第 14 回「騒音と静寂の町~エジプト・カイロ」

JOMF NEWS LETTER
No.262 (2015.11)
病気の世界地図・トラベルドクターとまわる世界旅行
第 14 回「騒音と静寂の町~エジプト・カイロ」
東京医科大学病院
渡航者医療センター
教授 濱田篤郎
不眠症の夜
エジプトの首都カイロを最初に訪れたのは
1995 年のことでした。現地医療機関の調査が
目的でしたが、歴史好きの私としては、ピラ
ミッドのあるカイロに滞在するというだけで、
出発前から気分が高揚していました。
この町には知り合いの病院があり、その病
院の副院長が空港まで出迎えてくれました。
彼が数年前に来日した時に、私は東京を案内
したことがあります。
「ドクターハマダ、久しぶり。今夜はカイロ
の居酒屋を予約してありますよ」
エジプトはイスラム教の国ですが、この病
院の関係者はキリスト教徒が多く、私たちと同じようにアルコールを飲みます。来日した
時のお礼にと、カイロ市内のお店を予約しておいてくれたのです。そのお店というのはナ
イル川に浮かぶ豪華な水上レストランでしたが、食事の途中で私は猛烈に眠くなってきま
した。ウツラウツラしていると、副院長が心配して声をかけてきました。
「お疲れのようですね。カイロの夜はこれからですが、そろそろホテルに戻りましょうか」
その言葉に私はほっとしました。彼の車でホテルに帰る途中、窓からカイロタワーの青
白い光が見えます。カイロの夜空に浮かぶその光は、なんとも妖しい雰囲気を漂わせてい
ました。
ホテルに到着したのは午後 11 時。それから荷物の整理をしてベッドに入ったのは午前 1
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時を過ぎていました。ところが、目がパッチリと覚めてしまい、なかなか眠れません。先
ほどはあれだけ眠かったのに。この時、日本は朝の時間帯だったので、時差により不眠症
になってしまったようです。
仕方ないと思いながらベッドの上で横になっていると、もう一つ、不眠の原因があるこ
とに気づきました。それは周囲から聞こえる騒音です。深夜だというのに、ホテル周辺を
走る車のクラクションや廊下を歩く人の話し声が、部屋の中にまで響き渡ってきます。私
はティッシュペーパで即席の耳栓を作り、それを耳の中に押し込みました。
騒音公害
発展途上国の町では最近、騒音公害が大きな問題になっていますが、カイロではその影
響がとくに強いようです。
2007 年にエジプト国立研究所が行った調査では、カイロ市内の騒音レベルは一日平均で
90 デシベル。これは工場内で一日過ごしているのと同じ騒音状態になります。世界保健機
関は 85 デシベル以上の騒音で健康面への影響が生じると発表しており、既にそのレベル
を越えているわけです。健康面への影響というのは、聴力の低下やストレスによるメンタ
ル面の障害。そして私が体験した睡眠障害などがあげられます。
なぜ、カイロでは騒音がこれほどまでに強いのでしょうか。それは、この町に工業地域
と住宅地域の区別がないためと言われています。カイロはナイル河畔の狭い場所に広がっ
た町です。このため、都市計画がされないまま発展したことが原因のようです。
これに加えて文化的な影響もあり
ます。その代表的なものが車のクラ
クション。日本ではよほどのことが
ないとクラクションを鳴らしません
が、この町ではちょっとしたことで
クラクションを使います。それは車
同士の挨拶代りと言ってもいいでし
ょう。このクラクションの騒音はカ
イロだけでなく発展途上国の町に共
通するもので、インドや中国では法
的な規制も導入されています。
この町にはハマダが多い
翌朝、眠い目をこすりながら、副院長のいる病院を訪問しました。
「ドクターハマダ、眠そうですね。大丈夫ですか」
私が昨晩の顛末を説明すると、
「この町を訪問する旅行者には耳栓が必須です」と大笑い
をされてしまいました。
午前中は病院を見学し、それから昼飯を食べに町中のレストランに向かうと、突然、広
場の拡声器から男性の声が大音量で鳴りだしました。あたりを歩いていた人たちは、ひざ
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まずいて、お祈りをはじめます。これがイスラム教の「アザーン」という礼拝を呼びかけ
る声で、一日に 5 回流れます。この呼びかけも、カイロで騒音をおこす原因の一つになっ
ているようです。
こうして町中を歩いていると、人々の声が大きいことにも気づきます。喧嘩しているの
ではないかと思うほど大声で会話をしている若者もいます。これはエジプト人の気質なの
