「メシアの秘密」再考

『聖書と神学』第 18 号,81-103 頁,日本聖書神学校キリスト教研究会
2006 年 5 月発行
「メシアの秘密」再考
-日本の宣教の現場から-
日本基督教団
牧師
水戸中央教会
山本隆久
はじめに
福音書にはイエスが自分がメシアであることを秘密にする箇所がいくつかある。このこ
とは特にマルコ福音書に顕著である。1901 年 W・ヴレーデは『諸福音書におけるメシアの
秘密』(1)を出版し、「メシアの秘密」という論を展開した。イエスはメシアとしての自意
識を持っていなかったが、復活後の教会の信仰によってメシアとされた。後に教会が生前
のイエスもメシアであったと考えるようになったとき、イエスの生前の行動や言葉にはイ
エスがメシアであることを示すものがなかったため、マルコ福音書記者は、イエスがメシ
アであることは秘密であったと説明したのだとヴレーデは考えた。
同じ 1901 年 A・シュバイツエルは、『イエスの生涯』を発表し、その中でイエスのメシ
ア意識とメシアの秘密について論じている。「イエスはメシアであることが秘密であった
のは、ただたんにそれについてイエスが語ることを禁じたばかりでなく、このメシアであ
ることが定められた時刻に始めて実現するという特殊な方式のためでもあった。これはイ
エスの自意識においてのみ実現することのできる観念である」(2)。つまり、イエスはメシ
アであるという自覚を持っていたが、「イエスのメシア意識は将来的なものであった」た
めにイエスはそれを秘密にしたのだとシュバイツエルは主張した。
ヴレーデの「メシアの秘密」論は今日では否定されているが、20 世紀の新約聖書神学に
大きな影響を与えた。そして今日においてもイエス自身がメシア意識を生前から持ってい
た可能性はきわめて少ないと考えられている(3)。これについて、わたしは現実の日本にお
ける牧会の現場の中で疑問を持った。本小論は牧会の現場からキリスト教神学への問いか
けである。
第1章
第1節
イエスのメシア秘匿命令に関する考察
日本における宣教の現場から
現代日本は 20 世紀初頭のドイツのようなキリスト教会が支配的な社会ではなく、異教社
会であり、数え切れないほどの新興宗教が入り乱れている。「世界基督教統一神霊協会」、
いわゆる「統一協会」の教祖文鮮明は自らを「再臨のメシア」と称している。「幸福の科
学」総裁を名乗る大川隆法は「1981 年 3 月 23 日、大悟するとともに、同年 7 月、人類救
済の大いなる使命を持つ、エル・カンターレであることを自覚」し、自らをイエス・キリ
ストに勝る者として位置づけている。先年、「地下鉄サリン事件」を引き起こしたオウム
真理教の教祖麻原彰晃は自らを「最終解脱者」、「救世主」つまりキリストであると宣言
した。日本にはこのようにまがい物のキリストが多数存在し、一様に自らをキリストであ
-1-
ると名乗っている。彼らは自らのメシア性を公言しているからメシアなのであろうか。彼
らはキリストとしての自覚があるので、キリストであろうか。自らキリストと名乗る者は
メシア意識があるのだろうか。決してそうではない。自らキリストと名乗る新興宗教の教
祖たちはみな偽キリストである。したがってイエスが自分をメシアであると言わなかった
からといってイエスがメシア意識を生前から持たなかったとは言えない。むしろ、この日
本の混乱した宗教事情に照らすならば、イエスが自身のメシア性を秘密にしようとしたこ
とこそ、イエスが真のメシアである証明であり、彼が生前からメシア意識を持っていたこ
との証明であると言うことができる。
第2節
新約聖書時代の宗教的社会事情とメシア意識
この現代日本の混乱した宗教事情は、20 世紀初頭のドイツよりもはるかに新約聖書成立
時代の地中海沿岸の宗教的社会事情に類似していると考えられる。つまり偽キリストが当
時はいたと考えられる。使徒言行録にも偽キリストの存在を示す箇所がある。
エルサレム初代教会の使徒たちが迫害を受けたとき、ファリサイ派のガマリエルは最高
法院で次のように述べている。
「イスラエルの人たち、あの者たちの取り扱いは慎重にしなさい。以前にもテウダが、自
分を何か偉い者のように言って立ち上がり、その数四百人くらいの男が彼に従ったことが
あった。彼は殺され、従っていた者は皆散らされて、跡形もなくなった。
その後、住民登録の時、ガリラヤのユダが立ち上がり、民衆を率いて反乱を起こしたが、
彼も滅び、つき従った者も皆、ちりぢりにさせられた。そこで今、申し上げたい。あの者
たちから手を引きなさい。ほうっておくがよい。あの計画や行動が人間から出たものなら、
自滅するだろうし、神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかした
ら、諸君は神に逆らう者となるかもしれないのだ。」(使徒 5:34-39)
ガマリエルの言葉の中で「テウダ」や「ガリラヤのユダ」がキリストを自称したとは明
言されていないが、彼らはイエス・キリストと同列に扱われている。彼らが神からでた者
であると自称したと推察される。
また使徒言行録 8 章にはサマリヤの魔術師シモンについて記録されている。
「ところで、この町に以前からシモンという人がいて、魔術を使ってサマリアの人々を驚
かせ、偉大な人物と自称していた。」(使徒 8:9)
このような箇所からニセ・キリストや魔術師など、神から出たのではない宗教家たちは、
自分を何か偉大な者であるかのように自称するという認識が新約聖書には既に存在してい
たと理解できる。したがって、イエスが自分のメシア性を隠されたというのは、イエスの
メシア意識の欠如ではなく、イエスがまさに真のメシアであることの証明として福音書記
者たちは自覚していたと言うことができる。
またマルコ福音書がイエスの言葉として伝えている終末預言にも、キリストを自称する
偽キリストの出現について警告されている。
-2-
「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたし
がそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。」(マルコ 13:5-6)
「そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』『見よ、あそこだ』と言う者がいても、信じ
てはならない。偽メシアや偽預言者が現れて、しるしや不思議な業を行い、できれば、選
ばれた人たちを惑わそうとするからである。」(マルコ 13:21-22)
このようにマルコ福音書の伝承も既に、キリストを自称する者はキリストではないとい
う認識を持っていると言うことができる。ここに言われているメシアを自称する偽メシア
の出現は、未来のことであって、当時のイエス・キリストとは関係がないという反論があ
るかも知れない。しかし、それでは、現実のイエス・キリストと再臨のイエス・キリスト
とが同じものではなくなってしまう。再臨のメシアは、決してメシアを自称しない。なぜ
ならば、現実に本当のメシアであるイエスがメシアを自称しないのだから。つまり、イエ
ス・キリスト自身がメシアを自称しなかったことは、偽メシアはメシアを自称するという
警告の根拠なのだ。イエスは自分の言葉に対する責任を身をもって果たしたと考えるべき
である。
第3節
メシアの秘密とメシア意識
最後にイエス自身の意識が、自身のメシア性を秘密にしたということが考えられる。A
・シュバイツエルは、「イエスのメシア意識は将来的なものであったことを前提としてい
るのである!というのは、使徒行伝のなかのペテロの言葉さえも、イエスがメシアである
ことはイエスが復活して初めて生じるものとしている」(4)と、述べている。この生前のイ
エスのメシア性に関してヴレーデは次のように述べている。これはヴレーデにとってイエ
スのメシア性を考察する当然の前提となっている重要な前提条件であるため、原文で引用
する。
"Gewiss ist, dass die mit der Auferstehung beginnende Messianitaet die Vorstellung der
verhuellten Messianitaet nicht fordert. Sie schliesst nicht notwendig aus, dass Jesus sich auf Erden
den Messias nannte, noch weiniger aber, dass der irdische Jesus einfach nicht als Messias galt."(5)
(訳)「復活によって始まるメシア性は、秘密にされたメシア性を要求するものではない
ことは確実である。復活後のイエスのメシア性は、イエスが生前からメシアであると自称
することを必然的に拒否しないし、この世でイエスがメシアとして認められないことを拒
否するものではましてやない。」
しかし、ヴレーデのこの論法は誤っている。なぜならば、復活によってメシアとされた
イエスが、メシアであるがゆえに自身のメシア性を隠す正当な理由があるからだ。つまり
「善い人は自分から、『わたしは善い人である』と言わなければ、善い人ではない」と、
ヴレーデは主張しているのと同じである。同様に正しい人は、「自分が正しい人です」と、
言わなかったから正しい人ではないと言うことはできない。むしろ善い人は、「自分が善
い人である」とは言わないし、正しい人は、「自分が正しい人である」とは言わないもの
-3-
である。「わたしは善人です」と自分自身を言いふらす者は、善人ではないし、「わたし
は正しい人だ」と言いふらす人は正しい人ではない。善悪や正邪の判断は、その人間の意
識によってのみ決定されるのではなく、その人の言葉と行いによって最終的に他者によっ
て認識されるからだ。同様に、「真のメシアは、自分がメシアであると言わない」と言う
ことができ、メシアは、そのメシアとしての行いを行った後にメシアと認識される。した
がって、イエスはメシア意識を持っていたがために自身のメシア性を秘密にし、メシアと
しての業をなし終えた後、メシアであると弟子たちによって認識されたのだ。このように
考えるならば、ヴレーデが指摘した「メシアの秘密」を、本来的にイエスのメシア性の証
明としてマルコ福音書は理解し用いていると言える。
第2章
マルコ福音書における「メシアの秘密」再考
以下具体的に、マルコ福音書においてヴレーデによって「メシアの秘密」として取り上
げられている箇所を再考察する。
第1節
悪霊への沈黙命令
悪霊がイエスが誰であるかを告白する。これをイエスが禁じるマルコ福音書の箇所は以
下である。
(カフェルナウムの会堂で「神の聖者だ」と叫ぶ汚れた霊にとりつかれた男に)
1:25 イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、
(シモンとアンデレの家での病人を癒し悪霊を追い出した後)
1:34 イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊
を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知ってい
たからである。
(湖畔での癒しの後)
3:12 イエスは、自分のことを言いふらさないようにと霊どもを厳しく戒められた。
「悪霊はイエスを知っており、イエスに呼びかける。しかしイエスは、まさに彼らがイ
エスを知っているからこそ、黙らせる。この沈黙の命令は伝記的には考えられない。今さ
ら沈黙を命令しても遅すぎるのである。秘密はすでに暴露されてしまっている」(6)とヴレ
ーデは考えた。今日、この悪霊に対する沈黙命令は、古代の悪霊追放物語の一要素であり、
イエスが悪霊にうち勝つ力を示すものであって、「メシアの秘密」として理解する必要は
ないとされている(7)。
しかし、この悪霊にものを言うことを許さず、イエスが神の聖者であることを民衆に言
い広めることを禁じた理由として、そもそも真のメシアとはどのようなものであるかとい
うメシアの本性について考察が欠けている。つまり真のメシアである神の子イエス・キリ
ストは、当時、人々が期待し予測していたメシアとは、全く異なるものであったからであ
