ウメ子フチに学ぶ 講師 小助川 勝義

「ウメ子フチに学ぶ」小助川勝義
ウメ子フチに学ぶ
8 月 29 日(水)18:30∼20:00 札幌会場
9 月 28 日(金)18:30∼20:00 函館会場
講師
小助川 勝義
マクンベツアイヌ文化伝承保存会会長
幕別町教育委員会生涯学習部郷土文化研究員
抑留生活を送ることになりました。日本兵がシベリア
皆さん、こんばんは。アイヌ語の挨拶ではイランカラ
で抑留されていたという話は有名ですが、樺太でもあ
プ テと言います。
ただいまご紹介いただきました小助川です。私は札幌
ったのです。樺太での抑留生活がどういうものだった
出身です。22 歳の春に教員になるため札幌を発ってから
のか、安東軍次郎さんが亡くなる直前に話をしてもら
40 数年経ちました。
い、カセットテープに入れてあるのですが、まだ活字
にしていないので、いずれやらなければと思っていま
今日の題名は「ウメ子フチに学ぶ」です。安東ウメ子
す。
さんという個人のお話しをしていきますが、そこにどう
安東軍次郎さんは、樺太で長い間抑留されていまし
いう意味があるのかを含めてお話していきたいと思いま
たが、戦争が終わって 7 年目になってやっと帰される
す。
私は大学で日本史を専攻しまして、あの時代にもう
ことになりました。帰国して間もなく結婚したのがウ
少し勉強しておけばよかったと思っているのですが、
メ子さんなのです。その時、ウメ子さんは 20 歳で、美
私が本気になってアイヌ文化、アイヌ語などに取り組
人で活発な働き者だったそうです。チロットコタンと
んだのは、本当に最近のことなのです。がんが見つか
フシココタンとそれ程離れていませんので、ウメ子さ
って手術や治療のために何ヶ月か入院しまして、その
んは近くのコタンに嫁いだということになります。
はじめて安東ウメ子さんに出会ったのは、私が 20 代
時に病室にいろいろなものを持ち込んで、死んでもい
後半か 30 代前半だったと思います。当時、私は民衆史
いやと思いながら勉強したのです。
本題に入ります。私は安東ウメ子という素晴らしい
を勉強していて、その講座の中でウメ子さんの歌と踊
女性に出会い、いろいろな体験をしました。ウメ子フ
りに出会ったのです。その後、紹介してくれる人がい
チは昭和 7 年に今は西帯広と言っていますが、当時は
て個人的にウメ子さんと話をして、ムックリを聞かせ
フシコと呼んでいた地域で生まれました。フシコとい
てもらいました。この時、ウメ子さんのムックリに感
う地名は札幌にもありますが、フシコとは古いという
動したというか「これは参った」という気持ちで一緒
意味です。フシココタンは大きなコタンですが、十勝
に聞いた者が 3 人いまして、私と、今、幕別町教育委
地方には他にもいくつかのコタンがありました。大き
員会で生涯学習課長をやっている男性と写真をやって
なコタンというのは、実は政治的に作られたものなの
いる男性です。この 3 人でウメ子さんのところに行っ
です。どういうことかというと、本州から来た移民者
たのですが、言葉にならないくらいの感動を受けて帰
にとって、アイヌの人たちがところどころに点々と住
ってきたのです。
んでいることは都合が悪いということで、アイヌの人
それから、何回かお宅を訪問して、ムックリと歌を
たちを強制的に集めて住まわせるようにしたところの
聞かせてもらいました。当時はちょうどオープンリー
一つがフシココタンなのです。ウメ子フチが嫁に行っ
ルからカセットに変わった時期で、私はカセットをい
た当時のチロットコタンも同じように、政治的につく
っぱい持って行って録音していました。カセットもオ
られたコタンです。
ープンリールもやがて劣化してしまうということで心
配していたのですが、DATというテープが出てきて、
ウメ子フチは帯広小学校を卒業しています。かつて
フシココタンにはこの帯広小学校の他にアイヌ学校が
さらにはCDが出てきてデジタルで録音できるという
ありました。しかし、彼女はいくらか若いので、すで
ことになり私はこれに飛びつきました。当時、ウメ子
にアイヌ学校は無くなっていて普通の帯広小学校へ通
さんのムックリと歌を録音しようと考えたのは私 1 人
ったのです。後でお話しますが、最初のコンサートの
でしたが、この人のムックリや歌の音を残すのが自分
