三光稲荷神社

校正0429
参道
St.
ampm
猫友 我楽太
平成22年2月22日生まれ。寺社仏
閣の散策をこよなく愛す風来坊。旅
から旅でマフラーはぼろぼろに。
人形町駅
が参道におわす。
丈 夫。 そ の 隣 の 細 い 路 地
さんを見つけられれば大
く﹂とあります。江戸時代
妓等の参詣するものが多
には﹁古くから娘、子供、芸
あ っ た お 土 地 柄。 由 緒 書
囲 む﹁お は ぐ ろ ど ぶ﹂が
の人形町寄りには吉原を
稲 荷 神 社 の 記 事 が あ り、犬
ふのが変つてゐる﹄と三光
様 が 犬 猫 の 病 を 治 す と い ︵さ ん こ う じ ん み ち︶の
荷 と い ふ も の が あ る、稲 荷
長谷川町の横町に三光稲
明 治 四〇年 一 二 月 の﹁東
京 読 売 新 聞﹂に﹃日 本 橋 区
つ い た 呼 称 が﹁三 光 新 道
祈 祷 を 行 っ て い た そ う で、
納して猫に関する全般の
までは招き猫の絵馬を奉
小 さ な 神 社 だ が、人 の 手
が き ち ん と 入 り、地 元 で 愛
に は 遊 女 を 隠 語 で﹁ね こ
都会の路地に佇む
猫返し神社
されていることがひとめ
て、失 せ 猫 祈 願 へ と つ な
や ら﹁猫 族 守 護 神﹂と な っ
出てきてね﹂と小畑さん。
一九八五年に特許制度
制定百周年を記念して﹁日
本の発明家十傑﹂が選出さ
れ た 中 に、三 島 徳 七 の 名 が
あ っ た。
﹁東 大 の セ ン セ っ
ていうからまぁまぁ偉い
人なんだろうとは思って
届 い た 便 り。 参 拝 で き な
い飼い主さんのかわりに
名前や年齢などの詳しい
情 報 を 添 え て、宮 司 さ ん に
祈祷をしていただいたそ
うです。
思った人形町の春でした。
る ん だ ろ う な∼。 な ん て
事なのかを教えてくれて
にとって猫がどれだけ大
三光稲荷神社の石碑も
神 戸 か ら の 手 紙 も、
私たち
がします。
な よ う な、当 然 の よ う な 気
は 神 社 に す が る。 不 思 議
者 で も、猫 を 見 失 っ た 時 に
時 代 で も、世 界 に 冠 た る 学
インターネットで世界
中と交信できるハイテク
たものです﹂。
方だったんだなって驚い
い た け ど、も の す ご く 偉 い
ニャン公さま﹂。
東 京 メ ト ロ 日 比 谷 線 の
人形町駅から徒歩で約5
で判ります。
﹁傾 城︵遊 女︶は 猫 の 生 ま
がったと考えられる。
︵寝 子︶﹂と 呼 ん で い た り、 猫 治 療 の 噂 が い つ の 間 に
見落とすような細い路地
三光新道のニャン公さま
れ変わり﹂ということわざ
でしょうねぇ。
神戸からの手紙
猫 が い な く な っ て 辛 い
のは昭和も今も変わりま
せ ん。 現 在 は、イ ン タ ー
ネットなんて便利なもの
が あ っ て、全 国 ど こ に い て
も猫返し神社の情報が入
手可能になりました。
この本は猫民俗学の
バイブル的存在にゃんよ。
分。 う っ か り し て い る と
に、三 光 稲 荷 神 社 は あ る。
ご 多 分 に 漏 れ ず、取 材 班 も
が あ っ た り、猫 と 遊 女 は 因
一 度 は 通 り 過 ぎ ま し た。
﹃猫 の 民 俗 学﹄︵大 木 卓 著
田 畑 書 店︶に よ る と、戦 前
科学の時代にも
変わらぬ猫への想い
縁 薄 か ら ぬ 同 士。 こ の 辺
そうです。
それが写真の招き猫た
ち。目 鼻 が 剥 げ た よ う な
がなにかのヒントになり
人 形 町 か ら 水 天 宮 方 面 を 詳 細 は 左 上 の 縁 起 を 参
背 に し て、人 形 町 通 り の 右 照 さ れ た い が、こ の 神 社、
側 の 歩 道 を 行 き ま し ょ う。 そ の 縁 起 は 猫 と 全 く 関 係
が な い。け れ ど、三 光 新 道
﹁大 衆﹂と い う 中 華 料 理 屋
ご利益を物語るお礼の招き猫
猫が返ってきたお礼にと
て い る。そ れ だ け で な く、
十 年 後 の 昭 和 三 十 九 年、三
光稲荷神社が増改築工事
した際の記念碑にも夫妻
の名前が見られるのだか
ら、よ っ ぽ ど う れ し か っ た
ん だ ろ ぉ な ぁ。 判 り ま す
よ、先生!
