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謝
辞
論文執筆にあたり、指導教官の曾峻梅先生にいろいろご丁寧なご指導をいただき、
心から感謝の意を申し上げます。
また、二年間の研修期間に親切なご指導をくださった先生の方々、ご多忙中審査
してくださった先生の方々にも厚くお礼を申し上げます。
要
旨
永井荷風(明治 12 年~昭和 34 年)は明治、大正、昭和の 3 時代を生きとおし、
近代化を目指して進んでいくうちに帝国主義に陥る日本を身をもって見聞してき
た作家である。彼の中短編小説の多くは花柳狭斜や陋巷に取材し、頽廃な耽美情緒
が漂う一方、文明批判が潜んでいる。『地獄の花』を持って文壇の新進作家になっ
た荷風は最初ゾライズムの感化を受け、
「暗黒なる幾多の欲情、腕力、暴行等の事
実を憚りなく活写せんと欲す」
(『地獄の花』跋文)が、次第にモーパッサンの文学
に共感を覚え、5 年間にわたるアメリカ・フランス留学生活期間中さらにモーパッ
サンやボードレールなどの文学作品の影響を受け、作品に情緒的で随筆的な要素が
増え、耽美主義的傾向が濃厚になる。
本論文は早期の紀行的また随筆的小説『あめりか物語』を取り上げ、渡米時代に
成り立ち、荷風の晩年まで貫いていると言える「陋巷趣味」をテーマに作成してみ
たものである。
第一章では、まず「陋巷趣味」とは何かについて論究し、実生活上と文学上から
「陋巷趣味」を考察する。次に青春時代また滞米時代における実生活と文学修業の
両面から荷風の「陋巷趣味」の形成を検討し、荷風を陋巷に引き連れていったのは
青春時代の放埓の引き続きのほかに、父の無理解と銀行勤務の苦痛、また文学上の
目覚めとモーパッサンらの文学作品の影響であるという結論を下した。
第二章では、『あめりか物語』から「陋巷趣味」に胚胎した諸作品、即ち「雪の
やどり」と「悪友」、
「夜半の酒場」、
「夜の女」、
「ちゃいなたうんの記」、
「夜あるき」
の六編を取り上げ、テクストの分析を通じ、陋巷の「醜美」、フランス文学の受容
及び荷風独自の耽美主義的変質、社会問題への関心と文明批判、また「陋巷趣味」
の本質を考察した。
第三章では、帰国直後の創作活動と大逆事件による「転向」、
「陋巷趣味」による
花柳小説を考察し、最後に、荷風における「陋巷趣味」は最期まで貫いているとい
うことを明らかにした。
キーワード:永井荷風
『あめりか物語』
陋巷趣味
文明批判
摘
要
永井荷风(1879 年~1959 年)是跨越明治、大正、昭和三个时代的一位作家,
亲眼目睹了日本以现代化为目标发展并陷入帝国主义的过程。他的很多中短篇小说虽
然取材于花街柳巷或陋巷,其中洋溢着颓废的唯美情趣,但是也展现了文明批判精神。
因为小说《地狱之花》而在文坛上崭露头角的荷风最初受到左拉自然主义的影响,
“想
要毫无忌惮地忠实地描写众多黑暗的情欲、手腕、暴行等事实”
(《地狱之花》跋文
笔
者译),但是后来逐渐对莫泊桑的文学产生共鸣,在长达 5 年的美国和法国留学生活
期间更是受到了莫泊桑和波德莱尔等的文学作品的影响,作品中增加了抒情的、随笔
式的描写,并显示出浓厚的唯美主义倾向。
本论文选取荷风早期的小说《美国物语》,以形成于留美时期并贯穿至晚年的“陋
巷趣味”为主题开展论述。
第一章首先就何为“陋巷趣味”
,从生活与文学两方面进行了考察。其次从青春
时代及留美时代的生活情况及文学作品学习阅读等情况探讨荷风的“陋巷趣味”是如
何形成的,并得出结论:荷风之所以逗留往返于陋巷除了是青春时代放荡不羁的延续
之外,还因为父亲的不理解、银行工作带来的痛苦、以及文学上的觉醒和受莫泊桑等
作家文学作品的影响。
第二章对《美国物语》中体现“陋巷趣味”的各篇作品(即「雪のやどり」、
「悪
友」、
「夜半の酒場」、
「夜の女」、
「ちゃいなたうんの記」与「夜あるき」共六篇)进
行了文本分析,考察了陋巷的“丑”与“美”
、 法国文学对荷风的影响及荷风独自的
唯美主义变质、对社会问题的关心与文明批判、以及“陋巷趣味”的本质。
