Title 学習意欲研究における自律性の位置づけ

Title
学習意欲研究における自律性の位置づけ : 内発的動機づけの批判的検討
を通して
Author(s)
伊田, 勝憲; 乾, 真希子
Citation
釧路論集 : 北海道教育大学釧路校研究紀要, 第43号: 7-14
Issue Date
2011-12
URL
http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/2882
Rights
Hokkaido University of Education
釧路論集 -北海道教育大学釧路校研究紀要-第43号(平成23年度)
Kushiro Ronshu, - Journal of Hokkaido University of Education at Kushiro - No.43(2011):7-14
学習意欲研究における自律性の位置づけ
-内発的動機づけの批判的検討を通して-
伊 田 勝 憲1・乾 真希子2
1
北海道教育大学釧路校教育心理学研究室
2
白糠町立茶路中学校
Autonomy in the Studies of Academic Learning Motivation:
From the Critical Consideration of Intrinsic Motivation
Katsunori IDA1 and Makiko INUI2
1
Department of Educational Psychoolgy, Kushiro Campus, Hokkaido University of Education
2
Charo Junior High School, Shiranuka Town
要 旨
学習意欲研究の中で最も注目を集めてきた「内発的動機づけ」の概念に注目し,それが広く一般に受け入れられる中で
どのような言説が生まれ,学習者にどのようなメッセージとして受けとめられたのか,学習を促進するはずの概念が,逆
に学習を回避する口実を与えている可能性について検討した。そして,内発的動機づけ研究史の初期において指摘されて
いた問題点と照らし合わせ,本質的には「自律性」をめぐる誤解に端を発している可能性があることを論じた。具体的に
は,一口に他律と言われる中に「他者準拠・依存の他律」と「やりたい放題の他律」が含まれること,そして後者が自律
と誤解されがちであることを指摘した。このような議論を踏まえて,これまでの内発的動機づけ研究の理論的枠組みを概
念的に整理し,上述した内発的動機づけ概念の誤解との関係を読み解きながら,他律から自律へのプロセスとして学習意
欲の発達を捉える必要性を示した。
はじめに
育における重要な概念と考えられる自律性(autonomy)
これまでの教育心理学における学習意欲研究の中で,最
を切り口として,現在の動機づけ研究のメインストリーム
も注目を集め,教育的に最も望ましいと考えられてきた
と言える理論的枠組みが内発的動機づけを最も望ましいと
概念は「内発的動機づけ」
(intrinsic motivation)であろ
している点を批判的に検討するとともに,真の意味での自
う。内発的動機づけの礼賛と同時に,
「外発的動機づけ」
律的動機づけ研究に向けての方向性を探ってみたい。
(extrinsic motivation)が対概念として位置づけられ,
「内
内発的動機づけの逆説
発は善,外発は悪」という二分法で語られることが多かっ
―「楽しくなければ学ばなくてよい」?―
た(速水,1995)
。
一般的な理解としては,学ぶことの楽しさや学ぶ内容の
内発的動機づけ研究を展望した鹿毛(1994)によると,
おもしろさといった視点が内発的動機づけのイメージとし
内発的動機づけの定義は多様であるが,最も一般的で広く
て浸透しているように思われる。
「楽しいから学ぶ」のが
受け入れられているのは「自己目的性」
,すなわち,学習
内発的動機づけであるという概念化は,確かに学習理由を
することそれ自体が目的となっている意欲で,学ぶことが
ありのままに表現したものであり,
研究上の操作的定義(質
楽しいと感じたり,学ぶ内容がおもしろいと思ったりす
問紙法による調査項目の文言など)としては有効かもしれ
ることが特徴として挙げられる。その場合,学習するこ
ない。しかし,これが言説として広がるならば,当初の思
とが何らかの目的を達成するための「手段」になっている
想とは異なる方向に学習者を導くことになる危険性を孕ん
ような意欲が外発的動機づけということになる。例えば,
でいるように思われる。
お小遣いをもらうこと,試験で高い点数を取って合格する
そこで本論では,内発的動機づけに関する言説が特に児
こと,他者との競争に勝つことなど,学習内容以外の報
童や青年の学習意欲に及ぼす影響について,周辺諸科学の