-4-
る。マルコ福音書 8 章によれば、メシアは必ず多くの苦しみを受け、人々から排斥されて
殺され、三日の後に復活する者である。このことをイエスが弟子たちに教え始めたとき、
ペトロはイエスをいさめ始めるが、イエスは弟子たちを見て、ペトロを叱って次のように
言った「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」
(マルコ 8:33)。このイエスがペトロを叱責して放った言葉は、悪霊にものを言うことを
許さなかった出来事に対応しており、それを説明している。悪霊たちがイエスのメシア性
について暴露することは、イエスのメシアとしての業を成就する妨害であって、助けとは
ならなかったからである。つまり悪霊たちのイエスについてのメシア告白は、メシアとし
ての業が成し遂げられてから認識されるべき真のメシアの本性を、そのことがなされる以
前に告白することによってメシアの業を覆い隠し無力化しようとしているのだ。
第2節
病人の治癒
癒しの奇跡などのあとに、その奇跡を言いふらさないようにイエスが命令する箇所、ま
た広く民衆に奇跡などを見せないようにする箇所もイエスのメシア性を秘密にする意図が
あるとヴレーデは考える。該当箇所は以下のとおり。
(重い皮膚病の人の癒し)
1:43 イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、
1:44 言われた。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体
を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」
1:45 しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。
それで、イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた。
それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た。
(ヤイロの娘が生き返る奇跡)
5:43 イエスはこのことをだれにも知らせないようにと厳しく命じ、また、食べ物を少女に
与えるようにと言われた。
5:37 そして、ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれもついて来ること
をお許しにならなかった。
5:40 人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟
子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた。
(耳が聞こえず、舌の回らない人の癒し)
7:36 イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、
イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。
7:33 そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、そ
れから唾をつけてその舌に触れられた
(ベトサイダでの盲人の癒し)
8:26 イエスは、「この村に入ってはいけない」と言って、その人を家に帰された。
-5-
8:23 イエスは盲人の手を取って、村の外に連れ出し、その目に唾をつけ、両手をその人の
上に置いて、「何か見えるか」とお尋ねになった。
「イエスは死んだヤイロの娘を生き返らせ、そのことを誰にもさとられないようにせよ
と命じる。それは無理な命令である。家は弔問客で満ちていたのである」(8)と、ヴレーデ
は考え、このイエスの秘密命令は史実ではないとした。治癒奇跡を秘密にせよという秘密
保持の動機は、ヴレーデが想定した「メシアの秘密」論のようではなく、今日では、古代
の奇跡物語の一要素と理解されている。
「奇跡的治癒をもたらす言葉や所作に関する秘密保持の命令も、古代の魔術パピルスに
しばしば見いだされる(G・タイセン)。らい病をいやされた者に対する命令も、ここか
ら理解することができよう」(9)と川島貞雄はタイセンの見解にしたがって説明している。
しかし、その説明には不整合がある。「タリタ、クムというアラム語は、ギリシア語圏の
人々には、奇跡を惹き起こす魔術的な異語のように響いたかもしれない。そして守秘命令
は異語に関するものとして受け取られたことであろう。マルコはアラム語の意味をギリシ
ア語で説明することによって、イエスの奇跡が魔術ではないことを示すのである。」( 10)
と川島貞雄は言いながら、秘密保持の命令は、古代の魔術パピルスなどにしばしば見いだ
される奇跡物語の一要素としている。つまり、イエスの病人治癒の秘密保持命令は一方で
は魔術的奇跡物語の一要素であるとしながら、その秘密保持命令の対象となったタリタ・
クムという言葉は魔術とは関係ないことを福音書は明らかにしようと意図していると言っ
ている。イエスの治癒奇跡が魔術ではないことを明らかにするのが福音書の本来的な意図
と考えられるにもかかわらず、イエスが発した治癒の秘密保持命令は魔術パピルスの影響
下にあるとするのは矛盾ではないだろうか。
現代日本社会の中で、このような事例を観察すると、自らを救世主と自称する偽キリス
トは、むしろ自分たちで奇跡をでっち上げて宣伝している事実がある。オウム真理教の教
祖麻原彰晃は空中浮遊の写真をでっち上げ、自分の力を誇示した。また「ガンを直した」
というような話をねつ造して人々を惑わしている者もいる。今日、ブームとさえなってい
る占いでは、百の占いの内、一つの占いでも当たれば、占い師はそれを自ら喧伝し、自分
が何でも予言できるかのように見せかける。そして、はずれた九十九の占いのについては
全く触れない(11)。占いの方法などを秘術と称して秘密にするが、イエスのように奇跡を行
ったことを秘密にしようとする態度は彼らにはない。
イエスの治癒あるいは蘇生の奇跡についての秘密保持命令において注目されるべきは、
