私は近所のホテルの温泉に行くのを

ペルソナを剥ぐ
同じ事が重なると人は平気でいられない。
私は近所のホテルの温泉に行くのを日課としている。散歩の途中、近所の牧
場で休む。牧場は観光施設にもなっていて、レストランや売店を営んでいる。
鱒の釣堀もある。
私は自販機のビールを池のほとりで飲んでいた。子馬を連れた牧場の従業員
が側を通った。
「何歳なの」
「四歳です」
「子馬ではないのだね」
馬は小さい。手綱を引く若い女の背丈ほども無い。小型の馬で、種類が違う
のだ。驢馬とも違う。
なだらかな坂道を登る。ホテルに向かう。前方から人影がやってくる。一本
道だから、やがてすれ違う事になる。黒い犬と若い女だ。一度、すれ違った事
がある。犬は買主を引きずるようにして、私に近づいた。黒光りする犬の迫力
は相当なものだ。私は身構える。
帽子にシャツの若い女は「こんにちは」と、言う。今回も、犬が私に近づこ
うとする。今にも吠え掛かりそうな気配だ。
「何歳なの」
「四歳です」
「もう大人なのだね」
女の小さな顔は帽子の下ではっきりしない。それでもほっそりしていて良い
感じだ。
「怖そうな犬だね。好奇心が強いのだね」
「皆さんそうおっしゃいます」と、女は言った。
「私は平気だよ。それじゃ」と、手を振って別れた。
馬は四歳だった。犬も四歳だった。偶然だ。
人の影が無い山道でも、小動物や虫なら幾らでも居る。小さな蛇や蜥蜴を見
かけることが多い。路上に轢死した子蛇。何度もタイヤに轢かれているので、
薄紙に見える。
四という数字から「死」という言葉を連想した。最近は死ぬ事をしばしば考
える。体調が悪い所為もある。恋人の麻子と会えない所為でもある。寂しい。
空しい。
心臓発作を何度も起こしているので、死の予感は何時もある。死が恐ろしい
というのではない。死の正体を見極めないうちに死ぬのは残念なだけである。
麻子とも別れたくない。私が死んだ後、麻子は如何するだろう。若いから、男
を見つけることができるだろう。男を愛する事ができるだろう。
ペルソナ。
仮面と言うものに心惹かれる人は多い。私とて例外ではない。何故なのか。
何故、人はペルソナに惹かれるのか。
性急に理由を求めるのなら、人はペルソナを必要としているのだからと言え
る。人は狼の末裔である。狼は集団で狩をする。人は集団的な存在である。個々
の人間は孤独だとしても。狼の末裔は集団、組織なしでは存在し得ない。
仮面は誰のためのものか。当然、自己のためである。自己を防御しなくては
ならないのは、他者が存在するからだ。ペルソナとは他者が存在する世界での
自己のための矛である。他者が地獄かどうかは知らないが、この世の不幸は他
者が運ぶ。
いきなり、仮面の話に移ってしまった。呆けたわけではない。何度かの心臓
の発作の際に私は幻覚を見る。仮面を被った人物が現われるのだ。
日帰り温泉のホテルに到着。フロントでモンペ姿の従業員に五百円コインを
渡す。エレベーターに乗り風呂場に行く。
脱衣所の入り口に、今日はスリッパが脱がれていない。入浴の客は私が独り
なのだ。硫黄のにおいが立ち上る白濁した湯船に沈む。今日は白いが、日によ
って湯の色合いが変化する。青だったり、緑だったりするのだ。
窓から新緑の山と空が望める。
苦しくなる。経験上わかっている。心臓発作なのだ。急いで、湯船から這い
出ようとするが、思うに任せない。体が白い湯の底に沈んでゆく。死ぬのだな
と思いながら、意識が消えてゆく。
次に気がついた時は、湯船の中ではなかった。どうやら裸のまま横たわって
いるらしい。脱衣所かもしれないが、はっきりしない。
誰かの視線を感じる。帽子の若い女だ。もう独りはポニーテールの女だ。ふ
たりの女は目を開けた私を見ている。安堵している風ではない。観察している
目だ。看護師なのだろうか。
「ありがとう。助けてくれたのですね」と、私は言った。声が出ていないよう
だった。私の唇が動いている感じがしない。自分の声が耳にも響かない。
「助からなかったの」と、帽子の女は言った。やはり女の唇も動いていない。
私はどうなったのか。死んでしまったのか。ふたりの若い女は死神なのだろ
うか。ふたりが死神だとして、私は生きているのか。死んでしまったのだろう
か。生と死の中間にあるのか。
起き上がろうとする。どうやら体は動く。私は素裸のようだ。特に恥ずかし
くも無いので、平気だ。
「お世話になって・・。急に苦しくなった」