酬の獲得(または罰の回避)が目的となっていて,その手
研究を参考にして論じてみたい。その上で,発達および教
段として学習に取り組むような意欲が典型例として挙げら
-7-
伊 田 勝 憲・乾 真希子
れる。1970年代以降,長らくこのような理解のもとに,広
Determination Theory; Ryan & Deci, 2002)が主流となっ
く教育界で「内発的動機づけが望ましい」という言説が流
ているものの,内発的動機づけを自己目的性で定義してい
布してきた。1990年代後半以降は,内発と外発の二分法
る点,そして,内発的動機づけが最も自己決定的で望まし
から脱却して,両者を連続的に捉える自己決定理論(Self-
いとする点は受け継がれている(Figure 1)
。
さて,心理学的な研究の中で登場した概念が一般化し,
な形で,内発的動機づけが望ましいという言説は,
「内発
研究成果が広く共有されるようになり,すでに「内発的動
的動機づけが生じなければ学ぶに値しない」という裏命題
機づけが最も望ましい」という言説が広く社会に流布して
に読み替えられ,学習する理由を示したはずの言説が,結
いると考えられる。にもかかわらず,内発的動機づけに
果として学習しなくてもいいと思える口実を与えるという
よって活動する人が増えたと実感することは少なく,学力
皮肉な状況をもたらしている可能性を考えないわけにはい
低下とセットで学習意欲の低下が指摘されて久しい状況で
かない。
ある。果たして,流布している「にもかかわらず」このよ
うな事態に至ったのか,あるいは流布した「からこそ」の
「楽しさ」言説の抑圧性
意欲低下(あるいは低いまま推移)なのであろうか。いく
内発的動機づけの言説の問題点は,単に学習しない理由
つかの例をもとに具体的に考えてみたい。
を提供することだけにとどまらないように思われる。ある
例えば,教師をはじめとする大人によって「楽しいから
語学教材のキャッチフレーズ「努力禁止」が象徴的かもし
学ぶというのが本物の意欲だ」というメッセージが発せら
れない。最小限の努力で効率よく最大の成果を得ることが
れたとしたら,児童・生徒はどのように受けとめるだろう
善という前提の上で,楽しくないことに無理して取り組む
か。そもそも,このようなメッセージが発せられる典型的
のは効率が悪いから辞めた方がいいというメッセージを含
な場面を想像するならば,児童・生徒が嫌々ながら学習
んでいるのではないだろうか。
に取り組んでいる状態,あるいは学習に取り組んですらい
このような言説の問題として,学習に取り組む理由が
ないような状態であるかもしれない。学習したくない気持
「楽」
(楽しい+ラク)の1点に集約されてしまっており,
ちの時に「楽しいのが本物だ」と言われたら,
「楽しくな
それ以外の価値について正面から議論することを避けてい
ければ本物ではない」
「楽しくなければ学ばなくてよい」
るかのように見える点が挙げられるだろう。仮に楽しさ以
といった学習回避の口実に使われる危険性の方が高いだろ
外の価値を正面から議論することになれば,学力向上や資
う。
格取得等を通した進学・就職・転職などの現実的な場面に
また,言説は学校の外にも広がっている。数年前,ある
おいて有利な立場を獲得したいという外発的動機づけが否
小学生向けの学習教材の広告に「おもしろいから頑張れ
応なく透けて見えてくるかもしれず,それを隠したいのか
る」というキャッチフレーズが使われていた。内発的動機
もしれない。あるいは,そのような利益追求の動機で始め
づけで学べる教材であることを伝えるものと解釈できる
たのではないとしても,第三者からそのような目では見ら
が,この「おもしろいから頑張れる」というメッセージの
れたくないという気持ちがあるのかもしれない。いずれに
裏には,
「
(教科書等の教材が)おもしろくなければ頑張れ
しても,それを「楽しさ」という感情でカムフラージュし,
ない」
「おもしろくなければ頑張らなくていい」という価
「楽しんでやっていたら,結果としていろんな報酬が後か
値観が暗黙の前提になっているように思われる。このよう
らついてきた。自分はただ楽しんでいるだけ」という耳に
-8-
伊 田 勝 憲・乾 真希子
心地よいストーリーに仕立てているかのようである。
ならないという義務感ゆえに身動きが取れない状況になっ
ここで論点となるのは次の2点であろう。1つは,学習
ているという面も考えなければならないという話になる。
者本人が自分自身の動機づけを偽って語っていることによ
そこで必要とされるメッセージは「やりたくないことを仕
り,
「楽しさ」以外の価値について正面から広く議論され
事にしてもいい」
「やりたいことではなくても,仕事の結
る機会が社会から失われること,そしてもう1つには,そ
