部分均衡理論入門∗ 坂井豊貴† 平成 26 年 4 月 10 日 概要 部分均衡理論は,ひとつの市場に焦点を当て,その挙動や政策作用について 分析する経済学の基本ツールである.一般均衡理論のように複数の市場の相互連 関作用を扱うことはできないが,その分,ひとつの市場の細部に立ち入った考察 が可能となり広く応用されている. ∗ 本稿は日吉設置科目「ミクロ経済学初級 Ia」の講義ノートである.おそらく講義ノートしては完 成度が高いが,あくまでも出席を前提としており,それ自体ではひどく不完全な教材である.授業に 出ないでこれだけ読んだ場合,何も分からないか,あるいは何が分からないかも分からないまま何か が分かった気になるだけだろう.前者は自らの不勉強を嘆くことができる面では救いがあるが,後者 は悲惨である. † 慶應義塾大学経済学部教授.1975 年生まれ.ロチェスター大学 Ph.D.(経済学).横浜市立大学 准教授,横浜国立大学准教授などを経て,2011 年に本塾経済学部准教授,2014 年より教授.マーケッ トデザインと社会的選択理論を専攻.研究室は三田で,日吉には通常居ないが,三田に遊びに来てく れてもいい.メールアドレスは [email protected] だが,授業に関する質問はご遠慮ください(重 要事項は授業中にアナウンスするのと,授業内容についてはメールで数式のやり取りをするのが困難 なので).授業中に質問するのがベストです. 1 序文 経済学は世界を認識するひとつの手掛かりであり,その主たる役割は社会の経済的 側面を切り取り描くための言葉とその運用方法を与えることにある.政策効果を分析 すること,近代市民社会の理解に役立てること,そして社会をより善きものにすると いう遠大な目標に資することは,経済学が目指すものではある.しかしそうした課題 に取り組むためには,何よりもまずそのために必要な言語,ないし適切な認識を可能 とする基軸を持っていなければならない. よく知られている通り,言語と認識の働きを理解するうえでは星座による比喩が常 に有用である.すなわち星座を知る者が真夜中に空を見上げれば星座が見えるが,知 らない者の目にはただ星が映るだけだ.星座が夜空に新たな構図を与えるように,経 済学は社会の経済的側面について文節と輪郭を与える.星座を知る前と後で夜空の見 え方が変わるように,社会の経済的側面について文節と輪郭を与えることで,これま でと世界が異なり見えるようになる.これが経済学の第一機能である. 厚生経済学の確立者として名を残す,ケンブリッジ大学の教授であったピグーはそ の主著 Welfare Economics (1920) において,“The main motive of economic study is to help social improvement”と述べた.経済学の動機を社会状態の改善に見い出すわ けである.これは先に述べた「遠大な目標」に該当する.しかし遠大な目標に焦がれ ることが難しくない一方で,そのための地道な学習は必ずしも容易でない.実際,ピ グーの言う “help social improvement”を考察するためには,少なくとも「society の 構成要素」 「それら構成要素が society で展開する活動」 「何を持って improvement と 判断するかの価値基準」 「help の手段とその機能」についての深い理解が必要となる. 遠大な目標に到達するまでの道程は,遠大の性質上,果てなく長いのが特徴である. ピグーの前任者であったマーシャルが,1885 年の教授就任演説で述べた “cool heads but warm hearts”は warm hearts に重きを置かれた上で広く好まれているが,実際 のところ cool heads の維持と遂行は容易でないし,それができない hearts は十分に warm でない. これから経済学を本格的に学び始める諸君には,学問を組み立てる過程に作業の本 質を見い出すことを,強く意識してもらいたい.そこでは徹底して cool heads が行使 されており,その作業は主に,視点の選択,明確な定式化,厳密な論理展開,そして 過不足無き解釈という,きわめて地道な営みにより形成されている.これは私たちが warm hearts を正しく使うために,その場しのぎの思いつきや,ただ言いたいことを 言うだけや,他者への優位性を獲得するための弁舌に溺れることを避けるための,お そらく唯一可能な試みである.作業工程自体に知的営為のあり方を提示することは本 講義の目的のひとつでもあり,この講義ノートがその一助となることを願っている. 2 目次 序文 2 数学の利用 4 プロローグ 6 1 消費者 1.1 セットアップ . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 1.2 交換の金銭換算価値 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 1.3 消費者余剰 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 8 8 14 15 2 生産者 2.1 セットアップ . . . . 2.2 利潤 . . . . . . . . . 2.3 生産者余剰 . . . . . 補足 生産関数と費用関数 . . . . 19 19 19 23 26 3 市場と経済厚生 3.1 市場 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 3.2 厚生経済学 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 3.3 従量税と経済厚生 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 28 28 28 33 4 不完全市場 4.1 逆総需要関数 . . . . 4.2 生産の一般モデル . . 4.3 完全市場 . . . . . . . 4.4 独占市場 . . . . . . . 4.5 クールノー寡占市場 4.6 ベルトラン寡占市場 40 40 40 42 43 45 47 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 3 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 数学の利用 ある理論の論理展開が正しいということは,それが内部破綻をきたしておらず,ま た論理の道筋が克明に描写されていることを意味する.このことは,理論が第三者に よる検証可能性を確保するための,誠意の表れであるともいえる.経済学では,他の 多くの諸科学と同様に,正しい論理展開に基づき理論を構築するために,数学という 論理展開について優れた性能を有する言語を用いる.経済学にとっては,数学はただ の便利な言語であり目的に資する手段以上のものではない1 .しかしその便利さは他 の言語では代替ができないようなものである. 数学を用いることの大きなメリットの 1 つに,どの仮定からどの結論が導かれたか, ある結果がどの仮定に依存しているのかが明確に分かることがある.この性質は,物 事を深いレベルから理解するためのみならず,他者と理解を共有するうえでもきわめ て有用である.特に,私たちが経済という複雑極まりないものを扱う以上,何をどう 仮定したかの足場は明確にしておきたい.同様のことを日本語や英語などのいわゆる 自然言語で行うことは,難しいというよりほとんど不可能だろう.また,経済学は, 価格や量といった数値で表せる対象を多く扱うので,数学による表現が,法学や経営 学など他の社会科学と比べて容易である.そしてこの事実は単に,経済学と数学的表 現との相性の良さを示すものであり,経済学の他学問に対する優越性を意味するもの ではない. 実際,数学による表現が適さない事柄は山のようにある.例えばこの文章の文意を 数学的に表すことは困難であるばかりか,出来たとしてもそれによるメリットはおそ らく無いだろう.言語は表現手段であるゆえ,可能な表現内容に制約を与える.それ ゆえ本講義では日本語と数学を同時に用いるが,それらは互いに補完的に機能する. 経済学部で扱う数学は,数学的には簡単で,ほとんどは高校までで学んだ知識の延 長で対応できる.しかし数学的に簡単なことは,学問的に簡単であることを意味しな い.これは,足し算と引き算が出来るからと言って簿記が出来るようになるわけでは ないこと,日本語が読めるからと言って日本文学が分かるようになるわけではないこ とと同じ理由によるものである.もし経済学の学習に困難があるとすれば,それは数 学にではなく経済学そのものに由来する.簡単な数学であっても,概念を厳密に定式 化し論理を丁寧に積み上げていく作業は決して容易ではない.実際,これから本講義 では,それなりに込み入った構築物を土台から組み上げていくことになる. 若干の数学的記法について説明しておく.記号 ∀ は「全ての (for all)」を意味する 1 このことはもちろん,純粋数学にとって数学が目的そのものであること,および数学自体に審美 性や文化性があることと矛盾しない. 4 が,これは漢字のようなものである.実数の集合と,非負の実数の集合 R = (−∞, ∞) R+ = [0, ∞) については特に問題ないだろう.ある要素 x が集合 X に入っているとき,x ∈ X と 書く.例えば x ∈ [0, ∞) と x ∈ R+ と 0 ≤ x < ∞ は同じ内容を意味する記述である. なお,あるふたつの記述が同じ内容を意味する,ということを表すとき x ∈ R+ ⇐⇒ 0 ≤ x < ∞ (1) のように両矢印で書く.