時に、この時の同級生と非常に感激的な再会をしてい
の使命だと勝手に思っていたのです。
私はボランティアで、当時できたばかりの町の資料
ます。
ウメ子フチが結婚したのは昭和 27 年ですが、この 27
館で郷土史を担当していました。この資料館で「アイ
年というのには意味があります。昭和 20 年に日本が降
ヌの暮らし」という特別展を開くことになり、安東ウ
伏したことにより太平洋戦争が終わりましたが、後に
メ子さんにサケ皮の靴を作ってもらうことになりまし
彼女と結婚してご主人となる安東軍次郎さんが樺太で
た。この靴はケリと言います。サケの皮は乾かすと堅
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「ウメ子フチに学ぶ」小助川勝義
くなって普通の針では縫えないので、馬具屋さんが使
りました。ウメ子フチのムックリは後で聞いていただ
う強力な針を使って縫ってもらいました。私も若かっ
きますが、まず、私のムックリを聞いていただきたい
たものですから、片方ができると片方だけ自分の足に
と思います。
履いて資料館の中をうろうろ歩いた記憶があります。
(ムックリ演奏)
ウメ子さんはそうした靴の作り方も覚えていた人なの
です。
とうとう私は、ウメ子さんの歌やムックリを自分ひ
後でウメ子フチのムックリを聞いていただくと分かり
とりだけで聞いているのはもったいないと思い込むよ
ますが、何かが違うのです。保存会の会員も、唇に当た
うになり、帯広市の大通の北側に演劇好きのマスター
るとか、歯に当たるとか言いながら練習していますが、
のいる喫茶店があるので、そこに行って「ケーキ付き
こんなものです。
コーヒー1 杯何ぼ」でコンサートをできないかと相談し
保存会はウメ子フチのご主人の軍次郎さんが中心にな
ました。そうするとマスターは「その話に乗りましょ
って作ったのですが、軍次郎さんが亡くなった後は途切
う」と言ってくれて、コンサートを開くことになりま
れてしまいました。また、私も学校現場が忙しくなり、
した。ところが、本人が困ってしまったのです。「皆の
一時期そうした活動から離れていました。ところが、コ
前で一人で話せないし、歌ったりムックリを弾いたり
ンサートがきっかけになったと思うのですが、小学校や
することは、私にはとても出来ない」と言うのです。
中学校、高校からウメ子フチと私の 2 人に、学校に来て
そこで、マイクを 2 本用意して、1 本を私が持って質問
話とムックリを聞かせてもらえないかと頼まれるように
をして、それに答えるという形で話をしてもらい、間
なりました。それで何度か 2 人で学校へ行って話をした
に曲を挟むという形でやりました。そうしたらうまく
のですが、そのうちウメ子フチは自分 1 人でムックリや
行きました。
自分の育ったコタンの話が 1 人でできるようになるとい
う変化がありました。
その話の中身ですが、ウメ子さんの生い立ちを話し
ウメ子フチは、明るくて、聞いていて楽しくなるよう
てもらいました。あなたが、生まれ育ったコタンはど
うでしたかとか、小学校の時に何がありましたかとい
な話のできる人でした。それから記憶力がすごくて、「先
うような質問をしました。それに対して、ウメ子さん
生、この前こんなこと言ったでしょう」とか、「1 年前の
は、このような話をしてくれました。小学校の時、母
何月何日にこんなことがあった」などと本当によく覚え
親が学校に忘れ物を届けに来てくれたことがあったそ
ていました。それから歌も一切歌詞のメモを見ないで歌
うです。その時、彼女は自分の母親を見て「ああっ」
うのです。後で、最後の作品になってしまったDVDの
と思ったと言うのです。なぜかと言うと「うちの母ち
話をしますが、31 曲全てメモなしで残してくれました。
ゃんは他の母親とは違う」と初めて分かったと言うの
素晴らしいなと思っています。私が話をしている時に手
です。その違いが何かというと「シヌイェ」という入
帳にメモを書いていたら「先生、手帳にメモを書くから
れ墨のことです。そのことに気がついて、家に帰って
忘れるんだよ」と言われました。よくカレンダーにメモ
「母ちゃん、そのシヌイェを消して」と、だだをこね
を書きますが、書いたことで安心してしまい忘れてしま
たということ、また、学校で何となく友達が遊んでく
