義の成熟段階を迎えていた。
政治的には、明治維新の主体となった最後の世代である山県有朋らによる人格依存の藩閥
支配から政党政治への移行の時期であり、
「大正デモクラシー」と呼ばれる大戦の反省から
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生まれた平和主義の世界的潮流と、吉野作造が提唱する「内には立憲主義、外には帝国主義」
を内実とする「民本主義」の運動が地方にまで拡大した時代であった(松尾尊允『大正デモ
クラシー』)。他方で、1921(大正 10)年の朝日平吾による安田善次郎暗殺を契機とする「超
国家主義」の萌芽もこの時代に見られる(久野収・鶴見俊輔『現代日本の思想』)。
大正時代は、「二重性」という言葉に象徴される。戦争と平和、社会主義と帝国主義、
経済成長と成熟、超国家主義と民主主義、バブルと貧困、洋風化と土着性、都市化と農村、
大企業と中小企業という、「二重拘束」の中に置かれた時代であった。
快楽的欲望の時代
精神分析的な観点から見れば、明治の「理性的禁欲」に対する、大正の「快楽的欲望」
という構図で整理できる。ペリー来航によって言わば強制的に開国を迫られ、西洋列強に
よる植民地化の脅威を逃れるため富国強兵策を推進し、1904(明治 34)年の日露戦争の勝利
によって列強の仲間入りをようやく果たした。明治は、対外危機が国家意識を形成し、主
体的な禁欲的自我が形成されたのに対し、大正はロシアという直接的脅威が去り、欧米に
一目置かれたことによって潜在的欲望、すなわち「奢りと快楽志向」が見られ始めた時期
であった。
徳富蘇峰は、大正青年を「金持ちの若旦那」と呼び、「初代勤倹にして家を興し、二代
之を継紹し、三代に至りて気随、放埒となり、徒らに淫楽を事とし、遊芸に耽りて、家を
滅ぼすも、尚ほ之を悟らざるの心意気」(徳富蘇峰『大正の青年と帝国の前途』)の青年に
対して、世界的な帝国主義間競争の危機的状況を啓蒙し、国家をもって青年の理想とすべ
きことを説いている。
明治精神と大正精神の比較評価は、司馬遼太郎の著作が代表的である。司馬は明治を高
く評価するのに対し、日露戦争から大正、昭和初期への評価は極めて低い。「調子狂いは
ここ(1905(明治 38)年の日比谷焼き討ち事件−編集部)から始まった。大群衆の叫びは、平
和の値段が安すぎるというものであった。講和条約を破棄せよ、戦争を継続せよ、と叫ん
だ。(略)私は、この大会と暴動こそ、むこう 40 年の魔の季節への出発点ではなかったかと
考えている。この大群衆の熱気が多量に−たとえば参謀本部に−蓄電されて、以後の国家
的妄動のエネルギーになったように思えてならない」(司馬遼太郎『この国のかたち1』)。
このような消極的評価に対して、大正時代を後の超国家主義への抵抗時期、とりわけ「民
本主義の全国的広がり」を民衆運動の拡大時期と位置づける評価もある。
これらの評価に共通するのは、後の負の遺産としての「国家的妄動」を前提にした歴史
の後づけ的知識と、「欲望よりも理性」という倫理観に基づくものであると思われる。
我々は、現代に繋がる欲望が支配する消費社会の原型(プロトタイプ)の起源として、大正
期の再評価をしてみたい。
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現在と酷似する経済環境
大正期の経営者や知識人にとってこの時代は、「ジェットコースターのようなメリーゴ
ーランド」に乗った気分であったに違いない。激しく上下し、目まぐるしく変わった。
推計による国民総支出(GNE)の大正期 14 年間の年平均成長率は8%である。現在と比
較すればとてつもなく高い数字であるが、発展途上国の成長率とみなせば十分首肯できる
ものである。現在ほどの規模と奥深さを持っていなかったのである。
大正期を、1912(大正元)年から 1915(大正4)年までの前期、1916(大正5)年から 1919(大
正8)年までの中期、1920(大正9)年から 1925(大正 14)年までの後期に便宜上区分し、成長