イエスの人格の高さと彼が世に来たことの真の意味である。これらのイエスの秘密保持命
令は、イエスがこの世での栄光を求めなかったことを意味している。そしてまた彼が病人
の治癒や死人の蘇生などの奇跡を生業としして一儲けしようとする輩ではなかったことを
伝えている。彼はそのようなこの世の人々の求めるものではなく、神から与えられた使命
に生きたことがここに宣言されているのである。人々はイエスの業に驚き賞賛したが、イ
-6-
エス自身はそれを隠そうとされたという謙虚さを伝えるのがマルコの意図である。できな
いことですらできるかのように宣伝するわたしたち人間とのコントラストがここで明確に
なっている。
しかし、イエスは癒しの奇跡をいつも人々に分からないように隠れて行い、秘密にしよ
うとしたわけではない。イエスは自分がメシアであるということを人々に宣伝するデモン
ストレーションをすることへの恐れを持っていたため奇跡を秘密にしようとしたという説
に対して、ヴレーデもまた、それでは公衆の面前でイエスが奇跡を行ったマルコの記述を
どのように説明するのかという反論をしている(12)。
マルコ 1:21-28 の最初の癒しの報告である汚れた霊に取りつかれた男の癒しは会堂に人
々が集まっている中で行われている。また 3:1-6 の片手の萎えた人の癒しは、ファリサイ派
の人々が監視する中で、イエスは安息日に会堂で癒しの奇跡を行っている。このことはイ
エスの奇跡が確かな力を持ったものであって、まやかしではないことを示している。偽宗
教にも癒しの奇跡がつきものであるが多くはその偽宗教の教祖と信者があらかじめ示し合
わせて行うやらせに過ぎない。公衆の面前で行われるイエスの癒しの奇跡は、イエスと弟
子たちが準備したやらせではないことを証明している。
第3節
弟子の無理解
弟子たちがイエスを理解出来ないことは「メシアの秘密」論と深い関わりがあるとヴレ
ーデは主張している。関連するマルコの箇所は以下である。(13)
(種まきのたとえの後で)
4:13 また、イエスは言われた。「このたとえが分からないのか。では、どうしてほかのた
とえが理解できるだろうか。
(湖で突風を静めたとき)
4:40 イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」
4:41 弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従
うではないか」と互いに言った。
(湖の上を歩くイエスを見て)
6:50 皆はイエスを見ておびえたのである。しかし、イエスはすぐ彼らと話し始めて、「安
心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。
6:51 イエスが舟に乗り込まれると、風は静まり、弟子たちは心の中で非常に驚いた。
6:52 パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである。
(食前の清めに関する論争)
7:18 イエスは言われた。「あなたがたも、そんなに物分かりが悪いのか。すべて外から人
の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。
-7-
(ファリサイ派の人々とヘロデのパン種についての教え)
8:16 弟子たちは、これは自分たちがパンを持っていないからなのだ、と論じ合っていた。
8:17 イエスはそれに気づいて言われた。「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。
まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。
8:18 目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。
8:19 わたしが五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパンの屑でいっぱいになった籠
は、幾つあったか。」弟子たちは、「十二です」と言った。
8:20 「七つのパンを四千人に裂いたときには、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、
幾つあったか。」「七つです」と言うと、
8:21 イエスは、「まだ悟らないのか」と言われた。
(山上の変貌)
9:5 ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すば
らしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、
もう一つはエリヤのためです。」
9:6 ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたので
ある。
(汚れた霊に取りつかれた子の癒し)
9:19 イエスはお答えになった。「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなた
がたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子
をわたしのところに連れて来なさい。」
(金持ちの男との問答)
10:24 弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスは更に言葉を続けられた。「子たちよ、
神の国に入るのは、なんと難しいことか。
(ゲッセマネでの祈り)
14:37 それから、戻って御覧になると、弟子たちは眠っていたので、ペトロに言われた。
「シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。
14:38 誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」
14:39 更に、向こうへ行って、同じ言葉で祈られた。
