444号 11月発行 - 東京慈恵会医科大学同窓会

会 費 年 額 6,000円
(購 読 料 1,200円 含 )
同 窓 会 員 にご 注 意
秋 の叙勲
き
第 87 回 解 剖 祭 行 わ る
平 成 4 年 1 月 11 日︵土︶
午後3時 より
慈 大 同 窓 会 館 二階
新年名刺交換会
三浦節夫 ︵昭17︶ 熊本
熊本精神病院長
●勲五等瑞宝章
二瓶 實 ︵昭13︶ 福島
元河沼郡医会長
慈恵医大名誉教授
●勲五等双光旭日章
平成三年度秋の叙勲で本学
金川 透 ︵昭10︶鹿児島
元鹿屋市医理事
と
と ころ
会員各位は万障お繰り合わせの上ご出席下さい
山下厚相は、看護婦が足りない
現在の低医療費 政策 に加え て、 ため十分な医療ができない状態は
マンパワーの確保を 困難 にし、労
なるほど政府は来年度予算に国
立病院の看護婦などの報酬や待遇
低医療費政策はチーム構成メ ン 改善の予算を計上しているが、単
の振替で相殺され、五十六年以来
を含んでいない。その結 果コメデ 療の八〇%を担当している民間の
高 ら か に談 笑
最後に本多芳男教授は ﹁体
中村純次
客員教授を委嘱する
︵形成外科学︶
講師 ︵但し無給︶浜口欣 一
助教授 ︵但し派遣中︶を委嘱
を使 って大学の現況を約 三〇 らかな 談笑が続 いた。 このク
す
る
︵第二病理学︶
分間説明し、写真撮影の後、
事の佐藤英夫 君、
八家正俊君、
ラスは声の通る人が多く、幹
第 4回 理事会報告
討、決定した。
が演説をしたが 、いずれも凛
た。閉会後 一同はカトレアに
新年名︵
刺1
交︶
換会は平成4年
の御健勝を祈 って﹂と阿部 学
吟味された和食を 前に懇談 の
席を移して二次会を 行な い、
1月11日︵3
土時
︶開催
長が乾杯し、ホステスが運 ぶ
輪が広が った。例年に較 べて
さらに翌日は箱根観光を計画
第46回︵
定2
期︶
支部長会議は平
然として年を感 じさせなか っ
11月14日開催
1今後の行事予定に ついて検
して懇 親会 に入 った。﹁
皆 様 国分義行君、松 田文太郎君ら
場所をゴールデンカ ップに移
大 学 招 待 50周 年 同 級 会
二十六日 ︵土︶に行われた。
このクラスは三月と十二月に
分けて卒業しているので前期
︵三月会という︶は既に五月
しているという元気さ で、と
導入、医師国家試験は平成五
いて、例年通り学生の自動車
て東医体協力感謝の挨拶に続
衣笠学生部長からは、改め
の個人面談も行わ れた。
介があり、また各学年担 任と
れ、新津教授より各教授の紹
最後に懇親会がベラで催さ
例にな った。
による国領祭資金カンパが恒
があ った。また女子学生委員
兄も協力し てほし いとの要請
への迷惑から絶対 に禁止、父
通学は、違法 駐車 による近隣
ための防水工事を承認。
2同窓会館 二階天井雨漏れの
成4年10月3日︵開
土催
︶
︵
関連記事後掲︶
うてい七十四才を過ぎ た人達
った。
の集りとは思えな いくら いだ
にパレスホテルで行われ、今 も特に元気で食欲も旺盛 、大
回集まったのは後期 ︵
十二月 学の用意した御馳 走も殆ど食
会︶の三十四名と同伴者十七 べ尽くした程だ った。突然と
名だ った。なお大学から理 してカリフ ォル ニアから帰朝
事 ・顧問九名と今野享彦同窓 して参加し た藤森克 己君、大
会長が出席した。まず福寿の 手術から恢復し て和服で参加
間で阿部正和学長がスライド し た伊藤稔勝君らを混じえ高
国 領 キ ャ ンパ ス の 見 学 を 兼 ね て
スポー ツも奨励など多彩な話
年度より 三月 に実施、四月発
があ った。
表、医学博士 の呼称を改め、
今迄 の学年制を止め単位制の
ーター教育 の強化、将来は
父 兄 会 秋 期 総 会 開 かれ る
十 一月九日︵、
土父
︶
兄会秋期
総会が、父兄百余名の参加を
得て国領校で開かれた。
村岡副会長司会で、まず塩
塚会長が挨拶、東医体主管校
医 学 随 想 、 エ ッ セイ 、 紀 行 文 、趣 味 な ど 何 でも 結 構 で す か
ら 、 気 軽 にご 投 稿 下さ い。
︵
九 〇 〇字 ・1
2月 21 日︵土
必︶
着 の こと ︶
炉〃
辺 談 話〃募 集
同 窓会 振 興基 金 に
十 二月会 より 三 〇万円
として多大の父兄協力 への感 博士 ︵医学︶とする。次年度
謝、学年別父母の会の紹介等 入学募集人員は百名、四年制
に続いて、諸川副会長が会務 医学部看護学科は来春より開
報告、大学図書購入資金援助 校で 一学年 三〇名、今年 一年
の増額、父兄会予算の 一部繰 生の前期試験成績の分布は、
このたびの卒後五十周年を った。又岐阜在住の村田正斉
り入れの承認、平成三年度新 上位 ・中間 ・下位が平均化、 記念して、十 二月会 ︵昭16後︶ 君 ︵昭14︶より十万円の寄附
役員の紹介、前岩沢会長の顧 教養課程では勉学のみならず より三〇万円の大口寄附があ があ った。
問承認等が行われた。
新津教学委員長からは、総
合成績第三位の好成績を納め
た東医体協力への謝辞、学業
関係では 一般教養課程と専門
課程の区別を廃止、六年制 一
貫教育の実施、 一部カリキ ュ
ラムの単位数の変更、コンピュ
医 薬 品 を通 じみ な さ ま に ご奉 仕 す る ス ズ ケ ン グル ー プ
学
内掲示
11月 1 日
の中を謹んで拝見することは
非常に役立つものであり、畏
客員教授 舩橋知也
敬の念を持 って御遺体に接す 客員教授 ︵委嘱︶を解き客員
同窓名簿出版会より皆様 りますが、本学同窓会とは
十月二十八日第八十七回解 ついて自ら考える場であ る。 導師は ﹁
心からお勤めをさせ るのが常である﹂と御遺体の 教授の称号を贈る
に﹁
東京慈恵会医科大学診 一切関係なく当局もた いへ
剖祭は薄曇りの芝増上寺で荘 学生はそれが多くの人 の善意 て頂いた。想像もしなか った 貢献について述べ盛会裡に法
︵眼科学︶
重に行われた。昨日の雨で洗 により始めて可能になる こと 医学の発展は諸霊位の尊い犠 要を終 った。
療科目別名簿﹂の購入案内 ん迷惑しておりますので、
助教授 有廣忠雅
れく
ぐれもご注意下さい。
われたような玉砂利を踏んで を知りまた御遺体を師 と思 っ 牲のお陰である﹂と述べ全員
︵一万五千円︶がいってお
教授 ︵
定員外︶を委嘱する
集ま った参加者は約 一、○○ ている﹂と祭文︵後掲︶を述べ、 で十回の唱名を行な った。
︵産婦人科学︶
に看護学科が素晴しいスター ○人、導師第八十五世中村康
助教授 ︵但し派遣中︶
委員長をはじめ、大学関係者
こおりなく行われた。
国領キ ャンパス内に建築中
に竣︵
工木
式︶
が執り行われた。 後三時より新校舎二階に設置 席を移し直会に入 った。直会
神事に続いて 二階大教室に
であ った医学部看護学科校舎
病院をはじめ大学各機関から
当日は天候にも恵まれ、看 された神前において、名取理 には医学科国領校、附属第三
棟が、約十三 ヶ月の工期を 経 護学科の門出を祝福するが如 事長、阿部学長、吉武設置準
学部看護学科を設置すること
とした。このことは本学の歴
史に 一頁を 加 える こと であ
る﹂との挨拶 と、設計 ・施 工
各 社に対する謝辞およ び開学
準 備に携わ った教職員 に対す
る ねぎ らいの言葉が述べられ
た 。続 いて阿部学長 による乾
杯 の 発声 が あり 祝 宴に 入 っ
た 。楽し い会もまたたく間に
予定 の時間が過ぎ、馬詰委員
長 より、﹁文部省 の認 可を確
信し ている。簡素な美を備え
た新校舎で、吉武教授のもと
酬改正の財源は薬価基準の見直し
昭和五十年代後半より、診療報 働 条件を 悪化している。
た。
る 配分 の機 能し か持 たな くな っ メデ ィカルの待 遇改善を 阻害し 、 いと述べている。
を、政府の決定で規制され、単な 件 費が含まれていないことが、 コ 求め、予算獲得に全力を尽くした
来 の使 命 である 医療 費 の改 正幅 現医療費体系に コメデ ィカル の人 不自然、最重点事項として理解を
てしま った。さらに中医協は、本
制策が取り入れられるようにな っ と な っている。
●勲三等旭日中綬章
犀川 一夫 ︵
昭19︶ 沖縄
元国療沖縄愛楽園長
●勲四等旭日小綬章
近藤 勇 ︵
昭18︶ 東京
を思い、慎重審議の結果、医 関係者は次の通り
向上と医学教育の望ましい姿
り、﹁本学の 看護教 育水準 の
た。この席上、名取理事長よ
者約一三〇 名 の盛 会と な っ
多くの教職員が出席し、参加
医療に従事する マンパワー確保 望者 は年間千 五百名前後が減少し
事者 の労働条件 の悪さ に加え て、
の困難さが問題化して、すでに永 続 けていると いう 。これは医療従
い年月が経過している。
れる。現状 では益々 マンパ ワーの
現在、年間約三万五千名の看護 待 遇の悪さが背景 にあると考えら
婦と、約三万名の准看護婦が誕生
件の改善を 阻害す る。この悪循環
によ って浮いた差額分の技術料 へ バーを確保するに相応し い人件費 に国立のみであり、現実に国民医
務に従事するわけではなく、特に
ィカルの人材が他のサービス産業 医療従事者に対しては何等の配慮
り、
その養成計画もままならない。 において、少なくとも国立並みの
に流れ、医療現状の確保はもとよ も見当らない。速やかに診療報酬
こうした状況を放置すれば、国民 待遇改善が可能になる実質的引き
一〇年間の実質的な引き上げ幅は
本 来、出 来高払い積み重 ね方式
ない。その結果平成 二年度、政管
トータルで公称約 二 ・六%に過ぎ
という医学 ・医術 の進歩と 国民社
は何としても 絶た ねばならな い。
学 コースに進むことになる。
一方年間四万五千名以上の看護
って看護婦に就職難というものは
婦が離職してゆくといわれる。従
︵E︶
であ ったはずの現行点数体系は 、 黒字、組合健保もトータルで 二二 医療 の 質的 低下 が目 に見 えて く 上げが何よりの急務である。
る。羽田日医会長の言葉である。