率を比較してみると興味深いことがわかる。前期は 2.6%、中期は 24.5%、後期は 0.7%で
ある。前期は比較的安定的に成長し、中期は大戦から生まれた特需があり、後期には戦後恐
慌と関東大震災があった。その結末が、昭和金融恐慌、世界恐慌、対外戦争、敗戦である。
プラザ合意による世界協調路線としての低金利政策、バブルの発生と崩壊、大震災、金融危
機という、バブル以後の日本経済と歴史的同型性を持っていることは言うまでもない。
競争制限を選んだ酒類産業
この時期の酒類産業も、マクロ経済の動向と同様の推移を示している。当時の酒類産業
は巨大なものであった。1925(大正 14)年の国民総支出が約 163 億円、個人消費支出が約
127 億円であった。酒類の消費額は、清酒が約 13 億円、焼酎、ビール、その他の酒も合
わせて約 15 億円であり、国民総支出の 9.2%、個人消費支出の 11.8%を占める。現在の
国内総生産(GDP)が約 500 兆円であり、家電を含む電気機械機器産業が約 50 兆円、自
動車産業を含む輸送用機械機器産業で約 37 兆円という規模と比較すると、その巨大さが
よくわかる。
清酒の消費額の年平均成長率は 7.9%、焼酎は 10.8%、新しく登場したビールは 13.5%
である。前中後期の三つの時期に分けて清酒の成長率を見ると、前期はマイナス 4.3%、
中期は 21.1%、後期は 5.9%、大正最後の年がマイナス 5.2%である。その後、マイナス
成長が8年連続する時代を迎える。この時代の最大消費額が 1922(大正 11)年の約 13 億5
干万円、最低消費額が 1932(昭和7)年の約7億9千万円である。最盛期の約 60%まで需
要は落ち込んでいく。
損益分岐点を約 60%で経営を考えることはほぼ不可能だとすると、如何に熾烈な生き
残り競争・低価格競争が、醸造家・酒流通業によって繰り広げられたかがよくわかる。小
売段階での価格競争は、
「出血競争」(鎌田毅『酒販昭和史』)そのものであった。当時の業
界が到達した答えは、酒免許制度による競争制限、参入規制であった。
別の観点での重要な事柄は、江戸から明治にかけて酒類産業を支配してきた酒卸業が、
関東大震災を契機にしてその主導権を醸造家、メーカー、そして小売業に譲ったことであ
る。商人資本に対して産業資本がその優位を確立した時期であった。この構造変動に、大
きな役割を果たしたのが消費社会化の進展であり、生活革命である。
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ここにも歴史的同型性が見られる。情報消費社会化の進展は、生活変化を進行させ、生
活変化と規制緩和が新しい小売業態を次々と生み出している。また、新しい小売業態が新
しい生活変化をもたらしている。そのことによって酒卸流通が変わり、業界のパワー構造
が、メーカーから小売業へと移行しつつある。ディスカウンター参入による価格競争が一
段落し、現在の、大蔵省を含む業界が出そうとしている答えは、当時とはまったく逆の免
許緩和、規制緩和である。
盛り場の起源と質的変化
不特定多数の大衆
当時の経済の伝統的産業基盤と言ってもいい酒類産業が、大きく変動していったことは
先に述べた。そして、その引き金となったのは、唐突に言えば、東京に盛り場が生まれた
からである。
盛り場とは、「不特定多数が集まる場所」と便宜上定義しておく。現在の銀座、新宿、
渋谷(道玄坂)、神楽坂、浅草などの盛り場が誕生したことによって、不特定多数という群
集が登場し、その大衆を顧客とする近代的小売業が生まれた。
江戸時代には不特定多数の人々が集まる場所などなかった。東京の形成と発展を詳細に
跡付けた田村明によれば、「江戸時代の武家屋敷は、それぞれの藩ごとに閉鎖的に住んで
いた。だから山の手には、不特定多数の集まる盛り場というものはなかった。江戸を出て、
山の手を外れた所にある品川・内藤新宿・板橋などが、いくらかその代用になる。江戸の
なかでの盛り場と言えば、日本橋、神田、銀座、両国、浅草などの町人というマチの人々
