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本紙カラー版はホームページでご覧なれます。
西日本新聞筑豊総局
山本 敦文
作品を対象にした、いわ
か。筑豊ゆかりの画家の
拡大することはできない
この取り組みをもっと
ペースには限界がある。
方美術館の予算と収蔵ス
いえるだろう。ただ、地
す筑豊の潜在力の表れと
体、多くの画家を生み出
も し、
﹁筑豊画壇﹂の
ば﹁筑豊画壇﹂のデータ
ベース化である。
か に 描 い た 織 田 廣 喜 氏、 通点も浮かび上がるかも
データベース化が実現す
しれない。例えば
﹁炭鉱﹂
。
諸藤氏に限らず、筑豊
洋画界の巨匠・野見山 暁
れば、その収蔵スペース
世紀にわたって描き続け すかもしれないからだ。 ﹁葦ペン画美術館﹂だ。
筑豊画壇が発展した背景
は多くの個性的な画家を
た飯塚市在住の葦ペン画 ﹁ ほ ら、 こ う や っ て メ 大箸教授が諸藤作品の
治氏、古墳壁画の描写で
は無限と言っていい。全
データベース化に着手し
れの大手炭鉱に絵画サー
輩出してきた。炭鉱記録
家、諸藤浩之氏︵ ︶の モリーカードでデータを
たのは2010年。学生 知られる築山節生氏 。
―
とともに作品を1枚ずつ 西日本新聞では毎週土
クルが結成され、閉山後
体 像 を 網 羅 す る こ と で、
作 品 の デ ー タ ベ ー ス 化 移すとどこでも楽しめる
曜日、筑豊版で織田廣喜
も活発に活動した経緯が
絵師の山本作兵衛はいう
が、近畿大産業理工学部 ん で す よ ﹂
。大箸教授は
デジタルカメラで撮影
美術館の職員らが地元の
筑豊の作家ならではの共
の大箸 純 也教授=人間 手 に し た タ ブ レ ッ ト 型
し、 パ ソ コ ン で 管 理 す
たちが﹁炭鉱﹂という題
に及ばず、女性を色彩豊
工学=の手で進められて 端末を示した。画面に表
にどう向き合い、互いに
る。さながら、携帯型の
いる。筑豊の作家の業績 示されているのは、これ
る。これまでに二千数百 作家を紹介する企画﹁情
点が収録され﹁嘉穂劇場﹂ 熱の磁場﹂を掲載してい
る。そこに登場するベテ
どう影響を与えたのかも
筑豊の風景や人物を半 る視点を私たちにもたら
を 後 世 に も 広 く 伝 え る までデータベース化した
ランや若手もまた、バラ
ある。筑豊ゆかりの作家
には炭鉱全盛期、それぞ
取り組みとして注目した 諸 藤 氏 の 作 品 の 画 像 の ﹁遠賀川﹂
﹁英彦山﹂など
どに分類し、地元をPR
塚市や田川市、直方市な
能だ。例えば、作品を飯
いが、限定した利用は可
などの問題があって難し
トでの一般公開は著作権
ほ ど だ。
﹁インターネッ
の限られた地域に3カ
田川市美術館があり、こ
は、主に美術館が担って
作家の作品の収集と紹介
を俯瞰することで、筑豊
た ち 展 ﹂ を 開 い て い る。 よ う に、
﹁筑豊画壇﹂を
きた。織田廣喜美術館は
という地域の何かが見え
筑 豊 に は 他 に 直 方 谷 尾、 データベース化し、全体
定期的に﹁嘉飯山の画家
てくるかもしれない。
重﹂と語っている。同じ
描いた資料としても貴
箸教授は﹁筑豊の歴史を
藤氏の作品について、大
のキーワード付きで分類
するコンテンツとして活
所の美術館があること自
い。デジタルによる作品 数々。指で広げると独特
用できる﹂と大箸教授。
の収集と紹介は、筑豊と の線と淡い色彩で描いた
いう地域の文化を俯瞰す 筑豊の風景が次々と現れ
タブレット型端末で諸藤氏の
作品を鑑賞する大箸純也教授
一、芸術文化を通して元気な
まちづくりを考えます。
二、地 域 の 芸 術 文 化 活 動 を
応援します。
三、地域の芸術文化に関する
情報を提供します。
発行人 横山祐三
編集部
飯塚市下三緒 35-398
電話 0948-29-3401
ሇ ᝅ ဒ ّ Ǜ ȇ ⌴ ǿ ș ⌴ ǹ ҄ Ƣ ǔ ᚾLj
第 35 号
された。費用は﹁パソコ エティーに富んでいる。 興味深いところだ。
ンの電気代﹂
︵大箸教授︶ こうした筑豊ゆかりの 2万点以上とされる諸
89
6∼7面
ọᏱ ậ ᭼ ậ ‫ڢ‬Ỏ ࢏
ഃೀ ๟ᐕ⸥ᔨⴕ੐
2面 万葉文化定着へ、…/嘉飯文学碑散策(4)/他
3面 英語と文化/黒田官兵衛ゆかりの地巡り②/他
4面 「第七回ベーテン音楽コンクール」バイオリン部門入賞/他
7面 嘉穂劇場水害復旧 10 周年/情熱の磁場/他
35
(平成 17 年 9 月1日創刊)
第 10 巻第1号(通巻 35 号)
(1)平成 26 年3月1日(土曜日)
岩永 昌子
◆ഭӪưჷǔ㦈᩿ႉƍƶ⌏ƴ⌣ džǜᛖ㦉
‷̯̱̞͞‸
飯塚藝術文化新聞 編集委員
ȩ
等 於母倍杼母 飛立可