昭和五十年代より露骨な 医療費抑
九 四億円と元年度の 二倍もの黒字
存在しない。それな のに看護 婦志
会 ニードに対応できる良 き仕組 み 健保は 三四三二億円と過去最高の
准看護婦では、その半数以上が進
しているが、これらが全て医療業 確保 は困難となり 、それが労働条
八︱三︱一 であ った。阿部正和学長は﹁解
恒例の大学招待卒後五十周
東京慈恵会医科大学
剖は医学生が通過しなければ 年同級会は、今年五十周年に
医学部看護学科設置準備室 ならない関門、人の体との出 なる昭和十六年卒業生を招い
内線2610・
会2
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テルで十月
と、伊豆美神社小町宮司によ と挨拶があり閉会となった。 堂を埋め尽くした。今年新し
る神事がおごそかな中、とど
なお新校舎の竣工と共に設 く加わ った霊位は六 一一霊
置準備室も左記に移転した。 位、明治十五年八月以来二三、
〒18東
2京 都調布市国領町 七二〇霊位に捧げられた供養
国領キャンパス内地
に上 五階建ての医学部看およ護
学
舎
棟ト竣
工
を切る
ことを夢見ている﹂ 隆大僧正のもと金色に輝く本
び施
工各科
社代校
表参列
のも
発 行 所 慈 恵 医 大 同 窓 会
東 京都港 区西新橋
3 − 25− 8電話
(
3431)6 9 7 1
編 集 発 行 人 南 雲 今 朝 雄
左 よ り吉武 教 授 、小 森 理 事 、馬 話教 授
三和 化 学研 究 所
スズケ ン
毎 月 1回 25日 発 行
購 読 料 一 部 100円
て完成し、大安の十 一月七日 き秋晴れの 一日とな った。午 備室長、馬詰設置準備委員会
阿部 学 長 に よ り乾 杯
医療 従 事 者 の
充 足を 願 う
論説
医薬品製造販売
株式
会社
医薬品総合商社
株式
会社
第 4 4 4号
昭 和 32年 9月 12日
(
第 三 種 郵便 物 認 可)
聞
新
大
慈
平 成 3 年 1 1月 2 5 日
(1 )
大滝紀 雄 君 ︵
昭 17 ︶に
な いことを つきとめ、当時の
に足を運び、この地に間違い
から京橋図書館や郷土資料館
小林佑吉会員 ︵昭28︶は
よりお待ちしております。
生方のセンター御利用を心
節となりました。会員の先
秋も大分深まり勉学の季
二十名でした。十月の月例
九月中のセンター利用者 は
医師会会員 は十二名です。
会会員 は五十 三名 、中央区
三二三名 で、うち港区医師
九月末現在 の登録者数は
ォンサービスについて御意
が討議されました。テレフ
い録音テープのテー マなど
テープの音質の問題、新し
当医不在の際の対策、録音
生 涯 教 育 セ ン タ ーだ よ り
阿部教授を 通じ て名取学長に
生涯教育センターを百回以
喜びの声
として、五医師会と八個人が 四丁目教文館横で、慈恵医大
この度図らずも日本医師会 選ばれた。私は ﹁医学史の研 発祥の地の記念碑除幕式が行
最高優功賞受賞の光栄に浴し 究 に貢献した功労者として﹂ われたことである。元鎗屋町
設されたのであ る。もう 一つ
進 言、大 学当局 により碑が建
上利用されたので、その認
り ﹁ポンペ顕彰記念 会﹂を 開
催する原動力とな った。そし
同 席の も と に行 わ れま し
は第四内科谷本普 一教授の
﹁気管支喘息の病態と治療
やすい心電図の読み方全4
購入致しました。①わかり
同窓会振興基金からの寄
下さい。
いずれも母校の強力なバ ック
田 村 裕 君 、都 知 事 よ り 表 彰
間私の脳裏に強烈な印象を与
附で以下のビデオテープを
行われ、町田市在住 の田村裕
巻②頭部編CT像の読み方
の現況﹂です。
全4巻③小児の腹部 ・胸部
た。席上、小林会員よりセ
テレフ ォンサービス委員
X 線写 真 読影 の コツ全 3
ア ップがあ ったお陰と深く感
会が十月十七日 ︵木︶に行
巻、その他に医事新報 ﹁質
えたことが二つあ る。 一つは
た。本郷元夫会員 ︵昭26︶
なわれました。テレフ ォン
疑応答内科系疾患Q&A﹂
君 ︵昭和25︶が都知事 より表
も生涯教育センターを五十
サービスは学術的 質問に対
ンターに御寄附を戴きまし
回以上利用されたので、五
全10巻も購入致しました。
謝し ている。
日本 医師 会 から
研 究助 成費 が贈与 さ る
し専門担当医が回答する特
の 移動 計 画が 延 期さ れた た
と、 一方センターのU1棟 へ
の小動物で占められていたこ
年度同様 マウ スやラ ットなど
たこと、その九〇%以上が昨
より 三千匹程少ない数であ っ
十回利用認定証を授与致し
画する際には①動物に与える
ストレスや苦痛を最小限にす
るよう実験計画を吟味するこ
と。②使用する動物の数を縮
第 30回実 験動 物 慰霊 祭
色ある事業の 一つです。担
昭和五十五年五月 一日、銀座
摩支部長であり、今回は東 京
都の国保審査委員会委員を 二
十年以上の長きに亘り勤 務し
た功績によるものである 。
し上げる。 ︵昭52︶
用され 、動物実験を立案、計
動物センター利用者の登録制
導入に ついて触れ、関係各位
のご理解と協力を頂きたいと
挨拶された。最後に動物 の霊
る。現在みえている問題は氷
より大きく変わると考えられ
物の数は 一万八千匹と昨年度 に対して献杯 が行われた 。
施されるよう希望しますと挨
拶をされた。また林実験動物
センター長よりこの 一年間に
本学の動物実験で死亡した動
め約 一五〇名 の教職員の参列 小する努力をすること。③動 め、 一部空調設備や犬舎等今
縮制御に関する研究
i験
tを
ro後 の課 題 が新 た に加 わ った
○森山寛 ︵
耳鼻咽喉科学助教 の中、栄立院福西賢兆住職の 物に代わるin v実
授︶内視鏡使用による副鼻腔 読経 のもとしめやかに執り行 検討すること。以上三つの基 が、他の飼育装置は毎年着実
われた 。
その中で阿部学長は、 本項目が書かれている本学の に更新され、大きな成果を上
手術術式の開発
我 国の実験動物界 の基礎を築 実験動物指針を再度熟読し、 げているとの説明があ った。
今後とも動物実験が適切に実 又来年度より実施される実験
する細胞間相互認識機構︱リ
ンパ球の再循環機構を中心と
第30 回実験動物慰霊祭が十
一月九 日出午後 三時より同窓
して︱
○栗原敏 ︵
第二生理学教授︶ 会館 二階 で阿部正和学長、林
心筋細胞内Ca
濃度調節と収 伸 一実験動物 センター長を始
された。氏名は次の通り。
○田中寿子 ︵微細形態研究部
教授︶生体内細胞移動に関与
ました。
彰をうけた。同君は現在南 多
のこ の場所は、私がその前年
私 は昭和五十 三年 四月から
た。去る十 一月 一日、日本医 そ の選 に入れたが、ま ったく
師会で行われた第44回日本医 の 幸 運で 夢 のよ うな 気 がす
渉史 に関する シンポジウ ム﹂ 55年 ∼57年横浜西ライオンズ 師会設立記念医学大会に出席 る。私の周囲にも研究熱心で
に登壇 してそ の研究を確固た ク ラブ会長、58年第84回日本 し、羽田会長より賞状と記念 本賞受賞 にふさわしい方が大
るものにした。これらはそ の 医史学会会長、58年 ∼平成元 品の盾をいただいた。都道府 勢 いられる中 で、私が頂いた
県医師会長推薦による功労者 こと に面映ゆ い感じがする。
は昭和五十八年五月、横浜 で
定証授与が十月十七日︵、
木︶ りませんでしたが、十 一月
日医 最高優 功賞
五十九 年ま で慈恵医大 の非常
私 が第八十四回日本医史 学会
学長室においてセンター長
見がありましたらお聞かせ
勤 講師 として、進学 課程 で医
の会長を務めたことであ る。
年横浜市西区医師会長
て平成元年十 一月の慈大新聞
去る十 月 一日 ︵
都民 の日︶、 て ﹁東京都功労者表彰式 ﹂が 史 学の講義を担当し た。その
後 ﹁ヘボン博士顕彰会﹂を創
十 一月 一日に開催された第
四十四回日本医師会設立記念
医学大会において恒例の功労
者表彰が行われ、大滝紀雄君
にも掲載した様に長崎とオラ
勤務、29年横浜市西区で開業、
セミナーは成医会のためあ
︵昭17︶に日本医師会最高優
功賞が授与された。同君は現
在神奈川県横浜市西区で開業
しているが、西区医師会長等
を歴任するかたわら医学史の ンダの ハーグにポンペ記念碑 東京文化会館大ホールにおい
研究に貢献したことでその選 建立の実行委員長として無事
に入 ったものである。
大任を 果たし たのであ った。
同君の医史学の研究は、祖
この間、昭和五十 六年 には
父が順天堂創始者の佐藤尚中 日本医史学会の会 長を務め 、
氏であ ったことの関係で順天 ﹁医学の 歴史散 歩﹂﹁かなが
堂大学医史学研究室の小川鼎 わの医学史探訪﹂等を発刊 し
三教授に師事したことに始ま
る。その成果は ﹁
順天堂史 ・
上巻﹂として発刊された。更
に祖父の師であ ったヘボン、
ポンペの研究に進み ﹁
日蘭交
ている。また本年十月来日さ
去る十 一月 一日、第四十四
れたオランダのベアトリ ック
回日本医師会設立記念医学大
文部 大臣 よ り表 彰
ス女王に拝謁したのも医学史
会が開催された。学術団体で
黒 岩 ミヨ 子 さ ん
を通じて日蘭友好に尽した賜
ある日本医師会は毎年その設
物と言えよう。
附属病院栄養課勤務の黒岩 学教育関係業務功労者として 立記念日に各種の表彰を行う
略歴
ミ ヨ子さん ︵
調理員︶は、医 十 一月二十五日、文部大臣よ が、今年はその中に本学から
三名の研究者が選定された。
これらの研究はいずれも医学
の進歩に多大の貢献をなすも
のと認め、今後の益々の研鑚
を期待して賞状並びに医学研
昭和17年本学卒業、23年∼
り表彰状と銀盃を授与され
た。二十九年間、献身的に入
院患者さんの食事等の調理業
務に携わり、その功労が顕著
で他の模範になっていること
究助成費が当局会場にて授与
29年横浜市立大学医学部内科
38年 ∼58年横浜市西区医師会