果として飯が食えれば社会人としては合格」ということで
の偽りの物語が広く社会に流通し,それを聞かされた他の
あろう。そして,学習に置き換えた場合,内発的動機づけ
学習者が「楽しさ追求」のストーリーを真に受けて,「楽
で学ばなければならないと思い込んでいるならば,「苦し
しさを追求するのが本当の動機づけ」
「それ以外の動機づ
みながら学習してもいい」というメッセージが必要ではな
けで学ぶのは悪」と思い込んでしまうことである。後者に
いだろうか。
ついて大げさに言えば,受験に備えて四苦八苦しながら学
さて,このような形で学習者を思わぬ方向に縛る言説を
習に取り組んでいる至極真っ当な学習者を「悪」とみな
生み出したことも危惧される内発的動機づけであるが,じ
し,その学習者自身が「自分はこんなに苦しんで学習して
つは1960年代前後における比較的初期の研究においては,
しまっている。ということは,もともと学習に向いていな
概念が誤解される危険性を指摘する記述が散見される。そ
いのだろう」
「苦しんで学習しなければならないような自
の内容は,上述した内発的動機づけの逆説を生み出すメカ
分は悪い人間だ。それなら学習しない方がマシ」といった
ニズムを見事に言い当てているようにも思われる。以下
思考に追い込まれるような状態が想定される。
に,
内発的動機づけの誤解をめぐる有力な論考を紹介する。
「やりたいこと」言説の呪縛
自己実現から見た内発的動機づけの危険性
さて,「楽しんで学習できないなら,学習をやめて,楽
人間性心理学,特に自己実現や至高経験の概念で知ら
しんで遊ぶことの方が善」と流れていくのも無理はないと
れるMaslow(1968)の論考から,内発的動機づけの誤解
して,それでもなお「学習すべき」という外圧が強い環境
を考えてみたい。Maslowの著作では,随所でB(Being;
であれば,いよいよ「学習を楽しめない自分は生きている
生命,成長欲求に動機づけられる)とD(Deficiency; 欠
価値がない」という全人格否定に向かうことになりかねな
乏欲求に動機づけられる)が対比され,従来の心理学がD
い。いわば「学習することを楽しみなさい」という強烈な
にしか注目してこなかったことを批判しながら,自己実現
メッセージにまでなると,それはすでに「内発的動機づけ
にとっていかにBが重要かを説いている。広く知られてい
の強制」とも言うべき外発的動機づけである。楽しみなさ
る通り,Dに関わる欠乏欲求として,生理的欲求と安全欲
いと言われて楽しめるものではないだろうし,特に学習場
求(一次的欲求),所属・愛情の欲求と承認・自尊の欲求(二
面においては,理解できたり自分が成長したりした結果と
次的欲求)が挙げられ,いずれもある程度の満足(欠乏の
して楽しくなるということの方が多いとすると,最初から
充足)が得られると次の欲求段階が優勢になると考えられ
楽しいということは少ないがゆえに,いきなり楽しむとい
ている。そして,最も高次な欲求がBに関わる自己実現欲
うのは要求水準が高すぎるように思われる。
求,すなわち成長欲求である。
この問題に関連して,フリーター・ニート研究における
ここではB認識の内容を具体的に論じるだけの紙数はな
「やりたいこと」へのこだわりに関する論考(久木元,
いが,端的には,自己実現あるいは至高経験をしている瞬
2003など)が興味深い。
「やりたいことを仕事にしよう」
間に訪れる「完全」な状態の認識を指すものと思われる。
というメッセージは,仕事を通して自己実現を目指すとい
Maslowは内発的動機づけという言葉を直接的には用いて
う意味で,今や広く世の中に受け入れられているように思
いないが,知ろうとする欲求に注目して「不安解消のため
われる。おそらく進路指導・キャリア教育の場面において
の知識と成長のための知識」という形で,いわば外発と内
も,「自分探し」
「やりたいこと探し」が奨励されてきた面
発に相当する視点を対比的に示していることから,自己実
があるだろう。しかしながら,
「やりたいことをやりなさ
現の概念と内発的動機づけの概念は重なり合う部分が少な
い」が「やりたいことをやるのが望ましい」
「やりたいこ
くないと思われる。
とをやるべきだ」という意味で受けとめられると,非常に
さて,そのMaslow自身の著作の中で1つの章を「B認
厄介な問題を引き起こすことになる。端的に言えば,
「や
識の危険性」と題し,無為(受動的な瞑想,
「あるがまま」
)
,
りたいことを仕事にしなければならない」という呪縛と
無責任(他人を助ける責任を軽んじさせる)
,社会的連帯
なって,仕事に求める条件を非現実的なまでに高めてしま
性の欠如(他人を誤解させる),不明確な価値判断(無差
い,結果として就業機会を逸する方向に作用するわけであ
別的受容,日常の価値を不明瞭にする,寛大すぎる)