たのですね。
︵世の中を憂しとやさし
ねて身の細る思いをした
乏する庶民の惨状を見か
祢都 鳥尓之安良祢婆 寒さに震え衣食住に窮
と思へども飛び立ちかね
人です。七二六年、筑前
書でもお馴染みの万葉歌
訴えたもので、恋歌の多
官に提出し、その惨状を
た生活を詠んで朝廷の高
と、貧しい庶民の生活を
な い、 鳥 で は な い の で ﹂ という意味で、
﹁痩 せ る ﹂
飛んで逃げることもでき
つ ら い と 思 う け れ ど も、 ﹁ 身 が や せ 細 る よ う な 思
ます。
めるという思いは現代人
同情的共感的に詠んでい 誰かを思いやり心を痛
が原義です。
い、 耐 え 難 い、 つ ら い ﹂
守に任ぜられ太宰府に下
い万葉集の中では異彩を
して赴任してきた大伴旅 放っています。
人との親交を深め、その ﹁ 貧 窮 問 答 歌 ﹂ は 長 歌
向。 大 宰 師 ︵ 長 官 ︶ と
など、国語や社会の教科
山 上 憶 良 は、
﹁ 子 ら を る﹁貧窮問答の歌﹂を詠 つ鳥にしあらねば︶
憶良のやさしさが容易に
思ふ歌﹂や﹁貧窮問答歌﹂ んだのは、七十歳も過ぎ というものです。
想像できます。
た頃です。庶民の窮乏し ﹁この世の中を、嫌だ、 ここでの﹁やさし﹂は、
著名万葉学者を講師に、毎回 50 名ほどの市民が受講、
地域に万葉への思いを深める大きな原動力となりました。
飯塚文化協会飯塚名誉会長 小 出 和 典 さらには機関誌「万葉の風」は全国の万葉愛好者を対象
大阪∼飯塚を100回は往復されたでしょう。
「嘉摩万 に年2回、22 号まで編集・発行。万葉学者や愛好家の貴
葉を学ぶ会」を起ち上げて 11 年、飯塚出身・大阪在の 重なエッセイ、万葉界のニュースやその動向、講座・イ
川波二郎氏の並々ならぬ愛郷のまことと万葉への愛執の ベントの予告などを掲載、大きな役割を果たしました。
おもいがこの間に、万葉文化をふるさとへ根付かせる数々 川波氏の愛郷の誠は、
「飯塚新人音楽コンクール」への
のビックな足跡を印して、このほど無事その矛を収めら サポートにも積極的な眼差しがあり「新人音楽コンクー
れました。
ルを励ます集い」の主宰や「同育てる会」への勧誘をも
それは先ず「全国万葉フォーラム in 飯塚」と題した全 具現されました。
国大会を嘉穂劇場で主宰(平成 17 年)
。多彩な内容を盛 目まぐるしく多様多彩な為事が凝縮された川波氏の 11
り込んだユニークな企画に、全国から参集の万葉愛好者 年間。万葉を愛し、ひたすら故郷を大事にとの志が、打
1,000 名に深い感銘を拡げました。
算や我執を超えて他の追従を許さぬ川波二郎氏のエネル
この成功をきっかけに山上憶良・大伴旅人等の歌碑を、 ギーとなり、この大偉業を成就されました。
飯塚歴史資料館と王塚古墳館前庭に計三基建立。また「学 地域ではあまり知られていない川波氏のこのご秀績を
ぶ会」の当初からは 42 回にも及ぶ「万葉講座」を開催。 紹介し、心からの感謝と拍手を贈らせて頂きます。
高取 浩三
稲築公園の万葉歌碑
(福岡県嘉麻市岩崎1084番地)
奈良時代初期の貴族・歌人
です。与志夫さんは、京
文化協会が建立したもの
力で昭和四十九年に稲築
ご息女の嘉与子さんの尽
あった金丸与志夫さんと
面の万葉仮名は嘉穂高校
と っ ておられました。側
穂高等学校︶で教鞭を
県立嘉穂中学校︵現・嘉
生は、大正五年から福岡
塚竹堂先生の字です。先
頃詠んだ歌が数多く残っ と短歌︵反歌︶からなっ この奈良時代を生きた にも通じます。そんなや
ています。
ていますが、その反歌は、 農民たちは、常に貧しく、 さしい気持ちを大事にし
特 に 万 葉 集 巻 五 に あ 世 間乎 宇之等夜佐之 苦しい日々を過ごしてい ていきたいものです。
都大学の桑原武夫編の
書道教師であった〝がむ
恵﹄ 岩
( 波新書 で
) 、この
歌が鴨生で作られたこと
人類の知
――
を知ったのです。そして、 この公園は桜の名所で
﹁一日一言
憶良の有名な歌、
﹁銀も
す。桜の季節にぜひ訪れ、
ちゃん〟こと、吉積竹鳳
金 も玉も何せむに 優れ
多くの人に知ってもらお
書の見事さを鑑賞すると
稲築公園の高台に山上
る 宝 子に斯かめやも﹂が
うと働きかけ、歌碑の建
なことかと思います。
と も に、 万 葉 の 世 界 に
先生の揮毫です。
流麗な仮名文字で刻まれ
浸っていただくのも結構
名文字日本一といわた高
た歌碑が建っています。 立に至ったのです。
これは、稲築鴨生在住 正面の歌は、当時、仮
の元飯塚商業高校校長で
山 上 憶良
平成 26 年3月1日(土曜日)
(2)
(平成 17 年 9 月1日創刊)
第 10 巻第1号
(通巻 35 号)
万葉文化定着へ、感謝と拍手!