が住む下町に決まっていた」(田村明『江戸東京まちづくり物語』)と指摘している。
武士の妻が、買い物に出かけるなどという風習はもちろんなかった。入用な物は馴染み
客にしか営業しない呉服商などが出向いて推奨販売していたし、他のものは「棒っ手振り」
などが売り歩いていた。江戸時代には、物は買いに行くものではなく、売りに来るもので
あった(第三章)。
田村に付け加えるなら、記録絵や時代劇などから、日本橋などは江戸時代の盛り場と思
いがちであるが、その集積が業種別集積であり、集まる人々が仲買などの商業目的を中心
とした特定層であったこと、特に町人に限定されていたことなどから、先にあげた盛り場
には当たらない。
浅草が唯一の盛り場と呼べた。主に町人に限定されてはいたが、浅草は、その中心に
浅草寺があり、特定の日に行われる「居開帳」による人々の集合、南の表参道に位置す
る仲見世、北の奥に位置する「奥山」の「見世物」
「私娼窟」、そして「吉原」、東手の隅
田堤で行われる桜見物などの、回遊性を持った集積と水路の結節点、陸路における日光・
奥州への交通の結節点でもあった。江戸の地理的「境界性」、宗教的「異界性」、民俗的
「無縁性」を持った盛り場であった(陣内秀信『江戸東京のみかた調べかた』)。前近代
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における欲望の解放空間であった。
鉄道敷設と盛り場の誕生
明治の近代化政策、殖産興業化は、予期せぬ事態として、新しい盛り場をつくりだした。
鉄道の敷設の結果である。
当時の唯一の輸出産業とも言える生糸の輸出のために、信州や群馬から輸出港である横
浜に荷を送る必要があり、そのための交通機関が必要であった。1883(明治 16)年に、前橋
−上野間の鉄道が建設された。上野から新橋までは雑踏の中を荷車で、新橋からは再び鉄
道で運ばれていた。
1885(明治 18)年、この不便を解消するために赤羽−新宿−渋谷−品川間を開通させた。
池袋−巣鴨−田端間は支線としてできた。赤羽−品川間を開通させるためには、江戸の中
心軸が最短経路であるが、コスト面から西側を通すことになった。これが、山の手線の始
まりであり、新宿、渋谷という駅の開業、盛り場形成の起源である。
1925(大正 14)年、新橋−上野間が開通して山の手線が完成する。これだけの時間を要し
たのは、新橋−上野間が江戸以来の中心街であり、コスト面から手がつけられなかったか
らである。それが、皮肉なことに、関東大震災によって新橋−上野間が壊滅的打撃を受け
て可能となった。つまり、鉄道が盛り場の形成の契機となったのである。
鉄道が発達するまでは、明治当初は馬車・人力車が大きな役割を果たし、やがて路面電
車にその道を譲る。山の手線が完成するまでは、路面電車が大きな役割を果たしていた。
路面電車がつくりだした盛り場の代表例は、新しい山の手として学生や新しい中流層の居
住地として賑わった神楽坂、麻布十番、本郷三丁目などであった。中でも、もっとも人気
があったと言われているのは神楽坂であった。
やがて、路面電車に加えて、郊外と半分の山の手線の主要駅を結ぶ私鉄が次々と開通す
る。新宿を例にとると、1915(大正4)年、京王鉄道が新宿−調布間を開通させ、1927(昭
和2)年には、小田急電鉄が新宿−小田原間を開業している。山の手線の開通と主要駅の
開業、それを結ぶ路面電車、さらに私鉄の郊外からの乗り入れが、利便性を高め、多目的
で多様な乗降客を増やすとともに、休憩や食事、宿泊などの多様な移動目的を満たす場と
機能が必要になったのである。不特定多数を集める盛り場の誕生である。
「浅草」から「銀座」へ
大正の前期から中期にかけては、東京の盛り場の中心は浅草であった。先に見た江戸的
な盛り場構造に、
「ランドマークとしての十二階(「陵運閣」の俗称−編集部)、オペラ館な
どのネオバロック様式の建築が並び、さらには六区興業街から十二階に向かってバロック
的な軸線が通されるなど、近代的・西欧的な要素が形づくる独特の景観が生まれた」(陣