14:40 再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。彼ら
は、イエスにどう言えばよいのか、分からなかった。
14:41 イエスは三度目に戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでい
る。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。
「弟子たちの無理解の動機がマルコ福音書に顕著な動機であり、マルコ思想を知るため
に大きな手がかりになることに最初に気がついたのは W・ヴレーデである。これはヴレー
デの大きな功績と言わねばならない。彼はこの動機を『メシアの秘密』と結びつけて考え
-8-
た。弟子達の無理解の内容もイエスのメシア性にかかわっているのであり、メシアの秘密
の動機と同じく、イエスのメシア性に関して復活の出来事が決定的な出来事であることを
示している。すなわち、メシアの秘密の動機は、イエスが復活後にメシアになったのだと
いう信仰と、イエスはその生前からメシアであったという信仰とを調和させようとすると
ころから生まれたのであり、弟子達の無理解の動機は、弟子達が復活信仰を持つことによ
ってはじめてまったく新しいイエス理解に到達した、という事実を、したがってイエスの
生前においてはなにも理解していなかったのだ、という形で表現したものである。それ以
前の無理解の度が強ければ強いほど、復活体験と共に生じた変化もそれだけ強調してえが
き出される」(14)と田川健三はヴレーデの見解をまとめている。そして田川自身はこの弟子
の無理解の原因を次のように述べている。「むしろこれは、イエスの史的事実を自分の立
っている歴史的社会的場において解釈した場合にマルコがつくり出した動機なのである。
マルコの歴史的社会的場とは、つまり形成途上にある初期の教会である。その場において、
一群のかなり影響力の強い人々のイエス理解及び福音書理解を正しくないものとして批判
しているのである。おそらくこの人々は、イエスの直弟子による正統の伝統を受け継ぐ者
と自負していたのであろう。それをマルコは批判しつつ、イエスの具体的な活動のあとを
福音書に記すことによって、自分のイエス理解を展開しようとしたのであろう」(15)。
これに対して、川島貞雄は次のように弟子の無理解について述べている。「イエスはこ
の世の権威ある者や敬虔な者たちの尺度をはるかに超えた存在である。それだけではない。
イエスの傍らにいて、イエスから親しく教えられ(3:13-14, 4:11)、幾度もイエスの奇跡を
目撃している弟子たちさえも彼を理解することができず、彼につまずいてしまう(14:27)。
こうして弟子たちの無理解・不信仰をとおしてイエスの神秘性・超越性がいっそう強く示
唆される。彼は超越的な神の子なのである(1:1, 11, 9:7, 15:39)。しかも、十字架への道を歩
む衝撃的な存在である。このイエスを弟子たちは理解できず、驚き怪しみ(10:32)、ついに
見捨ててしまう(14:50)。しかし、弟子たちの無理解と不信仰は、マルコの教会の信徒たち
に対する警告でもある。イエスが超越的かつ衝撃的な存在であるゆえに、信徒たちも弟子
たちと同じような無理解と不信仰に陥りやすい。『聞く耳のある者は聞きなさい』(4:23)、
『自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい』(8:34)、『目を覚まして祈っていなさ
い』(14:38)という言葉は、マルコの教会の信徒が必要としている言葉である」(16)。
この弟子たちの無理解についてのマルコの記述が、マルコ福音書がイエスの自伝的文書
ではなく、イエスの復活の光によって再構成された文書であることを明確にしたという意
味でヴレーデの見解は正しい。しかし、この弟子たちの無理解についての記述の意味は、
田川健三が言うような原始エルサレム教会の指導的立場の弟子批判ではない。むしろ指導
的立場の弟子たちの謙虚さが表現されていると言うべきではなかろうか。丁度、本当のメ
シアが自分自身のメシア性を秘密にしたように、弟子たちもまた、自分たちの賢さではな
く、自分たちの愚かさを告白できることによってイエスの真の弟子である証明がなされて
いる。弟子たちの無理解・不信仰をとおして強調されているのは、イエスの神秘性・超越
性であるが、マルコの教会の信徒たちに対する警告ではない。イエス・キリストの復活後、
-9-
聖霊の働きによって弟子たちは、真にイエス・キリストを理解し、信仰を持った。それ故
に自身の不信仰を彼らは後代に伝えることができるほどになったのである。警告ではなく
て、わたしたちの目標と手本がここに示されている。世にあって、わたしたちは自身の不
信仰とイエスを誤解し続けていることを告白できるようになることが重要なのだ。それこ
そ、わたしたちがイエス・キリストの救いに与っている確かな証明である。同様のことは、
わたしたちの日常においても確認できる。たとえばこの世で富豪になったり、立派な業績
を成し遂げた人々が、過去を回顧して、過去に自分がどんなに貧しく、惨めな生活を送っ
ていたかを語ることがあるのと同じである。今現在、惨めな状況に生きている者は、過去
の栄光にしがみつこうとする。もし、福音書において弟子たちの信仰が賞賛されていたと
したら、イエス・キリストによる救いの業は成し遂げられていない証明となるのだ。イエ
ス・キリストによる救いを体験した者たちは自己批判ができるようになる。それが罪を告
白するということである。したがってマルコ福音書が教会の指導的立場を批判する意志を
持っているとは、考えられない。むしろ原始エルサレム教会の指導的立場にあったペテロ
に遡り得る伝承がマルコにはあるとするべきである。
第4節
たとえ論
まずヴレーデの意見は次のとおりである(17)。
マルコ福音書4章には「種を蒔く人」のたとえがイエスによって群衆に語られた後、弟子
たちが質問をする。
4:10 イエスがひとりになられたとき、十二人と一緒にイエスの周りにいた人たちとがたと
えについて尋ねた。