だ か ら、三 光 稲 荷 神 社 の
知 名 度 も 全 国 規 模。 と き
に は、遠 方 か ら 代 理 祈 願 の
依頼が舞い込んできたり
し ま す。 写 真 は 神 戸 か ら
真ん中のなんてかなりの年代物
時 代 も の か ら 今 ど き の マ 先 ほ ど 東 大 の 先 生、実 は
由 来 は 今 ひ と つ 不 明 な か判らないんだよね﹂。
れ ど も、は っ き り さ せ て ・・・そ う お っ し ゃ ら ン ガ 顔 ま で 古 今 の 招 き 猫 ﹁日 本 の 十 大 発 明 家﹂に 数
えられるスゴい方なんだ
おきたいのが、そのご利益。 ずに。
が勢揃い。
神社を守る掘留二丁目町 ﹁で も、境 内 に 招 き 猫 が
こ れ だ け の 猫 た ち が 無 そうで。
会 の 小 畑 さ ん に お 話 し を い っ ぱ い あ る で し ょ う。 事 お う ち に 辿 り 着 い た ん ﹁あ る 日、新 聞 を 読 ん で た
ら﹃三 島 徳 七﹄っ て 名 前 が
伺った。
すよ﹂。
持ち込まれたものなんで
﹁そ も そ も が 歌 舞 伎 発 祥
だ か ら ね ぇ、な ん で 猫 な
東大教授の猫ご帰還
記 録 が 確 か な と こ ろ で
は、昭 和 二 十 九 年、東 大 の
ずらりと並んだ
お礼参りの招き猫
長 い つ き あ い の 中 で 時 に は 神 格 化 さ れ、時 に は 願 掛 け の
対 象 に な り、全 国 に は 意 外 と 数 多 く の 猫 地 蔵 や 猫 神 社 が 存
在します。その由来は? 人は猫になにを求めてきたのか?
寺 社 仏 閣 好 き の ぬ い ぐ る み 猫﹁我 楽 太﹂と と も に あ ち こ
ち訪ね歩きます。
三光稲荷神社
サンクス
●
福州居酒屋
大衆
人形町
人形町
水天宮▼
A3
● そば処
花ごよみ
●
日本橋人形町
▲小伝馬町
三光稲荷神
社縁起
先生の件が伝わっていま
す。猫が行方知れずになっ
た 東 大 教 授・三 島 徳 七 と 二
三 子 の ご 夫 妻 は、新 宿 か ら
わざわざ人形町まで祈願
に 訪 れ ま し た。 そ の 三 ヶ
月 後、な ん と!ネ コ、無 事
ご帰還。
参道の人
喜 ん だ 夫 妻 は、
形町通り側に石碑を建て
章、昭 和 五 十 年 勲一等 旭日
大綬章。昭和五十年︵一九
七五︶没。
︵特 許 第 九 六 三 七一号、昭
和七年︶。昭和十三年に東
京 帝 国 大 学 教 授。 昭 和 二
十 五 年 藍 綬 褒 章、文 化 勲
明 治 二 十 六 年︵一八 九
三︶兵 庫 県 生 ま れ。 冶 金
学 者。
MK磁 石 鋼 を 発 明
三島 徳七
東京
したという 話。 舞 台 上にくっき
りと浮かび上がる三十郎。観客
はヤンヤの大 喝 采。 役 者はその
人 形 町 界 隈は、江 戸 時 代 、歌 名 声を不 動のモノにしたといいま
舞 伎 小 屋 などが 集 まった芸 能 す。
ゾーンと、吉原という歓楽ゾーン 自宅の庭に伏見稲荷を奉って
これが神 明
に挟まれた一大繁華街。神社を勧 いた三十 郎は﹁あぁ、
進したのも、大阪の歌舞伎役者・ のご加 護か﹂と、近 所の長 谷川
町︵現 在の中 央 区日本 橋 堀 留
関三十郎と云われています。
なんでも、
三十郎が中村座での 町二丁目︶に自身の﹁三﹂と﹁光﹂
演技中、突如窓から陽光が差し の二字をもって三光 稲 荷としたと
込み、役者をババーンと照らし出 いわれてます。
代理祈願依頼の手紙。
どうぞ無事見つかりますように。
三光稲荷神社
周辺MAP
堀留町
東京メトロ
日比谷線
長年神社を守ってき
た堀留町二丁目町
会の小畑さん。三光
稲 荷 神 社 の 生 き字
引的存在です。
A4
●
A5
オキナ薬局
●
ラーメンさいたま屋
●
カフェヴェローチェ
●
スターバックス ●
花屋
●
セブンイレブン
●
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猫とも新聞 創刊直前準備号