また,x ∈ X かつ y ∈ Y のとき (x, y) ∈ X × Y (2) √ √ と記す.例えば 5 ∈ R+ かつ − 2 ∈ R であるが,これらの組み合わせ (5, − 2) に対 √ し,(5, − 2) ∈ R+ × R と書ける. 5 プロローグ 1789 年にバスティーユ牢獄への襲撃が起こりフランス革命が勃発する.これによ りフランス・ブルボン王朝は倒れて共和国が誕生することになるが,その経緯が血塗 られてことはよく知られている通りだ.そのさなかのジャコバン独裁期,恐怖政治の もとで,コンドルセという男が不当な逮捕状を受け逃亡し,捕縛され命を落とした. 新憲法の草案作成に関わっていたが過酷な言論弾圧にあったのだ. 彼のフルネームに爵位を付けるとマリー・ジャン・アントワーヌ・ニコラ・ド・カ リタ・コンドルセ侯爵である.1770 年代にフランスで数学者として頭角を現し,パ リ王立科学アカデミーの終身書記を務め,また造幣局長官として政治にも関わった. 人民主権の社会を構想するジャン・ジャック・ルソーとはほぼ同時期に生き,その知 的影響を強く受けた啓蒙思想家でもある.社会科学において数学を本格的に用いるこ とを試みた先駆者でもあり,後の社会と科学に多大な影響を与えた. 革命以前のアンシャン・レジーム末期,絶対王政が内政にも外政にも大きく揺らい でいた頃のことだ.コンドルセは財務総監テュルゴーの片腕として経済政策に関わっ ていた.穀物取引に関する諸規制を撤廃することは当時大きな論争になっていた.も ともと絶対王政のもとで穀物は公定価格により供給するものであり,また広域間での 取引や輸出入についても制限がかかっていた.コンドルセはテュルゴーとともに市場 の自由化に挑む.中央当局による操作と判断ではなく,直接取引に関わる当事者の自 治と判断に経済を委ねること.もちろん反対は多く,結末を言うと,その試みはその 時代には受け入れられない. 実際のところ,穀物取引の自由化を巡っては,反対する民衆による動乱が起きてい た.絶対王政といえども世論が無視できなくなってきた状況,公共圏というものが生 まれつつある時代のことであった.では反対する民衆は,自由というものを嫌悪して いるのだろうか.コンドルセによればそれは違う.彼らは飢餓を恐怖しているのだ. だから低い価格を設定することを政府に要求するし,独占的諸特権を与えられている 商人の穀物倉庫を襲撃する.彼らは自由を知らないのだ.各種諸特権や奉仕労働を除 去したうえで,所有権と労働という自由の基礎を確立しよう.それにより自由を知る 民衆が生まれ,彼らの意志が市場を自律させるだろう. そうして民衆は自ら啓発される.近代的個人の確立と彼らの自治による自由社会の 成立.公論による政治の実現と,自由市場を原動力とする経済の発展.自由社会を支 えまたそれに支えられる,部分というよりは本質的に不可分な場としての自由市場. この壮大な構想の中にひとつの問いを投げかけよう.コンドルセによる「自由市場 への無知がその受容への抵抗として働く」という論の運びは,ルソーの有名な句「奴 隷は彼らの鎖の中で全てを失ってしまう.そこから逃れたいという欲望までも」を想 起させるものだ.ではもし「統制経済への無知がその受容への抵抗として働く」とい う,同型の構造を持つ逆向きの主張がなされたならば,われわれはどう応えればよい 6 のだろうか. そこでこれから,自由市場が統制経済よりどう優れているのかを,自由自体の価値 に頼ることなく,観念としてでなく,機能として明らかにしていくことにしよう.す なわち自由市場は生産と消費に関してどのような影響を与えるのか.コンドルセと同 じく穀物を考えることにしよう.典型的な例だからだ.いったいそれは自由市場で取 引されるべきなのだろうか.特権的な独占商人が販売するよりも,あるいは公定価格 で売買されるよりも,自由市場はいったいどのような意味で優れているのだろうか. 7 消費者 1 1.1 セットアップ 部分均衡理論では 1 種類の財 x ∈ R+ の市場に着目する.具体的にはこれは,何か の穀物としておこう. そしてここには,m ∈ R というお金を表す財も別にあると2 .そして x はゼロ以上の 値であるが,m は正負を問わないことにする.お金とは何かを説明することは経済学 上の大きな問題だが,ここではそれについて踏み込まない3 .仮に m が負の値を取る ならばそれはマイナスの消費,いわば借金を意味する4 .組み合わせ (x, m) ∈ R+ × R のことを財バンドルと呼ぶ. 各個人は,様々な財バンドルに対して,どれをどれより好む,好まないといった相 対的な順序付けを持つものとする.その順序付けの表記は次の通りである. • (x, m) を (x′ , m′ ) より好むことを,(x, m) ≻ (x′ , m′ ) で表す. • (x, m) と (x′ , m′ ) を同程度に好むことを,(x, m) ∼ (x′ , m′ ) で表す.同程度に好 むことを,経済学では無差別であるという言うことが多い. 記号 ≻ と ∼ を合わせて % により表し,これを選好と呼ぶ.また,(x, m) % (x′ , m′ ) は,(x, m) ≻ (x′ , m′ ) と (x, m) ∼ (x′ , m′ ) のどちらか一方が成り立つことを意味する. このとき (x, m) を (x′ , m′ ) 以上に好むという. 財 x の価格を p で表し,お金 1 円の価格を(当然ながら)1 円と定める.また,こ の個人が最初に持っているお金の量を M で表す.このとき彼の予算制約式は px + m = M (3) で表される.予算制約式を満たす (x, m) ∈ R+ × R の集合を B(p, M ) = {(x, m) ∈ R+ × R : px + m = M } (4) で表す.この集合を予算集合と呼ぶ.これから予算集合内での選好の最大化について 考察する.そのアイデアの骨子は「財布の許す範囲内で欲しい物を買おう」とする個 人をモデル化することである. なお,一個人の消費行動は価格に影響を与えないものとする.これはつまり一人一 人の存在は市場全体においてはとても小さいので, 「自分の購買行動が価格を変化さ 2 財 m の呼び方は,価値尺度財,ニュメレール,合成財など様々にある. 「それ自体は何の役にも立たないが,簡単には物理的に劣化しないという意味で保存性が高く, 人々が「明日も交換で使える」と信ずる限りにおいて今日も交換に使える財,というのがひとつの見 方である. 4 本稿ではマイナスの消費を認めるとして議論を進めるが, 「マイナスの消費が発生しない程度に皆 所得があるのでそれは考えない」として議論を進める教科書も多い.モデルとしては同じである. 3 8 せる」ことが起きないことを意味する.これをプライステーカー(価格受容者)とい う.市場には通常多くの個人が存在するので,一人一人の個人がプライステーカーで あるというのは自然な設定と言えよう. 定義 1 (需要). 選好 % にとって,予算集合 B(p, M ) 内で最も望ましいものを需要バ ンドルといい (x∗ , m∗ ) で表す.つまり (x∗ , m∗ ) は両条件 (x∗ , m∗ ) ∈ B(p, M ) (5) (x , m ) % (x, m) ∀(x, m) ∈ B(p, M ) (6) ∗ ∗ を満たすもののことである.予算集合内で選好を最大化する財バンドルが需要バンド ルである.予算集合は (p, M ) の値により変化するので,(p, M ) が変われば (x∗ , m∗ ) も変わりうる.この関係を明示したいときには (x∗ (p, M ), m∗ (p, M )) (7) のように書く.このように書いたとき,x∗ (p, M ) と m∗ (p, M ) はそれぞれ x, m への需 要関数と呼ばれる.なお,予算制約式から px∗ (p, M ) + m∗ (p, M ) = M (8) m∗ (p, M ) = M − px∗ (p, M ) (9) が成り立つので m∗ (p, M ) は と書ける.つまり x∗ (p, M ) の形状さえ分かれば m∗ (p, M ) の形状は自動的に分かる. また,部分均衡分析における私たちの目的は,財 x の市場について理解することなの で,今後の議論では x∗ (p, M ) のみに着目する. ♢ 予算集合内での選好の最大化を「合理的個人の想定」とか「利己的個人の想定」と いうことがあるが,適切な表現ではない.例えば,ここでの個人は酒ばかり買うアル 中や,甘いものばかり買う高血圧者のような「非合理的」個人であっても構わない. また,恵まれない子供にクリスマスプレゼントをあげるため何か購入しようとする 「利他的」個人であっても構わない 5 .大抵の人間は,社会全体のあるべき姿につい て,自分なりの期待像のようなものを多かれ少なかれ持っているものである.また, 困った者を助けようとしたり,社会のために何かの役に立てないかを考えることは, 精神の働きとして特に珍しいことではない.自分が恩恵を受けない福祉政策を支持す 5 というと「それでも他人が幸せになることで自分を幸せにしたいのならばそれは利己的じゃない か」と言いだす人がいるかもしれない.しかしそもそも,他人の幸せを自らの幸せにカウントでき,そ のために行動できるような人間を,私たちは利他的というのである. 9 ることも稀ではない.これらの感覚は,あまねくとは言わないまでも一定の普遍性を 持つ,人間の自然な性質である. そういうわけで,たまに経済学を中途半端に学んだ者に起こることなのだが,諸君 は「経済モデルで利己的に振る舞う個人がなんか格好良い」と思うべきではない.