第8章 歴史的直観力

第8章 歴史的直観力
歴史学のみならずあらゆる学問及びその他本格的な登山などで、その時々において難しい
判断を必要とするものは、直観力がないと卓越した判断はできない。そのことは、今西錦
司の言動をつぶさに見ればよく解る。
歴史的直観力というものは、歴史学だけでなく、その他歴史に関連する民俗学などの知識
を持って、現地で地霊の声を聞かなければならない。その地域の風土というものを感じ取
ることが大事なのである。私は,歴史的文献や考古学的知見によって古代を知ることが基
本であるとしても、それだけでは不十分で、現在そこにあるものから古代を推察すること
が大事なのである。それは、ハイデガーの言う過在ということである。過ぎ去ったかに見
えても、その名残りみたいなものが現在に在る。それが過在である。古代を知るには、そ
のことも大事である。その事を実際にやったのが民俗学者であり地名学者でもある谷川健
一である。谷川健一の最後の仕事が「四天王寺の鷹」である。彼は、歴史的直観力を働か
せながら、「物部氏と秦氏との密接な関係」を明らかにした。この章では、まず最初にそ
れを紹介して、次に、諏訪大社に焦点を当てて、「物部氏と前イズモとの密接な関係」に
ついて、私の論考を進めたい。タイトルは、「諏訪大社の柱とソソウ神」である。
第1節「四天王寺の鷹」の解説
「四天王寺の鷹」という本は、邪馬台国が大和なのか近江なのかを考える場合の必読書で
ある。また、大和朝廷と東北地方との関係を考える場合の必読書でもある。この本を読ま
ずして日本の歴史を語ることはできないと言ってはちょっと言い過ぎかもしれないが、ま
あそういう側面もあって、この本の内容をきっちり理解することは日本の歴史を語る上で
きわめて大事なことである。ただし、この本を表面的に読んだだけではその心髄を知るこ
とはできない。そこで、私は、この本の心髄部分が一般の人にも理解されるよう、その解
説を行う。
谷川健一は、この本で、「聖徳太子が起請した四天王寺に、なぜ物部守屋が祀られている
のか」という問題意識のもと、四天王寺に秘められた物部氏と秦氏の を綿密なフィール
ド調査と鋭い分析を駆使して追求している。その内容は、谷川民俗学の集大成とも言うべ
き彼でしかなし得ない内容のものであって、そのことに驚きを感ぜざるを得ない。私は、
彼が良弁のことを相当力を入れて書いていることに、まず吃驚した。
1、良弁について
良弁と物部氏や秦氏とを結びつけるもの、そのキーワードは「鷹」である。この本の題名
は「四天王寺の鷹」となっているが、そもそも「鷹」とは何の象徴なのか? 「四天王寺
の鷹」、「英彦山の鷹」、「香春の鷹」、「鷹と宇佐」、「鷹と鉱山」、「鷹巣山と鉱
山」と言葉が出てくるが、谷川健一は、「鷹」は鉱山や鍛冶(かじ)の象徴であって、物
部氏と秦氏を繋ぐものは「鷹」、すなわち鉱山や鍛冶である。しかし、何故「鷹」が鉱山
や鍛冶の象徴なのか? 金勝族(こんぜぞく)というのは、むかし、朝鮮半島からの渡来
した一族で、銅の採掘や青銅の細工を生業としていた技術集団のことであるが、良弁は 金
勝族(こんぜぞく)を統率していたらしい。谷川健一はそう考えている。
私は、今まで、良弁のことをいろいろと勉強してきたが、このたび谷川健一の良弁論を読
んで目から鱗が落ちた思いである。
京都駅の南方40kmぐらいの所に、井手町という歴史的に由緒のある地域がある。そこ
の伝承に「良弁と鷹」の話がある。『 良弁は幼児の頃関東地方で「鷹」にさらわれ、現
在の井出町多賀地区に落とされた。そして、良弁は多賀の里人の手で養育された。』とい
うのだ。 東大寺要録の記事と照応するので、どちらが元になっているのかわからないが、
良弁が多賀氏と繋がっているのは間違いないだろう。
多賀氏は金属技術者の集団であっ
た。井手町には、志賀の豪族・多賀氏が祀る神が(多賀神社の神)が祀る高神社がある。
井手の多賀は、どうも志賀の豪族・多賀が継体天皇とともに井手の地に来たものらしい。
金属技術者である多賀一族は、常陸にも移住しており、藤原一族である「由比の長者」と
繋がっていたよう
だ。「由比の長者」の妻は、多賀氏であり、その子・良弁は母方の井
手の多賀氏に預けられたのではないか。「由比の長者」については、かって一生懸命勉強
したことがあるので、それをここに紹介しておく。
http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/amanawa.html
谷川健一は、「良弁は世間師であって、良弁が聖武天皇に接近し、巧みに取り入って着々
と地歩を築いたのも、彼の経験にもとづく実務的な才覚が大きな力を発揮した。」・・・
と書いているが、私は、井手町に本拠地を構えていた橘諸兄と良弁との関係がまず先に
あったのでないかと思う。
なお、私は、そのことをまったく知らなかったのだが、谷川健一によると、良弁は笠置寺
の千手窟にこもり、秘法を修したのだという。笠置寺の創建については諸説あって定かで
ないが、『笠置寺縁起』には白鳳11年(682年)、大海人皇子(天武天皇)の創建とあ
る。笠置寺は、井手町とは目と鼻の先にあり、良弁が修行するにふさわしい。現在、笠置
町と井手町を結ぶ線の右側に和束町(わづかちょう)があり、左側に木津市がある。木津
市は木津川が平野部に出るところ、京都から奈良に入る場合の玄関口みたいなところであ
る。そこに恭仁京がある。いうまでもなく井手町の橘諸兄の勢力圏である。その恭仁京の
北東方面(和束町)に安積親王(あさかしんのう)の墓がある。安積親王は聖武天皇の長
男であり、当然、皇太子になるべき人であったが、不幸な死に方をしたのである。この地
域は聖武天皇とたいへん深い因縁のある地域であるが、その地域が橘諸兄の勢力圏であっ
たということは、聖武天皇と良弁との繋がりを考える上で、極めて重要である。そのこと
は、偉大な天皇・聖武天皇を理解する上でも十分認識しておいた方が良いだろう。良弁
は、その橘諸兄のバックアップがあって、聖武天皇のブレインとなったのである。その良
弁が鉱山と鍛冶の技術集団を統括して、あの大仏を建立した。良弁のために実際に活躍し
たのは、秦一族であった。秦一族のもともとの本拠地は遠賀川流域の香春(かわら)地域
であり、そこは大きな銅鉱山のあったところである。大仏の建立には香春の銅が大量に使
われた。また、大仏は金メッキが施されたが、その膨大な金は、良弁が秦一族を通じて東
北地方で確保したものである。
良弁のことについては、谷川健一は、「四天王の鷹」で縷々書いているので、是非、じっ
くり読んでほしい。良弁と秦氏との深い繋がりを理解することができる。
2、秦氏について
さて、秦氏のことであるが、秦氏というのは誠に不思議な一族で、この一族を理解しない
で日本の歴史は語れないというほどのものだ。秦氏は、新羅系の渡来人であるが、新羅系
に限らず、さらには渡来系や在来の人たちに限らず、また鉱山や鍛冶に限らず、土木や養
蚕や機織りの技術集団を束ねて全国の殖産に力を発揮した一族である。その秦一族の中
で、いちばん有名なのは聖徳太子の側近であった秦河勝であろう。どうもこの人が偉大な
人物であったようだ。
秦河勝のことについては、かって私は、中沢新一に「精霊の王」にもとづいて「胞衣(え
な)信仰」というタイトルで少し触れたことがある。秦氏に関連する部分を再掲しておく
と、中沢新一は、次のように言っている。すなわち、
『 猿楽の徒の先祖である秦河勝は、壺の中に閉じ籠もったまま川上から流れ下ってきた
異常児として、この世に出現した。この異常児はのちに猿楽を創出 し、のこりなくその芸
を一族の者に伝えたあとは、中が空洞になった「うつぼ船」に封印されて海中を漂ったは
てに、播州は坂越(サコシ)の浜に漂着したの
だった。その地で、はじめ秦河勝の霊体
は「胞衣荒神」となって猛威をふるった。金春禅竹はそれこそが、秦河勝が宿神であり、
荒神であり、胞衣であること の、まぎれもない証拠であると書いたのである。
ここで坂越と書かれている地名は、当地では「シャクシ」と発音されていた。もちろん
これはシャグジにちがいない。この地名が中部や関東の各地に、
地名や神社の名前とし
て残っているミシャグチの神と同じところから出ていることは、すでに柳田国男が『石神
問答』の冒頭に指摘しているとおりで、「シャグ
ジ」の音で表現されるなにかの霊威を
もったものへの「野生の思考」が、かつてこの列島のきわめて広範囲にわたって、熱心に
おこなわれていたことの痕跡をし めしている。』・・・と。
何故、秦河勝は播州・坂越(サコシ)の浜に流れていったのか? 何故か? その疑問に
ついて、私は、ずっと気になっていたのだが、谷川健一は「四天王寺の鷹」の中でそのこ
との明確な説明をしている。まさに目から鱗が落ちる想いである。では、「四天王寺の
鷹」の最大のハイライトと思われるその部分を以下に紹介しておきたい。彼は、次のよう
に述べている。すなわち、
『 秦河勝と聖徳太子との密接な関係は、太子没後、彼のおかれた社会的、政治的立場を
危なくさせることにもなった。蘇我蝦夷(そがのえみし)・入鹿(いるか)は聖徳太子の
嫡子である山背大兄王(やましろのおおえのおう)と秦河勝の関係に警戒の目を向けてい
た。(中略)この頃、蘇我蝦夷・入鹿父子の横暴は目に余るものがあった。硬玉2年(6
43)には、蝦夷はひそかに紫冠を子の入鹿に授け、大臣に擬する不
な振る舞いもみら
れた。その年、山背大兄王が入鹿によって殺されるのを河勝は目の当たりにしている。
(中略)そこで入鹿の迫害が及んでくることをひしと感じた河勝は身の危険を避けるため
に太秦をはなれ、ひそかに孤舟に身をゆだねて西播磨にのがれ、秦氏がつちかった土地に
隠棲したと推測される伝承が伝えられている。世阿弥の「風姿花伝」に並びに世阿弥の娘
婿の禅竹の「明宿集」にその記述が見られる。』・・・と。
世阿弥は秦一族である。私は、先ほど「 秦氏は、新羅系の渡来人であるが、新羅系に限
らず、さらには渡来系や在来の人たちに限らず、また鉱山や鍛冶に限らず、土木や養蚕や
機織りの技術集団を束ねて全国の殖産に力を発揮した一族である。」と述べたが、秦氏の
子孫に世阿弥が出ている。
明宿集」に秦河勝の子孫に三流あり、一は武人、二は猿楽、
三は天王寺の楽人とあるように、秦河勝を先祖と仰ぐ円満井座の猿楽者と天王寺の楽人と
の間には根強い結縁意識があったらしい。
秦一族は、特に東北地方の発展に大きな力を発揮していくが、このことを理解するには、
物部氏のことをまず理解しておかねばならない。秦一族は、物部守屋が蘇我蝦夷と入鹿 に
殺されてしまってから、物部一族の統括していた技術者集団を引き継いでいくのである。
3、物部守屋の死について
ところで、 蘇我馬子は、なぜ物部守屋を殺したのか? 今まで、一般に、蘇我氏と物部氏
の争いは、宗教戦争であるかの如く理解されている。つまり、仏教をめぐる蘇我稲目・物
部尾輿の対立は、そのまま子の蘇我馬子・物部守屋に持ち越されて遂に爆発、そのような
理解が一般的であるが、谷川健一はそういう一般的認識に異議を唱えている。谷川健一
は、「四天王寺の鷹」の中で、蘇我馬子の守屋殺戮の目的は、「
膨大な財産を手に入れ
るため 」だと語っている。これは、 蘇我馬子の妻は守屋の妹、その彼女の悪知恵にもと
づくものらしいが、ともかく蘇我氏は物部氏の莫大な財産を手に入れた。
その後、蘇我
蝦夷の時代になるが、上の宮門(みかど)は蝦夷の家、谷(はざま)の宮門は蝦夷の子・
入鹿の家であり、蘇我蝦夷は天皇になったつもりであったらしい。さらに、蘇我馬子は、
守屋だけでなく、遂に、崇峻天皇(聖徳太子の子・山背大兄王が天皇になった)をも暗殺
してしまうのである。そういった蘇我氏の傍若無人の振る舞いは歴史上特筆すべきことで
あると思うが、それらの蘇我氏の一連の動きについては、谷川健一の「四天王寺の鷹」に
詳しく語られているので、是非、「四天王寺の鷹」をじっくり読んでもらいたい。