第三章简单考察了荷风回到日本后的创作活动、以大逆事件为诱因的文学“转向”
以及源于“陋巷趣味”的花柳小说,最后明确指出荷风的“陋巷趣味”一直延续到荷
风人生及文学生涯的最后。
关键词:永井荷风 《美国物语》 陋巷趣味 文明批判
目
次
先行研究……………………………………………………………………………………1
はじめに……………………………………………………………………………………4
本論…………………………………………………………………………………………6
第一章
実生活と「陋巷趣味」の形成……………………………………………………8
第一節
「陋巷趣味」とは……………………………………………………………8
第二節
青春時代の放埓と小説家への踏出し………………………………………9
第三節
滞米時代の陋巷通いと文学上の目覚め …………………………………12
第二章
「陋巷趣味」に胚胎した『あめりか物語』の諸作品…………………………17
第一節
陋巷の「醜美」とフランス文学の受容……………………………………17
第二節
荷風なりの耽美主義的変質 ………………………………………………20
第三節
社会問題への関心と文明批判 ……………………………………………23
第四節
「陋巷趣味」の本質 ………………………………………………………25
第三章
後年の「転向」と「陋巷趣味」…………………………………………………27
第一節
帰国直後の創作活動と大逆事件による「転向」…………………………27
第二節
「陋巷趣味」による花柳小説 ……………………………………………29
終わりに …………………………………………………………………………………33
参考文献 …………………………………………………………………………………34
先行研究
『あめりか物語』の同時代評としては、まず相馬御風の「新書雑感――『あめり
か物語』」があげられる。荷風は明治 35、6 年にわたって『野心』や『闇の叫び』
、
『地獄の花』、『夢の女』などゾライズムの感化を示す作品を公にした。『あめりか
物語』をその連続体とみた相馬御風は次のように絶賛している。
今迄わが文壇の諸作品に対して求めて得られなかつたサムシングが始めて得られたやうな
気がした。
雲外千里の旅窓に、シミジミと孤独の生を味ひながら、心の底の底から感じて観た人間生活
の真相――「あめりか物語」はそれであらう。
作者は文明国に行つて文明その物を語らずに、その暗黒面に深い感慨を寄せて語つて居る。
数多ある洋行土産の中で、これ位深刻な味のあるものはあるまい。
僕は「あめりか物語」を読んで其所謂「濁らない」ピュアな自然派の態度と云ふものはかう
もあらうかと思つた。1
具体的に言うと、相馬御風は「小説の為めに小説を書くと云ふやうな、所謂くさ
みがなくて、日記でも書くやうな調子で、平気で書いて居る。それで居て、読み終
わつて何とはなしに人生に対する深い冥想に誘はれる。」2という「ピュアな自然派」
の態度を『あめりか物語』に見出したのである。
しかし、谷崎潤一郎は相馬御風とは一見完全に矛盾な解釈を持っている。彼は「青
春物語」の中で次のように回想している。
私を力づけたのは荷風先生の「あめりか物語」の出現であつた。私は大学の二三年頃、激し
い神経衰弱に罹つて常陸の国助川にある偕楽園別荘に転地してゐる時に、始めて此の書を得
て読んだ。蓋し、それよりずつと前に漱石先生の「草枕」や「虞美人草」の如き、非自然主
義的傾向の作品が出たことはあるけれども、未だ此の書の作者の如く自然主義に反対の態度
を鮮明にした者はなかつた。少くとも私はさう云ふ感銘を受けた。それに、漱石先生はその
社会的文壇的地位が余りに私とは懸隔があり過ぎ、近づき難い気がしたが、荷風氏は当時仏
蘭西滞在中(?)の最も先鋭な新進作家であり、恐らくはまだ二十代の青年らしく思はれた
ので、私はひそかに此の人に親しみを感じ、自分の芸術上の血族の一人が早くも此処に現は