副会長、53年 ∼59年慈大講師
が評価されたものである。
志 郎
敗戦 ・復興と同様な体験をも
に似ているのではないか等、
本人に対しても っている感情
に積極的な手術や癌化学療法 ながらもその後の努力により 多くの外国の先生方に紹介出 いた 田嶋嘉雄先生が残された
を行ない、その治療成積の向 現在も っとも豊かな国の 一つ 来たらと願い つつ帰路に つい 訓 示、﹁我国の 研究者 は実験
上には内外から大きな評価を とな っていること、ヨー ロッ た。改めてこのような貴重な 動物 の慰霊の仕方は上手 であ
受けているが、実際に助手と パの人がドイツ人にもつ感情 機会を与えて下さ った寺島教 るけれども、生き ている動物
して入り手術を目の当りにす は、おそらくアジアの人が日 授と教室員の先生方に御礼申 の取扱 いは下手 である﹂を引
︵
進 学課程 で医 学史担 当︶
、
横 山
マイ ン ツ 大 学 で の 研 修 を 終 え て
産婦 人科
今回私は九月 一日∼七日に して大学病院を形成している 含め直腸や膀胱にいたるまで
授のお 二人が創設された日独 連の手術数だけでも年間千件
形をとり様子をみた上で現在
山の 一角にすぎず、対応すべ
きことはこれからも多く浮か
信
び上が ってくるだろう。その
通
はこれから先 一緒に運営する 長、文化部長の意見をもとに
中には、学生だけの力では到
生
必要があると思われる。しか 考えると、文化部にに関して
底太刀打ちできない問題も多
学
し来年は初年度 でもあり 、学 は問題はないが、運動部への
いと 思 わ れる。 そ の都 度先
つドイツ人ならではの我々に
生 も 三十 人 と少 数 であ るた 参加は無理な部が多く、各部
パリで開催された第 一回国際 が、産婦人科のベ ット数は 一 みずから手がけているのには るとやはりその卓越した手術
分子生物学会のシンポジスト 五〇床で独立した手術室とI 大変感心した。ラジカルであ の完遂度には目をみはるもの
とし て招請 され、﹁胎盤と 腫 CUを備えている。クナ ップ りながらもクーパーのうごき があり、かれらの姿勢と情熱
にも頭の下がる思いがした。
め 、我 々とは独立した学生会 それぞれに対処してもらうこ
級の骨
瘍 マーカー﹂のセクシ ョンで シ ュタイン教授は産婦人科腫 は繊細で、まさに超 一
を つく って頂き たいと考え て
発表をした。学会後、ドイツ 瘍学、特に手術療法の世界的
盤外科医の集団の感があ っ また私自身癌の臨床に携わる 対する親近感や心情を知り、
た。また年間二百件以上の乳 産婦人科医として、やはり婦 アメリカとはまた 一味違 った
看 護学科 の問題
癌の手術も手掛けており、切 人科癌の治療の基本は徹底し 感動を覚えた。また彼らが寺
除後のプロテーゼの挿入や腹 た手術療法にあるのだと改め 島教授と慈恵医大に対して絶
今年ももう 一月余りを残す
直筋を用いた乳房再建術など て意を固くした次第である。 大なる信頼感を寄せているこ だけとなり、看護学科の開校
ところでマインツといえば とも 知 り心 暖 まる 思 いが し も 日 一日 と 近づ い てき てい
おいしいワインの産地として た。研修中は病院内のビジタ る。学生会 では、来年度初め
いる。と りあ えずこ のような
の マインツ大学産婦人科クナ な権威者であるため、ドイツ
ップシ ュタイン教授と寺島教 中から症例が集まり、腫瘍関
産婦人科協会の初の交換医師 以上を越えて いた。また分娩
て入学してくる看護学科学生
これはお金もかからず非常に と の関連 について目下頭を悩
につい て検討して行きたい。
の学生会規約の改正の必要性
ールームで暮らしていたが、
として マインツ大学産婦人科 数も千 五百件と多く、これら も積極的に行なわれていた。
に滞在する機会を得、主に手 を約三〇人の医師とともに管 しかし尿路変更術だけはマイ
便利で、慈恵にもこのような ませ ている。問題とし ては看
マインツはフランクフルトよ
術を中心に研修をしてきた。 理している。手術は外陰癌根 ンツポーチの術式の発明で有 有名であるが、ワインセラー
ビジタールームが 一日も早く 護学科 の学生会設置とク ラブ
り約三十キ ロ離れた人口約十
万の上品で静かな大学都市で
生 ・先輩方の御指導御協力を
とになりそうである。
最後に医学科と看護学科の 頂きたく思う。またこれから
入学式が 一緒に行われる場合 先学生会だけでは人数が足り
についてであるが、その際学 ず、他の学生の協力 が何か と
生会費の集金、運動部文化部 必要になるかと思われる。そ
のクラブ紹介及び勧誘の方法 のような時には快 く手を貸し
て頂けることを 期待 して止ま
次にクラブ活動 への参加に
ない。︵
学生委員長 矢野︶
設置されることを切望する。 活動 につい てが挙げられる。
先ず学生会設置に つい てで ついてであるが、現段階では も、看護学科の学生会設置、
ある。キ ャンパスは小高い丘
診よ﹂の精神を貫く本学を、 あるが、長い目でみた場合に 明言できない。しかし運動部 クラブ活動への参加の有無に
今後 ﹁病気を診ずして病人を
治術 ・広汎性子宮全摘出術 ・ 名な泌尿器科の医師の手によ にも何度かつれてい っていた
骨盤内臓器摘出術等、婦人科 り行なわれており、マインツ だいた。お互い飲むほどに打
癌根治術を中心に行われてい ポーチの造設をいとも簡単に ち解け、
話しもはずむうちに、
話題は両国の類似性にまで及
た。これらを 一日 二∼三件手 行なうのには驚かされた。
わが産婦人科も寺島教授を んだ。第二次世界大戦で敗戦
が、骨盤内の臓器は内性器を 筆頭に婦人科癌に対して非常 を経験し、徹底的に破壊され
の上にあり、病院は診療科別 際よく こなし ていくのである
に独立して建てられ、全体と
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(2 )
平 成 3 年 1 1月 2 5 日
聞
新
大
慈
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第 4 4 4号
な が ら,黄 色 ブ ドウ球 菌を は じめ グラム
陽性 菌 にも強 い抗 菌力 を有する 均整の と
れ た抗生 物質 である。
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教授が派遣されるのが普通で
いるものであるが、約 二億円 の マークを入れ て所持するこ
助成、救援及び育英を図 って
同窓会の振興と会員の表彰、 が 、特 に海外 でステイタ ス性
と により、同窓の連帯感を強
のあるゴールドカードに大学
ラス別 の記載もし ているが、
ある。また名簿には会員のク
に達した。
か 二十周年とかの節目には恩
される。昨年十月から、株式 加入者に過ぎないが、この還
弔意は別の福祉の項目で支出 わけでもなく、まだ 三〇〇の
等 への記念品と物故会員 への ろが大きい。熱心に勧誘する
このほかに叙勲者、受賞者 めようとした意図によるとこ
これらのクラ スも年 一回のク
師を招待し、大学に記念の寄
ラ ス会を開き、卒後十周年と
付をする習わしがある。卒後
会 社 DC カー ドと 提 携し て 元手数料は利用金額に比例す
﹁慈恵ゴールドカード
﹂の発 るから、かなり同窓会財政に
行を始めた。ゴールドカード 寄与するようにな った。
和生
xM
ae
kt
eh
o
︵t
Mr
Te
X−
︶
一九七四年に
︶ の大
量療法が紹介され 一九七八
DC
Pisplatin︵CD−
年に
︶ の有効性が報告さ
れると、これを機に多剤を
用いた系統的全身化学療法
が導入され、Rosenら
のT−ProtoやcSoul−
らのC
tO
oM
wPAD−
浅沼
骨 肉腫 治療 の変 遷
整形外科
骨肉腫は骨原発
悪性腫瘍中最も頻
度の高い腫瘍で、
十歳代の学童の膝
周辺に好発し、極
めて予後不良な疾
患 の 一つである。日本整形
ると、年 間約 一二〇 ∼一三
ピ ック スになるテー マを中心
惨憺 たるもので、 一方発症
れたが、五生率 は10%弱と
の支部長及び学術連絡委員等
検討から腫瘍の壊死率を算
期切断群では、29%と比較
出し、その抗腫瘍効果を知
的良好な結 果であ った。 こ
ることにある。術前化学療
法にて十分な抗腫瘍効果が
れは術前に腫瘍 局所の鎮静
化をはかる必要性 のある こ
得られれば術後は同じ薬剤
とを示唆させるも のと考 え
を使用し、不十分であれば
られた。 一九四〇 ∼ 一九 五
他の薬剤に変更する。その
〇年代に放射線 照射の有効
結果、五生率も60%前後に
性が示されるようにな った
改善してきている。
我々の教室では術前に前
が、骨肉腫は本来放射線感
受性の低い腫瘍 で、通常 の
出 のT−12Protocol
線量では腫瘍を鎮 静化す る
に基づきMTX を主体と
のは困難である。そこで大
した全身化学療法を行 って
いる。さらに腫瘍の栄養動
量放射線照射療法が考えら
れ、大量のX線照射や速中
脈の近位部にカテーテルを
性子照射が行われた。
留置して、皮下に埋没した
我々の教室では放射線科
リザーバーに定期的にC-DDP
を注入する動注療
の協力のもとに、照射方法
の工夫により皮膚傷害を少
識 され ている 同窓会が 、﹁
金
宝﹂ であり ﹁
車の両輪﹂と認
恵医大の同窓会には、喜びも
っている姿ともみられる。慈
を、まだ同窓生が心の中に保
ってきた開学以来の私学の灯
ながら、互いに寄り添 って守
折により後に切断を余儀な
れる。
に腫瘍内容が描出されるよ
肢の機能はあまり良いとは、
うになり、治療のプランニ
ングに役立つものと期待さ
言えず、潰瘍形成や病的骨
った。
医学研 究者 名 簿
1
991−1
992
病 院のなかの
英会話
著 P.N.Cam pbel
l
,A.D.Sm i
th
訳 永 田 和 宏
症 状 の コ ン トロ ー ル と
在 宅 ホ スピス
編 集 J.