では、そのことの他に、谷川健一は「四天王寺の鷹」の中で、物部氏のことについて、日
本の歴史を考える上で非常に参考になる事柄をいくつか記述しているので、その要点を以
下に紹介しておきたい。彼は、こう述べている。すなわち、
『 田原本町は秦氏の芸能の拠点。そこに物部守屋が敗亡の後、その子の物部雄君連公が
ひそかに逃げてきて、室屋(村屋)に隠れた。また、ここには物部神社がある。これらの
ことから、物部氏と秦氏の浅からぬ関係が伺える。物部氏は筑後に起こった極めて古い豪
族である。』
『 物部氏は、弥生時代の中期、倭国大乱の時期に、筑後から瀬戸内を通り、大和に東遷
した。水間、水沼、水間、味間(みま、あじま、うましま)という地名は、物部氏ゆかり
の地である。奈良市水間町(水間氏の拠点)の八幡神社の翁舞という神事。この神社の神
は応神天皇と宇麻間遅命だが、もともとは宇麻間遅命(物部氏の祖神)。』
『 滋賀県守山市:近江猿楽の一つの守山猿楽。守山市勝部(旧勝部村):古代に物部氏
族の勝部が居住したところ。勝部神社。守山猿楽と春日神社、興福寺。近江は秦氏の有力
な根拠地であったから、かって物部氏と秦氏の間になにがしかの関連があったと思われ
る。
『 大阪府八尾市跡部は阿都(あと)大連の領地だが、そこに守屋の別荘があった。物部
一族はいちどそこに避難したのち、全国に逃げ延びていった。阿都氏は、大和川の水運を
支配していた一族。「旧事本紀」に出てくる天磐船の「船長跡部首等祖天津羽原、梶取阿
刀造等大麻良」に見るごとく、阿都氏は、もともと海人族である。阿都氏は物部氏と同
族。』
『 日本各地の守屋姓を名乗るもので、守屋の子孫と称するものは少なくない。諏訪大社
の洩矢神(守矢神)も守屋の子孫だという説がある。』
『 物部一族の残党と名乗る人びとが東北北端の地に、かっての先祖の栄光を忘れずに生
きていた。』・・・と。
4、おわりに
谷川健一は、諏訪大社の洩矢神(守矢神)も守屋の子孫だとほのめかしている。彼は断定
はしていないのだが、私は、諏訪大社の洩矢神(守矢神)も守屋の子孫だと断定したい。
それを書いたのが次の節である。谷川健一の「四天王寺の鷹」と私の「諏訪大社の柱とソ
ソウ神」は、対になっていて、私としては、是非、「諏訪大社の柱とソソウ神」もじっく
り読んでいただきたい。
谷川健一は、また、「物部一族の残党と名乗る人びとが東北北端の地に、かっての先祖の
栄光を忘れずに生きていた。」と述べているが、彼はそれをあまり説明していない。残念
である。そこで、私は、第1節の補筆として、安東氏のことを少し書いておきたい。
私は、冒頭で「 ハイデガーの言う過在ということである。過ぎ去ったかに見えても、そ
の名残りみたいなものが現在に在る。それが過在である」と述べた。 谷川健一は、「四
天王寺の鷹」の中で、「秦姓の舞」と呼ばれる四天王寺の舞楽は現在の聖霊会に生きてい
る、と述べているが、秦河勝の精神は永遠に過在なのかもしれない。
補筆1、安東氏について
神話にしろ民話や伝承にしろ、はたまた家系図など旧家に残された文献にしろ、それをそ
のまま信じるのではなく、その中に少しでも真実が隠されていないか、それを探究する学
問的態度が肝要である。東日外三郡誌もそうだ。これについては、おおむね偽書であると
いうことになっているが、その中に真実が隠されていないか?私は、今ここで、その点に
ついて考えて見たい。
まず最初に取り上げたいのは、東日外三郡誌の中に記述されている「興国の大津波」につ
いてである。
東北大学理学部地質学古生物学教室の箕浦幸治教授らの「津軽十三湖及び周辺湖沼の成り
立ち」という論文(1990年の日本地質学会の地質学論集
)によると、「湖とその周
辺での詳細な試 錐調査により、十三湖の歴史の大部分が内湾の環境下で作られ、 現在見
られる閉塞性の強い湖の状況は、浜堤状砂丘の発達によりもたらされたという事実が明ら
かとなった。十三湖の周辺には過去度々津波が押し寄せた経緯が有り、650年前に発生
した巨大津波による海浜砂州の出現によって、十三湖は最終的に閉塞湖となった。」・・
ということが論述されている。津軽地方に江戸時代に伝承されていた都市、十三湊やそこ
を襲った大津波も以前は史実としては疑 問視されていたが、発掘調査や堆積物の調査が進
められるに連れていずれもが事実であったことが明らかになってきたようだ。
私が今ここでまず申し上げたいのはこの点である。
では、次に安東水軍の問題に移ろう。大正時代に喜田貞吉というすばらしい学者がいた。
彼は、長い間京都大学の教授を務め、東北大学に国史学研究室ができた翌年(大正12
年)に東北大学に移籍し、同研究室の基礎を築くとともに、東北地方の古代史や考古学の
研究に没頭した。その一つの資料として、一般人向けに書かれた「本州における蝦夷の末
路」(1928年12月、東北文化研究第一巻第四号)という資料がある。それが青空文
庫から出ているので、それをここに紹介しておく。
http://www.aozora.gr.jp/cards/001344/files/49820_40772.html
私は、
安東水軍というものが実際に存在したと思う。日本海においては、すでに縄文時
代に三内丸山や北海道南部にとどまらず朝鮮半島まで、翡翠の海上輸送が日本列島スケー
ルで行われていた事は確実である。さらに、旧石器時代から黒曜石に関わる「海の道」と
いうものが存在した。このような歴史認識から、安東水軍の実在を思うのは私の歴史的直
観による。喜田貞吉の考えを裏打ちするものはなにも持ち合わせていないが、喜田貞吉の
説は信じて良いものと思う。かって、青森県の公共団体が、『東日流外三郡誌』の記載に
もとづき、安東氏の活躍を村おこしに繋げようとしたことがあったが、反対が多くて取り
やめになったらしい。とんでもないことだ。事実はどうであっても、ともかく伝承があっ
て、それにもとづいて村おこしをやる事も結構かと思うが、ましてや安東氏の活躍という
のは史実であるから、安東氏の活躍を村おこしに繋げるべきなのだ。現在でも青森県教育
庁発行の資料などでは「なお、一時公的な報告書や論文などでも引用されることがあった
『東日流外三郡誌』については、捏造された偽書であるという評価が既に定着してい
る。」と記載されるなど、偽書であるとの認識が一般的になっていることは誠に残念な事
だ。
喜田貞吉が言うように、 安東氏は自ら蝦夷の後裔であり、その先祖は長髄彦(ながすね
ひこ)の兄・安日(あび)である。私は、長髄彦(ながすねひこ)は殺されたかもしれな
いが、その一族は東北地方に落ち延びていったと思うので、安東氏の始祖を長髄彦(なが
すねひこ)としても、あながち間違いではないと思う。
第2節「諏訪大社の柱とソソウ神」
谷川健一は、諏訪大社の洩矢神(守矢神)も守屋の子孫だとほのめかしている。彼は断定
はしていないのだが、私は、諏訪大社の洩矢神(守矢神)も守屋の子孫だと断定したい。
それを書いたのがこの第2節である。まず諏訪大社の
に迫っていきたい。
1、 御柱祭り
諏訪大社といえば、世間に知られているのは、何といっても「御柱祭」である。
日本三大祭りは京都「祇園祭」、大阪「天神祭」は衆目の一致する所ですが、3つめは東
京「神田祭」の支持者が多い。東北なら3大七夕の一つ「ねぶた祭」入れる人もいるし、
九州に行けば「博多どんたく」を入れる人もいる。「長崎くんち」を入れる人もいる。し
かし、私は、命がけでやる祭という意味で、「諏訪の御柱祭」、「岸和田のだんじり
祭」、「伊庭の坂下し祭」を日本三大祭と呼んでいるし、 歴史的に古くから行われている
という点からは、「諏訪の御柱祭」、「京都の
園祭」、「胆沢のはだか祭」が日本三大
祭だ! 「諏訪の御柱祭」が日本の三大祭かどうかは別として、「諏訪の御柱祭」が天下
の奇祭であることは間違いない。
「諏訪の御柱祭」については、次を是非ご覧戴きたい。
https://www.youtube.com/watch?v=DSHeHrmu5Tc
諏訪大社の御柱祭りは、歴史的のも極めて重要である。この地方では、小規模ながらもい
たるところで同じような祭りが行われている。私の直感では、この諏訪地方の柱をおっ立
てる祭りは、歴史がまことに古く、多分、旧石器時代まで
るものと思われる。旧石器時
代の柱の祭りとは、石棒をおっ立てる祭りだ。このような信仰は、全国各地で見られる
が、特に、注目すべきは,秦一族と関係の深い人たちの信仰する宿神である。宿神につい
ては、哲学者の中沢新一の研究が卓越していて、私は,それにもとづいて現現地に赴きな
がらいろいろ勉強した事がある。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/wa/seireo02.html
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/wa/seireo03.html
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/wa/seireo04.html
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/wa/enasinko.html
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/wa/enayana.html
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/wa/hujido.html
中沢新一は「ミシャグチは日本の民俗学にとって、いまもなおその草創期と少しも変わる
ことなく、
にみちたロゼッタ・ストーンであり続けている。」と言っているが、ロゼッ
ト・ストーンは、1799年にナポレオン率いるフランス軍によって、エジプトのロゼッ
タ村で発見された石碑である。その石碑には、上段に象形文字、中段に古代エジプトの民
衆文字、下段に古代ギリ シャ語の3つの言葉で同じ内容が刻まれている。以後、この石
碑をもとに古代エジプトの象形文字に関する研究が進められはいるが、今なお謎に満ちて
いる。そこで、中沢新一は「謎にみちたロゼット・ストーン」という言い方をしているの
だが、ミシャグチも謎に満ちている。諏訪を中心としたミシャグチ信仰は、石棒信仰と
言っていいものだが、実は、女陰(ホト)で表わされることこともある。諏訪大社の縁起
を書いた諏方大明神画詞(えことば)というのがあり、現在、絵そのものは行方不明だ
が、言葉だけは残っている。それによると、本来の祭神は出雲系の建御名方ではなくミ
シャグチ神、ソソウ神などの諏訪地方の土着の神々であるらしい。ソソウ神は、私のいう
「ホト神様」である。縄文時代の住居には、炉とその隅に石棒が立てかけられている事例
が少なくない。そういうところでは、家のなかで毎日のように、天の神や地の神への「祈
り」が捧げられたのである。縄文住居の炉は、女性の「ホト」でもあり、女性の象徴的聖
性を表わしていると考えている。地球の母の象徴的聖性、地の神の象徴的聖性と言っても
良い。このことについては、次に紹介する私のホームーページをご覧頂きたい。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/tanaba04.html
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/tanaba07.html
小林達雄は、その著書「縄文の思考」(2008年4月、筑摩書房)の中で、「火を焚
くこと、火を燃やし続けること、火を
消さずに守り抜くこと、とにかく炉の火それ自体
にこそ目的があったのではないか」と述べ、火の象徴的聖性を指摘している。 火の象徴
的聖性、それが女陰(ソソ、ホト)で表現されても何の不思議もない。ミシャグチ神は
「ホト神さま」である。谷川健一の「四天王寺の鷹」でも明らかにしているように、物部
氏や秦氏の率いる技術集団のなかに鉱山師や製鉄技術者がいることは間違いないが、この