れたやうな気がした。私は将来若し文壇に出られることがあるとすれば、誰よりも先に此の
人に認めて貰ひたいと思ひ、或はさう云ふ日が来るであらうかと、夢のやうな空想に耽つた
りした。3
言うまでもなく、谷崎潤一郎は荷風の『あめりか物語』を反自然主義の作品とし
て受取り、それにその芸術性に深く感動していることがうかがわれる。
また、榕樹生は『あめりか物語』について「句法に稍々古い嫌はあるが、頗る新
1「新書雑感――『あめりか物語』
」相馬御風『早稲田文学』明治 41 年 10 月初出 『明治文学全集 43 島村抱
月・長谷川天渓・片上天弦・相馬御風集』川副国基編 筑摩書房 昭和 42 年 11 月
2「最近の小説壇」相馬御風『新潮』明治 41 年 10 月初出 「荷風作品同時代評集成(明治編)
」『日本文学研
究資料業書 永井荷風』有精堂 昭和 55 年 5 月 230 ページ
3「青春物語」谷崎潤一郎『中央公論』昭和 7 年 9 月号~昭和 8 年 3 月号初出 『谷崎潤一郎全集 第 13 巻』
中央公論社 昭和 57 年 5 月 361~362 ページ
1
味に満ちたもので同氏の前途甚だ有望なるを証してゐる。」4と評しているのに対し
て、蒲原有明は「近頃の文壇には、漸く印象主義の傾向が現はれて来た。更に又、
永井荷風氏の『あめりか物語』など、実によく作者の感じが現はれてゐる。米国の
見聞録と見られやう。余は非常なる興味を覚えた。或人は評して文章が古いとか云
ふけれども、余は決してさうは思わぬ。感じを現はす印象派的傾向の、よく現はれ
た新しい作品である。
」5と評している。
以上は主に『あめりか物語』に関する大まかな印象批評またはその主義的傾向を
紹介したものである。本格的な作品研究が始まったのは、戦後になってからであろ
う。例えば、モーパッサン(Guy de Maupassant)と荷風との比較研究においては、
伊狩章はモーパッサンを中心としたフランス文学の作品との類似点を『あめりか物
語』の作品ごとに指摘し、『あめりか物語』はモーパッサンの作品の模倣または示
唆を受けていることを主張している6。また、文明批判という点においては、西洋
文明をこの目で見て来た荷風が帰朝後、明治政府の目指す近代化はただ西洋文明の
模倣にすぎないという批判的視点をもっていたということは言うまでもない事実
であるが、網野義絋も笹淵友一も永井荷風は在米時代に既にこの文明批判の思想を
持っていたと認識した。具体的に見れば次の通りである。
網野義絋は「『あめりか物語』は、荷風の芸術家としての開眼と、そのために父
との軋轢にどれ程苦しまなければならなかったか、また、それによって日本の近代
化をアメリカの文明と比較しつつどのように受取り、考えたかが窺える短編集であ
る。」と、タコマ・カラマヅ時期とワシントン・ニューヨーク時期という在住地ご
とに『あめりか物語』の個々の作品をその創作背景と『西遊日誌抄』(後は『西』
と略す)や書簡に現れた荷風の心境の変化とにらみ合わせて分析した。7
笹淵友一は「『あめりか物語』が後年の荷風文学の原点」と考え、実証的な作品
分析を通して、自然主義的作品、アメリカン・デモクラシイへの共鳴、キリスト教
批判、家族制度批判、耽美主義的作品という五つの方面から『あめりか物語』を論
じ、永井荷風の文学傾向を分析した。
「『あめりか物語』の中に小説家と詩人とが同
居していた……そして後者こそ『あめりか物語』の新傾向と認むべきである。
」と
4「四十一年小説界の概観」榕樹生『新声』明治 42 年 1 月初出 「荷風作品同時代評集成(明治編)」
『日本文
学研究資料業書 永井荷風』有精堂 昭和 55 年 5 月 230 ページ
5「印象主義の傾向」蒲原有明『新潮』明治 42 年 1 月初出 同上
6「永井荷風とモーパッサン――その比較文学的考察」伊狩章 『国語と国文学』昭和 29 年 6 月
7「在米時代の永井荷風――『あめりか物語』を中心に」『荷風文学とその周辺』網野義絋 翰林書房
平成 5 年 10 月
2