います。それだと、メモを書き込んだカレンダーが無く
れない、うんと意地悪をされるわけではないのだけれ
なったら大変なことになってしまいます。
ど、遊んでくれないということに気がついて、それか
ウメ子フチが置かれていた環境ですが、彼女を育てた
らは、学校へ行くと言って家を出て、学校へは行かず
ばあちゃん、それから嫁ぎ先のばあちゃんの両方が普段
に、学校が終わるまでの間一人で遊んで、帰りの時間
の生活の中で日本語だけではなく、アイヌ語も使ってい
に合わせて家に帰るということをしていたという話し
てムックリもやっていたそうです。当時、ほとんどの家
もしてくれました。
ではアイヌ語は使うなと言われ、特に子供の前でアイヌ
語が話されることはないという状況だったにも関わらず、
コンサートには、その時の同級生がたまたま来てい
ました。それがきっかけになって、その後クラス会を
自分がそうした環境の中に居たということは、ムックリ
開いたという話をしていました。クラス会に集まった
や歌、アイヌの習慣を伝えるのは自分の役割だと思って
のは女の人が多かったそうですが、自転車屋の奥さん
活動していたのです。
とか、高校の先生になった人もいたそうです。みんな
今日はウメ子フチの音楽性の話もしたいと思っていま
「ウメちゃんごめんね」と謝ったそうです。自分たち
す。後でCDを聞いていただきますが、このCDは若い
に何となく意地悪をしたと思い当たることがあったの
時代の声なので非常につややかな声です。こうした歌の
でしょう。
ほかにも、お酒の作り方とか、オオウバユリの根やべカ
保存会なのにムックリができなかったら恥ずかしい
ンべの実の採集方法も教えてもらいました。べカンべと
ということで、保存会では月に 1 回ムックリの練習を
は、ヒシの実のことです。栗の実のような味でご飯に混
しています。私も最近になってやっと音が出るような
ぜて炊くと大変おいしいものです。今年も 9 月 1 日に保
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「ウメ子フチに学ぶ」小助川勝義
このCDの制作の前に私はがんが再発して 2 度目の手術
存会のみんなで採りに行こうと計画を立てています。
をしました。その後、回復して「シリピリカ」の制作を
ウメ子フチがアイヌ文化奨励賞を受賞した頃に、NH
Kのテレビの特集で「核戦争後の世界」という特別番組
はじめたのですが、今度は肺がんで 3 度目の手術をして、
がありました。世界の5カ国の科学者が出ていた番組で、
左の肺を半分切除しました。CDが出来上がって記念講
それぞれの国でも放送されたものです。その番組のバッ
演をして欲しいと言われ、とにかくつらくて立っていら
クに安東ウメ子さんのムックリが流れたのです。そのこ
れないような状態で話をしたのですが、この時、加納オ
とを、私は後で知ったのですが、そのきっかけになった
キと制作をめぐって論争をしたというエピソードがあり
のは喫茶店でのコンサートなのです。たまたまNHKの
ます。
ディレクターがコンサートに来ていて、これはすごいと
彼は、ご存じのとおり樺太アイヌの楽器であったトン
いうことで、その後、放送局でウメ子フチのムックリを
コリの奏者です。学生時代からアメリカに渡り、ロック
録音して、それを特別番組に使ったということなのです。
とレゲエを一生懸命やってきた男です。その彼が、私が
耳のいい人というのは「これはすごい」ということをす
作ったCDをきっかけに安東ウメ子という人を知ったの
ぐに分かるのだなと私は思いました。
です。そしてウメ子フチのムックリを自分の音楽に取り
さて、いよいよCDづくりが始ったのですが、私は録
入れようとして作った最初のCDが「ハンカプイ」です。
音の場所にもこだわりました。十勝川という川がありま
ハンカプイとはヘソという意味なのですが、このCDは
すが、十勝のアイヌの人は、母なる川という意味で「シ
加納オキのロック調の演奏が中心で、その中に 1 曲か 2
ーベツ」と言っていました。そこで、録音する業者の人
曲、ウメ子フチの歌を入れたものです。
にもつきあってもらって十勝川のほとりまで行って「十
「イフンケ」は先ほども言いましたようにウメ子フチ
勝川」という題名で録音したり、水辺で鳥が飛んでいる
がソロでつくったものです。