4:11 そこで、イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、
外の人々には、すべてがたとえで示される。
4:12 それは、/『彼らが見るには見るが、認めず、/聞くには聞くが、理解できず、/こ
うして、立ち帰って赦されることがない』/ようになるためである。」
この後、たとえについての説明がイエスによって弟子たちになされ、「ともし火と秤の
たとえ」、「生長する種のたとえ」、「からし種のたとえ」が続く。そしてこれらをまと
めるように 33~34 節が置かれている。
4:33 イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。
4:34 たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説
明された。
これらの箇所から、イエスは一般民衆に対して、自分の教えを秘密にしていることが言
える。まず問題になるのは、この「たとえ」()の意味である。ヴレーデはユーリ
ッヒャーの見解を採用して、マルコ福音書においてこの「たとえ」は、「謎」として理解
するべきだと考える。したがって、イエスは神の国の秘密を民衆には隠すために「謎」を
- 10 -
かけた。弟子たちには、「神の国の秘密」が明らかにされているとイエスは語っているが、
マルコ福音書において、「神の国の秘密」の具体的な解き明かしはない。マルコには、「神
の国の秘密」は、弟子たちにとってすでに周知のものであるという前提がある。それは、
エフェソ 1:9、コロサイ 1:25 以下及び 2:2-3 との関連において「キリストの秘密」と理解さ
れ、より具体的にいうならば、「イエスはメシアであり神の子である。」ことを示す。イ
エスはメシアであることが、マルコとって隠されたものであったとするならば、この神の
国のたとえの意味もまたマルコにとって隠されたものとなる。「イエスがメシア、神の子
である」ということは、復活後に弟子たちに明らかになったことであり、イエスが生前に
「たとえ」(「謎かけ」)の意味を教えたという出来事は歴史的なことではないと結論づ
ける。
このヴレーデの見解に対しては、今日次のように考えられている。田川健三はこのイエ
スが弟子たちにたとえの意味を教えたという部分は、マルコ以前の伝承に属するとする。
つまり、マルコ福音書がいわゆるメシアの秘密論として書き加えた編集句ではない。根拠
は、用いられている言葉である。
「我々はまず、4:10-12 は福音書記者の手によるものではなく、伝承資料の再録である、
ということの確認からはじめよう。10-11 節はほんの短い文なのに、他にはマルコの用いな
い表現が多いことに気が付く。『自分達だけに(なった時)(-マルコは通常
この意味ではを用いる、4:34, 6:31, 32, 7:33, 9:2, 28, 13:3)、「秘儀」()、
「外の者」()がそうである」(18)。
イエスが、自分自身のメシア性について秘密にせよと口封じをしたことは、マルコにと
ってイエスこそが真正なメシアの証明であると前章において論述した。この視点から、マ
ルコ福音書 4:10-12 を見るならば、イエスが外の人には理解できないたとえで語り、弟子た
ちには、その意味を後から説明したことは、イエスのメシア意識から出たものと考えられ
る。しかし、マルコが「メシアの証明」として用いている「メシアの秘密」とは関連がな
いと考えられる。
むしろ、このマルコ 4 章に挙げられている4つのたとえは、わたしたちの信仰を問うて
いるのではないだろうか。聖霊によって今もわたしたちとともにいて下さる神が、この意
味をイエス・キリストに従う人々に解き明かすことをマルコは知っていたのではないだろ
うか。まさにこの謎とも言えるたとえが、わたしたちに語られ、それに対する疑問が、わ
たしたちの信仰生活を深化させるのである。ある意味、禅問答における「公案」と似たよ
うな機能を果たしていたのではないだろうか。
第5節
ペトロのメシア告白
(ペトロのメシア告白に対して)
8:30 するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。
(山上の変貌の直後)
9:9 一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見た
ことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。
- 11 -
ヴレーデにとって重要な問いは、イエスのメシアであることが明らかになったのはいつ
かということである(19)。これはヴレーデの時代の問いでもあった。歴史科学的な観点から
の問いかけである。マルコ 8:27-30 のペテロのメシア告白が、イエスとの生活と教育を通し
て到達した歴史的な転換点のように一般に理解されているが、それは果たして正当なこと
かという疑問が投げかけられる。なぜならば、2回目の 4000 人の給食の直後でも弟子たち
にはイエスのメシア性について何の認識も育っていない。それ以前のマルコ 2:10 ではイエ
スは「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」と中風の人を癒し、
自分のメシア性を明らかにしており、また 2:18-20 の断食に関する問答では、「しかし、花
婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食するだろう。」と言っている。これ
らのことは、ペテロのメシア告白の後にメシアの受難についてイエスが教えはじめたとい
う記述と矛盾する。すでに最初から教えているではないかとヴレーデは考える。そして結
論として弟子たちがイエスがメシアであることを認識したのは、イエスの復活後であって、
それ以前には弟子たちにメシア認識はなかったとする。復活後にイエスはメシアとなった
のだ。そしてイエスの復活によって認識されたイエスはメシアであるという事実が、生前