技術集団は「ホト神様」を信仰していた。秩父の宝登山は「ホト山」であり、製鉄の関係
の技術集団と関係の深い山である。宝登山の事については、私の電子書籍「女性礼賛」の
第5章「ホトの不思議な力・・・聖なるかな生殖」の第5節に詳しく書いたので、是非、
ご覧戴きたい。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/onna05.pdf
なお、そこにも書いたが、諏訪の神はもともと風よけの神として信仰されていた。諏訪大
社には薙鎌と呼ばれる風封じの神器がある。これは五行説の「金克木(きんこくもく)」
に基づいた思想で あるといわれている。火克金(火は金を克する)、金克木(金は木を
克する)、木克土(木は土を克する)、土克水(土は水を克する)、水克火(水は火を克
する)というが、克(こく)するの意味は、制御するという意味である。つまり金気であ
る鉄鎌を、木気である木に打ち込むということは、間接的に木気である風を封じこめよう
という呪法なのだ。 南信濃村でも、九月一日には各家で草刈り鎌を竿の竹の棒に縛り付
け、軒先につるす風習があったという。法隆寺五重塔の九輪の下に刺されている鎌は諏訪
大社で製鉄された鎌が起源であり、鎌が風を切るという風除けのまじないである。
ここで皆さんに申し上げたい大事な事は、諏訪大社が古代製鉄と関係があるという事もさ
ることながら、諏訪で作られた鉄製品・鎌が法隆寺の護りに使われているという事だ。何
故、法隆寺と諏訪が結びついているのか? その疑問を解く鍵は、秦氏の存在にある。梅
原猛の「隠された十字架」で明らかにされているように、法隆寺は聖徳太子の怨霊を鎮魂
するための寺であり、谷川健一の「四天王寺の鷹」で明らかにされているように、法隆寺
は秦氏がその建設に携わった。そして、秦氏は、物部氏を引き継いで、諏訪の製鉄技術者
集団を統括していた。これらの事を考えると、法隆寺と諏訪が深く結びついていたと考え
ても何の不思議もない。当然だろう。
永承6年(1051年)、前九年の役に出陣する源頼義は園城寺の新羅明神に戦勝祈願をし、
息子義光は「新羅三郎義光」と名乗ったほど「新羅明神」の信仰をが厚かった。秦氏本拠
地香春の神は新羅神であった。秦氏は新羅経由の渡来人であったので、もともと秦氏の信
仰した神は新羅神であったのである。八幡神と秦氏との関係が表面化してくるのは応神天
皇に秦氏が仕え始めてからである。源氏が八幡神を信仰するのは、源氏が秦一族であると
いうことだが、新羅三郎義光は、八幡神を信仰するとともに、秦氏の本来の神・新羅明神
を信仰するのである。なお、新羅三郎義光については、次を参照して欲しい。
http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/sinra.html
なお、園城寺は、比叡山延暦寺の寺門派の総本山であるが、そもそも最澄が新羅系であ
り、慈覚大師円仁も新羅との関係が深い。新羅明神のことについては、次の参照して欲し
い。
http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/heian1.html
http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/heian2.html
なお、京都太秦の広隆寺は秦河勝創建の寺であるが、ここの奇祭「牛祭り」は新羅系の祭
りであり、新羅との関係の深い慈覚大師円仁の始めた祭りである。
2、柱とホト神さま
「諏訪の御柱祭」の歴史をたどるためにキーワードは、旧石器時代の「柱とホト神さま」
に対する信仰である。その諏訪大社の主神「ソソウ神」を知って、慈覚大師円仁は、後戸
の神「摩多羅神」を考え出した。そして、東北地方における天台宗の中核寺院として中尊
寺を建立した。そして、その頃、胆沢方面にも出かけて、黒石寺を建立し、「はだか祭」
を東北の英雄・アテルイとモエの鎮魂の為に考え出したのではないかと、私は考えてい
る。諏訪地方と東北地方に共通するキーワードは、かって物部氏が統括していた探鉱と金
属の製錬に関わる技術者集団である。その後、物部氏が蘇我氏に打ち滅ぼされてからは、
秦氏がこれを統括するようになるので、これらの技術者集団には秦氏の血も混じってい
る。したがって、これらの技術者集団は新羅系の人びとでもある。慈覚大師円仁は新羅と
のご縁の深い人であるので、東北地方の人びとの心に響く教えを広めるためには、慈覚大
師ほどうってつけの人はいない。東北地方というのは、奥州藤原氏の治めていた時代、実
に平和な世界が創られていた。というのも、坂上田村麻呂がその先佃を付け、慈覚大師円
仁がそれを完成をしたのである。今ここでは以上の点だけを申し上げておいて、逐次、話
を続けていこう。
諏訪大社の縁起を書いた諏方大明神画詞(えことば)というのがあり、現在、絵そのも
のは行方不明だが、言葉だけは残っている。それによると、本来の祭神は出雲系の建御名
方ではなくミシャグチ神、ソソウ神などの諏訪地方の土着の神々であるらしい。これは
「オソソ神」すなわち「摩多羅神」であり、私のいう「ホト神さま」である。
諏訪大社の「ソソウ神」に慈覚大師円仁はお参りしたかどうか、そのことについては、確
かな事はいえないが、私は、鷲峰山法華寺がかって諏訪大社の神宮寺の中にあったこと、
また慈覚大師円仁が創建したと言われる 松原大明神(諏訪神社)が、諏訪大社を意識し
て創建されている事などを考えると、慈覚大師円仁は諏訪大社にお参りし、「ソソウ神」
が諏訪大社の古き神である事を知ったと思う。しかも、諏訪地方の縄文製鉄の技術者集団
が新羅系の秦一族と密接な関係にある事を知ったものと思う。したがって、私は、摩多羅
神なる不思議な神を「ソソウ神」として考え出したのではないかと考えるのである。摩多
羅神と秦氏とは深いところで繋がっている。
3、高師小僧
諏訪地方には御射山祭(みさやままつり)という祭りがある。御射山祭は二百十日に先
立って山上で忌籠もりをし、贄(にえ)として動物を捧げることで祟りやすい山の神を鎮
めて台風の無事通過を祈願するのがの目的だったという。
諏訪の神はもともと風よけの神として信仰されていた。諏訪大社には薙鎌と呼ばれる風
封じの神器がある。これは五行説の「金克木(きんこくもく)」に基づいた思想で ある
といわれている。火克金(火は金を克する)、金克木(金は木を克する)、木克土(木は
土を克する)、土克水(土は水を克する)、水克火(水は火を克する)というが、克(こ
く)するの意味は、制御するという意味である。つまり金気である鉄鎌を、木気である木
に打ち込むということは、間接的に木気である風を封じこめようという呪法なのだ。 南
信濃村でも、九月一日には各家で草刈り鎌を竿の竹の棒に縛り付け、軒先につるす風習が
あったという。法隆寺五重塔の九輪の下に刺されている鎌は諏訪大社で製鉄された鎌が起
源であり、鎌が風を切るという風除けのまじないである。
法隆寺五重塔の九輪の下に刺されている鎌
守矢史料館の全景 守矢史料館の薙鎌
守矢史料館の屋根に突き出した柱に、薙鎌(なぎがま)という鎌の先っぽのようなもの
が、突き刺さっている。薙鎌は、古くは魔よけ、近年では諏訪大社のご神体と考えられて
いる。諏訪大社では、御柱に選ばれた木に目印として薙鎌を打ち込むが、御柱祭の時に除
去してしまうので、諏訪大社の境内に立っている御柱に薙鎌はついていない。
法隆寺の鎌はもちろん鉄で作られており、諏訪大社の鎌は縄文製鉄で作られた。製鉄の
材料は高師小僧というが、それは上流の山々から流れ込んでくる酸化鉄が諏訪湖の葦の根
元にくっつき、大きく成長したものである。水中に入り葦の根っこを刈り取って葦を抜く
と穴の空いた竹輪みたいなものがとれる。それが高師小僧である。その遺物は豊橋市の高
師原で発掘されたので高師小僧と呼ばれている。
4、ホト神さまの現在
中沢新一が「アースダイバー」(2005年5月、講談社)で第9回桑原武夫学芸賞を
受賞した。2006年7月に京都で授賞式があったので、私も出席した。彼は言う。『 アメリカ先住民の「アースダイバー」神話が語るように、頭の中にあったプログラムを実
行して世界を創造するのではなく、水中深くダイビングをしてつかんできたちっぽけな泥
を材料にして、からだをつかって世界は創造されなければならない。』・・・と。
「アースダイバー」神話が語っているような作業について、中沢新一は『 気ままな仕
事に見えるかも知れない。でも、僕の抱える中心的な問題は全部含まれる。地底から縄文
の思考を手づかみすることは、歴史の連続性を再発見すること』・・・であると言ってい
る。
そうなんだ。私たちは、その地域の「歴史と伝統・文化」の奥深くダイビングをして泥
臭い何かをつかんできて、それを材料に身体をつかって新しい世界を創造していかなけれ
ばならないのである。そのために、今、私は、「ジオパーク」と取り組んでいる。
中沢新一の「アースダイバー」に上野は花園稲荷神社の「お穴様」がでてくるので、私
は早速行ってみた。
「お穴様」には、上野公園の東京文化会館の南側の道を通って、西方向に歩いていく。
広い道に出るともうそこが花園稲荷神社の入り口である。
これが「お穴様」!
これは、狐の棲んでいた洞窟だという説明が一般的だが、違う。これは「お穴様」であ
る。何の穴かって??そりゃ決まっているでしょう。観音様ですよ! 穴観音! 立派な
祠もある。 お多福人形(講談社の「アースダイバー」より)
さて、お稲荷さんとお狐さんとの関係について少々説明しておきたい。
伏見人形の中には狐が多く見られるが、ここでお稲荷さんと狐の関りについて簡単に紹介
しておく。小林すみ江著の『人形歳時記』(一九九六年一月、オクターブ)に簡潔に説明
してあるので引用する。
この神様(宇賀之御魂命)はまた大御膳神(オオミケツノカミ)とも呼ばれるが、この
「みけつ」に誤って「三狐神」の文字をあてたこと、また稲荷の本地とされるインドの荼
枳尼天(ダキニテン)が狐に乗っていたこと、さらにはわが国にも古来狐に対する根強い
民間信仰があったことなど、多くの要素が重なり合って、あのお狐さんが稲荷の神のお使
わしめということになったらしい。
この他にも、狐の尻尾が稲穂に似ているから、稲荷山に狐が多く棲んでいたから、など
諸説がある。
さて、このお狐さんだが、お稲荷さんのお使いだから伏見人形に多く作られるのは当然
の事なのだが、その伏見人形の狐には面白い特徴を持ったものが作られていた。次に紹介
するのは、『高倉宮・曇華院跡第四次調査 平安跡研究調査報告 第十八輯』の第五節
「江戸時代」の五、「土人形」の内容である(『稲荷信仰と宗教民俗』大森恵子著)。
信仰に関するものでは、「狐」と「土鈴」が量的に多く、また多様な形を表している。
「狐」は座位で頭を横に向け、一対になるものが一般的であるが、尾を男根型につくった
ものがある。なぜ狐の尾が男根になったのであろうか。
それは「稲には繁殖させる穀霊が宿っているという信仰から、稲荷神は子授け・夫婦和合
の神としても信仰されるようになった」からだと思われる。「稲荷神は性神」でもあった
のだ。そして、稲荷神の化身動物が狐なのだ。稲荷信仰とは別に古くから性器に対する信
仰があったが、その対象である男根と狐の尾とが結びついたのだろう。稲荷信仰は五穀豊
穣を願うもので、全てのものを増殖させようとする信仰こそが稲荷信仰の源であり、その
性的な意味を具現化したのが狐の尾の男根なのである。
伏見においては、性を表現した土人形は狐ばかりではなかった。「わらい」と俗称され
た、性的な行為を表現した人形や男女の性器を型取った土細工が、明治初頭まで伏見稲荷
の参道の土産物屋や人形屋で販売されていたのである。「松茸持ち立ちお多福」「松茸持
ち居お福」「馬乗り」「子供乗りお福」「おまら大明神」など多数あったらしい。(出
典:『江戸岡場所遊女百姿』花咲一男著)
5、マダラ神はオソソの神か?