指摘しているように、荷風がモーパッサンとボードレール(Charles Baudelaire)
から影響を受けながら「荷風独自の歪曲」があると論証した。8
このように、一作品を中心に述べる形はとっていないものの、他の作品との関連
で論じるものにはほかに助川徳是の「『あめりか物語』の鑑賞」9などがあげられる。
助川徳是は『あめりか物語』の作品グループの執筆された順を追って、各編の内容
に触れながら表現や文章技法、作風などを分析し、諷刺的モーパッサン的作風と随
筆的叙情性を『あめりか物語』の両面と認め、後半の作品は「前半の作品とはっき
りと異質の作品であり、フランス近代詩を通して彼が次第に世紀末の文芸思潮に沈
潜して行った」と指摘している。
そのほか、戴煥は角度を変え、最初に西洋の地を踏んだ明治作家の一人としての
荷風がアメリカでの異文化体験によっていかなる文化的衝撃を受け、またいかにそ
の種の精神状態を表象したのかについて、
「アメリカン・ドリームの破局」
「西洋化
できない身体感覚」
「アメリカと妖艶な娼婦」と三つの方面から考察してみた。
『あ
めりか物語』では、「アメリカは実体としてではなく、明治日本人の精神状態を映
し出す反射鏡のように描かれているのである。
」と指摘している。10
以上見えてきたように、『あめりか物語』の全体を通してその成立や構成また主
義的傾向とフランス文学の受容についての研究が実に多く行われていたことが窺
える。一方、作品ごとに考察する研究が数多く、研究成果と資料の豊富と角度の多
様化に従い、特に『あめりか物語』の作品群から一編の作品をめぐって論じるもの
も増えてきた。山根賢吉の「『あめりか物語』瞥見――「林間」をめぐって」11、南
明日香の「博覧会を見た人――『あめりか物語』
「酔美人」より」12、佐藤麻衣の「永
井荷風『あめりか物語』論――「夏の海」をめぐって」13などがそれである。
8「永井荷風『あめりか物語』論」笹淵友一 『上智大学国文学論集 6』昭和 48 年 1 月 25 日 27~76 ページ
9「『あめりか物語』の鑑賞」助川徳是 『佐賀龍谷学会紀要第 18・19 合巻号開学二十周年記念号』
昭和 48 年 2 月 1 日 85~101 ページ
10「永井荷風『アメリカ物語』論」戴煥 九州大学紀要「Comparatio」第 9 期 平成 17 年
11『学大国文』第 15 号 昭和 47 年 3 月
12『比較文学年誌』第 29 号 平成 5 年 3 月
13『昭和女子大学大学院日本文学紀要』第 16 集 平成 17 年 3 月 5 日 27~37 ページ
3
はじめに
『あめりか物語』は永井荷風がアメリカ滞在中「日頃旅窓に書き綴りたるものを
採り集めて」(『あめりか物語』題辞より)、折々雑誌に投稿していたものを単行本
としてまとめ、明治 41 年 8 月に博文館より刊行した紀行的小説である。
『あめりか物語』の作品グループを社会的主題から見れば、アメリカン・デモク
ラシーに対する共鳴を起した「市俄古の二日」と「夏の海」
、
「六月の夜の夢」があ
り、キリスト教批判を意図した「岡の上」と「春と秋」、
「旧恨」があり、日本の半
封建的家族制度に批判の矢を放った「一月一日」と「暁」があり、それに強食弱肉
の移民世界を語る「牧場の道」と人種問題を示唆した「林間」などがある。そのほ
か、太平洋西海岸の社会底辺の移民生活を描いた「牧場の道」のようなゾラ的悲惨
で暗黒小説を除けば、
『あめりか物語』の作品グループの中に耽美主義的傾向が目
立つように現われていることは定説になっているといえよう。このグループは上に
挙げた「旧恨」と「暁」のほかに、
「酔美人」、
「夜半の酒場」
「夜の女」などがある。
このうち、ニューヨークの陋巷を中心に、移民達が織り成す猶太街や伊太利街、日
本街、チャイナタウンなどの路地裏や売笑の巷に棲息する社会底辺の賎業婦及び貧
しい人々の生活実態を主題とした作品が『あめりか物語』のおよそ三分の一を占め
るほど圧倒的に多い。具体的に挙げると、