Andr
ew Bi
l
l
i
ngs
訳 星 野 恵 津 夫
本 書 は,進 行癌 患 者 に接す る 医師
の ため の手 引 き書 。患 者 およ びそ
の 家族 の さま ざま な身 体 ・心理 ・
社 会的 な 問題 に対 する 解説 と 対策
を具 体的 にきめ細 かに示 して いる 。
第 2版 小 濱 啓 次
編 集 北
庄 司 道 子 ・北 原 光 夫
Jef
frey Herr
i
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RI−regimenは
dynamic MRI
定 価 36,
050円 (税 込 ) 〒 400
外科 学会 の骨腫瘍 登録によ
〇 例 の 新 患登 録 が あり 、
として五、六人の教授、助教
る。同窓会、慈恵医師会、港
授が実用的な講義を行い質疑
ここ に九 〇 〇の ビ デオ テー し、トピ ック スの講演や大学
をホテルに招待し、教授が総
は出すが 口は出さない﹂とい
悲しみも大学と表裏 一体とな
くされた例も少なからずあ
救 急マニ ュアル
博 正 ・影 山 圭 三
に限 ったと ころに特色がある
四 大 学 の 同 窓 会 に対 す る サ ービ ス
センターの主催で、夏季セミ
用可能 である。この生涯教育
﹁同窓 は 大学 最 大 の宝 であ し、 図書館、標本館も随時利
べたことがある 。大学創立百
し、名取が中心で計画した生
罹患肢の早期切断が施行さ
史 的にみてみると 、当初は
る ﹂と、理事長名 取禮 二が述
ち 二名と監事 二名のうち 二名
ちなみに、同窓会の財政は
涯教育センターは、できる こ 区医師会が共催に加わる。ト
求 した 六 〇五 一名 の 正会 員 たないうちから 昭和五十 二年
応答をするもので、出席者は
るのが つねである。
た。しかし、学校法人 と社団
ほとんどを 一人六〇〇〇円の
とから始めようと 、建物も建
︵
八十歳以上は免除される︶ にテレホンサービスを 開始し
毎回 一二〇名くらいである。
プ、 一七〇 〇の 図書、
、 四 一 の現況報告を行う。また十月
うにな っている。 三室の仮眠
のところ定着した。執筆から
ンス、手術 見学 に参加 できる
術後に行われ、前者の目的
は潜在性微小転移巣の制
圧、
腫瘍の鎮静化のほかに、
腫瘍の切除標本の病理学的
全世界
我 々の教室 でも毎 年五例 ほ
的に各施設にて追試が行わ
ど の新患がある。
れてきている。現在骨肉腫
に対する化学療法は術前と
と もが 同 窓会 か ら出 てい る
会費に依存しているが、この
内に同窓会館 をも っていても
た。これは約七十 名の教 員を
行だから、もちろん 一般読 者
には、大学が学術講演会と懇
室を備え ているのも特色で、
からの寄付金によ って、無料 ぞれ五十二名と 一
五二六名が
編集まで会員の無料奉仕で行
六 ヶ月以 降に切断をした晩
別の事務局がこれを運営 して れ ているところである。
専門別にリストア ップして、
骨肉腫 に対する 治療を歴
法人という別々の法 人である
し、評議員は 三十五名のうち
納入率は極めて高く、昨年請
年記 念 事業 を 開始 する に際 ナーというのが八月に開かれ
から学内に校友課などの組織
が、これは寄付行為に定めら
はなく、同窓会はキ ャンパ ス 十名を同窓会から出している
結び
成も
当悲
初か
た十
、四
いわ
るも
。と
また
理理
事十
先日の定期支部長会議の折、名取理事長は日本私 喜
しら
みあ
もっ
八
旒ゆ
の旗いの
に同
大窓
学会専の任
事五
田中五
直
十樹
周年 になると、大学がク
立医科大学連盟の機関紙 ﹁大学時報﹂九月号に掲載 る﹁金は出すが 口は出さない﹂ 名のうち 一名は大学の学内理 ラス全 員を招待し学内理事九
された田中理事の書かれた記事を引用し、﹁
大学と という同窓会 の伝統 は、今 回 事が入り、評議員五十名のう 名 がホストとな って記念会を
同窓会は表裏 一体である。﹂と強調された。この記 も厳格に守ら れている。
ち 一名が学内理事であるが特 開催す ること にな っている。
かつて学長阿部正和は ﹁同 に規定もなく、これだけで十 七十四歳を超える人 の集まり
事は ﹁私立大学と校友行政﹂の特集の 一つとして掲
載されたもので、本学同窓会の活動について簡潔に 窓会と大学は車の両輪﹂と述 分連携が保てるところに同窓 であるから出 席者は卒業者 の
解説されており、
非常に興味ある内容とな っている。 べているが、同窓会 は大学と との絆の強さが現れている。 半分くらいであるが、それ ぞ
その後阿部学長から、この記事を是非慈大新聞に掲 表裏 一体の 関 係を 保 ってき 逆に、大学の理事十 一名のう れに感慨深い談笑の輪が広が
載し多くの同窓に読んで載きたい、という強い希望
が寄せられ、ここに転載することとなった。
同窓会は 母校慈恵医大のた
っている。
一 大学 と同窓会 の関係
東京慈恵会医科大学 ︵
以下
慈恵医大と略す︶が成医会講
中、納入者は五三九 三名で八
二 同窓 会の組織
九%を数えた。これはおそら
同窓会長にはこのところ市 た。
にした月例セミナーも毎月開
かれ、このほうは 二、三十名
の出席を得ている。これらの
セミナーは日本医師会の生涯
教 育講 習 会と し て認 定さ れ
ス会及び学生会の ニ ュー スが
〇〇 のX線 フィルム、 一六〇
親会を受け持ち、約 二〇〇名
前述のごとく大学は、こと
た。
学同窓会﹂を端緒とする考え る ごと に同窓が立ち上が って れているのは六三六五名であ
が購読しているものもあるが
い つでも自己研修ができるよ
れ てい ると み られ るの であ の組織標本等を備え、会員は
記事、集会の予告 が含ま れる。 おそらく同窓 の大多数が含ま
掲載されるが、必ず学術的な
る。
稿も随時採用される。連載小
診療を続けてきた伝統を背景 登録されている。そして住所
う伝統 のもと に結束し ている
って乗 り越え てき た歴史があ
進 行癌 患者 の
マネー ジメント
本 書 は, 軽症 疾患 か ら重 症疾 患 ま
での 多彩 な救 急疾 患 を網 羅 した救
急診療 従 事者 必携 の マニ ュア ルの
待 望 久 しい改 訂版 。CT, エ コー ,
MRI
な ど 画像 を ふん だ ん に取 り入
れ , みや す くす ると とも に, 初版
よ り内容 も格段 に豊富 に して充 実。
習所として銀座に開学してか め につねに貢献することを伝
ら一一○年になるが、その同 統とし てきた。震災復興のた
窓会の発足については二つの め には当時の金 で三万余円を
あるごとに支部に教授を派遣
このほかに小グループを対象
考え方がある。その 一つは、 またたく間に集め、復興資金 井の開業医を充てることが定
これらの支部は年に 一回以 く他 に 類を み ない であ ろ う 同窓からの電話による質 問に
一八九 二年成医学校 第七回の とし て大学 に寄付し、終戦後 着し、今回当選した今野享彦 上の集会を催し、そのときに し、このことをも ってしても、 応ずるもので、年間の利用者
卒業生により ﹁旧成 医学校 同 は 戦 災か ら の復 興 のた めの は産婦人科開業医である。理 は学術講演を企画することが この同窓会の結束の強さを示 数こそ 一四〇人くらいで増減
東 京 慈恵 会 医 科大 学振 興 事評議員を含めて二年ごとに 多い。講師とし ては大学から すことができよう。
はないが、以来十四年間維持
窓会﹂が結成された、という ﹁
記録に基づくものである。他 会﹂ に全面協力し、昭和 三十 改選が行われるが、もともと
され、同窓の精神的なよりど
三 同窓会 の事業
ころとな っている。
創立八十五年記念 奉仕を旨として就任するから
の 一つは、大学昇格の二年後 六 年には ﹁
、昭和五十年以後は ﹁
創 特に選挙に訴えることもなく
まず前述のごとく ﹃
慈大新 ○○ ○部、﹃白い 航跡﹄は 十
生涯教育センターは百年記
に発生した関東大震災からの 事業 ﹂
復興のため、 一九二三年に結 立 百年 記念事業﹂ に絶大の協 禅譲の伝統が守られている。 聞﹄を年十 二回発行している。 一万六 〇〇 〇 部が 刊 行さ れ 念事業で建築した大学二号館
同窓会正会員として登録さ 主として大学、各支部、クラ た。あとの 二つは講談社の発 の最上階のフ ロアを占有し、
万
方である。後者は、このとき 寄付を募る ことは いま では珍 る。開学以来の卒業生は 一
会員の個人的消息や運動部の
成された ﹁東京慈恵会医科 大 力を惜しまなか った。ことあ
から ﹃慈大愛宕新聞﹄を発刊 し くあるま いが、最初から大 七五七人であるから、六割強
思い出話、短歌、俳句等の投
これは現在も ﹃慈大新聞﹄と
説と夏冬 二回の随筆特集もこ と おり であるが、支部が地区
に行われる同窓会支部長会議
た同窓会 は珍 しいのではある また他学出身者で教授を務め
し機関紙とすることを決め、 学 に協力する ことを目標とし が現存していることになる。
して継続して発行されている ま いか。
このことは開学以来、 た者を特別会員、その他の大
同窓会といえるが、前者は発
にしているのかも しれな い。 により八十三の支部に分けて われる。また三年に 一回前述 る。今年は日本医学会総会の
支部 の学術講演会は前掲の
ので、確実に継承されている 皇 室の御下賜金や東京慈恵会 学関係者を準会員とし、それ
足後いろいろと名称を変え、
ごとにまとま って大きなブ ロ 地 方 から 上京 の 会員 用 であ 出でホ ストを務めて懇親を尽
ック の大 会 にな る こと があ る。その他学内のカン ファレ
くしている。
また会員も東京 一円の同窓だ
法を併用している。本法に
なくして、 一万 二千∼ 一万
より腫瘍の壊死率は、大体
五千ラ ッドのX線照射を行
の症例で9
5%以上に達して
う治療法を開発した。照射
いる。各症例の画像所見と
切除材料とを詳細に検討し
後に完全に局所の鎮静化が
えられた場合には、手術を
姿 は、同窓会とし て理想的な
る のである。
生化 学 イラス ト
レイテッド
● B5 頁9
48 図479 写真1
08
原色 図34 1991
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●B5 頁256 図6 1
991
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● A B 判 頁 316 図 507 写 真 16
1991 定 価 6,180円 (税 込 ) 〒 300
五 お わ り に
しがあ る。そのほか に同窓会
て以来、別に成医会という学 成され、当初の目標として関 き、全国八十三の支部から支 飯男爵高木兼寛の生涯﹄本学
大学 に対し ては、卒業式に
術団体があ って、これが同窓 係法人、教職員、父兄の分も 部長をはじめ約五〇〇名が近 教授松田誠著 ﹃高木兼寛伝﹄ 成 績優 秀者 に同窓会賞を、卒