内秀信前掲書)。一方、1872(明治2)年に、日本で最初に開設された新橋−横浜間の新橋、
すなわち銀座でも、近代日本の表玄関として、銀座煉瓦街の建設に見られるように上から
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の開発が進められ、日本での「西洋文明流入の窓口」の役割を果たし、ガス灯などの新し
い装置や業態を次々と生み出すと同時に、商業集積を高めながら、関東大震災以後は、壊
滅的打撃を受けた浅草にとって代わり日本最大の盛り場になっていく。
陳列販売する店の登場
鉄道が盛り場形成の契機となり、私鉄や他の交通機関の乗り入れが盛り場の起源となっ
た。このことによって、不特定多数を顧客とする新しい近代小売業が成立する。
江戸時代の小売業の中心は、恒常的な店舗を持たない棒っ手振りや武家層に出向いて小
売りする卸商などがその主な担い手であり、固定客に座売り形式によって売る方法であっ
た。明治維新によって武家層が没落して、その顧客構造が大きく変わる。これまでの固定
客が一挙に失われたのである。
前近代的小売業に対して、盛り場に集まる不特定多数を顧客に常設店舗で、座売り形式
ではなく陳列販売方式によって売る近代的小売システムが生まれる。近代小売業とは「不
特定多数の最終顧客が集まる立地に、常設店舗を構え、製造業の商品を中心に品揃えし、
陳列販売方式によって営業すること」と定義できる。
初田亨は、このような座売り形式から陳列販売方式への転換の引き金になった主な要因
を二つあげている。ひとつは、日本で最初に百貨店宣言をした三越と、高橋良雄が行った
陳列販売方式や広告などの一連の近代的改革の成果が広く知られ始めたこと(他の小売業
の模倣)。ふたつめは、1906(明治 39)年から始められた東京の市区改正速成計画の事業で
ある。この事業によって道路が拡張され、同時に店舗改装が行われた。
初田は、1909(明治 42)年の建築家・田辺淳吉の報告を紹介している。
「昔の御店風の数
が少なくなって多くは飾窓を設けるとか、或は硝子戸を嵌めて冬でも客が寒く無いように
なり飾附けも変り、さうして靴の侭ずっと這入れる様に段々に変化してきた」(初田亨『モ
ダン都市の空間博物学』)。この報告では、暖簾をやめて飾窓を設置することが陳列販売
方式への移行と推測される。また、飾窓、すなわち、ショーウィンドーがこの時期の大き
な集客手段であったことが伺い知れる。店舗の前を通る人々をショーウィンドーによって
来店刺激し、陳列商品を見せることによって購買意欲を引き出す。これまでの座売り形式
は、固定客を相手に、店員が店奥から持ってくる商品を品定めして駆け引きによって売る
方式であった。この方式でのよい売り方とは、見せる商品をいかに少なくするかであった。
このことと比較すると革命的なシステムであった。顧客は、購入しなくとも商品を見て回
ることが可能になった。
盛り場は「見る−見られる」場
盛り場の成立が、近代小売業誕生の条件となったのである。他方、近代小売業の成立は、
盛り場を、不特定多数の集まりという量的性格のものから、異なった性格のものへと変質
させた。陳列販売方式の近代小売業が成立することによって、「銀ブラ」と呼ばれるよう
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な新しい行動様式が誕生する。
前出の田村は、銀座が最初にこうした盛り場になった事情について、「街の人々のほと
んどは、煉瓦街建設の後に新しく入ってきたのだから、明治になって銀座は全く変質した。
だから、早くも、江戸からの伝統的な店構えをやめ、通行人が商品をみられるショーウィ
ンドーを設け、客は履物のまま店の奥まで入れるようになる。(略)銀座の街はウィンドー
ショッピングが楽しめる新しいかたちの商店街をつくりだしたのである。つまり、別に買
い物をしなくても、街をぶらついてウィンドーを見て歩くだけでも楽しい街になった」(田
村明前掲書)と述べている。