「シリピリカ」の時に論争が
池のそばで演奏してもらったり、山の上で演奏してもら
あったというのは、私はウメ子フチが持っている文化を
ったりしました。また、ウメ子フチが飼っていたクロと
そのまま録音して残したいと考え、それが教育委員会と
いう名前の犬が亡くなったので、そのクロのことを思い
自分の仕事だということで頑張ってCDを作ったのです。
出して弾いてくださいというようにテーマを設けて弾い
結果として、それを 2 回やったのですが、やって良かっ
てもらいました。ウメ子フチはそういうことができる人
たと思っています。
私が作った 2 回目のCDは曲に題名をつけないで、ウ
だったのです。
メ子フチにいくつものパターンで演奏してもらいました。
そのCDはムックリが中心なのですが、歌も入ってい
ます。私がその歌の中で一番すばらしいと思うのは子守
その時、彼女が受け継いだ伝統的なムックリの曲にはパ
歌です。彼女は子守歌を歌う時には、隣の部屋から座布
ターンがあるということに気がつきました。これをどの
団を持ってきて、その座布団を畳んで、畳んだ座布団を
ように記録したらいいのかと苦労したのですが、記号の
子どもを抱くように抱えて歩きながら歌いました。そし
ようなものを一生懸命書いて残しました。今は、その記
て最後に「タネ
ナ」、子どもはもう寝
録を使って保存会の人たちにムックリを教えています。
たかなと言って終わるのです。楽譜に合わせて歌った歌
ムックリの音には高低があります。ムックリは、舌とい
ではありませんがすばらしい歌です。いくつかの歌を歌
う意味のパルンペが震えて音が出るのですが、それだけ
ってもらいましたが、一番多かったのは作業歌、仕事歌
では同じ音しかでないはずなのですが、彼女が演奏する
です。
とすごい音が出るのです。
エカチ
モコロ
ウメ子フチの最初のCDは私が教頭時代につくったも
その後、彼女は加納オキと演奏活動を行うようになり
のです。その次のCDは、私は校長になっていたのです
ました。東京のお台場とか、滋賀の大津、九州の大分、
が、直腸がんの手術のため入院していた時に制作された
奄美大島など、いろいろなところに出かけていました。
ものです。このCDはトンコリ奏者の加納オキという人
そうこうしているうちに体を壊してしまいまして、私は
と制作したものです。ウメ子フチは私を見舞いに来て、
止めた方がいいと忠告したのですが、最後まで加納オキ
CDができるのだけれど、そのCDの名前をどうするか
との演奏活動を続けていました。
加納オキに相談したら、先生につけてもらいなさいとい
私は一貫して、ウメ子フチの文化を残したい、歌を残
うことになったというのです。私は病院の個室から生還
したいと考えていましたので、お願いして 31 曲の歌を残
できないのではないかと思いながらも、その話をお受け
してもらうことができました。それがDVDに入ってい
して「イフンケ」、子守歌という意味の題名をつけました。
ます。このDVDにはいろいろな工夫をしていまして、
この「イフンケ」というCDはものすごく売れて、全国
表にはきれいな映像に歌が流れて、歌詞もついています。
で販売されるようになっています。私の作ったCDは文
この歌詞をつけるというのは私のアイディアなのですが、
化財の記録として残したものなのですが、今では在庫が
アイヌ語の歌を聞いて、これを文字にするということは
無くなってしまったと教育委員会でも言っています。
大変なことなのです。この音はどの言葉かと探しながら、
しかも見て歌いやすいように歌詞をつけました。これは、
イフンケの次のCDは「シリピリカ」と言いますが、
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「ウメ子フチに学ぶ」小助川勝義
ごい気配りのあった人です。
後で見ていただければ分かります。裏面には、録画風景
を入れてあります。ウメ子フチも弱っていて、私も病み
ウメ子フチが生前に交流していた人の中に、ゴジラの
上がりで弱っているのですが、弱った 2 人が一生懸命や
作曲家として有名な伊福部昭という人がいました。伊福
っている様子が出ています。残念ながらこのDVDが出
部さんは、もともと十勝で生まれた方で、お父さんは音
来て間もなくウメ子フチは亡くなりました。