過在の典型が広隆寺の牛祭りである。この祭りにちらつくのが、マダラ神である。マダラ
神とは何者か? マダラ神とは、オソソの神である。私の電子書籍「女性礼賛」の第8章
「 摩多羅(まだら)神とエロス」の第5節に詳しく書いたので是非ご覧戴きたいが、新
羅との関係を念頭に置き、ここで、その要点を紹介しておきたい。その要点とは、摩多羅
神とは「オソソの神」であるということだ。
常行堂(じようぎようどう)というお堂のある天台系の寺院に祀られている「摩多
羅神(まだらしん)」は、仏教の守護神としては異様な姿をしている。
摩多羅神の神像図(「摩多羅神の曼陀羅」)と
いわれているものが、古くから伝えられているか
ら、まずそれをよく見てみよう。
中央には摩多羅神がいる。頭に中国風のかぶり
物をかぶり、日本風の狩衣(かりぎぬ)をまとっ
ている。手には鼓をもって、不気味な笑みをたた
えながら、これを打っている。両脇には笹の葉と
茗荷(みようが)の葉とをそれぞれ肩に担ぎなが
ら踊る、二人の童子が描かれている。この三人の
神を,笹と茗荷(みょうが)の繁(しげ)る林が
囲み、頭上には北斗七星が配置されている。この
北斗七星に是非ご注目願いたい。北斗七星は鉱山
師たちの崇める神「妙見さん」である。
この奇妙な姿をした神たちが、常行堂に祀られている阿弥陀仏のちょうど背後にあたる
暗い後戸の空間に置かれている。この背後の空間から、阿弥陀仏の仕事,つまり阿弥陀如
来の救済の働きを守護しているわけである。
さて、 新羅と密接な関係を持つ慈覚大師円仁のことであるが、彼が始めた天台密教で行
われている独特の玄旨灌頂(げんしかんじょう)という独特の儀式がある。その儀式で
は、まず師と弟子は数日前から沐浴(もくよく)し、浄衣を着て、 なぜ今玄旨灌頂(げん
しかんじょう)を行うのかを述べるなど、おごそかに始まりの儀式を行うのである。
次いで、灌頂道場の前で香を焚き、香油を塗り、口をそそいで、幣帛(へいはく。神へ
の捧げもの。本来神道の作法。)を捧げる。その後に道場に入るのである。道場内には、
正面に先に示した摩多羅神画像、左右の壁には山王七社、天台八祖の画像、十二因縁図、
十界図が掲げられる。
灌頂を受ける弟子とその師は、道場に入る時は笏(しゃく)を持ち、さらに左手に茗荷
(みょうが)を持ち、右手に竹葉を持つ。これは先の摩多羅神画像における二人の童子が
茗荷と笹の葉を持っている構図と同じである。茗荷は一心一念を象徴し、竹の葉は三千三
観を象徴しているらしい。何事も一心不乱に取り組み、その経験から直観を養い、言葉で
は言い尽くせない多くのことを悟らなければならないということであろう。
道場の真ん中には、香炉や供え物が供えられている。師は左の壇に座り、弟子は右側の
草座に控えている。師は摩多羅神の前で三礼し、法華経や般若心経を唱え、山王神や宗祖
たちに拝礼し、それぞれの弟子への口伝(こうでん)に入っていく。口伝(こうでん)は
天台密教の奥義を語る言葉であり、ここまでは誠に厳かなものだ。問題はこれからだ。
口伝の後、摩多羅神画像の三人、つまり摩多羅神本尊とその脇を固める二人の童子をた
たえる歌を歌い舞うのである。「シシリシニシ」という茗荷童子の「リシト歌」と「ソソ
ロソニソ」いう竹葉童子ノ「ロソト歌」というらしい。これが問題であって、なかなか奥
が深いのである。 玄旨灌頂(げんしかんじょう)は、先にも言ったように、 世界的という
か宇宙的というか、その名の通り深遠な内容のものである。それがこの言葉である。言葉
で言い尽くせないことを言葉で説明するにはどうすれば良いか。「リシト歌」と「ロソト
歌」を一心不乱に歌うしかないのである。「シリ」はお尻であり、「ソソ」は女性器おそ
そである。つまり、こんな卑猥な歌や舞が 玄旨灌頂(げんしかんじょう)のハイライトで
あり、師が弟子にこれが意味する宇宙の真理を伝えることがこの一派の秘伝となっている
のである。
熱海の伊豆山神社には摩多羅神の祭りがあり、こんな歌が歌われているという(あやか
しの古層の神・摩多羅神」谷川健一)。「マタラ神の祭りニヤ、マラニマイヲ舞ワシテ、
ツビニツツミヲ叩カシテ、囃(はや)セヤキンタマ、チンチャラ、チンチャラ、チンチャ
ラ、チャン」。ここに「マラ」「ツビ」は男女の性器である。
玄旨灌頂(げんしかんじょう)は、以上のように、本来、世界的というか宇宙的という
か、その名の通り深遠な内容のものである。しかし、その深遠な内容が正しく理解されて
いないとこのように卑俗な取り扱いになる。こうしたところから、 玄旨灌頂(げんしかん
じょう)は、真言密教立川流の影響もあり、性欲の積極的肯定というか性愛の秘技という
イメージが一人歩きしてしまうのである。
北斗七星とオソソを神を一体化した神である。北斗七星に対する信仰は妙見信仰であ
り、オソソに対する信仰はホト神さまに対する信仰である。その二つが今なお生きている
のが、例えば秩父である。秩父夜祭りの源流には妙見信仰があり、宝登山信仰の源流には
ホト神さまがある。これらはすべて鉱山師ないし製鉄技術集団の信仰である。その集団を
率いているのが、秦氏である。秩父の夜祭りは、広隆寺の牛祭りとともに、過在の典型で
ある。これを詳しく調べていくと、秦氏や物部氏に
り着く。
6、黒曜石の道、翡翠の道
岡谷市の梨久保遺跡からは翡翠や琥珀など、遠方から運ばれた希少品が多く出土してい
る。これら翡翠や琥珀は黒耀石の交易によってもたらされたと考えられている。
私は、諏訪というところを、岡谷や茅野なども含めて、広義の意味で定義しているが、広
義の意味の諏訪は、旧石器時代からの交通結節点で、上述したように西日本に向かう山の
道の他に、日本海に向かう道と太平洋に向かう道があった。日本海に向かう道は、松本か
ら姫川沿いに糸魚川に至る道と現在の長野市周辺地域(飯綱高原や野尻湖など)に至る道
があった。諏訪と飯綱高原や野尻湖のことについては、私のホームページがあるので、こ
こに紹介しておきたい。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/usoinada.pdf
私は、旧石器時代は、特殊な場合を除き、一般的には遊動生活をしていて、一カ所に定住
するということはなかったので、渡し船は一般的には存在しなかったと考えている。した
がって、大きな川は上流部まで遡らないと向こう岸には渡れなかった。どこで渡ったかは
判らないが、梓川や犀川をとにかく渡れたということの事実は大きな意味を持っているの
である。梓川や犀川は、旧石器時代においても交流の支障にはなっていなかった。上が屋
遺跡のある飯綱高原と野尻湖の間には大きな川はないので、諏訪湖周辺の旧石器人が飯綱
高原や野尻湖には自由に行き来できたと考えてよい。
太平洋に向かう道は、高遠からまっすぐに南下し、遠山から水窪に至ったのち、遠州の森
に抜けるのである。
遠山というところは、誠に歴史の古いところで、日本文化の故郷みたいな側面がある。ま
ず、諏訪との関係でいえば、遠山にも諏訪と同じ御射山祭がある。また、遠山には、「湯
立て祭」という重要無形民俗文化財がある。これは、
清和天皇の貞観年中(859∼876)
に宮廷で行われていた祭事を模した湯立が、ほぼ原形のままで伝承されていると言われて
いる。また、南北朝時代の頃、藤原氏が遠山に落ち延びてきたという伝承があり、その
際、天皇を連れてきたという。それを裏打ちするように、遠山郷の此田(このた)地区の
氏神 は、都から逃れて一時住んでいたと伝えられる、南朝第3代の長慶天皇を祭神として
いる。遠山は、合併によって、南信濃村となり、現在は飯田市である。遠山の古代文化を
伝えるホームページを紹介しておこう。
http://www.tohyamago.com/event/misayama/index.php
http://tohyamago.com/simotuki/okori/
http://naoyafujiwara.cocolog-nifty.com/tohyamago/2008/11/
遠州の森は、「森の石松」で知っている方も多いかと思うが、二級河川太田川の上流に当
たり、遠州の平野部とは舟運で繋がっていた。この遠州と南信との繋がりは、駒ヶ根は光
前寺の霊犬・早太郎伝説が如実にそれを物語っている。実は、森というところは、歴史の
誠に古いところで、近くに遠州の一宮・小国神社(おくにじんじゃ)があり、その奥の院
は秋葉神社を経て水窪に抜ける山の道である。
以上述べてきたように、諏訪というところは、古代から交通の大結節点であり、「翡翠の
道」の幹線が糸魚川と諏訪とを繋いでいたのである。糸魚川の翡翠は、関東地方はもちろ
ん、尾張や美濃方面、遠州方面にも諏訪から運ばれていったと考えられるのである。
(1)黒曜石の道
私は、今までに旧石器時代に黒曜石がどのように運ばれたかということについて考えてき
た。黒曜石についていろいろと勉強をし、「黒曜石の七不思議」と題して一連の問題を取
り上げた 第5の不思議は「湧別技法集団は北海道から日本列島のどこを通って南下して
いったか」 であった。この不思議を考えながら学んだことは、旧石器時代の道について
である。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/kikitake.html
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/araya.html
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/karaB.html
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/mikosi04.html
そして「黒曜石の道」について私なりの考えがまとまったと思っている。 その結果、日本
列島の東半分ではあるけれど、主たる黒曜石の道は、次のようなものであったと考えてい
る。
旧石器時代から縄文時代にかけて、黒曜石の道の結節点は、長野県は八ヶ岳の東方、野辺
山であった。八ヶ岳の黒曜石は、和田峠の黒曜石が有名であるが、八ヶ岳にはその他多く
の黒曜石の採掘地がある。それら八ヶ岳の黒曜石はすべて野辺山で加工され全国各地に運
ばれていった。神津島の黒曜石も、野辺山で加工され全国各地に運ばれていったのであ
る。野辺山は、黒曜石を語る時、欠くことのできない大事な場所である。その野辺山につ
いては、私のホームページがあるので、それを紹介しておこう。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/nobeyama.html
まず神津島から野辺山に至る黒曜石の道を説明する。神津島からアタ族の大拠点熱海を経
て江ノ島に至る。江ノ島から境川を
上し八王子に至る。八王子で分岐し相模川の河岸段
丘を野辺山に向かうのである。野辺山で加工された細石刃などは、野辺山から逆コースで
八王子まで運ばれてくるが、八王子からは、多摩川の左右岸を通って、武蔵野台地や相模
野台地に運ばれていったのである。
野辺山から西日本へは、諏訪を経由して天竜川の右岸を南下し、南箕輪村はかの有名な御
子柴遺跡のあるところから、中央アルプスの権兵衛峠を越える。権兵衛峠については、私
のホームページに少し出てくるので、次にそのホームページを紹介しておきたい。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/mikosi03.html
権兵衛峠を越えれば木曽福島の辺りに出るが、そこからは御嶽山麓の南側を通り、長良川
流域に至る。長良川流域の右岸を南下し、美濃の南宮付近を通って琵琶湖の湖岸に至るの
である。はるか時代は下がって弥生時代になると、琵琶湖周辺に豪族がひしめくように誕
生し、やがて晩期には、近江に邪馬台国が誕生する。それらのことを想うと、私は、歴史
の連続性というものを強く感じるのである。
さて、野辺山から東北に向かう黒曜石の道は次のとおりである。
まず、野辺山のすぐ東側に隣接して長野県川上村がある。そこは黒曜石遺跡の多いところ
で、ここが東北に向かう黒曜石の道の出発地と考えてもいいぐらいのところだ。川上村か
ら秩父山地は十文字峠に至る。十文字峠から長尾根を下れば、秩父だし、尾根筋を北に向
かえば、長野県は浅間山の南麓佐久に至る。佐久からは、上田を経て、真田幸村発祥の地
真田郷から菅平に至るのである。菅平からは、また枝分かれして、分岐した黒曜石の道は
吾妻川流域を下って、利根川流域に至るのである。そして、黒曜石の道は赤城山麓に向か
う。赤城山麓は、ご承知のように、かの岩宿遺跡をはじめ、旧石器時代と縄文時代の遺跡
の宝庫である。
さて、黒曜石の道の本線は、菅平から信濃川の右岸、つまり南側を通って新潟県津南町に