経 済モデルの個人は利己的と想定されているわけではないし,そもそも利己的な振る舞 いはそんなに格好良くない.ただでさえ世に善意や連帯や責任の感覚が十分存在する わけではないので,それらをこれ以上減らさないことは経世済民を学ぶ者の務めで ある. いま各 x ∈ R+ に対し (x, 0) ∼ (0, V (x)) (10) を満たす値 V (x) を便益と呼ぶ.式 (10) は「財を x だけ持つのと,お金を V (x) 円だ け持つのは無差別である」と解釈される.つまり便益は,選好に基づき導出された, x に対する金銭価値である.V を便益関数と呼び,それは以下の性質を満たすものと する. V (0) = 0 ′ V >0 ′′ V <0 (11) (12) (13) 財の消費量がゼロのとき便益はゼロであり (11),消費量が増えるほど便益は増えるが (12),その増加の具合は減少していく (13).この「増加の具合は減少していく」こと を限界便益逓減という. 部分均衡理論では選好は以下の性質を満たすものと設定することが多く,本稿でも その設定を採用する. 定義 2 (準線形性). 集合 R+ × R 上で定義された選好 % が準線形であるとは,どのよ うな (x, m), (x′ , m′ ) ∈ R+ × R についても (x, m) % (x′ , m′ ) ⇐⇒ V (x) + m ≥ V (x′ ) + m (14) が成り立つことである.つまり % による順序付けは,関数 U (x, m) = V (x) + m に基 づく数値の大小関係によって代替することができる. ♢ 準線形性の仮定の意味と,それに伴う技術的扱いの簡略化を理解するため,予算集 合内の選好最大化について考えてみよう. • 需要バンドル (x∗ , m∗ ) とは,両条件 (x∗ , m∗ ) ∈ B(p, M ) (15) (x∗ , m∗ ) % (x, m) ∀(x, m) ∈ B(p, M ) (16) を満たすものであった. 10 V x 図 1: V の形状 11 V′ x 図 2: V ′ の形状 12 • 選好が準線形性を満たす場合はこれを (x∗ , m∗ ) ∈ B(p, M ) (17) V (x∗ ) + m∗ ≥ V (x) + m ∀(x, m) ∈ B(p, M ) (18) として書き換えられる. • つまり (x∗ , m∗ ) とは,予算制約式 px + m = M を満たす財バンドルの中で,関 数 V (x) + m を最大化するものである.更に,m = M − px の関係から次のよ うに言い換えることができる.すなわち x∗ とは,関数 V (x) + M − px を最大 化するものである. • x∗ は関数 V (x) + M − px を最大化するものなので,一階の条件 V ′ (x) − p = 0 (19) を満たす.ポイントは (19) に M が表れていないことである.こうなったのは 関数 V (x) + M − px を x で微分すると M の項が消えてしまうからであり,そ うなるのは準線形性の仮定を置いたからに他ならない. • 式 (19) から V ′ (x) = p (20) が得られるが,この両辺に逆関数 V ′−1 を掛けると x = V ′−1 (V ′ (x)) = V ′−1 (p) (21) である.つまり需要関数は x∗ (p, M ) = V ′−1 (p) (22) として具体的に求められる.見て分かる通り (22) の右辺には M が出てこない ので,x∗ (p, M ) の値は M と無関係に定まる.よって M を省き x∗ (p) = V ′−1 (p) (23) として需要関数を扱うことができる. つまり準線形性は,財 x に対する需要が,所得と無関係に定まるということを意味 する.所得の増減に消費量が影響されにくい財に対しては,この設定が一定の妥当性 を持つ.必需性が高く,お金のある無しに関わらず一定の消費をする必要がある,交 通機関や主食や水光熱などはその例である.必需性が低くとも,所得全体のうちその 13 支出に占める割合が少ない財についても,需要に対する所得の影響が少ないのでこの 設定は当てはまりが良い. 準線形性の仮定が無ければ部分均衡理論は進められないというわけでは必ずしもな い.しかし,この仮定のもとでは便益の意味はきわめて明瞭となる.準線形性無しで 便益概念を正しく理解するためにはやや込み入った説明が必要となるので,本講義で はそこに立ち入るのを避けるため準線形性を一貫して仮定する.準線形な選好を持つ 個人にとっての便益とは,彼の所得と独立に定まる,財に対する金銭換算価値である. 経済学の多くの教科書では「効用関数」という言葉が使われている. 本稿で効用関 数に対応するものは U (x, m) = V (x) + m (24) である.これは厳密には,効用関数ではなく関数表現とでも呼ばれるべきものであ る.多くの入門用教科書では選好 % を用いないで,効用関数を最初から与えて議論を 進めている.このアプローチは便宜的なもので,本来は,本稿のように選好を最初に 定義し,そこから (24) のように分析上の扱いを容易にする関数表現を導出するのが 正しい.効用関数という言葉が導く誤解の典型例に「経済学では,個人は自分の効用 を数字で表せると仮定されている」がある.しかしそのような仮定はされていない. この誤解はたちが悪く「経済学では,効用の個人間比較を行う」という別の誤解を容 易に導く.しかし,個人間の効用比較は,それを行う際には明示的に行うし,しなく て間に合う際には行わない.個人間の効用比較可能性や,効用値による幸福度の表現 は,科学的根拠や社会的合意が乏しいゆえ,それらに依存しない学問を組み立ててい こうというのが 20 世紀半ばの経済学が目指し,かつ達成したものであった.にも関 わらず,現在においてなお,そのような誤解が発生するのは, 「効用」や「効用関数」 という語がそうしたイメージを含むからであろう.とは言え「効用が上がる」といっ た表現は口頭での説明に便利だし,また私たちは効用のようなものを持っているよう な感覚もあるので(学問的基盤に置けるほど明瞭でないにせよ),そのような表現は 便宜的に広く採用されている. 1.2 交換の金銭換算価値 個人は初期保有として所得 M を持っているが,財については全く持っていないも のとする.彼が x 得て px 払う交換について考えてみよう.いま U (x, M − px) = V (x) + M − px = V (0) +M + V (x) − px = U (0, M + V (x) − px) | {z } =0 (25) 14 が成り立つ.よって (x, M − px) ∼ (0, M + V (x) − px) | {z } | {z } x 得て px 払う (26) お金を v(x)−px もらう である.つまり x 得て px 払う交換と,お金を V (x) − px もらうこととは無差別であ る.それゆえこの交換を金銭換算した価値を V (x) − px (27) で表すのは自然なことといえよう. これからこの交換の金銭換算価値 V (x∗ (p)) − px∗ (p) を図示したい.そのために微 積分の関係を用いると ∫ x∗ (p) V ′ (x)dx = V (x∗ (p)) − V (0) = V (x∗ (p)) (28) | {z } 0 =0 である.よって交換の金銭換算価値は ∗ ∫ ∗ x∗ (p) V (x (p)) − px (p) = V ′ (x)dx − px∗ (p) (29) 0 と表される.これは先ほど用いた図で次のように表すことができる. 1.3 消費者余剰 本節においては複数の個人が存在するものとし,個人を i = 1, 2, . . . , I で表す.各 個人 i に関する記号は右下に添え字 i を付け,例えば財の量を xi ∈ R+ ,便益関数を Vi のように表す6 .いま財に対し市場で価格 p がついていたとしよう.このときの個人 の需要量をリストアップした (x∗i (p))Ii=1 ≡ (x∗1 (p), x∗2 (p), . . . , x∗I (p)) を需要ベクトルと 呼ぶ.市場における財の総需要量は D(p) ≡ I ∑ x∗i (p) i=1 = I ∑ −1 Vi′ (p) (30) i=1 で表され,こうして定義された関数 D を総需要関数という. 各個人 i が x∗i (p) 購入し px∗i (p) 支払ったときの金銭換算価値の総和を求めると CS(p) = I ( ∑ ) Vi (x∗i (p)) − px∗i (p) (31) i=1 6 これまでの講義ノートでは x2 は「財 2 の量」を意味していたが,ここでは「個人 2 が持つ(1 種 類しかない)財の量」であることに注意. 15 V′ p x∗ (p) 図 3: V (x∗ (p)) − px∗ (p) の面積 16 であり,これを消費者余剰という. 消費者余剰の導出に際しては,金銭換算された価値の和を取るわけだが,お金その ものの和を取っているわけではない.また,消費者余剰は便益関数という純粋に選好 に基づく概念に基づき定義されており,効用概念とは関係無い.消費者余剰は消費者 サイドにとっての市場状態の望ましさを測る 1 つの基準である.この基準で測るとい う観察者の行為には価値判断が入っているゆえ,その基準の内容は明確にされていな ければならない.それゆえ個人レベルから地道に議論を積み上げ消費者余剰の定義を 行い,概念の意味内容を支える論理を明瞭に与えてきたことには厚生経済学上の重大 な意義がある. 