更町長だったそうです。そうしたこともあって、小さい
時からアイヌの音楽を聞いて育ったと彼は言っています。
それでは、ここで最初のムックリのCDを聞いていた
ウメ子フチは、東京に行った時に伊福部さんの家に招か
だきたいと思います。
れて、2 人で楽しく話をしたということを言っていまし
た。このDVDが完成した時には、伊福部さんを呼んで
(CD演奏)
公演会を開こうという計画もあったのですが、それはか
すごいというか、1つ1つ弾いている音のほかに、バ
ないませんでした。もう 1 人、皆さんもよくご存知だと
ックで大きくうねりのような音がありますよね。これが
思いますが。坂本龍一さんという人がいます。彼は十勝
すごいのです。聞いているうちに、これもすごい、これ
に来たことがあって、上士幌にはその時の写真も残って
もすごいとなるのです。1つ1つの音を弾いているのに、
います。その彼が、ウメ子フチが亡くなった 2004 年に、
いつの間にか複数になっていくのです。それで、今の保
番組の名前は覚えていないのですがラジオ放送の中で、
存会の人には、音は 1 つではないよと言っています。
記憶に残る世界のミュージシャンを 2 人あげるなら、そ
これは録音された音ですが、本物を聞いたときには愕
の 1 人は日本の安東ウメ子であると言いました。ウメ子
然としました。どういうことかというと、安藤家は国道
フチのどの歌を聞いたのか、ムックリを聞いたのかは分
に近いので、家の中にも車の通る音が響くのですが、そ
かりませんが、そういうことを言っていました。
ういう中でもウメ子フチのムックリの音はガンガン聞こ
安東ウメ子の魅力は一体何か、魅力の中身が何かと考
えるのです。その音はどこから出るのかと感じますが、
えてみると、亡くなる直前でもあれだけのしっかりした
体全体だと私は思っています。口の中、鼻の中、気管支、
声が出ていたということではないでしょうか。歌は誰が
肺、全体から音が響いて出ている、そういう音なのです。
歌っても同じということはないと思います。やはり、そ
CDでもこれだけの音が出ていますが、生の演奏は本当
の人の持っている個性が大事だと思います。そうした条
にすごかったです。最近、観光地で一生懸命、格好のい
件の中に声量とか音色があると思うのですが、それが合
い演奏をしている人がいますが、あくまでも格好のいい
っていたからあれだけすばらしい歌を歌えたのだと思い
ものであって、音の深さはありません。去年、帯広の若
ます。また、加納オキの難しいロックのリズムについて
い子がムックリ大会に出て、「先生、私はウメ子フチにか
いくというか、彼もウメ子フチに合わせていたと思いま
なわない。かなわないというかウメ子フチのムックリの
すが、現代のリズムでも歌うことができたのです。私も
すごさがだんだん分かってきた」というようなことを言
コンサートで聞いたことがありますが、そういうすばら
っていました。
しさを持っていたと思います。
当り前のことなのですが、歌の中にはアイヌ語がきち
それでは、今度は歌を聞いていただきたいと思います。
んと残っています。このアイヌ語は、アイヌ新法という
法律の中でアイヌ文化の中心であると言っています。確
(CD演奏)
かに民族の文化の中心は言葉なのです。言葉によってい
これは子守歌です。言葉の意味は分からなくても感じ
ろいろなことを伝えていくものなのですから。そういっ
るものがあると思います。彼女が手術をした年に、この
た意味でも彼女の残したアイヌ語はすばらしいものがあ
曲はイオンのコマーシャルで使われました。コマーシャ
ると思います。
このようにウメ子フチの音楽や言葉を残すことができ
ルを作る人がこの曲のすばらしさを感じたのです。
また、去年はJALの国内線と国際線の機内放送で「ア
て良かったと思っています。これからは残したものを次
ルオー」という歌が流されました。この曲を採用した人
の世代についでいかなければならないと思っています。
も、やはりいいものだと気がついたのだと思います。
いろいろな人にこの話をすると、必ず戻ってくる言葉の
1 つに「アイヌの人は文字がない」ということを言われ
それで、DVDも作ったという話をしましたが、それ
ます。しかし、日本語で使われている文字も中国の文字
がこれです。
を借りて使っているものなので、このことは何の問題に