,過
る。
度の審美主義といった問題点を挙げているのは興味深い。
ゆえに,フリーターやニートは,すでに「やりたいこ
また,序文では,より明快に自己実現という概念(字面)
と」が見つかっていてその実現のための自由を得ようとし
の欠点が指摘されている。具体的には,a)愛他的という
ているのではなく,未だ見つからない「やりたいこと」を
より利己的な意味が強いこと,b)人生の課題に対する
見つけなければならない,しかもそれを仕事にしなければ
義務や献身の面が希薄なこと,c)他人や社会との結びつ
-9-
学習意欲研究における自律性の位置づけ
きをかえりみないばかりか,個人の充実が「よい社会」
解したまま概念を用いているかもしれない。究極的には概
にもとづいている点を看過していること,d)非人間的な
念の字面(名称)そのものを変えることで解決するか,あ
現実のもつ強要的性格や本質的魅力,興味を無視している
るいは概念を説明する際に誤解か否か明確に判断できる視
こと,e)無我と自己超越の面がなおざりにされているこ
点を提示しなければならないだろう。この問題を解決する
と,f)それとなく能動性を強調し,受動性,受容性につ
概念として有力と思われるのが自律(autonomy)である。
いておろそかにされていることである。実際には,自己実
教育学者の岡田(2004)は,
「愛着が加わった場合には,
現をする人が愛他的で,献身的で,自己超越的,社会的で
大人と子どもという落差にもかかわらず同一化を引き起こ
あることをMaslowは強調しているのであるが,そうした
し,相手の判断をわが判断とし得るのである。これは往々
説明にも関わらず,自己中心的なものと誤解されることを
にして他律の一言で片付けられることの多い現象である
Maslow自身が危惧しているわけである。そして,「B認
が,自律の敵対物と考えるのではなく,自律の前提として
識の危険性」の章末においてB認識とD認識の関係につい
の世界の構造化のための要素蓄積を可能にする機序として
て触れ,両者ともに高い人たちの存在を論じており,決し
理解することが重要である」(p.165)と記している。すな
てB認識のみで自己実現が導かれるわけではないことを示
わち,自律と他律は単に対極的な概念ではなく,他律があっ
唆しているように思われる。
てこその自律という側面を見逃してはならないということ
である。
指し手概念から見た内発的動機づけの危険性
ここで思い起こされるのは,フロイト(S. Freud)の心
deCharms(1976)は,西洋将棋チェスの一番弱いコマ
的装置に描かれている「エス」「自我」「超自我」の関係で
である“歩(ポーン:Pawn)
”と,
コマを動かす“指し手(オ
あろう。同一化(または取り入れ)によって,他者(典型
リジン:Origin)”を対比させ,自らが自分の行動の原因
的には大人,親)の価値観が「超自我」として内面化され,
となっていることを自己原因性(personal causation)と
理想原則に基づいて「こうすべき」
「こうしなければなら
呼んでいる。そして,伝統的な授業形態では生徒が教師の
ない」といった圧力として「自我」に働きかけられる。一
指示通りに動くコマと化しており,自己の学習行動を自分
方で「エス」からは快楽原則に基づくエネルギー(リビ
で始発するように励まされたならば生徒はもっと指し手に
ドー)が供給され,「欲望を満足させたい」「やりたいこと
近くなっていくであろうと述べられている。そして,指し
をやりたい」という形でやはり「自我」に圧力がかかる。
手は内発的に動機づけられ,コマは外発的に動機づけられ
「超自我」と「エス」からの相容れない要求を「自我」が
ているという対応関係が示されているものの,deCharms
現実原則に基づいて調整・統合するのがまさに「自我の自
自身,そのような記述は単純化しすぎているきらいがある
律性」である。
と述べており,行為が自己の目的に対して有意義なステッ
ゆえに,単にやりたいことをやりたい放題に行為するこ
プとなっている文脈の重要性を指摘している。
とは,決して自律ではない。外部からの圧力あるいはそれ
そうした流れの中で,
「指し手概念の誤解」と題した一
が内面化されて形成された「超自我」からの圧力に屈して,
節があり,内発的動機づけの危険性にも通じると思われ
言われたままに行為するのも他律であるが,一方で「エス」
る。例えば,「指し手概念は,しばしば束縛をまったく否
からの衝動をそのままに行為することもまた他律なのであ
定するものとして誤ってとられている。この誤解は,指し
る。ここでは便宜上,前者を「他者準拠・依存の他律」
,
手とは各種の束縛の中で自分の目標達成に努力する者であ
後者を「やりたい放題の他律」と呼ぶことにしたい。自律