嘉飯文学碑散策(4)
英 語
飯塚市忠隈在住
田原
稔
英語は言葉、
言葉も人が作る文化
文 化
と
義務教育に英語は必要 本人の精神的支柱であり
だろうか││。
英 語 に 訳 す の は 困 難 だ。
確かに英語は国際語か 職業を﹁道﹂に結びつけ
も知れないが、本来、外 るのも日本の特徴ではな
国語は必要な人が独学で いだろうか。従って世界
学ぶものであり、他の科 中の人が日本人の精神や
目とは趣を異にするので 慣習、宗教観や文化に馴
は な い だ ろ う か。 以 前、 染んでいない限り、日本
英語は国力による普及が 語は国際語にはなり得な
大だと述べた。英語が使 いと思う。翻って英語は
い易い言葉であることは 本当に使いやすい。
認めざるを得ない。
日本語では察する表現
英語に比べ日本語は独 も英語ではハッキリ言え
特過ぎて国際語には向か る場合が多いし、誤解を
ないと思う。理由は日本 生みにくい点も国際語と
語が﹁察しの言語﹂だか し て 広 が る 理 由 だ ろ う。
らだ。日本は島国で歴史 ただ、英語に限らず言葉
的にも日本人特有の村社 を学習をする者は、次の
会 の 歩 み が 長 か っ た 為、 ことを肝に銘じてはどう
独自の精神文化を生み出 だろう。人種差別社会に
してきた。その最たるも 立ち向かった南アフリカ
のが﹁道﹂の精神だ。日 の ネ ル ソ ン・ マ ン デ ラ
本文化はこの道の精神で 氏は﹁相手が理解する言
支えられていると言って 語で話せば、その言葉は
も 過 言 で は な い。 華 道、 頭に届くが、相手の母国
書道、茶道、柔道、剣道、 語で話せば心に届く﹂と
弓道、数え上げれば切り いう思いで外国語を学ん
が な い。 ア メ リ カ 発 祥 だという。これこそがコ
のスポーツであるベース ミュニケーション手段と
ボールですら野球道と言 して言葉を学ぶ正しい姿
う 人 も い る。
﹁ 道 ﹂ は 日 勢ではないだろうか。
(平成 17 年 9 月1日創刊)
第 10 巻第1号(通巻 35 号)
(3)平成 26 年3月1日(土曜日)
飯塚にある黒田官兵衛ゆかりの地名
40
いいまち巡り
黒田官兵衛ゆかりの地巡り②
Ӹቇ୯᮹ࢍ㏎ᅾᱍࢍ㏏
・笠松
近畿大学の近く の が 筑 穂 の 上 馬 敷 で す。
長 竹川克幸
麻生西日本新聞TNC文化サークル 事務局 に昔﹁笠松峠﹂がありま 官 兵 衛 は 西 光 寺 に 逗 留
した。文禄の役
︵1592 して陣頭指揮をしていま 大河ドラマ﹃軍師官兵 年関ヶ原の戦い後、官兵
年︶で朝鮮出兵の折、中 す。切り出した材木は遠 衛﹄にちなみ、今回も飯 衛と長政が豊前中津から
津から飯塚に官兵衛が入 賀川から芦屋経由で博多 塚周辺の黒田官兵衛︵如 筑前へお国入りした道筋
る時、この峠の大きな松 まで運んでいます。この 水︶ゆかりの地をご紹介 でもあります。また飯塚
の木の枝に笠を掛けて休 時の功績で西光寺に田畑 します。今回は官兵衛が ∼博多︵福岡︶を結ぶ重
憩した事から地名がつき や山林を与え、法名﹁如 開削・整備した八木山の 要な交通路として、翌慶
長六︵1601︶年から
ました。この時通った道 水 圓 清 ﹂ を 自 筆 で 書 い 石坂︵明神坂︶です。
は香春街道と呼ばれ、麻 た 位 牌 を 与 え て い ま す。 飯塚方面から八木山展 官兵衛が八木山茶屋に逗
生 本 家 と 大 浦 荘 の 間 を こ の 地 に は山 立、 休 場、 望 台、 展 望 公 園 を 過 ぎ、 留し、陣頭指揮の下、地
通っており、現在でも遺 鍛冶木場などのゆかりの 八 木 山 峠 茶 屋︵ 茶 屋 原 ︶ 元住民の協力を得て改め
構が残っています。明治 地名が残っています。こ のバス停に至るまでの石 て開削・整備された峠道
年、飯塚町との合併で の時、大量の木を伐採し 坂地区付近の石畳道の旧 でもあります。
笠松村は無くなりました た後に植林をしなかった 道は、現在でも明神坂と 江戸時代この道筋は博
が、現在でも笠松陸橋と 為、遠賀川流域は洪水に も呼ばれ、官兵衛とその 多往還︵篠栗街道︶とよ
飯塚から大日寺︵花
いう名が残っています。 悩まされたといいます。 子で初代福岡藩主となっ ばれ、
・明神坂
官兵衛が中津 ・その他の地名
官兵衛 た 黒 田 長 政 を 祀 っ た 大 瀬街道︶を経て、石坂を
から博多へ国替えになっ の孫になる黒田忠之が飯 岩、石坂大明神をお祀り 越えて八木山七曲、さら
た時に八木山峠を越えて の山にあった太養院を移 しています。現在では八 に篠栗を経由し、長者原、