17 x∗2 x∗1 p CS(p) D 図 4: 消費者余剰 18 生産者 2 2.1 セットアップ 企業活動とは突き詰めれば,労働や資本などのインプットを用い,何かしら有形無 形のアウトプットを生産することにある.組織としての企業は複雑な内部構造を有し ているが,ここでは企業をごく単純に,インプットに対しアウトプットを与える一連 のシステムとして考える. アウトプット y を生産するためにはインプットに対する(可変)費用がかかり,そ の額を C(y) で表す.C は費用関数と呼ばれ,以下の性質を満たすものとする. C(0) = 0 (32) ′ C (y) > 0 (33) C ′′ (y) > 0 (34) つまり生産を行わないなら費用はかからず (32),生産量が増えるほど費用は増え (33), その増加の具合は増加していく (34).C ′ (y) を y の限界費用といい, 「増加の具合は増 加していく」ことを限界費用逓増という.限られた大きさのオフィスや工場や農場で は,インプットである人員や原材料を 2 倍にしても,アウトプットが 2 倍までにはな らないという状況にこれは対応している7 .限界費用関数は右上がりの曲線である. 2.2 利潤 企業が y の生産を行ったときの利潤は π(y) = py − C(y) |{z} | {z } 利益 (35) 費用 で与えられる.π を利潤関数と呼ぶ. 私たちは企業が利潤を求めるものと考え,その最大化に努める主体として描写す る.注意してほしいのは,私たちは企業の利潤に関する行動を扱うのであって,企業 というものの総体を扱うわけではないことである.また,世に存在する全ての企業が 利潤最大化あるいはそのようなものを狙っていると考えているわけでもない.しか し,およそ企業というものを一般的に考えた場合,その存在理由の主軸,あるいはそ の存続を可能とする主な要因に利潤が含まれているのはおそらく紛れもない事実であ り,それを求めるという面に焦点を当て私たちは考察を進める8 . 7 8 本節末の補足で,これについて生産関数と関連した説明を与えている. また,私たちは企業が利潤最大化のみを試みる「べきだ」という主張をしているわけではない. 19 C y 図 5: C の形状 20 利潤関数の定義に表れているように,企業にとって価格は所与のものである.ここ で所与とはつまり,市場における競争圧力により価格は p として相場が定まっており, 一企業はその価格に影響を与えられないことを意味する.このような企業をプライス テーカー(価格受容者)という.私たちは個人に対してもプライステーカーの仮定を 置いていたが,個人に対してこの仮定は自然なものであった.しかし企業に対するこ の仮定は,個人に対するほどには自然でない.プライステーカーでない場合の企業行 動については後に不完全市場を扱う際に学ぶ. 利潤関数を一階微分すると π ′ (y) = p − C ′ (y) = 0 (36) p = C ′ (y) (37) であり が最大解で成り立つ.すなわち最大解とは価格と限界費用を一致させる点に他ならな い.解釈は容易である.最大解においては「あと 1 つ作ったときに入ってくるお金」 と「あと 1 つ作るための費用」が一致している.これより多く生産すると損をするし, これより少なく生産するのではまだ儲けきっていない.式 (37) により表される限界 費用と価格の関係を図示しておこう. 21 C′ p 最大解 y 図 6: 限界費用と価格が一致する点が最大解 22 さて,(37) において C ′ の逆関数 C ′ −1 を両辺に掛けると,最大解では C ′−1 (p) = C ′−1 (C ′ (y)) = y (38) が成り立つ.この関係をあらためて y ∗ (p) ≡ C ′−1 (p) (39) と定義すると,y ∗ (p) は価格 p のもとでの最大解を表す.こうして得られた関数 y ∗ を この企業の供給関数と呼ぶ. これから最大解 y ∗ (p) における企業の利潤 π(y ∗ (p)) = py ∗ (p) − C(y ∗ (p)) を図示したい.そのために微積分の関係を用いると ∫ y∗ (p) ∗ ∗ C(y (p)) = C(y (p)) − C(0) = C ′ (y)dy | {z } 0 (40) (41) =0 が成り立つので ∗ ∫ ∗ y ∗ (p) π(y (p)) = py (p) − C ′ (y)dy (42) 0 である.これは先ほど用いた図では次のように表される. 2.3 生産者余剰 本節においては複数の企業が存在するものとし,各企業を j = 1, 2, . . . , J で表す. 各企業 j に関する記号は右下に添え字 j を付け,例えば財の量を yj ∈ R+ ,費用関数を Cj ,利潤関数を πj のように表す.いま財に対し市場で価格 p がついていたとしよう. このときの企業の供給量をリストアップした (yj∗ (p))Jj=1 ≡ (y1∗ (p), y2∗ (p), . . . , yJ∗ (p)) を 供給ベクトルと呼ぶ.また,市場における財の総供給量は (39) より Y (p) ≡ J ∑ yj∗ (p) = j=1 J ∑ Cj′ −1 (p) (43) j=1 で表され,関数 Y を総供給関数という. 価格 p のもとで各企業 j が yj∗ (p) 生産したときの利潤和を取ると P S(p) ≡ J ( ∑ ) pyj∗ (p) − Cj (yj∗ (p)) (44) j=1 となり,これを生産者余剰という.なお,生産者余剰と言っても,このお金は最終的 には配当として人の手に渡るものである9 . 9 株式会社であれば株主に比例配分される. 23 C′ p y ∗ (p) 図 7: 利潤 py ∗ (p) − C(y ∗ (p)) の大きさ 24 y2∗ y1∗ S p P S(p) 図 8: 生産者余剰 25 補足 生産関数と費用関数 本稿では企業を表現するうえで費用関数を前面に出すアプローチを採用している が,これは後の議論との相性を考えてのことである.ここでは生産関数を先に定義 し,生産関数から費用関数を導出するアプローチについて述べておく.生産関数から 始めるアプローチの方が,インプットに対しアウトプットを与えるという生産活動を 描写するうえでは,より適している.ただし,特に入門レベルの部分均衡分析では, 最初から費用関数ありきで分析を進めることが多い. 経済学で「長期」というときはあらゆるインプットを自由に変更できるケースを, 「短期」は一部のインプットしか変更できないケースを意味することが多い.例えば 工場や店舗の規模を変更することは容易でないので,長期でしか変更できないと考え るのが多くの場合自然である.一方で原材料の量やアルバイト人員数は変更が比較的 容易であり,短期でも変えられると考えてよいだろう.ここでは短期のケースを念頭 に置き議論を進める.つまり長期的にしか変えられない生産要素は既に存在し定まっ た値を取っており,それを資本と呼ぶ.今後の議論で誤解の恐れが無いときには,短 期的に変更可能なインプットのみを単にインプットと呼ぶ. インプットを z で表し,そのときのアウトプットを y = F (z) で表す.F を生産関 数と呼び,それは以下の性質を満たすものとする. F (0) = 0 ′ F >0 ′′ F <0 (45) (46) (47) 何も投入しないと生産量はゼロであり (45),インプット z が増えるほどアウトプット y は増えるが (46),その増加の具合は減少していく (47).この「増加の具合は減少し ていく」ことを収穫逓減という.短期の状況では,収穫逓減の仮定は自然であると言 えよう.例えば,工場規模を一定のまま原材料だけを倍にしても,生産ラインのキャ パシティーが変わらなければ生産量は倍にまではならない.また,店舗面積を一定の まま人員を倍にしても,店舗の使い勝手が悪くなり成果が倍にまではならない. インプット z の価格を c で表す.アウトプット y の価格を p で表す.価格 c は市場 で定まるものであり,この企業の行動は影響を与えられないものとする.例えば,あ まりに多く買おうとするために,市場に品薄状態を発生させ価格が上昇するというこ とが起こらない.これは c についてのプライステイカーの仮定である. インプット z に対しアウトプット y は y = F (z) (48) の関係により与えられる.では逆に,アウトプット y に対しそれを与えるインプット 26 z はどれだけだろうか.その関係を表すのが F の逆関数 F −1 (y) = z (49) である.つまり y 生産するために必要な z の量が F −1 (y) である.いま一単位当たり の z の価格は c であるから,そのための費用は cz だが,その値がより具体的にいく らかと言えば (49) から cF −1 (y) (50) C(y) ≡ cF −1 (y) (51) であることがわかる.この関係を と関数で書く.C は費用関数と呼ばれ,y 生産するために必要な費用をこれで表す10 . 微分すると ′ C ′ (y) = cF −1 (y) > 0 (52) である. 10 厳密には可変費用である.資本に対する支払いも存在するはずだが,この額は既に定まったもの として扱うため,意思決定問題としてここでは扱わない. 27 3 3.1 市場と経済厚生 市場 これから消費者と生産者が出会い価格を通じて取引を行う市場について検討する. 市場は完全に競争的であるとする.