「雪のやどり」と「悪友」
、
「夜半の酒場」、
「夜の女」、
「ちゃいなたうんの記」、
「夜あるき」の六編がある。読み終わると、筆
者は荷風がどういうわけで人があまり行きたがらないような陋巷をわざわざ出歩
き、そこの人物や事柄に興味を起したのか、また、どのようにこの体験を作品化し
たのかについて疑問を抱かずにいられない。
晩年の最高傑作『濹東綺譚』には荷風自身とも思われる主人公の老作家大江匡が
登場する。大江は毎日のように夜の散策に玉の井に行く。「玉の井」は場末の私娼
街で「陋巷」である。大江の次の自己言及に「陋巷」への執着がうかがわれる。
わたくしはこの東京のみならず、西洋に在つても、売笑の巷の外、殆んどその他の社会を知
らないと云つてもよい。其由来はここに述べたくもなく、又述べる必要もあるまい。若しわ
たくしなる一人物の何物たるかを知りたいといふやうな酔興な人があつたなら、わたくしが
中年のころにつくつた対話『昼すぎ』漫筆『妾宅』小説『見果てぬ夢』の如き悪文を一読せ
られたなら思ひ半ばに過ぎるものがあらう。
また、「陋巷趣味」の由来について、次の一節が触れている。
彼が十年一日の如く花柳界に出入する元気のあつたのは、つまり花柳界が不正暗黒の巷であ
る事を熟知してゐたからである。……正常な妻女の偽善的虚栄心、公明なる社会の詐偽的活
動に対する義憤は、彼をして最初から不正暗黒として知られた他の一方に馳せ赴かしめた唯
4
一の力であつた。つまり彼は真白だと称する壁の上に汚い種々な汚点を見出すよりも、投棄
てられた襤褸の片にも美しい縫取りの残りを発見して喜ぶのだ。正義の宮殿にも往々にして
鳥や鼠の糞が落ちてゐると同じく、悪徳の谷底には美しい人情の花と香しい涙の果実が却つ
て沢山に摘み集められる。
極厭世的で詭弁的な言い分であるが、そこから売笑の巷や不正暗黒の巷に出入り
する「由来」の一部を推し量ることができる。杉山英樹はそれを「悪に対する作者
の趣味」14と解釈している。「悪に対する趣味」は「陋巷趣味」の一面であろう。
陋巷と賎業婦は『あめりか物語』から、『濹東綺譚』まで荷風文学における重ね
重ねの構成要素である。本稿は「陋巷趣味」とは何かをはじめ、『あめりか物語』
の作品群にどのように現れているのか、また、いわゆる陋巷を背景に書かれた六編
の作品にどういう作風の変化及び文明批判がうかがわれるか、それに、この「陋巷
趣味」が後年の文学創作面においてどのように投影しているかは考察してみたい。
それに、本稿は『あめりか物語』総論ではなく、作品グループからめったに単独に
論じられなかったがおよそ三分の一にもなる「雪のやどり」など六編の作品を取り
上げ、テクストの分析を通じ、荷風の「陋巷趣味」に関するいくつかの問題を明ら
かにするのが目的である。
14「永井荷風」杉山英樹 『日本文学研究資料業書
昭和 46 年 5 月 46 ページ
永井荷風』
日本文学研究資料刊行会編
有精堂
5
本
論
永井荷風は明治 36 年 9 月 22 日に郵船会社汽船信濃丸で横浜港をたち、アメリカ
に向かった。アメリカに滞在する期間はシアトルに着いた明治 36 年 10 月 7 日から
フランスへ向かう汽船に乗った明治 40 年 7 月 18 日まで約 3 年 9 ヶ月ある。荷風は
その間に日本に作品を送り、巌谷小波を通じて雑誌に発表を続けていた。これらの
作品の執筆順に従い、初出誌と発表年月を示せば、次の通りである。
(表 1
滞米期間に発表した作品)
作品名
発表期日及び発表誌
「船室夜話」15
明治 37 年 4 月「文藝倶楽部」第 10 巻第 5 号
「舎路港の一夜」
明治 37 年 5 月「文藝倶楽部」第 10 巻第 7 号
「夜の霧」
明治 37 年 7 月「文藝界」第 3 巻第 8 号
「強弱」16
明治 39 年 2 月「太陽」第 12 巻第 2 号
「岡の上」
明治 38 年 6 月「文藝倶楽部」第 11 巻第 8 号
「酔美人」
明治 38 年 6 月「太陽」第 11 巻第 8 号
「市俄古の二日」