名島城に入りました。軍 転させて本陣を建てたの 木山の老松神社に相殿さ 吉塚二又瀬、石堂川付近
から福岡城下を結ぶ主要
事上の必要性から飯塚へ で こ の 周 辺 を 本 陣 の 町、 れているそうです。
の幹線道路として八木山 本町と名付け、飯塚宿に 黒田家の歴史を記録し な街道、流通路であった
峠の険しい坂道に石畳の あった三ヶ所の茶屋のう た﹃ 黒 田 家 譜 ﹄ の 著 者 ことから、多くの旅人が
明神坂を造りました。八 ち上の茶屋があった所を で、八木山で幼少期を過 往来していました。
﹁ 学 習 の これからの季節は、八
木山では如水大明神とし 上本町、中の茶屋の場所 ご し た と い う︵
て奉ってあり、現在でも が中本町と呼ばれていま 記 念 碑 ﹂ が 建 っ て い る ︶ 木山高原付近は桜やツツ
麓にあるたまご工房の店 した。また当時、川幅が 貝原益軒著﹃筑前国続風 ジ、 新 緑 の 季 節 を 迎 え
、
﹃嘉穂郡誌﹄など ます。お花見、行楽がて
の裏から峠にかけて遺構
メートル以上あった飯 土記﹄
が残っています。
塚川を挟んで本陣の向こ の文献によれば、八木山 ら黒田官兵衛が歩き訪れ
・如水ヶ原
福岡城築城 う側にあるので、そこを 石坂は今から400年以 た、ゆかりの場所を訪れ
( 600 ) てみませんか?
の折、用材を切り出した 向町と呼んだそうです。 上前、慶長五 1
42
ୁះ៺ᣓ
平成二十五年十二月に行 プリに、中三の時に﹁ヴェ
で全国大会へ!
われた﹁第七回ベーテン音 ルデ音楽コンクール﹂で二
⍤
楽 コ ン ク ー ル ﹂ バ イ オ リ 位に輝いている。
嘉穂高校
梅 田 あ ゆ み さ ん ︵二年︶
ン 部 門 で 第 五 位 に 輝 い た。 そんな彼女だが、ここま
講 評 で﹁ シ ベ リ ウ ス の で 順 調 に き た わ け で は な
昨年十月開催の﹁高文 名菘翁の書を臨書したも
世界観がよく表現されてい い。練習を重ねて臨んだコ
連﹂書道部門福岡県大会 のだ。和様の書を通して
る。
﹂ と 絶 賛 さ れ た。 イ ン ンクールで予選落ちした経
中国晋唐の書に迫ろうと
タビューでこの話をすると 験もある。自信をもって臨 において特選に入賞した
した菘翁の一側面を見事
きに、彼女の目が輝いてい んだだけに、思わぬ結果で 梅田あゆみさん。今年八
たのが印象的だった。
一時期音楽の道に進むこと 月には、茨城県宇都宮市 に表現している。
このコンクールは地区予 を あ き ら め か け た。 し か で開催される﹁全国高校 ﹁ こ の 古 典 に 取 り 組 ん
選から全国大会まで約半年 し、持ち前の根性で再び挑 総合文化祭﹂書道部門大 だときはどう筆を使って
間にわたって行われ、その 戦し、今回の栄誉を得た。 会に、県代表として出場 よ い の か 解 ら な か っ た
間の練習と気持ちの持たせ ﹁聴く方に喜んで頂きたい することが決まった。
が、先生に教わりながら、
方に苦労したそうだ。
ので、どんな曲でも決して 県大会で書かれた作品 やっとここまで書けるよ
彼女は小六の時に﹁九州 手 は 抜 か な い。
﹂のが彼女
は、一見して強靭な細い うになりました。特に太
音楽コンクール﹂でグラン のモットーだ。
︵大音 嘉之記︶
線に目を奪われる。字と い線、細い線の響き合い、
線の流れ、変化の多い強
チーム﹁凌駕﹂が演奏を開 で行う。日曜日は街おこし 字の間を広めにとり濃ゆ
い線を書くのが難しかっ
始。 会 場 を 切 り 裂 く 掛 声、 イベントや諸大会、老人会 い墨で書かれているため
振り乱れる髪、床をも震わ や子ども会など各種施設の か 優 美 さ も 感 じ ら れ る。 た﹂と、にこやかにポツ
す壮大な音響、満場の観衆 依頼に応え、年に ∼ 回 作家と直に会ってみたい リポツリと話をする落ち
の目と耳と心を魅了した。 位の演奏活動をしている。 と思わせる作品である。 着いた女子高生。
﹁凌駕﹂は、昨年十一月の 演奏する曲はOB作曲の この作品は、幕末の三 高校時代の集大成とし
﹁高文連﹂郷土芸能部門福 オリジナル曲である﹁精進﹂ 筆として市河米庵、巻菱 て、全国大会での活躍を
岡県大会で最優秀賞を獲得 ﹁蒼空﹂の二曲を中心に演 湖と共によく知られる貫 期待します。
二 月 二 日、 嘉 麻 市 鴨 生 し、七月に茨城県神栖市で 奏するそうだ。
で﹁スイミングプラザ祭り﹂ 催される﹁全国高校総合文 部長の田中聖人君︵二年︶
が開催された。このプール 化祭﹂郷土芸能部門大会へ は、四月から一年生も入っ
てくるので、一日も早く練
習に慣れてもらい、しっか