会的な役割を務めていたこと 入れ て十五億円くらいと踏ん くの東京プリンスホテルに集 吉村昭著 ﹃白い航跡﹄上下 二 業 生全 員に記念 品を贈る習わ
思われる。さか のぼ って考え
の果実の中から奨学金と若手 あ り方 の 一つを示し ていると
振興基金というのがあり、こ
るならば 、脚気論争 でみられ
● B 6変 型 頁 164 図 26 1991
定 価 1,
648円 (
税 込 ) 〒 300
●外 国 人 の 患 者 とや さ し く会
話 が で き る ポ ケ ッ トブ ッ ク
書 は,毎 頁, 左 側 に明解 な 文章
配 し , 右 側 に わ か りや す い 図 を
け て , と か く 無味 乾 燥 に な り や
い 内 容 を 立 体 的 か つ , 楽 しみ な
ら 理 解 で き る ト レ ン デ ィな 「目 で
る 生 化 学 」の テ キ ス ト。辞 典 と し
も利 用で きる 。
開 催 に合 わせ て 京都 で 行わ
けに限られたこともあり、確
現在もまだ続いている創立 名簿に収載される。昭和六十 の名簿を発行する。
なお出版にかかわるものと れ、秋には山形で東北ブ ロ ッ
固たる組織とはいいがたい。 百年記念事業では、初めに大 年に卒業生 一万名突破記念総
もあり、開学後四十年間、独 で、 一口五十万円という同窓 合し、この会を記念して作っ 巻、及び大学昇格の頃の記録
立した同窓会の組織の機運を 会とし ては破格な寄付募集で た、スクールカラーのネイビ 映画を学内 で再編集したビデ
研究者の海外渡航費の補助を
るごとく 、官学や陸 軍を中心
慈恵医大 にと って ﹁
大学の とする学閥に押さえつけられ
慈大の曙﹄などの実費販
乏 しく さ せ てい たと もい え スタートしたところ、あ っと ーブルーに金文字の校章と房 オ ﹃
している。振興基金は 一口三
ク大会が計画され ている。
いう間に同窓だけ で約十八億 をつけた絢爛たる支部旗八十 売も行 っているが、いずれも
万円の寄付を会員から集め、
また成医会講習所が創設され 学と同窓により世話人会が結 懇親会を開催したが、このと して、宮崎放送版ビデオ ﹃麦
た結果、腫瘍の生残部が
しないで患肢を温存するこ
により
とが可能で、化学療法無し
良く描出されることが明ら
かにな った。今後三次元的
売れ行きがよい。ビデオは六
で約40%の五生率がえられ
る。現在、成医会は純粋の学
円を達成 してしま ったと いう 四旒 ︵一つは本部用︶のもと
● B 5 頁 928 1991
● 全 国 の 医 ・歯 大 学 , 医 学 研
究所 の研究者 を網羅
本
を
付
す
が
見
て
た。しかしこの場合温存患
会であり、社団法人とな った
本 書 は , 国 際 化 の 波 が お し寄 せ て
いる 日本 で, 病院 を訪 れ る外 国人
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救 急 初 療 か ら 救 命 処 置 まで
診療メモ
同窓会とは全く別の組織とな う れしい誤算もあ った。また、 に勢ぞろいした。壮観であ っ 〇 〇本、﹃高木 兼寛伝﹄ は四
[収 録 の 範 囲 ]Ⅰ . 大 学 ・大 学 (付
置 )研 究 所 の 学 長 , 所 長 , 施 設 長 ;
名 誉 教 授 ・教 授 ・助 教 授 ・講 師
. 医 学 研 究 所 ・国 立 研 究 所 Ⅱ
は室
長 以上, 公 私立 研究 所 は室 長ま た
は 主 任 研 究 員 以 上 Ⅲ.学 術 会 議 第
7部 会 員 ・日 本 医 学 会 分 科 会 役 員
●患 者とその 家族の諸 問題を
解 説,対策 を具体 的に示す
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聞
新
大
慈
平 成 3 年 1 1月 2 5 日
(3 )
祭
文
学
長
阿
部
正
和
ていただく のであります。病
あります。いや、それのみで
と並んできわめて大きいので
医学の医術の進歩発展のため
命の根源を尋ねる上で、また
四体 、計六一一体の多きに及
四 一体 、そし て法医解剖 一二
ん でおります。明治十五年八
とお考えになる方は、決して 時 、はじ めて病 理解剖をさせ
に、まことに大きいのであり
少なくありません。
はありません。この法医解剖
月以降 の 一〇九年 間に御提供
理解剖 という尊 い、か つ貴重
いただいた御遺体は、実に 二
ます。そうは申しまし ても、
御身内 の御遺 体に傷を つけた
く ないと思う のは人情の常 で 三、七二〇 霊位 に達し ており
以来 、毎年今月今日、当 三縁
明治 三十六年 ︵一九〇 三年︶
は、その困難を 敢えてのり こ 様方 に対する報恩のために、
東京慈恵会医科大学は、皆
ます。
えて、御遺体 を本学 に提供し
敬意と謝意を表するものであ
る次第であ ります 。御供物そ
営 み、皆様 の御 霊をお祭りす
体をなさ った方という名にお
肉体はたとえ滅びても、献
お汲みとり下さ いますようお
が私たちの意 のあ ると ころを
の他、甚 だ軽少 ではあります
本敏雄、新井尚芳︿荒川﹀近
豊、渡辺盛長、待木和夫、橋
之、高橋吉彦、吉田完、国府
長山秀雄、池田 二郎、吉岡和
村山裕︿江戸川﹀菅谷健司、
小田隆男、高橋紀久雄
田利夫、森田 一、小野弘保、
朗、岡本龍男、真山 信郎、富
山武義、金 田正陽、佐 々木豊 、 本井儀 一郎 、永井孝 、日高詩
い時間を過した。卒 後二十 周
がら、時が経つのを忘れ楽 し
〒 1
05 港 区浜 松 町 2−
4−1 世 界貿 易 センター ビル
ります。医師としての心構え
しかし、実際はそういうも
義をも っております。
のではありません 。病気 の診 な 経験をくり かえす こと によ は、わが国における国民の死
って、良 い医師が育成され て 因統計にも つながる大きな意
断は、時に大 変むず かし いこ
とがあります 。ま た、医師 の 行 きます 。このよう にし て、
どのような場合でも、御遺 あ ります 。それにもかかわら
いて行なわ れます 。この法律
て下さいました。その決断と
体の解剖は、すべて法律 に基 ず、皆様および御遺族の方々
では、御遺体 に対し て礼を失
勇気に対して、私は心から の 山 増上寺 におきまし て法要を
ております。解剖する権利が
族のお許しを得てはじめて解
いて、皆様の御霊は永遠に生
らお祈り申 し上げ て祭文とい
たします 。
藤市雄、鈴木庄 三郎、山本真
床医、そして大学の基礎医学
年に向け、新たな 飛躍を約し
東 京 會 舘 の伝 統 あ る味 とサ ー ビスで
を つくるためには、文字どお
り体を献げて下さ った皆様方
の心こそが重要なのでありま
このような意味から、本学
す。
医 師 は自 ら の経 験 を豊 かに
をも って、学生諸君の指導に における医学教育の充実向上 学 問的批判 によ ってはじめ て 上させます。そ の結果、社会
することのないように万全 の
下した診断が 、果たして正し
の人々 は水準 の高い医学の恩
措置を講ずることが定め られ
か ったか、どうかは 、厳し い し 、自ら の医療 のレ ベルを向
可能 になります。そのために
になる のであります。
恵 に浴することが できるよう
持ちます。そして解剖実習の に御遺体を提供された皆様お
は、病理解剖を行な い、専門
指導者は、厳しく、かつ熱意 よび御遺族の方々は、わが国
当ります。その際、御遺体が に大きな寄与をなさ ったこと
の病理学者 の手によ って、病
第三に、医師の診療を受け
ります。
次に、御病気でお亡くなり
い、と教えるのであ ります 。 にな った方々の御遺体を、御 変 の部位、そ の性質、さらに
医師にあるのではなく、御遺
剖させていただくのでありま
願いいたします。
遺族の御承諾を得て解剖し、
る時間的余裕がなく、しかも
このように、系統 解剖 の実
は死亡 に至 った原因が確認さ
親の体のつもりで実習しなさ
他人の体ではなく、自分の肉 になるのであります。
本 日、東京慈恵会医科大学 人の体との劇的な出会いの場
の体の構造についての知識を
学ぶのみならず、医師として
の判断力や問題解決能力を高
める重要な機会でもありま
す。
生命の尊厳や医の倫理につ
教職員並び に学生 一同、当 三 であります。これによ って人
縁山増上寺 におきまし て、御
遺族 の御参列 の下 に、本学 に
御遺体 を提供 して下さ いまし
た皆様方の法 要を 営み、御 霊
の御供 養を執 り行な います。
人 の体を 解剖し、内臓そ の
す。御遺体は、私たちに医学
き つづけることと確信いたし
した御遺体は、この 一年間に
その原因が全く不明で、突然
因を明らかにするために、御
受 けも った御病人が不幸 に お亡くなりにな った方々の死
に関する知識を与えて下さる
系統解剖四七体、病理解剖 四
れなければなりません。
してお亡くな りにな った時、
遺族の御承諾を得て行なわれ
正 に 師 であ ると 申せ ま し ょ ます。
病気の真の姿を明らかにする
単に ﹁剖検﹂と申します。こ
担当 の医師 は、悲し みのどん
る解剖を ﹁
法医解剖﹂と申し
人 の体を解剖す ること の意
行為を ﹁病理解剖﹂あるいは
の病理解剖によ って、多くの
底にある御遺 族に対 して、病
理解剖のお許しを いただく こ ます。この解剖が医学教育に
義は、以上のように人 間の生
在天の諸霊の御 冥福を 心か
ことが明らかになります。
とに 誠 心誠 意努 力 いた しま 果たす意義と役割は、先の﹁
系
本学に御提供をいただきま
医師が診察し、検査をすれ
す。そしてお許しが 得られ た 統解剖﹂および ﹁
病理解剖﹂
う。
ば、病気のすべてが立ちどこ
他の構造を学ぶことは、医学 いて、学生諸君が自分自身の 習は、多くの方々の理解と協
における専 門教育をはじ める 考えをつくり上げる大切な機 力と善意によ って、はじめ て
に当た って、通過しなければ 会でもあります。将来、人の 可能になることを学生諸 君は
ならない基本であ り、関門で 生命をあずかる者が必ず通ら 知 っておりま す。そし て心か
あります。これを ﹁系統解剖﹂ なければならない過程なので らの感 謝を こめて、全力を傾
あります。この場面で、学生 けて 実 習に 励む の であ りま
ろに分かり、診断が つくもの
と申します 。
系統解剖の実習は、医科大 諸君は、御遺体から学ばせて す。 このことが、将来良き医
昌郎、川嶋正也、三上豊︿墨 ︿葛飾﹀大浦梅吉、吉田正雄、
澄、西松稔、
石原純 一︿江東﹀
当 日 出 席 者 ︿足立 ﹀花 崎 田﹀宇野幸、高橋憲太郎、横 土 屋潤 一、的場清、鈴木健 一、
いけるように希望し ている。
学の学生が最初に取り組む、 いただくという謙虚な気持を 師とな る基盤を培うことにな
た。各々の立 場にお ける現状 は簡便な方法を考える︶