至る。津南町は、旧石器時代と縄文時代の遺跡の宝庫であり、そこから荒谷遺跡は目と鼻
の先である。荒谷遺跡は、魚野川が信濃川に合流する越後川口にある。黒曜石の加工技術
には、細石刃を作る湧別技法と彫器を作る荒屋技法という二つの異なった技術がある。湧
別技法集団と荒屋技法集団は、ともにそのルーツをモンゴルとし、つかず離れずの関係を
保ちながら、日本列島を南下していった。そして、新潟県の川口に日本を代表する誠に貴
重な大遺跡を残したのである。そして彼らは、遂に、野辺山にやってきたのである。上述
の野辺山は、実は、黒曜石の加工をもっぱら行ったところではあるが、八ヶ岳周辺の中心
聚落は、諏訪であり、諏訪を中心として縄文文化が栄え、かの有名は縄文のビーナスを残
すのである。野辺山は、多分、諏訪の支配下にあったのであろう。
阿賀野川の中流、新潟県の福島県との県境に近いところに、津川町、今は合併して阿賀町
になっているが、旧津川町に世界はじめての土器が出土した考古学では最重要の遺跡があ
る。小瀬が沢洞窟と室谷洞窟という二つの洞窟遺跡だが、名前が覚えにくいかと思うの
で、ここでは、津川遺跡と呼ぶこととする。
さて、この遺跡調査に執念を燃やした中村孝三郎という新潟の生んだ素晴らしい考古学者
がいる。縄文文化の最高権威である小林達雄は中村孝三郎の流れを
む。その中村孝三郎
をして発奮させたのが、津南町の遺跡である。
今、黒曜石の道と関係のない話をしているようであるが、そうではない。津南町と荒谷遺
跡と津川遺跡とを繋ぐ道が黒曜石の道なのである。それをこれから説明しよう。
実は、津川遺跡には、北海道は白滝の黒曜石だけでなく、神津島の黒曜石が運ばれてい
た。ここに黒曜石の道がある。通っていたのは間違いがない。すなわち、黒曜石の道は、
津南町から越後川口を経て、津川に繋がっていたのである。そこで問題なのは、越後川口
からどこをどう通って津川に行ったのかということである。こういうのは、よほど山の経
験のある人でないと判らないであろう。私は、それほど山の経験があるわけではないけれ
ど、それなりの直観力でもって、多分、小出から山古志村を経て、現在の「六十里越え」
あたりに出て、浅草山から御神楽岳に至る尾根筋を通ったのではないかと思われる。ある
いは、只見川の河岸段丘を通ったかもしれないし、阿賀川筋に会津盆地に出て津川に行っ
たかもしれない。いずれにしろ、黒曜石の道は、山古志村から津川に通じていたのであ
る。津川というところは、新潟平野と会津盆地と秋田方面に向かう交通結節点てあった。
秋田方面に向かう本線は、会津、米沢、山形、新庄、湯沢、横手、鹿角、黒石を経て、三
内丸山に至る。これはイザベラバードが通った道とおおむね同じである。その間特に難所
というところはない。
なお、イザベラバードは、いわゆる日光街道を歩いて、会津に入るが、当時は阿賀野川の
舟運が盛んであったので、舟で港町津川に赴き、津川にしばらく滞在して執筆にいそしん
だようだ。津川のことについては、私の次のホームページに詳しく出てくるので、それを
ここに紹介しておこう。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/jyokigen2.html
以上が東日本の黒曜石の道である。日本列島を貫く黒曜石の道は、縄文時代を通じて、大
いに使われたのではないかと思う。
なお、念のため申し上げておくと、西日本における黒曜石の道は、これという難所はな
い。旧石器時代に北海道は白滝の黒曜石が鳥取県人形峠まで運ばれている。今まで申し上
げてきたことは、おおむね旧石器時代のことであり、縄文時代の三内丸山の時代になる
と、交易の発達により、翡翠の道もふくめ、陸上より海上交通が主流となる。
(2)翡翠の道
糸魚川市に近い新潟県境に境A遺跡(富山県朝日町)というのがある。
ここの遺跡調査については、昭和59・60年、北陸自動車道建設に先立って、県教育委員
会が実施した。その結果、極めて重要なことが判った。境A遺跡は、硬玉原石の集散地で
あり、加工を行っていた拠点集落である。数千点にもおよぶ原石、加工途中の未製品が出
土している。完成品は交易で他所へ運ばれたらしく余り出土していない。そういうことが
判明したのである。
発掘調査によって出土した遺物のうち、硬玉(ヒスイ)を中心とする玉類製作関係遺物、
蛇紋岩を用いた磨製石斧製作関係遺物、縄文土器、石器類など2,432点が、平成11年6
月に、国の重要文化財に指定された。この遺跡については、富山県埋蔵文化センターの
ホームページがよく判るので、ここに紹介しておきたい。
http://www.pref.toyama.jp/branches/3041/sakai-a-top.htm
糸魚川市の姫川の流域には、蛇紋岩中に構造岩塊として含まれていたヒスイの産地があ
り、現在確認されている日本全国の縄文時代早期から奈良時代の遺跡から発見されている
ヒスイ製大珠や勾玉などの装身具の原料は、この川の流域や西方にある青海川流域、およ
び新潟県糸魚川市大和川海岸から富山県下新川郡朝日町宮崎海岸にかけての日本海沿岸で
採取されたヒスイを用いて加工されたものであると考えられている。その加工について
は、どこで加工されたものか、その場所が判らなかったのだけれど、境A遺跡の発掘調査
で、その場所がはっきりしたのである。そのことの意義は極めて大きく、その意義を強調
しても強調し過ぎることはけっしてないほどだ。
姫川といえば、私などは蒲原沢川の土石流災害を思い出すが、本来は、ロマンチックな川
である。つまり、古事記には、糸魚川市付近を治めていた豪族の娘、奴奈川姫(ぬなかわ
ひめ)に大国主命が出雲から求婚しに来たという神話が残されており、この奴奈川姫が姫
川の名の由来とされるからだ。現在糸魚川市は、世界ジオパークに指定され、世界的な観
光地になっているが、それも 姫川のお蔭だ。
糸魚川市の海望公園にある沼河比売(奴奈川姫)と建御名方命の像
奴奈川姫(ぬなかわひめ)は古事記や出雲風土記などに登場する高志国(現在の福井県か
ら新潟県)の姫であると言われている。奴奈川姫を祭る神社が糸魚川・西
頚城地方に多
く、また、考古学的資料にも恵まれていること、さらには万葉集の記述にある「沼名河の
底なる玉・・・」との関係をみても、
奴奈川姫は神秘的であり、姫にまつわる伝説がこ
の地方に多いのもたいへん興味深い。
青海町黒姫山の東麓に「福来口(ふくがくち)」という大鍾乳洞がある。ここに大昔、奴
奈川姫が住んでおり、機(はた)を織っては、洞穴から流れ出る川でその布をさらした。
それでこの川を「布川(ぬのかわ)」という。
この福来口から二里ばかりの所に「船庭の池」がある。これは姫の船遊をされた所だと
いう。又今井村字今村との境に「東姥(うば)が懐(ふところ)」「西姥が懐」という地
がある。ここは姫を育てた乳母の住んだ所だという。
黒姫山頂には姫を祀(まつ)った石祠(いしぼこら)があり、毎年四月二十四日の祭に
は多勢が登山する。その際不浄な物を身につければ上られぬという。青海町字田海(とう
み)には、この石祠の拝殿、山添(やまぞえ)社がある。渇水や霖雨(りんう)の時は祈
願をする。
のちほど第11章で述べるように、魏志倭人伝に出てくる最後の奴国は、古事記や出雲
風土記などに登場する高志国かどうかは別として、ともかく糸魚川を中心とした地域のこ
とである。上述のように、この地方では、翡翠を加工し、それを交易することで栄えてい
たのである。また、奴奈川姫は、祭祀をも司りシャーマンでもあった。ただし、その祭祀
の仕方はおそらく卑弥呼のそれとは異なっていたであろう。というのは、奴奈川姫の祭祀
道具は、翡翠であると考えられるからである。「日本人なら知っておきたい神道」(武光
誠、2003年6月、河出書房)によれば、勾玉というものは次のようなものであったら
しい。
古代人は円形という完全な形をあらわす玉を「たましい(霊魂)」=精霊を象徴するもの
と考えた。精霊は私欲を持
たず常にまるくかたよりがない。人間は私欲をもち霊魂の形
がついかたよったものになる。そこで古代人は霊魂の形を表す玉類を身につけ時々それを
眺めるこ とによつて自分の霊魂をまるい形に保つよう心がけた。よって、装身具として玉
類がつくられそれを身につけてまるい心で生活すれば多くの精霊の助けを得られ
ると考
えていた。なかでも巴型の勾玉はまるい霊魂が飛び回っている姿をあらわすもので特にこ
れが重んじられた。武光誠はこのように考えているのだが、勾玉はどうもそういうものら
しい。皇室の三種の神器のひとつ八坂瓊勾玉(やさかにのまがたま)は糸魚川翡翠の大珠
だそうで、翡翠の霊力の強さはこんなことからも伺える。
さて、以下、翡翠の道について述べることとする。
縄文時代からすでに日本海には海上の翡翠の道があった。三内丸山には、大量の翡翠が運
び込まれており、どうも交易が活発に行われていたようである。そこで、縄文時代の交易
について、少し考えてみよう。例えば、交易商人が糸魚川から翡翠を大量に三内丸山に運
んだとする。三内丸山には、各地からさまざまな商品が集まってきているので、翡翠の道
を帰る途中で売れそうなものを翡翠との物々交換で入手する。それらを糸魚川まで運んで
いくか、それとも途中で他の商品と交換しながら糸魚川まで戻るかは別として、各地域の
特産品が広範囲に交換されていたのではないか。翡翠は貴重品であり、各地の豪族はこ
ぞって翡翠を欲しがったのでかないか。交易に使われた各地域の特産品はどのようなもの
であったのかは、よくわかっていないけれど、私は,各地域にさまざまな商人がいて、各
地域の特産品が活発に取り引きされていたものと考えている。さまざまな商人の中でも、
翡翠を取り扱うような商人は、相当の権力とネットワーク組織をもっていたのではない
か。私はそう考える。したがって、私は,翡翠の道を思う時、翡翠の道で活躍する大商人
の存在を前提に、広範囲なネットワーク組織というものを考えねばならないと考える。邪
馬台国の卑弥呼は、魏の皇帝に翡翠を献上しているが、糸魚川の翡翠はそれ以前にも朝鮮
半島に運ばれているので、倭国の大商人は、大陸の大商人ともそれなりの繋がりを持って
いたと思う。倭国のそういう大商人のネットワーク組織がいくつあったか判らないが、そ
ういう大商人を統括していた政治権力者がいたに違いない。私は、そういう権力者として
物部氏を想定している。その後、物部氏から秦氏に移るが、秦一族は、政治権力から完全
に離れて、大商人に溶け込んていく。そして、最終的には、藤原氏の支配を甘んじて受
け、専ら金などの鉱物資源の開発とその交易に生きることになる。これは、ものすごく利
巧な選択であったと思う。だから、秦一族と物部一族は、近世に至るまで、特殊な技術集
団として、生き続けるのである。
以上が、翡翠の道と黒曜石の道の背景にある歴史的な事実であると思う。そういう歴史的
認識を持たないと、古代の実態が見えてこないのではないかと思う。翡翠の勉強をすると
いうことはそういうことだ。
次に、糸魚川と諏訪の関係について少し話をしておきたい。
塩の道というのは、全国いくつかあるが、「塩の道・千国街道」が有名である。「塩の
道・千国街道」は、新潟県糸魚川から長野県松本まで(約130km)の旧道である。
フォッサマグナ、これは日本列島における糸魚川・静岡構造線のことだが、「塩の道・千
国街道」はこの中を通っている。「千国街道」は、歴史的にいえば、もともと、旧石器時
代、長野県和田峠の黒曜石が運ばれた「黒曜石に道」であると同時に糸魚川の翡翠が運ば
れた「翡翠の道」でもある。また、古事記によれば、大国主命(おおくにぬしのみこと)
と奴奈川姫(ぬながわひめ)の子、建御名方命(たけみなかたのみこと)が出雲国(いず
ものくに)から逃げて諏訪に行ったのも、この道を使ったと考えられている。
さらに、安曇野の安曇族は、もともと北九州を根拠地とした海女(あま)をひきいる豪族
で、古事記にその名が見えるが、この一族も、日本海を北上して糸魚川から安曇地方に
入ったと考えられているので、「塩の道・千国街道」の歴史は誠に古い。
私は、このフォッサマグナの中を通る道を総称して「翡翠の道」と呼ぶことにする。安曇
野の「翡翠の道」は、糸魚川から出発する道である。「翡翠の道」は、陸上の場合、糸魚
川から出発して、諏訪に至り、それから先は、(1)で説明した「黒曜石の道」を参考に
内陸部における翡翠の交通を考えてもらえば良い。日本列島の内陸部の「道」は、旧石器
時代の「黒曜石の道」から始まって、縄文時代になると、基本的にはそれを踏襲しつつも
渡し船の発達によって新たな「道」が発達する。そして、縄文時代に発達した「道」がそ
のまま弥生時代や古墳時代に受け継がれていく。しかし、弥生時代や古墳時代になると、