のイエスに投影され、「生前のイエスはこうであったに違いない」とする新たなイエス伝
承が誕生した。イエスが自分のメシア性を秘密にせよと命令する言葉は、この新たな伝承
の箇所に後から付け加えられた。これがヴレーデの「メシアの秘密」論である。このペテ
ロのメシア告白は史的事実ではないが、復活のイエスに一番始めに出会った弟子がペテロ
であったという事実を反映しているとする(20)。
本小論の第 1 章 3 節においてすでに指摘したように、ヴレーデは、「真のメシアは、自
分がメシアであると自称することを排除しない」という誤った前提に立っている。現実に
は、わたしたちの日本社会に無数に存在する新興宗教の教祖のように、メシアを自称する
のは偽メシアの特徴である。そしてイエスが、自身のメシア性を秘匿したことこそ、イエ
スが生前から本当のメシアであったことの証明なのである。したがって、ペテロのメシア
告白の直後に、イエスのメシア秘匿命令が続くのは、まさにペテロのメシア告白を補強し
証明する機能を果たしている。不可解なことではなく、当然のことである。イエスがメシ
アであることは、イエス自身の口から語られてはならない。そうではなくて、最もイエス
をよく知り理解できる立場の者が、イエスについての真実を語ることができるからだ。
この意味において「弟子たちのいないイエスの宣教活動は考えられない」(21)という川島
貞雄の言葉が理解される。弟子の役割とは、マルコにとってイエス・キリストの出来事と
事実の証人だからである。そしてマルコの目的は、イエスが神の子、キリストであること
を明らかにすることにあるからである。したがってその証人は必要不可欠となる。またマ
ルコにおいて弟子たちが、イエスの招きに直ちに躊躇することなく、全てを捨てて従って
いる。これは、イエスの「メシアであることを秘密にせよ」という命令に対しても同じよ
うに墨守したという伏線と言える。
マルコにおいてイエスが、弟子たちに自分は誰であるかと問い、そしてメシアの受難に
ついて語り、山上で変貌した姿を弟子たちに示すのは、非歴史的なことであろうか。ヨハ
- 12 -
ネ 6 章において五千人の給食の後に人々はイエスを自分たちの王としようとしたという記
述が見られる。二回目の給食の後で、自分が誰であるかを弟子たちに問い、真のメシアの
あり方を教えるイエスの経緯の必然性がそこにはあるのではないか。群衆の中にも、弟子
たちの中にもイエスが何者であるかという疑問が高まってきたのだ。神から遣わされたメ
シアは、神の御心を行う。群衆や弟子たちの人間的な願いを達成するのがメシアの役割で
はない。このことを明確にするためにイエスが、まず自分を誰と思うかと弟子たちに問い、
真実を語ったのである。
第3章
イエスのメシア意識について
「たしかにイエス自身がメシア意識を持っていた可能性はきわめて小さい。」(22)と、今
日なお言われる最大の根拠は、イエスがメシアという称号を用いなかったことにあると考
えられる。
E・シュタウファーによれば、「イエスはメシアという称号は用いなかった。このことは
新約聖書におけるメシアという概念の公平な統計と、福音書におけるメシア宣言の批判的
分析によって、最も明確に示される。クリストス(メシア)という用語は、四福音書に 53
回ほど現れるにすぎず、明白で確実なイエスの自己宣言のうちにはけっして現れない。こ
れに対して、福音書を除く新約聖書には、この用語が二百八十回も見いだされる。特にこ
のメシア宣言は、最初から弟子たちの集団の根本的な信仰告白として現れ、それに応じて、
原始教会のほとんどすべての信条にくりかえされている」(23)。また語録資料である(Q)
にも全くメシアという言葉はない。そればかりでなく、ダビデの子、イスラエルの王、ユ
ダヤ人の王という同じような意義の称号についても同様であり、イエスはメシアと自称し
なかったと結論づけられる。またマルコ、ルカ、ヨハネにおいてもイエスがメシア宣言を
常に避けたり無視したり、拒絶したという事実が示されるだけで、イエスがメシアと自称
したという確実な証言はない。マタイは事情が異なり「福音書の至る所にメシア概念を挿
入し、重要な箇所でそれをイエスの自己証言にさかのぼらせている。だがそれは教義的な
歴史構成であり、もはや歴史的イエスの伝承とはなんらの関係もない。」(24)とされる。
しかし、先に述べたように、このイエスがメシアであると自称しなかったことは、イエ
ス自身がメシア意識を持っていなかったことの証明にはならないのである。正しい人は自
分を正しいとは言わない人であり、善人は、自分を善人であるとは自称しない。従って、
「イエス自身がメシア意識を持っていた可能性はきわめて小さい」という根拠になってい
る「イエスは生前メシアを自称しなかった」という事実は、そのまま、「イエスがメシア
意識を持っていた」ということの力強い根拠になる。いやそれはイエスが強烈なメシア意
識を持っていたことの証明である。メシア意識があったからこそ、イエスは神の御心に従
って十字架への道を選んだのだ。
その人が正しい人であるか善人であるかは、その人を知る他の人が判断することである。
そして人の評価とは、その人が生きている間に定まるのではなく、死んでから決まる。従
- 13 -
って、人々に神の国が近づいたことを知らせ、ご自身がメシアであることを知らせるため
に弟子たちが呼び出されたのである。これは聖書全体に関わる原理である。丁度、主なる
神がご自身の存在と愛を知らせるためにイスラエル民族を選び出されたのと同じだ。そし
てイスラエルが神を理解しなかったように、弟子たちもイエスを理解しなかったのである。
神がかたくななイスラエルをバビロンから解放することによってうち砕き、自身の誠実と
愛と慈しみを示されたように、主イエス・キリストもまた弟子たちに、十字架と復活の業
を通して、その無理解をうち砕いたのだ。
おわりに
マルコ福音書の編集の目的は、その冒頭に明示されている。「神の子イエス・キリスト
の福音の初め」を伝えるのが、マルコの目的である。したがって、イエスが自分がメシア
であることを生前、秘密にするように命じたことは、イエスが、まさに神の子であり、キ