もなりません。アイヌの人の言葉は何百年も何千年も研
(DVD鑑賞)
ぎ澄まされてきたものなので、例えば樺太アイヌの人と
これは亡くなるちょっと前に収録したものです。この
千島アイヌの人が函館近辺のアイヌの人と話をしようと
頃には体じゅうが痛くて大変だったのではないかと思う
してもきちんと言葉は通じます。この意味は分かります
のですが、技術の人たちの様子を見ながら歌うなど、す
か。
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「ウメ子フチに学ぶ」小助川勝義
それがどういうことかをお話したいと思います。
私の娘は青森県に嫁いだのですが、嫁に行く時に挨拶
に言ったら、青森の人たちは津軽弁を話すため言葉が分
アイヌの人の行事に先祖供養祭、イチャルパというの
からないのです。今は分かりますが、その時は外国人と
ですが、先祖を供養するための行事があります。一般に
話しているように思いました。
先祖を供養するための行事の 1 つにお盆のお墓参りがあ
りますが、それは仏教徒の行事で時期が決まっています。
最近の研究では、東北、関東にある地名、さらには四
国の四万十川もアイヌ語であると言われています。私た
ところがアイヌの人は時期を決めて先祖供養をするので
ちはアイヌ文化の上に日本の歴史があるのだということ、
はなく、先祖のことを思い出したら何人かが集まって先
そうではないかなということでも研究してみる必要があ
祖の供養をするのです。最近「千の風になって」という
歌が流行っていて、「死んでなんかいない、お墓にはいな
ると思っています。
い」と歌われているため、お坊さんが今年は墓参りに来
言葉の話になってしまいまいたが、「不易」と「流行」
の話をしたいと思います。これはウメ子フチをオキとの
る人が少なかったと言っているのがニュースに出ていま
関係で思ったのですが、いいものはいつの時代に聞いて
した。昔の人なら歌の中の話と考えたのでしょうが、今
もいいものです。ところが文化はいつの時代も必ず誰か
の人は歌の内容を真に受けてしまうのですね。
が新しいものを作ります。その新しいものがいつの間に
その「千の風になって」という歌の歌詞をもとに、今
か当り前になってくるのです。流行していたものが不易
年の春、新井満さんが絵本を作りました。私は孫にあげ
になるということです。例えば、ジャズがそうです。そ
ようと思っていち早く手に入れてその絵本を見ました。
れから、ロックもだんだんとそのようになってきていま
その絵本の主人公の名前を見てすぐにアイヌの名前だと
す。アイヌの音楽にしても不易の部分をきちんと伝承し
分かりました。男の子が「ウパシ」、女の子が「レイラ」
なくてはいけないと思っています。
という名前なのです。ウパシは雪という意味ですし、レ
ウメ子フチがトンコリ奏者の加納オキの音楽に合わせ
イラは風という意味なのです。最近、この「レラ」とい
て楽しく歌っている場面を見て、この人はすばらしい才
うアイヌ語が流行っていまして、バスケットボールのプ
能を持っていたのだと私は思いました。そういう音楽と
ロチームは「レラカムイ」ですし、千歳空港の横にある
コラボレーションで演奏できるということで、アイヌ文
ショッピングセンターは「レラ」です。それから津軽海
化ではないと怒る必要もないのか、それも 1 つの音楽に
峡にできた新しいフェリーは「なっちゃんレラ」と言い
なっていくのかなとは、私は思っておりますが、そうい
ます。音の響きがいいということで使われていると思う
うことです。ジャズやロック、クラシックという音楽の
のですが、アイヌ語は今、流行りのようです。
中で、こういうものが引き出されればと思っています。
この間、短大生の実習の 1 つで昔のアイヌの人のお墓
そういう意味で、この人は音楽の世界の中でいろいろな
を見てきました。アイヌの人のお墓で本当に古いものは
ものを投げかけてくれています。
墓標が無くなっています。しかし、かつては火葬をせず
インターネットで「安東ウメ子」で検索すると 100 件
に埋葬していたため、その場所が引っ込んでいて墓標が
以上ヒットします。すごいと思います。この間、埼玉県
無くてもお墓だと分かります。また、時々お参りに来る
でギャラリーと喫茶店を経営しているという人が「店を