ると先に定義づけたことによって解消している」
(佐伯訳,
の概念を確立したのはカント(I. Kant)と思われるが,
p.243)という記述から,外的な束縛の存在が指し手感覚
純粋理性に基づく「意志の自律」の概念が道徳的な意味を
を弱めて内発的動機づけを低下させるという誤解が当時か
持つのもうなずける。日常的には「自律」の「自」を「自
ら存在していたことがわかる。さらに,自我の発達段階に
分」や「自己」などと捉えがちであるが,カントやフロイ
よって指し手概念が異なって受け取られるという見方を示
トの思想からすれば,「自」は「理性(から見出された法
し,自我が未熟な衝動型の人物を例に挙げ,
「多分,彼は
則)
」とでも呼べるものであり,その理性に従うのが自律
最初,指し手概念を何でも衝動のままに行動してよいこと
である。そして,
「理性」ではないもの,例えば「欲望」
だととるであろう」
(佐伯訳,p.243)と述べている。
に従うのは他律(やりたい放題の他律)となる。
おそらく本論で上述してきた内発的動機づけの一般的な
自律を考えるための「2つの他律」
誤解は,本来の意味での自律とやりたい放題の他律とを区
上述してきたとおり,内発的動機づけをめぐる典型的な
別できない(区別していない)ことに起因していると考え
誤解が
「やりたい放題やっていい」
という捉え方であった。
てよいだろう。
「やりたい放題の他律」を自律と勘違いす
しかしながら,
「内発的動機づけ」
「自己実現」といった用
るのは,
「他者準拠・依存の他律」のみを他律と考えてしまっ
語の字面が与える印象もあり,こうした誤解を解くのは容
ていること,そして「他者準拠・依存の他律」を「自律」
易ではないのかもしれない。言説として広く一般に受けと
の対極にあると考えているためである。そして,先に述べ
められる際の誤解のみならず,専門家・研究者でさえも誤
た岡田(2004)の指摘する「自律の前提としての他律」,
- 10 -
伊 田 勝 憲・乾 真希子
すなわち,他者準拠・依存の他律が発達的に重要な意味を
的な状態である可能性と「やりたい放題の他律」である可
持ちうるという側面が軽視あるいは無視され,
「他律(他
能性の両方が含まれている。そもそも自己決定性というの
者準拠・依存の他律)は悪,自律(実態はやりたい放題の
は,自分の行動を自分で決めていると感じる程度のことで
他律)は善」という言説となり,
「外発的動機づけは悪,
あり,自律的な学習者は当然そう感じている程度が高いは
内発的動機づけは善」と置き換えられて,学習意欲をめぐ
ずであるが,同時に,やりたい放題の他律で,たまたま目
る言説として広がってきたのではないだろうか。
の前の学習課題が楽しく感じられ,その課題だけ内発的動
機づけが生じたという場合にも自己決定性は高く感じられ
内発的動機づけ研究から自律的動機づけ研究へ
るだろう。このやりたい放題の他律による特定の場面にお
―他律から自律へのプロセスに注目する―
ける内発的動機づけが,果たして内発的動機づけの名に値
内発的動機づけをめぐる誤解,そして2つの他律という
するのか,精緻な議論が必要となるだろう。
視点から見えてくるのは,いかに学習意欲研究に自律性と
ここで,自己決定理論を土台としつつ,学習が手段であ
いう視点を織り込むかという課題であるように思われる。
るか目的であるかという軸と,自己決定性の程度という軸
裏返せば,これまでの研究における理論的・概念的枠組み
を独立したものと見なした速水(1998)の図式をもとに考
では,本来の自律の意味を表現することに失敗しているよ
えてみたい(Figure 2)
。横軸に自律と他律,縦軸に目的
うである。
と手段が位置づけられ,従来の内発的動機づけは第1象限
例えば,本論の前半に示した自己決定理論の枠組み
(自律かつ目的)となり,その対極に第3象限の外発的動
(Figure 1)では,最も自己決定性が高い内発的動機づけ
機づけ(他律かつ手段)が位置づけられる。その中間にあっ
が望ましく,学習することそれ自体が目的になっていると
た取り入れ的調整,同一化的調整,統合的調整はいずれも
いう位置づけであった。それに対して,学習が何らかの目
外発的動機づけに分類されていたものであるので手段の位
的を達成するための手段として位置づけられているのが外
置になり,自己決定性の程度が異なると考えられる。この
発的動機づけであり,内発的動機づけに比べて自己決定性
図式に基づいて考えるならば,統合的調整は内発的動機づ
が低いという位置づけになっていた。
けに劣らず自律的・自己決定的と言える可能性がある。
自律と他律を考えた場合,この内発的動機づけは,自律
伊田(2003)は,この統合的調整に位置すると考えられ
る動機づけ像を教員養成課程の学生を対象とした調査から
という位置づけができるケースもあると考えられる。