ここで完全に競争的であるとは,需要過剰が発生 すれば価格が上昇し,供給過剰が発生すれば価格が下降し,といった双方向圧力を通 じて,需給一致が実現した状態のことを意味する. 価格 p∗ が競争均衡価格であるとは需給を一致させる,つまり I ∑ x∗i (p∗ ) = i=1 J ∑ yj∗ (p∗ ) (53) j=1 を成り立たせることである.競争均衡価格が実現する市場を完全市場という.総需要 関数 D,総供給関数 S をそれぞれ D(p) ≡ S(p) ≡ I ∑ i=1 J ∑ x∗i (p) (54) yj∗ (p) (55) j=1 として定め,これらとともに p∗ を図示すると次のようになる. 競争均衡価格 p∗ について,そのもとでの需要ベクトルと供給ベクトルと合わせて 書いた ( ) ∗ ∗ I ∗ ∗ J ∗ (xi (p ))i=1 , (yj (p ))j=1 , p (56) を競争均衡という.なお,選好最大化条件と利潤最大化条件から,競争均衡におい ては Vi′ (x∗i (p∗ )) = p∗ ∀i = 1, 2, . . . , I (57) Cj′ (yj∗ (p∗ )) = p∗ ∀j = 1, 2, . . . , J (58) が成り立っている.この事実は次小節で重要な役割を果たす. 3.2 厚生経済学 ここでは消費者や企業など市場に関する概念から一切離れる.そして純粋に規範的 に,社会全体としてどのような消費ベクトルと生産ベクトルのペア ) ( J I (59) (xi )i=1 , (yj )j=1 28 x∗2 y2∗ y1∗ S x∗1 p∗ D 図 9: 競争均衡価格 29 が望ましいかという厚生経済学な問題を考察する.なお,当然ながら総消費量は総生 産量を超せないので,ここでの議論では I ∑ xi ≤ i=1 J ∑ yj (60) j=1 を前提とする. ( ) ∑I さて, (xi )Ii=1 , (yj )Jj=1 のもとで発生する便益の和は i=1 Vi (xi ) であり,そのた ∑J めに必要な費用の和は j=1 Cj (yj ) である.便益和と費用和との差額を社会的余剰と いう.つまり社会的余剰とは SS((xi )Ii=1 , (yj )Jj=1 ) ≡ I ∑ Vi (xi ) − i=1 J ∑ Cj (yj ) (61) j=1 のことである.教科書では,社会的余剰は消費者余剰と生産者余剰の和として定義さ れることが多い.ここでの定義はそれと異なるが,この定義の方が価値基準の定義と して正しい.どのような意味で正しいのかは,次小節で従量税の話をするときに具体 的に説明する. ( ) どのような (xi )Ii=1 , (yj )Jj=1 が社会的余剰を最大化するのだろうか.もし I ∑ xi < i=1 J ∑ yj (62) j=1 であれば,これは必要以上に生産している状態なので,社会的余剰を最大化するもの を探すという問題においては答の候補から外してよい.よって私たちは社会的余剰最 大化問題を次のように定式化する. max I ∑ Vi (xi ) − i=1 J ∑ Cj (yj ) (63) j=1 sub to I ∑ i=1 xi = J ∑ yj (64) j=1 社会的余剰というのはひとつの価値判断基準であり,単位は金額ベースである.た だしその構成要素にある便益は,あくまで金銭換算された値であり,お金そのもので はない.つまり社会的余剰は,社会に生み出されたお金そのものの量ではない.便益 は,選好から導出された概念であり効用概念には依拠していないこと,および各個人 が主観的に持つものであることには注意されたい. 30 社会的余剰は,測り方としては「総和だけで測る」という点が重要である.総和で 測るということはタテ方向の量を重視するということで,効率性の概念を反映してい る.総和だけで測るということはヨコ方向のばらけ具合を考慮しないということで, 平等性の概念を反映していない.ただし福祉の整った貧困国が存在しないように,そ もそもお金が無くては福祉や厚生政策は実現できないので,タテ方向の追求はヨコ方 向の充実と必ずしも矛盾しない.社会的余剰を増やして再分配を行うことは自然な発 想であり,例えばスウェーデンは高福祉国家のイメージが強いが,それを支えるのは 激しい競争政策に基づく高成長である. 社会的余剰最大化問題は,技術的には制約付き最大化問題であり,私たちはその解 がどのような特徴を持つかに関心がある.ラグランジェ関数 L((xi )Ii=1 , (yj )Jj=1 , λ) = I ∑ Vi (xi ) − i=1 J ∑ J I ∑ ∑ Cj (yj ) + λ( yj − xi ) j=1 j=1 (65) i=1 を定義すると,その一階条件は ∂L((xi )Ii=1 , (yj )Jj=1 , λ) = Vi′ (xi ) − λ = 0 ∀i = 1, 2, . . . , I ∂xi I ∂L((xi )i=1 , (yj )Jj=1 , λ) = −Cj′ (yj ) + λ = 0 ∀j = 1, 2, . . . , J ∂yj J I ∑ ∂L((xi )Ii=1 , (yj )Jj=1 , λ) ∑ = yj − xi = 0 ∂λ j=1 i=1 (66) (67) (68) になっている.整理すると Vi′ (xi ) = λ ∀i = 1, 2, . . . , I (69) Cj′ (yj ) = λ ∀j = 1, 2, . . . , J (70) I ∑ i=1 xi = J ∑ yj (71) j=1 ) ( である.一体どのような (xi )Ii=1 , (yj )Jj=1 , λ がこれら一階条件を全て満たすのだろ うか. ラグランジェ関数の一階条件は,厳密にはいくつかの仮定のもとで,最大解の必要 十分条件となる.それはシンデレラのガラスの靴のようなもので,その靴にぴたりと 足がはまる娘がいれば,それがシンデレラである.これから競争均衡がラグランジェ 関数の一階条件をぴたりと満たすことを確かめていこう.これまでの議論より,競争 31 均衡 ( (x∗i (p∗ ))Ii=1 , (yj∗ (p∗ ))Jj=1 , p∗ ) においては Vi′ (x∗i (p∗ )) = p∗ ∀i = 1, 2, . . . , I (72) Cj′ (yj∗ (p∗ )) ∀j = 1, 2, . . . , J (73) yj∗ (p∗ ) (74) I ∑ =p x∗i (p∗ ) = i=1 ∗ J ∑ j=1 ( ) が成り立つ.つまり競争均衡 (x∗i (p∗ ))Ii=1 , (yj∗ (p∗ ))Jj=1 , p∗ はラグランジェ関数の一階 ( ) ∗ ∗ I ∗ ∗ J 条件をいずれも満たしている.ということは, (xi (p ))i=1 , (yj (p ))j=1 はもとの消 費者余剰最大化問題の解である.すなわち競争均衡は社会的余剰を最大化する.これ は社会的余剰という尺度から判断した場合,競争均衡は最適であり,市場は制度とし て性能が優れていることを意味する.まれに市場を「誰かが得をすれば誰かが同じだ け損をする」ゼロサムゲームのように捉える者がいるが,これは大きな誤りであり, サムはゼロになるどころか最大化される.なお,この事実は Vi や Cj が,これまでの 議論で課されたいくつかの自然な仮定を満たす限り,どのような形状であろうと成り 立つので,競争均衡が社会的余剰を最大化するという命題を成立させるうえで,これ らの形状を具体的に知っておく必要はない.なお,市場が何らかの意味で上手く機能 しないケースも当然存在するが,それらは「初級I」ではカバーしない.ただし,い まの上手く機能するケースは,上手く働かないケースを考察する際にも,比較の対象 としてベンチマークの役割を果たすので特に重要である. さて,競争均衡においては I ∑ x∗i (p∗ ) = i=1 J ∑ yj∗ (p∗ ) (75) j=1 が成り立つゆえ当然 I ∑ i=1 p∗ x∗i (p∗ ) ∗ =p I ∑ x∗i (p∗ ) =p i=1 ∗ J ∑ j=1 32 yj∗ (p∗ ) = J ∑ j=1 p∗ yj∗ (p∗ ) (76) がいえ,それゆえ社会的余剰は SS((x∗i (p∗ ))Ii=1 , (yj∗ (p∗ ))Jj=1 ) = I ∑ Vi (x∗i (p∗ )) − i=1 = I ∑ J ∑ Cj (yj∗ (p∗ )) (78) j=1 Vi (x∗i (p∗ )) − I ∑ I ( ∑ p∗ x∗i (p∗ ) + Vi (x∗i (p∗ )) − J ∑ p∗ yj∗ (p∗ ) − ) p∗ x∗i (p∗ ) + i=1 J ( ∑ J ∑ Cj (yj∗ (p∗ )) (79) j=1 j=1 i=1 i=1 = (77) p∗ yj∗ (p) − ) Cj (yj∗ (p∗ )) (80) j=1 =CS(p∗ ) + P S(p∗ ) (81) の形で,消費者余剰と生産者余剰とに分配される.この形は社会的余剰というものを 今後考えるうえでベンチーマークとなる.別の状況では,社会的余剰はベンチマーク と異なる形態を取りうるが,その異なり方を把握することが,その状況を理解する行 為の本質を形成する. 多くの入門用教科書では,社会的余剰は消費者余剰と生産者余剰の和として定義さ れる.しかし本稿では社会的余剰を (61) により定義し,結果としてそれが消費者余剰 と生産者余剰の和として表されることを示した.つまり私たちのアプローチは,消費 者余剰や生産者余剰の概念と独立に,社会的余剰という望ましさの物差しを定義し, その分配状況を表すときに消費者余剰と生産者余剰の概念を用いるというものであ る.