でしょうが、大声で話すことも騒音の一つと言えるかもしれません。
そういえば、町中で私の名前を呼ぶ声を何回か耳にしました。
「ハマダ、ハマダ」という
声です。こんな異国の町で私の名前がなぜ呼ばれるのか?不思議に思って副院長に尋ねる
と、
「ハマダというのはムハンマドのニックネームだからですよ」と教えてくれました。
ムハンマドはイスラム教の開祖者で、イスラム諸国ではこの名前をつける人が大変多い
そうです。
そのニックネームがハマダなので、それを町中でよく耳にするというわけです。
実は、副院長が私の名前を最初に聞いた時も、私がイスラム教徒ではないかと思ったそう
です。
ピラミッドがあるのは隣町
その日の午後、念願のピラミッドを見学
させてもらいました。副院長が知り合いの
観光業者に電話をしてタクシーをチャータ
ーしてくれたのです。病院を出発する直前
に、彼が妙なことを言っていました。
「あなたはカイロにピラミッドがあると思
っているようですが、カイロではなくギザ
という隣町です」
とにかくタクシーに乗って道を進むと、
30 分ほどでピラミッドが見えてきました。その衝撃的だったこと。突然、町の背後に山の
ような巨大物体が現れてきたのです。それは人間の作った建築物とはとても思えませんで
した。砂漠の中にそびえるピラミッドをよく写真で見ますが、町の背後にそびえるピラミ
ッドも大変に魅力的です。
私は、あまりの感動にタクシーの運転手に向かって「カイロのピラミッドは素晴らしい
ですね!」と叫びました。すると運転手は
「お客さん、ここはギザですよ」と答えて
きたのです。
カイロはナイル川中流の東岸に広がる町
として 7 世紀にイスラム教徒によって建設
されました。これ以前に、ナイル川の東岸
には町がなく、西岸にギザという古い町だ
けがありました。この古都の片隅に 2000
年以上前に建設された古代エジプト王の墓、
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すなわちピラミッドがそびえていたのです。その後、カイロの発展とともにギザもその一
部に含まれていきますが、エジプトの人はカイロとギザを別の町と考えています。それは
日本人が大阪と京都を分けて考えるのと同じなのかもしれません。
静寂のピラミッド
ギザには3つの大ピラミッドがあります。すなわち古代エジプト第4王朝のファラオだ
ったクフ王、カフラー王、メンカウラー王の墓で、紀元前 2500 年ごろに建造されたもの
です。この中でもクフ王のピラミッドは高さ 145mにものぼり、世界で最も高い建築物の
一つにあげられています。
このピラミッド周辺の静かなこと。周囲には砂漠が広がり、風の音しか聞こえません。
すぐ近くにカイロの町が迫っていても、その騒音はピラミッドまでは届かないのです。音
の伝わり方というのは、湿度に影響されるそうですが、砂漠のように乾燥している場所で
は、音の伝わり方が大変悪くなります。ですから、砂漠がカイロからの騒音の洪水を防ぐ
防波堤になっているのです。
ギザのピラミッドは、カイロの町ができる 2000 年以上前に建設されたものですが、そ
の当時は砂漠の静寂だけに包まれていました。死者を弔うにはもってこいの場所でした。
この状態が 2000 年という長い年月続いたわけです。しかし、7 世紀になりギザの隣にカ
イロが建設されると、そこはエジプトの中心として発展するとともに、騒音の町になって
いきました。
エジプト人が、ピラミッドの場所をカイロではなくギザと言い張る理由は、2つの町の
歴史的重みだけでなく、
「自分たちの祖先が眠る地を出来るだけ静寂な場所にしたい」とい
う希望が込められているように思いました。
カイロという町の魅力
夜になりカイロに戻ると、副院長がベリーダンスショーの見られるレストランに連れて
いってくれました。このダンスはエジプト発祥と言われていますが、中東風の音楽が演奏
される中、少し太めの女性が踊る姿はなかなか妖艶です。バックに流れる音もかなりうる
さかったのですが、私も丸一日カイロに滞在していると騒音になれてきたようです。気が
付けば副院長と大声で話をしていました。
「今晩のあなたのホテルをピラミッド近くの静かな場所にとることも出来ますが、昨日と
同じカイロ市内のホテルでいいですか?」
「もちろん。先ほど耳栓も買ってきました。カイロのホテルなら、もう一軒、飲みに行く
こともできますね」
カイロは騒音に包まれた町ですが、そこにはギザにない魅力があります。それは生きて
いる者が放つ活気や妖艶さが充満しているためではないかと思いました。