銀ブラという行動様式は、盛り場が不特定多数の集まりという量的性格から「見る−見
られる」構造という質的性格に変わったことを意味する。見知らぬ他人が身に付けている
ものを欲しがるという「他者依存の模倣欲望」(R・ジラール)がつくりだされる。あるい
は、見知らぬ他人が欲しがる物を身に付けて見せびらかしたいという「顕示的消費」(S・
ヴェブレン)が生まれる。「モボ」「モガ」と呼ばれたスタイルが登場する。見せびらかす
ことを目的とし、見せることを楽しむ行動様式である。ここでは、他者にどう見られるか
が欲望の対象となり、他者がそれを模倣するという現象が生まれ始める。この欲望には、
もはや自己完結的な対象−主体の欲望関係はなく、他者−模倣という円環的循環的構造へ
と変質している。消費社会の欲望とは、こうした無限に循環していく構造を備えることで
ある。消費の対象が、その単品商品の使用価値を越えて、記号性を持つようになる。
欲望創造の完成形態
この銀座に立地した資生堂が展開した 1920 年代の広告が、大正期の欲望創造の完成形
態と言えるものであった。資生堂は、消費者向け PR 誌を 1924(大正 13)年に創刊してい
る。1929(昭和4)年 12 月号の『花椿』には、化粧品が描かれないイラストを掲載してい
る。「今冬の巴里社交界を彩る夜の粧い」と題するものである。
柏木博は、このイラストを含む資生堂の広告について、「資生堂の広告が、当時の他の
化粧品会社と違うところは、
『化粧品』という製品そのものを越えて、
『ありうべき豊かで
高級な、都市生活』がいったいどんなものなのかを表現することに、広告の基本方針を置
いていたところにある」(柏木博『日用品のデザイン思想』)と述べている。資生堂は暮ら
し方として文化を提案していたのである。人々は、商品よりも「ありうべき豊かで高級な、
都市生活」を欲望、すなわち中流生活を欲望したのである。
交通機関の結節点が盛り場をつくりだす。盛り場が、不特定多数の人々を集め、近代
小売業が成立する。その集積が人々の行動様式を変え、欲望を解放し、欲望刺激装置が
次々と開発されていく。
「明日は帝劇、今日は三越」の広告コピーは、盛り場での欲望刺
激を大量に複製するものであった。この、欲望を主導とする消費が生まれたのが、大正
期東京である。
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「中流生活」の誕生とその波及
郊外の成立
大正期の人々が欲望の対象とし始めた中流生活は、どのように形成されていったのであ
ろうか。それは、鉄道によって郊外が成立し、性別分業を基軸とする家族が誕生し、中流
生活が誕生する物語である。
近代政府に必要な官僚と、殖産興業の担い手となる人材が必要とされた。そのための大
学が整備され、地方から立身出世をめざす青年が吸引された。
彼らの居住地は、当初は、武家層が住んでいた麹町などの山の手であった。少なくと
も、徒歩や人力車で通える地理的範囲に限定されていた。それが、東京の人口の過密化
が進み、私鉄の主要駅への乗り入れが進むことによって、居住地と職場との距離を広げ
ることが可能になった。関東大震災も郊外への移住欲望を刺激することになった。郊外
の形成と成立である。
大正期に続々と郊外が成立していく。渋沢栄一の創立した「田園都市株式会社」は、
1922(大正 11)年洗足地区を、翌年には多摩川台地区の高台を開発した。その多摩川台が高
級住宅街の代名詞となった田園調布である。同じ年に、堤康次郎の箱根土地株式会社(現
「国土計画」の母体)によって目白文化村が開発され、2万 3000 坪の宅地が、4回、4年
にわたって分譲された。それ以降、1924(大正 13)年に大泉学園都市、1925(大正 14)年に
は国立学園都市などの開発に着手している。郊外が形成されたのは、私鉄資本が、土地を
安く購入し、鉄道を敷設し主要駅に乗り入れ、宅地を開発して、付加価値をつけて販売し、
鉄道と不動産で収益を上げるという仕組みによってである。このうまい仕組みを最初に手
がけたのは、阪急の小林一三である。