消費者余剰と生産者余剰は価格 p についての関数であり,これらは市場という資 源配分制度を用いるという前提のもとで定義がなされている.一方で,私たちの定義 する社会的余剰は単に消費と生産状況についての概念であり,市場を用いるという前 提に依っていない.社会的余剰により市場という資源配分制度の性能を判断するとし て,その判断基準に「市場の利用を前提とする」ことが含まれていては奇妙である. よって判断基準というものを真剣に考えるならば本稿の定義が自然である.政策が社 会的余剰に与える影響を考察する際にもこの定義はきわめて有用であり,それは次の 小節で明らかになる. 3.3 従量税と経済厚生 いま T > 0 という値について考える.図を見て分かるように,両条件 D(r1 ) = S(r2 ) r1 = r2 + T (82) (83) を満たすペア (r1 , r2 ) が唯一存在する.これは純粋にテクニカルに成り立つ事実である. 33 x∗2 y2∗ y1∗ S x∗1 p∗ CS(p∗ ) P S(p∗ ) D 図 10: 競争均衡における社会的余剰 34 r1 S T r2 D D(r1 ) = S(r2 ) 図 11: T に対し r1 , r2 の位置が定まる 35 このテクニカルな事実は,競争均衡というメカニクスを通じて,課税に対するきわ めて重要な経済学的事実を生み出す.これから t1 + t2 = T を満たすゼロ以上の値の ペア (t1 , t2 ) について考える.ゼロ「以上」なので,(t1 , t2 ) = (T, 0) や (t1 , t2 ) = (0, T ) のケースもここでは許容されている.そして消費者が財 1 単位購入すると t1 円の税 を支払わされ,生産者が財を 1 単位販売すると t2 円の税を支払わされる従量税制に ついて考察する. 競争均衡価格の定義とは需給を一致させる価格のことであった.この課税下におけ る競争均衡価格を p で表せば,消費者が直面する実質価格は p + t1 ,生産者が直面す る実質価格は p − t2 なので,需給一致条件より D(p + t1 ) = S(p − t2 ) (84) が成り立つ.t1 + t2 = T なので (p + t1 ) = (p − t2 ) + T (85) が当然成り立つ. さて,条件 (82, 83) をともに満たすペア (r1 , r2 ) はただひとつしか存在しなかった. そして (84, 85) を見てみると,ペア (p + t1 , p − t2 ) は条件 (82, 83) をぴたりと満たし ている.よって p + t1 = r1 (86) p − t2 = r2 (87) である.この事実は大変重要である.私たちはまず T を固定し,それに対して r1 , r2 が 定まった.そしてその後に,t1 + t2 = T を満たす従量税 (t1 , t2 ) について考察を始めた. 従量税 (t1 , t2 ) のもとで需給一致を実現させる価格が競争均衡価格 p だが,今の議論 は,このもとで消費者の実質価格が r1 (= p + t1 ) となることを意味する.また同様に, この従量税のもとで生産者の実質価格は r2 (= p − t2 ) となる.つまり t1 + t2 = T で ある限り,(t1 , t2 ) がどのような値であろうが,競争市場において価格 p が (86, 87) を満たすよう変動することで,最終的に消費者の実質価格は r1 に,また生産者の実 質価格は r2 になってしまう.以上の議論より,消費者がすべての従量税を支払う税 制 (T, 0) と,生産者がすべての従量税を支払う税制 (0, T ) とは,制度として表面的に は異なるが,全く同じ帰結を生み出すことが分かる. 課税がなされたときの社会的余剰を求めておこう.まず結論から書くが ) ( (88) SS (x∗i (p + t1 )Ii=1 , (yj∗ (p − t2 ))Jj=1 = CS(r1 ) + T · D(r1 ) + P S(r2 ) が成り立つ.すなわち社会的余剰は,消費者余剰と,総徴税額と,生産者余剰として 社会に分配されている.図を見れば分かるように,課税がなされないときと比べて 36 「死加重」と書かれた三角形の面積分だけ社会的余剰は下がっている.つまり課税に 派生する社会的余剰の低下は避け難い.税金はこの社会的コストを,余剰以外の意味 でも構わないから何らかの意味で,上回る程度には適切に使われなければならない, と解釈するのが適切である.実際,いま扱っている市場は社会的弱者の救済機能を含 むわけではなく,また社会的余剰はあくまで総量に対する基準であり,それ単独では 平等性を志向したものではない.つまり今の議論は,課税が本質的に内包するコスト について指摘したのであり,税金を財源とする公共政策の意義までを否定したのでは ない. なお,多くの教科書では課税下の社会的余剰を,消費者余剰と総徴税額と生産者余 剰の和として定義しているが,これは場当たり的な感が否めない11 .あるときは社会 的余剰は消費者余剰と生産者余剰の和で,あるときはそれに総徴税額が加わり,とい う基準は理念に欠けるのではないだろうか.課税以外の何かの要因が入ればそれに応 じて基準も変わるのだろうか.社会的余剰は制度や政策の影響を測る物差しであり, 物差しである以上,何を測るかによって定義が変わるべきではない.もし体重計が乗 る人によって目盛りの幅や計測する内容を変えるのならば,その体重計により個々人 の体重を比較することに意味はないのと同様である.制度や政策の影響を計る基準 は,特定の制度や政策に依らない,中立性の高い定義に基づいている必要がある. 以下に (88) の証明を載せておく.証明ができるのは,これまで丁寧に定義を積み重 ね,図を用いた説明と並行的に背後の理論を丁寧に組み立ててきたからである.(90) から (93) まではただの書き換えであり,よく見れば容易に追える.(93) から (94) に 移る際に,第 2 項で需給一致条件 D(r1 ) = S(r2 ) (89) を用いているがこれは証明のキーポイントであり,ここで私たちは需給一致状態に分 析の焦点を当てるという行為の力を確認することになる12 .その後の過程はいずれも 定義から直ちに従うものばかりである.数式の表記がやや重く見えるかもしれない が,細かな論理展開を省かず書いているためであり,中身は平明である. 11 こうした定義は説明を簡単にするためというより,執筆者が本当にそのように信じているケース が多いように見える.部分均衡分析は数式を用いず図だけで解説がなされることが多いが,図だけで 部分均衡を扱っているとそのようにしか考えられなくなるからだ.経済状態の是非を論じる厚生経済 学は経済理論の核だが,これを考察するときに図だけでは概念の深みに辿り着けない. 12 図だけだと「何が成り立つか」までは説明できるが,このように「どういう理路を経てそれが成 り立つのか」までを明らかにすることは難しい. 37 ( SS = I ∑ (x∗i (r1 )Ii=1 , (yj∗ (r2 ))Jj=1 Vi (x∗i (r1 )) − J ∑ i=1 = I ∑ Vi (x∗i (r1 )) − r1 Cj (yj∗ (r2 )) (91) I ( ∑ I ∑ x∗i (r1 ) + r1 I ∑ Cj (yj∗ (r2 )) + r2 x∗i (r1 ) i=1 i=1 J ∑ j=1 = (90) j=1 i=1 − ) J ∑ yj∗ (r2 ) − r2 j=1 Vi (x∗i (r1 )) − r1 x∗i (r1 ) J ∑ yj∗ (r2 ) (92) j=1 ) i=1 + r1 D(r1 ) − r2 S(r2 ) J ( ) ∑ r2 yj∗ (r2 ) − Cj (yj∗ (r2 )) + (93) j=1 =CS(r1 ) + (r1 − r2 )D(r1 ) + P S(r2 ) (94) =CS(r1 ) + T · D(r1 ) + P S(r2 ) (95) 38 CS(r1 ) r1 S t1 T 死加重 p t2 r2 P S(r2 ) D D(r1 ) = S(r2 ) 図 12: 課税下の競争均衡における社会的余剰 39 不完全市場 4 4.1 逆総需要関数 市場における財の総供給量が Y のときに付く価格を p = P (Y ) (96) で表す.P を逆総需要関数という. 前節では総需要関数を D(p) ≡ I ∑ x∗i (p) (97) i=1 により定義した.価格 p に対し,関数 D はそのもとでの総需要量 X = D(p) を与え る.需給が一致している状態 X = Y であれば,これを Y = D(p) と書ける.ここで 逆総需要関数について考えてみれば,財の総量 Y に対し価格は p = P (Y ) となるの で,このとき Y = D(p) の関係から Y = D(P (Y )) (98) となる.つまり P は D の逆関数である.これが P を逆総需要関数と呼ぶ所以である. 市場に財の量が増加するにつれ価格は減少する,つまり P ′ < 0 である13 . 例 1. 総需要関数 D(p) = a − p について考える.ただしここで a > 0 は何か固定され た定数である.この逆総需要関数を求めると,Y = a − p より p = a − Y が得られ, よって P (Y ) = a − Y となる. ♢ 4.2 生産の一般モデル 財 y を生産する企業が J 個存在するものと考え,各企業を j = 1, 2, . . . , J で表す. 企業 j の費用関数を Cj で表す.費用関数は各企業で異なっていても構わない.