今は何とも無い。胸の苦しさは消えている。
「さあ。行きましょう」と、帽子の女が言う。私は素直に立ち上がる。
ふたりの女は私の体に、ゆったりと布を巻いてくれる。何処に行くのか言わ
ない。不安でもあるが、既に決まっているのか。やはり、私は死んでしまった
のか。死に行く途中の幻覚なのか。ふたりの女は死神なのだろうか。
何処に行くのだろう、と思う間もなく、私は森を歩いていた。何時も散歩す
る別荘地の森とは少し違っている。どのように違うのか、はっきりしない。ふ
たりの女の独りは前方を、もうひとりは私の後ろを歩いているらしい。被った
帽子が浮き上がっている。女の足取りがそれほど軽いのか。森の光の所為か。
女達は無言である。私も口を利いてはいけない気がして、黙って歩いているだ
けだ。森の小道は何処までも続いている。歩いても、歩いても周りは変わらな
い。
「疲れてしまった。少し休みたい」と、私は言った。
「休みましょうか」と、後ろから女が返事した。
休むといっても、下草が生い茂る、湿った地面だ。腰を下ろす場所はなさそ
うだ。私は樹木の一本に寄りかかった。体は少し楽になる。纏った布を通して
硬い樹皮の感触が伝わってくる。
「何処まで行くのだね」
「まだ、遠いわ」
「くたびれて歩けそうも無いな」と、私は弱音を吐く。
何時の間にか馬が現われる。乗り物を用意してくれたらしい。何処に居たも
のか。不思議な女達のすることだから、不思議ではないだろう。
馬ではなかった。馬のように見える四本足の動物だ。首の先の頭は犬なのだ。
顔も短いし、耳も垂れている。犬の顔だ。胴体と足は小さな馬のようである。
私は奇怪な動物にまたがった。動物の匂いと体温が伝わってくる。ざらつく毛
の感触も気持よくない。歩かなくても良いので、助かるが。皆良い事ばかりで
はないだろう。ポニーテールの若い女が動物の手綱を引いている。
夢か死ぬ前の幻覚なのだから、情況は私が作り出したものに違いない。私が
作り出したものなら、麻子が現われないのはおかしい。麻子が現われても良さ
そうなものだ。
森を抜けたら、ふたりの女も、奇怪な動物も消えていた。私は草原に出てい
た。私の膝頭ほどの草が見渡す限り広がっている。太陽はどこにあるのか。明
るくて気持が良い。体の中を風が吹き抜ける。疲労は何処にも無い。体は軽く
風に流されそうだ。遂に、実体がなくなったのか。
私は少しも悲観していなかった。自由に動き回れるのが嬉しかった。私は浮
き上がり、草原を流れていった。意志は残っていて、動きたい方に流れた。完
全に思うように行くのではなかった。少しずれている。
前方に低い樹木がある。私は樹木に向かう。流れていくが、真っ直ぐに進む
事は出来ず、樹木は離れたり、近づいたりする。私は樹木の前で、私を固定し
ようとする。足が地に付かない。
樹木の前に仮面をつけた人物が居た。仮面は男のようにも、女のようにも見
える。服装も男か女か判然としない。色鮮やかな布をたっぷりと使った、民族
衣装の様である。
さっきまで一緒だった女のような気もして、私は声をかけた。
「私を待っていたのかい」
仮面の人物は黙っている。こちらを見ているようでもあるが、私が見えてい
ないかもしれない。
女は誰なのか解らないまま、非常に惹かれるものを感じる。馬の女や、犬の
女ではない。もっと親しい、懐かしい感じがして、胸が締め付けられそうだ。
懐かしさで涙が溢れそうになる。
やっと会えたのだ。
女は麻子だった。白い仮面をかぶっているが、仮面の下には麻子の顔がある。
「それを取って、顔を見せておくれ」
「厭なの」
「どうしてだい。せっかく会いに来てくれたじゃないか」
私は麻子に近づいて、仮面を取ろうとする。距離は近い。
「それ以上近づいてはだめよ」
私には何故なのか解らない。
女は麻子に違いないと思っていても、近づかないで、と拒絶されると、私は
疑いの心を抱く。麻子が私を拒絶することなどあるだろうか。仮面の女は麻子
に違いない。声や佇んでいる雰囲気が疑いようもない。疑いようもないのに私
は疑っている。
「せめて一緒に居よう」と、私は懇願する。
「こんな姿の私と」
私は仮面の女を麻子だと信じている。麻子なら一緒に居たい。
風か吹いて、辺りの木々の葉が一斉にざわめいた。
「一緒に歩こうか」と、私は言った。
歩いて、何処かに行かなければならない、と思ったのだ。何時か、麻子は仮
面を脱いでくれるだろう。