殖産興業化が、新しい職をつくりだし、雇用を生み、地方からの青年を吸収する。交通
機関の発達は、職住分離を可能にし、郊外が開発され、定期収入を見込んだ割賦販売によ
る持ち家が生まれる。そこに新しい家族が形成される。新しい家族内では、夫は外で働き
妻は家事と子育てに専心する性別分業が行われる。性別分業が可能となったのは、家族を
養うことのできる定期の高収入が保証されるようになったからである。
そして、彼らが欲望したことこそ中流生活であった。このモデルが現在の中流生活の淵
源である。
「家長」から「恥ずかしい父」へ
家が崩壊し、新しく生まれた家族とは、どのようなものであったのだろうか。大正青年
とは明治中期に生まれ、第一子誕生が大正中期頃である。彼らの息子達の世代で、吉行淳
之介、阿川弘之などとともに「第三の新人」と呼ばれた小説家に安岡章太郎がいる。1920(大
正9)年生まれである。私小説『海辺の光景』は、安岡の育った家庭を描いた作品である。
そこに描かれる家族は、「圧しつけがましい母と恥ずかしい父、そして母親から自立でき
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ない不良息子」である。
「金持ちの若旦那」(蘇峰)は「恥ずかしい父」となっていた。
江藤淳は、母と息子がなぜ父親を恥ずかしがるのかについて次のように説明している。
明治後期から大正にかけて近代的な教育制度が整備され、「教育」によって出世する道が
開かれた。同時に、「教育」によって階層が秩序化されることにもなった。母は「獣医」
である父を恥じている。「彼女が『獣医』でしかない夫を恥じる心は、そのままそういう
男としか結婚できなかった自分を恥じる心に裏返される」(江藤淳『成熟と喪失−母の崩
壊』)。母は、息子を父親のようにさせまいと教育を受けさせる。しかし、それは同時に
息子を自分から手放すことでもある。この不安と葛藤が、息子への圧しつけがましさを形
成している。東京郊外で展開された新しい中流の家族のドラマである。
この家族には、明治時代の夏目漱石や森鴎外から連想される、「強い家父長や支配者」
のイメージはない。家族の誕生は家族崩壊のドラマでもあった。それが演じられた場所が
郊外の持ち家住宅であった。当時、流行った住宅は、「和風の木造住宅の玄関脇に、外装
をモルタル仕上げにした洋風の住宅を付け足したような住宅」であった。「玄関脇に洋間
を付けることは、狭いながらも、日本的な生活と欧米的な生活との、いわば『二重生活』
を行うことを意味した」(柏木博『道具の政治学』)。
文化という名の「洋風化」
鉄道は、朝は父や息子が郊外から都心への通勤通学手段として利用し、昼は妻が買い物
に出かけ、夕方は再び都心から郊外への帰宅手段として使われる。交通機関の結節点とな
った主要駅は、不特定多数の人々の集まる盛り場へと発展していく。休みの日には、家族
で出かけ、銀座をぶらつき、映画、演劇を楽しみ、レストランで洋食を食べるという新し
い中流の生活が形成されていく。こうした光景は、現在ではあまりにもありふれたもので
ある。しかし、この日常構造の起源は、これまで述べてきたような複雑な相互作用の連結
結果である。
大正期の生活革命をリードしたのは、言うまでもなく新しい中間層である。彼らが人口
に占めた比重は極めて限定されたものであった。限定された人々が、現代消費社会の起源
である中流の生活スタイルを、大正期東京につくりあげた。もう一方に、純粋資本主義が
生み出す貧困の世界があった。河上肇の『貧乏物語』が広範な層に受け入れられ、ロシア
革命が知識人層を捉え始めた時代でもあった。貧富の差の拡大、農村と都市の対立の拡大、
伝統産業と近代産業の成長格差の拡大、あらゆる対立と格差が拡大した。
中流生活の欲望の対象となった、住宅の和風生活と洋風生活の二重の共存こそ、大正期
を象徴するものであった。明治の成功者の巨大な邸宅には、和風の住宅と洋館の二つがあ
った。その二つをモルタルにして合わせた住宅が、中流層の欲望した様式であった。中流