り練習を積んで福岡県代表
として堂々とした演奏をし
たいと語った。
中村学園大学栄養科学部三年
‫ټ‬ᭊȶɭɕƳЎ᨞ƴϘ‫̏ٺו‬Ƕ
太鼓チーム部長 田中聖人君
29
20
25
安部田 結花さん (飯塚市西徳前在住)
稲築志耕館高校 郷土芸能部
プロのバイオリニストを目指して猛練習中の彼女だが、
現在大学で管理栄養士を目指して、こちらは猛勉強中。
は年間九万人超の利用者の の出場が決定した。通算で
ある施設でもある。
四回目の出場となる。
松岡賛嘉麻市長の挨拶の 部活動の日常は、放課後
あと、トップを切って稲築 三時間、土曜日は半日を練
志耕館高校郷土芸能部太鼓 習時間として部員 名全員
県大会で特選に入選した作品と
平成 26 年3月1日(土曜日)
(4)
(平成 17 年 9 月1日創刊)
第 10 巻第1号
(通巻 35 号)
飯塚市歴史資料館 ︻企画展︼
ƚǜ ǒǜ ƝƏ Ɣ Ơ ƠᵽƏ ƼᵾƏ ƿ
御殿雛=明治時代=
学芸員
̭ͭ ͎ ͣ ͘͞ ̭ ͏ͭ
尾園
晃
߄ ๤္५ࡣ໩ίτ಺औইͥ͘
桂 川町
文 化財
2月8日
∼3月 31 日
樋口 嘉彦
ዃ༭ᝍᓙ Х ጠ ‫ ގ‬᫘Ʊ
ųųų ᣂ‫ם‬ƷƻƳʴ࢟‫ޒ‬
いいづか
美しい日本の文化に
逢いに行こう
桂川町
県指定有形 考
(古 文
) 化財
福島 日出海
鎌田原弥生墳墓群出土の銅戈
嘉麻市教育委員会生涯学習課
考古学上の名称は、銅 半島からの輸入品で、中
二 月 か ら 三 月 に か け 雛の他に、掛軸雛・箱雛・ 新年早々、桂川町の文 調査は行われていないの
戈で中国大陸から朝鮮半 細形からは国産品と考え
て、飯塚市では﹁いいづ 土雛などさまざまな雛人 化財が西日本新聞で記事 ではっきりした時代や内
島を経由して、弥生時代 られます。
になりました。金比羅山 容はわかりません。しか
か
雛のまつり﹂が開催 形を展示しています。
の日本列島に入った青銅 過去の資料と研究から
され、旧伊藤伝右衛門邸 また、日本刺繍の技法 古墳の調査の記事です。 し、墳丘の形を調べる墳
製武器の一種です。本来 写真の左は細形銅戈の最
をはじめとする市内各所 を用いて制作された刺繍 金比羅山古墳は、桂川 丘測量調査と、本来の大
は長い柄の先端近くに鳶 も新しいタイプ、中央と
で多数の雛人形を見るこ 屏風をはじめとする美し 町 寿 命 に あ る 標 高 九 〇 きさを確認する範囲確認
右側のものは、中細形の
い 屏 風 も 展 示 し て い ま メートルほどの丘陵の一 のためトレンチによる一 口 の よ う に 横 に 装 着 し、
とができます。
馬上の敵の首に引っ掛け 最も古いタイプとなりま
番高い所に造られた前方 部分の発掘調査が行われ
飯塚市歴史資料館でも す。
る物で、銅剣や銅矛︵槍 す。また、左と右のそれ
明治時代から昭和時代に ぜひ一度ご覧になって 後円墳です。この丘陵上 ました。その結果、埴輪
ぞれは甕棺から、中央の
にはほかに二基の前方後 や葺石が使われていない 先︶と共に伝わりました。
かけての御殿雛・段飾り みてください。
もの木槨墓から出土して
円墳があり、丘陵南側に 時期の古墳であると思わ 今日までの研究の成果
王 塚 古 墳、 天 神 山 古 墳、 れること、墳丘を地山を では、主に刃の幅の広さ います。
飯塚市出雲のホーケント 削 っ て 造 っ て い る こ と、 と 長 さ を 基 準 に、 細 形・ 重要な点は、細形から
ウ古墳と飯塚市北古賀の 墳丘の全長が約八〇メー 中細形・中広形・広形の 中細形に移行した時期の
北 古 賀 古 墳 が あ る た め、 トルであること、前方部 四タイプに分類されてい 特定です。幸いここでは
ま す。 そ し て、 剣・ 矛・ 両タイプが甕棺から出土
この周辺は、七基の前方
の
形
が
古
い
特
徴
を
持
っ
て
戈ともに概ね中細形から しています。甕棺は変化
後円墳が集中して造られ
い
る
こ
と
な
ど
、
貴
重
な
情
日本列島内で製作された の序列が明らかにされて
ています。
報が得られました。
狭い範囲に集中してい 調査は、平成二十六年 こ と が 分 か っ て い ま す。 いますので、それに当て
ることから、首長の墓が 度まで行われます。主体 つ ま り、 三 種 の 武 器 は、 はめると、弥生中期前半
続けて作られてきた地
基本的に細形までは朝鮮 の中の前後する二タイプ
部
の
調
査
は
予
定
さ
れ
て
い
に相当し、細形の次に中
域だと考えられてきまし ませんが、新たな知見が
細形という前後関係と弥