。そ
での問題点 、将来 における病 れを受けた医師は、退院前に
院 とし ての役割りや希望が発 患者と主治医に面会でき、退
表 され 、フロアーからも活発 院後について話し合うことが
のあり方 ・地域医療のあり方 り、固定化した長期入院患者
教室で教育 ・研究に従事する
散会した。︵
福島記︶
3435−2611㈹
東 京 ・赤 坂
来 舘 の 際 は 、お 電 話 に てご 予 約 ご
くだ
た さい。
帝 国臓 器
︵
高橋記︶
者などお互いの進んだ道は異
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よくご覧 ください。
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成 分
1
カプ セル 中 、塩 酸 ロキサ チ ノンアセター ト75㎎ を含 有す る。
田守雄 、奥沢誠 一、徳久靖高
︵外科系、内科系、ナース代 主なも のは、会員の紹介入院 患者が退院した場所、その医 同窓懇親会いわゆる江東ブロ に移り、鈴木院長から大学の 記念実行委員長の首藤義幸君
カプセル75
福 田定助、吉村昭 一郎、松本
学 長 、理 事 長 、学 生 時 代 の先 生 を お 招 き し
昭 56 会 卒 後 10 周 年 ク ラ ス 会
表、事務代表︶の計八名のス 患者や主治医との面会、医療 師に主治医から必ず患者の入
必ずしも患者は診療所に戻ら ークラで開かれた。青戸病院
なるもののそこはクラスメー
時が経つのは早いもので、 参加とな った。すでに地域で ト、卒後十年で頭に白いもの
私達慈大昭56会も卒後十年が 開業医とな った者、病院の臨 が混ざ っているのを茶化しな
富士シンポジウムが開催され
ピーカーが選ばれ行われた。 に 関する相談事の場所として 院総括を送っておりますが、 当で小岩のホテル ・ニューオ
そこ で利用に当 って①利用 ず、病院の外来に来てしまう の鈴木敬院長、同窓会本部か
地 上 150mの大 パ ノラマ の 中の宴 会 場 。
効 能・ 効 果
胃 潰 瘍 、十二指 腸 潰 瘍 、 吻 合 部 潰 瘍 、 Zolli
nger−
Elli
son症 候 群 、 逆 流 性 食 道 炎 、 麻 酔 前投 薬
な意 見が出され 、将来の病院 できる。⑤ 一定の医療が終わ
了解済みの医長の定期回診な
について結論 はでなか ったも で主治医が困っている場合、
のの 大変 有 意義 な 会で あ っ 紹介医師は積極的に相談に応
た。 この様な積み重ねが地域 じ協力する。⑥会員の診療し
医療の発展に つながり、患者 ている患者のことにつき、予
を中心とした医療体系が形成 め了承を得ている病院医師の
さ れ てい く もの と考 え られ 協力を得るための話し合いの
た。
場所として利用できる。⑦病
院内の図書室の利用、または
病診連携室 の利 用に ついて
病診連携室の利用は、医師 どに参加する場合の出入口と
た。シンポジウムは地区医師
今回のテー マが選ばれた背後 の利用だと思います。
過ぎてしまった。この機に何
か記念になることをしたいと
考えて、昨年よりクラス会代
去る十月十九日江東六区の き永井孝先生の司会で懇親会 表の池上雅博君と卒後十周年
会と同地区のセンター的役割
には近々当病院に約百床の増
現在診療所から紹介された
会 で規約を作 っていただき、 する。
りを果たしている富士市立中
床が行われ、それらをめぐ っ し た場合は、その目的を記録 例も多くあるようです。その ら諸川薫副会長をお迎えし、
ック同窓会が、葛飾支部の担
央病院 ︵
院長荻原正雄︶との
て病院のオープン化、紹介患 簿 に記入、記名する。②そこ ため両者間の不信を招きかね 会員四十五名が出席した。会
で、それを用いる。③主治医
クスの導入化等、種々の問題 衣 二∼三着が用意し てあるの 紹介医師が患者と主治医に面 部長の開会の挨拶のあと、青 回で九回目にな ったが、六支
れ ている。企画は地区医師会、 者の転帰の報告方法、フ ァッ には会員の名前のバ ッチと白 ないと思われます。退院前に に先立 って葛飾の岡本龍男支
運営は病院側で行う事が原則
の許可のもとに、患者に面会
戸病院外科教授三穂乙實先生 部が 一同に集ま って講演を聴 川栄世名誉教授の御臨席のも
が﹁
肝癌の治療について﹂と いたり、近隣の他支部の先生 と、帝国ホテルに於て卒後十
題する御講演をされ、先生の 方と友好を深める有意義な会 周年クラス会を開催した。
長年に亘る臨床経験と最近の である。年二回の開催は大変
クラスメートは遠くは秋田
新しい治療などについて 一同 なことだと思うが、会員が多 の山奥 ︵須藤宏久君︶からも
興味深く拝聴した。ひきつづ 数御参加下さって長く続けて 来てくれ、総勢五〇名以上の
を解決しておく事前協議の役
まず院長より、病診連携室 したり主治医と話し合うこと
会し、退院後について相談す
れば患者も安心してその後の
治療が受けられると思われま
す。 富士市立中央病院
院長 荻原正雄
︵
昭47 ・関野章 一記︶
とな っている。
現況について、又諸川副会長 を中心に準備を進めてきた。
から同窓会の現況に関してお 卒後十周年を記念して母校に
話があった。次回当番の江戸 一五〇万円の寄附をさせていた
川区菅谷健司先生の乾杯で宴 だき、そして去る七月六日に
になり、各区の会員の紹介な は阿部学長、名取理事長、そ
ど時のたつのも忘れ歓談し して私達の学生時代の教学委
た。江東ブロック同窓会は今 員長であられた徳留三俊名誉
教授、学生部長であられた石
間の交流を計るための代表的
産婦 人科︶、病院 側より 四名 それに従 って利用する。その
江 東 ブロ ック同 窓会
な会であり、毎年七月に行わ
去る七月 二〇日︵、
土第
︶六回
葛飾支部 が担 当で第 9回の
割りがあ った。
今回は ﹁
市民のための開か
における基本的考え ︵後掲︶
、 ができる。④患者の退院予定
れ た医 療をめ ざして﹂、副題
と して〃病診連携を中心に〃
次 で医師会長 ︵
清水怜先生︶ が ついた時は、主治医は紹介
四名︵外科系、
内科系、小児科、 の 意 見が 述 べら れ 開始 され 医師 に連絡 する。︵連絡方 法
装
包
HAM AM ATS
UCHO TOKYO KAI
KAN
売
発
新
健保適用
H2受容体拮抗 剤
富 士 シ ンポ ジ ウ ム開 催
と いう テーマで医師会側より
アルタット
注目、アルタットの効果
新世代のH2ブロッカー
当 日参 加者 全 員 のサ イ ン色 紙
富士市立 中央病院が中心 とな り
(4 )
平 成 3 年 1 1月 2 5 日
聞
新
大
慈
(
第三 種 郵便 物 認 可 )
第 4 4 4号
39階 、東 京 湾 を一 望 す るパ ー テ ィル ーム
医薬営業第 二部 (
〒1
0
3)
北 は 新 潟 、南 は 沖 縄 か ら の参 加 が あ り
知れない昔談義に花を咲かせ
千 鳥会 ︵
昭 21 ︶箱 根 に 集 う
去る十月十九日、二十日リ ゾ 行に際し格別の御配慮を頂い
東京都 中央 区日本橋三丁 目14番10
号
の同窓にと って 一年に 一回顔
を会わす思い出の場所でもあ
る。台風の影響かどんよりと
した天候にも拘わらず、多数
の同窓が定刻に集まり、小寺
支部長の開会の辞、八家同窓
翌日はゴル フ組 ︵
十 一名︶
た。
富士五湖観光バス旅行組 ︵二
ートホテルの名門宮の下富士 た金城君 に、千鳥会よりお礼
屋ホテルにて、平成三年度懇 の印 に箱根名物寄せ木細工の
会顧問の慈恵魂のこも った挨
拶に引続き、米本教授による
小箱を贈呈した。そし て最遠
十 一名︶に分かれて交友を深
親会が開催された。
週末毎におとずれた台風も 方より の金城君の音頭 で乾杯
慈大の近況報告並びに高齢化
社会に対応する ﹁リ ハビリテ
光 バスにて乙女峠、東富士有
を重ね ており これからは出来
心豊かな
ふれあいの舞台。
大野︶及び国立大学 ︵銭場、
萩原、小峰︶の教授及び助教
授の地位を得、又各学会長や
地区医師会長、同窓会長を務
めたり、大病院の経営に当 っ
たり、或は日本医師会最高優
功賞を始め永年の地域医療の
功労者として叙勲の栄に輝け
我々は十 二月卒業を記念し
で開始され、おのおのの技を
フコー スで八時三分 スタート
競 った。優勝は玉井君、準優
めた。ゴル フ組は仙石原ゴル
賜り、数名の看護婦さんや コ 各地より参加があり、集いし 若き血潮を燃やした夫々 の想
勝は土井君、ブービー賞は高
に始まりパー ティーの宴がひ
い出 に和気あ いあ い裡に、又
去り、まずまずの好天に恵 ま
友総勢四十名 ︵九組の御夫 人
ーシ ョンの知識と在宅医療の
の参加 も含む ︶
、非常 にな ご 夫人方も初め ての出合 いを大
れ、北は新潟南は沖縄と全 国 らか れた。干鳥ケ丘に青春の
メデ ィカルの方々を混えての
問題点﹂に ついての御講演を
った。引続き懇親会に移り、
り、久しぶりの好天のもと仙
研修は誠に有意義なものであ
歌 、自己紹介等 々お のお の想
やかな雰囲気の下に会は進め 事 に友交を 深め た。
スピーチ、 橋︵君
敬で
︶すばらしい賞品があ
石原の秋を満喫した。
られた。
い出を こめ てほん とう に楽し
日の暮れる迄時間を忘れて杯
まず今夏八月急逝された山
い 一刻をす ごし た。閉会後も
一方観光組はホテルより観
を酌み交わし、最後に恒例の
本善三君の霊に、酒井君より
﹁曙みちくる
﹂を歌 って散会
料 道 路を 通 り忍 野八 海を 見
学、富士ビ ューホテルにて昼
詳細 な 説明 の 後黙 祷を 捧 げ ホテル のバー で、又各自の部
した。
菊池 ︵
昭12︶両角 ︵
昭15︶小
いに湖畔ま で歩を進め、満水
食をと る。 ホテルより庭づた
当日の出席者は米本︵昭33︶ た。次に 一昨年千鳥会沖縄旅 屋 に集まり、い つ果 てるとも
林 ︵昭15︶八家 ︵昭16後︶松
畔を垣 間みながら青木ケ原の
の河 口湖畔を散策、そし て湖
浦︵
昭18︶中野 ︵昭20 ︶平山︵昭
平︵昭
樹海を 通り抜 け朝霧高原 の牛
20︶
小寺︵昭23︶
同夫人
23︶同夫人 鶴崎 ︵昭37︶足
立︵昭45︶杉崎 ︵昭49︶藤多 ︵昭
が ら白 糸の滝 へ向う。水量も
の放牧を 両サ イド にながめな
54︶
勝部︵昭63︶
宇野津︵昭3
4︶
。
又兄より武 田夫妻 田中 金
る だけ夫人 同伴 で会合をもち
第一製 薬株 式会社
タリビッド錠
る者を多数輩出した。
て十 二月会と称し、戦後毎年
各地でクラス会を開催し、夫
人を交えて家庭的雰囲気の内
に交流を深め、本年卒業五十
周年を迎えることが出来たの
は望外の喜びである。しかし
不幸にして戦死し、又病魔の
侵すところ不帰の人となり、
或は病床にあ って出席出来な
か った級友を思う時、深い悲
しみと淋しさを感 じ、或 る人
は亡き級友の遺影を内ポ ケ ッ
トに秘めていたが、お のお の
思いは同じである 。
同日ホテルに 一泊した 一行