明治 38 年 12 月「文藝倶楽部」第 11 巻第 16 号
「夏の海」
明治 39 年 3 月「新小説」第 11 年第 3 巻
「春と秋」
明治 40 年 10 月「太陽」第 13 巻第 13 号
「長髪」
明治 39 年 10 月「文藝倶楽部」第 12 巻第 13 号
「雪のやどり」
明治 40 年 5 月「文章世界」第 2 巻第 6 号
「夜半の酒場」
明治 39 年 10 月「太陽」第 12 巻第 13 号
「オペラの『ファウスト』
」17 明治 40 年 6 月「新小説」第 12 年第 6 号
「旧恨」
明治 40 年 5 月「太陽」第 13 巻第 6 号
「一月一日」
明治 40 年 8 月「大西洋」第 1 巻第 3 号
表 1 の諸作品のうちから「舎路港の一夜」と「夜の霧」、
「オペラの『ファウスト』」
を除く十二編に、未発表の九編の作品18が加えられ、また、アメリカを離れた後書
かれた「船と車」と「ローン河のほとり」、「秋のちまた」の三編19とともに著者の
15 春陽堂元版『荷風全集』(大正 7 年 12 月~10 年 7 月)第二巻より「船房夜話」と改題された。
16 単行本「あめりか物語」において「野路のかへり」、更に春陽堂元版では「牧場の道」と改題された。
17 前後「歌劇フォースト」、
「歌劇フォーストを聴くの記」と改題され、後に『ふらんす物語』に収録された。
18「おち葉」と「林間」、「寝覚め」、「夜の女」、「夜あるき」、「支那街の記」、「暁」、「悪友」、「六月の夜の夢」
である。そのうち、
「おち葉」は後に「落葉」
、また「支那街の記」は「ちゃいなたうんの記」と改題された。
19 春陽堂版及び中央公論社版『荷風全集』第三巻(昭和 24 年 9 月)
、岩波書店版の全集第三巻(昭和 38 年 8
月)では『ふらんす物語』に収載された。
6
帰朝直後に『あめりか物語』(博文館
明治 41 年 8 月)として刊行された。
ところが、
『あめりか物語』の作品グループは執筆順によって編成されていない。
昭和 35 年 6 月「解釈と鑑賞」の荷風特集号の安田保雄の論文の中に、
「『あめりか
物語』に収められた短編についてみても、その前半に於ては大体モオパッサン的な
作品が多いということができる。それが『あめりか物語』の後半になると著しく趣
が異り、つづく『ふらんす物語』に収められた諸編に至るまで、フランス近代詩の
影が色濃くあらわれて来るのである。」20と記述している。また、網野義絋は「『市
俄古の二日』の前までが創作で、以降が日記風の印象記である」21と指摘している。
浅見によって、カラマヅ時代の最後の作品「市俄古の二日」を境に、『あめりか物
語』を前半と後半に分けて考えることができる。それぞれ時間順に編成されるし、
前半には客観的な視点に立った諷刺の利いた作品が多いのに対し、後半には日記風
で随筆的また抒情的な作品が多いから。
本稿にテーマとして取り上げられた「陋巷趣味」は『あめりか物語』の前半にも
後半にも現れているが、そのうち、
「雪のやどり」と「悪友」は前半に、
「夜半の酒
場」と「夜の女」
、
「ちゃいなたうんの記」
、
「夜あるき」は後半にそれぞれ執筆順に
編成されていることも上の分類の証左を示しているであろう。
20「『あめりか物語』の鑑賞」助川徳是 『佐賀龍谷学会紀要第 18・19 合巻号開学二十周年記念号』
昭和 48 年 2 月 1 日 85~101 ページ
21『荷風文学とその周辺』翰林書房 平成 5 年 10 月 57 ページ
7
第一章
実生活と「陋巷趣味」の形成
『あめりか物語』の一編である「ちゃいなたうんの記」には次のような描写があ
る。
夜が来ると云へば其の夜も星なく月なき真の闇夜を希ひ、死人や、乞食や、行倒れや、何で
もよい、さう云ふ醜いもの、悲しいもの、恐しいもののあるらしく思はれる処をば、止みが
たい熱情に駆られて夜を徹してでも彷徨ひ歩く。
また、『西』のなかに、荷風がチャイナタウンを訪れた記載が五箇所もある。