た。しかし、王塚以外は 得られることを期待して
生中期前半という時期が
ほ と ん ど 調 査 の メ ス が います。王塚古墳よりも
入っておらず、詳しいこ
分かりました。
古
い
前
方
後
円
墳
で
あ
る
こ
とは、不明なままでした。
その成果に実年代を重
と
が
確
認
さ
れ
、
王
塚
に
先
今回、九州大学考古学研 立つ首長について、さら
ねると紀元前百年前後の
究室によって、その一つ に詳しく分かるかもしれ
時期と考えられ、漢帝国
が調査されたのです。
ない、と思うと、大変楽
が楽浪郡をつくった頃と
金比羅山古墳主体部の しみです。
予想されます。
(平成 17 年 9 月1日創刊)
第 10 巻第1号(通巻 35 号)
(5)平成 26 年3月1日(土曜日)
松に孔雀図刺繍屏風
鎌田原弥生墳墓群内の三基の墳
墓から発掘された銅戈。
﹁線・面・器﹂展サポーター
津田 勝巳
ǑǦ Ǯ
価値あるものへの想い
なのかもしれません。
材料は、廃瓶です。
しています。
想いがあるからです。
誰でも、手に入るものです。
それがあって、はじめ
でも、
てものづくりとい
誰にでも、出来るものではありません。 うものが生まれて
斉 藤 達 也 さ ん ││そんな想いで創作
吹きガラス工房﹃琥珀﹄
制作しました。勤務先の
書 家 宮 嶋 工 枝 さ ん 高校でも、子どもたちに
向けたメッセージを書か
付けたりすることもあれ 現をもっと学びたいと思 せてもらっています。
ば、誰かを癒すことがで い、書道科のある大学へ もうひとつは自分の中
きたり生きる力になるこ 進学。卒業時には宗像で にある混沌としたものと
ともある。そんな言葉の 個展﹁ことばのちから展﹂ 対峙すること、自分の中
持 つ ち か ら に 魅 了 さ れ、 を開催しました。
にある弱い部分と向き合
私は書を続けています。 言葉にはどんな力があ うことです。
書 道 と の 出 会 い るのか、それを自らの書 今 回、 こ の﹁ 線 面 器
は 高 校 1 年 生。 そ でどう伝えていくのかを 展﹂を新たな機会として、
しっかり自分と向き合う
れ ま で 習 字 も 習 っ 改めて考えました。
た こ と の な か っ た 私の書制作の原動力は ことができればと思って
私 は、 初 め て 筆 を 二つ。ひとつは、誰かに います。また、さまざま
動 か し 生 み 出 す 線 この言葉を贈りたいとい なジャンルの作家さんた
の 面 白 さ を 感 じ ま う気持ち。先日も結婚す ちとの共演を、とても楽
し た。 そ ん な 書 表 る友人へ向けての作品を しみにしています。
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言語は誰のものでもな
いけれど、誰かが言葉を
発した時、その言葉はそ
の人のものになる。
言葉ひとつで、大問題
になったり多くの人を傷
線(書)
、面(写真・絵画)
、器(陶芸・ガラス工芸・楽器)展は、嘉飯地域で活動している、
この地域に芽吹いた若いアーティストの作品を集めた展覧会です。活動の発表の場は、飯塚
本町商店街の一角にあるギャラリー「紅椿」
(飯塚市本町 16-8 / Tel:0948-22-6740)
と「スペース Key」
(飯塚市吉原町 7-9)
。飯塚の街を回遊しながら楽しめます。
多くの方の観覧や一口 5,000 円の「個人・企業・団体協賛」の
問い合わせ先
ご支援、よろしくお願いします。
Tel:0948-22-6740
と、作り手としてはとて く る の で す。 少 し
だけ作品の奥を見
ものの価値、ものづく も残念です。
りの価値はどこにあるの なぜなら、誰にでも手 てください。
に 入 る、 ビ ン や 土、 木、 そのようにして
でしょう?
いい素材を使う、それ 絵の具、カメラなど、そ 人の手によって作
も あ る か も し れ ま せ ん。 んな特別でないものから ら れ る も の は、 人
でも、材料が高価なもの でも価値あるものは生ま が 使 う も の で あ
り、 楽 し む も の で
だったら、出来たものも れているからです。
高い。高価だから価値が そ こ に 価 値 が あ る の す。 本 当 は、 純 粋
あると捉えられてしまう は、技術があるからです。 にそれだけで十分
想いと技術の結晶が作品として姿を現わす。
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平成 26 年6月 12 日(木)∼
ọᏱ ậ ᭼ ậ ‫ڢ‬Ỏ ࢏は私たちの作品展です!
