C項 - ABCD学院

ABCD 学院メルマガ
C
2014 年 2 月号
ommunication: Information …英語は使わなくちゃ!
2月になって大雪に見舞われましたが、月末にもなるとさすがに、春の近付きが予感させる時期となり
ました。
この 2 年間あまり、長らく榎本武揚および日本の教育問題を書いてきましたが、一応、完結出来ました。
そして、昨年末アマゾン社にお願いして、榎本武揚第 2 巻を“Enomoto the Last True Samurai: Book2”
として発刊致しました。
(英語版および日本語版を)ご興味ある方は是非 Google 等で検索の上、Amazon
Kindle 社をお尋ねください。
所で、本年から、渋沢栄一をスタートさせて頂きます。
既に、榎本を描くに当たって比較のため渋沢の生涯を簡略にまとめ紹介しています。今回は、下記の理
由から出来るだけ詳細に調査し、当方の見解やコメントを入れて述べて行きたいと思っています。その
位に人物として、前半生はハチャメチャな人生と言えるし、また後半生は日本の資本主義を導入するの
に貢献しています。身分が低いからと言って当時卑屈にならず、コミュニケーション能力で、上位の人
に挑戦して行くユニークな人物で面白いと思っています。ご期待下さい。
取り上げる理由
(1)明治維新、江戸時代の封建社会から一気に「資本主義社会」へと変革させた人物であること。そ
れも、一介の農民であり、または商人の子が、やがて武士となり、徳川慶喜の部下として見出され、駿
府の地方行政(財政)に能力を発揮した。これを慶喜が高く評価し、慶喜の弟・昭武の教育のため、パ
リに留学させた。そのお付きとして(会計係)同行していった。
無論、フランス語など初めて習う事であった。その苦労は並大抵ではないと分かっても、どうして、資
本主義を理解出来たのか不思議でならない。彼の他に攘夷を通り越して資本主義を学び、日本に導入し
た人物はいない。
(2)何故、またどのようにして自分自身を変革していったか?彼の知識および才能が花開いていった
か、レビューして行きたいと思います。
(3)日本社会そのものが「資本主義化」および近代化を進めながら、
「アジアでなぜ日本だけが成功で
きたのか?」について答えを探りまとめたいと考えます。
以上
以上の理由で今月から以下の通りスタートします。
ABCD 学院メルマガ 2014 年
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1.渋沢栄一の幼少期で受けた教育
栄一は晩年、
「論語とそろばん」なる自伝を書いています。そろばんは当然ビジネス界を意味していま
す。初めの「論語」はこれとマッチしません。
なぜ、論語かと言えば、かれは後に、慶喜の弟・徳川昭武の世話係(お伴)としてフランスに滞在した
折、資本主義を勉強しました。その後、日本も彼の力で、資本主義が導入されました。しかし、彼はフ
ランス滞在中資本主義を学びつつも、決してこれにかぶれることはありませんでした。
「資本主義の問題
点として、無制限にこれを進めれば、究極的には弱肉強食の世界となり問題となる。これを防ぐには道
徳感が必要で、論語(儒教精神)を加味する必要がある」と断言しています。
今回はこれに関連し、なぜ、
「儒教精神を尊ぶべきか」を持ちだしている理由をさぐるため、幼少期受け
た教育について調べて行きます。それには先ず、彼に直接影響した父から述べて行く必要があります。
そこで以下の」通り述べます。
1.1 父の影響(父の伝記:概要)
1840年(天保 11 年):栄一、武蔵国(現在、埼玉県深谷市)血洗島村に生まれた。
話を転換し、以下、渋沢家系および父の話とします。
(1)渋沢の家系
江戸時代初期:後に栄一が育った家系「中の家」は渋沢家であるにも拘わらず、水田を持たない村では
30軒の内 21 番目の小農家であった。
なお、家系には下記の人材がおり、後に栄一の教育を担当することとなった。
・渋沢仁山:1778年~
:栄一にとって祖父(2代目宗助)の弟であった。 医術、儒学を学び
塾を興していた。 学識者であると共に、詩文や俳諧を好む風流人であった。自宅を「王長室」と呼ん
で、解放し近在から若者が聴講に来た。学問を尊ぶ気風を当地に築いたと言える。
・桃井可堂:1803~
12才で、仁山に師事し、1831年(28才)自ら塾を興した。江戸に出て、儒学者・東条一堂
の門に入り、同門の3傑と言われた。次第に尊王攘夷の考えに至り、1863年故郷に戻り塾を開き、
同志を集めた。栄一も彼の影響を受けた。
・尾高淳忠:1830年生まれた、栄一の従兄に当たる。
1841年初めて水戸へ行く機会を得て、徳川斉昭の考えや水戸学に傾倒した。若くして塾を開き、
近所の若者に「四書五経」を教えた。また、かれの教え方が独特で、速読を取り入れた。
・渋沢宗助:
先代同様、名主を務め、藩主の用金を仰せつけられた。養蚕技術書を著わす程、農業知識と教養を持
っていた。剣は神道無念流、私塾を開き栄一はここで、書法を学んだ。
(2)父・美雅の人となり:
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武家を志して、武芸、学問を身に付けた。その後、家業に専念し、かれの代で、藍玉の製造販売で財を
なした。
「東の家」に次ぐ富農となった。そして名主見習に抜擢された。藩主ご用達となり、名字帯刀を
許された。そして「非凡な人物」
「武士的気質の人」と言われた。
1824年隣村の下手計村は畑の70%を麦作、14%が藍作であった。中の家の藍玉の売り上げは年
間で1万両となっていた。
栄一の生家は小規模農家であったが、父の代から周辺農家から藍葉を買い入れて「藍玉」として商品化
し、販売していた。
(新たなビジネス)これにより、村内で一気に1,2を争う富農に成長した。
この新たなビジネスの特徴:
1)新しいタイプのビジネスであったため、お米と異なり、税の算定では碌高を基準とされなかった。
2)全ての物資が江戸商人を介して流通していたが藍玉は「地産地称消」で産地間の地方回りで、流通
を担っていた。これにより、従来の流通(社会秩序)を壊して行った。このことは栄一が古いしきたり
や秩序を打破する気風を学んだ。
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