水運が縄文時代よりもさらに発達するので、「翡翠の道」はについては、「山の道」や
「野の道」の他に、「海の道」や「湖沼の道」や「川の道」の発達というものも視野に入
れなければならない。琵琶湖の水運と日本海や太平洋の水運は、おおむね弥生時代や古墳
時代に発達し、近世に引き継がれていく。縄文時代から、日本海における「翡翠の道」は
「海の道」であり、これが「翡翠の道」の本命であることは上述した。「翡翠の道」は、
古代史を考える上で、一つの大きな要素である。その経過地点の豪族が関係しているから
である。
糸魚川の翡翠が盛んに加工されて装飾品として交易されたのは,富山県の朝日町で最近発
掘された境A遺跡の大工房ができてからである。弥生時代の中期のことである。弥生時代
から古墳時代の
交易において、翡翠はまあいうなれば通貨の代わりをしたようだ。私
は、各地の豪族がこぞって手に入れようとしたと考えている。その中でか注目すべきは,
滋賀県彦根市の豪族と大阪府は摂津地方の豪族である。これらの地域に至る翡翠の道は、
日本海から琵琶湖、そして宇治川から淀川に至る、主として水運の道である。彦根と摂津
には、翡翠の集散地があって、そこから翡翠の道は、全国各地に分岐していったのではな
いか? あるいは、摂津に勝る一大集散地が大阪湾の何処かにあったかもしれない。いず
れにしろ、糸魚川の翡翠は、琵琶湖から尾張を経て東日本へ、また琵琶湖から大阪湾を経
て西日本へ運ばれていったのではないか。
なお、琵琶湖から大和に翡翠が運ばれた道は、宇治川から木津に至るルートと瀬田川から
和束町を経て奈良に至るルートがあったようだ。和束町からは少し南下すれば笠置に出
る。笠置から枝分かれして、名張川を下って木津に至るルートと、名張川を
って月ヶ瀬
から天理に至るルート、この二つのルートがあったらしい。天理は、物部氏の本拠地であ
る。私は,瀬田川、和束町、笠置、柳生、天理というルートがメインルートであったと思
う。これを天理ルートと呼ぼう。天理ルートは、物部氏の直轄地であり、前ヤマトの時代
から利用された幹線であったと思う次第である。この天理ルートの沿道には、安積親王の
墓、金胎寺、笠置寺などの日本の歴史上欠くことのできない重要な史跡が多く、恭仁京も
近い。この天理ルートが弥生時代の「翡翠の道」であったことは間違いないであろう。
7、建御名方命(たけみなかのかみ)
記紀の日本建国神話によると、『 建御雷神(たけみみかづちのかみ)が大国主神に葦原
中国の国譲りを迫ると、大国主神は御子神である事代主神が答えると言った。事代主神が
承諾すると、大国主神は次は建御名方神が答えると言った。建御名方神は建御雷神に力く
らべを申し出、建御雷神の手を掴むとその手が氷や剣に変化した。これを恐れて逃げ出
し、科野国の州羽(すわ)の海(諏訪湖)まで追いつめられた。建御雷神が建御名方神を
殺そうとしたとき、建御名方神は「もうこの地から出ないから殺さないでくれ」と言い、
服従した。』・・・とある。
建御名方神は、大国主神と沼河比売(奴奈川姫)の間の御子神であるという伝承が各地に
残る。妃神は八坂刀売神とされている。
また、『諏訪大明神絵詞』などに残された伝承では、建御名方神(たけみなかたの神)は
諏訪地方の外から来訪した神であり、土着の洩矢神を降して諏訪の祭神になったとされて
いる。このとき洩矢神は鉄鉄輪を、建御名方神は藤蔓を持って闘ったとされ、これについ
ては製鉄技術の対決をあらわしているのではないかという説がある。
さあこれから、これらの神話や伝承で語られている建御名方神について、少し考えてみた
いと思う。
まず考えてみたいのは、洩矢神と建御名方神との闘いがあったかどうかである。中世・近
世においては建御名方神の末裔とされる諏訪氏が諏訪大社上社の大祝(おおほおり)を務
めたのに対し、洩矢神の末裔とされる守矢氏は筆頭神官(神長官という職)を務めた。大
祝(おおほおり)は、古くは成年前の幼児が即位したといわれ、即位に当っての神降ろし
の力や、呪術によって神の声を聞いたり神に願い事をするよいった力は神長官のみが持つ
とされていた。これらのことから、諏訪の信仰と政治の実権は守矢氏が永く持ち続けるこ
ととなった。こうして、諏訪の地では、大祝と神長官による新しい体制が出来上がり、信
仰と政治の一体化した祭政体制は古代、中世と続く。このようなことを考えると、私は、
諏訪における伝承とは異なり、洩矢神と建御名方神との闘いはなかったのではないかと思
われる。考えても見てほしい。諏訪における信仰と政治の一体化した祭政体制というの
は、一種の棲み分けであり、そういう棲み分けというものは、平和的な調整によるもので
あって、誰か強力な調停者がいなければならない。だとすれば、その強力な調停者とは誰
か? それを考えねばならない。
私は、すでに「7、黒曜石の道、翡翠の道」で述べたように、翡翠を中心として、 日本列
島を胯にかけて交易を行う大商人がいたと考えており、そういう大商人を統括していた政
治権力者がいたに違いないと思っている。そして、私は、そういう権力者として物部氏を
想定している。これもすでに「3、高師小僧」で述べたように、諏訪では高師小僧を原材
料とする縄文製鉄が行われていた。そして、諏訪には製鉄に関わる技術集団がいた。しか
し、諏訪地方には、砂鉄の鉱山もないし、たたら製鉄の遺跡はないので、私は建御名方神
が諏訪大社の神となってからも、諏訪では、ひきつづき高師小僧による縄文製鉄が行われ
いたのだと考えている。すなわち、出雲からたたら製鉄の技術者集団は諏訪にはやってこ
なかったのだ。諏訪地方に、縄文製鉄技術者集団とたたら製鉄技術者集団の闘いがあった
との伝承は、史実ではなく、建御名方神が出雲系の神であるということから創られた物語
に過ぎない。真相は、諏訪土着の神・洩矢神と出雲系の神・建御名方神との平和的な融合
が行われたということではないか。そして、その調停者は物部氏であった。
鹿島神宮は、もともと建御名方神を祀る物部氏の神社であったが、藤原鎌足がこれを乗っ
取って、
建御雷神(たけみみかづちのかみ)を祭神としたのである。このことについて
は、すでに第7章に書いたので、それを見ていただきたい。かの有名な梅原猛の「神々の
流竄(るざん)」に藤原鎌足の物部氏勢力の乗っ取りが詳しく書かれている。鎌足は成り
上がりものであった。鎌足の父、御食子
(みけこ)以前の、中臣氏の祖先はよく判らな
い。とにかく中臣氏は、天才政治家鎌足の時に、突然中央政界に登場し、しかも、たちま
ちに中央政治の支配者と なった。こうして成り上がった中臣氏は、古い由緒ある神社をほ
しがっていた。物部氏の残した鹿島神宮、これは東北経営の拠点でもあるのだが、その神
社の支 配権というものは霞ヶ浦湖畔の豪族である多氏が握っている。鎌足としては、多氏
を抱き込んで、何とかそれを手に入れたい。当然のことである。かくして鹿 島神宮の乗っ
取りはなり、しかも東北における物部氏の勢力はそのまま藤原氏に引き継がれることと
なった。藤原氏発展の基礎はここにあるのである。不比等は、父・鎌足の功績を正当化す
るために、出雲において建御名方神(たけみなかたのかみ)が建御雷神(たけみみかづち
のかみ)に負けて、諏訪に逃げ延びる神話を創作したのである。建御名方神(たけみなか
たのかみ)は、もともと諏訪大社の祭神であり、物部氏によって鹿島神宮の祭神に祀り上
げられていたのである。物部氏の意思は東北経営にあったのである。物部氏が没落してか
らも、物部一族は、秦一族と一体になって、安東水軍などの海人族を統括すると同時に、
東北地方の金などの鉱山開発に貢献していく。
基本的な歴史認識として、私は繰り返して申し上げるが、鎌足によって鹿 島神宮の乗っ取
りはなり、東北における物部氏の勢力はそのまま藤原氏に引き継がれることとなった。藤
原氏発展の基礎はここにあるのである。
それらの歴史認識を持つための
は「建御名方
神(たけみなかたのかみ)」が握っているのである。
8、立石寺と慈覚大師
鎌足によって鹿島神宮の乗っ取りはなり、東北における物部氏の勢力はそのまま藤原氏に
引き継がれることとなった。藤原氏発展の基礎はここにでき上がったのである。藤原氏と
しては、如何にして東北経営に立ち向かうか? それができてこそ不比等の深慮遠謀が具
体的な形として完成するのである。事実、不比等の後、藤原内麻呂という大人物が誕生
し、不比等の望みを達成する。それによって、かの藤原道長の絶頂に時代を迎えることが
できたのである。その一つの象徴が紫式部の「源氏物語」であるが、道長の絶頂ぶりを表
す歌を掲げておこう。
「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」
(1)朝廷の東北経営の歴史
では、朝廷の、否、藤原氏のと言った方が実体を表しているのだが、朝廷の東北経営につ
いて、話を始めるとしよう。蝦夷についての最も古い言及は、『日本書紀』にあるが、伝
説の域を出ないとする考えもある。しかし、5世紀の中国の歴史書『宋書』倭国伝には、
478年倭王武が宋 (南朝)に提出した上表文の中に以下の記述がある。
「昔から祖彌(そでい)躬(みずか)ら甲冑(かっちゅう)を環(つらぬ)き、山川(さ
んせん)を跋渉(ばっしょう)し、寧処(ねいしょ)に遑(いとま)あらず。東は毛人を
征すること、五十五国。西は衆夷を服すること六十六国。渡りて海北を平らぐること、九
十五国。」
この記述から、この時代には既に蝦夷の存在と、その統治が進んでいた様子を窺い知るこ
とが出来る。日本武尊以降、上毛野氏の複数の人物が蝦夷を征討したとされているが、こ
れは毛野氏が古くから蝦夷に対して影響力を持っていたことを示していると推定されてい
る。
7世紀頃には、蝦夷は現在の宮城県中部から山形県以北の東北地方と、北海道の大部分に
広く住んでいたと推察されているが、大化年間ころから国際環境の緊張を背景とした蝦夷
開拓が図られ、大化3年(647年)に越国の北端とみられるの渟足柵設置を皮切りに現在
の新潟県・宮城県以北に城柵が次々と建設された。太平洋側では、654年(白雉5年)に
陸奥国が設置されたが、724年(神亀元年)には国府を名取郡の広瀬川と名取川に挟まれ
た地(郡山遺跡、現在の仙台市太白区)から宮城郡の松島丘陵南麓の多賀城に、直線距離
で約13km北進移転している。日本海側では、斉明天皇4年(658年)から同6年(660
年)にかけて蝦夷および粛慎を討った阿倍比羅夫の遠征があった後、和銅元年(708年)
には越後国に出羽郡が設置され、712年(和銅5年)に出羽国に昇格し陸奥国から置賜郡
と最上郡を譲られた。この間、個別の衝突はあったものの蝦夷と朝廷との間には全面的な
戦闘状態はなかった。道嶋嶋足のように朝廷において出世する蝦夷もおり、総じて平和で
あったと推定されている。
宝亀元年(770年)には蝦夷の首長が賊地に逃げ帰り、翌2年の渤海使が出羽野代(現在
の秋田県能代市)に来着したとき野代が賊地であったことなどから、宝亀年代初期には奥
羽北部の蝦夷が蜂起していたとうかがえるとする研究者もいるが、光仁天皇以降、蝦夷に
対する敵視政策が始まっている。宝亀5年(774年)には按察使大伴駿河麻呂が蝦狄征討
を命じられ、弘仁2年(811年)まで特に三十八年戦争とも呼ばれる蝦夷征討の時代とな
る。この時期は、一般的には4期に分けられているが、坂上田村麻呂が活躍するのは第3期
である。延暦20年(801年)には坂上田村麻呂が征夷大将軍に任命されるが、私の話は、
坂上田村麻呂に焦点を当てて、その前後の頃から始めたい。
今は仙台市だが、歴史的に有名は秋保温泉がある。その秋保の秋保神社に建御名方神(た
てみなかたしん)が祀られている。 秋保神社の元は坂上田村麻呂が創建した熊野神社が
鎮座していたと言われるが、秋保氏15代の盛房が、1513年に名取の長井氏との合戦
の戦勝を祈願して、信濃国より諏訪神社を勧請したのが始まりらしい。時代はずっと後に
なってのことだが、問題は文化の繋がりをどう考えるかということである。 何故、建御
名方神が遥か遠く離れた秋保の地に祀られているか? その答えを得るには、東北地方の
「翡翠の道」を考えねばならない。その鍵を握るのは、旧石器時代から続くところの「黒
曜石の道」である。少し詳しく説明しておこう。「黒曜石の道」というのは、すでに述べ
たけれど、諏訪から野辺山に出て、秩父山の道を歩いて、佐久に出る。そして、佐久か
ら、小諸、上田、真田、菅平、須坂、津南などを通って小出に出る。そこからが最大の難
所で、厳しい山越えをして、只見川流域に出て、会津に至るのである。実は、北海道の白
滝から日本列島を南下する「黒曜石の道」があって、それは津軽海峡を船で渡って、大
曲、湯沢、山形、会津へと向かう。そして会津からは、諏訪からの道を逆行するのであ