木村信也さん
櫻木雅美さん
重藤あやめさん 内野鉄郎さん 小林ゆう子さん 斉藤達也さん
伊藤 充さん
宮嶋工枝さん
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《プロフィール》その ②
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平成 26 年3月1日(土曜日)
(6)
(平成 17 年 9 月1日創刊)
第 10 巻第1号
(通巻 35 号)
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カップに埋もれ全く新鮮
陶芸家﹃蒼林窯﹄
情熱の磁場
筑豊の表現者たち
内 野 鉄 郎 さ ん 味 が 感 じ ら れ な か っ た。
確かにお客さんに買っ
十九歳の時に陶芸の勉 る。その後、完全に独立 いる。面白いと思ったら ていただければ、きっと
嘉麻市立織田廣喜美術館
強をして二〇歳で蒼林窯 し、飯塚市勢田にギャラ とにかくやってみるのだ。 食器棚で異彩を放つだろ
を開いた。表現や技術は リー兼工房を建て本格的 私 が 作 品 に 求 め る は うが私自身が面白いと思 昨年暮れから毎週土曜 ロジェクトは三館の学芸
独学で、手探りでやって に作家活動を始めること ﹁ 食 器 棚 の 一 番 手 前 に あ わなくなってしまった。 日の西日本新聞筑豊版に 員たちと西日本新聞社の
きた。自宅で作陶してい になった。
る器﹂
だった。それはきっ ﹃ 線・ 面・ 器 ﹄ 展 は 今 年 筑豊美術館ネットワーク 担当者がフェイスブック
たが二年間ほど八幡東区 よく、あなたの窯の特 と使いやすく、それでい の六月。それまでに新し ︵田川市美術館、直方谷 上の非公開グループ内で
にあった九州民芸村で陶 徴は?
と聞かれ、私は て楽しくなるような器だ い作風の作品を作ろう! 尾美術館、織田廣喜美術 おこなわれている。
芸を教えていた期間もあ 戸 惑 っ て し ま う。
﹁ 特 徴 と思うからだ。十年の間 私はわがままで、臨機 館︶の学芸員たちがリー 取材担当者が原稿や写
が な い 事 が 特 徴 に 作 風 も 少 し は 固 ま り、 応変で、ある意味いい加 レー形式で連載記事﹃情 真をそこへアップし、皆
で す ﹂ と、 な ん ある安定を見せ始めた。 減だ。だけど、それその 熱の磁場
筑豊の表現者 で意見を交わすのだ。掲
と も お 茶 を 濁 す 先日、次回の展示会の ものが私の作風。ずっと たち﹄を執筆している。 載前の原稿に目を通せる
ために新作を制作したの つき合っていけるお客様 筑豊に生きる美術家を のは役得だが、それ以上
答えになる。
私 は い つ も そ だが、いまいち納得がい を、いつも楽しませて行 取材する企画で手前味噌 にそこで交わされる意見
の 時 の 思 い つ き かない。商品棚に並べて け る も の と 私 は 信 じ て、 だが、なかなか面白い。 が貴重で有益なものに私
で 作 品 を 作 っ て み る と、 他 の 個 性 的 な 今日も作陶している。
作家の生き方についての 自身はなっている。
目標は大きく一〇〇名
きる新たな取り組みを実 製作を依頼しそれぞれ異 本文もそうだが、各学芸
の表現者が放つ磁力とも
なった支柱に取り替えま 員の醸し出す取材対象作
施してきました。
言える魅力を記録するこ
開場八十年を迎えた平 した。江戸より続く伝統 家への想いと独自の表現
と。当面続く紙面をお楽
成二十二年には地元アー 的な﹁芝居小屋﹂の様式 方法の個性が楽しい。
ティストの協力で記念展 に触れるとともに、新た 裏話をすると、このプ しみください。
示 や ラ イ ブ イ ベ ン ト を、 な発見も楽しみにしてい
昨年はフリーマーケット ただければと思います。
﹁ 嘉 穂 劇 場 マ ル シ ェ﹂ な 今 年 の﹁ 雛 の ま つ り ﹂
ど新たな劇場活用を試み では工事の様子やこの十
伊藤 英昭
年の歩みに加え、過去の
平成十五年七月の水害 を復元し、九月より平成 ています。
復旧に向けて翌年一月に の﹁こけら落し公演﹂を 公演日以外の劇場見学 劇場の歴史を振り返る展
NPO法人の認証を得て 行っています。この公演 の 新 た な 見 ど こ ろ と し 示を行っています。見ど
本格的な工事を開始して の 一 つ と し て 実 施 し た て、開場以来客席を照ら ころ一杯の劇場で皆様を
今 年 で 十 年 を 迎 え ま す。 ﹁第九﹂
、小学生を対象と し続けてきた客席灯︵ス お待ちいたします。
その年の七月に工事は完 した一泊の子どもキャン ズラン灯︶の支柱二十四 ⌕ᑮ‫ދݱއ‬ƷƻƳLJƭǓ⌖
了し、
〝せり〟〝スッポン〟 プなど多くの人が参加で 灯を、現代アート作家に ų ⋯⋯ ɤஉҗɡଐLJư
(平成 17 年 9 月1日創刊)
第 10 巻第1号(通巻 35 号)
(7)平成 26 年3月1日(土曜日)
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‣•
掲載された内容は後日筑豊美術館
ネットワークのホームページに転載さ
せて頂いているので、こちらでもご覧
いただけます。
http://chiku-net.sub.jp
楽しい器・店内風景
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新しい客席灯の支柱
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(平成 17 年 9 月1日創刊)
第 10 巻第1号
(通巻 35 号)
平成 26 年3月1日(土曜日)
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編集部 TEL:0948-29-3401
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参加者募集 !!