人がいるのだと思いますが、供物は供えられているので
4 日間休みにして、安東ウメ子のふるさとを見に来た」
それと分かります。そうしたお墓だけではなく、行政が
と言って、私の勤めている資料館の見学に来ました。そ
墓地整備を行ったところでは、昔の墓標と同じ形のもの
の人はロックとレゲエの世界から安東ウメ子を探し出し
をコンクリートや石で作ったり、慰霊碑が作られていま
たと言っていました。そのようなこともありますので、
す。
いいものは誰が聞いてもいいと感じる、言葉の意味は分
幕別町にもそうした慰霊碑があり、そこで今度の日曜
からなくてもすばらしいものは分かるのだと思います。
日にイチャルパを行うことになっているのですが、誰か
私は、ウメ子フチから「先生、一生懸命やっているけ
が「その時には、ウメ子フチのCDがあるからあの歌に
ど、アイヌの音楽には楽譜がないよね」と言われたこと
合わせて踊ろう」と言ったのです。そうしたらウメ子フ
があります。私は記録をしていて悔しいと思いまして、
チの娘さんが「あの歌では踊れない」と言ったのです。
自分のできるだけの力を駆使して「シリピリカ」に入っ
それがどうしてかと言いますと、アイヌの人が歌う歌は、
ている歌を楽譜に落としてみました。とにかく楽譜に落
踊りに合わせる時とそうではない時で、いろいろな使い
とそうと思えばできないことはないのです。そのような
分けがあってリズムや音程が違うのです。そのため「あ
形で楽譜にして、ぜひともアイヌの音楽を日本の音楽の
の歌では踊れない」という言葉が出てきたのです。踊り
1 つとして教科書に載ったらいいなと思っています。現
の時は踊りに合うような歌、CDに入れる時にはこうい
在の教科書には、外国から借りてきた音楽が日本の愛唱
う歌い方、赤ん坊をあやす時にはこういう歌い方と違い
歌として載っているのですから。
があるのです。
楽譜にするに当たって、今度は違う問題が出てきまし
変な例えになりますが、私はラーメンが好きでよく行
た。プリントに「あの歌では踊れない」と書きましたが、
くラーメン屋さんがあります。他の料理でもそうだと思
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「ウメ子フチに学ぶ」小助川勝義
いますが、1 年中、何年たっても、この店の味は変わら
ないということで感動することがあると思います。とこ
ろが、私の行っているラーメン屋は夏と冬では微妙に味
が違うのです。暑い時と寒い時、本人は同じように作っ
ているつもりなのかも知れませんが、その時によって違
うのです。人間が作り出すものはそんなものではないか
と思います。おふくろの味も同じだと思います。基本は
同じだと思うのですが、父さんとけんかをした時、悲し
い時、うれしい時、その時々で味が違うと思うのです。
音楽も同じではないかと思います。その時々で音程だ
けではなくリズムも違う、歌詞も違う、アイヌの人の音
楽には楽譜がないから、しょっちゅう違うともいわれま
すが、違っている方が本当ではないかと思います。自分
の思いや感情を相手に伝えるための表現なので違って当
たり前なのです。自分の子供をあやす時と隣の子をあや
す時、長男をあやした時と末っ子をあやす時でも違いが
あると思います。音楽もそういうもので、楽譜どおりに
みんなが同じように歌ったらつまらないと思います。私
は西洋音楽を否定するわけではありませんが、そういう
ふうに思っています。
最後になりますが、DVDのタイトルの「けうとぅむ」
という言葉についてです。ウメ子フチは私や仲間に向か
ってしょっちゅう「ケウトゥムが大事」だと言っていま
した。ケウトゥムが大事というのは、いろいろなこと、
例えば伝統的な行事を行う時も、物を作っても、料理を
作っても、大事なのは形ではなく心だと言っていました。
心のないものはだめだと言っていました。極端に言うと、
先祖供養をするときにアイヌ語を話せなくても、着物を
着て正式な服装をしていなくてもいいから、心で供養を
して欲しいということを言っていたのだと思います。ア
イヌ文化の正統な伝承者であったウメ子フチは技術もす
ばらしかったけれど、一番大事にしていたのは「ケウト
ゥム」ということだったのです。
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