は秋雨けむ る箱根路をド ライ
ブ、車中 マイク に流れる 思い
出 話しや近況を聞きながら、
湯 元の旅館〃桜庵〃へと到着、
た。又富士山 はそ の頃より白
豊富 ですばら しい景観 であ っ
雪を 頂 いた 見事 な 姿を 見せ
た。バスは三島 へ向 い来年度
で毎 年 会 を開 き、 会員 の 親
た いと皆 で話し合 った。来年
︵宇野津 記︶
東京での再会 を約 して散会し
睦 ・交流をはか っている。す
度 は安井 君、小川君の当番で
た。
月 近藤 鄭夫妻 その他看
十月二十六日︵、
土昭
︶和十六
帰国後数年間のブランクを 評判 の料理 に舌鼓を打ちなが
窓会兵庫支部の総会が、リ ハ 淡路島をつなぐ明石大橋の橋
去る 九 月 十 五日 ︵敬 老 の ルにて開催された。白砂青松
年後期クラスの卒 業五十 周年
抱え医学 への再出発は険しい ら 五十 周年目のクラ ス会の宴
ビリテーシ ョン医学の米本恭 桁基盤を 一
望に見渡すこの和
桧の露天風呂に疲れを流し、
記念 祝賀会 が阿部 学長を始め
ものがあ ったが、級友はそれ は深更に及んだ。
でに卒業後五十年以上たつ先
た。我々も既に七十歳の年輪
輩会員も多く、昔話に花 の咲
東京 で行われる予定である。
のものとは思えない飲物を飲
突 入し、芝校会恒例のこの世
︵
岡野記︶
く機会となる。また、会員の
中には、テレビドクターとし
て活躍する者、恐竜滅亡 に関
して新学説を打ち出す者 、博
ませあ いたい へん盛会であ っ
当日 の主な出席者は寺田義
た。
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日︶
、 平成 三年度慈 恵医大 同 の舞子の浜や、やがて対岸の 護婦等 八名計 三十 三名 であ っ
芝高会開催
何年かぶりに芝高会の名簿 に珍し い写真を何枚かわざわ
このように本教 室の研究は が某先輩の引き出しの奥から ざ現像し てき て下さり、当時
︵昭14卒︶田郷 寿正先生 ︵
昭
雄 先生 ︵
大15卒︶高橋實先生
非常に多岐にわた ってお り、 発見され、芝高会が去る六月
の芝 の様 子がよくわかり、芝
活躍中 であ る。
ばかりでなく、多彩な分 野で
などあり、単に、診療 ・研究
物館を設立し館長を務め る者
教室の横
学外の非常勤講師などの協力 際の健康問題、有機溶剤の神 授は厚生省薬事審議会委員、
を得、ミ ニ研究を 中心とし た 経系 への影響の問題︶
、衛生 東京都消費生活審議会委員
スモールグループテ ィーチン 動物に関する研究 ︵
イモガイ を、吉葉教授は神奈川県消費
グを行 っている。グループ 研 の医動物学的研究、山蛭の生 生活審議会委員を務め、社会
修でもツーウ ェイ コミ ュニケ 物災害の研究︶
、蛍光顕微鏡 に開かれた衛生学を実践して
ーシ ョンを重視し 、従来本教 法の医学的応用に関する研究 いる。
︵本教室の伝統的な研究分
同窓会活動は古くから行わ
顔
衛 生 学 教 室
れ ていたが、昭和 三十五年矢
席された。来年度六 月にも 開
ンピ ュータ利用に力点をおい
同窓諸氏も多方面で活躍して 二十 一
日︵午
金後
︶六時三十分よ
校
在
学
時
の
話
し
が
盛
り
上
が
っ
20卒︶山崎洋次先生 ︵
昭41卒︶
その他にも大 勢の先生方が出
て第 一学生歌を皆 で歌い 一次
野︶、疫 学方法 論に関 する研
室では遅れていたとされる コ
︵
佐藤英夫記︶ 三教授を御招きして舞子ホテ 風の閑静なホテルは、兵庫県
大 学各 理事 、今 野同窓会長列
衛生学教室は矢崎芳夫教授
ぞれ母校 ︵國分、河 野、佐野、
席 の下、大学主催により東京
プリ ンスホテルに於い て開催
された。生存者の約半数の 三 により大正十四年に開設され
十五名と夫人十七名の総計五 た。矢崎教授は後に本学理事
十 二名が全国から集合した。 長、学長を務め、昭和三十五
先ず阿部学長の大学現況の 年定年により退任した。次い
説明に今更ながら母校の大発 で、同年 より小机弘之教授 に、
展に、出席者 一同驚きと敬意 昭和五十九年より松本信雄教
の念 一入であ った。学長祝辞 授に引き継がれ、平成 二年よ
の後、クラ スを代表して佐藤 り吉葉繁雄教授が業務の責任
を運営し ている。教室員は教
君から謝辞が述べられ祝宴が 者となり阿部学長の下、教室
始ま った。
憶えば我がクラ スは、十 二 授 一名、講師 二名 、助手 一名、
研究補助 員二名 で教育 ・研究
月八日大東亜戦勃発を機に、 大学院生 一名、専攻生 二名、
急遽繰上げ卒業、殆どの者が
陸海軍 に分かれて戦線 へ送り を実施 している。
に幅広い学問分野である かを 本年度は 一
人も新会員を迎え
いる。これは、衛生 学が いか り、
新橋の新橋亭で催された。 た。会 の方は芝の校歌に続い
明水会 ︵
明鏡止水:荘:徳充
究 ︵
多変量解析、ノンパラ︶、 崎前学長の基金を基に名称も
催したいと思 っている。
医療情報処理、地域保健等を
会を終 え、山崎先生とともに
研究面では母子保健 ︵
海外
示すと同時 に、歴代 教授 の学 ることが出来ず残念であ った
た教育を行 っている。
問に対する姿勢を 反映し てお が、来年度は是非新会員を迎 在校生を中心とした 二次会に
教育 面では、互いに補完し
符 ︶とし、新たに会誌発行を
二十 五名 の 尊い 犠牲 者を 出 あう分野であ る公衆衛生学教
開始した。現在幹事は山崎教
出された。そし て終戦までに
室と相談しつつ、三、四年生
寺田先生が芝在学中の非常
︵鹿瀬 記︶
に衛生学の基礎から応用まで 健 ︵
発生毒性︶、労働衛生 ︵
看 関し ては臨床基礎各部局から
学 術研究: タイ 国︶
、環 境保 中心 に行 っており生物統計に
し、 又北は シベリア抑留、南
工藤教授 ︵
聖 マ医大︶の三名 寄与し ている。︵縣俊彦記︶
引き続き慈恵狂 一代はお休みします。
は ニューギ ニア ・ラバール、
学外活動としては、松本教
り、予防医学 の発 展に大きく えたいものである。
を講義している。実習は四年 護 婦の喫煙 ・スト レス問題、 の研究相談に応じている。
授 ︵戸板短 大︶
、 吉葉 教授、
生に対して宇宙医学研究室や 航 空機乗務 員の長 距離飛行の
またはア シスタントの 笹 木 、水野 谷 、栗 原 まで
ど うぞ お気 軽 に お問 合 せ、ご
相 談 くだ さい。
米本教 授 をお迎 え して兵庫 支部総 会
或 は支 那大陸から苦難の道を
セールス部 遠 山 四 志 一
サ ー ビ スで あ た た か く心 に 残 るひ とと
卒 業 50周 年 の 十 二 月 会 (
昭 16後 )
辿り命からがら復員した。
いのち、ふくらまそう。
資料請求先 変わる化学療法、変えるタリビッド。
や 同 窓 会 、ご 会 食 な ど。きめ細 や か な
オフロキサシン錠 )
Tari
vi
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〒 100 東 京 都千代田区内幸町
丁1−1−1
お 役 立 てくだ さい。
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の 機 会 に、帝 国 ホ テル の お もて な しを
東京慈恵会医科大学担当
晴 れ のご 婚 礼 をは じめ 、記 念 パ ー ティ
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聞
新
大
慈
平 成 3 年 1 1月 2 5 日
(5 )
栗栖輝 夫君 を悼 む
︵
昭 24︶
保
田
浩
れ、岩国に開業されたのは昭 と沢山の楽しかった事が貴君
和 四十 六年 五 月 であり ま し と共に思い出されますが、ま
た。根 っからの人 の好さと 、 さか今日の日を迎えるとは誰
部に在籍しておられ、やっと した。生者必滅会者常離とは
子育ても終わりこれから貴君 いえ、五十八才の若さでしか
の稔り多い人生を迎える時に もあの溌剌として誰からも愛
中 国保 定だ よ り
︵
昭 12︶ 蘇
英
俊
神疾患のリハビ等で優秀な
実績の方々に授与されてき
たが、去年十二月二十五日
の第三回受賞式は特に盛大
五月二十三日の中国健康 な協力によ って森田療法の の発展と交流 とが注目され で、受賞者四十五人に及ぶ。
﹁
浅井賞﹂は日本の専門家
報で、中央衛生部長陳敏章 真価を 一層発揮されたいと る。
上海市精神衛生中心で開 やカナダの識者からも年々
先生が日本森田療法訪華団 言われたのも有難い。
森田療法は約六十年前か 催された ﹁上海ー浅井精神 援助資金が贈られているの
一行と会見した報道を見
衛生賞﹂受賞式の記事も見 で 一
層心強い。又北京にお
た。該センターの名誉顧問 いて本年四月三日、浅井基
でおられる浅井利勇君 ︵
昭 金医徳医風表彰大会が開催
12 ・同期生︶ の支援 でこの され十八名が表彰された。
﹁
浅井賞
中国の新聞 ・雑誌や慈大
﹂が 設けられ、精
神 衛生 事業を 促進するのが 新聞で母校の行事と働き等
主旨である。 一九八八年か を見るのが楽しみの毎日で
ある。
ら毎年 一回、センターのう
︵
高橋吉彦記︶
総勢 二十 二名であ った。
として残 っている。当時メイ
物を紹介し敬意を表した。し
究 ・開業 ・趣味など 一流の人
以上 七 名 の昭 土 会員 の 研
取らない医師であ った。
ドとして マレー人を使用して
かし私の知らない良い仕事を
して優遇したことは有名な話
いた関係で、 マレー語をマス
︵
選者 河野久米雄︶
長岡 青柳薫也
長尾長男 ︵
昭20 ・岐阜︶
栗栖輝夫 ︵
昭32 ・山 口︶
堀田吉彦︵昭23 ・神奈川 ︶
高橋恒雄︵昭3 ・神奈川︶
中村英世︵昭24 ・神奈川︶
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親切心から多くの患者さんか も思いもよらなかったことで
初めてのことだ ったので、昭
前後の参加で意気軒昂、
宿泊予約担当 小林明美 ・
清水
ら信頼されて、無くてはな ら ありました。
当たり、 一昨年十二月十六日 され、私達の世話役をいつも
貴君のご家族と従業員の忘年 進んで引受けて下さいました
会で 一堂に会し ﹁
乾杯﹂を終 貴君が、卒然として呼べど答
えた直後、貴君は小脳出血の えぬ身になられようとは誠に
ため意識を喪失されました。 断腸の思いであります。貴君
直ちに国立岩国病院脳外科に が立派に後継者を育てられた
ことが、せめてもの慰みとは
いえ、惜しみても惜しみても
尚別離の情堪え難きものがあ
ります。あの世での再会を約
し、貴君のご冥福を祈って弔
辞と致します。 合掌
た。陳部長が、現代医学上 ら上海 ・南京等で行なわれ
心理療法が益々重視されつ ていたが、これが広く知ら
つある今日、森田療法を中 れ始めたのは多分新中国成
国で研究し普及されること 立後の一九五七年、恩師西
によって、必ずや無数の患 川光昭 ・高良武久両先生が