第 12 回 九州高文連 吹奏楽大会風景
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飯塚藝術文化新聞創刊 10 周年記念
「飯塚七夕揮毫会」50 年ぶりに復活します。
みんなといっしょに筆で字を書いてみよう。
・参 加 資 格 小1∼高校生まで
・応募締め切り 5 月 15 日 ( 木 ) 参加費 無料
・揮 毫 会 6 月 22 日 ( 日 ) 参加費 500 円
*問い合わせ先 飯塚市下三緒 35-398 横山祐三宛
電話(Fax)0948-29-3401 (4月5日以後可)
☆飯塚藝術文化新聞を置いています☆
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00
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( 年 4 回 毎号 5,000 部発行 )
官公庁、飯塚コスモスコモン、飯塚歴史資料
館、織田広喜美術館、ギャラリー紅椿、その
他に置かせて頂いております。無料で配布しており
ますが、ひと声掛けてご自由にお取りください。
尚、
『げいぶん』の感想や「文化・芸術」に関す
るご意見や NEWS、アイディアをお送りください。
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メールでも受け付けています。
問い合わせ先:
『飯塚藝術文化新聞』編集部
〒 820-0012 飯塚市下三緒 35-398
電話(F a x)
:0948-29-3401
メールアドレス:[email protected]
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◎編集委員
横山祐三/大塚洋一/鈴木淑文/
有江俊哉/高取浩三/藤内秀麿/
本川恭介/戒田高康/竹川克幸/
津田勝巳/朝隈寛明/大音嘉之/
岩永昌子/遠藤謙一/
◎編集協力団体
・
﹃飯塚の文化芸術を創る会﹄
・NPO法人﹃朋友会﹄/
◎印刷所
・
︵有︶ワイ・エス企画
福岡県飯塚市柏の森108 7
︵電話 0948 - 2
- 330︶
無料配布
羽生選手、金メダル !! そこ
に至る経過は3.11 に被災
し、絶望。だが、
「自分ので
きるスケートを精一杯滑る」
。
苦境を乗り越えた背景を知っ
たとき、感動がさらに大きく
なった。嘉飯地域が新しい街
づくりに取り組んでいる今、
創立 10 周年を迎える「げい
ぶん」も芸術と文化でできる
精一杯の街おこしを継続して
いく決心を新たにした。 ( 大 )
11
◎3月 日︵土︶
パレード
∼
本町・東町・西町商店街
プロムナード
∼
穂波ジャスコ野外ステージコンサート
◎3月 日︵日︶
本大会
∼
飯塚コスモスコモン大ホール
入場無料︵但し、整理券必要︶
問合せ 0948 - 0
- 505
◎出場校
︵福岡県︶
・ 嘉 穂 高・ 小 倉 高・ 修 猷
館高・城南高/︵佐賀県︶
・佐賀清
和高/︵長崎県︶
・西陵高/︵熊本
県︶
・ 熊 本 高 /︵ 大 分 県 ︶
・別府商
業高/︵宮崎県︶
・都城商業高/︵鹿
児島県︶
・加治木高/︵沖縄県︶
・首
里高
マサジアートギャラリー 問合せ 0948-29-4877
3 月 1 日 ( 土 ) ∼ 16 日 ( 木 ) rien と sakatakaya 展
陶人形とフエルト人形の展示会
4 月 19 日 ( 土 ) ∼ 29 日 ( 火祝 ) ステンドグラス展
嘉穂劇場 問合せ 0948-22-0266
∼ 3 月 13 日 ( 木 ) 芝居小屋のひなまつりと劇場の歴史展
杜の舟・花こみち・蒼林窯
問合せ 09496-2-6799 2-6375
5 月 15 日( 木 )∼19 日( 月 ) 春の「木土藍楽展」第 100 回展
10 名の作家による合同作品展
イイヅカコスモスコモン 問合せ 0948-21-0505
3 月 5 日 ( 水 ) ∼ 9 日 ( 日 ) 飯塚書道協会展
3 月 9 日 ( 日 ) 「飯塚能の会」主催 木月靖謳会
嚢祖八幡宮 問合せ 0948-22-0511
3 月 21 日 ( 金祝 ) 筆の感謝祭
・神事 ( 使用済みの筆をお持ち下さい )
・福教大・嘉穂高・稲築志耕館高によるパフォーマンス
王塚装飾古墳館 問合せ 0948-65-2900
5月 10 日(土)∼ 21 日(水)土師三区文化総合発表展
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今年もまた九州・
福岡県高文連が主
催する、九州各県か
ら選抜された優秀
な 校の吹奏楽バ
ンドが一同に会す
る。この大会は演奏
レベルの高さは勿
論だが、各県のお国
自慢、各校のバンド
の個性溢れるパフ
ォーマンスをいれ
た発表内容は、観衆
を多いに楽しませ
てくれると定評が
ある。今年も充分に
期待できそうなメ
ンバーが揃った。
情報をお待ちしております。
ᇹ ᵏᵑ ‫ ׅ‬Ẑʋ߸᭗૨ᡲԉ‫ڌ‬ಏ‫˟ٻ‬ẑ