リストであったことの証明としてマルコは理解していた。
ヴレーデの「メシアの秘密」論は、「歴史の世紀」といわれた 19 世紀の時代性の中で、
「史的イエス像」を歴史科学的に究明しようとする動きに対して「ノー」を突きつけた点
では大いに評価されるかも知れない。
しかし、完全にキリスト教化された西欧社会といういわば無菌状態の中で、イエスが自
分がメシアであることを秘密にするようにと命じた真の意味をヴレーデは見失ってしまっ
た。「メシアの秘密」をイエスが生前メシア意識を持たなかったことの証明として全く逆
に解釈をしてしまったのである。そして、ヴレーデの見解を是としたキリスト教神学は自
己崩壊への道を突き進んだ。ヴレーデの「メシアの秘密」論は現実との接点を持たない机
上の空論に過ぎない。
本小論を書き終えようとしているとき、新聞はトップ記事として松本智津夫被告の裁判
打ち切りを報じていた。このオウム真理教の教祖は。11 年前、自らを救世主と名乗り、東
京の地下鉄でサリンガスをまき散らすなどして何の関係もない多くの人々を不幸のどん底
に陥れた。また再臨のキリストを自称する「統一協会」の文鮮明によって人生を狂わされ
た人々が無数にいる。「本当のメシアは、自分のことをメシアとは言わない」という新約
聖書のメッセージをわたしたちが意識の中に顕在化していたならば、この悲劇にはもっと
違った展開があったのではないかと反省させられる。わたしたちは、「本当のメシアは、
自分のことをメシアとは言わない」という事実を繰り返し教えられながら、悟らず、その
ことを世に訴えてこなかった。マルコが強調する無理解な弟子たちは、まさにわたしたち
の現状である。
また松本智津夫被告の裁判での振る舞いは、「メシアの秘密」に関する最後の疑問に答
えを与える。最高法院で、イエスは大祭司の問いに自分はメシアであると答えた。このこ
とは「本当のメシアは、メシアを自称しない」という我々のテーゼに反する。
14:60 そこで、大祭司は立ち上がり、真ん中に進み出て、イエスに尋ねた。「何も答えな
いのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか。」
- 14 -
14:61 しかし、イエスは黙り続け何もお答えにならなかった。そこで、重ねて大祭司は尋
ね、「お前はほむべき方の子、メシアなのか」と言った。
14:62 イエスは言われた。「そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、/
天の雲に囲まれて来るのを見る。」
14:63 大祭司は、衣を引き裂きながら言った。「これでもまだ証人が必要だろうか。
14:64 諸君は冒涜の言葉を聞いた。どう考えるか。」一同は、死刑にすべきだと決議した。
松本被告は、裁判で自らのなした悪行について沈黙し、少しでも生きながらえるために
裁判を長引かせようと精神病を装う有様である。そして裁判で聞かれもしないのに、「自
分はメシアである」と言いとうとうと自分の教えを述べ、自分に不利なことは、弟子に責
任をなすりつけている。裁判で自分がメシアであると主張することが命に関わることでは
ないし、誇大妄想と判断されて死刑を免れるためには有効であるから松本被告は主張して
いるだけである。それに対してイエスは、自分に不利な虚偽の証言に対しては沈黙し、尋
ねられた質問に裁きの場で誠実に答えただけなのだ。しかも、その答えによってイエスは
自らが死刑とされる根拠を相手に与えている。自分がメシアであるという真実に命をかけ
たのである。
「メシアの秘密」のモチーフとしてヴレーデが指摘した箇所は、本来この世に向かって、
イエス・キリストこそが本当のキリストであることを訴える最も具体的な力強いケリュグ
マなのだ。
(1)
W. Wrede "Das Messiasgeheimnis in den Evangelien" 1Afl. 1901 Goettingen この小論で
は、1963 年発行の第 3 版を用いた。初版から第 3 版まで内容的な変更はない。
(2)
A・シュバイツエル 『イエスの生涯』 「メシアと受難の秘密」(波木居齋二訳
波書店
(3)
岩
1957)122 頁 2~4 行目
川島貞雄 『マルコによる福音書
ト2」日本基督教団出版局
1996 年
十字架への道イエス』「福音書のイエス・キリス
265 頁 12-13 行目
(4)
A・シュバイツエル
前掲書 142 頁 6-8 行目
(5)
W. Wrede
(6)
H・コンツェルマン 『新約聖書神学概論』(田川健三・小河陽訳
前掲書 226 頁 5~9 行目
新教出版 1981)
172 頁 17 行目以下
(7)
川島貞雄
前掲書
266 頁 10 行目-267 頁 7 行目
(8)
H・コンツェルマン
(9)
川島貞雄
前掲書
261 頁 9 行目以降
(10)
川島貞雄
前掲書
114 頁 10-13 行目
(11)
菊池聡
(12)
W. Wrede 前掲書
(13)
W. Wrede
前掲書 101-103 頁
(14)
田川健三
『原始キリスト教史の一断面』勁草出版 1968 年 200 頁 10 行目-201 頁 3
前掲書
『予言の心理学』
172 頁 2-3 行目
KK ベストセラーズ
1998 年
105-110 頁
41 頁 8-14 行目
- 15 -
行目
(15)
田川健三
前掲書
203 頁 2-6 行目
(16)
川島貞雄
前掲書
242 頁 9 行目-243 頁 3 行目
(17)
田川健三
前掲書
54-65 頁
(18)
田川健三
前掲書
215 頁 18 行目-216 頁 2 行目
(19)
W. Wrede 前掲書 9-22 頁
(20)
W. Wrede 前掲書
(21)
川島貞雄
前掲書 80 頁 10-11 行目
(22)
川島貞雄
前掲書
(23)
E・シュタウファー 『イエス-その人と歴史』 (高柳伊三郎訳) 日本基督教団
出版部
(24)
1962 年
238 頁
265 頁 11 行目
220 頁 5-11 行目
E・シュタウファー
前掲書 221 頁 12-15 行目
- 16 -