①(明治 38 年 12 月 17 日の条)
「支那街の酒場に入る。地の下に大なる舞踏場ありて数多の
男女入乱れて打騒げり。表面よりは決して窺ひ知るべからざる此夜半の光景は当に写実の筆
を振つて描写するの価値あり。」
②(明治 38 年 12 月 25 日の条)「(略)支那街の酒場に入りて夜を深かしぬ。」
③(明治 39 年 1 月 1 日の条)「余は今村子と共に支那街の一隅に佇立みてあり。(略)此の
辺りに住む賎業婦のつどひ集りて舞踏する地の底の酒場に入れば立迷ふ煙草の烟雲の如く
群集は各女を捕へて狂する如くに舞へり。余は暁三時に近き頃まで此のあたりを歩みて帰り
ぬ。」
④(明治 39 年 1 月 13 日の条)「雪。支那街に行きて晩食す。
」
⑤(明治 39 年 6 月 20 日の条)「日曜日毎に頭取の社宅に御機嫌伺ひをなさざる可からざる
事なり。余はかかる苦痛を忍びし後は必ず支那町の魔窟に赴き(略)
」
チャイナタウンは陋巷の典型的な存在である。荷風はチャイナタウンに代表され
る諸処の陋巷に通ったのは偶然ではない。その「陋巷趣味」とは何であろう。また
どのように形成されたのか。本章は荷風の実生活に注目し、「陋巷趣味」の形成に
ついて検討する。
第一節
「陋巷趣味」とは
川本三郎は「荷風語録」22のなかで荷風の「陋巷趣味」に言及している。
荷風は、忘れられた場所、見捨てられた場所にこそ詩情を見つけだす。この“廃滅のロマン
....
チシズム”とでもいうべき荷風の陋巷趣味は、『日和下駄』のときから一貫して変らない。
あの東京散策記のなかでも荷風は繰り返し、路地や横町といった“小さな東京”の良さを語
った。表通りの喧騒から遠ざかり、小さな路地のなかに入りこむ。そして忘れられた町角に
「荒廃の詩情」を見る。 (傍点は筆者による)
この解説で二つのことが分かる。まず、川本三郎は「陋巷」を「忘れられた場所、
見捨てられた場所、表通りの喧騒から遠い小さな路地、忘れられた町角」と捉えて
いる。前にあげられた「雪のやどり」など六編の作品はまさにこのような陋巷を背
景にしたものである。次に、川本三郎は荷風の「陋巷趣味」を陋巷に「荒廃の詩情」
を見つけだす「廃滅のロマンチシズム」と考え、また、その「陋巷趣味」は『日和
22『荷風語録』川本三郎
編
岩波書店
平成 12 年 4 月
8
下駄』のときから一貫して変らないことを指摘している。
川本三郎が荷風の「陋巷趣味」を「廃滅のロマンチシズム」といっているが、実
生活上と文学上の両方から究明する必要がある。
実生活上の「陋巷趣味」というのは簡単に言えば、他の社会より、不正暗黒で非
情の巷、売笑の巷などのような陋巷のほうが荷風の好みに投じ、ひたすらそこに通
うことに夢中になるということである。荷風の生涯を見渡すと、『濹東綺譚』の主
人公の言うように「東京のみならず、西洋にあつても」
、陋巷を偏愛するという点
は日本のどの作家よりも目立つことが分かる。
実生活が創作の源であると言われるように、荷風の文学作品は陋巷と芸者や娼婦
などを主題としたものが圧倒的に多い。荷風の文学上の「陋巷趣味」は作品の主題
選択の問題に留まるのではなく、彼の文学思想或は精神を示唆していると思う。荷
風の文学上の「陋巷趣味」というのは「悪」に「美」を見出す、「陋巷」に「荒廃
の詩情」を見つけ出すという川本三郎の指摘した「廃滅のロマンチシズム」に由来
する一方、社会への関心の現れ、文明批判でもある。後者については第二章でまた
詳述することにする。
川本三郎は荷風の「陋巷趣味」は『日和下駄』のときから一貫して変らないと言
っているが、筆者の考えでは、『日和下駄』のときからではなく、青春時代にその
芽生えが見られ、
『あめりか物語』の時からあらわになり、それに、晩期の『濹東
綺譚』まで続き、その香りがいっそう濃厚になる。
第二節
青春時代の放埓と小説家への踏出し
永井荷風は東京生まれである。父の永井久一郎は漢詩や儒学を修めたこともあれ
ば、アメリカに留学したこともあり、前後官吏として工部省、文部省、内務省衛生