る。どうも会津というところは「黒曜石の道」「翡翠の道」「琥珀の道」の古代における
交通の要所であったらしい。会津の琥珀は、 会津大塚山古墳の出土品がその代表的なも
のであろう。会津から米沢を経て山形までは容易な道のりである。山形市の嶋遺跡は、
低湿地に立地する、古墳時代後期の集落跡である。これまでの発掘調査により、柱を地面
に直接打込む方式の建物跡が発見されている。出土品では、一般的な土器(土
師器・須
恵器)のほか、柱材や板材などの建築材、杵などの農耕具、弓や鐙など豊富な木製品が確
認される。また、県内でも出土例が少ない、子持勾玉(こもち
まがたま)や琥珀玉(こはく
だま)なども出土している。
今私は、「翡翠の道」を念頭に置き、会津から山形へ北上する交通を取り上げているのだ
が、会津から山形までは容易な道のりであって、山形も古くから栄えた土地であったと考
えている。交通としては、山形から分岐して、仙台に向かう道もあったであろう。その道
は、秋保(あきう)を通る。この分岐道を黒曜石の道と呼ぶわけにはいかないが、糸魚川
の翡翠がわずかではあるが、仙台市から出土しているので、山形と仙台を結ぶ「山の道」
はあったであろうと私は考えている。この「山の道」は、後世の二口街道であり、多くに
人びとの往来があった。私は、その道を歩いた事がある。二口峠辺りからの眺望はあまり
良くないが、それでも不思議な形の山が遠くに見えた。峠から南面白山に縦走できるらし
い。峠を秋保方面に下ると、渓谷に臨んで岩の屏風をめぐらせたようにそそり立つ磐司岩
(ばんじいわ)があり、大きな感動を覚えると同時に、磐司磐三郎なる東北山岳民族の主
の活躍に想いを馳せたものである。
以上述べた、黒曜石の道や「山の道」を通じて、多分、諏訪の文化が仙台方面に伝わった
ものと思う。それの先導役を務めたのが、物部系の人たち、すなわち長髄彦系の人たちで
はなかったか。坂上田村麻呂は、東北地方の人たちとうまくやっていくためには、秋保の
豪族と協力関係をもつくらなければならない、ということを知っていたのではないか。な
ぜなら、東北地方は、長髄彦系の人たち、それはその後物部系の人たちと一体化して、平
安時代には、秦一族がそれを統括していたと思われるからである。
(2)安東氏の問題
神話にしろ民話や伝承にしろ、はたまた家系図など旧家に残された文献にしろ、それをそ
のまま信じるのではなく、その中に少しでも真実が隠されていないか、それを探究する学
問的態度が肝要である。東日外三郡誌もそうだ。これについては、おおむね偽書であると
いうことになっているが、その中に真実が隠されていないか?私は、今ここで、その点に
ついて考えて見たい。
まず最初に取り上げたいのは、東日外三郡誌の中に記述されている「興国の大津波」につ
いてである。
東北大学理学部地質学古生物学教室の箕浦幸治教授らの「津軽十三湖及び周辺湖沼の成り
立ち」という論文(1990年の日本地質学会の地質学論集
)によると、「湖とその周
辺での詳細な試 錐調査により、十三湖の歴史の大部分が内湾の環境下で作られ、 現在見
られる閉塞性の強い湖の状況は、浜堤状砂丘の発達によりもたらされたという事実が明ら
かとなった。十三湖の周辺には過去度々津波が押し寄せた経緯が有り、650年前に発生
した巨大津波による海浜砂州の出現によって、十三湖は最終的に閉塞湖となった。」・・
ということが論述されている。津軽地方に江戸時代に伝承されていた都市、十三湊やそこ
を襲った大津波も以前は史実としては疑 問視されていたが、発掘調査や堆積物の調査が進
められるに連れていずれもが事実であったことが明らかになってきたようだ。
私が今ここでまず申し上げたいのはこの点である。
では、次に安東水軍の問題に移ろう。大正時代に喜田貞吉というすばらしい学者がいた。
彼は、長い間京都大学の教授を務め、東北大学に国史学研究室ができた翌年(大正12
年)に東北大学に移籍し、同研究室の基礎を築くとともに、東北地方の古代史や考古学の
研究に没頭した。その一つの資料として、一般人向けに書かれた「本州における蝦夷の末
路」(1928年12月、東北文化研究第一巻第四号)という資料がある。それが青空文
庫から出ているので、それをここに紹介しておく。
http://www.aozora.gr.jp/cards/001344/files/49820_40772.html
私は、
安東水軍というものが実際に存在したと思う。日本海においては、すでに縄文時
代に三内丸山や北海道南部にとどまらず朝鮮半島まで、翡翠の海上輸送が日本列島スケー
ルで行われていた事は確実である。さらに、旧石器時代から黒曜石に関わる「海の道」と
いうものが存在した。このような歴史認識から、安東水軍の実在を思うのは私の歴史的直
観による。喜田貞吉の考えを裏打ちするものはなにも持ち合わせていないが、喜田貞吉の
説は信じて良いものと思う。かって、青森県の公共団体が、『東日流外三郡誌』の記載に
もとづき、安東氏の活躍を村おこしに繋げようとしたことがあったが、反対が多くて取り
やめになったらしい。とんでもないことだ。事実はどうであっても、ともかく伝承があっ
て、それにもとづいて村おこしをやる事も結構かと思うが、ましてや安東氏の活躍という
のは史実であるから、安東氏の活躍を村おこしに繋げるべきなのだ。現在でも青森県教育
庁発行の資料などでは「なお、一時公的な報告書や論文などでも引用されることがあった
『東日流外三郡誌』については、捏造された偽書であるという評価が既に定着してい
る。」と記載されるなど、偽書であるとの認識が一般的になっていることは誠に残念な事
だ。
喜田貞吉が言うように、 安東氏は自ら蝦夷の後裔であり、その先祖は長髄彦(ながすね
ひこ)の兄・安日(あび)である。私は、長髄彦(ながすねひこ)は殺されたかもしれな
いが、その一族は東北地方に落ち延びていったと思うので、安東氏の始祖を長髄彦(なが
すねひこ)としても、あながち間違いではないと思う。
大筋は以上の通りであるが、少し細かく見ておこう。一般的に東日外三郡誌は偽書だとさ
れているので、安東氏を長髄彦(ながすねひこ)と繋げて歴史を論考している学者は喜田
貞吉ぐらいのものであり、他の学者はすべて安東氏は安倍氏の子孫であるとしている。
平安時代末の11世紀の中頃、岩手県盛岡市のあたりに本拠地を構えていた東北地方の大
豪族に「安倍氏」がいた。源氏の二代目・源頼義(よりよし)との戦(いくさ)がはじま
る。その戦いで
戦死した安倍氏の頭領・安倍貞任の遺児の高星丸(たかあきまる)が藤
崎(現在の藤崎町で弘前市の北に隣接する町。岩木川を下れば十三湊に至る、そのような
土地。)に落ち延び、成人の後に安東氏をおこし、藤崎城を築いて本拠地とし、大いに栄
えた。だいたいこのような説明になっているかと思うが、肝心の安倍氏の祖先について
は、いろいろな説があるにしろ、まったく曖昧模糊としている。しかし、私は、東日外三
郡誌は真実を語っている部分も少なくなく、また喜田貞吉の歴史的直感力というものを信
用しているので、私は、喜田貞吉と同様に、安倍氏の始祖を長髄彦(ながすねひこ)と考
えている。しかし、長年月を経て、混血に混血を重ねた結果、安倍氏はおおむね物部一族
と同族と考えて良い。さらに言えば、秦一族も血が繋がっていたのではないかと思う。つ
まり、安東氏も、安倍氏も、奥州藤原氏も、私は、物部一族や秦一族と同族意識を持って
いたと考えているのである。
(3)立石寺について
立石寺の創建について、寺伝では貞観2年(860年)に清和天皇の勅命で円仁(慈覚大
師)が開山したとされている。当寺の創建が平安時代初期(9世紀)にさかのぼること
と、慈覚大師円仁との関係が深い寺院であることは確かであるが、創建の正確な時期や事
情については諸説あり、草創の時期は貞観2年よりもさらにさかのぼるものと推定され
る。『立石寺記録』(立石寺文書のうち)は、「開山」を円仁、「開祖」を安慧(あん
ね)と位置づけており、子院の安養院は心能が、千手院と山王院は実玄が開いたとされて
いる。安慧は円仁の跡を継いで天台座主となった僧であり、心能と実玄は円仁の東国巡錫
に同行した弟子である。安慧は承和11年(844年)から嘉承2年(849年)まで出羽国の
講師の任にあり、東国に天台宗を広める役割をしたことから、立石寺の実質的な創立者は
安慧であるとする説もある。また、慈覚大師円仁が実際に東国巡錫したのは天長6年
(829年)から9年(832年)のこととされ、この際、弟子の心能と実玄をこの地に留め置
いて立石寺の開創にあたらせたとの解釈もある。私は、この説に賛成だ。
大和朝廷の時代、会津は大和朝廷の前線基地であった。その後、出羽の柵と多賀城の柵が
設けられるが、この山寺というところは、会津と出羽の柵と多賀城の柵を結ぶ一大交通拠
点であり、朝廷の指示で立石寺が創建された事は間違いない。その任に当たったのが慈覚
大師円仁であるが、そのバックには藤原内麻呂の次男・藤原冬継がいた。朝廷の大戦略の
もと、立石寺は創建されたのである。なお、念のために申し上げておくと、慈覚大師円仁
は新羅と実に縁の深い人であるということ、そしてまた当時の東北の技術者集団を統括し
ていたのが秦一族である。したがって、慈覚大師円仁は、藤原冬継の権力をバックに、秦
一族の力を借りることができた。東北の人びとの心をつまむには、当時、慈覚大師円仁が
最適の人物であったのである。また、延暦寺としても、東北という新たな希望の地に、天
台宗の普及を図る事は最澄の夢でもあったのだ。朝廷と天台宗が一体になって、立石寺の
建立と東北地方における人心の安定を図るために全力を投入したのである。
立石寺の建立を慈覚大師円仁に命令し、財政的にも支援したのは、時の権力者藤原冬継で
ある。藤原冬継は父・内麻呂の薫陶を受け、父を非常に尊敬しいたらしく、父の死後、そ
の追善のために、藤原氏の菩提寺・興福寺に南円堂を建立している。父・藤原
内麻呂
(ふじわら の うちまろ)は、桓武・平城・嵯峨の三帝に仕え、いずれの天皇にも信頼さ
れ重用された。伯父である永手の系統に代わって北家の嫡流となり、傍流ゆえに大臣にな
れなかった父・真
より一階級上の右大臣に至り、平城朝∼嵯峨朝初期にかけては台閣の
首班を務めた。また、多くの子孫にも恵まれ、後の藤原北家繁栄の礎を築いた不比等に匹
敵するような人物である。若い頃より人望が厚く温和な性格で、人々は喜んでこれに従っ
た。仕えた代々の天皇から信頼が篤かったが、下問を受けても諂うことはなく、一方で天
皇の意に沿わない場合は敢えて諫めることはなかった。十有余年に亘って重要な政務に携
わったが、過失を犯すことがなかった。人々からは非常な才覚を持つ人物と評されたとい
う。こんな逸話が残っている。他戸親王が皇太子の時に悪意を持ち、名家の者を害そうと
した。踏みつけたり噛みつく癖のある悪馬がいたため、親王はこの馬に内麻呂を乗せ傷つ
けようと試みたが、悪馬は頭を低く下げたまま動こうとせず、
を打たれても一回りする
のみであったという。
なお、立石寺(山寺)については、私のホームページをご覧戴きたい。随分昔に創ったも
のであり、あまり見栄えが良くないけれど・・・・。
http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/risshaku.html
http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/yamadera.html
http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/enbanji2.html
9、中尊寺と慈覚大師
中尊寺(ちゅうそんじ)は、平泉の文化を色濃く残すものとして、2011年6月に、毛
越寺とともに、世界遺産に登録された。浄土思想を表す建築や庭園及び考古学的遺跡群が
その登録理由になっている。つまり、平泉の浄土庭園は、アジアからもたらされた作庭概
念との交流がうかがえ、その後の仏堂・庭園に影響を与えたこと。平安時代末期約100
年にわたり独自に発展させた仏教寺院・浄土庭園は、現世における浄土を具現化したもの
であり、その文化が現代に息づいていることが評価されたのである。
さあそこでだ。そもそも浄土とは何かということである。浄土思想というものはたいへん
奥が深い。哲学的にも考えねばならないところがある。しかし、浄土について哲学的な話
をしている人は、私は中沢新一をおいて他に知らない。したがって、ここで、まず中沢新
一の「浄土論」を紹介しておきたい。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/nakajyou.html