者の苦痛を除き得るに違い 北京に御来訪された後から
ないと述べられたのは心強 であろう。この度陳部長と
い。また岡本団長が是非中 岡田団長との会談を決起と
日両国の医学関係者の密接 して、今後この方面の 一層
ち病院管理 ・卒後教育 ・精
土会は彼の労を多とし盛大に
慈恵俳壇
東医体の主管校として野
球 ・陸上競技大会が江戸川区
て、実に多彩な活動をした。
た。彼は耳鼻科の開業医とし
物故 者御氏名
な
岩国 村井 一露
落鰻夜を流るる水の嵩
女てふ匂へるけもの小夜時雨
ひとり居の心をすます木の実
28︶蓮 田 ︵昭29︶吉 岡 ︵昭30 ︶ り
高橋 ︵
昭31︶国府田 ︵
昭33︶ 大欅す っからかんの総落葉
︵
昭11︶岸田︵
昭26専︶池田︵昭 火を放つばかりに落葉集めあ
井 ︵
2年︶江戸川支部 ・菅谷
47︶国分 ︵
昭53︶野中 ︵
昭48︶
松島 ︵5年︶谷口 ︵3年︶今
田︵
昭29︶山村 ︵昭29 ︶豊原︵昭
奥沢 ︵
昭49︶柵山 ︵
昭56︶の 高きより舞ひ踊り降る落葉か
当 日の出席者は大学 ・川村
︵昭44︶野球部 ・鈴木︵敬︵
︶
昭
に盛り上が ったが、時間の流 28︶柏崎 ︵昭29︶安田 ︵昭57︶
れは早く九時をまわったので 陸上競技部 ・大戸 ︵昭28︶室
初の京都戦遠征の話題やらに
ぎやかな笑声がとび交い大い
施設で行われたが、これを機
に八月四日︵夜
日、
︶両部関係の 残念ながら野球部現役諸君は 吉 岡先生の閉会の辞で散会と
諸先生をお招きして支部総会 翌日の決戦にそなえて欠席と な った。
なお今大会 で、野球場 ・陸
なった。︵
ちなみに優勝の栄
に輝く︶
上競技場が使用できたのは、
宴は長老菅谷先生の乾杯の 蓮 田支部長の御尽力により中
音頭で始まった。参加OBは 里区長 が東医体の意義を充分
同時代の先生が多く、駒場キ に御理 解いただ いた ことによ
ャンパス時代の思い出、戦後 る事を つけ加える。
を区営〃シーサイドホテル〃
で開催した。
会は蓮田支部長の歓迎の挨
拶に始まり、次いで司会の高
橋より大会委員川村教授、陸
上部部長室田教授はじめOB
及び現役選手の紹介、野球部
部長鈴木︵教
敬授
︶、柏崎教授、
安田先生の紹介があり、三教
授より御挨拶をいただいた。
ン教授を訪ね 、親しく手術を
が恒例となり、これが楽しみ と 二回、これはNHKで放映
若くし て地元神田医師会長、
また 写真に熱心で、昭土会
慰労会をしたことがあ った。
前園長のイギリス人を友人 と
戦時中はシンガポールのラ ることを突き止める偉業 をな 雨
本古代のものから近代の物ま 時 ドイ ツに飛び、ヴル ツ大学 た。さて掉尾を飾るのは
ッフルス植物園の園長を務め し遂げた。偉なるかな羽根田
羽根田彌太君
で総てを網羅し、彼によると に同手 術の創始者ウル スタイ
国際人である羽根田君は、 た。捕虜虐待の知られる中 、 君。然し彼は到々人間の脈を
日本銀行の収蔵品より多いと
で 旅行 に 参加 す るも のも あ されたので当時私も見た。
神 田ライオ ンズクラブで会長
く ヘリ コプター以外では到達
出来ない高山である。
卓
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栗栖君。まさか、私が貴君
の弔辞を読むとは夢にも思っ
ていませんでした。本当にか
けがえのない人を失うという
ことは誠に悲しく寂しいこと
山女釣りなど 毎週末 には必ら
ず出掛けておられました。船
釣り、 ハゼ釣り、ボンゴ釣 り
には私もよくご 一緒させて戴
きました。特に船釣りでの包
丁さばきの鮮やかさには感心
していました。貴君のお陰で
司
であります。
ない存在でした。又勉強も熱
貴君の長女結実さんが阪大 搬送し今日まで総ゆる医術を
貴君の家は山口県と島根県 心で外科系以外のことも開業 医学部を卒業されたばかりの 尽くし、奥様始め皆々様の献
の境で、古くから漢方医の家 医としての研修を怠らず、プ 松浦泰彦くんと結婚されたの 身的な看護を受けて来られま
系として受継がれ、三代に亘 ライ マリイケアも立派に果た は、つい最近昭和五十八年の したが、遂に意識の戻ること
り慈恵医大のご出身でありま しておられました。又同業者 ことであります。又ご長男朗 もなく、十 一月 一日二十三時
す。特にお爺様は百年前慈恵 からも親しまれ ﹁坊ち ゃん﹂ 彦君も後継者として近大医学 五十八分帰らぬ人となられま
医大の前身である成医会講習 の愛称で呼ばれていました。
所のご出身であり、お父様は
一方 釣りが好き で、磯釣り、
大正十四年の卒業、貴君は昭
和三十二年の卒業でありま
す。又三才の時亡くなられた
末弟を除き四人のご兄弟もす
べて医科系であり、貴君は昭
和八年二月二十二日三男とし
毎年 二四会の連中は家族連れ
で貴君の郷里柿の木村の川原
で、鮎料理を堪能させて戴き
ました。或時は済州島にまで
健
る。彼の鳴物入りでなく、無
を歴任し、実行力に富んだ人
科展に入選した時 は、よほど
君も医療法人会々長としての
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てこの世に生を受けられまし
た。又ご兄弟のご子息も総て
医科系で、大変由緒ある余り
他に例をみないご家系に育て
られました。
貴君は昭和三十 二年卒業 釣に出かけましたが、台風の
後、母校の高田外科に入局し た め 一匹 も 釣れ なか ったこ
て外科医としての研修を積ま と、旅 行会 、六 日会 、二四会
谷
昭 土 会 紳 士 録 ︵
後︶
︵
昭 11︶ 菅
だ ったと思う。
ジ ックは誤魔化しでなく、レ
ッキとした科学的根拠がある
言で捌く手元は圧巻である。 婦人科を廃業し、群馬県伊勢
だ った。彼が地区 ライオ ンズ
嬉しか ったとみえて、慌 てて
ターしたという。
しているクラスメートも他に
光生物の研究に専念した。
豊
田
南
︵
昭15 ・千葉︶
戦後は各国政府より発光生 いると思う。それらを掘り起
後年利根川の下流佐原市附
斎
木
敏
生
︵
昭18 ・東京︶
近に棲息するホタルエビの研 物の研究を依頼され、外国暮 してまた昭土会紳士録を書き
入沢 宏 ︵
昭22 ・東京︶
究に従事し、これが棲息する しが多くな った。特 に ニュー たいと思 っている。妄言多謝。
条件として塩分が0%
.の
1地点 ジーランド政府の依頼で、同
が至適であることを発見し 国山岳地帯の洞穴に存在す る ★毎年本号で話題になるのは お身体如何でし ょうか。年 一
た。これは利根川の下流から 発光生物の研究を依頼 された 恒例になった大学招待五十周 ∼ 二回の身体検査など是非お
逆流する海水の影響で、塩分 時は困難をきわめた。山は高 年同級会。最近は毎回同
忘れなく。五十周年の諸
伴御夫人を含めて五十名
先輩に負けずに御活躍下
さい。
また日本耳科学会の創設に 休みは青森に滞在し、専ら発
のこと。民放でも数回放映さ 見学した。後に同教 授の原著 現在横須賀市立博物館の館長
れたので、御覧になられた方 を監訳して出版し、同手術の である。羽根田君は学生の頃
もあると思う。
衛生学︶に出
普及に務めたのは大変な努力 から矢崎教室 ︵
入りしていた。学部四年の夏
彼の最近の便りによると、
は新しい マジ ックの開発 に情 ち、財を成し雑誌 ﹁
オ ール讀 各宮家の御参観もあり、訪問
大学の教授が主催するのが例
参画して、その初代会長の役
尾形重直 君
熱 を献 げ てい る彼 であ る。 物﹂に経済論文をよく書いて
神尾友彦君
を果たした。当時、学会長は
昭土会の旅行の夜は、必ず いた。また 一時、社交ダンス
者も大分増加しているとのこ
尾形君といえば、昭土会の
新しい奇術を披露して会員 ・ に凝 って全日本選手権に出場
と。御同慶に勘えない。
旅行幹事としてよく人の面倒
との信念のもと医師として科
特にウーンと捻るだけで、声 崎市 に仙元神社なる社殿を建
クラブPR委員長 の時、大島
電話をかけてきた。その神 尾
神 尾 君は 先 年亡 く なら れ であ ったが、開業医としては
学者として、それを解明すべ
も 出な い 傑 作を 見せ てく れ 立 し、地 元の福 田 ・中曽根両
元町の大火があ り、すぐ に 飛
ところが最近心境の変化か
く手を染めたのがそもそもの
元首相を顧問に迎え、自分は
ん で救 援 活動 に 奮闘 した。
た。惜しい男を亡してしま っ 地であることを発見した。
物は、ある種の蚊の幼虫であ
こ れは 日 米共 同 研究 と な ますますの御活躍と御健
★川田編集長になって早
一部地域にもホタルエビの存
在を発見した。これは同河の り、ジ ョンホプキンス大学の 康をお祈り申し上げる。
くも 一年が過ぎました。
上流の岩塩が溶け出し、利根 ジ ョンソン教授も加わり、羽 ★今年も余すところ約 一
よりよい慈大新聞にと、
川と同じように塩水が0%
.に
1 根田君と共同で研究に従事す ヶ月。夏以来数多くやっ
編集局 一同努力を続けて
ることにな った。この発光生 てきた台風、そして記録的で お ります 。御意 見、御要望な
あ った秋雨前線、同窓諸先輩 ど 是非およせ下さい。
.に
1なる地点なのであ
の家族ド ライブには良い スナ が0%
ップを沢山撮 った。初め て二 る。後にドイツ国エルベ河の
はじまりと聞いている。
る。神社には社室として先祖
で 一杯 にな る こと もあ る。 専ら神社の経営に専念 してい
る。ホテルの夜は従業員など
伝来の宝物その他を展示し、
昭和天皇御 一家の御前で、
マジ ックを御披露申し上げた
愈々佳境に入られた尾形君頑
しい。宝物は貨幣が 主で、日 や、未だ手術名も定まらない
ーガ
ド マンのいる神社も稀ら 本 に聴 力 改善 手 術が 伝わ る 仕事の帰り、車の中で急死し なる地域がホタルエビの棲息
生涯を通じ研究熱心で、日
張れ。
彼は日本橋で婦 人科を 開業
野村志郎君
一人が光栄 に浴したことは、
シ ャンとして有名である。 マ 家族を楽しませてくれること し、その選出権を穫得するこ
をみる。彼はア マチ ュア マジ
のクラスメートを紹介する。 音であろう。午前は診療 午後 さり な がら 経済 に 興味 を持
前 回に引き つづきあ と四名 斗、と言う述懐があ ったが本 していた。若い頃 は婦人科も
江 戸 川支部総 会開催
。
「シ ャ ング リ・ラ」をぜ ひ ご利 用 下 さい
慈 恵 ゴール ドカード
ご商 談 に 、お 打 合 せ に 、明 る い雰 囲気 の レ ス トラ ン
世 界 170か 国 に広 が る加 盟 店 ネットワー ク
03−
3431−0109
■ ゴル フ場 のプレイ予 約 受付
■ 海外旅 行 V I
Pサ ー ビス
での東 医体 開催 を記念 して
のは、プ ロ ・アマを通じて彼
す でに新聞など で御 承知の事
と 思う。陛下の御前 で冷汗 三
愛宕山
編集局だよ り
江戸川 区の球場 ・
陸上 競技 場
(6 )
平 成 3 年 1 1月 2 5 日
聞
新
大
慈
(
第 三種 郵 便物 認 可 )
第 4 4 4号