局に勤め、のちに、日本郵船会社上海支店長また横浜支店長となった所謂成功者で
ある。母は幕末の名高い儒者の娘であり、江戸育ちで、草双紙や芝居などをたいへ
ん好み、
「封建的な貴族趣味」23を保っていた方のようである。このように富裕で教
養の豊かな上流家庭に生れた荷風は家の後継者としてそのまま素直に成長すれば
実業家あるいは官吏になるのは当たり前のことであろう。しかし、中学時代に病気
のため留年したり、高校受験に落第したりした荷風は学業に興味を持たなくなり、
23「荷風の生涯と芸術」『明治作家論』中村真一郎
構想社
昭和 53 年 4 月
165 ページ
9
青春時代の反逆をみせ始めた。良家の子弟であるのに、荷風は尺八や三味線の稽古
に通ったり、朝寝坊むらくという落語家の弟子となって寄席に出入りしたり、福地
桜痴の門下生になって歌舞伎座の作者部屋に入ったり、新聞雑誌の懸賞募集に応じ
小説を書いたりした。即ち、荷風は「父親によって代表されるような、正規の教育
を受け、社会の上層に向かって進む、いわゆる出世コースを歩く良家の子弟の生き
方に反発して、当時格段と低いものとされた江戸伝来の趣味、あるいは芸人の世界、
そういうものに惹かれていく」24ようになった。
というような寄席や芝居に通うことと小説習作のほかに、荷風は病気や学業など
による孤愁を遊里にも託した。成瀬正勝は随筆「桑中喜語」と「梅雨晴」を引用し
て解説を加えている。
…「桑中喜語」によれば、吉原への初登楼以後、三年も経たぬうちに、洲崎、品川、板橋な
...
ど、「凡そ府内の岡場所に知らざる処なきに至る」としるしている。また彼は芸妓とも遊ん
だ。一番町の自邸近くには、九段の富士見町の花柳界がある。通学の途次に芸妓の名を聞き
覚え、機を得て密会したことや待合で芸妓の帯を解いたのもこの土地がはじめであったこと
なども語っている。……富裕の子とはいえ、しきりに動く遊意をみたすためには、荷風もし
ばしば嚢中の乏しさに苦しんだ。随筆「梅雨晴」には後述する落語修業時代に、親友の井上
唖々とともに、それぞれの家蔵の漢籍をひそかに入質して遊興の資にあてたことが告白され
ている。25
(傍点は筆者による)
ここの「岡場所」は江戸にあった私娼地、官許の遊廓吉原以外の深川・品川・板
橋などを指す。すなわち、荷風は青春時代から吉原のような花柳界や町外れの私娼
地などに親しみはじめたのである。後年の小説『おかめ笹』の舞台は主としてこの
土地であると言われているが、当時この類の折花攀柳はただ所謂「遊意」の赴くと
ころにとどまると思う。
しかしながら、寄席通いや芝居見物、小説習作に対する熱中はディレッタント的
享受を越えて、文学へ傾斜し、以後に展開される荷風文学の扉を開くこととでも言
えるであろう。「書かでもの記」によれば、
そもわが文士としての生涯は明治三十一年わが二十歳の秋、簾の月と題せし未定の草稿一篇
を携へ、牛込矢来町なる広津柳浪先生の門を叩きし日より始まりしものと云ふべし。……わ
れその頃外国語学校支那語科の第二年生たりしが一ツ橋なる校舎に赴く日とては罕にして
毎日飽かず諸処方々の芝居寄席を見歩きたまさか家に在れば小説俳句漢詩狂歌の戯に耽り
両親の嘆きも物の数とはせざりけり。……余は其頃最も熱心なる柳浪先生の崇拝者なりき。
今戸心中、黒蜥蜴、河内屋、亀さん等の諸作は余の愛読して措く能はざりしものにして余は
当時紅葉眉山露伴諸家の雅俗文よりも遥に柳浪先生が対話体の小説を好みしなり。26
24『近代の文学と文学者』中村光夫 朝日新聞社 昭和 53 年 1 月 298~299 ページ
25「永井荷風集解説」成瀬正勝『日本近代文学大系 29 永井荷風集』角川書店 昭和 55 年 6 月 13 ページ
26「書かでもの記」『作家の自伝 4 永井荷風 荷風思出草/十九の秋』高橋峻夫 編 日本図書センター
平成 6 年 10 月 153 ページ
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