さて、浄土思想とは誰が始めたのか、ということを少し話をしておきたい。一般に、浄土
思想といえば、源信や法然や親鸞を思い出すだろう。しかし、それは違うのだ。浄土思想
の源流に慈覚大師円仁がいるのである。すなわち、浄土の思想は、慈覚大師円仁から始ま
り、元三大師、源信(げんしん)でほぼ完成し、やがて法然、親鸞へとつながっていくの
である。
浄土思想の源流に慈覚大師円仁がいる。比叡山の浄土教は、承和14年(847年)唐か
ら帰国した円仁(えんにん)の・・・・常行三昧堂(じょうぎょうさんまいどう)に始ま
る。金色の阿弥陀仏像が安置され、四方の壁には極楽浄土の光景が描かれていた。修行者
は、口に念仏を唱え、心に阿弥陀仏を念じ行道したのである。この念仏や読経(どきょ
う)は曲節をつけた音楽的なもので、伴奏として笛が用いられたという。声美しい僧たち
がかもしだす美的恍惚的な雰囲気は、人々を極楽浄土への思慕をかりたてた。また、熱心
な信仰者のなかには、阿弥陀の名号を唱えて、正念の臨終を迎え、臨終時には紫雲(しう
ん)たなびき、音楽が聞こえ、極楽から阿弥陀打つが25菩薩をひきいて来迎(らいこ
う)するという、噂(うわさ)も伝えられるようになった。この比叡山は円仁によって始
まった常行三昧堂(じょうぎょうさんまいどう)の行道が源信に引き継がれ極楽浄土の思
想が「往生要集」として確立するのである。この辺のことは、私のホームページがあるの
で、是非、それを見ていただきたい。宇治の恵心院から横川の恵心院を紹介しています。
http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/esin-in.html
奥州藤原氏は初代が藤原清衡(きよひら)である。清衡の父は、前九年の役の最後の戦
い、現盛岡市でおこなわれた「厨川柵の戦い」で敗れて処刑された藤原経清(つねきよ)
である。経清安倍一族である。安倍一族は、前九年の役、後三年の役を通じて、源頼義や
義家と戦い、多くの戦死者を出し地獄を味わったのである。奥州藤原氏の初代・藤原清衡
(きよはら)はそれら戦死者の霊を慰め、且つ平和を願う心から中尊寺を再興したのであ
る。この理想の世界が極楽浄土世界の建設であった。清衡(きよひら)は豊富な産金、
漆、馬を活用し、中央文化だけではなく、中国文化も取り入れ、平泉文化の礎を築いたの
である。
そして2代目・藤原基衡(もとひら)は毛越寺、観自在王院の建立に着手し、3代秀衡
(ひでひら)は基衡の遺志を継いで毛越寺を完成し、さらに無量光院を建立したのであ
る。こういった、奥州藤原氏の東北地方の平和を願う心がこれらの寺院にしみ込んでい
る。つまり、仏教思想の平和浄土のために建設されたのが平泉文化である。平泉文化こ
そ、これからの日本の文化、否、世界文明の骨格でなければならない。そういう文化の底
流を流れるものは、喜田貞吉(きださだきち)が言うように、長髄彦、アテルイ、安倍
氏、安東氏、奥州藤原氏など、東北人の精神である。
さて、そういう想いを持ちながら、是非、平泉の世界遺産を見ていただきたい。
http://heiwa-ga-ichiban.jp/sekai/sub/sub16.html
中尊寺は、もともとの寺は850年に慈覚大師円仁が創建し、859年に清和天皇から中
尊寺の号を得たと言われている。その後1105年に藤原清衡が堀河天皇の勅により再興
した。先に、「(3)立石寺について」で述べたように、 慈覚大師円仁が実際に東国巡
錫したのは天長6年(829年)から9年(832年)のこととされているので、立石寺の場合
と同じように、誰か弟子をして中尊寺の創建に着手させたのではないか。いずれにしろ立
石寺も中尊寺も、おおむね860年頃に正式な寺院となったのではないかと思う。
平泉世界遺産の心髄は浄土思想にある。そして、浄土思想の源流に慈覚大師円仁がいる。
中尊寺を中心とした平泉世界遺産において、私が慈覚大師円仁にこだわるのは、毛越寺の
常行堂に摩多羅神が存在するからだ。これは慈覚大師円仁の奥州藤原氏の平和主義に対す
る強い思いがないと平泉に摩多羅神なんてものが存在する訳がない。
では、中尊寺に引き続き、毛越寺の常行堂にご案内したい。
http://blogs.yahoo.co.jp/syory159sp/20287208.html
さて、摩多羅神については、すでにこの節の「5、マダラ神はオソソの神か?」に書
いたように、摩多羅神は、「オソソの神」であり、諏訪の「ソソウ神」であるが、
私は、摩多羅神についてさらにいろいろと書いてきているので、ここで、それを是
非紹介しておきたい。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/jyougyou.html
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/eros12.pdf
それでは、毛越寺で行われている摩多羅神祭を紹介しておこう。
http://www.youtube.com/watch?v=J096iXHBaEg
10、阿弖流為(アテルイ)と慈覚大師
私は、今まで東北の長髄彦に繋がる安東氏や奥羽藤原氏のことを述べてきた。東北の長髄
彦に繋がる偉大な人物となると、その他に、阿弖流為(あてるい)がいる。坂上田村麻呂
も偉大な人物であったが阿弖流為も偉大な人物で、お互い敵味方に分かれて戦ったけれ
ど、人間的にはお互い肝胆相照らす仲出会ったと思われ、二人に惜しみない拍手を送りた
い。ここでは阿弖流為に焦点を当て、坂上田村麻呂ではなく、慈覚大師円仁の思いを推し
量ることとしたい。
坂上田村麻呂が創建した京都の清水寺の広い境内の中に、1994年に建立された「阿弖流
為 母禮之碑」(アテルイ モレの碑)がある。これは、 「関西アテルイ・モレの会」に
よって 1994年に建立されたものであり、毎年11月の第2土曜日午前11時より、碑の
前で顕彰と慰霊供養の法要が営まれている。関西在住の岩手県人はもとより、アテルイ・
モレの故郷岩手県奥州市から市長や有志を迎えて、近年は坂上田村麻呂公生誕の伝承地福
島県田村市等からも、
多くの方々に参加しておられるそうだ。「関西アテルイ・モレの
会」では、岩手県人に関わらずアテルイ・モレに関心ある方々の参加を望んでおられるよ
うなので、是非、皆さんも出かけてみては如何でしょうか。
さて、この碑の裏に次のように書かれている。すなわち、
『 八世紀の末頃まで、東北・北上川流域を日高見国(ひたかみくに)と云い、大和政府の
勢力圏外にあり独自の生活と文化を形成していた。政府は服属しない東 北の民を蝦夷(え
みし)と呼び蔑視し、その経略のため数次にわたり巨万の征討軍を動員した。胆沢(いざわ:
岩手県水沢市地方)の首領、大墓公阿弖流為(た のものきみあてるい)」は近隣の部族と連
合し、この侵略を頑強に阻止した。なかでも789年の巣伏(すぶせ)の戦いでは、勇猛果
敢に奮闘し征東軍に多大の損害を与えた。801年、坂上田村麻呂は四万の将兵を率いて
戦地に赴き、帰順策により胆沢に進出し胆沢城を築いた。阿弖流為は十数年に及ぶ激戦に
疲弊した郷民を憂慮し、同 胞五百余名を従えて田村麻呂の軍門に下った。田村麻呂将軍
は阿弖流為と副将磐具公母礼(いわぐのきみもれ)を伴い京都に帰還し、蝦夷の両雄の武勇
と器量を惜しみ、東北経営に登用すべく政府に助命嘆願した。しかし公家達の反対により
阿弖流為、母禮は802年8月13日河内国で処刑された。
平安建都1200年に当たり、田村麻呂の悲願空しく異郷の地で散った阿弖流為、母礼の
顕彰碑を清水寺の格別の厚意により田村麻呂開基の同寺境内に建立す。
両雄以って冥さるべし。』・・・と。
では、清水寺の境内を見て回りたい。このホームページがお勧めです。
http://small-life.com/archives/09/04/2820.php
さて、阿弖流為の処刑は坂上田村麻呂の意に反し、当時の公家達はケシカランとお思いの
方もおられるかと思うので、その点についての私の考えを申し上げておきたい。
阿弖流為と坂上田村麻呂とは、深い友情に包まれ、強い信頼関係にあったようであり。坂
上田村麻呂が彼らを伴って、帰還した時、坂上田村麻呂は、藤原冬嗣に助命を嘆願したと
言われている。しかし、その甲斐もなく、阿弖流為と母禮は、処刑されてしまう。そこ
で、私が申し上げたいのは、藤原冬嗣の判断は当然の判断であって、東北地方の平和な世
界の構築の基礎になったということである。考えても見てください。あれだけの大きな戦
いをやったのである。大勢の人が戦死した。戦犯が出るのは当然だ。問題は、その後の戦
後処理というか、阿弖流為と母禮の霊を慰め、どのような平和な世界をつくっていくかで
ある。そこで、藤原冬嗣が考えたのが、立石寺のは建立であり、慈覚大師の力に頼ること
であった。立石寺は、当時最大の国家ブロジェクトとして建立されたのである。そのそう
責任者が慈覚大師円仁である。藤原冬嗣の何と知恵に満ちた措置であろうか。
岩手県奥州市水沢区黒石町に黒石寺という古刹がある。この寺は、その前身を東光山薬師
寺といった。 東光山薬師寺は、729年(天平1年)、東北地方初の寺院として、行基が
建立したものである。その後、嘉祥2年(849)、慈覚大師円仁が東大寺を出て錫
(しゃく)を東奥に曳き、堂背の大師山に至り、石窟に座禅し、行基菩
薬師寺を石窟の蛇紋岩に見て黒石寺と、北の山中に妙見祠があること
の霊夢を感じ、
から山号を妙見山
と号して再興、四十八宇を造った。これにより全山天台宗とし、薬師如来を本尊とするが
故に薬樹王院とも号したのである。
歴史的に古くから行われているという点からは、「諏訪の御柱祭」、「京都の
園祭」、
「胆沢のはだか祭」が日本三大祭だ! 諏訪大社の神は「ソソウ神」であり、
園神社の
祭神はスサノオであり、大國魂大神(おおくにたまのおおかみ)である。
まず、
園祭の源流を眺めておこう。「剣鉾差し」というのがあり、もっとも有名なのが
粟田神社の粟田祭は千年以上の歴史があり、剣鉾は
園祭の山鉾の原形とも言われている
ようだが、それはどうであろうか。平安時代に入り御霊(ごりょう)信仰と結びつき,貞
観11年(869年)の
園御霊会の創始の際には、神泉苑(しんせんえん)に66本の
鉾を建て疫病退散の祈願が行われたとされている。また、京都では、多くの神社で「剣鉾
差し」が行われている。これらはすべて疫病鎮めの祀りである。これらのことについて
は、次のホームページに詳しく説明されている。
http://www.kyobunka.or.jp/gaiyou/ken.html
「諏訪の御柱祭」については、すでに述べた。ここでは「胆沢の黒石寺はだか祭」の歴史
性について述べたい。「諏訪の御柱祭」の歴史をたどるためにキーワードは、旧石器時代
の「柱とホト神さま」に対する信仰である。その諏訪大社の主神「オソソ神」を知って、
慈覚大師円仁は、後戸の神「摩多羅神」を考え出した。そして、東北地方における天台宗
の中核寺院として中尊寺を建立した。そして、その頃、胆沢方面にも出かけて、黒石寺を
建立し、「はだか祭」を東北の英雄・阿弖流為と母禮の鎮魂の為に考え出したのではない
かと、私は考えている。諏訪地方と東北地方に共通するキーワードは、かって物部氏が統
括していた探鉱と金属の製錬に関わる技術者集団である。その後、物部氏が蘇我氏に打ち
滅ぼされてからは、秦氏がこれを統括するようになるので、これらの技術者集団には秦氏
の血も混じっている。したがって、これらの技術者集団は新羅系の人びとでもある。慈覚
大師円仁は新羅とのご縁の深い人であるので、東北地方の人びとの心に響く教えを広める
ためには、慈覚大師ほどうってつけの人はいない。東北地方というのは、奥州藤原氏の治
めていた時代、実に平和な世界が創られていた。というのも、坂上田村麻呂がその先
を
付け、慈覚大師円仁がそれを完成をしたのである。
先ほども申し上げたが、歴史的に古くから行われているという点からは、「諏訪の御柱
祭」、「京都の
覚大師円仁が
園祭」、「胆沢のはだか祭」が日本三大祭だ! 胆沢のはだか祭は、慈
阿弖流為や母禮の鎮魂のために考え出したものであり、阿弖流為や母禮を
牛頭天王に見立てている。牛頭天王、すなわち、阿弖流為と母禮であり、阿弖流為と母禮
は東北の英雄であ るという訳だ。秦河勝の鎮魂の祭として、慈覚大師円仁は「牛祭」を考
え出した。これも主役は牛だ。「胆沢のはだか祭」も牛。新羅を熟知していた慈覚大師円
仁
が、どういう想いから牛を主役にしたのか、不思議だが、こういうことを発想できる
人は、慈覚大師の他には誰もいない。では、次に「蘇民祭」における鎮魂祭の部・「別当
登」をご覧戴きた い。
http://www.youtube.com/watch?v=9LZv1XRwVs8