明らかにし,必修の教職に関する科目(心理学系の生徒指
このような手段性の再評価という流れは近年の動機づけ
導論)の授業内容について,単に楽しい・おもしろいとい
研究でようやく形になりつつある状況であり,その点1つ
う価値づけよりも,将来の職業実践で役に立つという価値
取っても内発的動機づけ礼賛の風潮を打ち破るのは簡単な
づけによって学習している方が自律的であることを示し
ことではないように感じられる。そして,それ以上に困難
た。ゆえに,第3象限の統合的調整が第1象限の完全なる
な議論となりそうなのが本論の問題に直結する第2象限
内発的動機づけと並ぶどころか,それ以上に自律的である
の位置づけである。学習することそれ自体が目的でありつ
- 11 -
伊 田 勝 憲・乾 真希子
つも他律であるというのはどのような意味だろうか。速水
自分の実力を擬似的に可視化するといったゲーム化などの
(1998)の図では,単に「擬似内発的動機づけ」として示
方略も考えられそうである。
されていたが,
先の「やりたい放題の他律」と「他者準拠・
従来であれば,学習内容そのものではない,一見「邪道」
依存の他律」を区別して考える必要があるだろう。
とも思われる方略の使用が外発的動機づけに基づくものと
まず,「やりたい放題の他律」による擬似内発的動機づ
して,否定的に見られていたかもしれない。しかしながら,
けは,先に述べたように,目の前に与えられた課題がたま
たとえその場しのぎであっても,他者からの期待や社会的
たま工夫されていて直感的に楽しいものであるようなケー
に望ましいとされている基準をそれなりに受け入れて学習
スにおける学習意欲である。興味をひかれる取り組みやす
課題に取り組む中で,自分の感情や動機づけを調整する術
い課題であれば行動を起こすが,内容が複雑になってきた
を身につけることは「他律から自律へ」のプロセスとして
り,飽きてきたりすれば課題を放棄することが容易に想
肯定的に評価することも可能であるように思われる。
像できるケースということになる。そもそも,学習内容が
「自律的になりなさい」を超えて
おもしろいというよりも,その提示の仕方が楽しいという
表面的な取っつきやすさでしかないのかもしれない。しか
―まとめに代えて―
も,その取っつきやすさは他者(課題を提示している人)
先に,フリーター・ニート研究における「やりたいこと」
が作った仕掛けである。いずれにしても,環境から与えら
言説を取り上げた。フロイトの枠組みに当てはめるならば
れる刺激に対するその瞬間の感情や衝動に支配されている
次のように言い換えられる。
「やりたいことをやりなさい」
点でまぎれもなく他律的である。
というメッセージが内面化されて超自我に取り込まれると
一方,同じ表面的な楽しさであっても,学習者自身が
「やりたいことをやるべきだ」という圧力となって自我に
工夫して作り出している仕掛けも考えられる。今回,
「他
作用する。しかし,「やりたいこと」の具体的な中身が自
者準拠・依存の他律」に対応する2つめの擬似内発的動機
明ではないため,
「やるべきだ」と言われても「何を?」
づけとして,ある種の学習方略の使用を考えてみたい。
という疑問が生じる(自覚されるかどうかは別として)。
Zimmerman, & Martinez-Pons(1986) を は じ め, 自 己
そして,エスから供給されるエネルギーには,純粋な快楽
調整学習(Self-Regulated Learning)と呼ばれる研究領
追求を除いて,具体的な中身は含まれていないと考えた方
域で様々な学習方略の使用やその効果が検討されてきてい
がわかりやすい。喩えるならば,自転車のペダルに力(エ
る。方略の分類基準は様々であるが,動機づけを高める方
ネルギー)は加わっているが,
「行きたいところへ行くべ
略という切り口からの論考も見られる。例えば,伊藤・神
きだ」と言われても,行き先が決まっていないのでブレー
藤(2003)は,中学生を対象に「自己動機づけ方略」を測
キレバーを握ったまま動けないような状態なのである。
定する質問項目を作成し,①整理方略(ノート作成等)
,
ゆえに,今回,内発的動機づけ研究から自律的動機づけ
②想像方略(将来の自己像をイメージ)
,
③ながら方略(音
研究へと転換を図ろうとしても,また「自律的であること
楽やラジオ等),④負担軽減方略(得意なところを多く勉
が望ましい」というメッセージになってしまうのでは同じ
強),⑤めりはり方略(勉強と遊びの切り換え,短時間集
ことの繰り返しになる。おそらく今求められているのは,
中),⑥内容方略(身近なことに関連づけ)
,⑦社会的方略
大人自身が自律的であること,そして,試行錯誤しつつ他
(友だちと一緒に勉強)
,⑧報酬方略(勉強が終わったら