生活に必要なものが洋風化の流れに乗って商品化、市場化されていった。
「合理化」
「効率
化」「文化」の名のもとに「洋風化」があらゆる分野に及んだ。
提げ時計から腕時計へ、オペラバッグからハンドバッグヘ、前掛け姿からエプロン姿へ、
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子供服の洋装化、下駄からフェルト草履へ、草履からゴム靴へと、ファッションの分野で
も急速に変化は波及していく。
食の分野でも、ジャガイモ、トマト、タマネギ、キャベツが新しい食材として取り入れ
られ、果物では、ネーブル、サクランボ、バナナ、パイナップルなどが、肉類ではブタ、
ニワトリ、そして鶏卵の需要が拡大し始めた。調味料では、各種のソース類、コショウ、
カラシなどの香辛料と油の使用料が増えた。食材の多様化と調味料の多彩化、それに西洋
調理法が普及したことによって、家庭内食に新しいメニューが増えてきた。フライ、カツ
レツ、ビフテキ、コロッケ、オムレツ、チキンライス、サラダ、そして洋風料理と誤解さ
れて日本独特の発展をしたカレーライス。
衣食住のすべての分野で洋風化が進み、生活革命が進行し波及した。その契機となった
のが、関東大震災である。洋風化の波は、破壊によって一挙にすべての領域で進んだ。洋
風化の流れの中で、酒類でもビールが普及し始めた。軍隊や会社組織の需要に始まり、徐々
に中流家庭に浸透し、清酒が大正後期より需要低迷する中で、ビール需要は拡大し続けた。
「カフェー」の誕生
もうひとつ、盛り場が生んだ業態として忘れてはならないものが「カフェー」である。
1911(明治 44)年、
「カフェー・プランタン」ができる。カフェーとは、フランス語で「コー
ヒーを出す店」の意味だが、当時の日本では、エプロン姿の「女給」をおいて、カツレツと
呼ばれた洋食や、五色の酒及びビールなどをサービスする飲食店をそのように称していた。
現在の「バー」や「クラブ」の起源とも言えるサービス業態である。当初は、当時の知
識人や文化人が中心的な顧客であった。その後、洋食を看板とする「ライオン」と、女給
を看板とする「タイガー」との競争を経て、徐々に大衆化していく中で、女給が中心的役
割を果たしていく。
このような大衆化を促進したのは大阪資本の進出であった。「大阪のカフェーが東京に
進出してきた最初は、人形町にダンスホールを開き、その地下をカフェーにしたユニオン
である。その後、昭和5(1930)年には銀座に美人座がつくられた。以後、日輪、赤玉、フ
ネノフネ、イナイイナイバア、銀座会館、銀座パレスなどのカフェーが産声をあげている。
これら大阪資本によるカフェーの多くは、大阪から呼び寄せた女給を店に集め、大阪弁を
使わせたり、一人の客に一人の女給をつかせるなど、あえて『大阪風』にサービスを振る
舞わせる方式がとられていた」(初田亨前掲書)。また、入り口で金ボタンを付けたボーイ
に客に挨拶をさせたり、内装の意匠に凝ったりというような大衆的な路線を強めていった。
酒類産業にとっては、特に、ビールを含む洋酒業界にとっては巨大な市場が開けた。同
時に、自由な生き方と経済的自立を目指す地方出身の女性にとっては、安全とは言えない
までも芸者以外の有力な職業選択肢のひとつとして、重要な雇用吸収力となった。盛り場
は、カフェーの大衆化によって、昼の欲望だけでなく、夜の欲望への深堀りを進めること
になった。
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大正の詩人、萩原朔太郎の「珈琲店
酔月」は当時のカフェーの情景と時代の空気を見
事に捉えている。
「坂を登らんとして渇きに耐えず/蹌踉として酔月の扉を開けば/狼藉たる店の中より/破
れしレコードは鳴り響き/場末の煤ぼけたる電気の影に/貧しき酒瓶の列を立てたり。/ああ
この暗愁も久しいかな!/我れまさに年老いて家郷なく/妻子離散して孤独なり/いかんぞ
また漂白の悔を知らむ。/女等群がりて卓を囲み/我れの酔態を見て憫れみしが/たちまち罵