また j の生産量を yj により表す.全ての企業の生産量リストを (y1 , y2 , . . . , yJ ) (99) で表す.このとき市場における財 y の総生産量を Y = y1 + y2 + · · · + yJ 13 P が D の逆関数であることから示せる. 40 (100) で表す.企業 j について,他企業による生産量の合計を Y−j = Y − xj (101) Y−2 = x1 + x3 + x4 (102) πj (yj |Y−j ) = P (yj + Y−j ) · yj − Cj (yj ) | {z } | {z } (103) で表す.例えば J = 4 とすれば である. そして企業 j の利潤関数を 収益 費用 により定める.ここで πj (yj |Y−j ) は「他企業の総生産量が Y−j のときに,yj 生産して 得られる企業 j の利潤」を表す.利潤関数を微分し一階条件を求めると πj′ (yj |Y−j ) = dP (yj + Y−j ) · yj − Cj′ (yj ) = 0 dyj | {z } {z } 限界費用 | (104) 限界収益 が成り立つ.つまり dP (yj + Y−j ) · yj = Cj′ (yj ) dyj | {z } | {z } 限界費用 (105) 限界収益 である.限界収益を,合成関数微分の公式 df (a)g(a) = f ′ (a)g(a) + f (a)g ′ (a) da (106) dP (yj + Y−j ) · yj =P ′ (yj + Y−j ) · yj + P (yj + Y−j ) · 1 dyj (107) を用い展開すると =P ′ (yj + Y−j ) · yj + P (yj + Y−j ) (108) である.よって (105) より P ′ (yj + Y−j ) · yj + P (yj + Y−j ) = Cj′ (yj ) {z } | {z } | 限界収益 (109) 限界費用 と書ける.この条件を満たす yj が企業 j にとっての利潤最大解でありそれを yj∗ で表 す.利潤最大解は限界収益と限界費用を一致させる点であるが,これは一般原則であ り P の形状によらず成り立つ.なお (109) について,P ′ < 0 であるゆえ P ′ (yj + Y−j ) · yj + P (yj + Y−j ) < P (yj + Y−j ) が成り立つことに注意されたい. 41 (110) 4.3 完全市場 完全市場においては,一つひとつの企業の生産量は価格に影響を与えることはな い,あるいは実際にはごく微小な影響力があるにしても,それは意思決定に反映させ るにはあまりに小さいため無視している,と考える.これはプライステーカーの仮定 である. モデルにおいてこれは,P (yj + Y−j ) は yj が動いた程度では変わらないことにより 表される.そして yj が動いても P (yj + Y−j ) が不変であるということは,yj につい ての関数として P (yj + Y−j ) を見ると傾きがゼロということになる.傾きは微分によ り表されるので,これは P ′ (yj + Y−j ) = 0 を意味する.さて,これまで P ′ < 0 であ るよう P を組み立ててきたので,P ′ (yj + Y−j ) = 0 と置くのは整合性を欠くのだろう か.しかしこれは,企業 j は yj についての意思決定を行う際に,それが P (yj + Y−j ) に与える影響があまりに小さいため無視していると考えればよい.渋滞している道路 に乗り込むドライバーは,自分の車が新たに道路に加わることで渋滞がほんのわずか だが悪化することを考慮に入れはしないだろう.プライステーカーの仮定はそのよう なものである. さて,前節では限界利潤と限界費用一致の条件 P ′ (yj + Y−j ) · yj + P (yj + Y−j ) = Cj′ (yj ) (111) が yj = yj∗ で成り立つところまで言っていた.プライステーカーの仮定 P ′ (yj +Y−j ) = 0 のもとではこの式の最初の項が消えるので P (yj + Y−j ) = Cj′ (yj ) (112) が yj = yj∗ において成り立つことになる.すなわちプライステーカーにとっての利潤 最大解は価格と限界費用を一致させる点であるが,これは前節で学んだことそのもの である.しかしこの一致を支える論理は以前より深い.最大解において「限界収益= 限界費用」が成り立つのは一般原則だが,プライステーカーの仮定のもとでは「限界 収益=価格」も成り立つので,結果としてこのとき「価格=限界費用」まで成り立つ のである. いま全ての企業が利潤最大化行動を取ると考えれば (y1∗ , y2∗ , . . . , yJ∗ ) が実現して,総 生産量を Y ∗ = y1∗ + y2∗ + · · · + yJ∗ で表せば P (Y ∗ ) = Cj′ (yj∗ ) (113) が全ての企業 j について成り立つが,これも前節で学んだとおりである. 例 2. 逆総需要関数を P (Y ) = a − Y とし,また全ての企業が共通の費用関数 Cj (yj ) = cyj を持つものとする.これから競争均衡における総生産量 Y ∗ と価格 p∗ を求めたい. 42 いま全ての企業 j について C ′ (yj ) = c が成り立つゆえ,競争均衡価格は限界費用と一 致し p∗ = Cj′ (yj∗ ) = c となる.次に p∗ = P (Y ∗ ) = a − Y ∗ の関係より,c = p∗ = a − Y ∗ がいえ,Y ∗ = a − c が成り立つ.まとめると p∗ = c (114) ∗ Y =a−c (115) ♢ である. 4.4 独占市場 完全市場でない,つまり一つひとつの企業の生産量が価格形成に影響力を持つ市場 を不完全市場という.これから扱う独占市場はその極端なケースで,ただ 1 つの企業 のみが財の生産に携わっているケースを指す.一般モデルで得た限界利潤と限界費用 一致の条件 P ′ (yj + Y−j ) · yj + P (yj + Y−j ) = Cj′ (yj ) (116) だが,独占市場のケースでは企業が 1 つしかないので添え字 j を省き,その企業の生 産量を Y で表すと P ′ (Y ) · Y + P (Y ) = C ′ (Y ) (117) と書け,この式を満たす生産量を Y ∗ で表す. もしこの企業がプライステーカーとして振る舞うと考えれば,そのときには価格と 限界費用が一致する Y を選び,社会的余剰は最大化されることになる.この理想的 な Y のケースと,実際に独占企業が選択する Y ∗ のケースでの,社会的余剰の差を図 示してみると,生産量を少なくすることで価格を吊り上げ利潤を増やしていることが わかる. 例 3. 逆総需要関数を P (Y ) = a − Y とし,また独占企業の費用関数を C(Y ) = cY と する.これから総生産量 Y ∗ と価格 p∗ を求めたい.式 (116) がここでは −1 ·Y + (a − Y ) = c |{z} =P ′ (Y (118) ) となるのでこれに Y ∗ を代入し解くと Y ∗ = a−c が得られる.また 2 p∗ = P (Y ∗ ) = a − Y ∗ = a − 43 a−c a+c = 2 2 (119) a CS p∗ = 1 2a + 1 2c PS 死加重 c a−c 図 13: 独占市場 44 a となる.まとめると a+c 2 a − c Y∗ = 2 p∗ = (121) ♢ である. 4.5 (120) クールノー寡占市場 いま複数の企業が財を生産しており,かつ一つひとつの企業の生産量が価格に影響 を与える状況を寡占市場という14 .寡占市場において各企業の価格への影響力は部分 的であるが,これが問題をやや複雑にする.というのは,完全市場では各企業の影響 力はゼロだったのでその点を考える必要は無かった.また独占市場では1つだけ存在 する企業の影響を考えれば十分なので扱いが容易であった.寡占市場においては複数 存在する企業の影響力の相互作用に注意を払う必要が生じる.ここでいう相互作用と は,ある企業が生産を行うとそれが価格を変動させ,別の企業の生産量に影響を与え た結果また価格が変動し,という連動プロセスのことを指す.こうしたプロセスを経 て市場は最終的に,そうした相互作用が釣り合う状態に落ち着くものと私たちは考え る.その考えを表す解概念がクールノー均衡であり,私たちはこの概念を用いて寡占 市場の描写を行う. 生産量ベクトル (yj∗ )Jj=1 = (y1∗ , y2∗ , . . . , yJ∗ ) について考える.いま各企業 j について, ∗ 他企業の総生産量 Y−j のもとで,yj∗ が利潤最大化問題 ∗ ∗ πj (yj |Y−j ) = P (yj + Y−j ) · yj − Cj (yj ) (122) の解になっているとする.これは,ひとたび (yj∗ )Jj=1 = (y1∗ , y2∗ , . . . , yJ∗ ) が実現すると なれば,どの企業 j もいまの生産量 yj∗ から変更を行うインセンティブが無いことを 意味する.そのような (yj∗ )Jj=1 をクールノー均衡と呼ぶ.具体的なクールノー均衡の 導出をこれから行っていく. 以後,総需要関数を P (Y ) = a − Y とする.いま全ての企業は同一の費用関数 Cj (yj ) = cyj を持つものとする.これからクールノー均衡を求めたい.さて,全企業 が同一の費用関数を持つと仮定しているからといって,クールノー均衡において全企 業の生産量が同じと仮定しているわけではない.