律から自律へと向かい,調整・統合された動機づけで具体
お菓子を食べる)の8つを挙げている。
的な課題に取り組んでいること,その姿を次の世代に見せ
こうした方略を用いながら,与えられた課題(出発点は
ることなのかもしれない。ラカン(J. Lacan)は人間の欲
「他者準拠・依存の他律」
)に対して自分なりの工夫を施
望は他者の欲望であると言っているが,まさに子どもの欲
しながら取り組み,その中で楽しさが感じられるケースが
望は大人の欲望であり,まずは大人の欲望とそれに基づく
あるだろう。①整理方略であれば,ノートに絵や図式化し
学習活動を見せることから出発し,子どもの超自我に具体
て整理したり,色ペンで重要事項を目立つようにしていく
的な中身が取り込まれることが必要なのだろう。取り込ま
作業自体が楽しいということも考えられる。②想像方略で
れた後,子ども自身が葛藤することを通して真に自律的な
あれば,この課題をこなした先に受験で合格している自分
動機づけとなることが期待される。
や希望職業に就いている姿を想像して自分を鼓舞し,高揚
こうした欲求や価値の伝染(ミメーシス)をより大きな
感などのポジティブな感情が得られ,単調な学習課題で
視点で捉えるならば,アイデンティティ(自我同一性)の
あっても比較的長期にわたって継続できるかもしれない。
形成と学習との関係について論じる必要があるだろう。石
また⑧報酬方略では,勉強が終わったらお菓子を食べられ
田(1981)は,
「アイデンティティが,ヒューマン・モチベー
るとか遊べるといった直接的な報酬(ごほうび)も考えら
ションの特殊範疇たる内発的動機づけを,その部分集合と
れるが,例えば,問題集を解いているときに,1問ずつの
して包摂するものであることは、明白」であり,
「内発的
正誤確認だけで淡々とこなしていくのが辛いと感じ,15問
動機づけの理論と自我同一性の理論は,研究方法論上の基
ずつに区切って大相撲の「場所」に見立てて,○勝○敗,
本的相違にもかかわらず,両者は人間の本性ならびに生に
前頭○枚目などと自分で番付をその都度上下させながら,
対する深い洞察に基づく,人間性の心理学という点で、軌
- 12 -
伊 田 勝 憲・乾 真希子
を一にするともいえよう」
(p.159)と述べている。こうし
ティティというと生き方や価値観に関わる大きな概念であ
た論調はその後の動機づけ研究の展開では非常に少ないの
るが,こうして学習している瞬間の思考にも影響を与えう
であるが,内発的動機づけの問題を捉え直す中で,自律と
る身近な問題として考えることができよう。
いう視点から,文字通り「自我の自律性」
「自我同一性」
近年の自己心理学の発想に基づくならば,こうしたアイ
と動機づけの関連づけが課題として浮き彫りになったので
デンティティを自己物語としてストーリー的に捉え,その
はないだろうか。
ストーリーという文脈に照らして目の前の課題に意味や価
鑪(1990)は,
アイデンティティの確立を「時間軸」と「空
値が付与され,行動への動機づけが生まれると考える発想
間軸」
の両面から描いている。
一般的な表現に換言すれば,
が可能である。図式化するとFigure 3のようになる。自己
自分の過去・現在・未来が連続性を持ち,一貫したストー
物語に基づいて課題ごとにそれぞれ異なる価値づけがなさ
リーとして語られているかという側面と,そのストーリー
れるとともに,課題を遂行するための具体的な行動が選択
の中で他者・社会とのつながりが語られているかという側
され,時には複数の課題につながる重要な1つの行動が統
面であり,その両方が重要であるという見方である。先に
合的に選択・創造されることも考えられる。この図中には
挙げた自己動機づけ方略の②想像方略などは,将来の自己
他者や社会が直接は書かれていないが,自己物語のストー
像を想像している点で,現在と未来をつなぐ試みとして位
リーの中身として他者・社会とのつながりが描かれている
置づけられ,しかも職業という視点が入るならば,他者・
ならば,当然,課題への価値づけも社会性を帯びてくるこ
社会とのつながりも追求されていることになる。アイデン
とになる。
そこには,他者・社会からの自分への期待も含まれるで
発達と重ねるならば,アドラー(A. Adler)の唱える共同
あろうし,逆に自分が他者・社会に貢献するという利他的
体感覚(social interest)の概念が意味を持ってくると思
な内容も出てくるかもしれない。そうした文脈が学習課題
われる。これは他者の幸福に関心があるかどうかを指す概
への価値づけにも多様な形で反映されるはずである。じつ
念である。この視点からの議論については,伊田(2009)
は,本論で十分に取り上げられなかったが,内発的動機づ
がE. H. Eriksonの心理社会的発達理論の特に第Ⅳ段階(学