りて財布を奪ひ/残りなく銭を数へて盗み去れり。」(三好達治選『萩原朔太郎詩集』)
盛り場は、村落共同体にはなかった匿名性、無名性の非人格的依存関係を創出した。同
時に、それは人の砂漠、根無し草の生き方でもあった。盛り場の発達は、「根刮」への心
情的反動としての「家郷」意識をその裏返しとして持っていた。
郊外の開発は、砂漠としての盛り場、都心、そして近代化への反動、家郷の再建という
欲望も含まれていた。西洋人ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の描く「心の世界」は、盛
り場にはなかった。朔太郎の詩には、求めて求め得ぬものが家郷であるということが浪漫
的に読み込まれている。
酒の量産化とメーカーの台頭
清酒の瓶詰め容量が統一され、量産化プラントが計画段階に入り、パッケージ商品とし
て問屋ではなくメーカーが品質保証する、ブランド戦略とマス広告が開始される。こうし
た展開が可能になったのは、メーカーも不特定多数という大衆需要を本格的に取り込む必
要性が生まれてきたからである。不特定多数を顧客とする近代小売業が成立し、卸機能と
小売機能が分化して不特定多数の説得が必要となってきたからであり、また、瓶詰め化に
よって量産が可能になったからである。
このことによって、江戸時代から長く続いた酒問屋主導の酒類業界から、メーカー主導
のそれへと転換していく。「酒問屋の誇った巨大な市場支配力は、大正末期に至って転換
期に逢着することになる」(鎌田毅前掲書)。その直接的契機となったのが関東大震災であ
る。震災によって、壊滅的打撃を受けた酒問屋に代わって、灘を中心とした酒造メーカー
が、東京に支店・出張所を開設し直接販売を始める。資金難に陥り経営力を失った酒問屋
だけに、もはや依存することができなかったからである。
終わりに−新しい中流生活のデザイン−
鉄道の計画が思いもかけないものをつくりだした。盛り場である。盛り場がさらに欲望
で動く不特定多数という大衆をつくりだした。大正期東京は、欲望という名のパンドラの
箱を開けそうになった。しかし、現実にはすべて開けることができなかった。
文部省は、生活改善運動を推進し、人々の欲望したあのモルタルの洋風住宅を、生活の
能率化、効率化の観点から無駄とした。河上肇は、「百姓の娘が美顔料など買って行く愚
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かさ」(『貧乏物語』)と言い、金儲けにも道理があると説いた。潜在的で、無際限で、他
者依存の欲望は、政府からも、進歩的知識人からも、まったくと言っていいほど理解され
なかった。そんな怪物に経済社会を委ねることはできなかった。
昭和初期の政府は、世界的危機を背景に、国家理性の名のもとに欲望を抑圧し、統制経
済、計画経済化を強めていった。酒類業界でも、不況のさなかで、多分に計画経済色を持
った免許制度請願が推進され、実現されることになった。
戦後は、欲望という名のパンドラの箱を本当に開けてしまった。
高度成長期は、大正期東京の全面展開であった。大正期東京で起こった生活革命が、量
産技術とエレクトロニクス技術によってより高度に展開され、鉄道に代わって自動車が登
場した。人々は、経済の基軸である消費、その消費を突き動かす欲望に、すべてを委ねて
しまった。
現在のシステムの支配者は、潜在的で、無際限で、他者依存の欲望である。酒類業界でも、
不況のさなかで、免許制を緩和し、欲望をめぐる競争によって危機を乗り切ろうとしている。
しかし、大正期東京で欲望の対象となった中流の家庭生活は、もはや色褪せてしまっ
た。もう一度、新たに欲望の対象となる中流生活が、
「無意識下で」再びデザインされね
ばならない。
(月刊酒文化 1995 年 10 月号∼1998 年6月号掲載掲載)
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参考文献
共通文献
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