これから私たちは,クールノー均衡 において全企業の生産量が同じになるという結果が成り立つことを確認していく. 式 (109) を再掲すると P ′ (yj + Y−j ) · yj + P (yj + Y−j ) = Cj′ (yj ) 14 J = 2 のケースを特に複占という 45 (123) だが,これを Y = yj + Y−j = y1 + y2 + · · · + yJ に注意しつつ,いまのケースで具体 的に求めると da − (y1 + y2 + · · · + yJ ) dcyj · yj + a − (y1 + y2 + · · · + yJ ) = dyj dyj (124) −1 · yj + a − (y1 + y2 + · · · + yJ ) = c (125) −yj + a − (y1 + y2 + · · · + yJ ) = c (126) a − Y − c = yj (127) である.式 (127) を満たす (yj )Jj=1 がクールノー均衡 (yj∗ )Jj=1 である. つまりクールノー均衡においては全ての j について yj∗ = a − Y ∗ − c (128) が成り立つ.この式はそれぞれの企業の生産量が a − Y ∗ − c であることを意味する が,ということは全企業の生産量は等しい値 a − Y ∗ − c を取るということになる.全 企業が同じ生産量を供給し,かつ総生産量が Y ∗ であるということは,それぞれの企 Y∗ 業 j について yj∗ = が成り立つということである.よって J Y∗ =a−Y∗−c (129) J J +1 Y∗ ·Y∗ =Y∗+ =a−c (130) J J J Y∗ = · (a − c) (131) J +1 が得られる.また,付随して p∗ ≡ P (Y ∗ ) = a − Y ∗ J =a− · (a − c) J +1 J J = (1 − )·a+ ·c J +1 J +1 J +1 J J − )·a+ ·c =( J +1 J +1 J +1 1 J = ·a+ ·c J +1 J +1 がわかる. クールノー均衡で得られた結果をまとめると 1 J p∗ = ·a+ ·c J +1 J +1 J Y∗ = · (a − c) J +1 46 (132) (133) (134) (135) (136) (137) (138) である.企業数 J が増加するにつれ総生産量 Y ∗ が増加し,価格 p∗ が低下していくこ とがわかる.クールノー寡占市場と,独占市場および完全市場との関係を以下にまと めておこう. • いま企業数が J = 1 としてこの値を両式に代入すると 1 1 a+c ·a+ ·c= 1+1 1+1 2 a − c 1 · (a − c) = Y∗ = 1+1 2 p∗ = (139) (140) となり,これは独占市場の結果と一致する. • 企業数 J を無限に増やしていこう.すると J → ∞ に伴い p∗ = 1 J ·a + ·c −→ 0 · a + 1 · c = c J + 1 J + 1 | {z } | {z } (141) J ·(a − c) −→ 1 · (a − c) = a − c + 1} |J {z (142) →0 Y∗ = →1 →1 となり,これは競争市場の結果に収束することを意味する.この事実はより一 般的な仮定のもとで広範に成り立つ.つまりある財市場において競争している 企業数が多いとき,一つひとつの企業の価格への影響力は著しく低下し,その 不完全市場は「ほぼ」完全市場として機能する.すなわちこのとき完全市場は 不完全市場の近似として理解することが可能である.分析者の立場からは,不 完全市場より完全市場の方が遥かに扱いやすいが,これは今回の計算を見ても 明らかであろう.つまり不完全市場の代わりに,その近似としての完全市場を 分析することで扱いを容易に出来るわけである. 4.6 ベルトラン寡占市場 ここでは価格競争の純粋形態について考察する.クールノー競争において企業が決 定することは生産量をどのような値にするかということであった.そこで生産量は他 企業の生産量とともに価格形成に影響を与え,それにより利潤が定まった.本章では 企業が,生産量でなく価格を決定するベルトラン競争について学ぶ. 総需要関数を X(p) = a − p とし,そのもとでの価格競争について考察する.2 つ の企業のみが存在する市場を考えるが,これが議論の本質を損ねないことは以下で展 開される議論から容易に分かる.企業 j = 1, 2 が選択するのは価格 pj とし,そのペ 47 a CS p∗ = 1 J+1 a + J J+1 c PS 死加重 c a−c 図 14: クールノー寡占市場 48 a アを (p1 , p2 ) で表す.両企業は同じ財を生産しており,また財 1 単位の生産には常に c 円かかるものとする.つまり限界費用は一定の値 c である. 価格 (p1 , p2 ) が定まった後,消費者は安い価格を付けた企業から財を購入する契約 を結び,企業は財を生産して消費者に販売する.表明された価格が等しい場合には, 等しい量の契約が結ばれることにする.つまり p1 < p2 ならば企業 1 が勝者となり X(p1 ) = a − p1 の生産を行い,企業 2 は何も生産を行えない.同様に p2 < p1 ならば 企業 2 が勝者となり X(p2 ) = a − p2 の生産を行い,企業 1 は何も生産を行えない.ま X(p1 ) a − p1 た,p1 = p2 ならば引き分けであり両企業とも = の生産を行う.この 2 2 とき企業の利潤関数は次のように与えられる. • p1 < p2 のとき π1 (p1 , p2 ) = p1 · (a − p1 ) − c · (a − p1 ) (143) π2 (p1 , p2 ) = 0 (144) • p1 = p2 のとき π1 (p1 , p2 ) = π2 (p1 , p2 ) = p1 · (a − p1 ) 2 (145) • p1 > p2 のとき π1 (p1 , p2 ) = 0 (146) π2 (p1 , p2 ) = p2 · (a − p2 ) − c · (a − p2 ) (147) 各企業はそれぞれ価格を発表するわけだが,相手が出した価格を見て,自分の価格 を変更できることにする.このような競争をベルトラン競争という.ベルトラン競争 を通じて最終的に実現する価格 (p∗1 , p∗2 ) はどのような値になるだろうか.まず,どち らの企業 j = 1, 2 についても,p∗j < c ならば勝者になっても損失が出るだけである. つまり限界費用より下の価格設定は行わないと考えるのが妥当である.よって p∗j ≥ c が両企業 j = 1, 2 について成り立つはずである.これから場合分けを行い,どのよう なケースが最終的に実現するか考察していく. • p∗1 > p∗2 > c のケース.このとき企業 1 の利潤はゼロである.しかし企業 1 は価 格を p∗2 > p1 > c と下げることで,正の利潤を得ることができる(企業 2 の利潤 はゼロになる).つまりこのケースでレースが止まることは無い. • p∗2 > p∗1 > c のケース.このとき企業 2 の利潤はゼロである.しかし企業 2 は価 格を p∗1 > p2 > c と下げることで,正の利潤を得ることができる(企業 1 の利潤 はゼロになる).つまりこのケースでレースが止まることは無い. 49 p∗1 · (a − p∗1 ) である. 2 しかし,どちらの企業 j = 1, 2 にしても,今よりほんの少しだけ価格を下げれ ば利潤を独り占めできる.例えば十分小さな ε > 0 について • p∗1 = p∗2 > c のケース.このとき企業 1 と 2 の利潤はともに p∗2 > p1 = p∗1 − ε > c (148) となるよう p1 を設定すれば,いまより高い利潤を得られる.よってこのケース でレースが止まることは無い. • p∗1 = p∗2 = c のケース.まずこのとき企業 1 と 2 は,これ以上価格を下げること はできない.また,上げても利潤が出るわけではない.よってこのケースがい まのレースにおける唯一のゴールである.この状態をベルトラン均衡という. ベルトラン競争においては製品差別化競争のようなことは取り扱っていない.ま た,本モデルにおいて消費者は,安い方の商品に全員が飛びつくように設定されてい るが,これは消費者側に発生する価格のサーチコストを考慮していないことを意味す る.製品差別化とサーチコストについては,やや難度が上がることから本講義では省 いた. 私たちが扱ったのは価格競争というものの純粋形態である.そこで観察した結果 は,ベルトラン競争においては,企業数が 2 でさえ価格が限界費用と一致すること である.すなわち複占のケースでさえ価格競争は最も競争的な結果を生み出す.これ は,クールノー競争では,企業数が無限に大きくなるにつれ価格が限界費用に収束し ていったことと対照的である. なお,ベルトラン均衡もクールノー均衡も,ゲーム理論ではナッシュ均衡として統 一的に扱われる.本稿では1回だけのゲームとしてベルトラン競争を定式化したので 「底値への競争」が起こった.企業が長期的に存続しゲームを続けるモデルでは,そ うならない協力関係が発生しうる.これはフォーク定理と呼ばれるゲーム理論の重要 成果であり上級科目で扱う. 50
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