けと外発的動機づけの概念における最大の欠点は,
この「利
童期:勤勉性対劣等感,コンピテンス)と関連づけながら
他的」な動機づけが表現できないことであるように思われ
整理している。本来であれば児童期の課題であるが,
「や
る。学習することが楽しい・おもしろいのは学習者本人で
りたいこと」言説等の影響を受けているとしたら,青年期
あるし,学習することによって報酬を得たり罰を避けたり
以降にも積み残されている可能性が容易に想像できる。
するのもやはり学習者本人である。つまり,内発―外発と
いずれにしても,極端な二分法に陥らずに,また,一瞬
いう枠組み自体が「利己的」な見方をベースにしているの
の最高の状態を切り取ってそれを礼賛・理想化するのでも
である。
なく,紆余曲折のプロセスに注目しながら,学習意欲の発
社会学や哲学の視点からは,苅谷(2005)のように「私
達を捉えることが課題である。葛藤・調整・統合といった
たちのために学ぶ」という視点が提起されている。利己的
プロセスそのものの中に自律の契機を見出し,学習者を勇
と利他的の両方を統合する表現として興味深く,他律と自
気づける動機づけ研究の展開を志向したい。なお,今回は
律の関係を考えさせてくれる。この問題をパーソナリティ
自律的な学習動機づけ像を捉える切り口として有力な価値
- 13 -
伊 田 勝 憲・乾 真希子
(課題価値)の概念については詳しく触れられなかった。
student use of self-regulated learning strategies.
Americal Educational Research Journal , 23, 614628.
稿を改めて自律の視点から検討したい。
引用文献
deCharms, R. (1976). Enhancing motivation: Change in
the classroom. N.Y. : Irvington.(佐伯胖(訳)(1980).
やる気を育てる教室―内発的動機づけ理論の実践― 誠信書房)
速水敏彦 (1995). 外発と内発の間に位置する達成動機づ
け 心理学評論, 38, 171-193.
伊田勝憲 (2003). 教員養成課程学生における自律的な学
習動機づけ像―自我同一性,達成動機,職業レディネ
スと課題価値評定との関連から― 教育心理学研究,
51, 367-377.
伊田勝憲 (2008). 動機づけから自己をとらえる―学ぶと
いうことの意味を通して 榎本博明(編)自己心理学
2 生涯発達心理学へのアプローチ 8章 金子書房
pp.141-155.
伊田勝憲 (2009). エリクソンの第Ⅳ段階“industry”再
考―劣等感と仮想的有能感の関係から― 心理科学,
30(1), 31-43.
伊藤崇達・神藤貴昭 (2003). 中学生用自己動機づけ方略
尺度の作成 心理学研究, 74, 209-217.
石田梅男 (1981). 内発的動機づけ 遠藤辰雄(編)アイ
デンティティの心理学 ナカニシヤ出版 pp.149161.
鹿毛雅治 (1994). 内発的動機づけ研究の展望 教育心理
学研究, 42, 345-359.
苅谷剛彦 (2005).「学ぶ意味」をどう再生するか 苅谷剛
彦・西 研(著)考えあう技術―教育と社会を哲学す
る― 第四章 ちくま新書 pp.249-266.
久木元真吾 (2003).「やりたいこと」という論理―フリー
ターの語りとその意図せざる帰結― ソシオロジ,
48(2), 73-89.
Maslow, A. H. (1968). Toward a psychology of being. (2nd
(訳)
ed.). Princeton, N.J. : Van Nostrand.(上田吉一
(1998). 完全なる人間―魂のめざすもの― 第2版 誠信書房)
岡田敬司 (2004).「自律」の復権―教育的かかわりと自律
を育む共同体― ミネルヴァ書房
Ryan, R. M., & Deci, E. L. (2002). Overview of selfdetermination theory: An organismic dialectical
perspective. In E. L. Deci & R. M. Ryan (Eds.),
Handbook of Self-Determination Research .
Rochester, N.Y. : University of Rochester Press.
pp.3-33.
鑪幹八郎 (1990). アイデンティティの心理学 講談社現
代新書
Zimmerman, B. J. & Martinez-Pons, M. (1986).
Development of a structured interview for assessing
- 14 -