「希望の朝に」

「希望の朝に」
マタイによる福音書 28 章 1~10 節
松田和憲牧師(2012 年 4 月 8 日(日)
イースター 礼拝説教)
主イエスが罪の力、闇の力、死の力を打ち破って、死臭ただよう「墓」からよみがえ
って復活されたこと、それがわたしたちにとって何ものにもまさる希望の源泉であるこ
とをマタイの描く「空虚な墓(28:1~10)」のテキストから学んでみたい。そして、こ
のテキストを学ぶ上で、キーワードとなるのは「逆転」という言葉である。
マタイは、他の福音書の叙述と異なって、婦人たちが主イエスのなきがらに香料を塗
るために墓に急ぐ途中、墓の入口にある大きな石を誰がどうやって取り除けてくれるか
思案することには触れずに、「大きな地震が起こり、主の天使が天から降って近寄り、
転がした石の上に座った」、そして「天使の姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白
かった(3 節)」と記している。ここに、マタイが「天使」の存在を意図的に描き出してい
ることが読み取れる。マタイ福音書では、度々「天使」を登場させている。婚約中のマ
リアが身ごもったことを告げられて戸惑うヨセフに「天使」が現れたり、また、エジプ
トに逃避行していた聖家族に対しても「天使」が行く手を示す役割を演じている(1 章、2
章)。そして、マタイはこの「空虚な墓」の前においても、「天使」が天の輝きをもって
出現し、復活のキリストの溢れる力と栄光を示している。ここで、マタイは天使の栄光
の姿と、死人のように震え上がった番兵たちの姿とを対比させながら、そのコントラス
トを浮き彫りにしようとしていることが判る。武器を手にした番兵たちは、今までは飛
ぶ鳥落とす勢いであったが、主イエスによって示された復活の輝きの前には打ちひしが
れた死人のようになった。しかし、十字架によって自ら罪に死んだ者はいまや真に生き
る者、まったく新しい者に変えられたことを暗示している。ここに第一の「逆転」が示
されている。
次に「天使」と婦人たちとの会話に目を向け、「天使」が彼女達に「恐れることはな
い(5 節)」と語っていることに注目したい。また、復活の主が婦人たちに対して「恐れる
ことはない(10 節)」と記していることもマタイの特徴的な描き方である。すなわち「天
使」は婦人たちに「あなたがたが十字架におかかりになったイエスを捜していることは
わたしには判っている」と言ったニュアンスで語り、さらに、主イエスが墓の中にはお
られなかったゆえに、悲しみに打ちひしがれた彼女たちに対して、「天使」が、主イエ
スはかねて言われた通り「復活なさったのだ」と告げている。マタイはここで「天使」
に、人間の心を知る神の役目を担わせていることに気付く。まさに、婦人たちがお墓に
やってきたことの全ては、結局、死せるイエス(過去のイエス)を捜していたに過ぎな
かったのではないか。今や、まったく新しい光のもとに一切が逆転する。わたしたちも、
新しい光の下に、過去から、まったく違った方向に目を転じるとき、復活の主とあいま
みえ、人生に新たな逆転を見ることができるのである。ここに、第二の逆転がある。
さて、スペースがなくなったが、復活の主イエスと出会う「ガリラヤ」とは何処をさ
すのか。それは、日常性に富むわたしたちの現実であり、主の御名を賛美する教会の礼
拝の場においてである。復活記念日の主日礼拝において、今日も「生きて働いておられ
る」主の御名を心からほめたたえつつ日々歩んでいきたい。